一番最初の記憶は母の胎内であった。
生温かい羊水に浮かびながら、何事かを呟き続ける家族たちの言葉に耳を傾ける月日を重ねた。
母の胎内から引きずり出され、最初に見たのは父の顔であった。そして母、乳母、祖父母、里の長、そして、もう一人、誰か。
彼女は泣かなかった。泣き声一つ洩らさない。しかし、家族の誰もが、喚かぬ娘に疑問を持たなかった。産まれ出た赤子は、既に冷静でいたのだ。引き締まった顔をした、里の長が言う。
「御阿礼に。いや、厳密には、これから、であろうか」
「長様、どのような意味でしょう」
母が息を落ち着かせ、赤子を抱きながら言う。
「産まれ出た時点で阿礼乙女の誕生とは言い難い。知っての通り、阿礼乙女、阿礼男とは稗田阿礼の転生体。自覚、才覚、そしてなにより、求聞持を持つ」
「して、何故……この子を阿礼と」
「見て解らぬか。既にこの目、諦観しておる」
※
生まれ出た子、稗田阿礼の九代目の転生体、稗田阿求は大事に育てられた。ことさら潔癖に育てられたと言っても過言ではない。脚が立つようになっても、決して外には出されなかった。座敷の奥のそのまた奥。定期的な殺菌の為にのみ外へ通じる戸が開くような部屋で、母子は生活を強いられるのである。
里長の言葉は、御阿礼の確実性の問題だけではない。もとから死にやすい乳児、まして、わをかけて虚弱とされる稗田家の女子であるから、その死亡率は言うまでもなく、非常に高いのだ。
祖母の代だけで稗田の女子の水子は十人にも及ぶ。男子はまだ比較的健康に育ち、御阿礼でない限り、稗田家の次代を担う為、分家へと移される。
稗田阿求はそこまで聞いた。そして理解した。齢三つである。
「ははさま」
「はい、如何なさいましたか、御阿礼様」
「きゅうくつに、ございます」
「しばし我慢ください。もう少しで、陽の目を見る事も叶いましょう」
母は阿求に対して敬語であった。阿礼とは、稗田家の悲願であり、伝統であり、継続して行かねばならない幻想郷の歯車の一つだ。悲願の子は、それがいかほどの価値であるか、当然理解していたが、しかし寂しかった。
言葉、読み書きは、身体が追いつかないだけで、もはや十歳の子供を超えている。人の数倍の速度で成長し、数倍の速度で滅びるのが、その運命にあった。
「ははさま」
「はい、如何なさいましたか」
「あにさまは、なぜ、おくでずっとすわっているのですか」
その日から、母子は部屋を移された。
※
稗田阿礼の九代目、稗田阿求には、この世に生まれなかった姉が三人。産まれ出てすぐ亡くなった兄が一人いる。阿求の語る容姿から、母と父はその子が亡くなった兄の阿休であると判じた。一度は御阿礼の子として生まれた子である。
幻想郷において、除霊や降魔調伏は一般的ではない。そもそも魂とはあちこちに飛散し現世にとどまり、人の目にも見えるものであり、誰一人として気にしないからだ。それが悪霊、亡霊となればまた違うものの、この幻想郷は妖怪の敵となる目ぼしい坊主はおらず、博麗の巫女は着任して間もない幼子である。
里の拝み屋も当然存在するが、亡霊や悪霊をどうにか出来るほどの力はない。ともすれば、上白沢慧音等、里に協力する妖怪頼みにするか、もっと荒仕事にはなるが、対妖怪を売りにしている弾幕屋にでも頼むほかない。
しかし問題は繊細だ。自分たちの息子の霊、しかも御阿礼になるかもしれなかった子を、はてさて、如何にしたものか、当然親族含めて悩みぬいた。
「なにもしない、ではだめでしょうか」
親族会議の座敷の上座に座る阿求が言う。実質、実害は一つもない。阿休が見えるのは阿求を含め、霊感のあるものだけ。何かしら悪さをするわけでもなく、座敷に座っているだけなのだ。時間が解決してくれるものだろうか。このまま現世に漂わせているだけでは可哀想ではないのか。様々と意見が出る。
「わたしに、いちにんしてくだされば」
決断力と判断力が、もはや既に、親族のそれを超えている事実に、一同は黙りこむことしかできなかった。
※
阿求は以来、積極的に兄に語りかける生活を始めた。容姿はまさしく瓜二つ。鏡を見ている事と大差がない。阿求が幾ら語りかけようとも、兄は口を開くことはない。ジッと阿求を見つめ返すだけだ。
それにどのような意味があるのか。阿求は疑問に思わなかった。自分の兄であり、元は御阿礼だというのならば、自分と同じくして頭脳明晰であるという自信があったからだ。
雨の日も風の日も、朝も夜もずっと語り続ける。今日起こったこと、昔起こったこと、これから起こる事、今日読んだ書物、昔読んだ筈の書物、これから読む書物の話。優しい父、優しい母、優しい祖父母。幻想郷という特殊な土地の事情、里の五月蠅い魔法かぶれ、神社の良く分からない巫女の話。
稗田阿求の選択は正しかった。
色の無い目をした自分と同じ容姿の少年の瞳に、やがて光のようなものが見え始める。此方を見つめ返す印象は変わり、積極的に阿求の話を取り込もうという姿勢が見え始めた。
過去の膨大な書物を脳内に叩きこむ合間にも、阿求は兄と接し続けた。
※
ある日の事である。いつも阿求の自室の片隅にいた兄が見当たらなかった。一体どこへ消えたのか。成仏したのだろうか。阿求はさほど重大に事を捉えていなかった。屋敷内を暫くと探し回り、やがて土蔵が開いている事に気がつく。土蔵には大量の書物と、何に使うのか見当もつかないような物品で埋め尽くされている為、両親からは入らないようにと命じられていた。が、阿求は何一つ躊躇わず土蔵へと足を踏み入れる。
幾重にもなった蜘蛛の巣を押しのけ、積み重なった葛篭の合間を進み行くと、そこには阿休の姿があった。
「兄さま。何をしているのですか」
兄は答えない。ただ、開いた書物を指差している。
指差された書物には『古事記』とある。
「こじきのしゃほん、ですね。記憶がないとはいっても、頭のかたすみには残っているようです」
古事記。この国の成り立ちを、朝廷の視点から、地方豪族に配慮しながら、意外と遠慮めかして記述してある、自分でも良くこんな内容語ったものだと感心してやまない書物である。
稗田の最初。稗田の根源。奈良稗田連から脱し、幻想郷へと居を移さねばならなくなった原因でもある。
土蔵の窓から差し込む光の下、阿求は兄とともに、写本をめくる。
天地開闢。兄妹神。三貴神。海幸山幸に大国主に天孫。
天鈿女、猿田彦。
「兄さま。わたしたち稗田は、このお二柱から成ったといわれます。セイジてきハイケイをウカガわせる組み合わせですから、いまいち、シンヨウできませんけれど、アマツカミとクニツカミの子という意味では、かなりハイブリットですよねえ」
露出狂と鼻のデカイ人ですけど、と余計に付け加える。
兄は小さく頷き、やがて土蔵の地面に指を這わせ始めた。
「光とカゲ、ですか」
阿求は表をあげて、土蔵に差し込む光を見る。兄は影の方で、ひっそりとしていた。
「ミレンがありますか?」
兄の意図をくみ取る。光と影。陰と陽。支配するもの、されるもの。虐げるもの、虐げられるもの。産まれるもの、産まれる事がなかったもの。生きるもの、そして死ぬもの。
稗田阿求は、今やっと、自分が幸福であると知った。あらゆる不均等で不平等の中、こうして、短命であろうと生を受け、生きる意味を与えられ、陽の目を見ている事実を、齢五つにして実感した。
兄、阿休は首を振る。そして初めて、笑顔を見せた。そして初めて、阿求も笑ったのだ。
これは鏡。実体か、そうでないかの違い。そこに映るものは唯の影なれど、まさしく自分なのである。
「ああ、けれど」
そして同時に、阿求は後悔したのだ。
自分は兄を愛しているのだ。産まれ出たその日から、自分の隣で自分を見続け、同時に学び同時に見聞きして来た彼は、まさしく自分なれど、しかし影なのである。決して陽の目を見る事は出来ず、いつか消えてしまうとも知れない、薄い薄い、影なのだ。
「兄さま。阿求は兄さまが好きです。ずっと一緒にお勉強して、一緒に編纂して、私が死ぬまでずっと一緒にいる事は出来ないでしょうか」
言葉と同時に、稗田阿求という存在が一つ、上にあがった気がした。心の底から紡がれる言葉は、理性と知性と本能が入り混じり、言霊を含んでいる。天津神と国津神の、脈々と受け継がれた血がそうさせるのか……。
稗田の子は、早死にである。先天的な障害を持って生まれた子など、そのまま無かった事にされる。
近親交配故の弊害であり、稗田阿求が近親者に対して、家族の一線を越えるような感情を抱く事も、珍しくなく、まして彼女は……齢五つにして、既に精神年齢は二十歳に近い。
兄は、古事記をめくり、兄妹神の項目を指差した。
「……女が先に声をかけると、蛭子が生まれると」
兄は、顔を赤くして、ソッポを向いた。
※
「間違いなく、稗田阿礼の転生体。阿礼乙女に。求聞持法を有する、転生の子です。稗田阿求」
「はい、映姫様」
「道を違わぬように」
彼岸の裁判長は、稗田阿求ではなく、その後ろに目をやっていた。彼女の手鏡から逃れられる人間はまずいない。阿求は素知らぬ顔で返事をする。このキモの座り具合には、流石の映姫も辟易とした。
「記憶はないでしょうが……彼岸でも、彼女は有能です。いえ、有能すぎるくらいに。貴女が働いていると、小町もさぼりが減るのです。それは良いのですが……鬼の尻をひっ叩いたりするのは、事務官としてどうなのでしょう」
「私に言われても困りますね」
「そうでした。まあともかく、あと二十数年。後悔なく生きるように」
「はい、私は完璧で幸福です」
「減らず口を……稗田家の方々。阿礼をお願いします」
そういって、四季映姫は迎えの籠の乗って去って行く。彼女の籠が見えなくなったところで皆が顔をあげる。母は心配そうにして、阿求に語る。
「阿求様。その、兄君はまだ、お隣に?」
「言いたいことは解ります。でもこの通り、四季映姫様も何もおっしゃらなかった。答えは明白です」
「しかしその……」
「母様。兄様が何か一つでも悪さをしましたか。亡霊ならばまだしも、兄様は誰に迷惑をかけるでなく、ずっと阿求に寄り添ってくださっています。兄様と学び、兄様と編纂を続けて行く事に、何かご不満がありますか」
「――いえ」
「……」
兄の手が阿求の肩にかかる。兄は目を瞑り、首を振っていた。
「……言いすぎました。ご心配、ありがとうございます。この通り、阿求は齢八つです。映姫様にも、阿礼の転生体であるというお墨付きも頂きました。これより、阿求は名実ともに、稗田家の当主となります。今まで病気や怪我の一つもなく、こうして育ったのは、何より、母様と父様の愛と努力に他なりません。これからも何とぞ、短い人生ですが、よろしくお願いします」
親族一同に、阿求は頭を垂れた。既に、阿求の寿命は三分の一に差し掛かろうとしている。これからの命、つつがなく次の転生と、そして編纂の為に費やすには、親族の協力が必要だ。
そこに悲しみはない。稗田阿求は、生きやすくなったこの幻想郷の為、それが長く続く為、その命を賭すのだから。
※
幻想郷に祭囃子が響く。あちこちの出店には雪洞がきらめき、人々が賑わいを見せている。
夕暮れ時の蜩もなりを潜め、暗くなるにつれ、やがて雪洞の灯す二条の光が、山の麓まで伸びている事に気がつかされる。普段祭りなど開かない博麗神社にまで伸びる光の列だ。
神社へ向かう参道の入り口には『御阿礼神事』の看板が掲げられている。
御阿礼の生誕祭である。聞くには及んでいたが、まさかここまで大々的な祭りが催されるとは、当の阿求も想像だにしなかった為、あまりに大きな舞台に多少尻込みしてしまっていた。
「母様。その、何か特別な事をするという記述はどこにも無いのですが、着飾ったりするのでしょうか」
「いえ。その……幻想郷は、なんと申しましょうか……」
母の意図をくみ取り、理解する。
ようは、みんなで騒いで酒が飲めればいいのだ。酷い話があったものである。
だが、逆に緊張は取れた。では普段通りにしていればいいのだ。いつも着ている着物を纏って、手帳と万年筆を帯に差し、当たり前のような顔をして、神社に顔を出せばいい。それで皆に存在が認知されるのであれば、面倒が無くて済む。
「付き添いも要りませんね。母様。博麗神社の祝賀会でまた」
「はい。いってらっしゃいませ」
神事とは名ばかりの飲み会に付き合わされる訳である。一応有志の者たちが催してくれている為、無碍には出来ない。阿求は一人、稗田家を後にする。
「兄様?」
が、どうもいつもいるはずの人がいない。過去数度、そのようなこともあった為、阿求は気にする風もなく、博麗神社へと足を向けた。
博麗神社といえば、幻想郷で唯一の、唯一なのに寂れた神社である。神主はおらず、ご神体は解らず、ご祭神もご利益も不明という、もはや鳥居と拝殿だけの謎施設と言えた。いるのはただ巫女が一人。その巫女もまた不思議で、そもそもその寂れた神社でどうやって食べて行っているのかが不明であり、いや、そもそもその巫女は人間なのかも怪しい節がある。数度顔を合わせた巫女、博麗霊夢は、巫女としてではなく、十二歳にして酒豪という不名誉な点でだけ有名であった。有志に積極的な呼びかけをしたのも霊夢、および霧雨道具店を飛び出した一人娘である。
「普段人気がない神社なのに、ここまで人がいると逆に不自然で趣がありますね」
「あー、出たわね。アンタの為に催してあげてるんだから、少しは喜びなさいよ」
「またまた。お酒とお賽銭目当てのくせに」
「そうよ」
「すごい。なんて正直な人」
「あー。阿求、コイツは気にするな、いつも通りだぜ」
「こりゃ、霧雨屋の一人娘の霧雨魔理沙さんじゃありませんか」
「なんでこう毒があるんだいちいち……本当に年下か?」
「あいにく、精神的には成熟しておりますので」
「最悪な方向に熟れてるなお前。ま、いいや。ご誕生おめでとう」
「ありがとうございます」
阿求は物珍しそうに此方を見る人々に手を振り返しながら、博麗霊夢に連れられ、博麗神社の母屋へと引き下がる。
清潔で、必要最低限のものしかない、簡素な家だ。歴史的な資料や物品がアチラこちらに散らかっている稗田家と比べると、それは心底うらやましい話だった。情報量が多いという事は、それだけで稗田阿求に少なからずの影響を与える。現に、阿求の部屋は座卓と箪笥程度しかモノがない。
「少し人酔いしますね」
「だろうと思ったから連れてきたのだけど、迷惑だったかしら」
「いえ。ちゃんと配慮なんてしてくれるんですねえ」
「一応主賓だもの。それにほら、アンタってなんか、変だし」
「否定はしませんね」
縁側に座らされ、出がらしの茶を戴く。もはや白湯だ。霧雨魔理沙はご相伴にあずかるという手前、宴会の準備をしているらしい。蒐集癖の為家はごった煮と聞いたが、飛び出したとはいえ商家の娘、手際は良い。そして顔も聞くのだろう。大の大人が魔理沙の指示であちこちと道具を運んでいる。
「意外な面があるものです」
「ま、私より女の子してるわ」
「女の子、ねえ」
女の子。世間一般、幻想郷常識で行くところの女の子というのは、実にミーハーだ。新しいものには直ぐ飛びつき、飽きるのも早い。古い事をいつまでも引きずり、まして魂すら引きずっている自分には出来そうもない。風のうわさでは、最近趣味にしていたレコードも、外の世界では既に見受けられないものとなっているらしい。結局自分は古いものを引きずる者なのだと、自嘲する。
「一度見たものは忘れない。一度聞いたことは忘れない。頭がパンクしそうな脳味噌してるのね」
「ええ。空海様と同様の力です。虚空蔵求聞持法と言います。全てを見知る虚空蔵の如き見識からそのように呼ばれています」
阿礼乙女であるということはつまり、稗田阿礼の転生体であり、同時に、類稀なる才覚を持つ者である。虚空蔵求聞持法を、修行ではなく、魂に刻み、つなぎ続けているのだ。代を重ねるごとに、転写の精度は下がって行く。おそらく魂も劣化しているのだろうと、阿求は自覚していた。だが、やはり名ばかりの力ではないのだ。
目を開き、耳を澄まし、そしてそこに流れ込んでくる全ての情報が頭の中に残り続けるのである。脳は容量を圧迫し、やがて使い物にならなくなるだろう。
「三十迄しか生きられないので、まあ、その間はよろしくお願いしますね」
「後悔しないと良いわね」
「……」
阿求は、言いよどむ。それはお互い様という言葉を、呑み込んだ。
記述通りならば、博麗も長くはない。三十までに代が変わる。どこから来る負担なのか、何が原因なのか。幻想郷の根幹をなす博麗は、それそのものが謎の塊である。
「もう少し、顔見せしてきます。それがメインのイベントですしね」
「あいよ。あと半刻もしたら呼ぶわ」
縁側から退き、また境内へと足を向ける。様々な顔を脳に詰め込むのは多少苦痛だが、相手に顔を詰め込むのが、今日の仕事なのだ。こればかりは逃げられまい。
しかし、ふと、境内の端、鎮守の森の境に、見覚えのある影が見えた。直ぐに記憶を検索する。即座にそれが、鮮明に思い出され、記録と合致する。
「兄様?」
阿求は境内を外れ、鎮守の森へと、吸い込まれるようにして向かっていた。
※
明りもなく、暗い森を、木々に手をつきながら進む。道に迷う事は決してない。だが、不慮の事故は警戒せねばなるまい。祭りの気配に当てられて、不用意な妖怪が付近をうろついているとも限らないのだ。
足元を警戒しながら進む。目で見て、記憶に収め、直ぐに検索し、兄がいないかと探す。絶対的で完全な映像データが何往復かしたところで、阿求は足をとめた。
少し開けた場所に、おぼろげな影が見える。肉眼では明らかに、濃い霧が一か所に集まっているだけにしか見えないが、その気配が兄である事に直ぐ気がつく。
「兄様」
阿求は小走りで近づき、兄の腕を捕まえる。
「どうも、兄様の姿がハッキリしません。そして、私はある一つの予測があって、そしてそれは、おそらく当たります」
兄は、首を縦に振る。倒木に腰かけ、視線を阿求にしっかりと定めるようにしていた。
兄はしゃべらない。口元が言葉を紡いでいるような仕草は解るのだが、聞こえた試しはなかった。目は波長があっても、耳があっていないのかもしれない。
「口元から読み取れる事もあったのですけれど、こうぼやけていては何が何だか解りませんね。兄様は一体どんな声をしていたのでしょうか。産まれて直ぐ亡くなったのなら、両親も知らないでしょうけれど」
阿求もまた腰かけて、兄に寄り添う。
「あれは五つの頃。土蔵に入って、古事記の写本を読んだ時の事。兄様は、未練があるのかという私の問いに、何も答えませんでしたね」
「どうなのでしょうか。未練といえば、むしろ私にあるような気がします。私は正式に御阿礼となりました。この定義が確実性を帯びて、私たちの魂を管理している映姫様にお墨付きをもらったとなれば、御阿礼に『なるかもしれなかった』兄様は、もはやその曖昧であった存在意義に固着出来ず、こぼれて落ちてしまうのでしょう」
「兄様は、何も反応を見せてくれませんでしたね。私は馬鹿みたいに一生懸命語りかけました。まるで鏡の私に語るみたいで、みんなからも不思議な眼で見られましたけれど、私は必ず貴方が反応を示してくれると信じて疑いませんでしたから、何も不安じゃありませんでした」
「兄様は、寂しかったんでしょうか。きっと何かあったと思います。無ければ、こうしていつまでも現世をうろいつてなんていないと思います。でも、それは決して生き汚いとか、強烈な未練があるとか、そういうものじゃありませんよね。亡霊ではない。何せ、貴方は、私と同じように成長していますから」
「兄様は、いつまでたっても瓜二つ。貴方が好きな私はきっと、強い自己愛にまみれているのだと思います。でも、それが安心出来ました。私という、現世にいつまでもいる事の出来ない、なんだか不確かで、歴史と伝統と運命に縛られた、怪しげな人間ですから、共有出来る人がいるというのは、心強かった」
「兄様」
暗い鎮守の森に、いつぞの土蔵で見たような光が、開けた場所に降り注ぐ。阿求は立ちあがり、その月明かりの下に出て、もはやただの霧になりかかった『兄』と向き合った。
阿求は月明かりの下。兄は丁度影の部分に。きっかりと境界線が引かれたのだ。
「私は生者。貴方は死者。絶対的に超えられない境界線です」
「この幻想郷は博麗と、そして境界の魔が支えていると、記録してありました」
「私は紛う事無く御阿礼の子。幻想の産物。幻想にしか生きられない、幻想だからこそ生きられる、なんとも滑稽な人間です。そして貴方は有象無象の人間の魂の一つ。アチラこちらでチラつく幽霊と相違ない。この幻想郷において、どちらが幻想度が高いかといえば、私です、兄様」
「兄様」
「――兄様」
「私はこれから二十数年。つつがなく、その役目を全うします。御阿礼として。九代目、稗田阿礼として」
「兄様」
「兄様。一度だけ、聞かせてください。貴方の口から。だから、私からは言いません」
歯を食いしばる。己の胸に去来する感情が、あまりにも悲しみに満ちていた為だ。何をするにも、最初から知っている節があり、何か学んでも疑問無くすぐ解決してしまう阿求にとって、それは初めての苦痛であり、後悔であり、未練であり、初めての別れである。
愛別離苦、求不得苦。乗り越えるに乗り越えられぬ、稗田の呪いでもある。
阿求は目を瞑る。
そしてその耳に――本当に、微かに、幽やかに。兄の温かい言葉が聞こえたような気がした。
※
稗田阿求。稗田の当主であり、九代目稗田阿礼である。延々と受け継がれる虚空蔵求聞持法により、見たものは忘れず、聞いたものは忘れず、その全ては阿求の記憶に刻み込まれる。過去の出来事も、今起きている事も、これから起こる事も、もれなく全て、昨日のように再生される。
御阿礼には恋も愛もない。子などなせば、志半ばで朽ち果てる可能性があるからだ。稗田の血族は分家によって繋がれている。
稗田阿求として生を受けた瞬間。母の胎内で自分を自覚した瞬間から、全てが高速で回り、朽ち果てて行く。
ただ鮮明なものはその、実体によらない記憶ばかりだ。
しかし、何も悲しむことはない。稗田阿求は恋をした。一体過去、どの御阿礼が『その思いを遂げた』だろうか。阿求にとっての、女の子にとっての幸福は、まさしくその手の内に、その鮮明な記憶の中にこそあるのだ。
幻か実か、そのような問いは、彼女にとってまったくもって意味をなさない。
「あー。そうですねえ。毎年来ていますけれど、墓参りではないんですよね」
「どういう意味よ」
炎天下の中、博麗霊夢は桶を重たそうに地面に置き、不機嫌そうに阿求に言う。
阿求は柄杓で墓石に水をかけ、わずかにほほ笑んだ。
「誕生日に来ているんです。私の大切な人の誕生日に」
「彼氏に先立たれたの? 若いのに重たいわね。てかいくつよアンタ」
「歳なんて、現実なんて、幻想なんて、大した問題じゃないんですよ。私は失われたものであろうと、何もかも、この頭の中に全部入っている。その一時一時の仕草も行動も、全部です。残念ですが、霊夢さんも」
「アンタに借金だけは出来そうにないわ」
「わざわざ付き合わせてしまって、ありがとうございます。これ、心ばかりですが」
「はいどうも。ってずいぶんくれるわね。逆に怖いわ」
「また適当な理由つけて、こき使おうと思いまして」
博麗霊夢は――ため息をついてから、声を出して笑った。
阿求もまた、それにつられて笑う。笑顔を教えてくれた兄に感謝して。悲しみを教えてくれた兄に感謝して。
「お誕生日おめでとうございます。また来ますから」
頭に手を添え、髪飾りをとり、墓前にささげる。
稗田阿求、余命十数年。あと何回、ここにこれるだろうか。
死んだあとに、彼岸であえると良いですねと、ただささやかに、望みもなく、けれど軽やかに、そう念じて手を合わせた。
了
生温かい羊水に浮かびながら、何事かを呟き続ける家族たちの言葉に耳を傾ける月日を重ねた。
母の胎内から引きずり出され、最初に見たのは父の顔であった。そして母、乳母、祖父母、里の長、そして、もう一人、誰か。
彼女は泣かなかった。泣き声一つ洩らさない。しかし、家族の誰もが、喚かぬ娘に疑問を持たなかった。産まれ出た赤子は、既に冷静でいたのだ。引き締まった顔をした、里の長が言う。
「御阿礼に。いや、厳密には、これから、であろうか」
「長様、どのような意味でしょう」
母が息を落ち着かせ、赤子を抱きながら言う。
「産まれ出た時点で阿礼乙女の誕生とは言い難い。知っての通り、阿礼乙女、阿礼男とは稗田阿礼の転生体。自覚、才覚、そしてなにより、求聞持を持つ」
「して、何故……この子を阿礼と」
「見て解らぬか。既にこの目、諦観しておる」
※
生まれ出た子、稗田阿礼の九代目の転生体、稗田阿求は大事に育てられた。ことさら潔癖に育てられたと言っても過言ではない。脚が立つようになっても、決して外には出されなかった。座敷の奥のそのまた奥。定期的な殺菌の為にのみ外へ通じる戸が開くような部屋で、母子は生活を強いられるのである。
里長の言葉は、御阿礼の確実性の問題だけではない。もとから死にやすい乳児、まして、わをかけて虚弱とされる稗田家の女子であるから、その死亡率は言うまでもなく、非常に高いのだ。
祖母の代だけで稗田の女子の水子は十人にも及ぶ。男子はまだ比較的健康に育ち、御阿礼でない限り、稗田家の次代を担う為、分家へと移される。
稗田阿求はそこまで聞いた。そして理解した。齢三つである。
「ははさま」
「はい、如何なさいましたか、御阿礼様」
「きゅうくつに、ございます」
「しばし我慢ください。もう少しで、陽の目を見る事も叶いましょう」
母は阿求に対して敬語であった。阿礼とは、稗田家の悲願であり、伝統であり、継続して行かねばならない幻想郷の歯車の一つだ。悲願の子は、それがいかほどの価値であるか、当然理解していたが、しかし寂しかった。
言葉、読み書きは、身体が追いつかないだけで、もはや十歳の子供を超えている。人の数倍の速度で成長し、数倍の速度で滅びるのが、その運命にあった。
「ははさま」
「はい、如何なさいましたか」
「あにさまは、なぜ、おくでずっとすわっているのですか」
その日から、母子は部屋を移された。
※
稗田阿礼の九代目、稗田阿求には、この世に生まれなかった姉が三人。産まれ出てすぐ亡くなった兄が一人いる。阿求の語る容姿から、母と父はその子が亡くなった兄の阿休であると判じた。一度は御阿礼の子として生まれた子である。
幻想郷において、除霊や降魔調伏は一般的ではない。そもそも魂とはあちこちに飛散し現世にとどまり、人の目にも見えるものであり、誰一人として気にしないからだ。それが悪霊、亡霊となればまた違うものの、この幻想郷は妖怪の敵となる目ぼしい坊主はおらず、博麗の巫女は着任して間もない幼子である。
里の拝み屋も当然存在するが、亡霊や悪霊をどうにか出来るほどの力はない。ともすれば、上白沢慧音等、里に協力する妖怪頼みにするか、もっと荒仕事にはなるが、対妖怪を売りにしている弾幕屋にでも頼むほかない。
しかし問題は繊細だ。自分たちの息子の霊、しかも御阿礼になるかもしれなかった子を、はてさて、如何にしたものか、当然親族含めて悩みぬいた。
「なにもしない、ではだめでしょうか」
親族会議の座敷の上座に座る阿求が言う。実質、実害は一つもない。阿休が見えるのは阿求を含め、霊感のあるものだけ。何かしら悪さをするわけでもなく、座敷に座っているだけなのだ。時間が解決してくれるものだろうか。このまま現世に漂わせているだけでは可哀想ではないのか。様々と意見が出る。
「わたしに、いちにんしてくだされば」
決断力と判断力が、もはや既に、親族のそれを超えている事実に、一同は黙りこむことしかできなかった。
※
阿求は以来、積極的に兄に語りかける生活を始めた。容姿はまさしく瓜二つ。鏡を見ている事と大差がない。阿求が幾ら語りかけようとも、兄は口を開くことはない。ジッと阿求を見つめ返すだけだ。
それにどのような意味があるのか。阿求は疑問に思わなかった。自分の兄であり、元は御阿礼だというのならば、自分と同じくして頭脳明晰であるという自信があったからだ。
雨の日も風の日も、朝も夜もずっと語り続ける。今日起こったこと、昔起こったこと、これから起こる事、今日読んだ書物、昔読んだ筈の書物、これから読む書物の話。優しい父、優しい母、優しい祖父母。幻想郷という特殊な土地の事情、里の五月蠅い魔法かぶれ、神社の良く分からない巫女の話。
稗田阿求の選択は正しかった。
色の無い目をした自分と同じ容姿の少年の瞳に、やがて光のようなものが見え始める。此方を見つめ返す印象は変わり、積極的に阿求の話を取り込もうという姿勢が見え始めた。
過去の膨大な書物を脳内に叩きこむ合間にも、阿求は兄と接し続けた。
※
ある日の事である。いつも阿求の自室の片隅にいた兄が見当たらなかった。一体どこへ消えたのか。成仏したのだろうか。阿求はさほど重大に事を捉えていなかった。屋敷内を暫くと探し回り、やがて土蔵が開いている事に気がつく。土蔵には大量の書物と、何に使うのか見当もつかないような物品で埋め尽くされている為、両親からは入らないようにと命じられていた。が、阿求は何一つ躊躇わず土蔵へと足を踏み入れる。
幾重にもなった蜘蛛の巣を押しのけ、積み重なった葛篭の合間を進み行くと、そこには阿休の姿があった。
「兄さま。何をしているのですか」
兄は答えない。ただ、開いた書物を指差している。
指差された書物には『古事記』とある。
「こじきのしゃほん、ですね。記憶がないとはいっても、頭のかたすみには残っているようです」
古事記。この国の成り立ちを、朝廷の視点から、地方豪族に配慮しながら、意外と遠慮めかして記述してある、自分でも良くこんな内容語ったものだと感心してやまない書物である。
稗田の最初。稗田の根源。奈良稗田連から脱し、幻想郷へと居を移さねばならなくなった原因でもある。
土蔵の窓から差し込む光の下、阿求は兄とともに、写本をめくる。
天地開闢。兄妹神。三貴神。海幸山幸に大国主に天孫。
天鈿女、猿田彦。
「兄さま。わたしたち稗田は、このお二柱から成ったといわれます。セイジてきハイケイをウカガわせる組み合わせですから、いまいち、シンヨウできませんけれど、アマツカミとクニツカミの子という意味では、かなりハイブリットですよねえ」
露出狂と鼻のデカイ人ですけど、と余計に付け加える。
兄は小さく頷き、やがて土蔵の地面に指を這わせ始めた。
「光とカゲ、ですか」
阿求は表をあげて、土蔵に差し込む光を見る。兄は影の方で、ひっそりとしていた。
「ミレンがありますか?」
兄の意図をくみ取る。光と影。陰と陽。支配するもの、されるもの。虐げるもの、虐げられるもの。産まれるもの、産まれる事がなかったもの。生きるもの、そして死ぬもの。
稗田阿求は、今やっと、自分が幸福であると知った。あらゆる不均等で不平等の中、こうして、短命であろうと生を受け、生きる意味を与えられ、陽の目を見ている事実を、齢五つにして実感した。
兄、阿休は首を振る。そして初めて、笑顔を見せた。そして初めて、阿求も笑ったのだ。
これは鏡。実体か、そうでないかの違い。そこに映るものは唯の影なれど、まさしく自分なのである。
「ああ、けれど」
そして同時に、阿求は後悔したのだ。
自分は兄を愛しているのだ。産まれ出たその日から、自分の隣で自分を見続け、同時に学び同時に見聞きして来た彼は、まさしく自分なれど、しかし影なのである。決して陽の目を見る事は出来ず、いつか消えてしまうとも知れない、薄い薄い、影なのだ。
「兄さま。阿求は兄さまが好きです。ずっと一緒にお勉強して、一緒に編纂して、私が死ぬまでずっと一緒にいる事は出来ないでしょうか」
言葉と同時に、稗田阿求という存在が一つ、上にあがった気がした。心の底から紡がれる言葉は、理性と知性と本能が入り混じり、言霊を含んでいる。天津神と国津神の、脈々と受け継がれた血がそうさせるのか……。
稗田の子は、早死にである。先天的な障害を持って生まれた子など、そのまま無かった事にされる。
近親交配故の弊害であり、稗田阿求が近親者に対して、家族の一線を越えるような感情を抱く事も、珍しくなく、まして彼女は……齢五つにして、既に精神年齢は二十歳に近い。
兄は、古事記をめくり、兄妹神の項目を指差した。
「……女が先に声をかけると、蛭子が生まれると」
兄は、顔を赤くして、ソッポを向いた。
※
「間違いなく、稗田阿礼の転生体。阿礼乙女に。求聞持法を有する、転生の子です。稗田阿求」
「はい、映姫様」
「道を違わぬように」
彼岸の裁判長は、稗田阿求ではなく、その後ろに目をやっていた。彼女の手鏡から逃れられる人間はまずいない。阿求は素知らぬ顔で返事をする。このキモの座り具合には、流石の映姫も辟易とした。
「記憶はないでしょうが……彼岸でも、彼女は有能です。いえ、有能すぎるくらいに。貴女が働いていると、小町もさぼりが減るのです。それは良いのですが……鬼の尻をひっ叩いたりするのは、事務官としてどうなのでしょう」
「私に言われても困りますね」
「そうでした。まあともかく、あと二十数年。後悔なく生きるように」
「はい、私は完璧で幸福です」
「減らず口を……稗田家の方々。阿礼をお願いします」
そういって、四季映姫は迎えの籠の乗って去って行く。彼女の籠が見えなくなったところで皆が顔をあげる。母は心配そうにして、阿求に語る。
「阿求様。その、兄君はまだ、お隣に?」
「言いたいことは解ります。でもこの通り、四季映姫様も何もおっしゃらなかった。答えは明白です」
「しかしその……」
「母様。兄様が何か一つでも悪さをしましたか。亡霊ならばまだしも、兄様は誰に迷惑をかけるでなく、ずっと阿求に寄り添ってくださっています。兄様と学び、兄様と編纂を続けて行く事に、何かご不満がありますか」
「――いえ」
「……」
兄の手が阿求の肩にかかる。兄は目を瞑り、首を振っていた。
「……言いすぎました。ご心配、ありがとうございます。この通り、阿求は齢八つです。映姫様にも、阿礼の転生体であるというお墨付きも頂きました。これより、阿求は名実ともに、稗田家の当主となります。今まで病気や怪我の一つもなく、こうして育ったのは、何より、母様と父様の愛と努力に他なりません。これからも何とぞ、短い人生ですが、よろしくお願いします」
親族一同に、阿求は頭を垂れた。既に、阿求の寿命は三分の一に差し掛かろうとしている。これからの命、つつがなく次の転生と、そして編纂の為に費やすには、親族の協力が必要だ。
そこに悲しみはない。稗田阿求は、生きやすくなったこの幻想郷の為、それが長く続く為、その命を賭すのだから。
※
幻想郷に祭囃子が響く。あちこちの出店には雪洞がきらめき、人々が賑わいを見せている。
夕暮れ時の蜩もなりを潜め、暗くなるにつれ、やがて雪洞の灯す二条の光が、山の麓まで伸びている事に気がつかされる。普段祭りなど開かない博麗神社にまで伸びる光の列だ。
神社へ向かう参道の入り口には『御阿礼神事』の看板が掲げられている。
御阿礼の生誕祭である。聞くには及んでいたが、まさかここまで大々的な祭りが催されるとは、当の阿求も想像だにしなかった為、あまりに大きな舞台に多少尻込みしてしまっていた。
「母様。その、何か特別な事をするという記述はどこにも無いのですが、着飾ったりするのでしょうか」
「いえ。その……幻想郷は、なんと申しましょうか……」
母の意図をくみ取り、理解する。
ようは、みんなで騒いで酒が飲めればいいのだ。酷い話があったものである。
だが、逆に緊張は取れた。では普段通りにしていればいいのだ。いつも着ている着物を纏って、手帳と万年筆を帯に差し、当たり前のような顔をして、神社に顔を出せばいい。それで皆に存在が認知されるのであれば、面倒が無くて済む。
「付き添いも要りませんね。母様。博麗神社の祝賀会でまた」
「はい。いってらっしゃいませ」
神事とは名ばかりの飲み会に付き合わされる訳である。一応有志の者たちが催してくれている為、無碍には出来ない。阿求は一人、稗田家を後にする。
「兄様?」
が、どうもいつもいるはずの人がいない。過去数度、そのようなこともあった為、阿求は気にする風もなく、博麗神社へと足を向けた。
博麗神社といえば、幻想郷で唯一の、唯一なのに寂れた神社である。神主はおらず、ご神体は解らず、ご祭神もご利益も不明という、もはや鳥居と拝殿だけの謎施設と言えた。いるのはただ巫女が一人。その巫女もまた不思議で、そもそもその寂れた神社でどうやって食べて行っているのかが不明であり、いや、そもそもその巫女は人間なのかも怪しい節がある。数度顔を合わせた巫女、博麗霊夢は、巫女としてではなく、十二歳にして酒豪という不名誉な点でだけ有名であった。有志に積極的な呼びかけをしたのも霊夢、および霧雨道具店を飛び出した一人娘である。
「普段人気がない神社なのに、ここまで人がいると逆に不自然で趣がありますね」
「あー、出たわね。アンタの為に催してあげてるんだから、少しは喜びなさいよ」
「またまた。お酒とお賽銭目当てのくせに」
「そうよ」
「すごい。なんて正直な人」
「あー。阿求、コイツは気にするな、いつも通りだぜ」
「こりゃ、霧雨屋の一人娘の霧雨魔理沙さんじゃありませんか」
「なんでこう毒があるんだいちいち……本当に年下か?」
「あいにく、精神的には成熟しておりますので」
「最悪な方向に熟れてるなお前。ま、いいや。ご誕生おめでとう」
「ありがとうございます」
阿求は物珍しそうに此方を見る人々に手を振り返しながら、博麗霊夢に連れられ、博麗神社の母屋へと引き下がる。
清潔で、必要最低限のものしかない、簡素な家だ。歴史的な資料や物品がアチラこちらに散らかっている稗田家と比べると、それは心底うらやましい話だった。情報量が多いという事は、それだけで稗田阿求に少なからずの影響を与える。現に、阿求の部屋は座卓と箪笥程度しかモノがない。
「少し人酔いしますね」
「だろうと思ったから連れてきたのだけど、迷惑だったかしら」
「いえ。ちゃんと配慮なんてしてくれるんですねえ」
「一応主賓だもの。それにほら、アンタってなんか、変だし」
「否定はしませんね」
縁側に座らされ、出がらしの茶を戴く。もはや白湯だ。霧雨魔理沙はご相伴にあずかるという手前、宴会の準備をしているらしい。蒐集癖の為家はごった煮と聞いたが、飛び出したとはいえ商家の娘、手際は良い。そして顔も聞くのだろう。大の大人が魔理沙の指示であちこちと道具を運んでいる。
「意外な面があるものです」
「ま、私より女の子してるわ」
「女の子、ねえ」
女の子。世間一般、幻想郷常識で行くところの女の子というのは、実にミーハーだ。新しいものには直ぐ飛びつき、飽きるのも早い。古い事をいつまでも引きずり、まして魂すら引きずっている自分には出来そうもない。風のうわさでは、最近趣味にしていたレコードも、外の世界では既に見受けられないものとなっているらしい。結局自分は古いものを引きずる者なのだと、自嘲する。
「一度見たものは忘れない。一度聞いたことは忘れない。頭がパンクしそうな脳味噌してるのね」
「ええ。空海様と同様の力です。虚空蔵求聞持法と言います。全てを見知る虚空蔵の如き見識からそのように呼ばれています」
阿礼乙女であるということはつまり、稗田阿礼の転生体であり、同時に、類稀なる才覚を持つ者である。虚空蔵求聞持法を、修行ではなく、魂に刻み、つなぎ続けているのだ。代を重ねるごとに、転写の精度は下がって行く。おそらく魂も劣化しているのだろうと、阿求は自覚していた。だが、やはり名ばかりの力ではないのだ。
目を開き、耳を澄まし、そしてそこに流れ込んでくる全ての情報が頭の中に残り続けるのである。脳は容量を圧迫し、やがて使い物にならなくなるだろう。
「三十迄しか生きられないので、まあ、その間はよろしくお願いしますね」
「後悔しないと良いわね」
「……」
阿求は、言いよどむ。それはお互い様という言葉を、呑み込んだ。
記述通りならば、博麗も長くはない。三十までに代が変わる。どこから来る負担なのか、何が原因なのか。幻想郷の根幹をなす博麗は、それそのものが謎の塊である。
「もう少し、顔見せしてきます。それがメインのイベントですしね」
「あいよ。あと半刻もしたら呼ぶわ」
縁側から退き、また境内へと足を向ける。様々な顔を脳に詰め込むのは多少苦痛だが、相手に顔を詰め込むのが、今日の仕事なのだ。こればかりは逃げられまい。
しかし、ふと、境内の端、鎮守の森の境に、見覚えのある影が見えた。直ぐに記憶を検索する。即座にそれが、鮮明に思い出され、記録と合致する。
「兄様?」
阿求は境内を外れ、鎮守の森へと、吸い込まれるようにして向かっていた。
※
明りもなく、暗い森を、木々に手をつきながら進む。道に迷う事は決してない。だが、不慮の事故は警戒せねばなるまい。祭りの気配に当てられて、不用意な妖怪が付近をうろついているとも限らないのだ。
足元を警戒しながら進む。目で見て、記憶に収め、直ぐに検索し、兄がいないかと探す。絶対的で完全な映像データが何往復かしたところで、阿求は足をとめた。
少し開けた場所に、おぼろげな影が見える。肉眼では明らかに、濃い霧が一か所に集まっているだけにしか見えないが、その気配が兄である事に直ぐ気がつく。
「兄様」
阿求は小走りで近づき、兄の腕を捕まえる。
「どうも、兄様の姿がハッキリしません。そして、私はある一つの予測があって、そしてそれは、おそらく当たります」
兄は、首を縦に振る。倒木に腰かけ、視線を阿求にしっかりと定めるようにしていた。
兄はしゃべらない。口元が言葉を紡いでいるような仕草は解るのだが、聞こえた試しはなかった。目は波長があっても、耳があっていないのかもしれない。
「口元から読み取れる事もあったのですけれど、こうぼやけていては何が何だか解りませんね。兄様は一体どんな声をしていたのでしょうか。産まれて直ぐ亡くなったのなら、両親も知らないでしょうけれど」
阿求もまた腰かけて、兄に寄り添う。
「あれは五つの頃。土蔵に入って、古事記の写本を読んだ時の事。兄様は、未練があるのかという私の問いに、何も答えませんでしたね」
「どうなのでしょうか。未練といえば、むしろ私にあるような気がします。私は正式に御阿礼となりました。この定義が確実性を帯びて、私たちの魂を管理している映姫様にお墨付きをもらったとなれば、御阿礼に『なるかもしれなかった』兄様は、もはやその曖昧であった存在意義に固着出来ず、こぼれて落ちてしまうのでしょう」
「兄様は、何も反応を見せてくれませんでしたね。私は馬鹿みたいに一生懸命語りかけました。まるで鏡の私に語るみたいで、みんなからも不思議な眼で見られましたけれど、私は必ず貴方が反応を示してくれると信じて疑いませんでしたから、何も不安じゃありませんでした」
「兄様は、寂しかったんでしょうか。きっと何かあったと思います。無ければ、こうしていつまでも現世をうろいつてなんていないと思います。でも、それは決して生き汚いとか、強烈な未練があるとか、そういうものじゃありませんよね。亡霊ではない。何せ、貴方は、私と同じように成長していますから」
「兄様は、いつまでたっても瓜二つ。貴方が好きな私はきっと、強い自己愛にまみれているのだと思います。でも、それが安心出来ました。私という、現世にいつまでもいる事の出来ない、なんだか不確かで、歴史と伝統と運命に縛られた、怪しげな人間ですから、共有出来る人がいるというのは、心強かった」
「兄様」
暗い鎮守の森に、いつぞの土蔵で見たような光が、開けた場所に降り注ぐ。阿求は立ちあがり、その月明かりの下に出て、もはやただの霧になりかかった『兄』と向き合った。
阿求は月明かりの下。兄は丁度影の部分に。きっかりと境界線が引かれたのだ。
「私は生者。貴方は死者。絶対的に超えられない境界線です」
「この幻想郷は博麗と、そして境界の魔が支えていると、記録してありました」
「私は紛う事無く御阿礼の子。幻想の産物。幻想にしか生きられない、幻想だからこそ生きられる、なんとも滑稽な人間です。そして貴方は有象無象の人間の魂の一つ。アチラこちらでチラつく幽霊と相違ない。この幻想郷において、どちらが幻想度が高いかといえば、私です、兄様」
「兄様」
「――兄様」
「私はこれから二十数年。つつがなく、その役目を全うします。御阿礼として。九代目、稗田阿礼として」
「兄様」
「兄様。一度だけ、聞かせてください。貴方の口から。だから、私からは言いません」
歯を食いしばる。己の胸に去来する感情が、あまりにも悲しみに満ちていた為だ。何をするにも、最初から知っている節があり、何か学んでも疑問無くすぐ解決してしまう阿求にとって、それは初めての苦痛であり、後悔であり、未練であり、初めての別れである。
愛別離苦、求不得苦。乗り越えるに乗り越えられぬ、稗田の呪いでもある。
阿求は目を瞑る。
そしてその耳に――本当に、微かに、幽やかに。兄の温かい言葉が聞こえたような気がした。
※
稗田阿求。稗田の当主であり、九代目稗田阿礼である。延々と受け継がれる虚空蔵求聞持法により、見たものは忘れず、聞いたものは忘れず、その全ては阿求の記憶に刻み込まれる。過去の出来事も、今起きている事も、これから起こる事も、もれなく全て、昨日のように再生される。
御阿礼には恋も愛もない。子などなせば、志半ばで朽ち果てる可能性があるからだ。稗田の血族は分家によって繋がれている。
稗田阿求として生を受けた瞬間。母の胎内で自分を自覚した瞬間から、全てが高速で回り、朽ち果てて行く。
ただ鮮明なものはその、実体によらない記憶ばかりだ。
しかし、何も悲しむことはない。稗田阿求は恋をした。一体過去、どの御阿礼が『その思いを遂げた』だろうか。阿求にとっての、女の子にとっての幸福は、まさしくその手の内に、その鮮明な記憶の中にこそあるのだ。
幻か実か、そのような問いは、彼女にとってまったくもって意味をなさない。
「あー。そうですねえ。毎年来ていますけれど、墓参りではないんですよね」
「どういう意味よ」
炎天下の中、博麗霊夢は桶を重たそうに地面に置き、不機嫌そうに阿求に言う。
阿求は柄杓で墓石に水をかけ、わずかにほほ笑んだ。
「誕生日に来ているんです。私の大切な人の誕生日に」
「彼氏に先立たれたの? 若いのに重たいわね。てかいくつよアンタ」
「歳なんて、現実なんて、幻想なんて、大した問題じゃないんですよ。私は失われたものであろうと、何もかも、この頭の中に全部入っている。その一時一時の仕草も行動も、全部です。残念ですが、霊夢さんも」
「アンタに借金だけは出来そうにないわ」
「わざわざ付き合わせてしまって、ありがとうございます。これ、心ばかりですが」
「はいどうも。ってずいぶんくれるわね。逆に怖いわ」
「また適当な理由つけて、こき使おうと思いまして」
博麗霊夢は――ため息をついてから、声を出して笑った。
阿求もまた、それにつられて笑う。笑顔を教えてくれた兄に感謝して。悲しみを教えてくれた兄に感謝して。
「お誕生日おめでとうございます。また来ますから」
頭に手を添え、髪飾りをとり、墓前にささげる。
稗田阿求、余命十数年。あと何回、ここにこれるだろうか。
死んだあとに、彼岸であえると良いですねと、ただささやかに、望みもなく、けれど軽やかに、そう念じて手を合わせた。
了
好きな雰囲気のお話です。良かったです。
さすが俄雨さん…
良い物語をありがとうございます。
興味深かったです。
あと不意打ちパラノイアネタに吹いた。幸福は義務ですよあっきゅん。
こういう方向で描いたのは初めて見た気がする
最後の26行がなんとも素敵でした
作品独特の雰囲気が滲みでていました。
とても面白かったです。
作品の雰囲気に引っ張られるんじゃなくて、そっと染みこむように心に残る感じ。
それが情緒的な根を張って蕾になったとき、余韻の花が咲きそぼつのでしょう。
これ以上書くとあとで削除したくなるので、そうなるまえにやめておきます。
そんな余韻を、ありがとうございました。
蒸れた足袋も良いですよね。
俄雨の文体が硬派で好きです。
原作愛を感じさせる小ネタが散りばめられていてとても面白かったです。
命短し、ってやつですかね。
後書きでしんみり感がもってかれたw
あっきゅんは実に模範的な市民ですね。
つまり男の娘ですねわかります
あとがきはつい読み飛ばしてしまいましたが、本文がこれなんだから
きっと素敵なことが書いてあったんでしょうね。