Coolier - 新生・東方創想話

心に愛を

2012/08/12 23:45:01
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※これは2010年より制作したものです。一部新しいキャラクターがいませんがご了承ください。


心に愛を 目次

序章
第一章
第二章
第三章
第四章
【PAST】
第五章
第六章
第七章
【LOST】















 ナズーリンが地底へ行こうと決めたのは、星の様子がおかしくなった次の日のことだった。
 心に傷を負った星に、地底のことを話してはいけなかった。しかしそんなことなど知らない白蓮が、地底の妖怪にかまけてしまったという。

「地底の人たちって、大変な目に遭ってきた方々なのでしょう。私たちが何かしてあげられたらなって思うの」
 目を輝かせてそう告げた白蓮の前で、星の顔はみるみるうちに青ざめていった。かと思えば真っ赤になって怒り出し、「私はできません」と強く言うと、部屋を出ていってしまった。
 白蓮は、「星があんなに怒るところ、初めて見たわ」と言って困った顔をしていた。困り顔だけで済んだのだから、まだいいほうか。

 何もできない自分が怨めしい。
 星が地底を嫌うようになったのはナズーリンのせいだった。それなのになぜ、星にばかり悪運が訪れるのだろう。星は昔からそんな調子だ。それゆえ法界で白蓮を助けてから今まで、平和に過ごしてこられたのは意外だった。水蜜たちとは、もっとこじれた関係になると思っていた。


 ナズーリンは、洞窟の入口に立った。
 この奥は阿鼻叫喚の地獄であり、咎人の監獄であり、水蜜たちを数百年に渡って閉じ込めた荊棘の檻である。長かった封印が解け、自由に出入りできるようになった今でも、なお瘴気が毒霧のように満ち、怨霊たちが肉体を食い荒らさんと跋扈している。

 懐かしい地底の入口。かつては都のすぐ傍にあった。それが、まるでナズーリンに先回りするように、はるばる幻想郷までやってきていた。
 これも因果なのだろうか。

 ナズーリンはその大きな口の前で息を飲んだ。絶え間なく溢れ出る瘴気に見惚れた。彼女には、恐ろしい地底が聖域のように思える。
 それは彼女が罪人ゆえだった。

 ふらりと、いつの間にか歩を進めていた。
 気がつけばもう、暗い聖域へと身を落としていた。
















 旧都の入口にて、ナズーリンは水橋パルスィという不思議な妖怪と対峙した。
 彼女は、いわば洗礼だ。最も地獄らしく最も深く最も大きく、しかし最も弱い。地底妖怪に慣れていない者たちからの防衛なのである。

「何よそのかわいい耳は! 私に寄越しなさいよ!」
 無茶な要求だった。
「地底で人を探したいのだけど」
「知らない。ここを通りたければ、命か有り金か耳のどれかを置いていきなさい」
「……」
 まるで追い剥ぎだった。
 無視して通り過ぎるのにも忍びない。
「あっスカートもかわいい。それも欲しい」
 なぜか要求が増える。やっぱり追い剥ぎのようだった。

「悪いけど、君にあげるものは何もないよ」
 そう言ってダウジングロッドを構えて見せる。振り回せば、リーチの長い武器にもなる。あまり優雅ではないが、ある程度の戦闘は予期していたことだ、仕方ない。
「そうなの? 貧乏人?」
 しかし相手はなぜか小首をかしげただけで、挑発には乗らなかった。
「……まぁ、その」
「じゃあ仲間ね。通っていいよ」
「えっ」
 それどころか、なぜか気に入られてしまったようだった。話をすればするほど意味の分からない妖怪だった。
 こんなのが、地底の妖怪なのか……。

 ナズーリンは罠に気をつけながら、慎重にパルスィの横を通っていった。パルスィはいつの間にか機嫌よく笑っていた。罠はひとつもない。拍子抜けである。
「聞きたいんだが」
 ナズーリンは一度振り返って、なるべく穏やかに囁いた。しかしこの妖怪はどこで怒りだすか分からないので、やや恐る恐るだった。
「なに?」
「地底で一番……嫌われている者を探しているんだ。心当たりはないかい」
「わたし」
「えっ」
 即答だった。
「……と言いたいところだけど、別にいる。妬ましいわね」
「妬ましいか?」
「そいつはね―――さとりよ」


 その名前を聞いたとき、心が強烈に揺さぶられた。
 さとりといえば、心を読むという精神の妖怪ではないか。いつしか地上にいなくなってしまった、罪深き妖怪だ。
 会ってみたかった。
「あんた、家出?」
「え? ああ、まあ……」
 そうだ、とでも言えばよかっただろうか。パルスィは「ふぅん」と何か考えてから続けて言った。
「だったら、あいつの家に行くといいよ。広いから、部屋ぐらい簡単にもらえる。何でか知らないけど、あいつはあんたみたい奴の相手をするのが好きだからね」
 ナズーリンのような奴とは、一体どういう意味で言っているのだろう。
 こんな奴が何人もいたら、たまったものではないだろう。
「鼠が家出して地底に落ちる羽目になるとはね。地上の家庭は荒んでるのかしら、可哀想に。お腹ふっくらなのにね」
「腹は関係ないだろう」
「大丈夫、さとりって動物好きだし、私も貴方みたいな子の味方だからね。地霊殿なら安心して過ごせるからね。よよよ、ぐすん」
 パルスィは人の話を全然聞かずに、嘘っぽく泣いていた。そしてナズーリンが地底に落とされるべき罪人だと言った。

 ナズーリンはそんな彼女を睨みつけていた。本当は仲間と認められて、少し嬉しかったのかもしれない。しかしそれを素直に認めることができずにいた。
「……ああごめん。さとりは地霊殿にいる。旧都で一番大きい屋敷だから、すぐ見つかるよ」
 そう言うパルスィの顔が寂しそうになったので、ナズーリンは少しだけ申し訳なくなった。
「いや。こちらこそすまない。ありがとう」
 しかし言い終わるや否や、心は浮かれて、別のことを考えていた。出会ってもいない、さとりという存在に惹かれ始めていた。歩む足取りが自然と速くなる。このときのナズーリンは、心を読まれることの恐ろしさを忘れていた。

「妬まし」
 駆ける背後から、そんな呟きが聞こえたような、聞こえなかったような気がした。





  * * *





 地底は、自分の新しい住処として、うってつけの場所だと思う。だが、ナズーリンは寅丸星が気がかりだった。彼女を置いてきてしまって本当によかったのだろうか。決意したつもりだったが、何だか中途半端な気持ちになってしまう。

 きっと、二人で過ごした長い時間がいけない。

 星の傍にいては、罪を目前に直視しているようなものだ。星をこうさせてしまったのは他でもないナズーリンなのだ。
 責任は重圧となる。ナズーリンはそれから逃げられなかった。償うこともできず、誰に懺悔することもできなかった。ひたすら、見たくもない罪を直視し続けて生きてきた。孤独に苛まれながら、たった独りで重荷に耐えることしかできなかった。
 こんな思いをするぐらいなら、いっそ死んだほうがいいと何度思ったことだろう。それなのに、狡猾な鼠は今になっても、ありもしない赦しを求めて、のうのうと生き恥を晒している。

 何もせぬまま、事件から千年経ち、罪を咎めることができたはずの者は皆、この世から去っていった。だがナズーリンのなかでは、今も罪悪感が心を蝕んでいた。
 黙っていても隠れていても、誰もその存在を知らなくても罪は不滅だ。ナズーリンのなかから、過去が消えることはない。

 あの寺に居続けることにはもう限界なのだと、白蓮と星の会話を聞いた昨日に思った。地上は、彼女たち地上の者のためにある。ナズーリンのような者のためではない。だから罪深き者たちは地底に落ちるのだろう。






 地霊殿への路は、夢心地だった。悪夢も孤独も不安も、今だけは全て消え去っていた。瘴気に当てられながら見る新世界はとても魅力的だった。京の都を思い出す、古く懐かしい木と瓦の町並みを尻目に、頭の中はどんどん白くぼんやりとしていった。


 気づけば目的地は目の前にあった。玄関のベルを鳴らしてから、待ち時間が永遠のように感じた。随分経ってようやく出迎えてくれたのは、ペットの燐という猫の妖怪だった。
 燐のよく手入れされた紅い髪は、炎を連想させる。ここが地獄であることを思い出させてくれる。
「いやあいやあ、すいませんね遅くなっちゃって」
 彼女はそう言うと胡散臭く笑った。
 鼠の苦手な猫がいるのは少々の誤算だったが、部下の弱い鼠を連れてきていないから、あまり危険は感じなかった。自分一人ぐらいなら何とか守りきれる。

 地底は、行き場のなくなった古い妖怪たちの隠れ家だ。
 地底の妖怪であるはずの、この黒猫の瞳には翳りが全く見えなかった。少ない灯りを存分に吸収しては倍にして反射するほど、元気のよい瞳だった。とても地底の妖怪とは思えない。彼らは、光を失った暗闇の住人だったはずなのに。
 地底の、罪深きはずの妖怪が、少し妬ましく思った。緑眼の妖怪に何かされただろうか。

「珍しいこともあるもんだ。さとり様にお会いしたいだなんて、物好きっすねえ」
 玄関の大きな扉の片方を重苦しく引張り、燐は冗談交じりに言った。媚を売るようににやけた顔がいちいち胡散臭い。
「いいのかい、主人のことをそんなふうに言っても」
「いいんすよ、どうせちょっと思った時点でぜーんぶ聞かれちまうんですから。それならお嬢さん、思いついたことは全部喋っちまったほうが身体にいいってもんですよ。というより、あたいの周りには言わないでも全部分かっちまう妖怪と、一から十まで全部言わないと何も分かってくれない妖怪しかいないもんでね。あたいがこうなっちまうのも仕方ないといいますか。あっすいませんね、どうでもいい話をして。今さとり様をお呼び致しますんで、ちょいとここで待っていてくださいな」
 やたらよく喋る猫だった。彼女は調子よくナズーリンをロビーに連れ込むと、足早に階段を登っていってしまった。

 手持ち無沙汰になったナズーリンは、壁に飾り付けられたステンドグラスやら、赤い絨毯やら、傘の一本も立っていない傘立てやらを見回した。インテリアの一つ一つに高級そうな装飾が施されているが、よく見れば全て古傷だらけになっている。一番人目につくはずのロビーがこの有様なら、奥はもっと古臭いのだろうか。
 かつてはさぞ美しかったであろう空間が、いつしか朽ちてしまった姿。いかにも、恐ろしい怪異が潜んでいそうである。

 ロビーはたまに猫の鳴き声が聞こえる以外、とても静かだった。ナズーリンはその真中で立ち往生する。そのうち、星のことをぼんやりと思い起こした。
 星が地底を嫌っているのは、そこに住む怨霊たちが関係している。彼らは罪深き地底に眠るが、なかには罪のない者たちもいる。彼らがそうだ。
 浮かばれない霊を、火車という妖怪が死体ごと地底へ連れ去ると怨霊になる。彼らは強くはないが執念深いし、仲間意識が強い。一の怨霊に怨まれれば、百のそれに呪われる。怨霊のたくさんいる地底に星が行きたがらないのは当然だった。昔の彼女なら、千や万の怨霊とて敵ではなかっただろうが、今ではそうも言ってはいられない。


 程なくして微かな足音が聞こえた。目当ての人の影が見える。歩幅小さく淑やかに、悠々と降りてくる。
 はて、どんなに醜い妖怪が出てくるか。失礼な期待を胸に、ナズーリンはそれを見上げた。

 ところが、それが目の前へ来るや否や、たおやかさに思わず息を飲んでしまった。ナズーリンと同じほどの小さな体躯は、この寂れた屋敷と対比するように妖艶だった。背丈は小さく、髪先がふわりと軽く流れ、顎は細く整い、唇はもぎたての果実のようにつややかに湿っている。
 何より、感情を廃したように無機質な、大きくて丸い瞳が美しかった。
「ようこそいらっしゃいました、ナズーリン」
 怪しく睨む第三の目がよく目立つ。容姿と裏腹に佇む、嫌われ者の証だ。
「主の古明地さとりです」
 さとりは小さく微笑んで、スカートの裾をつまんで軽く持ち上げた。ナズーリンはちらと覗くパニエにほんの少し驚いたが、これが西洋式の挨拶だと思い出すのに、そう時間はかからなかった。何を気にしているのか、自分で自分がおかしい。

 他人の心を読む珍しい存在であり、同時に嫌われ者である。そんな妖怪が、まさかこれほど美しい少女だとは。幼さを残しながらも気品ある姿は、うら若き妖花と称するに相応しい。
 完璧な容姿に思えた。
 くたびれた顔をした兎のスリッパさえなければ。


 ナズーリンは挨拶する言葉に悩んだ。不思議と掻き立てられたかのようにここまで来てしまったが、ここでようやく自分の行動に明確な理由がないことに気がついた。

「ナズーリン。何も言わずとも、貴方の心は分かっています」
 天使のような声がした。救いの声か、果ては地獄への呼び声か。とん、とんという軽い靴音が、ナズーリンへとにじり寄る。
 硝子のように繊細ながら、まさぐるように吸いつく瞳が、じっとナズーリンを見つめる。ああ、やはり、美しい。形容してもし切れない。これが地底の妖怪であるだなんて、世はなんと残酷なのだろう。ナズーリンは彼女の瞳に吸い込まれ、夢心地のなかへ沈んでいく――――。

「私のペットになりに来たんでしょう」
 しかし、飛んできたのは、現実へと連れ戻しにかかるような言葉だった。
「……ペット?」
 ナズーリンにはそれが、生活感の溢れる、使い古された語のように思えた。





  * * *






「さとりって方は、いつもああなのかい」
「うにゅ?」
 ナズーリンはさとりのことが頭から離れなくなった。
 一目見て美しいと思っても、それだけでは彼女の何も分からないに等しかった。淑やかのような、お茶目のような。完璧のような、抜けているような。そんな彼女の心が知りたかった。
 聖母の如く美しい、汚れた地獄の管理人。
 彼女が、いいんですよ、ゆっくり見ていってくださいうふふ、とか何とか言いながらどこかに消えてしまったので、ナズーリンは仕方なく言う通り地霊殿のなかを散策することにした。
 そこでたまたま見つけた霊烏路空という妖怪烏に声をかけたのだが―――

「あーじゃなくて、ちゅーだよ」
「うん?」
「貴方鼠でしょ?」
 意味が分からなかった。
 地底の妖怪というのは、皆ところどころずれているのだろうか。ペットという言葉の意味も、少し地上の意味と違う。

 何とか話についていくと、彼女とさとりの関係を知ることができた。どうやらさとりへ恩があるらしく、それを返すためにここで仕事をしているらしい。ところがここからが要領を得ない。

「私って馬鹿で仕事できないから、何も返せてないんだあ」
 そう言ってはにかむと、彼女は左手を腰に当てて、急に全然違う話をしだした。
「変な人でしょ、さとり様って」
「そう、かい……?」
「だって変だよ。さとり妖怪なのに、烏を生んじゃうのよ」
「烏を生む?」
「うん」
 とのことだった。
 さっぱりである。
 彼女は、そう、物凄い天才か何かなのだ。きっと。
 これ以上は埒が明かないと思い、少々無理に話を区切ってナズーリンは空と別れた。



 それからもっと屋敷を回り、色々なペットの話を聞いた。猫が多いので困りかけたが鼠も何匹か住んでいたので、彼らからさとりの話を聞くことができた。曰く、
「悪いことをすると不可避の精神攻撃で罰せられる。こわい」
「こちらが悪巧みさえしなければいい人」
 などと言われていた。悪いことばかりしているナズーリンは少し、怖くなる。他にも、
「潔癖」
「猫贔屓」
「妹のことが好きすぎる」
「とりあえずだけど、何となーく地底を纏めているところは凄いと思う」
「性格悪い。意地も悪い」
「たまにハイテンション」
「最近可愛くなった。ありゃ恋してるな。どうせ妹にだろうが」
 とのことで、総評するに好悪様々な評価だった。橋姫には地底で一番嫌われていると評されていたのに、これは意外だった。少し変わった性格をしているのは事実のようだが、話を聞いていくに、むしろ彼女は凡人離れした思いを秘めているのではないかと考え始めた。そしてそれが、彼女の特殊な力によるものだと思った。

 ある白鼠が言った次のような評が、確信をさらに強めた。
「身寄りのない奴に仕事を与えているんだから、割とお人好しなのかもしれない」
 この地霊殿は、鼠や烏などは勝手に住みついている者が多いそうだが(いいのだろうか)、なかにはさとりに仕事を貰うために住んでいる者がいるらしい。地獄猫の燐がその代表例だという。
 ナズーリンはさとりという妖怪に尚更興味を持った。

 例えば自分が命蓮寺を出て、地霊殿に飼われるとしたら、と、ひとつ悪い想像をする。
 この地獄の楽園に世話になるのだとしたら、さとりはこの傍にいるのだろうか。地獄に落ちた卑しき者たちを、聖母の如き慈愛で受け容れるさとりという妖怪ならば。傍にいてくれるだろうか。
 彼女に愛されようと尽くす、自分の姿を空想する。とても魅力的な関係に思えた。

 ナズーリンは焦れ始めた。
 さとりは普通の妖怪ではない。彼女のことをもっと知りたい。心が彼女でいっぱいになると、身体が熱に浮かされる。
 まるで一目惚れしたようだった。だが仮にこれを恋と呼ぶならば、品のない恋があったものである。
 私も馬鹿だなと言い捨てる。そうして思いを切り捨てようとしながらも、ナズーリンは焦れったく地霊殿のなかを、早足でぐるぐると歩き回った。理性が心に振り回されるようだった。広い屋敷を意味なく二週もした。

 考えても埒が明かないと、立ち止まる。何だかよく分からない気分に惑わされるのが苦しい。いっそ帰ってしまったほうがいいだろうか。そう考えて、一度ここから命蓮寺への帰り道を想像した。
 あの橋姫がごねなければ素直に帰れるだろう。だが、なぜか、それをする自分の姿が想像できなかった。
 またさとりのことを考えてしまう。さとりの前で罪を曝け出したら、彼女は何と感じるのだろう。そんな人だったなんてと罵るだろうか。ならば地底に来るのも仕方ないと納得するのだろうか。もうしてはいけませんよと、優しく諭すだろうか。
 一度気になりだすと、腑に落ちるまで治まらないのがナズーリンの悪い癖だ。この心の焦燥は、そんな不安から来ているのだと信じたかった。



「いかがです、地獄旅行は」
 当のさとりが突然、背後に現れた。
 心臓が跳ね上がる。あまりに慌てたので無意識に数歩距離をとってしまった。
 頭の中身を振り払うが如く、一度大袈裟に首を振る。余計なことを知られたくない。今まで心の全てを秘密としてきたのだから。
「あ、ああ。なかなか楽しいよ。地上では見られないものが、たくさん見つかる。だけど酷いじゃないか、急にいなくなってしまうなんて」
「ふふ、意地悪してごめんなさいね。新しい子が来たときの、恒例行事なんです」
 さとりは微笑んでいた。人当たりのよさが事前の情報とあまりに違うから、この笑みの裏に何が隠されているのか、ナズーリンは思わず勘繰ってしまった。客人を一人置き去りにして不安がらせるのが恒例行事というのなら、性格が悪いと評されていたことも理解できるというもの。
 やはり用心に越したことはない。彼女を信用するには早すぎる。この罪を曝け出すのは――――ああ、いけない、読まれてしまう。

「可愛い人。恥ずかしがらなくていいんですよ」
 どこか自信があるように胸を張って、さとりは言った。そして丁寧にナズーリンの手を取った。目と目が合うと、ナズーリンは今にも吸い込まれそうになった。さとりの視線を拒絶して、心のなかを空にしようとすればするほど、反対になぜか、彼女へと近づいていくような気がした。

「貴方は、何も言えないことが辛いんですね。見えますよ、心の一番大事な部分を守る鉄檻が」
 恐ろしいことを、告げられた。
「でも、どうか安心してください。こう言って信じてもらえるか分かりませんが、私は他人の心の最も奥にある芯を口外することはしないし、笑うことも、怒ることもしません」
 ナズーリンにとって、心を覗かれることは自身の罪を暴露することに他ならない。それを彼女は、全て覗いてしまったと言うのだ。
 最悪の場合と覚悟していたことだ。それが、こうもあっさり見抜かれてしまうとは。
「それに、心というものは本来言葉にできないものです。私なんかじゃ、貴方の心を表現する言葉が見つけられないんです。だから誰にも、何も言えません」
「……」
 全てを見てしまったが、必ず秘密にすると彼女は言うのだった。いや、秘密にせざるを得ないという。
 本当なのだとすれば、だが……却ってとても心強いのかもしれない。尤も、彼女の胸中がどちらであるにせよ、ナズーリンは弱みを握られた以上、服従するよりなかった。

 さとりは淑やかにゆっくりと、ナズーリンに肩を寄せた。彼女の周りに広がった管が押しつけられる。
「ところで、もし、なのですが」
 彼女はふと表情を明るく変えて言った。
「ここが気に入ってくれたのでしたら、今日は泊まっていきませんか」
「え?」
「いえ、今日はと言わず、気の済むまで何日でも」
 彼女の髪から、一瞬甘い香りがした。もっとこの香りに包まれていたかったけれど、すぐに離れてしまった。
「我が家は常に、誰でもうえるかむなのです」
 再びナズーリンの瞳を覗き込んだ、彼女の瞳は不思議だ。自身の表情はそうころころと変わる訳でもないのに、瞳だけ時に妖艶だったり、無邪気だったり、無機質だったりする。
「……察してください、ナズーリン。疑われたままに貴方を帰したくないの」
「疑ってなど」
「疑ってますよ。まだ、私が人の心をぽんぽん喋っちゃう奴なんだと思ってるでしょう。違うんですよー。それに、」
 そこまで言うと、さとりは視線を逸らさぬまま、いきなり顔を近づけてきた。
「地上へ帰りたくないんでしょう?」
 本当に、全て読まれているようだ。
 ナズーリンは思わず一度口を噤んだ。

「……分かるんだね」
 折れるしかなかった。彼女には、絶対に敵わない。
 さとりは一度、困った顔をした。ナズーリンが躊躇うことが、意外だったのかもしれない。
「分かります。さとりですから」
「拒まない、のか」
 あー、と、彼女は納得したように微笑んだ。
 そして、まるで母親のように、優しくナズーリンの髪を撫でた。

 なぜか、嬉しかった。



 結局、ナズーリンは地霊殿に宿泊することに決めた。さとりはいささか強引だったが、それは当然だった。彼女は心を読んで、気づいていたのだ。ナズーリンは彼女に出会った瞬間から既に、彼女の傍から去るつもりなどなかったのだと。
 泊めてもらえるのはむしろ好都合だ。彼女に毎日会える、いい宿を探す手間が省ける。そんな算段まで、さとりには全部筒抜けだ。我侭も、虚飾も、痛みも苦しみも。
 いっそ赤子のように、甘えてしまおうとしている自分がいた。





  * * *






「急なことだったから、ちゃんとした個室が用意できなくて、ごめんなさい。明日には何とかしますね」
 そう言われ案内された部屋は、たくさんの本棚に囲まれたなか柔らかそうな毛布が敷かれただけの、さとりの書斎だった。お詫びに好きな本を読んでもいいとのことだったので、地上では貴重だろう書物を読み漁ってしまった。ここに布団を敷いて、本に囲まれながら眠るのはとても心地がよさそうだった。
 むしろこの書斎で日がな一日暮らしたい程だと言ったのだが、さとりに「私が使う部屋なので、だめです」と却下されてしまった。明日よい寝室を用意してくれるらしい。

 優しくしてくれるさとりを思いつつ眠った。なのに、悪い夢を見た。


 夢のなかのナズーリンは、血塗れだった。関わった人の数だけ血を浴びた。少しでも好きになった人の血はとりわけ多く浴びた気がする。まったく私に関わると碌なことにならないなと、ナズーリンは自嘲した。そうして不幸を喚び寄せた気にでもなっていないといけなかった。好きなのだ、本当は皆が好きだし、皆と一緒にいたい。しかしそれは叶わない。ナズーリンが叶わなくしてしまった。浴びた血の量が、皆との距離を遠ざける。
 これは、自分が他人を傷つけた証。
 同時に、自分が自分を傷つけた証。
 汚い鼠に相応しかろう。
 どす黒い何かに身体を蝕まれて、夢は終わる。


 少し埃っぽい書斎で目覚めたとき、からからに乾いた喉が痛かった。








 










 ナズーリンは、さとりの「朝ごはんですよ」という囁き声で目が覚めた。

 地霊殿の一日は地上と同じように朝から始まった。陽の昇らない地底にも、きちんとした生活のリズムがあるらしい。
 朝食は燐が作っていたようだ。彼女が食卓へと順々に運んでくる。
 出てきたのはごはんに味噌汁、さんまの塩焼きが半身、それに福神漬が少々。至って普通の和食だった。
 猫が作っていても断じて猫飯ではない。燐曰く、
「あたいは火車でぇございますが、そんじょそこらの火車じゃあございません。地霊殿を西東あらゆる姿で駆け回り、鳥の餌から主人の餌まで何でもござれ、作ってみせましょお手製料理、メイドもペットも変幻自在、花嫁修業は土蜘蛛直伝、衣装は有限会社土蜘蛛繊維製、ああ旧都のアイドル、花も恥じらうハイブリッド火車お燐ちゃんたぁ、あたいのことよお~。ぽんぽん」
 だそうである。何だかよく分からないが得意げだった。
「火車? 君が?」
 ナズーリンが訊ねると、彼女は「え。言ってませんでしたっけ」一瞬きょとんとした。
「そう! さとり様の美少女ペットとは世を忍ぶ仮の姿。しかしてその正体は、泣く子も黙る美少女怨霊使い、火焔猫燐! しゃきーん!」
 変なポーズだった。ともかく、ただの猫でないのは本当のようで、彼女は怨霊を従える火車の妖怪なのだという。まさかそんな者がさとりの下にいるとは、ナズーリンは予想していなかった。
「怨霊使いか……」
「ん。何か疑問ですかい」
「いや、ちょっとね」
 怨霊にはあまりいい思い出がないのである。
 ナズーリンが「ところで、君はいつも忙しそうだね」と言うと、彼女は前屈みになって、「忙しいっす」と小声で愚痴を溢した。
「何か手伝えることがないかい?」
「ほほう。そいつはいい提案ですね。あんたなら役立ちそうだ。そうだ、さとり様に頼んでみたらいいです。働き詰めで可哀想な燐ちゃんの負担を減らしてあげたいので、私にお仕事をくださいっ! てね」
「そっ……」
 そこまでできるかは分からないが、と答えようとしたら、間もなく燐は軽く手を振って、厨房へ消えた。何か勘違いしている気がする。彼女の口ぶりは、新しい家族に対する態度だ。まるでナズーリンが、いつまでもここに住むと決めたかのようだった。





 ナズーリンは人前で食事をすることが苦手である。さとりの前で妙なことはしたくないのだが、食べすぎるとどうなるかわからない。
 食堂は広い。長い卓が一台置いてあって、周りには数えるのが面倒なくらいの椅子がある。だがそこに座る者の姿はほとんどなく、空席が大量にあるものだから余計に広く感じる。さとりと、昨日見かけた妖怪烏が一羽いるぐらいだ。彼女はパジャマ姿で眠い目を擦っていた。
 さとりは端の席でちょこんと座っている。こうして何気ない場面で見てみると、彼女は豪邸の主だという貫禄があまり感じられない。それよりは、脇で控える令嬢といったほうが近い雰囲気だ。きっとあまり堂々とした性格ではないのが、態度にも表れてしまうのだろう。いつもどこか、一歩引いているように思える。

「ナズーリン。もう話はしておいたけど、一応挨拶してね」
 主がそう言ったので、ナズーリンは空に向かって簡単な自己紹介をした。空は眠たそうな声で「うい」と答えただけだった。聞いているのか怪しかった。朝に弱いらしい。

 席が多い割に盆の数は四人分で、そのうち二つが空席だった。随分空間ばかり大きく感じた。
 ナズーリンがさとりの正面の席に座ると、彼女はおもむろに言った。
「さ、みんな揃ったし食べましょ。いただきます」
 するとさとりと空が手を合わせて、声を揃えた。この挨拶が家のしきたりであるらしい。少し遅れて、ナズーリンも調子を合わせた。
「いただきます……」
 だが統率の執れているのはそこまでで、あとはそれぞれが思い思いに食べ始める。食事のマナーにだけうるさいところは命蓮寺とそう変わらないが、地霊殿のほうがまだ柔らかい。寺では味噌汁から、右回りに食べねばならないし、特別な事情がなければ、必ず家族全員が一緒に食べねばならない。
 ナズーリンは少食だった。それで命蓮寺では、いつも皆より少ない量を盛る。さとりがどこかでそれを知って燐に教えたのだろう、白米が少なめだった。これなら、食べすぎて困るような事態にはならなさそうだ。ありがたい。

 少し意外だったのが、燐がここで食事を摂らないことだった。聞くところによると彼女だけ生活サイクルがずれているから、一緒には食べられないのだという。
 ナズーリンは何となく寂しく思った。あれだけ使役されておきながら、家族と食事も一緒にできないとは。さとりには失礼だけれども、ペットとは何だったかとつい考えてしまう。

「下僕です」
 即答だった。まだ聞いてすらもいないのだが。
「もうちょっと詳しく言うと、とっても可愛い下僕です」
「……そうか」
 分かったような、分からないような感じだった。
 空は二人の会話など全く聞こえていないようで、うつらうつらしつつ、さんまをゆっくりと箸で啄んでいた。溢しそうになりながら食べたり、食べたように見せかけて溢したりする。
 下僕として役に立つのだろうか、この烏は。思いつつ、ナズーリンもできそこないの鼠を僕にしているから、似たような感覚なのかもしれない。いなくても困らないが、いればたまに助かる程度の僕。

 さとりの目が三つ、何か言いたげにナズーリンをじっと見ていた。口がまだ食べ物を含んでいる。慌てて喋る様子はない。
 ゆっくり咀嚼して飲み込んでから、さとりはこう言った。
「ナズーリン、空はね、いい子なんですよ」
「うにゅ?」
 空が少し反応したが、恐らく意味は分かっていない。つまりそういうことだろう。この烏は使えないという皮肉だ。
 ナズーリンは適当に味噌汁を啜りながら、そう心の声で返した。
「いやいや。使って使えないことはありませんよ。計算謀略は問題外ですが、雑務はそれなり、用心棒としては最高です」
「そうか」
「貴方の逆です」
「……うん」
 丁寧に白米を掬う。そして米と一緒にさとりの言葉を咀嚼した。
 ナズーリンの性格を、彼女はもう正確に捉えてしまったようだった。狡賢くて参謀職はお手の物だが、プライドが高く雑務はやりたがらないので空とさして変わらずそれなり、荒事を担当するには身体が小さく心許ない。
「すまない、失礼なことを考えてしまったね」
「気にしないで。よくありますよ」
 きっと彼女は、ナズーリンの過去ももう知っているのだろう。知らないことなんて既にないのかもしれない。参ったなあと内心で呟くと、彼女は少し意地悪く微笑んだ。あれを見てしまったのだろうに、邪念もなさそうに。
 どうして、こんなに穏やかにできるのだろう。

 ふと気づけば、いつの間にか空が覚醒していたらしく、ナズーリンとさとりを代わる代わる見ていた。どういうことか分からなくて困っているようだ。
「考えるより先に食べてしまいなさい」
 さとりが優しい声でそう言うと、はっと思い出したように白米を貪りだした。同時に二つのことができないらしい。食べ終わるまで、それっきりナズーリンのほうを見ることはなかった。


 四つのお盆が全て空になると、さとりは直々に片づけを始めた。
 ナズーリンも手伝わせてもらったのだが、こんなことで給金を出そうとするのが何だかおかしかった。ナズーリンは地底に来て初めて笑ってしまった。
 面白い人だと言うと、さとりは少々困ったようにはにかんだ。まるで嫌われ者だなんて思えなかった。

 ナズーリンはこのとき、なぜだか全く気がつかなかった。食堂にいるのは自分とさとりと空の三人なのに、四人分の食事が出され、いつの間にか食べられていることに。






  * * *






 ナズーリンは旧都の真中で困惑していた。
 さとりに言われて、空のパトロールついでに街を案内してもらうことになっていたのだが。気がつけば、空はひよこ饅頭を筆頭に食べ物の夢中になったきり、ナズーリンを置いて商店街の奥へ、凄い速さで飛んでいってしまった。やはり二つのことが同時にできないのだと思うが、その徹底ぶりには呆れて物も言えない。
 取り残されたナズーリンはやれやれ肩を竦めながら、広い地底を歩かなくてはならなかった。

 独りか、と思うと少し寂しかった。




 商店街を通り抜けながら、八百屋肉屋魚屋はどうして並びたがるんだろうかと、どうでもいいことを思う。昔ながらの商店街は、ナズーリンの知っている限り皆そうだ。かつ、八百屋は必ず鉢巻をしていて、肉屋はスキンヘッドで、魚屋は無精ひげを生やしている。何か決まりでもあるのだろうか。
 近頃の外の世界では、スーパーマーケットないしコンビニエンスストアというものが主流だったから、この光景が疑問に思う反面懐かしくもある。尤も幻想郷の人里は例外で、肉屋の親父と魚屋の翁の仲がとてつもなく悪いので、立地も離れているのが残念だった。

 地底の者は地底の者で、生活というものを謳歌しているらしい。商店街の活気は地上と大差ない。土蜘蛛、牛鬼、輪入道……懐かしくもおぞましい妖怪たちが、地上の人妖と同じように笑い合い、喧騒を作りだしている。
 奇妙な空間だった。これが、罪深い旧地獄の姿だとでもいうのか。彼らは、地にしっかり足をつけて生きている。
 胸中に一抹の不安が過ぎる。ナズーリンの最後の居場所となるかもしれないここが、地獄でなくてはどうすればよい。喧騒はまるで地上と変わらない。地底が最早地上と同じならば、ナズーリンの居場所はどこにもない。いくらさとりが優しくても、それでは命蓮寺と変わりがない。彼女は地獄の妖怪だから愛しいのに。



 商店街から外れ、南東の方角に伸びる街道を行くと、見覚えのある景色になった。旧都と地上をつなぐ橋への道だ。この辺りは住宅街らしく、先ほどの活気は見られない。どこか閑散としていて、建物も古く、寂れた様子をしている。少し風が強くて、乾いた地面から時折、砂埃が舞う。
 なんだ、旧地獄らしい場所もあったじゃないか。ナズーリンは安心して頷いた。
 封じられた地獄とはこうあるべきだ。永遠に隔絶され、嫌悪されて、己が罪の重さを思い起こさせる。

 ここでは誰とすれ違うこともなく、ナズーリンは旧都を抜けて、狭い横穴へと入りこんだ。橋姫と出会い、さとりのことを教えてもらった洞窟だ。せっかく戻ってきたのだ、礼をひとつ言いに行く程度罰は当たらないだろう。

 パルスィは昨日と同じように、道の脇にいた。失礼なことに、ナズーリンを見つけるなり、キッと睨むような表情をして迎えてくれた。
「いきなりその顔は酷いじゃないか。礼を言いに来たんだ」
 ナズーリンがそう言うと、少しだけ表情を緩めた。
「礼って、何のことよ」
「地霊殿のことさ」
「ああ、さとりね」
 ぶっきらぼうな言い方だったが、彼女は納得したように頷いた。
「ゆうべは添い寝してたらしいじゃない」
「なっ!? そ、添い寝はしていないよ」
 それで機嫌が悪かったらしい。ナズーリンの顔がぼっと熱くなる。
 この橋姫、辺境にいるくせ、どうやって情報を仕入れるのだろう。だけどかなり婉曲して伝わっているのは……辺境だからか。
「しばらく泊めてもらえることになっただけだよ。おかげでゆっくり地底を見られるって、言いたかったんだ」
「そうなの? よかったわね」
「君のおかげだ。ありがとう」
「……」
 橋姫はそっと目を逸らした。何か思うところがあるのか、照れているだけなのか。
 意外に扱いやすい性格かもしれない。
 それならと、鼠の頭脳が悪巧みを始めた。

「ありがとうついでに悪いのだけど、君を信用してもうひとつ頼みがあるんだ」
「何よ」
「今、私が地底にいること、地上の者には黙っていてほしい。礼をするから、頼まれてくれないか」
「はぁ」
 ナズーリンは、命蓮寺の者に居場所を知られたくなかった。もし知られれば、思惑を見透かされることになるかもしれない。


 問題は、白蓮が地底と交流を持とうと考えていること。放っておけば彼女たちは必ず地底に訪れる。これでは遅かれ早かれ、簡単に見つかってしまうだろう。
 地底の入口はこの洞窟だけである。ナズーリンが地底にいるならば、いつも橋にいるパルスィは必ずそれを知っている。逆にいえば、彼女さえ知らないと言い切ってしまえば、ナズーリンが地底にはいないと判断されるはずだ。
 狙いはそこにある。彼女たちにだけは、あの罪を知られる訳にいかない。そんなことがあっては、わざわざ地底へと落ちてきた意味が失われてしまう。

「訳ありなのね」
 少し考えて、パルスィは言った。さすが地底の門番というべきか、物分かりがよくて助かる。
「訳もなく、こんなことしないさ」
「はは。まあいいよ。お礼も要らない。私はあんたみたいな奴の味方だからね」
 せっかくの好意だったが、ここで貸しを作るのが何だか忍びない気がした。彼女とは対等の関係であったほうが、後々にいい気がする。
「恩に着る。でもせめて、何か返させてほしいよ。何でもい――――」
 言いかけたとき、ごほごほっと何度かの咳が出た。
「――――すまない、風邪かな」
「あらら。地底に入りたてだとよくやるわね。環境違うから。大通りの二丁目に薬師が住んでるよ、ヤブだけど。地霊殿のすぐ近く」
 お大事にね、と優しい言葉を貰った。

「ありがとう。それで……その、何か礼をさせてほしいよ。何でもする」
「そう? じゃ、耳触らせて」
「え」
 意外に心優しいのはいいのだが。

 むにゅっと、おもむろに両耳を鷲掴みにされる。「痛っ……」と悲鳴を上げると、パルスィはにやりと不気味に笑った。そのまま揉みしだくように耳を弄られ続けた。
「ふかふかだ。さとりに独占させるには勿体ないわね」
 聞き取りにくいが、恐らくそう言った。
「独占も何も……触らせたりしない」
「じゃあ私が一番ね。やったー」
 なぜか喜ばれた。
 悔しいことに自分から言った手前、抵抗がしづらい。しかし撫でる力が強引で、痛くて仕方ない。
「くそ、本当に可愛い耳ね! 千切ってやろうか」
「やめろっ」
「やめなーい。新入りは先輩の言うことを黙って聞きなさーい」
「痛い痛い痛い!」
 ぐりぐりとくんずほぐれつ。耳を引っ張られたり、裏返されたり、握られたり折り曲げられたり。鼠にとっては一番嫌なことだ。

 ひとしきり弄ばれた後、彼女は不意にナズーリンの頭を撫で出した。急に優しくされるから、却って警戒してしまった。
「あんたさあ」
 見上げると、パルスィは真面目な顔になっていた。
「ずっと、あそこにいる気なの?」
 と。
 敢えて事情を聞かないでいてくれる彼女だが、薄々何か感づいてはいるらしい。今時、地底の出口は開いているのに、好き好んでこんなところに来る者がいなければ、こんなところに鼠を追いやろうという変人もいはしない。

 ナズーリンは答えられなかった。
 帰る気なんて起きなかった。ここで永遠に暮らしたい気さえした。星と決して縁のない、ここがナズーリンにとっての聖域だ。それに被害者は、加害者の存在を忘れてしまえるようになることが、一番よいことである。命蓮寺の皆からは離れないといけない。
 なのに、少し迷っている心がある。自分は優柔不断だと思う。
「別にいいんだけどさ。地上に縁がある奴を住まわせると、私が怒られるのよね。さとりから」
「そう……なの?」
「やんわり」
「へえ」
「妖艶に」
「……ふむ」
「濃密に」
「……」
「絡まりながら」
「……」
 にやにやしながら言うのが不快だった。
「いや、後半嘘だけど。そんな怖い顔しないでよ」
 ふぅ、とため息を吐いて、ナズーリンは彼女の手を振り払う。
「別に。そんなつもり、ないよ」
「あらら。妬いちゃったかしら」
「……そうでは、ないけど」
 うっかり目を逸らすと、くすくすと笑い声がした。からかわれた格好が気に喰わなかった。

「最近いないタイプだね、あんた。"お姉ちゃん"が気に入るわけだわ」
「うん?」
「妬ましい妬ましい。その調子だと、さぞかし仲がよさそうね」
「どういう意味だい、それは?」
 パルスィは問いに答えなかった。

「貴方はさとりと一緒にいれば、きっと幸せ。それでいいなら、いいわ。……けどさ。地底と絡むのって結構、重いのよ。誰でも、って訳にいかないのよ」
 言いたいことだけ言って質問には答えないのだから、彼女も意地悪な妖怪である。
 いや、お互い様か。
「分かっているつもりさ」
「へぇ、そう?」
「もう地上に帰りたくない」
「……ふーん」

 彼女は真剣になって、何やら考え込んだ。長い指が、乱れたナズーリンの髪を手櫛で梳かした。
「だったら、いいわ。さとりの傍にいてあげて」
 ナズーリンにさとりを紹介したのも、色々な意図があったのかもしれない。さとりの傍にいることが、助けになるのだろうか。
「あの狭い屋敷の外じゃ、あいつは嫌われ者だからね」
 そうなのだろうか。地霊殿のなかでは、慕われているとまではいかなくとも、嫌われているようには見えなかったのに。どうしてだろう。
「善処するよ」
「約束なさいな」
「……?」
「あいつの、家族ごっこに付き合ってやること」
「なんだい、それは」
「言葉通りよ」
 優しく髪を梳きながら、パルスィは難しいことを言った。






  * * *






 地霊殿の二階にあるリビングで、さとりは顔を合わすなり頭を下げて謝った。
 ナズーリンは不機嫌だった。あれから橋姫に、身体がふにゃふにゃになるまで尻尾を触られたのもあるが(耳と言っていたのに!)、それより困ったのは空のことだ。そもそもあいつが約束を守らないのがいけない。しかも彼女は今さっきナズーリンのことをすっかり忘れて、下の階で午後のおやつを頬張りながら「おかえりー。どこ行ってたの?」なんてのたまう始末だ。もはや溜息しか出ない。

「頭に障害でもあるんじゃないのか、あれは」
 憤りというものは他人にぶつけたところで、却って己の惨めさが浮彫りになるだけである。分かっているはずなのだが。このときナズーリンは、少々気が急いていた。
 さとりは三つの目でじっとナズーリンを見てから、しゅんとしたように眉を下げた。
「記憶障害ですか。ふうん、そんな病気があるんですね」
「あ……。いや、その、そういうのとは違う、が……何というか」
「私のことまで忘れられたら、ちょっと悲しいですね」
 そう言うと、本当に悲しそうに両の目を伏せた。

 ナズーリンは、ようやく自分が八つ当たりをしていることに気がついた。さとりの前だというのに、つい悪いことを考えていた。わざわざ余計な気苦労を与えてどうするのか。
「……すまない」
「いいんですよ。思っちゃうのは仕方ないですからね」
 それでもさとりは優しかった。
 なんだか、彼女には謝ってばかりだ。
 嫌われたくない、気がするのだ。


 さとりがいつも遠慮がちな笑い方をするのは、よくこうして自分の気持ちを引っ込めてしまう性分から来ているのかもしれない。能力によって、目の前に対峙する人と、心が完全に同化してしまう。
 だがそれは裏を返せば、どれほど精密な分析でさえ到底分からない心の奥を、彼女は一瞬で理解できるということだ。心から反省すれば、その心を完璧に理解してくれるので、どうしても許す気になってしまうのだと思う。相手が悲しいときは全く一緒に悲しみ、腹立たしいときは全く一緒に怒る。楽しいときは全く一緒に笑い転げるのだろう。
 その心は純白の絹だった。彼女の同情に比べれば、ただ他人が傍にいるだけの、生半可な愛情など比べものにならないのだ。
 彼女の知性は本物だ。彼女の三つの目は真実のみを見る。彼女は都合のよい虚構の世界を頭のなかに描かない。美しい世界も汚い世界も直視して、ありのまま受け入れる。
 心を読むという力は、人に嫌われるべき罪深い力ではない。これは彼女にしかできない、恵まれた才能なのだ。それは、慈愛に満ちた彼女の心に、確かに表れている。

 ナズーリンは彼女のふとした微笑みを見たとき、そんなことに気がついた。
 傍にいてあげてと言った、パルスィを思い出し、そして苦慮した。こんな自分が、彼女の力になれと言うのだろうか。






  * * *







 夜。新たに用意してもらった部屋のベッドで、ナズーリンは夢を見ていた。


 夢のなかでナズーリンは寅丸星といた。だが、しがみつこうとすると、なぜか距離が離れていく。けして傍にいられなかった。ご主人様、ご主人様と叫びながら、ナズーリンは必死に星へと近づいた。けれども、いくら喚いても星は離れていき、やがて遠くで点となって消えた。
 夢のなかのナズーリンは悲しんだ。周りにある世界は途端に光を失って、ナズーリンだけを残して暗く塞いでゆく。彼女は悲しみのあまり、見えもしないどこかへ四肢を投げだし、切り裂こうとした。
 それすらできないことに気づいた。
 暗闇のなかに痛みだけが残った。



 涙を流しながら目を覚ます。ナズーリンは泣いていた。なぜ私は泣いているのだと自問した言葉は、誰もいない空中へと置き去りにされ、どこへ飛んで行くこともできず、やがて心のなかへと戻った。

 嘘。
 自分が嘘を吐いているせいだ。

 結局、辿り着いた先は自責だった。
 さとり妖怪の前では、封じ込めたはずの罪が浮き上がる。罪はどうやっても意識の片隅に居残り、読まれたくないと願うほど読まれてしまう。
 しかし、自分の口で開けっぴろげに吐露するよりは、いくらか救われているのかもしれない。さとりは何も言わないでいてくれるし、この罪深き身を受け容れようとしてくれる。それが嬉しかった。

 きっとあのとき、水蜜たちとともに、この地獄へ落とされていたほうが幸せだった。或いはそれ以前に、命蓮寺と関わらなければよかった。星や白蓮たちと出会ってから、ナズーリンは変わってしまった。彼女たちが優しすぎたのだ。真実を知らぬ優しさは、却って相手を傷つける。

 ナズーリンは毘沙門天の送った監視役である。対して星は実質的には毘沙門天の代理となっているが、形式的には偽者である。必ずしも毘沙門天に許された地位にいるわけではなかった。
 互いは元々牽制し合うものであり、反発し合うはずのものだった。それがどういうわけか一緒に暮らしている。居心地のよいはずがない。
 未だ彼女らが傍にいてくれるのは、ナズーリンが真実を黙って、或いは偽って暮らしているからに過ぎない。皆は傍にいることが幸福だと思っているのかもしれないが、ナズーリンにとってはそうではない。むしろ、それでは孤独と痛みを増幅するだけだった。
 もっと早く彼女たちを落胆させていれば、こんなことにはならなかっただろう。こんなにも罪を拡げ大きくすることもなかった。ナズーリンは優しさに甘えてしまった。嘘偽りから生じた優しさが心地よくて、壊すことを憚ってしまった。
 本来ならこんなに汚い鼠を、他人が愛するはずがない。それこそ、同じく汚れた地獄の者でもない限り。

 無意識のうちに、起き上がっていた。さとりに会いたかった。彼女に会って、早く安心したかった。
 気味の悪い焦燥が湧き起こって、心臓が高鳴っていた。二度寝をするには不安だった。




 部屋を出ると廊下は蝋燭ひとつ灯っておらず、ひんやりした空気が張り詰めていた。まだ真夜中らしい感じがする。陽の昇らない地底では、時の流れもよく分からないが。
 誰かが起きている気配はない。これでは、さとりも眠っていることだろう。ナズーリンは心細くなった。暗い廊下にたった独りでいると、ここがとても無気味に見えてくる。
 そうして、身体を強張らせたときだった。

「変なねずみ」
 聞き覚えのない声がした。肩が硬直する。おかしい、足音も気配もないのに。
 硬くなった身体をなんとか動かして辺りを見回すが、誰もいない。ナズーリンは訳も分からず、凍りついたように立ち尽くす。次に聞こえたのは、微かに遠ざかる靴音だった。
 それも、ほとんど一瞬であった。

 異変はそれっきりで、次第に静寂が戻ってくる。臆病なナズーリンは、しばらくその場で動けなかった。細長い暗闇に、幽かな声の幻聴がいつまでも響き続けた。





  * * *





 風邪のせいなのか何なのか知らないが、嫌な寒気がする。吹き抜けの下階に灯りが見えたので、ナズーリンは慌てて螺旋階段を駆け降りた。
 そこにいたのは仕事を終えたところの燐だった。ランタンを手にぶら下げて、大浴場へ向かおうとしているところだったらしい。乙女に対して悪いが、少し妙な臭いがする。一体どんな仕事をしてきたのか気になったが、わざわざ尋ねる気にはなれなかった。


「それはたぶん、こいし様だね」
 先程のことを話すと、彼女はあっけらかんとそう言った。
「小石?」
「そう。だあれの目にも止まらない憐れな妹様さ」
 そういえば、鼠の誰かが言っていた。さとりには溺愛する妹がいるのだと。
「見慣れない子がいるから、からかってみたってところじゃないですかねぇ。ぼっちだから構ってもらえるの嬉しいんすよ」
「……なんだ、そうだったのか。困ったお嬢さんだな」
「まったくだねえ」
 うんうんと実感を込めて頷く燐。思い当たるところがあるらしい。

「あの人、現れ方がいちいち心臓に悪いんすよね。嫌な汗掻いたでしょう。よかったら、お風呂どうですか」
 との誘いを急に受ける。何となく、相変わらず忙しない感じがする。
 地霊殿の地下には大浴場がある。白蓮が聞いたら喜んで飛び入ることだろう。ナズーリンは昨夜一度入ったが、実に見事なものだった。手入れの行き届いた室内は、古さを全く感じさせない。屋敷で一番綺麗な場所かもしれない。
「なぁに、とって食いやしないよ。食べ物には困ってないんでね」
 分かっていることをいちいち告げてくれるのが、燐の面倒なところだと思う。
 口数の多い猫は珍しい。ナズーリンが一思考する間に、彼女は三発言するかのようだ。おかげであまり会話になっていないのだが、それを気にする素振りは特にない。
 そんな調子が不安を吹き飛ばしてくれたから、ありがたいことではあるのだが。
「そうだね。ご一緒しようか」
 汗と一緒に、悪縁も水に流したい気分だった。ついでに体調不良も流してしまいたい。





 石製の広い湯船のなかに、たった二人並んで、燐の仕事について話してもらった。高い給料を貰っているからあまり文句は言えないが、それにしたって働き詰めでときどき嫌になる、らしい。
 聞けば聞くほど、さとりという人は奥が深い。さとりと燐は、どう見たってペットではなく契約関係にある。家政婦とか世話人というべきものに近い。しかし聞いてみると、それをわざわざペットという呼び方をするのには理由があるのだそうだ。

「それは……万が一金の切れ目があったとしても、縁の切れ目にゃーならんちゅうことっすよ。仕事は確かに契約だけどさ、あたいらは仕事するためだけにいるわけじゃないんだよね」
「というと、何のために?」
「そりゃあ……あー、素面じゃちょっとなぁ」
 燐の照れたはにかみ笑いが、記憶のなかの誰かと似ているような気がした。

 小耳に挟んだだけでも、地霊殿の身分関係は複雑だった。地底ならではの倫理観があるようだし、さとり自身が特殊な妖怪なので、一風変わった仕組みになっているようだ。
 燐が言うには、さとりはかつて旧地獄を管理するため、新しい地獄の十三仏から、莫大な財産をあの小さな一手に任されたそうだ。だがそのかなりの部分を、優秀なペットである燐に委任している(燐本人は「一部」と言っていたが……)。三者の間に、なぜそんな信頼関係が生まれたのか。

「まあその、つまり……その、愛着が湧いちゃったってことですよ。家があるってのは幸せだね」
 珍しく言葉に詰まった燐から出てきたのは、ほのぼのとしてしまいそうな言葉だった。
 彼女も、身寄りのなかったところを拾われたのだろうか。
「あと、さとり様の能力ね。ありゃあ妖怪覚の一族が、むかーし十三仏様から賜った力だそうでして」
「浄玻璃鏡?」
「よくご存じで」
 閻魔大王の前で嘘が通じないのは、彼らの持つ鏡が嘘を見破るからだ。さとりの能力とよく似ている。いや、ある意味同じというべきかもしれない。
「あたいらにはもう、さとり様の信頼を裏切ることが、そもそも不可能なのさ。住む家を頂いてしまった以上」
 なるほど、冥府の裁判と一緒である。裁判官を出し抜くこと自体が不可能なのだ。さとりの持つ鏡の前では、信頼を裏切る目論見自体が意味を持たないだろう。彼女にこの地位が与えられたのも頷ける。

「もしそれでも裏切ろうとするならば?」
「うーん? ……あーいや、そんなにおっかない話でもなくて、せいぜい住む場所がなくなるだけのことっすよ」
「ふむ」
 案外いい制度だと、ナズーリンは思う。利害と感情、どれも上手に利用している。
 心を読むさとりでないと、なかなかできない芸当だ。彼女にとっても、これほど住みやすい場所はなかなかあるまい。

「あと、泣かれます。さとり様に」
「それは心が痛むね」
 泣くのか。あの人が……。
 彼女の涙がどれほど美しいのかと思うと、後悔すると分かっていても泣かせてみたくなる。
「ん」
 ふと、ナズーリンは、なく、という言葉が記憶のどこかに引っかかった。
「ああそうだ。ところで燐、さとりが烏を生んだって、妙な話を聞いたんだけど……?」
「はぁ?」
 燐の反応はナズーリンが以前したそれと同じだった。
「空が言っていた」
「あぁ」
 彼女は呆れたように乾いた笑みをして、あいつは自分がさとり様の腹から生まれたと思ってるんですよ、と言った。
「卵から出てきたとき、初めて見た相手を親だと思い込む鳥って、よくいるでしょ」
「……」
 蓋を開けてみれば、くだらなかった。いくら自分が鳥だといっても、妖怪となって何百年も生きていればそのうち気がつきそうなものだ。
 空は地霊殿で生まれ地霊殿で育った箱入り娘だそうだ。燐より早くから住んでいる先輩なのだが、それゆえどうにも世間知らずであるらしい。妖怪の癖に人の襲い方も知らない。
 まぁ、おかげで半端なく家族意識が強いからいいんですけどね、とのことだった。

「さとり様は子供の扱いが苦手なんです。苦労してるみたいっすよ。こいし様のことだって、この間……」
 そこまで喋っておいて、燐は急に「いけね」と呟くと、手刀を切りながら慌ててどこかへ消えてしまった。
 そろそろ朝食を作る時間だったか。本当に忙しそうだ。
 関心しつつ、ナズーリンはもうしばらく朝風呂を楽しんだ。

 考えるのは、さとりのこと、そして星のことだった。
























 ナズーリンが消えた。
 星が困惑したことは言うまでもない。村紗水蜜は、彼女を励ますことに躍起になっていた。ここ最近の星が不安定になってきていることに、ようやく気がついたところだった。

「ナズーリンと離れるなんて、初めてです」
 星が長い沈黙を破って、ぽつりと呟いた。
 畳の上に座布団も敷かず、二人は並んで座っていた。今、命蓮寺にはこの二人しかいない。白蓮と一輪は人里に出向いているし、ぬえも日課のように放蕩している。
「初めてだって? 出会って何百年も経って」
「ええ。ずっと一緒に暮らしていましたから」
 凄いなあと、水蜜は思う。彼女にも付き合いの長い友人はいる。だが何百年も見ていると、好き嫌いなんてどうでもよくなってきて、傍にいようがいまいがお構いなしに思えてくる。というのに、星は未だに初心を忘れていないらしい。
 水蜜には真似できそうもない。
「そっか。なら四、五日も開けられりゃ不安だよね」
 星は変に間を置いてから、「そうですね」と拍の遅れた返事をした。
 ナズーリンはよく幻想郷どこかへふらっと出かけるが、必ず夕刻までに帰ってきていた。急に寺を出て五日も帰らないなんて、誰もが想像していなかった。不安に思って当然である。

 相手は賢しい妖怪だから、その程度放っておいてもぴんぴんしているだろうが。星が心配なのは、それよりも自分のことらしい。
 監督のいない星は心配だ。普段こそ優秀のくせ、忘れた頃時々する致命的なうっかりが、本当に致命的なのだ。
 例えばこんな逸話がある。彼女は普段から毘沙門天の宝塔を傍に置いている。始め「私、あれがないと死んじゃうんですよ」などとへらへらのたまっていた。ところが、白蓮を助け出す大変な時期になって、うっかりそれをなくしてしまったことがあった。なくせば自分の命さえ危ういと豪語していた大切なものをうっかり、だ。
 そのときは、彼女は水蜜たちに黙って、ナズーリンにこっそり捜索を依頼していたらしい。驚いたことに宝塔が見つけ出されるまで、星は本当に死にかけていたのだった。一人で勝手に、である。
 水蜜たちはこのことを、白蓮を助けた後に知らされた。めでたいはずの席で、あんなに長い沈黙が起こることなんてそうそうないだろう。バタバタしていた時期とはいえ、いくらなんでもそんなに大事なものをなぜなくすのか、理解に苦しむ。

 そういう奴らしい。
 かつて命蓮寺が幻想郷の外にあった頃、星と親しかったのはナズーリンと白蓮ぐらいのもので、長らく地底にいた水蜜たちは未だ星のことを多く知らない。面と向かってまともに声をかけ合ったのは、白蓮救出のときになってからだった。
 水蜜は、星の昔話を聞いてみたいと思っていた。彼女自身のこと、地上の出来事について。きっと水蜜の知らないことがまだまだたくさんある。

 などと思っていた矢先の、この事態だった。
 水蜜は繊細な言葉遣いというものが一番苦手である。落ち込んだ相手にどう振舞っていいのか分からない。何せ以前、親友のパルスィと古明地こいしの間に割り込んで、よさそうな仲を派手にぶち壊してしまったことがあるくらいに無神経なのだ。人里でもらったバレンタインチョコとかいうものを、みんなで食べようと言ってしまったこともある。酔い潰れそうな黒谷ヤマメに、一生懸命コーヒーを飲ませて介抱しようとしてしまったり。こいしのハート形の弾幕を尻と言ってしまったり。体調を悪くしたぬえに開口一番「初潮?」と聞いてしまい殴られたり……例を挙げればきりがない。
 この無神経さを多少ましにしようというのが最近の目標だった。無神経であっても、彼女はいつだって懸命である。いつも星を補佐するナズーリンの代わりにだってなりたい。
 いや、なる。今だけでも、ならなくてはいけない。今ナズーリンはいないのだ。

「大丈夫だよ。私もいるし。みんなもいるしさ。大船に乗ったつもりで安心しているといい」
 星は目を合わせなかったが、黙ってゆっくり頷いた。






  * * *






 水蜜が白蓮に拾われて間もない頃、漠然とこの寅丸星が怖かったことを覚えている。
 寅はいつも寺の中心に立っていた。強く、大きかった。白蓮が寺の母ならば、かの人は父だった。ただ、面と向かって話をしたことは一度もなかった。いつも位の高い僧と話しては顔をしかめる彼女に、下女の水蜜が声をかけることはなかった。
 それゆえ再会した当初は驚いた。時は人を変えるというが、この場合は、ちょっと気持ち悪かった。彼女は驚くほど無邪気だったのだ。
 尤も、変わったのはお互い様ではあるのだが……星は知らないだろうが、水蜜といえど、昔は内気な娘だったこともある。

 妖怪と人間との間を取り持とうとした、人間・聖白蓮の憐れな結末は、寺の様子を一変させてしまった。
 人間としての彼女は、あのとき一度死んだといえる。魔界の力に触れすぎた人間は妖怪になるという。一年と半年前、魔界からの感動的な帰還を果たした白蓮だったが、その美しい身体の内側は、もはや人間と呼ぶには相応しくないであろう魔力の塊となっていた。


 今、命蓮寺の全員が昔のように戻りたいと願っても、それは難しいのかもしれない。
 ナズーリンが突然どこかに消えてしまったのも、今の環境がまだ不安定なことに、何か思うところがあるのかもしれない。寺も、寺を取り巻く周囲の視線も、寺のなかにいる者も、全て昔と違っている。そろそろ、今までのように何となく一緒にいるだけではいけなくなってきたように思う。

「星ってさ、変わったよね」
 ちゃぶ台に緑茶を置きながら、水蜜は直球を投げかけた。思い切ってというよりは、こうする以外に方法を知らないだけだった。
「変わりましたか」
「変わったね」
「変わりましたか……」
 よく分からない鸚鵡返しを繰り返した。星はそれっきり考え込むように黙ってしまった。意味は、たぶん通じているように思った。

「でも考えてるときの顔は、昔と同じだ」
 水蜜がそう言ってやると、星は水蜜を横目で一瞥した。これにどういう意味があるのか水蜜には分からないが、この一瞬だけ昔と同じ威圧感がして、少し怖くなった。あのときと同じ人物なのだと再確認できる。
「私はそこまで変わってませんよ。昔、貴方がいた頃は、よくないことが重なっていただけで」
「そう?」
「ムラサ、忘れてしまったのですか?」
「そうじゃないけど……さ。今だって同じでしょ、悪いことが起こってるのは」
 星は、怒気を孕んだ顔をぐいと近づけた。そして言い放った。

「ナズーリンなら、そういう不躾なことを言いません。私の傍にただ黙っているのです。いつも。ムラサ、あまり余計なことをすると、殺しますよ」






  * * *






 星はその晩、目に涙を浮かべながら、早く床に就いた。どうしたのかしらと首を傾げる白蓮に、水蜜は「よく分かりません」と答えた。本当によく分からないのだから仕方がなかった。
 かつての陰を見せぬ可愛らしい悩みを仄めかせたかと思えば、次は鬼気迫る迫力を押しだしたり、子供のように泣いて不貞寝したりする。変な奴だ。
「ナズーリンがいないとあんなになっちゃうのね、あの人は……」
 星の顔へ悪戯描きしようとするぬえを取り押さえながら、一輪が言った。白蓮が何も言わずに、心配そうな顔で頷くと、彼女は水蜜に向かってこう言った。
「気の毒だわ。ねえ、みつ。ぬえでもいいけど、明日はナズーリンを探して引っ張ってこない?」
「やだー」
 腕のなかのぬえが真っ先に拒絶する。一輪もそれは分かっていたようで、最初から期待はしていない様子だ。
「ああそう」
「私行くよ」
 水蜜は片手を上げて応えた。やはり、突然失踪したというのは気にかかる。

 頭のなかに、依存という言葉が浮かんでいた。
 或いは仕方ないのかもしれない。星とナズーリンが、今までどんな暮らしをしてきたのか水蜜は知らないし、その生き方を今更曲げろと言うことはできない。だが、やはり、依存するように生きていていいのかとも考える。一応は毘沙門天代理という立場なのだし、できればもう少し凛としていてほしい。

 昔のように、と言うには時が経ちすぎている。しかしだからこそ、ナズーリンが帰ってきたら、皆でしっかり話し合わねばなるまい。
 これからのことについて。
 せっかく苦労して再会したのだから、少しでも長く傍にいられるように。





  * * *






 以前、水蜜はナズーリンにこう問われた。「地底って、どんなところなんだい?」と。
 地上に出てからというもの色んな人からよく聞かれる、当たり障りのない質問だ。あんまり普通に聞くものだから、そのときは特に違和感もなく答えてやった記憶があるのだが、少し経ってから考えてみると不思議に思えた。
 確かに水蜜は地底暮らしが長く、知っていることは色々とあるが、ナズーリンがなぜ地底のことを尋ねたのかが全く分からない。加えて、博識で口数少ないナズーリンからまともに質問を受けたのは、たぶんこの一度きりだ。さらに言えば、同じく地底に暮らしていたことがあり、注意深くて話も分かりやすい一輪でなくこの水蜜に尋ねたのも、何か意味があったように思える。

 今時、地底のことなんて行けば分かる。ちゃんと帰ってこられる。地底はじめじめしてて、住んでる奴もじめじめしてるよ、なんて程度で済ませてしまう水蜜に聞くより、余程よいだろうに。


 いつもより早く朝食を食べ終えると、水蜜と一輪はナズーリンを探すために、早速寺を出た。
「イチ、別行動しましょ」
「早くもさぼり?」
「ち、違いますー。ちょっとね、当てがあるの」
 一輪たちには地上を放浪させて、水蜜は一人で地底へと行くつもりだった。もしあのとき、ナズーリンが敢えて一輪を避けていたのだとしたら、一緒に地底へ行くのは問題があるのかもしれない。ここは気が利くところを見せておかねばなるまい。
「別にいいけど」
 作戦はすんなり成功した。が、
「お土産買ってくるねー!」
「要らん」
 と余計なことを口走り、お土産が売っている場所だということをばらしてしまった。それに気づいたのは、地底の入口をくぐった辺りでのことだった。
 しかも財布を忘れてきていたので、お土産は買えない。






  * * *






 人はよく、他人が信用に足るかを成果や業績から判断するが、それは倒錯だ。人間も妖怪も、神も、悪魔でさえ、他人に信頼されることで力を持つ。言わば、信用されることで成果を生むのが真理なのだ。白蓮が水蜜に教えてくれたことだ。
 だから星もナズーリンも信用しなくてはならない。そこに下地や根拠はあまりないのだが、そんなことは問題ではない。とりあえず信じても罰は当たらないはずだ。ナズーリンは何かと食えない奴で、碌に喋りもしないので何を考えているかさっぱり分からないのだが、それも問題にしない。きっと何か事情があるのだ。

 とか何とか自分に言い聞かせながら、水蜜は足場の悪い洞窟を歩いていた。
 水蜜にとって、これはまだ理想でしかないと思う。主張するだけなら簡単だが、実行に移すのはなかなか難しい。
 結局、ナズーリンに対して半信半疑から抜け出せずにいた。もし地底に興味があったのだとしても、黙って出ていく理由が分からない。何か悪いことを考えているのではなかろうか。頭のいい一輪を避けて尋ねた辺りが怪しく、信じたくても信じ切れない。

 まだ彼女が地底にいると決まったわけではない。だが、もしそうなら、全力で引張り出すことは已むを得まい。命蓮寺は温泉のために、これから地底と交渉しなければならないのだ。余計なことをされては寺の沽券に関わる。


 水橋パルスィは、いつもの仕事場にいた。彼女が橋と呼ぶ、旧都への入口だ。
「おっすーパルスィ。今日も賽銭箱は空なの?」
 声をかけたが、彼女は表情も変えなかった。
 一応、彼女は橋の守り神なので、橋の傍らに小さな社が置かれている。そこには手のひら大くらいの賽銭箱があるがお金が入っている様子はなく、今日も申し訳なさそうにくたびれているだけだった。哀愁をそそる姿である。
「会うなり酷いね、毎度のことながら。たまには通行料出しなさいよ」
「唇で」
「要らない金よこせ。私は茶屋のだんごが食いたいんだ」
 切実だった。
 彼女は、地底に住んでいた頃からの親友だ。認めたがらないだろうが腹を割って話せる仲だから、何か知っていればきっと話してくれると思った。
「ねーねー、うちの鼠知らない?」
「仲睦まじく隠れんぼか」
 嫉妬心さえ煽らなければ。

 水蜜はどこまでも直球投手だった。パルスィが一気にむっとしたのでようやく焦ったが、時既に遅し。
「き、キスするから教えて」
「要らない」
「おねがいぱるたん」
「うるさい」
 こうなるとパルスィは意固地になって、まともに話も聞いてくれなくなる。
 普通ならばここで諦めて帰るなりしないと、さらに怒り出し殴られるのが常である。強引に通ろうとすれば呪われるかもしれない。

 だが、水蜜は彼女の弱点を知っていた。
「宇治茶葉まんじゅうおごる」
「……っ」
 その名前を出されると心が揺らぐようだった。
 彼女はかなりの和菓子好きだ。宇治茶葉まんじゅうは地底発の大ヒット商品である、食い付かないはずはなかった。あとひと押しだ。
「あんみつ付き」
 そのとき、確かにパルスィの口元は吊り上がった。
「ふふん。その意気やよし。知らないが、お前の態度は気に入った」
「知らないのかよ!」

 こんな感じの問答は、最早二人の間で恒例行事と化している茶番劇だった。
 ちなみに、宇治茶葉まんじゅうとは地底の高級な和菓子で、パルスィが雀の涙のような収入を掻き集めてでも手に入れたがる逸品だ。掌に余る程度の大きさであるそのまんじゅうは、その名の通り茶葉がふんだんに使われた緑色の薄皮が、薄いながらも存在感を醸し出し、ぎっしり詰まった餡の風味と程よく共存し云々かんぬんということらしい。
 かつて力説されたことがあるが水蜜にはよく分からなかった。
 間違いないのは、素直に通行料でも払ったほうが安くて早かったということだ。
 それ以前に、番人であるパルスィが知らないということは、ナズーリンが地底にいる可能性はほとんどありえなかった。ならば橋を通る必要もない。
 この出費は結局、パルスィの腹が膨れるだけの意味しかなかった。
「ぐむむ、一本取られた」
「あら。ほんとにくれるの? やったー楽しみ」
 そう言うパルスィは、見たこともないほど喜んでいた。何だか腑に落ちなかったが、約束してしまったものは仕方ない。彼女は約束をとても大事にする。すっぽかすと大いに泣かれるので気をつけねばならない。

「ちぇ、分かったよ。今お金ないから、明日また来る」
「わーい。今ならキスしてもいいや」
「誰がするか、ちくしょう」
 両手を挙げて無邪気に喜ぶパルスィを生温かい目で見届けつつ、水蜜はやれやれと思いながら地底を後にした。いつもこのぐらい愛嬌があれば、こんなに楽なことはないのだが。
 自分に都合のいいときばかり可愛いのだから、意外と打算的な奴だと思った。





  * * *






 捜索の結果は芳しくなく、夕方、水蜜たちは帰路に就いた。
 思い起こせば、ナズーリンはいつだって独りだった。この命蓮寺においてでさえ、すぐ独りになりたがっていた。
 どこへ行くかくらい、教えてくれたっていいだろうに。
 星にあれだけ信頼されていることを知らないから、突然置き去りにして出ていくことができるのだ。

「ごめん、星、今日は見つけられなかった」
 星は畳の上に座りこんだまま、虚ろな目を向けた。
「……見つかるはずがないんです。ナズーリンは、そういう子です。敵に回すと厄介ですよ」
 ナズーリンのすばしっこさが、こういうところで表れる。その才能があったからこそ、けっして力の強くない彼女が毘沙門天の使いとして格を上げてきた。
「敵にって……それじゃまるで、私らが悪者みたいじゃん」
「ある意味、悪者なのですよ」
 水蜜は納得がいかずに首を捻った。星は久しぶりに少し微笑んだが、これ以上言わなかった。
「これで分かったでしょう。ナズーリンのことは、もういいですから」
 何か心当たりがあるように星は言った。水蜜はもっと問い詰めようかと思ったが、今の星にそれは酷だろうから、やらなかった。

「それから……昨日は言いすぎました。すみませんでした。急のことで、気が動転していたのかもしれません」
 ふと、星の視線が水蜜から離れて、畳の上の空間辺りに向けられた。やけに落ちついていた。
「いいって、そんなこと」
 だが水蜜は気にしなかった。星の隣にどっと座って、彼女の肩を叩くように抱いた。ナズーリンが今どうであれ、星が元気になってくれるならば、とりあえずそれでいいと思った。
「ナズーリンの帰り、一緒に待とっか」
 水蜜はまたナズーリンを探すつもりだった。だが、もう探さなくていいと言う星に気を使い、敢えてそう言った。
 星が頷くのを認めると、なぜだか突然眠くなったのだった。水蜜はそのまま星の肩で、四半刻ほどまどろんだ。
 気が付いたときには、障子の陰で一輪とぬえがニヤニヤ笑っていた。







  * * *








 水蜜とパルスィが初めに出会ってから何百年経っただろう。水蜜が地底に落とされてからの付き合いだから、もう千年近くになる。
 旧地獄街道の喫茶店で、二人向かい合って和菓子を食べるのは、これで何度目になるだろうか。地底に閉じ込められてずっと落ち込んでいた水蜜を、パルスィがここまで引っ張ってきたのが初めだった。彼女から明確な誘いがあったのは、長い付き合いのなかであの一度きりだ。あとは全部、水蜜から誘うか、成り行きでそうなったかのどちらかだ。
 これをデートと呼称してもいいだろうか。


 パルスィと会うときは大抵、二人きりである。そうでないと機嫌が悪い。橋姫だからなのか、単に大人数が苦手な性格だからなのかは分からない。
 本当はデートなどしている場合ではないのだが、いくら水蜜でもさすがにそんなふうには言えない。きっと彼女はナズーリンに嫉妬して、「そんなに鼠が好きなら軒下で暮らしなさいよ!」などと怒るに違いないから。
 この嫉妬が好意の裏返しだと考えれば、彼女の膨れ面もあながち悪い気もしてこないが……。
「自惚れすぎかな」
 期待させるのが、狡いと思う。
「うん?」
 思わず声に出してしまったらしく、はっとする。パルスィは草だんごを頬張りながら水蜜を見ていた。
「何でもない」
「そう」
 今回もまた、彼女は深入りしなかった。

 パルスィはあまり多くのことに興味を示さない。和菓子以外には何も興味がないのではないかと思うほどだ。水蜜が何か話そうとすれば何となく聞いてはくれるが、彼女から水蜜に何か尋ねることはまずない。自分のことを積極的に喋ることもない。そんな彼女が自分に好意を持っていると思うのは、やはり勘違いだろうか。

 と、同じことを過去に何度思ったか計り知れないのだった。
 こんな状態がずっと続いている。


「こいしちゃんとはどう?」
 水蜜は、パルスィと仲のいい妖怪の名前を出してみた。よく橋で、こいしが一方的にぴったりくっついているのを見かけていた。
「んぐっ―――」
 パルスィはなぜかだんごを喉に詰まらせた。
「―――何で今、こいしちゃんなのよ」
 苦しそうにお茶を流し込んでからそう言った。
「何でって言われても。喧嘩してないかなーと思って?」
「しないよ、喧嘩なんか」
 あんたが変なことをしなければさ、と言わんばかりである。色々と迷惑をかけた過去のことを思い出す。毎度毎度、つい余計なお節介をしてしまうのも水蜜の悪い癖だった。

 パルスィはとんとん胸の上あたりを叩いて、喉のつかえを取った。何だかよく分からないが拙いことを聞いてしまっただろうか。水蜜はそう思ったが、しばらくすると彼女はぽつりと話した。
「あの後、さとりが心配そうに謝ってきてね」
 あの後というのは、以前パルスィとこいしが喧嘩した後のことだ。水蜜が余計なことを言ったせいで、こいしにあらぬ誤解を与えたのだった。
「『あの子をどうか嫌いにならないでくださいね』って、平謝り」
「謝るんだ、あの人」
 少し、意外だった。
「話してみりゃ案外謙虚だよ、あの人。ま、あのときは死ぬほど妹が心配だったみたいだから、余計にそうだったんだろうけど」
 さとりは寡黙であまり他人と交流せず、話すことといえば事務的なことばかり、といったイメージがあるが、それはきっと水蜜の勝手な想像なのだろう。パルスィが言うには、妹思いのいいお姉さんであるらしいから。
「妹思いというか、重度のシスコンだけどね」
「そ、そうなの」
「どうせ両思いなんだからさ、私んとこに痴話喧嘩の報告しに来ないでほしいわ」
「両思いなんだ……」
 何やら衝撃の事実を知ってしまった気がするが、なるべく軽く流しておくことにした。
「毎週毎週、火曜日と土曜日に交替で現れんの」
「あはは。それ、もう習慣と化してるじゃん」
「迷惑な話だわよ」
 そう言う割に嬉しそうな顔をしていた。
「いいな、仲いいんだ」
「ん」
 水蜜は素直な感想を言っただけだったが、パルスィは恥ずかしそうに目を逸らした。
 彼女は一見ぶっきらぼうでも、その実とても親切な妖怪だ。心根がいい人だから地霊殿の姉妹も懐くのだと、水蜜は一人で納得する。
 かつて水蜜が地底に落とされたときも、彼女はぶつくさ言いながらも懸命に介抱してくれた。門番の仕事だからとは言っていたが、怪我の手当てだけでなく寝床を貸してくれたり食事を作ってくれたり服も買ってくれたり酒に付き合ってくれたり仕事を探してくれたり船の修理を手伝ってくれたり一緒に飛倉の破片を探してくれたりするのが、全て門番の仕事とは思えない。

 などと考えながら、ニヤニヤしているうちに会話が途切れていた。せっかく話が弾みかけていたのにもったいない。これも水蜜の悪い癖である。
 何とはなしにお茶をすすると二人同時だった。さてどうしようか。またナズーリンのことを尋ねるのも気が引けるが、水蜜はずっとナズーリン探しに明け暮れていたからそれ以外の話題があまりない。
 ちょっと困っていると、珍しくパルスィのほうから話題を振ってきた。
「この間、あんたんとこの聖が地底に来たよ」
「ああ、そうみたいだね。何か言ってた?」
 水蜜が尋ねるとパルスィの眉がひそめられた。
「言ってたも何も、鬼たち集めてありがたーいお説教を聞かせてた」
「そうなんだ」
 さすが聖は物怖じしないなぁなんて思っていると、パルスィは不機嫌な表情になった。
「弟子が弟子なら師も師だ」
「うん?」
「似てたわ、あんたと」
「聖が? ほんとに?」
 パルスィにそう言ってもらえると何だか嬉しかった。彼女は呆れ顔だったが、水蜜はそれに気づいてすらいない。
「思い込みが激しいところと、行動力だけ一人前なところがね。一応釘を刺しておくけど、よく分かりもしないで地底に手を出すと、どうなるか分からないよ」
「聖に限って、大丈夫だよ」
「そいつもだけどさあ。それより私が気になってるのは、この間のネ……、ネギ買い忘れた」
「ねぎ?」
 すごく唐突な、ネギだった。
 パルスィは口上手ではないが、いきなり訳の分からないことを言い出すことは、今までなかったように思うのだが。何やら慌てて口を押さえている。
 妙な感じだったが、彼女にとってはネギが大事なのだろうと無理矢理納得しておく。
「買ってあげようか? ネギ」
「……贈り物なら、もう少しそれらしいものにして」
「指輪とか?」
「あー」
「考えとくね」
「考えなくていいけど」
 自分が地底にいた頃は、誰よりパルスィと顔を合わせていた自信があるのだ。いつの間にか古明地姉妹にその立場を奪われそうになっていて、水蜜は少し嫉妬してしまいそうだった。それでこんなことを言い出していた。
「給料の三ヶ月分だね」
「いや、要らない」
 がくっ。そんな音が本当に聞こえる気がした。一蹴である。
 冷たくなるときにはいきなり冷たくなるのが彼女だった。そのくせ、俯く水蜜を見てくすくすと笑っているのだから本当に分からない。
 けれども水蜜は全然、悪い気がしてこない。むしろ、彼女のそんなところが可愛いとさえ思った。

 短い時間だったが、悪いことを忘れられた。























 広い卓に向ってさとりと向かい合う。気まぐれに開かれる茶会なのだと誘われ、ナズーリンは彼女と二人きり紅茶の香りを楽しんでいた。
 さとりとの会話は静かだった。柱時計の振り子の音すら、うるさく感じてしまう。

「地霊殿は、どうですか」
 敬愛すべき彼女はそう言った。
「そうだね……」
 しばらく地霊殿で過ごしてみて、分かったことがあった。
 ペットを飼うということは大きな責任が伴うことだ。ナズーリンにも幾らか手下の鼠を連れている。彼らの命を一挙に背負うのは、なかなか骨の折れる仕事だ。増えたり減ったり、忙しい。
 さとりのたくさんの命を預かっている手は、実際に反してとても大きく見える。彼女になら命を預けてしまってもいいと、皆が思っている。
 それに、ここは罪深き地底だ。ならば、自分であっても罪を忘れて暮らせるだろうかと、考えてしまった。自分が彼女の傍で、地霊殿の歯車になって――――。

「素敵な屋敷だと、思う」
「ありがとうございます」
 皮肉なく素直にそう答えた。

 白蓮とさとりを比べてしまう。白蓮は無理をしすぎるのだ。無理をしてでも傍にいようとする。時にはそれがいい場合も、あるのだろうが。
 さとりとは正反対だ。
 空になったティーカップに、再び紅茶が注がれた。ナズーリンに紅茶のことはよく分からないのだが、少し酸味のある香りがする、あまり飲んだことのないものであることは分かった。
「ナズーリン」
 ポットを置いて、さとりは囁く。
「私のなかに下心があったことを、お詫びしないといけません」
「下心?」
 胸に閊える言葉だが、ナズーリンにその心当たりはなかった。下心の多いのは、どちらか比べるまでもなく自分のはずなのに。
「もう気づいているかと思ったんですが」
「……? いや」
「私、貴方が欲しいんです」
 時計の音が止まった。


「その心を一目見たそのときから。ナズーリン、貴方をこのまま帰したくありません。私の傍にいてくれませんか」
 仰け反りそうなほど、衝撃が胸を貫いた。
「貴方の罪を、私が受け容れますから」
 胸があっという間に熱くなる。
 やめて。
 そんな言葉が聞きたかったわけじゃない。
 だが、何も言えなかった。彼女の言葉を受け入れた先にある、優しい抱擁を拒否できるだけの自信は、既に失われていた。
「貴方に抱えきれない責を、私が背負いたいの。だから――――」
 これが、こうなるのが怖かったのに。あの人を裏切る決意を固めてくれるこの言葉が、一番欲しくて、一番欲しくなかった。
 罪深いナズーリンが星の元にいてよいのか。ずっとそれを考えていた。愛すべき覚の妖怪よ、それに答を与えてしまうつもりなのか。

 頭の中で絡まっていた悩みの糸が、解ける前に鋏で千切られたような思いがした。ナズーリンは、自分が地底に落とされるべき罪人であることを、ほとんどこの一瞬のうちに受け容れてしまった。ナズーリンが地底に、彼女に惹かれていったのは、きっとこの手痛い答を待っていたからなのだ。彼女の高いプライドと脆い虚栄を打ち壊して、罪人が罪人として受け容れられるのを待っていたのだ。
 きっと、さとりには全部お見通しなのだ。だから、いつも受身の彼女が珍しくこんなことを言う。
 限界だった。

 好きだ。

 そんな言葉が浮かぶのを、ぎりぎりまで掻き消そうとした。だけど、間に合わない。
 苦悩するナズーリンを見つめて、さとりは憐れむような、慈しむような目線を投げかけた。ナズーリンはもう、そんな目線が不快ではなかった。
 これからナズーリンは、星を裏切る。
 もっと見下してくれたって、いいぐらいだ。

「分かりました、ご主人様」
 これが裏切りの誓いだった。最後となるべき罪を被る。これでもう、後戻りはできなくなった。
「ありがとう。畏まらなくて結構ですよ」
「初めくらいは、お許しを。……ただ」
 今すぐに、という訳にいかない気がした。あまりにも急なことだから、予定を一から組み直さなければならない。
「今一度だけ、猶予をいただきたいのです」
 それだけであればよかったのだが……ナズーリンには、星のことがどうしても気がかりだった。許されるならば一度地上に戻って、最後に彼女の言葉を一言聞きたいと思った。
「猶予ねー。まるで刑罰のように言うんですね。ここは貴方の家なんですから、自由にしていいんですよ」
 救われた気分になった。この身に居場所ができたことが、何より嬉しかった。さとりも微笑んでいる。

「必ず戻って参ります。このナズーリンの智、これからは貴方の為だけに振るいます」
 そう固く宣言して、立ち上がった。



 ところが。
「あら、心にもないことを言うのは減点ですよ」
 さとりはいきなり笑顔を殺して見せた。たった一言が、安心しかけた心を一気に張りつめさせた。
「え……」
 心にもないことなんて、言った覚えはなかった。ナズーリンは焦った。さとりに嫌われたくないという心に、みるみるうち支配されていった。
「それから、紅茶を残していくのもよくないです。地底でお茶は貴重なんですよ」
「す、すみません」
 格好がつかない。あたふたと再び椅子へかけ、冷めた紅茶をぐっと流し込んだ。
 焦燥が心を蝕んでいった。怖い、悲しい、落ち着きたい、このままではどんどんぼろが出そうだ。早くこの場を逃げ出さなければ。どうやって切り抜けるか、相手は心を読む妖怪なのに。そんなふうに、ようやく頭脳が再び回り出したところで、さとりは。
「なんちゃってー」
 思い切り首をかしげて笑った。
「冗談ですよ。ちょっと意地悪をしてみたくなったんです」
「そんな」
 頭の回転に、思い切りブレーキがかかった。その心を見て、さとりはくすくすと悪戯に笑う。
 ナズーリンはぼっと顔が熱くなった。こんなことで取り乱してしまうなんて。
「失礼しました。貴方のような人は、ついからかいたくなっちゃいます」
 さとりはやはり少々意地が悪いところがあるらしい。口元に手を当てて、しばらく笑い続けた。

 それから彼女は、おもむろに冗談めかした笑みをやめ、次のように言った。
「けど、貴方が心にないことを言ったのは本当です。自分で気づいていないようですけどね。私には、まだ前のご主人様が恋しいように見えるの」
「決別するために行くのです」
「ふーん、ほんとう? そうしなくてはいけないと、思ってるだけじゃなくて?」
 彼女はときどき手厳しい。
「しなくてはいけません。私は、あの人に愛される資格がないのです。あの人がそれを知らないから、これから知らせに行くのです」
「そうですか。……分かりました」
 それ以上は何も言われなかった。





  * * *






「帰ったら、きっと後悔するよ」
 洞窟の出入口。ナズーリンの背後から、パルスィは言った。
 歩みが止まる。彼女の表情がやけに真剣で、ナズーリンは自然と手に力が入った。あのことを言っているのだということはすぐに分かった。
「誰から聞いた?」
「ふっふーん。さとりではないよ」
 そこで少しだけ笑った彼女の緑眼を、まっすぐに見つめた。それは瞬きひとつせずに、視線を合わせてくる。
 さとり以外に話していないのに、彼女でなかったら誰だというのだろう。だが、パルスィが嘘を吐いている様子ではなかった。嫌らしいことを言う割に、視線はまっすぐ突き刺さってくる。
 誰かが盗み聞きでもしていたのだろうか。
「……決別したいんだ」
 ナズーリンは答えた。
「本当に?」
 さとりと同じ問いを重ねられると、少し迷ってしまった。
 地上へ向き直して、数歩進んでみた。目の前には崖のように急な階段。地底と地上を結ぶ橋。この先に、輝かしい地上がある。
 明るい光がナズーリンの眼球を貫かんと、矢雨の如く降り注いでくる。この光は罪の大きさに応じて強く降り注ぎ、罪人の心を傷つけるのである。これが地底からの脱出を阻む、結界の正体かもしれない。
「私はあの人を裏切ったんだ。何年も前から裏切り続けてきた。あの人に真実を告げるのが、せめてもの懺悔だと思う」
「ああそう」
 興味が失せたように、パルスィの声は少し低めに投げ返された。

「地上に物を置きに行くのは感心しない。誰かさんみたいに、やさぐれる羽目になるかもね」
 彼女は小声で呟いたが、ナズーリンの大きな耳は全て聞き取っていた。
 ナズーリンはきちんと別れを告げて、跡を濁さず地上から消えたいだけなのに。それが"物を置きに行く"ことだとは、この橋姫はどういうつもりで言ったのだろう。






  * * *







 数日ぶりの命蓮寺。
 数日前まで我が家だった場所だ。
 随分久しぶりのように感じるが、実際はたった数日なのだ。それだけで何かが大きく変わるなんてことはないのだが、ナズーリンは拍子抜けしたような感じを覚えた。
 表ではいつものようにぬえと水蜜が蹴鞠をしていて、笑顔でおかえりと声をかけられた。裏手ではいつものように一輪が洗濯物を干していた。ここでもおかえりと言われた。本堂ではいつものように聖が毘沙門天と亡き弟の像を拝んでいる。邪魔をしないようそっと部屋を出た。さて、居間には……誰もいない。書斎、誰もいない。寝室、いない。船長室、浴室、厠、竈のなか。もちろんいない。
 早く会って、早く戻りたい。ここはもう帰る家ではない。彼女たちはもう家族ではない。

「……、星は」
「うん? さあね? 買い出しじゃないの。今日の当番あいつだし」
 ご主人様は、と出そうになるのをぐっと堪えながら、表で蹴鞠をしている二人に投げかけてみるが、はっきりした答えが返ってこない。ナズーリンは突然不安になった。星に会えないだけで、こうも気持ちが揺らぐとは。依存症の兆候があるのかもしれない。

 いや。
 あの人に、私が?
 そう考える途端、急に鼓動が速くなった。
 だめだ。そんなことを考えてはいけない。ナズーリンは星とは相容れない、罪深き存在なのだ。

「変わったこともあるものだ。探してくるよ」
 こういうとき思わず平静の振りをするのが、いつものやり方だった。
「帰ってきたばっかなのに? いいじゃんほっとけば」
 リフティング(というのだっただろうか)をしながら、薄情なことを言うのはぬえだった。あのさとりと同郷育ちとはとても思えない。
「そうはいかないよ。あれが一人で出歩くと、里で死者が出るからね」
「あははは、確かに!」
「どんなドジだよそれ……」
 ぬえと水蜜の対照的な反応を尻目に、ナズーリンはもう歩きだしていた。これ以上時間を取られては、焦燥に駆られてぼろを出しそうだった。それだけはしてはならない。
 星に会うためだけに戻ってきたのだ。今更寺でのんびりしようなどと思わない。早くこの場を去りたい。

 なのに、水蜜の声が呼び止めた。
「待って」
「……何だい」
 立ち止まって、振り返らず答えた。

「ナズーリン。今まで、どこで何を――――」
 聞いて、身体が強張る。
 背を向けたままでよかった。顔に恐怖が出ていただろうから。水蜜がまだ言い終わらないうちに、ナズーリンの頭が回転し始める。
「何も」
 頭の歯車が軋み出し、意識が追い付く前に声が出て、水蜜の言葉を遮ってしまった。拙いと思ったときには既に遅かった。
「何もって」
「何も……君の疑うようなことはしていないよ」
 慌ててすぐに歩を進めた。このときばかりは、動揺を悟られずに動けた自信がない。

 だがそれも、もう命蓮寺に帰ってくることはないのだと思い始めるや、すぐに忘れてしまった。
 なんでも、いいか。どうせ今日、全て終わってしまうのだ。






  * * *






 目的の人は人里近くの林道で捕まった。
「ナズーリン! おかえりなさい」
 正面から飛び込んでくる、いつもと同じような顔をした寅丸星。彼女は買い物籠をほとんど放り投げるように道端へ置き捨てて、ナズーリンに飛びついた。小さなナズーリンを抱き上げ、嬉しそうな顔で意味もなくぐるぐる回った。それだけで飽き足らず、じたばたする彼女の頬へ短いキスをした。ナズーリンが耐えかねて引き剥がしても、星は全くにこやかな表情を崩すことはなかった。

 思わず緊張し始める。心臓の高鳴りを抑えきれなかった。
 悔しい。こんなことでは、さとりやパルスィの言った通りになってしまうではないか。この期に及んでまだ星に甘えようとする、己の不甲斐なさが気に食わない。
「会いたかったですよー! 寂しかったですよー!」
 余程だったのか、星は我慢できずまた抱きついてくる。ここまで喜ばれては、ナズーリンはどうしてよいのか分からなくなってきた。彼女の胸に顔をうずめると、ここへ来るまで大事に固めていた決意が萎んでいってしまう。
「わ、分かった。分かったから離してくれ」
「嫌です、離しません! これから一週間はこのままなのです」
「無茶を言わないで、やめて」
 真実を告げなくてはならない。この罪深く不埒な愛情に、終止符を打たねばならない。
 分かっているのに。
 情動が理性を押し殺そうとする。怠惰が志を圧し潰そうとする。ナズーリンは星の海に溺れて、今にも沈んでしまいそうだった。
 だめだ、だめだ。このままじゃ、だめなのだ!

「やめろ!」
 腹の底から絞り出した叫び声が、星の心を攻撃した。星はぴたっと止まり、手を離した。
「ご主人」
 ナズーリンは怖くて星の目を見られなかった。どうしたんですかと問いかける星に対し、幾許かの間を置いて、ようやく声を出すのが精一杯だった。

「私を――――」
 まだ信じているのですか、と尋ねかったが、躊躇った。
「――――私は、遠くに行く」
 誤魔化すように、言い直した。胸が、もう何度目かも分からない痛みに襲われた。
「え」
「すまない。最後にそれを伝えにきたんだ。……私はこれから、貴方のいないところへ行く」
「え、え? それって、つまり」
「医者にいたんだ。どうやら、私はもうすぐ死ぬらしい」
 馬鹿な嘘だった。こう言えば星はきっと、自分を諦めてくれる気がした。
 こんな自分のことを、どうか早く忘れてほしいと願った。

 抱き締めていた星の手は、ふにゃふにゃと力を抜いた。
 手放されたナズーリンは、もうどこへでも行くことができた。




















【PAST】



 この山奥の命蓮寺まで、風に乗ってやってきた古新聞(といっても、日付には一九一二年七月三〇日と記してあるから、ほんの二日前のものだ)には、黒枠に「聖上崩御」と、巨大な文字で見出しを付けられている。

 ナズーリンは雑巾で掃除する手を止めると、顎に左手の指をやってふむ、と思いに耽った。彼女にとっては遠い国の出来事だ。かの人間の国の帝が崩御なさるのを遠くから幾度も見た。けれども睦仁天皇の明治という時代は特別だったように思う。妖怪である彼女たちの心にも、どこか影を落とすような気配がした。
 我らの明治が終わった、そう涙する人間たちの姿が目に浮かぶようだ。これが彼らの言う愛なのかもしれない。巨大な天下を知り、西洋の力に押し潰されそうになりながら、彼らの明治は確かに終わった。
 これからますます、人間は人間とばかり戦うのだと感じた。そのなかで一体どれだけの妖怪が、恐れられる存在となり得るだろうか。

 命蓮寺は、再び時代の流れに取り残されていくこととなろう。慌ただしい人間に合わせる必要がなくなったのはいいが、平安の頃を思い出すと涙が出そうになる。
 ナズーリンたちは締め出された。人の世の愛憎から。ここに白蓮はもういない。僧侶も信徒もいない。いつまでも残るのは、伸びきった庭の野草と、朽ちた建物と、軒下の子鼠や蜘蛛や、どこかでうるさく鳴く蝉ぐらいだ。今やこの寺は人間と無関係になってしまった。
 こんなところに住む二人に、価値はあるのだろうか。信徒として、妖怪として、二人はあまりに中途半端だった。

 星は病に倒れてから、妖怪としての力をほとんど失った。それまでは、どんな妖怪も圧倒する強い力を持ち、悪しきを挫き、病を治し、人を導き、正義を説く、まさに毘沙門天そのものであるかのようだったのに。

「どうしましたナズーリン、ごみと見つめ合ったりなんかして? 恋でもしましたか」
 その一言でナズーリンは、彼女と共に寺を掃除していることを思い出した。
「なかなかロマンティックなことを言うようになったものだね。だけどこれはごみじゃない。うん年ぶりに、うちにも新聞が……」
 ナズーリンが言いかけると、夏にしては強めの風に、新聞は手を離れて再びどこかへ舞っていってしまった。
「……今上天皇が、お隠れになったらしい。寂れたうちにだって新聞ぐらい届くさ。もう行ってしまったけれど」
「まあ、天皇陛下が」
 人の世はあっという間ですねと、髪の乱れた星は言った。
「星は怖くないのかい」
 ナズーリンがそう聞くと、事もなしと答える。彼女は生きてさえいればそれでよいと言うのだった。辛い目にあってばかりだというのに、本当に不思議な妖怪だ。


 人の世が変わるときは、大きな祈りと大きな犠牲を必要とする。
 ナズーリンが危惧しているのは、毘沙門天の庇護を受けられなくなることだった。自分はいい。だが、もし宝塔の光が消えでもしたら、星はどうなる。
 毘沙門天は忙しい。これからもっと忙しくなるだろう。妖怪の目からすれば、西洋と、日本の国がいずれ再び刃を交えるだろうことは明らかだ。そのとき彼は数多の祈りに耳を傾けねばならない。八百万の神と違って、彼の身体はひとつしかない。
 こんな世になることを彼が予見していたのなら、最初から、この裏切り者の声を聞いてなどいただけるはずがなかっただろう。だからもう、彼に星を助けてもらえる保証がないのだ。

 今までですら、星の病は治らなかった。宝塔の力によって、進行を抑えられていたに過ぎない。


 ナズーリンが毘沙門天宛に送った手紙は、ついに返事を添えられなかった。手紙のなかで真剣に懺悔したけれども、その罪について言葉を戴くことさえできなかった。
 彼にとって、ナズーリンはその程度の存在だったのだろう。そう思うと、今でも涙が出そうになる。

 おかしいと思ったのだ。毘沙門天は始め、ナズーリンを星の監視役として寺へ送り込んだが、信徒として入門して星に近づけと、なぜか手間のかかる方法を選んで命令した。監視だけなら、わざわざ寺と接触する必要はないのに。

 これは任務としながらも、実質は左遷であったのだと思う。或いはもっと酷く、追放とか破門とか、それに近いものであったのかもしれない。
 いずれにせよナズーリンの送った懺悔の言葉は、聞き入れられずに葬られた。今ではもう、すっかり忘れられていることだろう。
 それでも宝塔の光だけ消えなかったのは、彼がまだ星までも見捨ててはいないということなのだろうか。

 天皇の崩御は、すなわち明治の精神の崩落を意味した。人間たちは偉大なる神の死を目撃してしまった。
 この衝撃の影響は計り知れない。その命を毘沙門天に依存する星に至っては、余計にどうなるか分からない。

 星は笑っていた。病人らしい、儚げな笑顔で。
 なるようにしかなりません、とでも言いたげだった。

 彼女は強かった。一日の半分以上を床に伏して過ごしてはいるが、その意志は誰より固い。毘沙門天の代わりであると同時に、毘沙門天の熱心な信者なのだ。
 ナズーリンは彼女のようになりたいと、ときどき感じる。








 翌朝は快晴だった。朝から日差しがとても強かった。
 ナズーリンはいつもより早めに目覚めた。珍しく身体の調子が良かった。井戸水を汲むため、寝癖のまま縁側に出る。病弱な星の代わりに、力仕事はナズーリンがしている。

「……ん」
 縁側から玄関のほうを見ると、寝間着姿の星が立っていた。

 星は、日々の修行は怠れませんと言って、毎朝の庭掃除を欠かさない。ナズーリンより早く起きて、庭の落ち葉と、表玄関を掃除する。
 どんなに調子が悪くても、ナズーリンが起きる頃には、必ず寝間着姿で落ち葉を掃いていた。何もそこまで、と思うナズーリンだが、星は自分が正しいと思うことなら止めたって止まらない。
 ずっと昔からそうだった。
 綺麗好きというよりは、潔癖なのかもしれない。

 彼女はこのとき、なぜか郵便受けの前で棒のように立っていた。何百年ぶりに手紙でも届いたのかと思ったが、何やら様子がおかしい。目は虚ろで、両手はだらりと力が抜けている。郵便物を持っている様子はない。いつも使っている箒は足元に転がっていた。一体何をしているのだろう。
「星?」
 ナズーリンが呼ぶと、彼女ははっとしたように振り向いた。その拍子に箒を蹴ってしまい、それがどこかに当たってガタンと音を鳴らした。
「何をしてるんだ?」
「……いえ。何も」
「何も、って」
 彼女は動揺しているようだった。箒を拾い上げる手が震えている。病のせいかもしれないが……。
「少し、ぼうっとしていました。調子、悪いのかな」
「無理せず休むといい。朝はお粥にしようか?」
「すみません。お願いします」

 やはり病のせいだろうと、ナズーリンは思うことにした。
 健気に元気な振舞いをしようとする星だが、強かった彼女も病には勝てないらしい。調子のよかった時期もあったが、もう二百年も、体調はずっと横ばいだ。
 彼女の病はときどき精神を攻撃し、妖力を奪おうとする。過去にも突然、抑えられない身体の熱さにもがき苦しんだり、今のように力が抜けてぼうっとするようなことがあった。普通の病ではなく、マジナイによる病だから、何があってもおかしくない。

 その頻度が増してきたのは、ちょうどナズーリンが毘沙門天へ手紙を出した頃だっただろうか。
 まさかあれが原因だなんてことは、ないだろうが。いくらなんでも、気高き毘沙門天が、ナズーリンの罪の因果を星へ応報などするはずがない。だから関係ないと信じているが、時期が時期だけに気にかかる。

 このまま星の病は治らないかもしれない。この病は怨霊の呪いによるものだ。ナズーリン程度の妖怪に治せるものでないし、弱った星が自力で治すことも難しい。
 せめてあのとき、ナズーリンがもっとうまくやっていたら。いや、そもそもあんな事件を起こさなければ、星が病に苦しむこともなかっただろうに。
 悪魔のような自分が、今更神仏に祈るなど虫がよすぎる。それでも、ナズーリンは祈らずにはいられなかった。毘沙門天様。自分はどうなってもいいから、星だけは助けてください。

 それは本当に、虫のよすぎる話だった。心というものはそう簡単に変われないのである。ナズーリンの心は、祈りながら、迷った。星が死ねば、ナズーリンの過去を知っている者はもはや地上にいなくなる。心のどこかでそれを望んでいた。


 そんな鼠の矛盾した内心など知らず、星は次の日も庭を掃いていた。どれだけ調子が悪くても、これだけはやめてくれない。
 ナズーリンは特に断りも入れず、少し離れた古井戸まで水を汲みに行く。使い古したわらじを履いて、庭先に置いた桶を掴んでそこまで歩く。道中は雑草が伸び放題になっていて、ナズーリンの肩まで届きそうな高さだ。たった二人で暮らすには敷地が広すぎると、この仕事をするたびに思う。

 星は、本当に変わった人だ。ナズーリンと星が、二人きりで命蓮寺に住み着いているという歪な状態も、彼女の変てこな性分によるところが大きい。
 彼女のことをもっと知りたいと、ナズーリンの好奇心が疼くことは何度もあった。だがそれは許されない。彼女と今以上に接近したら、きっともう後戻りできない。ずるずると腐る一方となる。
 分かっている。

 ……いや。本当に分かっているのだろうか、自分は。
 好きならば、彼女のために離れることを選ぶべきなのではないのか。彼女が病に伏したのは、ナズーリンのせいであるのに。そんな悩みばかりで胸のなかが淀む。
 吐き気がする。

























 真実を言えなかった。それどころか嘘を言った。
 またしても罪を重ねた。これでは、わざわざ地上へ会いに戻った意味が分からない。
 地底に帰るのが億劫で、ナズーリンは夕方まで一刻ほどの間、地上をぶらついた。地上の人里の出店は、地底と同じように賑やかだった。妙な気を起こして、花屋の娘から薄紅色のフリージアを一本買った。憧れ、感受性、或いは純潔。花言葉にどこか惹かれながら、帰るべき地底を目指した。






「ごめん!」
 水橋の番人がいきなり頭を下げた。
「何かあったのかい?」
「ぬえが来て……奥に」
「!」
 ああ、なんということだ。ナズーリンは、抱きかかえたフリージアの鉢をじっと見つめた。悠長にこれを買っているうち、想定外の相手が動いていた。

「知らないって言ったんだけどね。問答無用に弾幕撒き散らされて、通り抜けられちゃった」
「まだ奥にいるのか?」
「ううん、すぐ帰った。けど、バレたみたい。『あの鼠、次見かけたらぶっ殺す』って、カンカンに怒ってた」
 思わぬ誤算が続いている。深い溜息が出た。ぬえが寺に協力するとは思っていなかった。
「すまない。余計な面倒をかけた」
「……まったくだわ。和菓子ぐらい奢ってよね」
 パルスィは苦笑いして見せる。
 見れば、右手に擦り傷の痕ができていた。ぬえと戦ったときのものだろうか、赤くなって痛々しい。
 私のせいではないかと、ナズーリンは顔をしかめた。
「できるだけのことはする。ぬえは他に何か言っていた?」
「うんとねぇ……あんたのせいで村紗が苦しそうだ、って愚痴ってた」
「船長が?」
 なぜだろう。何か妙なことをしでかすつもりなのかもしれない。警戒するに越したことはない。
 ともかく今必要な情報は、ぬえが、どこまで知ってしまったかであろう。誰に聞けばいいか、難しいところだ。地霊殿の者か、そうでない者か。鬼か蜘蛛か、猫か……考えて、こんなとき頼りになるのは、やはりさとりだった。ナズーリンは地霊殿へ走った。


 人目も憚らず旧地獄の街道を駆け抜け、すぐに目的地へ辿り着いた。
 大きな扉をこじ開けて中に入ると、すぐにさとりに会えた。ほっと一息する間もなく、彼女は心配した表情になる。
「お帰りなさい。ねえナズーリン、さっき、ぬえが来て――――」
「何を話した?」
「知らないって言ったら、すぐ帰っていきました。あまり満足してない様子でしたけど」
 ここまで聞いて、ナズーリンはやっと冷静になってきた。
「そう……ですか。他に誰かと話した様子は?」
「いえ」
 何でも見抜くさとりが知らないと言ってくれたのなら、ぬえも信じたことだろう。ようやくほっとした。
「よかったですか」
「ええ、安心しました。ありがとう」
 ナズーリンは抱えたフリージアを忘れて笑った。しかし、さとりはまだ納得していないようだった。
「うーん」
「どうしました?」
「ぬえの記憶を覗いたんですけどね。星さん、でしたっけ。貴方がいなくなってから、その人の様子がおかしかったらしくて」
「……そうか」
「貴方、一度寺に帰った後、星さんを探しに行ったでしょう。そのとき水蜜と二人で跡をつけたんですって」
「なんだって!」
「星さんと二人で何か話して、別れるまで。彼女の様子が変だから、貴方を追うのはそこでやめたようですが」
 大失態だった。二人に追いかけ回されて気がつかないとは。下手をしたら、わざわざ自分で地霊殿まで案内してしまっていたかもしれない。

 ナズーリンは、ここにきてようやく地上へ戻ったことを後悔した。さとりにもパルスィにも止められた理由が分かった。
 正しいことをしたつもりだったのに、一筋縄にいかない。目論見がどんどん外れていって、気づけば自分の首を絞めている。
 星に中途半端な情を抱いたからいけなかった。今一度、心を鬼にして、命蓮寺との間にある負の連鎖を断ち切らねばならないのに。自分はちっぽけな鼠に過ぎない。さとりではない。下手に情を抱いても嘘になるだけだったのだ。


 しかし、ナズーリンの目論見は、そもそも可能なのだろうか。だんだんと自信がなくなってくる。
「ご主人様。教えてください」
 この罪はナズーリンが思っていたよりも、さらに根が深いのかもしれない。己の身は今や、ずるずると深い罪を重ね、地獄まで堕ちてゆくしかないのではないのかもしれない。
 大事な人さえ巻き込みながら。
「私は、どうしたらいいのでしょうか」


 フリージアの花言葉は、さとりという人にぴったりだ。
 ナズーリンは彼女に花を差し出した。純白の心の向こうに、決して届かない夢を見た。遠い日の後悔を忘れさせてくれる夢を見た。
 ひたすら情けなく、助けを願った。
 さとりの三つ目は、確かに同情していた。

「うー……ん。嫌われてしまうしか、ないんじゃないかしら。わざわざ地霊殿に住むと言う割に、貴方は好かれすぎている気がします」
 しかし返ってきたのは珍しく、辛辣な言葉だった。心に突き刺さって、今にも割られそうなほどの。
「さもなくば今すぐ地上に戻って、ごめんなさい、やっぱり一緒にいますと言うしかありませんよ」
 分かっていたはずのことなのに。直接言葉にして告げられると、胸が痛くて悔しい。
 ナズーリンは星に嫌われることを、心のどこかで恐れていた。あり得ぬはずの和解を期待し続けていた。
 ずっと隠していた真実を曝け出せば、希望は何ひとつ残らない。それでいいのだと言い張って彼女らを突き放そうとしていたのに、自分でそれを阻止したくなってしまう。
 矛盾が心を歪ませる。自分が自分を壊していく。

 迷いが、却って大きくなってしまう。このまま足掻くのを続けるか、さとりの言う通りに諦めてしまうのか。いずれにしても後悔するであろうに、選択しなくてはならない。
 星を傷つける大きな一歩が、踏み出せない。

「いずれにせよ、素直な気持ちを言ったほうがいいと思います。直接言うのが苦しいなら、手紙でもいいですから」
 そう言うさとりの顔が、少しがっかりしているように思えた。






  * * *






 一夜が明け、ナズーリンはさとりと一緒に、けだるい午前をだらだらと過ごした。そのときさとりは、
「いくら優秀だからって、初めから重要な仕事は任せられません。まずは雑用からなのは許してくださいね」
 と言って、中庭に植えた花々のことを教えてくれた。今日からそこの世話を任されるらしい。まあ当然のことだろうと思って、ナズーリンも不平に思うことはなかった。
 残念だったのはそれより、贈ったフリージアだ。庭に植えると増えすぎるからと、さとりの私室へぽつんと置かれることになった。窓際でいかにも寂しそうに佇んでいた。
 食卓の隅に座っている貴方のようだと毒づいたら、真面目な顔で聞き返されてしまったのが、ちょっとした失態だった。まるで星を相手にするように言ってしまった。

「中庭に地下がありますけど、そっちに入っちゃだめですよ。あぶないので」
 最後にそう忠告されて、会話は終わった。
 さとりは昨日のことを何も言わなかった。




 中庭では、たくさんの窓に囲まれて、地底にほとんどないはずの草花が敷き詰められていた。美しいのに変な違和感があるのが、印象的だった。
 ナズーリンは土の小道を踏んで、脇にある煉瓦の花壇を見回した。季節には大分早いのに、薔薇のつぼみがたくさん佇んでいる。彼らはある一点を見つめるように、揃って腰をくねらせていた。
 嫌悪感がする。薔薇は嫌いだった。

 庭の下には、地底で唯一、未だに機能している地獄の施設がある。さとりが警告した地下室である。その入口の階段は、薔薇の咲く庭のなかで、随分浮いているように見える。
 ナズーリンは、入口から溢れる温風に息を飲んだ。まるで地上で手招きをした、地底への入口と同じように、それは無気味に微笑んでいるように見えた。

 地底に魅入られるということは狂気の沙汰である。旧い地獄に恋をするように、亡き人の遺骨に恋をように、渡る雲に恋をするように。そして恋もまた狂気である。恋する者は皆狂人と言ってもいい。恋心を伝える薔薇の花は狂気の象徴だ。
 理性の塊のようなさとりの好きな花が、よりにもよって薔薇だなんて悲しかった。春、このつぼみが庭園の一面に咲き乱れるときまでに、もしそれが全てフリージアに食い荒らされれば、きっとこの旧い地獄は狂気から解放されるだろうに。
 フリージアに抱かれて死ねたら幸せだろう。さとりの口付けで甦ればもっと幸せだろう。或いはさとりに屍肉を喰らわれるのもよい。その暁には、ついに罪から解放され、さとりの心となって生まれ変わり永遠に傍を離れない。新たな家族の誕生である。なんと輝かしい、幸福の暮らしであることか。そうしてナズーリンの恋は成就する。
 恋が成就しなければ、人はいつまで経っても狂気に支配されたままである。なんと恐るべき呪いであろう。

 ……という、妄想をしていた。
 この時期の薔薇は、あまり水を遣ることはないそうだ。多くてもせいぜい週に一度。それより毎日しなくてはならないのは、土の痩せ具合を見て、必要があれば足してやる。土を見分ければできる簡単な仕事だが、この数なのですぐには終わらない。
 ロマンティックなことでも考えながらでないと、やっていられそうもないのである。
 単純な作業で、最後の花に触れる頃には、手つきは大分慣れていた。

 終わりに井戸から水を引っ張って汚れた手を洗い、言われたとおりの全工程が終わった。半刻程度しか経っていないのだが、随分と疲れてしまった。少し、休みたい。

「お疲れさま」
 唐突に、聞き慣れない声がした。濡れた手を振り払って見れば、いつからそこにいたのか、さとりが立っている。
 いや、似ているが、さとりではなかった。さとりよりも色素の薄い髪をしているし、第三の目の色も違う。覚妖怪の証であるはずのそれは、目を閉じたままでいる。
「ああ、妹さんだね。初めまして」
「妹さんです。初めましてー」
 彼女はぺこりとぎこちない辞儀をした。愛想はいいが、いまいちさとりほどの気品を感じなかった。仕草がどこか子供っぽい。数日前の夜、ナズーリンを不意に驚かせたのが、こんな奴だったとは。
「といっても、わたしはこっそり貴方のこと見てたけどね」
「そうかい。私の仕事ぶりはどうかな。少しはお姉さんに貢献できていればいいのだけど」
「仕事ぶりはね、まあ、こんなもんじゃないかな。それよりもわたし、貴方の心を見たくて」
 彼女は、下がったオーバーニーソックスを上げ直しながら、そう言った。
「心? 君は、心を読まないと聞いているけど」
「読まないよ。読まないけど……」
 心を読む能力を自ら失った妖怪に、さして興味はない。どうせ聡明な姉とは比べ物にならないほど、愚かしい妖怪だろう。
「読まないから、ね、教えて。貴方はお姉ちゃんのこと好きなの?」
「……初対面で、随分不躾なことを聞くね」
「あはは、照れてる」
「照れてない」
 さとりの、潔癖さすら感じる気品のよさも、妹からは全く感じない。これでは、さとりが心配性になってしまうのも頷けるというものだ。
「お姉ちゃんを好きになると、ライバルが多くて大変よ。寂しかったらわたしを代わりに使ってもいいよ。顔似てるし」
「なっ」
「必要なら、お姉ちゃんの声真似もできるよ」
 おかしなことを言われた。何を考えているのか全く分からない。

「無意識は感情、でね、無意識は正直。無意識に理由はないの」
 彼女は虚空を見上げて呟いた。微笑んでいるのに、なぜかこのときだけは、さとりと同じような目をしていた。
「どういうことだい、それは」
 不意に足音がした。するとなぜか一瞬だけ、頭がぼうっとした。次の瞬間、気がつくと彼女は背後で屈んでいて、薔薇のつぼみを見ていた。
「わたしは欲望に正直なの。したいからする。感じるものはただ感じる。欲しいから手に入れようとする。……お姉ちゃんみたいに生真面目な貴方には、できなさそうだけど」
 突然、珍しい手品をしてから言うことは、ただの大きなお世話だった。
 物事には因果がある。感情という結果には原因がある。不合理な行動は罪である。そう思って何が悪いというのか。

「では、君は今何がしたい」
「えっちなこと」
「っ!?」
 危うく井戸に落ちそうになった。
 彼女ははにかんだように、口元に人差し指を当てた。さとりもよく同じ仕草をする。それを見ると、心臓がぎゅっと縮こまる感覚がした。さとりと似た顔で、妙なことを言わないでほしい。
「聞いてみたいでしょ、お姉ちゃんの声真似。弱々しくてね、でも精一杯我慢して、漏らすように声を出すのよ。ね、いいでしょ、遊ぼうよ。貴方とする理由はないけど、わたし、」
「……ふざけないでくれ」
「ふざけるのも、たのしいよ」
「そんなこと、しない!」
 さとりによく似た少女が立ち上がる。目の前に迫ってくる。ナズーリンは井戸を背にして、後ずさりもできない。
 そのまま、そっと身体を抱き締められた。
「やってみれば分かるよ」
 愛情こそ至上である。友情は希望である。劣情は堕落である。劣情に駆られた末、無闇に身体を差し出すのは、狂気の所業だ。
「真面目を装っていても、みんな心は醜い。わたし、そういうのはすぐ分かっちゃうんだ」

 身体はがっちりと捕らえられたが、それ以上何かをされることはなかった。しばらくそのまま動けなかった。彼女からはさとりと似たような甘ったるい匂いがして、まるでさとりに抱かれているかのように思えてくる。うっかり心地よい気分を覚えてしまう。
 それがたまらなく悔しかった。
「みんな薄々気づいているくせに、気づかない振りをするの。自分の心が薄汚れた欲望でできていて、醜いのを、無理やり飾りつけて綺麗に見せる。愛ってね、愛って、汚したいってことなのよ。わたし知っちゃった」
「違う、馬鹿を言うな」
「わたしだって違うと思いたいよ。でも愛って漠然とした言葉をみんな、自分の欲望を綺麗に飾るために使うの。自分の欲望のために人を好きになるの。貴方もそうだよ、真面目な振りしてるだけで、本当は」
「やめろ。それ以上言うな」
「嘘吐き」
「やめろ!」
 胸を、激しい痛みが襲った。
「……少なくとも、わたしを好きだって言ってくれた人は、みんなそうだったよ。自分の欲望の充足に使うために、わたしを所有物にしておきたいの。素直にそう言えばまだいいのにね、それを愛とかいう言葉でごまかすの」
 悔しかった。こんな言葉に自分が苛立つことそのものが悔しい。これではまるで図星を当てられているようではないか。
 こんな奴に!

「なんてね。じょうだん」
 こいしはそう言うと、手をナズーリンの肩に置いて、少しだけ身体を離した。顔が正面に来るのが、却って恥ずかしかった。
「ごめんなさい。ほんとは嫉妬させたい人がいるだけなの」
 彼女の笑顔が突然、寂しくなった気がした。
「さとり?」
「ううん。……その人ね、わたしと同じような経験したくせに、まだ信じてるの。心が読めないって、残酷」
 彼女の笑顔がどこか虚しかった。
 ほら見ろ。欲望に正直になって、欲望を消化したら、そこには何も残らない。だからそんなに虚しい笑顔になるのだ。そう言ってやりたかったが、情けないことに、ナズーリンの身体はすっかり固まっていた。
 こいしが自ら一歩離れると、緊張はようやく治まった。

「わたし、なずーりんのこと、心配なんだよ。自分に嘘を吐いてるの、分かるから」
 嘘吐きとだけは、言わないで欲しかった。それを言われると、やたらと心が痛むのだ。
「嘘なんか、吐いていないさ。私は私の道理で生きているだけだ」
 それ自体、嘘だった。
 彼女は一体どこまで見ていたのだろう。ひょっとしたら、彼女もまた何もかも知っているのではないかと、思えてくる。
「違うの。貴方は道理に感情を合わせようとし過ぎなの。お姉ちゃんが好きなのに、わたしに抱かれて心地いいはずがないと思ってる」
「それは――――心地いいはずがないじゃないか。私は君と初めて出会った」
「嘘。分かるんだからね」
 そう言って悪戯に微笑む彼女を見ると、ナズーリンは罪悪感に押し潰されそうになった。
 訳が分からない。彼女もまた、惑わせてくる。
「誰が好きだろうが、心地いいものは心地いいの、それでいいじゃない。感情に理由なんかないの。理由は後からつけるものだもん」
「そんな道理が通るものか」
「潔癖の振りしちゃって。お姉ちゃんみたい。いきものって、そんなに綺麗なものじゃないよ」
「ふ、ふん!」
 ナズーリンは彼女の言葉を振り払うように、慌てて中庭から逃げ去った。

「わたしだって、そうだもん」
 こいしは最後にそう投げかけたが、追ってはこなかった。






  * * *







「早速こいしを抱くとはいい度胸ですね」
 晩、さとりにあらぬ疑いをかけられていたことを知った。
「あっ、あれは、違うんです」
「違うもんですか、このお馬鹿。さらに私に向かって、さとりである私にですよ、言い訳しようとするなんて、許しません! 次やったら一生雑用です。皮を剥いで、雑巾になって、一生床掃除です」
「そんな」
 何だかすごく怒っている。さり気なくとても怖いことを言われた。
「今日は皿洗いです、皿洗い。それから、寝るまでに私のベッドを整えておくこと。あと大浴場に行って、ペットの洗濯物を回収して洗っておきなさい。あ、ついでに床掃除してくれると……しなさい。それと、しばらくは妹の半径二十尺以内には近づかないこと。さもないと雑巾ですからね!」
 無茶苦茶告げられた。話など聞いてもらえそうもない。これだけやらせて、給与はどうなるのだろう、などとうっかり頭にちらつくと、
「給与なんか出す訳ないでしょう! 今すぐ行きなさい!」
「は、はい」
 怒鳴られた。
 悪巧みしなければいい人、妹が好きすぎる……そういえば、そんなことを聞いた気がする。彼女がこれだけ感情をあらわにすることがあるなど、想像もしていなかった。


 しかしナズーリンは、さとりと別れてからは取り立ててあまり気にしないことにした。そもそも誤解なのだからいずれ解けるだろう。さとりなら真実を見ることができる。今のは大好きな妹のことだから、少し気が動転してしまっただけのことだ。そう考えた。そう考えないと、悲しかった。



「そりゃ災難っしたねえ」
 先にさとりの部屋を整え終えて、次に風呂場へ行くと、燐が既に洗濯をし始めていた。本来は彼女の仕事であるらしい。事情を話したら理解を示してくれた。
「さとりが妹贔屓だと聞いてはいたけど、あれほどとはね」
「それもだけど、こいし様の目に留まったのがね」
「あ、ああ……」
 風呂桶を挟んで二人、向かい合い洗濯板で着物を磨く。何となく寺にいた頃を思い出した。家庭の事情は違えど、家事の内容はどこもそう変わらない。外の世界にいた頃は、洗濯機があったけれど。
「あの人、変態っすから」
「そ、そうなのか」
「誘うんですよ。ちみっちゃい癖にませててさ。遊ぼう、って言うんです。あんまり成就した試しはないみたいだけど。ちみっちゃいし。あとなぜかあたいには目もくれない」
「嫉妬させたい人がいるって言っていたな」
 ナズーリンがそう答えると、燐は「へぇ?」と言って手を止めた。少し驚いた顔をしていた。
「ま、まさかあたい!? ……の訳ないし、あの人のことだろうなあ。でもあの人は、わざわざ嫉妬させなくても嫉妬してるような人だしなあ」
「うん?」
「水橋のお姫様」
「え、意外だな。こいしと仲がいいのかい?」
 すると燐の耳がぴくりと反応した。
「……まぁ。大きい声じゃ言えないけど、さとり様があまり快く思ってないのが、そのぅ」
「ああ、なるほど。分かった」
 ならば皆まで言わずとも、と止めておいた。
 『無意識は感情。無意識は正直。無意識に理由はない』。すなわち、『恋は感情。恋は正直。恋に理由はない』のだった。恋は無意識の狂気。彼女は姉に恋してしまったナズーリンを見ているなかで、自身と似た何かを感じたのかもしれない。

 燐とナズーリンはそれからしばらく黙々と仕事をした。燐が喋らないところなんて初めて見た気がした。
 しかしやはり沈黙に耐えられるようにできていないのが彼女であるらしく、だいぶ仕事が進んだときに、重苦しい口を開いてこう切り出した。
「昔は、仲良しだったんですよ。お二人姉妹は」
 なんだか複雑な気分になった。昔は、とわざわざ言うからには、つまり今は仲が良くないということだ。ナズーリンは今まで知らなかった。
「ほら、さとりって妖怪は元々外で嫌われてるじゃないっすか。だから昔は好きな人がいたらいただけ辛かったみたいで。そのときは、水橋さんじゃあないんだけど」
「昔?」
「こいし様はそれで心を読まなくなった、らしいんですよ。それまではその、さとり様が代わりになろうとして、アレしていたようなんだけど」
「……」
「さとり様は、今は、ちょっと寂しそうだ」
 アレが何かは分からなかったが、痛みは充分に伝わってきたように思う。こいしの遊びは、それがずっとできなかったことへの嘆きなのだ。

 恋はやはり狂気だ。人を狂わせる呪いだ。ナズーリンが罪を重ねてしまったのも、ある意味、下手な思いを星に抱いてしまったからに違いない。
 同じではないか。
 今のこいしは、星と二人暮らし始めた、あの頃のナズーリンと同じなのだ。
 ナズーリンの迎えた結末は、罪の意識に苛まれ続ける日々だった。理解者のいない孤独は、想像以上に辛く寂しい。

 だがこいしは違う。彼女には理解者がいるのだ。覚りでなくなる罪を犯してなお、それを理解しようとしてくれる家族がいる。
 彼女が今、幸せなのかは分からないが。
 幸せであればいいと思う。

 ナズーリンは気づいた。自分のしていたことが、ただの逃避であったと。地底は罪から逃げる場所ではない。償う場所でもない。分かっていたつもりで、何も分かっていなかった。
 こいしは逃げも隠れもしなかった。さとりの命ともいえる、第三の目を閉じるという選択をした。間違っていたかいなかったかは別にしても、彼女は道を選んだのである。だが、ナズーリンは何をしたか? 罪から逃れるために、ただひたすら目的もなく、逃げ回っていただけなのではないか。
『本当のことを言ったほうがいいと思います。直接言うのが苦しいなら、手紙でもいいですから』
 さとりにそう言われたことを思い出した。

 星に真実を伝えよう。
 そう決断をした。


 手紙ならば。真実を告げる手紙を書けば、書いたきりだ。真実を知れば星は悲しむだろう。だが、それ以上の不幸の連鎖からは逃れられる。手紙を読んで、ナズーリンを怨めしく思うならば怨んでもよいし、この身を殺して気が済むのならば、存分に殺してくれてよい。今まではそのチャンスさえ与えなかったのだ、大きな前進であろう。
 きっと、それなりの長文になるだろうから、何日かけてでもしっかり書こうと思った。
 さとりの言っていたこと、こいしの言ったこと、パルスィの言ったことも、ようやく少し分かった気がした。






  * * *






 ……そう、気合を入れたところまではよかった。しかし、長文を書くというのはなかなか難しい。長い間に培った自分の考えを纏めることが、なかなかできない。心にもやもや部分があって、言葉にならない。自分の心の状態が、頭にある語彙にちっとも該当してくれず、ひたすら悶々とした。

 うだうだとしているうちに、数日が過ぎた。さとりとは何も話をしていない。もしかすると、まだ妹のことで怒っているのだろうか。楽観視していたナズーリンだったが、彼女の怒りは思ったより大きいのかもしれない。
 手を出してきたのはこいしのほうだということは、分かっていそうなのだが。それが却って気に食わないのかもしれないが、だとすると何だか、さとりらしくないように思う。

 ナズーリンは今日もまた花壇の手入れをした。この中庭は屋敷の窓に四方を囲まれているから、どこかで見られているような気がして落ち着かない。一階から三階まで、びっしりと窓が敷き詰められている光景が、何となく無気味だった。


 さとりに恋をしていること、それはもう、どうやっても言い繕えないだろう。さとりが誰より妹を愛していることは知っているが、それでもこの気持ちに嘘を吐くことができそうもなかった。
 恋というものは、それまで捏ね繰り回した理屈も、築き上げてきた地位も、全く関係せずに生まれる。だから、きっとナズーリンは、さとりの傍にいることを望んでしまうのだろう。
 毘沙門天を慕っていた遥か昔や。
 星の傍にいようとしたあの頃には戻れない。今やナズーリンを受け入れることができるのは、地底の、古明地さとりただ一人だけになってしまった。











 時は、無情だった。
 地霊殿に、再びぬえが来てしまった。

 花壇の薔薇に土を遣りながら、たまたま顔を上げたとき、二階の窓の向こうに横顔を見つけた。その瞬間、ナズーリンはさあっと青ざめる思いがした。
 今彼女に会ったら、また嘘を吐いてしまう。
 嘘に嘘を塗り固めてしまう。そうしたら、ナズーリンはナズーリンでなくなる。
 恐ろしい。もう彼女たちの傍にはいられないというのに!


 急いで隠れる場所を探す。薔薇の陰では背が低すぎる。井戸の陰では狭すぎる。どこか、どこかないか。早く。
 そうだ、一度庭から出て、どこか部屋に隠れよう。そう思ったときだった。窓の向こうのぬえと、不意に目が合ってしまった。

 咄嗟に、ナズーリンは夢中で階段を駆け下りた。その間うまく回らない頭で考える。危険な地下核施設のなかならば簡単に追うことはできないはずだ。自分の身の危険は意識の外だった。
 先の見えぬ長い階段をひたすらに走る。背後から迫る見えない影に急かされて、何度も転びそうになった。
 さとりの忠告を思い出す余裕さえなかった。
 最後の数段をついに踏み外して、転がりながら暗い部屋へと辿り着く。腕やら足やらぶつけて少々もんどり打ったが、幸い大きな怪我ではなかった。

 腕を庇いながら起き上がって、辺りを見渡すと、暑くて真っ暗な場所だった。
 ここなら安心できそうだ。目を凝らして見ると、最悪ぬえが追いかけてきても隠れられそうな場所がたくさんある。機械の陰、大きな木箱のなか、奥の真暗闇。膝を撫で、少し呼吸を整えて、冷静さを取り戻していく。
 まだ手紙を書き終えていないのに、寺の皆と会う訳にはいかない。でないと、きっとまた彼女らに甘えてしまう。本当のことが言えなくなってしまう。
 ぬえのことを、侮りすぎていたかもしれない。見つかってしまったのは不運である。どうにかして誤魔化さないといけない。このことを命蓮寺にばらされては、星のためだとか何とか言って、総出で連れ戻しに来るかもしれない。
 とはいえ、地底にいれば、星にだけは会わなくて済むだろう。地底は怨霊の蔓延る場所だ。彼女は怨霊に近づけないから、ナズーリンにも近づけない。白蓮。水蜜。一輪。問題は彼女たちだった。

 彼女たちはナズーリンを連れ戻そうとするだろうか。
 好きならば必ず一緒にいられるというわけではない。好きゆえに一緒にいられないこともある。これ以上、星を騙す訳にはいかない。




『何を苦しんでいるのかな』
 突然、心を読んだかのような声が部屋に響いた。聞き覚えのない声だった。
 誰かが、ここにいる。心臓が再び高鳴りだす。
「誰だ?」
『昔の君は、もう少し綺麗な目をしていたよ。白々しく、後悔でもしていたかい』
 声は、まるで頭の中から語りかけてくるかのように距離を感じない。周りを見渡してみても、誰も見えない。

『君が騙さなければ、僕たちは死なずに済んだだろうに』
 そこから一拍の間を置き、蒼い火が、目の前の暗闇に灯った。
「怨霊か」
 幽霊の正体見たり枯れ尾花、とでも言うべきか。しかし、さとりに言われた通り、これは確かに危険な枯れ尾花だ。
「悪いが人違いじゃないのかい。私は君なんて知らない。殺してなんていない」
 ダウジングロッドを構えて見せる。すると、怨霊の火に無気味な顔が浮かび、にやりと笑った気がした。そして、
『殺した!! 嘘吐きめ!』
 それは、矢のごとく飛びかかってきた。
『お前は騙し討ちをした! 僕たちの命を、お前が奪った!』
 ナズーリンはすんでのところで避け、振り向きざまロッドを振り回す。が、当たらない。
 もう一度怨霊が飛びかかってくる。速い。だが、今度は避けずにロッドで切り払ってやると、見事に命中した。衝撃は思ったよりも小さい。
 見掛け倒しだ。怨霊は、それだけで消えてしまった。不思議なくらいにあっけなかった。


 辺りに暗黒が蘇る。
 怨霊がいると分かると、部屋の暗闇が先程よりも不気味に思える。しばらく警戒したが、怨霊はすぐに続きをやる意思はないようで、何も起こらない。やれやれ、ナズーリンは肩を竦めた。面倒ごとが次から次へと起こるものだ。
 ナズーリンはもう少しここにいて、ぬえが帰りそうな頃合いを見て出ることにした。短気な奴だから、そう長く居座ることはないだろう。

 安心したら、長い溜息が出た。寺と決別をしようと思っていても、これまでの行いが悪すぎて、うまくいかない。
 星を助けて、傍にいることが正しいことだと信じてきた。だがそれは間違いだった。星は毘沙門天代理としては未だ不十分のままであるし、ナズーリンも罪の意識を拭えない。
 傍にいればそれでよいという訳ではなかった。それを分かっているのだから、こいしは意外に凄い奴だ。

『やっと分かったかい。君がいかに愚図かってことが』
 また、荒々しい怨霊の声がした。もう再生したらしい。
「……うるさい」
『千年経ってようやくとは、愚図でなければ阿呆か間抜けよ』
「何を言うか。千年だって? 私が何をしたって言うんだ」
 目の前の暗闇に、青い炎が再び浮かんだ。

『人殺しさ! 殺しだよ。小鬼め。人を騙した鬼畜生め。地獄に落とされた気分はどうだ。ええ、"薺"ァ!?』
「な!?」
 薺(なつな)。命蓮の寺に初めて入門したときの偽名だった。この怨霊が、なぜそれを知っているのか。
 ナズーリンはいよいよ彼に恐怖を覚えた。思わず、一歩たじろぐ。怨念が、怒りが、じりじりと迫ってくる。

 紅い火が灯った。
 ひとつ。ふたつ。みっつ。目の前に。五。十。十五。周り全てに、一面に。
 血のように紅い、あの日の魂が灯った。

 蒼い鬼火に顔が浮かぶ。紅い魂がぐるぐる回る。
 狡賢い鼠は、ついに恐怖で動けなくなった。目の前には、忘れるはずがない顔があった。あの日殺してしまったはずの、友の顔が。

 彼は、ナズーリンの罪だった。

 紅い怨霊が、一斉にナズーリンを貫いた。
 視界は、ぷつりと途絶えた。



『僕の顔を憶えているかい。悪鬼の薺よ。憶えているだろう?
 僕たちの最後の妖力で、お前を殺してやる。皆その為に転生を拒んで、ここに来た。お前が憎いから。お前が憎いがために。お前を殺すために……』






  * * *







 ナズーリンは暗闇のなかにいた。地下施設ではなかった。真暗だが、暑さも寒さもない。音もない。怨霊などいるはずもない。ただ虚無のなかにいた。この調子では、己の身体すら存在しないだろう。何もない場所である。自分が、立っているのか座っているのか分からない。上下も左右もない。
 これが死の世界だった。

 感じられるのは冷たさだけである。肌の冷たさではない。心の冷たさである。ここにはナズーリンの心だけがある。ひたすら孤独で、冷酷に思えた。
 不思議と怖くはなかった。


 かつて、墨念という頭の硬い僧侶がいた。彼は、水蜜と一輪が地底へ封印されたのと同じ日に、帰らぬ人となった。旧命蓮寺は、その日を境にみるみる寂れ、いつしかナズーリンと寅丸星しかいなくなってしまうのだった。



 自分には冷たい死の世界がお似合いだと、ナズーリンは感じた。こんな形で死ぬのが、むしろ罪人としてあるべき末路だろうと感じた。罪は償われなければならない。因果は当然に応報するものである。
 そっと心を沈める。深いまどろみに落ちていく。次に気がついたとき、自分がいる場所は彼岸か、地獄か、果ては永遠の暗闇か。

 眠ろう。
 そうして、心が虚無に染まりかけたとき―――――



 鵺の歌声がした。







  * * *








 地獄の番犬は、意外にも幼い少女の顔をしていた。大きくて丸い瞳が印象的だ。
 涙で潤んでいるその瞳が、とても綺麗だった。

「……ばか」
 彼女は開口一番罵った。
「ばかばか。ナズーリンのばか。じんぱいざぜてぇ……」
 そう言ってナズーリンの被っている毛布に突っ伏し、涙を拭った。変わった光景だ。地獄はいつから、さとりに泣かれる場所になったのだろう。



 ナズーリンは、ずっしりと重い身体を起こした。どう見ても、あの世ではなく地霊殿だった。

 生きていた。それも、助けてもらった。怨霊に取り殺されそうになっていたところを。
 ぬえがいきなり部屋に飛び込んできて、泣きじゃくるさとりを尻目に、そんなことを教えてくれた。
「人の忠告を聞かないからそうなるのよ、弱っちい癖にさ。もしね、おくうがあんたのこと見つけてなけりゃ、どうなってたことか。それだけじゃない。私がお燐のとこに連れて行かなけりゃ、お燐が怨霊を叩き帰さなきゃ、さとりがあんたを介抱してなけりゃ……」
 そしてたくさんの言葉を纏め切れなかったのか、最後に一言「この馬鹿鼠」と放った。

 またひとつ、恩を作ってしまった。
 ナズーリンは恐怖に駆られ、さとりの忠告を無視して中庭の地下、灼熱地獄跡へと行ってしまった。そこで待っていた者を、予想もしなかった。まさか、かつての自分と地底を結ぶ、あの事件の被害者たちとは。きっとさとりはそれを分かっていて、わざわざ忠告してくれたのだろうに。
 彼らに襲われたあと、ナズーリンはどうやら皆に助けられたらしい。どれだけ懸命だったかは分からない。自分がどれだけ眠っていたのかも分からない。
 恩を作ったら、返さねばならない。しかしそもそも皆がそんなに優しいのは、ナズーリンが罪人だと知らないからだ。全ては因果応報だということを知らないからだ。怨霊たちがしたことは、ただの仕返しである。先に手を出したのは、自分のほうだ。
 助けてもらったというのに、最悪の気分だった。いっそ見捨てられるぐらいに、嫌われてしまうべきだったのに。

 恩返しをするのに、罪悪感が邪魔をしてしまうのはいけない。嬉しさよりも先に、申し訳なさが出てきてしまう。ナズーリンのことを全て知っていたら、きっとわざわざ手間をかけてまで助けなどしなかっただろうに。
「すまない」
「すまないじゃねーよ! あんた、自分がどれだけ人に迷惑かけてるか分かってんの!?」
 ぬえは、いきなり顔を近づけて怒鳴った。ぎゅっと胸が痛んだ。普段あれだけ自分勝手なぬえにすらこう言わせるのだから、寺には余程の苦労があったのだろう。一度帰ったときには、そんな素振りはちっとも見せなかったけれど……。
 どうして、彼女たちはそうなのだ。
 心が軋む。
 ぬえの声の大きさに、さとりが悲しそうな顔を上げた。「やめてください」と赤い顔で一言言った。しかし、ぬえは聞き入れない。
「おいクソ鼠! 分かってんの!? さとりは一晩中あんたの傍にいたのよ? 星なんて、あんたがいなくて心ボッキボキで、ムラサも一輪も毎日あんたのこと探し回ってへとへとで! 聖が泣いてるところなんか私初めて見たし、パルスィなんか、親友に向かって嘘をずっと吐かされてた! あいつ嘘が大っ嫌いなのにさ! 全部あんたのせい! あんたのせいよ!」
「やめてくださいっ」
「根性無しの馬鹿鼠! あんたなんか、あんたなんか死んじゃえ!!」
「やめて!」
 さとりが懇願しながらしがみついて、ようやくぬえは大人しくなった。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。

 だから会いたくなんてなかった。決別するべき意思が鈍っていく。これだけ助けてもらった皆を裏切るなんて、できなくなってしまう。本当は離れたくない。少しだけなら平気なのではないか。そんなふうに思ってしまう。
 ナズーリンがいなくなれば星が苦しむ。星が苦しめば水蜜が助けようとする。もちろん不器用な水蜜にナズーリンを探せるはずもなく、途方にくれる。
 以前、水蜜が苦しそうだと言われていたのは、そういうことだったらしい。
 水蜜が困って次に出てくるのは、一輪、白蓮、最後にぬえ。彼女たちは仲間を救わんと団結する。命蓮寺は、ナズーリンを除けば纏まるのに、ナズーリンがいなければ成り立たない。

 ナズーリンは自責で胸がいっぱいになった。
 こんなにも彼女らは優しいのに。
 これだけ苦しませた原因がナズーリンの利己的な罪悪だと知っても、彼女たちは許そうとするのかもしれない。それこそ、己の心身を削ってでも。
 ぬえの言う通りだ。自分は死ぬべきだった。今じゃない、もっとずっと早くに、星たちを騙した報いを受けるべきだった。そうすれば、彼女たちが優しさゆえ、こんなに辛い思いをすることはなかった。

「……ねえ。もういい加減、隠すことないでしょ。はっきり言えよ。何で逃げるのさ」
 もう遅い。この口で真実を伝えるには、遅すぎる。

 この罪は伝えきれない。鼠とはそういう生き物なのだ。一度この舌に乗った言葉は、甘えて、騙して、誤魔化して、狡く汚く、どんどん変質する。この心は汚れすぎている。
 手紙が必要なのだ。しっかりと心を纏めた置き手紙がなければいけない。この思いを表現する言葉は、慎重に選ばなければいけない。下手にここで漏らしては、全てがだめになる。

「……今は言えない」
 ナズーリンは精一杯、甘える言葉を抑えて言った。
「あんだと!?」
「ぬえ」
 再び爆発しそうなぬえを、さとりが押さえた。
 本当に、何も言えない。今の半端な気持ちでは。言えば却って困らせてしまう。せめてきちんと自分の言葉が纏まるまでは。
「すまない。ごめん。時が来たら必ず話すから、もう少し待ってほしいんだ」
「ふざけんな」
 彼女は納得してくれなかった。
 ナズーリンは顔を上げられなかった。あまりにも自分が惨めだった。
 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。
 悔しい。辛い。未だ心のなかに、違うんだ、これは怨霊に唆されてやったんだとか、そんな言い訳ばかりが浮かんで消えていく。

 黙り込んだナズーリンの代わりに、さとりがいくつか言葉を言うと、ぬえは諦めたような顔をして帰っていった。相当に落胆させてしまったらしい。
 部屋には、ベッドの上のナズーリンと、ぬえが開け放したドアをそっと閉じるさとりだけが残った。


 ぱたんとドアの音がした瞬間、ナズーリンの胸から瞳へ、涙が込み上げてきた。こんなことがしたかった訳じゃない。
 しかしこうするしか道はない。この汚い鼠が輝かしい彼女たちを、これ以上傷つけずに済ますには……。

「ごめんなさい……」
 赤い目をしたさとりがそう言って、ナズーリンを抱き締めた。いい匂いがして、心地よかった。ナズーリンも無意識に、その背を抱き返していた。
 初めて抱き締めた彼女は、思っていたよりもずっと細かった。こんな華奢な身体で今まで、妹もペットも家も守り続けてきたのか。
「いえ。私が悪いのです、さとり様。全て私が―――」
「言わないでください。言わないで」
 二人の声は震えていた。

「私、我侭すぎたかもしれません」
 さとりはそう言って、ぐすっと鼻をすすった。子供っぽい仕草だった。
「我侭だなんて」
「貴方が来てくれて、嬉しかった。私なんかを頼ってくれて、心から私を肯定してくれて。どんなお礼でもしようと思いました。貴方が地上で苦しんでいるなら、いっそ私が助けたい、って」
 彼女は身体を離した。哀しそうな瞳をしていた。
「でも、それがだめだったんですよね。貴方を困らせてしまった」
「そんなことは」
「妹のことも、怒りすぎてしまいました。ごめんなさい。本当は、あの子に手を出すのがどうとかっていうより、ただ私が妹に嫉妬していただけなんです。私にできなかったことを、あの子が平気でするから」
「……」
 彼女でも感情を制御できないことがあるのか。ナズーリンは、一度そんなふうに思って、はっとした。


 そのとき、さあっと血の気が引いた。
 胸が締めつけられるように痛んだ。
 自分がとても愚かであったことに気づいた。

「ご、ごめんなさい、さとり様! 私が、私が突然押しかけたせいで、貴方を巻き込んでしまって、ご迷惑だと分かっていながら、無理強いをしてしまって」
 罪深い地底の領主がこんなに優しい妖怪であることに甘えて、自分は再び大きな罪を犯してしまっていた。
 そう思った途端、思考がまとまらなくなり、自分が何を言っているのか分からなくなった。後悔とか自責とか、そんなものが脳内を滅茶苦茶に荒らしていった。
「あっ。いえ、違うんです! そんなことが言いたかったんじゃなくて」
 さとりのそんな声が遠くなっていく。
「いえ、私のほうこそ、申し訳の立たないことを、あの、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、」
「違うんです、ナズーリン、落ち着いて」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 心が崩壊していくのが分かった。
 罪深い地底の妖怪にも、心はあるのだ。たとえ罪人同士であっても、一対一の会話となれば、心と心を通わせることになる。そんな当たり前のことが、ナズーリンは全然、理解できていなかった。
 なまじっか心を読めるさとりは、他人の心の機敏にとても敏感だ。彼女の心は純白の絹である。他人に少し触れただけで簡単に塗り替えられて、何色にも染まってしまう。そんな彼女の前で、心の底から好きだと思ってしまうのは、狡すぎた。何の責任感もなく、ただの甘えだけを、強引に押しつけてしまうことになる。
 ナズーリンは、星のことを忘れて、幸せになろうとしていた。罪だ何だと言いながら、都合のいいことにだけ簡単にすがりついていた。
 最低だ。
 好きだなんて、嫌われたくないなんて言うのは、最低だ。
「やめてください! そんなふうに考えないで、やめて」
 自分などが、何を一人前に、他人を好きになんてなっているのだ。こんなクズに好かれてしまうなんて、辛いだけに決まっているではないか。
「ナズーリン、お願い、話を聞いて。私、大丈夫ですから。貴方を守りますから」
 自業自得なら、仕方ないというだけで済んだかもしれない。だが、ぬえが言っていたように、自分は他人を巻き込みすぎた。自分にばかり甘くて、中途半端なことをしすぎた。もっと自分を追い込んで、傷めつけて、きちんと独りになって、誰にも頼らずにいなければいけなかったのに。それなのに、さとりに夢中になどなって、好きだなどと言って、苦しませて、挙句このザマだ。さとりが目の前で泣いている。
 同じことの繰り返しではないか! こうしてしまうことが嫌だから、地底まで来たというのに!
「ナズーリン、違うんです、やめて……」
 ああ、さとりが、泣いている。泣くのをやめてほしい。
 なんて可哀想なことをしてしまったのだろう。

 心のなかで、何かがぷつりと切れてしまった。虚無感が押し寄せてきて、いっそこのまま死んでしまいたいと思った。久しぶりの気持ちだった。
「さとり様、すみません……しばらく、暇をください」
「そんな、待って、もう少し、待ってください」
 ナズーリンはそそくさとベッドから降りた。
 そうだ。
 手紙を、早く書かねば。みんなと決別するのだ。しなければ。
「本当に……ご迷惑をおかけしま――――」
 そのとき、ごほごほと強い咳が出た。咳はしばらく止まらずに、だんだん喉だけでなく、胸の奥まで痛くなっていく。なおも止まらないので、どうしようもない。
 苦しいなあ、痛いのは嫌だなあ……狡賢いはずの鼠の頭脳は、その程度のことしか考えられなくなった。
「だ、大丈夫ですか、ナズーリン、ナズーリン!」
「平気、です……」
 ようやくさとりの問いかけが聞こえて、ナズーリンは咳が出るのをなんとか押さえつけながら答えた。だが言葉とは裏腹に、この咳は治らないと勘が告げてくる。怨霊に身体を貫かれたときと同じように、身体が焼けるように熱い。きっとこれは、呪いだ。
 だが、ここで倒れるわけにはいかない。書きかけの手紙、他にも白紙と筆にインク壺を持つ。他のものは全て置いていく。未練を残さぬようにしなければ。
 身を隠せる静かな場所で、早く手紙を書き終えてしまおう。
 そして、そのまま。

「さとり様、ありがとう。さようなら」
「嫌、行かないで! ナズーリン、行かないで……」
 重たい指で、ドアを開けた。







  * * *







「ナズーリン」
 世の中の大抵のことはうまくいかない。生きるとは何と難しいことだろう。
 玄関を抜けた、門までの庭先で、空は道を塞いでいた。
「どいてくれ」
 ナズーリンは言った。
「いいけど、一発殴らせて」
 そう応えると、彼女は重そうな鉄の右手を構えた。
「!」
 直後、爆音が響いた。

 鉄の塊は急速に真っ赤になって、ナズーリンのいた地面を蹴散らした。殴るだなんて生易しいものではなかった。咄嗟に後ろへ下がっていなかったら、足まで一緒に粉々になっていたかもしれない。
 すぐに、追撃が来る。空は先程の攻撃の反動で飛び上がり、旋回して右手を突き出し、突進してくる。真っ赤に燃えあがった鉄の右手が、瞬間的に激しく光った。さらに巨大になった音が耳をつんざく。

 さすがに、あれは、防ぎ切れない。
 ナズーリンは咄嗟に、左側の茂みまで転がり込んで避けた。すぐ横から、熱風が襲ってくる。細い身体が、茂みごと簡単に吹き飛ばされた。瞬間、頭がぐわんと揺れる感じがした。
 身体が転がるのを止めてから、自分の身体のどこかから出血しているのを認識した。しかし身体をいたわっている余裕はない。かすり傷だと、思いたい。

「私、家族を見捨てる人が嫌い」
 煙のなかから歩み寄り、空は言った。
「貴方みたいな人が嫌い」
「見捨てたつもりじゃ……いや」
 言い訳をする必要なんてない。
 ナズーリンはゆっくりと立ち上がった。空には、ナズーリンの苦しみなど分からないだろう。これだけ素直で誠実だから、卑屈なこの気持ちなんてこれっぽっちも分からないだろう。分からないのは幸せだ。だからもういい。こんな自分を、とことん嫌ってくれ。
「見捨ててるのと同じよ。家族から逃げてるもの!」
 ああ、もう、どうでもいい。
 空は右手を構えて、腰を落とす。攻撃の合図だ。ナズーリンはそれを確認すると、避ける用意をしようとしたが――――

 こんなときだというのに、またも咳が再発した。胸が痛むほど大きな咳をしたとき、急に息ができなくなったかと思うと、喉の奥から赤黒い血が溢れ出た。手で口を押さえるが、血は溢れ、手腕を伝い、焼けた地面へと滴った。
 汚い色だった。

「わ……ひょっとして病気なの?」
 その様子に、空は目を丸くした。攻撃は続けてこなかった。
 咳が止まらずに、彼女の問いに答えることもできない。口元を抑える手がどんどん赤く濡れていく。
 歪む視界のなかで、空の鉄の右手が急速に冷めていくのが見えた。


「こらーっ! おくう!」
 遠くから燐が駆けつけた。あの爆音だ、聞こえないはずがない。彼女は空の傍に行って、額を一度小突いた。
 その間に咳が収まってきた。今のうちに呼吸を整えておく。
「さとり様のペットを焼くなー! ナズーリン、大丈――――」
 燐が目を丸くする。当然だ。ナズーリンの流血は、まだ全然止まっていないのだから。
「……平気」
 あまり余計な気苦労をさせたくないのだが。
「へ、平気にゃあ見えないよ! 待ってて、今、薬とか拭くものとか、持ってくるから」
 彼女はそう言って、すごい速さで屋敷のなかへ駆け込んでいった。 
 ナズーリンは少しの間、朦朧としながらそれを見ていたが、はっとした。こんなことをしている場合ではないのだった。
 燐の帰りを待たずに、ナズーリンは歩き出そうとした。
「あの」
 それを空に呼び止められた。足を止めるが、振り向くことはしなかった。
「さとり様が、嫌いになったの?」
 不安気に、彼女は尋ねた。
 何と答えたらいいか少し迷ったが、ナズーリンは、
「……そんなはずないだろう」
 そう答え、地霊殿を去った。







  * * *







 最後に、パルスィに会いに行った。あまり悠長にしている暇はないが、少しだけ顔が見たくなった。話はしなくてもいいと思っていた。
 岩陰から、音を立てずに覗き見るつもりだった。しかし咳が出てしまったので彼女が気づいてしまった。心配そうな顔を向けてくる。
「鼠ちゃん。風邪、長引いてるのね」
 その言葉に、ナズーリンは止まらない咳で返さざるを得なかった。
 咳をする回数は明らかに増えていた。心なしか身体も重い。吐血するのもおかしいし、ここへ来る間、二度も眩暈に襲われた。
 やはり怨霊は恐ろしい。無理はできそうにない。
 パルスィが見つめてくる。そんな瞳を向けないでほしい。ナズーリンはもう、自分のことなどどうでもいいのだ。

「こいしのことを……聞きに来た」
 ナズーリンは仕方なく話す気になって、そんなことを言ってみた。
「え? なっ、どうして私に」
 パルスィは明らかに狼狽した。
「仲がいいと聞いてね。私のことを君に話していたのも、こいしだろう?」
「ああ、気づいてたんだ」
「ふふ」
 どうしても彼女のことが知りたいのだと告げると、パルスィは諦めたように話しだした。顔が赤かった。
「……そうね。気分屋だけど、とっても素直。寂しがりで、甘えんぼう。悪戯好きで甘い物好き。でも綺麗好きではないわね、意外と。部屋汚いもん。姉と似てるけど、そこだけ違うね」
 似ている、らしい。
 彼女がそう言うのは意外だった。顔は確かに似ているが、端正な姉と気侭な妹、ナズーリンには、比べることさえおこがましく思う。
「いい子だよ」
 パルスィは、その言葉で纏めた。
 あれが、いい子。そう聞くと、ナズーリンは胸が熱くなるのを感じた。
 こいしが羨ましくなりそうだった。パルスィは素敵な妖怪だ。
「そんな彼女が、君は」
「ん」
「好きなのかい」
 ナズーリンが敢えてそう尋ねると、パルスィは長い耳まで真っ赤になった。何も言わなくなってしまったが、これ以上は答を待つまでもない。

 よかった。
 こいしは正直者だ。もしも、ナズーリンも彼女と同じようにできていたなら、どこかの誰かには、こんなふうに思ってもらえることがあったかもしれない。
 そうだったらよかったのに。





 そろそろ行くよと言って、ナズーリンは反転した。どこへ行くのかとパルスィに聞かれたから、静かなところと答えた。
「だったら地底湖がおすすめよ」
 彼女には最後まで親切だった。
「ありがとう……」
「これも言わないほうがいいのかしら」
「……」
 ナズーリンはそれ以上何も言わずに、歩き出した。足取りは重かった。

 彼女には感謝してもし切れない。できればもっと一緒にいたかったが、それはいけない。愚かな自分が、彼女をも傷つけてしまわぬうちに、早く消え去らねばならない。

 ふらふらと洞窟の奥に進み、深い暗闇へと潜っていく。後は静かな場所で手紙を書き切れば、愚かな"家族ごっこ"が終わる。
 これでいい。これでいいのだ。























 事態は、思ったよりも悪い方向に進んでいる。
 星の不機嫌な日が明らかに増えた。唇を噛み締めながら考えごとをしているか、苛立ちを隠せずに眉をひそめているか、或いは独りでこっそりとすすり泣いているか。ナズーリンがまたどこかへ消えてしまったからだというのは、のろまな水蜜でもすぐに分かることだ。
 ナズーリンはたった一度だけ、ちらりと姿を見せた。そのとき星と何かを話していたことは知っているが、何を話したかまでは分からない。星もそれは堅く口を噤んで語ろうとしなかった。どうして話してくれないのか、水蜜にはちっとも分からなかった。

 水蜜と一輪は、星から話を聞こうとするのと、ナズーリンを探すことを交代で行い続けた。結果はちっとも芳しくなく、時間だけが過ぎていくようだった。
 白蓮は、星が喋りたくなるまで、ナズーリンが帰ってくるまでひたすら待つといった様子だった。毎日本堂の毘沙門天像と命蓮像に、ほとんど丸一日費やして祈りを捧げる。健気にも、痛ましくも思える。
 ぬえだけは相変わらずどこを飛んでいるのか分からないが、どうせナズーリンのためではないだろう。彼女はそこまで気が利く妖怪ではない。むしろうまくいかない寺に対して、陰でほくそ笑んでいそうなものだった。

 幻想郷はそう広くないが、簡単に探せない場所は数多くある。天狗の里、河童の里、無縁塚、紅魔館、他にも色々。まあまあ自由に歩けそうで、かつまだ探していないところといったら、地底ぐらいしかない。だが、地底の番人は彼女を見ていないと言うし……。

「ん、まてよ」
 いや、まさか。
 パルスィがそんなくだらない嘘を吐くものか。いくら苛立ちが募っていても、友人の言葉まで疑うなど。
 ……しかし。
 しかし、もしそうだとしたら……見つからないわけだ。

 真相を確かめようと思った。水蜜は居ても立ってもいられず、晩の命蓮寺を飛び出した。できる限りの高速で地底へ向かい、いつもパルスィのいる場所に着いた頃には、すっかり息を切らしていた。元々冷えている身体が、風によってもっと冷えた。


 風のよく通る、地底で一番寒い場所。パルスィは妖怪のくせに、夜にはここにいないらしかった。
 だがじっと耳を澄ますと、微かに話し声がする。
『……何を考えて……』
『……します……時間稼ぎでいいです……』
 それは隅に備え付けてある賽銭箱から聞こえてくるようだ。パルスィと、誰か分からないもう一人の声がする。だが耳を近づけても、あまりよく聞こえない。
『……あいつに……はないでしょ……』
『……なふうに聞かないで……』
『待って、橋に誰か来た』
 最後の言葉だけ、やけにはっきり聞こえた。
 何やら真剣に話をしているようだったのだが、水蜜に気づくとやめてしまったらしい。

「パルスィ、いるー?」
 仕方がないから、水蜜は賽銭箱に向かって声をかけてみた。返事はすぐに返ってきた。
『いないように見えて、私はちゃあんと見ているよ。これでも神様なんですにゃ』
 ですにゃ、だなんて可愛かった。自分で言っておいて勝手に照れている様子が、ありありと浮かぶようである。
「出直すか」
『ちょっと無視すんじゃない! 恥ずかしいでしょ!』
 いつものパルスィだった。安心する半面、疑った自分を怨めしく思った。
「今どこにいるの?」
『地霊殿よ。野暮用でね』
 だとすると、彼女と話していたのはさとりだろうか。
「そっか。聞きたいことがあったんだけどさ」
『うん?』
「なんかやる気なくしたからいいや」
『え。いやちょっと。ごめん私が悪かった』
 なぜか謝られた。
「冗談だよ」
 水蜜がそう言うと、薄暗い空中にぽっと緑の光が湧いた。ゆっくりと見覚えのある人影に変わっていき、やがてパルスィになった。正確に言えばパルスィの分身である。
 パルスィは小さな溜息を吐いて、水蜜を見た。本物に比べると胸が少し大きい。それだけではない。彼女の細めの眉、細い鼻筋、紅い唇は、全て僅かに美化されている気がした。
 なのに、締まった顎や耳の形、大きな瞳、元々綺麗な部分はそのままだった。小さめの肩も、柔らかい腕も、すらっと伸びる指も。全て水蜜の好きなパルスィだった。ところが――――

 そのとき彼女から、ふと微笑みが消えた。
 不気味な沈黙だった。なぜパルスィが一度言葉を飲み込んだのかが分からなかった。否、分かりたくなかった。
 彼女は右手の甲の傷を後ろに隠し、左手で左頬の傷を撫でた。そして迷ったように目を泳がせた挙句に、こう言った。
「やれやれね。どうせ鼠ちゃんのことでしょ」
「パルスィのことだよ。もしかして、この間、嘘吐いたの?」
「さあね?」
 悪びれたような、嫌らしい笑みだった。
 疑惑は確信に変わった。パルスィが悪びれるときは、隠し事をしているときだ。あの傷には何か意味がある。彼女はナズーリンの居場所を知っている。
「何で……」
 言いながら、胸に針が刺さる。
 彼女に嘘を吐かれたのは、初めてだった。
「約束だからね」
「何でそんな約束するの! パルスィ、嘘なんて吐いたこと、なかったのに」
 一歩前へ出る水蜜に、パルスィは再び表情を殺した。当然のこととでも言うように、平静な様子でこう言った。

「貴方が何も気づかないから」
 心を握り潰されたような気がした。







  * * *








 水蜜は命蓮寺へ帰る気にならなかった。肌寒い真夜中の森のなか、切り株の上に座って空を見ていた。地上の月は冷たかった。
 パルスィは普段あまり物を喋らないが、水蜜に対してだけは別だった。彼女とは、かつて水蜜が地底に落ちてからの長い付き合いであり、それなりに信頼もあるつもりだ。言いたいことを何でも言い合った。それでいて彼女は親切で優しかった。しかし、今日のパルスィは少し違った。水蜜に落胆しているようだった。あんなに冷たい瞳を向けられたことは一度もなかった。
 彼女の前で泣くことだけはしたくなかった。だから慌てて逃げてきた。悔し涙は、地上を飛んでいる間に乾かした。今はもう、悲しみの余韻が胸に渦巻いているだけだ。
 たった一言で傷つくような、やわな心は捨ててきたはずなのに。パルスィに見限られてしまったような気がした。お前が鈍感だから、ナズーリンを苦しめていたんじゃないか、なぜそれが分からないのだと、彼女の瞳が責めてきたように思えた。


 そうか。ナズーリンは苦しんでいたのか。
 彼女があのとき地底のことを水蜜に尋ねたのは、何か期待を寄せていたのか。もしくは、助けを求めていたのか。
 やはりナズーリンは地底に行ったのだ。
 理由もなく地底に住みたがる物好きなど、そういるはずもない。どうして気づかなかったのだ。彼女はずっと苦しんでいたのだろうに。自らを地底に封じようとするほど、追い込まれていたのだろうに。
 ここ最近、ナズーリンの様子がおかしかったことなんて、とうに分かっていたではないか。
 俯くと、悔し涙が膝に染み込んだ。どうすればいいのか、何が正しいのか分からなくなった。星のため、ナズーリンのために、何かできることはないのか。


 夜空の雲を見上げていると、それがゆっくりと降りてきていることに気がついた。それは水蜜の前まで近づくと、包んでいた一輪をそっと離して霧散した。
「みつ」
 心配したふうに呼ばれた。
「夜中に飛びだしたかと思えば。こんなところで何してるの」

 水蜜は答に窮してしまった。
 どうしてか一輪は、水蜜の落ち込んだときに決まって現れる。地底にいるときは、これによく助けてもらったのだった。
「一輪こそ、何してるの」
「それは……、あんたを探しに来たのよ」
 羨ましいことに、いつだって彼女は気が利くのだった。他人の心の機敏に対しこんなにすぐ反応できるなんて、水蜜には到底できない。羨ましくて、今はとても妬ましかった。

「私って、何もできない」
 俯いて、すがるように呟いた。すがることしかできなかった。一輪はきょとんと首を傾げたが、すぐに様子を察して「何を言うの」と言った。
「星を助けられないよ。傍にいても、ナズーリンを探しても」
「一体どうしたの? 弱気になるなんて貴方らしくもない」
「あいつらのことが分からないの」
 こんなとき一輪ならどうするのだろう。星にすがってもらいたかったはずなのに、気づけば一輪にすがっているなんて、おかしかった。


 思えば、地底にいる頃もそうだった。水蜜は喚いているだけだった。変えられない現状を、白蓮が助けられない悲しみを、何もできない虚しさを、ひたすら嘆くことしかできなかった。パルスィは慰めてくれた。一輪は地底で過ごすための世話をしてくれた。ぬえは友達になって遊んでくれた。水蜜は、白蓮を助けようとすることが皆の優しさに応えることだと思った。だが、結局水蜜の力だけでは、地底の出口を開くことすらできなかった。灼熱地獄の異変があって、燐のサインがあって、さらに地上の大妖怪たちの力があって、初めて地底は開かれた。水蜜の力が及ぶ場面なんて、ひとつもなかった。
 博麗結界を越えるときも、一輪や星の力なくしては何もできなかっただろう。飛倉の破片を集めるときも、また白蓮を復活させるときにおいてさえ、さしたることはできなかった。ただ喚いていた。白蓮を救いたいんだと。それだけだった。

「わたし、なんにもできてない」
 我慢の限界だった。声は震えて、ほとんど言葉にならない。一輪がどんな顔をしているのかも分からない。海のなかのように視界は潤んで、顔を上げても袖で目を擦っても、何も見えなかった。
「みんなを、たすけたいのに」
 暗い海の底を思い出す。
 あの日、白蓮がそうしてくれたように。自分も星の助けになりたかった。ナズーリンの助けにだってなりたかった。自分の傍にいる全ての人の助けになりたかった。それなのに全然、うまくいかない。

「帰ろう」
 一輪は、それだけを言って、水蜜の細い右手を握った。
 今は立ち上がることにさえ、彼女の力を借りなければならなかった。ふらふらと力が抜けて、つい彼女の身体にもたれかかった。抱き締められて、しばらくそのままだった。
 悔しいが、こうしていると自然に安心ができた。悲しい気持ちも少しは治まって、やっと涙を拭うことができた。
 甘えるように一輪を抱き返した。くすっと微笑むような声が聞こえた。







  * * *







 命蓮寺の前に着いたとき、なかから怒り狂ったような声が聞こえた。
「聖のばーか! 何で分かんないのさ! いいよいいよ、私だけでも行くからね!」
 ぬえだった。彼女は夜中に大声で白蓮を罵っては、うるさい音を立てて玄関の引戸を開いた。その勢いに、目前にいた水蜜にも反応できなかった。
 辺りに鈍い音が響く。二人は豪快に正面衝突して、尻餅をついた。

「だ、大丈夫?」
 一輪が二人に手を差し出す。水蜜だけが手を取った。
「いたた……ちゃんと前見ろよ」
 起き上がりながらぬえは不貞腐れている。
「それ、こっちの台詞」
「うるさい。私は忙しいの」
 相変わらず可愛げのないことを言う奴だった。忙しくて気が立っているのは水蜜も同じである。言い訳などさせるものか。
 どうやって言い返してやろうかと一瞬考えた隙に、ぬえは先回りして言った。
「そうだ。ムラサなら行くよね。馬鹿な裏切り鼠をとっちめにさ」
「え?」

 少し怒った顔のままでこそすれ、ぬえにおどけた様子はなかった。驚いて一輪を見ると、彼女もまた驚いた顔をしていた。
 ぬえは、ナズーリンの居場所を知っている?

「あいつは汚い輩よ。突然寺を出ていって迷惑かけたと思ったら、今度は地底に迷惑をかけてた。無鉄砲なことやって、あのさとりをすっかり泣かせてたのは大した度胸だったけど」
 ぬえは目を合わせず外へ進んだ。二人が目線で追いかけても、振り返らない。
「あんたたちは謀られたのよ。恩知らず鼠にね。次に会ったらあの耳引っ剥がして、ムラサの胸に詰めてやる」
 酷い言い様だった。相当怒っていることが分かるが、かといって一応の家族である者をこうも罵られては、水蜜とて腹の虫が収まらない。
 言い返してやるのに口を開けようとしたのだが、一輪に「ちょっと待ってよ」と割って入られた。
「ぬえ。貴方ひょっとして、ナズに会ったの?」
 するとぬえは振り返る。
「うん? 会ったさ。会ったとも。何がいいんだか、さとりに気に入られて守られていたよ。命蓮寺を捨てて、イチャイチャしてさ。そのくせ恩も感じずいるのさ。あれも要らなくなったらまた捨てるような態度だったよ。そうでなかったらあんな―――」
「待って待って、あいつ、さとりといたってこと? じゃあナズは」
「そう。地霊殿よ」
 こんなときでも、さすが一輪は冷静だった。ひとつずつ疑問を解消していく。そうして話していくうち、息巻いていたぬえもだんだんと落ち着きを取り戻していった。

 ぬえが言うには、ナズーリンは地霊殿にて守られていたらしい。ところがさとりの制止も聞かずなぜか怨霊たちのいる地下へと潜り、取り憑かれて帰ってきてしまった。ぬえたちに助けられたナズーリンは礼こそ言えど、無茶をした理由は意地でも語らなかったという。ぬえはそのことを不義理だと言っていたようだ。
「変ねえ」
 と一輪は言った。
「どうしてそんなことするのかしら」
「わるーい奴だからよ」
「まさか」
 少しの間ができた。すると一輪は何か閃くことがあったらしく、ふうんと言って頷いた。ぬえの予想は当たっているとも外れているとも言えない、とも言った。
「何、面倒なこと言ってるのさ。こうしている間にも、あいつは逃げ回るつもりなのよ? ゆっくりしていられないよ」
「いくらなんでも、そこまで責任感のない奴じゃないわ。考えがあって――――」
「ちょっと、まだそんなこと言ってるの!? 星があんなになってるのに! 早く連れて帰らないと、取り返しが……」
 一輪はどこまでも慎重だった。こんなときの彼女は頼りになる。水蜜にはここまで分からないから、尚更そうするしかない。
 だが、ぬえもぬえで確固たる思いがあるようだった。普段ちゃらんぽらんな彼女がやけに焦れているから、嫌に説得力がある。
「……ムラサはどうなのさ。一緒にナズーリンを捕まえに行ってくれるでしょ?」
「何言ってるの。みつ、行っちゃだめよ。話を余計にややこしくするつもり?」
 二人は全く意思を統一する気がないらしく、すっかり仲違いしてしまった。
 水蜜は困ってしまった。どちらの言い分も理解できた。ナズーリンを信じるのか、信じないのか。この采配によって多数決が決まってしまいでもしたら、下手をすれば命蓮寺全体の方針すら決めてしまいかねない。そう思うと余計にたじろいでしまう。
 それで、あーとかうーとか自信なく唸っていたら、ぬえに呆れた溜息を吐かれた。一輪を見ると、こちらも困ったような仕草をしていた。

 星はナズーリンと最後に会った日から、変わってしまった。原因がナズーリンにあることは、最早誰の目にも明らかだ。
 しかし当のナズーリンの事情が分からないという、一輪の主張も分かる。元々何を考えているか読めない奴だが、果たして一度だって命蓮寺の皆を裏切るような真似をしたことがあったかどうか。彼女はいつも黙って星を助けてきた。だからこそ星は彼女を信頼していたのではないのか。なのに、突然悪意を持ってこんなことをするだろうか。何か言えない理由があるのではないかと考えるのも、自然だろう。
「迷うんだ。このまま放置したって、いいことなんかないでしょうに」
 ぬえは急かしてくる。苛立ちを抑え切れていない。今すぐ地底へ行きたいと言うように。
 しかし、水蜜には分からない。ナズーリンの思惑も、星の心中も。何が最善なのか、もう分からないのだ。どうしても決断することができなかった。それに苛立ったのか、ぬえは再び激昂していき、ついには顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。

「あーあ! ああそうですか! ムラサまで悠長なことだね。どうして助けないの? どうして。星があんなに苦しんでるの、分かんないの?」
 嘆きの声は夜中に響き、そして水蜜の心のなかへ、ずしりと落ちた。
「同情とかしないわけ? 可哀想とかないわけ? あれ見てまだ鼠の肩持ちたいわけ? いつまで友達ごっこしてるつもりよ、星はもう裏切られてんのよ!?」
「ちょっとぬえ、落ち着いてよ。あんた言ってること滅茶苦茶よ」
 一輪が止めに入っても、ぬえはもう止まらなかった。彼女は逆に一輪の肩を鷲掴みにして、ますます声を強めた。
「一輪だってさ、ホントはもう分かってるくせに。あんたの頭で分かんないわけないでしょ? 星は裏切られた、次は自分たちの番! 信じたところで報われないの分かってる。ああそうさ。行ったところで無駄なのさ。ナズーリンは今でも逃げ回ってて、たぶんもう捕まらなくて、星はおかしくなったままで」
「ちょっと」
「一輪さあ! あんた頭いいんだから、もうだいたい見当ついてるんでしょ? でも隠してるでしょ! ナズーリンのこと信じてる振りしてるだけ。本当はわざと何もしてないの。真相に触れるのが怖くて、見当ついてることも全部分からないままにしてる。わざと。そうだよね、分からなければ可能性はゼロにならないもんね? あんたの頭のなかではね!? 自分が状況悪くしてるって分かってるから、黙ってるんだよね!?」
 最早、何のことを言っているのか水蜜には分からなかった。ぬえはただひたすら早口で捲し立て、水蜜に分かる言葉では語ってくれない。不幸なことに一輪だけはその真意を掴んだらしく、ついに青筋を立てて怒りだしてしまった。
「あんた……! 言っていいことと悪いことがあるでしょ」
「ふん。いつまで白を切るつもりなんだかね。ゼロにしてあげる。可能性なんて嘘。本当は分かってるんでしょ。私は意地でも見に行くつもりよ、あいつの――――」

 雷が鳴った。
 いつの間にか月は雲に隠れていた。

 水蜜が見上げた顔を前に戻したとき、一輪の平手が既にぬえの頬を通りすぎた後だった。
 ぬえは頬を押さえて、ただ怨めしい表情をした。
 誰が正しいかなんて、もう関係ないような気がした。


 雨が降ってきた。







  * * *








 事態はこの手の届かないところで、着々と進行していたらしい。世の中はひたすらに流れる。水蜜が何をしていようと、ありのままに。
 彼女は無力だった。

 白蓮は寝ている時間以外のほとんどを祈りに使っていた。いや、今や寝る間さえ惜しんでひたむきに祈り続けている。延々本堂の畳に坐したまま、ただじっと何かを待っていた。止めるのを憚りたくなるような必死さを垣間見るも、水蜜はもう手段を選んではいられなかった。
「ごめんなさい、聖。貴方にすがらせてください。私、もう限界です」
 惨めにそう言って、白蓮の背後に坐す。修行不足を痛感する。白蓮はこんなにも懸命だというのに。水蜜は自分のことで手一杯だった。
 聞こえているのかいないのか、白蓮の背中はじっとしたまま応えない。まるで死んでいるかのように静止していた。
「聖、お願いです。考えを聞かせてください」
 畳に手をつき、深々と頭を下げた。視界が畳に遮られ、部屋の静寂がより一層深く感じられる。闇のなかで独りきりになったような、肌寒い思いがした。
 雨音さえ聞こえない。この部屋はどんなときでも音ひとつなかった。水蜜はじっと白蓮の言葉を待った。毘沙門天の言葉を待つ白蓮の傍で、同じようにしてひたすら待った。

「みつは、どう思っていますか」
 どのくらいそうしていただろうか。ふと白蓮の澄んだ声だけが通った。
 水蜜は答に窮した。どうにもならないのではないかという不安の言葉ばかりが浮かんでは、それを掻き消そうとするのが精一杯だった。
「……分かりません。一体どういうことなのか、まるで」
 衣擦れの音すらしない。ただ、「そうですか」と呟いた白蓮の声があっただけだ。顔を上げずにいても、白蓮が微動だにしていないことが分かる。
「七日七晩、毘沙門天様と命蓮の前で、知恵を絞って考えました。けれども答は出ませんでした。イチに色んな情報を探してもらったけれど、それでも分からないの」
「聖にも分からないのですか」
「あの子は幸せじゃなかったのかしら。やっと、皆で一緒に暮らせるようになったのに……」

 しなかったはずの雨音が聞こえた。顔を上げて見ると、白蓮の背中は少しだけ丸まっていた。
 白蓮が何も分からないならば、水蜜になど分かるはずがない。
 ただ、そこでどうしても割り切れないひとつの思いが、胸の内に浮かんだ。
「ですが、そうとも思えないのです。ナズーリンは星とよく縁側で日向ぼっこをしていました。一緒に掃除もしていました。星に料理を褒められたときなんて、滅多にしない笑顔を見せてくれたものです。一輪と問答をすることなどしょっちゅうですし、正月にはかるた遊びに熱を上げていたではありませんか。何より、……」
 そこまで一気に話したが、水蜜はふとこの続きを言いたくなくなった。だが白蓮が何も言い返そうとしないので渋々続けたが、歯切れはとても悪かった。
「……その。法界に行こうというとき、誰より頑張ったのはナズーリンなんです。やる気だけは私も負けていなかったつもりなんですが、一番成果を上げたのは」
「そうですか。……そうですね」
 仕方なくした話を白蓮は急に遮ったかと思うと、ぶつぶつと何か呟いてうな垂れた。水蜜は落胆されたのかと思って怖くなった。だが、そうではなかった。

「みつは、今でもナズーリンを信じているのですね」
 白蓮はおもむろに振り返ると、らしくないことを言った。
「そんな。聖は疑っておられるのですか」
「いえ。ただ思うのは、あの子は何か隠し事をしているんじゃないかっていうこと」
「……隠し事ですか?」
 少し落ち着いて見ると、白蓮の顔にはかなりの疲れが出ていることが分かった。目の下には隈ができている。もしかしたら、最近はほとんど眠っていないのではないか。
「命蓮が言うの。毘沙門天様は忙しくてなかなかお話はできないけれど、数ある宝具を通して信者の行いをよく見ておられる、って。宝塔の光が消えぬうちは、信者への怒りはないって。人であろうと、妖であろうと」
「ナズーリンの行いも見ておられると?」
「ええ。そして、その行いは罪ではないということ」
「では、やっぱりあいつには事情があったんですね!」
 間違いではなかった。水蜜の心がぱっと明るくなる。
 これならば、希望はある。ナズーリンの事情を汲み取って、解決すればいいだけだ。ナズーリンが戻ってくれば、きっと星も以前のように元気になるはずだ。

 ところが白蓮は次のように言った。
「もちろん。問題は、ナズーリンも星も事情を教えてくれないこと」
「と、いうと?」
「きっと私たちは信用されていないの」
 力なく笑う彼女が、遠くにいるように見えた。

 ナズーリンたちは何も言ってくれない。
 悪事を働いているから黙っている、とは考えにくいと、そこまではいい。だがこれだけでは、彼女のなかで何が問題なのか分からないから、助けたくてもどうしようもない。白蓮はそう言っているのだった。
「私も分からないの。どうしたらいいか。貴方と一緒」
「そんな」
 白蓮すら信用しないとは、どうかしている。
 どうかしていることは確かなのだが、そこから先が真暗闇だ。その闇は、水蜜たちが当てた光さえ飲み込んでしまう。
 水蜜はうな垂れた。彼女たちの心を分かるには、どうしたらいいのだろうか。

「みつ。私は祈りを続けます。毘沙門天様のお話を、直接聞きたいから。貴方は星の傍にいてあげて」
 白蓮は再び背を向けて、それっきり何も言わなかった。






  * * *






「ナズーリン、生きているんでしょうか」
 星のいる寝室に行くと、何の脈絡もなしにそう言われた。
「え? い、生きてるんじゃないかな」
 水蜜は少し迷ったが、こう答えることに落ち着いた。星の横に座って、弱々しくも笑顔を向けてみた。
 星は、ふにゃんとした笑顔を返した。久しく見なかった笑顔だった。
 いつもより機嫌はいいようだが、どこか舌足らずで頼りない喋りなのが気にかかる。やはり、まだ本調子というわけではなさそうだ。
「誰も信用してくれないんで、困ってます。星、あんた変よぉとか言われちゃって。変じゃないですよ。変なのは皆のほうです。ナズーリンが私をおかしくしたって言うんです。おかしくないですよ。おかしいのは皆のほうですよ!」
「う、うん」
 星の声がどんどん強くなっていった。形相も強張っていく。
「ナズーリンはいい子なんです。皆は違うって言うかもしれないけど。口には出さなくても、皆のために一生懸命なのです。すっごく義理堅いんですよ。約束を破られたことなんて一度もありません。そんなナズーリンに向かって裏切り者だなんて、短絡的です。どうかしてますよ。おかしいですよ。あんなに優しい子なのに、どうして」
「分かったよ、分かった。もう疑ってないよ」
 見当違い。全然、落ち着いてなんていない。支離滅裂に捲し立ててくる。むしろ悪化していると言っていい。
 水蜜は暴れ出しそうな星の背中を撫でた。星はそれで熱が冷めてくるにつれて、やがてがっくりとうな垂れた。相当、不安定らしい。
 この状態では、少しだって疑うような素振りも見せられない。


 水蜜は星の肩を抱きながら、何となく周りを見渡した。いつもとほとんど変わらない、布団を敷く前の寝室。ひとつだけ違うのは、星の背後にある木の卓に、宝塔が無造作に置かれたまま、やけに強く輝いていたこと。
「ムラサ」
 しばらく黙っていた星だが、顔を上げないまま、おもむろに名前を呼んだ。
「なに?」
「貴方は私を信じますか」
「もちろんだよ」
 一瞬、あの睨むような、鋭い視線が向けられた。
「私が毘沙門天の弟子でなくなってもですか」
「え」
「私が咎人であってもですか」
 不安定な彼女の目は、すぐに泳ぎ始めた。
「どういうこと……?」
 まるで隠し事でもしているかのようだ。
 彼女は答えなかった。
 この目は誰かに似ていると、水蜜は何となく直感した。意思の強さが試されている。弱った星が、自分にすがろうとしている。


 このとき水蜜は、星の背後で光る宝塔を見ながら、寺の皆のことを思った。考え続ける白蓮を、探し続ける一輪を、怒り続けるぬえを、泣き続ける星を。隠れ続けるナズーリンを。悩み続ける自分のことを。
 想像のなかで、彼女らは手を繋いでいた。ぬえの右手が水蜜の左手を掴み、水蜜の右手は一輪の左手を掴み、一輪は白蓮の手を掴み、白蓮は星の手を掴み、星はナズーリンの手を掴んでいた。この情景は記憶のなかにあったものではない。ひとひらの羽根の如く、ふわりと天から舞い降りてきたのだ。

「……信じるよ。家族だもん」

 ほとんど無意識のまま、呟いた。半ば独り言だった。
 二人の目が合うと、星の顔は真剣になった。それが今更雨の音を蘇らせ、あの日の記憶を呼び起こす。



 星が白蓮を封印することを決めた。そんな知らせを、一輪から受けたのも、今日と似たような雨の夜だった。次は私たちの番だと、暖かな寺から真暗な山道へと飛び出し、泥水を踏んで山奥へ走り抜けた。
 道中、水蜜は星を怨んだ。数日後、殺してやろうと勇み、星の前に姿を現した。だが幼い彼女では全く歯が立たなかった。いとも簡単に取り押さえられて、彼女もまた地底へと封じられた。
 寺の妖怪たちはばらばらになった。水蜜は絶望した。同じ場所に落ちた一輪とすら仲違いをしたこともあった。彼女が操る雲山の拳に殴られたことも、一度や二度ではない。

 だが、水蜜は決して独りにはならなかった。仲間のいないときは一度もなかった。自分は頼りない船長かもしれないが、仲間たちはいつも傍にいてくれた。
 その後、地上で再会した星たちは当時のことを、封印した振りをして後に助け出す手はずであったと明かした。妖怪退治に勇んだ人間たちを鎮めるには、それしかなかったのだと。しかし水蜜たちを地底に落とした後になって、計画は頓挫したという。地底の封印を解くところを人間の僧侶に見つかり、星たちまでもが槍玉に挙げられたらしい。それからどうなったかは分からないが、水蜜たちが地底を抜け出すまで、ついに封印を解くことはできなかった。

 確かなことは、それでも星もナズーリンもここにいて、水蜜たちと共に白蓮の傍へ集ったということだ。きっと結束の力によるものだ。白蓮を助けたとき、皆が皆躍起だった。
 今だってそれは変わっていないのだ。ナズーリンのために皆が一生懸命に考え、行動し続ける。これが絆なのだ。離れていた時期はあったけれども、これは元々同じ場所で過ごしてきた者の結束なのだ。
 もはや、家族なのだ。

「星を見てたら、何だか急に分かったよ」
 こんなに単純なことだったのかと、水蜜は笑った。
「星がナズーリンが、ってさ、心配なんだよね。皆同じこと考えてるんだ。命蓮寺の仲間のこと。聖も一輪も、ぬえだって同じ。ずっと私と同じこと考えてたんだ。ナズーリンもきっとそうなんだね。星もそうじゃないかな」
 確かな根拠はないのに、なぜだか自信があった。星の顔に答が書いてあったことに気づいたようで、呆気なく思った。しかしとても充足する気分だった。
 星はやや驚いた表情をしていた。水蜜はそれを気にも留めなかった。彼女のなかで最早、答は出ていた。
「いつの間にか私たち、家族になってたんだ」
 水蜜は星の手を取ってひとしきり握手をすると、唖然とする星の布団を敷き出して、そのなかであっという間に眠ってしまった。

 まだ雨の音がする。






  * * *







 すっかり晴れた朝、一輪と水蜜は一緒に洗濯物を干していた。黙々と家事をこなすと気分も明るくなる。一輪を誘って、しっかりと家事をこなしてよかった。昨日ぬえは焦っていたが、水蜜は何となくナズーリンが信じられる気がしたから、気持ちを落ち着けるために少しぐらいゆっくりしても大丈夫だと考えた。きっと一輪もそう考えているのだろうと思う。

 一輪が先に自分の担当分を干し終わると、思い耽るようにこう言った。
「みつ。ナズが最初にいなくなった日、あんた」
「うん?」
「あいつの行き先について、当てがあるって言ってたじゃない?」
「ん。あー、言ったね」
 水蜜には随分遠い過去のように感じた。
「あれって、ひょっとして地底だったの?」
「……うん」
 あのときは確か、ナズーリンが地底に興味がありそうだったから、ならそこにいるんじゃないか、という程度の単純な考えだった。

「どうしてもっと早く言ってくれなかったの」
 分かっていたなら一緒に探したのに、と。穏やかな声色だが、真剣な表情だった。
 二人はしばし黙って見つめ合った。水蜜は言葉の意図を理解しあぐねて、何と答えていいか迷った。
「……変だと思ったんだよ。ちょっと前にあいつが地底のことを聞いてきたとき、わざわざ説明上手のイチを避けて、頭すっからかんの私に聞いたんだ。何かイチに聞けない理由があったんじゃないかって思った。だからナズーリンを探すときも、私一人でなんとかしたほうがいいのかなって」
 迷った末、やはり素直な気持ちを話した。一輪の溜息が虚しく舞う。
「ああそう。それでこのザマね」
 その言葉は、爽やかな気分を打ち壊すのに充分すぎた。
 水蜜は洗濯物を干す手を止めて、うっと嗚咽を漏らした。

 確かに、結局ナズーリンを見つけることはできなかったどころか、橋姫に止められ地底を探すこと自体を満足にしなかった。茶を奢らされたのは別にいいのだが、この結果、ナズーリンは地底の奥深くで奇妙なことをし始めて、あわや手遅れとなる一歩手前までいってしまった。これは言い逃れもできない、水蜜の失態である。パルスィを無視して強引に探していれば、とも思いはするのだが。
「頭すっからかんの自覚があるなら、独断専行はよしてよ。碌なことにならない」
「ごめん……」
 失態は失態だから当然なのかもしれないが、それでもこう言い捨てられるのは悔しかった。水蜜にだって言い分はある。
「で、でもさ。パルスィが嘘吐いて止めに入るなんて思わないじゃん。友達なんだし、信じちゃうよ」
 言い訳をして余計に怒られるかと思ったが、一輪は案外そこに同意してくれた。
「それなのよね。どうしてあいつがナズを庇ったのか……」
「パルスィ言ってた。私が何にも気づいてないって」
「え?」
「もう、よく分かんないや」

 そこまで喋って、水蜜は手が冷たいことに気づいた。洗濯物を持ったままであることを、今の今まで忘れていた。
 しかし、冷たくなったのは本当に手だけだろうかと考えてしまった。
「どうせ理解できないよ。私、馬鹿だもん」
「馬鹿でなくても分からないよ。パルスィは、何か私たちの知らない、重要なことを知っているようね」
 聞きながら、水蜜は再び洗濯物を干し出す。
「どうやって分かったんだろう」
 自分はこれだけ考えてもよく分からないのに、パルスィは簡単に分かったなんて、悔しい。
「あー、そりゃ、ナズが喋ったのよ」
「え?」
 何か分かったというように、一輪は一人で頷いた。
「あいつの事情ってやつは、私たち寺の連中には言えなくて、パルスィには言えるものなんじゃないかしら」
 パルスィは、水蜜と同じようにじっくり考えて事情を悟ったわけではないらしい。なるほど、本人から直接真相を聞いているなら、彼女の行動も不自然ではなくなるかもしれない。
 では、彼女に話した事情とは何か。
「私たちに隠れて思っていること。私たちに対して思っていること。かつ、大好きな星の傍を敢えて離れなきゃならないほどのこと」
「それって?」
「……何だろね?」
 転びそうになった。

「なあんだ。イチも分かんないの」
「いやまあその。けど、何かあるとは思うのよ。私たち全然気づいてないだけで、大事なこと」
「そっか……」
 空になった洗濯かごが、一輪の手でぶらぶら揺らされている。集中しているときの彼女は、無意識に手が動く癖がある。

「今日も地底に行くつもり?」
 その瞳の奥には、いったい何が映っているのだろう。
「……うん」
「ぬえは手遅れだとか言ってたけど」
「それでも行く」
「そう」
 水蜜は、彼女の瞳が翳るのを感じた。




 ぬえは昨夜、白蓮とも一輪とも喧嘩していたが、今は不貞腐れて八畳間の隅に蹲っている。
 水蜜が覗いてみると、彼女は壁に向かって、あからさまに拗ねていた。こういうときはおとなしい。いつもこのぐらいおとなしければ可愛いものをと、水蜜は思う。
 黙ってぬえの背後に座るも、彼女は特に何も応えない。

 こうも分かりやすく拒絶されると、却って構いたくなるのが性分であった。とりあえず、スリッパで後頭部を殴ってやった。ぱこんという軽快な音が鳴る。
「何すんだよ!?」
 さすがに驚いていた。彼女が頭を押さえて振り返る。
 涙目で睨まれても、迫力はあまりない。
「皆が考えてること、整理してるんだ。知ってること全部喋れ」
「嫌だね。どうせ言っても誰も何もしないんでしょ。きっともうナズーリンは逃げただろうしね。昨日のうちに捕まえておけばよかっただろうけどねー」
 見る限り昨日よりは落ち着いているようだが、どうやらまだ根に持っているらしい。水蜜だっていつもお気楽なわけではない。むっとしたものの、思い直す。
 今は喧嘩しても仕方ない。
「……ちぇ、分かったよ。今更だけど、昨日ぬえが言っていたこと、私がこの目で確かめに行く。それで許してよ」
「え」
 命蓮寺は繋がっている。彼女とて例外ではない。

 水蜜はさっさと立ち上がった。その姿を上目に追いながら、ぬえは変なことを言った。
「え、えっ? や、知らないよ、私の言うことなんか信じて? 痛い目見るかもね?」
 自虐なのか、皮肉なのか、実際罠にかけるため嘘をついていたのか。いずれでもよかった。水蜜はもう、ぬえも信じることに決めていた。
 皆の考えは一見ばらばらだが、全部少しづつ合っているのだと思う。それを上手に繋ぐ線が見つからないだけだ。
 答えないままに、部屋を出る。今から、地底を目指す。







  * * *







「みつ」
 水蜜は屋外に出たところで、白蓮の穏やかな声に呼び止められた。
「地底に行くのですか」
「はい」
 彼女はいつもの優しい顔だが、やはりどこか疲れているようにも見える。
 具体的な行動を全て水蜜たちに任せ、毘沙門天を呼ぶために一人祈りを捧げ続ける。それはそれで精神力の必要な役割だ。水蜜は、せめて自分だけでも元気でいなくてはいけないと思った。
「すぐ帰ってきますよ。妖怪ですから」
 あまり意味もなく笑いながら、あまり意味のないことを言った。白蓮は少し押し黙ってから、「みつには辛い思いをさせっぱなしですね」と言った。
「辛い思い? 私が?」
「ええ」
「いや全然。辛いのは、私じゃないです」
 白蓮は「そう」とだけ応えた。


 乾いた風が吹いた。
 今日は晴れているが風が強い。この調子では、橋は今頃荒れに荒れていることだろう。パルスィの機嫌は、さぞ悪いことだろう。また罵られたら、立ち直れないかもしれない。

「みつ、これを」
 白蓮は握った右手を差し出した。催促されるがまま水蜜も掌を差し出すと、両手で優しく木片を握らされた。
 今となっては貴重な、命蓮の使った飛倉の欠片だった。手にした者の身体能力を向上させる法力がかかっている。
 どうして、というのが水蜜の反応だった。白蓮がこれを託す、その意図を測りかねた。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
 白蓮はそれ以上何も言わなかった。







  * * *








 水蜜のいなくなった部屋で、入れ違いに来た一輪に向かい、ぬえは囁いた。
「……あいつ、あんたと違ってびびらないよ」
「聞こえなかったんでしょ、あれ」
 昨日ぬえが最後に言ったことは雷鳴に掻き消され、水蜜の耳には届かなかったようだ。
「どっちでもいいよ。動ける分、あんたよりましだから」
「……まあね。結局何もできなかったんだし、ぬえの言うことも一理あるかもね」


 水蜜がパルスィと和菓子デートなんかをしていた日、星は泣きながら言っていた。途切れ途切れ、「ナズーリンは死ぬんだそうです。もう会えない」と。

 そして昨日、眠っているナズーリンを見つめながらさとりは言った。
『出会ったときから彼女の心はぼろぼろでした。怨霊に喰われて、心身ともにかなり疲弊しています。ごめんなさい、たぶん、長くないです』
 ぬえの心は締めつけられた。どうしてナズーリンがそんなことになっているのかと尋ねると、ひとつひとつ真実を伝えられた。
 どうしようもなくなったぬえは、歌を歌った。遠い昔の歌が、ほんの少しの癒しにはなったかもしれない。


 気づくのが遅すぎた。それが全てを狂わせた。
 ナズーリンは命蓮寺から離れること、それ自体が目的だったのだ。
 星が話してくれたときは、ナズーリンが去ってから既に数日経っていた。ナズーリンがまだ生きているとは思えなくて、一輪はそれ以上調べるのが恐ろしくなった。一度足踏みをしてしまった責任が、さらに重圧を加えた。彼女は動けなくなった。
 ぬえが行動してくれなかったら、ナズーリンがまだ生きているかもしれないという、僅かな希望の存在を知ることもなかっただろう。
 あの食えない鼠は、心を覚られることを嫌っていた。誰も知らぬどこかでひっそりと死ぬことがしたかったのだろうか。

「で、これからどうすんの?」
 ぬえは尋ねた。
「全部、星に話すよ。みつならきっとそうする」
 一輪は答えると、部屋を後にした。























 地底に着くなり、顔も合わせぬうちに「来たわね」と、友人の声がした。「ええ、来ました」と、静かな声もした。

 待ち構えていたのは、さとりとパルスィの二人だった。
「お出迎えありがとうございます」
 水蜜は、どういった風の吹き回しでしょうと、敢えてとぼけた。
 彼女たちが一緒になって水蜜を待ち構えていたという事態そのものが、既に何かを物語っているように思える。
「ここを通すわけにいかないのですよ」
 さとりが答えた。
 水蜜はできれば話し合いで、穏便に事を済ませてほしいと思った。だが二人は既に妖力を集めている。追い返すつもりでしかないようだ。
「そろそろ教えてくれないかな。貴方たちが何を考えているのか」
 念のため会話を試みる。
「ナズーリンのことですよ」
 そうじゃない。
 さとりは心を読んでいるはずなのに、なぜか人差し指をくるくると回しながら、わざと意地悪く答える。
「あいつが何をしようとしてるのか、知ってるんでしょ?」
 水蜜がさらにそう言うと、彼女は何を思ったのかにこりと微笑み、パルスィは呆れたようにそっぽを向いた。
 何だか自分だけが除け者にされているようで、気に食わなかった。

 私がやりますと、さとりが一歩前へ出る。いよいよ話にならなさそうだった。
 仕方なく、水蜜は渋々と妖力で錨の武器を作る。
「教えてくれないなら、勝手に調べさせてもらいますが」
 白蓮はこうなることを予測して、飛倉の破片を渡したのだろうか。


 パルスィは溜息を吐いた。これを聞くのは一体何度目になるだろう。嫌な響き。水蜜の心を無闇に絞めつける。
「私たちを倒せるなら、いいけどね。けど無理矢理通った先に、いいものがあるとは限らないよ」
 両腕に思いを込める。
「ナズーリンが、い、るっ!」
 右手で錨を振り上げる。左手に鎖を巻きつける。水蜜は仲間のため、親友に怒りをぶつけなくてはいけない。
 相手は射程内。いける。このままぶつけてしまおう。

「パルスィ!」
 錨を投げる。さとりには悪いが、水蜜の眼中には親友の姿しか映らなかった。拳を交えたいのは、誰より彼女だった。

 鉄の塊が振り下ろされる。地面が砕かれる。
 轟音がする。岩の破片、土埃、青ゴケ、全部が飛び散る。だが手応えだけがない。

(外した―――?)
 パルスィは微動だにしていなかったのに。
 おかしい。彼女の頭上をしっかり捉えていたはずだ。

 鎖を引く。重い錨を一度手元まで引っ張ると同時に、右手に柄杓を持つ。振れば水の弾丸が飛び出す、底のない妖怪柄杓だ。
 勢い余って錨を引きすぎ、背後でガシャンと鳴る。少しバランスを崩しながら、柄杓から連続して数発の水球を撃つ。やはりパルスィを狙う。


 にやりと、彼女が笑った気がした。
 そのとき水球は、あからさまに彼女を避けて曲がった。彼女の遠い背後で、ガン、というような硬い音が数発。高速の水球が岩壁を砕いた音だった。

 何かがおかしかった。攻撃の軌道を、変えられている?
 間もなく、さとりが動いた。バランスを立て直そうとした水蜜に、左手の人差し指を突き出すと―――

 その目が光った。
 次の瞬間、異常な息苦しさが水蜜を襲った。まるで水の底にいるような感覚に陥る。
 全然、意味が分からない。分からない、分からない、ただ指をかざされただけで、一体何が起こったのか。

「あ……あぁ……」
 麻痺した身体が仰向けに倒れる。その短い時間で、答に行き着いた。これは催眠術だ。噂に聞いたことがある。彼女は催眠術で、他人の意識を操ってしまうのだと。
 恐らく、先ほど攻撃の軌道がおかしく見えたのも、彼女が水蜜の意識に何らかの形で干渉したからだろう。認識を狂わされたのだ。
 水蜜の心に、痛みと、苦しみと、憎しみが想起された。
 意識が、深海に沈んでいく。
 視界は不気味に揺れ続け、足がまるで魔物に掴まれたかのように動かなくなる。
 この映像はまるで、あの嵐の夜の。
 船が沈んだあの夜、そのもの。

 息ができない。
 身体が動かない。
 意識が沈んでゆく。深い水底に。死の暗闇に。重圧の淵に。
 怖い。苦しい。痛い。これはあの夜の、雨、雷、風、雲、波だ。全身を圧迫していく、水、水、水。

 仰向けに倒れる。身体に感じる痛みなど、もうなかった。






  * * *







「やりすぎだ、これ。かわいそ」
「う、うぅ。すみません。ここまでメンタル弱いとは思いませんでした」
「年頃なんだよきっと。まあいいや、足止めには違いない。さ、協力してやったわよ。これでいいんでしょ?」
「はい。お疲れ様でした」
 水蜜は倒れていた。意識は混濁し、目は開かないが、聴覚と第六感は徐々に回復し、機能するようになってきた。さとりの視線が逸れるのが、不思議と感覚で分かった。
「さてじゃあ、死体は死んでも死なないし捨て置くとして。勝った私たちが鼠ちゃんを探しに行きましょうか」
「それはだめです」
「……どうして。放っておいたら拙いんじゃないの」
 しかし、動けない。身体全体が痙攣しているような気がする。トラウマを想起させられたときは、あまりにも恐ろしくて気が狂うかと思ったぐらいだから、身体への負担も相当なものであったのだろう。その影響がまだ残っているようだ。
 実際には水蜜は溺れてなんていないし、そもそも大量の水なんて存在していない。全てさとりの見せた幻覚だったようだ。だが、それを頭で分かっても、迫り来るトラウマに足が竦んで、息ができなかった。
 水底の暗い記憶が蘇るなか、思い出したのは命蓮寺の仲間たちの顔だった。これが意識を繋いだと言っても過言ではない。水蜜は、改めて彼女たちに感謝した。まだ諦めない。ナズーリンだって、命蓮寺の一員だ。

「私だって、できることなら一緒にいたかったですよ。だけどこれは、あの子が望んだことだから」
「見殺しにしてくれって?」
「……貴方には、そこまで話したくなかったんですが」
 さとりとパルスィが話に夢中であるうちに、作戦を練らなければならなかった。だが、彼女たちの言葉がいちいち思考を妨げる。
「その通りです」
「なっ。だからって、このまま放っておくわけには、」
「下手に手を出したら、あの子は自分の首を掻き毟るでしょうね。私は、あの子に自殺なんて罪深いことをさせたくないの。せめて病に伏してくれたほうが、あの子のためなんです」
「何よ、それ」
 見殺し。自殺。病。
 一体何のことを言っているのか。
「ふむ、後味が悪い、ですか? そんな問題じゃないんです。ここは地底ですよ」
「あの子は地上の子でしょう」
「地上に住んでいれば地上の妖怪ということにはなりません。あんな状態では地上にいられない。けど、かといって、あの子は地底の妖怪にもなれなかった。だから私、あの子を自分の子にしたんです」
 さとりの言う意味が、水蜜には分からなかった。
「貴方は協力すると言ってくれました」
「や、あれは、だって……ひどい。本当のこと、隠してたんだ」
 口論になりかかっている。水蜜にとって、まともに戦って勝てない以上、これは不意打ちのチャンスだ。だが話の内容が気になって仕方がない。さとりはどこまで知っていて、何をしようとしているのか。この期に及んで分からないことだらけだ。

「パルスィはナズーリンを助けたいと思っているんですね。でもだめです。そんな考えじゃだめ。あの子の気持ちを本当に分かっているなら、助けるなんて言葉、出てくるものですか」
「狡いじゃない、あんたがそう言うの。その立場は妬ましいけど、他人の心を読みすぎたようね。あんた、狂ってるよ」
「自覚してます。どうせ狂人ですよ。その狂人にしかできないから、私がやらなくちゃいけないの。あの子のためなら、何だってやります」
「……あんたね」
 死ぬとか。狂うとか。地底に飛び交う言葉はいちいち物騒だ。
 ナズーリンをどうしたいのだ。彼女は水蜜の家族なのに、黙ってこっそり何をするつもりなのだ。

 水蜜のなかで、怒りが、静かに感情を支配しようとしていた。小難しい理屈は理解できないが、さとりがナズーリンの命に関わることをしているのは理解できた。それは許せない。あってはならない。
 寝ている場合ではない!


 びりびりと痺れる両腕両足を起こして、無理矢理、身体を引っ張り上げる。押し寄せるのは苦痛、重圧、吐き気、嫌悪感。
 不意打ちだの騙し討ちだの考えてはみたものの、水蜜には似合わない。仲間への思いを鋼鉄の錨に乗せ、どんな困難も正面から強引に打ち砕く、そんなやり方のほうが性に合っている。
 手に巻きつけた鎖と錨が擦れ、じゃらじゃらと金属音が響く。それに振り向く二人の姿が視界に入る。

「あ、起きた」
「ですねー。さ、どうするんです、パルスィ? 今からでもナズーリンを助けに行くつもりですか」
 パルスィは、先の会話で少し戸惑っているようだった。

「おっと、違いますね。ここでの質問は、私を裏切りますか、でしたね」
「ああもう。何よ、片棒担がせたのはあんたじゃないの。今のところ相当の下衆よ、あんた」
「……だって、命だけあったって、だめですから。幸せの感じ方が分からなくなってしまった今では」
 一回だけ、さとりは哀しそうに目を伏せた。
 それをパルスィは見逃さなかったように見える。そして、少し間を置いてから、
「ふん……まあいいわ」
 と、ついに頷いてしまった。
「約束しちゃったしね。仕方ないから言うこと聞いてあげる。但し、この戦いの間だけ」
「パルスィ」
 橋姫を見上げたさとりの表情が、少しだけ柔らかくなった。
「こんなときでも、私の立場を案じてくれるんですね。優しいんですからあ」
「うるさい、褒めるな気が散る」

 水蜜はもう、訳が分からず頭のなかがごちゃごちゃだった。地底の妖怪は、どうしてこうも分かりにくいのだ。見殺しにされなきゃならないなんて、生き延びても仕方がないなんて、滅茶苦茶だ。

 さとりが再び、水蜜へ人差し指を突きつける。
 再び戦いが始まる合図だった。
 先手を取られてはまずい。水蜜は痺れる手で錨を持ち上げる。力の入らない足が、よろけそうになるのを堪えながら。
 声など出ない。だが、腹に精一杯の力を込め、気持ちを顔面にさらけ出し、情熱を込めて錨を振り上げる。

 直後、視界が歪む感覚がした。催眠術だ。あまりにも速くて、回避不能に思えた。錨がどこに飛んでいくか、これでもう分からない。既に手足はもとより、顔も胴も心臓も、身体中が痺れている。自分が真っ白になって消えて行くようだ。魂だけが飛び出して、怒りの塊になっていく。

 残ったのはほとんど感覚だけだ。どうにかして鎖を振り回し、錨を振り下ろす。落ちる。音はない。破壊する手応えと、飛び散る岩の破片があるだけだった。



 外れた。そう直感した。
 二つある的のうち一つにも当たっていない。今度はパルスィが、妖術で瞬間移動をして回避したのだ。ここでどちらかにでも当たってくれれば、楽だったのだが。
 これで次の瞬間にでも、さとりの精神攻撃が来るだろう。回避も防御も不可能だ。加えて一撃でも貰えば精神の安定は危うく、水蜜に勝ち目はない。
 だが諦めたくない。
 こうなれば、相打ち覚悟でこちらも妖術を使うしかない。


 波が、襲いかかった。
 恐ろしい波。悪夢の夜を呼び起こすかのような。

 しかしそれは、あの夜の幻影などではなかった。水蜜が砕いた地面から、溢れ出た間欠泉だった。
 水蜜は、妖術で地下水脈を操ったのだ。

「な! ちょっとさとり、これ――――」
「パルスィ――――」

 これは諸刃の剣だった。二人の声をかき消すように、地響きが唸る。間欠泉は大量の熱気を発しながら強烈な勢いで吹き出し、あっという間にさとりたちを、水蜜もろとも巻き込んでいく。狭い洞窟。逃げ場などない。息もできないほどに充満する水蒸気と、足を掬わんとする濁流の攻勢が、その場にいるもの全てを襲う。

 噴出はしばらく続いた。水蜜といえども、息などできない。目など開けられるはずもない。もはや彼女には気合と根性と、仲間たちだけしか残っていない。彼女は真下から吹き出し続ける、強烈な水圧に耐え続けた。痛い。苦しい。身体じゅうが濡れに濡れて、それが温水なのか、涙なのか、汗なのか鼻水なのか分からない。
 噴出が止まったとき、唯一、水蜜だけが巨大な悪夢に耐えて立っていた。
 服全てに染み込んだ温水が、仄かに温かかった。



 勝った。だが、弱り切った膝が震えた。錨を支えに耐えようとするも、水溜まりのなかに前のめりに倒れ、そのまま起き上がれなくなってしまった。

 限界かもしれなかった。身体が全く言うことを聞かない。ナズーリンを探さなければならないのに、この調子では、とても……。
 やはり自分は無鉄砲すぎるのかもしれない。水蜜は何度目かも分からない反省をした。この無鉄砲が災いしてナズーリンが死にでもしたら、そのとき自分は、星は、命蓮寺はどうなるのだろう。
 ああ、だめだ。やはり、探さなくては。こんなところで倒れたら、悔やんでも悔やみ切れない。はやく、はやく起き上がらないと……。


 正面から足音がした。何とか頭を上げて、その足を確認する。ごつごつして大きな靴と、地面につきそうなほど長いマントが見える。
 霊烏路空。今やさとりのペットのなかで、最強となった存在。
「貴方たち、さとり様を虐めるのね」
 ああ連戦だなと、思った。
「どうして? どうして私の家族を奪おうとするの?」
 違う。そんなことはしない。私だって、自分の家族を守りたいだけなんだ、そう答えようとしたが、声が出なかった。

「さとり様は、ナズーリンも家族にしたいんだって、言ったわ」
 ナズーリンを、家族に。
 どういうことだろう。朦朧とした意識のなか、水蜜は考える。
「だから、これは家族のため。邪魔するなら容赦しない。……死にかけさんでも」
 制御棒を向けられる。先端が赤く光り出す。力を溜め込んでいるようだ。
 これが一度撃ち放たれれば、超光熱の爆風が、否応なく直撃してしまう。だがこんな状態で避けられるはずがない。
 万事休す。目をつむる。
 そして。





 赤い熱線は、水蜜の頭上を通り過ぎた。
 後ろから岩盤の砕かれる音。続いて、ひんやりとした何かに優しく包まれる感覚。霧か、雲のようだった。
 もう目は開かなかった。だから重なる二つの声が、却って耳によく届いた。

「みつ!」
「ムラサ!」

 ああ、よかった。口元が僅かに吊り上がる。
 後は仲間に任せられそうだ。
 水蜜は静かに意識を手放した。








  * * *









 無鉄砲すぎるのよ、とか、無茶苦茶やるわ、とか、ごめんなさいとか、断片的に言葉が聞こえてきて、水蜜は深い眠りから目を覚ました。
「ごめんなさい。貴方たちも、家族のために戦っていたのね。なのに、私、」
 この声は空のものだ。
「分かりゃいいのよ、そんなの」
 続いて聞き慣れた一輪の声がした。
「私、ナズーリンにまでひどいことをしたの。さとり様のこと、わざと泣かせたのかと思って」
「気に病むことじゃないわ。元々誤解されやすいのよ、あいつ」
 どれだけ眠っていたのだろう。ナズーリンはどうなったのだろう。
 身体が重い。もう少しだけ眠っていたい。だが声が勝手に耳へ入ってくるようになって、朦朧としていた意識もだんだんとはっきりしていった。
 水蜜より先に、隣で誰かが起き上がった。彼女は生あくびをして、こう言った。
「ああ、あんたらいたの」
 パルスィの声だ。
「さとりは?」
「もう帰ったわよ。泣きながら」
 そこで一度、会話が途切れた。

 さとりはどうして泣いたのだろうと、水蜜はぼんやり思った。冷酷なことばかり言っていたのに。
 もう少し考えてみたいが、まだ意識が朦朧としている。身体が重い。このままもう一度眠ってしまいそうだ。
「会いに行こうよ」
「……そうね」
 空が言うと、パルスィは少し悩んでから答える。
「それなりに慰めてやらないと、ちょっと可哀想だわね」
「うん。さとり様、ずっと苦しそうだった。病気のナズーリンをさ……その、あの」
「あー、皆まで言うな。分かってるから」
 ナズーリンが病気だなんて、どういうことだろう。
 二人の会話の声と、足音が遠ざかっていく。妬ましいと聞こえた気がした。

 周りが気になると眠る気がしなくなったので、水蜜は身体を起こした。全身が痛んで動きにくかった。
 見渡すと、洞窟はもうあまり濡れていなかった。一輪が立っている。ぬえは気だるそうに岩に座っている。遠くに、なぜかバスローブ姿で立ち去るパルスィの後ろ姿があり、空が一緒になってついていくのが見えた。さとりの姿はない。

 「お、起きたわね」と一輪が言うと、ぬえも振り返った。いつか命蓮寺で、同じように目覚めたことがあった気がする。
「大丈夫? 私が誰だか分かる?」
「七輪」
「平気そうね。とどめ刺したろか」
 ついこの間まで当たり前だったような、他愛ない会話だ。何だか随分久しぶりのように思う。
「派手なことやったわねえ。旧都の奴ら、怒ってたわよ。床下浸水したぞって」
「う……ごめん」
 よく見ると水蜜もバスローブ姿だった。ぐったりしているところを脱がされたのかと想像すると恥ずかしかった。誰がやったのか気になるが、何となく怖くて聞けない。

 ぬえは相変わらずの様子で、にやけた顔をして何かふらふらと揺れている。
「ま、皆が無事で……残念。あの様子だと、パルスィ辺りは死んだと思ったんだけどね」
「こらっ。冗談でもそんなこと言うもんじゃない」
 一輪の言うことが尤もだ。ぬえはいちいち、癇に障ることを言う。
 水蜜は一瞬、彼女たちが助けに現れたときの後ろ姿を思い出したが、そのときの二人の面影は、もう見当たらない。子供を諭すようないつもの一輪と、子供のようないつものぬえがいるだけだ。
 二人はなぜこんなに穏やかなのだろう。

「あの後、何があったの。ナズーリンは?」
 我慢できずに問うと、二人の表情が明らかに曇った。
「結論から言えば、まだ見つかってない」
 一輪はそう答えた。続けてぬえが話しだす。
「あんたが間欠泉を掘り起こして、ぶっ倒れたのを見た。そのあと、おくうと私たちが戦って、私たちが勝った。最終的に四人もぶっ倒れてたから、私だけナズを探しに地霊殿へ行って、一輪には看病をさせた」
「なかなか手がかかったわ」
 一輪がなぜか頬を赤くして、既に乾いていた水蜜の服を差し出した。なるほど脱がしたのは彼女らしい。知りたくもなかった。
 水蜜はとりあえずそれに着替えつつ、話の続きを促した。
「地霊殿にはお燐が留守番してたんだけどね、なぜだかそこに、あいつから手紙が届いてた。宛名は星になってる」
「手紙? 読んだの?」
「……。えと、その、まだ」
 もたもたしていると思った。これがナズーリンを探すヒントになるかもしれないのに。
「見せて」
 水蜜は起き抜けの身体の重さを忘れてしまった。ナズーリンが、思いを伝えようとしているのだと思った。きっと大事な手紙だ。
 二人は一度顔を見合わせて渋った。水蜜はまた除け者にされているような感じがした。どいつもこいつも、なぜか自分には大事なことを話さないことが多い。
 一輪の頭巾のなかから、封筒が取り出された。手渡されたそれには、冊子のように厚い紙束が入っていた。

『星様へ』

 封筒にそう書かれている。手が震えたような、弱々しい字だった。嫌な予感がする。

 水蜜は、糊づけもされていない封筒の口を開け、中を覗き見た。そこには折りたたまれた手紙が無理やり詰められていた。何枚あるのだろう。
 指を突っ込むと封筒の口が少し破れたが、気にしない。全部まとめて取り出して、広げた。何の装飾もない白い紙に、綺麗な文字がこれまたぎっしり敷き詰めてあった。ナズーリンらしい文面ではある。

 急いで読むには多い分量だった。それに水蜜は書を読むのが速いほうではない。やや辟易したが、読まない訳にはいかない。

 読み始めてすぐに、次のような一文が目に入った。
『どうかこの手紙は、最初に星に読んでもらいたい。いずれは命蓮寺の全員に読まれてしかるべきでしょうが、それでも星に読んでもらいたい。もし貴方が星でないならば、この手紙をどうか星へ渡してほしいと思います』

 こんなときに妙な考えが思い浮かぶ。ひょっとしてこれは、ラブレターというものなのだろうか。一抹の罪悪感を覚える。
 けれども水蜜は、ナズーリンの願いを無視して読み続けることにした。彼女には悪いが、星への心配のほうが優先した。万が一、星に悪い影響を与えるような内容であっては困る。まさかもう会えないだとか、間違っても書かれていてほしくない。

 手紙に書かれていたのは、思い出だった。ただの鼠だった頃のこと、毘沙門天の傍にいた頃のことや、千年も前に初めて寺に入門したとき、それから現在に至るまで、思い出がひとつひとつ、丁寧に書き綴られていた。
 パルスィにあれだけ言われたのだ、しっかりナズーリンを理解しなくてはならないと思った。だからゆっくりと、全ての言葉を噛み締めるように読み進めた。



 それがいけなかった。
 もっと軽い気持ちで読んでいたら、まだ少しはよい感情を持てたかもしれない。
 半分も読まないうちに、手紙を破り捨てたくなった。許せないと、声に出すのをぎりぎりの理性で抑えた。
 なんだ。
 全部あいつが悪いんじゃないか。


「何か分かった?」
 一輪がそう尋ねる。水蜜は何も答えない。
 疑惑ぐらいならたくさんあったが、ナズーリンが共に白蓮を救った仲間であることまで疑いはしなかった。それが間違いだったと知った。

 ずっと前にはもう、裏切られていたのだ。
 水蜜のなかで、彼女の安否を気にする思いが一気に衰えていく。それと反比例するように怒りが心を支配していく。もう彼女を救うことはできない。それどころか、今すぐに罵声のひとつでもぶつけてしまいたくなる。
 許すとか許さないとか、そんな問題ではなかった。涙も、今は出そうにない。


 頭に血が上って何が何だか分からない。一輪に何か暴言を吐いたかもしれない。
 とにかく一度ナズーリンを殴りつけたかった。水蜜は手紙を持ったまま地底の奥へと走りだし、地霊殿を目指した。さとりが全てを知っていると思った。






  * * *






 白蓮が封印されてすぐ、水蜜たちは星によって地底へと閉じ込められた。

 当時の水蜜は、次第に自暴自棄になっていった。そのうち酒を飲むことを覚えて、旧地獄街道の酒場を連日飲み歩いた。現実から逃げるように酒を浴び、悪い記憶を全部飛ばしてしまう。すると幸せな夢が見られた。
 辛い記憶をかき消して眠ると、遠すぎて忘れかけていた記憶が蘇ってくる。あるときは、漁師の父を見送ったあと、身体の弱い母に代わって小さな家の掃除をしていた頃の夢を見た。またあるときは白蓮に付いて世話係をする傍ら、彼女に学問を習っていた頃の夢を。「みつは甘えんぼうね」と、母にも、白蓮にも言われる。気恥ずかしいが、それ以上に甘えられることが嬉しかった。
 そんな幸せは、現実の世界では全て失われていた。


 これがせめて運命のせいだったならば、なんてことなかったのに。全てナズーリンが仕組んだことなら、話は全然違ってくる。
 地霊殿の正門を飛び越え、玄関の巨大な扉を思いきり開く。派手な音がした。
 吹き抜けに見える二階から、正面の階段を下ってさとりが現れた。真っ白いドレスを着ていた。
「どうしました、ムラサ。そんなに大きい音を立てて――――」
 水蜜がずかずかと近づいていくと、彼女は急に怯えたような顔をして、言葉をなくした。

「ナズーリンはどこですか」
 怒鳴りそうになる声を抑えるのが大変だ。さとりの前でくらい、冷静でいたいのだが。
「……知りません」
「嘘だ」
「嘘じゃないですよ」
 先の戦いを思い出すと、水蜜はますます苛立った。さとりの肩を掴んで罵った。あのとき負けるまでは、自分が全て知っているとでも言いたげだったじゃないかと。

「あの子は確かに、しばらくの間ここにいました。色んな心を見ましたし、話もたくさんしました。だけど昨日、出て行きました。行き先は、すみません、本当に分からないんです。決めずに出ていかれてしまって」
 随分都合のいい話だ。ナズーリンの心を読めるさとりが、行き先だけ全く分からないなんて。
「信じてください」
「信じられるか!」
 怒りに任せ、掴んだ手に力を入れた。小さな肩に指が食い込むと、彼女の顔が苦痛に歪んだ。彼女は「痛い」と言いかけたが、それだけで、抵抗しなかった。やがて二人ともバランスを崩して、階段の上に転がった。水蜜はそれでも彼女を痛めつけた。
「本当はここにいるんでしょ?」
「いない、です……」
 まだ口を割らないのか。こっちは急いでいるのに。殴りつけるか、首でも締めれば喋る気になるだろうか。水蜜は彼女の喉元へと手をやろうとした。


 その刹那、横腹に一撃が飛んできた。それが水蜜の身体を吹き飛ばす。明らかに、小さなさとりには出せない重さだった。

 壁際まで転がされ、仰向けになって見上げたのは空の姿だった。長い制御棒に血糊が付いていた。
 あんなに重そうなもので殴られたのかと気づくと、全身から力が抜けた。これでも回復したつもりだったのだが、先の戦いの疲れがまだ残っていたようだ。
「もういいです、空。やめて」
 さとりは言った。白いドレスに返り血が染みていた。

 水蜜は、空が渋々制御棒を下ろすのを確認すると、次第に冷静になった。怒りをさとりにぶつけていることに気づいて、恥ずかしくなった。
 逆上した心を、さとりはまともに読んだのだ。恐かっただろう。
「……ごめんなさい。頭に血が上ってました」
 水蜜は倒れたまま天井を見上げた。
「いいんです。よくあります」
 そう微笑んだ彼女だが、瞳がまだ潤んだままだった。

「手紙を読んでしまったんですね」
 彼女は一度手で涙を拭ってから、そう言った。心を読んだようである。
「そう、です」
「ムラサには見せないでって言ったのに、ぬえったら」
 また除け者扱いだ。最近はこんなことが多い。何度もそんなふうに言われると、のろまな水蜜でもさすがに傷ついてしまう。
「どうして私だけ……」
「さっきみたいに怒るからです」
「う」
 その指摘があまりに尤もなので、ぐうの音も出なかった。反省しなきゃいけないようだ。


 第三の目が、視線を水蜜に向けた。さとりに似合わぬ強い視線だった。瞼を見開いて、威圧するように凝視する。彼女がそんなふうに見つめることに、水蜜は軽い違和感を覚える。
「ナズーリンを怨んでも、仕方ないですよ。どうせあの子はもうだめですから」
 さとりは言った。
「だめって、どういうこと?」
「一度歪んでしまった心って、もう普通には戻れないんです」
 それを聞いたとき、水蜜の胸がズキリと痛んだ。
「……ナズーリンは」
「はい」
「おかしくなってたんですか」
 先程まで物凄く怒っていたはずなのに、少しだけ憐憫の情が湧いた。優柔不断な自分の心が憎らしい。
 ナズーリンは自分の感情を表に出すことがほとんどなかった。いつも、何を考えているのか分からないような、涼しい顔をしていた。そんな彼女が心を歪めるほどに苦悩していたなんて、水蜜には想像できない。
「はい」
 だが、さとりは淡々と肯定した。心を読むさとりが言うのだから間違いないのだろう。
 病める苦しみは水蜜にもよく分かる。水蜜もまた広い海の底で、生きるもの全てを呪い続けたことがある。そんなとき、自分の意志というものはどこかへ消えてしまうのである。ひたすら怨めしさが身体を支配していて、気がついたときには、既に誰かの命を奪った後なのだ。

 水蜜はかつての自分の心を、今の自分に重ねた。ナズーリンへの怨めしさが、あのときの激情に似ている気がして、そして悔しくなった。やはり自分は何も成長していないのだと。
「ふふ、ちょっとだけ似ていますね、貴方たちは」
「え、私? と、誰……?」
「ナズーリンですよ。弱いくせに、優しいところ。素敵ですよ……素敵」
 さとりは突然、恍惚と笑った。
 水蜜のこの悔しさが、ナズーリンの苦悩と似ているというのだろうか。
「その手紙を、早く星さんに届けてあげて」
「でも、ナズーリンが」
「心配しないで。悪いようにはしませんよ」
 このとき水蜜は、さとりの笑顔がぎこちない気がした。さとりまでどこかおかしくなったように見えて、不安だった。




 巨大な玄関の扉が突然、重い音を立ててゆっくりと開いた。咄嗟に空が制御棒を構える。
 だが入ってきたのがパルスィだったので、彼女に懐いている空はすぐに警戒を解いた。
「何よあんたら、そんな『なんだお前か』って感じの顔しないでよ」
「誰もそんなこと思ってないですよ……」
 パルスィとさとりが軽い問答をすると、緊張していた空気がふと弛緩した。パルスィはどことなく、他人を緊張させない気質があるように思う。

 彼女がずかずかと遠慮なく入ってくると、下から見上げている水蜜は彼女の短いスカートを気にして、そそくさと起き上がった。
 パルスィは水蜜を気にも留めず、さとりを見つめて言った。
「邪魔しにきたよ」
 すると、さとりはそれだけで全て分かったように目を閉じた。そして小声で、
「へー。始めは手を貸しておきながら、そういうことをするんですか」
 とぼやいた。
「むぐ……やめてよ、そういうこと言うの。気持ち揺らぐじゃない。これでも、すっごい悩んだのよ」
 パルスィはそう言って大きな溜息をついた。
「どうにもならないって思ってるから、諦めたようなことしてるんだろうけどさ。悪いけど、橋姫にそういうのは無理だったよ」
 そして彼女はさとりにそう告げると、急に「村紗」と呼んだ。
「は、はいっ?」
「鼠ちゃんだけどね、たぶん地底湖にいるわ」
「え」
 いきなりナズーリンの居場所を教えられて、水蜜は思考が追いつかなくなった。なぜパルスィがそんなことを知っているのだろう。
「まだ生きてるとすればね」
「えっ、えっ、あの」
「時間がないのよ、早く行きな。私は邪魔する奴を止めておくから。あとそれ借りるわね」
「ちょ、ちょっと」
 パルスィは、水蜜の手から勝手に飛倉の破片を奪うと、さとりの方へ向き直す。

 緑眼が、淡く光った。直後、さとりが呻き声を上げて頭を押さえる。
 これが精神攻撃だと気づくのに時間がかかったらしい空だったが、遅れてパルスィに殴りかかる。だが、避けられる。
 そして二人の格闘が始まった。突然の事態に、水蜜は立ち尽くす。

「もう少しで分かってもらえそうだったのに」
 さとりは頭を押さえながら、そう呟いた。
「何で邪魔するんです……。あの子があんなに苦しがっているのに、あんなに」
「村紗、急いで!」
 さとりの声を掻き消してパルスィが思いきり叫んだ。水蜜は混乱しながら、言われるまま開けっ放しのドアから外へ走った。

 いつの間にか開いている正門を抜け出たとき、後ろから空の爆撃音がした。
 水蜜はパルスィが心配になったが、彼女が急げと言っていた手前戻るに戻れない。ここは彼女を信じて、地底湖を目指すほかなかった。



 旧都を駆けながら、今起こった出来事を頭のなかで整理する。
 パルスィは一度さとりと手を組んで邪魔をしてきたが、今度は味方をしてくれた。彼女は水蜜と一戦交えた辺りから、迷っていたようだ。確かに、さとりの言ったことは水蜜にも理解しがたかった。
 さとりは、ナズーリンの精神が狂っていると言った。だが、水蜜は過去をいくら思い起こしても、ナズーリンがそんな素振りをした記憶はなかった。だからよく分からない。少し様子がおかしくなったのはむしろ、さとりのほうに思える。

 さとりはナズーリンに会うなと言い、パルスィはナズーリンに会えと言う。まただ。一輪とぬえが言っていたのと、全く同じ二者択一だった。
 水蜜は、二人のどちらも、間違ってまではいないのだと思う。いや、始めから誰も間違ってなどいないのだ。きっとゴールは同じ、ナズーリンの幸せであって、違うのはそこに至るまでの経路なのだ。
 それだけなのに。
 それだけで、さとりとパルスィの仲が悪くなったら、悲しいと思った。


 角を曲がると地底湖への抜け穴が見えた。
 時間は限られている。
 暗くて狭いその穴へ、水蜜は迷わず潜っていった。






  * * *






 上から陽光が数本の光線となってわずかに差し、静かに揺れる水面がそれを乱反射する。洞窟の壁で光が揺れる光景は美しいが、この地底湖に訪れる者はほとんどいない。
 ここは妖怪にとって危険な場所である。この湖の正体は、巨大な怨霊なのである。立ち入るのは怨霊に自ら食われに行くのと同義である。怨霊に食われれば弱い妖怪は取り殺され、どんなに強い妖怪であろうとも無事では済まないと言われる。

 わざわざここに来るのは余程の景観好きか、ゆえあって何かから逃げている者か。
 あるいは自殺志願者ぐらいのものだ。


 水蜜に景観の美しさを楽しむ余裕はない。必死にナズーリンを探し歩く。
 開けた場所なので、ナズーリンは拍子抜けするほどあっさりと見つかった。水面に近い岩陰でうずくまっていた。小さい体が更に小さくなっていた。よかった。まだ生きている。
 彼女がむくりと顔を上げたとき、水蜜は思わず顔をしかめそうになった。ナズーリンは変わり果てた姿になっていた。髪は荒れ、目の下には隈ができ、唇は裂けている。見るからに衰弱している。
 こんなに憐れな姿では、怒ることなどできない。
「……星じゃ、ない」
 ナズーリンの声はかすれていた。
「星は元気ないからさ」
 いざ会ってみると、水蜜はかける言葉に迷った。答えると、ナズーリンは諦めたようにふっと笑った。笑顔が、以前の彼女とどこか違った。顔が似ているだけの別人だと言われたら、信じてしまいそうだった。

「私を、怨んでいるかい」
 ナズーリンがそう尋ねると、会話はそこで一度途切れた。
 その言葉を聞くと、水蜜は迷った。怨むに決まっていたはずだった。それなのに、どこか割り切れなくなってしまった。
「全部、私の責任だよ」
 黙ってしまった水蜜を見て、ナズーリンは続けてそう言った。
「……そうだね」
「君まで苦しめた」
「うん」
「同情の余地があると思うかい」
「たぶん……いや。思わない。お前が悪い」
 はっきりと声に出し、自分の気持ちを再確認する。怨めしい、怨めしいと、心のなかで繰り返した。
 ナズーリンは、にやりと笑った。暗い笑顔が不気味だった。
「ふふ」
「何かおかしい?」
「素敵だなあ。素敵だよ。そういうところ。優しいんだなあ、ふふふ」
 彼女は赤い目を見開いて笑った。そして傍に置いてあったダウジングロッドを手にすると、ふらふら立ち上がる。

「そういうところが気に喰わないよ」


 気づいて咄嗟に屈まなければ、水蜜は側頭部に一撃を貰うところだった。後ろに飛んですぐに距離をとる。追撃はなかった。
「何を」
 心底、落胆した。何に期待していたのか、自分でも分からないのだが、とにかく落胆した。

「去れ」
 ふらふらのくせに、ナズーリンはそう脅した。笑顔は、もうなかった。先の一撃も不意打ちだというのに、あっさりと避けてしまえるほど動きが鈍かった。彼女はもう、戦えるような状態ではないのだ。
「やめて、ナズーリン」
 水蜜は彼女を説得しようと試みた。ある程度距離を開けつつ、優しく声をかける。
「ねえ、こっちに来て」
「嫌だ」
「お願いだよ。星が待ってるんだよ」
「嫌だ!」
「お願いだよ」
「……」
「お願いだよ……」
 だが、ちっともうまくできなかった。不毛な会話だ。こんなことが言いたかったわけじゃないのに、言葉が浮かばない。
 却って怒らせてしまった。気持ちばかりが急く。こんなときだというのに、どうしたらいいのか分からなくなる。頭が混乱してしまう。
「去らないのか」
 水蜜の額に冷や汗が垂れた。ナズーリンを説得することもできないのか。

 そうしてやきもきしたとき、強張っていたナズーリンの表情が緩んだように見えた。さらに彼女は突然ダウジングロッドを落とすと、地面に倒れてしまった。
「ナズーリン!」
 水蜜は叫び、慌てて彼女に近寄った。見れば息はしているが、額を岩肌にぶつけたらしく、血が眉間を流れている。抱き上げると、恐ろしく軽かった。

「どうして、こんなになってるの……」
 拭くものが何もないから、自分の服の袖で血を拭った。あまりに細く小さいナズーリンが、心配で仕方なくなった。思わず彼女を抱き寄せるが、彼女は微動だにしない。
「君には、分からない」
 か細い声だったが、ナズーリンは確かにそう言った。
「うん。ごめん。ごめんね。私、馬鹿だからさ。ナズーリンの言ってることって、難しくて」
 水蜜がそう言うと、ナズーリンは一瞬だけ悲しい瞳を見せた。そして、
「どうして、君が泣くんだ」
 と言った。
 水蜜は、それで自分が泣いていることに気づいた。
「え? ……う、ほんとだ」
 ナズーリンはゆっくり目を逸らして、ぼうっと湖を見た。血がぽたりと地面に落ちる度、水蜜の心に痛みが走る。
 苦しそうだ。痛そうだ。なのにナズーリンは、全然気にしない様子で、澄ました顔をする。それが水蜜には、余計に辛く思えた。
「私、分かんないよ。貴方のこと……ひどい奴だって思うけど、なのに、うぅ」
 こんなに分からなくて、難しくて、悪い奴に、同情などできるはずがない。なのに水蜜は、なぜだかナズーリンに同情したかった。ナズーリンの気持ちを少しでも分かりたかった。一緒になって、笑ったり泣いたりしたかった。
「こんな、ぼろぼろになって。なずーりん……」
 急に涙が溢れて、止まらなくなった。嗚咽が混じり、言葉もうまく紡げなくなる。
「なず、なず……りん……ああぁ」
 どうしても、憎み切れなかった。こんなに怨めしいはずのナズーリンが。
 この手で殺してしまおうとさえ思っていたのに。

「どうして」
 ナズーリンは目を背けたまま呟く。
「どうして私を、怨んでくれない」
「うらんでるもん……」
「なら、なぜ、私を一人で死なせてくれないんだ……。私が死ねば、君だってせいせいするだろう。このまま君たちの前から消えれば、皆、私のことなんて、忘れてしまって。そのほうが幸せなのに……そのために、私はいなくなったのに。君はこんなところまで来て……。どうして、わざわざ、会いに来たんだ」
「家族だもん」
 水蜜は即答した。
 相手がどんなに悪い妖怪でも、一緒に過ごした相手を怨めはしない。それが自分の答であるらしいことを、水蜜はこのときに知った。

 ナズーリンは押し黙った。ぼうっとした顔だが、何かを考えているようだった。
「私はね、ずっとこんななりだったよ。弱くて、貧相で」
「え?」
 そして、彼女は語った。
「物をあまり食べられなくてね……無理に食べようとすると、息が苦しくなって……こんな私が命を食らっているのが、気持ち悪くて」
「まさか」
 水蜜はすぐに否定しようとしたが、もしかしたらそうだったかもしれない、なんてちらつくと分からなくなってしまった。確かにナズーリンは食べるのが遅いし、量も摂らない。
 思い返せば、そんな少食じゃ大きくならないぞ、なんて笑ったこともあった。なのに、水蜜はその意味するところを全く分かっていなかったようだ。ナズーリンは、元からこんなに痩せていたのか。
「私は……汚いから。私に触れたものは、全部汚くなってしまう」
 手紙に何度も書かれていた罪という言葉の意味が、水蜜にもようやく少し分かった気がした。
「……だから、触らないで」
 ナズーリンはふらふら立ち上がった。真っ白なキュロットの裾に、鮮血が一滴、ぽたりと落ちた。
 痛々しくて見ていられない。水蜜は彼女をもう一度捕まえて抱き寄せた。
「っ」
「だめ、行かないで」
 一度離れてしまったら、彼女はまたどこかへ消えてしまうような気がした。同情のつもりなのかもしれなかった。
 そっと彼女の後ろ髪を撫でる。
 抵抗はされなかった。
「やめて……」
 か細い声でただ一言、そう言われた以外には。

 水蜜には自分のしていることが分からない。今の自分の感情を表現できるほど、語彙に長けてはいない。
 だが、言葉と裏腹に少しだけ落ち着いたナズーリンの声色を聞くと、自分も安心した。これで間違ってはいないような気がした。

 こうしていると白蓮に拾われた頃を思い出す。あのときの水蜜は救われた気持ちでいっぱいだった。しかしどうしてそんな気持ちになれたのだろう。考えてみると意外に難しい。抱き締められたら、それだけで嬉しいというわけではないだろう。
 今度は自分が、同じようにナズーリンを抱き締めて、ナズーリンは救われた気持ちになっただろうか。
 いや、おかしい、自分はナズーリンを救いたいのか。怒っていたのではないのか。自分は一体、どうしたいのだろう。
 心が複雑に絡まるが、水蜜はどこか安心していた。ナズーリンを助ければ、きっと丸く収まる。そう信じて彼女を抱きしめ続けた。

 だが。
「もうやめてくれ!!」
 突然、ナズーリンは水蜜の腕のなかで叫んだ。水蜜は暴れる彼女を慌てて押さえつけようとしたが、彼女は却って熱くなって余計にもがく。一度落ち着いたように見えたのは、水蜜の気のせいだったのだろうか。
 肘か何かを水蜜の腹にがんがんぶつけながら、ナズーリンはたくさん叫んだ。その声は言葉になっていなかった。まるで凶暴な野獣のように咆哮するばかりだ。水蜜は何が起こったのかもわからないまま、必死に彼女を押さえつける。落ち着いてとこちらも叫ぶが、ナズーリンには届いていないようだ。

 その瞳が一瞬、水蜜を睨んだ。
 左手首に鋭い牙が食い込む。声も出せないほど、猛烈な痛みが水蜜を襲う。反射的に振り払おうとしたが、ナズーリンは食らいついて離さない。
 水蜜は痛みから逃れようと必死に左腕を振る。それでもだめなら、次は右手で彼女の頭を殴りつける。
 加減ができず、思いきり一発、二発。
 三発目が、こめかみに直撃した。ナズーリンは血を吐いて離れた。しかし勢いが余って仰け反り――――。
 吹き飛ばされる彼女の背後に、怨霊の水面が迫った。



 水蜜の脳裏に、トラウマが蘇った。
 傾いた船に振り落とされる感覚だった。
 ナズーリンはそれと同じものを、この刹那に感じているはずだった。水蜜は傷ついた腕を慌てて伸ばすも、もう届かなかった。


 水しぶきが上がった。
 ナズーリンの身体は、信じられないほどに早く、沈んだ。













  * * *












 水蜜は呆然と立ち尽くしていた。この間まで一緒に暮らしていたあいつが、あっという間に水のなかへと消えてしまった。
「嘘……」
 ここまで来て、こんな結末だとは。
 よりによって自分の目の前で。よりによって暗い水底に沈むなんて。


 助けなければと思ったが、身体が動かない。このままではナズーリンが死んでしまうのに。いざ彼女が目の前から消えた瞬間、水蜜の心に怒りが戻ってきたのである。
 彼女が死んでしまったら、星がどうなるか分かっているはずなのに。
 これは当然の報いなのだ。そんな囁きが、脳裏にこびりついて離れなかった。

 ざまあみろ。
 だんだん減っていく泡沫を見つめながら、心が黒く染まっていく。気分はさながら、深海へ沈んでいくかのようだ。水蜜は自分の罪を意識した。そして恐ろしくなった。
 これは事故だ。そう思った。このまま誰も来なければ、ナズーリンはここにはいなかったことにできる。そうだ。ここはもう充分探索したということにして、しばらく別の場所を探す振りをしよう。そう自分に言い聞かせた。

 早く逃げ去ろうと思い、後ろを振り返る。
 しかし、そこには見知った妖怪が立ち塞がっていた。彼女は大柄な身体で仁王立ちし、水蜜の逃げ道を塞いでいた。
 他でもない彼女のために、水蜜は奔走してきた。寅丸星である。その彼女がなぜかこの地底湖で、水蜜の"犯行現場"を見て、何でもないかのように笑っていた。
 彼女は地面に突き刺した槍を抜くと、音もなく歩いてきた。一歩一歩、しっかりとした足取りだ。どうして彼女がここにいるのか、水蜜には全く分からない。

「怖いですか」
 星の純粋な笑顔が、逆に恐ろしかった。しかし目前まで近づくと、水蜜は彼女の瞳の奥に深い色を感じた。これは、弱々しく錯乱していたときの瞳ではない。
「大丈夫。貴方と私は、同類になったのです。だから私を恐れることはありません」
 水蜜は何も答えられなかった。
「ムラサ、お願いがあります。今、ちょっとの間だけでいいので、私のことを信じてくれませんか」
「え……」
「よろしく」
 そう言うと星は、一度水蜜の肩に手を置いてから、横を通り抜けていった。そして湖の畔に立つと、何もいない水面に向かって、槍を振り下ろした。

 瞬間、金色の威光が輝いた。
 それは星の全身から発せられ、ここにある全てのものに降り注いだ。暖かい日差しのようだった。光はみるみる強くなっていき、水蜜の身体を、辺り一面を、そして水底までも包み込んでいった。

 地の底から、重い呻き声のようなものが聞こえた。
 恐ろしい声だった。これは断末魔である。何かが死ぬ寸前、怨念を遺すのに唱えるマジナイの音だ。声はどんどん大きくなり、まるで地鳴りのようになる。立っていられないほどの揺れが水蜜たちを襲う。
 声の主は鬼火だった。それは星の前に現れると、恐ろしい叫び声を上げながら地底湖の水を全て吸い込んで収束した。すると大柄な星のさらに数倍はあろうかという巨大な怨霊になる。苦悶の表情を浮かべる顔が、鋭く星を睨む。
 これが地底湖の正体だった。

 毘沙門天の威光が、怨霊を苦しめていた。星が槍を上に翳すと、光が一層増していく。
 眩い逆光で、水蜜には星の後ろ姿がよく見えない。下手に直視をすると目が焼けつきそうだ。それでも何とかして目を開けていたのは、星の放つその輝きが、あまりに綺麗だったからだ。
「ムラサ……」
 星の囁きはすぐ耳元から聞こえたかのように、はっきりとしていた。言われた通り、信じてみようと思った。
 怨霊は、そのとき槍に突かれた。それは金切り声を響かせながら、徐々に小さくなっていき、やがて消滅した。


 辺りはすぐ静かになり、閃光は消えて行く。怨霊の湖は、ただの空洞と化してしまった。
 巨大な怨霊を、星は一太刀で倒してしまった。
 今目の前にいるのは、昨日までの彼女ではなかった。どんな人妖も、信頼を力に変えることができるのである。元々星は、こんなにも強かったのだった。

 彼女は湖だった穴にひょいと潜ると、気絶したナズーリンをあっさりと拾って帰ってきた。
 妙ににこやかだったが、少し歩くといきなり体勢を崩してしまった。水蜜が慌てて支えたので、倒れずに済んだ。
 無理をしてここまで来たのだろう。水蜜はもう混乱を通り越して、諦めの感情を覚えてしまっていた。そうでもしないと、訳の分からないことが多すぎて、頭が爆発してしまいそうだった。

「よかった。ギリギリセーフですよ」
 星は、ナズーリンの胸の鼓動を確認するとそう言った。二人ともぼろぼろなのに、水蜜には何がよかったのかさえ分からない。
「全然よくないよ」
「罪を被らずに済んだじゃないですか、ムラサ」
 罪。その言葉を聞くと、途端に恐ろしくなった。
 今までナズーリンを苦しめてきたものが、今度は自分に降りかかるところだったのだ。
 星が怨霊を倒さなければ、今頃どうなっていただろうか。
 水蜜はその恐怖から目を逸らしたくなった。
「そ、そうじゃなくてさ。ナズーリン、死んでないだけで死にかけてるじゃない。早く何とかしないと」
「ああ。とどめ刺します?」
「違うって! 手当てしないと!」
 なぜか星の機嫌がいいのだが、水蜜は却ってそれに苛立った。思わず荒げてしまった声が洞窟内を反響した。
「ムラサがやったことなのに」
 星は全く怯まなかった。
「違う、あれは……」
 事故だ、などと言えたものではなかった。さとりにでも引き合わされれば、真実はすぐ明るみに出てしまう。

「ナズーリンはここに置いていきますよ」
 どう言おうか迷っていると、星はそんなことを言った。
「え? でも、このままじゃ」
「大丈夫、一輪が手を打ってくれていますからね」
 彼女はナズーリンをごつごつした地面に寝かせると、すぐ水蜜の手を引いて歩き出した。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 水蜜は全く納得がいかず抵抗しようとしたが、「早くしないと、全部バレちゃいますよ」と脅されたので手も足も出なくなった。
「わかった、わかったよ。逃げないから、離して」
「いいでしょう。……あ」
 星は水蜜の手を離すと、いきなり踵を返した。
「忘れるところでした」
 ナズーリンの眠る場所まで戻ると、なぜか傍らに大事な宝塔を置いた。そして、思うところがあるのか、少しの間だけ寝顔を見つめていた。

 しばらくして、彼女はまた歩き出した。すたすたと、先へ行ってしまう。
「いいの? 大事な物なんじゃ」
 水蜜は早足でそれについて行って尋ねた。星は宝塔がないと死んでしまうのではなかったか。

「あれは、ナズーリンが持っていたほうがいい」
「そうなのか、な……」
 星がそう言うのなら、気にしても仕方ないか、と、水蜜は何となく説得されてしまった。

 狭い穴に入る前に、後ろを振り返った。ナズーリンは変わらない姿勢で眠っている。死体にしか見えなかった。





  * * *






 命蓮寺に帰ると、星はおもむろに水蜜から手紙を奪い、しばらく読み耽った。そして最後に、「ああ、やっぱりそうだったんだ」と言い、あははと笑った。
 水蜜には彼女の心理がまるで分からなかった。あの手紙を読んで、どうして笑えるのだろう。



 深夜、命蓮寺の寝室で、水蜜と星は一緒の布団に包まっていた。これも星の命令である。水蜜はまだ弱みを握られている気がしていて、すっかり言いなりになっていた。
 宝塔の代わりに置かれたカンテラのなかで、薄暗くぼんやりとした光が揺らめいていた。それを見ると、水蜜は言い知れない気持ちがこみ上げてきて、星の胸で泣きじゃくった。そのままどれだけの間泣いていたか分からない。ずっと泣いていたら疲れてしまい、今度は泣くに泣けなくなった。それで少し落ち着いてしまったら、泣いていた自分が途端に馬鹿馬鹿しくなった。

 星に地底へ向かうよう説得したのは一輪だったらしい。彼女はそれから、こっそりナズーリンを地霊殿へ送り届けたと言って、一人で帰ってきた。勘の鋭い彼女は、ナズーリンが命蓮寺に戻るつもりがないことを分かっていたようだ。
 一度ならず二度までも、ナズーリンは危険な場所にいた。それも、病気の身体を引きずって。死にに行っているように見えて当然なのだが、ナズーリンは自らの手で命を断ち切ることはしなかった。だから、たぶん、まだよかったほうなのだ。命蓮寺に所属している水蜜が、最後に彼女と話をすることができたのだから。
 これ以上はもう、水蜜たちにはどうしようもなかった。
「今までよく頑張りましたね、ムラサ。ありがとう」
 そう星が言ったので、水蜜は少し安心できた。

「ねえ、星」
 布団と星に包まれながら問いかける。
「本当に、全部ナズーリンがやったのかな……」
 分からないことは多いが、少し冷静になった今、一番疑問に思うのはこのことだった。
 ナズーリンは手紙で、全ては自分のせいなのだと暴露した。これが本当なのだとすれば、水蜜には到底許しがたい事態だった。しかし星や一輪の落ち着いた様子を見ていると、むしろ真実は彼女たちのほうが分かっているのではないかと思えてくる。

 星は、そうですねえと言って、しばらく考えこむように押し黙ってから、
「全部、ではないでしょうね」
 と答えた。
「どちらかといえば、私のほうが悪いかも」
「え……」
「ナズーリンは気づいていなかったようですけどね」
 それを聞いて水蜜は少し怖くなった。やはり星は本当のことを知っているのだ。
「教えて」
 かなり強く抱き締められていたが、何とか這い出して星の目を見つめた。彼女に表情はなかった。
「誰にも言っちゃだめですよ」
 水蜜は緊張していたが、黙って頷いた。知りたい気持ちが何より勝ってしまった。


「私、毘沙門天からの手紙を燃やしたんです」
「……え」
 手紙に何度も書いてあったこと。それは、ナズーリンが毘沙門天からの返信を心待ちにしていたことである。
 彼女は、星と二人きりになった命蓮寺にて、毘沙門天へ手紙を書いた。悪事を働いたことに対する懺悔と、自分が苦しめた星を助けたいと願う意志を書き留めた。手紙は部下の鼠に託されて、仙界へと向かった。

「だけどナズーリンは、返事が戻ってこなかった、って」
 手紙にはそう記されていた。しかし……。
「いいえ。本当は来ていたんです。ナズーリンに見られる前に、私が燃やしました。私が早朝に庭掃除をし始めたのも、さりげなく返信を葬るのに便利だったからでしかないのに。ナズーリンったら、とぼけたことを書いて。あはは……」
 信じられなかった。

「どうしてそんなこと」
 続きを聞くのが怖い。なのに、気づけばさらに真実を問いかけていた。これも持ち前の無鉄砲さゆえだろうか。
「私は持病を持っています。宝塔の力がないと、命を繋ぐこともままなりません。ですがあの宝塔は、元々ナズーリンの物なのです」
「えっと……」
「毘沙門天は返信で、ナズーリンへ帰ってくるように命じていたのです。宝塔は毘沙門天の使いの証ですから、置いていく訳にいかないでしょう? ナズーリンが毘沙門天の元へ帰ってしまったら、私はみるみる病に蝕まれて、死んでしまう」
 星は一呼吸置いて、さらに話を続ける。少し微笑んでいた。
「いえ、死ぬことそのものよりも、ナズーリンに置いて行かれることのほうが耐えられなかったのかもしれません……。たとえ死ぬまでの短い時間だとしても、そんな孤独のなかで死ぬことが、恐ろしかった」
 独りになるのが怖かったのだという。ここ最近のことを思い返す限り、星はかなりの寂しがり屋だった。ずっと病に伏せていたせいで、弱気になってしまったのかもしれない。
「ナズーリンは、返信を読んだらきっと出ていってしまう。私は所詮、偽者の毘沙門天。本物に比べれば小さな存在です。私には、ああするしかなかったんです」
 微笑んでいたはずの彼女の目元では、カンテラの光が雫に反射していた。やせ我慢していたのだと思う。



 毘沙門天からの一通目の手紙には、達筆な字で、次のように書かれていたという。

『ナズーリン、お前の心は分かった。結論から言うと、なるべく寛容な措置を執れるようにするつもりだから、一度戻ってくるがよい。
 お前を命蓮寺に送ったのは、実を言うとその反省の言葉が聞きたかったからなのだ。いくらお前でも、真面目に修行をすればきっと心を改めてくれると、思っておった。だが、まさかあんなに寺を荒らした末に、ようやっと反省する気になろうとは思わなんだ。儂はお前の心の闇を、少し侮り過ぎていたようだ。
 儂は昔、哀れなお前を妖怪にした。お前はその恩に報いたいと言って、よく働いてくれたな。しかしお前は少々、悪知恵が働きすぎる癖があった。お前が今の地位に登るまで、鼠が何匹死んだか憶えているかね。
 そんなお前のことを、儂は結構好きだったりするのだが、部下たちはそうも言っておれんかったようでな。お前を儂の傍に置いたままでは、内紛の種になりそうだったのだ。大変な目に遭わせて、すまんかったの。
 というわけで、こっちのごたごたがどうなったかについては、お前が帰ってきてからゆっくり話そうと思う。まずは一旦帰ってこい。待っておるよ。
 びしゃもん』


 星は優しく親しげなその手紙にひどく嫉妬し、手紙を焼いてしまった。だがその後も、一字一句が記憶にこびりついて離れなかったという。
 やがて二通目の手紙が送られてきて、それには、待てども来ないナズーリンを心配する内容が書かれていた。これもすぐに焼いてしまった。三通目に至っては読まずに燃やした。それ以後、手紙が届くことはなかった。
 彼女がナズーリンのことを好きだと自覚したのが、この頃だった。いや、自分にはナズーリンしかいないと思った、と言ったほうが正しいのかもしれない。


 毘沙門天の手紙は闇へと葬られた。ナズーリンには、その存在すら知らされずに。
「これで本物の毘沙門天のことを忘れてくれたらよかったんですが。当然そんなに都合よく事が進むはずはなかった」
 後悔先に立たずと、彼女は言った。
「ああ、だめなんだろうなって納得するまで、結構な時間がかかりました。どれだけ傍で想っていても、届かないんだって」
 彼女は自分にそう言い聞かせて、ナズーリンに想いを伝えないことに決めた。もう、この際、ナズーリンが傍にさえいてくれるなら、他のことは何だっていいと思った。たとえナズーリンが自分を好いてくれなくとも、ただ傍にいてくれさえすれば。
 しかし星は、最後にナズーリンと会った日に、気づいてしまった。罪に報いる日が来たのだと。

 振り返ってみれば、すれ違いだった。本当は二人とも、自分の罪悪感から、互いに素直な気持ちを言えなくなっていただけだった。
 想い合っていたなんて、夢にも思わずにいた。
 もっと早く気づいていれば、星も何か行動することができたのかもしれない。

「私、馬鹿です」
 星の声は震えていた。そんなに自分を責めないでほしい。
 彼女がこんなに愛したナズーリンは、きっともう戻ってこない。今頃、地霊殿で眠りに就いていることだろう。
 本当にこれでいいのだろうか。
「星。ナズーリンと、話をしなくていいの?」
 水蜜が尋ねると、星は虚しく笑った。
「今更、話すことなんてないですよ。本当のことを教えたところで、あの子は余計に苦しむだけでしょう」
 ……それが水蜜には分からない。
「そうじゃなくて」
「そういう子なんです。ずっと一緒にいたから、分かるんです」
 いつの間にか星は、自分の心配をしなくなった。それに気づくと、水蜜は無性にやるせなくなった。
「ナズーリンじゃなくて、星のことを聞いてるの。本当にいいの?」
 星の目をじっくり見つめる。最近こうすることが増えたように思う。
「ずっと一緒にいたんでしょ。ずっと、家族だったでしょ! それなのに、本当に、いいの?」
 つい声を荒げてしまって、はっとした。
 しかし、水蜜がこれだけ強く言っても、彼女は潤んだ目を逸らしただけだった。

 沸々と、ナズーリンへの怨めしさが蘇った。
 星をこんなにしておきながら、自分だけどこかへ行ってしまうなんて許せない。こんなことが、けじめを付けることだとは思えない。
 悶々とする。
「星、」
「よかったです。ムラサが罪を被らなくて」
 やっぱり地霊殿に行こう。そう言おうとして、遮られてしまった。
「貴方に懸けて正解でした。貴方に信じてもらったら、あんなに力が湧きました。凄いです、本当に――――」
 星は照れくさそうに言って、そっと目を閉じる。


 ああ、もう、分からない。
 何を懸けたというのだ。どうして水蜜なのだ。結局何もできなかったこんな奴に、命でも託したつもりなのか。
「私、大したことは、何もできてないよ」
「そうですね」
 そんなことない、と言ってくれるかと思ったら、あっさり肯定されてしまった。
「だけどムラサは、私もナズーリンも気づかなかったことに気づきました。それだけできれば、船長の肩書きにも相応しい活躍なのです、きっと」
「気づかなかったこと?」
 水蜜はそう言われたが、何のことか自分で分からないので恥ずかしかった。
「私たちは、もう家族なんですね」
「あ、ああ、そのこと。……えへへ」
 そうだ。大事なことだった。
 ようやく、褒められて嬉しい気持ちになった。

「家族だから、信じてくれたのですね」
 星は言った。
「……うん。たぶん、そんな感じ」
「たぶんですか」
「うまく言葉にできないんだ」
 水蜜は家族のことを考えると、自分の心のことなのに、うまく言葉にできない。遥か遠い昔、自分が人間の少女だった頃の記憶と同じように、その気持ちはぼやけている。
 家族だから、信じる。それは正しいように見えて、正しくない。家族じゃなくても信じることはできたし、家族だからといって信じ切れないことだってあった。だから少し違う。少しだけだが違うのだ。
 本当は、言葉にする必要もないほど、当たり前の気持ちなのかもしれない。それを、いつの間にか忘れていたのか。
「そうですか。なるほど」
 星は、まどろんだ調子でそう言った。
「星?」
「あとは、ムラサに任せます」
 そのまま、彼女は穏やかな眠りに就いた。

 ぎゅっと締めつけていた腕が緩んだ。水蜜は幸せそうな彼女の寝顔を、ようやく覗いた。

 ナズーリンは、今どうしているのだろう。
 本当にこれでよかったのだろうか。水蜜はそんな疑問を、どうしても拭い去ることができずにいた。





  * * *






 それから何日経っても心が晴れることはなく、水蜜は一人、ナズーリンの運ばれた地霊殿へと向かった。ナズーリンを連れ戻したいとは、もう考えなかった。どうしても納得ができないのだ。さとりは書斎で本を読んでいた。水蜜が挨拶代わりに、「やっとゆっくり話ができますね」と声をかけると、さとりは微笑んだ。そしてしばらく、お互いの近況のような何でもない話をした。いつしか家族の話になり、そしてナズーリンの話になった。


「ナズーリンは、無縁塚に行くと言って、出て行きました」
 さとりには、そう告げられた。
「え!?」
 水蜜は、何でそんなところに、と返そうとして、自分でその理由を思い出した。ナズーリンが危険な場所に赴くのは、これで三度目なのだ。
 さとりは机の下から布で包んだ何かを取り出して、水蜜に見せた。布を取り払えば、見慣れた宝塔の光が広がった。どうやら、置いていかれてしまったらしい。
 あいつらしいことをする。
 大事な宝塔なのに。
「もう死んでいるかもしれませんね」
 さとりは言う。そう言うぐらいなら、止めてほしかったと思った。
「私、放任主義なんですよ」
 そんな水蜜の心を読んだのか読んでいないのか、彼女はそう続けた。
「妖怪なんて、勝手な生き物です。だから勝手に生きて、死にたくなったとき勝手に死ぬのが、一番幸せなんだと思ってます」
 だからこれでいいのですと、話が結論づけられる。
 相変わらずの言い分だった。水蜜の考えとは相容れない。
「……そうですね」
 ただ、ナズーリンが勝手な妖怪だということは同意見だ。
「勝手ですよねえ。勝手なんですけど」
 水蜜は何となく、繰り返してみた。何か、分かりそうな気がした。
 さとりは心を読むように、じっと水蜜を見つめた。

「ふむ。『だけどあの子を勝手な奴と思ってしまうのは、一緒に暮らす時間が少なすぎたせいだ』と、思っていますね。ふーん。ちょっと論理に飛躍があるように思いますが」
「それは、うん。感情論ですから」
 そう答えた瞬間、水蜜のなかで、思考の線が繋がった気がした。
「私も充分、勝手なんだ」
「……何で急に自信たっぷりなんですか」
「ちょっと閃いちゃった」
 会話が途切れた。三つの目に、じっと見つめられていた。

 さとりもナズーリンも、自分が正しいのだと信じている様子だ。ナズーリンが命蓮寺から離れて、独りで隠れて死んでしまうのが、正義か何かだと思っているのだろう。
 水蜜は、そんな彼女たちの考えにずっと違和感を覚えていた。しかし違和感の理由を、自分でもうまく理解できずにいた。
 それが今になって、何となく見えてきた。
 まだ、言葉にはうまくできなかったが、
「『さとりさん、ナズーリンのため、って言うときの顔がとても悲しそうで』――――っ」
 さとりもそのおぼろげな心を覚って、同じように何となく理解したようである。彼女は一瞬、とても悲しそうな顔をした。そしていきなり、目に涙を浮かべてしまった。いつも他人の心を反駁するはずの彼女が、これ以上の言葉を紡がなかった。

 この人はどこか無理をしていると、水蜜は感じたのだった。ナズーリンと同じく苦しんでいるように見えるのだ。
 さとりと自分とは考え方が全然違う、ように見える。だが、もしかすると、筋道や結論は違っても、始まりの部分は同じだったのではないだろうか。
 ナズーリンを助けたい。ナズーリンに幸せになってほしい。その思いから始まったのではないか。
 どうしてそんなふうに思うのかといえば……とっくに答えは出ていたのだ。
 きっとさとりも、同じだったのだ。

 水蜜は破邪の宝塔を手にとると、大事に抱えた。自分が祓われないかと少し怖かったが、きっと大丈夫だと信じて触れてみれば温かかった。何だか心地よい気分になった。
「さとりさん、一緒に無縁塚まで行きませんか」
 そう問いかけられた彼女は、目を伏せただけで、答えなかった。
「大事な家族が、そこにいるんでしょ」
 なおも問いかける。そして水蜜は、答えを待たず、彼女の手を引っ張り歩き出してしまった。さとりは不安げな表情を浮かべたが、意外に抵抗はせず、黙ってついてきたのだった。





 地霊殿の門を抜け、旧都を駆け足で進んでいる。
 水蜜は、やっと自分の気持ちを理解した。
 罪を犯したとか、怨みがあるとか、そんなことは問題ではなかったのだ。自分はナズーリンが、大切な家族が、愛しいのだ。それは勝手で、一方的な気持ちかもしれない。だがそれはお互い様だ。お互い様でいいのだ。家族というのは、一方的な気持ちをぶつけあって成り立つのだから、愛しいのだ。
 これでやっと、あいつと家族になれる。そんな気がした。

「それだけ、なんですか。家族というのは、それだけだっていうんですか」
「うん」
 さとりの問いかけに、水蜜はとても短く答えた。

 橋まで来た。そこにはいつものようにパルスィがいる。彼女は、こちらを見ると小さく微笑んだ。
 出口はすぐそこだ。

























【LOST】

















「拝啓、敬愛するご主人様へ、いえ、ここでは昔のように星と呼びましょう。
 どうかこの手紙は、最初に星に読んでもらいたい。いずれは命蓮寺の全員に読まれてしかるべきでしょうが、それでも星に読んでもらいたい。もし貴方が星でないならば、この手紙をどうか星へ渡してほしいと思います。

 さて、星、突然こんなに長い手紙を送ることを、お許しください。貴方に伝えなくてはならない、この思いを受け取ってほしくて筆を取りました。とはいえ、千年分ある思いですから、どうしても長くなってしまいます。できるだけ簡潔に書きたいと思いますが、どうかご理解ください。

 たった幾日前、私は貴方の元を去りました。恐らく貴方はさぞ悔んだことと思います。己を責めたかもしれません。私はそれを分かっていながら、どうしても貴方の元を去らなくてはならない理由がありました。それをこの手紙に書きます。つまり何かといいますと、私の罪についてです。
 ここで留意していただきたいのですが、この手紙はこの罪について、貴方に赦しを請うつもりで書いているのではありません。赦してもらえるとは、もう思っていません。ただ、貴方に真実を告げないまま過ごすことが、これ以上できそうにないのです。この手紙が私の最後の良心、とでも思ってくれればいいでしょう。だから私は、貴方の思いと関係なく、この手紙を書きますので、そのつもりでお読みください。万が一貴方が拒絶するのでしたら、その場合は、最後まで読まなくて結構です。これは所詮、私の傲慢です。

 それと、私が貴方にかつて話したことと、矛盾したことをたくさん書きますが、この手紙のほうが真実だと思ってください。もしかすると貴方を傷つけてしまうかもしれません。これ以上読み進めるならば、申し訳ありませんが、お覚悟願います。
 それでは、これから私の罪をしたためていきます。





  * * *






「最近、家族というものについて考えます。

 私は自分の血族というものを、あまり憶えていません。都会の家の軒下で生まれた私は、数ヶ月で親兄弟を全て失いました。都会は、案外生きづらい場所でした。人間の目に留まれば終わりです。今やなぜ家族を亡くしたのかさえあまり憶えていないのは、恐らく、餌を探しに出ていった家族のひとりが、私の知らないうちに死んでしまうということが、よく起こるような状況だったのだと思います。ほとんど唯一残っている家族の記憶は、食べるものが尽きたときに、兄を喰らったことぐらいです。これが私の、最初の過ちであったように思います。
 そんな罪を犯したことを悔いて、私はお寺に向かいました。道中、人間に踏み潰されそうになったり、梟に追い回されたりと、何度かの危機をくぐり抜けました。ようやくお寺に辿り着いたのは、既に死の間際のことでした。そこに毘沙門天様が現れて、言いました。「お前はなにゆえ儂を信ずるか」と。
 私は、彼の前で必死に祈りました。あまりに必死すぎて、自分でさえどんなことを願ったのか、はっきりとは憶えていません。恐らく、ほとんど命乞いに近いものだったでしょう。何が何でもいいから、とにかく生き延びたいと、そんなふうに願ったのだと思います。
 思いが通じたのか、彼は私を妖怪にしてくださりました。それで私は生き延びることができました。

 その後、幼い私は、自分にとって家族とは、毘沙門天様だけなのだと信じることを選んだように思います。妖怪になってからのほうが記憶力が強くなったせいか、私はその後の記憶で上塗りしていくように、ただの鼠だった頃のことを忘れていきました。そのくせ、一番忘れたいはずの、家族を殺めた記憶を忘れることはありませんでした。
 同族殺しの罪を忘れてしまいたくて、私は毘沙門天様をどんどん盲信するようになりました。彼がどうして私を助けたのかは今でも分かりませんが、私はそれを、無償の愛、すなわち家族愛のようなものなのだと信じました。愛とでも言って納得しておかないと、おかしくなりそうな気がしました。
 思えば、私は生まれてからずっと、罪というものに囚われながら生きていたようです。この頃は特に、罪に囚われている心を、毘沙門天様への信心と無理矢理すり替えながら生きていたように思います。信じていれば、いつの日か彼に寵愛していただけると、頑なに信じました。そして、罪などなかったかのように振る舞いました。

 しかし、この間にも、悪いことをたくさんしました。毘沙門天様にもっと近づきたい、彼の力になりたいと思い、周りを蹴落として出世しました。それが毘沙門天様のためなのだと思い込んでいました。なぜなら私は、それしか価値のない存在だったからです。彼が必要としてくれるから、私はここにいるのだ。それを邪魔する奴は、容赦なく蹴落とされて当然なのだと、信じていました。だから、彼に認められるためなら、裏でどんな手段も使いました。いつしか、それが私の生きる理由になっていました。

 ところがある日突然に、毘沙門天様は、私を遠い山寺の監視役に命じました。





  * * *






「だいたい千年前でしょうか。私は星を敬愛していると言い、山奥にある白蓮の寺院へ入門しました。そこは当時から命蓮寺という名前だったと、記憶しています。
 星、私は最初から貴方を監視する目的で送られた、いわば毘沙門天様のスパイでした。本当は貴方を敬愛しているどころか、最初から偏見をもって貴方を見ていました。さらに言ってしまえば、このときの私は貴方が善でも悪でも、どちらでもよかったのです。ただ私の成果の為に、貴方を悪に仕立て上げるだけの駒でさえあればよかった。ある意味純粋だった私は、とにかく早く成果を持ち帰って、毘沙門天様に喜んでいただきたかったのです。私を助けてくれた恩人であり、私の父親のようなあの方の元へ、いち早く戻りたい。戻らなければいけない。このときはそう思っていました。
 今にして思えば、この異動は、ちょっとおかしい話だったように思うのですが……そのことについては後で触れるとして、ともかく私はこれ以降、腹に黒いものを溜めながらも、表向き真面目に修行をするようになりました。

 少し、白蓮のことについて触れておきます。寺院で最初に会ったのが、当時住職をしていた彼女でした。この寺では初めての、女性の住職だったそうです。彼女は私から見ても聡明で、かつ心の広い方でした。私は薺という名前を使い、人間の少年に化けて会ったのですが、すぐさま妖怪で、しかも女であることまで見抜かれてしまいました。ところが彼女は別段悪い扱いをせず、「何か事情がおありなのでしょう。私はそれを問いただしはしませんし、誰に言いふらすつもりもありません。心から歓迎いたします」と言ってくれました。私は、裏に何かあるのではないかと思ったものでしたが、結局、約束が破られることはありませんでした。
 この白蓮という人は、修行する小僧にも高僧にも、寺の外の者にも分け隔てなく接する人でした。私も例外ではなかったようで、身の回りのことについて事細かな世話を受けました。当時の若い私は彼女のことを、使えそうだという程度しか思っていなかったのですが……今にして思えば、彼女は誰かの為に、敢えて私の罠にかかってくれたのかもしれませんでした。

 数年が経ち、修業と勉強もある程度進み、白蓮がそろそろ人前で経を唱えてみようと言い出した頃に、私はお蜜という娘のことを知りました。この娘は、下女のような仕事をするため寺に召し抱えられていたそうなのですが、若い修行僧たちの間から、彼女が妖怪なのではないかという噂が流れてきました。なんでも、夜な夜な中庭の茂みで彼女のすすり泣く声がする。山奥の寺だというのに、彼女が歩いた跡には、海の水が滴り落ちている。そういえばあの娘の肌は、まるで死人のように青白い。気味が悪い話じゃないか。そういったものでした。私は少し動揺しながら、彼らに「何かの間違いだ。妖怪がこんなところで油を売るものか。第一、寺のなかなんて、奴らにとって死地のようなものだろう」と言いました。彼らは納得したようなしないような感じで、呻りながら去っていきました。
 お蜜は噂が原因で、しばらく「妖怪水蜜」と、蔑称を付けられ揶揄されていたそうです。助けられないまでも、気の毒でした。ですがその噂は確か、しばらくすると一旦有耶無耶になって消えていったのだと憶えています。それから少しの間は、彼女の身に何かが起こったという話も聞いていません。

 修行僧の間で再び妖怪の噂が流れ始めたのは、さらに数ヶ月経った頃でした。若くして高僧の地位を持っていた雲居という方の陰に、真夜中、人の顔をした薄い煙のようなものが付き纏っていると。話を聞いた私は怖いもの見たさで彼女を追跡したことがあるのですが(そういうのはこの頃から得意でした)、夜中、確かに彼女がうっすらとした雲を引き連れているところを見てしまいました。私は雲居にも驚きましたが、それよりも修行僧たちの洞察力のほうが怖くなりました。雲は真暗闇の中でしっかり見つめねば気づきもしないほど、幽かな姿なのですから。もしも彼らによって、いずれ自分の正体が暴かれてしまったら、きっと私は破門され、毘沙門天様に頂いた任を果たせなくなります。それだけはいけませんでした。なんとしても、今は少しでも位を上げて、星に近づかなくてはならない。
 私は修行僧に向かって、誤魔化すように「ああいうのは、もしかしたら妖怪というより、生霊の類かもしれないね。誰か、地位のある彼女を妬んでいる、修行の足りない輩がいるのさ」と言いました。それが仇となりました。同期に入門した墨念という僧に「薺、前にも似たようなことを聞いた気がするぞ。君はどうやら妖怪の怖さを知らないらしい。奴らは平気で人を騙して喰らうのだから、見た目に惑わされてはいけないよ」と言われてしまい、いよいよぞっとしました。彼は、嘘を貫き通そうとする私のことを、見抜いているのではないかと恐れました。

 墨念はとても頭の切れる男で、また正義感の強い男でした。疑い出すときりがないもので、私はいつしか何をするのにも、彼の目に止まらぬよう深く用心するようになりました。彼だけではありません。人づてに彼の耳へ届く話でも、不審があってはなりません。私は、まず人に会うのが恐ろしくなって、部屋から出る腰が重くなりました。次に人と会っても口が動かなくなりました。常に他人を警戒するようになったので、耳と目だけはよく働くようになりました。
 それで、今のような無口になりました。よく考えもせず人と話すことは、私のような者にとって、己の身を滅ぼすことだと悟ったのです。

 この無口が役に立ったようで、僧たちの目線はお蜜や雲居僧へと向かってくれました。彼らは私のことを敵でも味方でもない、傍観者と捉えるようになりました。
 おかげでかなり動きやすくなりました。私が星に接近し始めたのもこのときのことです。私は貴方にだけ、「実は、私は毘沙門天様の使いの妖怪鼠で、本当の名をナズーリンというんだ。貴方が元々山の妖怪であることも知っている。毘沙門天様の命により、君を始め、この寺がきちんと教えを守り、広げ、人を救えるのか、こっそり見させてもらうよ」と、事実を半分くらい歪めたような話をここでしました。このときの貴方は半信半疑といった風でしたが、数年も仲良くするとすっかり信頼してくれ、やがて親友と呼んでくれました。貴方のお気に入りになったことで、寺での地位も半ば約束されました。これで事前にやるべきことは全てこなしました。余計な反感や嫉妬を買わないように、悪目立ちすることを避けながら。事を起こすべきときには、寺のなかに私を疑う者はいませんでした。これでようやく当初の計画通り、貴方を操る準備が整いました。
 ゆっくりではありましたが、全て順調でした。貴方を陥れるまで、もうそろそろ時間も残り少ないだろうと、思いました。





  * * *






「私はそろそろ行動を起こすときだと思いました。三度目の妖怪の噂を、流しました。一度目、二度目は修行僧の誰かから広がっていきましたけれども、三度目の噂は私が流しました。矛先は再びお蜜に向けさせることにしました。標的は修行僧ではなく、私を疑心暗鬼にした墨念という僧にしました。「変な話なのだけれど」と前置きした上で、「あのお蜜という娘は夜な夜な聖尼公の部屋へ忍び込もうとしている」と、尾ひれをつけて例の噂を流しました。事実は、こんなに悪い言い方をするほどのことではなく、お蜜と白蓮は単なる仲良しなだけだったのではないかと思いますが、そこを利用させてもらいました。これを聞いた墨念は懐疑心も正義感も強い男でして、「本当かい」と驚いて尋ねた後、声を小さくして「ただの下女が真夜中、白蓮上人の部屋に忍び込むなんて怪しいね。あいつは妖怪という噂がある。もしや、白蓮上人を取り殺そうとしているのでは」とか何とか言って、勝手に拡大解釈をしてくれました。私は「それは分からないが」と曖昧に答えました。

 翌日にはもう、ふんだんに尾ひれが付いた噂が広がっていました。それも修行僧だけではなく、寺にいる全員の間に。やれ「白蓮上人は妖怪に騙されている」だの「いや、白蓮上人が妖怪を従えているのかもしれぬ」だの散々なことになっていました。これは元を辿れば私が流した噂なのでしょうが、誰もそのことを知りません。それに、広がった噂には、私が喋った元の形がほとんど残されていませんでした。墨念ですら「白蓮上人の悪い噂を流したのはどこのどいつだ。不届き者め」と混乱してしまう有様でした。
 私にとってこれほど面白いことはありませんでした。さて、寅丸星はどう手を打つか。本性を見られるかもしれない。もしかすればすぐにでも、いい成果を持って毘沙門天様の元へ帰ることができる。
 全て計画通りでした。私は彼らが皆一様に噂好きで、かつ保守的で排他的な性格をしていることを知っていました。妖怪なんぞが寺へ忍び込んでいると噂が立てば、それはもう大混乱です。
 この頃、白蓮が妖怪と内通しているのではないかという疑惑が持ち上がってきていたことも、噂が広がる速さに拍車をかけていたのでしょう。
 噂がどんどん広がっていくと、僧たちは熱を帯び始めました。たった半日もすると、高僧すら「彼奴は人の皮をかぶった悪魔である」と、高らかに言い出すまでに熱狂していました。噂を流した私が面食らうほどでした。人間とはあっという間に恩義を忘れてしまうものなのだと、内心嘲笑ったものです。その点、私は違う。毘沙門天様のためならば何だってするのだと、こっそりと勝ち誇ったような気分にもなっていました。もちろん疑心暗鬼の抜けない私は、陰でだって顔に表すようなことはしませんでしたが。

 彼らが貴方に助けを求めたそのとき、貴方は人間の言うことをすぐには信用しませんでした。意外に慎重でしたが、貴方はいかんせん信仰によって力を得ていた立場でしたから、押し寄せる無言の抵抗の前では限界があったようです。憶えているでしょうか、結局、貴方は誘いを二度断ったけれども、その後に「僧たちの言う通り、聖を魔界に封印することにしました」と私に伝えたことを。とても悔しそうな顔をしていました。私はこのとき、内心面白くて仕方がありませんでした。悪い笑みが顔に出そうになるのを隠しながら、「聖への恩義を忘れるなんて、人間は悪い奴だね。ここはいっそ封印する振りだけをして、後でこっそり助け出してはいかがだろうか」と提案しました。貴方が「それはいい」と答えたので、「私がこっそり封印に細工をするから、二人で聖を助けよう」と畳みかけて、談合は終わりました。

 星を騙したことで、私は、あと少しで目的が達成できるところまできました。もう少しで、きっと毘沙門天様に実力を認めてもらえる。それが待ち遠しくなるのと同時に、しかし私は心のどこかに違和感を覚えました。この違和感の正体が、このときはまだ分からずにいました。

 当日、こともあろうに、僧たちは武装していました。まるで妖怪退治の如く白蓮を捕らえては、あっという間に法界の一角へと封印してしまいました。本当に速かったです。私も彼らのなか形だけ加わっていましたが、世話になった人を裏切ろうという殺気立った場に、半ば立ち竦んでいただけでした。これでいい、助け出すのは失敗したということにして、何もしなければいい。私はそう思うことにしましたが、また、どこか自分の気持ちに違和感を覚えるのでした。
 そのとき白蓮が私に気づいていたかどうかは分かりません。彼女は、ほとんど抵抗をしませんでした。虚ろな目をやや下に向けて、ただぼうっとしていただけでした。彼女があんなに生気を失った表情をするのは、後にも先にもあの一度きりだったように思います。その表情が、なぜだか私の頭から離れなくなりました。

 私はこのときに、自分の違和感の正体に気づきました。そして初めて後悔しました。今までに陥れた者は数あれど、その相手にこれほど情が移ったことはありませんでした。
 経を教えてくれた白蓮上人を、私が陥れた。もう彼女とは二度と会えない。彼女はある意味、死んでしまった。そんな事実が、このとき突然、受け止められなくなりました。
 それからというもの、私は自分のしてきたことが過ちであったのだと、意識するようになりました。





  * * *






「白蓮を助けることは叶いませんでした。尤も、本当は最初から助けるつもりなどありませんでしたし、計画通りに事は進んでいたはずなのですが、今思い起こすと、私は本当に助けてしまうべきかどうか、最後まで迷っていたのかもしれませんでした。任務がなければ、或いは助けようとしていたかもしれません。

 次の日、私は病に罹りました。一度だけ星に会い、私は「すみません。何もできませんでした」と謝りました。星は「後で何とかしましょう。それよりも、今はムラサの蜜です」と淡白なことを言いました。聞けばどうやら彼女たちが追われているので、今すぐ計画の準備をしてほしいとのことで、どうやら寝込んでいる場合ではないようでした。
 計画では、星は武装した若い僧たち数人を率いて、地底の入口へ蜜と一輪をおびき寄せる。封印の結界に一度穴を開け、二人を押し込み、穴を塞ぐ。そのときに、私が物陰に隠れながら、こっそり後で二人を逃がすための小さな細工を施しておく。というのが貴方と決めた行程ですが、私は最後に貴方を裏切り、細工をわざと僧たちに見せつけ、計画をばらしてしまうという算段でした。すれば、偽の毘沙門天が妖怪の為に、あろうことか毘沙門天の信徒を騙していたという事実を作ることができます。そうすれば傑作です。
 ですが私はこの時点で、相当迷走していたように思います。こんなことをするのは間違いなのではないかと、揺らぐ気持ちを無理に押し殺していた気がします。
 そろそろ星も知っている話になるので詳しく書きませんが、結果から言えば、計画は途中からうまくいきませんでした。私が細工に失敗をしてしまいました。
 私は病を押して、結界に細工をするため貴方たち一団を追跡しました。ですがいざ手を出そうとしたところ、うっかり物音を立ててしまいました。恐らく、地底から溢れ出た怨霊か何かが悪戯をしたのだと思います。あと少しというところで、こともあろうにあの墨念僧に気づかれてしまいました。

 彼の行動は迅速でした。咄嗟に私を指差してただ一言、「殺せ」と叫んだのです。私はこの瞬間恐怖で動けなくなりました。たった一瞬で全てを把握してしまった彼の明晰な頭脳が、無気味にさえ思いました。武装した僧や、駆けつけていたらしい陰陽師たちの槍が、少しだけ戸惑ってから私に向けられます。
 失敗だ。殺される。理解した途端、硬直していたはずの身体が勝手に動き出し、背後の藪のなかへと走り出しました。狡賢い鼠の本能が、こんなときばかり俊敏に働きました。ですが夢中になるあまり、藪のなかで足に蔦か何かが絡まって、少し走っただけですぐに転んでしまいました。
 やはりだめか。これで全ての望みが断たれた。そう思って、私は最期の光景を見るために振り返りました。ところがそこに降りかかったのは、私の血ではなく陰陽師のはらわたでした。赤黒い血飛沫の向こうでは、不思議なことに私を庇って僧たちと戦っている、貴方の姿がありました。





  * * *






「辺りは気持ちの悪い血の臭いに満ちていました。
 貴方は死屍累々の藪に座り、「私を毘沙門天として見るなら、案ずるまでもなく失格でしょうね。でも、聖やナズーリンを救うためだから、いつだって凶暴な獣になるんです」と言いました。私は貴方の言うことを満足に理解できませんでした。自分がまだ生きていることの理由が分からなくて、ひたすら戸惑っていました。
 なぜか、貴方は異常に冷静でした。「これは妖怪たちとの戦の跡ですよ。分かっていますよね」と言いました。私が回らない頭でなんとか返事をすると、優しく微笑んでくれました。生々しい返り血のほうが、嘘くさく見えました。私は貴方のそんな姿に、毘沙門天様と同じ、軍神の威厳を感じてしまいました。

 問題だったのは、地底の入口の結界に、もう穴を開けられなくなってしまったことです。この結界、入るのはさほど難しくないが、出ることは果てしなく難しい。外側と内側の二重構造になっているこの結界は、星の高い妖力をもってしても、こじ開けるのには入念な準備が必要でした。しかしそれが一度失敗してしまって、準備をし直さなくてはいけなくなってしまった。そんな時間はありません。私たちは、お蜜たちを救い出す方法がついに見つけられなくなってしまいました。運の悪いことに、寺から戦火を見た僧たちが増援として駆けつけてきたので、助け出すいとまは全くありませんでした。星は彼らに「今、戦が終わったところです。申し訳ありません、手こずってしまいました」とだけ報告しました。意外に機転が利いていると思いました。彼らから見れば、散らかった死屍も、私たち二人だけが生き残ったことも、完璧な封印を施した地底の入口も、星の服や槍先にこびりついた血飛沫さえ、妖怪たちとの死闘の跡にしか見えなかったことでしょう。
 この辺りでようやく状況を理解しだした私は、星の思わぬしたたかさに、内心とても衝撃を受けていました。私が必死に考えて作りだした罠を踏みながら、引っかかる前に踏み潰してしまった。まさか貴方が。その大胆さには舌を巻かざるを得ませんでした。

 これは貴方が今までずっと自責する原因となった、惨たらしい事件の全容です。貴方の地底への恐れも、ここが起点になっているのだと思います。ですが真実の糸を手繰り寄せていくと、私の失敗、そしてそもそもの企みへと辿り着きます。私のせいで、貴方はずっと苦しんでいるのです。貴方が罪を犯してまで私を助けたのは、私が貴方の心を弄んだからでしょう。私は貴方のことなんて、これっぽっちも好きではなかったのに。
 ……なかったはずなのです。





  * * *






「事件の後、寺へ戻った私が最初に行ったことは、部屋で独り、近い将来を考えることでした。貴方の犯した罪を、毘沙門天様へ報告しに帰ることも可能でした。ただ、私の気力はめっきり殺がれていました。白蓮は失われ、一応友人扱いしてくれていた墨念僧も戦死し、罪もないお蜜と雲居僧が封印され、星が手を血で汚した。その発端が全て私にあるのだと考えると、気がおかしくなりそうでした。この期に及んで、心が痛むのです。ここまでするつもりじゃなかった、私はただ毘沙門天様のお傍にいたかっただけなんだ、などと。
 私はどうしても、毘沙門天様に便りを出す気が起きなくなりました。しかし、さもないと毘沙門天様の傍へ帰れなくなります。元をただせば、私は早く毘沙門天様の傍に戻りたくて、こんなことを始めたのです。あの方に喜んでいただきたくて、あの方の傍に戻りたくて……それなのにこの有様。迷走と言わず何と言いましょう。ここまできて突然、貴方たちのことが気がかりで仕方なくなってしまったのです。真実を毘沙門天様へ告げたら私はともかく、貴方はどうなる。それがとても怖く思うようになりました。

 事件の日以来、貴方は体調を崩しがちになりました。私が病を治して貴方の様子を見に行くと、今度は貴方が倒れている。それも真っ青な顔をして、ぜえぜえと息も荒くしている。ほとんど死にかけの体をしていました。これがただの病でなく、多くの怨霊に取り憑かれた仕業なのだということはすぐに分かりました。これでは蜜たちを助け出せるほどの力が出せません。
 どうにか対処したいけれども、寺にはもうその能力がありませんでした。このとき寺の重役は戦死して、白蓮ももはやおらず、大量の怨霊から妖怪を助け出せるほどの力を持った僧はいませんでした。
 私は悔やみました。怨霊たちはそもそもの原因である私ではなく、星を取り殺そうというのです。

 そのとき、ふと頭のなかにひとつの案が浮かびました。そうだ。毘沙門天様のお力なら。私が初めて寺へ訪れる際から持ってきていた、毘沙門天様の宝塔がありました。これを貴方に授けることで、或いは聖なる力を宿し、抵抗する力を身に宿すことができるかもしれない。
 しかしそんなことをすれば、今度は私が毘沙門天様の僕である証を手放すことになります。だからこれは賭けでした。私にしては珍しいことをしたものです。せめて、助けられた恩をここで返すのも悪くはないと、そう思いました。

 貴方にとってみれば突然の申し出に思えたかもしれません。私は貴方と二人きりになると「本当の毘沙門天になってほしい」、そして「知っての通り、私は毘沙門天の使いです。実は、貴方が毘沙門天として正しい振る舞いをするならば、これを渡しなさいと言われて来たのです」というちょっとした嘘も言って、大事な宝塔を差し出してしまいました。貴方は面食らったような顔をしては、がらがらした声で「無茶を言わないでください」とゆっくり言いました。私がしつこく「貴方は本当に守るべき人を守ろうとしている立派な方だ。いっときの間違いは犯したかもしれませんが、なに、死ぬまでに償えばよいのです。まだ死ぬときではありません。どうかここで志を折らないでください」などと、多少強引な説得をすると、貴方は長考の末に受け取ってくれました。私がさらに「これで貴方は毘沙門天様の化身。私のご主人様です」と言うと、宝塔を大事に抱くようにして眠りに就いてくれました。
 相変わらず簡単な人です。しかし私は心のどこかで嬉しく思っていました。

 予想通り、怨霊は毘沙門天様の威光を前に、力を弱めていきました。貴方の容体は次第に良くなっていきました。ところが怨霊たちの執念は凄まじく、完治と呼ぶまでには、ついに至りませんでした。秘密裏に毘沙門天代理らしき地位を得はしたものの、軍神らしい振る舞いをすることはできそうにありません。歩くことさえままならない日もあり、私が身の回りの世話をするようになりました。この頃に私が住職の地位に就くという話が持ち上がりましたが、それを蹴ったのは、星の世話をする時間を減らすのが心配だったからです。そう言うと聞こえはいいですが、未だに自分の正体や真実の発覚を恐れていたという理由がありました。このとき私の代わりに住職になった侘真という年老いた僧は、やろうと思えば本物の毘沙門天様を呼べるほど召喚の力に長けていた僧侶でしたから、彼をつてにしてあろうことか毘沙門天様へ告げ口をされる恐れがまだあるため、迂闊に貴方と会わせる訳にいきませんでした。
 貴方はちょっとしたことで、ついうっかり大事なことを喋ってしまいそうでしたから。





  * * *






「侘真の代から、いよいよ寺の力が弱まっていきました。毘沙門天が表に出なくなったこともあり、人里では寺に毘沙門天がもういないのでは、と噂になったそうです。年々若い者が入ってこなくなり、数年で侘真が死ぬと、彼に従っていた僧も軒並みどこかへ消えて、あっという間に寺のなかは私たち二人だけになってしまいました。そうして求心力を失うと、あんな山奥でしたから、気付けば寺を訪れる人もいなくなっていました。妖怪騒ぎの事件は残滓もなく、寺は静寂であるということが当たり前になりました。今にして思い出すと、もしかしたら、これも怨霊の呪いなのかもしれません。かくして命蓮寺は、本当に妖怪寺となってしまいました。
 ですが私にとっては、むしろよかったと思います。この頃になるといい加減、煩わしいしがらみを清算できるのが、却って清々しく感じたものでした。それに、私が初めて寺を訪れてから十余年、これ以上同じ姿で老いず人間のなかにいるのは不審なことだったでしょう。

 この頃の私は、自分のしたことに自信がありました。少なくとも星が弱りだしてからのことには、間違いはなかったと思っていました。人を導くこと、そして人に縛られることをしなくなった星は、格段に笑顔が増えたように思います。私は、それが素直に嬉しいと思うようになっていました。
 それに、書くのも少し恥ずかしいのですが、貴方の笑顔を見ると、なぜか私は心が癒されてしまうのを感じました。貴方といるうちは、犯してきたたくさんの罪を忘れてしまえました。いよいよ私は、貴方さえ傍にいてくれればそれでいいと思うようになりました。恥ずべきことを承知で書きますと、もう毘沙門天様のことはいいのではないか、などと思うことさえありました。

 しかし私は、敢えて毘沙門天様へ便りを書くことに決めました。あれだけのことをしておいて、このまま文も出さず山のなかに消えてしまうのが許されない気がしました。私は性根こそ狡猾ですが、毘沙門天様への不義理だけはしたくなかったし、してこなかった。全て毘沙門天様のことを思ってしたことなのです。その証として、素直な気持ちを毘沙門天様に伝えることにしました。私は返事を心待ちにしている旨も付して、軒下の鼠に手紙を届けてもらいました。かつて私の命を救ってくれた毘沙門天様。このときほんの少しだけ、彼にならば私の過ちも赦して戴けるかもしれないという、淡い期待があったことは否定できません。

 貴方が少しずつ元気になって、よく庭の掃除をするようになったのはとても印象的でした。春は桜の花弁を、夏は松ぼっくりを拾いながら、毎日早朝から丹念に掃除をしていました。秋には葉っぱや紙くずを集めて焼き芋をしました。さすがに冬の雪かきは私がしましたが、貴方は冬の間は寺のなかや軒先を掃除して、春になるとまた毎日庭を掃いていました。貴方の掃除好きは、少し不思議なくらいでした。
 私の人生で一番幸せな時期を挙げるなら、この頃を真っ先に思い浮かべます。誰もいない静かな寺で、貴方と二人きり過ごす時間は、とても穏やかで心地よいものでした。

 やはり、貴方は不思議な魅力があるのでしょう。少なくとも私が思っていたほど頭は悪くないし、意外に打算的なことをするし大胆な作戦も考えられる。知識もそこそこあります。しかし、そうかと思えばふにゃふにゃと私の傍ですぐに泣くし、寂しがり屋で自立心がない。どちらが本当の貴方なのか、どちらもそうなのか、今でも図りかねているくらいです。私はそれが不安でもあり、楽しくもあったのだと思います。どうか、この日々が続いたまま、いつの日かひっそりと死を迎えるまで、罪をこの胸に封じ込めていられればと思っていました。





  * * *






「星も知っている通りのことですが、悲しいことに、毘沙門天様からの返事はありませんでした。
 彼が著しくご多忙であることは知っていましたが、淡々と次の指令を出すことも、処分を下すこともないとあって、私は途方にくれてしまいました。あの手紙さえもが、毘沙門天様の気分を害してしまったのだと思いました。
 或いはもしかしたら、毘沙門天様は全て見ていたのかもしれない。寺に入門してからの罪はおろか、それ以前に行った悪事も。だとすると彼はそもそも、狡くのし上がってきた私が疎ましいから、必要もない監視役という職を作って、遠い山奥に左遷しようとしたのかもしれない。そう思い始めました。彼は、私が生きようが死のうが関係なかったのかもしれないし、白蓮が生きるか死ぬかも関係なかったのかもしれず、星に罪があろうがなかろうが、関係なかったのかもしれません。

 恐れ出すと止まりませんでした。星と二人きりになってからずっと隠れていた罪が、途端に浮き彫りになって私の前に立ち塞がったのです。私の目論見が全ての悲劇を生んだ。私が白蓮を殺した。私が蜜と一輪を不幸に陥れた。私が墨念を殺した。私が罪もない僧たちを殺した。星に憑いた怨霊が彼らの成れの果てなのだとしたら、星が宝塔なしに生きられなくなってしまったのも私のせい。しかも、その行いは、全くの無駄だったのではないか。
 罪は消えない傷です。今でもときどき、古傷が疼くような感じがします。いつ再び傷口が開いてもおかしくないのです。この頃ならば尚更でした。

 かなり不安定な精神状態だったと、振り返ってみて自分でも思います。意思に関わりなく、星と二人で暮らすことへ、罪悪感と満足感が交互に襲ってくるのです。訳もなくとても楽しい気分の日もあれば、一日中全く何もする気が起きず、ただ息をしているだけの日もありました。そういうとき星がどんな顔をして私を見ていたのかも知りません。
 私はあまりに深き罪を清算するために、死をもって償うことを幾度も考えるようになりました。しかし、小刀を首にあてがうまではできても、ついに首を断つことができませんでした。こんな状態でも、幸せだったのです。この頃の私は、自分が星の力になっていると思っていて、それに生きがいすら感じていました。原因を自分で作ったのだとはいっても、だからといって死ぬだなんて、理屈では分かっていても、なかなかできないものでした。
 ですがこれは狡猾な鼠の考えること、言い訳がましい考え方なのでしょうね。この幸せの実際は、動けなくした貴方の傍にいることで、罪滅ぼしと言い張っているだけです。それで襲い来るだろう天罰や災難から、何とか己の身を守ろうとしていました。姑息なやり方です。偉大な毘沙門天の僕としてあるまじき罪を、未だに誤魔化そうとしていたのです。これでは却って毘沙門天様がお怒りになるのも、無理はなかったでしょう。
 当時もときどきそう考えることがあって、すると貴方との間に生まれたような気がした幸せが、途端に陳腐なものに見えてくるのです。とても憂鬱になります。結局のところこの幸せは、多くの犠牲の上で強引に成り立ったもの。言わば他人から強奪したものに過ぎませんでした。寺に入門したときから、いえ、兄を喰らったあの日から、既に、私にとっての幸せなどあり得ないものであったのだと。

 年数が経ち、寺は何も変わりませんでしたが、寺から見える風景は折々変わっていきました。近くに立派な城が経ってから、少しの間でしたが、過去をすっかり忘れた人間たちに、貴方は再び毘沙門天として崇められるようになりました。嬉しいような困ったような、複雑な顔で私を見ていた貴方でしたが、私は何も答えませんでした。答えられませんでした。
 手紙の返事が来ないと気づいてから、蜜たちが戻ってくるまでの、この長い間が、私が最も力を失っていた期間と言えます。今でも力らしい力はあまりないですが、それでもこのときに比べれば、貴方の私に対する思いが本当だと信じられるぶん、いくらかましのはずです。

 この頃の私は、蜜たちの心配をするようになりました。しかし私が何とかしてみようかと提案すると、貴方は首を横に振り、「今の私たちには無理です」と言いました。時が経つにつれ、結界は更に強固になる。下手に攻撃するのは逆に危険だと。さらに貴方は「私の心は今でもこの寺の傍にあります。酷いことをしてしまった私ですが、いえ、こんな私ですから、ムラサたちを心から信頼することこそが、せめてもの懺悔なのです」と言いました。こうなってしまっては、もう信じる他にないのだと言うのです。そして自分は、彼女たちを信じると言うのです。私は今でもこの言葉をしっかり憶えています。信じること、それは私にはもうできませんでした。貴方でさえ、あまり信用していませんでした。蜜たちが貴方を怨んでいることが明白なのに、そんなことが言えるはずはない。貴方はその後、都合よくこんなふうに言ったのだから、尚更です。「ナズーリン、私なんかに付き添ってくれてありがとう。これからも、どうかよろしくお願いしますね」と。まるで私を心から信頼しているかのようです。
 随分心が荒んでいたらしい私は、この言葉に苛立ちを覚えてしまいました。腹の黒いご主人が私なんかに感謝などしているものか。よもや私を安心させておいて、あの事件の真相を人間たちに語って、私の平穏を潰すとか、それとも心中でも図るつもりなのではないか。
 怨嗟のような感情が起こって、貴方を殺したくなりました。新しい信仰で少しは力を取り戻していた貴方ですが、未だ弱っている身体です。日々の食事に少量の毒でも混ぜておけば、いずれ苦しみながらゆっくりと息絶えてくれたことでしょうね。こんな場所では他人に気づかれることもまずありません。病気のせいにできます。私はこのとき、恐怖に急かされて、なりふりも構わず、毘沙門天様がどうとかよりも、罪から逃れなんとか生きていくことだけを優先しようと考えました。貴方が計り知れなくて、怖かったのです。
 しかし、実際に行動をする段階になると、急にはっとして、正気へ戻ってしまいました。世のため人のために覚えた薬膳の知識を悪用して、毒薬を作ったりはしたのですが、貴方の飲み水へ入れる直前に躊躇ってしまう。やはり心のどこかで貴方を信じたかったのだと思います。今更、本気で叛くことができませんでした。

 八方塞がりでした。そうやってだらだらと数百年過ごしました。この間ずっと、貴方を完全に信じることも、完全に切り捨てることもできませんでした。
 毒薬を作っては捨て、時に川へ流したり、時に自分で飲んだりしているうちに、私は貴方に触れられなくなりました。自分のような汚い存在が貴方に触れてしまったなら、そこから貴方の身体を腐らせてしまうような気がしました。私こそが毒なのだと思いました。
 この頃は、眠れなくなり、物を食べられなくなり、貴方に隠れて自分の身体を傷つけるようになりました。貴方よりずっと遅くまで眠れず、眠りも浅い。悪夢をたくさん見ました。それに、胃が食べ物を受けつけず、無理に食べようとしてもよく吐き出してしまいました。平常心を失うことが多くなり、そのたびに自傷しました。
 例えば、小刀で自分の肌を切り裂くと、血が流れます。当然なのですが、私はなぜだか、こんなことが楽しかったのです。毘沙門天様のことを思いながら、自分で自分を傷つけます。ああ、昔は、あの方のために力を尽くしてきたのに。あの方の一番の部下になりたくて、ひたすら成果を上げていくつもりだったのに。私は何てことをしてしまったのだろう。そんなことをぼんやり考えながら。
 自分で作った毒を敢えて飲むこともしました。息が止まり、心臓が暴走し、全身の筋肉が強張って、苦しくて辛くてたまらなくなる。ですがこうして体を疲れさせたら、効果が切れたときにふっと力が抜け、安心して眠ることができるようになるのです。それでどうしてもまたやりたくなる。死なないぎりぎりに分量を調整して飲むのです。罪を償えたような気分になって、とても幸せになるのです。これが好きでした。
 こうして、こっそりと自分で生き地獄を作り上げていましたが、貴方の前では醜態を晒さずに済みました。今でもときどき欲しくなることがありますが、もうすることはありません。自傷などで罪は償えないことに、気づいてしまいました。
 当時の私はきっと、罪の償い方を探し続けていたのだと思います。結局、見つかりませんでした。

 こんな生活が終わったのは、突然のことでした。
 近くの城跡に草が萌えだし、山の周りの景色もすっかり変わった頃のこと。深夜に突然、蜜たちが空飛ぶ船に乗って帰ってきました。地底が開かれたことをいの一番に告げ、蜜と一輪は我々に拳を突きつけました。
 私の顔はきっと真っ青だったことでしょう。なぜ今になって、運命はあの忌々しい真実を思い起こさせるのか。悲しいことに私の運命は、静かな死を認めてはくれなかったのです。





  * * *






「今だから分かることなのですが、私はきっと、貴方を親愛なる家族として、認めたかったのだと思います。貴方の傍を離れなかったのも、貴方を見殺しにできなかったのも、つまりそういうことなのです。さもなくば、貴方が病に伏したときだろうが、二人で過ごしていた頃だろうが、貴方の命なんていつでも奪うことができたはずです。

 結局、償いらしい償いをしないまま、星と暮らしていた私ですが、あるときついに時間が来てしまいました。私の平穏な日々は唐突に終わりを告げます。
 船から降り立った蜜が、一瞬だけした怨みがましい表情が忘れられません。彼女はそれまで私たちが人間だと思っていたようですから、生き残ったのがよりにもよって私たちだったことが、気に食わなかったのでしょう。迎え入れてくれたのがもし白蓮だったなら、きっと最高の気分だったことでしょうに。
 私がさらに困ったのが、あろうことか星が、事件の顛末を教えてしまったことです。「本当は貴方たちも聖も、後から助け出すつもりだったのです。ですが信仰の力は衰え、私自身、病に冒されてしまった。あまつさえ地底の入口まで幻想郷に消えてしまい、どうしても助けられなくなってしまいました。ごめんなさい」と。蜜たちが驚いて私のほうを見たので、私はやむなく、その通りだ、すまないと話を合わせました。
 そこにいた全員の利害は一致していましたから、これが再び争いの種にならなかったのは幸運でした。一輪の聞きわけがいいのもあって、渋々でも「そういうことなら」と納得してくれました。

 ここから先は、もうあまり書かなくてもいいでしょうか。ある意味、呉越同舟といったていで手を組んだ貴方たちでしたが、傍にいるうちに、だんだん力を合わせるようになっていきました。貴方たちは私を巻き込んで、幻想郷へ行き、魔界への扉を開き、不思議な人間の手も借り、白蓮を無事救い出してしまいました。
 そんななかでも、私の心だけは、あまり晴々としていませんでした。苦しい暮らしではあったけれども、こうしてにぎやかな命蓮寺が蘇るよりは、よかったに違いありませんから。

 一応、星以外の皆のために、このことも書いておきます。確か博麗結界を越えた辺りだったでしょうか、星はいかにも情けない顔をして、私に「宝塔を落としてしまいました」なんて言いました。危ういことです。下手すれば命を失いかねない。宝塔は権威です。なくせば身体の中にいる怨霊が、再び力を付けてしまいます。
 私は思い切りの溜息を見せてやりました。ここで星が死ねば白蓮救出はなりません。ですが、それは私にとっては何ら構わぬこと。わざわざ宝塔を探してやる必要なんてありませんでした。にも関わらず、例によって私は、貴方の為にダウジングの杖を手にしていました。私はどうしても貴方を死なせたくないようなのです。なぜこんなことになってしまったのかと悔やみながらも、私は幻想郷を飛び回りました。
 そのとき見た空からの景色は、ずっと目に焼きついています。今では見慣れてしまいましたが、懐かしさがこみ上げるような気がしたのを憶えています。私は我を忘れたように、涙を流していました。私にとって幻想郷は、美しすぎました。

 宝塔を受け取った星は開口一番、「試してすみませんでした」と言いました。そして「これで、晴れ晴れとした気持ちで聖の前に立てる」と言って、ふにゃっと笑ったのです。これには参りました。星は私の腹の底を試すために、わざと宝塔を落としたのです。これで私の逃げ場は閉ざされた。やはり星は隅に置けない、したたかな人でした……。





  * * *






「幻想郷に移り住んでから、命蓮寺は随分平和になりました。白蓮の足が数百年ぶりに地へ着いたとき、一番涙を流していたのは蜜か、或いは貴方か、いい勝負といったところだったでしょうか。
 いずれにせよ、私の涙は白蓮の為には流すべきではありません。彼女が人格者なのは百も承知ですが、いくら私でもそんな白々しいことはできません。彼女たちは自覚なくとも私の被害者です。彼女たちは私といても、本当に穏やかにはもうなれないのです。
 ところが私は、喜びのあまり涙やら鼻水やらで顔を真赤にしていた星を見つめていると、自然と再び胸の奥から涙が溢れてきたのです。愚かなことです。星の傍で一緒になって泣く資格などありはしないのに。皆の優しさに触れ得る資格などないのに。私の身体は、この期に及んでまだ罪を犯そうとしました。
 今だってそうです。ずっとそうでした。私には、唯一心を許していたと言える貴方にすら、固く口を閉ざしていた罪がこれだけありました。新しい命蓮寺にいるときの心たるや、陰惨なものでした。この手紙によってその陰惨さを知った貴方たちの心情を、私は計り知ることさえできません。
 私の被害者である彼女たちと、今更どうして一緒になることができましょう。過去は消えません。

 私の気持ちが分かったでしょうか。もし分からなくても、仕方ないと思います。いずれにせよ私が強調したいことは、貴方の元を去り地底へ赴いたのは、貴方を嫌ったわけではないということです。私が命蓮寺にいるのは罪なのだということです。愛されることが罪なのです。

 地底は罪深き妖怪の住処でしたから、罪深い私が自らをここに封じたいと思いました。ですが地底というのは、予想していたよりも不思議な場所です。ここは地上と隔絶された第二の地上と、一見妙な表現をするのがしっくりきます。少なくとも地獄ではありませんし、牢獄でもありませんでした。
 決して牢獄ではないけれども、消せない罪は必ずこの場所に閉じこもっているのです。私の罪は地霊殿の下にありました。事件のあったあの日から、私の罪はずっとそこに閉じこもっていました。

 罪のある者は罪のある者なりに生きていました。笑ったり泣いたり、地上より優しい部分と、地上より荒々しい部分を互いに交えながら。時に仲間と、時に家族と、暮らしていました。地霊殿の妖怪たちは、私のことを家族として迎え入れてくれました。
 初め私はそれに絶望しました。ここは地上と変わりがない、このなかで暮らしたとて、どう罪が償われるだろうかと。
 しかしその絶望は、地底のことをきちんと理解していないがためだったのだと、後になって気づきました。
 地底で暮らしたところで罪は償えないのです。ただ罪深き者は、ここで生きて、ここで死ぬのが正しいというだけなのです。それが己の罪と向き合うということなのです。

 私は、何をしていたのでしょう。こうして冷静になってみると、案外、矛盾した行動が多いものですね。今まで自分が狡賢いと思って生きてきましたが、星には全てお見通しだったのかもしれません。
 もし、貴方がこの手紙を、「なあんだ、知っていることばかりじゃないか」という気持ちで読んだのだとしたら、あまりに滑稽すぎて恥ずかしい限りです。ですが私は、それはないと思っています。貴方が本当に全て知っていて、私を手玉に取っていたというのなら、今頃きっと私は貴方に恋をして、幸せに暮らしていたでしょうから。
 古明地さとり様は、そのような方でした。私の罪を全て知りながら、私を歓迎してくれた優しい方です。かと思えば私をからかうのが好きな、意地悪な方でもあります。私はそんな彼女の心を、いつしか好きになってしまいました。
 彼女は身寄りのない妖怪たちを連れ帰り、ペットという名の家族にしてしまいます。命蓮寺を出た私も、その一員にされました。

 知り合いもいない地で私は、彼女としばらく"家族ごっこ"をしました。言ってしまえば真似事です。ですが、なぜだか分かりませんが、私はこの日々がとても幸せに感じました。
 地底の罪人たちは、皆こうして、幸せな暮らしの真似事をし続けているのかもしれません。
 話が冒頭に戻るのですが、私はこの間に、家族とは何かを考えていました。
 さとり様がしている"家族ごっこ"が目指すところは、間違っていないと思います。おそらく、一緒に何をしていても心地よいような人が、家族になる素地がある人なのでしょうね。いいところも悪いところも全てぶつけ合えるので、何も恐れることがない。心を読むさとり様の眼前でさえ怖くない。そんな関係が、真の意味での家族なのでしょう。血縁とか地縁とか、いつでも会えるとか会えないとか、好きとか嫌いとかいう感情でさえ、あまり関係ない気がします。言葉にするのは難しいのですが、私はそんなことより、もっと大事なことがあるのだと思いました。

 さて、星。貴方にとって、私は家族だと思いますか。
 私は違うと思っているのです。今まで、お互いに、家族になろうとしてきたようには思えないのです。
 決して貴方が嫌いというわけではありません。貴方に会えないからというわけでもありません。何かが違うのです。ただ、貴方と二人でいた頃の暮らしは、もしかすると"家族ごっこ"ではあったのかもしれません。
 結局、私は繰り返すことしかできなかったようで、それが残念でなりません。





  * * *






「最後になりました。念を押して書きますが、この手紙は貴方たちに赦してもらいたくて書いているのではありません。赦される、赦されないということも、関係ないのだと思います。貴方たちが私を許しても、今や意味はありません。私という存在そのものが罪なのです。
 こうして罪を話すことは、貴方たちを落胆させることです。それはまた、大きな罪です。今まで何も言えなかったのは、その大きな罪を犯すことを躊躇っていたからです。ですが、その躊躇いの先にあったのは、新たな嘘という、新たな罪だけでした。この負の連鎖は、多少の傷みを受けてでも、どうせどこかで断ち切らねばならなかったものです。

 どうか私が悪だと知ってください。そして、これがずっと我侭を続けてきた私の、最後の我侭だと思ってください。
 貴方の傍を離れることはとても悲しいです。この手紙ですら、何度握りつぶそうと思ったか知れません。ですがこうしなければ、私は死ぬまで罪を重ね続けることになりましょう。何も言わずに貴方と暮らすことはできません。ずっと迷いに迷ってきましたが、いい加減、決意せねばなりません。

 そろそろ、告げましょう。
 さようなら。

 鼠たちの処遇はお任せします。可能なら、できるだけでいいので、よくしてやってほしいと思います。
 それでは。今まで、ありがとうございました。

 ナズーリンより、敬具」






















 
ご読了いただきありがとうございました。
oblivion
https://twitter.com/TalesofLige
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コメント



0.1360簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
見事な『ナズーリン失格』
12ページあたりまで読んでナズ死んで終わりだったら産業廃棄物向きだなぁと考えていたがきちんと救出まで書いてあったので良かった。ムラサの動かし方がいい。
2.50名前が無い程度の能力削除
個人的にはあんまり好きじゃない命蓮寺
10.90名前が無い程度の能力削除
地底は意外とアタタカイのです
12.70名前が無い程度の能力削除
冗長な感じ。中身は面白いので、テキスト量半分まで減らせないだろうか。手紙の全文はいらないと思う。
13.100名前が無い程度の能力削除
ナズーリンが救われてホッとした。
東方キャラは登場人物全員が、優して、出番が用意されていて、安心して読めました。
特に主人公をはっている村紗のキャラが良い。
2010年に書かれはじめたというのに、口授設定の補完まで行なわれている。
星が弱い理由、無縁塚で一人暮らしのナズーリンなど。
命蓮組の過去の補完の仕方も見事。
手紙の箇所は、ここだけ違う作品を読んでいるようでしたが、読んでいると何度も涙が込み上げてきました。
(削る部分があるとしたら、こいしちゃん関連だと思います。作中では彼女の問題には踏み入ってませんし)

エピローグが気になる締め方でした。
ナズーリンは命蓮寺からは許されているが、本人は自分を許せず一人暮らし。でもいつの日か一緒に暮らせるようになる。
という妄想をして、個人的には納得しておきます。
16.80名前が無い程度の能力削除
読み応えがあり、前半はとんとんと楽しくテンポよく読めた
まさか「宝塔が無いと死んじゃう」の適当極まる発言が伏線だったとは
後半、と言うか手紙のくだりは外せなかったんでしょうが、もうちょい簡潔にならなかったもんかなー、と
20.100鳥丸削除
気配りのきくナズーリンのイメージを持っていたので最後まで自分勝手を貫き通したナズーリンは意外でした。
自分勝手過ぎて読んでいて腹が立ってくるほどでしたが、それだからこそ真相を探す村紗に感情移入できました。
地底組はね、もうね、完全に自分好み。
皆何かしらを背負っているからこその優しさとか空の真っ直ぐさとかこいしちゃんのえろかわいさとか。

自分勝手だけど、思いやりが過ぎているお話だったと思います。
もっと自分勝手になれたら、先に進めるひとたちのお話だと思いました。
21.50名前が無い程度の能力削除
(iPhone匿名評価)
28.70名前が無い程度の能力削除
長編おつかれさまです。
みんななにかしらの信念を持っている中での衝突、すれちがいの描写が自然で、
感情移入できる完成度の高い作品と思いました。
ただミステリ要素が少し濃い感じを受けました
30.70名前が無い程度の能力削除
うーん、無感動だった…。すまない…。
部分部分では、おもしろくて、想像力が刺激され、イメージが膨らむシーンはあったんだ。でも、全体ではおもしろくなかったかなぁ…。
自分でもなんで無感動なのかよくわからない。

なにが、私の感動をそいでしまったんでしょうか…?
・登場人物が多すぎて一人あたりの描写文章量が少なくて感情移入しずらかった
・さらに、章毎にスポットをあてるキャラが複数人単位で変わるのも、感情移入が削がれてしまった。

といった、この270KBの文章構造が原因かなぁ…とはじめに思いつきました。
 ほぼすべてのキャラクター(さとり、パルスィ、空、星、ムラサ、ナズなど)の性格がoblivionさんの独自解釈で、
このキャラクターのうち、十分な経緯や心情変化を説明しているのは星、ムラサ、ナズ(←?)だけで、後はかなり描写が不足していると思いました。
 ゆえに、私が一次設定や他の作品の二次設定で蓄えたキャラクター像と一致せず、感情移入ができず、読んでいて強い違和感がありました。
「なんで、そんな風に台詞を言うの?そんな行動をするの?」という感じがかなりありました。
ただ、私がoblivionさんの他の作品を読んでいないのも原因だと思います…。
 
また、中盤辺りで、「あっ、このSSは夏目漱石の「こころ」と同じストーリー展開で来るな。」と予測し、
たいした驚きもなく、その予測通りに終わってしまったのも興がそがれたかもしれません。


270KBの中には、所々私の好ましく思うシーンもありました。
でも、「わざわざ270KBもかけて語ることだったのかな…」という感じはします。
もっと短編でoblivionさんのこの話は読みたかった。もっとすっきりとした文章構造?ストーリー展開だと良かったかなぁ…??
自分でもよくわからない気持ちです。



でも、良いSSでした。だって、270KBなのにサクサク抵抗なく読めましたからね。
つまらなくなかったんです。だからこそ、もどかしい…。
おつかれさまでした。
39.90名前が無い程度の能力削除
うん、面白かった。