Coolier - 新生・東方創想話

変わる化け傘、変わらぬキョンシー

2012/08/03 00:21:09
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 草木も眠る丑三つ時。
 命蓮寺裏の墓場にある大木の側で、多々良小傘は迷っていた。
 再び姿を現したあの宿敵に、もう一度挑むべきか否か。



 話の通じない凶暴な門番、そしてそれ以上に凶悪な巫女。
 二つのトラウマを植え付けられたあの日以来、小傘はこの墓場を見回るようになった。あの門番のような侵入者を未然に防ぐためだ。
 驚かせるための舞台を非常に大事にする小傘にとって、この墓場はまさに理想郷である。
 それを奪われ、撃墜され、一時とはいえ追い出されてしまったことで彼女が受けた衝撃は計り知れない。
 もう二度と私の場所は渡さないんだから。そう強く心に誓い、小傘は毎晩見回りを続けているのだ。

 とはいえ、見回り中何かを発見したことは一度もない。
 ただでさえ気味の悪い夜の墓場にわざわざやって来るような者はそうはいない。何か目的があれば別だが、そのような目的が生まれるケースは極めて稀だ。
 何も起こらない夜のパトロール。実に単調だが、小傘はそれを苦痛とは思わなかった。自分のテリトリーを守っているという実感が彼女には心地よかったのだ。

 寝る前のついで、習慣としてのパトロール。
 この夜も、何も見つけず終わるはずだった。
 命蓮寺で夕食をお呼ばれし、夏に向けての準備をあれこれ考えながら墓場を歩く。ただ、それだけのはずだった。

 けれども、小傘は見つけてしまった。
 かつて“彼女”がいた大木の脇で、静かに佇む人影を。



 逃げたい、でも逃げたくない。反射的に小傘の心に浮かんだのは、二つの相反する思いだった。
 あの夜墓場を占拠したキョンシー・宮古芳香。目の前で佇む人影が彼女ならば、小傘に勝ち目はない。だからこそ、あの時小傘は通りかかった巫女に助けを請い、芳香とともに撃ち落とされたのだ。
 闇雲に戦ったって勝てない。いくら打ち込んでも復活する奴の相手なんてもうごめんだ。そんな思いが小傘の足を止める。

 けれども、小傘には芳香に挑まねばならない理由があった。
 この墓場を手放すことは、小傘にとって死活問題なのだ。

 墓場を追われて以来、小傘の脅かし成功率は下降の一途を辿った。
 人間を相手にしても驚いてもらえず、妖怪にターゲットを変更したところで適当にあしらわれるばかりか猫可愛がりされてしまう。新たな在り方を模索して挑戦したベビーシッターも不評で、里では不審者扱いまでされてしまった。
 誰も驚かせることができず、里の子供達からは「あっ、変な傘のお姉ちゃんだ!」と呼ばれて懐かれる。人を驚かせる付喪神としては実に由々しき事態である。墓場を取り戻した今では多少ましになってきているものの、それまでの生活は小傘には屈辱以外の何物でもなかった。

 ここで諦めたら、またあの日々が待っている。それだけはどうしても避けたい。たとえ勝ち目のない戦いでも、今は引き下がるわけにはいかない。
 強い意志に押され、小傘は前を向く。芳香の下へ行き立ち退かせようとするが、かつての記憶にそれを阻まれてしまう。

 進むべきか、進まぬべきか、それが問題だ。
 一進一退の攻防を脳内で繰り広げている小傘にはそんな酔狂な事を考える余裕などない。
 どちらとも決めきれないまま、彼女はぼんやりと夜空を見上げる芳香の姿を睨みつけるようにして見つめていた。



 時間にして数分後。
 終わりの見えない葛藤に疲れた小傘の緊張が限界を告げ始める。
 もうなんでもいい、こんなに息苦しい状況から早く抜け出したい。
 小傘の心にそんな思いが浮かんだ直後、不意に芳香が声を上げた。


「……あれ? なんで私はここにいるんだっけ?」
「そこ忘れちゃう普通!? ……あっ」
「ん? 誰かいるのか?」

 咄嗟に口を押さえつつ、小傘は気を緩めてしまったことを後悔した。
 長く月を眺めていた後にこの発言。思わずツッコミを入れたくなる場面ではあったが、この一言で芳香に気づかれていないというアドバンテージを失ってしまったのは事実だ。
 気を張り過ぎて肝心な場面でうっかりミスをする。まるで某寺の寅のような失敗をしでかしてしまったのは大きい。

 自分以外の誰かに気づいた芳香は、そちらの方向へ向きを変えた。
 焦りが一層強まった小傘の下へ、彼女はぴょんぴょん飛び跳ねながら近づく。
 やがて「誰か」の姿を視認した芳香は、ぴんと腕を伸ばしたままの姿で訊ねた。

「ええと……お前は誰だ?」
「えっ?」

 もう戦うしかない。そう心を決めかけていた小傘には芳香の問いは意外なものだった。まさか彼女が自分のことを忘れているとは思っていなかったのだ。
 すぐに答えずにいる小傘に芳香は再び訊ねる。

「私は宮古芳香、キョンシーだぞ。で、お前は誰だ?」
「あ、あの、忘れちゃった? 前にあんたとここで会ったんだけど」
「そうか? 覚えてないぞ」
「嘘でしょ? 人のテリトリーを侵害しておいて忘れるなんて!」
「照り鳥? 確かに鳥は照り焼きがおいしいな」
「テリトリー! 分かりやすく言えば縄張りよ。ここは私の大事な驚かしスポットなんだけど、ある夜あんたが突然現れて乗っ取ったの」
「んー……あ、そういえば前に青娥がここを守れって言ったときがあったっけ」
「そう、それよそれ! その時に追い出されたかわいそうな忘れ傘がこの私、多々良小傘ってわけ」
「多々良小傘、か。初めて聞いた名前だな」
「あ、ああ、確かにあの時は名乗る間もなかったからね」
「知らない人と会ったらまず名乗るのが礼儀だぞ」
「いや、だからその暇もなくあんたが襲ってきたんだってば」
「私はそんなことしないぞ。人に迷惑をかけるようなことは死んでもするなって青娥に言われてるからな」

 そう言って何故か誇らしげにする芳香。そのマイペース振りに疲れた小傘は思わず溜息を吐く。
 もうどうでもいいから、早く出ていってもらおう。そう心に決めて、ニコニコ笑う芳香に訊ねる。

「あー……ところで、なんでまたここに来たの? もうここに用はないんじゃないの?」
「うん、用はない。なんとなく来たんだ」
「なんとなくって……散歩かなにか?」
「いや、そうじゃなくて……なんだったかな……」
「だからー、なんでそれを忘れるかなあ。あんたの他に思い出せる人なんていないでしょうに」
「うー……あ、そうだった。私は家出をしたんだった」
「はあっ? 家出?」

 予想の斜め上をぶっちぎった返答に小傘は間の抜けた声を漏らした。
 こいつは何を言い出すんだ。そもそも、どういう経緯を踏めばキョンシーが家出をしようなんて思いつくんだ。
 芳香と戦うという意志は、既に小傘の心から完全に消え失せていた。今彼女の頭にあるのは早く芳香に出ていってほしいという思いが三割、この訳の分からない話の続きを聞きたいという好奇心が六割に、やっぱり話なんて聞かなくていいかもという投げやりな心が一割だ。

「家出って、自分の家から無断で出ていくあの家出でしょ? なんでまたあんたがそんなことを?」
「この前青娥に聞いたんだ、もっと青娥の役に立つにはどうしたらいいかって。そしたら、もう十分役に立ってるから無理しなくてもいいのよって言われた」
「青娥ってあんたの主でしょ? 術者って意外と優しいのね、キョンシーを道具にしか思わないような人かと思ってた」
「青娥は優しいぞ。でも、たまに優しすぎるんだ、この時みたいに。『あなたは私にとってかけがえのない存在だから、無理をしてほしくないわ』って言われちゃった」
「で、そこからどうやって家出に結びつくわけ?」
「私は本当に青娥の役に立ててるのかを知りたいんだ。本当は役に立ってない私を傷つけないように、青娥がああ言っただけかもしれないだろう?」
「なるほど。急にいなくなったあんたを青娥さんが探してくれれば、どれだけあんたが必要とされてるかが分かる。つまり、どれだけ役に立ててるか分かるってわけね。でも、このやり方ってどうなのかな……」

 呆けた表情のまま想いを語る芳香を見て、小傘はそう漏らした。

 芳香の気持ちは分かる。自分では役に立てているつもりがないのに十分だと言われればそれを疑うし、本心を確認したいと思うのも当然だ。
 ただ、そのために相手に不安を与えるのはまずいのではないか。自分を気遣ってくれている主を心配させるようなやり方以外の選択肢はなかったのか。
 相手の気持ちも考えず無茶をする。まるで子供じゃないか。

 ちぐはぐな思考で動く芳香に小傘は呆れ果てたが、彼女の心は静かに燃え上っていた。危うさを感じさせる芳香の姿が、小傘のベビーシッター魂を疼かせたのだ。

 困っている子供がいたらなんとかする。しばらく続けたベビーシッターのせいか、それが小傘の癖となりつつある。
 今小傘の目の前にいるのは子供だ。背は小傘より大きいし容姿や体つきも大人びてはいるが、中身はまだまだ子供なのだ。困った子供が相手なら、ベビーシッター小傘が一肌脱がざるを得ない。

 出ていってもらうのは後。まずはこの大きいお友達をなんとかしよう。そう小傘は考えたが、いいアドバイスを与えられる自信はなかった。
 家族のいない小傘にとって家出という問題は専門外。このやり方がまずいのは分かるが、それをどう説明しどう導いてやればいいかなどは分からない。世話好きが必ずしも世話焼き上手であるわけではないのだ。

 相談しやすくて、アドバイスができそうな相手。思い当るのは守矢と命蓮寺くらいだが、話を聞くまでの早さと簡潔さを考えると守矢は駄目だ。早苗は確実に何か余計なことをしてくるだろうし、神様達がまず酒を勧めてくるから話が進まない。やはり命蓮寺に行くのが一番いい。
 頭の中でそう結論を出した小傘は、意を決して芳香に訊ねた。

「ねえ、これからどこか行くあてってあるの?」
「いや、ない。ここに来たのもなんとなくで、特に決めずに出てきたんだ」
「じゃあ、命蓮寺に行ってみない? こういう時にどうすべきなのか教えてくれると思うよ」
「そうなのか。じゃあ予定もないし、行ってみよう」

 そう言うと芳香はくるりと向きを変え、墓場の入り口に向けて飛び跳ねだした。それを見た小傘は慌てて彼女を制止しながら言う。

「ちょっとちょっと、今は真夜中だよ! こんな時間に訪ねたら迷惑だって」
「え? お寺の人達は起きてないのか? 夜は妖怪の時間だって青娥が言ってたぞ」
「あそこはお寺、普通の妖怪みたいに好き勝手してないの。夜更かししてるのはぬえちゃんくらいだよ」
「そうか。じゃあもう少し後で行ったほうがいいな」
「そうそう、人に迷惑かけちゃ駄目だもんね」
「うむ。じゃあ朝になったら起こしてね」
「え、ちょ、ちょっと!」

 小傘が驚いて声を上げるのをよそに木に寄りかかった芳香は、慌てる彼女を無視してそのまま寝てしまった。

 今まで相手をした子供達なんか比べ物にならないフリーダムさ。こりゃあ関わらないほうがよかったかな。
 暢気な寝顔を見てそんなことを思いつつ、小傘はゆっくりと大きな溜息を吐く。
 もういい、こうなったからには意地でも芳香に分からせてやる。そして、晴れ晴れとした気持ちでここから追い出してやるんだ。
 そう密かに決心しながら、小傘は目を閉じた。



 それからしばらくして、東の空を朝日が照らし始めた頃。芳香の「朝になったら」という言葉を聞き安心した小傘は完全に熟睡していた。
 野宿が長いため常に持ち歩いているブランケット。お気に入りのそれを敷き横になった小傘は身を丸めてすやすやと寝息を立てる。
 穏やかな朝。その後に訪れるであろう、熟睡後の爽やかな目覚め。
 目前に迫っていたそれを一瞬にしてぶち壊したのは、静寂には似つかわしくない暢気な歌声だった。

「あーたーらしーい あーさがきた、きーぼーうのーあーさーだぞー」
「う……な、何なの……?」

 不快感を露わにしつつ、寝惚け眼を擦りながら小傘は木の方に目を向ける。
 そこにいたのは、規則正しいリズムで飛び跳ね、腕を交差したり体を前後に倒してみたりといった謎の踊りを踊るキョンシーだった。

「……ふしぎなおどり?」
「おお、起きたな」
「何してたの?」
「朝の体操だぞ。柔軟は毎朝やったほうがいいって青娥が言ってたからな」
「ああ、なるほど。さっきのは前屈とかだったのか」

 納得した表情で小傘はそう言う。
 前屈や上体反らしに励みながら(実際はどちらもそれほど曲がっていないが)、芳香は笑顔で答える。

「体が固いのは不便だからな。物をうまく持てなかったり、青娥に取ってもらわないといけなかったりするのは嫌なんだ」
「大好きなんだね、青娥さんが」
「ああ、大好きだぞ! さて、そろそろ終わりにしようかな。早くお寺に行こう」
「待って、今どれくらい……って、まだ夜明けじゃん! 駄目だよ、今行っても起きてないって!」

 辺りがまだ暗いことに気づいた小傘は芳香を止めようとするが、すでに行く気満々の彼女を化け傘少女ごときが制止できるはずがなかった。跳ねて進む芳香の前に立ち塞がるも、呆気なく突破されてしまう。
 体勢を崩されながらもどうにか芳香にしがみついた小傘は、止まる気配のない彼女に大声で言った。

「こら、聞いてんの!? まだ早いから迷惑だって言ってるでしょ!」
「善は急げっていうんだ、少しくらい早くてもかまわないはずだぞ」
「いつだってそれが当てはまるわけじゃないの! ちょっとは考えて行動しなさいよね」
「小傘は心配性ってやつだな。あんまり考え込むといいことがないって青娥が言ってたぞ。思いついたらすぐ行動しなさいって」
「だーかーらー、それが迷惑になったらどうすんのよ」
「大丈夫、善は急げっていうぞ」
「あー……もういいです、ええ」

 僅か数回のやり取りでループした会話が、小傘の説得しようとする気力を根こそぎかっさらっていく。

 もういい、勝手にしてくださいよ。どうせまだ誰も起きてないだろうけど、せいぜい迷惑かけて白蓮さんあたりに怒られるといいさ。

 心の中で悪態を吐きつつ、小傘は芳香に身を任せる。
 その態度を小傘からのゴーサインと受け取った芳香は微笑んだ後、強く地面を蹴り出した。
 それまでとは明らかに違うその超人的な跳躍に思わず小傘は怯えた声を出す。

「あぶ、危ないから!」
「平気だぞ、私は走り幅跳びの名人だからな」
「走ってない、跳ねてるだけだよ! あえて言うなら助走のない三段跳びだよ!」
「ほっぷ、すてっぷ、じゃんぷ?」
「おう、よく知ってるじゃん。とか言ってる場合じゃないから!」
「心配するのはいいけど、しっかり掴まってないと落ちるから気をつけてね」
「降りる! 自分で歩けるから、いったん止まって!」
「それは無理だな。一度勢いがつくと止めるのは大変なんだ」
「待って、“止まる”んじゃなくて“止める”っていうのは……」
「急な減速になるから気をつけてね」
「やだ! やっぱり降りる! 歩くから、ある、いやあああああああっ!!!」

 朝焼けを待つ静かな墓場に小傘の断末魔が木霊する。
 命蓮寺への道を跳躍で駆け抜ける芳香の背中で、小傘は改めてこの日彼女に出会ってしまったことを後悔した。



   *   *   *



 陽がようやく東の山際から浮かび上がった頃の、命蓮寺山門前。
 石段へと続く森の道で、地面を抉るような轟音が響きわたる。

 墓場から命蓮寺までの道は傾斜のある山道である。
 坂道を駆け下りて勢いの乗った芳香は、そのスピードを殺すために踵で急ブレーキをかけた。その結果、石段近くの地面を豪快に掘り返してしまったのだ。

「ふう、お待ちどう様でしたお客さん」

 自身の掘った穴から出た芳香は背に乗せた小傘を降ろしながらそう言う。
 ぐったりとした様子の彼女は、どこか誇らしげな笑顔の芳香に恨めしそうに答えた。

「何それ、タクシーじゃないんだから。うう、生きててよかった……」
「タクシーか。宮古タクシー、なんてどうかな?」
「いいんじゃない? でも営業しないほうがいいわね、あんたの“大丈夫”な基準じゃいつ死人が出てもおかしくないわ」
「死んだらお前もキョンシーにしてやろうか! あ、するのは青娥だけど」
「はいはい、閣下すごいですね。さて、穴を埋めたら行きますか」
「おう、力仕事は任せろー」

 腕を捲る仕草をしながらそう言う芳香。
 朝っぱらから寺の前をこんなにした張本人のお前がやらんでどうする、という言葉を飲み込みつつ小傘は芳香を手伝う。
 土を戻して、地面を踏み固めて。なんとか穴を元通りにすると、二人は石段を登り参道を進んだ。

「多分まだ誰もいないから、話を聞くのは後になるよ」
「そうか、まあ仕方ないな……あれ? 私はなんでお寺に来たんだっけ?」
「また忘れちゃったの? あんたのこれからについて話を聞くんでしょ」
「おう、そうだった。よーし、行くぞー」

 間延びした声でそう張り切る芳香。明るい彼女とは対照的に、小傘はやや悲観的になりつつあった。
 白蓮達がいないと話を聞けない。寺の者達が起きてくるまでは小傘が芳香を見ている必要があるが、彼女は明らかに小傘の手に余る存在だ。
 いつまで彼女のベビーシッターでいればいいのか。それが小傘にとって一番の懸念事項であった。

 芳香、ちゃんと言うこと聞いてくれるかなあ。まだ誰もいないだろうけど、響子ちゃんあたりが掃除に出ててくれたりしないかなあ。
 小傘の心にそんな淡い期待が生まれた直後、不意にどこかから二人を呼ぶ声がした。
 



「ありゃ、ずいぶんと珍しい組み合わせじゃん」

 二人の頭上、少し後方から呼びかけられる。
 空を見上げると、降りてきたのは黒いワンピースの妖怪少女。小傘の友人兼驚かし師匠・封獣ぬえの登場である。
 朝帰りのせいかいつもより跳ね返った癖毛を撫でつつ石段に降り立つぬえに小傘は笑顔で言う。

「おはよう、ぬえちゃん」
「おはよー」
「おはよう、小傘に芳香」
「あれ、芳香のこと知ってるの?」
「まあね。神子復活の一件のすぐ後、親睦会をやったんだ。その時胡散臭い邪仙がうれしそうにこいつのことを話してたからよく覚えてるよ」
「そうなんだ。でも胡散臭いとか、さすがに失礼なんじゃ」
「いや、胡散臭いは褒め言葉だって青娥が言ってた」
「まあ、私に正体不明って言うようなもんなんじゃない? ところでどうしたの、こんな朝早く」
「話を聞きに来たの。芳香が家出をしたらしいんだけど、私にはよく分からなくて」
「家出……なるほど、家出ね」

 家出という言葉を耳にした途端、ぬえの表情が固くなった。悪戯っぽい笑顔は消え、軽かった口調も急に真面目なものへと変わる。

「何かあったの? あの邪仙に愛想を尽かしたとか」
「いや、私はただ青娥の役に立ててるか確認したかっただけだ。青娥が私を探してくれたら、青娥は私を大切にしてくれてるって証明になるだろう?」
「芳香は青娥さんの役に立つことをしたかったんだけど、今のままで十分って言われちゃったんだって。だから、せめて自分が本当に大切にされてるか知りたかったみたい」
「そうか。それなら筋は通るけども……うん、やっぱり駄目だわ」

 そう静かに言った後ぬえは二人の肩をポンと叩いた。
 不思議そうに顔を見合わせた二人を見て頷くと、今度は自信たっぷりの表情で言う。

「よっし、この件は私に任せなさい」
「ぬえちゃんに? 真面目な話だよ、大丈夫?」
「ちょ、小傘は私をなんだと思ってんのよ」
「びっくり師匠」
「す、素晴らしいネーミング……で、そのびっくり師匠を信じられないっての?」
「そうじゃないけどさ、ぬえちゃんと説法って結びつかないんだよなあ」
「大丈夫、話すよりも分かりやすい方法で教えてやるよ。誰かのために“何か”をするっていうのはどういうことなのかをね」
「芳香のやり方が間違ってるってこと?」
「まあ、そうなんだけど……芳香には言葉で説明するよりも例を見せて教えるほうがいいだろうね。そこでこちら、正体不明の種の出番さ」

 そう言いながらぬえはどこからともなく蛇のような小さい物体を取り出してみせる。ふよふよと動くそれを弄りながら彼女は続けた。

「これをつけてればそう正体がばれることもない。落ち着いて覗きができるってわけよ」
「覗き? そんな、ハレンチな」
「どこを覗くと思ってんの!? 私が見せたいのは日常だよ、そこかしこにある日々の生活。その中に転がってるものを見てほしいんだ」
「よく分かんないけど、見ればいいんだな」
「そうそう、私について来てただ見てればいい。でも声を出すと種をつけた意味がなくなっちゃうから気をつけてね」
「もしかして、さっき肩を叩いた時につけたの?」
「そういうこと。んじゃあ適当な相手で効果の確認を……お、いたいた」

 境内を見回していたぬえはそう言うと本堂の方へと歩き出した。
 唇に指を当てるジェスチャーを二人にしながら彼女は境内を進む。
 やがて、何やら賑やかな声が聞こえてきた。


「ぜーむーとーどーしゅー ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー」

 小傘の淡い期待は幻ではなかった。ぬえの先導で境内を行く二人が聞いた声、それは紛れもなく幽谷響子の読経(?)であった。

「響子ちゃんからは、私達が分からないんだね」
「そう、響子は私達を“そこにあって然るべき何か”としか思わない。以前飛倉の破片を見た凶悪巫女が未確認素敵物体と勘違いしたようにね」
「UFOってやつ?」
「まあそんなもん」
「ああ、青娥と前に食べた焼きそばの」
「いやそれ違う」
「とにかく、こういう具合に見ていくわけ。静かに、ただ見る。背景に徹する気分でね」
「私はいいけど、芳香が静かにできるかな」
「私はやればできる子って言われて久しいんだ。静かにするのなんて簡単だぞ」
「そいつは頼もしい。もうすぐ皆来ると思うから、とりあえずここで待機してよう」

 ぬえはそう言って境内の隅の方に歩いていく。
 誰が、何をしに来るんだろう。そんなことを考えながら小傘達は彼女に続く。
 途中で響子の脇をすり抜けると、何も知らない彼女は読経を満足げに終え、シャウトの方向を調整することにより騒音を出さないサイレント・ヘドバンに移行していた。白蓮の愛ある“滅っ”を受けずに鳥獣伎楽を続けていくための努力の賜物である。

 いつもニコニコしてるけど、色々たまってるんだなあ。でも発散できる場所があるっていうのはいいことだね。
 頭を激しく振り乱す響子を横目で見ながらそんなことを思いつつ、小傘はぬえ、芳香とともに境内の隅へ向かう。

「よし、この辺でいいや。あとはもう少し待てば……ああ、来た来た」

 ぬえがそう言うのとほぼ同時に、響子が急にサイレント・ヘドバンを止めた。
 まるで何かを本能的に感じ取ったかのような急停止の後、彼女は普段通りに般若心経を口ずさみだす。
 小傘には何が起こったのか分からなかったが、本堂の方からこちらへやって来る人影を見て響子の奇行が理解できた。
 柔らかな微笑みを浮かべてやって来たのは寺の住職・聖白蓮だったのだ。


「おはよーございます!」
「おはよう、響子ちゃん。今日はずいぶん早いのね」
「お祭りの準備をするって聞きましたから、その前に掃除を終わらせちゃおうと思ったんです。境内で準備するのに、そこが掃除されてないままじゃよくないと思って」
「ふふ、ありがとう。じゃあ、二人でぱっと終わらせちゃいましょうか」
「はい!」

 元気よく返事をする響子に、それを見て微笑む白蓮。笑顔の二人を見て自身もうっすら笑みを浮かべながら、小傘はぬえに訊ねる。

「お祭りがあるの?」
「二日後なんだけど、境内の山門に近い側を露店とかのために開放するでしょ? 露店をやる人達はそれぞれ別に色々準備があるだろうから、スペースの区分けとかこっちでできる準備は先にやっておこうって話になったんだ。朝なら参拝する人の邪魔にもならないから丁度いいって、白蓮が」
「でも、ずいぶん早くない? まだ日が昇ったばっかりなのに」
「予定ではもう少しゆっくり始めるはずだよ。でも、皆勝手に早く来ちゃうのさ。少しでも仲間にかける負担を減らそうとしてね」
「だから、響子ちゃんはいつもよりも早く掃除に出てたんだ」
「そういうこと。ほら、次のメンバーが来たよ」

 ぬえに言われて見てみると、本堂の方に大小二つの人影が見えた。
 こちらへやって来たその人影は白蓮達を見つけると少し申し訳なさそうに言う。

「おはようございます聖。もういらしてたんですか、ええと……私達、遅刻しちゃいました?」
「おはよう星、まだ予定の時間にはなってないから平気よ」
「そうですか、それはよかった。しかし聖はこんなに早くいらっしゃらなくてもよかったのに」
「私だってあなたと同じ気持ちなのよ。皆が大変な思いをできるだけしないですむように、早く起きて来たの。ナズちゃんもありがとうね、手伝いに来てくれて」
「ご主人様に頼まれたから来ただけだ。祭に参加するのも毘沙門代理としての立派な務めだからね」
「ふふ、星のお願いなら何でも聞いてくれるのね」
「ええ、本当に私にはもったいない宝物ですよ」
「おい、恥ずかしいことを言ってくれるな」
「恥ずかしくなんてありませんよ、私はあなたのことをずっと大切に」
「分かった、分かったから! まったく……それより早く段取りに入ろう。私は早く終わらせて、もう一度ゆっくり寝たいんだ」

 少し頬を染めたナズーリンはそう突き放すように言う。

「ナズーリン、照れてるね」
「うんうん、あいつも意地張ってないで寺で暮らせばいいのにねえ」
「そもそもなんで一人暮らししてるのかな」
「馴れ合いの関係にはなりたくない、とか言ってたけど本当のところはどうなんだか。まあ本人にしか分かんないことも色々あるんじゃないの?」

 適当そうな口調でそう言いながらぬえは白蓮達に目を向ける。
 どうやら掃除は終わったらしく、四人は境内の略図を見ながら区分けについて話しているようだ。

「このお店はけっこう場所が必要そうね」
「こちらは店自体のスペースは要らないでしょうが、荷物でかなり場所を取りそうですね」
「場所を取るものを先に配置し残った隙間に順次振り分けていく、という方法はどうだろう」
「そうですね。後から場所を取る店を配置することはできませんし」
「あと、お店の系統も考えたほうがいいと思います。お酒を出す場所と子供達の遊び場が近いと余計な問題が起こりそうですし」
「そうね。大人のエリアはある程度まとめてしまったほうがいいかもね」

 略図を見ながらあれこれと話す白蓮達。
 意見を出し合った結果、数分間でだいたいの区割りを完了することができた。

「これで全部かしら」
「ええ。予備のスペースも用意できましたし、これで完了ですね」
「あとは図面通りに割り振るだけか。まあ、ここからが本番だが」
「地ならしとかもするんですか?」
「まあ、一応ね。砂利が多いから完全にはならさなくていいんだけど……」
「……力仕事、ですねえ」
「聖ーーっ!!」

 不意に本堂の方で上がった叫び声が、小傘達三人を含めこの場にいた全員の視線を奪う。
 声の主である二つの人影は白蓮達の下へと駆け寄ると、星と同じく申し訳なさそうな顔をした。

「遅れてすいません! まだ仕事、残ってますか?」
「大丈夫、まだ遅刻じゃないわよ村紗。区分けが一通り終わったから、あとはそれに従って境内を区切るだけね」
「なんとか間に合ったみたいですね。よかったー」
「村紗がスープカレーに妙な拘りを持つから遅くなったのよ」
「いやいや一輪さんよ、夏の暑さに対抗するにはちゃんとしたものを食べないといかんでしょ」
「あら、朝食の準備をしてくれてたのね。二人ともご苦労様」
「姐さんにそう言ってもらえるとうれしいわ。きっと皆予定の時間よりも早く集まるだろうから、その間に準備をしておけば終わってすぐご飯にできるかなと思ったの。同じことを考えた村紗と台所で合流して二人で作ってたんだけど、急に『このスープカレーは出来そこないだ、食べられないよ』とか言い出して……」
「中途半端な出来にはしたくなかったんだもん。まあ、確かにちょっと遅くなっちゃったけどさ」
「誰も『このスープカレーを作ったのは誰だあっ!!』なんて言わないだろうに」
「まあまあ、よりおいしい物を求めるのは生き物としての本能ですよじゅるり」

 よだれを垂らしそうになる星を見てナズーリンが大きく溜息を吐く。そんな二人を見て笑みを零した白蓮は、自身を囲む仲間達に優しく声をかけた。

「さあ、もう一息頑張りましょう! おいしい朝食が待ってるわよ」
「よっし、遅れた分はしっかり働かないと!」
「そんなに気を張らなくてもいいんですよ。二人は朝食を作ってくれたんですから」
「それに、こういう仕事は人手が多い方がいい。一人で無理をするよりも効率的だよ」
「そうよ、無理なんてしなくていいの。皆で協力して、ぱぱっと終わらせちゃいましょう」

 白蓮の号令に続き、仲間達は道具を取りに物置へと歩き出す。
 仲間を思い、自ら動いた命蓮寺の面々。仲間の笑顔のため、彼女達はそれぞれ自分のやり方で“何か”をしていた。
 小傘に答える時以外ぬえは白蓮達を静かに見守っていたが、仲間達が物置に向かうのを見届けた後で満足げに「うん」と頷く。仲間達が想定通りに動いてくれて彼女もほっとしていたのだ。

 ぬえが芳香に見せたかったものは、協力し合う命蓮寺の仲間達の姿だった。ぬえの様子からそう判断した小傘はぬえに向かって微笑むが、芳香は依然として口をぽかんと開けたままだ。

「芳香、分かった?」
「……」
「ねえ、聞いてるの?」
「まさか、声を出さないように我慢してる?」

 ぬえの問いにただ黙って首を縦に振る芳香。小傘にも頷いてみせるのは、ちゃんと話を聞いていたというアピールなのだろう。
 彼女の馬鹿正直さに溜息を吐きつつ、ぬえは続けて言った。

「もういいよ、皆離れたから」
「おお、そうか。ほらな、ちゃんと静かにできただろう?」
「確かに黙っていられたのは認めるけど、ちゃんと見てたの? ぬえちゃんが何を見せたかったのか分かった?」
「仲間の負担を減らそうと皆が早起きしたから、お祭りの準備が早く終わりそう。そういうことだな」
「まあ、かいつまんで言えばそうだね。それで芳香、あんたは白蓮達を見て何を思った?」
「うーん……仲が良さそうだな、とか」

 要領を得ない芳香の答えにぬえは少し顔をしかめた。
 できるだけ分かりやすく、核心を突こう。そう自身に言い聞かせながら彼女は再び訊ねる。

「ちょっと難しかったかな……仲間のために早起きする。率先して仕事をこなす。こういうのが“誰かのためにする何か”に当てはまるのは分かる?」
「うん」
「それをしてもらった時、皆の顔はどうだった? した方もされた方も、皆笑顔だったでしょ」
「そうだな。すごくうれしそうな気がしたぞ」

 芳香がそう笑みを浮かべて言ったのを確認して、ぬえは一歩彼女に近づく。
 より落ち着いた口調で、彼女は芳香に語りかける。

「よし、じゃあ話を切り替えるよ。芳香、家出をしようと決めた時にあんたは青娥のことをちゃんと考えた?」
「考えたぞ。私は青娥のために」
「じゃあ、その時の青娥はどんな顔してた? 頭の中の青娥は、うれしそうに笑ってたか?」
「ん……どう、かな」
「もう一つ聞くよ。もしも、急に青娥があんたの目の前から消えたらどう思う?」
「嫌だ! 青娥がいなくなるなんて絶対嫌だ!」
「そうだよね。大切な人がいなくなるのは誰だって嫌さ。じゃあ、大切なあんたが目の前から消えてしまった時、青娥はどう思ったんだろうね」
「え? あ……」

 自らの浅はかな過ちに気がついた芳香は言葉を失ったかのように黙り込んだ。
 緩みがちな口元は引き攣るように震え、伸ばしていた腕もだらんと下ろしている。明るい印象を持たれやすい彼女にしては珍しく落ち込んでしまったようだ。

「芳香、あんたは少し急ぎ過ぎたんだよ。青娥のことや役に立つ方法のこと、一度立ち止まってもっとよく考えてみるべきだった。焦って行動したりするから、青娥を悲しませたりしちゃうんだよ」
「青娥……私は……」
「気持ちは分かるんだけどね。自分がいいと思ったことをすぐ実行したくなるっていうのはよく分かる。でも、思慮の浅い行動ってのはたいていいい結果に結びつかないもんだよ。家出なんて問題外、やった側もやられた側も傷つくような行為なんて絶対しちゃ駄目だ」
「私のせいで、青娥は嫌な思いをしたんだな……」
「あー……まあ、私もこんなこと言える立場じゃないんだけどね。昔は散々好き勝手やってきたし、何度も酷い目に遭ってるし。帝をからかってやろうとした時なんかちょっと騒いだだけで退治されちゃうんだもん、どういうことなの……って感じよ」

 泣きそうになっている芳香に気を遣ったのだろう、ぬえは真面目な口調を止めておどけてみせる。しかし、全てを否定されたに等しい芳香はそれに反応することもできない。

 自分が何とかしないと。
 俯く芳香の姿を見た小傘の胸に熱い想いが湧き上がる。
 芳香の抱えた問題を他人任せにしてしまったことを彼女は悔やんでいたのだ。
 芳香の肩にそっと手をやり、静かに励ますような口調で小傘は言う。

「芳香、落ち込んだって仕方ないよ。ううん、落ち込んでる場合じゃないの。あんたが青娥さんにしたこと、謝りに行かなきゃ」
「でも、許してもらえるかな……青娥に、ひどいことしたのに……」
「大丈夫だよ。芳香の気持ち、青娥さんならきっと分かってくれるもん」
「私の、気持ち?」
「芳香が青娥さんの役に立ちたいと思った気持ちは本物でしょ? やり方は間違っちゃったけど、あんたは青娥さんのために真剣だった。それなら仕方ないなって、きっと言ってくれるよ」
「本当に?」
「うん! ベビーシッターやってて分かったけど、子供を一番に思ってない親なんていないもの。ちょっとは叱られるだろうし泣かれるかもしれないけど、最後は笑ってくれるよ」
「青娥……私、帰らないと」
「そうだね。心配だから私もついていってあげるよ」
「ふむふむ、どうやら一件落着かの」

 後ろの茂みから聞こえた声に三人が振り返る。その姿を見た瞬間、ぬえは少し悔しそうに顔をしかめた。

「あちゃー、やっぱマミゾウには効かないかぁ」
「当たり前じゃ、おぬしの子供だましが長い付き合いの儂に効くはずなかろう」
「いつから見てたんですか?」
「ぬえがご高説を披露し始めた頃かの。だいたい事情は呑み込めたから、うまくいかんようなら儂が出ていこうかと思って見とったんじゃよ」
「狸のおばちゃんも、お寺の手伝いなのか?」
「ああ、こういう時に働かんと皆に悪いからの。しかし狸のおばちゃんはあんまりじゃろ……」

 芳香が不用意に放った言葉は、マミゾウの心に深く突き刺さっていた。
 心に消えない傷ができた彼女はがっくりと肩を落とし、渇いた笑みを浮かべている。
 彼女に自分の能力を見破られたのが悔しいぬえは、その様子を見た瞬間ここぞとばかりに黒い笑みを浮かべて言った。

「はっはっは、そのくらいで落ち込んでるんじゃないよ狸ババア」
「ほう、言うじゃないか。しかし悪ガキのお主があんなことを言うとはのう。昨夜呑み過ぎたんじゃないのか? あの狐や鬼との宴では呑まされるのも分かるが」
「うっさい、私だって色々考えてるのよ。でも、やっぱり命蓮寺に来たのが大きいかな。昔の好き勝手やってた頃を反省したり、大分丸くなったと思うわ」
「長かった反抗期もいよいよ終わりかの」
「誰が永遠の中二病だ! アンディファインドダークネスなめんなよコラ!」
「そこまでは言っとらんが、やはりそっちは治ってないみたいじゃな」

 食って掛かるぬえと、それを軽くあしらうマミゾウ。じゃれ合うような二人を見て、小傘は不思議な気持ちになっていた。

 子供っぽいところもあるけど、私なんかより色々なことをいっぱい知ってる。白蓮さんみたいに丁寧に教えてくれるわけでもないのに、大事なことをちゃんと伝えてくれる。さすがはびっくり師匠だね。
 改めてぬえに尊敬の念を抱きつつ、小傘は微笑む。

「とにかく、芳香がしたことを正せたのはぬえちゃんのおかげだよね」
「いやあ、小傘のフォローがあって大分助かったけどね。私だけじゃ落ち込んだ芳香を元気づけてやれなかったと思うよ」
「芳香、大丈夫? これからどうしたらいいか分かる?」
「ああ。私がやったことは間違いで、青娥に謝らまきゃいけない。だから、急いで家に帰るぞ」
「よしよし、これで一安心。それじゃあ私達も手伝いに行きますか」
「そうじゃな、まだやることはあるようじゃし」
「小傘、芳香をよろしくね」
「うん、ぬえちゃんも頑張って!」

 そう笑顔で言う小傘に微笑み、ぬえはマミゾウとともに奥の物置の方へと歩いていく。
 ぬえちゃんのおかげで芳香を説得できた。後のことは、全部私が引き受けよう。
 そんなことを思いつつ二人を見送る小傘。一度は萎みかかっていた彼女のベビーシッター魂に再び火が灯る。

 とはいえ、芳香を住まいである霊廟まで送り届けるのはそう簡単なことではない。
 神子達の住む仙界は、道士しか開けられない物の隙間に存在している。その開けることのできない扉をくぐっていく他に、芳香を帰してやる方法はないのだ。
 アプローチのできない場所に辿り着くなどナンセンス、小傘にしてみれば「演出効果の手助けなしで出会い頭の十人全員を完璧に驚かせてみせろ」くらいに無茶な注文である。

「さて、どうやって帰るか……そういえば、こっちに来るときはどうやって来たの?」
「私が前に守ってた場所から奥に進むと、霊廟が埋まってた所に着くんだ。そこはまだ仙界との繋がりが完全には切れてないみたいで、あっちからこっちへは通れたりする。でも、こっちからあっちへはどうだろうなあ」
「仙界からは来られるけど、戻る道も開いてるかどうか分からないってわけか。迷ってても仕方ないし、そこに行ってみようか」
「うむ、こっちからも通れるかもしれないからな。よーし、行くぞー」

 間延びした掛け声を上げつつ芳香は向きを変える。
 能天気な彼女に影響されたか、先程までは気を張っていた小傘もそう悲観的な気分にはならなかった。
 まあ、なんとかなるでしょ。そんな適度に抜けた思いを胸に、二人は山門へ進む。
 正体不明の種を外し、門を目指して石畳を行く。

 そうして立派な門構えが視界に入ってきた頃、不意に前方から誰かの声が聞こえた。

「秘技・どこでも出口! これが道の力です!」

 突然聞こえた第三者の声に小傘は驚いて視線を向ける。
 声のした方向を彼女の目が捉えた瞬間、視線の先の石畳が豪快に跳ね上がった。



「やあ、こんにちは……いやおはようございます、ですね。しかし、私の出る幕はなさそうで助かりました」

 石畳を押しのけるようにして現れたミコえもん、もとい豊聡耳神子はおどけた調子でそう言いながら微笑む。
 跳ね上がった髪を揺らして外に出た彼女は、自身が出てきた隙間に手を差し伸べると静かに誰かを引き上げる。
 石畳の下から現れたもう一人。それはやはりというべきか、霍青娥その人だった。

「せ、青娥……あ、あの、私……」

 突然の対面に驚いたせいか、芳香は言いたいことをまとめられずにいる。一方青娥もショックから立ち直れていないようで、何も言おうとはせず俯いたままだ。
 芳香がいなくなったことで青娥が受けた衝撃は計り知れない。神子がおどけてみせたのは、彼女を少しでも話しやすい状態に持っていこうという神子なりの配慮だったのだろう。
 二人とも話せる雰囲気じゃない、ここは一度間をおこう。芳香の様子を見てそう判断した小傘は優しい微笑みを浮かべる神子に訊ねつつ、彼女に目配せする。

「ええと、どうしてこの場所が分かったんですか?」
「簡単だよ。芳香の居場所をサーチして、そこに出口を繋げたのです」
「そんな某青狸の某ひみつ道具のようなことを簡単に、ですか」
「まあ、一応道を学んだ聖人ですからねえ。しかしびっくりしたよ、朝起きたら青娥も芳香もいないんだから。事情も分からないのでひとまず青娥を探して追い、その後こうして芳香の所へやって来たというわけです」

 神子はそう眉を寄せて言う。小傘の合図に気づいた彼女は笑顔のまま芳香を一瞥し、多少落ち着いてきたのを確認する。
 今なら二人とも話ができるだろう。そう判断した神子は、より静かな口調で芳香に向けて言った。

「青娥、泣いていましたよ」
「……私が、いなくなったから?」
「ええ。いつもの姿からは想像もできないくらいに取り乱していました。『大切なあの子を失ったら、私は生きていけない』と、必死に君を探していましたよ。いなくなったのが相当ショックだったんでしょう、靴も履かずにね」

 神子の言葉を聞いた小傘は視線を青娥の足元に落とす。彼女の白く美しい足は、土や泥で汚れてしまっていた。

「ごめんなさい、青娥。私、自分がどれだけ青娥の役に立ててるか知りたかったんだ。いなくなった私を探してくれたら、青娥が私を大切にしてくれてることが分かると思って、それで……」

 一言ずつ、噛みしめるように。
 思いを絞り出すように芳香はゆっくりと語り出したが、うまく言葉にできないのかやがて何も言えなくなってしまった。

 想いが溢れてまとめきれなくなっている。芳香の泣き出しそうな顔を見た瞬間、小傘のベビーシッターとしての勘がそう告げる。
 概して、子供は言いたいことをまとめるのがうまくない。様々な点で未熟な子供達にとって、何かを伝えるというのはそう容易いことではない。ましてそれが溢れ返るほどの強い想いであれば尚更だ。

 芳香の心にある、確かな想い。それを伝える手助けがしたい。
 そんな思いに駆られた小傘は、意を決して口を開いた。


「一生懸命だったんです」
「えっ?」

 小傘が割って入ったのが相当意外だったのか、ずっと俯いたままだった青娥が驚いたように顔を上げた。
 彼女を動かせたことに手応えを感じつつ、小傘は続ける。

「芳香は、一生懸命考えたんです。どうしたら青娥さんの役に立てるのかを」
「私の、役に……」
「芳香は現状に満足してないんです。もっともっと、青娥さんを支えられるようになりたいんです。以前、芳香がもっと役に立つにはどうしたらいいか聞いてきたでしょう?」
「ええ。この子に無理をさせたくなかったから、もう十分役に立てていると答えたけれど……その答えじゃ、芳香は満足できなかったのね」
「うん。私は青娥に喜んでほしいんだ。だから、“もう十分”なんて言ってほしくなかった。今の私にできることを考えてみたけどよく分からなくて、せめて青娥に大切にしてもらえてるのか知りたくて……」
「いなくなって、私が探しに来てくれるか試した。そう、そういうことだったの……」

 青娥は感慨深そうにそう呟く。芳香を見つめるその瞳は優しい輝きを帯びていた。
 ふう、と一つ大きな溜息を吐いて、彼女は言う。
 先程の暗い表情とは正反対の、満面の笑みを浮かべながら。

「なら、私は笑ってあなたを迎えなきゃね」
「青娥……じゃあ、怒ってないのか?」
「はじめから怒ってなんかないわよ。確かにあなたがいなくなっちゃうんじゃないかと思った時は言い表せないくらい苦しかったけど、こうしてあなたと再び会えた今ではその苦しみも過去のもの。もう、そんなことはどうでもいいの。
 私はね芳香、とても嬉しいのよ。あなたが自分で考えて行動したということが、私はたまらなく嬉しいの。まあ、やり方は間違っちゃったけどね」
「青娥……せいがぁ」

 力なく前に飛び跳ねた芳香を青娥が優しく抱きとめる。
 温かな微笑みを浮かべて頭を撫でる彼女の胸で、ついに芳香は泣き出した。

「せいがぁ、ごめんなさいぃ」
「いいのよ、謝る必要なんてないわ。よしよし、泣かないで芳香」
「せいが、せいがぁ」

 宥めれば宥めるほどに芳香の瞳から涙が溢れ出す。今までせき止められていた彼女の想いが、雫となって流れていく。
 泣きじゃくるキョンシー、髪を撫でる慈愛に満ちた邪仙。
 珍しい光景を目にしながら、小傘は小さくガッツポーズをした。ベビーシッター小傘、無事に任務完了である。


「君のおかげですね、色々と助かりました」

 小傘の方にそっと寄りながら神子が言う。ほとんど初対面の相手に礼を言われた小傘は少し恥ずかしそうに頬を掻きつつ答えた。

「いえ、そんなことないですよ。神子さんがいなければ青娥さんと芳香は会えてませんし、二人はすれ違ったままでしょう」
「そうかもしれないが、二人の心を動かしたのは君だよ。君が芳香を導いてくれたから、話しやすい空気を作ってくれたから、二人は今こうして分かり合えたのです。お手柄ですよ、多々良小傘さん」
「へへ、そうかなあ……あれ、なんで私のことを?」
「君は有名ですから。不審者扱いされたり大変ですね」
「やっぱり、まだそんな噂されてるんですね……」
「まあ噂ですし、そう気にしないことですよ。それとも、本当に子供を攫ったりしてるのかな?」

 そう言ってニヤリと笑って見せる神子。もちろん冗談だが、それほど面識のない彼女にまで弄られるほど噂が一人歩きしている現状に小傘は苦笑いを浮かべる。

「はは、まあいいでしょう。さて、経験則ではそろそろ……ああ、やっぱり」
「小傘ー!!」

 神子が視線を小傘から移したのとほぼ同時に、芳香の元気な大声が響く。
 うれしそうに飛び跳ねる芳香は小傘の前に着地すると、満面の笑みを浮かべて言った。

「ありがとう! 私が間違いに気づけたのも、青娥にちゃんと謝れたのも、何もかもお前のおかげだ!」
「いや、私自身は結局何もできなかったんだよ。芳香に間違いを説明してくれたのはぬえちゃんだし、青娥さんと一緒に来てくれたのは神子さんだもの」
「いいえ、あなたが果たしてくれた役割は大きいわ。芳香から聞いたわよ、もし墓場であなたと会ってなかったらこうはなってなかったってね」
「それはそうだけど……」
「こういう時は、素直に喜んでおくものです。“誰かの役に立ててよかった”とね」
「誰かの役に、か……」

 神子の言葉を噛みしめるように小傘は呟く。

 誰かの役に立ち、相手を笑顔にする。小傘が意図せずに成し遂げた行為は、彼女が生き様として掲げている目標そのものだった。
 元道具である付喪神が、人間に使ってもらわないでどうする。そう考えた小傘はベビーシッターなどの“新たな道具の在り方”を模索していた。人に使われ笑顔になってもらうこと、それが付喪神にとって何よりの幸せだと彼女は考えたのだ。
 結局彼女の頑張りは人々に認められないまま不審者扱いされてしまったが、この努力は無駄ではなかった。その経験を通して身についた世話焼きの気質が、他人を喜ばせるという彼女の目標を達成させたのだから。

 変わろうとしたことは無駄じゃなかった。変な噂をされたけど、あの経験も無意味なものじゃなかったんだ。
 本懐を遂げることのできた小傘は、里での下積みをしみじみと思い出しながらにっこりと微笑む。

「まあ、そうしておこうかな」
「うむ。さて、我々はそろそろ帰るとしますかね」
「そうですね。布都様と屠自古様がお腹を空かせているでしょう」
「うう、なんだか私もお腹が減ってきちゃった」
「まあ、芳香ったら。では豊聡耳様、出口お願いできます?」
「ええ。それでは……みこたんアウトするお!!」

 掛け声がないと発動できないのだろうか、神子は謎の奇声を上げながら石畳をぐるっと翻す。できた隙間を確認した後で、彼女は声に驚いて固まった小傘に言う。

「小傘さん、今回は本当にありがとうございました。今度迎えに来ますから、是非一度我が屋敷においでください」
「えっ、あ、いえそんな、私こそありがとうございました。楽しみにしてますね」
「ありがとう、小傘ちゃん。これからも芳香のいいお友達でいてね」
「ええと……友達、だったかなあ?」
「何を言う、私達は最高の親友じゃないか! また遊びに行くぞ小傘、もちろん青娥に話をしてからな。そうだ、今度は青娥と一緒に行くよ」
「いや、だから……まあいいや、来なよ。その時は思う存分驚かせてやるんだから!」
「おう、楽しみにしてるぞ! それじゃあまたなー小傘ー!」

 間延びした声を残して芳香が隙間に消える。騒がしかった命蓮寺の山門前が、いつもの静寂に包まれていく。
 一人残された小傘はふうっ、と大きく息を吐くと、誰にともなく微笑んだ。

 随分騒がしい夜だった。でも、皆を笑顔に出来てよかったな。
 やっぱり、世話を焼けば喜んでくれるんだ。これからもベビーシッターは続けよう。雨にも負けず風にも負けず。東に泣いている子がいれば威かしてあやし、西に笑っている子がいれば威かして泣かす。そんな化け傘に、私はなろう。

 自慢の茄子傘を楽しそうに揺らしながら、小傘は境内を引き返す。
 お寺の手伝いをして、朝ご飯に混ぜてもらって。色々あって疲れたから、帰ったら少し眠ろう。
 そんなことを考えながら小傘は本堂の方へと歩き出す。
 爽やかな朝日に照らされた境内を行く彼女の表情は、燦々と輝く太陽のような満面の笑みであった。



   *   *   *



「大変な一日だったわね。尤も、今日はまだ始まったばかりだけど」

 仙界にある神子の屋敷。その一室、自身の部屋に戻った青娥は柔らかな口調でそう芳香に声をかける。
 普段の芳香なら青娥の声に笑顔で答えただろうが、この日ばかりはそうもいかない。木に寄りかかり仮眠を取っただけの彼女はとても眠そうに目を擦り、「うん、そうだな」と適当な返事をする。いくらキョンシーといえど睡眠不足は堪えるようだ。

「あら、やっぱり眠いのね。もうすぐ朝ご飯だけどどうする?」
「うー……寝ちゃおうかな。なんだかすごく眠いから」
「それじゃ、一緒に寝ちゃいましょうか」

 青娥はそう言うと部屋の奥へ向かう。寝惚け眼の芳香が後に続くと、彼女は寝室の布団を整えていた。

「さあ芳香、いらっしゃい」

 布団の上に座り自身の膝をポンポンと叩く青娥。それに応えるように芳香は横になり、頭を青娥の膝に乗せた。

「んん、やっぱり青娥の膝枕はいいなあ……あれ、これじゃ青娥が寝られないんじゃないか?」
「いいのよ、私はあなたの寝顔を見ていたいの。適当な時に私も寝るから気にしないで」
「そうか。ならいいけど……ふああ」

 眠そうにあくびをする芳香。彼女の髪を撫でながら青娥は優しく言う。

「ふふ、相当眠いのね。おやすみなさい、芳香」
「うん、おやすみ青娥……」

 ほんの数秒で芳香は寝息を立て始めた。穏やかな寝顔を眺めながら青娥は微笑む。
 青娥はしばらく子を眺める親のような視線を注いでいたが、芳香の寝息が深く静かになってきたのを見計らって顔を上げた。
 誰かの視線を感じた彼女は入口の襖の方を一瞥し、声をかける。
 尤も、それが誰なのか見当はついていたが。

「そろそろ姿を現してもいいのでは? 豊聡耳様」

 毒のある口調で青娥がそう言うと、直後に襖を開ける音が二度した。一度目は部屋の入口、次は寝室との仕切りだ。

「やはり気づかれましたか。相変わらず鋭いですね」
「豊聡耳様こそ、昔から変わりませんね。こそこそと陰で覗くのは失礼ですわ」
「こそこそするのは君もでしょう。姿を見せようとしない分、余程性質が悪いですよ」
「あら、姿を見せないのなら何故私がそんなことをしていると分かるんです?」

 神子の言葉に冗談を返す青娥。
 何をする時も、膝の上の芳香を撫でることは忘れない。
 マイペースな彼女に笑みを零しつつ神子は答える。

「確かに、それじゃ分かりませんね。分からないことだらけですよ、君のことは。君自身のことも、大切な芳香のことも」

 神子の言葉を聞いた瞬間、青娥の手がぴたりと止まる。
 けれどもそれは一瞬で、すぐに再び芳香の髪を撫でながら青娥は言う。

「芳香のことですか……私も驚きました、まさか家出するなんて」
「それはそうだが、私が聞きたいのはそんなことじゃない。どうして、君は小傘さんの説明を受けた時に妙な顔をしたんです? まるで、一瞬のうちに心の中で葛藤が繰り広げられたかのような複雑な表情をして、しかし次の瞬間には満面の笑みを浮かべていた。表情から察するにそう簡単に解決する程度の葛藤ではなかったでしょうに。いったい、君と芳香の間には何があるんですか?」

 神子の顔からは微笑みが消え、真剣な眼差しが青娥を捉えていた。
 ああ、この人には隠し事なんて無意味だったか。
 鋭く柔らかな瞳を見て青娥はそんなことを思う。
 小さく息を吐いた後、彼女は静かに話し始めた。


「人の記憶は、どこに属するかご存じですか?」
「記憶……月並みですが脳、でしょうか」
「まあ、夢のないお答え。正解、というか限りなく正解に近い仮説は魂に宿るというものです。生き物が死ぬ時を考えてみてください、死んで魂が抜けると後には死体しか残らないでしょう?」
「む、確かに。なら死体に新たな魂を吹き込むキョンシーは……」
「ええ。ご察しの通り、キョンシーには過去の記憶がありません。術者は新たな魂を用意し、死体に入れる。つまり、死ぬ前と後では姿こそ同じでも中身はまったく違うわけです」

 感情が存在していないかのように、淡々と青娥は語る。
 畳の上に座った神子は思わず視線を彼女の膝、静かに眠る芳香へと向ける。

「君達にかつて何があったのかは聞きませんが……しかし、今の芳香は生前の彼女とは違う人格だということですね」
「ええ。私はできるだけ彼女の自由にしてやりたくて、色々なことを教えました。生前ずっと私を支えてくれたこの子を、ただ命令を聞くだけの道具になんてしたくなかったから」
「けれど、キョンシーには限界がある。生前と同じように君を支えていくことはできない」
「そうです。私はそれでいいと思っていました。少し間の抜けたかわいい笑顔で、一生懸命頑張る芳香。昔の彼女とは違っても、それでいいんだと思っていました」
「いました、というのは?」
「芳香の言葉を聞いた時、私の認識が間違っていたことに気づいたんです。かつての芳香は何もかも消えてしまったと私はずっと考えていたんですが、どうもその……ごめんなさい」

 青娥の声はいつしか震えていた。
 先程無感情のように淡々としていたのも、感情を押し殺していたからなのだろう。
 瞳には雫が溜まっているが、その表情は悲しみに染まらず寧ろ明るくさえ見える。

 膝の上の芳香を起こしてしまえば、彼女は必ず青娥を心配する。芳香にこれ以上負担をかけたくない青娥は細心の注意を払いつつ涙を拭う。
 ゆっくりと息を整えた後で、青娥は再び静かに口を開いた。

「私には、芳香の想いがまだ完全には消えていないように思えるんです」
「想いが? しかし魂が記憶を持っていってしまうなら、想いの居場所もなくなってしまうのでは?」
「全ての想いが消えてしまうわけではないんです。その人が一生を懸けるような強い想いは、死してなお身体に残り続けることがあるんですよ」
「一生を懸けるような、ですか」
「キョンシーは札を剥がされると生前と似た行動を取り始めます。その元となっているのが、身体に残されたかつての記憶なんですよ。この子の場合はよく詩を詠っていますね、とても素敵な昔の詩を」

 昔を思い出しているのか、そう語る青娥の目は感慨深そうに遠くを見つめていた。
 いつも感情を表に出すことのない彼女の意外な一面を見た神子は驚きを隠せずに訊ねる。

「君も昔を想うことがあるんですね」
「私にだって郷愁の感情はありますわ。もう一度逢いたい人も、戻りたい日々もね」

 そう言って青娥が微笑んだのを見て、神子は軽はずみな自身の言動を後悔した。
 いかに邪仙と呼ばれる彼女とて元は人間、戻りたい過去もあるだろう。過去に触れられたくないのは誰しも同じ、青娥も当然その話をされて嫌な気持ちにならないはずがない。
 こんなことを聞くべきではないことくらい、普段の神子ならば分かっているはずだった。彼女が判断を誤るくらいに、青娥の感情豊かな瞳は珍しいものだったのだ。

「すみません、軽率でした」
「気にしないでください豊聡耳様。だって、私の逢いたい人は今もここにいるんですから」

 青娥は芳香を見つめながらそう語る。彼女の言わんとすることを読み切れない神子は怪訝そうな顔で訊ねた。

「芳香が、逢いたい人? しかし君も言ったじゃないですか、芳香はもうかつての芳香ではないんだと」
「ええ、確かにこの子はもうあの頃の芳香ではありません。でも、変わってないんですよ。彼女の根っこ、私を支えようとしてくれる彼女の強い想いはね」
「強い想い……それが、芳香の消えていない想いというやつですか」
「ええ。この子はいつだって私を支えようと無茶ばかりするんです。無理な修業をして命を落としたり、役に立つ方法を考えた挙句家出をしてしまったり」
「なるほど、確かに無茶苦茶ですね」

 神子は敢えて曖昧な返事をした。先程の反省もあり、二人の過去には触れないようにしようと考えていたからだ。
 神子のそんな思いに気づいているのか、青娥は軽く笑みを浮かべて続ける。

「そうでしょう? それに、芳香は自分で私の役に立とうと考えたんです。今までは指示を出してそれをこなすのが精一杯だったこの子が、自分で考えて行動したんですよ。私を支えようとする強い想いがない限りそんなことはできないはず。それこそ、肉体に残る心がない限りは」
「そういうことでしたか……芳香の話を聞いて、それに気づいたんですね」
「ええ。今朝芳香の言葉で伝えられるまで、私は昔の芳香と今の芳香は完全に別の存在だと思っていました。昔の芳香はもういない、だから彼女の分も今の芳香を大切にしようって、ずっと思ってきました。
 でも、彼女はずっとここにいたんですよ。今も昔も、芳香は私を支えようと一生懸命になってくれる。それが分かった瞬間、彼女がいなくなった時の悲しみや自分への憤りなんて吹き飛んでしまいました。芳香がいつも変わらずいてくれる、それが何よりの幸せなんだと改めて思ったんです」

 そう言って青娥は満面の笑みを浮かべる。瞳に浮かぶ雫は、彼女の喜びの証だ。
 輝くような笑顔を見て安心した神子は、溜息を吐きながら体勢を崩し後ろに手をついた。

「どうやら、心配は無用だったようですね」
「あら、私のことを心配なさってくれたんですか」
「どちらかというと芳香を、ですね。君は何があっても好き勝手やって生きていけるだろうけど、芳香はまだそこまで強い心を持っているわけじゃない。二人の間に何かあったら、傷つくのは彼女でしょう」
「まあひどい! 繊細な私は傷ついてしまいますわ」
「大丈夫、君の心は形状記憶で……いや、形を留めていられるほど落ち着きはありませんね……トポロジー的ななにかですか。そう、分かりにくいところもそっくりです」
「位相幾何学でしたら日が暮れるまででも足りないくらいはお話しできますが……?」
「ああいや、また今度の機会ということで。それじゃ、私は行きますよ。朝ご飯のことは二人に言っておきますから、ゆっくり休んでおくといい」

 そう言いながら神子は立ち上がる。
 笑みを浮かべる彼女を目で追いながら、青娥はにこやかに言う。

「ええ。お気遣いありがとうございます、豊聡耳様」

 青娥の声に頷くと、神子は静かに部屋を出ていった。
 二人の小声が無くなった寝室に、再び芳香の小さな寝息が戻ってくる。


「……ほんと、無茶ばかりする子ね。『一人で永い時を過ごすのは退屈だろうから、自分も仙人になって付き合う』なんて言っておいて無理して中毒死したり、『今の自分にできることを考えた』結果家出をしてみたり。いつだって、私を心配させるんだから。
 でも、いつだって私のために一生懸命になってくれるのよね。ありがとう、芳香。これからも、ずっとずっとよろしくね」

 膝枕から添い寝に移行しつつ、青娥は芳香に語りかける。
 すやすやと眠る彼女の額にそっと口づけした後、青娥は芳香の横に寄り添うように寝そべる。

 青娥の役に立ちたいという芳香の想い。やり方こそ間違えたが、彼女を喜ばせたいという目標は達成されたようだ。

 宮古芳香は変わらない。霍青娥を大切に想う彼女の心は、今も昔もその身体に宿り続けている。
 
 
拙作を読んでいただきありがとうございます。
芳香ちゃんと娘々の関係、小傘ちゃんの新しい道具像。求聞口授を読み返していて気になった点をまとめて作品にしてみました。楽しんでいただければ幸いです。

8/3追記
妙に行間が開いていたので修正しました。

8/4追記
コメントしていただいた通り、作品にする段階での練りこみ不足が否めません。書きたいものを全てまとめようと欲張ってしまったのも反省点です。自分の未熟さを改めて感じました。
この経験を次回に活かしていきたいと思います。その時はまた読んでいただければ幸いです。
でれすけ
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コメント



0.720簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
変わろうとする小傘と、変わらない芳香。
二人を対にするなら、もっと対比の描写があったほうがよかったのかもしれません。
でも小ネタも楽しめましたし、面白かったですよ
5.100名前が無い程度の能力削除
この芳香可愛すぎる
10.70名前が無い程度の能力削除
コメ2を見て何が物足りなかったのか理解しました。
神霊廟パートから小傘とは何だったのか状態でしたので・・・。
全体のつくりとしては若干かみ合ってない感覚を覚えましたが、部分部分のつくりは丁寧で面白かったです。

それにしても狸のおばちゃんでヘコむマミゾウさんカワユス
11.80奇声を発する程度の能力削除
ちょっと物足りない所もありましたが良かったです
14.90名前が無い程度の能力削除
なんか惜しいなあ、という印象を受けました。
作者様自身おっしゃってますが欲張り過ぎてごちゃごちゃしてしまったんですかね。
とはいえ話は面白かったので、これからも頑張ってください。
15.100名前が無い程度の能力削除
好き
18.100名前が無い程度の能力削除
道具から妖怪になった小傘、人からキョンシーという道具になった芳香
という視点から見ても面白いかもしれませんね。
20.60洗濯機削除
体が覚えてるってゆうのは本当にあると思います。
もしかしたら小傘ちゃん性格も元になってる傘ものかもしれないなって思いました。
21.80名前が無い程度の能力削除
>「びっくり師匠」

このネーミングは…イケる
間も迷いも無しにナチュラルにこう答えているのが面白いと思いました