もう、荒筋なんかわすれたという方も多く居られると思います。お怒りの方も多数おられると思います。白蛇の早苗、一年越しの十回目、今度こそ完結です。
このSSにはオリジナル解釈、キャラクタ、流血表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
未読の方は以下のリンクの第一回よりお読みください。
■上編(第一回)
■【完結編】下(第九回)
では、どうぞ。
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一匹の狐が、夜空を見上げていた。
月明かりに煌めくのは金色の毛皮。ふわりとした穀物の穂のような尻尾は、体の横に柔らかく丸められている。形の良い三角の耳はぴんと立ち、空に向かっていた。
すん、と鳴らす鼻の先で、遠くに見える妖怪の山の雲が晴れた。もうすぐ、“神楽”が始まる。
風に乗って漂ってくる風の匂いは、かすかに瘴気を含んでいる。
「‥‥無茶をするわね。ほんと」
苔むした切り株から見上げる妖怪の山と、そのふもとに広がるこの森は、いつになくざわついていた。その訳は分かっている。あの白蛇だ。この森を黒い獣たちから救い、動物達を守った、白い蛇神様。
先ほど、遠くの空を飛んでいく白蛇の姿が見えた。神々しい、月明かりできらめく白樺のようなその姿。森はその姿を見て興奮している。
「彼ら」は分かっているのだ。白蛇がこれから何をしに行くのか。‥‥森は、荒ぶる大地の神を鎮めるために戦いを挑む精霊に向かって力を送ろうとしている。風に乗ってくる瘴気を打ち消そうとでもするかのように、今夜は森の吐き出す精気が濃い。
「姉様!葛花の姉様ー!」
空を見上げていた彼女の元に、姦しい声が響いてくる。がさがさと草むらが揺れたかと思うと、ぽん、と金色のカタマリが飛び出してきた。
「ここに居たんですか!さがしましたよホントー!」
「今晩は。毎度騒がしいわね、貴女は」
金色のカタマリは、プルプルと体を振って、木の葉を振り落す。現れたのは、一匹のキツネだった。
葛花の姉様と呼ばれた彼女の姿を見つけたキツネは、少女の声で嬉しそうにはしゃぐと、黒い鼻先を寄せてくる。挨拶を求められた彼女も、黒い鼻先を寄せて応えた。
「白蛇様はちゃんと見送れたかしら?」
「は、はい!それはもうばっちりと!」
「そう?」
「ええ!」
「また迂闊なことを言って食べられそうになったんじゃない?」
「え、いや、そんなことは」
質問にあからさまに動揺し、声色を変え、目まで逸らす彼女の様子を見て苦笑すると、葛花狐はくすくすと笑った。
「貴女は本当に正直者ね」
「だ、だって、ミシャグジ様はホント怖いお方なんですもん。狼とお化けまで一緒だし‥‥」
ぴすぴすと鼻を鳴らしながら、狐の少女はぐいぐいと頭を葛花に押し付ける。まるで子ぎつねの様に甘えてくる彼女に、葛花はやれやれとため息をつきながら耳を軽く噛んでやる。
「貴女は神使となったのだから。いつまでもそんなことを言っていてはダメです。もっとしゃんとしなさい。山の神様からも神使と認めてもらったんでしょう?」
「そうですけど‥‥」
頼りなさげな声をだし、少女は葛花を見上げる。
「私には、葛花の姉様みたいな良い頭もないし。ちょっと長生きしてるけど、姉様みたいな力もない。それに、そんな立派な九つの尻尾だって」
少女はそう言いながら、後ろを振り返る。葛花のふわりとした尻尾。それは一本ではなく、九本あった。
「こんなもの、関係ないわ。ミシャグジ様の前じゃ、ただの飾り。いくら私でも、ミシャグジ様がその気になればあっという間に食べられちゃうもの」
「え、ええー!」
「そうよ。何度も言っているでしょう。ミシャグジ様は、この大地の精霊。私達獣も、森の木々も、虫たちも、人間さえも、あの方のチカラを受けて栄えるの。ちょっと歳食ったくらいじゃ、ミシャグジ様になんかかないっこないの」
「ふええ‥‥」
尊敬する葛花の姉様があっけらかんとミシャグジ様のすごさを語るのを、狐娘は大シジミみたいなくりくりとした目をもっと大きくして、口をぽかんと開けていた。
狐娘にとって、葛花は普段から呼んでいるように、姉というべき存在だった。
彼女と葛花が出会ってから、まだそれほどの時間は経っていない。初めて会ったのはこのあいだの冬の終わり、ふきのとうが顔を出し始めた頃である。
最初の出会いは、今晩と同じような月の夜だった。夜の森を散歩していた彼女は、偶然ここで、葛花と出会ったのである。
春の夜風を浴びながら、お気に入りの切り株で月の光でも浴びようかと森を抜けてきた彼女の目に映ったのは、見知らぬ一匹の狐が切り株の上にちょこんと座って月を見上げている姿だった。
「ここはウチの縄張りだよ!」
月光を浴びながら、切り株の上で空を見上げる見知らぬ狐に向かい、少女は大きな声を出して吠えた。最初、彼女は気が付いていなかったのだ。見知らぬ狐の持つその立派な尻尾にも、妖気をまとった気配にも。
吠えた次の瞬間、突然吹き付けるように押し寄せた妖気に、娘は全身の毛を逆立てた。続いて見えた、彼女のシルエット。一本しかないはずの尻尾が、バラりとほどけて扇のように広がり、九本に分かれて彼女の後ろに広がった。
野生動物といえど、彼女も幻想郷の住人である。九尾の意味くらいは知っていたし、ヒトの姿を持つ油揚げ好きな九尾の狐の話も知っていた。
(ひいいいい!)
月明かりを受け、怪しくたたずむ九尾の狐。異形の尻尾はただそれだけで妖怪の証である。こちらを見下ろす切れ長の目に、言いようのない威圧感を感じて、娘は腰を抜かして震え上がった。
(こ、こここここ殺される!私八つ裂きにされるぅぅぅぅ!)
がくがくと足を震えさせ、狐娘はその場にへたり込んでしまった。彼女が生まれてから13年間ものあいだ、彼女を助けてくれた野生の力はこの大事な時に働いてくれなかった。それほど、九尾の狐が狐娘に与えた恐怖は大きかったのである。
しかしそんな今にも失神しそうな彼女に掛けられたのは、随分とのんびりした謝罪の言葉だったのだ。
「あれ、ごめんなさい。ここ、貴女のお気に入りだった?」
「‥‥はひ?」
途端に吹き付ける妖気がやむ。代わりに漂ってきたのはまるで母狐達が出しているような、甘い匂いだった。どこか懐かしい匂いを嗅いだ狐娘の恐怖は急速にやわらいでいく。
恐怖のどん底から一瞬で引き揚げられた狐娘。強烈な恐怖と安堵の間を行き来した彼女はぐずぐずの骨抜きになってしまった。
ぐったり地面にへばりついた彼女に、申し訳なさそうな顔の九尾の狐の声がかかる。
「今よけるから。ごめんなさいね。気持ちよさそうな切り株があったものだから、ついね」
「は、は、は」
「私は、葛花っていうの。この森に来るのは初めてで。あなたの縄張りを侵すつもりはなかったの。ちょっと、借りたくなって。あんまり気持ちよさそうな場所だったから。‥‥って、あなた、大丈夫?」
「‥‥だめですぅ」
‥‥九尾の殺気は、ただの野狐の膀胱を刺激するには十分すぎる威力を持っていた。
そんな衝撃的出会いをした狐娘と葛花の不思議な付き合いはそこから始まったのだ。
月の明るい夜、葛花はいつもあの切り株に現れた。月光浴をしている狐娘の隣に座って、一緒に月を見上げて、おしゃべりをして。
立派な妖獣になるための心構えやら、神使となった稲荷の狐たちの話。色々な話を聞かせてもらった。ヒトに化ける練習も。まだまだ力がなかったから、もっぱら葛花が狐娘に術を掛けて、ヒトに化ける感覚を教える形だったが。
森を荒らしまわっていた黒い妖獣とのケンカの仕方――――そして、ある日突然森に現れたミシャグジ様への対処法についても。
葛花は神様の出現に混乱する森の長老達の前にまで姿を現し、助言を与え、狐娘を神使として推してくれた。
森の動物たちにとっては九尾の葛花も神同然の存在である。狐娘は葛花があのおっかない白蛇の神様を何とかしてくれるものと思っていたが、葛花も、そして長老たちもそれを良しとしなかった。
「ここは 我らの/貴方達 の森だから――――」と。
神使役に選ばれ、正直恐怖で気絶しそうだった狐娘だが、葛花の激励と、長老達(特に狸のジジイ)のおだてによって、神使役をすることを承知したのであった。
「あの時はホント怖かったんですから」
「今でもじゃないの?」
「だいぶ慣れましたよぅ」
「もう、おもらししない?」
「うえ。し、しませんってば」
「そうね。大丈夫だったものね」
「はい!」
嬉しそうに舌を出す狐娘の顔を見て、葛花は狐式に笑った。そして、狐娘はもう一度、黒い鼻を葛花に押し付けると切り株から飛び降りた。
「じゃあ、私、森に戻りますね」
「あら」
「元気と勇気は補充できました。まだ、ジジイ達とか、狼達とか騒いでるやつらがいるんで。ちょっと行ってなだめてきます」
「大丈夫?」
「私はミシャグジ様の神使ですから」
そういうと、狐娘は暗い藪の中へと消えて行った。
その足音がすっかり消えると、葛花はふうと小さくため息をついた。
「すっかり慕われて‥‥良いわね、ああいうの」
右足でちょいちょい、と耳を掻く。
ざわつく森の様子は、さすがの葛花にも影響を与えていた。耳をパタリパタリと閉じてみたり、開いてみたり。落ち着かなかった。
「私を忘れてませんか」
「あら」
「ここに居たんですか。探しましたよ」
さっきと似たような台詞が、後ろから掛かる。
「なんかね。落ち着かないの」
「ほえ」
足音もなく、声の主は近づいてくる。そして、かすかな風音とともに、葛花の隣に空いていた隙間に着地した。
黒猫だった。
「どうだった?妖怪の森のようすは」
「みんな、結構興奮してます。妖怪の山に近い森だけじゃなく、遠くの博麗神社の方まで、森がざわついてて」
「人里の守護は?」
「伝言は終わりました。藤原さんが、里の守護に入るそうです。これで人里には慧音さんと、藤原さん、あと、お寺の皆さんが」
「そう。紫様は」
「紫様は博麗神社に居ます」
「何か言伝はあった?」
「特に何もないです。『あんまり興奮しちゃだめよ』って」
「‥‥一番興奮してるのは紫様だと思うけど」
「藍様もそう思いますか」
「うん」
葛花と名乗って狐娘と話していたのは八雲紫の式、藍である。狐娘の知っていた、「人里に油揚げを買いに来る九尾」その人であった。
藍が紫からとある指示を受けたのは去年の冬だった。
「何かが博麗大結界の周りをうろついている。いつもの結界の管理に加えて、監視も怠らないように」
こんな物々しい指示を藍に与えると、主は冬眠に入ったのだ。
おかげで、今年の冬は何時にも増してしんどい冬になった。結界の管理で飛び回りながら、何者かが侵入した形跡がないか調べる日々。
結局、主が起きるまで何者かが侵入した形跡はどこにも表れなかった。ただ、結界のそばまで行くと確かに何者かの気配を感じた。じわじわと獲物を見定めるかのような、ねっとりとした薄い気配。おかげで一時も気の休まる時はなく、藍の胃には潰瘍が現れかけた。
紫が冬眠から目覚めた日の朝。「誰も来ませんでしたよ」と告げたへとへとの藍に向かって、紫はねぎらいの言葉と一緒に、休暇を言いつけたのである。
「妖怪の森でしばらく遊んでらっしゃい」と。
全く意図が分かりかねる発言だったが、ストレスですっかりやられていた藍は、素直に主の言葉に甘えることにした。
さすがに毎日ではなく、一週間のうち土日がそっくり妖怪の森の休暇になった格好だったが、休みができただけでもありがたかった。森での休暇は楽しかった。橙の猫の里を冷かしてみたり、とある一匹の狐と仲良くなったり。
休暇が、やはりというか本当の休暇ではなく「ミシャグジ様の監視」という仕事だったことを知ったのは、森に出かけるようになってからだいぶたった夏の日だった。
博麗大結界を越えようとしていたのは、あろうことかミシャグジ様だったのである。
結界を超えたミシャグジ様は、藍と紫が手を打つ前に、あっというまに守矢神社の早苗に憑りついた。これは管理者側の彼女達にとっては歓迎すべき状況だった。守矢神社ならば二柱が居る。これでひとまずは安心。そう考えていた八雲主従は、その後の諏訪子の行動にすこし混乱した。あの祟り神はミシャグジ様を抑えるどころか早苗に呪いをかけ、一匹の白蛇と化したうえで野に放ったのだから。
紫は当初から、あの気配がミシャグジ様であることに気が付いていた。そして現れるとすれば守矢神社か、自然の精霊に近いというミシャグジ様の神性上、妖怪の森と踏んでいたためそこに藍を配置しておいたのである。結果的には野放しにされたミシャグジ様は妖怪の森へと向かった。ここで、紫の先読みと藍の働きが功を奏す。紫はミシャグジ様を一時的に閉じ込めるオリ―――あの洞窟である――――を、藍はミシャグジ様を刺激しないように動かせる神使を用意し、早苗が正気に戻るまで妖怪の森に隔離することに成功したのだ。
隔離成功に至るまでが結果としてかなり偶然に頼ったところがあるのは、八雲主従共々忸怩たるものがあるのだが。
「‥‥“神楽”、うまくいくのかしらね」
「藍様はどう思ってるんです?」
「何を?」
「どっちが勝つか」
お座りしたまま金色の目で橙は藍を見上げる。九尾の狐はぴす、と一回だけ鼻を鳴らした。
「五分。早苗は力をつけすぎた。森丸ごと一個の信仰に加えて、満月だもの。万一もあるんじゃない?」
「勝っちゃったら‥‥」
「恐怖のミシャグジ様、幻想郷に降臨、ね。何物にも縛られない、守矢の神にも八坂の明神にも止めることができない、現人神の力と森と動物達の信仰を得た荒神の誕生」
「‥‥」
「私の計算じゃ、幻想郷を荒らしきるまで5日ね」
「そんな‥‥」
「もちろんそんなもの放っておくことはできない。かといって外の世界に解き放つわけにもいかない。そうなれば、どうすればいいかは自ずと決まるわ」
「‥‥殺しちゃう、んですか」
「もしくは封印ね。旧地獄でも、魔界でも。‥‥いずれにせよあまり愉快な結果にはならないわね」
「‥‥」
橙は以前宴会の席で絡んできた早苗の姿を思い出していた。「ねこちゃーん!」とか言って、楽しそうに散々ぐりぐり人の頭を撫でまわしてくれた、酔いどれの巫女。あまり接点はなかったが、あの笑顔の持ち主が殺されるか、もしくは永久に封印されてしまうというのは、あまり想像したくなかった。
「じゃあ、あの神様が勝つように‥‥」
「勝ってしまったら、それはすなわち巫女の最後。今の洩矢諏訪子には容赦なんてない。負けたら、早苗はきっと殺される」
「そんな!じゃあ、むざむざ殺されるために、早苗さんは“神楽”をしに行ったんですか?周りのみんなも、それを分かってて行かせたんですか!?あんまりじゃないですかそんなの!」
「‥‥橙」
「だって!」
「そうならないと思ってるから、早苗は神楽をしに行ったし、八坂の神様も早苗を送り出したんだと思う。‥‥正直、私の計算じゃ、これがすんなりおさまる確率なんて、万に一つもない。でも彼女達はそうしたの」
「‥‥」
「一つは、これが彼女達の問題だから。彼女達の手で何とかしなければならない問題だから。私や紫様、博麗の巫女が出張るのは一番最後なの。もう一つは、奇跡を信じたから」
「奇跡って」
「神様は奇跡を起こすもの。‥‥奇跡を信じない人たちが、神様を信じられると思う?奇跡も信じない者が、神様だと思う?」
「‥‥」
「めんどくさいよね。神様って」
藍はふん、とため息をつくとまた月を見上げた。
橙も同じように月を見上げた。藍の話を聞いて、モヤモヤしたものが頭の中で渦を巻く。結局彼女達は奇跡に頼るしかないのか。そんなの、ただ殺されに行くのと何が違うのだろうか。本気で神様を信じるってこういうこと?そうじゃないよね?自分で奇跡を起こすから、起こすってわかってるからなの?‥‥わからない。
黒猫はその小さい頭をポスリと狐に押し付けた。嗅ぎなれた優しい匂いが橙の心を鎮めていく。
「‥‥うまく、行くといいですね。“神楽”」
「うん」
二匹は体をくっつけあったまま、ずっと月を見ていた。段々と騒がしくなってくる、森の声を聴きながら。
*****************
風が踊ってるなぁ。
空からぐいっと吹き降ろしたかと思えば、そのまま横に流れる渦に巻かれて地面を滑っていって。
滑って行った風は、正面から来た風とぶつかって、また空に登って。
それは目には見えないけれども、木の葉っぱや、消えそうなかがり火や、土埃や、椛が、それを教えてくれて。
普段はただ、吹き付けて流れていくだけの風が、今はいろんなところからいろんな方向へ、くるくると遊びまわって。
ああ、楽しそうだな。あの中を流されていったら、きっと、すりる満点だろうな。
うん。
こういうのを現実逃避と呼ぶんだよね。知ってるよ。よくやってるから。
ああ、どこのだれかは覚えてないけど、あなたのことはお父さんとお呼びした方が良いのでしょう。
わちきを、作ってくれた職人さん。――――そう。あなたです。あなた。どうしてこんな色にわちきを塗ったのか、問い詰めたいことは色々あるけど、とりあえず。
きこえていたら、きいてください。
わちき、おかげさまで売れ残り、付喪神になりまして、幻想郷というところに住んで、日々人間達を驚かす唐傘お化けライフを楽しんでおります。いろいろと素敵な友達もできました。
「ほらほらあ!吹き飛ばされちゃえ!哀れな忘れ物!」
「きゃああああああ!」
で、なんと只今、天狗と勝負しております。
「ほーら何やってんのー!手加減してほしかったら本気で掛かってきなよ!」
「ほ。本気だよ!」
し、しかもとっても、大ピンチ。
****************
―――― シュッ!
「はーっは!そらこい!」
ギラギラ目を光らせ、諏訪子が飛び掛かる白蛇に叫ぶ。
白蛇は答えない。代わりに風をまとって突進する。
諏訪子は避けない。大きくのけぞって、一気に頭を前へ!
ぱ あん!
空気をふるわせて、境内に石が割れるような音が響く。白蛇と邪神の初手は、互いの体重をかけあった頭突きから。
「ぎぃっ!」
「ぬ、おあっ!」
すさまじい力が諏訪子の体に伝わる。諏訪子は飛ばされまいと踏ん張るが、体格差がそれを許さない。頭突きから一拍遅れ、小さな彼女は後ろに吹っ飛ぶ。
石畳で数回バウンド。くるりと後転して体を起こす。その鼻先に、白蛇の爪。
「がああっ!」
笛のような風切音。続く低い水音。
「ぐ!」
月光にきらめく、円弧のような軌跡。半人半蛇の鋭い爪は、容易く祟り神の皮膚を裂く。
しゃん!
「――っ!」
祟り神の脳に響く、爪が頬骨に引っかかる、石を擦るような音。二度、三度と続く。
しゃん!しゃん!しゃん!
「う、あ、ああ、あ」
嬲られる体から力が抜ける。肺から空気が勝手にもれ、喉を震わせて呻きになった。
赤い目の白蛇は、腕を振り回し、くる、くる、くると、赤いしぶきをまき散らす。
激痛に、朦朧とする祟り神の頭。細い足元が震え出す。
シャッ!
「痛ぁっ!」
祟り神の視界が、一瞬の赤の後に黒く染まる。右の方から、二つ、間隔を置いて柔らかいものが落ちる水音。
声にならないうめき声をあげる祟り神。その腹を、しなる肉の鞭が撃ち潰す。
「ぶえっ!」
暗闇の中、祟り神は石畳に叩きつけられる。聞こえるのは骨のきしむ音。自分の体が跳ねるミチミチという音。
転がる体は、硬い石畳に擦り付けられ、ようやく止まる。口の中に、苦い土の味。
「ひ。ひひひ、ひ。痛い‥‥痛いなぁ‥‥」
祟り神はゆっくりと体を起こす。闇の向こうから蛇の鱗の音が近づく。
「好いねえ!」
血の涙を流しながら、祟り神が歓声を上げる。地面に着いた両の手が、乾いた柏手の音を響かせ、硬い石畳を歪ませた。
「潰せ!」
だ あん!
迫る白蛇の目の前で、石畳を吹き飛ばし現れる、巨大な巨大な土くれの腕。白蛇は赤い目を大きく開き、驚くあまり急停止してしまう。岩混じりのいびつな手のひらが、回避の遅れた白蛇を捕え、握りつぶす!
「ギャアアアアアア!」
尻尾を引きつらせ、血の泡を吹いて絶叫する白蛇。その悲鳴と同時に、いびつな腕から太いモミの木が無数に飛び出す!
「シャッ!」
ど、ど、ど、と太鼓のような音を立てて、岩の腕からモミの木が生える。白蛇は、口にあふれた血を吐き飛ばし、片手で木を抱え、折る。
そのまま、地面に手をついて土くれを操っている祟り神に、恐ろしい速度で投げつける!
目のない祟り神は、回避できない!
「ぶ」
少女の悲鳴は、間抜けな空気が抜ける音に変わる。地面にばしゃりと広がる赤白まだらの扇。芳しきミシャグジ様の神饌。
地味なクチナシの着物が、真っ赤に染め上げられる。
岩の腕が崩れ落ち、白蛇は解放された。
「しゅー‥‥」
コミカルな音を立てながら、若干身長の縮んだ祟り神が、ゆっくり後ろに倒れる。
白蛇は、その様子を見ながら、白い腕で自分の体を抱きしめた。
蛇の体から響くのは、胡桃をこする様な、ごりごりという硬い音。土の腕に折り潰された、骨が元の場所に戻っていく音。
「かぁああ‥‥」
激痛に、眉間にしわを寄せる白い蛇。目の前には、祟り神が大の字で転がっている。
すさまじく良い匂いのする、赤い血を流しながら。
あっけなく、いとも簡単に旨そうな肉袋に成り果てたその無様な姿を見て、痛みに震えながらも白蛇の顔が歓喜に歪む。
――――仕留めた。
「そう思うだろ?」
「!」
死んだ獲物がよみがえる。白蛇の瞳孔が、驚きと怒りに細くなる。目の前で死んでいたはずの祟り神の、首の付け根から声がする。
泡が立つ、ぷちりぷちりという音。彼女の肉が盛り上がり、欠けた部分を埋めていく。
「ひひ、ひ。お約束の展開だよ、こんなの。まずは、痛みを楽しんでからってね」
片腕で顔を隠し、祟り神が体を起こす。その指の間からは金色の目が、白蛇を冷たく見つめていて。
「ああ、痛い。痛いなぁ。せっかくの化粧が落ちちゃったよ‥‥うん。最高だ。最高だよ!テストは合格だ!お前は強いねえ!こんなにぶっ飛ばしがいのあるコは何百年ぶりだろう!ここしばらくは私に手も出せないようなモヤシばっかりだったんだ!‥‥あははは!ははははは!」
――――シャッ!
楽しそうな祟り神の声は、白蛇の神経を逆なでする。
耳障りなそのお喋りを遮り、口にあふれていた唾を吐き、白蛇が目を吊り上げ、吠える。
祟り神は、顔に当てていた手を降ろす。もうすっかり、元通りだ。
「あは、怒ったねえ。良い顔だ」
挑発とばかりに、祟り神は血の付いた手を白蛇に向かって振り、あたりに自分の血しぶきをまき散らす。
さらに濃度を増す生臭い肉の匂い。白蛇の息が荒くなる。
諏訪子は高く飛び上がると、空へ。
空の上から白蛇に降ってくるのは、楽しげに誘う声。
「ほら、“早苗”、おいで。――――おいしいよ?私は」
――――シャッ!
一声吠えると、早苗は尻尾をくねらせて空へ駆け上がる。頬に掛かった諏訪子の血を、ねろりと旨そうに舐めながら。
*************
「ほら!よそ見をしてたら、危ないですよ!」
「ぬ‥‥!」
正面から放たれた鎌鼬を、椛は盾で逸らす。そのまま無理やり勢いをつけ、前方に跳躍。
射命丸とすれ違いざま、斬撃。射命丸は身を捩って回避。椛の脇をすり抜ける。
カ、と天狗下駄の歯で石畳を蹴とばし、椛は後方へ鋭角にコースを変更。通過した射命丸の後ろに占位。
そのまま空中戦へ。黒い翼を羽ばたかせ、時折後ろを振り返りながら逃げる射命丸を、椛が追いかける。血しぶきをまき散らしながら空を舞う、白蛇と祟り神を横目で見ながら。
「見てますねえ。気になりますか、あの二人」
「ええ!」
「怖い顔してますねえ、椛」
「当たり前ですっ!」
「あんなにも仲の良く、家族の様だった二人が、今はどちらも化け物になって、――――うわっ! 本気で殺し合いをしていますものねっ」
「文殿は、分かるんですかっ!納得いくんですか!これが、この状況が!――――ええい!」
礫を投げ合い、木の葉をまき散らす。曲線で動く文を、椛は直線で追う。真下は湖。水面に二匹の天狗の影が映る。
「あなたは、ご存じないんですね。そうですか」
「その口調、随分余裕なんですね。文殿」
「いいえ、無理してますよ」
「いったい何がご存じないんですか」
「貴女が落ち着いたうえで聞かせたい話があるのですよ」
射命丸、やおら体をひねり右半回転。後退させていた翼をばさりと大きく広げて急制動。
椛は射命丸の行動を察したが、体がついて行かなかった。そのまま射命丸を追い越してしまう。
射命丸は翼を畳んでくるりと急降下。速度を回復させ、すぐに椛の背中を追いかける。
「悲しいお話ですよ。どうしてあの神様が、こんなことをやっているのか!実の家族と言ってもいい、早苗さんを化け物にしてまで、ケンカをしなければいけない訳。ねえ、椛!聞きたいでしょう?」
「ケンカをしたいからでしょ!」
逆に追尾される立場になった椛。しみじみとした文のしゃべくりと一緒に飛んでくる鎌鼬を何とかかわしながら怒鳴り返す。
「そのケンカをしたい訳ですよ!聞かせてもらったんです!諏訪子様から!」
「は!」
「自分がどうしてここまでしてミシャグジ様とケンカしたいのか!早苗さんを蛇にしてまでする価値のあることなのか!」
「――――あったんですか、そんなもの!あるんですか、そんな理由が!価値が!」
椛は水面近くまで急降下。急制動して振り返り、追いすがる射命丸に向かって身構える。
射命丸、翼を畳んで突進。椛をかすめ、風に乗せて連れて来た木の葉をまき散らす。
椛は剣を振り下ろす。衝撃波が水を叩き、水柱が木の葉を濡らす。重量の増した木の葉は一気に速度を落とし、はらはらと水面へ。椛はその場に静止。文の気配を探る。
直後に射命丸が真上から蹴りつけてくる。盾が轟音を鳴らす。
「ええ!だからこそ、私たちはあの方の味方をしてます!心の底から!」
「‥‥は!心の底だぁ!?」
椛の心に、怒りが再び湧く。早苗を人でも妖怪でもない化け物に堕とした諏訪子に、平気な顔をして協力する射命丸達。分からない。彼女にはどうしても分からない。分かるまで想像するだけの冷静さが、今の彼女にはない!
椛のまなじりが吊り上る。髪の毛が、ざわりと逆立つ。椛の頭の中で、じゅん、と音を立てて熱いものが広がってゆく。
――――アア、堕ちる。私も堕ちる!
「‥‥どうやら、洗脳がまだ解けていないようです」
「至って正気ですよ」
「そうかい――――首落としてやるから“一回休んでろ”、鴉!」
「!?」
射命丸の足元で、椛の纏う空気が、一瞬にして変わった!
ぶあっ!
「わっ!」
暴風が椛を押し上げ、盾の上に乗っている射命丸の態勢を崩す。椛は盾を引いて文の足を滑らせ、そのまま細い足首を捕まえ、引っ張る。
剣をくるりと逆手に持ち替え、足を掴んで引き寄せた文の首へ一直線。
「がうっ!」
「!」
天狗扇が剣を受け止め、火花を散らす。
椛の刀は、その刃が射命丸の首の肉に届く前に、彼女の扇の柄で止められていた。
舌打ちをする椛に、少し上ずった声で射命丸が話しかける。
「‥‥お、落ち着きなさい。あんた、ちょっとおかしいわよ」
「どこが」
「狂ってる」
「目ならいつでも赤いですよ」
「そういうことじゃない。あんた、さっき自分であの唐傘に言ってたでしょう。怒りに囚われるなと。血みどろのケンカなんて御免だと」
「怒らせたのはあなたです」
「どうしてあなたはここに居るの。何をしに来たの」
「‥‥あの祟り神を切り刻むためです」
「椛――――!」
「さあ、その素首切り落してやりましょう。文殿」
「ちょっと!?」
淡々と冷静なように見える椛の声と表情。しかし彼女は世間話でもするような声で躊躇いもなく射命丸の命を狙ってきた。
鍔迫り合いをしている扇に、椛の刀がぬるりと食い込む。射命丸自身の妖力で強化しているはずの扇の柄が少しずつ切られていく。
「ええい!」
射命丸は椛に足を掴まれたまま、ままよ、とばかりに静止状態から急加速。加速に対応できず、椛の手が外れる。剣の切っ先が文の脛をかすめる。
舌打ちをしながら射命丸は間合いを取り、椛の周囲を回る。椛は合わせて円運動。巴戦に。
ギラギラと光る赤い目が、付かず離れず射命丸を追いかける。
その目を見て射命丸は再度舌打ちをすると、羽と木の葉をまき散らしながら、怒鳴った。
「ったく、あっという間に“サカって”!二人の瘴気はきっとまだまだこれから濃くなるのよ!ここで酔っぱらってどうするの!」
「やかましいわ、鴉」
「これじゃあどっちが洗脳されてるか分からないわねえ!――それっ!」
「うらあああああ!」
水面から少し上、ふわりと舞う文の放った風の渦が、椛の斬撃で散らされる。引きちぎられた風に乗って、椛が突進。射命丸は水面との間で風を一気に膨らまし、自分と椛を跳ね飛ばして距離を取る。
吹き飛ばされた椛は後方へ一回転。空中で姿勢を立て直し、射命丸が牽制に撒き散らしたマクロバーストを回避。
‥‥椛は解っていた。自分は早苗と一緒に居すぎた。ミシャグジの匂いを嗅ぎすぎた。自分はすでに“サカって”しまっている。おかしくなっている。ケンカが始まれば、冷静さはきっとすぐに失われるだろうと。
神楽の前、「私たちの瘴気を吸って、平気でいられるか」との諏訪子の問いに、椛は答えられなかった。彼女は、早苗と一緒に居るとどうしようもなく昂ってくる自分の気持ちに気づいていたのだ。‥‥大地の神、狩猟、農耕、風の神。肩書はどうでもいい。ミシャグジ様は、椛の中に有る狼としての自分を強く強く呼び起こす。四つ足で走っていたころを思い出させる。いつか洞窟で小傘が問いかけたとおり、椛は早苗の放つミシャグジの匂いに中てられていた。
妖怪の中でも格の高い種族である天狗においては、程度と状況にもよるがむやみやたらと大昔の獣の本能に走ることは低俗、未熟とみなされて歓迎されない。だが、椛はミシャグジの匂いを嗅ぎすぎた。早苗といる間、彼女は目をギラギラと光らせ、狐を喰うと言って脅し、思ったままに吠え、小傘を噛み殺すと言って唸り、にとりを助けるためとはいえ白狼の姿まで晒した。
椛の仕事は哨戒である。攻撃をしても、威嚇が主。本能を抑えて理性を最大限要求される仕事だ。その仕事をやってきた彼女に、本能を抑えて冷静に戦うというのは必須項目でありできないはずはない。本能のまま、感情のまま、怒鳴ったり吠え声をあげている最近の状態は異常なのである。
神楽が始まり、月に照らされ、血の匂いを嗅いだとき、きっと自分は狼になる。天狗ではなくなる。むしろ、獣にならなければ、あの神様に一太刀浴びせることはきっとできない。だからこそ、小傘には何時ものままで居てほしかった。彼女には最後まで、神と狛犬を見守る巫女でいてほしかったのだ。早苗や自分が獣になって、たとえ言葉を失っても、何が起こっていたのか、見届ける役目をしてほしかったのだ。
「があああああっ!」
振り回す剣が、風を切り裂いて文に襲い掛かる。羽虫の様に襲い掛かる無数の細かい風の傷が、文の頬を薄く裂いた。
「ええい!聞き分けのない駄犬は嫌い!絶対に聞いてもらうからね!このケンカの訳!」
「かわいそうな鴉だ!枷をはめられて、祟り神の鳥籠の中!ほら、こっちにおいで、ほら、ほおら、枷ごと首を落としてやる!」
「ぐっ――――!」
ゆらり、ねらりときらめく光の筋を、なんとかかわす射命丸。
椛が普段使っていた大剣より大分小さくて軽い狼の蕨手刀は、その軽さにより恐ろしいスピードで文の喉笛を狙ってくる。軽さは剣を扱う椛の負担も小さくし、空中で思い切り振りかぶっても椛は姿勢を崩さない。なかなか彼女に隙ができず、射命丸は斬撃をよけながら後退するので精一杯。
「旋符『紅葉扇風』!」
射命丸の宣言と同時に竜巻が発生。文は椛にこれを使わず、自分を上空へ飛ばすための足場に。渦巻く風の砲身をくぐり、文は一気に空へ跳ねる。
椛は水面を蹴って直角に方向転換、上空の射命丸に向かって突進。射命丸は翼を広げ、大きく羽ばたくと加速してさらに高度を上げる。再度のドッグファイトが始まる。
「貴女の腕前で、この枷だけ切ってくれたら大変ありがたいのですがね!」
「間違いなく手元が狂いますが、いいですか」
「それは勘弁」
「遠慮しなくていいですよ」
「遠慮しますよ」
「オーーーン!」
「聞いてよ!」
一声吠えると、椛は刀で風を滅茶苦茶にかき回す。
獣のまじないに応え、風が歪む。
「捕まえろ!」
「はん!」
小さな渦が細く伸び、風の蔦になって射命丸を襲う。
――――しょぼい!
射命丸の目には、椛の呼んだ風はそう見えた。
襲われる鴉は団扇をきつく握ると、大きく振り下ろす。
空気が圧縮され、音速を超える。屈折率が変わり歪む視界の向こう側で、衝撃波が周囲の風も叩き、莫大な風が動いてはじけ、風の蔦を纏めて消し去る。
椛の姿も、吹きすさぶ風の向こうには見えない。吹き飛ばされたか、大きく回避したか。
圧倒的な風量に、椛も、風の蔦も、全く太刀打ちできなかった。
‥‥ように、見えた。
「この剣は素晴らしいです」
「うあ!?」
「風だってこんなに簡単に切れる」
真正面!歪む空気の向こう側から、風を切り裂き椛が迫る!
射命丸の風に太刀打ちできなかったのは、蔦だけ!
大げさな風の蔦はフェイント!射命丸自身が放った風をも、椛は自分の姿から目を逸らさせるカモフラージュに使ったのだ!
咄嗟に受け止めようとし、射命丸は、天狗扇を構え――――
どむ。
ぶつかった二人の間に、鈍い音。
「!!!!」
「‥‥一人目」
射命丸の背中に、銀の切っ先が突き出る。
彼女の扇は、防具の役目をなさなかった。
先の鍔迫り合いで切れ込みを入れられた扇の柄は、いとも簡単に、切り飛ばされた。
「がふっ!」
「簡単に貴女を始末できないようじゃ、あの神様とケンカなんて言ってられないですから」
「もみ、じ‥‥!」
淡々とした口調で、目をミシャグジの狂気に染めたまま、椛は刀をひねる。
腹をぶち抜かれた射命丸の口から、血が噴き出す。
椛の白い天狗装束が、真っ赤に染まってゆく。射命丸がうめき声をあげる。襟元を掴む射命丸の手が震えている。爪が食い込んでいたい。だから椛は切り落とした。射命丸が呆然とした顔をしているが、椛にはその理由がわからない。
その最中、遠くから白蛇の悲鳴が聞こえた。
「早苗さん‥‥!?」
千里眼に映ったのは、鉄の輪で片腕を切り落とされた白蛇の姿。
激情に駆られた狼の刀が横薙ぎに振るわれる。
湖に鴉天狗の絶叫が響いた。
*********************
「さなえええええ!」
「よそ見すんなって言ってるでしょ!」
「ぐえ!」
遠くから聞こえた悲痛な白蛇の咆哮に気を取られ、叫び返す小傘の腹にはたての回し蹴りが撃ち込まれる。
くの字に体を折った小傘は勢いよく御柱に叩きつけられた。
「ぎゃっ!」
強烈な胸への圧迫感。呼吸が止まる。呼吸をしなくても妖怪は死なないだろうが、息が止められればやっぱり“苦しい”。不便だ、と小傘は涙を流して毒づく。
「はあっ、はあっ!」
「しぶといね」
地面に両手をついて体を起こす小傘の目の前に、天狗扇を手にしたはたてが舞い降りる。
一見、外の世界の学生によく見かけそうな、どこか軽い雰囲気を持つ彼女だが、どうしてどうして中身はしっかりと天狗だった。獲物を見下ろすギラギラとした目に、小傘は墓場の鴉たちを思い出す。
やはりただの妖怪と天狗では格が違いすぎるのか。小傘は一枚もスペルを発動できずに、はたてに良いように弄ばれていた。遠く離れれば風にまかれ、近づけば素早い動きで叩き伏せられ、逃げようとすればカメラに気力を奪われる。
早苗を助けると威勢のいい啖呵を切った小傘だったが、早くも限界寸前まで追い詰められていた。
「黙って諏訪子様と早苗ちゃんケンカさせときなよ。わざわざ乱入してきて、そんなに怪我したいんだ?」
「‥‥怪我なら、とっくにしてるよ」
「あ、そ」
顔に付いた土を振り払い、よろめきながら何とか立ち上がった小傘を、はたては扇の一振りで吹き飛ばす。
「うああああ!」
「いいよ!ケンカしたいなら、相手するまで!私たちは諏訪子様の手下!神遊びの邪魔をする奴は叩きのめせって言われてるの!」
「むうっ!」
きりもみをしながら飛ばされていく小傘は必死に傘を操り、風を捕まえ体勢を整えようとする。しかし、そんな悠長な動きを鴉天狗が黙って見ている訳がない。空へ飛ばされた小傘の胸元に、一瞬のうちに飛び込んでいく。
「ひ!」
「ゴメンねー」
はたては淡々とした口調で容赦なく天狗扇を一振りし、小傘の頬に叩きつける。小傘の視界に星が舞う。
「ぶえっ!」
振るわれた扇は同時に強烈な風を生み、小傘を押し流す。小傘は声も出せずに今度は地面へと落下していく。
硬い御柱の根元に、小傘は背中から落ちた。
「そら、捕まえた!」
はたては墜落した小傘の首を乱暴に掴む。そして御柱に押し付けた。小傘のうめき声を聞いたカラスはにやりと笑うと、顔を小傘に近づけた。
「良いことを教えてあげる。小傘ちゃん」
「な、に、教えてくれるの、かな」
息苦しさに目尻から涙を溢しながら、小傘も強がって笑い返す。
右手に握った傘を持ち上げようとするが、腕が痺れていてもちあげられない。それどころか逆に傘を離してしまいそうだ。
「教えてあげる。なんで、諏訪子様がここまでしてこんなことしたかったのか」
紫の鴉天狗はそう言うと、長い睫が揃った眼を、すい、と細くして、笑った。
「昔、昔のお話よ。この国が、まだ日の本なんて名乗るずっと前。小さなクニに小さな女の子が居たの」
「む、う‥‥」
「苦しい?我慢して聞いてね。手を緩めたら逃げちゃうからね、お前」
「ケホッ!」
「女の子の国には、おっかない神様が居たの。蛇の神様。そ、ミシャグジ様。女の子は、その神様への生け贄だった」
生け贄。ここ数日、小傘たちの頭から離れることのなかった言葉だ。
その言葉に反応し、小傘はうっすらと目を開く。紫の鴉天狗は、相変わらずニヤニヤと不敵に笑っていた。
「でもね、女の子は食べられなかった。ミシャグジ様達は女の子を気に入った。どういう意味で気に入ったのか、色々あったみたいだけど。結局は美味しそうだったんだって。どうしようもなく。だから、すぐに食べるのはもったいないって、ミシャグジ様は女の子を食べなかったのよ。いいよね。そんな獲物、一回会ってみたいと思わない?」
「もう、居るよ‥‥」
「へえ?」
「早苗‥‥」
「ふーん。‥‥さて、女の子はそこでミシャグジ様に神様にされたの。長―く生かして、熟成したところで食べたかったんだってさ。漬物みたいだよね。おっかしーの」
「それ、‥‥も、もしか、して」
「そ。その女の子ってのが諏訪子様。諏訪子様はそうやって、神様になった。ううん、“された”の。そして、ミシャグジ様をある時叩きのめして支配下において、諏訪子様はミシャグジ様にとって代わって、クニの神様になったわけ。ここまでは、普通の話」
こんな話のどこが普通なのだろうか。
薄笑いを浮かべながら首を締め上げてくるはたて。話の内容はともかく、小傘の目には、彼女はあきらかに異常に見えた。
目の前の天狗に憑りついた、どす黒い諏訪子の呪い。ニクではなく、心を食べる妖怪である小傘には、ぼんやりとそれが見えていた。
――――たすけて、椛!この人、狂ってる!
のどの奥で声にならない悲鳴を上げる小傘。彼女は知らない。椛もとっくの昔に狂ってしまっていることを。
‥‥この神楽を見て、気が付いている人妖はどれだけいるだろうか。戦いにスペルカードを使って、もしくは使おうとしているのは、射命丸と小傘しかいないことを。ごっこ遊びとしての戦いを象徴するスペルカードと弾幕。それを使っていないということは、すなわち、彼らの理性は当の昔に無くなっているということであり。
息苦しさと怖さで震える小傘の首を掴みながら、はたては唇を湿らすと、再びしゃべり始めた。
「さて、こっからが本題。その昔、ミシャグジ様のお備えは人間だった。諏訪子様がそうだったように。じゃあ、諏訪子様に降ったミシャグジ様は、何を食べていたと思う?」
「‥‥」
はたての唇の端が、吊り上る。
「諏訪子様の子孫だよ」
「!?」
「ミシャグジ様は、諏訪子様に負けて眷属に成り下がるとき、一つの呪いをかけたの。‥‥“おまえ”は未来永劫、我々のイケニエだって。それがどういうことか、わかるかな」
「‥‥わか、らない。そんなこと。わからない」
「諏訪子様はイケニエ。でも、ミシャグジ様は諏訪子様を食べることができない。ミシャグジ様へのお供え物はどうしても必要。じゃあ、なにを食べさせる?関係ない人間?ううん。だめ。未来永劫、ミシャグジ様のイケニエは諏訪子様。じゃあ‥‥」
*********************
――――ミシャグジ様の咆哮が聞こえる。苦しげな咆哮だ。ああ、あの祟り神め。待っててください。今行きますから。
椛は、風切音を立てて刀に付いた血糊を払い飛ばす。
見下ろした視線の先、湖の水面には、鴉天狗が一匹あおむけに浮かんでいた。月の光が、下を向いた白老天狗の整った顔に影を作る。黒い影の中で、赤い目だけが爛々と輝いていた。
「しばらくそうやって浮かんでいてください。諏訪子様(クソガエル)を始末するまでね」
「もみ、じ‥‥」
「早苗さん、いえ、ミシャグジ様はお腹が空いていらっしゃる。とてもとても。諏訪子様一人じゃあ、とても足りないでしょう。貴女も、はたて殿も贄になってもらわなくては」
「私も、供え物にすると‥‥?」
「ええ」
「は、それは‥‥哀れな最後ですねえ‥‥蛇のエサなんて、はは」
「光栄に思ってください。ミシャグジ様の神饌となれるんですから」
ともすればえげつない冗談を言っているかのよう。先ほどに比べ、椛の声は幾分冷静だった。しかし、その中身は全く逆。椛は完全に、ミシャグジ様に仕える一匹の狼に成り果てていた。
「では、しばしお待ちを。あの烏と祟り神を狩って来ますから。その間、ゆっくりと長い妖怪人生でも振り返っててくださいな。文殿」
そう言い残し、椛は飛んで行ってしまった。
「はたて、逃げ、て、はた、て‥‥!」
残され、一人水面に漂う文は、大声を出してはたてに椛が向かっていることを知らせようとした。しかし、大穴の開いた腹は、うまく大声を出す力を溜めてくれない。のどから出てくるのは、内緒話でもしているかのようなスカスカの叫び声。
「最初にリタイアですか。情けなさすぎ」
悔しげにつぶやくと、射命丸は夜空を見上げる。満月で白く染まった空は夜明けにはまだ遠い。空にはまだ満月が誇らしげに浮かんでいた。
「‥‥せめて、動ければ何とかなるんですが、ね」
水を蹴飛ばすことも、かくこともできず。ときおりうねる波にもまれながら、文はため息を吐いた。ちらりと横を向く。少し離れた水面には、扇の柄を握った手が静かに浮かんでいた。
**************
「ぐ、え‥‥」
喉笛を抑えられた唐傘お化けが苦しげな声を出す。あまりに弱弱しいその姿に、はたての胸がちくりとざわめく。でも、はたては容赦なくその手に力を籠め続けた。
胸の、呪いのあざがじわりと熱を持つ。まるでそれは麻薬の様に、はたての脳みそを痺れさせた。
――――ああ、私イマ、諏訪子様に褒められてる。
諏訪子の言いつけどおりに動けば動くほど、胸の痣は苦しみではなく安らぎをはたてに与えてくる。踊らされているのは百も承知だが、今のはたてにそれを拒否しようという気はなかった。
「うひひ」と笑いながらはたては唇を舐める。彼女の頭の中では、昨晩諏訪子から聞いた話が、ぐるぐるとまわっていた。
――――楽しくなっちゃったのさ。アイツらとケンカするのが――――
「‥‥はい?」
ちゃぶ台の向こうで茶をすすりながら、諏訪子が遠くを見てつぶやいた。
射命丸も一時手帳から顔をあげて筆記を止める。
神奈子と椛がにとりを攫って行った日の夕食後、諏訪子は、縁側で夕涼みをしていた二匹の鴉天狗を居間に呼んだ。首輪と呪いつきの天狗達は、何をされるのかと警戒しながら中に入っていったが、そこで見たのはテーブルの上でうっすらと湯気を上げる人数分の湯呑と、せんべいの入った木の器だった。
「まあ、座ってよ」と諏訪子に促され、射命丸とはたてはそこで諏訪子の昔話を聞かされることになったのである。そこで出たのが、先ほどの「楽しくなった」という台詞だった。
「はい?」と聞き返す射命丸と正座しているはたてを前に、諏訪子は時間をかけて口の中でお茶をころがし、ごくりと飲み込んだ。そして、十分にのどが潤ったのを確かめると、「うん」とまた静かに話し始めた。
「最初は、自分をこんな“バケモノ”にしたミシャグジ様が憎くてね。次から次へと湧いては襲い掛かってくる彼らにうんざりしてたんだ。でもね。何がきっかけだったかな。‥‥うん。もう、思い出せないけど。ある時からね、それがすごい楽しくなっちゃったの」
「‥‥楽しくなったんですか?」
「うん。憎いアイツらがさ、信じられないって顔をして、私の前に倒れ伏すのさ。その瞬間がね。すごい好かったんだ。うーん。こう話してると怪しい趣味のおねーさんだねえ。あはは」
「諏訪子様はドSですねえ」
「ちょ、ちょっと文!」
「いいよはたて。気にしてないから」
暢気な射命丸の台詞に慌てるはたてに向かい、諏訪子は笑いながら片手をひらひらと振った。
「いったん楽しくなるとね。止まらないさ。自分から相手探して、ケンカしに行った」
「ミシャグジを自分から探して‥‥と」
「射命丸。迂闊に呼び捨てにするな。後が怖いんだから」
「わ、申し訳ありません」
手帳に愛用のペンで諏訪子の話を書き留めていた射命丸は、諏訪子の低い声にびくりと肩をすくめて、誰もいない庭に向かって頭を下げた。
行儀よく正座しながら話を聞いていたはたてはお茶をちょっと啜ると、「くわばらくわばら」とか言っている射命丸の代わりに諏訪子に聞いた。
「そんなケンカを、ずっとしてたんですか」
「そ。表向きは、人間達をミシャグジ様から守るために。実際のところは、私のために」
「‥‥結果としちゃ、人間達にとっては良かったんですね。自分たちを襲うおっかない神様を、どんどん諏訪子様が従えていったんだし」
「どうだろね。確かに人間達はミシャグジ様から何かされることは減っていったよ。ミシャグジ様からはね」
「どういうことです?」
首をかしげるはたてに向かい、諏訪子がにやりと笑った。あの底冷えのする祟り神の笑いだ。一気に、はたての背中に冷たい汗がにじんだ。
「‥‥諏訪子様、が?」
「うふふ」
はたての質問にあいまいに笑って返すと、諏訪子は煎餅をかみ砕き、ぬるくなったお茶で一気にそれを流し込んだ。はたてと射命丸は、黙って諏訪子が再び話し始めるのを待っていた。
「ま、そういう風に、自分からケンカしに行ってたんだけどね。そのうち、周りのミシャグジはみんないなくなっちゃった。全部私が従えちゃったり、私に捕まるのが嫌で、逃げたり、隠れたりして」
「諏訪子様はミシャグジ様にも恐れられるようになったということでしょうか」
「いんや。鬱陶しく思っていたかもしれないけど。今に至るまで、私を恐れたミシャグジ様はいないよ」
「居ないんですか」
「うん。奴らの本質は精霊なのさ。自然から生まれた、ここでいう妖精みたいなモノ。沢山いるように見えても、みんなで一つ。一つでみんな。カミサマと分霊みたいなもんさ。分かれているように見えても一つ。種族じゃないんだよ。自然そのものなのさ。だから、彼らは私を恐れない。自然は誰も恐れない」
「でも、ミシャグジ様方は諏訪子様を避けていったんでしょう」
「嫌われたのかもね、もしかしたら」
首をかしげて聞くはたてに諏訪子は小さく笑って答えた。
「さてま、そうやってみんな居なくなってくるとなるとね、ケンカできないでしょ。我慢できないのさ。ケンカしたくてうずうずして」
「はい」
「だからね、連れてこさせたんだ。私の氏子たちに」
「は」
「ミシャグジ様をですか?」
「そう。『今すぐミシャグジを連れてこい!』って祟りまき散らして脅かすの。‥‥氏子たちには苦労かけたね。自分たちで生贄を出してそれで呼び出して私のところに連れてきてたりしてさ」
「生贄‥‥」
「うん。そのころになるとね、まあ、“いろいろ”あって私に仕えてる一族の中にもかなり私の血が広がっていてね」
「はあ」
「良い“生餌”になったね。よく釣れた釣れた」
「‥‥はい!?」
とんでもない台詞に驚く二羽の鴉天狗に、諏訪子はしてやったり、という顔でゲロリと笑った。残酷な話を楽しそうに話すその姿は、鴉天狗達にはわざとそういう話ぶりをしているような、ひどく露悪的な振る舞いに見えた。
諏訪子は彼女達に構わず、話を続けた。
「私の血を分けた一族の子を、彼らはミシャグジ様への生贄にしたの。ミシャグジ様はその子を喰ってこの世に現れる。そして、私はミシャグジ様になったそいつらとケンカをする。一年神主なんて言葉遊びさ。本当にミシャグジ様の巫女的なことをしてたけど、結局は私にヤラレるんだから。ミシャグジ様として」
「‥‥」
「でもね。そうやって現れたミシャグジ様はみんな自分が喰った生け贄の、人間の姿なのさ。相性の問題かね。あまり強くなかったよ。うふふ。だからさ‥‥」
「諏訪子様‥‥」
「言いたいことは解るね?」
顔をゆがめる鴉天狗達の目の前で、祟り神がその赤い口をガパリと開く。金色の目は猛獣のように爛々と光り、息も荒くなってきていた。
「あの子は。‥‥早苗は、ミシャグジ様と完全に混ざった。ひひひ!初めてなんだよ!こんなことは!ああ、楽しみだなぁ。楽しみだなあ!いっとき早苗が怖気づいて、私のところに戻ってこようとしたときはどうしようかと思ったけど!今じゃすっかりミシャグジ様になってるそうじゃないか!神奈子が諏訪に来てから、そういうことはしなくなってたからね。アイツも神性として自然を治める力を持ってたから、ミシャグジ様も私一人の時よりかはおとなしくなっちゃって、あまり私を喰いに来なくなってたし、私も神奈子に負けて、血の気が少なくなってたから。だから、これは本当に久しぶりのケンカなんだよ。ああ、早苗はどんな顔して倒れるんだろう!顔が人間なのがまたいいね。表情が豊かだからね!」
「‥‥なんてこった」
げろげろと楽しそうに笑う諏訪子から目を逸らし、はたてはうつむいて頭を振った。諏訪子はミシャグジ様に呪いを掛けられ、神様になった。神様になった彼女は、彼らを“喰らって”生きてきた。自らを喰らおうとする自然を逆に喰らって治め、神様として生きてきた。‥‥“喰らう”ために、自分の血が流れる人間達を贄にしてまで。
「自分は生贄ではない」と、自分に掛けられた呪いを跳ね返すために、否定するために、彼女をエサとみなすミシャグジ様を逆に倒す。そのために、ある意味自分の分身ともいえる、血を分けた人間達を贄に出す。喰って喰われて、延々その繰り返し。終わりのこない無間地獄だ。これは!そして彼女はまたその繰り返しをしようとしている。愛すべき家族であるはずの、早苗をもって!
止められないか、なんて間抜けな質問はできるわけがなかった。何千年もそんな繰り返しをしてきた彼女に、今ここでしがない天狗が説得の真似事をしたって絶対に止められるはずがないのだ。
はたては射命丸の顔を窺った。彼女もまた、手帳にメモを取りながら、苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。
「‥‥神奈子様は、そのことを知っておられるのですか」
「そのこと?」
「今まで話された内容です」
「大体ね。‥‥ふん。でもまあ、暢気なもんだったね。早苗が一年神主になっちゃったってのに、蛇神だ蛇神だって喜んでさ。アイツ、一年神主は人間の姿の奴しか見たことがなかったし。私がすぐにあの子を元に戻すと思ってたんだろうね。‥‥ははは。私が祟り神だって忘れてんじゃないか。馬鹿な女」
「‥‥‥」
「‥‥!」
はっ、とはたてが息を飲む。悪びれた様子でからからと笑う諏訪子。その目尻に一粒の涙が浮かんでいたのだ。それを、はたてと射命丸は見逃さなかった。
「さ、昔話はここいらでしまいだ。今日はもう寝るよ」
ぱちん、とあぐらをかいた両膝を叩くと諏訪子は立ち上がり、「おやすみ」と言って寝室へと入っていった。
涙をぬぐう身振りは一切なかった。もしかしたら、無意識で流れた涙なのだろう。
居間に残された鴉天狗達は、しばらくその場を動くことができなかった。
「‥‥はたて嬢。見ましたね。あの涙」
「見た」
「‥‥もしかして、止めてほしかったのでしょうか。誰かに」
「さあね」
「今までの話を聞く限りでは、早苗さんは殺されます」
「早苗ちゃんが殺されたら‥‥」
「さっきの涙を見る限りじゃ、諏訪子様はそんな事態になったら自暴自棄になって何するか分かりません」
「でも、早苗ちゃんは完全にミシャグジ様と混ざったから、強い」
「もしかしたら、殺されないですむかもしれない」
「それにこのケンカを止めたら、諏訪子様が“死んじゃう”」
「ミシャグジ様を、いえ、自然を治める神の役割を放棄することになる。‥‥“死んだ”、神性をなくした神は、ただの大妖怪に成り下がる」
「‥‥このケンカを止めちゃダメ。誰にも邪魔させちゃいけない。早苗ちゃんが絶妙なところで負けなきゃいけない」
「‥‥」
2羽の鴉天狗はうつむいたままぼそぼそとつぶやきあった。一瞬の沈黙の後、射命丸がペンと手帳を放って畳にばたりと寝転がった。
「八坂様の介入‥‥は無理なんだろうねぇ‥‥ミシャグジ様と諏訪子様の直接対決じゃなきゃいけないって‥‥ああー!もう!めんどくさいねえ!ホントに!‥‥やりたくなーい!」
射命丸は頭をわしわしと掻き毟りながら、小声で器用に叫ぶ。はたてはそんな彼女を見下ろして、苦笑しながら訪ねた。
「降りる?」
「これ放っておいたらとんでもないことになるじゃない。ケンカの結果早苗さんが死んでも諏訪子様が死んでも、どちらにしたってとんでもない祟り神が山の上に残ることになるわ。この山に住む天狗として、そんな事態は避けなきゃいけない。それに、そうなったら今度は八坂様と残った祟り神との戦いが起きる。‥‥これ以上この家族が崩壊するところを見てるのも目覚めが悪すぎるでしょう!?‥‥そういうこと!」
「うん。そうだね。やろう、文。一番後味が悪くないのは、これしかないよ。諏訪子様のケンカを手伝うんだ。早苗ちゃんをうまく負けさせて、諏訪子様も早苗ちゃんも元に戻す」
「ええ。残念なことにそれしか手立てがないわよね。今の呪いと首輪付きのこの状況じゃあ、麓の連中に協力なんか頼めないし」
「私たちにできるのは、これくらい」
「そうね」
「‥‥」
「どうしました」
「なんかあっさり決めたけどさ。こんなに世話焼きだったっけ、文。もうちょっとこう、『勝手にすれば』とか『絶好のネタなのに!』みたいなこと言うかと思ってた」
大の字に寝転がったままの射命丸は、ほんの少しだけ口をとがらせると、ぼんやり抗議した。
「貴女は私を冷血動物か何かと勘違いしてない?‥‥むしろ世話焼きですよ。おせっかいですよ。私は」
「そうね。世話焼きよねー。あんた。魔法使いの魔理沙ちゃんだっけ。いっつも可愛がってるもんねえ。山に入り込んで白狼に追っかけられてんの、なんだかんだで庇ってみたり」
「ほっとけないだけです。私の目の前で進行形で悲劇が起こっているならなおさらです」
「ヒーローですか、あなた」
「“子供”好きの天狗ですよ」
「‥‥ほう。それ、諏訪子様も入るの?」
「見た目的に」
「アブねえ奴」
「ほっといてくださいな」
くすくすと笑うはたてに射命丸もふん、と笑って返した。二羽の鴉天狗は、微笑しながら呟きあうと、ようやく腰を上げたのだった。
諏訪子と、早苗、神奈子を守るため。露払いとして彼女のケンカの手伝いをする。早苗を負けさせるために。万に一つの、早苗が殺されないという奇跡に掛けて。
彼女達にできることは、今はそれしかないのだ――――
「――――そういうわけよ。だから、私たちはあなたの邪魔をする。諏訪子様の邪魔はさせない。絶対に」
はたての話を聞いた小傘が、首を捕まれ苦しげな表情のままで咳き込むように反論する。
「お、おなじ、だよ。わたしも、私も、同じ事、したいんだ」
「貴女に何ができるのさ。ひ弱なお化けのくせして。下手にうろつかれたら怖いの。万が一諏訪子様が負けちゃったら、どうなると思ってんのさ」
「そ、そんなこと、しないよう‥‥」
「ふん」
小傘の首を捕まえたまま、はたては彼女を責める。
呪いの痣が心地いい痺れを脳みそに送ってくる。
――――すごい目つきしてるんだろうな、今のアタシ。
ひひひ、とそこでいやらしく笑ってしまう自分の狂い始めた脳みそに、はたては笑いながら小さく舌打ちをした。
おおおおおおおん――――
“早苗”の咆哮が聞こえる。苦しげな声だ。
‥‥殺しちゃだめだよ。諏訪子様。そう、胸の内で呟くと、はたては小傘にとどめを刺しにかかった。
「――――さあ、話はおしまい。分かったら、大人しくやられてなって。分かるでしょ。邪魔しちゃあいけないんだよ」
「ち、がう‥‥」
「違う?何が違うの?これはね、諏訪子様にとって必要な儀式なんだよ。イケニエとしてささげられた自分と、こんな目に会わせた奴らを否定するための」
「そんなんじゃ、だめだよう‥‥ぐうう!」
「聞き分けのない木端妖怪だね。くびり殺してやる」
「っげ‥‥!」
手に力を込める。殺しちゃいけないと言っておきながら自分は小傘を絞めようとしている。
――――矛盾はしていない。だって、私は諏訪子様の手下なのだから。
邪魔者は排除するべきなのだから。
***************
小傘の意識は、消失寸前だった。
「く、え‥‥!」
はたての細い腕が、小傘の首を砕こうと恐ろしい力で締め上げてくる。
彼女から聞かされた諏訪子のとんでもない過去と、はたて達が諏訪子に味方する理由。それらは分かった。理解した。自分のような木端妖怪より、天狗が神楽を見守る方が良いのかもしれない。それが、普通ならば。
眼の前のはたてはどう見てもおかしい。自分が狂っていることに気が付いているか?いないだろう。そんな彼女に任せたくない。それに、自分は“白蛇”の早苗の巫女だ。こんなところで、倒れてちゃあ、巫女の名折れだ。
なんとか手を振りほどこうと、もがく小傘だが天狗の膂力はすさまじい。息はできず声も出せず、痺れる腕はだらりと下がっていく。小傘の視界が、だんだんと暗くなっていく。
うらめしい、うらめしい!小傘の頭の中が、そのフレーズで満たされていく。無力な自分が恨めしい。狂った天狗が恨めしい!
‥‥衝撃が襲ったのは、その時だった。
「げ!?」
「ぷえ!」
突然はたてが後ろに引きずられ、その腕が小傘の首から離れた。あまりに勢いよくはたてが後ろに離れていったため、小傘ははたての腕に首を引っ張られて前のめりに地面に倒れた。
倒れた瞬間重たい水音が聞こえた。
「首と胴体がサヨナラしなかっただけでも感謝してくださいね‥‥」
なんて冷たい声!ようやく血が回り始めた頭を振りながら顔をあげた小傘は目の前の光景をみて一瞬気が遠くなりかけた。
「なに、これえ‥‥」
「!?」
そこには、後ろから何者かに首を掴まれたはたて。彼女は泣きそうな声を出しながら、自分の腹から突き出ている鋭い銀の切っ先を見つめていた。
「ひ!?」
「ふん」
つまらなさそうな声と共に、剣がはたての腹から引き抜かれる。首を離されたはたてはがっくりと膝を落とした。
うなだれ、腹に開いた穴とそれを抑えて血まみれになった手を交互に見つめて、はたてが呆然と「痛い」とつぶやく。
彼女の後ろにゆらりと立っていたのは、全身血まみれの椛だった。
「も、もみ、じ‥‥!?」
「よかった。小傘。無事だったね」
「何、そのカッコ‥‥」
「ああ、これ?ミシャグジ様の邪魔をする馬鹿者をやっつけたの。その時に掛かっちゃった」
「え、今、なんて‥‥」
「射命丸にはてこずったけど、小傘、助かったよ。はたての気を引いていてくれて」
「何、何言ってるの、椛‥‥!」
「これから、早苗さんの援軍に行ってくるから。小傘はこいつににとどめを刺してあげて。お供え物にしなきゃ。早苗さんはお腹が空いてるんだ。諏訪子様だけじゃ足りないからね」
「椛!?」
「じゃ、行ってくる。油断しちゃだめだよ。そいつもなんだかんだ言って天狗だからね」
「椛!」
一方的にしゃべると、椛は背を向けて飛んで行ってしまった。
椛が狂ってしまった。瘴気にやられて、射命丸を手に掛けた。あまりの出来事に、小傘はただただ呆然と目の前でうずくまるはたてを見つめることしかできない。
その時だった。
「きひひひ!」
「わあっ!」
突然、はたてが奇声をあげて小傘に飛び掛かってきた。なすすべもなく、小傘ははたてに突き飛ばされる。
「ぐ!」
「きひひ、ひひ」
「ぐ、え‥‥」
はたては小傘に馬乗りになると、その細い腕で小傘の首を恐ろしい力で締め上げ始めた!
ぼたぼたと、はたての腹の穴からこぼれた血が、小傘を真っ赤に染めていく。
はたての胸のあたりからは、諏訪子のあの呪いだろうか。真っ黒い霧が、もわもわと立ち上っていた。
あっという間に、小傘の意識がもうろうとし始める。
――――だめだ、ここで、眠っちゃったら、だめだ。
小傘は必死に右手を必死にまさぐり、すぐ近くに転がっているはずの化け傘を探す。
しかし、文字通り手探りの状況であり、必死に血でぬめる手を動かすが、傘を探し当てることができない。
「とめ、ないと‥‥もみ、じ、とめ、な、きゃ」
「ひひひひ!」
みしり。
小傘の首の骨が恐ろしい悲鳴を上げる。背骨に激痛が走る。視界が暗く狭まっていく。はたてから漏れ出した諏訪子の呪いの霧が、小傘の体をじわじわと撫で始めた。
「ひ、あ‥‥」
霧が触れた瞬間、小傘の体にしびれが走る。まるで弱い電気を流されているようだ。どんどん力が抜けていく。
「だ、め‥‥」
このまま気を失ってしまったら、椛や早苗を見守ることができなくなる。万が一、早苗が諏訪子を倒してしまったら、早苗は一生、言葉も通じない恐ろしい蛇神のままだ。狂った椛が早苗に加勢したら、その万が一もありえる。
止めなければ。自分が椛を止めなければ。必死になって小傘ははたての腕を振りほどこうと抵抗を続けた。
しかし、体は思うように動かず、右手はまだ傘を掴めない。
「ひひひ!」
「く、え‥‥」
弱弱しく「いやだ」とつぶやきながら、小傘は意識を手放した。
************
白い霞が、視界を覆っていた。
霞の向こうに、ぼんやりと黒が見える。
ああ、夜だ。
気が付けば、小傘は夜の森を歩いていた。
そうだ。
思い出した。
自分は森を歩いていたのだ。
今日も、白蛇の巫女は、贄を持って向かうのだ。
森の奥の、そのまた奥へ。
言葉も何も通じない、蛇神になってしまった、早苗のもとへ。
赤い目を爛々と輝かせながら、小傘の持ってくる生け贄を待ちわびる彼女の顔は、人間だったころを思い出させるような、穏やかな笑顔。
しかし、その手に持っているのは、贄の食べ残し。
その口にくわえているのは、贄の骨。
真っ白なしゃれこうべを、くるくると弄びながら、あの神様は早苗の笑顔で待っている。
――――やめて、その顔で、早苗さんの顔で、そんなことしないで
何十回、ここに来るたび泣いただろうか。恐ろしい早苗の行いに、昔の早苗の思い出を壊されるのが、怖くて、苦しくて。
今となってはもう、小傘の涙は枯れ果ててしまった。
今は、贄にかぶりつく瞬間の、昔の早苗みたいな嬉しそうなカオを見るため、小傘は足を運んでいるのだ。
その、生け贄として里から攫ってきた少女の髪を掴んで引きずりながら、小傘は暗闇の森の奥を見つめる。
‥‥泣き叫ぶ子供の口は、唐傘の舌で縛り上げる。
暴れようとするならば、目の前で閃光を焚き、傘で殴り、大人しくさせる。
半年に一度、里に現れ、子供をさらっていく化け傘。
小傘は、早苗のために尽くすうち、誰からも恐れられる存在になっていた。
あふれる恐怖は、小傘に力を与えた。
里の守護者は、何年も前に、殺した。
もうだれも、彼女を愉快な忘れ物とは思っていない。
それでいいよ。と小傘は思う。
あの早苗を野放しにしてたら、気ままに暴れて人を食って、大変なことになっちゃう。
だから、暴れないように、わちきが早苗を管理しているのだ。
人間達も、無差別に襲われないだけ、感謝してほしいものである――――と。
目的地の森の奥。
茂みの奥に、赤い目が光っている。
贄が、その光を見てけたたましく泣き始めた。
その声に誘われるように、赤い光は、ゆっくりと茂みの奥から近づいてくる。
その光を見て、小傘は嬉しそうに笑うのだ。
こんばんわ。また来たよ、早苗‥‥と。
無造作に小傘は贄を放り投げる。早苗の待つ茂みの方に。
金切声をあげる贄。幼いその横顔はすっきりと整っている。もう十年もたてば引く手あまたの器量よしのお嫁さんに成れただろう。
十年どころか、十分ももう、生きられないだろうが。
茂みの奥の赤い光が、さらに近づいてくる。金切声がひときわ大きくなった。その瞬間、贄の首に白い尻尾が巻き付く。
泣きさけぶ少女は、抵抗もできずに茂みの奥に消えていく。
その光景を見て、小傘は、からからと冷たく笑うだけなのだ。
今の彼女にとってのご馳走は、ちんけな驚きの心ではないのだ。恐ろしい白蛇に生きたまま喰われる、贄たちの恐怖がご馳走なのだから。
―――― ほら、早苗。今日はとっても美味しそうな女の子だよ。
―――― だから、ほら、笑ってよ。いつもの飛び切りの笑顔を見せてよ。
―――― 人間だった、ころみたいにさ。
―――― そして、ミコの私にごほーびをちょうだい。美味しい美味しい、恐怖のココロを。
**************
「――――だめえ!嫌だ!そんなの、絶対に嫌だ!」
酸素不足の小傘の脳みそが映し出した、救いのかけらもないバッドエンド。その恐ろしい結末を見て、朦朧としていた小傘の意識が澄み渡る。
瞬間、しびれる右手に、硬い傘の柄が触れた!
「『超撥水』!」
ありったけの妖力を、傘に込める!
「『かさかさお化け!』」
「ぶえ!?」
開かれた傘から、爆発的に水がはじけ、はたてを、諏訪子の霧を吹き飛ばす!汚れも水も穢れも何もかも吹き飛ばす、妖怪印の撥水加工!
「でえええい!」
「――――!」
さらに断続的に水がはじける。馬乗りになっていたはたてが、吹き飛ばされて水滴と共に宙を舞う。
――――大けがを負った相手を追い込むのはすごく抵抗感があるし、嫌だけど、彼女をしとめるチャンスは今しかない!
腹に大穴開けても自分の首をへし折りかけた相手だ。少々無茶するくらいが丁度!
「天狗様!あなたの丈夫さに掛けるからね!」
震える足に気合を一発。すっくと立ち上がると、小傘は構えた傘を開く!
「目を回せ!『後光・唐傘おどろきフラッシュ!』」
かっ!
「!!!!!!」
開いた傘がクルリとまわり、あたりに閃光をまき散らす!傘の骨一本一本がレーザーを撃ち、まき上がった水滴に乱反射。はたての周りの空間が、光の嵐と化す!
「まだまだぁ!」
はたてに隙を与えず、小傘はさらにスペルを展開する!
「『虹符!オーバー・ザ・レインボウ!』」
光にまみれた水滴が作り出すのは、夜の闇に掛かる七色の虹!
「いけええええ!」
宝石の様に輝く水滴が、一斉に隊列を組んではたてに襲い掛かる!
「―――――!!!」
声もなく吹き飛ばされ続けるはたて。必死に弾幕を広げ続ける小傘。
そして、ついにはたては地面に墜落する。
「はあっ!はぁっ!」
傘を杖代わりにして、小傘は呼吸を整える。はたては地面にうつぶせに倒れ、失神していた。
一瞬、殺してしまったかと小傘の背中に冷たい汗が流れたが、緩やかに膨らむはたての背中を見て、小傘は彼女の呼吸を確認し、荒いため息をついた。
椛の剣で串刺しにされたはたて。ブラウスの背中に開いた穴の周りは血にまみれていたが、出血は止まっている様だった。妖怪の規格外の頑丈さに、小傘は改めて胸の内で感謝を述べる。
自身の体も血液で真っ赤に染まっていたが、全部はたての血の様で、怪我はない。
「椛‥‥!」
そして、小さくつぶやくと傘を開いて飛び立った。
「白蛇の巫女」として、荒ぶる早苗を、椛を鎮めるために。
*************************
*************************
「あははははは!ははは!はははは!」
―――― シュウウウッ!
大笑いしながら飛び跳ねる諏訪子に、怒りの声を上げて白蛇が食らいつこうとする。しかし小さなカエルはすばしっこく動き回り、蛇の攻撃を紙一重で避け続けていた。
「でぇい!」
参道の石畳を砕いて土の手が現れ、打ち付けられた真っ白な尻尾を受け止める。
白蛇はまたその手に握りしめられては敵わないと、すぐに尻尾を巻くと今度は横から叩きつける。砕け散る土の手を盾に、諏訪子は後ろへ飛びずさる。その着地点に、茶色の茂みが湧きあがる。小さなカエルを串刺しにしようと伸びてきたのは、白蛇と化した早苗に応えた、鎮守の森の木々の根だ。
「おおっと!」
腕を持って行かれそうになりながらも、諏訪子はさらに後ろへ飛び距離を取る。不気味に笑い声をあげながら跳ねまわっている彼女だが、余裕はなかった。腕を取られた白蛇の目は怒りに染まり、攻撃が恐ろしい速さで諏訪子に向かってくる。すべて、彼女を殺すための、容赦ない攻撃が。
諏訪子に落とされた左腕をかばうこともなく、早苗は残った右腕を振り回す。鋭くとがった爪は容易く岩を砕き、諏訪子の皮膚を引っぺがそうと迫ってくる。風や、木による攻撃や尻尾による打撃のほかに、半人半蛇の早苗には腕という武器がある。それはこれまで諏訪子が対峙してきたミシャグジ達にはないもので、これが早苗の攻撃に変則性を与え、諏訪子から余裕を奪う大きな一因となっていた。
「その腕、奇形だねえ!蛇に腕なんかいらないんだよ!」
イライラと諏訪子は怒鳴り、また至近距離に迫った早苗の爪をかわし、飛び上がると鉄の輪を飛ばす。風をまとった白い腕がそれを受け流す。大きく軌道を変えた鉄の輪は、境内のモミの木をバターでも切るように楽々と切断した。
「しゃあああっ!」
早苗は吠えると、鉄の輪をはじいた右腕を、まっすぐ諏訪子の心臓めがけて突き出してくる。空中に居る諏訪子はとっさに避けることができず、岩を呼び、腕を組んで防御。しかし。
「ぐ、え!?」
突然の衝撃に諏訪子の息が止まる。首に巻き付くのはざらついた蛇の尻尾。早苗の尻尾が後ろから諏訪子を捕えた。腕の攻撃をおとりにして、早苗は尻尾を諏訪子の後ろまで伸ばしていたのだ。
「――――!」
一気に気道まで潰すくらいの強烈な締め付けに声も出せず、諏訪子はもがきながら早苗の尻尾を全力で攫む。しかし、硬い鱗がしなやかに覆う、石畳をも砕く早苗の尻尾は、爪を立てても穴を開けることすらできなかった。
眼の前の早苗の表情が恐ろしい笑みの形にゆがんだ。べろりと舌なめずりをする。早苗は諏訪子を捕まえたまま、大きく尻尾を振りあげた。そして。
ひゅん!
「べっ」
加速の付いた一撃。諏訪子は硬い石畳に、尻尾に首を捕まれたまま叩きつけられた。早苗の尻尾が振り回されるのに合わせ、諏訪子は石畳に叩きつけられる。何度も、何度も、何度も。
声も出せずに砂袋の様に地面に叩きつけられる諏訪子。衝撃と痛みと締め上げで朦朧とする頭に響くのは、首の骨が上げる悲鳴。尻尾を攫んでいた腕は、力なく振り回されるがまま。皮が破れ、血しぶきが舞う。
どすっ!どすっ!どすっ!
―――― ぼぎっ!
「――――――!」
ついに、諏訪子の細い首の骨が限界を迎える。諏訪子の首が、がっくり折れ曲がった。
「か‥‥‥」
抵抗のなくなった諏訪子を、頭上に持ってきてぶらりと吊り下げると、早苗はぼたぼたと垂れ堕ちる諏訪子の血を頭からかぶる。生暖かい血が口の中に流れ込み、その味に早苗の目がトロりと細くなった。
そして、早苗は名残惜しそうな顔をしながら諏訪子をまた高く持ち上げると、トドメとばかりに目の前の地面に垂直に叩き落とした!
「しゅー‥‥‥」
縦に割れた赤い蛇の瞳が、うつ伏せに横たわる諏訪子を見下ろす。彼女が求めた金色の蛙は、体中から血を漏らしながら首をおかしな方向に傾げ、ピクリともせずに転がっている。
ようやく獲物をしとめたという喜びを表すかのように、早苗の目は大きく開かれ、ニヤつく口元もまた大きく裂け、よだれと舌を垂らして荒い息を吐いていた。ときおり、さっき浴びた諏訪子の血が早苗の髪の毛から滲み、顔におぞましい線を書きながら口の中に入っていく。その血はまるで酒の様に、舐めるたびに早苗をどんどん興奮させていった。
「しゅうううう‥‥」
眼の前に横たわるごちそう。諏訪子の血ですっかり興奮した早苗の口からは、ぼたぼたと涎が零れ落ちる。
切り落とされずに残っている右腕は、わきわきと開いたり閉じたりを繰り返し、早く肉を千切りたそうにうずうずしていた。
しかし、早苗は何かに迷ったように目を細め、すぐには手を出そうとしなかった。なにせ、この神は頭を潰しても復活するのである。食いつこうとした瞬間に復活して襲い掛かってくるかもしれない。
早苗はそんな諏訪子を野生動物のように警戒し、動けずにいた。
それが、ミスだった。
「――――へたれが」
呻く諏訪子の低い声。強烈な悪寒を感じた早苗はあわててとどめを刺そうと腕を振り上げた。が。
「2本目」
「!?」
振り上げた右腕に、どこからともなく、天空からまっすぐ落ちてきたブレスレット大の鉄の輪が二の腕まではまり込む!早苗は振り払おうと滅茶苦茶に手を振り回すが、遅かった。
「ひひ」
ばつん!
「ぎゃああああああああ!」
鉄の輪はいとも簡単に早苗の腕をねじ切る!天を仰いで痛みに絶叫する早苗。そして今度は胴体に、諏訪子の鉄の輪がはまり込んだ!
「ひひ。ひ。ひひひ」
「ぎゃああああ!ぎゃあああああ!」
早苗の胴体にはまった鉄の輪は肋骨のすぐ下で縮まり始めた。早苗の内臓が痙攣する。両腕をもがれた痛みと鉄の輪による苦しみで混乱する早苗は、悲鳴をあげながらのた打ち回る。牙を剥き、泡を吹き、白い髪を土埃にまみれさせ、尻尾の先をビクビクと痙攣させながら地面を這いずり回る。割れて飛び出た石畳に、鉄の輪が引っ掛かかった。鉄の輪がさらに腹の方に押し込まれる。白い鱗におおわれた腹を鉄の輪が容赦なく締め付けた。
「ぎいいい!」
「ひひ。ひひひ。ひひひひ」
ズタボロの諏訪子は、地面に倒れたまま、目だけで早苗の苦しむ様を見ていた。
その金色の目はキラキラと輝き、無邪気な子供の様だが、その下、石畳に押し付けられた唇は不気味にゆがんでいた。
今ここで起こっていることは、諏訪子が夢にまで見た血みどろのミシャグジとのケンカ。諏訪子の匂いに惹かれてやってきた、恐ろしい白蛇を叩きのめしている光景。
――――ああ、楽しいなァ。
そう、つぶやく。
潰れた体が元に戻っていく。折れた首を、ようやく骨がつながった腕で無理やりはめ込む。
「ぎっ!」
乾いた木の枝を折るような音がして、一瞬背骨に電流が走った。
「シャアアアアアアア!」
眼の前で、赤い目を光らせた早苗が尻尾の力だけで体を起こす。上から見下ろすその顔は、痛みと怒りと血にまみれていた。早苗はそのまま体を倒すと、大口を開けて諏訪子に襲い掛かってきた!
「絞め殺される前に私を殺すってか」
にたりと笑うと、諏訪子は回復した腕で地面を叩き、ころがる。体のあちこちが悲鳴を上げ、激痛が手足を痺れさせたが、間一髪、諏訪子は毒の牙から逃れた。
諏訪子を噛み損ねた早苗と、目があった。
自分が、間抜けに獲物をしとめそこなったのに気が付いた、手負いの白蛇の顔は恐怖に染まっていた。致命的な隙を敵の目の前で見せてしまったのだから。
「それ」
まだ強烈な痛みが走る体を横たえたまま、無造作に人差し指を立てて指を振る。手品のように現れた鉄の輪が、早苗の首に狙いを定めた。
自分がしようとしていることに気が付き、諏訪子の奥の方で誰かが「やめろ」と叫ぶ。でも、諏訪子の手は止まらなかった。これは蛇だ。ミシャグジだ。憎い憎い白蛇の神だ。“早苗ではない”!
だから――――!
「喰らいな」
言って、鉄の輪を投げつけようとした、その時だった。
「ウオオオオオオオ!」
「!」
天から響く狼の遠吠え。それと同時に襲い掛かる、無数の風の塊!
「ぐあっ!」
まだまともに動けない諏訪子は風の直撃を喰らい、吹き飛ばされた。
――ぱ きぃん!
土煙の向こうから聞こえたのは、澄んだ鉄の音。
そして、怒りをはらんだ静かな声。
「よくも、早苗さんを‥‥ミシャグジ様をこんな目に‥‥痛かったでしょう、辛かったでしょう‥‥大丈夫ですよ、枷は、切りました。‥‥許さない。絶対に許さない」
早苗をいたわる怒りにまみれた優しい声。
風に薄れていく土煙の向こうに、もう一つの影が現れる。
血に染まった天狗装束。ねらりと月の光を照り返す、銀の刃。
そこに立っていたのは赤い目を光らせ、血に染まった衣をまとった、狂った大神。
「来たかい、狛犬」
椛は無言で突進。倒れたままの諏訪子の首に刀を振り下ろす。火花が飛ぶ。祟り神が手に持つ鉄の輪が刀を弾く。切れない鉄の輪に剣が叩きつけられる。鍔迫り合い。ニヤリと笑う祟り神。呻り声をあげる狼。
「殺そうとしてましたよね‥‥今、早苗さんを殺そうとしてましたよね‥‥やっぱり駄目だぁ、諏訪子様。眷属にするなんて言ってたくせに‥‥早苗さんを殺そうとしてるじゃないですか。‥‥じゃあ、こっちも手加減なんかしませんよ。ねえ、お命頂戴しますよ、諏訪子様。存分に苦しみながら切り刻まれて、早苗さんのエサになってもらいますからね。覚悟してくださいね」
ぐるぐると野生動物の様に呻り声をあげる椛。
諏訪子はその哀れな有様を見て、ひひひ、とうれしそうに笑った。
「は。かわいそうに。自分が何をしようとしてるのか分からないんだ。‥‥『忘れないでね、私たちがここに居る理由』とか小傘にカッコいいこと言ってた割には、簡単に堕ちたじゃないか、椛。たっぷり瘴気を嗅いだね。良い、狂いっぷりだ」
「何をしているのか分かってないのはあなたの方でしょうに」
「お互い様だよ。これでお前もこっち側に来たわけだ。ひひひ」
椛の目が一瞬ちらりと後ろを向く。石畳の上に体を横たえた早苗が居た。両肩から血を流し、荒い息をついて痛みに震えているミシャグジ様が。
「早苗さんを守れるなら私がどうなろうと構いません」
「そうかい」
「覚悟!」
が あん!
力任せに打ち付けられた刀がついに諏訪子の鉄の輪を歪めた。
「次で終わりです」
「ああ、馬鹿な子だ」
「ふん」
椛は刀をさらに一振り。鉄の輪が真っ二つに割れた。刃はそのまま祟り神の肉へ。諏訪子は何の防御もせず、袈裟がけに切り裂かれた。
真っ赤な血が飛び散る。しかし祟り神は痛がるそぶりも見せず、刀を喰いこませたまま、椛をニヤニヤと見つめた。
異様な空気に椛はそれ以上追撃せず、早苗の元まで飛びずさる。
「ははは!」
「――――!何がおかしい!」
「ははは!ははははは!」
壊れたロボットのようにガクガクと体を起こし、諏訪子はケタケタと不気味に笑い続ける。
その首元から覗く刀傷が、見る間に元に戻っていく。
何度、いくら痛めつけてもすぐに回復する諏訪子に、椛の後ろでやり取りを見ていた早苗が体を起こし、牙を剥いて唸った。
「しゃああああああ!」
「早苗さん!」
「おっと、早苗も来るかい。ふふふ。じゃあ、こっちも助っ人を呼ぼうか」
言うなり諏訪子は地面に両手をつく。着いた両手から黒い波があふれ、参道に水のように広がっていく。
「でてこい、でてこい。お前たち。仕事の時間だよ!」
「!」
黒い水面がざわりとうごめく。そこから漂ってくる強烈な何者かの気配に、早苗と椛が牙を剥く。
「しゃっ!」
「!」
“何か”が黒い水面から現れようとした瞬間、椛を押しのけて早苗が突進していく。目標は諏訪子ではなく――――
「ギャアアアアアア!」
「―――!」
黒い水面を突き破って出てきたのは、白い巨大な蛇!早苗はしかし、蛇がまさに出てくるという問答無用のタイミングでその喉元にかぶりついた!
「グルァァアアアアア!」
「ミシャグジ!?」
「よそ見するなぁ!」
「!」
呼び出された白蛇の正体に気が付き息を飲む椛に、不気味な笑みを浮かべた諏訪子が襲い掛かる!
反応が遅れた椛は咄嗟に左の腕を上げ、諏訪子の抜き手を盾で受けた!
ばご ん!
「!」
「ひひひひひひ!」
異音が響く。目を剥く椛。諏訪子の腕が盾を貫通していた。金属板の内側で、諏訪子の腕は不気味な虫の様に椛の腕を求めてグネグネと動き回る。
「くそっ!」
椛は盾を投げ捨てて後ろに飛びずさる。諏訪子の爪が椛の袖を切り裂いたが、間一髪、椛の腕は無事だった。
「あーあ。もうちょっとだったのにねえ。お前の腕、その服みたいに腐らせてやれたのにねえ」
「!」
諏訪子の爪が切り裂いた布の切り口には、紫の汁がこびりついていた。しゅうしゅうとすえた臭いをまき散らし、汁は布を侵していく。椛は左の袖を慌てて切り捨てた。
「――――蟇蛙でしたか、貴女」
「げろげろげろ。祟り神にケンカ売ったんだ。それがどういうことか、教えてあげるよ!」
紫に染まった諏訪子の爪が、毒のしぶきをまき散らして椛の首を狙ってくる!
―――しゅううううう!
「ギャアアアアアア!」
「!」
突如上がった早苗の悲鳴。何とかちらりとそちらの様子をうかがう椛の目に映ったのは、4匹のミシャグジに絡み付かれ、手負いの一匹に噛み付かれた早苗の姿!
「早苗さん!」
「よそ見すんなよ!そんなに首腐り落されたいか!」
「ガルルル!」
「心配しなくても早苗は“先輩たち”とよろしくやるさ!テメエはちゃんとアタシの相手しろよ!ケンカしたかったんだろ!バカ犬が!」
「貴様!」
「はん、クソが、クソが。一年神主、神遊び、ミシャグジに“喰われた”私の子供たち!全部全部全部!思い出させて!“オマエ達”はやっぱり来た!せっかく忘れていたっていうのに。黙って私につき従ってるだけでよかったのに!アア、早苗を喰っちまいやがって。私を化け物に戻しやがって!クソが!クソが!畜生どもめが!」
「何を言ってる!」
「お前なんかにゃ教えてやらねーよ!」
横なぎに刀を振るった椛の視界から諏訪子が消えうせる。瞬間、足首に鋭い痛み。天地がひっくり返る。
足払いを掛けられたことに気が付いたのは後頭部に強烈な痛みが襲った後だった。
「ぎゃん!」
「ひあはははは!ほれ捕まえたぞ!椛!」
両膝で椛の足を抑え、マウントポジションを取った諏訪子が左手の爪を首に伸ばす。椛は咄嗟に両手でその腕をつかんだが、幼子の様な体のどこから力が出てくるのか、天狗の膂力を持ってしても諏訪子の片腕一本押し返すことができない。
「ほーれほれ。こっちの手は暇こいてるぞー」
「ぬあ、あ!」
ひらひらと、自由な右手を椛の目の前で振ると諏訪子はその手を下に伸ばす。無防備な椛の股間を、爪を立てずにズルリと撫で上げる。
そのおぞましい感触に、椛は総毛立てて身悶えた。
「な!」
「ひひひ。体ん中から腐らせてやろうか。ねえ」
「――!? やめ、やめろ!」
「ひひひひひ」
「ぬああああああ!」
卑猥な冗談などではない。諏訪子は冷たく笑いながら椛の女陰に毒手を伸ばす。椛は懸命に足を動かそうとするが、質量が増えたかのように、諏訪子の小さい体はびくともしない。
その時だ。
「傘符!」
「んあ?」
横合いから響くのは小傘の凛としたスペル宣言!
「一っぃぃぃぃぃ本ん足ぃピッチャぁぁぁぁ返しぃぃぃぃぃぃぃ!」
ばごん!
ひゅっ!
打撃音、そして風切音。
不意打ちの絶好のチャンスだというのに、わざわざスペル宣言までして攻撃を仕掛けてくる小傘に、諏訪子は呆れかえる。
諏訪子はこのスペルに覚えがあった。小傘が早苗と遊んでいる時、野球漫画を読みながら作ったスペカ。千本ノック宜しく、相手に向かって弾が飛んでくる大味な弾幕だ。
「は、馬鹿が!」
迎撃すべく、諏訪子は声のした方向を振り向き―――――
「だあああああああああ!」
そこで眼の前に広がるのは水色の弾!いや、アタマ!
「はあ!?」
ごぎょいんっ!
「ぶあっ!」
「ぐううっ!」
小傘の頭が諏訪子の顔面にめり込む!大玉の代わりに飛来したのは小傘本人!さっきの打撃音は小傘が自分自身を傘で打ち出した音!予想だにしない特攻に驚いた諏訪子は彼女のヘッドバッドをまともに喰らった。大きくのけぞる祟り神。その隙を椛は見逃さない!
「おらああああ!」
諏訪子の体重が抜けた足を引き抜くと、思い切り蹴りつける。天狗下駄の硬い一本歯が諏訪子の腹にめり込んだ。
「げぶぁっ!」
唾をまき散らしながら吹き飛ばされる諏訪子。椛はすぐに体を起こすと、隣で伸びたままの小傘の頬を2,3度躊躇なく張り飛ばす。
「起きろ!」
「いだい!いだい!」
「ありがとう。びっくりした。だけど無謀すぎ」
「も、椛、まって――――」
「おおおお!」
小傘の台詞を聞くこともなく、椛は刀を拾うと早苗を組み伏せるミシャグジ達に向かって突撃する。
「があああああああ!」
加速をつけて飛び跳ね、全体重を掛けて刀を突き出す。
早苗の鍛えた狼の蕨手刀は、早苗に噛み付くミシャグジの頭を狙いたがわず串刺しにする!
「ギャヒイイイイイイ!」
「ふんっ!」
勢いのままにミシャグジの頭に突き刺した刀を抜き去ると、そのまま血しぶきをまき散らして事切れる白蛇を足蹴にし、椛は次の獲物に襲い掛かる!
「がるるるる!」
「ギャアアアアアアア!」
もはや戦法も何もない。ただがむしゃらに飛び跳ね、全身に血を浴びながら、椛は諏訪子の呼び出したミシャグジ達を次から次へと切りつけ続ける。
「クソ狼があああああ!」
「!」
ギラギラと目を光らせた諏訪子が、怒りの形相で飛び掛かってくる。空中に浮かんでいた椛は体制を立て直せない。迎撃できない!毒の爪が、椛の心臓めがけて伸ばされる!
「驚雨『ゲリラ台風』!」
ごあっ!
「わあっ!」
「っち、こ、この腐れ付喪神がぁぁぁ!」
突如吹き付ける弾幕の嵐。椛のピンチに、小傘が咄嗟に撃ち込んだ無差別弾幕。椛も諏訪子もミシャグジも早苗も体勢を崩し、盛大に被弾する!
間一髪、小傘のおかげで、椛は諏訪子の爪を受けずに済んだ。しかし、頭に血が上った椛はそんなことなど意識せず、怒りの声を上げる。
「小傘ぁ!ぶっ殺すよ!あんた!」
「ちょ、あ、頭冷やせえ!椛!」
「おおおおおおおおーーーん!」
「!」
「!」
ぼ 。
『ぎゃあああああ!』
頭に血が上っているのは早苗も同じだった。一声吠えるとあの爆風を呼んで、なおも降りつづける小傘の弾幕ごと何もかも吹き飛ばす!
「ウオオオオオオオオ!」
「さ、早苗‥‥」
吹き飛ばされ、泥まみれになった小傘の視界の先で、早苗は尚も天を仰いで咆哮し続ける。その体から、赤い光がほとばしり始めた。
「な、何!?」
「早苗さん!」
―――― ばりっ!
皆が見つめる前で、赤い光をまき散らしながら早苗の体が爆発した!
「早苗ええええ!!」
「ははは、はははははは!脱皮した!身殺ぎだ!ミソギだ!」
「脱皮!?」
「よーく見とけ!小傘!椛!なかなか見られるもんじゃないぞ!」
湖まで吹き飛ばされた諏訪子の声が遠くから二人に響く。その言葉に従うまま、二人は呆然と早苗を見つめ続ける。
「よくやったよ、お前たち。早苗があの姿になるなんて。はははは。夢みたいだ!あれがほんとうのお姿だ!その目に焼き付けておけ!“御赤蛇”様のお姿だ!」
「ミシャクチ、って‥‥」
「何を言ってるんです!あれは何なんですか!早苗さんをどうしたんですか!」
「どうもしてないさ。早苗は脱皮したんだよ。一番恐ろしい姿になるだけさ。最終形態、ってやつかね?」
「最終形態って」
「ミシャグジ様の真の姿は白蛇に非ず。御身を真紅に染めた赤蛇(しゃくち)だ。ああ、いいね、ここに居る奴、みんな血で服がまっかっかじゃないか。お似合いだ。いいね!赤蛇の神職の衣は赤でなくちゃ!」
「赤蛇!?」
「なあ、神奈子の恰好思い出してみろよ。赤い服に蛇の目、カガのメぶら下げて。アイツの恰好は御赤蛇様を示してるのさ。えげつない格好してると思わないか!ひひひひ!」
「何がおかしいんです!」
「黙って見てな。今に分かるさ。神奈子の恰好がどんな意味だったかってのが」
三人の目の前で、赤い光がゆっくりと収束していく。光はやがて、早苗が元居た場所に一つの影を創り出した。
「ひ‥‥!」
「早苗!」
「ひひひ。ひひひひ」
そこに居たのは一匹の蛇。
体を覆う鱗は血の色よりもなお赤く。光り輝く二つの目は太陽をはめ込んだかのような金色で。
蛇はずるりと尻尾を動かすと、ゆっくりととぐろを巻く。そして鎌首をもたげ、三者をぐるりと見回した。
最初は、椛。
「ひいいいいいい!」
「椛!?」
「ああ、ああああああ!」
早苗の一瞥を受けた椛が、突然頭を抱えて悲鳴を上げる。ガクガクと体を震わせ、刀を取り落としてその場にひれ伏してしまう。
「椛!椛!どうしたの!ねえ!」
「食べられる、食べられる!いやだ、いやだいやだいやだ!怖い!怖い!」
「椛―――― ひい!」
次は、小傘。
小傘を見つめる金色の目。御赤蛇様は威嚇も何もしていない。ただ、見つめているだけだ。だが、それだけで小傘の頭の中が叩き壊されていくような、とてつもない恐怖が湧きあがってくる。
「ひ、あああああああ」
足がまるでいうことを聞かない。力が入らない。腰がぬけ、立ち上がることができない。それでも、その金色の目から目を離せない。
「おお。さすが、付喪神。野生動物よりかは耐性があるかね。どう?“自然”そのものの恐怖。効くでしょう?」
「はあっ、あああっ」
「あはははは。どう?怖いでしょ。おっかないでしょう!お前たち、早苗側でよかったね。もしかしたら、食べられないで済むかもしれないからね!」
「ああ、ああああ」
「毎年こんなふうに睨まれてたら、そりゃあ、強力な王国が出来上がる訳だって思わないかい。ねえ、小傘。神奈子がどんな恰好してたか分かっただろう?おっかない別の神様の姿を借りてさ。私の王国をアイツが代わりに治めようとした時、どんな姿が一番威厳があるかとか聞いてきたからね。だから私は御赤蛇様のカッコさせたんだよ!御赤蛇様の体を成した出雲の明神だよ。世の中にゃ、神様の姿をまねた服を着る巫女やシャーマンが居るみたいだけどね。神様がそんなことしてるなんておかしいと思わないかい?ひひひ」
諏訪子のお喋りなどまるで耳に入らず、小傘は声も出せずにただひたすら震えていた。
小傘の目の前で、ついに早苗は人間の姿すら捨て去ってしまった。小傘の妖怪としての、付喪神としての本能はすでにあれを早苗と感じてはいない。畏怖すべき、赤く輝く鱗をまとった恐ろしい神の蛇だ。そう感じてしまう自分の心がたまらなく憎らしい。だってあれは、早苗なのに。早苗のはずなのに!
悄然として震える小傘から目を逸らし、御赤蛇は最後に諏訪子を睨む。祟り神はニヤニヤと不敵に笑いながら蛇神を睨み返す。秋の稲穂を詰めこんだような、場違いに美しい御赤蛇様の金色の目がすう、と細くなった。
「ひひ。さあ、決戦だ。神様!」
オーン!
諏訪子の声に呼応するように、御赤蛇様が吠える。静かで低いその声が妖怪の山を震わせていく。
湖の岸辺に立ち並ぶ御柱の林が、音叉の様に震え出す。御柱は御赤蛇様の声を増幅し、山と湖に染みわたっていく。
小傘は呆然とその声を聴いていた。吠える早苗の姿を見ていた。もう、早苗の面影なんて一つもなくなってしまった彼女の姿を。小傘の頬を涙が伝う。胸の奥で渦巻いているのは「悔しい」という気持ちだった。もう、二度と手に入らなくなってしまった“獲物”。人間であり友人である早苗。
あの日、初めて半神半蛇の早苗を見た日、小傘はまさかこんなことになるとは夢にも思っていなかった。神々しい白蛇の姿になった早苗の姿に無邪気に喜んでいた自分が、まるで別の世界の出来事のように思えてくる。
「――――アア、神奈子様、どうしよう」
自分でも気づかないうちに、小傘はぽつりぽつりとうわ言をつぶやいていた。
「早苗が‥‥」
ぽろりと頬を涙が流れおちた。
「早苗が、早苗が‥‥」
‥‥「ミシャグジ様の巫女」?よくも、そんな身の程知らずな大それたことを言えたものだ。守るべき神様はいいように痛めつけられて怒り狂って言葉も耳に入らなくなってる。守るどころか、仕えるどころか、何もできていないじゃないか。愚図なお前は、やっぱり風に飛ばされるみじめな破れ傘がお似合いじゃないか。ええ?
「あははははははは!」
「!?」
突然響き渡った高笑い。その声に我に返った小傘は弾かれたように空を見上げる。
その先に有った光景。指揮者の様に両手を掲げた諏訪子。そして、空を覆い尽くす、大岩の雨!
「‥‥いやああああ!」
瞬間的な恐怖が小傘の足を跳ねさせる。自分でも信じられない素早さで小傘はいまだ地面にひれ伏す椛の元へ駆け寄った。
「椛!椛!」
必死に椛を揺さぶるが、うわ言のように何かを呟くだけで、椛は動こうとしなかった。
すでに岩嵐は降り始めている。動かない椛を背負って逃げる時間などない。
小傘は覚悟を決めた。
椛をかばい、剣を構えるように岩嵐に傘を向け、空を睨む。
こんな数の大岩なんてとてもじゃないが撃ち落とせない。だから直撃コースを取る岩だけ迎撃する。そうすれば、非力な私でもきっと――――!
しかしそんな涙目の小傘の決心は、一瞬にして意味のないものとなる。
――シャッ!
ぼがん!
「~~~~~!」
御赤蛇様が吠えたかと思った次の瞬間、あたりに炸裂した耳をつんざく大音響に小傘の意識が一瞬跳ぶ。遠くでガラスの割れる音がした。見れば守矢神社の社務所の窓がすべからく粉砕されている。
“早苗”のお馴染みの爆風である。しかしその威力はこれまでの物とは桁が違っていた。揺れる視界の中で、小傘は降り注ぐ岩嵐が円形にくり抜かれるのを見る。激烈な衝撃波と化した爆風が岩々を空中で粉砕したのだ。
シャアアッ!
ばあん!
「―――――!」
爆風の第二撃。大量の霊力をまとっているのだろう。青白く光る空気の塊がまるで一筋の光線のように諏訪子に向かって放たれる。涙にゆがむ小傘の視界の先で、諏訪子がひらりと風から身をかわすのが見えた。
風はそのまま突き進み、湖の向こうに見える妖怪の山にぶち当たり――――
ずごおおおおおおおん‥‥
ごっそりとその稜線をえぐり取って地形を変えた!
「ひ‥‥」
小傘の耳に遅れて届いた轟音は、まるで現実味のないものだった。もはや風とは言えないあまりの威力に小傘は言葉も出せない。腰を抜かす彼女の横を御赤蛇様が音もなくすり抜け、諏訪子に向かって突進していく。
ざああ、と空から砂が降ってきた。“早苗”が砕いた岩のなれの果てが。小傘は茄子色の傘を開き、自分と、降りしきる砂の雨に打たれるがままの椛を覆う。
おおおおおおーん!
湖から聞こえてきたのは、御赤蛇様の咆哮。波紋が踊り、湖の水面が盛り上がり、霊力を纏った水の蛇が諏訪子に襲い掛かる。
諏訪子はかろうじてその攻撃を避けたが、水の蛇は執拗に諏訪子を追いかける。業を煮やした諏訪子が、大岩を地中から喚ぶと水の蛇にぶちあててそれを相殺。間髪入れず、諏訪子は大岩を続けざまに御赤蛇様に向かって投げつける。赤蛇は事もなげにその大岩を躱した。標的を逃した大岩は、勢いそのままに夜空へと消えていく。
のたくる水の蛇と大岩がぶつかり、轟音を響かせる。弾けた水の塊は恐ろしい勢いで宙を舞い、神社の母屋を直撃した。木の弾ける音がする。小傘たちのすぐ横に岩のかけらが突き刺さり、泥をまき散らした。
「早苗‥‥!」
どうしたらいいのかなんてもう小傘にはわからない。それでも、彼女は傘を杖にするとよろめきながら立ち上がった。せめて、せめて、見届けたい。
このまま何もせずにエンディングを迎えるなんて、小傘は嫌だった。
****************
「‥‥こりゃあ、また随分と派手なお祭りですねえ」
「いくら派手でも参加できないんじゃ。ちくしょう。いいなあ。飛び入りしたいなぁ」
「楽しそうですねえ」
「お前は楽しくないの」
「こんな刺激的な瘴気嗅がされたら、そりゃあ楽しくならない方がおかしいってもんですよ」
「ふん、妖怪め」
「お嬢様は如何なんです」
「楽しいよ」
「ふん、妖怪め」
「ははは」
「あはは」
霧の湖の畔で。紅魔館の正門では、館の主と門番が、夜風に当たりながら妖怪の山の山頂を見つめていた。館のすぐ目の前に広がる霧の湖では、そこかしこでキラキラと光が明滅している。妖精たちが花火のように弾幕を撃って騒いでいるのだ。
今宵、妖怪の山でちょっとした騒動が起こることは、八雲紫から連絡が来ていた。騒動に惹かれ、迂闊なマネをして妖怪の山に立ち入り余計な混乱を引き起こさないようにと神奈子と紫が触れて回ったのである。最初に話を聞いたとき、大げさな話だとレミリアは思ったものだ。たかが神と巫女のケンカでそこまで心配する必要があるのかしらん、と。第一、妖怪の山なんてそうそう行くもんでもないわ。
ところが蓋を開けてみれば、山から瘴気が吹き降ろしてくるわ、かと思えば森が精気を吐き出して霧の湖じゃ妖精が興奮して花火大会みたいになってるわ、紅魔館のメイドたちも騒いだり怖がったりで仕事が手に付かず咲夜が一人でバタバタしてるわ、精気と瘴気をまぜこぜで嗅いだ小悪魔がサカってパチュリーが襲われかけたりともう大騒ぎ。静かなのは地下にこもってぐーすか寝ている妹くらいなものである。
大騒ぎの館内を眺めているのも結構楽しかったのではあるが、ドタバタ大忙しの咲夜にいつものようにわがまま言うのもなんだか気が引けたので、今宵は美鈴の元へお邪魔した次第なのだ。妖精たちがこの有様なのだから、森の妖怪、妖獣達もさもありなん、きっと正門はサカった奴らと美鈴の大バトルの真っ最中、と少し期待していたレミリアだったのだが、正門前に居たのは牙を剥いた妖獣の群れではなく、塀の上に腰かけて、満月と妖怪の山を眺めて腕を組んでいる美鈴だった。
レミリアは美鈴の隣に腰かけ、足をぶらぶらさせながら山を見上げている。さっき青白い光と共に山肌が爆発するのが見えた。スペルカード使用の弾幕ごっこではなく、ガチのケンカのようだ。久しぶりに嗅ぐ血なまぐさいケンカの匂いに、思わず頬が緩んでいく。
ニヤニヤと山を眺めるレミリアに、口元をほんのりあげた美鈴が問いかけてきた。
「随分と派手なケンカみたいですが。お嬢様、何かご存知ですか」
「知らない。八雲紫もあの祟り神とラミアのケンカとしか言っていかなかったし。終わったらいろいろ聞きださなきゃ。しっかし、ここまで大騒ぎするとは思わなかった」
「ですねえ。あいやー、あの現人神さん、大丈夫かなぁ」
「心配してんのか?」
「いくら神様っても、中身は人間の女の子ですからね。彼女は。‥‥こんな、捌きたてのおニクみたいな生々しい瘴気まで出しちゃって。彼女、人間に戻れるんですかねえ」
「戻れなくてもいいじゃない。我らの仲間が増えるんだから」
「だめです。可哀想です」
「へえ」
「人が妖怪に堕ちるってのは、その理由が何であれ、人間にとっちゃ悲劇なんですよ」
「見て来たみたいに言うね」
「見てきましたもん。沢山」
「そう」
どこか悲しげな目つきで山を見つめる美鈴。月に照らされ影ができたその横顔が、一瞬人間の女の子のように見えた気がして、レミリアの胸をどきりとさせる。
出自も正体も分からないこの娘にも、もしかしたら遠い昔、人間だったころがあるのだろうか。にわかに好奇心が湧いたレミリアだったが、ふん、とため息を吐いてその好奇心を捨てた。
「人間の血ぃ吸って眷属増やす”ド外道”にご高説どうも。‥‥あーあ。近々紅魔館の従業員を全員妖怪にしたかったんだけどなぁ。身内から反対意見が出ちゃったかぁ」
「おや、咲夜さんを齧るおつもりでしたか?」
「さあねぇ」
「私は反対も賛成もしませんよ。すべてはお嬢様のなすがままに、です」
「ずるい。従者根性ずるい」
「そこはお嬢様がお決めにならないと」
「はいはい‥‥おお!」
やれやれ、と苦笑するレミリアの目に、新たな光が映る。妖怪の山から、またもや青白い光線が放たれたのだ。
光線は一直線に空へと向かい、雲を蹴散らして飛び去って行った。
歓声を上げる主と門番の後ろに、新たな気配が生まれた。
「お前も見に来たのか」
「ええ。派手にやってるようね」
二人の後ろには、ちょうど魔女が館から出てきたところだった。ふよふよと浮かんだ彼女は、レミリアの隣に腰かける。彼女の体からはほんのり炎の匂いがした。彼女を襲った小悪魔はかなりきつめのお仕置きを受けたようだ。
「あの神社の神紋は梶」
「?何よいきなり」
「木が尾を持つ。これは、蛇の暗喩よ。蛇は木気だから」
「ふーん」
「そして、風も」
「だから何」
「蛇も、風も、四緑木気。うねり、突き進む生の象徴。そして、だからこそ“風祝”。‥‥“風”を“羽振り”、その身に降ろす。そして鎮める。あの神を、蛇神に魅入られた神を救えるのは風祝の名を持つあなただけ」
「‥‥早苗に向かって言ってんの?それ」
「気張りなさい。人間。ここまで来たのよ!」
「うおお、パチュリー様がアツくなってる‥‥」
「っとに。五行マニアめ」
「そういうものなんですか」
「さあ。でもこいつがこんなに興奮してるとこ見るのも久々かもしれないわ」
パチュリーは彼女の中で何か謎を解いたらしい。瘴気か精気の影響もあるのかどうか知らないが、彼女は自己完結ぎみな学者風の興奮をしていた。
「お嬢様はどうなのです」
「私か?」
「お嬢様も興奮しているご様子ですが」
「そうかい?」
「牙が見えていますよ」
「‥‥ひひひ」
「はしたないですよ」
うるさい、と美鈴の頭をつつくと、レミリアは塀の上に立ち上がった。
「ほーれ、頑張れー。アンタも従者なら、見事ご主人様を助けてごらんなさいなー」
両手をメガホンにして、山に向かってレミリアは叫ぶ。そして、こぶしを握り締めるパチュリー。美鈴は何も言わずに笑いながら、一緒に山を見つめていた。
******************
「せいやぁ!」
ずんっ!
山羊の角を生やした少女は、慧音の頭突きを喰らって声も出せずに昏倒した。
里の外。妖怪の山の方から里へ向けて伸びる一本の道。その道の真ん前に、上白沢慧音は仁王立ちしていた。バラバラと集まった妖怪達が、彼女を取り囲んでいる。皆、吐く息荒く、目を光らせ、慧音の隙を絶えずうかがっていた。
ここに居るのは皆、山から吹き降ろす瘴気と精気に中てられた者たち。ヒトの匂いを嗅ぎつけ、本能を抑えきれずに里に寄ってきたのだ。
いくら人間を襲う行為が形骸化されたとはいえ、自制心の弱いものはいくらでもいる。今晩はそうした者たちの心のタガが外れるには十分な環境だった。
いざ、人里へ。美味そうな人間達が居る人里へ‥‥。だがしかし、そうやって寄ってきた妖怪達の眼前に広がったのは、信じられないような光景だった。
そこにあったのは、里ではなく一面の野原。名状しがたく混沌としたまったく何モノかよくわからない“柵”、そして、角を生やし尻尾を振り、腕組みをしながら「どさくさに紛れてぇ人を襲う悪い子はいねぇがぁ」と赤い目を光らせるナマハゲ的な半獣と、切り株に座って炎を指先で弄ぶ銀髪の少女だった。
二人と後ろでうごめくモノの、その迫力と雰囲気に一瞬たじろいだ妖怪達。だがしかし、こちらは大勢、向こうは二人、とすぐに気を取り直し、歓声をあげながら一斉に襲い掛かってきた。
その結果が、これである。
「ぎゃひん!」
「さぁ、つぎはだれだぁ?」
「‥‥慧音。あまりやりすぎないでね」
「心配無用だ。妹紅。今夜の私は絶好調である」
「とりあえず血をぬぐってよ。怖いよ。顔面血まみれで笑わないでよ」
「いつもハラワタぶちまけてる妹紅さんが何を言いますか」
「あれはまた別の話で‥‥」
「大して違わんだろうに」
「わあああああ!」
「ふん」
「あぎゃあ!つ、爪、爪立てないで!顔痛い痛い痛い」
「そーか痛いか。ならば追加だ。そぉれ!」
ごぎょいんっ!
「――――!」
「他愛もない」
突貫してきた妖怪少女は、哀れ慧音のベアクローを顔面に受け、そのまま引き寄せられて重い一撃を受け、轟沈した。慧音はにやぁ、と笑うと造作もなく沈黙した獲物を投げ捨てる。
二人の足元には無数のクレータが出来上がり、そこかしこで黒焦げになったり、頭を割られて顔面血まみれで気絶する妖怪達が死屍累々と転がっていた。
今日は満月。獣人と化した今宵の慧音は、いつもよりも暴れん坊だった。
所詮、相手は二人と舐めてかかってきた妖怪達は、あっという間に半分以下まで数を減らされた。その実に8割が、慧音のスコアである。妹紅は初っ端、火炎弾の無差別爆撃で出鼻をくじいたっきり、あとはほとんど手を出していない。
最初、すっかり威勢の良かった妖怪達は総崩れ。今では残った妖怪達があまりの光景に恐怖し、手を震わせながら慧音に突撃という名の自爆を仕掛けてくる始末。彼ら彼女らは例外なく、満面の笑みで低音の高笑いを上げる慧音に次々と沈められていった。
「そおれぇ!」
ずごん!
重い響きと共に、また一匹、妖怪が倒れ伏す。
「そおら、とっととかかってこい。手っ取り早く済ませようじゃないか。今夜は新しい歴史の始まりの日だ。あの山の上では早苗達ががんばっている。わたしはそれを見守らなければならない。今度は私が守る番なんだからな!」
ぱかぁん!
長い爪を振り回してきた羽を持つ少年にカウンターで頭突きを喰らわせ吹き飛ばすと、慧音は胸元からスペルカードを取り出し、吠えた。
「新史『新幻想史』!」
「‥‥くっさ」
外連味タップリなスペルの選択。光の爆発に照らされる、凛々しく得意げな慧音の横顔を眺め、妹紅は苦笑した。
******************
「馬鹿よね、あの子達も」
「いいんじゃないの。”ここ”の人たちらしくて」
「我を忘れて、感情のまま、思うがまま」
「まるで動物か人間よね」
「穢れを払うのではなく、自分から穢れを求めて」
「土着神ってホント厄介よねえー」
「輝夜はそう思ってるの?」
「貴女の気持ちを代弁したつもり」
「‥‥正直、うらやましいと思う時がありますよ、私は」
「ほうほう」
月の照らす縁側は、いつもと変わらない静けさで。
そこで佇み月を見る蓬莱人たちもまた、いつもと変わらず月を見つめていて。
ただ、空気だけが、異様な精気を纏ってざわついていた。
ミシャグジ様に反応したのは、妖怪の森だけではなかった。迷いの竹林もまた同じく、むせ返るような精気を放っている。ペットの兎たちは例外なく精気に中てられ、竹林の中で大騒ぎの真っ最中。どれだけ精気が濃いかと言えば、昼間顔をのぞかせた竹の子が今はもう軒下を窺うような高さに伸びるような異常な状態なのである。騒ぐなという方が無理だ。‥‥どこで何をしているのやら、大騒ぎの割にはとんと兎たちの声は聞こえてこないのだが。
ただ一人、鈴仙だけが屋敷の屋根の上で見張り役をしている。「イナバも遊んで来たら」との輝夜の言葉にかたくなに首を振って「非常時に誰も哨戒に当たらないのは問題です」と損な役目を申し出たのだ。「混ざってはしゃぐのが恥ずかしいからよ」とは永琳の言である。彼女の耳には兎たちの大騒ぎの声が聞こえているのだろうか。時々耳を揺らして「やかましい」とかブツブツ言っている。
「イナバも兎なんだからこういう時ぐらいハメ外しなさいってのにね」
「兎、というよりかは生き物だから、ですね」
永琳はそういって輝夜の顔を見る。お姫様は月を見つめて、笑っていた。
「私も土着神になったら、少しは命に近づけるのかしらね」
「‥‥穢れから一番遠い蓬莱人が土着神なんかになれますかね」
「容赦ないわね。希望よ、希望。ただの妄想」
「すいません」
ぷー、と膨らむ輝夜の頬をつつきながら永琳は苦笑した。
この体になってからもうどれくらいの時間がたったのか分からない。とっくの昔に命に対する希望なんて無くなって、狂ってしまったはずの蓬莱人に、まだそんなたわごとを言わせられる。思わせる。
‥‥厄介な奴ら。
「でも、うれしいでしょ」
「は?」
心の中が読めたと言わんばかりに、輝夜がいたずら猫のように笑いかける。
「精気を吸って、自分もまだざわつく位の心があったことに」
「‥‥そうね」
口元をゆるめて、酒を啜る。
「永琳、久しぶりに遊ばない?」
「は?」
「こんな日なんだもの。妹紅のあたりが『かぐやああああ!』って盛った野良犬みたいにケンカしに来ると思ったんだけど。アイツ、人里の警護に行っちゃってるっていうし。この熱くたぎる体が疼いて仕方ないのよ。ね」
「はあ‥‥」
「いいでしょ。ね。たまに運動しないと、太るわよ?永琳。さいきん下回りが危なくなってきてるんでしょ。一回リセットしない?」
「はい?」
「あ、今その体型だってことは、薬を飲んだ時点ですでに肉が付いちゃってたってことよね、うん」
「‥‥ふふふ。輝夜?」
ざわりと、永琳の纏う空気が熱を帯びる。別にこんな単純な挑発で興奮するほど永琳も馬鹿ではないのだが。ただ単純に、うまい切っ掛けが欲しかったのだ。輝夜のケンカの誘いを受けるための。辺りに立ち込める精気のせいか、はたまた瘴気のせいか。永琳の脳味噌は、輝夜の誘いに勝てなかった。やれやれ、と頭を振ると、薬師は静かに立ち上がった。
「お?永琳やる気になったわね」
「良いですよ。お相手しましょ。言っときますけど、わたしは容赦しませんからね」
「上等」
輝夜が不敵に笑う。二人の蓬莱人は、お互いを見つめあいながら狂った笑みを静かに浮かべた。
そして、おもむろに永琳は屋根の上を見上げて声を張り上げる。
「優曇華!」
「は、はい!」
軒先から、ひょこりと月兎の顔がのぞいた。
「ちょっと留守にするわ。日が昇ったら呼びに来て」
「は、はあ‥‥」
「どうしたの。歯切れの悪い返事だこと」
「は、あ、いえ!あの‥‥聞いてたんですけどぉ、師匠も“遊び”に行くんですよね‥‥」
「そうよ」
「‥‥迂闊に呼びに行ったら標的にされそうで怖いんですが」
「私達が冷静を欠いていると?見境なく攻撃すると?恐慌状態の新兵みたいに?」
「いえ!失礼しました!そういうわけでは‥‥」
「そのとおりよ」
「えっ」
「うまく呼びに来なさい。それも修行。軍人でしょ、貴女。荒事には慣れてるわよね?」
「そうですけど‥‥」
「ま、何かあっても蘇生させてあげるから。できるだけ一般的な方法で」
「ひぃ‥‥が、がんばります」
「よろしい」
どはー、と屋根の上でため息をつく優曇華に背を向けると、永琳は地面を蹴って宙に浮く。
「さあ、輝夜。遊びに行きましょうか。せっかく神様が用意してくれた機会なんです。たのしみましょう」
「あんたが一番ノリノリね」
「ふん」
こんなふうに興奮させられるのはいつ以来だろうか。
本当に、厄介な奴ら!
*****************
「‥‥ホントに無謀で、我武者羅である」
「早苗さんのことですか」
「ええ」
「そう思うんなら、どうして宴会の時に止めなかったんです」
「あれは彼女の使命ですからね。止めたところでどうとなるものでもないですから。それに」
「それに?」
「あそこで止めたら、彼女の覚悟を踏みにじることになりますから」
「‥‥そうですね」
人里の寺でもまた、僧侶とご本尊が月を見上げていた。
静まり返った境内を、誇らしげな満月が青白く照らしている。
今、命蓮寺に居るのは、聖と寅丸のみである。他の面々は里の警護に出かけていた。
今日は慧音の依頼で妹紅が里に出張ってきているのだが、それでも里を一人でというのは物理的に無理な話である。そこで命蓮寺に応援要請が来たわけだ。
聖は寺で後詰を。現在はたまたま、寅丸が戻ってきて報告などをし終えたところだったのだ。
「‥‥ねえ、聖」
「どうしました?」
何か言いづらそうな星の声。聖は顔を月に向けたまま、目線だけを傾ける。
「いえ、なにも‥‥」
「牙が見えていますよ」
「え!あれっ!?」
「気にせずともよいのです。もともと貴女はそういう存在ですからね」
「‥‥お恥ずかしい話で」
「やはり障りますか、瘴気」
「少し」
「里に向かったみんなもあまり興奮して居なければいいのですけどねえ‥‥」
そういいながら、聖は星のあごに手を伸ばしてくりくりとあごを撫でる。星は一瞬戸惑ったがすぐにふにゃふにゃと力を抜かれ、まるで猫のように喉を鳴らした。
「落ち着きました?」
「ふああ‥‥」
「よけー興奮させてんじゃないの。聖」
「あら。ぬえも居たのですか」
「居たの。今来たの。悪かったね。なんだ寅丸、こんなとこでサボってたんだ」
二人の後ろから不機嫌な声が響く。三叉槍を片手に持ったぬえが、薄暗がりの中で立っていた。
半分だけ月に照らされた顔が暗闇の中に浮かんでいる。その不気味な光景に、ご本尊がちょっと肩を跳ねさせた。
「ひえ、わ、わたしはサボってたわけじゃなく、あうふ」
「くーるだうん中ですよね」
「ぐるるる」
「‥‥呑気だ事」
あごの下を撫でられてでかい猫のようにフニャフニャになっている星を睨み付けると、ぬえは境内に降りる。
聖たちの方を見ずに、ぬえは月を見上げると「んっ」と伸びをした。
「あなたは、どうしたのです?」
「ちょっと水飲みに来ただけだよ」
「あら」
「聖、里の外、大分ざわついてきてるよ。まだ里に入ってくるような奴らはいないけど、外じゃもう、連中同士でケンカしてる」
「そうですか」
聖たちの方を見ずに、ぬえは静かに話す。
「いま、あの半獣の娘と一緒に柵を作ってきたとこ」
「半獣って、慧音先生ですか。‥‥彼女と、あなたが、ですか?」
「そ、里の境界あたりの歴史をあの子が喰って、元の境界の姿を忘れさせたうえで私の正体不明の種を植えこんだの。そうすりゃ、わけのわからない謎の障壁の出来上がり。‥‥足止めにはなるでしょ。ついでに、この里全体の歴史も食ったってさ。妖怪相手に効果あるか分からないって言ってたけどね。月の異変の時は見えてしまったって」
「はあ‥‥」
聖は星を撫でながら、目を丸くしてぬえの横顔を見ていた。彼女がこんなにしゃべるのも珍しい。普段の彼女はあまり自分から人の輪に入ってくるようなタイプではなく、端っこで壁に寄りかかっているような子なのだ。
「ありがとう」と声を掛ける。「ん」と小さな返事があった。月に照らされたその横顔は少し得意げに見えなくもない。
「じゃあ、また行ってくるから」
「気を付けて。あなたも、あまり興奮しないように。瘴気は思ったより濃いようですから」
「なに?心配してくれてんの?」
「ええ。あたりまえです」
ぬえは一瞬だまってから、聖の方を満面の笑みで振り向いた。牙を見せて、わざと邪悪な妖怪的に笑いながら。
「は、あたしより、そこのダメ虎が牙剥かないように見張っときなよ。ひひひ。じゃ」
「いざとなればこの寺に人を入れます。無茶をせず、我を忘れず。いいですね」
「はいはい」
片手をひらひらと振ると、ぬえは夜空に飛んで行った。
「素直じゃない子ですねえ」
「ふえ」
あまりにも聖の手が気持ち良かったのか、よだれを口の端から溢した星が顔をあげる。
聖は懐紙を出して口を拭ってやった。
「さ、落ち着きましたか。あなたも頑張ってきてください」
「は、はいっ」
星はあわてて立ち上がったが、裾を踏んづけて後ろにひっくり返った。
その様子を見て聖は苦笑する。
「毒気はすっかり抜けたようですね」
「す、すいません」
たはは、と笑うと今度こそ星は立ち上がり、ぱたぱたと境内に走り出ると地を蹴って夜空に飛んでいく。
夜空に浮かぶ満月にその後ろ姿が重なった。
「まったく、ウチのご本尊様ったら」
苦笑する聖。その視界の中を、一条の閃光が駆け抜ける。
「!」
気が付いたときには、聖は寺の屋根の上に立っていた。閃光の行く先を、目を凝らして見極める。
幸い、閃光は空へと駆け抜けていった。ほっと胸をなでおろす聖の耳に、遅れて轟音が届く。
ただ通り過ぎただけの光だったが、聖の肌にはその光が纏うすさまじい霊力がびりびりと伝わってきた。
「‥‥ホントに、無茶をする!」
里のあちこちから上がり始める悲鳴や喧噪を背に聖は妖怪の山を睨む。守矢の社があるあたり、山頂の近くで散発的に光りが見える。聖の超人的な耳には山頂発と思われる地響きや爆発音まで届いていた。
「‥‥これは、ぬえの障壁じゃ防げませんね」
懐から出した巻物を広げる。あの光がもし里に届いたらただでは済まない。慧音が歴史を喰って里を隠しているとはいうが、万一ということもある。
遠くから猛スピードで飛んでくるナズーリンの慌てた声を聴きながら、聖は身体強化の魔法を詠んでいった。
****************
「これがバイト?」
「そうだ。御駄賃は弾んでくれるってさ」
「絶対いいようにこき使われてるわよ?あんた」
「本人が楽しんでりゃ労働も娯楽だぜ」
「はいはい」
少女は呆れた声を出すと、手元の人形を操り、飛び掛かってきた妖精を追い払う。その傍らでは光の渦が、さらに多くの妖精たちを飲み込み、空へと吹き飛ばしているところだった。
「こらぁ、あんたたち。お喋りしてないでちゃんとやってよ。北側、妖精たちが入ってくるわよ!」
「へいへい!」
遠くから聞こえてきた声に、もう一人の少女が片手をあげて返事をし、またがった箒の進路を北へと向ける。
月明かりに照らされた太陽の丘。ここでも、派手なケンカが繰り広げられていた。攻め手は、無数の妖精たち。守り手は、花畑の主人、風見幽香と臨時庭師1号、霧雨魔理沙、同じく2号、アリス・マーガトロイドである。
他の場所と同じく、この太陽の丘も、今晩は月の光と精気と瘴気で大混乱の真っ最中であった。妖怪の山から吹き付ける精気は、花畑にも例外なく刺激を与え、いつぞやの春のように花咲き乱れ草が茂り、まさにお祭りの様相を呈していた。
そんな素敵な花畑が、同じく精気に中てられてお祭り状態の妖精たちに見逃されるはずもなく。困り顔の幽香をよそに、花畑は妖精たちの一大宴会場と化した。
幽香も最初ははしゃぐ妖精と花畑を穏やかな目で見ていたのだが、さらに妖精の数が増え、弾幕ごっこでケンカをし始めたところで細められていた目がぐわりと開いた。
マナーをわきまえない客は、お引き取り願う。特大の光線が次から次へと妖精たちを吹き飛ばしたが、今宵の妖精たちは一味違う。光線に呑まれ吹き飛ばされる、それすらも彼女達のアトラクションと化した。
かくして、花畑を埋め尽くすほどの妖精が『あそんでー!』と幽香をターゲットにするというとんでもない事態となり、当の本人は「めんどくさい」とため息をつき、たまたま遠くの空を飛んでいた魔理沙とアリスに魔法を撃って呼び寄せ、臨時庭師としたところなのだ。‥‥瘴気と精気が混じりあってさわがしい魔法の森から離れ、大騒ぎの幻想郷見物に出ていた二人だったが、世にも珍しい幽香の“お願い”を聞き、ならばと参戦した次第である。幽香はバイト代を出すと言っていたが、あまり二人は期待をしていない。
魔理沙は結局のところ、一緒になって騒ぎたかったのもあって、嬉々として魔法をばらまいている。同乗している箒の後ろから見る、楽しそうな彼女の横顔になぜか“妖精”という単語が重なり、アリスはため息を吐いた。
「結局アンタって子供よね」
「当然。アリスよかずっと子供だぜ。いまさら何言ってんだ?ボケたか?」
「‥‥串刺しにされたいの?」
「おお、怖い。今日は沸点低いな」
「そうかもね」
「あの日か?」
「違うわっ!」
魔理沙のボケにツッコむ代わりに、アリスはスペルカードを空に一枚放り投げる。はじけたカードは、花畑から外れたほど近い空き地に魔法陣を描いた。
「ゴリアテ人形っ!」
召喚されたのは、両手に剣を構えた一体の巨大な人形。精悍な少女の顔つきをしたそれは、天に向かって「ま゛っ」と一声吠える。その声を聴きつけた妖精たちが、一斉に群がっていく。
「妖精を引き付けといて!花畑に入っちゃだめよ!」
「ま゛」
操っている自分に言い聞かせるように、アリスはその命令を人形に与えた。巨大な少女はその命令に短く答えると、群がる妖精たちを剣で一薙ぎ。何とかかわす妖精たちの楽しそうな悲鳴がこだました。
その声を聴き、魔理沙も楽しそうな声を出した。
「大盤振る舞い、いいねえ!やっぱお祭りはこうでなくちゃ!」
「お祭りなの!?これ!」
「早苗んとこのお祭りだぜ!幻想郷まるごと一個、会場の!」
箒をぐるりと回し、急制動。悲鳴を上げるアリスに、魔理沙は「いくぜ!」と目くばせをする。目の前には、彼女達を追いかけてきた、ハチの群れのような妖精たち。
「はた迷惑なお祭りよね!」
「全員強制参加だものな!」
「まったくだわ」
気づけば幽香も隣に居た。三人の少女は、それぞれの得物を構え、魔力を流し込む。
『ふっとべ!』
膨大な魔力の光が、妖精を飲み込みながら空に向かってほとばしる。
さすがにこれは強烈だったか、妖精たちの動きが一瞬鈍った。しかし。
「やあやあ魔理沙!これで我ら栄光ある妖精が負けたとは思ってないだろうね!」
「お!めんどーなのがきたぜぇ。ひひひ」
「楽しそうね」
「こいつぁ子供ですから」
空から響く、不敵な声。そこには腕を組み、得意げな顔をした青髪の妖精が一人。
「魔理沙!よくも妖精をいじめたな!借りは一億倍にして返してやるわ!」
「ふふふ、チルノ。やれるもんならやってみるがいい。1億どころか1厘も返せぬまま、お前らを塵と化してくれるわ!うわはははは!」
「おのれ魔女め!みんな、行くぞ!」
「楽しそうね」
「子供ですから」
ノリノリで悪役の台詞を吐く魔理沙の後ろで、妖怪少女二人はやれやれとため息をつく。
その数分後、「悪の魔女その2」「その3」として派手に巻きこまれ、二人ともノリノリで妖精とケンカを続けることになることは、誰も知らないちょっと未来の出来事である。
****************
「はい、お水、飲む?」
「ああ、ありがとう」
穣子が障子を開けて、神奈子に湯呑を差し出す。神奈子は礼を言いつつそれを受け取った。
博麗神社。その縁側に神奈子はあぐらをかいて座っていた。
穣子に手渡された湯呑の中には冷たい井戸水が入っていた。神奈子はゆっくりそれを飲み、ふう、と一息つく。誇らしげに輝く満月が、静かに境内を照らしている。
「‥‥神楽、始まってから大分たったわね」
「そうね。あなたが思ったより落ち着いていて、何よりですわ」
「落ち着いてるように見えるかな、これが」
「失言だったら謝ります」
「いいよ。実際、落ち着いてないんだから」
「‥‥心配?」
「心配は、してない」
「へえ?」
縁側で彼女の話し相手になっていたのは、紫だった。傍らに酒瓶を置いて、杯をときおり口元に運びながら。二人はそうやって月を見ていた。
障子の内側では、今回の一連の関係者、にとりや霊夢、雛や静葉、穣子が取り留めもない話に花を咲かせていた。ときおり、わっという歓声が上がる。‥‥みな、早苗のことを気にしていない訳ではない。心配していない訳ではない。ただ、そうやってオロオロと待ってなど居たらとても心が持たない。悪い想像だってどんどん膨らむ。だから心配しないで平然と待っていること、すなわち早苗を信じること。それが一番早苗の力になる。それを分かったうえで彼女達はあえて賑やかに過ごしているのだ。昨日、博麗神社で開かれた地獄の飲み会‥‥早苗の壮行会の残り料理なども出て、ちょっとした宴席が出来上がっている。
最初にそうしようと言い出したのは神奈子だった。暗い空気をまとった一同を何とか元気づけ、酒を入れて気分を明るくさせた。一旦うまく会話が回りだせば、そこは幻想郷の少女たち。あとはどんどん賑やかになる。その頃合を見計らって、神奈子は縁側に出たのだ。そんな彼女を、紫が待っていた。
「中は随分と出来上がってるみたいじゃない」
「楽しい酒の飲み方を知ってる子達は違うね。どこでもいつでもだれとでも。たとえ酒がなくたって、“宴会”であればみんな楽しんじゃうんだね」
「それでこそ幻想郷ですもの」
「何でもだれでも受け入れる、か。いいね」
「‥‥一杯いかが?持たないでしょ、素面だと」
「‥‥もらおうか」
神奈子は、紫が隙間から取り出した盃を受け取る。
酌をしながら、紫は神奈子に尋ねた。
「さっき心配してないって言ってたけど、正直、心配じゃないの?‥‥あの子の気配、消えてるわよ。知らない訳じゃないでしょう」
「‥‥」
紫の言うとおり、少し前から早苗の神気は途絶えていた。途絶えた瞬間、紫は早苗が殺されたと思い、スキマを開いて確認しようとした。それを神奈子が止めたのだ。
‥‥ミシャグジの気配はする。まだ“神楽”は終わってない。まだ、手は出さないでほしい―――― と。
心配ではないのかとの紫の問いに、神奈子は少しだけ酒を啜ると、口を開いた。
「心配はしてないよ‥‥気にはなるけどさ」
「そう。あまり変わらない気がするけど」
「あの子なら大丈夫」
「信頼と思考停止は違うわよ。根拠のない希望ならば、それは危ないわ」
「言うね」
「ええ、言いますわ」
「違ったんだよ」
「違う?」
「今までの、一年神主達と、早苗は」
「‥‥」
遠くを見つめ、神奈子は一瞬言葉を止めた。紫は黙って、神奈子が話し始めるのを待っていた。
昼間、神奈子から聞いた昔の洩矢神の事。一年神主がどういうことなのか。ずっと相方の“呪い”を解くこともできず、歯噛みしながら彼女のすることを見てきたという話。それらを聞いたとき、紫は間違いなく早苗は殺されると確信した。しかし、神奈子は違った。あくまでも呑気に穏やかに、「大丈夫」とだけ言った。その時は、神奈子はその理由を言わなかった。
「‥‥アイツが、諏訪子が、生贄とか、彼らとそういう過去を持つ奴だってことを、忘れていたわけじゃない。一番最初のうちに諏訪子を止めなかったのは、私の責任と言われればそれまで」
「でもあなたは止めなかった。なぜ?早苗ちゃんが、今までと違うから?」
「うん。早苗はね、白蛇だったから」
「‥‥それが?」
「ミシャグジ様って、ほんとは赤いの。血のような、夕焼けのような、炎のような‥‥詩を唄ってるわけじゃないよ。もともとはそういう姿」
「でも、あの神様が使ってるのは、白い蛇よ」
「中央の信仰が混ざった結果だよ。神使は白いってね。そういうふうに信仰も広めたしね、私が」
「はあ、なるほど」
紫はそこで、ぽん、と手を打った。
「早苗ちゃんが白蛇になったってことは、少なくともあなたの影響下にもあるミシャクジ様だったってことね」
「そう。少なくとも、私が表に立って信仰を広めた範囲に関しては、ミシャグジ様‥‥諏訪の神使ってのは、白蛇なのよ」
「赤くなくてよかったわね」
「‥‥風祝が、必ずしも一年神主になる訳じゃあない。でも、これまでにもそういう子は一杯居た。赤い服を着せられて、御赤蛇様に捧げられ、喰い殺され、そして諏訪子に‥‥。早苗みたいに、取りつかれた時から白蛇になった者はいないんだ。諏訪明神の神使の姿に。‥‥はしゃいだ私も馬鹿だよね。今考えりゃ。‥‥“明神の神体を成す、神の化身”。ほんとうの、現人神になったって、喜んでさ。能天気に‥‥」
「泣かないでよ?」
「泣きません」
扇でパタパタと神奈子の耳元に風を送り、紫が茶化す。前かがみになりかけた神奈子の背筋と心が、またハリを取り戻す。神奈子はキュ、と口元に力を入れると、紫の方を向いた。紫は今度は茶化さずに、神奈子のまじめな顔を見た。
「大丈夫。あの子は一番風に愛された、守矢神社の風祝ですから。神と風に愛された、明神の神体を成す神の化身だから」
「‥‥営業入ってる?」
「いいえ?」
一瞬だけ敬語になった神奈子の顔を、紫は覗き込む。
照れ臭そうに目を逸らし、杯の酒を啜った山の神の横顔は、どことなく自慢げに見えた。
「それにね」
「それに?」
「可愛い“娘”のことですから」
「‥‥親ばか」
「そうだね」
もう一口酒を啜り、空っぽになった神奈子の杯に紫が酒を注ぐ。
今、横で酒を啜る神奈子は、心配はしていないという。だが分かる。この場で誰よりも早苗のことを心配しているのは神奈子だということを。紫には分かる。必死になって、届く当てのない神力を、ひそかに送り続けていることも。
紫は再度月を見上げる。まだ沈むには、かなり時間がある。月が沈んだ時、結末が分かる。決着がつく。なぜかそう思えた。
――――とっとと沈みなさいよ。空気読めないんだから。
紫にとってこれほどまでに月が憎たらしく思えたのは、月面戦争以来だった。
****************
眼の前で跳ねているのは、いつか食べ損ねたご馳走。
わたしは大きく頭を振ると、低い声で風を呼ぶ。
――――あの祟り神を捕まえなさい!
わたしのお嫁さん。サナエという小さな人間の心と一緒に、わたしはあの祟り神に向かって風をまき散らす。
呼んだ風は渦を巻いて、祟り神を湖に向かって吹き飛ばした。
スワコ、とサナエが呼ぶ小さな守矢の祟り神はくるくると宙を舞うと水面に落ちた。――まるでそこが地面の上であるかのように受け身を取って。
立ち上がったスワコは何事か叫ぶと、水を操り、無数の槍を宙に作り上げた。
負けるな!
サナエの声に頷いて、わたしも槍を作り出す。
地面からうごめき生える無数の槍。
焼けた土よりももっと固い、鉄で練りあげた光る槍。土の中の砂のような鉄を使って練り上げる。
スワコが吠えた。わたしも吠える。
水の槍が飛んでくる。私も鉄の槍を負けじと飛ばす。
水の槍は次々とわたしの鉄の槍に砕かれていく。スワコの顔色が変わった。
鉄の槍はそのまま、スワコへ!
真っ赤な血しぶき。スワコの悲鳴。
やった!
私が喜ぶ。サナエも喜んでいる。真っ赤な私の体の横に、真っ白で綺麗な、白樺のような彼女が寄り添っている。
‥‥結局、私が脱皮したせいで彼女の“人間の姿”は残せなかった。人であることをやめた彼女の心は、全く私達と同じものになった。
ミシャグジと人間達が呼ぶ私達、それと同じに。
その姿は薄く透き通り、私達にしか見えない。人間はもちろん、天狗にも、お化けにも、祟り神であるスワコにだって見えないだろう。
私だけのお嫁さん。
守矢の祟り神をお嫁にし損ねた、いや、お嫁を祟り神にしてしまったバカな昔の私達とは違う。もう彼女は私のお嫁さんになってくれた!
眼の前には鉄の槍で串刺しにされ、湖底から突き出た槍の上でモズのハヤニエのように哀れな姿を晒す守矢の祟り神。
さあ、おしまいだ。
一緒に彼女を助けてあげよう。サナエ。だってサナエは、スワコを助けたくて、私達のお嫁さんになってくれたんだもんね。「カグラ」をして、スワコを元に戻すって。
私達の掛けた呪いを解いてあげよう。サナエが助けてあげたいと思っているから、わたしもそうする。
さあ、アイツを食べてやろう。サナエ!
何千年もの間私達が待ち焦がれた、ご馳走だ!
****************
だらりと垂れさがった自分の腕の先に、ゆらゆらと揺れる水面が見える。
体が動かない。鉄の槍が腹から伸びて水面に消えている。
空気が動いている。御赤蛇様が来る。
わたしを食べるために。
「しつこい‥‥」
血反吐がのどに引っかかって、喋りにくい。体の中はぐちゃぐちゃだ。ここまでされても死なない自分の体。神様って名前の化け物。
いっそこの姿が、見るに堪えない異形だったら。そうすれば、自分は崇め奉られることもなく、妖怪として化け物らしく時を過ごし、あまたの妖怪のように忘れ去られ、消えていられたのだろうか。
あの時、あの蛇は呪いと言った。未来永劫、わたしは生贄。捧げられた時の姿のまま、いつか食われる運命だと。
ふざけるな。
私から両親も、ヒトとしての暮らしも、何もかも何もかも奪っておいて!
私がお前らの贄だ?ふざけるな、ふざけるな!
数えきれないほどケンカをして、数えきれないほどの御赤蛇様を従えた。
いつの間にか私は彼らを束ねる存在になって、私を崇め奉る人々の国が出来上がっていた。
あの女が来てからも、それは変わらなかった。
出雲のお嬢。国津のくせに、どこか高天原の匂いがする、田舎娘。‥‥高天原なんて行ったこともないけど。
いつかあの女に聞かれたっけ。いつまでそんなことを続けるのかと。
やめられないのって。
わたしは何も言わないで、彼奴の頬を張り飛ばした。奴は何も言わなかった。泣きそうな顔をしていた。
向こうもわかっていたのだ。やめたら、どうなるか。でも聞いてくる。私が喰われないために、子孫を蛇の贄にして、さらにそれを贄にしている私の痛々しい姿に我慢できなくなって。軍神のくせに、いつまでたってもお嬢なんだから。やさしすぎだ、バカ。
早苗が喰われて白蛇と混じっても喜んでいたのは、アイツなりの希望でも見つけたからなんだろう。早苗なら大丈夫だとでも思ったか?私に殺されないとでも思ったか?私が早苗に手を掛けるのをためらうとでも思ったか?――今までと、“何も変わらない”のに!
鱗の音がゆっくり近づいてくる。空中を進んでいても響いてくる。鱗同士がこすれる音。
終わりにしようとでも思ってるなら、それは間違いだよ!
――――間抜けな蛇めが!
************
「いやあああああああ!」
「御赤蛇様‥‥さ、早苗えええええ!!」
湖畔の椛と小傘が見たのは、目を覆いたくなるような光景だった。
諏訪子にトドメを差そうと近づいて行った御赤蛇様が、血の泡を吹いて空中で痙攣している。避ける間もなく串刺しにされたのだ。水中から突如伸びてきた銀色の杭に。
自身も串刺しにされたまま、噴き出す御赤蛇様の体液を浴びながら、諏訪子がゆっくりと顔をあげる。金の目の下で、吊り上った口が笑い声をあげている。
「ふん」
諏訪子の低い呟きと共に、彼女を串刺しにしていた御赤蛇様の鉄の杭がぼろぼろと崩れ落ちていく。支えを失った小さな体は一瞬落下したが、すぐに宙に浮いた。
そのまま空中に立つと、すう、と右手を伸ばす。
「――――!やめて!やめて諏訪子様ぁ!」
「うああああああ!」
椛と小傘は諏訪子が何をしようとしているのかを悟り、絶叫しながら諏訪子に向かって突撃する。
諏訪子はそんな彼女達を見ると、にやりと笑った。―――止められるものなら止めてごらん?―――と。
「はああああああ!」
「化鉄『置き傘特急ナイトカーニバル』!!!」
椛は白蛇の刀を振りかざし、目にもとまらぬ速さで空中を駆けながら、水中から次々と伸びてくる銀の杭を迎え撃つ。御赤蛇様を滅多刺しにしようと指揮者のように杭を操る諏訪子に向かって、小傘の弾幕が降り注ぐ。右から、左から、すれ違う光の列が諏訪子に襲い掛かるが彼女は避けもせずに弾幕を浴び続けた。“魅せ”の低威力の弾幕ではない。ありったけの小傘の妖力が込められた、本気の弾幕だ。諏訪子の小さな体は弾幕に揺さぶられ、体当たりする傘達が無数の傷をつけてゆく。それでも彼女の伸びた腕は下がらない。杭を伸ばすのをやめようとしない。
椛もそんな光景を見て、隙あらば諏訪子に襲い掛かろうとするが、杭の迎撃に手いっぱいで、御赤蛇様を串刺しにした杭を切ることすらできないでいる。
「止めて!諏訪子様、やめてえ!」
涙目の小傘が叫ぶ。諏訪子はそのやさしい目に、神奈子を思い出す。
「うあああああああ!」
椛が吠えながら、杭を次々と切り飛ばしていく。そのギラギラとした目はまるで、いつもケンカしていた一年神主――蛇神の贄達――に似ていた。
「ああ、だめだね」
ぼそっと、諏訪子がつぶやいた。
「どいつもこいつもおんなじだ。見たことあるよ」
ぶらぶらと揺れていた左手が天に向けられる。
「私を止められなかった奴らとおんなじだ!」
ぼがん!
「――――!」
「いやあああ!」
水面が爆発する。早苗の爆風ではない。諏訪子が操った湖水が猛烈な勢いで吹き上がり、椛と小傘を吹き飛ばす!
二人はまた湖畔まで押し戻され、砂利の上に思い切りたたきつけられた。ずぶ濡れで地面に横たわり、血に汚れ、うめき声をあげる二人を鼻で笑うと、諏訪子は空中を歩いて、息も絶え絶えな御赤蛇様へ近寄る。
「さて」
「すわ、こ‥‥」
「いやだ‥‥やめて‥‥おねがいだからぁ‥‥」
「まだ喋る元気があるの。大したもんだね。それも御赤蛇様の加護?」
「すわ、こ、さま‥‥」
「見ときな、小傘、椛。ラストだ。“荒神の調伏“、御赤蛇様と私のケンカがいつも最後にはどうなるか、よーく見ておきな」
「こ、このっ!」
「犬は黙って座ってろ!」
「ぎゃん!」
「椛!」
刀を杖にして立ち上がろうとした椛を、水の蛇が襲う。四肢を激しく打ち据えられ、椛は再び這いつくばった。
「‥‥さて、覚悟はいいね?」
――――しゅううううっ!
ニヤニヤと笑いながら問いかける諏訪子の声を聴き、瀕死の赤蛇は弱弱しくも怒りの声を上げる。薄く開いた金の目からは、涙が流れていた。怒りと悔しさにまみれた目を見て、諏訪子の口から暗い笑い声が勝手に漏れ出す。
「ひひひ。今回も私の勝ちだ。悔しいか?え?」
――――しゅううぅ‥‥
「お前らの思い通りにはならないよ。私はお前らのエサなんかじゃない。‥‥そう、エサなんかじゃない‥‥エサは、お前らだ!」
「!」
「!?」
「いただきます」
ず!
ずる
る
る
る
る
る!
る
る
る
る
る
る
んっ
――― ごくん。
****************
その瞬間、空気の匂いが、変わった。
森の中で、狐の娘と狼の娘が毛を逆立てた。九尾と二又が目を見開いた。
湖のほとりで、主人と門番が息を飲んだ。
野原の真ん中で、半獣と蓬莱人が歯ぎしりをした。
竹林の中で。両手足を射止められた少女がにやりと笑った。
人里で、尼公が空を睨み付けた。
丘の上で、魔法使いの少女と人形遣い、花畑の主人が山を見た。
神社で、月を見上げていた紫が、顔を引きつらせた。
「神奈子っ‥‥!」
「わかってる。大丈夫。“ここまでは”一緒」
「ここまでって」
「これは“神楽”なんだ。今までとは、違う」
「‥‥今まであなた達がしてきたことと、他にも何か違うことがあるというの?これは、“神楽”。あくまでも“再発”じゃなくて“再現”だというのね?」
「そう」
「紫!神奈子!」
突然障子が勢い良く開き、霊夢が飛び出してきた。
「なにこれ!何が起きたの!」
「‥‥あら。さすが私の巫女。優秀優秀。ちゃんと気が付いたわね」
「わからいでかっ!何よこれ、いきなり瘴気が消えたわよ!」
「そうね」
「そうねじゃないわよ!」
「‥‥神奈子」
興奮している霊夢の後ろから、静葉が出てきた。さすがに神様といったところか。わめきたてる霊夢と違い、落ち着いている。
「終わったの?」
「いや、まだ」
「早苗ちゃんは‥‥」
「たぶん、喰われた」
「ちょっと!?」
神奈子の言葉に、霊夢が目を剥く。静葉は表情を変えず、小さくうなずいていた。
「ここから、なのね」
「そう。ここから」
月を見上げる。いつの間にか現れた黒雲が月を隠していた。
「がんばれ。早苗」
説明してよと騒ぐ霊夢の声を後ろに聞きながら、神奈子は静かに、柏手を打った。
****************
「あ、あ‥‥」
「ああああ‥‥!早苗‥‥早苗ぇ‥‥!」
「けぷっ」
諏訪子の両腕が、餅のように伸びて御赤蛇様をからめ捕り、風船のように大きくなった頭が、頭から獲物をひと呑みにした。‥‥御赤蛇様を串刺しにしていた杭ごと。
明らかに諏訪子よりも体積が大きいはずの御赤蛇様は、まるで手品のように諏訪子の中へ消えて行った。悲鳴一つ上げることなく。
残ったのは、少しだけ大きくなったお腹をさすり、満足げにげっぷをしている諏訪子だけ。
これが結末?早苗を眷属にするのではなかったのか?本当に殺すのが目的だったのか?一年神主となった早苗は本当にただの生贄だったのか!?いや、そもそも殺されたのか?早苗は一体どこに行った?
二人はあまりの出来事に言葉がうまくまとまらず、呆然と諏訪子を見つめていた。
「ふあーあ。やれやれ、終わった終わった」
「‥‥‥‥」
「‥‥おわったかなー?」
「!」
そんな彼女達に気が付き、諏訪子がゆっくりと視線を向ける。
諏訪子の纏うその空気にとてつもなく不吉なものを感じ取り、椛と小傘が体を震わせた。
じゃり、と諏訪子が湖畔に降り立つ。うつろに光る金色の目で、からからと笑いながら。べろぉりと、長い舌で唇を湿らせながら。
「‥‥くる、な!」
「ひひひひひ!なんだよう、逃げんなよう」
諏訪子が少しずつ歩み寄ってくるが、散々痛めつけられた二人の体は思うように動かず、弾幕の一つも出せない。それでも、刀と傘を杖にして、何とか立ち上がる。
「ひひひ。ひひひひひ」
「こ、このおっ!」
「わああああああああ!」
不気味な笑いをあげながら、こちらに向かってくる諏訪子。恐怖に駆られ、混乱した二人は叫び声をあげながら、それぞれの得物を振りかぶって諏訪子に飛び掛かる。
最後の力を使った一撃だった。しかし諏訪子は両手でそれを難なく受け止めてしまう。
「逃げときゃよかったのになぁ。馬鹿だね」
ばあん!
「くあ!」
「きゃっ!」
ニヤリと笑うと、諏訪子が霊気を爆発させ、二人を跳ね飛ばす。たたらを踏んでよろめく二人の前で、諏訪子は地面に手をついた。
「うん。もう、お前ら喰われてしまえ」
ず、ん!
「ぐ!」
「きゃあ!」
体制を崩していた二人の背中を、地面から突如生えてきた木が叩く。今度は前に倒れそうになった二人は、突然何者かに後ろから抱えられた。
「!?」
「わ、わああ!」
木の根元から生えてきた別の植物が、二人の体を幹に縛り付ける。
椛は力を込めて引きちぎろうとしたが、木も、植物も、びくともしなかった。
体の横に揃えられるように腕ごと縛られたため、あの刀も使えない。
「ああ、ははは。いいね。いい、光景だよ」
両手をだらりと垂らして、諏訪子が立ち上がる。少し傾いだその首の上では、心底楽しそうな金色の目がギラギラと光っていた。
「ほどけ!これ、ほどけ!」
「何をするつもりですか!」
拘束され、必死に身を捩る二人に、諏訪子はじわりじわりと近づいていく。
近づくごとに、諏訪子の纏う冷たい空気が、二人の心臓を縮ませる。
「お贄の柱」
「へ?」
「‥‥は」
ついに二人の近くまで来た諏訪子は、ニヤニヤと木に縛り付けられた二人を見上げてぼそりとつぶやいた。
不穏なその単語に、二人の表情が引きつる。
「まんづ、まづ。良い塩梅だ。二人とも、赤い着物に血の匂い。しかも片方は狼と来た。早苗も喜ぶよ」
「ちょ、ちょっと、諏訪子様!?な、何言ってるんです!何したいんです!」
「わからない?」
「‥‥わかりたくない!」
「けけけ。おまえ、面白い子だね。やっぱり。早苗が気に入る訳だ」
牙を剥き、なおも身を捩り必死に抜け出そうとする椛の隣で、小傘は諏訪子の冷たい目に向かって絶叫する。
小傘の頭の中では、串刺しにされた御赤蛇様‥‥早苗の悲鳴が、まだグルグルとまわっていた。
同じ目に会わないまでも、似たようなことをされるのは間違いない。恐怖に駆られた小傘の歯が勝手にカチカチ鳴り出す。
「せっかくだ。うちの神事を見せてあげるよ。大分簡易的だけど」
「しん、じ‥‥」
ニヤリと笑って鉄の輪を出した諏訪子。この状況で「見せてやる」と言われ、自分たちが暢気に観客をしていられると思える人物がいるだろうか。いるとしたらよっぽどの馬鹿である。小傘は馬鹿ではなかった。
懐から出した鉄の輪を、諏訪子は手の中で飴細工でも作るかのようにコネ始めた。引きちぎられ、ぐにゅぐにゅと形を変える鉄の輪は、そのうち何本もの筒になる。
諏訪子はその筒に指で穴を開け、懐から紐を出して通し、束にすると、がらん、と小傘の目の前にぶら下げた。
「さて、これは何かな」
「え‥‥」
「クイズだ。こっちの活きのいいオオカミはまだグルグル呻ってるから、回答者はお前」
じっ、と自分を見つめる諏訪子の目を、小傘は怯えた目で見返す。
椛は諏訪子の話など全く聞かず、未だに逃げ出そうともがいていた。
椛が動くたび、二人を縛る植物が引っ張られ、小傘の胸がぐいぐいと絞められる。
息苦しさをこらえ、小傘は答える。
「な、なにって、それ、‥‥鈴?」
「ご名答。だけど、まだ足りない」
ニコリと笑うと、諏訪子はがらがらとその鈴を鳴らし始めた。
「『御宝だ、御宝だ』」
「‥‥は?‥‥え?」
「宝物、ミシャグジ様の宝物。『さなぎの鈴』っていうんだ」
がらがらと鈴を鳴らす諏訪子。その顔は、ひたすら無邪気で楽しそう。それは、この恐ろしい祟り神が、おぞましい楽しみに浸っている時の顔であるということを、今夜、彼女と戦った小傘は知っていた。
「なんで『御宝』っていうかわかるかい」
「い、いえ」
「卵みたいだろ。蛇の。“さ”は“小さい”、“なぎ”は“蛇”の古い言い方。“小さい蛇の鈴”さ。どう?」
「たま、ご‥‥」
言われてみれば、その細長い形は蛇の卵のようにも見えた。それならば、確かに蛇にとっては「宝」に見えるのかもしれない。
「うああああ!」と椛が叫び、また二人を縛る木の枝を引っ張る。
「この鈴は何に使うか分かる?」
「‥‥」
ガラガラと鈴を鳴らし、諏訪子は楽しそうに小傘に尋ねる。何に使うのか。小傘には簡単に想像がついた。この状態で蛇が好きなモノの名前を持った鈴を振る。付喪神の小傘には、すごく簡単で分かりやすい答えだった。しかし彼女は答えられずにいた。諏訪子の目を見てしまったから。
「聞いてるかい」
ひひひ、と笑いながら諏訪子が訪ねてくる。満面の笑みを浮かべた顔の中で唯一、目だけが違っていた。
小傘はぽつりと口にした。
「‥‥どうして、泣いてるんですか」
「はぁ!?」
聞いた瞬間、不機嫌そうな声と一緒に諏訪子の表情が険しいものになり、小傘は一瞬だけそれを聞いたことを後悔した。
――――ああ、私の寿命、2分くらい縮まっちゃったなぁ‥‥どうせもう10分もない寿命なんだろうから、関係ないか。
「どうして泣いてるかだぁ?今質問してるのはわたしだ!くだらないことを聞くなよ!答えろ!」
「御赤蛇様を呼ぶんでしょ!私達を食べさせるんでしょ!そんな判り切ったこと!そっちこそくだらないことを聞かないでください!」
「は!なんだと!」
「その目は何ですか!その涙は何ですか!早苗さんを喰って、後悔してるんでしょ!」
「黙れ!」
「後悔するくらいなら、ど、どうしてこんなことを!」
――――あ、しまった。
「黙れえ!」
「ぐっ!?」
下腹に強烈な衝撃が加わり、小傘の視界が一瞬暗転した。諏訪子に殴られたのだ。
はたてから事情を聴かされ、小傘はすでに知っている。諏訪子が贄を求める理由を。御赤蛇様に喰われ、蛇の姿となった1年神主たちとケンカし続けてきた訳を。‥‥御赤蛇様の贄としてささげられ、神となった自分。未来永劫御赤蛇様の贄という呪いを、逆に相手を贄とすることで否定し続けてきたということを。どうしてこんなことを、なんて、一番言ってはいけない台詞だということを。しかし小傘の口は、そのセリフをあっさりと口にした。早苗を、親友を喰われ、悲しみと、そして怒りに染まっていたらしい小傘の口に立てられる戸などなかった。
「唐傘風情が‥‥生意気な口をきくな。決めた。そこまで早苗が大事なら、一緒に居させてやるよ」
「うう‥‥」
痛みで朦朧とする頭を振り、小傘は何とか目を開ける。すこし離れたところに、諏訪子が立っていた。‥‥“あれら”を呼び出すのに、おあつらえ向きなくらいに。
――――がらん、がらん。
諏訪子の振る鈴の音に合わせて、彼女を中心として地面に波紋が走る。それと同時に、地面が墨を撒かれたように黒く染まっていく。
「御宝だ。御宝だ。おいで。ミシャグジ様。贄の柱に、おこう(神使)がふたり。鴉の血と、狼の肉。御頭のお祭りだ」
黒い影が、じわりとその大きさを増す。暗い暗いそれは不気味な洞穴だった。ごう、と音を立てて風が吹き出す。その匂いを嗅ぎ、椛がびくりと体を震わせ、もがくのをやめた。
「神饌はここにある。お前のエサは、ここにあるよ!」
*********************
早苗の周りはどこまでも真っ白な霧に包まれていて、何も見えなかった。
しばらく歩いてみたけれども、何も見つからないし、何もいない。ただ足元だけははっきりと見えた。どこか懐かしい匂いのする、柔らかい草が生えた、野原だった。
もうしばらく歩いてみたい気もしたが、この世界はそういうものだとなんとなく判ったので、そのまま草むらの上に寝転がることにした。
「‥‥あーあ。負けちゃった」
霧は深く、空も見えないが、不思議と明るい。まるで早朝に出ているような、輝くような濃い霧だ。
「お疲れ様でした。‥‥けっこう、痛かったね」
『わたしは、だいじょうぶです。貴女が心配です』
「わたしもだいじょうぶだよ」
お腹のあたりをさする。穴はもうふさがっていた。
一年神主役がこんなに大変だったとは。ちょっぴり覚悟はしてたけど、予想以上に過酷だった。まさか腕を切られたり串刺しにされるとは思わなかった。‥‥最後に、食べられてしまうことも。
自分を食べた―――― 一年神主を御赤蛇様に捧げ、そして斃した―――― ことで、諏訪子の呪いはまた跳ね除けられた。果たしてそれで、諏訪子は救われたのだろうか。いま、彼女はどんな気持ちなんだろ。食べられたということは、わたしはやっぱり死んでしまったのだろうか。ここは、黄泉の国なんだろうか?それとも、高天原?
寝転がったままぼんやりと考える早苗に、また“彼女”の声が聞こえてきた。
『ここは、洩矢神の腹の中。我々の住まう、もう一つのクニですね』
「‥‥あー、ここって諏訪子さまのお腹の中なんだ‥‥」
横から響く声に、早苗はぼんやりとつぶやいた。
「食べられちゃったんだぁ‥‥やっぱり。ねえ、私って、どうなっちゃったんですか?」
『‥‥わたしたちは“カグラ”に負けて、洩矢神に取り込まれたんです』
「いや、そーじゃなくて、死んだのか、死んでないのか、というか」
『今のわたしたちは、洩矢神の一部のような状態です。死んでも、いきてもいません』
「ここからは出られるの?」
『洩矢神に呼ばれるときか、彼女が死ぬときです』
「あー、ほんとーに眷属なんですねえ。うん、だいたい想像が付きました」
早苗はやれやれ、とため息をつく。
これからの自分は、一体どうなるのだろう。スペル戦やケンカの時、諏訪子様はときどきミシャグジ様を呼び出して使っている。自分もそのうち諏訪子様に呼び出されて、霊夢や魔理沙とケンカするのだろうか。
その光景を思い浮かべ、自分は人間でも神様でもない存在なのだという思いが急に大きくなってきた。ゲームのように、召喚されて戦う神の獣。‥‥まさか自分がそんな使い魔になるなんて。
不思議と悲しみは湧いてこなかった。あきらめのような、漠然とした納得感だけが早苗の心の中を覆っていた。――――こうなった以上は、この在り方を受け居るしかないんだ、と。
「‥‥せめて、私の知ってる人とケンカするときはわたしを呼び出してくれないかなぁ。霊夢さんや魔理沙さん、驚くよね、きっと」
白蛇の姿で諏訪子に呼び出され、霊夢や魔理沙に襲い掛かる自分を想像し、早苗はうひひ、と笑った。その声に、ミシャグジ様が戸惑う気配がする。
『‥‥楽しみなの?知ってる人を、襲うのが』
「殺し合いじゃなければね。眷属にしてくれちゃったんだもの。せめて、呼び出したときくらいは知ってる顔に会いたいじゃないですか」
『はあ‥‥』
どこまでも呑気な早苗の言葉に、ミシャグジ様の困った返事が返ってくる。
『でも、なんだかいま、わたし、呼ばれそうです』
「へ?」
『鈴の音が聞こえませんか?あれは、私達を呼ぶ合図の一つなんですよ』
「‥‥‥‥あ」
耳を澄ましてみると、たしかに霧の向こうから鈴の音がする。‥‥それになんだか、美味しそうな匂いも。
その匂いに釣られるように、早苗はふらりと立ち上がった。
「これ、早速のお仕事かな?」
『そうみたいです』
「おお、じゃ、行きますか。ミシャグジ様早苗、初仕事ですよ」
『‥‥すいません』
「は?」
楽しそうな顔をしてよだれを零し、舌なめずりをした早苗に掛けられたのは謝罪だった。
驚いて振り返る。そこには、申し訳なさそうな目をした、ミシャグジ様が居た。真っ白な。
「白い‥‥」
『普段は、この姿です。守矢神社の神使は白い蛇、とヤサカトメが信仰を広めたので』
「え、神様の姿ってそうやって決まるんですか?」
そんなこともあるみたいです。とミシャグジ様が頷いた。ふむ、と何やら考え込む早苗に、ミシャグジ様は驚くべき言葉を口にした。
『ここで、お別れです。サナエ』
「は!?」
『いま、洩矢神が行わせようとしていることは、サナエにとっては悲劇にしかならない。分かりませんか。サナエにも。わたしと一緒になった、あなたなら』
「分かりませんかって‥‥」
早苗は困った声で言うと、また鈴の音が鳴り響く方向を見る。そこにはいつの間にか白い霧の中に黒いもやが浮かんでおり、それがだんだん濃くなっていくところだった。その、黒いもやの向こうから、何種類かの匂いがした。‥‥美味そうな、血の匂い。もっと美味しそうな諏訪子様の匂い。獣の匂いと、古びた木のような匂い‥‥
「椛さん?小傘さん?」
驚いて叫んだ拍子に、口元からヨダレがこぼれた。あわてて拭う早苗に、ミシャグジ様の悲しそうな言葉が聞こえてくる。
『そうです。洩矢神はサナエを使って、サナエの友達を殺そうとしてる』
「殺すって」
『いま鳴っている鈴は、わたしたちに贄のありかを教える時に使うもの。この音の向こうに、サナエの友達がいるということは、贄はサナエの友達。サナエに、友達を食べさせるんです』
「そんな」
どういうことだ?神遊びが終わって、諏訪子は元に戻ったのではないのか?まだ祟り神モードのまま?
驚く早苗を尻目に、ミシャグジ様が黒いもやに向かって進んでいく。その後ろ姿を見て、早苗はあわてて呼び止めた。
「ま、待ってください!一体どうしようっていうんです?」
『私だけが呼ばれて来ようと思います』
「それでどうするってんですか?」
『‥‥サナエが望まない役目をすることはないということです』
「――――!」
『洩矢神には逆らえないのですから』
「私の代わりに、私の友達を殺してくる、と?」
『‥‥こうするしかありません』
「いや、だいたい、私とあなたは結婚したじゃないですか。一心同体ですよ。どうしてあなただけ呼ばれるなんてことができるんです?結局は私も一緒に行くんじゃないですか!」
『サナエは行かなくてもいいんです。‥‥だって、もうお嫁さんじゃないから』
「はあ!?」
さらにとんでもないことを言われ、早苗の顎が外れそうになる。
「い、いつから」
『今です』
「‥‥」
『今この時から、サナエはわたしのお嫁さんではなくなりました。そう決めました。これで、私だけが眷属です。外に行くことができます。サナエは、悲しまなくて済む』
「いや、悲しまなくて済むって、その光景を直接見るか見ないかだけでしょう?」
『‥‥』
「あー、ほんとに、あなたってばどこまで勝手なんでしょうねえ!」
『すいません。でも、こうしないと、あなたが悲しむから。‥‥私と別れていれば、いつか洩矢の神が出してくれるかもしれません』
「だからぁ‥‥!そうじゃなくて!」
その状況はまさしく「いったん眷属になって、ミシャグジ様にお願いして離れてもらう」という、一番最初に願った状況だろう。しかし、今ここでそんなことを言われても、早苗はそれを受け入れる気分にはなれなかった。
『‥‥ごめんなさい』
「あっ、ちょっと!」
ミシャグジ様は早苗の言葉を聞き流すと、黒いもやの方に向かって進み始めた。
「あなた、このまま居なくなる気ですか?私を捨てる気ですか?ここまでしておいて、あんな事からこんなことまでさせといて!」
白い霧の中、背中を向けるミシャグジ様に、早苗の怒号が響く。
「させません、させませんよ!あなたとわたしはもう一心同体なんです!私を助けるために、一人眷属になるなんて、赦しませんからね!」
驚いて振り返ったミシャグジ様の目が、まん丸に見開かれていた。
「一緒にいてもいいと言ってるんです!何遠慮してるんですか!?荒神様が、そんな気弱なことでいいと思ってるんですか?」
ぽかん、と口を開け、困惑するミシャグジ様を、早苗は鼻にシワを寄せてキツクキツク睨みつける。
『それでは、友達を‥‥』
「構わないってんだろうがぁ!ああ!?」
『はひ!?』
思わず、口調がミシャグジ風になっていた。彼女と混じった時におぼえた言葉づかいだったが、それを早苗に植えこんだ張本人が、なぜか怯えた。
「あたしはねえ!そんなこと、とっくに覚悟してるんだよ!気を使ってくれて、ありがとう。でも、私は蛇神の嫁だ!あなたと結婚するって言ったとき、わたしは人間も風祝も現人神も捨てたんだ!いまさら、友達を襲えって言われたって、なんとも思わない!」
『‥‥』
「そりゃあ、ちょっとは食べにくいかもしれないけども」
『なら‥‥』
「優しすぎなんだよ!オマエは!良いから!言うことを聞け!」
『は、はい!』
早苗は眉を吊り上げて、ミシャグジ様を怒鳴りつけた。‥‥椛や小傘を襲えと言われていると知った時、早苗は確かに驚いた。しかし、それはただ単に諏訪子がまだ祟り神のままであるということに対してだ。もやの向こうから漂ってきた匂いを嗅いだとき、早苗の頭に最初に浮かんだのは、「おいしそう」という食欲だったし、その相手が椛や小傘と知った時には「どんな味かなぁ」という思いが真っ先に浮かんだのだ。だからヨダレもこぼれた。今の早苗の価値観は完璧にミシャグジのそれと化している。‥‥自分はもうヒトではない。ミシャグジなのだ。蛇なのだ。早苗はそれを分かっていた。
―――友達を殺させないように気を使うミシャグジ様の方が、ずっと人間臭いじゃん。私の方がずっとケダモノだなぁ。
ちょっぴり、そんなことを考える程度には、早苗に人間らしさは残っていた。
『‥‥』
そんな、蛇女早苗の迫力に押されたか、ミシャグジ様は頭を振ると、おずおずと早苗を見つめ、「いいの?」とでも言いたげに、尻尾を伸ばしてきた。
しかし。
「だが断る!」
「!?」
早苗の身体に尻尾が巻きつこうとした瞬間、早苗は突然大きな声でとんでもないことを言った。
ミシャグジ様は何を言われたのか理解出来ない。真っ黒な目をぱちくりさせて、尻尾が止まる。
「あなたは!一度私の元を去った、別れたんです!私はもうあなたのお嫁さんではない!全ては一からやり直し!仕切りなおし!」
バツマークを描くようにばっ、ばっと腕を振ると、あっけに取られて固まるミシャグジに向かい、早苗は腕を組んでふふん、と得意げな顔をする。
そして、ゆっくりとミシャグジ様に歩み寄ると片膝を立てて膝まずき、手を伸ばして彼女の尻尾の先をそっと手にとった。
「常識に囚われてはいけないのです。答えはひとつだけじゃないんです。私とあなたが一緒に居られる方法は、一つだけではないんです」
『サナエ‥‥』
「さあ、下剋上の時間ですよ」
『へ!?』
「私に良い考えがあります。色々丸く収めるための」
『はあ』
「あなたは、これから私の言うことに従えばいいのです。それで、たぶんうまくいきます」
『‥‥』
ミシャグジ様は、『ホント?』と首をかしげてきた。早苗はそれに「たぶんね」と暢気に答えた。
混乱するミシャグジ様と、微笑を浮かべた早苗の視線が交差する。
「では」
そして、早苗はにこりと笑うと、大きな声で、その言葉を口にしたのだった。
*********************
―――― しゅうううう‥‥
「‥‥神奈子様」
呼び出された蛇神を見上げながら、小傘は弱弱しい声で呟いた。
諏訪子の後ろに佇むのは、白み始めた空を背に、自分の5倍はあるだろう高さに首をもたげた真っ白な蛇。さっきまで諏訪子と戦っていた御赤蛇様ではなかった。どこまでも真っ白な、神々しい白蛇。ただし、その目だけは、御赤蛇様と同じ金色。
白蛇を背にした諏訪子が両手を広げ、モミの木に桑の枝で縛りつけられた赤い衣の神饌達に語りかける。
涙を流しながら。
「一年神主は御赤蛇様と交わり、洩矢、八坂の明神を経て、その体を成す」
「‥‥」
「ここに居るのは我らが僕。守矢の神使。諏訪明神の白蛇なり」
「‥‥」
「さあ、季節外れの御頭祭を行おうじゃないか」
「‥‥諏訪子様」
「洩矢神っ!」
くひ、と壊れた笑いを漏らす諏訪子に、椛が吠える。早苗を自ら手に掛け、贄として喰らった諏訪子の行状からは、正気を窺うことはできない。それは仕える“白蛇の早苗”を殺された神使の椛にしても同じ事。憎しみに染まった目で、諏訪子を睨み続ける。
しかし、諏訪子の両目からこぼれる涙は、少しずつ、少しずつ増えてゆく。それは彼女が正気に戻りつつあることを示しているように、小傘には感じられた。
「早苗‥‥もうちょっとだったね」
つぶやく小傘の目に映るのは、ミシャグジ様の金色の目。その瞳が、クッ、と細くなった。それが彼女のどんな感情を示すのか、小傘にはわからない。
―――― 早苗に食べられるんなら、いいんだよ。
あの、森の洞窟で子狸の身代りに喰われそうになった時のように、すでに小傘は喰われる覚悟を決めていた。
「随分と大人しいじゃないか。小傘」
「――――仕える主人と一緒に“葬られる”なら、道具にとっちゃ最高の最後の一つですから」
「‥‥そうかい」
小傘があえて放った“葬る”という単語に、諏訪子の表情が一瞬曇る。
「小傘っ!」
「これで諏訪子様が元に戻るなら、それは早苗が望んだことでもあるんだよ、椛」
「でも!」
「いこう。‥‥待ってるよ。きっと」
「――――!」
「話は済んだか」
悔しげに唇を噛む椛を穏やかな目で見つめると、小傘は諏訪子に顔を向け、小さくうなずいた。
諏訪子の両目からは涙が流れ、ぽろぽろと零れ落ちている。
「さあ」
諏訪子の右手がすう、と上がる。小傘と椛を指し示す。
「喰え」
ミシャグジ様が、ずるりと動いた。真っ赤な口が、パカリと開く。生臭い息が、二人の肌をなでる。
「う、ううああああああああ!」
「早苗っ‥‥!」
椛が絶叫する。小傘は目を閉じ、背筋を伸ばした。早苗が呑み込みやすいように。
まぶたの外が、真っ赤に染まる。衝撃が、一瞬二人の体を襲い、そして何も、見えなくなった。
―――――― “蛇巫” 神代大蛇 ――――――!
―――― ぐしゃっ!
「ぶはああああ!」
「げほっ!げほっ!」
二度目の衝撃は水音と共にやってきた。
必死になって空気を吸う。隣で椛の咽る声がする。
「な、なに、ここ」
「て、天国‥‥」
「ぶぎゃ!」
「!?」
突然聞こえた悲鳴に、髪にまとわりつくドロドロを振り払い、顔を声のした方に向ける。
袖で顔をぬぐい、ようやく目を開けた時、二人は自分たちが巨大な卵の殻の中に居ることを発見した。‥‥真っ二つに、割れた。周りのドロドロは、卵白だ。
「ふえ、これって」
「卵!?」
「げぶっ!おごっ!」
「何!?」
再び響いた悲鳴。二人はようやく、その発生源を確認する。
‥‥ミシャグジ様が、諏訪子の頭を咥えて、ひたすらに地面に‥‥硬い石畳の上に叩きつけていた。
「‥‥」
「‥‥」
―――― ぺっ!
ずしゃっ!
二人が呆然と見つめる前で、白蛇は諏訪子を吐き出すと、石畳の上に放り投げる。
諏訪子は受け身も取れず、存分に顔面をこすりながら転がっていった。
「‥‥ぐ、あ、あ」
地面に這いつくばり、うめき声を漏らす諏訪子。それを見下ろし満足げに目を細めるミシャグジ様。
二人は何が起こったのか分からず、目を白黒させていた。その時だった。
『――――ふん。他愛もない』
「え」
「あ?」
なんとミシャグジ様が、喋った。次の瞬間!
『――――キャスト・オフ!』
ばりっ!
「!」
「うわっ!」
ミシャグジ様が、突如まばゆいばかりの光とともに爆発した!
卵白でべたつく腕で顔を覆いながら、小傘はさっきの台詞がどこかで聞いたことのあるものだったことに気が付いていた。
早苗んちの、居間だ。“でーぶいでー”だ。
「ふう」
まばゆい光の向こう側から、のんびりした溜息が聞こえてきた。
じゃり、と石を踏む音。
「‥‥あ」
「まさ、か」
ぼろぼろになった小傘と椛が、驚愕に目を真ん丸に見開いていた。
地面に叩きつけられた諏訪子も、しりもちをついた格好で体を起こし、やはり驚愕しながら、光の向こう側を見ていた。
じゃり。じゃり。
足音が、光の向こうから近づいてくる。そう。「足音」が。
まばゆい光が収まっていく。その中から現れたのは、白と青の祭祀服。そして、蒼い袴から覗く二本の細い脚。緑なす髪。
まごうことなき守矢神社の風祝。
「‥‥二足歩行ってのも、久しぶりだと戸惑うものですね」
「早苗!」
「早苗さん!」
「やは」
彼女はすっ、と手をあげて軽く答える。いつもの東風谷早苗がそこに居た。
皆、驚きと喜びと戸惑いで少し目尻の下がった泣き笑いの表情だった。なんせ、完全にミシャグジに呑まれ、ミシャグジとして諏訪子に取り込まれたはずの彼女が、再びこうして姿を現しているのだから。しかも、眷属として呼び出されたのに、まるで関係ないとでも言うかのように諏訪子をボコボコにして。
皆が驚きで動けない中、驚きの元凶である彼女は腰に手を当て、仁王立ちで諏訪子を見下ろしていた。
「さな、え‥‥」
「どうしたんですか。諏訪子様。そんな泣きそうな顔をして」
「早苗、さなえ‥‥さなえええええ!」
たまらず、諏訪子が泣きながら早苗に跳びついて行く。ついに、諏訪子の狂気が消えた。
ああ、これで一件落着かな。そう感じた椛と小傘の間に、安堵の空気が流れかけた。
だが。
「ふん!」
ごあっ!
諏訪子に向かって、強烈な爆風がさく裂した!
「ひゃあああああああああ!?」
「え」
「えー!?」
ぽーん、とボールの様に跳ね飛ばされた諏訪子は、木立に背中から勢いよく叩きつけられる。
ずるずるぽてり、と地面に落ちる諏訪子と、鼻を膨らませて得意げな顔をしている早苗を、椛と小傘はまたしても茫然と見ていることしかできなかった。
「何腑抜けたことやってんですか、祟り神!」
「さ、さな、え?」
「私が欲しいか!」
「‥‥へ?」
にやあ、と腰に手を当てたまま不敵に笑う早苗。諏訪子は背中の痛みも忘れ、きょとんとした顔をすることしかできない。
まばゆい光が、早苗達を照らす。日の光だ。ついに夜が、明けた。
「諏訪子様は確かに、ミシャグジ様を私ごと眷属にしました。が、それは私がミシャグジ様に呑まれている時のこと!」
すうっ、と右手が腰から離れ、人差し指が早苗の顔の前で天を指す。
「今は、逆!私が、ミシャグジ様を呑んでいるのです!」
「そ、そんな、まさか」
「まさかでも八坂でもありません。現にこうしてわたしはここに居ます。入れ子の順番は変わりました。諏訪子様が支配するミシャグジ様に支配される私ではないのです。諏訪子様が支配していたミシャグジ様を支配している私です。よって私はもう諏訪子様の眷属ではありません。呼び出されてさっきは出てきましたが、閉じ込められていただけなのです。うふふ。外に出してくれてありがとうございました。おかげで自由の身ですよ」
「そんな、そんな‥‥ミシャグジ様を、お前はミシャグジ様を従えたというのかい!そんな、私の呪いまで、消したというのかい!」
「ええ。ホレた弱みってのは古今東西人妖神仏関係ありませんねぇ」
「は、はあ?」
「今の私は誰のものでもありません。ミシャグジ様のお嫁さんでも、諏訪子様の眷属でも、そして、風祝でも、ない」
「な、何を――――」
「さあ!勝負です、諏訪子様!」
早苗の言っていることにまるでついて行けず、ただ声を震わせている諏訪子を、早苗の人差し指がビシッと指す。
「かかって来なさい!諏訪子様!今の私は野生の早苗!ミシャグジ様を嫁に迎えた、「白蛇の早苗」!」
「よ、嫁え!?」
「そう!ミシャグジ様は、私のお嫁さん!」
――――「嫁に来なさい!私の嫁に!」
‥‥尻尾の先をぷるぷる震わせていたミシャグジ様は可愛かったなぁ、と、早苗は一人ニヤニヤと思い出し笑いをした。驚愕の表情を浮かべる諏訪子を見下ろしながら。
あの時、白い霧の中で放った台詞。それは、今の今まで一回もなかった、ヒトからミシャグジ様への、「嫁になります」ではない、「嫁に来ないか」というプロポーズ。そして、呪いだなんだというややこしい関係を余計ややこしくしつつもぶち壊す、常識に囚われない一言だった。
‥‥常識に囚われていないのは、ミシャグジ様も同じであろう。なんせ、最初からエサではなくお嫁さんとして早苗のことを見ていたのだから。長い長い時の中で何がどう変わったのかわからないが、結局このミシャグジ様の方も十分「常識に囚われていなかった」のだ。いつかの夢の中で「お前たちはお似合いだ」と諏訪子に言われたのは、十分に的を射ていたのだ。蛇神の百年に一度の気まぐれと、常識を投げ飛ばした風祝の二人は今ここに、ミシャグジ様が人間に嫁入りするという前代未聞の光景を作り上げたのである。
「そ、そんな、そんなことが」
「じゃあ、始めましょうかね!」
「な!?」
「変身!」
早苗の誇らしげな宣言と共に、二本の足が輝きだす。光の中で足は一本に溶け合い、ずるりずるりと伸びていく。
足が伸びていくにつれ、早苗の体が、ゆっくりと持ち上がっていく。金色の瞳の中で、瞳孔が縦に伸び、ゆっくりと裂けた。
「こっちの方がしっくりきちゃいますね、うーん」
「な、あっ‥‥」
再び光が収まった時、そこに居たのはまた下半身を長い蛇の胴体と化した早苗だった。光り輝く白い鱗は、先ほどまでの血みどろの戦いの傷などどこにも見えず、宝石の様に光っていた。
「あははは!」
ぼごっ!
「ぎゃっ!」
呆然と早苗の変身を見ていた諏訪子の真下の地面から、突然長いモミの木が生え、諏訪子を空に吹き飛ばす!
「かかって来なさい諏訪子様!私を従えたいのなら!二度と風祝を失いたくないなら!」
「早苗――――っ」
「ほらあ!さっさと掛かってきな!いつまでも泣きそうな顔してないでよぉ!本気で来なかったら八つ裂きにするぞ!」
「!」
諏訪子の目に、ギラギラとした光が戻る。空中で一回転すると、諏訪子は地面に綺麗に着地した。
髪をかき上げ、早苗を睨み付ける。その口元には、笑みが浮かんでいた。
「はは、ははは」
「むふふ。嬉しいですか。諏訪子様」
「ははは、くそ、涙が、前が、ぼやける」
「あまり気を抜くと飲み込むぞ!」
「へ、へへへ!」
ごう、と早苗が起こした風を、諏訪子も負けじと土塊を盛り上げてしのぐ。
その顔は、涙でぐしゃぐしゃになった、笑顔だった。
「さあ!新しい神話の始まりです!見事この私を調伏して見せなさい!土着神の頂点!」
「舐めんなぁ!このお転婆白蛇が!三倍返しだ、覚悟しな!」
「ふふん!」
ご おっ!
「うわあ!」
「きゃあ!」
風が巻き起こり、小傘と椛を揺らす。今までの風とはまた違う、一瞬ではじける様な風ではない。押しのけ、いつまでも噴き出してくるような、とてつもない量を持った、泉のような風。夜明けの空に、ごう、と音を立てて風が満ちる。
頬をぬぐう瑞々しい風に踊る湖水に、小傘達が見とれている時だった。
「やあ、なんとか、うまくいったみたいですかね」
「わっ!」
「射命丸!?」
「どーも。ってかはたての心配もしてあげてよ」
「あ!はたてさん!?」
「痛いよう‥‥」
「あああ」
いつの間にか二人の後ろに、落された天狗達がにじり寄ってきていた。射命丸は泥だらけの顔で、驚く二人に会釈をする。はたては射命丸に肩を貸され、まだ腹を抑えていた。
「だ、大丈夫ですか、二人とも」
「ええ、ようやく何とか繋がりましたよ。いやはや、ひどい目に会いました。ねえ、椛」
「‥‥すいませんでしたね」
「つ、つながったって‥‥の、呪いは、首輪は?」
「消えてなくなりました。さきほど、綺麗さっぱりと。諏訪子様の心情が変わったってことでしょうね、これは」
「じゃあ」
「ええ、彼女はもう、狂っていない」
しっかりとうなずく射命丸。よかったよかったと泣く小傘に手を貸され、はたてと共に体を起こす。
椛はそんな二人を一瞥すると、気まずそうにまた早苗と諏訪子の方を向いた。
その背中に、はたての不機嫌そうなブチブチとした声がかかる。
「‥‥もみもみはまだおかしいんじゃないの」
「私も一応正気に戻ったですよ」
「ほんとに?」
「ええ」
「‥‥すっごい痛かったんだからね」
「すいませんでした」
「ああ、ほら、まあまあ。はたて、貴女も小傘さんをくびり殺すとこだったでしょうに」
「う」
「あはは。ちょっと、こわかったかなぁ」
「ちょっとしか怖くなかったんならそれはそれでプライド傷つくんだけど‥‥」
まだいろんな意味で腹具合の悪いはたてをなだめつつ、一同は改めて対峙する祟り神と蛇神を見やる。
湖の上空で向かいあう二人。風はますます濃さを増し、水は激しく踊っていく。
「うん。きっと勝負は一瞬です。ここまで来たら、きっとフルパワー、一撃勝負。すごいのが来ますよ。椛!」
「言われなくても」
射命丸の声に、椛が答える。3人の天狗は、一斉に呪文を唱え始めた。
「えっと、わたしは‥‥」
「小傘は見てて!絶対に目を逸らさないで!」
「う、うん!」
「あなたは最後の最後まで、この場で正気を保っていたんです。誇っていいですよ。あなたにこそ、このケンカ、いや、神楽を見届ける役目が与えられてしかるべき」
「サポートはちゃんとするから。風が吹いても目は閉じないで。‥‥いてて」
「はいっ!」
返事をすると小傘は傘を閉じる。視界の向こうに見えるのは二人の神様。早苗と諏訪子。早苗は霊気、いや、神気で青白く光る風を纏い、対する諏訪子も同じく、光る風を纏っていた。
「諏訪子様も風!?」
「おお!ミシャグジ様を纏める土着神の頂点なら、彼らの神性に属するモノが操れても何の不思議もありません。相手の得意技でねじ伏せようというのですね。いやはや。さすが神様。いや、諏訪子様」
「くっちゃべって無いで風作ってよ!」
「はいはい」
「初手行きます」
興奮する射命丸にツッコみを入れるはたて。その横でいち早く呪文を唱え終わった椛が刀を砂に突き刺すと、風の結界を展開する。湖畔の四人が、半球状の風の結界に包まれる。
「二手目!」
「はい、三手目!」
続けざまにはたてと文の呪文が完成。三重の風の結界が、お互いにかき混ぜあいながら外界と4人を遮断する。早苗と諏訪子の呼ぶ風の音が、聞こえなくなった。
目を凝らす小傘は、早苗と諏訪子が何か喋っているのを認めた。が、声は聞こえない。
「な、なんか喋ってる!」
「椛分かる?」
「『さあ、かくごはいいですか。すわこさま』、‥‥『いいよ、かかってこい、さなえ』」
「聞こえるの?」
「読唇術だよ小傘。‥‥来るよ!」
「!」
二人の纏う風が、雷のようにまばゆい閃光を放った!
「―――――!!!!」
どおおおおおおおお!
湖が爆発したと思った瞬間、すさまじい水しぶきが上がり、小傘たちの視界を覆い尽くす。その一瞬の後には、足元の砂浜が爆発した!
「わああああああ!」
小傘の悲鳴が結界内に響く。風の結界を纏っていても響く轟音のせいで、椛も、射命丸も、はたての声も聞こえない。揺さぶられる結界の中で、小傘は一瞬途切れた白煙の向こうに空を見た。結界ごと4人は空に吹き上げられたらしい。結界は足元の砂ごと、球形に4人を包み込んでいた。
目を閉じてはいけない。目を閉じてはいけない。小傘は揺れる結界の中で必死に早苗と諏訪子のいるだろう方向を見続けた。砂煙はまだおさまらず、二人がどうなったかは見えない。
「小傘、後ろ!」
「へ!?」
少し風が弱まってきたと思った瞬間、椛の叫び声が聞こえた。振り返った先、白煙の向こうで金と緑の光がカメラのフラッシュのようにきらめいている。
「早苗!?」
「もう一発!」
はたての悲鳴と一緒に、またもやすさまじい衝撃が結界を襲う。
「きゃあああああ!」
「『一発』じゃなかったんですか!」
「いや私は『きっと一撃』って言いましたよ!」
「ヤバい、割れる!」
「え?」
ばあん!
「――――――!!」
はたての絶叫と同時に、結界内に水煙が吹き込んできた。全身を打ちのめすような衝撃と同時に、小傘の視界は暗転した。
*********************
「――――――!――――がさ!小傘!」
「はひっ!」
聞こえてきた呼びかけに、小傘は無理矢理に目を開く。目の前にあったのは、見覚えのある白い髪だった。
ふわりと浮く感じ、そして空の匂い。二人は空中に居るらしい。ふと視線を感じて横を向けば、隣には小傘の傘が並んで浮かんでいた。小傘は椛におぶわれて、ゆっくり空中を降下しているところだった。
「椛!」
「よかった、起きた!」
「あ、あれ、私、どうなって」
「結界が壊れて、みんな吹き飛ばされた。よかったよ。無事で」
「射命丸さんとはたてさんは?」
「分からない。とにかく小傘を捕まえるのに夢中だったから」
「ありがとう。って、なにこれ!」
椛に礼を言った小傘だったが、ふと自分の足元を見て叫んだ。
眼下には、守矢神社とその湖があった。あったのだが、湖の輪郭がなんだかおかしい。あんなに湖畔の砂浜は広かっただろうか。‥‥いや、水が減っている!
「水が‥‥吹き飛ばされたの!?」
「そうみたい」
「早苗は!?」
「気配はするんだけど、湖に居ない。‥‥空の上!」
「え!」
見上げる小傘の視界の先で、高層雲が円形に弾けた。
「まだ終わってないの!?」
「いや、来る!落ちてくる!」
あまたの雲を引きちぎりながら、白い軌跡が一直線に空から落ちてきた!落下地点は――――
「早苗さん!?諏訪子様に絡みついて、受け身どうするんです、あれ!」
「ちょ、こっちに来るよ!椛逃げて!」
「!」
ぶあっ!
小傘をおぶったまま、椛が慌てて体をひねる。そのすぐ横を、早苗と諏訪子が一直線に落下していった。すれ違う瞬間、小傘は二人の姿を見た。ともにボロボロ。そして、二人とも笑っていた。早苗が下半身で諏訪子を締め上げて、なおかつ取っ組み合いながら。
「早苗っ!」
どごおおおん!
小傘の悲鳴と同時に、白い隕石が湖畔に落下。二人のいる高さまで土柱が上がる。
「椛、行くよ」
「‥‥うん」
小傘は椛の背から降りると、傘を掴んで一気に急降下。椛もそれに続く。
もうもうと立ち込める土埃。小傘は風上に回り込むと、半ば墜落気味に湖畔に着地した。
「さなえーっ!」
声を限りに叫ぶ。砂煙の向こうから、返事は帰ってこなかった。
*******************
「はあっ、はあっ!」
「はあ、あ、あ」
荒い息の音が聞こえる。
ぐわんぐわんと、まだ頭の中でさっきの衝撃が脳みそを揺らしている気がする。
体の上に、重みを感じる。砂にまみれた瞼が重い。頭を振って砂を落とす。開いた視界の先に、諏訪子の涙目があった。
早苗は諏訪子を振り払おうとしたが、手が動かない。早苗はようやく、自分が両腕を投げ出して、磔になっているように湖畔に寝転がっていることを理解した。
「‥‥っはー、はぁーっ‥‥この、お」
「さな、えっ‥‥さなえ‥‥!」
「っはー、はぁー、ちっくしょー、しぶとい、祟り神、め」
「――――!」
祟り神、と呼ばれた瞬間、諏訪子が顔を下に向けた。汚れた金の前髪の下から、ぽたりぽたりと涙がこぼれている。
「‥‥どうした、んですか。また、泣いて」
「っ!」
「泣き虫、だね、たたり、神サマ」
「ううっ、ぐっ」
「‥‥」
「‥‥はあ、あ」
「はは、なんですか。もう、やめて、くださいよ。‥‥こんな、泣虫のカミサマに負けた、なんて、はずかしいですよ?さあ、最後の、仕上げ、です。きっちりやって、くださいな」
「うるせー!」
チロチロと舌を出す早苗に、諏訪子がどなる。ぐしゃぐしゃになった顔を袖でぐいと拭うと、諏訪子は早苗の目を強く見つめた。深く息を吐いて、呼吸を整えている。早苗は、それをニヤついた顔で、じっと見ていた。
「この、荒神めが!」
「‥‥おう」
「この勝負、私の勝ちだと認めるか!」
「‥‥」
「私はまだ、お前を空のかなたにも、大地のはざまにも投げ捨てることができる!幾千幾万の鉄の輪で、お前を切り刻むこともできる!」
「‥‥は」
「もしお前が負けを認めるならば、その命だけは助けてやろう!もしまだ私に抵抗するなら、その体切り刻んで、溶けた大地にばらまいてやる!」
「‥‥ふふ」
「どうだ!認めるか!おまえの、負けだ!」
涙があふれた、真剣な諏訪子の目が、早苗の瞳を睨み付ける。早苗は、しゅう、と蛇の声を出すと、反対にニヤニヤと笑った。
「ふん。悔しいね。体が、動かない」
「認めるのか!」
「‥‥ああ、あたしの負けだよ。‥‥ふん、この、チビ神めが」
「負けた」と言った瞬間、早苗の心に悔しさが湧いた。ただし、色々と吹っ切れたような、すがすがしい悔しさだ。
早苗のその言葉を聞いて、諏訪子がまた、歯を食いしばり、すう、と息を吸った。
「ならば命ずる!これよりお前の主は、八坂神奈子、洩矢諏訪子と心得よ!我らの眷属となり、付き従うことを誓え!我らを護り、命に従い、我らが前に立ちふさがりし、すべての愚かなるものに、我らと共に報いを与えるのだ!」
「‥‥あは、大げさだねぇ」
「いいか!」
真剣な瞳が、軽口をたたく早苗――――ミシャグジ様を責める。早苗は、その視線に押され、どことなく恥ずかしそうに眼を横に向ける。そこには天狗とお化けが居た。二人もまた真剣にこのやり取りを聞いている。それを見ると、また早苗は諏訪子の方を向いた。
「‥‥ああ。わかったよ‥‥諏訪子様」
そういうと、早苗は、ニコリと微笑む。諏訪子は初めて、その笑みに笑い返した。
ついに、諏訪子が、早苗を仕留めた。洩矢神が、ミシャグジ様を、完全な意味で従えた。諏訪子の呪いが、ぶち壊された。
「しょぉーぶ!勝ぉ―負!」
諏訪子が天を仰いで絶叫する。儀式のような、鬨の声。諏訪子は、獲物を手に入れた。早苗という獲物を。二度と、手放すことのない獲物を。そして、早苗の神楽は終わった。諏訪子とミシャグジ様との、全く新しい、結末と一緒に。
隣からは、狼の遠吠えが聞こえてきた。椛が天を仰いで、狼の言葉で「勝負」と叫んでいる。ほどなく、空の向こう、幻想郷中から、獣の声が響いてきた。
――――ミシャグジ様と洩矢神との戦いは終わった。ミシャグジ様は生きている。と。
ざあ、と風が動く。幻想郷中の木々が梢を揺らしたのだ。ごおお、と鳴り響く山鳴りを聞きながら、小傘が横で泣いている。よかった、よかったと言いながら。
ようやく動くようになった腕で恥ずかしそうに頬を掻く早苗の胸に、ぽすりと落ちるものがあった。諏訪子の頭だった。
「早苗‥‥早苗っ‥‥!わあ、あ、あああ!」
「諏訪子、様‥‥」
「うわあ、ああ、うう‥‥、ぐっ、あぁ‥‥!ああああああ!」
「‥‥へへ、奇跡、呼びましたよ」
「うん、呼んだ、呼んだ‥‥早苗、奇跡呼んだよ!」
「‥‥ふふん」
「ありがとう、ありがとう、早苗‥‥私を、私を、こんな、おぞましい神様なんかを‥‥」
「‥‥いいんですって。はは、泣かないでください。こっち、まで、泣きたく、う、なるじゃないですかぁ」
「わああ、ああ、早苗、早苗!もう、離さない、二度と放すもんか!早苗、早苗!」
「諏訪子、様!‥‥ふあ、あああ、よかった、よかった、私、ほんとに、どうなるかって、‥‥うっ、うう、ううう!」
「早苗‥‥!」
「わあ、ああ、あ、ああ、あああ!」
諏訪子の頭を撫でながら、早苗も一緒に泣いた。見上げる夜明けの明るい空はとてもまぶしい。余計に涙がこぼれてくる。なんだか目まで一緒に流れ落ちそうで、早苗は目をギュッとつぶった。
「‥‥さなえ」
「――――!」
ふと横から聞こえた声に、早苗は真っ赤に腫れた目を開く。神奈子がいた。
「よく、頑張った」
「‥‥はい!」
「よかった、よかった、本当に‥‥」
「あは、は」
言うなり目尻をぬぐう神奈子に、泣きはらした顔で早苗は笑った。そして、ゆっくりと右手を上げる。Vサインだった。
「ぶいっ」
「はは、ったく、暢気だなぁ、お前!」
「へへへ」
「よかった‥‥!」
そのVサインにすがりつくように、神奈子が早苗の手を取る。手の下から、小さな嗚咽が響いてきた。
カシャリ、とシャッター音。首をめぐらすと、ぼろぼろのドロドロになった射命丸とはたてが、泣き笑いながらファインダーを覗きこんでいた。
パシャパシャと響く撮影音。疲労感も相まって、なんだかマラソン選手のゴールの瞬間みたいだな、と早苗はぼんやり思った。
――――ぐうう
「あ」
安心した途端、早苗の腹の虫が目を覚ました。その音を聞いた諏訪子が、がばっと顔をあげる。
「さ、さなえ、お前、まさかまだ!」
「はは、いや、諏訪子様を食べようってんじゃないですよ。大丈夫ですって」
「本当かい!?」
「ええ。‥‥なんかおいしそうな感じ、しますけどね。へへ、一回くらい、かじっときゃよかったかなぁ」
「こっ、こーの、不良蛇神め!串刺しにしてやろうか!」
「へへ、冗談ですって。あはは」
「ふふ。じゃあ、用意、しなくちゃね」
「へ」
「ちょうどいい時間だよ。ほら、二人とも。風呂――――は、壊れてるか。水、浴びといで」
母屋の方を見た神奈子が、やれやれと苦笑する。窓ガラスがすべて割れた母屋が、荒れに荒れた鎮守の森の中で、奇跡的にその姿を保っていた。
よく見れば、拝殿や神楽殿も、ところどころ屋根に損傷があるが、概ね無事である。
「うそ‥‥全部、壊しちゃったかとおもってた」
「これも奇跡、かな」
「‥‥ふえ」
ぼう、と遠くを見る早苗の頭をひと撫ですると、神奈子は立ち上がった。そして、パンパン、と手を叩く。一同が皆、振り返った。
神奈子は一同の視線を集めると、ニコリと笑った。
「さあ、みんなお疲れさん。朝ごはん、食べようか。すぐに作るからね」
*********************
空はどこまでも高く、雲一つない空に、昼間の月が浮かんでいる。
どうど、どうどと音を立てて流れる滝の周りでは真っ赤に色づいたモミジが、わさりわさりと風に揺れていた。
妖怪の山は麓よりも少し早く、秋の匂いが漂っていた。
「ふあ」
もう何度目か分からないアクビが、椛から漏れた。
風はゆるく、空気は心地よく涼しく。残暑もこの滝までは襲ってこず、滝の音は耳に心地よい。日陰の見張り台は涼しく、空気は水煙に洗われて、河が運んできた瑞々しい森の匂いをたっぷりと纏っている。思わずあくびも出ようというもの。
「‥‥サボりたいねえ」
むにゃむにゃとつぶやくと、傍らに置いたずた袋から、鹿の干し肉を出して齧る。硬いものを噛むと目が覚める。将棋を指す時間があるほどの暇な哨戒任務だが、寝るのだけはご法度である。
「‥‥‥」
無言でこりこりと筋の多い肉を噛む。これは塩辛い行動食。汗をかいている時ならいいだろうが、動かずにじっとしている時に沢山食べるものではない。のどが渇く。
「ん‥‥」
水を飲もうと手を伸ばす。ずた袋の隣には、竹の水筒が‥‥
――――ひやり
「ふおお!?」
「きゃあ、どこさわってるんですかー」
水筒を求めて手を伸ばした椛の手に、冷たいものが触れ、素っ頓狂な声をあげながら彼女は振り向く。振り返った先に居たのは、ニヤニヤと棒読みの台詞を吐く早苗だった。正座して、膝の間に丸い球‥‥西瓜を抱えた。椛がさわったのは、冷えた西瓜だった。
「ちょ、えええ?」
「わー、驚いた驚いた」
早苗はパチン、と嬉しそうに手を叩く。影もなく音もなく匂いもなく、いつの間にか見張り台に座っていた彼女に、椛は捕食者の匂いを感じた。
「さ、早苗さん、そーいうのよしてくださいってば、ほんと‥‥あー、びっくりした」
「油断しすぎですよー。というか、寝てたでしょ?椛さん」
「ね、寝てませんよ!」
「えー」
「寝てませんってば。‥‥ほんとにもう、蛇に巣を襲われる親鳥の気持ちがわかった気がしますよ」
頭を振り振り、椛がため息を吐く。早苗は、はて、と首をかしげた。
「今日はそんなに気を使って忍び寄ってないんですけどねえ‥‥」
「いつもは忍び寄ってるんですか」
「椛さん驚くとこかわいいんですもん」
「‥‥はあ、私も老いたかねえ。小娘ひとり気づけずに、あまつさえ可愛いとか言われて‥‥」
「はいはい。冗談でもそんなこと言ってると、ほんとに歳とっちゃいますよ?」
早苗はぶつぶついう椛の後ろで、西瓜を見張り台の床に置き、大幣を懐から取り出す。一言まじないを唱え、こん、と西瓜を叩く。はたして、西瓜はまるで手品のように、早苗の手の中で8つに割れた。
「はい、目覚ましに一切れどうですか」
「早苗さんのおかげで目はとっくに覚めましたけどね」
にこやかに西瓜を差し出してくる早苗に、苦笑いをしながら、椛は手を伸ばして一切れ受け取った。
***********
「ねえ、早苗さん」
「はい?」
西瓜をしゃくしゃくやりながら、椛は隣に居る早苗に話しかける。彼女は見張り台の端に腰かけて、足をぶらぶらやりながら西瓜を齧っていた。
ぷ、と種を吐き出して、口の端をぬぐうと椛は言葉を続けた。
「結局、早苗さんはあの時から、変わってしまったんでしょうか」
「‥‥?」
「早苗さんは、今でも風祝を名乗って、神社で神奈子様と諏訪子様と暮らしてます」
「ええ」
「でも、ミシャグジさまと離れることはなかったわけで」
「お嫁さんですからね」
「幻想郷に来た頃の早苗さんと今の早苗さんは同じですか?」
「‥‥いきなり何を言ってるんですか、椛さんは」
「いえ、なんとなくです」
ぺっ、と西瓜の種を吐き、もう一切れに手を伸ばす早苗。椛はその横顔を見ながら、手元の西瓜を一口齧った。
「私は変わってませんよ。今も昔も、ずっと守矢神社の風祝、現人神です」
「そうですね」
「ええ」
「ちょっと蛇っぽくなりましたけどね」
そうですか?と尋ねて口の周りをぺろりと舐める早苗。その舌は、短い人間のものだ。
“白蛇の早苗”騒動は、幻想郷中あれこれお騒がせしたのち、あの夜の神楽を持って、ひとまずの幕引きとなった。
神楽の後開かれた、山をあげての宴会。迷惑をかけた詫びということで、神奈子が開いたのだ。山の形まで変える様な派手なケンカである。関係者一同の脳裏に「追放」の二文字がのしかかったが、意外と、招かれた天狗や河童たちは、頭を下げて酒をついで回る早苗の肩を叩き、逆に酒を注いで、やあやあ、とその労をねぎらってくれたのだ。天狗の里、河童の里、どこも神楽の余波でちょっとした被害は受けていたものの、怪我をした者はおらず、むしろ血の気の多い者達にとってあの神楽は大層気に入られ、次はいつやるのだ、などと言って諏訪子や早苗を困らせる天狗も居た。あの神楽は、天狗達からしっかりと見られていたのである。「名場面集」と銘打った血みどろの写真ばかり集めたアルバムが少なからぬ数出回っており、早苗にサインしてくれとねだってくる天狗も一人や二人ではなかった。
もちろん、警戒する者、非難する者も当然いた。早苗がミシャグジ憑きとなったことで、ますます守矢の力が強まり、天狗への干渉を強めるのではないか、と。“危険”な彼女を、山に置いていていいのか、というわけだ。それに関しては、今度は神奈子と諏訪子が頭を下げて回る番だった。早苗のミシャグジ様は野放しではない。早苗共々、自分たちの管理下にある。利用して、天狗を脅かすようなこともしない。信じてほしい、と。守矢の二柱に直に頭を下げられた天狗達はさすがにうろたえ、渋々ながらもその剣先を収めたのである。‥‥ここでむやみに反発して、万一守矢と険悪な関係となった場合、あの御赤蛇様を要する守矢との諍いである。天狗達も無事では済まないから下手な行動に出るな、との天魔からの政治的通達があったのも、一因ではあるのだが。それを見越したうえで、御赤蛇様を想起させる、あのいつもの赤い装束で頭を下げて回った神奈子は、さすがに軍神と言ったところであろうか。
それじゃ脅してるのと同じですよー、と酒に頬を染めて暢気に笑っていた早苗の横で、この子も怖くなっちゃったなぁ、と苦笑いをしていたのが、椛にはまるで昨日の事のように思い出された。
「さて、と。じゃあ、そろそろ私、戻りますね」
「おや、サボりでしたか?」
「そんなとこです。ほら、来週の、龍神様方の会合。早く着いちゃった方のお世話してるんですけど、まあ皆さんウワバミで」
神楽の前、露天風呂で紫と話した「龍神様蛇神様幻想郷ツアー」は、色々な紆余曲折があったが現実のものとなった。ツアコンはもちろん、「多分最も若き蛇神、東風谷早苗」である。
「はは、そりゃ、龍ですからねえ」
「お酒ばっかり飲んでて火照っちゃったので、涼みに来たのですよ」
ぱし、と膝を叩いて、早苗が立ち上がる。ぱたぱたと上着をはたき、心地よさそうに風を入れている。
「西瓜、食べてください。まだお仕事終わりまで、大分あるんですよね?」
「ええ。有難くいただきますね」
「それ、龍神様のお土産なんで、心して食べてくださいね」
「うえ!?」
とんでもない台詞に、思わず椛は手に持った西瓜の皮を取り落としそうになる。
「九州は指宿、池王明神様のお土産です。なんでも、幻の西瓜だそうで」
「そーいうのはもっと早くいってくださいよ!たしかに美味しいと思ったけど、そんな謂れがあるんならもっと、こう‥‥味わってとか」
「美味しいものは一番おいしい食べ方しなきゃですよ。がっつくべきです。幻だろうがなんだろうが、冷えた西瓜はガブッと行かなきゃ美味しくないでしょう」
「むう」
「それとも、羊羹みたいにひと匙ひと匙ちょこちょこ食べたかったですか?」
「それは美味しくないです」
「でしょ」
じゃあ、と笑うと早苗は見張り台を蹴って空に浮く。滝の下から渦を巻く風が吹き、手を振る早苗をあっという間に空の上に連れて行った。びゅう、と吹いた涼しい風に吹かれ、椛の白い髪がさわりとなびく。
「‥‥変わんないですね。貴方は」
むふ、と笑うと、椛はもうひと切れ、西瓜に手を伸ばした。
流れ落ちる水音の向こうに、カッコウの鳴き声が響いている。
今日も滝は平和だった。
*********************
「あー、暑い。いいなあ、気持ちよさそうだなぁ、あいつら」
「かなちゃんも混じって泳いでくればいいのに」
「狭いからいいよ」
「出雲公認の“ナイスバディ”を披露してくれないの?」
「‥‥“でかすぎるから無理して来なくてもいいよ”ってのはそう言う意味じゃないんですけどね」
「でもほら、気持ちよさそうですわよ?」
「あのなかで泳ぐのはちょっと」
神奈子はそう言うと手元の升をぐいとあおる。すかさず横から、紫が冷えた酒を注ぐ。神奈子は礼を言うと、今度は紫に返盃する。湖畔の鎮守の森の木陰でござを敷いて涼みながら、二人は湖で龍神や蛇神達がどんちゃん騒ぎをするのを見ていた。
紫と早苗の呼びかけで集まった全国の龍神たち。幻想郷らしく人間の姿で水遊びをするもの、本来の姿で鱗をきらめかせて気持ちよさそうに泳ぐもの、大笑いしながら酒をまき散らしつつ煽るもの、皆それぞれの楽しみ方で幻想郷バカンスを楽しんでいた。諏訪子もこちらで酒を飲まずに、水遊びに参加している。普段着のままでバシャバシャ水遊びをしている姿だけ見ていると、あの血みどろのケンカをした祟り神とは到底思えない。
本来の会合は明日の夜なのだが、早めに着いた者たちはこうして昼間好きなように湖で遊んでいる。ここで開かれる会合と言っても、そんなお堅いものではない。近況を話して、酒を飲んで夜更かしする程度で、大して真面目な会ではない。合宿と言っていいだろう。そのユルさが宴会好きの神様達には受けたらしく、最初、おっかなびっくりお誘いの手紙を持って行った早苗に、皆二つ返事で参加を了承したものだ。
この会を開くまでの紫と神奈子、早苗の苦労は並大抵のものではなかったが、楽しそうな彼らの姿を見ているとその労もねぎらわれる気持ちになる。‥‥参加者集めはすんなりいったとはいえ、そのほかに幻想郷の龍神へのお伺い、山の湖を会場にすることについての天狗や河童たちへの説明と根回し、神様達が一時的に結界を通り抜けするための結界式の改造、主が一時的にいなくなる湖や川周辺の土地神への説明etc‥‥。時にお山を、時に外の世界を駆けまわり、企画運営担当者達はどうにかこの会を開くところまでこぎつけた。
「しかしとんでもないことウチの早苗に吹き込んでくれたもんですわ」
「え?」
「この会のこと。発案、あんたなんだから」
ぐびりと、トロトロに冷えた濃い原酒を升で煽りながら、神奈子は紫をじとりと睨む。口元に笑みを浮かべながら。紫はパサリと扇を一振りすると、あは、と口元を隠した。あの神楽の前、博麗神社の温泉で。紫はこの龍神会合の話を口にしたのだ。
空になった神奈子の升に酒が注がれる。神奈子はぐい、とそれを飲み干すと、「そうだったよね?」と紫にもう一度訪ねた。紫は自分の杯が酒で満たされるのを待ってから、チョッ、とそれを舐めると口を開く。
「懐かしい話ですわ。いえ、あの時はあの子に元気を出してもらいたくて、楽しそうなことを言ってみたんだけどね。まさかね、ほんとにやるとはね」
「冗談だったの?」
「まるきり冗談というわけじゃなかったんだけど‥‥」
「ウチの子の行動力を舐めたね」
「‥‥うん。ちょっと、軽率だったかも」
「すごいよなぁ」
「少し怖いくらいにね」
二人は湖で遊ぶ神様達を見る。あれらは、周りの手助けがあったとはいえ、早苗が呼び寄せた光景である。
「‥‥その内、異変でも起こすんじゃないかって、心配だよ」
「あら、むしろ起こした方が良いんじゃないの」
「へ?」
「このまま行けば、あの子への信仰はどんどん大きくなるだろうし。そうすれば、山の力もどんどん大きくなる。麓と山の諍いだって起きるかもしれない」
「‥‥そうなる前に前もって異変を起こしておいて、博麗にとりなしてもらうわけね」
「そ。形式的には退治という形をとって。あなた達がここに来た時と同じよ。一回博麗に負けておけば大丈夫」
「わざと負けるかねえ、あの子。‥‥いや。むしろ面白がるか」
「ノリノリで悪役やるでしょうね」
「きっとね」
襟を立て、黒いマントをたなびかせ、牙を見せて高笑いする早苗の姿が、二人には容易に想像できた。
「それ、言うタイミングを気を付けてね。‥‥なんか、早苗がそれ聞いたらすぐにでもやりそうな気がする」
「同感ですわ」
「それはいいことを聞きました」
「!」
「ぶっ」
いきなり後ろから早苗の声が聞こえ、紫と神奈子は盛大に酒を噴き出した。
振り返れば、いつの間にかすぐ後ろに正座して、ニコリと笑ってこちらを見つめる風祝。
酒にまみれたござをぬぐうのも忘れ、神奈子は目を丸くしてあっけにとられていた。隣には、酒を吹きかけてべちゃべちゃになった扇を持ったまま、同じく目を丸くしている紫が居た。
「おおお、お前、いつから!」
「たった今です。お酌してあげたのにお二人とも気づかないんですもん。さては相当酔ってますねぇ」
「え、あれ、このお酒注いだの紫じゃないの?」
「‥‥神奈子、一体この子どうなってるのよ。最近とみにハイスペック化してきてない?‥‥どうしよう。全然気が付かなかった」
「ご、ご冗談を、妖怪の賢者殿」
「いえ、割と本気で」
「だから呑みすぎだったんでしょう?それより、面白そうな話をしてましたね!」
「ナンノコトカシラ」
むふう、と鼻息も荒く紫ににじり寄る早苗。妖怪の賢者は一筋の汗を垂らしながらくるりと顔を逸らした。
「あ、とぼけるんじゃないよ!」
「とぼけてませんヨ」
「異変ですよね!私が黒幕の!任せてください!バッチリやりますから!」
「管理者の眼前で異変実行宣言しないで!」
「いいだしっぺお前だろうに!」
「筋書きはどうしましょう。うーん。幻想郷征服をもくろむ恐ろしき神様の挑戦状、は、ありきたりだし、ここはひとつレミリアさんのオマージュで霧の代わりにミシャグジ様らしく瘴気を幻想郷中に」
「やめてそれは止めて早苗ちゃんほんと」
「えー」
「だめ!こんどこそ死人がでるわ!あのときだって、森が精気吐いて、瘴気をある程度中和してたからよかったようなものなのよ?実際、暴走しかけた妖怪だっていっぱいいるし!早苗ちゃんも聞いたでしょ、里の外のこと!ハクタクがんばってたんだからね!」
「大丈夫紫さん。控えめにしますから。あ、そうか。瘴気の代わりに森にお願いして精気でもいいかも。うん。幻想郷ベビーブーム異変。これなら死人も出ないし逆に人も増えます」
「頼むから、頼むからやめてミシャグジ様!このままだと私貴女に3次元モザイク掛けなくちゃいけなくなるから!ご立派すぎて!」
「冗談ですってば」
「早苗ちゃんがいうとなんか冗談に聞こえないのよ!」
「そらあ、ミシャグジ様は子孫繁栄も受け持ってますからね。ある意味本職ですし」
「お願いだから、もっとソフトに」
「冗談ですって」
ぶー、とふくれる早苗を横目に、紫と神奈子は深い溜息を吐いた。
そんな彼女らの様子に気づき、湖で遊んでいた諏訪子が走り寄ってくる。
「おおう、なになに、なんか楽しそうじゃん、どったの?」
「何でもない、何でもない」
キラキラと目を輝かせて訪ねてくる諏訪子を、神奈子は疲れた顔で手を振り、追っ払おうとした。
しかし紫が早苗の口をふさぐのが遅れた。ニコニコ顔のミシャグジ様は最小にして必要十分な燃料を祟り神に投下する。
「異変をするんです!神遊び再び!もがっ」
「あ、こら!」
いったん早苗の口をふさいだ紫だったが、早苗の台詞を聞いてキラキラからギラギラに変わった諏訪子の目を見て、致命的な台詞をキャンセルできなかったことに気が付き、力なくその手を降ろしてしまった。
「おおー!え、なになに、早苗がするの!?なんでまた?」
「ぶは。ふふふ。ここらでミシャグジ様らしく畏れをばらまいてもいいかなぁ、と。最近は異変もあんまガツンとしたのがなかったですしねー。一発博麗に気合を入れるのもいいですし」
「それは素敵な話だね!どうするの?とりあえず何人か人間攫う?喰っとく?ちまちまやんないで里襲う?」
「あ、それはインパクトありますね」
「却下!却下よこの祟り神共!それに趣旨変わってるし!」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ湖畔の様子に、湖で遊んでいた神様達も何事かとそちらを向く。彼ら彼女らの視線の先では、目を吊り上げた妖怪の賢者が早苗のほっぺをぐにぐに摘まんで揉んでいた。
諏訪子がその様子を見て、紫の手を抑えながら楽しそうに笑う。
「おお、ははは!ほら、早苗、神様達も興味津々だ。いっそのこと全員神様でやってみる?龍神蛇神守矢神社に大集合!あんまり酒飲んで大騒ぎしすぎて幻想郷の天気はしっちゃかめっちゃか、もう大変!とか」
「それを博麗がシメていく、と。うーん。暢気で”らしい”筋書きですが、相手が全員酔っぱらった神様じゃあ単調ですねえ。‥‥小傘さんと椛さんも巻き込みますか」
「通りすがりの村人役ね」
「小傘さんはその道のプロですから」
「よーし、皆の衆!ちょっとお集まり願おうか!」
「もう、ダメだね」
「‥‥そうね。ああ、辰子姫様があんなに目を輝かせてる」
神奈子と紫の頭をズキズキと襲う痛みはきっと酒のせいではない。にわかに盛り上がり始めた神様達は、諏訪子の一声で砂浜に車座になってワイワイやり始めた。真ん中に居るのは早苗である。てきぱきと異変について説明し、意見を募って司会をするさまはまるで学級委員である。「はいっ!」と挙手して立ち上がったのは剣山の大蛇様だ。その隣では辰子姫が目を輝かせ、旦那の八郎が呆気にとられている。
「天魔に話し通しておかなきゃなぁ。また、大変だぁ」
「‥‥はあ。ま、どうにかなるでしょ」
「管理者がそう言ってくれると心強いね。平穏無事。問題なし」
「違う!どうにかすんのよ!どうにかするからどうにかなるの!わかってるの!?」
「分かってるって。わかってる」
「もう」
ばしばしとゴザを扇で叩いた紫は、ため息をつくとぐいっと酒を飲み干す。そのまま手酌で空の杯にもう一杯、二杯。気合い入れてるの!とは頬を染めた紫の弁である。神奈子は暢気に、たははと笑いながら一口酒を啜る。
「でもまあ」
「んん?」
「みんな、楽しそうで何よりじゃない?」
「‥‥ほんっとー、呑気よね、貴女」
「神様ですから」
「そういう問題?」
「山の神様がぶれてたらダメさ。どっしりしてなきゃ」
「‥‥」
「?」
「‥‥そうね」
あの夜の不安を押し隠した神奈子の顔を、紫は思い出した。今目の前にあるのは、不安など微塵も感じられない、頼れる神様の顔。紫はクスリと笑うと、さっき酒を吹きかけてすっかり素敵な匂いのするようになった扇をパタパタあおいだ。
「‥‥ま、そういうことにしといてあげましょう」
「うん」
背後の鎮守の森の蝉が、一段と大きく声を張り上げる。
二人は、神様達の真ん中で天を指さし熱弁をふるう早苗の姿を肴に、また酒をグビりとやったのだった。
***************
「というわけで、なにとぞ大祝殿にもご協力いただきたく」
「あはは。こりゃあ、ミシャクジ様も相変わらずですねえ‥‥はい。分かりました。謹んで、お役目を引き受けさせていただきます」
「今回は大婆様はゆっくりしててください。もろもろはこっちで引き受けちゃいますから」
「はいはい。ゆっくり見物させてもらうとしますか。じゃあ、あとはうちの子をよろしくおねがいしますよ。おこう様」
「ふふ、あの子もこれで異変デビュー戦ね。いやー、ついに来たかぁ」
「早いねえ」
「早いですねえ」
人里のとある民家。縁側の日陰で涼んでいた老婆は、小傘が持ってきた書簡に目を通すと、目尻の皺をますます深くさせて楽しそうに笑った。小傘も、それに合わせて笑う。彼女達の周りでは、モミの木や杉の木が高くそびえ、小さな森を作っていた。向こうには、白樺の木で組んだ真っ白な鳥居が見える。その向こうに広がるのは、深い緑に染まった夏の田んぼ。
ここは神社だった。老婆も、白い千早に紺の袴を身に着け、この社の神職であることがみてとれる。
「今回、里と森の分社、どっちもこの異変騒動に参加することになってますから。まあ、森のあの子とタッグなら、大丈夫でしょということで」
「そうですねぇ。合わせの稽古はすぐにでも?」
「早い方がいいよね。私これから森の方行って話をしてくるんですけどね。早苗、燃えてるよ。“今回は難易度MAX!全部ルナティック!”とか吠えちゃって」
「まあ。それは大変。あの子の腕じゃあ、狂気どころか呑気な弾幕しか張れないわね」
「最近はそうでもないみたいだけど?こないだ、私から1本とったし」
「小傘ちゃんから?それは、不安ね」
「ひどっ!」
「ほほほ」
「あはは」
老婆と一緒に、小傘もまた笑う。老婆はそれこそ髪は白く、皺は深いが、背筋はシャンと伸び、時折見せる真剣な目つきはまるで巫女というよりは狩人のようにも見えた。唐傘お化けはひとしきり笑って老婆との会話を楽しんだのち、ではまた来ますからと手を振って鳥居をくぐっていった。老婆もニコニコと笑いながら手を振る。お化けの姿が見えなくなったと思ったその瞬間、後ろの障子が、小さくコトリと揺れたかと思うと、すぱあんと勢いよく開いた。
「お、おおおおお」
「だ、そうですので、しっかり稽古すること」
「お、おばあちゃん!?今の話マジなの!?わた、わたしが異変に出るって!」
「マジですよ」
「えええええ!」
老婆のにこやかな返事に、少女は頭を抱えて絶叫し、そのまま、ぺたんと老婆の横に座り込んだ。
少女は老婆と同じく真っ白い千早に深い紺色の袴を身に着けている。髪は肩の上でばっさり切っていて、長すぎず短すぎず、活発そうな印象を与える。
「おかえり。寺子屋はもう終わったのかい。早かったね」
「今日は土曜だから午前で終わり!ね、おばあちゃん、さっきの話、ほんとにほんと?」
「ええ、ホントです。おまえももう12になったんだし、そろそろいい頃合いでしょう。ケンカ(弾幕ごっこ)のやり方ぐらい覚えておかなくては」
「えー‥‥わたしもうちょっと稽古してからが良い。まだうまく飛べないし‥‥」
「うまく飛べるようになるのです。期日は‥‥ああ、まだひと月あるじゃない。大丈夫よ」
「えええ!たった一か月!無理!絶対無理!でーきーなーい!」
「できない?」
「うん!」
「絶対無理?」
「ムリムリムリ」
少女は顔の前で手をぶんぶん振って、必死になってアピールする。老婆はもう一度書簡に目を落とす。そしてその隅っこに掛かれた文章を読み、顔をあげて少女のその必死な姿を見くらべ、ニヤリと笑った。キンキン底冷えのする恐ろしい笑みに、少女の手が止まる。
「え、おばあちゃん、なに」
「残念ね」
「そ、そう!出来ないの!残念だなぁ!あはは」
「貴女と今日で、ううっ、お別れなんて」
「え゛」
突然ワザとらしい泣きまねを始めた老婆と彼女の吐いた不穏な台詞に、少女の頬を一筋の汗が伝う。「ちょっと、おばあちゃん」と少女は膝立ちになって老婆の肩をゆする。
「だって、だって、お前がミシャグジ様の言いつけを破ってしまうんだから‥‥怒りに触れてしまうのだから」
「ちょっと、わたしまだ何もしてない」
「ええ、してないから‥‥」
「え」
「‥‥『ムリとかできないとか駄々こねたらその日のうちに御頭祭ですヨ♪』だ、そうですよ。ああ!残念ね。今晩おまえ、ミシャグジ様の晩御飯決定ね」
「え、ちょっと、え、まって、なにそれ」
「ほら、ちゃんと書いてるでしょ」
そういって老婆は書簡を少女に渡す。少女は老婆の手からそれをひったくるようにもぎ取ると、必死になって中身を読んだ。「ここよ」といたずらっ子っぽく笑いながら老婆が書簡の端を指さす。そこに書いてある一文は、まさに老婆が今言った通りの内容であり。その一文を読んで、少女の頬に一筋の汗が流れる。
「冗談、だよ、ね?」
「さあ?」
「さあ、って、おばあちゃん!」
「あれあれー、里の分社は参加しないんですか?ミシャグジ様に食べられちゃいますよー?」
「!」
突然かけられた暢気な声に、少女がびくりと顔をあげる。鳥居をくぐって境内に入ってきたのは、巫女の姿をした2人の少女だった。ただし、片方は狐の耳を、もう片方は狸の耳を持っている。狐の方は背が高く、少女と大人の真ん中くらいの顔つきである。狸はそれこそ少女と言った感じで、さっきから騒いでいる人間の巫女と同じくらいの歳ごろにみえる。
老婆は笑いながら、客に向かい会釈をした。
「あら、いらっしゃい。おこう様はもうお見えになったの?早かったわね」
「いえ、たまたま今日、こっちに伺おうかと思ってたとこでして、途中で会ったのですよ」
狐の耳の方が、にこやかに笑いながらぺこりと頭を下げる。長く伸び、後ろで一括りにまとめられた金髪が、お辞儀に合わせてさわりと垂れた。
その横で、狸の耳の少女も、ぺこっ、と頭を下げる。
「こんちは、サチばあちゃん」
「はい、こんにちは」
「サチばあちゃんにお土産。はい、山芋」
「あら、ありがとう!」
隣の狸の少女は、手に持ったぼろ布の包みを開くと、土だらけの山芋をサチと呼ばれた老婆に見せた。そして、老婆の後ろで肩をゆする人間の少女に、「ねえ」と声を掛ける。
「ね、ほんとにやんないの?怒るよ?ミシャグジ様」
「いや、やらないって決めたわけじゃなくて、もうちょっとだけ、練習を‥‥」
「そう言ってるとほんとに来るんですよねえ、ミシャグジ様」
「そうよ。来るのよ。そして八つ裂きにしちゃうのよ」
「え」
皆の本気な目に、少女はうろたえつつも叫ぶ。
「ちょっと!みんなからかってるでしょ!そんなこと」
「そんなこと?」
くるりと振り向いた老婆の目は、真剣だった。少女はおもわずつばを飲み込む。
「そ、そんなこと、しない、よね?」
「しますよー。ミシャグジ様ですもん」
「えっ」
暢気そうな狐娘の返事に、少女は一瞬絶句する。
「私も若いころ何回喰われそうになったことかー。ペラペラ余計なことばっかり喋ってねー」
「あんたのその姿で若いころなんて言われるとなんか切なくなるねえ」
「あ、いやいや大祝様気にしないでくださいって」
「ね、ね、マジ?ほんと、なの?」
「ええ、聞きましたよね?この神社の謂れ。大祝様や、私や森の動物を護って戦った、“白骨沼の戦い”のこととか、山の神様との“御赤蛇神楽”のお話とか」
「うん‥‥」
「なら、余計なことは言わないことですね。ミシャグジ様、いいお方ですけど、ホントめっちゃおっかないんですから」
「ほら、おまえ、見えるだろ、あの山のてっぺんのあたり。山がえぐれてるだろ」
「うん」
「‥‥これで反応なしってことは前に話したのに覚えてないね。あれは、“御赤蛇神楽”のときにミシャグジ様が吐いた風で山が吹き飛んだところなんだよ」
「いや、知ってるしおぼえてるんだけど、いまいち実感わかないなーって。ほんとにあれミシャグジ様がやったんだ」
「やれやれ、不信心な巫女だよ」
信じてないわけじゃないよ!と反論する少女に、ようするにですねと狐娘が話を続ける。
「私ら先輩の話は聞いておくものです。いいですか」
「‥‥はあい」
「私も一回ミシャグジ様に食べられそうになったんだってお兄ちゃんから聞いたよ。あんまり覚えてないけど。生け贄にされるとこだったんだって。“白骨沼の戦い”のときに」
「え、マジ?」
「うん」
さすがに狸娘まで言ってくるとなると、ますます納得せざるを得ない。少女は気が付けば握りっぱなしだった手紙をもう一度みる。『御頭祭ですヨ♪』と書かれた文字は丸く、かわいい。少女だって、全くミシャグジ様を恐れていない訳ではないし、むしろ老婆たちと同じように畏れる心を持っている。でもその可愛い文字をまじまじと見ていると、いまいち実感が無くなるのだ。以前一回会ったとき、彼女が少し年上のお姉さんといったような人間の姿をしていたのも影響している。
「でも‥‥‥」とごにょごにょ口をとがらせる少女に、狐娘がうふふと笑いかける。いつの間にか、老婆も、狸娘も、みんなが少女を見つめてニヤニヤしていた。うろたえた少女は、追い詰められ、ついに覚悟を決めて叫ぶ。
「あーもー!やる!やります!やってやろーじゃん!」
「お!やったー!がんばろーね!」
むきー、と叫ぶ少女の手を、縁側に飛び乗った狸娘が取ると嬉しそうに跳ねた。
その横では老婆と狐娘が苦笑しながらよかったよかったと言っていた。
「よかったですねえ、大祝様」
「ええ、孫のはらわたの酢味噌和えなんて恐ろしい料理見なくて済んだわね」
「す、酢味噌和えって」
ヤケに具体的で恐ろしい老婆の発言に、少女がツッコもうとした、まさにその時だった。
――――残念だなぁ。柔らかい女の子食べれると思ったのに。
「――!」
静かに鎮守の森の中に響いた声に、一同が沈黙する。
遠ざかっていくしゅるしゅるという鱗の音が、鳥居の方から聞こえ、少女は目を見開いて音のした方を凝視する。しかしそこには何もいなかった。
「ほら、ね」
ちょっぴり顔を青くした狐娘が、少女の方を見て、引きつった笑みを浮かべる。
少女はごくりと唾を飲み込むと、ひと月後の初陣に向けて本気で修行しようと、硬く心に誓ったのだった。
そんな皆の様子を、藪の中から見つめている者があった。
「ざっと、こんなもんですよ、小傘さん」
「うう、どーして本職の私より早苗の方が驚かすのうまいんだろ、納得できない」
「そりゃあ、わたしはなんたって白蛇の早苗ですから」
「チートじゃんそれ。それに、もともとの気がするけどね」
「えー」
「早苗どSだもん。いてっ」
「失敬な。こんな純粋な巫女を捕まえてどSとは何事ですか」
「‥‥ほんとにそう思ってる?」
「いいえ?」
「即答っ‥‥!」
怖いわー、この子ホント怖いわーとつぶやく小傘。早苗はその横で、これから自分が巻き起こす騒動を想い、空を見上げて舌なめずりをした。
早苗は、その見上げた空と、暑い夏の匂いがいつか見た夢の光景に似ていることに気が付いた。
甘い草いきれを吐く藪の中を、早苗はそっと見渡す。遠い記憶の中で、白い蛇が早苗を見つめている。
「逆になっちゃいましたねえ」
姿の見えない彼女に、小さい声で早苗は呟いた。そして、いまだに青い顔をしてきょろきょろあたりを見回す巫女の少女を藪の中から見つめ、しゅう、と舌を出して微笑んだのだった。
*********************
人の立ち入れない、妖怪の山の天辺に、大きな神社がある。
その神社の名前は、守矢神社。山の神八坂神と、大地の神洩矢神、そしてミシャグジ様という蛇の姿をした荒神様を祀っている。
時々、天狗の書物の中にその姿を見ることができるが、行ったことのある者はほとんどいない。
あるとき、麓の里に住む少女が妖怪に襲われたとき、少女を哀れんだミシャグジ様は風を呼び、水を吹き上げて妖怪を追い払い、里と少女を護った。
あるとき、麓の森にすむ動物達が恐ろしい熊の妖怪に皆殺しにされそうになった時、ミシャグジ様はまたも風を呼び、水を操り、森と動物達を護った。
しかしミシャグジ様はもともと恐ろしい神様で、守矢の神社に居た巫女の少女を生贄にして食べてしまった。それを悲しんだ洩矢神が山の形を変えるほどのすさまじい戦いをし、ミシャグジに巫女の少女を吐き出させ、八坂神と洩矢神がミシャグジ様を抑えつけて、二度と暴れないように殺そうとしたという。
しかし、ミシャグジ様に護ってもらった少女と森の動物達はミシャグジ様をなだめ、守ってもらったことを感謝して、里と、森のそれぞれに神社を立て、ミシャグジ様をお祀りしたのである。
これが現在、御早白蛇(みしゃぐじ)神社に伝わる縁起の大まかな内容である。
里の神社は、少女が守ってもらったときに持っていた鎌をご神体とし、森の神社はミシャグジ様に食べられたという巫女が持っていた大幣をご神体として祀っている。
稗田阿求編纂による第九回幻想郷縁起の改定版によれば、ミシャグジ様に食べられた巫女というのは東風谷早苗という元人間の現人神であり、守矢神社で八坂神と洩矢神の巫女をしていたという。そして実は彼女は喰われたのではなく、あるとき幻想郷に入ってきて自分に憑りついたミシャグジ様を逆に調伏し、従えたのだそうだ(メモには「嫁に迎えた」とあるが、本当だろうか)。ミシャグジ様がどうして幻想郷に来たのかについては、九代目のメモによれば太古の昔のミシャグジ様と洩矢神との因縁のせいとあるが、詳しくは書かれていない。洩矢神との戦いも、本当はなだめられたのは洩矢神の方であるとも書かれている。
神社に伝わる伝承の内容とかなりの乖離があることについては、おそらく神社側の縁起が創作だからだろう。なぜならば、その当時天狗の新聞や里に住む白澤、そして稗田の九代目、阿求など、正しい歴史を記録できる者は多くいたからである。なぜ創作しなければならなかったのかは、分からない。(当時を知る八雲紫に聞いてみたところはぐらかされた。「照れ臭かったんじゃない?」と言っていたが、本当か。何が照れ臭かったのだ)
ミシャグジ様を調伏した東風谷早苗はその後、外見上歳を取らず、かなり長い間少女の姿で変わらずに巫女をしていた(その間に起きたのが所謂「御赤蛇・龍神天変異変」である。九代目没後、十代目転生までのおよそ百年の間に起こったため、こちらに詳しい記録がない)というがある時を境に姿を消したとある。
博麗に封印されたとも、少女の姿を捨て、白蛇の姿で過ごすようになったともいわれるが、真相は白澤も分からないという。
ただ、十代目のメモには、外の世界へ行った可能性があると記されている。幻想郷の外で消えゆく蛇神や龍神を救うために、自ら結界を超えて行ったというのだ。同時期に東風谷早苗と密接にかかわっていた犬走椛という天狗と多々良小傘という付喪神の両名も相次いで姿を消しているとある。
一度忘れ去られ幻想郷に来た者が、また外の世界でその姿を保てるのか、私にはわからない。ただ、もと人間であるという彼女ならば(加えて、彼女はもともと外来人であったという記録が稗田阿求によって残されている)、それができた可能性がある。
十代目は二ツ岩大明神の手引きの可能性も示唆しており、もしかすればうまく行ったのかもしれない。いつか、結界を超えてまた戻ってくるならば、ぜひとも本人に会って話をしてみたいものである。
さて、縁起に寄ればミシャグジ様は遊ぶのが好きな神様で、数年に一度(数えで7年)、幻想郷内外の蛇神や龍神を集め、満月の夜宴会を開いたそうだ。その縁日に合わせ、いまでも麓の二つの神社で同じ日めぐりに盛大な祭りが開かれ、御柱祭と呼ばれて人妖共通の一大イベントとなっている。
祭りの当日、森、里とも神社の周りには妖怪の山から切り出してきた高いモミの木の柱が社を囲むように四本建てられ、これが神様の憑代となるという。
なんでも、このお祭りにカップルで行くと子宝が授かるとか、豊作になるとか、ケンカに勝てるとか、なんだか節操が無いが、とにかくご利益は抜群にあるそうだ。私も小さいころ親に連れられて行ったことがあるが、境内は大変賑やかで、また披露される神楽は荒々しく壮大だ。そして博麗神社の縁日同様、やけに妖怪の多い(ほとんどが半獣である)祭りであったと記憶している。
ちなみに、冒頭の縁起にのっとり、里の神社では少女を助けたという逸話に基づいた“白骨沼の戦い”が、森の神社では“大熊調伏”とそれぞれ違う神楽が披露される。
もし、あなたがこのお祭りに行ったときは、妖怪の山の方に耳を澄ませてみるといいだろう。祭り好きのミシャグジ様が神様達と大騒ぎをしている音が、もしかしたら聞こえてくるかもしれない。
―――― 幻想郷縁起 第十一回編纂版 「御早白蛇神社」の項より
完
このSSにはオリジナル解釈、キャラクタ、流血表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
未読の方は以下のリンクの第一回よりお読みください。
■上編(第一回)
■【完結編】下(第九回)
では、どうぞ。
********************
一匹の狐が、夜空を見上げていた。
月明かりに煌めくのは金色の毛皮。ふわりとした穀物の穂のような尻尾は、体の横に柔らかく丸められている。形の良い三角の耳はぴんと立ち、空に向かっていた。
すん、と鳴らす鼻の先で、遠くに見える妖怪の山の雲が晴れた。もうすぐ、“神楽”が始まる。
風に乗って漂ってくる風の匂いは、かすかに瘴気を含んでいる。
「‥‥無茶をするわね。ほんと」
苔むした切り株から見上げる妖怪の山と、そのふもとに広がるこの森は、いつになくざわついていた。その訳は分かっている。あの白蛇だ。この森を黒い獣たちから救い、動物達を守った、白い蛇神様。
先ほど、遠くの空を飛んでいく白蛇の姿が見えた。神々しい、月明かりできらめく白樺のようなその姿。森はその姿を見て興奮している。
「彼ら」は分かっているのだ。白蛇がこれから何をしに行くのか。‥‥森は、荒ぶる大地の神を鎮めるために戦いを挑む精霊に向かって力を送ろうとしている。風に乗ってくる瘴気を打ち消そうとでもするかのように、今夜は森の吐き出す精気が濃い。
「姉様!葛花の姉様ー!」
空を見上げていた彼女の元に、姦しい声が響いてくる。がさがさと草むらが揺れたかと思うと、ぽん、と金色のカタマリが飛び出してきた。
「ここに居たんですか!さがしましたよホントー!」
「今晩は。毎度騒がしいわね、貴女は」
金色のカタマリは、プルプルと体を振って、木の葉を振り落す。現れたのは、一匹のキツネだった。
葛花の姉様と呼ばれた彼女の姿を見つけたキツネは、少女の声で嬉しそうにはしゃぐと、黒い鼻先を寄せてくる。挨拶を求められた彼女も、黒い鼻先を寄せて応えた。
「白蛇様はちゃんと見送れたかしら?」
「は、はい!それはもうばっちりと!」
「そう?」
「ええ!」
「また迂闊なことを言って食べられそうになったんじゃない?」
「え、いや、そんなことは」
質問にあからさまに動揺し、声色を変え、目まで逸らす彼女の様子を見て苦笑すると、葛花狐はくすくすと笑った。
「貴女は本当に正直者ね」
「だ、だって、ミシャグジ様はホント怖いお方なんですもん。狼とお化けまで一緒だし‥‥」
ぴすぴすと鼻を鳴らしながら、狐の少女はぐいぐいと頭を葛花に押し付ける。まるで子ぎつねの様に甘えてくる彼女に、葛花はやれやれとため息をつきながら耳を軽く噛んでやる。
「貴女は神使となったのだから。いつまでもそんなことを言っていてはダメです。もっとしゃんとしなさい。山の神様からも神使と認めてもらったんでしょう?」
「そうですけど‥‥」
頼りなさげな声をだし、少女は葛花を見上げる。
「私には、葛花の姉様みたいな良い頭もないし。ちょっと長生きしてるけど、姉様みたいな力もない。それに、そんな立派な九つの尻尾だって」
少女はそう言いながら、後ろを振り返る。葛花のふわりとした尻尾。それは一本ではなく、九本あった。
「こんなもの、関係ないわ。ミシャグジ様の前じゃ、ただの飾り。いくら私でも、ミシャグジ様がその気になればあっという間に食べられちゃうもの」
「え、ええー!」
「そうよ。何度も言っているでしょう。ミシャグジ様は、この大地の精霊。私達獣も、森の木々も、虫たちも、人間さえも、あの方のチカラを受けて栄えるの。ちょっと歳食ったくらいじゃ、ミシャグジ様になんかかないっこないの」
「ふええ‥‥」
尊敬する葛花の姉様があっけらかんとミシャグジ様のすごさを語るのを、狐娘は大シジミみたいなくりくりとした目をもっと大きくして、口をぽかんと開けていた。
狐娘にとって、葛花は普段から呼んでいるように、姉というべき存在だった。
彼女と葛花が出会ってから、まだそれほどの時間は経っていない。初めて会ったのはこのあいだの冬の終わり、ふきのとうが顔を出し始めた頃である。
最初の出会いは、今晩と同じような月の夜だった。夜の森を散歩していた彼女は、偶然ここで、葛花と出会ったのである。
春の夜風を浴びながら、お気に入りの切り株で月の光でも浴びようかと森を抜けてきた彼女の目に映ったのは、見知らぬ一匹の狐が切り株の上にちょこんと座って月を見上げている姿だった。
「ここはウチの縄張りだよ!」
月光を浴びながら、切り株の上で空を見上げる見知らぬ狐に向かい、少女は大きな声を出して吠えた。最初、彼女は気が付いていなかったのだ。見知らぬ狐の持つその立派な尻尾にも、妖気をまとった気配にも。
吠えた次の瞬間、突然吹き付けるように押し寄せた妖気に、娘は全身の毛を逆立てた。続いて見えた、彼女のシルエット。一本しかないはずの尻尾が、バラりとほどけて扇のように広がり、九本に分かれて彼女の後ろに広がった。
野生動物といえど、彼女も幻想郷の住人である。九尾の意味くらいは知っていたし、ヒトの姿を持つ油揚げ好きな九尾の狐の話も知っていた。
(ひいいいい!)
月明かりを受け、怪しくたたずむ九尾の狐。異形の尻尾はただそれだけで妖怪の証である。こちらを見下ろす切れ長の目に、言いようのない威圧感を感じて、娘は腰を抜かして震え上がった。
(こ、こここここ殺される!私八つ裂きにされるぅぅぅぅ!)
がくがくと足を震えさせ、狐娘はその場にへたり込んでしまった。彼女が生まれてから13年間ものあいだ、彼女を助けてくれた野生の力はこの大事な時に働いてくれなかった。それほど、九尾の狐が狐娘に与えた恐怖は大きかったのである。
しかしそんな今にも失神しそうな彼女に掛けられたのは、随分とのんびりした謝罪の言葉だったのだ。
「あれ、ごめんなさい。ここ、貴女のお気に入りだった?」
「‥‥はひ?」
途端に吹き付ける妖気がやむ。代わりに漂ってきたのはまるで母狐達が出しているような、甘い匂いだった。どこか懐かしい匂いを嗅いだ狐娘の恐怖は急速にやわらいでいく。
恐怖のどん底から一瞬で引き揚げられた狐娘。強烈な恐怖と安堵の間を行き来した彼女はぐずぐずの骨抜きになってしまった。
ぐったり地面にへばりついた彼女に、申し訳なさそうな顔の九尾の狐の声がかかる。
「今よけるから。ごめんなさいね。気持ちよさそうな切り株があったものだから、ついね」
「は、は、は」
「私は、葛花っていうの。この森に来るのは初めてで。あなたの縄張りを侵すつもりはなかったの。ちょっと、借りたくなって。あんまり気持ちよさそうな場所だったから。‥‥って、あなた、大丈夫?」
「‥‥だめですぅ」
‥‥九尾の殺気は、ただの野狐の膀胱を刺激するには十分すぎる威力を持っていた。
そんな衝撃的出会いをした狐娘と葛花の不思議な付き合いはそこから始まったのだ。
月の明るい夜、葛花はいつもあの切り株に現れた。月光浴をしている狐娘の隣に座って、一緒に月を見上げて、おしゃべりをして。
立派な妖獣になるための心構えやら、神使となった稲荷の狐たちの話。色々な話を聞かせてもらった。ヒトに化ける練習も。まだまだ力がなかったから、もっぱら葛花が狐娘に術を掛けて、ヒトに化ける感覚を教える形だったが。
森を荒らしまわっていた黒い妖獣とのケンカの仕方――――そして、ある日突然森に現れたミシャグジ様への対処法についても。
葛花は神様の出現に混乱する森の長老達の前にまで姿を現し、助言を与え、狐娘を神使として推してくれた。
森の動物たちにとっては九尾の葛花も神同然の存在である。狐娘は葛花があのおっかない白蛇の神様を何とかしてくれるものと思っていたが、葛花も、そして長老たちもそれを良しとしなかった。
「ここは 我らの/貴方達 の森だから――――」と。
神使役に選ばれ、正直恐怖で気絶しそうだった狐娘だが、葛花の激励と、長老達(特に狸のジジイ)のおだてによって、神使役をすることを承知したのであった。
「あの時はホント怖かったんですから」
「今でもじゃないの?」
「だいぶ慣れましたよぅ」
「もう、おもらししない?」
「うえ。し、しませんってば」
「そうね。大丈夫だったものね」
「はい!」
嬉しそうに舌を出す狐娘の顔を見て、葛花は狐式に笑った。そして、狐娘はもう一度、黒い鼻を葛花に押し付けると切り株から飛び降りた。
「じゃあ、私、森に戻りますね」
「あら」
「元気と勇気は補充できました。まだ、ジジイ達とか、狼達とか騒いでるやつらがいるんで。ちょっと行ってなだめてきます」
「大丈夫?」
「私はミシャグジ様の神使ですから」
そういうと、狐娘は暗い藪の中へと消えて行った。
その足音がすっかり消えると、葛花はふうと小さくため息をついた。
「すっかり慕われて‥‥良いわね、ああいうの」
右足でちょいちょい、と耳を掻く。
ざわつく森の様子は、さすがの葛花にも影響を与えていた。耳をパタリパタリと閉じてみたり、開いてみたり。落ち着かなかった。
「私を忘れてませんか」
「あら」
「ここに居たんですか。探しましたよ」
さっきと似たような台詞が、後ろから掛かる。
「なんかね。落ち着かないの」
「ほえ」
足音もなく、声の主は近づいてくる。そして、かすかな風音とともに、葛花の隣に空いていた隙間に着地した。
黒猫だった。
「どうだった?妖怪の森のようすは」
「みんな、結構興奮してます。妖怪の山に近い森だけじゃなく、遠くの博麗神社の方まで、森がざわついてて」
「人里の守護は?」
「伝言は終わりました。藤原さんが、里の守護に入るそうです。これで人里には慧音さんと、藤原さん、あと、お寺の皆さんが」
「そう。紫様は」
「紫様は博麗神社に居ます」
「何か言伝はあった?」
「特に何もないです。『あんまり興奮しちゃだめよ』って」
「‥‥一番興奮してるのは紫様だと思うけど」
「藍様もそう思いますか」
「うん」
葛花と名乗って狐娘と話していたのは八雲紫の式、藍である。狐娘の知っていた、「人里に油揚げを買いに来る九尾」その人であった。
藍が紫からとある指示を受けたのは去年の冬だった。
「何かが博麗大結界の周りをうろついている。いつもの結界の管理に加えて、監視も怠らないように」
こんな物々しい指示を藍に与えると、主は冬眠に入ったのだ。
おかげで、今年の冬は何時にも増してしんどい冬になった。結界の管理で飛び回りながら、何者かが侵入した形跡がないか調べる日々。
結局、主が起きるまで何者かが侵入した形跡はどこにも表れなかった。ただ、結界のそばまで行くと確かに何者かの気配を感じた。じわじわと獲物を見定めるかのような、ねっとりとした薄い気配。おかげで一時も気の休まる時はなく、藍の胃には潰瘍が現れかけた。
紫が冬眠から目覚めた日の朝。「誰も来ませんでしたよ」と告げたへとへとの藍に向かって、紫はねぎらいの言葉と一緒に、休暇を言いつけたのである。
「妖怪の森でしばらく遊んでらっしゃい」と。
全く意図が分かりかねる発言だったが、ストレスですっかりやられていた藍は、素直に主の言葉に甘えることにした。
さすがに毎日ではなく、一週間のうち土日がそっくり妖怪の森の休暇になった格好だったが、休みができただけでもありがたかった。森での休暇は楽しかった。橙の猫の里を冷かしてみたり、とある一匹の狐と仲良くなったり。
休暇が、やはりというか本当の休暇ではなく「ミシャグジ様の監視」という仕事だったことを知ったのは、森に出かけるようになってからだいぶたった夏の日だった。
博麗大結界を越えようとしていたのは、あろうことかミシャグジ様だったのである。
結界を超えたミシャグジ様は、藍と紫が手を打つ前に、あっというまに守矢神社の早苗に憑りついた。これは管理者側の彼女達にとっては歓迎すべき状況だった。守矢神社ならば二柱が居る。これでひとまずは安心。そう考えていた八雲主従は、その後の諏訪子の行動にすこし混乱した。あの祟り神はミシャグジ様を抑えるどころか早苗に呪いをかけ、一匹の白蛇と化したうえで野に放ったのだから。
紫は当初から、あの気配がミシャグジ様であることに気が付いていた。そして現れるとすれば守矢神社か、自然の精霊に近いというミシャグジ様の神性上、妖怪の森と踏んでいたためそこに藍を配置しておいたのである。結果的には野放しにされたミシャグジ様は妖怪の森へと向かった。ここで、紫の先読みと藍の働きが功を奏す。紫はミシャグジ様を一時的に閉じ込めるオリ―――あの洞窟である――――を、藍はミシャグジ様を刺激しないように動かせる神使を用意し、早苗が正気に戻るまで妖怪の森に隔離することに成功したのだ。
隔離成功に至るまでが結果としてかなり偶然に頼ったところがあるのは、八雲主従共々忸怩たるものがあるのだが。
「‥‥“神楽”、うまくいくのかしらね」
「藍様はどう思ってるんです?」
「何を?」
「どっちが勝つか」
お座りしたまま金色の目で橙は藍を見上げる。九尾の狐はぴす、と一回だけ鼻を鳴らした。
「五分。早苗は力をつけすぎた。森丸ごと一個の信仰に加えて、満月だもの。万一もあるんじゃない?」
「勝っちゃったら‥‥」
「恐怖のミシャグジ様、幻想郷に降臨、ね。何物にも縛られない、守矢の神にも八坂の明神にも止めることができない、現人神の力と森と動物達の信仰を得た荒神の誕生」
「‥‥」
「私の計算じゃ、幻想郷を荒らしきるまで5日ね」
「そんな‥‥」
「もちろんそんなもの放っておくことはできない。かといって外の世界に解き放つわけにもいかない。そうなれば、どうすればいいかは自ずと決まるわ」
「‥‥殺しちゃう、んですか」
「もしくは封印ね。旧地獄でも、魔界でも。‥‥いずれにせよあまり愉快な結果にはならないわね」
「‥‥」
橙は以前宴会の席で絡んできた早苗の姿を思い出していた。「ねこちゃーん!」とか言って、楽しそうに散々ぐりぐり人の頭を撫でまわしてくれた、酔いどれの巫女。あまり接点はなかったが、あの笑顔の持ち主が殺されるか、もしくは永久に封印されてしまうというのは、あまり想像したくなかった。
「じゃあ、あの神様が勝つように‥‥」
「勝ってしまったら、それはすなわち巫女の最後。今の洩矢諏訪子には容赦なんてない。負けたら、早苗はきっと殺される」
「そんな!じゃあ、むざむざ殺されるために、早苗さんは“神楽”をしに行ったんですか?周りのみんなも、それを分かってて行かせたんですか!?あんまりじゃないですかそんなの!」
「‥‥橙」
「だって!」
「そうならないと思ってるから、早苗は神楽をしに行ったし、八坂の神様も早苗を送り出したんだと思う。‥‥正直、私の計算じゃ、これがすんなりおさまる確率なんて、万に一つもない。でも彼女達はそうしたの」
「‥‥」
「一つは、これが彼女達の問題だから。彼女達の手で何とかしなければならない問題だから。私や紫様、博麗の巫女が出張るのは一番最後なの。もう一つは、奇跡を信じたから」
「奇跡って」
「神様は奇跡を起こすもの。‥‥奇跡を信じない人たちが、神様を信じられると思う?奇跡も信じない者が、神様だと思う?」
「‥‥」
「めんどくさいよね。神様って」
藍はふん、とため息をつくとまた月を見上げた。
橙も同じように月を見上げた。藍の話を聞いて、モヤモヤしたものが頭の中で渦を巻く。結局彼女達は奇跡に頼るしかないのか。そんなの、ただ殺されに行くのと何が違うのだろうか。本気で神様を信じるってこういうこと?そうじゃないよね?自分で奇跡を起こすから、起こすってわかってるからなの?‥‥わからない。
黒猫はその小さい頭をポスリと狐に押し付けた。嗅ぎなれた優しい匂いが橙の心を鎮めていく。
「‥‥うまく、行くといいですね。“神楽”」
「うん」
二匹は体をくっつけあったまま、ずっと月を見ていた。段々と騒がしくなってくる、森の声を聴きながら。
*****************
風が踊ってるなぁ。
空からぐいっと吹き降ろしたかと思えば、そのまま横に流れる渦に巻かれて地面を滑っていって。
滑って行った風は、正面から来た風とぶつかって、また空に登って。
それは目には見えないけれども、木の葉っぱや、消えそうなかがり火や、土埃や、椛が、それを教えてくれて。
普段はただ、吹き付けて流れていくだけの風が、今はいろんなところからいろんな方向へ、くるくると遊びまわって。
ああ、楽しそうだな。あの中を流されていったら、きっと、すりる満点だろうな。
うん。
こういうのを現実逃避と呼ぶんだよね。知ってるよ。よくやってるから。
ああ、どこのだれかは覚えてないけど、あなたのことはお父さんとお呼びした方が良いのでしょう。
わちきを、作ってくれた職人さん。――――そう。あなたです。あなた。どうしてこんな色にわちきを塗ったのか、問い詰めたいことは色々あるけど、とりあえず。
きこえていたら、きいてください。
わちき、おかげさまで売れ残り、付喪神になりまして、幻想郷というところに住んで、日々人間達を驚かす唐傘お化けライフを楽しんでおります。いろいろと素敵な友達もできました。
「ほらほらあ!吹き飛ばされちゃえ!哀れな忘れ物!」
「きゃああああああ!」
で、なんと只今、天狗と勝負しております。
「ほーら何やってんのー!手加減してほしかったら本気で掛かってきなよ!」
「ほ。本気だよ!」
し、しかもとっても、大ピンチ。
****************
―――― シュッ!
「はーっは!そらこい!」
ギラギラ目を光らせ、諏訪子が飛び掛かる白蛇に叫ぶ。
白蛇は答えない。代わりに風をまとって突進する。
諏訪子は避けない。大きくのけぞって、一気に頭を前へ!
ぱ あん!
空気をふるわせて、境内に石が割れるような音が響く。白蛇と邪神の初手は、互いの体重をかけあった頭突きから。
「ぎぃっ!」
「ぬ、おあっ!」
すさまじい力が諏訪子の体に伝わる。諏訪子は飛ばされまいと踏ん張るが、体格差がそれを許さない。頭突きから一拍遅れ、小さな彼女は後ろに吹っ飛ぶ。
石畳で数回バウンド。くるりと後転して体を起こす。その鼻先に、白蛇の爪。
「がああっ!」
笛のような風切音。続く低い水音。
「ぐ!」
月光にきらめく、円弧のような軌跡。半人半蛇の鋭い爪は、容易く祟り神の皮膚を裂く。
しゃん!
「――っ!」
祟り神の脳に響く、爪が頬骨に引っかかる、石を擦るような音。二度、三度と続く。
しゃん!しゃん!しゃん!
「う、あ、ああ、あ」
嬲られる体から力が抜ける。肺から空気が勝手にもれ、喉を震わせて呻きになった。
赤い目の白蛇は、腕を振り回し、くる、くる、くると、赤いしぶきをまき散らす。
激痛に、朦朧とする祟り神の頭。細い足元が震え出す。
シャッ!
「痛ぁっ!」
祟り神の視界が、一瞬の赤の後に黒く染まる。右の方から、二つ、間隔を置いて柔らかいものが落ちる水音。
声にならないうめき声をあげる祟り神。その腹を、しなる肉の鞭が撃ち潰す。
「ぶえっ!」
暗闇の中、祟り神は石畳に叩きつけられる。聞こえるのは骨のきしむ音。自分の体が跳ねるミチミチという音。
転がる体は、硬い石畳に擦り付けられ、ようやく止まる。口の中に、苦い土の味。
「ひ。ひひひ、ひ。痛い‥‥痛いなぁ‥‥」
祟り神はゆっくりと体を起こす。闇の向こうから蛇の鱗の音が近づく。
「好いねえ!」
血の涙を流しながら、祟り神が歓声を上げる。地面に着いた両の手が、乾いた柏手の音を響かせ、硬い石畳を歪ませた。
「潰せ!」
だ あん!
迫る白蛇の目の前で、石畳を吹き飛ばし現れる、巨大な巨大な土くれの腕。白蛇は赤い目を大きく開き、驚くあまり急停止してしまう。岩混じりのいびつな手のひらが、回避の遅れた白蛇を捕え、握りつぶす!
「ギャアアアアアア!」
尻尾を引きつらせ、血の泡を吹いて絶叫する白蛇。その悲鳴と同時に、いびつな腕から太いモミの木が無数に飛び出す!
「シャッ!」
ど、ど、ど、と太鼓のような音を立てて、岩の腕からモミの木が生える。白蛇は、口にあふれた血を吐き飛ばし、片手で木を抱え、折る。
そのまま、地面に手をついて土くれを操っている祟り神に、恐ろしい速度で投げつける!
目のない祟り神は、回避できない!
「ぶ」
少女の悲鳴は、間抜けな空気が抜ける音に変わる。地面にばしゃりと広がる赤白まだらの扇。芳しきミシャグジ様の神饌。
地味なクチナシの着物が、真っ赤に染め上げられる。
岩の腕が崩れ落ち、白蛇は解放された。
「しゅー‥‥」
コミカルな音を立てながら、若干身長の縮んだ祟り神が、ゆっくり後ろに倒れる。
白蛇は、その様子を見ながら、白い腕で自分の体を抱きしめた。
蛇の体から響くのは、胡桃をこする様な、ごりごりという硬い音。土の腕に折り潰された、骨が元の場所に戻っていく音。
「かぁああ‥‥」
激痛に、眉間にしわを寄せる白い蛇。目の前には、祟り神が大の字で転がっている。
すさまじく良い匂いのする、赤い血を流しながら。
あっけなく、いとも簡単に旨そうな肉袋に成り果てたその無様な姿を見て、痛みに震えながらも白蛇の顔が歓喜に歪む。
――――仕留めた。
「そう思うだろ?」
「!」
死んだ獲物がよみがえる。白蛇の瞳孔が、驚きと怒りに細くなる。目の前で死んでいたはずの祟り神の、首の付け根から声がする。
泡が立つ、ぷちりぷちりという音。彼女の肉が盛り上がり、欠けた部分を埋めていく。
「ひひ、ひ。お約束の展開だよ、こんなの。まずは、痛みを楽しんでからってね」
片腕で顔を隠し、祟り神が体を起こす。その指の間からは金色の目が、白蛇を冷たく見つめていて。
「ああ、痛い。痛いなぁ。せっかくの化粧が落ちちゃったよ‥‥うん。最高だ。最高だよ!テストは合格だ!お前は強いねえ!こんなにぶっ飛ばしがいのあるコは何百年ぶりだろう!ここしばらくは私に手も出せないようなモヤシばっかりだったんだ!‥‥あははは!ははははは!」
――――シャッ!
楽しそうな祟り神の声は、白蛇の神経を逆なでする。
耳障りなそのお喋りを遮り、口にあふれていた唾を吐き、白蛇が目を吊り上げ、吠える。
祟り神は、顔に当てていた手を降ろす。もうすっかり、元通りだ。
「あは、怒ったねえ。良い顔だ」
挑発とばかりに、祟り神は血の付いた手を白蛇に向かって振り、あたりに自分の血しぶきをまき散らす。
さらに濃度を増す生臭い肉の匂い。白蛇の息が荒くなる。
諏訪子は高く飛び上がると、空へ。
空の上から白蛇に降ってくるのは、楽しげに誘う声。
「ほら、“早苗”、おいで。――――おいしいよ?私は」
――――シャッ!
一声吠えると、早苗は尻尾をくねらせて空へ駆け上がる。頬に掛かった諏訪子の血を、ねろりと旨そうに舐めながら。
*************
「ほら!よそ見をしてたら、危ないですよ!」
「ぬ‥‥!」
正面から放たれた鎌鼬を、椛は盾で逸らす。そのまま無理やり勢いをつけ、前方に跳躍。
射命丸とすれ違いざま、斬撃。射命丸は身を捩って回避。椛の脇をすり抜ける。
カ、と天狗下駄の歯で石畳を蹴とばし、椛は後方へ鋭角にコースを変更。通過した射命丸の後ろに占位。
そのまま空中戦へ。黒い翼を羽ばたかせ、時折後ろを振り返りながら逃げる射命丸を、椛が追いかける。血しぶきをまき散らしながら空を舞う、白蛇と祟り神を横目で見ながら。
「見てますねえ。気になりますか、あの二人」
「ええ!」
「怖い顔してますねえ、椛」
「当たり前ですっ!」
「あんなにも仲の良く、家族の様だった二人が、今はどちらも化け物になって、――――うわっ! 本気で殺し合いをしていますものねっ」
「文殿は、分かるんですかっ!納得いくんですか!これが、この状況が!――――ええい!」
礫を投げ合い、木の葉をまき散らす。曲線で動く文を、椛は直線で追う。真下は湖。水面に二匹の天狗の影が映る。
「あなたは、ご存じないんですね。そうですか」
「その口調、随分余裕なんですね。文殿」
「いいえ、無理してますよ」
「いったい何がご存じないんですか」
「貴女が落ち着いたうえで聞かせたい話があるのですよ」
射命丸、やおら体をひねり右半回転。後退させていた翼をばさりと大きく広げて急制動。
椛は射命丸の行動を察したが、体がついて行かなかった。そのまま射命丸を追い越してしまう。
射命丸は翼を畳んでくるりと急降下。速度を回復させ、すぐに椛の背中を追いかける。
「悲しいお話ですよ。どうしてあの神様が、こんなことをやっているのか!実の家族と言ってもいい、早苗さんを化け物にしてまで、ケンカをしなければいけない訳。ねえ、椛!聞きたいでしょう?」
「ケンカをしたいからでしょ!」
逆に追尾される立場になった椛。しみじみとした文のしゃべくりと一緒に飛んでくる鎌鼬を何とかかわしながら怒鳴り返す。
「そのケンカをしたい訳ですよ!聞かせてもらったんです!諏訪子様から!」
「は!」
「自分がどうしてここまでしてミシャグジ様とケンカしたいのか!早苗さんを蛇にしてまでする価値のあることなのか!」
「――――あったんですか、そんなもの!あるんですか、そんな理由が!価値が!」
椛は水面近くまで急降下。急制動して振り返り、追いすがる射命丸に向かって身構える。
射命丸、翼を畳んで突進。椛をかすめ、風に乗せて連れて来た木の葉をまき散らす。
椛は剣を振り下ろす。衝撃波が水を叩き、水柱が木の葉を濡らす。重量の増した木の葉は一気に速度を落とし、はらはらと水面へ。椛はその場に静止。文の気配を探る。
直後に射命丸が真上から蹴りつけてくる。盾が轟音を鳴らす。
「ええ!だからこそ、私たちはあの方の味方をしてます!心の底から!」
「‥‥は!心の底だぁ!?」
椛の心に、怒りが再び湧く。早苗を人でも妖怪でもない化け物に堕とした諏訪子に、平気な顔をして協力する射命丸達。分からない。彼女にはどうしても分からない。分かるまで想像するだけの冷静さが、今の彼女にはない!
椛のまなじりが吊り上る。髪の毛が、ざわりと逆立つ。椛の頭の中で、じゅん、と音を立てて熱いものが広がってゆく。
――――アア、堕ちる。私も堕ちる!
「‥‥どうやら、洗脳がまだ解けていないようです」
「至って正気ですよ」
「そうかい――――首落としてやるから“一回休んでろ”、鴉!」
「!?」
射命丸の足元で、椛の纏う空気が、一瞬にして変わった!
ぶあっ!
「わっ!」
暴風が椛を押し上げ、盾の上に乗っている射命丸の態勢を崩す。椛は盾を引いて文の足を滑らせ、そのまま細い足首を捕まえ、引っ張る。
剣をくるりと逆手に持ち替え、足を掴んで引き寄せた文の首へ一直線。
「がうっ!」
「!」
天狗扇が剣を受け止め、火花を散らす。
椛の刀は、その刃が射命丸の首の肉に届く前に、彼女の扇の柄で止められていた。
舌打ちをする椛に、少し上ずった声で射命丸が話しかける。
「‥‥お、落ち着きなさい。あんた、ちょっとおかしいわよ」
「どこが」
「狂ってる」
「目ならいつでも赤いですよ」
「そういうことじゃない。あんた、さっき自分であの唐傘に言ってたでしょう。怒りに囚われるなと。血みどろのケンカなんて御免だと」
「怒らせたのはあなたです」
「どうしてあなたはここに居るの。何をしに来たの」
「‥‥あの祟り神を切り刻むためです」
「椛――――!」
「さあ、その素首切り落してやりましょう。文殿」
「ちょっと!?」
淡々と冷静なように見える椛の声と表情。しかし彼女は世間話でもするような声で躊躇いもなく射命丸の命を狙ってきた。
鍔迫り合いをしている扇に、椛の刀がぬるりと食い込む。射命丸自身の妖力で強化しているはずの扇の柄が少しずつ切られていく。
「ええい!」
射命丸は椛に足を掴まれたまま、ままよ、とばかりに静止状態から急加速。加速に対応できず、椛の手が外れる。剣の切っ先が文の脛をかすめる。
舌打ちをしながら射命丸は間合いを取り、椛の周囲を回る。椛は合わせて円運動。巴戦に。
ギラギラと光る赤い目が、付かず離れず射命丸を追いかける。
その目を見て射命丸は再度舌打ちをすると、羽と木の葉をまき散らしながら、怒鳴った。
「ったく、あっという間に“サカって”!二人の瘴気はきっとまだまだこれから濃くなるのよ!ここで酔っぱらってどうするの!」
「やかましいわ、鴉」
「これじゃあどっちが洗脳されてるか分からないわねえ!――それっ!」
「うらあああああ!」
水面から少し上、ふわりと舞う文の放った風の渦が、椛の斬撃で散らされる。引きちぎられた風に乗って、椛が突進。射命丸は水面との間で風を一気に膨らまし、自分と椛を跳ね飛ばして距離を取る。
吹き飛ばされた椛は後方へ一回転。空中で姿勢を立て直し、射命丸が牽制に撒き散らしたマクロバーストを回避。
‥‥椛は解っていた。自分は早苗と一緒に居すぎた。ミシャグジの匂いを嗅ぎすぎた。自分はすでに“サカって”しまっている。おかしくなっている。ケンカが始まれば、冷静さはきっとすぐに失われるだろうと。
神楽の前、「私たちの瘴気を吸って、平気でいられるか」との諏訪子の問いに、椛は答えられなかった。彼女は、早苗と一緒に居るとどうしようもなく昂ってくる自分の気持ちに気づいていたのだ。‥‥大地の神、狩猟、農耕、風の神。肩書はどうでもいい。ミシャグジ様は、椛の中に有る狼としての自分を強く強く呼び起こす。四つ足で走っていたころを思い出させる。いつか洞窟で小傘が問いかけたとおり、椛は早苗の放つミシャグジの匂いに中てられていた。
妖怪の中でも格の高い種族である天狗においては、程度と状況にもよるがむやみやたらと大昔の獣の本能に走ることは低俗、未熟とみなされて歓迎されない。だが、椛はミシャグジの匂いを嗅ぎすぎた。早苗といる間、彼女は目をギラギラと光らせ、狐を喰うと言って脅し、思ったままに吠え、小傘を噛み殺すと言って唸り、にとりを助けるためとはいえ白狼の姿まで晒した。
椛の仕事は哨戒である。攻撃をしても、威嚇が主。本能を抑えて理性を最大限要求される仕事だ。その仕事をやってきた彼女に、本能を抑えて冷静に戦うというのは必須項目でありできないはずはない。本能のまま、感情のまま、怒鳴ったり吠え声をあげている最近の状態は異常なのである。
神楽が始まり、月に照らされ、血の匂いを嗅いだとき、きっと自分は狼になる。天狗ではなくなる。むしろ、獣にならなければ、あの神様に一太刀浴びせることはきっとできない。だからこそ、小傘には何時ものままで居てほしかった。彼女には最後まで、神と狛犬を見守る巫女でいてほしかったのだ。早苗や自分が獣になって、たとえ言葉を失っても、何が起こっていたのか、見届ける役目をしてほしかったのだ。
「があああああっ!」
振り回す剣が、風を切り裂いて文に襲い掛かる。羽虫の様に襲い掛かる無数の細かい風の傷が、文の頬を薄く裂いた。
「ええい!聞き分けのない駄犬は嫌い!絶対に聞いてもらうからね!このケンカの訳!」
「かわいそうな鴉だ!枷をはめられて、祟り神の鳥籠の中!ほら、こっちにおいで、ほら、ほおら、枷ごと首を落としてやる!」
「ぐっ――――!」
ゆらり、ねらりときらめく光の筋を、なんとかかわす射命丸。
椛が普段使っていた大剣より大分小さくて軽い狼の蕨手刀は、その軽さにより恐ろしいスピードで文の喉笛を狙ってくる。軽さは剣を扱う椛の負担も小さくし、空中で思い切り振りかぶっても椛は姿勢を崩さない。なかなか彼女に隙ができず、射命丸は斬撃をよけながら後退するので精一杯。
「旋符『紅葉扇風』!」
射命丸の宣言と同時に竜巻が発生。文は椛にこれを使わず、自分を上空へ飛ばすための足場に。渦巻く風の砲身をくぐり、文は一気に空へ跳ねる。
椛は水面を蹴って直角に方向転換、上空の射命丸に向かって突進。射命丸は翼を広げ、大きく羽ばたくと加速してさらに高度を上げる。再度のドッグファイトが始まる。
「貴女の腕前で、この枷だけ切ってくれたら大変ありがたいのですがね!」
「間違いなく手元が狂いますが、いいですか」
「それは勘弁」
「遠慮しなくていいですよ」
「遠慮しますよ」
「オーーーン!」
「聞いてよ!」
一声吠えると、椛は刀で風を滅茶苦茶にかき回す。
獣のまじないに応え、風が歪む。
「捕まえろ!」
「はん!」
小さな渦が細く伸び、風の蔦になって射命丸を襲う。
――――しょぼい!
射命丸の目には、椛の呼んだ風はそう見えた。
襲われる鴉は団扇をきつく握ると、大きく振り下ろす。
空気が圧縮され、音速を超える。屈折率が変わり歪む視界の向こう側で、衝撃波が周囲の風も叩き、莫大な風が動いてはじけ、風の蔦を纏めて消し去る。
椛の姿も、吹きすさぶ風の向こうには見えない。吹き飛ばされたか、大きく回避したか。
圧倒的な風量に、椛も、風の蔦も、全く太刀打ちできなかった。
‥‥ように、見えた。
「この剣は素晴らしいです」
「うあ!?」
「風だってこんなに簡単に切れる」
真正面!歪む空気の向こう側から、風を切り裂き椛が迫る!
射命丸の風に太刀打ちできなかったのは、蔦だけ!
大げさな風の蔦はフェイント!射命丸自身が放った風をも、椛は自分の姿から目を逸らさせるカモフラージュに使ったのだ!
咄嗟に受け止めようとし、射命丸は、天狗扇を構え――――
どむ。
ぶつかった二人の間に、鈍い音。
「!!!!」
「‥‥一人目」
射命丸の背中に、銀の切っ先が突き出る。
彼女の扇は、防具の役目をなさなかった。
先の鍔迫り合いで切れ込みを入れられた扇の柄は、いとも簡単に、切り飛ばされた。
「がふっ!」
「簡単に貴女を始末できないようじゃ、あの神様とケンカなんて言ってられないですから」
「もみ、じ‥‥!」
淡々とした口調で、目をミシャグジの狂気に染めたまま、椛は刀をひねる。
腹をぶち抜かれた射命丸の口から、血が噴き出す。
椛の白い天狗装束が、真っ赤に染まってゆく。射命丸がうめき声をあげる。襟元を掴む射命丸の手が震えている。爪が食い込んでいたい。だから椛は切り落とした。射命丸が呆然とした顔をしているが、椛にはその理由がわからない。
その最中、遠くから白蛇の悲鳴が聞こえた。
「早苗さん‥‥!?」
千里眼に映ったのは、鉄の輪で片腕を切り落とされた白蛇の姿。
激情に駆られた狼の刀が横薙ぎに振るわれる。
湖に鴉天狗の絶叫が響いた。
*********************
「さなえええええ!」
「よそ見すんなって言ってるでしょ!」
「ぐえ!」
遠くから聞こえた悲痛な白蛇の咆哮に気を取られ、叫び返す小傘の腹にはたての回し蹴りが撃ち込まれる。
くの字に体を折った小傘は勢いよく御柱に叩きつけられた。
「ぎゃっ!」
強烈な胸への圧迫感。呼吸が止まる。呼吸をしなくても妖怪は死なないだろうが、息が止められればやっぱり“苦しい”。不便だ、と小傘は涙を流して毒づく。
「はあっ、はあっ!」
「しぶといね」
地面に両手をついて体を起こす小傘の目の前に、天狗扇を手にしたはたてが舞い降りる。
一見、外の世界の学生によく見かけそうな、どこか軽い雰囲気を持つ彼女だが、どうしてどうして中身はしっかりと天狗だった。獲物を見下ろすギラギラとした目に、小傘は墓場の鴉たちを思い出す。
やはりただの妖怪と天狗では格が違いすぎるのか。小傘は一枚もスペルを発動できずに、はたてに良いように弄ばれていた。遠く離れれば風にまかれ、近づけば素早い動きで叩き伏せられ、逃げようとすればカメラに気力を奪われる。
早苗を助けると威勢のいい啖呵を切った小傘だったが、早くも限界寸前まで追い詰められていた。
「黙って諏訪子様と早苗ちゃんケンカさせときなよ。わざわざ乱入してきて、そんなに怪我したいんだ?」
「‥‥怪我なら、とっくにしてるよ」
「あ、そ」
顔に付いた土を振り払い、よろめきながら何とか立ち上がった小傘を、はたては扇の一振りで吹き飛ばす。
「うああああ!」
「いいよ!ケンカしたいなら、相手するまで!私たちは諏訪子様の手下!神遊びの邪魔をする奴は叩きのめせって言われてるの!」
「むうっ!」
きりもみをしながら飛ばされていく小傘は必死に傘を操り、風を捕まえ体勢を整えようとする。しかし、そんな悠長な動きを鴉天狗が黙って見ている訳がない。空へ飛ばされた小傘の胸元に、一瞬のうちに飛び込んでいく。
「ひ!」
「ゴメンねー」
はたては淡々とした口調で容赦なく天狗扇を一振りし、小傘の頬に叩きつける。小傘の視界に星が舞う。
「ぶえっ!」
振るわれた扇は同時に強烈な風を生み、小傘を押し流す。小傘は声も出せずに今度は地面へと落下していく。
硬い御柱の根元に、小傘は背中から落ちた。
「そら、捕まえた!」
はたては墜落した小傘の首を乱暴に掴む。そして御柱に押し付けた。小傘のうめき声を聞いたカラスはにやりと笑うと、顔を小傘に近づけた。
「良いことを教えてあげる。小傘ちゃん」
「な、に、教えてくれるの、かな」
息苦しさに目尻から涙を溢しながら、小傘も強がって笑い返す。
右手に握った傘を持ち上げようとするが、腕が痺れていてもちあげられない。それどころか逆に傘を離してしまいそうだ。
「教えてあげる。なんで、諏訪子様がここまでしてこんなことしたかったのか」
紫の鴉天狗はそう言うと、長い睫が揃った眼を、すい、と細くして、笑った。
「昔、昔のお話よ。この国が、まだ日の本なんて名乗るずっと前。小さなクニに小さな女の子が居たの」
「む、う‥‥」
「苦しい?我慢して聞いてね。手を緩めたら逃げちゃうからね、お前」
「ケホッ!」
「女の子の国には、おっかない神様が居たの。蛇の神様。そ、ミシャグジ様。女の子は、その神様への生け贄だった」
生け贄。ここ数日、小傘たちの頭から離れることのなかった言葉だ。
その言葉に反応し、小傘はうっすらと目を開く。紫の鴉天狗は、相変わらずニヤニヤと不敵に笑っていた。
「でもね、女の子は食べられなかった。ミシャグジ様達は女の子を気に入った。どういう意味で気に入ったのか、色々あったみたいだけど。結局は美味しそうだったんだって。どうしようもなく。だから、すぐに食べるのはもったいないって、ミシャグジ様は女の子を食べなかったのよ。いいよね。そんな獲物、一回会ってみたいと思わない?」
「もう、居るよ‥‥」
「へえ?」
「早苗‥‥」
「ふーん。‥‥さて、女の子はそこでミシャグジ様に神様にされたの。長―く生かして、熟成したところで食べたかったんだってさ。漬物みたいだよね。おっかしーの」
「それ、‥‥も、もしか、して」
「そ。その女の子ってのが諏訪子様。諏訪子様はそうやって、神様になった。ううん、“された”の。そして、ミシャグジ様をある時叩きのめして支配下において、諏訪子様はミシャグジ様にとって代わって、クニの神様になったわけ。ここまでは、普通の話」
こんな話のどこが普通なのだろうか。
薄笑いを浮かべながら首を締め上げてくるはたて。話の内容はともかく、小傘の目には、彼女はあきらかに異常に見えた。
目の前の天狗に憑りついた、どす黒い諏訪子の呪い。ニクではなく、心を食べる妖怪である小傘には、ぼんやりとそれが見えていた。
――――たすけて、椛!この人、狂ってる!
のどの奥で声にならない悲鳴を上げる小傘。彼女は知らない。椛もとっくの昔に狂ってしまっていることを。
‥‥この神楽を見て、気が付いている人妖はどれだけいるだろうか。戦いにスペルカードを使って、もしくは使おうとしているのは、射命丸と小傘しかいないことを。ごっこ遊びとしての戦いを象徴するスペルカードと弾幕。それを使っていないということは、すなわち、彼らの理性は当の昔に無くなっているということであり。
息苦しさと怖さで震える小傘の首を掴みながら、はたては唇を湿らすと、再びしゃべり始めた。
「さて、こっからが本題。その昔、ミシャグジ様のお備えは人間だった。諏訪子様がそうだったように。じゃあ、諏訪子様に降ったミシャグジ様は、何を食べていたと思う?」
「‥‥」
はたての唇の端が、吊り上る。
「諏訪子様の子孫だよ」
「!?」
「ミシャグジ様は、諏訪子様に負けて眷属に成り下がるとき、一つの呪いをかけたの。‥‥“おまえ”は未来永劫、我々のイケニエだって。それがどういうことか、わかるかな」
「‥‥わか、らない。そんなこと。わからない」
「諏訪子様はイケニエ。でも、ミシャグジ様は諏訪子様を食べることができない。ミシャグジ様へのお供え物はどうしても必要。じゃあ、なにを食べさせる?関係ない人間?ううん。だめ。未来永劫、ミシャグジ様のイケニエは諏訪子様。じゃあ‥‥」
*********************
――――ミシャグジ様の咆哮が聞こえる。苦しげな咆哮だ。ああ、あの祟り神め。待っててください。今行きますから。
椛は、風切音を立てて刀に付いた血糊を払い飛ばす。
見下ろした視線の先、湖の水面には、鴉天狗が一匹あおむけに浮かんでいた。月の光が、下を向いた白老天狗の整った顔に影を作る。黒い影の中で、赤い目だけが爛々と輝いていた。
「しばらくそうやって浮かんでいてください。諏訪子様(クソガエル)を始末するまでね」
「もみ、じ‥‥」
「早苗さん、いえ、ミシャグジ様はお腹が空いていらっしゃる。とてもとても。諏訪子様一人じゃあ、とても足りないでしょう。貴女も、はたて殿も贄になってもらわなくては」
「私も、供え物にすると‥‥?」
「ええ」
「は、それは‥‥哀れな最後ですねえ‥‥蛇のエサなんて、はは」
「光栄に思ってください。ミシャグジ様の神饌となれるんですから」
ともすればえげつない冗談を言っているかのよう。先ほどに比べ、椛の声は幾分冷静だった。しかし、その中身は全く逆。椛は完全に、ミシャグジ様に仕える一匹の狼に成り果てていた。
「では、しばしお待ちを。あの烏と祟り神を狩って来ますから。その間、ゆっくりと長い妖怪人生でも振り返っててくださいな。文殿」
そう言い残し、椛は飛んで行ってしまった。
「はたて、逃げ、て、はた、て‥‥!」
残され、一人水面に漂う文は、大声を出してはたてに椛が向かっていることを知らせようとした。しかし、大穴の開いた腹は、うまく大声を出す力を溜めてくれない。のどから出てくるのは、内緒話でもしているかのようなスカスカの叫び声。
「最初にリタイアですか。情けなさすぎ」
悔しげにつぶやくと、射命丸は夜空を見上げる。満月で白く染まった空は夜明けにはまだ遠い。空にはまだ満月が誇らしげに浮かんでいた。
「‥‥せめて、動ければ何とかなるんですが、ね」
水を蹴飛ばすことも、かくこともできず。ときおりうねる波にもまれながら、文はため息を吐いた。ちらりと横を向く。少し離れた水面には、扇の柄を握った手が静かに浮かんでいた。
**************
「ぐ、え‥‥」
喉笛を抑えられた唐傘お化けが苦しげな声を出す。あまりに弱弱しいその姿に、はたての胸がちくりとざわめく。でも、はたては容赦なくその手に力を籠め続けた。
胸の、呪いのあざがじわりと熱を持つ。まるでそれは麻薬の様に、はたての脳みそを痺れさせた。
――――ああ、私イマ、諏訪子様に褒められてる。
諏訪子の言いつけどおりに動けば動くほど、胸の痣は苦しみではなく安らぎをはたてに与えてくる。踊らされているのは百も承知だが、今のはたてにそれを拒否しようという気はなかった。
「うひひ」と笑いながらはたては唇を舐める。彼女の頭の中では、昨晩諏訪子から聞いた話が、ぐるぐるとまわっていた。
――――楽しくなっちゃったのさ。アイツらとケンカするのが――――
「‥‥はい?」
ちゃぶ台の向こうで茶をすすりながら、諏訪子が遠くを見てつぶやいた。
射命丸も一時手帳から顔をあげて筆記を止める。
神奈子と椛がにとりを攫って行った日の夕食後、諏訪子は、縁側で夕涼みをしていた二匹の鴉天狗を居間に呼んだ。首輪と呪いつきの天狗達は、何をされるのかと警戒しながら中に入っていったが、そこで見たのはテーブルの上でうっすらと湯気を上げる人数分の湯呑と、せんべいの入った木の器だった。
「まあ、座ってよ」と諏訪子に促され、射命丸とはたてはそこで諏訪子の昔話を聞かされることになったのである。そこで出たのが、先ほどの「楽しくなった」という台詞だった。
「はい?」と聞き返す射命丸と正座しているはたてを前に、諏訪子は時間をかけて口の中でお茶をころがし、ごくりと飲み込んだ。そして、十分にのどが潤ったのを確かめると、「うん」とまた静かに話し始めた。
「最初は、自分をこんな“バケモノ”にしたミシャグジ様が憎くてね。次から次へと湧いては襲い掛かってくる彼らにうんざりしてたんだ。でもね。何がきっかけだったかな。‥‥うん。もう、思い出せないけど。ある時からね、それがすごい楽しくなっちゃったの」
「‥‥楽しくなったんですか?」
「うん。憎いアイツらがさ、信じられないって顔をして、私の前に倒れ伏すのさ。その瞬間がね。すごい好かったんだ。うーん。こう話してると怪しい趣味のおねーさんだねえ。あはは」
「諏訪子様はドSですねえ」
「ちょ、ちょっと文!」
「いいよはたて。気にしてないから」
暢気な射命丸の台詞に慌てるはたてに向かい、諏訪子は笑いながら片手をひらひらと振った。
「いったん楽しくなるとね。止まらないさ。自分から相手探して、ケンカしに行った」
「ミシャグジを自分から探して‥‥と」
「射命丸。迂闊に呼び捨てにするな。後が怖いんだから」
「わ、申し訳ありません」
手帳に愛用のペンで諏訪子の話を書き留めていた射命丸は、諏訪子の低い声にびくりと肩をすくめて、誰もいない庭に向かって頭を下げた。
行儀よく正座しながら話を聞いていたはたてはお茶をちょっと啜ると、「くわばらくわばら」とか言っている射命丸の代わりに諏訪子に聞いた。
「そんなケンカを、ずっとしてたんですか」
「そ。表向きは、人間達をミシャグジ様から守るために。実際のところは、私のために」
「‥‥結果としちゃ、人間達にとっては良かったんですね。自分たちを襲うおっかない神様を、どんどん諏訪子様が従えていったんだし」
「どうだろね。確かに人間達はミシャグジ様から何かされることは減っていったよ。ミシャグジ様からはね」
「どういうことです?」
首をかしげるはたてに向かい、諏訪子がにやりと笑った。あの底冷えのする祟り神の笑いだ。一気に、はたての背中に冷たい汗がにじんだ。
「‥‥諏訪子様、が?」
「うふふ」
はたての質問にあいまいに笑って返すと、諏訪子は煎餅をかみ砕き、ぬるくなったお茶で一気にそれを流し込んだ。はたてと射命丸は、黙って諏訪子が再び話し始めるのを待っていた。
「ま、そういう風に、自分からケンカしに行ってたんだけどね。そのうち、周りのミシャグジはみんないなくなっちゃった。全部私が従えちゃったり、私に捕まるのが嫌で、逃げたり、隠れたりして」
「諏訪子様はミシャグジ様にも恐れられるようになったということでしょうか」
「いんや。鬱陶しく思っていたかもしれないけど。今に至るまで、私を恐れたミシャグジ様はいないよ」
「居ないんですか」
「うん。奴らの本質は精霊なのさ。自然から生まれた、ここでいう妖精みたいなモノ。沢山いるように見えても、みんなで一つ。一つでみんな。カミサマと分霊みたいなもんさ。分かれているように見えても一つ。種族じゃないんだよ。自然そのものなのさ。だから、彼らは私を恐れない。自然は誰も恐れない」
「でも、ミシャグジ様方は諏訪子様を避けていったんでしょう」
「嫌われたのかもね、もしかしたら」
首をかしげて聞くはたてに諏訪子は小さく笑って答えた。
「さてま、そうやってみんな居なくなってくるとなるとね、ケンカできないでしょ。我慢できないのさ。ケンカしたくてうずうずして」
「はい」
「だからね、連れてこさせたんだ。私の氏子たちに」
「は」
「ミシャグジ様をですか?」
「そう。『今すぐミシャグジを連れてこい!』って祟りまき散らして脅かすの。‥‥氏子たちには苦労かけたね。自分たちで生贄を出してそれで呼び出して私のところに連れてきてたりしてさ」
「生贄‥‥」
「うん。そのころになるとね、まあ、“いろいろ”あって私に仕えてる一族の中にもかなり私の血が広がっていてね」
「はあ」
「良い“生餌”になったね。よく釣れた釣れた」
「‥‥はい!?」
とんでもない台詞に驚く二羽の鴉天狗に、諏訪子はしてやったり、という顔でゲロリと笑った。残酷な話を楽しそうに話すその姿は、鴉天狗達にはわざとそういう話ぶりをしているような、ひどく露悪的な振る舞いに見えた。
諏訪子は彼女達に構わず、話を続けた。
「私の血を分けた一族の子を、彼らはミシャグジ様への生贄にしたの。ミシャグジ様はその子を喰ってこの世に現れる。そして、私はミシャグジ様になったそいつらとケンカをする。一年神主なんて言葉遊びさ。本当にミシャグジ様の巫女的なことをしてたけど、結局は私にヤラレるんだから。ミシャグジ様として」
「‥‥」
「でもね。そうやって現れたミシャグジ様はみんな自分が喰った生け贄の、人間の姿なのさ。相性の問題かね。あまり強くなかったよ。うふふ。だからさ‥‥」
「諏訪子様‥‥」
「言いたいことは解るね?」
顔をゆがめる鴉天狗達の目の前で、祟り神がその赤い口をガパリと開く。金色の目は猛獣のように爛々と光り、息も荒くなってきていた。
「あの子は。‥‥早苗は、ミシャグジ様と完全に混ざった。ひひひ!初めてなんだよ!こんなことは!ああ、楽しみだなぁ。楽しみだなあ!いっとき早苗が怖気づいて、私のところに戻ってこようとしたときはどうしようかと思ったけど!今じゃすっかりミシャグジ様になってるそうじゃないか!神奈子が諏訪に来てから、そういうことはしなくなってたからね。アイツも神性として自然を治める力を持ってたから、ミシャグジ様も私一人の時よりかはおとなしくなっちゃって、あまり私を喰いに来なくなってたし、私も神奈子に負けて、血の気が少なくなってたから。だから、これは本当に久しぶりのケンカなんだよ。ああ、早苗はどんな顔して倒れるんだろう!顔が人間なのがまたいいね。表情が豊かだからね!」
「‥‥なんてこった」
げろげろと楽しそうに笑う諏訪子から目を逸らし、はたてはうつむいて頭を振った。諏訪子はミシャグジ様に呪いを掛けられ、神様になった。神様になった彼女は、彼らを“喰らって”生きてきた。自らを喰らおうとする自然を逆に喰らって治め、神様として生きてきた。‥‥“喰らう”ために、自分の血が流れる人間達を贄にしてまで。
「自分は生贄ではない」と、自分に掛けられた呪いを跳ね返すために、否定するために、彼女をエサとみなすミシャグジ様を逆に倒す。そのために、ある意味自分の分身ともいえる、血を分けた人間達を贄に出す。喰って喰われて、延々その繰り返し。終わりのこない無間地獄だ。これは!そして彼女はまたその繰り返しをしようとしている。愛すべき家族であるはずの、早苗をもって!
止められないか、なんて間抜けな質問はできるわけがなかった。何千年もそんな繰り返しをしてきた彼女に、今ここでしがない天狗が説得の真似事をしたって絶対に止められるはずがないのだ。
はたては射命丸の顔を窺った。彼女もまた、手帳にメモを取りながら、苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。
「‥‥神奈子様は、そのことを知っておられるのですか」
「そのこと?」
「今まで話された内容です」
「大体ね。‥‥ふん。でもまあ、暢気なもんだったね。早苗が一年神主になっちゃったってのに、蛇神だ蛇神だって喜んでさ。アイツ、一年神主は人間の姿の奴しか見たことがなかったし。私がすぐにあの子を元に戻すと思ってたんだろうね。‥‥ははは。私が祟り神だって忘れてんじゃないか。馬鹿な女」
「‥‥‥」
「‥‥!」
はっ、とはたてが息を飲む。悪びれた様子でからからと笑う諏訪子。その目尻に一粒の涙が浮かんでいたのだ。それを、はたてと射命丸は見逃さなかった。
「さ、昔話はここいらでしまいだ。今日はもう寝るよ」
ぱちん、とあぐらをかいた両膝を叩くと諏訪子は立ち上がり、「おやすみ」と言って寝室へと入っていった。
涙をぬぐう身振りは一切なかった。もしかしたら、無意識で流れた涙なのだろう。
居間に残された鴉天狗達は、しばらくその場を動くことができなかった。
「‥‥はたて嬢。見ましたね。あの涙」
「見た」
「‥‥もしかして、止めてほしかったのでしょうか。誰かに」
「さあね」
「今までの話を聞く限りでは、早苗さんは殺されます」
「早苗ちゃんが殺されたら‥‥」
「さっきの涙を見る限りじゃ、諏訪子様はそんな事態になったら自暴自棄になって何するか分かりません」
「でも、早苗ちゃんは完全にミシャグジ様と混ざったから、強い」
「もしかしたら、殺されないですむかもしれない」
「それにこのケンカを止めたら、諏訪子様が“死んじゃう”」
「ミシャグジ様を、いえ、自然を治める神の役割を放棄することになる。‥‥“死んだ”、神性をなくした神は、ただの大妖怪に成り下がる」
「‥‥このケンカを止めちゃダメ。誰にも邪魔させちゃいけない。早苗ちゃんが絶妙なところで負けなきゃいけない」
「‥‥」
2羽の鴉天狗はうつむいたままぼそぼそとつぶやきあった。一瞬の沈黙の後、射命丸がペンと手帳を放って畳にばたりと寝転がった。
「八坂様の介入‥‥は無理なんだろうねぇ‥‥ミシャグジ様と諏訪子様の直接対決じゃなきゃいけないって‥‥ああー!もう!めんどくさいねえ!ホントに!‥‥やりたくなーい!」
射命丸は頭をわしわしと掻き毟りながら、小声で器用に叫ぶ。はたてはそんな彼女を見下ろして、苦笑しながら訪ねた。
「降りる?」
「これ放っておいたらとんでもないことになるじゃない。ケンカの結果早苗さんが死んでも諏訪子様が死んでも、どちらにしたってとんでもない祟り神が山の上に残ることになるわ。この山に住む天狗として、そんな事態は避けなきゃいけない。それに、そうなったら今度は八坂様と残った祟り神との戦いが起きる。‥‥これ以上この家族が崩壊するところを見てるのも目覚めが悪すぎるでしょう!?‥‥そういうこと!」
「うん。そうだね。やろう、文。一番後味が悪くないのは、これしかないよ。諏訪子様のケンカを手伝うんだ。早苗ちゃんをうまく負けさせて、諏訪子様も早苗ちゃんも元に戻す」
「ええ。残念なことにそれしか手立てがないわよね。今の呪いと首輪付きのこの状況じゃあ、麓の連中に協力なんか頼めないし」
「私たちにできるのは、これくらい」
「そうね」
「‥‥」
「どうしました」
「なんかあっさり決めたけどさ。こんなに世話焼きだったっけ、文。もうちょっとこう、『勝手にすれば』とか『絶好のネタなのに!』みたいなこと言うかと思ってた」
大の字に寝転がったままの射命丸は、ほんの少しだけ口をとがらせると、ぼんやり抗議した。
「貴女は私を冷血動物か何かと勘違いしてない?‥‥むしろ世話焼きですよ。おせっかいですよ。私は」
「そうね。世話焼きよねー。あんた。魔法使いの魔理沙ちゃんだっけ。いっつも可愛がってるもんねえ。山に入り込んで白狼に追っかけられてんの、なんだかんだで庇ってみたり」
「ほっとけないだけです。私の目の前で進行形で悲劇が起こっているならなおさらです」
「ヒーローですか、あなた」
「“子供”好きの天狗ですよ」
「‥‥ほう。それ、諏訪子様も入るの?」
「見た目的に」
「アブねえ奴」
「ほっといてくださいな」
くすくすと笑うはたてに射命丸もふん、と笑って返した。二羽の鴉天狗は、微笑しながら呟きあうと、ようやく腰を上げたのだった。
諏訪子と、早苗、神奈子を守るため。露払いとして彼女のケンカの手伝いをする。早苗を負けさせるために。万に一つの、早苗が殺されないという奇跡に掛けて。
彼女達にできることは、今はそれしかないのだ――――
「――――そういうわけよ。だから、私たちはあなたの邪魔をする。諏訪子様の邪魔はさせない。絶対に」
はたての話を聞いた小傘が、首を捕まれ苦しげな表情のままで咳き込むように反論する。
「お、おなじ、だよ。わたしも、私も、同じ事、したいんだ」
「貴女に何ができるのさ。ひ弱なお化けのくせして。下手にうろつかれたら怖いの。万が一諏訪子様が負けちゃったら、どうなると思ってんのさ」
「そ、そんなこと、しないよう‥‥」
「ふん」
小傘の首を捕まえたまま、はたては彼女を責める。
呪いの痣が心地いい痺れを脳みそに送ってくる。
――――すごい目つきしてるんだろうな、今のアタシ。
ひひひ、とそこでいやらしく笑ってしまう自分の狂い始めた脳みそに、はたては笑いながら小さく舌打ちをした。
おおおおおおおん――――
“早苗”の咆哮が聞こえる。苦しげな声だ。
‥‥殺しちゃだめだよ。諏訪子様。そう、胸の内で呟くと、はたては小傘にとどめを刺しにかかった。
「――――さあ、話はおしまい。分かったら、大人しくやられてなって。分かるでしょ。邪魔しちゃあいけないんだよ」
「ち、がう‥‥」
「違う?何が違うの?これはね、諏訪子様にとって必要な儀式なんだよ。イケニエとしてささげられた自分と、こんな目に会わせた奴らを否定するための」
「そんなんじゃ、だめだよう‥‥ぐうう!」
「聞き分けのない木端妖怪だね。くびり殺してやる」
「っげ‥‥!」
手に力を込める。殺しちゃいけないと言っておきながら自分は小傘を絞めようとしている。
――――矛盾はしていない。だって、私は諏訪子様の手下なのだから。
邪魔者は排除するべきなのだから。
***************
小傘の意識は、消失寸前だった。
「く、え‥‥!」
はたての細い腕が、小傘の首を砕こうと恐ろしい力で締め上げてくる。
彼女から聞かされた諏訪子のとんでもない過去と、はたて達が諏訪子に味方する理由。それらは分かった。理解した。自分のような木端妖怪より、天狗が神楽を見守る方が良いのかもしれない。それが、普通ならば。
眼の前のはたてはどう見てもおかしい。自分が狂っていることに気が付いているか?いないだろう。そんな彼女に任せたくない。それに、自分は“白蛇”の早苗の巫女だ。こんなところで、倒れてちゃあ、巫女の名折れだ。
なんとか手を振りほどこうと、もがく小傘だが天狗の膂力はすさまじい。息はできず声も出せず、痺れる腕はだらりと下がっていく。小傘の視界が、だんだんと暗くなっていく。
うらめしい、うらめしい!小傘の頭の中が、そのフレーズで満たされていく。無力な自分が恨めしい。狂った天狗が恨めしい!
‥‥衝撃が襲ったのは、その時だった。
「げ!?」
「ぷえ!」
突然はたてが後ろに引きずられ、その腕が小傘の首から離れた。あまりに勢いよくはたてが後ろに離れていったため、小傘ははたての腕に首を引っ張られて前のめりに地面に倒れた。
倒れた瞬間重たい水音が聞こえた。
「首と胴体がサヨナラしなかっただけでも感謝してくださいね‥‥」
なんて冷たい声!ようやく血が回り始めた頭を振りながら顔をあげた小傘は目の前の光景をみて一瞬気が遠くなりかけた。
「なに、これえ‥‥」
「!?」
そこには、後ろから何者かに首を掴まれたはたて。彼女は泣きそうな声を出しながら、自分の腹から突き出ている鋭い銀の切っ先を見つめていた。
「ひ!?」
「ふん」
つまらなさそうな声と共に、剣がはたての腹から引き抜かれる。首を離されたはたてはがっくりと膝を落とした。
うなだれ、腹に開いた穴とそれを抑えて血まみれになった手を交互に見つめて、はたてが呆然と「痛い」とつぶやく。
彼女の後ろにゆらりと立っていたのは、全身血まみれの椛だった。
「も、もみ、じ‥‥!?」
「よかった。小傘。無事だったね」
「何、そのカッコ‥‥」
「ああ、これ?ミシャグジ様の邪魔をする馬鹿者をやっつけたの。その時に掛かっちゃった」
「え、今、なんて‥‥」
「射命丸にはてこずったけど、小傘、助かったよ。はたての気を引いていてくれて」
「何、何言ってるの、椛‥‥!」
「これから、早苗さんの援軍に行ってくるから。小傘はこいつににとどめを刺してあげて。お供え物にしなきゃ。早苗さんはお腹が空いてるんだ。諏訪子様だけじゃ足りないからね」
「椛!?」
「じゃ、行ってくる。油断しちゃだめだよ。そいつもなんだかんだ言って天狗だからね」
「椛!」
一方的にしゃべると、椛は背を向けて飛んで行ってしまった。
椛が狂ってしまった。瘴気にやられて、射命丸を手に掛けた。あまりの出来事に、小傘はただただ呆然と目の前でうずくまるはたてを見つめることしかできない。
その時だった。
「きひひひ!」
「わあっ!」
突然、はたてが奇声をあげて小傘に飛び掛かってきた。なすすべもなく、小傘ははたてに突き飛ばされる。
「ぐ!」
「きひひ、ひひ」
「ぐ、え‥‥」
はたては小傘に馬乗りになると、その細い腕で小傘の首を恐ろしい力で締め上げ始めた!
ぼたぼたと、はたての腹の穴からこぼれた血が、小傘を真っ赤に染めていく。
はたての胸のあたりからは、諏訪子のあの呪いだろうか。真っ黒い霧が、もわもわと立ち上っていた。
あっという間に、小傘の意識がもうろうとし始める。
――――だめだ、ここで、眠っちゃったら、だめだ。
小傘は必死に右手を必死にまさぐり、すぐ近くに転がっているはずの化け傘を探す。
しかし、文字通り手探りの状況であり、必死に血でぬめる手を動かすが、傘を探し当てることができない。
「とめ、ないと‥‥もみ、じ、とめ、な、きゃ」
「ひひひひ!」
みしり。
小傘の首の骨が恐ろしい悲鳴を上げる。背骨に激痛が走る。視界が暗く狭まっていく。はたてから漏れ出した諏訪子の呪いの霧が、小傘の体をじわじわと撫で始めた。
「ひ、あ‥‥」
霧が触れた瞬間、小傘の体にしびれが走る。まるで弱い電気を流されているようだ。どんどん力が抜けていく。
「だ、め‥‥」
このまま気を失ってしまったら、椛や早苗を見守ることができなくなる。万が一、早苗が諏訪子を倒してしまったら、早苗は一生、言葉も通じない恐ろしい蛇神のままだ。狂った椛が早苗に加勢したら、その万が一もありえる。
止めなければ。自分が椛を止めなければ。必死になって小傘ははたての腕を振りほどこうと抵抗を続けた。
しかし、体は思うように動かず、右手はまだ傘を掴めない。
「ひひひ!」
「く、え‥‥」
弱弱しく「いやだ」とつぶやきながら、小傘は意識を手放した。
************
白い霞が、視界を覆っていた。
霞の向こうに、ぼんやりと黒が見える。
ああ、夜だ。
気が付けば、小傘は夜の森を歩いていた。
そうだ。
思い出した。
自分は森を歩いていたのだ。
今日も、白蛇の巫女は、贄を持って向かうのだ。
森の奥の、そのまた奥へ。
言葉も何も通じない、蛇神になってしまった、早苗のもとへ。
赤い目を爛々と輝かせながら、小傘の持ってくる生け贄を待ちわびる彼女の顔は、人間だったころを思い出させるような、穏やかな笑顔。
しかし、その手に持っているのは、贄の食べ残し。
その口にくわえているのは、贄の骨。
真っ白なしゃれこうべを、くるくると弄びながら、あの神様は早苗の笑顔で待っている。
――――やめて、その顔で、早苗さんの顔で、そんなことしないで
何十回、ここに来るたび泣いただろうか。恐ろしい早苗の行いに、昔の早苗の思い出を壊されるのが、怖くて、苦しくて。
今となってはもう、小傘の涙は枯れ果ててしまった。
今は、贄にかぶりつく瞬間の、昔の早苗みたいな嬉しそうなカオを見るため、小傘は足を運んでいるのだ。
その、生け贄として里から攫ってきた少女の髪を掴んで引きずりながら、小傘は暗闇の森の奥を見つめる。
‥‥泣き叫ぶ子供の口は、唐傘の舌で縛り上げる。
暴れようとするならば、目の前で閃光を焚き、傘で殴り、大人しくさせる。
半年に一度、里に現れ、子供をさらっていく化け傘。
小傘は、早苗のために尽くすうち、誰からも恐れられる存在になっていた。
あふれる恐怖は、小傘に力を与えた。
里の守護者は、何年も前に、殺した。
もうだれも、彼女を愉快な忘れ物とは思っていない。
それでいいよ。と小傘は思う。
あの早苗を野放しにしてたら、気ままに暴れて人を食って、大変なことになっちゃう。
だから、暴れないように、わちきが早苗を管理しているのだ。
人間達も、無差別に襲われないだけ、感謝してほしいものである――――と。
目的地の森の奥。
茂みの奥に、赤い目が光っている。
贄が、その光を見てけたたましく泣き始めた。
その声に誘われるように、赤い光は、ゆっくりと茂みの奥から近づいてくる。
その光を見て、小傘は嬉しそうに笑うのだ。
こんばんわ。また来たよ、早苗‥‥と。
無造作に小傘は贄を放り投げる。早苗の待つ茂みの方に。
金切声をあげる贄。幼いその横顔はすっきりと整っている。もう十年もたてば引く手あまたの器量よしのお嫁さんに成れただろう。
十年どころか、十分ももう、生きられないだろうが。
茂みの奥の赤い光が、さらに近づいてくる。金切声がひときわ大きくなった。その瞬間、贄の首に白い尻尾が巻き付く。
泣きさけぶ少女は、抵抗もできずに茂みの奥に消えていく。
その光景を見て、小傘は、からからと冷たく笑うだけなのだ。
今の彼女にとってのご馳走は、ちんけな驚きの心ではないのだ。恐ろしい白蛇に生きたまま喰われる、贄たちの恐怖がご馳走なのだから。
―――― ほら、早苗。今日はとっても美味しそうな女の子だよ。
―――― だから、ほら、笑ってよ。いつもの飛び切りの笑顔を見せてよ。
―――― 人間だった、ころみたいにさ。
―――― そして、ミコの私にごほーびをちょうだい。美味しい美味しい、恐怖のココロを。
**************
「――――だめえ!嫌だ!そんなの、絶対に嫌だ!」
酸素不足の小傘の脳みそが映し出した、救いのかけらもないバッドエンド。その恐ろしい結末を見て、朦朧としていた小傘の意識が澄み渡る。
瞬間、しびれる右手に、硬い傘の柄が触れた!
「『超撥水』!」
ありったけの妖力を、傘に込める!
「『かさかさお化け!』」
「ぶえ!?」
開かれた傘から、爆発的に水がはじけ、はたてを、諏訪子の霧を吹き飛ばす!汚れも水も穢れも何もかも吹き飛ばす、妖怪印の撥水加工!
「でえええい!」
「――――!」
さらに断続的に水がはじける。馬乗りになっていたはたてが、吹き飛ばされて水滴と共に宙を舞う。
――――大けがを負った相手を追い込むのはすごく抵抗感があるし、嫌だけど、彼女をしとめるチャンスは今しかない!
腹に大穴開けても自分の首をへし折りかけた相手だ。少々無茶するくらいが丁度!
「天狗様!あなたの丈夫さに掛けるからね!」
震える足に気合を一発。すっくと立ち上がると、小傘は構えた傘を開く!
「目を回せ!『後光・唐傘おどろきフラッシュ!』」
かっ!
「!!!!!!」
開いた傘がクルリとまわり、あたりに閃光をまき散らす!傘の骨一本一本がレーザーを撃ち、まき上がった水滴に乱反射。はたての周りの空間が、光の嵐と化す!
「まだまだぁ!」
はたてに隙を与えず、小傘はさらにスペルを展開する!
「『虹符!オーバー・ザ・レインボウ!』」
光にまみれた水滴が作り出すのは、夜の闇に掛かる七色の虹!
「いけええええ!」
宝石の様に輝く水滴が、一斉に隊列を組んではたてに襲い掛かる!
「―――――!!!」
声もなく吹き飛ばされ続けるはたて。必死に弾幕を広げ続ける小傘。
そして、ついにはたては地面に墜落する。
「はあっ!はぁっ!」
傘を杖代わりにして、小傘は呼吸を整える。はたては地面にうつぶせに倒れ、失神していた。
一瞬、殺してしまったかと小傘の背中に冷たい汗が流れたが、緩やかに膨らむはたての背中を見て、小傘は彼女の呼吸を確認し、荒いため息をついた。
椛の剣で串刺しにされたはたて。ブラウスの背中に開いた穴の周りは血にまみれていたが、出血は止まっている様だった。妖怪の規格外の頑丈さに、小傘は改めて胸の内で感謝を述べる。
自身の体も血液で真っ赤に染まっていたが、全部はたての血の様で、怪我はない。
「椛‥‥!」
そして、小さくつぶやくと傘を開いて飛び立った。
「白蛇の巫女」として、荒ぶる早苗を、椛を鎮めるために。
*************************
*************************
「あははははは!ははは!はははは!」
―――― シュウウウッ!
大笑いしながら飛び跳ねる諏訪子に、怒りの声を上げて白蛇が食らいつこうとする。しかし小さなカエルはすばしっこく動き回り、蛇の攻撃を紙一重で避け続けていた。
「でぇい!」
参道の石畳を砕いて土の手が現れ、打ち付けられた真っ白な尻尾を受け止める。
白蛇はまたその手に握りしめられては敵わないと、すぐに尻尾を巻くと今度は横から叩きつける。砕け散る土の手を盾に、諏訪子は後ろへ飛びずさる。その着地点に、茶色の茂みが湧きあがる。小さなカエルを串刺しにしようと伸びてきたのは、白蛇と化した早苗に応えた、鎮守の森の木々の根だ。
「おおっと!」
腕を持って行かれそうになりながらも、諏訪子はさらに後ろへ飛び距離を取る。不気味に笑い声をあげながら跳ねまわっている彼女だが、余裕はなかった。腕を取られた白蛇の目は怒りに染まり、攻撃が恐ろしい速さで諏訪子に向かってくる。すべて、彼女を殺すための、容赦ない攻撃が。
諏訪子に落とされた左腕をかばうこともなく、早苗は残った右腕を振り回す。鋭くとがった爪は容易く岩を砕き、諏訪子の皮膚を引っぺがそうと迫ってくる。風や、木による攻撃や尻尾による打撃のほかに、半人半蛇の早苗には腕という武器がある。それはこれまで諏訪子が対峙してきたミシャグジ達にはないもので、これが早苗の攻撃に変則性を与え、諏訪子から余裕を奪う大きな一因となっていた。
「その腕、奇形だねえ!蛇に腕なんかいらないんだよ!」
イライラと諏訪子は怒鳴り、また至近距離に迫った早苗の爪をかわし、飛び上がると鉄の輪を飛ばす。風をまとった白い腕がそれを受け流す。大きく軌道を変えた鉄の輪は、境内のモミの木をバターでも切るように楽々と切断した。
「しゃあああっ!」
早苗は吠えると、鉄の輪をはじいた右腕を、まっすぐ諏訪子の心臓めがけて突き出してくる。空中に居る諏訪子はとっさに避けることができず、岩を呼び、腕を組んで防御。しかし。
「ぐ、え!?」
突然の衝撃に諏訪子の息が止まる。首に巻き付くのはざらついた蛇の尻尾。早苗の尻尾が後ろから諏訪子を捕えた。腕の攻撃をおとりにして、早苗は尻尾を諏訪子の後ろまで伸ばしていたのだ。
「――――!」
一気に気道まで潰すくらいの強烈な締め付けに声も出せず、諏訪子はもがきながら早苗の尻尾を全力で攫む。しかし、硬い鱗がしなやかに覆う、石畳をも砕く早苗の尻尾は、爪を立てても穴を開けることすらできなかった。
眼の前の早苗の表情が恐ろしい笑みの形にゆがんだ。べろりと舌なめずりをする。早苗は諏訪子を捕まえたまま、大きく尻尾を振りあげた。そして。
ひゅん!
「べっ」
加速の付いた一撃。諏訪子は硬い石畳に、尻尾に首を捕まれたまま叩きつけられた。早苗の尻尾が振り回されるのに合わせ、諏訪子は石畳に叩きつけられる。何度も、何度も、何度も。
声も出せずに砂袋の様に地面に叩きつけられる諏訪子。衝撃と痛みと締め上げで朦朧とする頭に響くのは、首の骨が上げる悲鳴。尻尾を攫んでいた腕は、力なく振り回されるがまま。皮が破れ、血しぶきが舞う。
どすっ!どすっ!どすっ!
―――― ぼぎっ!
「――――――!」
ついに、諏訪子の細い首の骨が限界を迎える。諏訪子の首が、がっくり折れ曲がった。
「か‥‥‥」
抵抗のなくなった諏訪子を、頭上に持ってきてぶらりと吊り下げると、早苗はぼたぼたと垂れ堕ちる諏訪子の血を頭からかぶる。生暖かい血が口の中に流れ込み、その味に早苗の目がトロりと細くなった。
そして、早苗は名残惜しそうな顔をしながら諏訪子をまた高く持ち上げると、トドメとばかりに目の前の地面に垂直に叩き落とした!
「しゅー‥‥‥」
縦に割れた赤い蛇の瞳が、うつ伏せに横たわる諏訪子を見下ろす。彼女が求めた金色の蛙は、体中から血を漏らしながら首をおかしな方向に傾げ、ピクリともせずに転がっている。
ようやく獲物をしとめたという喜びを表すかのように、早苗の目は大きく開かれ、ニヤつく口元もまた大きく裂け、よだれと舌を垂らして荒い息を吐いていた。ときおり、さっき浴びた諏訪子の血が早苗の髪の毛から滲み、顔におぞましい線を書きながら口の中に入っていく。その血はまるで酒の様に、舐めるたびに早苗をどんどん興奮させていった。
「しゅうううう‥‥」
眼の前に横たわるごちそう。諏訪子の血ですっかり興奮した早苗の口からは、ぼたぼたと涎が零れ落ちる。
切り落とされずに残っている右腕は、わきわきと開いたり閉じたりを繰り返し、早く肉を千切りたそうにうずうずしていた。
しかし、早苗は何かに迷ったように目を細め、すぐには手を出そうとしなかった。なにせ、この神は頭を潰しても復活するのである。食いつこうとした瞬間に復活して襲い掛かってくるかもしれない。
早苗はそんな諏訪子を野生動物のように警戒し、動けずにいた。
それが、ミスだった。
「――――へたれが」
呻く諏訪子の低い声。強烈な悪寒を感じた早苗はあわててとどめを刺そうと腕を振り上げた。が。
「2本目」
「!?」
振り上げた右腕に、どこからともなく、天空からまっすぐ落ちてきたブレスレット大の鉄の輪が二の腕まではまり込む!早苗は振り払おうと滅茶苦茶に手を振り回すが、遅かった。
「ひひ」
ばつん!
「ぎゃああああああああ!」
鉄の輪はいとも簡単に早苗の腕をねじ切る!天を仰いで痛みに絶叫する早苗。そして今度は胴体に、諏訪子の鉄の輪がはまり込んだ!
「ひひ。ひ。ひひひ」
「ぎゃああああ!ぎゃあああああ!」
早苗の胴体にはまった鉄の輪は肋骨のすぐ下で縮まり始めた。早苗の内臓が痙攣する。両腕をもがれた痛みと鉄の輪による苦しみで混乱する早苗は、悲鳴をあげながらのた打ち回る。牙を剥き、泡を吹き、白い髪を土埃にまみれさせ、尻尾の先をビクビクと痙攣させながら地面を這いずり回る。割れて飛び出た石畳に、鉄の輪が引っ掛かかった。鉄の輪がさらに腹の方に押し込まれる。白い鱗におおわれた腹を鉄の輪が容赦なく締め付けた。
「ぎいいい!」
「ひひ。ひひひ。ひひひひ」
ズタボロの諏訪子は、地面に倒れたまま、目だけで早苗の苦しむ様を見ていた。
その金色の目はキラキラと輝き、無邪気な子供の様だが、その下、石畳に押し付けられた唇は不気味にゆがんでいた。
今ここで起こっていることは、諏訪子が夢にまで見た血みどろのミシャグジとのケンカ。諏訪子の匂いに惹かれてやってきた、恐ろしい白蛇を叩きのめしている光景。
――――ああ、楽しいなァ。
そう、つぶやく。
潰れた体が元に戻っていく。折れた首を、ようやく骨がつながった腕で無理やりはめ込む。
「ぎっ!」
乾いた木の枝を折るような音がして、一瞬背骨に電流が走った。
「シャアアアアアアア!」
眼の前で、赤い目を光らせた早苗が尻尾の力だけで体を起こす。上から見下ろすその顔は、痛みと怒りと血にまみれていた。早苗はそのまま体を倒すと、大口を開けて諏訪子に襲い掛かってきた!
「絞め殺される前に私を殺すってか」
にたりと笑うと、諏訪子は回復した腕で地面を叩き、ころがる。体のあちこちが悲鳴を上げ、激痛が手足を痺れさせたが、間一髪、諏訪子は毒の牙から逃れた。
諏訪子を噛み損ねた早苗と、目があった。
自分が、間抜けに獲物をしとめそこなったのに気が付いた、手負いの白蛇の顔は恐怖に染まっていた。致命的な隙を敵の目の前で見せてしまったのだから。
「それ」
まだ強烈な痛みが走る体を横たえたまま、無造作に人差し指を立てて指を振る。手品のように現れた鉄の輪が、早苗の首に狙いを定めた。
自分がしようとしていることに気が付き、諏訪子の奥の方で誰かが「やめろ」と叫ぶ。でも、諏訪子の手は止まらなかった。これは蛇だ。ミシャグジだ。憎い憎い白蛇の神だ。“早苗ではない”!
だから――――!
「喰らいな」
言って、鉄の輪を投げつけようとした、その時だった。
「ウオオオオオオオ!」
「!」
天から響く狼の遠吠え。それと同時に襲い掛かる、無数の風の塊!
「ぐあっ!」
まだまともに動けない諏訪子は風の直撃を喰らい、吹き飛ばされた。
――ぱ きぃん!
土煙の向こうから聞こえたのは、澄んだ鉄の音。
そして、怒りをはらんだ静かな声。
「よくも、早苗さんを‥‥ミシャグジ様をこんな目に‥‥痛かったでしょう、辛かったでしょう‥‥大丈夫ですよ、枷は、切りました。‥‥許さない。絶対に許さない」
早苗をいたわる怒りにまみれた優しい声。
風に薄れていく土煙の向こうに、もう一つの影が現れる。
血に染まった天狗装束。ねらりと月の光を照り返す、銀の刃。
そこに立っていたのは赤い目を光らせ、血に染まった衣をまとった、狂った大神。
「来たかい、狛犬」
椛は無言で突進。倒れたままの諏訪子の首に刀を振り下ろす。火花が飛ぶ。祟り神が手に持つ鉄の輪が刀を弾く。切れない鉄の輪に剣が叩きつけられる。鍔迫り合い。ニヤリと笑う祟り神。呻り声をあげる狼。
「殺そうとしてましたよね‥‥今、早苗さんを殺そうとしてましたよね‥‥やっぱり駄目だぁ、諏訪子様。眷属にするなんて言ってたくせに‥‥早苗さんを殺そうとしてるじゃないですか。‥‥じゃあ、こっちも手加減なんかしませんよ。ねえ、お命頂戴しますよ、諏訪子様。存分に苦しみながら切り刻まれて、早苗さんのエサになってもらいますからね。覚悟してくださいね」
ぐるぐると野生動物の様に呻り声をあげる椛。
諏訪子はその哀れな有様を見て、ひひひ、とうれしそうに笑った。
「は。かわいそうに。自分が何をしようとしてるのか分からないんだ。‥‥『忘れないでね、私たちがここに居る理由』とか小傘にカッコいいこと言ってた割には、簡単に堕ちたじゃないか、椛。たっぷり瘴気を嗅いだね。良い、狂いっぷりだ」
「何をしているのか分かってないのはあなたの方でしょうに」
「お互い様だよ。これでお前もこっち側に来たわけだ。ひひひ」
椛の目が一瞬ちらりと後ろを向く。石畳の上に体を横たえた早苗が居た。両肩から血を流し、荒い息をついて痛みに震えているミシャグジ様が。
「早苗さんを守れるなら私がどうなろうと構いません」
「そうかい」
「覚悟!」
が あん!
力任せに打ち付けられた刀がついに諏訪子の鉄の輪を歪めた。
「次で終わりです」
「ああ、馬鹿な子だ」
「ふん」
椛は刀をさらに一振り。鉄の輪が真っ二つに割れた。刃はそのまま祟り神の肉へ。諏訪子は何の防御もせず、袈裟がけに切り裂かれた。
真っ赤な血が飛び散る。しかし祟り神は痛がるそぶりも見せず、刀を喰いこませたまま、椛をニヤニヤと見つめた。
異様な空気に椛はそれ以上追撃せず、早苗の元まで飛びずさる。
「ははは!」
「――――!何がおかしい!」
「ははは!ははははは!」
壊れたロボットのようにガクガクと体を起こし、諏訪子はケタケタと不気味に笑い続ける。
その首元から覗く刀傷が、見る間に元に戻っていく。
何度、いくら痛めつけてもすぐに回復する諏訪子に、椛の後ろでやり取りを見ていた早苗が体を起こし、牙を剥いて唸った。
「しゃああああああ!」
「早苗さん!」
「おっと、早苗も来るかい。ふふふ。じゃあ、こっちも助っ人を呼ぼうか」
言うなり諏訪子は地面に両手をつく。着いた両手から黒い波があふれ、参道に水のように広がっていく。
「でてこい、でてこい。お前たち。仕事の時間だよ!」
「!」
黒い水面がざわりとうごめく。そこから漂ってくる強烈な何者かの気配に、早苗と椛が牙を剥く。
「しゃっ!」
「!」
“何か”が黒い水面から現れようとした瞬間、椛を押しのけて早苗が突進していく。目標は諏訪子ではなく――――
「ギャアアアアアア!」
「―――!」
黒い水面を突き破って出てきたのは、白い巨大な蛇!早苗はしかし、蛇がまさに出てくるという問答無用のタイミングでその喉元にかぶりついた!
「グルァァアアアアア!」
「ミシャグジ!?」
「よそ見するなぁ!」
「!」
呼び出された白蛇の正体に気が付き息を飲む椛に、不気味な笑みを浮かべた諏訪子が襲い掛かる!
反応が遅れた椛は咄嗟に左の腕を上げ、諏訪子の抜き手を盾で受けた!
ばご ん!
「!」
「ひひひひひひ!」
異音が響く。目を剥く椛。諏訪子の腕が盾を貫通していた。金属板の内側で、諏訪子の腕は不気味な虫の様に椛の腕を求めてグネグネと動き回る。
「くそっ!」
椛は盾を投げ捨てて後ろに飛びずさる。諏訪子の爪が椛の袖を切り裂いたが、間一髪、椛の腕は無事だった。
「あーあ。もうちょっとだったのにねえ。お前の腕、その服みたいに腐らせてやれたのにねえ」
「!」
諏訪子の爪が切り裂いた布の切り口には、紫の汁がこびりついていた。しゅうしゅうとすえた臭いをまき散らし、汁は布を侵していく。椛は左の袖を慌てて切り捨てた。
「――――蟇蛙でしたか、貴女」
「げろげろげろ。祟り神にケンカ売ったんだ。それがどういうことか、教えてあげるよ!」
紫に染まった諏訪子の爪が、毒のしぶきをまき散らして椛の首を狙ってくる!
―――しゅううううう!
「ギャアアアアアア!」
「!」
突如上がった早苗の悲鳴。何とかちらりとそちらの様子をうかがう椛の目に映ったのは、4匹のミシャグジに絡み付かれ、手負いの一匹に噛み付かれた早苗の姿!
「早苗さん!」
「よそ見すんなよ!そんなに首腐り落されたいか!」
「ガルルル!」
「心配しなくても早苗は“先輩たち”とよろしくやるさ!テメエはちゃんとアタシの相手しろよ!ケンカしたかったんだろ!バカ犬が!」
「貴様!」
「はん、クソが、クソが。一年神主、神遊び、ミシャグジに“喰われた”私の子供たち!全部全部全部!思い出させて!“オマエ達”はやっぱり来た!せっかく忘れていたっていうのに。黙って私につき従ってるだけでよかったのに!アア、早苗を喰っちまいやがって。私を化け物に戻しやがって!クソが!クソが!畜生どもめが!」
「何を言ってる!」
「お前なんかにゃ教えてやらねーよ!」
横なぎに刀を振るった椛の視界から諏訪子が消えうせる。瞬間、足首に鋭い痛み。天地がひっくり返る。
足払いを掛けられたことに気が付いたのは後頭部に強烈な痛みが襲った後だった。
「ぎゃん!」
「ひあはははは!ほれ捕まえたぞ!椛!」
両膝で椛の足を抑え、マウントポジションを取った諏訪子が左手の爪を首に伸ばす。椛は咄嗟に両手でその腕をつかんだが、幼子の様な体のどこから力が出てくるのか、天狗の膂力を持ってしても諏訪子の片腕一本押し返すことができない。
「ほーれほれ。こっちの手は暇こいてるぞー」
「ぬあ、あ!」
ひらひらと、自由な右手を椛の目の前で振ると諏訪子はその手を下に伸ばす。無防備な椛の股間を、爪を立てずにズルリと撫で上げる。
そのおぞましい感触に、椛は総毛立てて身悶えた。
「な!」
「ひひひ。体ん中から腐らせてやろうか。ねえ」
「――!? やめ、やめろ!」
「ひひひひひ」
「ぬああああああ!」
卑猥な冗談などではない。諏訪子は冷たく笑いながら椛の女陰に毒手を伸ばす。椛は懸命に足を動かそうとするが、質量が増えたかのように、諏訪子の小さい体はびくともしない。
その時だ。
「傘符!」
「んあ?」
横合いから響くのは小傘の凛としたスペル宣言!
「一っぃぃぃぃぃ本ん足ぃピッチャぁぁぁぁ返しぃぃぃぃぃぃぃ!」
ばごん!
ひゅっ!
打撃音、そして風切音。
不意打ちの絶好のチャンスだというのに、わざわざスペル宣言までして攻撃を仕掛けてくる小傘に、諏訪子は呆れかえる。
諏訪子はこのスペルに覚えがあった。小傘が早苗と遊んでいる時、野球漫画を読みながら作ったスペカ。千本ノック宜しく、相手に向かって弾が飛んでくる大味な弾幕だ。
「は、馬鹿が!」
迎撃すべく、諏訪子は声のした方向を振り向き―――――
「だあああああああああ!」
そこで眼の前に広がるのは水色の弾!いや、アタマ!
「はあ!?」
ごぎょいんっ!
「ぶあっ!」
「ぐううっ!」
小傘の頭が諏訪子の顔面にめり込む!大玉の代わりに飛来したのは小傘本人!さっきの打撃音は小傘が自分自身を傘で打ち出した音!予想だにしない特攻に驚いた諏訪子は彼女のヘッドバッドをまともに喰らった。大きくのけぞる祟り神。その隙を椛は見逃さない!
「おらああああ!」
諏訪子の体重が抜けた足を引き抜くと、思い切り蹴りつける。天狗下駄の硬い一本歯が諏訪子の腹にめり込んだ。
「げぶぁっ!」
唾をまき散らしながら吹き飛ばされる諏訪子。椛はすぐに体を起こすと、隣で伸びたままの小傘の頬を2,3度躊躇なく張り飛ばす。
「起きろ!」
「いだい!いだい!」
「ありがとう。びっくりした。だけど無謀すぎ」
「も、椛、まって――――」
「おおおお!」
小傘の台詞を聞くこともなく、椛は刀を拾うと早苗を組み伏せるミシャグジ達に向かって突撃する。
「があああああああ!」
加速をつけて飛び跳ね、全体重を掛けて刀を突き出す。
早苗の鍛えた狼の蕨手刀は、早苗に噛み付くミシャグジの頭を狙いたがわず串刺しにする!
「ギャヒイイイイイイ!」
「ふんっ!」
勢いのままにミシャグジの頭に突き刺した刀を抜き去ると、そのまま血しぶきをまき散らして事切れる白蛇を足蹴にし、椛は次の獲物に襲い掛かる!
「がるるるる!」
「ギャアアアアアアア!」
もはや戦法も何もない。ただがむしゃらに飛び跳ね、全身に血を浴びながら、椛は諏訪子の呼び出したミシャグジ達を次から次へと切りつけ続ける。
「クソ狼があああああ!」
「!」
ギラギラと目を光らせた諏訪子が、怒りの形相で飛び掛かってくる。空中に浮かんでいた椛は体制を立て直せない。迎撃できない!毒の爪が、椛の心臓めがけて伸ばされる!
「驚雨『ゲリラ台風』!」
ごあっ!
「わあっ!」
「っち、こ、この腐れ付喪神がぁぁぁ!」
突如吹き付ける弾幕の嵐。椛のピンチに、小傘が咄嗟に撃ち込んだ無差別弾幕。椛も諏訪子もミシャグジも早苗も体勢を崩し、盛大に被弾する!
間一髪、小傘のおかげで、椛は諏訪子の爪を受けずに済んだ。しかし、頭に血が上った椛はそんなことなど意識せず、怒りの声を上げる。
「小傘ぁ!ぶっ殺すよ!あんた!」
「ちょ、あ、頭冷やせえ!椛!」
「おおおおおおおおーーーん!」
「!」
「!」
ぼ 。
『ぎゃあああああ!』
頭に血が上っているのは早苗も同じだった。一声吠えるとあの爆風を呼んで、なおも降りつづける小傘の弾幕ごと何もかも吹き飛ばす!
「ウオオオオオオオオ!」
「さ、早苗‥‥」
吹き飛ばされ、泥まみれになった小傘の視界の先で、早苗は尚も天を仰いで咆哮し続ける。その体から、赤い光がほとばしり始めた。
「な、何!?」
「早苗さん!」
―――― ばりっ!
皆が見つめる前で、赤い光をまき散らしながら早苗の体が爆発した!
「早苗ええええ!!」
「ははは、はははははは!脱皮した!身殺ぎだ!ミソギだ!」
「脱皮!?」
「よーく見とけ!小傘!椛!なかなか見られるもんじゃないぞ!」
湖まで吹き飛ばされた諏訪子の声が遠くから二人に響く。その言葉に従うまま、二人は呆然と早苗を見つめ続ける。
「よくやったよ、お前たち。早苗があの姿になるなんて。はははは。夢みたいだ!あれがほんとうのお姿だ!その目に焼き付けておけ!“御赤蛇”様のお姿だ!」
「ミシャクチ、って‥‥」
「何を言ってるんです!あれは何なんですか!早苗さんをどうしたんですか!」
「どうもしてないさ。早苗は脱皮したんだよ。一番恐ろしい姿になるだけさ。最終形態、ってやつかね?」
「最終形態って」
「ミシャグジ様の真の姿は白蛇に非ず。御身を真紅に染めた赤蛇(しゃくち)だ。ああ、いいね、ここに居る奴、みんな血で服がまっかっかじゃないか。お似合いだ。いいね!赤蛇の神職の衣は赤でなくちゃ!」
「赤蛇!?」
「なあ、神奈子の恰好思い出してみろよ。赤い服に蛇の目、カガのメぶら下げて。アイツの恰好は御赤蛇様を示してるのさ。えげつない格好してると思わないか!ひひひひ!」
「何がおかしいんです!」
「黙って見てな。今に分かるさ。神奈子の恰好がどんな意味だったかってのが」
三人の目の前で、赤い光がゆっくりと収束していく。光はやがて、早苗が元居た場所に一つの影を創り出した。
「ひ‥‥!」
「早苗!」
「ひひひ。ひひひひ」
そこに居たのは一匹の蛇。
体を覆う鱗は血の色よりもなお赤く。光り輝く二つの目は太陽をはめ込んだかのような金色で。
蛇はずるりと尻尾を動かすと、ゆっくりととぐろを巻く。そして鎌首をもたげ、三者をぐるりと見回した。
最初は、椛。
「ひいいいいいい!」
「椛!?」
「ああ、ああああああ!」
早苗の一瞥を受けた椛が、突然頭を抱えて悲鳴を上げる。ガクガクと体を震わせ、刀を取り落としてその場にひれ伏してしまう。
「椛!椛!どうしたの!ねえ!」
「食べられる、食べられる!いやだ、いやだいやだいやだ!怖い!怖い!」
「椛―――― ひい!」
次は、小傘。
小傘を見つめる金色の目。御赤蛇様は威嚇も何もしていない。ただ、見つめているだけだ。だが、それだけで小傘の頭の中が叩き壊されていくような、とてつもない恐怖が湧きあがってくる。
「ひ、あああああああ」
足がまるでいうことを聞かない。力が入らない。腰がぬけ、立ち上がることができない。それでも、その金色の目から目を離せない。
「おお。さすが、付喪神。野生動物よりかは耐性があるかね。どう?“自然”そのものの恐怖。効くでしょう?」
「はあっ、あああっ」
「あはははは。どう?怖いでしょ。おっかないでしょう!お前たち、早苗側でよかったね。もしかしたら、食べられないで済むかもしれないからね!」
「ああ、ああああ」
「毎年こんなふうに睨まれてたら、そりゃあ、強力な王国が出来上がる訳だって思わないかい。ねえ、小傘。神奈子がどんな恰好してたか分かっただろう?おっかない別の神様の姿を借りてさ。私の王国をアイツが代わりに治めようとした時、どんな姿が一番威厳があるかとか聞いてきたからね。だから私は御赤蛇様のカッコさせたんだよ!御赤蛇様の体を成した出雲の明神だよ。世の中にゃ、神様の姿をまねた服を着る巫女やシャーマンが居るみたいだけどね。神様がそんなことしてるなんておかしいと思わないかい?ひひひ」
諏訪子のお喋りなどまるで耳に入らず、小傘は声も出せずにただひたすら震えていた。
小傘の目の前で、ついに早苗は人間の姿すら捨て去ってしまった。小傘の妖怪としての、付喪神としての本能はすでにあれを早苗と感じてはいない。畏怖すべき、赤く輝く鱗をまとった恐ろしい神の蛇だ。そう感じてしまう自分の心がたまらなく憎らしい。だってあれは、早苗なのに。早苗のはずなのに!
悄然として震える小傘から目を逸らし、御赤蛇は最後に諏訪子を睨む。祟り神はニヤニヤと不敵に笑いながら蛇神を睨み返す。秋の稲穂を詰めこんだような、場違いに美しい御赤蛇様の金色の目がすう、と細くなった。
「ひひ。さあ、決戦だ。神様!」
オーン!
諏訪子の声に呼応するように、御赤蛇様が吠える。静かで低いその声が妖怪の山を震わせていく。
湖の岸辺に立ち並ぶ御柱の林が、音叉の様に震え出す。御柱は御赤蛇様の声を増幅し、山と湖に染みわたっていく。
小傘は呆然とその声を聴いていた。吠える早苗の姿を見ていた。もう、早苗の面影なんて一つもなくなってしまった彼女の姿を。小傘の頬を涙が伝う。胸の奥で渦巻いているのは「悔しい」という気持ちだった。もう、二度と手に入らなくなってしまった“獲物”。人間であり友人である早苗。
あの日、初めて半神半蛇の早苗を見た日、小傘はまさかこんなことになるとは夢にも思っていなかった。神々しい白蛇の姿になった早苗の姿に無邪気に喜んでいた自分が、まるで別の世界の出来事のように思えてくる。
「――――アア、神奈子様、どうしよう」
自分でも気づかないうちに、小傘はぽつりぽつりとうわ言をつぶやいていた。
「早苗が‥‥」
ぽろりと頬を涙が流れおちた。
「早苗が、早苗が‥‥」
‥‥「ミシャグジ様の巫女」?よくも、そんな身の程知らずな大それたことを言えたものだ。守るべき神様はいいように痛めつけられて怒り狂って言葉も耳に入らなくなってる。守るどころか、仕えるどころか、何もできていないじゃないか。愚図なお前は、やっぱり風に飛ばされるみじめな破れ傘がお似合いじゃないか。ええ?
「あははははははは!」
「!?」
突然響き渡った高笑い。その声に我に返った小傘は弾かれたように空を見上げる。
その先に有った光景。指揮者の様に両手を掲げた諏訪子。そして、空を覆い尽くす、大岩の雨!
「‥‥いやああああ!」
瞬間的な恐怖が小傘の足を跳ねさせる。自分でも信じられない素早さで小傘はいまだ地面にひれ伏す椛の元へ駆け寄った。
「椛!椛!」
必死に椛を揺さぶるが、うわ言のように何かを呟くだけで、椛は動こうとしなかった。
すでに岩嵐は降り始めている。動かない椛を背負って逃げる時間などない。
小傘は覚悟を決めた。
椛をかばい、剣を構えるように岩嵐に傘を向け、空を睨む。
こんな数の大岩なんてとてもじゃないが撃ち落とせない。だから直撃コースを取る岩だけ迎撃する。そうすれば、非力な私でもきっと――――!
しかしそんな涙目の小傘の決心は、一瞬にして意味のないものとなる。
――シャッ!
ぼがん!
「~~~~~!」
御赤蛇様が吠えたかと思った次の瞬間、あたりに炸裂した耳をつんざく大音響に小傘の意識が一瞬跳ぶ。遠くでガラスの割れる音がした。見れば守矢神社の社務所の窓がすべからく粉砕されている。
“早苗”のお馴染みの爆風である。しかしその威力はこれまでの物とは桁が違っていた。揺れる視界の中で、小傘は降り注ぐ岩嵐が円形にくり抜かれるのを見る。激烈な衝撃波と化した爆風が岩々を空中で粉砕したのだ。
シャアアッ!
ばあん!
「―――――!」
爆風の第二撃。大量の霊力をまとっているのだろう。青白く光る空気の塊がまるで一筋の光線のように諏訪子に向かって放たれる。涙にゆがむ小傘の視界の先で、諏訪子がひらりと風から身をかわすのが見えた。
風はそのまま突き進み、湖の向こうに見える妖怪の山にぶち当たり――――
ずごおおおおおおおん‥‥
ごっそりとその稜線をえぐり取って地形を変えた!
「ひ‥‥」
小傘の耳に遅れて届いた轟音は、まるで現実味のないものだった。もはや風とは言えないあまりの威力に小傘は言葉も出せない。腰を抜かす彼女の横を御赤蛇様が音もなくすり抜け、諏訪子に向かって突進していく。
ざああ、と空から砂が降ってきた。“早苗”が砕いた岩のなれの果てが。小傘は茄子色の傘を開き、自分と、降りしきる砂の雨に打たれるがままの椛を覆う。
おおおおおおーん!
湖から聞こえてきたのは、御赤蛇様の咆哮。波紋が踊り、湖の水面が盛り上がり、霊力を纏った水の蛇が諏訪子に襲い掛かる。
諏訪子はかろうじてその攻撃を避けたが、水の蛇は執拗に諏訪子を追いかける。業を煮やした諏訪子が、大岩を地中から喚ぶと水の蛇にぶちあててそれを相殺。間髪入れず、諏訪子は大岩を続けざまに御赤蛇様に向かって投げつける。赤蛇は事もなげにその大岩を躱した。標的を逃した大岩は、勢いそのままに夜空へと消えていく。
のたくる水の蛇と大岩がぶつかり、轟音を響かせる。弾けた水の塊は恐ろしい勢いで宙を舞い、神社の母屋を直撃した。木の弾ける音がする。小傘たちのすぐ横に岩のかけらが突き刺さり、泥をまき散らした。
「早苗‥‥!」
どうしたらいいのかなんてもう小傘にはわからない。それでも、彼女は傘を杖にするとよろめきながら立ち上がった。せめて、せめて、見届けたい。
このまま何もせずにエンディングを迎えるなんて、小傘は嫌だった。
****************
「‥‥こりゃあ、また随分と派手なお祭りですねえ」
「いくら派手でも参加できないんじゃ。ちくしょう。いいなあ。飛び入りしたいなぁ」
「楽しそうですねえ」
「お前は楽しくないの」
「こんな刺激的な瘴気嗅がされたら、そりゃあ楽しくならない方がおかしいってもんですよ」
「ふん、妖怪め」
「お嬢様は如何なんです」
「楽しいよ」
「ふん、妖怪め」
「ははは」
「あはは」
霧の湖の畔で。紅魔館の正門では、館の主と門番が、夜風に当たりながら妖怪の山の山頂を見つめていた。館のすぐ目の前に広がる霧の湖では、そこかしこでキラキラと光が明滅している。妖精たちが花火のように弾幕を撃って騒いでいるのだ。
今宵、妖怪の山でちょっとした騒動が起こることは、八雲紫から連絡が来ていた。騒動に惹かれ、迂闊なマネをして妖怪の山に立ち入り余計な混乱を引き起こさないようにと神奈子と紫が触れて回ったのである。最初に話を聞いたとき、大げさな話だとレミリアは思ったものだ。たかが神と巫女のケンカでそこまで心配する必要があるのかしらん、と。第一、妖怪の山なんてそうそう行くもんでもないわ。
ところが蓋を開けてみれば、山から瘴気が吹き降ろしてくるわ、かと思えば森が精気を吐き出して霧の湖じゃ妖精が興奮して花火大会みたいになってるわ、紅魔館のメイドたちも騒いだり怖がったりで仕事が手に付かず咲夜が一人でバタバタしてるわ、精気と瘴気をまぜこぜで嗅いだ小悪魔がサカってパチュリーが襲われかけたりともう大騒ぎ。静かなのは地下にこもってぐーすか寝ている妹くらいなものである。
大騒ぎの館内を眺めているのも結構楽しかったのではあるが、ドタバタ大忙しの咲夜にいつものようにわがまま言うのもなんだか気が引けたので、今宵は美鈴の元へお邪魔した次第なのだ。妖精たちがこの有様なのだから、森の妖怪、妖獣達もさもありなん、きっと正門はサカった奴らと美鈴の大バトルの真っ最中、と少し期待していたレミリアだったのだが、正門前に居たのは牙を剥いた妖獣の群れではなく、塀の上に腰かけて、満月と妖怪の山を眺めて腕を組んでいる美鈴だった。
レミリアは美鈴の隣に腰かけ、足をぶらぶらさせながら山を見上げている。さっき青白い光と共に山肌が爆発するのが見えた。スペルカード使用の弾幕ごっこではなく、ガチのケンカのようだ。久しぶりに嗅ぐ血なまぐさいケンカの匂いに、思わず頬が緩んでいく。
ニヤニヤと山を眺めるレミリアに、口元をほんのりあげた美鈴が問いかけてきた。
「随分と派手なケンカみたいですが。お嬢様、何かご存知ですか」
「知らない。八雲紫もあの祟り神とラミアのケンカとしか言っていかなかったし。終わったらいろいろ聞きださなきゃ。しっかし、ここまで大騒ぎするとは思わなかった」
「ですねえ。あいやー、あの現人神さん、大丈夫かなぁ」
「心配してんのか?」
「いくら神様っても、中身は人間の女の子ですからね。彼女は。‥‥こんな、捌きたてのおニクみたいな生々しい瘴気まで出しちゃって。彼女、人間に戻れるんですかねえ」
「戻れなくてもいいじゃない。我らの仲間が増えるんだから」
「だめです。可哀想です」
「へえ」
「人が妖怪に堕ちるってのは、その理由が何であれ、人間にとっちゃ悲劇なんですよ」
「見て来たみたいに言うね」
「見てきましたもん。沢山」
「そう」
どこか悲しげな目つきで山を見つめる美鈴。月に照らされ影ができたその横顔が、一瞬人間の女の子のように見えた気がして、レミリアの胸をどきりとさせる。
出自も正体も分からないこの娘にも、もしかしたら遠い昔、人間だったころがあるのだろうか。にわかに好奇心が湧いたレミリアだったが、ふん、とため息を吐いてその好奇心を捨てた。
「人間の血ぃ吸って眷属増やす”ド外道”にご高説どうも。‥‥あーあ。近々紅魔館の従業員を全員妖怪にしたかったんだけどなぁ。身内から反対意見が出ちゃったかぁ」
「おや、咲夜さんを齧るおつもりでしたか?」
「さあねぇ」
「私は反対も賛成もしませんよ。すべてはお嬢様のなすがままに、です」
「ずるい。従者根性ずるい」
「そこはお嬢様がお決めにならないと」
「はいはい‥‥おお!」
やれやれ、と苦笑するレミリアの目に、新たな光が映る。妖怪の山から、またもや青白い光線が放たれたのだ。
光線は一直線に空へと向かい、雲を蹴散らして飛び去って行った。
歓声を上げる主と門番の後ろに、新たな気配が生まれた。
「お前も見に来たのか」
「ええ。派手にやってるようね」
二人の後ろには、ちょうど魔女が館から出てきたところだった。ふよふよと浮かんだ彼女は、レミリアの隣に腰かける。彼女の体からはほんのり炎の匂いがした。彼女を襲った小悪魔はかなりきつめのお仕置きを受けたようだ。
「あの神社の神紋は梶」
「?何よいきなり」
「木が尾を持つ。これは、蛇の暗喩よ。蛇は木気だから」
「ふーん」
「そして、風も」
「だから何」
「蛇も、風も、四緑木気。うねり、突き進む生の象徴。そして、だからこそ“風祝”。‥‥“風”を“羽振り”、その身に降ろす。そして鎮める。あの神を、蛇神に魅入られた神を救えるのは風祝の名を持つあなただけ」
「‥‥早苗に向かって言ってんの?それ」
「気張りなさい。人間。ここまで来たのよ!」
「うおお、パチュリー様がアツくなってる‥‥」
「っとに。五行マニアめ」
「そういうものなんですか」
「さあ。でもこいつがこんなに興奮してるとこ見るのも久々かもしれないわ」
パチュリーは彼女の中で何か謎を解いたらしい。瘴気か精気の影響もあるのかどうか知らないが、彼女は自己完結ぎみな学者風の興奮をしていた。
「お嬢様はどうなのです」
「私か?」
「お嬢様も興奮しているご様子ですが」
「そうかい?」
「牙が見えていますよ」
「‥‥ひひひ」
「はしたないですよ」
うるさい、と美鈴の頭をつつくと、レミリアは塀の上に立ち上がった。
「ほーれ、頑張れー。アンタも従者なら、見事ご主人様を助けてごらんなさいなー」
両手をメガホンにして、山に向かってレミリアは叫ぶ。そして、こぶしを握り締めるパチュリー。美鈴は何も言わずに笑いながら、一緒に山を見つめていた。
******************
「せいやぁ!」
ずんっ!
山羊の角を生やした少女は、慧音の頭突きを喰らって声も出せずに昏倒した。
里の外。妖怪の山の方から里へ向けて伸びる一本の道。その道の真ん前に、上白沢慧音は仁王立ちしていた。バラバラと集まった妖怪達が、彼女を取り囲んでいる。皆、吐く息荒く、目を光らせ、慧音の隙を絶えずうかがっていた。
ここに居るのは皆、山から吹き降ろす瘴気と精気に中てられた者たち。ヒトの匂いを嗅ぎつけ、本能を抑えきれずに里に寄ってきたのだ。
いくら人間を襲う行為が形骸化されたとはいえ、自制心の弱いものはいくらでもいる。今晩はそうした者たちの心のタガが外れるには十分な環境だった。
いざ、人里へ。美味そうな人間達が居る人里へ‥‥。だがしかし、そうやって寄ってきた妖怪達の眼前に広がったのは、信じられないような光景だった。
そこにあったのは、里ではなく一面の野原。名状しがたく混沌としたまったく何モノかよくわからない“柵”、そして、角を生やし尻尾を振り、腕組みをしながら「どさくさに紛れてぇ人を襲う悪い子はいねぇがぁ」と赤い目を光らせるナマハゲ的な半獣と、切り株に座って炎を指先で弄ぶ銀髪の少女だった。
二人と後ろでうごめくモノの、その迫力と雰囲気に一瞬たじろいだ妖怪達。だがしかし、こちらは大勢、向こうは二人、とすぐに気を取り直し、歓声をあげながら一斉に襲い掛かってきた。
その結果が、これである。
「ぎゃひん!」
「さぁ、つぎはだれだぁ?」
「‥‥慧音。あまりやりすぎないでね」
「心配無用だ。妹紅。今夜の私は絶好調である」
「とりあえず血をぬぐってよ。怖いよ。顔面血まみれで笑わないでよ」
「いつもハラワタぶちまけてる妹紅さんが何を言いますか」
「あれはまた別の話で‥‥」
「大して違わんだろうに」
「わあああああ!」
「ふん」
「あぎゃあ!つ、爪、爪立てないで!顔痛い痛い痛い」
「そーか痛いか。ならば追加だ。そぉれ!」
ごぎょいんっ!
「――――!」
「他愛もない」
突貫してきた妖怪少女は、哀れ慧音のベアクローを顔面に受け、そのまま引き寄せられて重い一撃を受け、轟沈した。慧音はにやぁ、と笑うと造作もなく沈黙した獲物を投げ捨てる。
二人の足元には無数のクレータが出来上がり、そこかしこで黒焦げになったり、頭を割られて顔面血まみれで気絶する妖怪達が死屍累々と転がっていた。
今日は満月。獣人と化した今宵の慧音は、いつもよりも暴れん坊だった。
所詮、相手は二人と舐めてかかってきた妖怪達は、あっという間に半分以下まで数を減らされた。その実に8割が、慧音のスコアである。妹紅は初っ端、火炎弾の無差別爆撃で出鼻をくじいたっきり、あとはほとんど手を出していない。
最初、すっかり威勢の良かった妖怪達は総崩れ。今では残った妖怪達があまりの光景に恐怖し、手を震わせながら慧音に突撃という名の自爆を仕掛けてくる始末。彼ら彼女らは例外なく、満面の笑みで低音の高笑いを上げる慧音に次々と沈められていった。
「そおれぇ!」
ずごん!
重い響きと共に、また一匹、妖怪が倒れ伏す。
「そおら、とっととかかってこい。手っ取り早く済ませようじゃないか。今夜は新しい歴史の始まりの日だ。あの山の上では早苗達ががんばっている。わたしはそれを見守らなければならない。今度は私が守る番なんだからな!」
ぱかぁん!
長い爪を振り回してきた羽を持つ少年にカウンターで頭突きを喰らわせ吹き飛ばすと、慧音は胸元からスペルカードを取り出し、吠えた。
「新史『新幻想史』!」
「‥‥くっさ」
外連味タップリなスペルの選択。光の爆発に照らされる、凛々しく得意げな慧音の横顔を眺め、妹紅は苦笑した。
******************
「馬鹿よね、あの子達も」
「いいんじゃないの。”ここ”の人たちらしくて」
「我を忘れて、感情のまま、思うがまま」
「まるで動物か人間よね」
「穢れを払うのではなく、自分から穢れを求めて」
「土着神ってホント厄介よねえー」
「輝夜はそう思ってるの?」
「貴女の気持ちを代弁したつもり」
「‥‥正直、うらやましいと思う時がありますよ、私は」
「ほうほう」
月の照らす縁側は、いつもと変わらない静けさで。
そこで佇み月を見る蓬莱人たちもまた、いつもと変わらず月を見つめていて。
ただ、空気だけが、異様な精気を纏ってざわついていた。
ミシャグジ様に反応したのは、妖怪の森だけではなかった。迷いの竹林もまた同じく、むせ返るような精気を放っている。ペットの兎たちは例外なく精気に中てられ、竹林の中で大騒ぎの真っ最中。どれだけ精気が濃いかと言えば、昼間顔をのぞかせた竹の子が今はもう軒下を窺うような高さに伸びるような異常な状態なのである。騒ぐなという方が無理だ。‥‥どこで何をしているのやら、大騒ぎの割にはとんと兎たちの声は聞こえてこないのだが。
ただ一人、鈴仙だけが屋敷の屋根の上で見張り役をしている。「イナバも遊んで来たら」との輝夜の言葉にかたくなに首を振って「非常時に誰も哨戒に当たらないのは問題です」と損な役目を申し出たのだ。「混ざってはしゃぐのが恥ずかしいからよ」とは永琳の言である。彼女の耳には兎たちの大騒ぎの声が聞こえているのだろうか。時々耳を揺らして「やかましい」とかブツブツ言っている。
「イナバも兎なんだからこういう時ぐらいハメ外しなさいってのにね」
「兎、というよりかは生き物だから、ですね」
永琳はそういって輝夜の顔を見る。お姫様は月を見つめて、笑っていた。
「私も土着神になったら、少しは命に近づけるのかしらね」
「‥‥穢れから一番遠い蓬莱人が土着神なんかになれますかね」
「容赦ないわね。希望よ、希望。ただの妄想」
「すいません」
ぷー、と膨らむ輝夜の頬をつつきながら永琳は苦笑した。
この体になってからもうどれくらいの時間がたったのか分からない。とっくの昔に命に対する希望なんて無くなって、狂ってしまったはずの蓬莱人に、まだそんなたわごとを言わせられる。思わせる。
‥‥厄介な奴ら。
「でも、うれしいでしょ」
「は?」
心の中が読めたと言わんばかりに、輝夜がいたずら猫のように笑いかける。
「精気を吸って、自分もまだざわつく位の心があったことに」
「‥‥そうね」
口元をゆるめて、酒を啜る。
「永琳、久しぶりに遊ばない?」
「は?」
「こんな日なんだもの。妹紅のあたりが『かぐやああああ!』って盛った野良犬みたいにケンカしに来ると思ったんだけど。アイツ、人里の警護に行っちゃってるっていうし。この熱くたぎる体が疼いて仕方ないのよ。ね」
「はあ‥‥」
「いいでしょ。ね。たまに運動しないと、太るわよ?永琳。さいきん下回りが危なくなってきてるんでしょ。一回リセットしない?」
「はい?」
「あ、今その体型だってことは、薬を飲んだ時点ですでに肉が付いちゃってたってことよね、うん」
「‥‥ふふふ。輝夜?」
ざわりと、永琳の纏う空気が熱を帯びる。別にこんな単純な挑発で興奮するほど永琳も馬鹿ではないのだが。ただ単純に、うまい切っ掛けが欲しかったのだ。輝夜のケンカの誘いを受けるための。辺りに立ち込める精気のせいか、はたまた瘴気のせいか。永琳の脳味噌は、輝夜の誘いに勝てなかった。やれやれ、と頭を振ると、薬師は静かに立ち上がった。
「お?永琳やる気になったわね」
「良いですよ。お相手しましょ。言っときますけど、わたしは容赦しませんからね」
「上等」
輝夜が不敵に笑う。二人の蓬莱人は、お互いを見つめあいながら狂った笑みを静かに浮かべた。
そして、おもむろに永琳は屋根の上を見上げて声を張り上げる。
「優曇華!」
「は、はい!」
軒先から、ひょこりと月兎の顔がのぞいた。
「ちょっと留守にするわ。日が昇ったら呼びに来て」
「は、はあ‥‥」
「どうしたの。歯切れの悪い返事だこと」
「は、あ、いえ!あの‥‥聞いてたんですけどぉ、師匠も“遊び”に行くんですよね‥‥」
「そうよ」
「‥‥迂闊に呼びに行ったら標的にされそうで怖いんですが」
「私達が冷静を欠いていると?見境なく攻撃すると?恐慌状態の新兵みたいに?」
「いえ!失礼しました!そういうわけでは‥‥」
「そのとおりよ」
「えっ」
「うまく呼びに来なさい。それも修行。軍人でしょ、貴女。荒事には慣れてるわよね?」
「そうですけど‥‥」
「ま、何かあっても蘇生させてあげるから。できるだけ一般的な方法で」
「ひぃ‥‥が、がんばります」
「よろしい」
どはー、と屋根の上でため息をつく優曇華に背を向けると、永琳は地面を蹴って宙に浮く。
「さあ、輝夜。遊びに行きましょうか。せっかく神様が用意してくれた機会なんです。たのしみましょう」
「あんたが一番ノリノリね」
「ふん」
こんなふうに興奮させられるのはいつ以来だろうか。
本当に、厄介な奴ら!
*****************
「‥‥ホントに無謀で、我武者羅である」
「早苗さんのことですか」
「ええ」
「そう思うんなら、どうして宴会の時に止めなかったんです」
「あれは彼女の使命ですからね。止めたところでどうとなるものでもないですから。それに」
「それに?」
「あそこで止めたら、彼女の覚悟を踏みにじることになりますから」
「‥‥そうですね」
人里の寺でもまた、僧侶とご本尊が月を見上げていた。
静まり返った境内を、誇らしげな満月が青白く照らしている。
今、命蓮寺に居るのは、聖と寅丸のみである。他の面々は里の警護に出かけていた。
今日は慧音の依頼で妹紅が里に出張ってきているのだが、それでも里を一人でというのは物理的に無理な話である。そこで命蓮寺に応援要請が来たわけだ。
聖は寺で後詰を。現在はたまたま、寅丸が戻ってきて報告などをし終えたところだったのだ。
「‥‥ねえ、聖」
「どうしました?」
何か言いづらそうな星の声。聖は顔を月に向けたまま、目線だけを傾ける。
「いえ、なにも‥‥」
「牙が見えていますよ」
「え!あれっ!?」
「気にせずともよいのです。もともと貴女はそういう存在ですからね」
「‥‥お恥ずかしい話で」
「やはり障りますか、瘴気」
「少し」
「里に向かったみんなもあまり興奮して居なければいいのですけどねえ‥‥」
そういいながら、聖は星のあごに手を伸ばしてくりくりとあごを撫でる。星は一瞬戸惑ったがすぐにふにゃふにゃと力を抜かれ、まるで猫のように喉を鳴らした。
「落ち着きました?」
「ふああ‥‥」
「よけー興奮させてんじゃないの。聖」
「あら。ぬえも居たのですか」
「居たの。今来たの。悪かったね。なんだ寅丸、こんなとこでサボってたんだ」
二人の後ろから不機嫌な声が響く。三叉槍を片手に持ったぬえが、薄暗がりの中で立っていた。
半分だけ月に照らされた顔が暗闇の中に浮かんでいる。その不気味な光景に、ご本尊がちょっと肩を跳ねさせた。
「ひえ、わ、わたしはサボってたわけじゃなく、あうふ」
「くーるだうん中ですよね」
「ぐるるる」
「‥‥呑気だ事」
あごの下を撫でられてでかい猫のようにフニャフニャになっている星を睨み付けると、ぬえは境内に降りる。
聖たちの方を見ずに、ぬえは月を見上げると「んっ」と伸びをした。
「あなたは、どうしたのです?」
「ちょっと水飲みに来ただけだよ」
「あら」
「聖、里の外、大分ざわついてきてるよ。まだ里に入ってくるような奴らはいないけど、外じゃもう、連中同士でケンカしてる」
「そうですか」
聖たちの方を見ずに、ぬえは静かに話す。
「いま、あの半獣の娘と一緒に柵を作ってきたとこ」
「半獣って、慧音先生ですか。‥‥彼女と、あなたが、ですか?」
「そ、里の境界あたりの歴史をあの子が喰って、元の境界の姿を忘れさせたうえで私の正体不明の種を植えこんだの。そうすりゃ、わけのわからない謎の障壁の出来上がり。‥‥足止めにはなるでしょ。ついでに、この里全体の歴史も食ったってさ。妖怪相手に効果あるか分からないって言ってたけどね。月の異変の時は見えてしまったって」
「はあ‥‥」
聖は星を撫でながら、目を丸くしてぬえの横顔を見ていた。彼女がこんなにしゃべるのも珍しい。普段の彼女はあまり自分から人の輪に入ってくるようなタイプではなく、端っこで壁に寄りかかっているような子なのだ。
「ありがとう」と声を掛ける。「ん」と小さな返事があった。月に照らされたその横顔は少し得意げに見えなくもない。
「じゃあ、また行ってくるから」
「気を付けて。あなたも、あまり興奮しないように。瘴気は思ったより濃いようですから」
「なに?心配してくれてんの?」
「ええ。あたりまえです」
ぬえは一瞬だまってから、聖の方を満面の笑みで振り向いた。牙を見せて、わざと邪悪な妖怪的に笑いながら。
「は、あたしより、そこのダメ虎が牙剥かないように見張っときなよ。ひひひ。じゃ」
「いざとなればこの寺に人を入れます。無茶をせず、我を忘れず。いいですね」
「はいはい」
片手をひらひらと振ると、ぬえは夜空に飛んで行った。
「素直じゃない子ですねえ」
「ふえ」
あまりにも聖の手が気持ち良かったのか、よだれを口の端から溢した星が顔をあげる。
聖は懐紙を出して口を拭ってやった。
「さ、落ち着きましたか。あなたも頑張ってきてください」
「は、はいっ」
星はあわてて立ち上がったが、裾を踏んづけて後ろにひっくり返った。
その様子を見て聖は苦笑する。
「毒気はすっかり抜けたようですね」
「す、すいません」
たはは、と笑うと今度こそ星は立ち上がり、ぱたぱたと境内に走り出ると地を蹴って夜空に飛んでいく。
夜空に浮かぶ満月にその後ろ姿が重なった。
「まったく、ウチのご本尊様ったら」
苦笑する聖。その視界の中を、一条の閃光が駆け抜ける。
「!」
気が付いたときには、聖は寺の屋根の上に立っていた。閃光の行く先を、目を凝らして見極める。
幸い、閃光は空へと駆け抜けていった。ほっと胸をなでおろす聖の耳に、遅れて轟音が届く。
ただ通り過ぎただけの光だったが、聖の肌にはその光が纏うすさまじい霊力がびりびりと伝わってきた。
「‥‥ホントに、無茶をする!」
里のあちこちから上がり始める悲鳴や喧噪を背に聖は妖怪の山を睨む。守矢の社があるあたり、山頂の近くで散発的に光りが見える。聖の超人的な耳には山頂発と思われる地響きや爆発音まで届いていた。
「‥‥これは、ぬえの障壁じゃ防げませんね」
懐から出した巻物を広げる。あの光がもし里に届いたらただでは済まない。慧音が歴史を喰って里を隠しているとはいうが、万一ということもある。
遠くから猛スピードで飛んでくるナズーリンの慌てた声を聴きながら、聖は身体強化の魔法を詠んでいった。
****************
「これがバイト?」
「そうだ。御駄賃は弾んでくれるってさ」
「絶対いいようにこき使われてるわよ?あんた」
「本人が楽しんでりゃ労働も娯楽だぜ」
「はいはい」
少女は呆れた声を出すと、手元の人形を操り、飛び掛かってきた妖精を追い払う。その傍らでは光の渦が、さらに多くの妖精たちを飲み込み、空へと吹き飛ばしているところだった。
「こらぁ、あんたたち。お喋りしてないでちゃんとやってよ。北側、妖精たちが入ってくるわよ!」
「へいへい!」
遠くから聞こえてきた声に、もう一人の少女が片手をあげて返事をし、またがった箒の進路を北へと向ける。
月明かりに照らされた太陽の丘。ここでも、派手なケンカが繰り広げられていた。攻め手は、無数の妖精たち。守り手は、花畑の主人、風見幽香と臨時庭師1号、霧雨魔理沙、同じく2号、アリス・マーガトロイドである。
他の場所と同じく、この太陽の丘も、今晩は月の光と精気と瘴気で大混乱の真っ最中であった。妖怪の山から吹き付ける精気は、花畑にも例外なく刺激を与え、いつぞやの春のように花咲き乱れ草が茂り、まさにお祭りの様相を呈していた。
そんな素敵な花畑が、同じく精気に中てられてお祭り状態の妖精たちに見逃されるはずもなく。困り顔の幽香をよそに、花畑は妖精たちの一大宴会場と化した。
幽香も最初ははしゃぐ妖精と花畑を穏やかな目で見ていたのだが、さらに妖精の数が増え、弾幕ごっこでケンカをし始めたところで細められていた目がぐわりと開いた。
マナーをわきまえない客は、お引き取り願う。特大の光線が次から次へと妖精たちを吹き飛ばしたが、今宵の妖精たちは一味違う。光線に呑まれ吹き飛ばされる、それすらも彼女達のアトラクションと化した。
かくして、花畑を埋め尽くすほどの妖精が『あそんでー!』と幽香をターゲットにするというとんでもない事態となり、当の本人は「めんどくさい」とため息をつき、たまたま遠くの空を飛んでいた魔理沙とアリスに魔法を撃って呼び寄せ、臨時庭師としたところなのだ。‥‥瘴気と精気が混じりあってさわがしい魔法の森から離れ、大騒ぎの幻想郷見物に出ていた二人だったが、世にも珍しい幽香の“お願い”を聞き、ならばと参戦した次第である。幽香はバイト代を出すと言っていたが、あまり二人は期待をしていない。
魔理沙は結局のところ、一緒になって騒ぎたかったのもあって、嬉々として魔法をばらまいている。同乗している箒の後ろから見る、楽しそうな彼女の横顔になぜか“妖精”という単語が重なり、アリスはため息を吐いた。
「結局アンタって子供よね」
「当然。アリスよかずっと子供だぜ。いまさら何言ってんだ?ボケたか?」
「‥‥串刺しにされたいの?」
「おお、怖い。今日は沸点低いな」
「そうかもね」
「あの日か?」
「違うわっ!」
魔理沙のボケにツッコむ代わりに、アリスはスペルカードを空に一枚放り投げる。はじけたカードは、花畑から外れたほど近い空き地に魔法陣を描いた。
「ゴリアテ人形っ!」
召喚されたのは、両手に剣を構えた一体の巨大な人形。精悍な少女の顔つきをしたそれは、天に向かって「ま゛っ」と一声吠える。その声を聴きつけた妖精たちが、一斉に群がっていく。
「妖精を引き付けといて!花畑に入っちゃだめよ!」
「ま゛」
操っている自分に言い聞かせるように、アリスはその命令を人形に与えた。巨大な少女はその命令に短く答えると、群がる妖精たちを剣で一薙ぎ。何とかかわす妖精たちの楽しそうな悲鳴がこだました。
その声を聴き、魔理沙も楽しそうな声を出した。
「大盤振る舞い、いいねえ!やっぱお祭りはこうでなくちゃ!」
「お祭りなの!?これ!」
「早苗んとこのお祭りだぜ!幻想郷まるごと一個、会場の!」
箒をぐるりと回し、急制動。悲鳴を上げるアリスに、魔理沙は「いくぜ!」と目くばせをする。目の前には、彼女達を追いかけてきた、ハチの群れのような妖精たち。
「はた迷惑なお祭りよね!」
「全員強制参加だものな!」
「まったくだわ」
気づけば幽香も隣に居た。三人の少女は、それぞれの得物を構え、魔力を流し込む。
『ふっとべ!』
膨大な魔力の光が、妖精を飲み込みながら空に向かってほとばしる。
さすがにこれは強烈だったか、妖精たちの動きが一瞬鈍った。しかし。
「やあやあ魔理沙!これで我ら栄光ある妖精が負けたとは思ってないだろうね!」
「お!めんどーなのがきたぜぇ。ひひひ」
「楽しそうね」
「こいつぁ子供ですから」
空から響く、不敵な声。そこには腕を組み、得意げな顔をした青髪の妖精が一人。
「魔理沙!よくも妖精をいじめたな!借りは一億倍にして返してやるわ!」
「ふふふ、チルノ。やれるもんならやってみるがいい。1億どころか1厘も返せぬまま、お前らを塵と化してくれるわ!うわはははは!」
「おのれ魔女め!みんな、行くぞ!」
「楽しそうね」
「子供ですから」
ノリノリで悪役の台詞を吐く魔理沙の後ろで、妖怪少女二人はやれやれとため息をつく。
その数分後、「悪の魔女その2」「その3」として派手に巻きこまれ、二人ともノリノリで妖精とケンカを続けることになることは、誰も知らないちょっと未来の出来事である。
****************
「はい、お水、飲む?」
「ああ、ありがとう」
穣子が障子を開けて、神奈子に湯呑を差し出す。神奈子は礼を言いつつそれを受け取った。
博麗神社。その縁側に神奈子はあぐらをかいて座っていた。
穣子に手渡された湯呑の中には冷たい井戸水が入っていた。神奈子はゆっくりそれを飲み、ふう、と一息つく。誇らしげに輝く満月が、静かに境内を照らしている。
「‥‥神楽、始まってから大分たったわね」
「そうね。あなたが思ったより落ち着いていて、何よりですわ」
「落ち着いてるように見えるかな、これが」
「失言だったら謝ります」
「いいよ。実際、落ち着いてないんだから」
「‥‥心配?」
「心配は、してない」
「へえ?」
縁側で彼女の話し相手になっていたのは、紫だった。傍らに酒瓶を置いて、杯をときおり口元に運びながら。二人はそうやって月を見ていた。
障子の内側では、今回の一連の関係者、にとりや霊夢、雛や静葉、穣子が取り留めもない話に花を咲かせていた。ときおり、わっという歓声が上がる。‥‥みな、早苗のことを気にしていない訳ではない。心配していない訳ではない。ただ、そうやってオロオロと待ってなど居たらとても心が持たない。悪い想像だってどんどん膨らむ。だから心配しないで平然と待っていること、すなわち早苗を信じること。それが一番早苗の力になる。それを分かったうえで彼女達はあえて賑やかに過ごしているのだ。昨日、博麗神社で開かれた地獄の飲み会‥‥早苗の壮行会の残り料理なども出て、ちょっとした宴席が出来上がっている。
最初にそうしようと言い出したのは神奈子だった。暗い空気をまとった一同を何とか元気づけ、酒を入れて気分を明るくさせた。一旦うまく会話が回りだせば、そこは幻想郷の少女たち。あとはどんどん賑やかになる。その頃合を見計らって、神奈子は縁側に出たのだ。そんな彼女を、紫が待っていた。
「中は随分と出来上がってるみたいじゃない」
「楽しい酒の飲み方を知ってる子達は違うね。どこでもいつでもだれとでも。たとえ酒がなくたって、“宴会”であればみんな楽しんじゃうんだね」
「それでこそ幻想郷ですもの」
「何でもだれでも受け入れる、か。いいね」
「‥‥一杯いかが?持たないでしょ、素面だと」
「‥‥もらおうか」
神奈子は、紫が隙間から取り出した盃を受け取る。
酌をしながら、紫は神奈子に尋ねた。
「さっき心配してないって言ってたけど、正直、心配じゃないの?‥‥あの子の気配、消えてるわよ。知らない訳じゃないでしょう」
「‥‥」
紫の言うとおり、少し前から早苗の神気は途絶えていた。途絶えた瞬間、紫は早苗が殺されたと思い、スキマを開いて確認しようとした。それを神奈子が止めたのだ。
‥‥ミシャグジの気配はする。まだ“神楽”は終わってない。まだ、手は出さないでほしい―――― と。
心配ではないのかとの紫の問いに、神奈子は少しだけ酒を啜ると、口を開いた。
「心配はしてないよ‥‥気にはなるけどさ」
「そう。あまり変わらない気がするけど」
「あの子なら大丈夫」
「信頼と思考停止は違うわよ。根拠のない希望ならば、それは危ないわ」
「言うね」
「ええ、言いますわ」
「違ったんだよ」
「違う?」
「今までの、一年神主達と、早苗は」
「‥‥」
遠くを見つめ、神奈子は一瞬言葉を止めた。紫は黙って、神奈子が話し始めるのを待っていた。
昼間、神奈子から聞いた昔の洩矢神の事。一年神主がどういうことなのか。ずっと相方の“呪い”を解くこともできず、歯噛みしながら彼女のすることを見てきたという話。それらを聞いたとき、紫は間違いなく早苗は殺されると確信した。しかし、神奈子は違った。あくまでも呑気に穏やかに、「大丈夫」とだけ言った。その時は、神奈子はその理由を言わなかった。
「‥‥アイツが、諏訪子が、生贄とか、彼らとそういう過去を持つ奴だってことを、忘れていたわけじゃない。一番最初のうちに諏訪子を止めなかったのは、私の責任と言われればそれまで」
「でもあなたは止めなかった。なぜ?早苗ちゃんが、今までと違うから?」
「うん。早苗はね、白蛇だったから」
「‥‥それが?」
「ミシャグジ様って、ほんとは赤いの。血のような、夕焼けのような、炎のような‥‥詩を唄ってるわけじゃないよ。もともとはそういう姿」
「でも、あの神様が使ってるのは、白い蛇よ」
「中央の信仰が混ざった結果だよ。神使は白いってね。そういうふうに信仰も広めたしね、私が」
「はあ、なるほど」
紫はそこで、ぽん、と手を打った。
「早苗ちゃんが白蛇になったってことは、少なくともあなたの影響下にもあるミシャクジ様だったってことね」
「そう。少なくとも、私が表に立って信仰を広めた範囲に関しては、ミシャグジ様‥‥諏訪の神使ってのは、白蛇なのよ」
「赤くなくてよかったわね」
「‥‥風祝が、必ずしも一年神主になる訳じゃあない。でも、これまでにもそういう子は一杯居た。赤い服を着せられて、御赤蛇様に捧げられ、喰い殺され、そして諏訪子に‥‥。早苗みたいに、取りつかれた時から白蛇になった者はいないんだ。諏訪明神の神使の姿に。‥‥はしゃいだ私も馬鹿だよね。今考えりゃ。‥‥“明神の神体を成す、神の化身”。ほんとうの、現人神になったって、喜んでさ。能天気に‥‥」
「泣かないでよ?」
「泣きません」
扇でパタパタと神奈子の耳元に風を送り、紫が茶化す。前かがみになりかけた神奈子の背筋と心が、またハリを取り戻す。神奈子はキュ、と口元に力を入れると、紫の方を向いた。紫は今度は茶化さずに、神奈子のまじめな顔を見た。
「大丈夫。あの子は一番風に愛された、守矢神社の風祝ですから。神と風に愛された、明神の神体を成す神の化身だから」
「‥‥営業入ってる?」
「いいえ?」
一瞬だけ敬語になった神奈子の顔を、紫は覗き込む。
照れ臭そうに目を逸らし、杯の酒を啜った山の神の横顔は、どことなく自慢げに見えた。
「それにね」
「それに?」
「可愛い“娘”のことですから」
「‥‥親ばか」
「そうだね」
もう一口酒を啜り、空っぽになった神奈子の杯に紫が酒を注ぐ。
今、横で酒を啜る神奈子は、心配はしていないという。だが分かる。この場で誰よりも早苗のことを心配しているのは神奈子だということを。紫には分かる。必死になって、届く当てのない神力を、ひそかに送り続けていることも。
紫は再度月を見上げる。まだ沈むには、かなり時間がある。月が沈んだ時、結末が分かる。決着がつく。なぜかそう思えた。
――――とっとと沈みなさいよ。空気読めないんだから。
紫にとってこれほどまでに月が憎たらしく思えたのは、月面戦争以来だった。
****************
眼の前で跳ねているのは、いつか食べ損ねたご馳走。
わたしは大きく頭を振ると、低い声で風を呼ぶ。
――――あの祟り神を捕まえなさい!
わたしのお嫁さん。サナエという小さな人間の心と一緒に、わたしはあの祟り神に向かって風をまき散らす。
呼んだ風は渦を巻いて、祟り神を湖に向かって吹き飛ばした。
スワコ、とサナエが呼ぶ小さな守矢の祟り神はくるくると宙を舞うと水面に落ちた。――まるでそこが地面の上であるかのように受け身を取って。
立ち上がったスワコは何事か叫ぶと、水を操り、無数の槍を宙に作り上げた。
負けるな!
サナエの声に頷いて、わたしも槍を作り出す。
地面からうごめき生える無数の槍。
焼けた土よりももっと固い、鉄で練りあげた光る槍。土の中の砂のような鉄を使って練り上げる。
スワコが吠えた。わたしも吠える。
水の槍が飛んでくる。私も鉄の槍を負けじと飛ばす。
水の槍は次々とわたしの鉄の槍に砕かれていく。スワコの顔色が変わった。
鉄の槍はそのまま、スワコへ!
真っ赤な血しぶき。スワコの悲鳴。
やった!
私が喜ぶ。サナエも喜んでいる。真っ赤な私の体の横に、真っ白で綺麗な、白樺のような彼女が寄り添っている。
‥‥結局、私が脱皮したせいで彼女の“人間の姿”は残せなかった。人であることをやめた彼女の心は、全く私達と同じものになった。
ミシャグジと人間達が呼ぶ私達、それと同じに。
その姿は薄く透き通り、私達にしか見えない。人間はもちろん、天狗にも、お化けにも、祟り神であるスワコにだって見えないだろう。
私だけのお嫁さん。
守矢の祟り神をお嫁にし損ねた、いや、お嫁を祟り神にしてしまったバカな昔の私達とは違う。もう彼女は私のお嫁さんになってくれた!
眼の前には鉄の槍で串刺しにされ、湖底から突き出た槍の上でモズのハヤニエのように哀れな姿を晒す守矢の祟り神。
さあ、おしまいだ。
一緒に彼女を助けてあげよう。サナエ。だってサナエは、スワコを助けたくて、私達のお嫁さんになってくれたんだもんね。「カグラ」をして、スワコを元に戻すって。
私達の掛けた呪いを解いてあげよう。サナエが助けてあげたいと思っているから、わたしもそうする。
さあ、アイツを食べてやろう。サナエ!
何千年もの間私達が待ち焦がれた、ご馳走だ!
****************
だらりと垂れさがった自分の腕の先に、ゆらゆらと揺れる水面が見える。
体が動かない。鉄の槍が腹から伸びて水面に消えている。
空気が動いている。御赤蛇様が来る。
わたしを食べるために。
「しつこい‥‥」
血反吐がのどに引っかかって、喋りにくい。体の中はぐちゃぐちゃだ。ここまでされても死なない自分の体。神様って名前の化け物。
いっそこの姿が、見るに堪えない異形だったら。そうすれば、自分は崇め奉られることもなく、妖怪として化け物らしく時を過ごし、あまたの妖怪のように忘れ去られ、消えていられたのだろうか。
あの時、あの蛇は呪いと言った。未来永劫、わたしは生贄。捧げられた時の姿のまま、いつか食われる運命だと。
ふざけるな。
私から両親も、ヒトとしての暮らしも、何もかも何もかも奪っておいて!
私がお前らの贄だ?ふざけるな、ふざけるな!
数えきれないほどケンカをして、数えきれないほどの御赤蛇様を従えた。
いつの間にか私は彼らを束ねる存在になって、私を崇め奉る人々の国が出来上がっていた。
あの女が来てからも、それは変わらなかった。
出雲のお嬢。国津のくせに、どこか高天原の匂いがする、田舎娘。‥‥高天原なんて行ったこともないけど。
いつかあの女に聞かれたっけ。いつまでそんなことを続けるのかと。
やめられないのって。
わたしは何も言わないで、彼奴の頬を張り飛ばした。奴は何も言わなかった。泣きそうな顔をしていた。
向こうもわかっていたのだ。やめたら、どうなるか。でも聞いてくる。私が喰われないために、子孫を蛇の贄にして、さらにそれを贄にしている私の痛々しい姿に我慢できなくなって。軍神のくせに、いつまでたってもお嬢なんだから。やさしすぎだ、バカ。
早苗が喰われて白蛇と混じっても喜んでいたのは、アイツなりの希望でも見つけたからなんだろう。早苗なら大丈夫だとでも思ったか?私に殺されないとでも思ったか?私が早苗に手を掛けるのをためらうとでも思ったか?――今までと、“何も変わらない”のに!
鱗の音がゆっくり近づいてくる。空中を進んでいても響いてくる。鱗同士がこすれる音。
終わりにしようとでも思ってるなら、それは間違いだよ!
――――間抜けな蛇めが!
************
「いやあああああああ!」
「御赤蛇様‥‥さ、早苗えええええ!!」
湖畔の椛と小傘が見たのは、目を覆いたくなるような光景だった。
諏訪子にトドメを差そうと近づいて行った御赤蛇様が、血の泡を吹いて空中で痙攣している。避ける間もなく串刺しにされたのだ。水中から突如伸びてきた銀色の杭に。
自身も串刺しにされたまま、噴き出す御赤蛇様の体液を浴びながら、諏訪子がゆっくりと顔をあげる。金の目の下で、吊り上った口が笑い声をあげている。
「ふん」
諏訪子の低い呟きと共に、彼女を串刺しにしていた御赤蛇様の鉄の杭がぼろぼろと崩れ落ちていく。支えを失った小さな体は一瞬落下したが、すぐに宙に浮いた。
そのまま空中に立つと、すう、と右手を伸ばす。
「――――!やめて!やめて諏訪子様ぁ!」
「うああああああ!」
椛と小傘は諏訪子が何をしようとしているのかを悟り、絶叫しながら諏訪子に向かって突撃する。
諏訪子はそんな彼女達を見ると、にやりと笑った。―――止められるものなら止めてごらん?―――と。
「はああああああ!」
「化鉄『置き傘特急ナイトカーニバル』!!!」
椛は白蛇の刀を振りかざし、目にもとまらぬ速さで空中を駆けながら、水中から次々と伸びてくる銀の杭を迎え撃つ。御赤蛇様を滅多刺しにしようと指揮者のように杭を操る諏訪子に向かって、小傘の弾幕が降り注ぐ。右から、左から、すれ違う光の列が諏訪子に襲い掛かるが彼女は避けもせずに弾幕を浴び続けた。“魅せ”の低威力の弾幕ではない。ありったけの小傘の妖力が込められた、本気の弾幕だ。諏訪子の小さな体は弾幕に揺さぶられ、体当たりする傘達が無数の傷をつけてゆく。それでも彼女の伸びた腕は下がらない。杭を伸ばすのをやめようとしない。
椛もそんな光景を見て、隙あらば諏訪子に襲い掛かろうとするが、杭の迎撃に手いっぱいで、御赤蛇様を串刺しにした杭を切ることすらできないでいる。
「止めて!諏訪子様、やめてえ!」
涙目の小傘が叫ぶ。諏訪子はそのやさしい目に、神奈子を思い出す。
「うあああああああ!」
椛が吠えながら、杭を次々と切り飛ばしていく。そのギラギラとした目はまるで、いつもケンカしていた一年神主――蛇神の贄達――に似ていた。
「ああ、だめだね」
ぼそっと、諏訪子がつぶやいた。
「どいつもこいつもおんなじだ。見たことあるよ」
ぶらぶらと揺れていた左手が天に向けられる。
「私を止められなかった奴らとおんなじだ!」
ぼがん!
「――――!」
「いやあああ!」
水面が爆発する。早苗の爆風ではない。諏訪子が操った湖水が猛烈な勢いで吹き上がり、椛と小傘を吹き飛ばす!
二人はまた湖畔まで押し戻され、砂利の上に思い切りたたきつけられた。ずぶ濡れで地面に横たわり、血に汚れ、うめき声をあげる二人を鼻で笑うと、諏訪子は空中を歩いて、息も絶え絶えな御赤蛇様へ近寄る。
「さて」
「すわ、こ‥‥」
「いやだ‥‥やめて‥‥おねがいだからぁ‥‥」
「まだ喋る元気があるの。大したもんだね。それも御赤蛇様の加護?」
「すわ、こ、さま‥‥」
「見ときな、小傘、椛。ラストだ。“荒神の調伏“、御赤蛇様と私のケンカがいつも最後にはどうなるか、よーく見ておきな」
「こ、このっ!」
「犬は黙って座ってろ!」
「ぎゃん!」
「椛!」
刀を杖にして立ち上がろうとした椛を、水の蛇が襲う。四肢を激しく打ち据えられ、椛は再び這いつくばった。
「‥‥さて、覚悟はいいね?」
――――しゅううううっ!
ニヤニヤと笑いながら問いかける諏訪子の声を聴き、瀕死の赤蛇は弱弱しくも怒りの声を上げる。薄く開いた金の目からは、涙が流れていた。怒りと悔しさにまみれた目を見て、諏訪子の口から暗い笑い声が勝手に漏れ出す。
「ひひひ。今回も私の勝ちだ。悔しいか?え?」
――――しゅううぅ‥‥
「お前らの思い通りにはならないよ。私はお前らのエサなんかじゃない。‥‥そう、エサなんかじゃない‥‥エサは、お前らだ!」
「!」
「!?」
「いただきます」
ず!
ずる
る
る
る
る
る!
る
る
る
る
る
る
んっ
――― ごくん。
****************
その瞬間、空気の匂いが、変わった。
森の中で、狐の娘と狼の娘が毛を逆立てた。九尾と二又が目を見開いた。
湖のほとりで、主人と門番が息を飲んだ。
野原の真ん中で、半獣と蓬莱人が歯ぎしりをした。
竹林の中で。両手足を射止められた少女がにやりと笑った。
人里で、尼公が空を睨み付けた。
丘の上で、魔法使いの少女と人形遣い、花畑の主人が山を見た。
神社で、月を見上げていた紫が、顔を引きつらせた。
「神奈子っ‥‥!」
「わかってる。大丈夫。“ここまでは”一緒」
「ここまでって」
「これは“神楽”なんだ。今までとは、違う」
「‥‥今まであなた達がしてきたことと、他にも何か違うことがあるというの?これは、“神楽”。あくまでも“再発”じゃなくて“再現”だというのね?」
「そう」
「紫!神奈子!」
突然障子が勢い良く開き、霊夢が飛び出してきた。
「なにこれ!何が起きたの!」
「‥‥あら。さすが私の巫女。優秀優秀。ちゃんと気が付いたわね」
「わからいでかっ!何よこれ、いきなり瘴気が消えたわよ!」
「そうね」
「そうねじゃないわよ!」
「‥‥神奈子」
興奮している霊夢の後ろから、静葉が出てきた。さすがに神様といったところか。わめきたてる霊夢と違い、落ち着いている。
「終わったの?」
「いや、まだ」
「早苗ちゃんは‥‥」
「たぶん、喰われた」
「ちょっと!?」
神奈子の言葉に、霊夢が目を剥く。静葉は表情を変えず、小さくうなずいていた。
「ここから、なのね」
「そう。ここから」
月を見上げる。いつの間にか現れた黒雲が月を隠していた。
「がんばれ。早苗」
説明してよと騒ぐ霊夢の声を後ろに聞きながら、神奈子は静かに、柏手を打った。
****************
「あ、あ‥‥」
「ああああ‥‥!早苗‥‥早苗ぇ‥‥!」
「けぷっ」
諏訪子の両腕が、餅のように伸びて御赤蛇様をからめ捕り、風船のように大きくなった頭が、頭から獲物をひと呑みにした。‥‥御赤蛇様を串刺しにしていた杭ごと。
明らかに諏訪子よりも体積が大きいはずの御赤蛇様は、まるで手品のように諏訪子の中へ消えて行った。悲鳴一つ上げることなく。
残ったのは、少しだけ大きくなったお腹をさすり、満足げにげっぷをしている諏訪子だけ。
これが結末?早苗を眷属にするのではなかったのか?本当に殺すのが目的だったのか?一年神主となった早苗は本当にただの生贄だったのか!?いや、そもそも殺されたのか?早苗は一体どこに行った?
二人はあまりの出来事に言葉がうまくまとまらず、呆然と諏訪子を見つめていた。
「ふあーあ。やれやれ、終わった終わった」
「‥‥‥‥」
「‥‥おわったかなー?」
「!」
そんな彼女達に気が付き、諏訪子がゆっくりと視線を向ける。
諏訪子の纏うその空気にとてつもなく不吉なものを感じ取り、椛と小傘が体を震わせた。
じゃり、と諏訪子が湖畔に降り立つ。うつろに光る金色の目で、からからと笑いながら。べろぉりと、長い舌で唇を湿らせながら。
「‥‥くる、な!」
「ひひひひひ!なんだよう、逃げんなよう」
諏訪子が少しずつ歩み寄ってくるが、散々痛めつけられた二人の体は思うように動かず、弾幕の一つも出せない。それでも、刀と傘を杖にして、何とか立ち上がる。
「ひひひ。ひひひひひ」
「こ、このおっ!」
「わああああああああ!」
不気味な笑いをあげながら、こちらに向かってくる諏訪子。恐怖に駆られ、混乱した二人は叫び声をあげながら、それぞれの得物を振りかぶって諏訪子に飛び掛かる。
最後の力を使った一撃だった。しかし諏訪子は両手でそれを難なく受け止めてしまう。
「逃げときゃよかったのになぁ。馬鹿だね」
ばあん!
「くあ!」
「きゃっ!」
ニヤリと笑うと、諏訪子が霊気を爆発させ、二人を跳ね飛ばす。たたらを踏んでよろめく二人の前で、諏訪子は地面に手をついた。
「うん。もう、お前ら喰われてしまえ」
ず、ん!
「ぐ!」
「きゃあ!」
体制を崩していた二人の背中を、地面から突如生えてきた木が叩く。今度は前に倒れそうになった二人は、突然何者かに後ろから抱えられた。
「!?」
「わ、わああ!」
木の根元から生えてきた別の植物が、二人の体を幹に縛り付ける。
椛は力を込めて引きちぎろうとしたが、木も、植物も、びくともしなかった。
体の横に揃えられるように腕ごと縛られたため、あの刀も使えない。
「ああ、ははは。いいね。いい、光景だよ」
両手をだらりと垂らして、諏訪子が立ち上がる。少し傾いだその首の上では、心底楽しそうな金色の目がギラギラと光っていた。
「ほどけ!これ、ほどけ!」
「何をするつもりですか!」
拘束され、必死に身を捩る二人に、諏訪子はじわりじわりと近づいていく。
近づくごとに、諏訪子の纏う冷たい空気が、二人の心臓を縮ませる。
「お贄の柱」
「へ?」
「‥‥は」
ついに二人の近くまで来た諏訪子は、ニヤニヤと木に縛り付けられた二人を見上げてぼそりとつぶやいた。
不穏なその単語に、二人の表情が引きつる。
「まんづ、まづ。良い塩梅だ。二人とも、赤い着物に血の匂い。しかも片方は狼と来た。早苗も喜ぶよ」
「ちょ、ちょっと、諏訪子様!?な、何言ってるんです!何したいんです!」
「わからない?」
「‥‥わかりたくない!」
「けけけ。おまえ、面白い子だね。やっぱり。早苗が気に入る訳だ」
牙を剥き、なおも身を捩り必死に抜け出そうとする椛の隣で、小傘は諏訪子の冷たい目に向かって絶叫する。
小傘の頭の中では、串刺しにされた御赤蛇様‥‥早苗の悲鳴が、まだグルグルとまわっていた。
同じ目に会わないまでも、似たようなことをされるのは間違いない。恐怖に駆られた小傘の歯が勝手にカチカチ鳴り出す。
「せっかくだ。うちの神事を見せてあげるよ。大分簡易的だけど」
「しん、じ‥‥」
ニヤリと笑って鉄の輪を出した諏訪子。この状況で「見せてやる」と言われ、自分たちが暢気に観客をしていられると思える人物がいるだろうか。いるとしたらよっぽどの馬鹿である。小傘は馬鹿ではなかった。
懐から出した鉄の輪を、諏訪子は手の中で飴細工でも作るかのようにコネ始めた。引きちぎられ、ぐにゅぐにゅと形を変える鉄の輪は、そのうち何本もの筒になる。
諏訪子はその筒に指で穴を開け、懐から紐を出して通し、束にすると、がらん、と小傘の目の前にぶら下げた。
「さて、これは何かな」
「え‥‥」
「クイズだ。こっちの活きのいいオオカミはまだグルグル呻ってるから、回答者はお前」
じっ、と自分を見つめる諏訪子の目を、小傘は怯えた目で見返す。
椛は諏訪子の話など全く聞かず、未だに逃げ出そうともがいていた。
椛が動くたび、二人を縛る植物が引っ張られ、小傘の胸がぐいぐいと絞められる。
息苦しさをこらえ、小傘は答える。
「な、なにって、それ、‥‥鈴?」
「ご名答。だけど、まだ足りない」
ニコリと笑うと、諏訪子はがらがらとその鈴を鳴らし始めた。
「『御宝だ、御宝だ』」
「‥‥は?‥‥え?」
「宝物、ミシャグジ様の宝物。『さなぎの鈴』っていうんだ」
がらがらと鈴を鳴らす諏訪子。その顔は、ひたすら無邪気で楽しそう。それは、この恐ろしい祟り神が、おぞましい楽しみに浸っている時の顔であるということを、今夜、彼女と戦った小傘は知っていた。
「なんで『御宝』っていうかわかるかい」
「い、いえ」
「卵みたいだろ。蛇の。“さ”は“小さい”、“なぎ”は“蛇”の古い言い方。“小さい蛇の鈴”さ。どう?」
「たま、ご‥‥」
言われてみれば、その細長い形は蛇の卵のようにも見えた。それならば、確かに蛇にとっては「宝」に見えるのかもしれない。
「うああああ!」と椛が叫び、また二人を縛る木の枝を引っ張る。
「この鈴は何に使うか分かる?」
「‥‥」
ガラガラと鈴を鳴らし、諏訪子は楽しそうに小傘に尋ねる。何に使うのか。小傘には簡単に想像がついた。この状態で蛇が好きなモノの名前を持った鈴を振る。付喪神の小傘には、すごく簡単で分かりやすい答えだった。しかし彼女は答えられずにいた。諏訪子の目を見てしまったから。
「聞いてるかい」
ひひひ、と笑いながら諏訪子が訪ねてくる。満面の笑みを浮かべた顔の中で唯一、目だけが違っていた。
小傘はぽつりと口にした。
「‥‥どうして、泣いてるんですか」
「はぁ!?」
聞いた瞬間、不機嫌そうな声と一緒に諏訪子の表情が険しいものになり、小傘は一瞬だけそれを聞いたことを後悔した。
――――ああ、私の寿命、2分くらい縮まっちゃったなぁ‥‥どうせもう10分もない寿命なんだろうから、関係ないか。
「どうして泣いてるかだぁ?今質問してるのはわたしだ!くだらないことを聞くなよ!答えろ!」
「御赤蛇様を呼ぶんでしょ!私達を食べさせるんでしょ!そんな判り切ったこと!そっちこそくだらないことを聞かないでください!」
「は!なんだと!」
「その目は何ですか!その涙は何ですか!早苗さんを喰って、後悔してるんでしょ!」
「黙れ!」
「後悔するくらいなら、ど、どうしてこんなことを!」
――――あ、しまった。
「黙れえ!」
「ぐっ!?」
下腹に強烈な衝撃が加わり、小傘の視界が一瞬暗転した。諏訪子に殴られたのだ。
はたてから事情を聴かされ、小傘はすでに知っている。諏訪子が贄を求める理由を。御赤蛇様に喰われ、蛇の姿となった1年神主たちとケンカし続けてきた訳を。‥‥御赤蛇様の贄としてささげられ、神となった自分。未来永劫御赤蛇様の贄という呪いを、逆に相手を贄とすることで否定し続けてきたということを。どうしてこんなことを、なんて、一番言ってはいけない台詞だということを。しかし小傘の口は、そのセリフをあっさりと口にした。早苗を、親友を喰われ、悲しみと、そして怒りに染まっていたらしい小傘の口に立てられる戸などなかった。
「唐傘風情が‥‥生意気な口をきくな。決めた。そこまで早苗が大事なら、一緒に居させてやるよ」
「うう‥‥」
痛みで朦朧とする頭を振り、小傘は何とか目を開ける。すこし離れたところに、諏訪子が立っていた。‥‥“あれら”を呼び出すのに、おあつらえ向きなくらいに。
――――がらん、がらん。
諏訪子の振る鈴の音に合わせて、彼女を中心として地面に波紋が走る。それと同時に、地面が墨を撒かれたように黒く染まっていく。
「御宝だ。御宝だ。おいで。ミシャグジ様。贄の柱に、おこう(神使)がふたり。鴉の血と、狼の肉。御頭のお祭りだ」
黒い影が、じわりとその大きさを増す。暗い暗いそれは不気味な洞穴だった。ごう、と音を立てて風が吹き出す。その匂いを嗅ぎ、椛がびくりと体を震わせ、もがくのをやめた。
「神饌はここにある。お前のエサは、ここにあるよ!」
*********************
早苗の周りはどこまでも真っ白な霧に包まれていて、何も見えなかった。
しばらく歩いてみたけれども、何も見つからないし、何もいない。ただ足元だけははっきりと見えた。どこか懐かしい匂いのする、柔らかい草が生えた、野原だった。
もうしばらく歩いてみたい気もしたが、この世界はそういうものだとなんとなく判ったので、そのまま草むらの上に寝転がることにした。
「‥‥あーあ。負けちゃった」
霧は深く、空も見えないが、不思議と明るい。まるで早朝に出ているような、輝くような濃い霧だ。
「お疲れ様でした。‥‥けっこう、痛かったね」
『わたしは、だいじょうぶです。貴女が心配です』
「わたしもだいじょうぶだよ」
お腹のあたりをさする。穴はもうふさがっていた。
一年神主役がこんなに大変だったとは。ちょっぴり覚悟はしてたけど、予想以上に過酷だった。まさか腕を切られたり串刺しにされるとは思わなかった。‥‥最後に、食べられてしまうことも。
自分を食べた―――― 一年神主を御赤蛇様に捧げ、そして斃した―――― ことで、諏訪子の呪いはまた跳ね除けられた。果たしてそれで、諏訪子は救われたのだろうか。いま、彼女はどんな気持ちなんだろ。食べられたということは、わたしはやっぱり死んでしまったのだろうか。ここは、黄泉の国なんだろうか?それとも、高天原?
寝転がったままぼんやりと考える早苗に、また“彼女”の声が聞こえてきた。
『ここは、洩矢神の腹の中。我々の住まう、もう一つのクニですね』
「‥‥あー、ここって諏訪子さまのお腹の中なんだ‥‥」
横から響く声に、早苗はぼんやりとつぶやいた。
「食べられちゃったんだぁ‥‥やっぱり。ねえ、私って、どうなっちゃったんですか?」
『‥‥わたしたちは“カグラ”に負けて、洩矢神に取り込まれたんです』
「いや、そーじゃなくて、死んだのか、死んでないのか、というか」
『今のわたしたちは、洩矢神の一部のような状態です。死んでも、いきてもいません』
「ここからは出られるの?」
『洩矢神に呼ばれるときか、彼女が死ぬときです』
「あー、ほんとーに眷属なんですねえ。うん、だいたい想像が付きました」
早苗はやれやれ、とため息をつく。
これからの自分は、一体どうなるのだろう。スペル戦やケンカの時、諏訪子様はときどきミシャグジ様を呼び出して使っている。自分もそのうち諏訪子様に呼び出されて、霊夢や魔理沙とケンカするのだろうか。
その光景を思い浮かべ、自分は人間でも神様でもない存在なのだという思いが急に大きくなってきた。ゲームのように、召喚されて戦う神の獣。‥‥まさか自分がそんな使い魔になるなんて。
不思議と悲しみは湧いてこなかった。あきらめのような、漠然とした納得感だけが早苗の心の中を覆っていた。――――こうなった以上は、この在り方を受け居るしかないんだ、と。
「‥‥せめて、私の知ってる人とケンカするときはわたしを呼び出してくれないかなぁ。霊夢さんや魔理沙さん、驚くよね、きっと」
白蛇の姿で諏訪子に呼び出され、霊夢や魔理沙に襲い掛かる自分を想像し、早苗はうひひ、と笑った。その声に、ミシャグジ様が戸惑う気配がする。
『‥‥楽しみなの?知ってる人を、襲うのが』
「殺し合いじゃなければね。眷属にしてくれちゃったんだもの。せめて、呼び出したときくらいは知ってる顔に会いたいじゃないですか」
『はあ‥‥』
どこまでも呑気な早苗の言葉に、ミシャグジ様の困った返事が返ってくる。
『でも、なんだかいま、わたし、呼ばれそうです』
「へ?」
『鈴の音が聞こえませんか?あれは、私達を呼ぶ合図の一つなんですよ』
「‥‥‥‥あ」
耳を澄ましてみると、たしかに霧の向こうから鈴の音がする。‥‥それになんだか、美味しそうな匂いも。
その匂いに釣られるように、早苗はふらりと立ち上がった。
「これ、早速のお仕事かな?」
『そうみたいです』
「おお、じゃ、行きますか。ミシャグジ様早苗、初仕事ですよ」
『‥‥すいません』
「は?」
楽しそうな顔をしてよだれを零し、舌なめずりをした早苗に掛けられたのは謝罪だった。
驚いて振り返る。そこには、申し訳なさそうな目をした、ミシャグジ様が居た。真っ白な。
「白い‥‥」
『普段は、この姿です。守矢神社の神使は白い蛇、とヤサカトメが信仰を広めたので』
「え、神様の姿ってそうやって決まるんですか?」
そんなこともあるみたいです。とミシャグジ様が頷いた。ふむ、と何やら考え込む早苗に、ミシャグジ様は驚くべき言葉を口にした。
『ここで、お別れです。サナエ』
「は!?」
『いま、洩矢神が行わせようとしていることは、サナエにとっては悲劇にしかならない。分かりませんか。サナエにも。わたしと一緒になった、あなたなら』
「分かりませんかって‥‥」
早苗は困った声で言うと、また鈴の音が鳴り響く方向を見る。そこにはいつの間にか白い霧の中に黒いもやが浮かんでおり、それがだんだん濃くなっていくところだった。その、黒いもやの向こうから、何種類かの匂いがした。‥‥美味そうな、血の匂い。もっと美味しそうな諏訪子様の匂い。獣の匂いと、古びた木のような匂い‥‥
「椛さん?小傘さん?」
驚いて叫んだ拍子に、口元からヨダレがこぼれた。あわてて拭う早苗に、ミシャグジ様の悲しそうな言葉が聞こえてくる。
『そうです。洩矢神はサナエを使って、サナエの友達を殺そうとしてる』
「殺すって」
『いま鳴っている鈴は、わたしたちに贄のありかを教える時に使うもの。この音の向こうに、サナエの友達がいるということは、贄はサナエの友達。サナエに、友達を食べさせるんです』
「そんな」
どういうことだ?神遊びが終わって、諏訪子は元に戻ったのではないのか?まだ祟り神モードのまま?
驚く早苗を尻目に、ミシャグジ様が黒いもやに向かって進んでいく。その後ろ姿を見て、早苗はあわてて呼び止めた。
「ま、待ってください!一体どうしようっていうんです?」
『私だけが呼ばれて来ようと思います』
「それでどうするってんですか?」
『‥‥サナエが望まない役目をすることはないということです』
「――――!」
『洩矢神には逆らえないのですから』
「私の代わりに、私の友達を殺してくる、と?」
『‥‥こうするしかありません』
「いや、だいたい、私とあなたは結婚したじゃないですか。一心同体ですよ。どうしてあなただけ呼ばれるなんてことができるんです?結局は私も一緒に行くんじゃないですか!」
『サナエは行かなくてもいいんです。‥‥だって、もうお嫁さんじゃないから』
「はあ!?」
さらにとんでもないことを言われ、早苗の顎が外れそうになる。
「い、いつから」
『今です』
「‥‥」
『今この時から、サナエはわたしのお嫁さんではなくなりました。そう決めました。これで、私だけが眷属です。外に行くことができます。サナエは、悲しまなくて済む』
「いや、悲しまなくて済むって、その光景を直接見るか見ないかだけでしょう?」
『‥‥』
「あー、ほんとに、あなたってばどこまで勝手なんでしょうねえ!」
『すいません。でも、こうしないと、あなたが悲しむから。‥‥私と別れていれば、いつか洩矢の神が出してくれるかもしれません』
「だからぁ‥‥!そうじゃなくて!」
その状況はまさしく「いったん眷属になって、ミシャグジ様にお願いして離れてもらう」という、一番最初に願った状況だろう。しかし、今ここでそんなことを言われても、早苗はそれを受け入れる気分にはなれなかった。
『‥‥ごめんなさい』
「あっ、ちょっと!」
ミシャグジ様は早苗の言葉を聞き流すと、黒いもやの方に向かって進み始めた。
「あなた、このまま居なくなる気ですか?私を捨てる気ですか?ここまでしておいて、あんな事からこんなことまでさせといて!」
白い霧の中、背中を向けるミシャグジ様に、早苗の怒号が響く。
「させません、させませんよ!あなたとわたしはもう一心同体なんです!私を助けるために、一人眷属になるなんて、赦しませんからね!」
驚いて振り返ったミシャグジ様の目が、まん丸に見開かれていた。
「一緒にいてもいいと言ってるんです!何遠慮してるんですか!?荒神様が、そんな気弱なことでいいと思ってるんですか?」
ぽかん、と口を開け、困惑するミシャグジ様を、早苗は鼻にシワを寄せてキツクキツク睨みつける。
『それでは、友達を‥‥』
「構わないってんだろうがぁ!ああ!?」
『はひ!?』
思わず、口調がミシャグジ風になっていた。彼女と混じった時におぼえた言葉づかいだったが、それを早苗に植えこんだ張本人が、なぜか怯えた。
「あたしはねえ!そんなこと、とっくに覚悟してるんだよ!気を使ってくれて、ありがとう。でも、私は蛇神の嫁だ!あなたと結婚するって言ったとき、わたしは人間も風祝も現人神も捨てたんだ!いまさら、友達を襲えって言われたって、なんとも思わない!」
『‥‥』
「そりゃあ、ちょっとは食べにくいかもしれないけども」
『なら‥‥』
「優しすぎなんだよ!オマエは!良いから!言うことを聞け!」
『は、はい!』
早苗は眉を吊り上げて、ミシャグジ様を怒鳴りつけた。‥‥椛や小傘を襲えと言われていると知った時、早苗は確かに驚いた。しかし、それはただ単に諏訪子がまだ祟り神のままであるということに対してだ。もやの向こうから漂ってきた匂いを嗅いだとき、早苗の頭に最初に浮かんだのは、「おいしそう」という食欲だったし、その相手が椛や小傘と知った時には「どんな味かなぁ」という思いが真っ先に浮かんだのだ。だからヨダレもこぼれた。今の早苗の価値観は完璧にミシャグジのそれと化している。‥‥自分はもうヒトではない。ミシャグジなのだ。蛇なのだ。早苗はそれを分かっていた。
―――友達を殺させないように気を使うミシャグジ様の方が、ずっと人間臭いじゃん。私の方がずっとケダモノだなぁ。
ちょっぴり、そんなことを考える程度には、早苗に人間らしさは残っていた。
『‥‥』
そんな、蛇女早苗の迫力に押されたか、ミシャグジ様は頭を振ると、おずおずと早苗を見つめ、「いいの?」とでも言いたげに、尻尾を伸ばしてきた。
しかし。
「だが断る!」
「!?」
早苗の身体に尻尾が巻きつこうとした瞬間、早苗は突然大きな声でとんでもないことを言った。
ミシャグジ様は何を言われたのか理解出来ない。真っ黒な目をぱちくりさせて、尻尾が止まる。
「あなたは!一度私の元を去った、別れたんです!私はもうあなたのお嫁さんではない!全ては一からやり直し!仕切りなおし!」
バツマークを描くようにばっ、ばっと腕を振ると、あっけに取られて固まるミシャグジに向かい、早苗は腕を組んでふふん、と得意げな顔をする。
そして、ゆっくりとミシャグジ様に歩み寄ると片膝を立てて膝まずき、手を伸ばして彼女の尻尾の先をそっと手にとった。
「常識に囚われてはいけないのです。答えはひとつだけじゃないんです。私とあなたが一緒に居られる方法は、一つだけではないんです」
『サナエ‥‥』
「さあ、下剋上の時間ですよ」
『へ!?』
「私に良い考えがあります。色々丸く収めるための」
『はあ』
「あなたは、これから私の言うことに従えばいいのです。それで、たぶんうまくいきます」
『‥‥』
ミシャグジ様は、『ホント?』と首をかしげてきた。早苗はそれに「たぶんね」と暢気に答えた。
混乱するミシャグジ様と、微笑を浮かべた早苗の視線が交差する。
「では」
そして、早苗はにこりと笑うと、大きな声で、その言葉を口にしたのだった。
*********************
―――― しゅうううう‥‥
「‥‥神奈子様」
呼び出された蛇神を見上げながら、小傘は弱弱しい声で呟いた。
諏訪子の後ろに佇むのは、白み始めた空を背に、自分の5倍はあるだろう高さに首をもたげた真っ白な蛇。さっきまで諏訪子と戦っていた御赤蛇様ではなかった。どこまでも真っ白な、神々しい白蛇。ただし、その目だけは、御赤蛇様と同じ金色。
白蛇を背にした諏訪子が両手を広げ、モミの木に桑の枝で縛りつけられた赤い衣の神饌達に語りかける。
涙を流しながら。
「一年神主は御赤蛇様と交わり、洩矢、八坂の明神を経て、その体を成す」
「‥‥」
「ここに居るのは我らが僕。守矢の神使。諏訪明神の白蛇なり」
「‥‥」
「さあ、季節外れの御頭祭を行おうじゃないか」
「‥‥諏訪子様」
「洩矢神っ!」
くひ、と壊れた笑いを漏らす諏訪子に、椛が吠える。早苗を自ら手に掛け、贄として喰らった諏訪子の行状からは、正気を窺うことはできない。それは仕える“白蛇の早苗”を殺された神使の椛にしても同じ事。憎しみに染まった目で、諏訪子を睨み続ける。
しかし、諏訪子の両目からこぼれる涙は、少しずつ、少しずつ増えてゆく。それは彼女が正気に戻りつつあることを示しているように、小傘には感じられた。
「早苗‥‥もうちょっとだったね」
つぶやく小傘の目に映るのは、ミシャグジ様の金色の目。その瞳が、クッ、と細くなった。それが彼女のどんな感情を示すのか、小傘にはわからない。
―――― 早苗に食べられるんなら、いいんだよ。
あの、森の洞窟で子狸の身代りに喰われそうになった時のように、すでに小傘は喰われる覚悟を決めていた。
「随分と大人しいじゃないか。小傘」
「――――仕える主人と一緒に“葬られる”なら、道具にとっちゃ最高の最後の一つですから」
「‥‥そうかい」
小傘があえて放った“葬る”という単語に、諏訪子の表情が一瞬曇る。
「小傘っ!」
「これで諏訪子様が元に戻るなら、それは早苗が望んだことでもあるんだよ、椛」
「でも!」
「いこう。‥‥待ってるよ。きっと」
「――――!」
「話は済んだか」
悔しげに唇を噛む椛を穏やかな目で見つめると、小傘は諏訪子に顔を向け、小さくうなずいた。
諏訪子の両目からは涙が流れ、ぽろぽろと零れ落ちている。
「さあ」
諏訪子の右手がすう、と上がる。小傘と椛を指し示す。
「喰え」
ミシャグジ様が、ずるりと動いた。真っ赤な口が、パカリと開く。生臭い息が、二人の肌をなでる。
「う、ううああああああああ!」
「早苗っ‥‥!」
椛が絶叫する。小傘は目を閉じ、背筋を伸ばした。早苗が呑み込みやすいように。
まぶたの外が、真っ赤に染まる。衝撃が、一瞬二人の体を襲い、そして何も、見えなくなった。
―――――― “蛇巫” 神代大蛇 ――――――!
―――― ぐしゃっ!
「ぶはああああ!」
「げほっ!げほっ!」
二度目の衝撃は水音と共にやってきた。
必死になって空気を吸う。隣で椛の咽る声がする。
「な、なに、ここ」
「て、天国‥‥」
「ぶぎゃ!」
「!?」
突然聞こえた悲鳴に、髪にまとわりつくドロドロを振り払い、顔を声のした方に向ける。
袖で顔をぬぐい、ようやく目を開けた時、二人は自分たちが巨大な卵の殻の中に居ることを発見した。‥‥真っ二つに、割れた。周りのドロドロは、卵白だ。
「ふえ、これって」
「卵!?」
「げぶっ!おごっ!」
「何!?」
再び響いた悲鳴。二人はようやく、その発生源を確認する。
‥‥ミシャグジ様が、諏訪子の頭を咥えて、ひたすらに地面に‥‥硬い石畳の上に叩きつけていた。
「‥‥」
「‥‥」
―――― ぺっ!
ずしゃっ!
二人が呆然と見つめる前で、白蛇は諏訪子を吐き出すと、石畳の上に放り投げる。
諏訪子は受け身も取れず、存分に顔面をこすりながら転がっていった。
「‥‥ぐ、あ、あ」
地面に這いつくばり、うめき声を漏らす諏訪子。それを見下ろし満足げに目を細めるミシャグジ様。
二人は何が起こったのか分からず、目を白黒させていた。その時だった。
『――――ふん。他愛もない』
「え」
「あ?」
なんとミシャグジ様が、喋った。次の瞬間!
『――――キャスト・オフ!』
ばりっ!
「!」
「うわっ!」
ミシャグジ様が、突如まばゆいばかりの光とともに爆発した!
卵白でべたつく腕で顔を覆いながら、小傘はさっきの台詞がどこかで聞いたことのあるものだったことに気が付いていた。
早苗んちの、居間だ。“でーぶいでー”だ。
「ふう」
まばゆい光の向こう側から、のんびりした溜息が聞こえてきた。
じゃり、と石を踏む音。
「‥‥あ」
「まさ、か」
ぼろぼろになった小傘と椛が、驚愕に目を真ん丸に見開いていた。
地面に叩きつけられた諏訪子も、しりもちをついた格好で体を起こし、やはり驚愕しながら、光の向こう側を見ていた。
じゃり。じゃり。
足音が、光の向こうから近づいてくる。そう。「足音」が。
まばゆい光が収まっていく。その中から現れたのは、白と青の祭祀服。そして、蒼い袴から覗く二本の細い脚。緑なす髪。
まごうことなき守矢神社の風祝。
「‥‥二足歩行ってのも、久しぶりだと戸惑うものですね」
「早苗!」
「早苗さん!」
「やは」
彼女はすっ、と手をあげて軽く答える。いつもの東風谷早苗がそこに居た。
皆、驚きと喜びと戸惑いで少し目尻の下がった泣き笑いの表情だった。なんせ、完全にミシャグジに呑まれ、ミシャグジとして諏訪子に取り込まれたはずの彼女が、再びこうして姿を現しているのだから。しかも、眷属として呼び出されたのに、まるで関係ないとでも言うかのように諏訪子をボコボコにして。
皆が驚きで動けない中、驚きの元凶である彼女は腰に手を当て、仁王立ちで諏訪子を見下ろしていた。
「さな、え‥‥」
「どうしたんですか。諏訪子様。そんな泣きそうな顔をして」
「早苗、さなえ‥‥さなえええええ!」
たまらず、諏訪子が泣きながら早苗に跳びついて行く。ついに、諏訪子の狂気が消えた。
ああ、これで一件落着かな。そう感じた椛と小傘の間に、安堵の空気が流れかけた。
だが。
「ふん!」
ごあっ!
諏訪子に向かって、強烈な爆風がさく裂した!
「ひゃあああああああああ!?」
「え」
「えー!?」
ぽーん、とボールの様に跳ね飛ばされた諏訪子は、木立に背中から勢いよく叩きつけられる。
ずるずるぽてり、と地面に落ちる諏訪子と、鼻を膨らませて得意げな顔をしている早苗を、椛と小傘はまたしても茫然と見ていることしかできなかった。
「何腑抜けたことやってんですか、祟り神!」
「さ、さな、え?」
「私が欲しいか!」
「‥‥へ?」
にやあ、と腰に手を当てたまま不敵に笑う早苗。諏訪子は背中の痛みも忘れ、きょとんとした顔をすることしかできない。
まばゆい光が、早苗達を照らす。日の光だ。ついに夜が、明けた。
「諏訪子様は確かに、ミシャグジ様を私ごと眷属にしました。が、それは私がミシャグジ様に呑まれている時のこと!」
すうっ、と右手が腰から離れ、人差し指が早苗の顔の前で天を指す。
「今は、逆!私が、ミシャグジ様を呑んでいるのです!」
「そ、そんな、まさか」
「まさかでも八坂でもありません。現にこうしてわたしはここに居ます。入れ子の順番は変わりました。諏訪子様が支配するミシャグジ様に支配される私ではないのです。諏訪子様が支配していたミシャグジ様を支配している私です。よって私はもう諏訪子様の眷属ではありません。呼び出されてさっきは出てきましたが、閉じ込められていただけなのです。うふふ。外に出してくれてありがとうございました。おかげで自由の身ですよ」
「そんな、そんな‥‥ミシャグジ様を、お前はミシャグジ様を従えたというのかい!そんな、私の呪いまで、消したというのかい!」
「ええ。ホレた弱みってのは古今東西人妖神仏関係ありませんねぇ」
「は、はあ?」
「今の私は誰のものでもありません。ミシャグジ様のお嫁さんでも、諏訪子様の眷属でも、そして、風祝でも、ない」
「な、何を――――」
「さあ!勝負です、諏訪子様!」
早苗の言っていることにまるでついて行けず、ただ声を震わせている諏訪子を、早苗の人差し指がビシッと指す。
「かかって来なさい!諏訪子様!今の私は野生の早苗!ミシャグジ様を嫁に迎えた、「白蛇の早苗」!」
「よ、嫁え!?」
「そう!ミシャグジ様は、私のお嫁さん!」
――――「嫁に来なさい!私の嫁に!」
‥‥尻尾の先をぷるぷる震わせていたミシャグジ様は可愛かったなぁ、と、早苗は一人ニヤニヤと思い出し笑いをした。驚愕の表情を浮かべる諏訪子を見下ろしながら。
あの時、白い霧の中で放った台詞。それは、今の今まで一回もなかった、ヒトからミシャグジ様への、「嫁になります」ではない、「嫁に来ないか」というプロポーズ。そして、呪いだなんだというややこしい関係を余計ややこしくしつつもぶち壊す、常識に囚われない一言だった。
‥‥常識に囚われていないのは、ミシャグジ様も同じであろう。なんせ、最初からエサではなくお嫁さんとして早苗のことを見ていたのだから。長い長い時の中で何がどう変わったのかわからないが、結局このミシャグジ様の方も十分「常識に囚われていなかった」のだ。いつかの夢の中で「お前たちはお似合いだ」と諏訪子に言われたのは、十分に的を射ていたのだ。蛇神の百年に一度の気まぐれと、常識を投げ飛ばした風祝の二人は今ここに、ミシャグジ様が人間に嫁入りするという前代未聞の光景を作り上げたのである。
「そ、そんな、そんなことが」
「じゃあ、始めましょうかね!」
「な!?」
「変身!」
早苗の誇らしげな宣言と共に、二本の足が輝きだす。光の中で足は一本に溶け合い、ずるりずるりと伸びていく。
足が伸びていくにつれ、早苗の体が、ゆっくりと持ち上がっていく。金色の瞳の中で、瞳孔が縦に伸び、ゆっくりと裂けた。
「こっちの方がしっくりきちゃいますね、うーん」
「な、あっ‥‥」
再び光が収まった時、そこに居たのはまた下半身を長い蛇の胴体と化した早苗だった。光り輝く白い鱗は、先ほどまでの血みどろの戦いの傷などどこにも見えず、宝石の様に光っていた。
「あははは!」
ぼごっ!
「ぎゃっ!」
呆然と早苗の変身を見ていた諏訪子の真下の地面から、突然長いモミの木が生え、諏訪子を空に吹き飛ばす!
「かかって来なさい諏訪子様!私を従えたいのなら!二度と風祝を失いたくないなら!」
「早苗――――っ」
「ほらあ!さっさと掛かってきな!いつまでも泣きそうな顔してないでよぉ!本気で来なかったら八つ裂きにするぞ!」
「!」
諏訪子の目に、ギラギラとした光が戻る。空中で一回転すると、諏訪子は地面に綺麗に着地した。
髪をかき上げ、早苗を睨み付ける。その口元には、笑みが浮かんでいた。
「はは、ははは」
「むふふ。嬉しいですか。諏訪子様」
「ははは、くそ、涙が、前が、ぼやける」
「あまり気を抜くと飲み込むぞ!」
「へ、へへへ!」
ごう、と早苗が起こした風を、諏訪子も負けじと土塊を盛り上げてしのぐ。
その顔は、涙でぐしゃぐしゃになった、笑顔だった。
「さあ!新しい神話の始まりです!見事この私を調伏して見せなさい!土着神の頂点!」
「舐めんなぁ!このお転婆白蛇が!三倍返しだ、覚悟しな!」
「ふふん!」
ご おっ!
「うわあ!」
「きゃあ!」
風が巻き起こり、小傘と椛を揺らす。今までの風とはまた違う、一瞬ではじける様な風ではない。押しのけ、いつまでも噴き出してくるような、とてつもない量を持った、泉のような風。夜明けの空に、ごう、と音を立てて風が満ちる。
頬をぬぐう瑞々しい風に踊る湖水に、小傘達が見とれている時だった。
「やあ、なんとか、うまくいったみたいですかね」
「わっ!」
「射命丸!?」
「どーも。ってかはたての心配もしてあげてよ」
「あ!はたてさん!?」
「痛いよう‥‥」
「あああ」
いつの間にか二人の後ろに、落された天狗達がにじり寄ってきていた。射命丸は泥だらけの顔で、驚く二人に会釈をする。はたては射命丸に肩を貸され、まだ腹を抑えていた。
「だ、大丈夫ですか、二人とも」
「ええ、ようやく何とか繋がりましたよ。いやはや、ひどい目に会いました。ねえ、椛」
「‥‥すいませんでしたね」
「つ、つながったって‥‥の、呪いは、首輪は?」
「消えてなくなりました。さきほど、綺麗さっぱりと。諏訪子様の心情が変わったってことでしょうね、これは」
「じゃあ」
「ええ、彼女はもう、狂っていない」
しっかりとうなずく射命丸。よかったよかったと泣く小傘に手を貸され、はたてと共に体を起こす。
椛はそんな二人を一瞥すると、気まずそうにまた早苗と諏訪子の方を向いた。
その背中に、はたての不機嫌そうなブチブチとした声がかかる。
「‥‥もみもみはまだおかしいんじゃないの」
「私も一応正気に戻ったですよ」
「ほんとに?」
「ええ」
「‥‥すっごい痛かったんだからね」
「すいませんでした」
「ああ、ほら、まあまあ。はたて、貴女も小傘さんをくびり殺すとこだったでしょうに」
「う」
「あはは。ちょっと、こわかったかなぁ」
「ちょっとしか怖くなかったんならそれはそれでプライド傷つくんだけど‥‥」
まだいろんな意味で腹具合の悪いはたてをなだめつつ、一同は改めて対峙する祟り神と蛇神を見やる。
湖の上空で向かいあう二人。風はますます濃さを増し、水は激しく踊っていく。
「うん。きっと勝負は一瞬です。ここまで来たら、きっとフルパワー、一撃勝負。すごいのが来ますよ。椛!」
「言われなくても」
射命丸の声に、椛が答える。3人の天狗は、一斉に呪文を唱え始めた。
「えっと、わたしは‥‥」
「小傘は見てて!絶対に目を逸らさないで!」
「う、うん!」
「あなたは最後の最後まで、この場で正気を保っていたんです。誇っていいですよ。あなたにこそ、このケンカ、いや、神楽を見届ける役目が与えられてしかるべき」
「サポートはちゃんとするから。風が吹いても目は閉じないで。‥‥いてて」
「はいっ!」
返事をすると小傘は傘を閉じる。視界の向こうに見えるのは二人の神様。早苗と諏訪子。早苗は霊気、いや、神気で青白く光る風を纏い、対する諏訪子も同じく、光る風を纏っていた。
「諏訪子様も風!?」
「おお!ミシャグジ様を纏める土着神の頂点なら、彼らの神性に属するモノが操れても何の不思議もありません。相手の得意技でねじ伏せようというのですね。いやはや。さすが神様。いや、諏訪子様」
「くっちゃべって無いで風作ってよ!」
「はいはい」
「初手行きます」
興奮する射命丸にツッコみを入れるはたて。その横でいち早く呪文を唱え終わった椛が刀を砂に突き刺すと、風の結界を展開する。湖畔の四人が、半球状の風の結界に包まれる。
「二手目!」
「はい、三手目!」
続けざまにはたてと文の呪文が完成。三重の風の結界が、お互いにかき混ぜあいながら外界と4人を遮断する。早苗と諏訪子の呼ぶ風の音が、聞こえなくなった。
目を凝らす小傘は、早苗と諏訪子が何か喋っているのを認めた。が、声は聞こえない。
「な、なんか喋ってる!」
「椛分かる?」
「『さあ、かくごはいいですか。すわこさま』、‥‥『いいよ、かかってこい、さなえ』」
「聞こえるの?」
「読唇術だよ小傘。‥‥来るよ!」
「!」
二人の纏う風が、雷のようにまばゆい閃光を放った!
「―――――!!!!」
どおおおおおおおお!
湖が爆発したと思った瞬間、すさまじい水しぶきが上がり、小傘たちの視界を覆い尽くす。その一瞬の後には、足元の砂浜が爆発した!
「わああああああ!」
小傘の悲鳴が結界内に響く。風の結界を纏っていても響く轟音のせいで、椛も、射命丸も、はたての声も聞こえない。揺さぶられる結界の中で、小傘は一瞬途切れた白煙の向こうに空を見た。結界ごと4人は空に吹き上げられたらしい。結界は足元の砂ごと、球形に4人を包み込んでいた。
目を閉じてはいけない。目を閉じてはいけない。小傘は揺れる結界の中で必死に早苗と諏訪子のいるだろう方向を見続けた。砂煙はまだおさまらず、二人がどうなったかは見えない。
「小傘、後ろ!」
「へ!?」
少し風が弱まってきたと思った瞬間、椛の叫び声が聞こえた。振り返った先、白煙の向こうで金と緑の光がカメラのフラッシュのようにきらめいている。
「早苗!?」
「もう一発!」
はたての悲鳴と一緒に、またもやすさまじい衝撃が結界を襲う。
「きゃあああああ!」
「『一発』じゃなかったんですか!」
「いや私は『きっと一撃』って言いましたよ!」
「ヤバい、割れる!」
「え?」
ばあん!
「――――――!!」
はたての絶叫と同時に、結界内に水煙が吹き込んできた。全身を打ちのめすような衝撃と同時に、小傘の視界は暗転した。
*********************
「――――――!――――がさ!小傘!」
「はひっ!」
聞こえてきた呼びかけに、小傘は無理矢理に目を開く。目の前にあったのは、見覚えのある白い髪だった。
ふわりと浮く感じ、そして空の匂い。二人は空中に居るらしい。ふと視線を感じて横を向けば、隣には小傘の傘が並んで浮かんでいた。小傘は椛におぶわれて、ゆっくり空中を降下しているところだった。
「椛!」
「よかった、起きた!」
「あ、あれ、私、どうなって」
「結界が壊れて、みんな吹き飛ばされた。よかったよ。無事で」
「射命丸さんとはたてさんは?」
「分からない。とにかく小傘を捕まえるのに夢中だったから」
「ありがとう。って、なにこれ!」
椛に礼を言った小傘だったが、ふと自分の足元を見て叫んだ。
眼下には、守矢神社とその湖があった。あったのだが、湖の輪郭がなんだかおかしい。あんなに湖畔の砂浜は広かっただろうか。‥‥いや、水が減っている!
「水が‥‥吹き飛ばされたの!?」
「そうみたい」
「早苗は!?」
「気配はするんだけど、湖に居ない。‥‥空の上!」
「え!」
見上げる小傘の視界の先で、高層雲が円形に弾けた。
「まだ終わってないの!?」
「いや、来る!落ちてくる!」
あまたの雲を引きちぎりながら、白い軌跡が一直線に空から落ちてきた!落下地点は――――
「早苗さん!?諏訪子様に絡みついて、受け身どうするんです、あれ!」
「ちょ、こっちに来るよ!椛逃げて!」
「!」
ぶあっ!
小傘をおぶったまま、椛が慌てて体をひねる。そのすぐ横を、早苗と諏訪子が一直線に落下していった。すれ違う瞬間、小傘は二人の姿を見た。ともにボロボロ。そして、二人とも笑っていた。早苗が下半身で諏訪子を締め上げて、なおかつ取っ組み合いながら。
「早苗っ!」
どごおおおん!
小傘の悲鳴と同時に、白い隕石が湖畔に落下。二人のいる高さまで土柱が上がる。
「椛、行くよ」
「‥‥うん」
小傘は椛の背から降りると、傘を掴んで一気に急降下。椛もそれに続く。
もうもうと立ち込める土埃。小傘は風上に回り込むと、半ば墜落気味に湖畔に着地した。
「さなえーっ!」
声を限りに叫ぶ。砂煙の向こうから、返事は帰ってこなかった。
*******************
「はあっ、はあっ!」
「はあ、あ、あ」
荒い息の音が聞こえる。
ぐわんぐわんと、まだ頭の中でさっきの衝撃が脳みそを揺らしている気がする。
体の上に、重みを感じる。砂にまみれた瞼が重い。頭を振って砂を落とす。開いた視界の先に、諏訪子の涙目があった。
早苗は諏訪子を振り払おうとしたが、手が動かない。早苗はようやく、自分が両腕を投げ出して、磔になっているように湖畔に寝転がっていることを理解した。
「‥‥っはー、はぁーっ‥‥この、お」
「さな、えっ‥‥さなえ‥‥!」
「っはー、はぁー、ちっくしょー、しぶとい、祟り神、め」
「――――!」
祟り神、と呼ばれた瞬間、諏訪子が顔を下に向けた。汚れた金の前髪の下から、ぽたりぽたりと涙がこぼれている。
「‥‥どうした、んですか。また、泣いて」
「っ!」
「泣き虫、だね、たたり、神サマ」
「ううっ、ぐっ」
「‥‥」
「‥‥はあ、あ」
「はは、なんですか。もう、やめて、くださいよ。‥‥こんな、泣虫のカミサマに負けた、なんて、はずかしいですよ?さあ、最後の、仕上げ、です。きっちりやって、くださいな」
「うるせー!」
チロチロと舌を出す早苗に、諏訪子がどなる。ぐしゃぐしゃになった顔を袖でぐいと拭うと、諏訪子は早苗の目を強く見つめた。深く息を吐いて、呼吸を整えている。早苗は、それをニヤついた顔で、じっと見ていた。
「この、荒神めが!」
「‥‥おう」
「この勝負、私の勝ちだと認めるか!」
「‥‥」
「私はまだ、お前を空のかなたにも、大地のはざまにも投げ捨てることができる!幾千幾万の鉄の輪で、お前を切り刻むこともできる!」
「‥‥は」
「もしお前が負けを認めるならば、その命だけは助けてやろう!もしまだ私に抵抗するなら、その体切り刻んで、溶けた大地にばらまいてやる!」
「‥‥ふふ」
「どうだ!認めるか!おまえの、負けだ!」
涙があふれた、真剣な諏訪子の目が、早苗の瞳を睨み付ける。早苗は、しゅう、と蛇の声を出すと、反対にニヤニヤと笑った。
「ふん。悔しいね。体が、動かない」
「認めるのか!」
「‥‥ああ、あたしの負けだよ。‥‥ふん、この、チビ神めが」
「負けた」と言った瞬間、早苗の心に悔しさが湧いた。ただし、色々と吹っ切れたような、すがすがしい悔しさだ。
早苗のその言葉を聞いて、諏訪子がまた、歯を食いしばり、すう、と息を吸った。
「ならば命ずる!これよりお前の主は、八坂神奈子、洩矢諏訪子と心得よ!我らの眷属となり、付き従うことを誓え!我らを護り、命に従い、我らが前に立ちふさがりし、すべての愚かなるものに、我らと共に報いを与えるのだ!」
「‥‥あは、大げさだねぇ」
「いいか!」
真剣な瞳が、軽口をたたく早苗――――ミシャグジ様を責める。早苗は、その視線に押され、どことなく恥ずかしそうに眼を横に向ける。そこには天狗とお化けが居た。二人もまた真剣にこのやり取りを聞いている。それを見ると、また早苗は諏訪子の方を向いた。
「‥‥ああ。わかったよ‥‥諏訪子様」
そういうと、早苗は、ニコリと微笑む。諏訪子は初めて、その笑みに笑い返した。
ついに、諏訪子が、早苗を仕留めた。洩矢神が、ミシャグジ様を、完全な意味で従えた。諏訪子の呪いが、ぶち壊された。
「しょぉーぶ!勝ぉ―負!」
諏訪子が天を仰いで絶叫する。儀式のような、鬨の声。諏訪子は、獲物を手に入れた。早苗という獲物を。二度と、手放すことのない獲物を。そして、早苗の神楽は終わった。諏訪子とミシャグジ様との、全く新しい、結末と一緒に。
隣からは、狼の遠吠えが聞こえてきた。椛が天を仰いで、狼の言葉で「勝負」と叫んでいる。ほどなく、空の向こう、幻想郷中から、獣の声が響いてきた。
――――ミシャグジ様と洩矢神との戦いは終わった。ミシャグジ様は生きている。と。
ざあ、と風が動く。幻想郷中の木々が梢を揺らしたのだ。ごおお、と鳴り響く山鳴りを聞きながら、小傘が横で泣いている。よかった、よかったと言いながら。
ようやく動くようになった腕で恥ずかしそうに頬を掻く早苗の胸に、ぽすりと落ちるものがあった。諏訪子の頭だった。
「早苗‥‥早苗っ‥‥!わあ、あ、あああ!」
「諏訪子、様‥‥」
「うわあ、ああ、うう‥‥、ぐっ、あぁ‥‥!ああああああ!」
「‥‥へへ、奇跡、呼びましたよ」
「うん、呼んだ、呼んだ‥‥早苗、奇跡呼んだよ!」
「‥‥ふふん」
「ありがとう、ありがとう、早苗‥‥私を、私を、こんな、おぞましい神様なんかを‥‥」
「‥‥いいんですって。はは、泣かないでください。こっち、まで、泣きたく、う、なるじゃないですかぁ」
「わああ、ああ、早苗、早苗!もう、離さない、二度と放すもんか!早苗、早苗!」
「諏訪子、様!‥‥ふあ、あああ、よかった、よかった、私、ほんとに、どうなるかって、‥‥うっ、うう、ううう!」
「早苗‥‥!」
「わあ、ああ、あ、ああ、あああ!」
諏訪子の頭を撫でながら、早苗も一緒に泣いた。見上げる夜明けの明るい空はとてもまぶしい。余計に涙がこぼれてくる。なんだか目まで一緒に流れ落ちそうで、早苗は目をギュッとつぶった。
「‥‥さなえ」
「――――!」
ふと横から聞こえた声に、早苗は真っ赤に腫れた目を開く。神奈子がいた。
「よく、頑張った」
「‥‥はい!」
「よかった、よかった、本当に‥‥」
「あは、は」
言うなり目尻をぬぐう神奈子に、泣きはらした顔で早苗は笑った。そして、ゆっくりと右手を上げる。Vサインだった。
「ぶいっ」
「はは、ったく、暢気だなぁ、お前!」
「へへへ」
「よかった‥‥!」
そのVサインにすがりつくように、神奈子が早苗の手を取る。手の下から、小さな嗚咽が響いてきた。
カシャリ、とシャッター音。首をめぐらすと、ぼろぼろのドロドロになった射命丸とはたてが、泣き笑いながらファインダーを覗きこんでいた。
パシャパシャと響く撮影音。疲労感も相まって、なんだかマラソン選手のゴールの瞬間みたいだな、と早苗はぼんやり思った。
――――ぐうう
「あ」
安心した途端、早苗の腹の虫が目を覚ました。その音を聞いた諏訪子が、がばっと顔をあげる。
「さ、さなえ、お前、まさかまだ!」
「はは、いや、諏訪子様を食べようってんじゃないですよ。大丈夫ですって」
「本当かい!?」
「ええ。‥‥なんかおいしそうな感じ、しますけどね。へへ、一回くらい、かじっときゃよかったかなぁ」
「こっ、こーの、不良蛇神め!串刺しにしてやろうか!」
「へへ、冗談ですって。あはは」
「ふふ。じゃあ、用意、しなくちゃね」
「へ」
「ちょうどいい時間だよ。ほら、二人とも。風呂――――は、壊れてるか。水、浴びといで」
母屋の方を見た神奈子が、やれやれと苦笑する。窓ガラスがすべて割れた母屋が、荒れに荒れた鎮守の森の中で、奇跡的にその姿を保っていた。
よく見れば、拝殿や神楽殿も、ところどころ屋根に損傷があるが、概ね無事である。
「うそ‥‥全部、壊しちゃったかとおもってた」
「これも奇跡、かな」
「‥‥ふえ」
ぼう、と遠くを見る早苗の頭をひと撫ですると、神奈子は立ち上がった。そして、パンパン、と手を叩く。一同が皆、振り返った。
神奈子は一同の視線を集めると、ニコリと笑った。
「さあ、みんなお疲れさん。朝ごはん、食べようか。すぐに作るからね」
*********************
空はどこまでも高く、雲一つない空に、昼間の月が浮かんでいる。
どうど、どうどと音を立てて流れる滝の周りでは真っ赤に色づいたモミジが、わさりわさりと風に揺れていた。
妖怪の山は麓よりも少し早く、秋の匂いが漂っていた。
「ふあ」
もう何度目か分からないアクビが、椛から漏れた。
風はゆるく、空気は心地よく涼しく。残暑もこの滝までは襲ってこず、滝の音は耳に心地よい。日陰の見張り台は涼しく、空気は水煙に洗われて、河が運んできた瑞々しい森の匂いをたっぷりと纏っている。思わずあくびも出ようというもの。
「‥‥サボりたいねえ」
むにゃむにゃとつぶやくと、傍らに置いたずた袋から、鹿の干し肉を出して齧る。硬いものを噛むと目が覚める。将棋を指す時間があるほどの暇な哨戒任務だが、寝るのだけはご法度である。
「‥‥‥」
無言でこりこりと筋の多い肉を噛む。これは塩辛い行動食。汗をかいている時ならいいだろうが、動かずにじっとしている時に沢山食べるものではない。のどが渇く。
「ん‥‥」
水を飲もうと手を伸ばす。ずた袋の隣には、竹の水筒が‥‥
――――ひやり
「ふおお!?」
「きゃあ、どこさわってるんですかー」
水筒を求めて手を伸ばした椛の手に、冷たいものが触れ、素っ頓狂な声をあげながら彼女は振り向く。振り返った先に居たのは、ニヤニヤと棒読みの台詞を吐く早苗だった。正座して、膝の間に丸い球‥‥西瓜を抱えた。椛がさわったのは、冷えた西瓜だった。
「ちょ、えええ?」
「わー、驚いた驚いた」
早苗はパチン、と嬉しそうに手を叩く。影もなく音もなく匂いもなく、いつの間にか見張り台に座っていた彼女に、椛は捕食者の匂いを感じた。
「さ、早苗さん、そーいうのよしてくださいってば、ほんと‥‥あー、びっくりした」
「油断しすぎですよー。というか、寝てたでしょ?椛さん」
「ね、寝てませんよ!」
「えー」
「寝てませんってば。‥‥ほんとにもう、蛇に巣を襲われる親鳥の気持ちがわかった気がしますよ」
頭を振り振り、椛がため息を吐く。早苗は、はて、と首をかしげた。
「今日はそんなに気を使って忍び寄ってないんですけどねえ‥‥」
「いつもは忍び寄ってるんですか」
「椛さん驚くとこかわいいんですもん」
「‥‥はあ、私も老いたかねえ。小娘ひとり気づけずに、あまつさえ可愛いとか言われて‥‥」
「はいはい。冗談でもそんなこと言ってると、ほんとに歳とっちゃいますよ?」
早苗はぶつぶついう椛の後ろで、西瓜を見張り台の床に置き、大幣を懐から取り出す。一言まじないを唱え、こん、と西瓜を叩く。はたして、西瓜はまるで手品のように、早苗の手の中で8つに割れた。
「はい、目覚ましに一切れどうですか」
「早苗さんのおかげで目はとっくに覚めましたけどね」
にこやかに西瓜を差し出してくる早苗に、苦笑いをしながら、椛は手を伸ばして一切れ受け取った。
***********
「ねえ、早苗さん」
「はい?」
西瓜をしゃくしゃくやりながら、椛は隣に居る早苗に話しかける。彼女は見張り台の端に腰かけて、足をぶらぶらやりながら西瓜を齧っていた。
ぷ、と種を吐き出して、口の端をぬぐうと椛は言葉を続けた。
「結局、早苗さんはあの時から、変わってしまったんでしょうか」
「‥‥?」
「早苗さんは、今でも風祝を名乗って、神社で神奈子様と諏訪子様と暮らしてます」
「ええ」
「でも、ミシャグジさまと離れることはなかったわけで」
「お嫁さんですからね」
「幻想郷に来た頃の早苗さんと今の早苗さんは同じですか?」
「‥‥いきなり何を言ってるんですか、椛さんは」
「いえ、なんとなくです」
ぺっ、と西瓜の種を吐き、もう一切れに手を伸ばす早苗。椛はその横顔を見ながら、手元の西瓜を一口齧った。
「私は変わってませんよ。今も昔も、ずっと守矢神社の風祝、現人神です」
「そうですね」
「ええ」
「ちょっと蛇っぽくなりましたけどね」
そうですか?と尋ねて口の周りをぺろりと舐める早苗。その舌は、短い人間のものだ。
“白蛇の早苗”騒動は、幻想郷中あれこれお騒がせしたのち、あの夜の神楽を持って、ひとまずの幕引きとなった。
神楽の後開かれた、山をあげての宴会。迷惑をかけた詫びということで、神奈子が開いたのだ。山の形まで変える様な派手なケンカである。関係者一同の脳裏に「追放」の二文字がのしかかったが、意外と、招かれた天狗や河童たちは、頭を下げて酒をついで回る早苗の肩を叩き、逆に酒を注いで、やあやあ、とその労をねぎらってくれたのだ。天狗の里、河童の里、どこも神楽の余波でちょっとした被害は受けていたものの、怪我をした者はおらず、むしろ血の気の多い者達にとってあの神楽は大層気に入られ、次はいつやるのだ、などと言って諏訪子や早苗を困らせる天狗も居た。あの神楽は、天狗達からしっかりと見られていたのである。「名場面集」と銘打った血みどろの写真ばかり集めたアルバムが少なからぬ数出回っており、早苗にサインしてくれとねだってくる天狗も一人や二人ではなかった。
もちろん、警戒する者、非難する者も当然いた。早苗がミシャグジ憑きとなったことで、ますます守矢の力が強まり、天狗への干渉を強めるのではないか、と。“危険”な彼女を、山に置いていていいのか、というわけだ。それに関しては、今度は神奈子と諏訪子が頭を下げて回る番だった。早苗のミシャグジ様は野放しではない。早苗共々、自分たちの管理下にある。利用して、天狗を脅かすようなこともしない。信じてほしい、と。守矢の二柱に直に頭を下げられた天狗達はさすがにうろたえ、渋々ながらもその剣先を収めたのである。‥‥ここでむやみに反発して、万一守矢と険悪な関係となった場合、あの御赤蛇様を要する守矢との諍いである。天狗達も無事では済まないから下手な行動に出るな、との天魔からの政治的通達があったのも、一因ではあるのだが。それを見越したうえで、御赤蛇様を想起させる、あのいつもの赤い装束で頭を下げて回った神奈子は、さすがに軍神と言ったところであろうか。
それじゃ脅してるのと同じですよー、と酒に頬を染めて暢気に笑っていた早苗の横で、この子も怖くなっちゃったなぁ、と苦笑いをしていたのが、椛にはまるで昨日の事のように思い出された。
「さて、と。じゃあ、そろそろ私、戻りますね」
「おや、サボりでしたか?」
「そんなとこです。ほら、来週の、龍神様方の会合。早く着いちゃった方のお世話してるんですけど、まあ皆さんウワバミで」
神楽の前、露天風呂で紫と話した「龍神様蛇神様幻想郷ツアー」は、色々な紆余曲折があったが現実のものとなった。ツアコンはもちろん、「多分最も若き蛇神、東風谷早苗」である。
「はは、そりゃ、龍ですからねえ」
「お酒ばっかり飲んでて火照っちゃったので、涼みに来たのですよ」
ぱし、と膝を叩いて、早苗が立ち上がる。ぱたぱたと上着をはたき、心地よさそうに風を入れている。
「西瓜、食べてください。まだお仕事終わりまで、大分あるんですよね?」
「ええ。有難くいただきますね」
「それ、龍神様のお土産なんで、心して食べてくださいね」
「うえ!?」
とんでもない台詞に、思わず椛は手に持った西瓜の皮を取り落としそうになる。
「九州は指宿、池王明神様のお土産です。なんでも、幻の西瓜だそうで」
「そーいうのはもっと早くいってくださいよ!たしかに美味しいと思ったけど、そんな謂れがあるんならもっと、こう‥‥味わってとか」
「美味しいものは一番おいしい食べ方しなきゃですよ。がっつくべきです。幻だろうがなんだろうが、冷えた西瓜はガブッと行かなきゃ美味しくないでしょう」
「むう」
「それとも、羊羹みたいにひと匙ひと匙ちょこちょこ食べたかったですか?」
「それは美味しくないです」
「でしょ」
じゃあ、と笑うと早苗は見張り台を蹴って空に浮く。滝の下から渦を巻く風が吹き、手を振る早苗をあっという間に空の上に連れて行った。びゅう、と吹いた涼しい風に吹かれ、椛の白い髪がさわりとなびく。
「‥‥変わんないですね。貴方は」
むふ、と笑うと、椛はもうひと切れ、西瓜に手を伸ばした。
流れ落ちる水音の向こうに、カッコウの鳴き声が響いている。
今日も滝は平和だった。
*********************
「あー、暑い。いいなあ、気持ちよさそうだなぁ、あいつら」
「かなちゃんも混じって泳いでくればいいのに」
「狭いからいいよ」
「出雲公認の“ナイスバディ”を披露してくれないの?」
「‥‥“でかすぎるから無理して来なくてもいいよ”ってのはそう言う意味じゃないんですけどね」
「でもほら、気持ちよさそうですわよ?」
「あのなかで泳ぐのはちょっと」
神奈子はそう言うと手元の升をぐいとあおる。すかさず横から、紫が冷えた酒を注ぐ。神奈子は礼を言うと、今度は紫に返盃する。湖畔の鎮守の森の木陰でござを敷いて涼みながら、二人は湖で龍神や蛇神達がどんちゃん騒ぎをするのを見ていた。
紫と早苗の呼びかけで集まった全国の龍神たち。幻想郷らしく人間の姿で水遊びをするもの、本来の姿で鱗をきらめかせて気持ちよさそうに泳ぐもの、大笑いしながら酒をまき散らしつつ煽るもの、皆それぞれの楽しみ方で幻想郷バカンスを楽しんでいた。諏訪子もこちらで酒を飲まずに、水遊びに参加している。普段着のままでバシャバシャ水遊びをしている姿だけ見ていると、あの血みどろのケンカをした祟り神とは到底思えない。
本来の会合は明日の夜なのだが、早めに着いた者たちはこうして昼間好きなように湖で遊んでいる。ここで開かれる会合と言っても、そんなお堅いものではない。近況を話して、酒を飲んで夜更かしする程度で、大して真面目な会ではない。合宿と言っていいだろう。そのユルさが宴会好きの神様達には受けたらしく、最初、おっかなびっくりお誘いの手紙を持って行った早苗に、皆二つ返事で参加を了承したものだ。
この会を開くまでの紫と神奈子、早苗の苦労は並大抵のものではなかったが、楽しそうな彼らの姿を見ているとその労もねぎらわれる気持ちになる。‥‥参加者集めはすんなりいったとはいえ、そのほかに幻想郷の龍神へのお伺い、山の湖を会場にすることについての天狗や河童たちへの説明と根回し、神様達が一時的に結界を通り抜けするための結界式の改造、主が一時的にいなくなる湖や川周辺の土地神への説明etc‥‥。時にお山を、時に外の世界を駆けまわり、企画運営担当者達はどうにかこの会を開くところまでこぎつけた。
「しかしとんでもないことウチの早苗に吹き込んでくれたもんですわ」
「え?」
「この会のこと。発案、あんたなんだから」
ぐびりと、トロトロに冷えた濃い原酒を升で煽りながら、神奈子は紫をじとりと睨む。口元に笑みを浮かべながら。紫はパサリと扇を一振りすると、あは、と口元を隠した。あの神楽の前、博麗神社の温泉で。紫はこの龍神会合の話を口にしたのだ。
空になった神奈子の升に酒が注がれる。神奈子はぐい、とそれを飲み干すと、「そうだったよね?」と紫にもう一度訪ねた。紫は自分の杯が酒で満たされるのを待ってから、チョッ、とそれを舐めると口を開く。
「懐かしい話ですわ。いえ、あの時はあの子に元気を出してもらいたくて、楽しそうなことを言ってみたんだけどね。まさかね、ほんとにやるとはね」
「冗談だったの?」
「まるきり冗談というわけじゃなかったんだけど‥‥」
「ウチの子の行動力を舐めたね」
「‥‥うん。ちょっと、軽率だったかも」
「すごいよなぁ」
「少し怖いくらいにね」
二人は湖で遊ぶ神様達を見る。あれらは、周りの手助けがあったとはいえ、早苗が呼び寄せた光景である。
「‥‥その内、異変でも起こすんじゃないかって、心配だよ」
「あら、むしろ起こした方が良いんじゃないの」
「へ?」
「このまま行けば、あの子への信仰はどんどん大きくなるだろうし。そうすれば、山の力もどんどん大きくなる。麓と山の諍いだって起きるかもしれない」
「‥‥そうなる前に前もって異変を起こしておいて、博麗にとりなしてもらうわけね」
「そ。形式的には退治という形をとって。あなた達がここに来た時と同じよ。一回博麗に負けておけば大丈夫」
「わざと負けるかねえ、あの子。‥‥いや。むしろ面白がるか」
「ノリノリで悪役やるでしょうね」
「きっとね」
襟を立て、黒いマントをたなびかせ、牙を見せて高笑いする早苗の姿が、二人には容易に想像できた。
「それ、言うタイミングを気を付けてね。‥‥なんか、早苗がそれ聞いたらすぐにでもやりそうな気がする」
「同感ですわ」
「それはいいことを聞きました」
「!」
「ぶっ」
いきなり後ろから早苗の声が聞こえ、紫と神奈子は盛大に酒を噴き出した。
振り返れば、いつの間にかすぐ後ろに正座して、ニコリと笑ってこちらを見つめる風祝。
酒にまみれたござをぬぐうのも忘れ、神奈子は目を丸くしてあっけにとられていた。隣には、酒を吹きかけてべちゃべちゃになった扇を持ったまま、同じく目を丸くしている紫が居た。
「おおお、お前、いつから!」
「たった今です。お酌してあげたのにお二人とも気づかないんですもん。さては相当酔ってますねぇ」
「え、あれ、このお酒注いだの紫じゃないの?」
「‥‥神奈子、一体この子どうなってるのよ。最近とみにハイスペック化してきてない?‥‥どうしよう。全然気が付かなかった」
「ご、ご冗談を、妖怪の賢者殿」
「いえ、割と本気で」
「だから呑みすぎだったんでしょう?それより、面白そうな話をしてましたね!」
「ナンノコトカシラ」
むふう、と鼻息も荒く紫ににじり寄る早苗。妖怪の賢者は一筋の汗を垂らしながらくるりと顔を逸らした。
「あ、とぼけるんじゃないよ!」
「とぼけてませんヨ」
「異変ですよね!私が黒幕の!任せてください!バッチリやりますから!」
「管理者の眼前で異変実行宣言しないで!」
「いいだしっぺお前だろうに!」
「筋書きはどうしましょう。うーん。幻想郷征服をもくろむ恐ろしき神様の挑戦状、は、ありきたりだし、ここはひとつレミリアさんのオマージュで霧の代わりにミシャグジ様らしく瘴気を幻想郷中に」
「やめてそれは止めて早苗ちゃんほんと」
「えー」
「だめ!こんどこそ死人がでるわ!あのときだって、森が精気吐いて、瘴気をある程度中和してたからよかったようなものなのよ?実際、暴走しかけた妖怪だっていっぱいいるし!早苗ちゃんも聞いたでしょ、里の外のこと!ハクタクがんばってたんだからね!」
「大丈夫紫さん。控えめにしますから。あ、そうか。瘴気の代わりに森にお願いして精気でもいいかも。うん。幻想郷ベビーブーム異変。これなら死人も出ないし逆に人も増えます」
「頼むから、頼むからやめてミシャグジ様!このままだと私貴女に3次元モザイク掛けなくちゃいけなくなるから!ご立派すぎて!」
「冗談ですってば」
「早苗ちゃんがいうとなんか冗談に聞こえないのよ!」
「そらあ、ミシャグジ様は子孫繁栄も受け持ってますからね。ある意味本職ですし」
「お願いだから、もっとソフトに」
「冗談ですって」
ぶー、とふくれる早苗を横目に、紫と神奈子は深い溜息を吐いた。
そんな彼女らの様子に気づき、湖で遊んでいた諏訪子が走り寄ってくる。
「おおう、なになに、なんか楽しそうじゃん、どったの?」
「何でもない、何でもない」
キラキラと目を輝かせて訪ねてくる諏訪子を、神奈子は疲れた顔で手を振り、追っ払おうとした。
しかし紫が早苗の口をふさぐのが遅れた。ニコニコ顔のミシャグジ様は最小にして必要十分な燃料を祟り神に投下する。
「異変をするんです!神遊び再び!もがっ」
「あ、こら!」
いったん早苗の口をふさいだ紫だったが、早苗の台詞を聞いてキラキラからギラギラに変わった諏訪子の目を見て、致命的な台詞をキャンセルできなかったことに気が付き、力なくその手を降ろしてしまった。
「おおー!え、なになに、早苗がするの!?なんでまた?」
「ぶは。ふふふ。ここらでミシャグジ様らしく畏れをばらまいてもいいかなぁ、と。最近は異変もあんまガツンとしたのがなかったですしねー。一発博麗に気合を入れるのもいいですし」
「それは素敵な話だね!どうするの?とりあえず何人か人間攫う?喰っとく?ちまちまやんないで里襲う?」
「あ、それはインパクトありますね」
「却下!却下よこの祟り神共!それに趣旨変わってるし!」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ湖畔の様子に、湖で遊んでいた神様達も何事かとそちらを向く。彼ら彼女らの視線の先では、目を吊り上げた妖怪の賢者が早苗のほっぺをぐにぐに摘まんで揉んでいた。
諏訪子がその様子を見て、紫の手を抑えながら楽しそうに笑う。
「おお、ははは!ほら、早苗、神様達も興味津々だ。いっそのこと全員神様でやってみる?龍神蛇神守矢神社に大集合!あんまり酒飲んで大騒ぎしすぎて幻想郷の天気はしっちゃかめっちゃか、もう大変!とか」
「それを博麗がシメていく、と。うーん。暢気で”らしい”筋書きですが、相手が全員酔っぱらった神様じゃあ単調ですねえ。‥‥小傘さんと椛さんも巻き込みますか」
「通りすがりの村人役ね」
「小傘さんはその道のプロですから」
「よーし、皆の衆!ちょっとお集まり願おうか!」
「もう、ダメだね」
「‥‥そうね。ああ、辰子姫様があんなに目を輝かせてる」
神奈子と紫の頭をズキズキと襲う痛みはきっと酒のせいではない。にわかに盛り上がり始めた神様達は、諏訪子の一声で砂浜に車座になってワイワイやり始めた。真ん中に居るのは早苗である。てきぱきと異変について説明し、意見を募って司会をするさまはまるで学級委員である。「はいっ!」と挙手して立ち上がったのは剣山の大蛇様だ。その隣では辰子姫が目を輝かせ、旦那の八郎が呆気にとられている。
「天魔に話し通しておかなきゃなぁ。また、大変だぁ」
「‥‥はあ。ま、どうにかなるでしょ」
「管理者がそう言ってくれると心強いね。平穏無事。問題なし」
「違う!どうにかすんのよ!どうにかするからどうにかなるの!わかってるの!?」
「分かってるって。わかってる」
「もう」
ばしばしとゴザを扇で叩いた紫は、ため息をつくとぐいっと酒を飲み干す。そのまま手酌で空の杯にもう一杯、二杯。気合い入れてるの!とは頬を染めた紫の弁である。神奈子は暢気に、たははと笑いながら一口酒を啜る。
「でもまあ」
「んん?」
「みんな、楽しそうで何よりじゃない?」
「‥‥ほんっとー、呑気よね、貴女」
「神様ですから」
「そういう問題?」
「山の神様がぶれてたらダメさ。どっしりしてなきゃ」
「‥‥」
「?」
「‥‥そうね」
あの夜の不安を押し隠した神奈子の顔を、紫は思い出した。今目の前にあるのは、不安など微塵も感じられない、頼れる神様の顔。紫はクスリと笑うと、さっき酒を吹きかけてすっかり素敵な匂いのするようになった扇をパタパタあおいだ。
「‥‥ま、そういうことにしといてあげましょう」
「うん」
背後の鎮守の森の蝉が、一段と大きく声を張り上げる。
二人は、神様達の真ん中で天を指さし熱弁をふるう早苗の姿を肴に、また酒をグビりとやったのだった。
***************
「というわけで、なにとぞ大祝殿にもご協力いただきたく」
「あはは。こりゃあ、ミシャクジ様も相変わらずですねえ‥‥はい。分かりました。謹んで、お役目を引き受けさせていただきます」
「今回は大婆様はゆっくりしててください。もろもろはこっちで引き受けちゃいますから」
「はいはい。ゆっくり見物させてもらうとしますか。じゃあ、あとはうちの子をよろしくおねがいしますよ。おこう様」
「ふふ、あの子もこれで異変デビュー戦ね。いやー、ついに来たかぁ」
「早いねえ」
「早いですねえ」
人里のとある民家。縁側の日陰で涼んでいた老婆は、小傘が持ってきた書簡に目を通すと、目尻の皺をますます深くさせて楽しそうに笑った。小傘も、それに合わせて笑う。彼女達の周りでは、モミの木や杉の木が高くそびえ、小さな森を作っていた。向こうには、白樺の木で組んだ真っ白な鳥居が見える。その向こうに広がるのは、深い緑に染まった夏の田んぼ。
ここは神社だった。老婆も、白い千早に紺の袴を身に着け、この社の神職であることがみてとれる。
「今回、里と森の分社、どっちもこの異変騒動に参加することになってますから。まあ、森のあの子とタッグなら、大丈夫でしょということで」
「そうですねぇ。合わせの稽古はすぐにでも?」
「早い方がいいよね。私これから森の方行って話をしてくるんですけどね。早苗、燃えてるよ。“今回は難易度MAX!全部ルナティック!”とか吠えちゃって」
「まあ。それは大変。あの子の腕じゃあ、狂気どころか呑気な弾幕しか張れないわね」
「最近はそうでもないみたいだけど?こないだ、私から1本とったし」
「小傘ちゃんから?それは、不安ね」
「ひどっ!」
「ほほほ」
「あはは」
老婆と一緒に、小傘もまた笑う。老婆はそれこそ髪は白く、皺は深いが、背筋はシャンと伸び、時折見せる真剣な目つきはまるで巫女というよりは狩人のようにも見えた。唐傘お化けはひとしきり笑って老婆との会話を楽しんだのち、ではまた来ますからと手を振って鳥居をくぐっていった。老婆もニコニコと笑いながら手を振る。お化けの姿が見えなくなったと思ったその瞬間、後ろの障子が、小さくコトリと揺れたかと思うと、すぱあんと勢いよく開いた。
「お、おおおおお」
「だ、そうですので、しっかり稽古すること」
「お、おばあちゃん!?今の話マジなの!?わた、わたしが異変に出るって!」
「マジですよ」
「えええええ!」
老婆のにこやかな返事に、少女は頭を抱えて絶叫し、そのまま、ぺたんと老婆の横に座り込んだ。
少女は老婆と同じく真っ白い千早に深い紺色の袴を身に着けている。髪は肩の上でばっさり切っていて、長すぎず短すぎず、活発そうな印象を与える。
「おかえり。寺子屋はもう終わったのかい。早かったね」
「今日は土曜だから午前で終わり!ね、おばあちゃん、さっきの話、ほんとにほんと?」
「ええ、ホントです。おまえももう12になったんだし、そろそろいい頃合いでしょう。ケンカ(弾幕ごっこ)のやり方ぐらい覚えておかなくては」
「えー‥‥わたしもうちょっと稽古してからが良い。まだうまく飛べないし‥‥」
「うまく飛べるようになるのです。期日は‥‥ああ、まだひと月あるじゃない。大丈夫よ」
「えええ!たった一か月!無理!絶対無理!でーきーなーい!」
「できない?」
「うん!」
「絶対無理?」
「ムリムリムリ」
少女は顔の前で手をぶんぶん振って、必死になってアピールする。老婆はもう一度書簡に目を落とす。そしてその隅っこに掛かれた文章を読み、顔をあげて少女のその必死な姿を見くらべ、ニヤリと笑った。キンキン底冷えのする恐ろしい笑みに、少女の手が止まる。
「え、おばあちゃん、なに」
「残念ね」
「そ、そう!出来ないの!残念だなぁ!あはは」
「貴女と今日で、ううっ、お別れなんて」
「え゛」
突然ワザとらしい泣きまねを始めた老婆と彼女の吐いた不穏な台詞に、少女の頬を一筋の汗が伝う。「ちょっと、おばあちゃん」と少女は膝立ちになって老婆の肩をゆする。
「だって、だって、お前がミシャグジ様の言いつけを破ってしまうんだから‥‥怒りに触れてしまうのだから」
「ちょっと、わたしまだ何もしてない」
「ええ、してないから‥‥」
「え」
「‥‥『ムリとかできないとか駄々こねたらその日のうちに御頭祭ですヨ♪』だ、そうですよ。ああ!残念ね。今晩おまえ、ミシャグジ様の晩御飯決定ね」
「え、ちょっと、え、まって、なにそれ」
「ほら、ちゃんと書いてるでしょ」
そういって老婆は書簡を少女に渡す。少女は老婆の手からそれをひったくるようにもぎ取ると、必死になって中身を読んだ。「ここよ」といたずらっ子っぽく笑いながら老婆が書簡の端を指さす。そこに書いてある一文は、まさに老婆が今言った通りの内容であり。その一文を読んで、少女の頬に一筋の汗が流れる。
「冗談、だよ、ね?」
「さあ?」
「さあ、って、おばあちゃん!」
「あれあれー、里の分社は参加しないんですか?ミシャグジ様に食べられちゃいますよー?」
「!」
突然かけられた暢気な声に、少女がびくりと顔をあげる。鳥居をくぐって境内に入ってきたのは、巫女の姿をした2人の少女だった。ただし、片方は狐の耳を、もう片方は狸の耳を持っている。狐の方は背が高く、少女と大人の真ん中くらいの顔つきである。狸はそれこそ少女と言った感じで、さっきから騒いでいる人間の巫女と同じくらいの歳ごろにみえる。
老婆は笑いながら、客に向かい会釈をした。
「あら、いらっしゃい。おこう様はもうお見えになったの?早かったわね」
「いえ、たまたま今日、こっちに伺おうかと思ってたとこでして、途中で会ったのですよ」
狐の耳の方が、にこやかに笑いながらぺこりと頭を下げる。長く伸び、後ろで一括りにまとめられた金髪が、お辞儀に合わせてさわりと垂れた。
その横で、狸の耳の少女も、ぺこっ、と頭を下げる。
「こんちは、サチばあちゃん」
「はい、こんにちは」
「サチばあちゃんにお土産。はい、山芋」
「あら、ありがとう!」
隣の狸の少女は、手に持ったぼろ布の包みを開くと、土だらけの山芋をサチと呼ばれた老婆に見せた。そして、老婆の後ろで肩をゆする人間の少女に、「ねえ」と声を掛ける。
「ね、ほんとにやんないの?怒るよ?ミシャグジ様」
「いや、やらないって決めたわけじゃなくて、もうちょっとだけ、練習を‥‥」
「そう言ってるとほんとに来るんですよねえ、ミシャグジ様」
「そうよ。来るのよ。そして八つ裂きにしちゃうのよ」
「え」
皆の本気な目に、少女はうろたえつつも叫ぶ。
「ちょっと!みんなからかってるでしょ!そんなこと」
「そんなこと?」
くるりと振り向いた老婆の目は、真剣だった。少女はおもわずつばを飲み込む。
「そ、そんなこと、しない、よね?」
「しますよー。ミシャグジ様ですもん」
「えっ」
暢気そうな狐娘の返事に、少女は一瞬絶句する。
「私も若いころ何回喰われそうになったことかー。ペラペラ余計なことばっかり喋ってねー」
「あんたのその姿で若いころなんて言われるとなんか切なくなるねえ」
「あ、いやいや大祝様気にしないでくださいって」
「ね、ね、マジ?ほんと、なの?」
「ええ、聞きましたよね?この神社の謂れ。大祝様や、私や森の動物を護って戦った、“白骨沼の戦い”のこととか、山の神様との“御赤蛇神楽”のお話とか」
「うん‥‥」
「なら、余計なことは言わないことですね。ミシャグジ様、いいお方ですけど、ホントめっちゃおっかないんですから」
「ほら、おまえ、見えるだろ、あの山のてっぺんのあたり。山がえぐれてるだろ」
「うん」
「‥‥これで反応なしってことは前に話したのに覚えてないね。あれは、“御赤蛇神楽”のときにミシャグジ様が吐いた風で山が吹き飛んだところなんだよ」
「いや、知ってるしおぼえてるんだけど、いまいち実感わかないなーって。ほんとにあれミシャグジ様がやったんだ」
「やれやれ、不信心な巫女だよ」
信じてないわけじゃないよ!と反論する少女に、ようするにですねと狐娘が話を続ける。
「私ら先輩の話は聞いておくものです。いいですか」
「‥‥はあい」
「私も一回ミシャグジ様に食べられそうになったんだってお兄ちゃんから聞いたよ。あんまり覚えてないけど。生け贄にされるとこだったんだって。“白骨沼の戦い”のときに」
「え、マジ?」
「うん」
さすがに狸娘まで言ってくるとなると、ますます納得せざるを得ない。少女は気が付けば握りっぱなしだった手紙をもう一度みる。『御頭祭ですヨ♪』と書かれた文字は丸く、かわいい。少女だって、全くミシャグジ様を恐れていない訳ではないし、むしろ老婆たちと同じように畏れる心を持っている。でもその可愛い文字をまじまじと見ていると、いまいち実感が無くなるのだ。以前一回会ったとき、彼女が少し年上のお姉さんといったような人間の姿をしていたのも影響している。
「でも‥‥‥」とごにょごにょ口をとがらせる少女に、狐娘がうふふと笑いかける。いつの間にか、老婆も、狸娘も、みんなが少女を見つめてニヤニヤしていた。うろたえた少女は、追い詰められ、ついに覚悟を決めて叫ぶ。
「あーもー!やる!やります!やってやろーじゃん!」
「お!やったー!がんばろーね!」
むきー、と叫ぶ少女の手を、縁側に飛び乗った狸娘が取ると嬉しそうに跳ねた。
その横では老婆と狐娘が苦笑しながらよかったよかったと言っていた。
「よかったですねえ、大祝様」
「ええ、孫のはらわたの酢味噌和えなんて恐ろしい料理見なくて済んだわね」
「す、酢味噌和えって」
ヤケに具体的で恐ろしい老婆の発言に、少女がツッコもうとした、まさにその時だった。
――――残念だなぁ。柔らかい女の子食べれると思ったのに。
「――!」
静かに鎮守の森の中に響いた声に、一同が沈黙する。
遠ざかっていくしゅるしゅるという鱗の音が、鳥居の方から聞こえ、少女は目を見開いて音のした方を凝視する。しかしそこには何もいなかった。
「ほら、ね」
ちょっぴり顔を青くした狐娘が、少女の方を見て、引きつった笑みを浮かべる。
少女はごくりと唾を飲み込むと、ひと月後の初陣に向けて本気で修行しようと、硬く心に誓ったのだった。
そんな皆の様子を、藪の中から見つめている者があった。
「ざっと、こんなもんですよ、小傘さん」
「うう、どーして本職の私より早苗の方が驚かすのうまいんだろ、納得できない」
「そりゃあ、わたしはなんたって白蛇の早苗ですから」
「チートじゃんそれ。それに、もともとの気がするけどね」
「えー」
「早苗どSだもん。いてっ」
「失敬な。こんな純粋な巫女を捕まえてどSとは何事ですか」
「‥‥ほんとにそう思ってる?」
「いいえ?」
「即答っ‥‥!」
怖いわー、この子ホント怖いわーとつぶやく小傘。早苗はその横で、これから自分が巻き起こす騒動を想い、空を見上げて舌なめずりをした。
早苗は、その見上げた空と、暑い夏の匂いがいつか見た夢の光景に似ていることに気が付いた。
甘い草いきれを吐く藪の中を、早苗はそっと見渡す。遠い記憶の中で、白い蛇が早苗を見つめている。
「逆になっちゃいましたねえ」
姿の見えない彼女に、小さい声で早苗は呟いた。そして、いまだに青い顔をしてきょろきょろあたりを見回す巫女の少女を藪の中から見つめ、しゅう、と舌を出して微笑んだのだった。
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人の立ち入れない、妖怪の山の天辺に、大きな神社がある。
その神社の名前は、守矢神社。山の神八坂神と、大地の神洩矢神、そしてミシャグジ様という蛇の姿をした荒神様を祀っている。
時々、天狗の書物の中にその姿を見ることができるが、行ったことのある者はほとんどいない。
あるとき、麓の里に住む少女が妖怪に襲われたとき、少女を哀れんだミシャグジ様は風を呼び、水を吹き上げて妖怪を追い払い、里と少女を護った。
あるとき、麓の森にすむ動物達が恐ろしい熊の妖怪に皆殺しにされそうになった時、ミシャグジ様はまたも風を呼び、水を操り、森と動物達を護った。
しかしミシャグジ様はもともと恐ろしい神様で、守矢の神社に居た巫女の少女を生贄にして食べてしまった。それを悲しんだ洩矢神が山の形を変えるほどのすさまじい戦いをし、ミシャグジに巫女の少女を吐き出させ、八坂神と洩矢神がミシャグジ様を抑えつけて、二度と暴れないように殺そうとしたという。
しかし、ミシャグジ様に護ってもらった少女と森の動物達はミシャグジ様をなだめ、守ってもらったことを感謝して、里と、森のそれぞれに神社を立て、ミシャグジ様をお祀りしたのである。
これが現在、御早白蛇(みしゃぐじ)神社に伝わる縁起の大まかな内容である。
里の神社は、少女が守ってもらったときに持っていた鎌をご神体とし、森の神社はミシャグジ様に食べられたという巫女が持っていた大幣をご神体として祀っている。
稗田阿求編纂による第九回幻想郷縁起の改定版によれば、ミシャグジ様に食べられた巫女というのは東風谷早苗という元人間の現人神であり、守矢神社で八坂神と洩矢神の巫女をしていたという。そして実は彼女は喰われたのではなく、あるとき幻想郷に入ってきて自分に憑りついたミシャグジ様を逆に調伏し、従えたのだそうだ(メモには「嫁に迎えた」とあるが、本当だろうか)。ミシャグジ様がどうして幻想郷に来たのかについては、九代目のメモによれば太古の昔のミシャグジ様と洩矢神との因縁のせいとあるが、詳しくは書かれていない。洩矢神との戦いも、本当はなだめられたのは洩矢神の方であるとも書かれている。
神社に伝わる伝承の内容とかなりの乖離があることについては、おそらく神社側の縁起が創作だからだろう。なぜならば、その当時天狗の新聞や里に住む白澤、そして稗田の九代目、阿求など、正しい歴史を記録できる者は多くいたからである。なぜ創作しなければならなかったのかは、分からない。(当時を知る八雲紫に聞いてみたところはぐらかされた。「照れ臭かったんじゃない?」と言っていたが、本当か。何が照れ臭かったのだ)
ミシャグジ様を調伏した東風谷早苗はその後、外見上歳を取らず、かなり長い間少女の姿で変わらずに巫女をしていた(その間に起きたのが所謂「御赤蛇・龍神天変異変」である。九代目没後、十代目転生までのおよそ百年の間に起こったため、こちらに詳しい記録がない)というがある時を境に姿を消したとある。
博麗に封印されたとも、少女の姿を捨て、白蛇の姿で過ごすようになったともいわれるが、真相は白澤も分からないという。
ただ、十代目のメモには、外の世界へ行った可能性があると記されている。幻想郷の外で消えゆく蛇神や龍神を救うために、自ら結界を超えて行ったというのだ。同時期に東風谷早苗と密接にかかわっていた犬走椛という天狗と多々良小傘という付喪神の両名も相次いで姿を消しているとある。
一度忘れ去られ幻想郷に来た者が、また外の世界でその姿を保てるのか、私にはわからない。ただ、もと人間であるという彼女ならば(加えて、彼女はもともと外来人であったという記録が稗田阿求によって残されている)、それができた可能性がある。
十代目は二ツ岩大明神の手引きの可能性も示唆しており、もしかすればうまく行ったのかもしれない。いつか、結界を超えてまた戻ってくるならば、ぜひとも本人に会って話をしてみたいものである。
さて、縁起に寄ればミシャグジ様は遊ぶのが好きな神様で、数年に一度(数えで7年)、幻想郷内外の蛇神や龍神を集め、満月の夜宴会を開いたそうだ。その縁日に合わせ、いまでも麓の二つの神社で同じ日めぐりに盛大な祭りが開かれ、御柱祭と呼ばれて人妖共通の一大イベントとなっている。
祭りの当日、森、里とも神社の周りには妖怪の山から切り出してきた高いモミの木の柱が社を囲むように四本建てられ、これが神様の憑代となるという。
なんでも、このお祭りにカップルで行くと子宝が授かるとか、豊作になるとか、ケンカに勝てるとか、なんだか節操が無いが、とにかくご利益は抜群にあるそうだ。私も小さいころ親に連れられて行ったことがあるが、境内は大変賑やかで、また披露される神楽は荒々しく壮大だ。そして博麗神社の縁日同様、やけに妖怪の多い(ほとんどが半獣である)祭りであったと記憶している。
ちなみに、冒頭の縁起にのっとり、里の神社では少女を助けたという逸話に基づいた“白骨沼の戦い”が、森の神社では“大熊調伏”とそれぞれ違う神楽が披露される。
もし、あなたがこのお祭りに行ったときは、妖怪の山の方に耳を澄ませてみるといいだろう。祭り好きのミシャグジ様が神様達と大騒ぎをしている音が、もしかしたら聞こえてくるかもしれない。
―――― 幻想郷縁起 第十一回編纂版 「御早白蛇神社」の項より
完
待っていた時間の分、楽しませて頂きました。
終わってみれば、場に居合わせた者で正気を保っていたのは小傘一人と言うカオスの中、バッドエンドに向かわず、大団円を迎えられたこと、本当に良かったと思います。
また、次の話も楽しみにしています。
無理せず、ゆっくりと書いて下さい。
……しかし、きっと龍神異変の早苗はトゲ付きボンテージだったんだろうなあ……。
早苗様イケメン過ぎです…!
いやあ、諏訪湖様が悪役のままで終わらずに良かった。
とても楽しませていただきました。
とても楽しませてもらいました…実に幻想郷らしい終わり方で、良かったと思いました。
性格はそのままに人外化して、紫すら頭を悩ませるほどのハイスペック化した早苗さんのはっちゃけっぷりに笑わせてもらいました。
この設定でのお話、もっと色々見てみたいですね
いやぁしかし話の流れが凄かった 急展開という訳ではないのです
うねりというか すごいパワーを感じました 早苗さんの求婚までハラハラしっぱなし
でしたねw 早苗さんマジ常識に囚われないw 求婚返し以降の爽快感が凄いw
巫女のエピソードと縁起で締める最後がまた良かったです …上手く言葉にできねー!
期待していたモノ以上を読ませて頂き ありがとうございます!
今までとても楽しませて頂きました。
次回作を楽しみにしております。
話の勢いも纏め方も素晴らしかったです!凄く面白かった。
時間できたらもう一回初めから見直して来ようかな……
次回作待ってますねw
もう中盤から諏訪子様、早苗さんはどうなるの!?元に戻れるの!?とドキドキが止まりませんでした。
そしてみんなが救われるハッピーエンド!ずっと待っていました!
素晴らしい作品を本当にありがとうございました!
兎に角読むということが楽しい作品で、最後まで走り続けたということが単純に嬉しかったです。
白蛇の早苗が読めなくなるのかと寂しさが...
オマージュ元の作品同様、白蛇の早苗すぺしゃるがあることを
信じてまた待とうと思います。いつまでも。
ただ、話の贅肉とか前後の繋がりの悪さとかが多くて勿体ないなあと思います。
最初から作り直して、量を2/3から1/2くらいにしたらもっと評価もあがるし完成度も高まるのになあと
残念に思います。でも読み応えのある作品でした。完成まで投げずに続けてくれてありがとうございます。
一つ提案ですが、この物語は再編集してぜひ製本化すべきだと思います。
というか紙媒体で一気に読んでみたい。どうかご検討下さいませ。
よく組み立ててあってこの話大好きです、早苗さんまじハイスペック。
また氏の書かれた話読みたいなぁと思いますので無理せずお体に気をつけて、気が向いたらまた投稿してください!