ざく、ざく……と、
穴を掘る音が深夜竹林に響く。
すでにその穴は人間が十分入るくらいの大きさまで掘られており、あと一息で完成しそうに見えた。
そんな作業に集中しているからだろうか、てゐは穴の側に鈴仙が立っているのに気がつかない様子で一心不乱に穴を掘り続けている。
「……」
鈴仙は妖怪と妖獣の違いについて、よく知っている。
動物から変化した妖の中でも、獣の部分を多く残すその種のリーダー格。
そして、基本的に身体能力が高く、人間とは比較にならない運動性を持つ。
一般的には、そう分類される。
ざく、ざく……
しかし、動物のような姿をしていても妖怪に分類されたり。人間の姿をしていても実は妖獣だったりと、その幅は大きく、阿求ですらその判断基準に困るほど。
けれど診療所を手伝っている鈴仙はもっとわかりやすい分類方法を知っていた。
誰でも一目でわかる、単純な方法を。
「……てゐ、これ」
「っ! 邪魔しないで!!」
その方法を知る機会を初めてくれたのは、憎たらしい地上の兎。
いつも鈴仙にいたずらを仕掛けてくる、どうしようもない手癖の悪い兎。
鈴仙に背中を向けて硬い地面を必死で掘っている兎。
スコップを差し出しても、手で押し退け、邪魔だと叫ぶ。
泥だらけの地上の兎。
泥だらけで、何度も顔を擦るから。
顔だって泥だらけで、ぐしゃぐしゃ。
鈴仙が何度も手を伸ばしても、そんな身体で弾くものだから、鈴仙の右手も泥で汚れてしまっていた。
ざく、ざくっ
汚い、けがらわしい。
悪戯用の穴を掘るてゐの姿を見たときは、単純にそう思った。
けれど、彼女の頭の中にその単語はない。
あのときよりも、今のてゐは汚れている。
あのときは、綺麗な穴を作るために道具も使っていたからそうでもなかったのかもしれない。
今みたいに、白い毛よりも、茶色や黒が目立つ。
こんな酷い状況じゃなかった。
でも、何故だろうか。
「てゐ? 私も、何か……手伝うこと……」
何度も鈴仙の提案を拒み、一人で穴を掘ろうとする。
そんなてゐの汚れた、小さな背中が。
月の世界で見てきた、伝説級の宝物や。
月の科学力で作り出される煌びやかな光の芸術品。
いままで見てきた、綺麗だと実感できたもの……
そのどれよりも美しく見えるのは、一体どういうことだろうか。
月明かりが一筋の線となって、竹林を照らし、汚れた姿を映し出す。
それが神々しく見えるのは、鈴仙の中の何かが壊れてしまったからだろうか。
「悪いけど、あんたにはまだ触って欲しくない……
手伝って欲しいなんて欠片も思わない!
手を出すくらいなら、さっさとあの医者のところに帰ってよ!」
やっと穴を掘り終えた後、てゐから飛び出したのは明らかな怒り。
でも、鈴仙にはわからない。
ここまで強く、悲痛じみた声を彼女はまだ知らなかった。
月の世界では……
経験できないことだったから……
半日くらい、前だろうか。
まだ、日が高い頃。
地上には穢れがあるから、こんなことは日常茶飯事だと目を伏せて師匠が言い。
鈴仙も
『穢れた地上に住む者の当然の結末ですよね』
笑いながら、答えた。
それが月では当たり前。
だって、ここは穢れた世界だから、この地で生まれた穢れた者たちは浄化されなければいけない。
だから、今、目の前で起きたことはむしろ救いに違いない。
月の姫様だって、そんなことを言っていた。
聞いたとおりの事を、過去に月に済んでいた師匠に確認しただけ。
そんなやりとりを目の前のてゐも聞いていた。
じっと、何も言わず。
静かに、患者用のベッドの横に立つ。
そんなてゐが、鈴仙の服をくぃっと引っ張って。
にこっと、一瞬笑った。
ガタンッ
「え?」
次の瞬間だった。
反応すらできない速度で、鈴仙はてゐに押し倒されていた。
肉体的に劣ると教育されてきた、地上の妖怪兎に。
その拍子に医療器具は散らばって、作りかけていた薬の粉もこぼれ、鈴仙の髪を白く染めた。
何が起こったのかわからず、呆然と天井とてゐの笑顔を見上げることになった鈴仙。
そんな彼女を現実に引き戻したのは、頬に生まれた激しい痛み。
右に、左に。
頬に順番に生まれた、痺れるような痛み。
それが、訓練で鍛えられた鈴仙の血を自然と呼び起こし。
「はぁーっ、はぁーっ……」
腕を捕まえた後、てゐが引き離そうと身体をよじった瞬間に、その体重移動を利用して一気に身体を捻る。
たったそれだけの動作で、鈴仙とてゐの立場は逆転する。
鈴仙がてゐに馬乗りになった状態だ。
鈴仙の目は興奮で真っ赤で狂気の瞳をいつでも使える状況。
小さな地上の兎一人なら、身体を壊しつくすことも、精神を壊しつくすことも出来た。
けれど月の兎である鈴仙がそこまでする必要はないだろう・
鈴仙は、左腕でてゐの首を掴み、右腕で殴る仕草を見せた。
地上の兎は臆病だから、力の差を見せ付ければ大人しくなる。
だから抵抗できない場面を作り、謝らせる。
くわん、くわん、と。
遅れて落ちた乳鉢が音を立てて回る。
そんな音だけが残った部屋、首を抑えられ抵抗しなくなったてゐが声を出すのをじっと待つ。
あと少し、もう少し黙っていたら、一発殴る。
鈴仙は永琳の停止の言葉がないのを横目で確認して、右腕をゆっくり引き。
短い単語を、叫ぶ。
『……謝れっ!』
ぴたり、と。
鈴仙の拳が止まる。
彼女の口が動くと同時に、てゐも全く同じ言葉を口にしていたから。
涙を流し、嗚咽をこぼし。
悔しいという感情を隠すことなく顔に張り付けて、鈴仙の手を噛み切ろうと必死に顔を振りながら。
両腕の爪を、首を抑える腕に食い込ませながら。
「……あんたは、あの子の何を知ってる?
知ってるはずがない……わかるはずもない……
最近ここにやってきたばかりだもの。
そんな奴が、あいつの生きてきたことを『当然』?
たった二文字で、片づけてられるほど……月の兎は偉いのか……」
鈴仙が拳を振り下ろせば、てゐの言葉などあっさり止めることができる。
それでも、なぜか彼女は耳を傾けてしまっていた。
「あんたには……仲間が居なかったの?
笑い合える友人は?
尊敬できる先人は?
守ってあげたくなるような、部下は?
もしそんな誰かがいなくなったりしたら、あんたは『当然』で済ませるの?
そんなつまらない奴なの、あんたはっ!」
「っ!?」
気が付いたら、鈴仙は拳を振り上げていた。
月の兎としてのプライドが、そうさせたのかもしれない。
大きく振りかぶり、てゐの言葉を止めるためにその手をその愛らしい顔にぶつけ――
「……あなたの負けよ、鈴仙」
ぶつける前、その腕を永琳が止めた。
「つい、かっとなっただけ。その程度の軽い拳を振り上げたあなたの負け……、わかるわね?」
てゐが最初に襲い掛かった時も、鈴仙が逆に返した時も何も手を出さなかった永琳が手を出し、止めた。
「師匠! だって、てゐだってもさっき私を!」
「……あの子が怒ったのは、……なんのため? それくらいあなたもわかるでしょう? そして、何がその怒りの原因になったのか。
少し頭の冷えた今のあなたなら、理解しているはずよ?」
「……わかりません」
「そう……」
耳を倒しうなだれる鈴仙に向けて、永琳は苦笑する。
わかっているけれど、納得できない。
そんな態度が全身から溢れていた。そんな鈴仙をひとまずてゐの上から退かした永琳は、ベッドに寝かせていた妖怪兎を専用の台車に載せて、前に出す。
「……ありがとう」
それを受け取ったてゐは消え入りそうな声でつぶやいて、大事そうにゆっくりと台車を押していく。
その仕草からしても、どれだけ大切なものかを窺い知ることができる。
医療器具や薬剤が散乱した深慮所の中で、二人は別々の視線でそれを見送った。
一人は、どこか慈しむような顔で。
もう一人は、どこか不満を混ぜた顔で。
それでも、何故かもじもじと体の前で組んだ手を遊ばせる。そんな鈴仙の姿に、永琳はため息をついて、とんっと背中を押した。
「……わからないのか、わかりたくないのかは不問にするから、てゐの後をついていきなさい。きっと、どこかに穴を掘るつもりでしょうから」
「……でも」
「これは命令よ?」
「……はい」
永琳に再度言葉で背を押され、鈴仙は躊躇いながらも廊下に出ていく。
そして、その姿が永琳から見えなくなった途端、
たったった、と。
駆け足でてゐを追いかけた。
急がなければ追いつけない、そう思ったのかもしれない。
それでも、鈴仙が思うより早く、その小さな背中は視線の中に映る。
永遠亭を出てすぐの場所で、竹林の奥に向かって進もうとしているところだった。
もちろん、てゐもその気配に気付き、振り返る、が……
がらがら……
無言のまま、付いてくるなとも言わず、拒否するしぐさも見せず。
後ろから鈴仙がやってくるのを無言で受け入れる。
そうして、辿り着いたこの場所。
竹林の中にあって、無数の置石が異様さを感じさせる場所で、てゐは一人で穴を掘った。
鈴仙の方が力があるし、道具を使えばもっと楽に穴が掘れたはず。
それでも、てゐは、一人で、自分の手だけで掘った。
そうして、汚れた手をまだ泥がついていない服の布地で綺麗にしてから、台車の上で横になる妖怪兎の顔に触れる。
その顔は、静かで、本当に眠っているだけに見える。
でも、てゐも鈴仙も、その瞼がもう二度と開かれることはないことを知っている。
ほとんど、てゐと同じ姿、同じ格好の妖怪兎。
違うのは、白い装束を纏っていることくらい。
それを大事そうに、ゆっくりと抱えたてゐは……
「もう、がんばらなくていいからね……おやすみ……」
ふわりと空中に浮かびあがった後、その身を穴の中に沈め、そっと可愛らしい妖怪兎を置いた。
眠るように、湿った土の中で横になる白い、小さな身体。
もしかしたら、動き出すんじゃないか。
そう期待するかのように、てゐは何度も、何度も、そのつま先から頭まで視線を往復させる。
けれども、その姿は何も変化しない。
土から染み出た水が、白い服に染み込んでいくだけでそれ以上のことはないもない。
てゐは、ぎゅっと両手を強く握りしめて、穴の中から飛び上がると、穴の側に積まれた土に触れる。
そうして、ほんの少しだけ手に取って。
ぱさりっと。
妖怪兎の上にかぶせる。
最初は脚から、少しずつ。
次は腕、腰、と、両手ですくえるだけの土を長い時間をかけて、穴の上からかぶせていく。
後は、胸と、顔だけ。
あと5回くらい土を救えば、妖怪兎は土の薄幕に包まれる。
そこで、てゐは再び手を止めた。
「……いくよ?」
問い掛けても返るはずがないのに、てゐは穴の中へと声を贈り……
震える腕で、土を撒く。
胸が、顔が、段々と隠れていく度、てゐの表情が崩れていく。
泣いているのか、笑っているのか、泣いているのか、怒っているのか。
それは鈴仙にもわからない。
もしかしたら、てゐ本人もわからないのかもしれない。
最後の一回。
それを撒き終え、すべてを土で覆い隠したときのてゐの顔は酷いものだった。
癇癪を起した子供のように泣き喚き、まだ残った土を狂ったように穴の中へとぶちまけた。
腕で、脚で、胴で、押せるものを全部使って、土を元に戻し。
最後に『あの子』の名前が掘られた石を、小さな丘に乗せた。
それで作業は終わったはずなのに、てゐはまだ世界すべてを呪うような叫び声を上げながら膝をつき、自分の腕を丘の上に叩きつけた。
あの子を埋めた自らの手を恨むかのように、月明かりの下で叫び続けた。
すべてが終わった後、何も残さず消える妖怪とは違う。
これが肉体の残る、妖獣の最期……
傍観者としてその場に立ち、
何かを感じ取った鈴仙の頬に、温かい筋が一本流れた。
◇ ◇ ◇
「……あの頃の鈴仙、大嫌いだったな~」
「……で? その大嫌いだった私の膝に頭を乗せているあんたはなんなのよ」
「えー、じゃんけんで負けた方が勝った方の枕になるって決めたじゃない」
「後出ししたくせに」
「勝負は非情なのよ、鈴仙」
仕事の合間を見つけて、鈴仙が縁側でのんびりする。
そんな予定だったというのに……
何の因果かてゐの膝枕役に成り下がっていた。
「なんの脈絡もなしに勝負を仕掛けられて、反則負けさせられた方の気持ちも考えてよね」
「その気持ちも考えて、懐かしい思い出に花を咲かせてたんじゃない」
「何故か私の嫌な思い出ばっかりだけどね」
「不思議だね~」
「……黙れこの確信犯」
「うっさっさっさ」
あれからもう片手では数えられない年月があっという間に過ぎた。
異変も何度もあって、確実に幻想郷は変わっている。
緩やかではあるが、確実に、変化は世界を飲み込んでいた。
それでも……
永遠亭の中の、この風景だけは変わらない。
まるで輝夜がこの一瞬の時間を繋ぎ合せているかのように。
「ねえ、鈴仙?」
てゐが悪戯を仕掛けてくるのもその日常の風景の一つで
「ねえ……、予約していい……?」
「何を?」
それに苦労させられる鈴仙がいるのもまた、当然。
眠たそうに、目を開けたり閉じたりするてゐを見ていたら、鈴仙よりも年長者なのがわからなくなるくらい。
そんな毎日は永遠に続くはずで……
「……私の穴、鈴仙に掘って欲しいなって……」
だから、これもてゐの冗談のはずで……
「やだ、って言ったら?」
「むー」
「冗談よ、冗談。
そうね……もしそんなときがくるとしたら、掘ってあげてもいいかな」
「そっか……、ありがと……」
だから、幸せそうに瞼を閉じたてゐが、ぱたんっと、手の力を抜いて……
「……え?」
呼吸が、弱くなって。
「……てゐ?」
口から、息を吐き出さなくなって……
「……冗談、よね? てゐ?」
鈴仙は震える手を、てゐの顔の前に持っていき……
直後、悲痛な悲鳴が、永遠亭の中に響き渡った。
その、数分後。診療所にて、
「……えっと、鈴仙、脈は確認したのかしら?」
「シテナイデス……」
「イビキをかく前兆で、少々息が止まることがあることは?」
「シッテマス……」
そして、やれやれといった様子で、永琳はベッドの上できょとんっとするてゐを指差し。
「で? 私の診療の手を止めてまで、ここにてゐを連れてきた結論は?」
のちに、てゐは語る。
そのときの鈴仙の土下座は本当に見事だったと。
穴を掘る音が深夜竹林に響く。
すでにその穴は人間が十分入るくらいの大きさまで掘られており、あと一息で完成しそうに見えた。
そんな作業に集中しているからだろうか、てゐは穴の側に鈴仙が立っているのに気がつかない様子で一心不乱に穴を掘り続けている。
「……」
鈴仙は妖怪と妖獣の違いについて、よく知っている。
動物から変化した妖の中でも、獣の部分を多く残すその種のリーダー格。
そして、基本的に身体能力が高く、人間とは比較にならない運動性を持つ。
一般的には、そう分類される。
ざく、ざく……
しかし、動物のような姿をしていても妖怪に分類されたり。人間の姿をしていても実は妖獣だったりと、その幅は大きく、阿求ですらその判断基準に困るほど。
けれど診療所を手伝っている鈴仙はもっとわかりやすい分類方法を知っていた。
誰でも一目でわかる、単純な方法を。
「……てゐ、これ」
「っ! 邪魔しないで!!」
その方法を知る機会を初めてくれたのは、憎たらしい地上の兎。
いつも鈴仙にいたずらを仕掛けてくる、どうしようもない手癖の悪い兎。
鈴仙に背中を向けて硬い地面を必死で掘っている兎。
スコップを差し出しても、手で押し退け、邪魔だと叫ぶ。
泥だらけの地上の兎。
泥だらけで、何度も顔を擦るから。
顔だって泥だらけで、ぐしゃぐしゃ。
鈴仙が何度も手を伸ばしても、そんな身体で弾くものだから、鈴仙の右手も泥で汚れてしまっていた。
ざく、ざくっ
汚い、けがらわしい。
悪戯用の穴を掘るてゐの姿を見たときは、単純にそう思った。
けれど、彼女の頭の中にその単語はない。
あのときよりも、今のてゐは汚れている。
あのときは、綺麗な穴を作るために道具も使っていたからそうでもなかったのかもしれない。
今みたいに、白い毛よりも、茶色や黒が目立つ。
こんな酷い状況じゃなかった。
でも、何故だろうか。
「てゐ? 私も、何か……手伝うこと……」
何度も鈴仙の提案を拒み、一人で穴を掘ろうとする。
そんなてゐの汚れた、小さな背中が。
月の世界で見てきた、伝説級の宝物や。
月の科学力で作り出される煌びやかな光の芸術品。
いままで見てきた、綺麗だと実感できたもの……
そのどれよりも美しく見えるのは、一体どういうことだろうか。
月明かりが一筋の線となって、竹林を照らし、汚れた姿を映し出す。
それが神々しく見えるのは、鈴仙の中の何かが壊れてしまったからだろうか。
「悪いけど、あんたにはまだ触って欲しくない……
手伝って欲しいなんて欠片も思わない!
手を出すくらいなら、さっさとあの医者のところに帰ってよ!」
やっと穴を掘り終えた後、てゐから飛び出したのは明らかな怒り。
でも、鈴仙にはわからない。
ここまで強く、悲痛じみた声を彼女はまだ知らなかった。
月の世界では……
経験できないことだったから……
半日くらい、前だろうか。
まだ、日が高い頃。
地上には穢れがあるから、こんなことは日常茶飯事だと目を伏せて師匠が言い。
鈴仙も
『穢れた地上に住む者の当然の結末ですよね』
笑いながら、答えた。
それが月では当たり前。
だって、ここは穢れた世界だから、この地で生まれた穢れた者たちは浄化されなければいけない。
だから、今、目の前で起きたことはむしろ救いに違いない。
月の姫様だって、そんなことを言っていた。
聞いたとおりの事を、過去に月に済んでいた師匠に確認しただけ。
そんなやりとりを目の前のてゐも聞いていた。
じっと、何も言わず。
静かに、患者用のベッドの横に立つ。
そんなてゐが、鈴仙の服をくぃっと引っ張って。
にこっと、一瞬笑った。
ガタンッ
「え?」
次の瞬間だった。
反応すらできない速度で、鈴仙はてゐに押し倒されていた。
肉体的に劣ると教育されてきた、地上の妖怪兎に。
その拍子に医療器具は散らばって、作りかけていた薬の粉もこぼれ、鈴仙の髪を白く染めた。
何が起こったのかわからず、呆然と天井とてゐの笑顔を見上げることになった鈴仙。
そんな彼女を現実に引き戻したのは、頬に生まれた激しい痛み。
右に、左に。
頬に順番に生まれた、痺れるような痛み。
それが、訓練で鍛えられた鈴仙の血を自然と呼び起こし。
「はぁーっ、はぁーっ……」
腕を捕まえた後、てゐが引き離そうと身体をよじった瞬間に、その体重移動を利用して一気に身体を捻る。
たったそれだけの動作で、鈴仙とてゐの立場は逆転する。
鈴仙がてゐに馬乗りになった状態だ。
鈴仙の目は興奮で真っ赤で狂気の瞳をいつでも使える状況。
小さな地上の兎一人なら、身体を壊しつくすことも、精神を壊しつくすことも出来た。
けれど月の兎である鈴仙がそこまでする必要はないだろう・
鈴仙は、左腕でてゐの首を掴み、右腕で殴る仕草を見せた。
地上の兎は臆病だから、力の差を見せ付ければ大人しくなる。
だから抵抗できない場面を作り、謝らせる。
くわん、くわん、と。
遅れて落ちた乳鉢が音を立てて回る。
そんな音だけが残った部屋、首を抑えられ抵抗しなくなったてゐが声を出すのをじっと待つ。
あと少し、もう少し黙っていたら、一発殴る。
鈴仙は永琳の停止の言葉がないのを横目で確認して、右腕をゆっくり引き。
短い単語を、叫ぶ。
『……謝れっ!』
ぴたり、と。
鈴仙の拳が止まる。
彼女の口が動くと同時に、てゐも全く同じ言葉を口にしていたから。
涙を流し、嗚咽をこぼし。
悔しいという感情を隠すことなく顔に張り付けて、鈴仙の手を噛み切ろうと必死に顔を振りながら。
両腕の爪を、首を抑える腕に食い込ませながら。
「……あんたは、あの子の何を知ってる?
知ってるはずがない……わかるはずもない……
最近ここにやってきたばかりだもの。
そんな奴が、あいつの生きてきたことを『当然』?
たった二文字で、片づけてられるほど……月の兎は偉いのか……」
鈴仙が拳を振り下ろせば、てゐの言葉などあっさり止めることができる。
それでも、なぜか彼女は耳を傾けてしまっていた。
「あんたには……仲間が居なかったの?
笑い合える友人は?
尊敬できる先人は?
守ってあげたくなるような、部下は?
もしそんな誰かがいなくなったりしたら、あんたは『当然』で済ませるの?
そんなつまらない奴なの、あんたはっ!」
「っ!?」
気が付いたら、鈴仙は拳を振り上げていた。
月の兎としてのプライドが、そうさせたのかもしれない。
大きく振りかぶり、てゐの言葉を止めるためにその手をその愛らしい顔にぶつけ――
「……あなたの負けよ、鈴仙」
ぶつける前、その腕を永琳が止めた。
「つい、かっとなっただけ。その程度の軽い拳を振り上げたあなたの負け……、わかるわね?」
てゐが最初に襲い掛かった時も、鈴仙が逆に返した時も何も手を出さなかった永琳が手を出し、止めた。
「師匠! だって、てゐだってもさっき私を!」
「……あの子が怒ったのは、……なんのため? それくらいあなたもわかるでしょう? そして、何がその怒りの原因になったのか。
少し頭の冷えた今のあなたなら、理解しているはずよ?」
「……わかりません」
「そう……」
耳を倒しうなだれる鈴仙に向けて、永琳は苦笑する。
わかっているけれど、納得できない。
そんな態度が全身から溢れていた。そんな鈴仙をひとまずてゐの上から退かした永琳は、ベッドに寝かせていた妖怪兎を専用の台車に載せて、前に出す。
「……ありがとう」
それを受け取ったてゐは消え入りそうな声でつぶやいて、大事そうにゆっくりと台車を押していく。
その仕草からしても、どれだけ大切なものかを窺い知ることができる。
医療器具や薬剤が散乱した深慮所の中で、二人は別々の視線でそれを見送った。
一人は、どこか慈しむような顔で。
もう一人は、どこか不満を混ぜた顔で。
それでも、何故かもじもじと体の前で組んだ手を遊ばせる。そんな鈴仙の姿に、永琳はため息をついて、とんっと背中を押した。
「……わからないのか、わかりたくないのかは不問にするから、てゐの後をついていきなさい。きっと、どこかに穴を掘るつもりでしょうから」
「……でも」
「これは命令よ?」
「……はい」
永琳に再度言葉で背を押され、鈴仙は躊躇いながらも廊下に出ていく。
そして、その姿が永琳から見えなくなった途端、
たったった、と。
駆け足でてゐを追いかけた。
急がなければ追いつけない、そう思ったのかもしれない。
それでも、鈴仙が思うより早く、その小さな背中は視線の中に映る。
永遠亭を出てすぐの場所で、竹林の奥に向かって進もうとしているところだった。
もちろん、てゐもその気配に気付き、振り返る、が……
がらがら……
無言のまま、付いてくるなとも言わず、拒否するしぐさも見せず。
後ろから鈴仙がやってくるのを無言で受け入れる。
そうして、辿り着いたこの場所。
竹林の中にあって、無数の置石が異様さを感じさせる場所で、てゐは一人で穴を掘った。
鈴仙の方が力があるし、道具を使えばもっと楽に穴が掘れたはず。
それでも、てゐは、一人で、自分の手だけで掘った。
そうして、汚れた手をまだ泥がついていない服の布地で綺麗にしてから、台車の上で横になる妖怪兎の顔に触れる。
その顔は、静かで、本当に眠っているだけに見える。
でも、てゐも鈴仙も、その瞼がもう二度と開かれることはないことを知っている。
ほとんど、てゐと同じ姿、同じ格好の妖怪兎。
違うのは、白い装束を纏っていることくらい。
それを大事そうに、ゆっくりと抱えたてゐは……
「もう、がんばらなくていいからね……おやすみ……」
ふわりと空中に浮かびあがった後、その身を穴の中に沈め、そっと可愛らしい妖怪兎を置いた。
眠るように、湿った土の中で横になる白い、小さな身体。
もしかしたら、動き出すんじゃないか。
そう期待するかのように、てゐは何度も、何度も、そのつま先から頭まで視線を往復させる。
けれども、その姿は何も変化しない。
土から染み出た水が、白い服に染み込んでいくだけでそれ以上のことはないもない。
てゐは、ぎゅっと両手を強く握りしめて、穴の中から飛び上がると、穴の側に積まれた土に触れる。
そうして、ほんの少しだけ手に取って。
ぱさりっと。
妖怪兎の上にかぶせる。
最初は脚から、少しずつ。
次は腕、腰、と、両手ですくえるだけの土を長い時間をかけて、穴の上からかぶせていく。
後は、胸と、顔だけ。
あと5回くらい土を救えば、妖怪兎は土の薄幕に包まれる。
そこで、てゐは再び手を止めた。
「……いくよ?」
問い掛けても返るはずがないのに、てゐは穴の中へと声を贈り……
震える腕で、土を撒く。
胸が、顔が、段々と隠れていく度、てゐの表情が崩れていく。
泣いているのか、笑っているのか、泣いているのか、怒っているのか。
それは鈴仙にもわからない。
もしかしたら、てゐ本人もわからないのかもしれない。
最後の一回。
それを撒き終え、すべてを土で覆い隠したときのてゐの顔は酷いものだった。
癇癪を起した子供のように泣き喚き、まだ残った土を狂ったように穴の中へとぶちまけた。
腕で、脚で、胴で、押せるものを全部使って、土を元に戻し。
最後に『あの子』の名前が掘られた石を、小さな丘に乗せた。
それで作業は終わったはずなのに、てゐはまだ世界すべてを呪うような叫び声を上げながら膝をつき、自分の腕を丘の上に叩きつけた。
あの子を埋めた自らの手を恨むかのように、月明かりの下で叫び続けた。
すべてが終わった後、何も残さず消える妖怪とは違う。
これが肉体の残る、妖獣の最期……
傍観者としてその場に立ち、
何かを感じ取った鈴仙の頬に、温かい筋が一本流れた。
◇ ◇ ◇
「……あの頃の鈴仙、大嫌いだったな~」
「……で? その大嫌いだった私の膝に頭を乗せているあんたはなんなのよ」
「えー、じゃんけんで負けた方が勝った方の枕になるって決めたじゃない」
「後出ししたくせに」
「勝負は非情なのよ、鈴仙」
仕事の合間を見つけて、鈴仙が縁側でのんびりする。
そんな予定だったというのに……
何の因果かてゐの膝枕役に成り下がっていた。
「なんの脈絡もなしに勝負を仕掛けられて、反則負けさせられた方の気持ちも考えてよね」
「その気持ちも考えて、懐かしい思い出に花を咲かせてたんじゃない」
「何故か私の嫌な思い出ばっかりだけどね」
「不思議だね~」
「……黙れこの確信犯」
「うっさっさっさ」
あれからもう片手では数えられない年月があっという間に過ぎた。
異変も何度もあって、確実に幻想郷は変わっている。
緩やかではあるが、確実に、変化は世界を飲み込んでいた。
それでも……
永遠亭の中の、この風景だけは変わらない。
まるで輝夜がこの一瞬の時間を繋ぎ合せているかのように。
「ねえ、鈴仙?」
てゐが悪戯を仕掛けてくるのもその日常の風景の一つで
「ねえ……、予約していい……?」
「何を?」
それに苦労させられる鈴仙がいるのもまた、当然。
眠たそうに、目を開けたり閉じたりするてゐを見ていたら、鈴仙よりも年長者なのがわからなくなるくらい。
そんな毎日は永遠に続くはずで……
「……私の穴、鈴仙に掘って欲しいなって……」
だから、これもてゐの冗談のはずで……
「やだ、って言ったら?」
「むー」
「冗談よ、冗談。
そうね……もしそんなときがくるとしたら、掘ってあげてもいいかな」
「そっか……、ありがと……」
だから、幸せそうに瞼を閉じたてゐが、ぱたんっと、手の力を抜いて……
「……え?」
呼吸が、弱くなって。
「……てゐ?」
口から、息を吐き出さなくなって……
「……冗談、よね? てゐ?」
鈴仙は震える手を、てゐの顔の前に持っていき……
直後、悲痛な悲鳴が、永遠亭の中に響き渡った。
その、数分後。診療所にて、
「……えっと、鈴仙、脈は確認したのかしら?」
「シテナイデス……」
「イビキをかく前兆で、少々息が止まることがあることは?」
「シッテマス……」
そして、やれやれといった様子で、永琳はベッドの上できょとんっとするてゐを指差し。
「で? 私の診療の手を止めてまで、ここにてゐを連れてきた結論は?」
のちに、てゐは語る。
そのときの鈴仙の土下座は本当に見事だったと。
最後どういうこと?
理解力がなくてすまない
永琳さんには「日常生活にはなんら負担を与えない延命薬」を開発していただきたい。