その世界はとても狭い。
暗くて、そのくせ半端に広くて、だけど出口は閉ざされている。
出口があるからには、この世界に"外"はある。彼女にとっては縁の無い世界が。
出ることを希ったことはある。何度も、何度も。
495年。そう聞かされている。
それが真実だろうと、実際にはそれより長かろうと短かろうと大して違いは無い。
得られないものは、もとより無いことと変わらない。
彼女にとっては、それが世界だった。
もしも運命というものが本当にあるのなら、これが自分の運命なのだと。
そして運命は確かに存在していた。
"あいつ"が定めたものとして。
「かごめ、かごめ、かごのなかのとりは、いついつでやる」
フランドール・スカーレットはたどたどしく読み上げる。
手元の本に記された"ウタ"とやらを。
「……やっぱり、つまんない」
そっと本を閉じ、元の場所へと戻す。
彼女はその"ウタ"が嫌いではなかった。
だが数え切れないほど読み返しても、言葉の意味以上のものは感じられない。
それはとてもとても縁起の悪い言葉の羅列。
だから気に入っていた。気に入っていたけれど、それだけ。
意味を考えた。イメージを得た。それを模したスペルも作った。
たけどこの"ウタ"には何かが欠けていた。
この"コトバ"が"ウタ"であるための何かが。
もう一度、ゆっくりと読み始める。
「かごめ、かごめ……」
「か~ごのな~かのと~り~は~ い~つ~い~つ~で~や~る~」
この世界にあるはずのない声がした。
他人の声。聞いたことのない声。
それは"ウタ"に奇妙な抑揚をつけて読み上げていた。
「よ~あ~け~の~ば~ん~に~ つ~るとか~めがす~べった~」
どこ? この声はどこから聞こえている?
「うしろのしょ~めん だ~あれ?」
「……だれ?」
後ろの正面に、見知らぬ誰かがいた。
黒い帽子を乗せた癖っ毛の髪。指先まで隠しそうなほど袖を余らせた服。
そして胸元で硬く閉じた目玉。
今の今まで居ることに気付かなかった。
いや、そもそも今の今までここに居たのかすら定かではない。
そして、今本当にここに居るのかも。
掴みどころのない、意識の外に立っているかのような来訪者。
「こんにちは、おじゃましてます。わたし、古明地こいし」
「……変な名前」
「そうかな、わたしは気に入ってるよ? 道端の小石みたいに、誰からも気にされないって素敵じゃない?」
いきなり現れて、訳のわからないことを並べ立てている。
そのことは不愉快。……それ以上に、面白そうだ。
「わたしは気になるなぁ。だってここには小石なんて無いんだから」
ミチバタノコイシ。そんなものは、知らない。
「そっか、だからあなたには見えるんだね。このお屋敷の人は誰も気付かなかったけど」
ああ、もういいじゃないか言葉遊びは。
この退屈な世界に、こんなにも面白そうなのが来たんだ。
だけどその前に。
「わたしはフラン。フランドール・スカーレット」
スカートの裾を広げて、腰を落としてお辞儀。
「わたしと、遊んでくれる?」
それは狂気に満ちた笑顔の告げる破壊の合図。
「うん、いいよ」
応えるのは無垢な笑顔。
空気が歪む。捻れて悲鳴を上げる。
壊す。フランの純粋な目的に、願いに彼女の魔力が従う。
「なにして遊ぶ?」
その問いかけは背後から。
聞き違えるはずもない、たった今耳にしたばかりのこいしの声。
そして彼女はもう、目の前にはいない。
疑問も判断も封殺して、ただ本能的に背後を薙いだ。
が、その一撃は空を切る。そこにはもう、何も無かった。
「わ、びっくりした」
左から声がした。即座に右腕を振り上げ、叩きつける。
手応えなし。二度も壊そうとしたのに、二度も避けられた。
こんなことは思いもしなかったなんて。思い通りにならなかったなんて。
なんて。
「なんて面白いの、あなたは!」
何処にいるのか解らないこいしに、フランは賞賛の哄笑を上げる。
「わかった、フランドールちゃんは鬼ごっこがしたいんだね?」
鬼ごっこ? ああそうだ、それは言いえて妙だ。
「そうよ、捕まったらオシマイの鬼ごっこ。最高に楽しいでしょ?」
声と気配を頼りに左手を突き出す。
耳を聾するほどの唸りを上げたその一撃も、やはりこいしには届かない。
「そうだね、でもそれだけじゃつまんないから……」
フランに続きを聞くつもりはなかった。
こんなチマチマした攻撃じゃ捕まらない。いっそこの部屋をまとめて叩き潰すくらいに―――
「わたしも、フランドールちゃんを捕まえるよ」
「―――っ!?」
左手が戻らない。
代わりに激痛が襲ってきた。
腕が薔薇の蔦に絡め取られている。
まるで何年も前からそこに生えていたかのように、そしてある種の悪意すら感じるほどに生い茂っている。
肌に突き立つのは硬い棘。
獣の牙の如く、食いちぎらんばかりにフランの腕を締め付けている。
動けない。そして背後には"ウタ"。
「うしろのしょ~めん……」
「っあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!!!!!」
あらん限りの力を込めて、絡め取られた腕を"残して"その場を飛び退く。
肩口から魔力と血が混ざって吹き出す。が、それも一瞬。
残された腕は灰となって散り、魔力と血は新たな腕を再生する。
「っはあ、はあ、は……はは、あはははははは!」
吐息は笑いに上塗りされ、衝動がさらにフランの中で色を濃くする。
こいしは呆然とする。それも束の間、顔をしかめて言った。
「フランドールちゃん、そんなことしたら痛いよ?」
痛い? 違う。
「おもしろい……最高にオモシロイよこいし! もっと、もっと遊ぼうよ!」
「……うん、わかった。でも、もうこんなのはダメだよ?」
「あは、いいよ……っ! まだいくらでも、遊び方なんてあるんだから!」」」」
禁忌・フォーオブアカインド。
その場に焼き付けたように、フランの姿が分裂する。
「わっ! どのフランドールちゃんが本物か当てるゲームなの?」
「違うわ」
「4人がわたし」
「4人のわたし」
「4人でわたし」
「「「「鬼ごっこ、続行よっ!!」」」」
たとえ文字通り掴みどころのないこいしが相手でも、単純な数の差ならそうはいかない。
知覚も意識も共有しつつ、それでいて別個。どんなトリックだろうと捕まえてみせる。
「すごいね、フランドールちゃんは。それなら2人でも、じゃなくて5人で"かごめかごめ"できるね」
「そうね」
「いますぐ」
「やっても」
「いいんだよ?」
もっとも、今の鬼ごっこより面白い遊びならだけど。
フランはこいしの言葉を待つ。
そうだ、捕まえられないのなら。
「それじゃ、わたしが鬼だねっ」
捕まえに来るのを待てば、いい。
「うしろのしょ~めん、だ~れだ?」
"ウタ"通りの真後ろ。残る3人のフランがそこに殺到する。
だがそれもまた、フェイク。そこに居ないのは判っている。
3人のフランが消える。
飛び掛った"2人"と、棒立ちのままの1人が。
最後に残った1人が、物理の法則ごと捻じ曲げる勢いで向きを変える。
両の腕を広げ、強い確信と共に―――
「つっかま~えたっ!」
後ろから、抱き締められた。
柔らかな匂い。
渦巻く衝動は凍りつき、一瞬のうちに砕けて消えた。
「えへへ、わたしの勝ちだね! ……フランドールちゃん?」
フランの体から力が抜けた。
振り上げていた腕が垂れ下がり、体に回されたこいしの腕に振れる。暖かかった。
「だいじょうぶ? どこか痛かった?」
かけられる声も耳を素通りしていく。
背中に染み込んで来るこいしの体温が「遊び」とは違う奥底の何かに触れていた。
酷く落ち着かないような、それでいて目を閉じればそのまま眠ってしまいそうな感覚。
これは、なに?
「ねえ、フランドールちゃん!」
「……フラン、でいいよ」
「え?」
「呼び方。フランでいい」
辛うじてそれだけを口にすると、こいしの手が緩んだ。
フランドール、と呼ばれるのはどこか嫌いだった。
畏まっていて、名前を呼ぶことさえ特別なことのようで。
それでも何故、この得体の知れない少女にそう伝えたのかは解らずにいた。
次の瞬間、右腕を強く引き寄せられる。
不意のことに抗う間もなく、フランは体ごとこいしと向き合った。
「うんっ! よろしくね、フランちゃん!」
満面の笑顔。真っ直ぐに向けられた瞳に戸惑い、視線を逸らす。
あまりに無防備で純真な瞳に気恥ずかしさを覚えたから。
だがそれ以上に、その瞳に本能的な恐怖を感じていた。
あんなに輝いているのに、底が見えない。見ているだけで、見つめられただけで、闇の中に放り込まれたような気分になる。
それは自分の輪郭すら見失うほどの、深い闇だ。
「ねえねえ、もっと遊ぼうよ。次は何しよっか?」
だけどこいしは、そんな闇など感じさせないほど明るく振舞う。
その明るさが羨ましかった。
「もう一回おにごっこ? かくれんぼ? それとも弾幕ごっこ?」
こんな相手は初めてだった。
この館の住人は誰も―――そして、たまの来客でさえもフランを恐々と扱っていた。
そのことはフラン自身にだって分かっていた。
だから、求めることをやめた。諦めていた。
それなのに彼女は、こいしはこんなにも踏み込んでくる。
戸惑いばかりが、フランの胸裏に満ちていく。
「そーだっ! 一緒に歌おうよ!」
こいしの表情は春盛りを迎えた花のよう。
だがそれよりもフランの興味を引いたのは「歌」という言葉だった。
「うた……? あれがウタなの?」
「うん、そうだけど。何かヘンだった?」
「……分からない。知らないんだ、ウタがどういうものなのかって」
口にするのは嫌だった。
知らないことを認めるのは嫌だった。
自分の中に足りない何かがある。それを思い知るのは苦痛でしかない。
ちりちりと、焼け石に紙を押し当てるように思考が鈍く燃え上がる。
自分は何をしているのか。こんなおしゃべりに何の意味がある。
そうだ、くだらないことを考える必要はない。いつものように、こいつも……
「じゃ、いっしょに歌おうよ!」
こいしはフランの両手を握ってそう言った。
こんな相手にどう返せばいいのか、フランは知らない。
誰だって自分のことを遠ざけて、腫れ物に触れるようにして。
「……こいしは、わたしが恐くないの?」
「こわい? どうして?」
盗み見たこいしの目は、真っ直ぐにフランを見つめていた。
無垢で暗い瞳。穢れどころか何もないほど澄み渡るそこに引き込まれる錯覚を抱いて目を逸らす。
なんだ、こいつは。フランにとっては未知の感覚。
未知は恐怖だ。恐怖は不快だ。その筈だ。
なのに、どうしてこんなに心躍るのか。
こいしの手を握り返す。壊さないように、そっと。
「いっくよ~? か~ご~め、か~ご~めっ」
「か、ごめ、か、ご、め?」
握ったままの手をぶんぶんと振られながら、たどたどしく真似る。
「そうそう、そうやってリズムつけて、もっと伸ばしてね。か~ごのな~かのと~り~は~」
「か~ごの、かの……り~は~」
言葉を追いかけるのをやめて、音を真似る。
「い~つ~い~つ~で~やあ~るぅ~」
フランをじっと見つめていたこいしの目が細まり、満面の笑顔に変わる。
それを盗み見ながらフランは合わせていく。
「よ、あ~け~の、ば~ん~に」
「つ~るとか~めがす~べった~」
楽しい。理由も何も無く、互いの声を重ねることが楽しいとフランは感じていた。
そしてフランは向き合う。こいしの笑顔を真正面から受け止める。
「「うしろのしょ~めん、だ~あれ?」」
地下室に少女の和音が残響する。
それを最後に一切の音が途絶え、静けさの中で2人は瞳を合わせていた。
「……ふふっ」
「あははっ」
どちらが先か、笑いが漏れる。
もうそこには疑念も敵意も無かった。敢えて言えば、狂おしいまでの純粋さと無邪気さだけ。
フランにとってこいしの"未知"は、不快なものではなくなっていた。
"未知"は、面白い。まだまだ新しいものがある。知ることができる。
こいしはまさに、その塊だった。ともすればそれは、子供が道端の小石を拾って宝物にするようなものかもしれない。
「ねえ、こいし」
「なあに、フランちゃん?」
「もっと教えて。わたしの知らないこと」
「えへへ、いいよ」
こつん、と額を合わせる。
こいしはどんなことを教えてくれるんだろう。フランの心は躍る。
「それじゃ、ここから出よっか?」
そして、その一言で凍りつく。
馳せる思いは格子に囚われる。
「……出られないよ。わたしは、ここから」
それが現実。籠の中の鳥。何時何時出遣る?
495年を待った。その時は未だ来ない。
だから、もういい。この地下室が自分の全てなのだと諦めている。
その外は、未知。幾度となく憧れ、そして怖い世界。
「出られるよ?」
こいしの答えは明瞭だった。
「だって、わたしは入ってこられたもん」
そう、閉ざされたこの空間に彼女は入ってきた。
誰にも見つからず、止められることもなく。
それが出来るこいしなら。自分と渡り合えるほど強いこの子なら。
期待と希望が胸に蘇る。けれどその一方で、それを抑えようとしている自分に気付いていた。
出てはいけない。ここにずっと居る。それが約束だから。
「……ダメ。お姉様との約束だもの」
どんな錠前よりも硬い鍵。
決して破ってはいけないもの。
「そっかあ、フランちゃんは閉じ込められてるんだ?」
「そんな言い方やめてよ!」
知らず、声が荒くなる。何に対して激したのかは解らない。
自分が閉じ込められている事実に対してか、それとも"誰が"閉じ込めているのかを考えることにか。
どちらにせよ、考えたくはない事実だった。
「わたしは閉じ込められてるんじゃないの。わたしの意思でここにいるの」
「あなたの意思? ちがうよ」
無邪気に、冷徹に。こいしは遮る。
「意思ってね、変わるんだ。自分で決めたことってだけだよ」
「……なにが、言いたいの?」
「フランちゃんはね、自分では何も決めてないんだよ」
ざくり、と刃物のように言葉が刺さる。
未知の痛み。自分で引きちぎった腕の方がまだ痛くない。
押さえようもなく、治しようもなく、何が痛んでいるのかも解らない。
イヤだ。これはイヤだ。
「誰かのため、何かのため。そんなふうに考えてガマンしてるだけ」
「やめて……」
「意思なんてもの信じてたら、したいこともできないよ。したくもないことばかりするよ」
「やめてよ!」
「だから教えてよ。フランちゃんが本当に……」
「やめろッ!!」
恐怖を殺意に変えて叩き付ける。そこにもうこいしは居ない。
細い腕が、背中からフランを抱き締める。
さっきの暖かさが嘘のように無機質な腕。
「見せて? フランちゃんがどうしたいのか」
体が動かない。違う、意識が動かない。
「どんなふうに思っているのか」
手が体を這い上がり、探るように胸を触る。
「本当は何を言いたいのか」
首を絞めるように手が添えられる。
「見たいものは何なのか」
小さな手が両目を覆う。フランの世界は闇に閉ざされる。
「ほら、見てごらん?」
その手が離れる。
扉は開いていた。
「……出られる」
言葉になって口から零れた。
「出られるよ」
こいしが肯定する。
足がふらりと一歩を踏み出す。
開かれた扉の向こうには何も見えない。
確かめたくて、また一歩。
それでもまだ見えない。
求めるように、また一歩。
なのに見えてこない。
苛立たしくて、また一歩。
「何処へ行くの」
足が止まった。
「お姉、様……?」
扉は開いていなかった。
前に進んでなどいなかった。
ただそこに、レミリアが―――姉が、いた。
どうして。いつのまに。
「答えなさいフラン、何処へ行くの?」
「わたし、わたしは……」
「フランちゃんはね、わたしと一緒に遊びに行くの」
こいしが割り込む。それを一瞥するレミリアの目は昏い。
「貴女には黙っていて。私はフランに訊いているの」
その僅かな間に姉の視線を逃れたフランの胸のうちに、何かが沸き起こる。
したいこと。いきたいところ。その何もかもを口にしてしまいたくなる。
なのに出来ない。言いたくない自分がいる。
ならその言いたい自分はダレ? 言いたくない自分はダレ?
わたしはどこにいるの?
「おそとにいるよ」
フランの脳裏に響く声。誰よりもよく知っている声。自分の声。
「わたしは、おそとで、まってるよ」
そうだ、おそとにでなきゃ。
そのためにはじゃまだ。
わたしのまえにたっているやつが。
じゃまなもの。
どうすればいい。
きまっている。
こわしてしまえ
腕を振るった。
視界が歪む。
その中にいる姿も。
レミリアも、その後ろにある閉ざされた扉も。
ねじれて、ちぎれて、こわれた。
期待していたほどの快感も恍惚もない。
あるのは疲労と虚脱感だけ。
息が酷く荒れている。頭が重たい。
落ちた視線は床に散らばる四肢を見つめていた。
こんなに簡単なことを、どうして今の今まで躊躇っていたのだろう。
もう誰も邪魔しない。できない。させない。
出ていくんだ、こんな部屋から。暗闇から。
笑いが唇の端を吊り上げる。
瞬きさえも億劫になって目を見開き、顔を上げた。
扉はまだ、そこにあった。
「なに、これ……」
問いに答える者は居ない。
こいしの姿はいつのまにか消え失せ、フランは広大な―――見慣れた部屋とは思えないほど広大な闇の中に居た。
いけない。ここにいてはいけない。
ドアノブに飛びつく。
動かない。がちゃりとも音がしない。力が入らない。
「なんで……っ!? どうしてっ!?」
こわれろ。こわれて。命令は懇願へと変わっていく。
何も出来ない。自分の中に備わっていたはずの力が消え失せている。
「むりだよ」
声がした。レミリアのものでも、こいしのものでもない、自分の声が。
足元から。
恐る恐るその方へと顔を向ける。
バラバラになった自分の体がそこにあった。
「でられないの。わたしは」
そして転がる首が嘲るような表情でそう言い捨てる。
「ずっとずっと、この暗闇でひとりぼっち。そうでしょ?」
ちがう。そう言葉に出来ずに首を振った。
「否定しなくていいよ。だって仕方ないんだもの」
口調は罪状を読み上げるようでいて、しかしどこか言い訳めいた響きで。
「お外は怖いんだもの。見たことのないところに、見たことのない人がいる。とっても怖いところだもの」
体が凍る。ドアノブに手を掛けていることがたまらなく恐ろしくなる。
なのに手を離せない。全身が陶器になってしまったみたいに。誰かに割られるのを待つみたいに。
「だからずっとここにいるんじゃない。ここにいれば傷付かない。怖くない。壊れない。壊されない。心地良いじゃない」
そして気付く。ここはもう自分の部屋なんかじゃないことに。
どこまでも緻密に編まれた籠の中。
分厚い壁は頼りない編目に過ぎない。
怖くて汚い外の世界が透けてくる。照りつける太陽も降りしきる雨も素通ししてしまう。
「もう、ダメだよね」
籠目が指に絡みつく。籠目の向こうから光が透けてくる。
「守ってくれる人のこと、壊しちゃうんだもの」
光が痛い。焼かれていく。
もう何も守ってはくれない。
「か~ご~め~か~ご~め~」
首が歌いだす。
「か~ごのな~かのと~り~は~ い~つ~い~つ~で~や~る~」
だして。ここからだして。
「よ~あ~け~の~ば~ん~に~ つ~るとか~めがす~べった~」
よがあける。あけてしまう。
ひのひかりにやかれてきえてしまう。
ああ、でも。
そうすれば、きっとわたしは。
「うしろのしょ~めん だ~あれ?」
外の世界へ、出て行ける―――
「フラン!」
呼び声はまさに雷鳴。
そして、照らし出した光景を目に焼き付ける雷光。
焼き付くのは―――姉の、顔。
いつもと変わらない、自分の部屋。
何も壊れてはいない。
床も、壁も、天井も、扉も。
「私を見なさい、フラン!」
そして、姉も。
曇りもブレもない鮮明な視界。それなのに目覚めたばかりのように現実感がない。
これはまだ絶望の続きか。
それとも滅びの後の幻か。
「―――お姉、様」
声を出すことに妙な重みがあった。体が現実を主張している。
呆けは暫くして、あは、と笑いになった。
人ならざるこの体が、忌むべきこの力が、こんなにも疲れ果てている。
なんだ。
これはなんだ。
だれに、なにを、された。
「やっぱりダメかあ」
残念そうな語調とは裏腹に、その顔は貼り付けたような笑みを浮かべている。
「こいし……」
「でもいいんだ。フランちゃんの本当の気持ち、わかったから」
その笑顔が、フランには悲しげに見えた。
羨みか、、憧れか、もしくはそれらをとっくに通り過ぎてしまった諦めのようにも。
「貴方ね、私の館に潜り込むだけじゃ飽き足らずフランを惑わせたのは」
そう言ってレミリアはこいしとフランの間に踏み出す。
優雅に、気取るような足取り。それでも背中の翼は妹を守らんと広げられていた。
フランからは、こいしも扉も見えない。ただ、姉の背中だけ。
(―――そうか)
そこにいることが心地よかった。
だから、ずっとそこに居ることにした。
そして怖くなった。外に出て行くことが。
その一方で憧れもした。いつか、この部屋の外へと。
怖くてたまらなくなって、自分から扉に鍵を掛けた。
怖がる自分が認められなくて、鍵を掛けられたことにした。
そうやって、箱庭は完成した。
恐れと嘘で編んだ、籠目の箱庭が。
「お姉様」
フランは呼んだ。まだ力の入らない足を叱り付けて立ち上がる。
それでも支えを欲した腕は、レミリアの肩を求めた。
「無理は許さないわ、フラン」
言葉は厳しく、だけど添えられる手は優しく。フランに力をくれる。
だから大丈夫。
籠の中の鳥は、今今出遣る。
「ありがとう、こいし」
笑いながらそう言った。
こいしは表情を―――笑ったままの表情を―――変えることなく頷いた。
レミリアはそんな二人を代わる代わる見つめ、小さく溜息を吐いた。
「何よ、私は空回り? 蚊帳の外?」
「違うよお姉様。外に出たのは、わたし」
「……まだ変な幻覚でも見せられているのかしら」
じろり、とこいしを睨む。
「違うよお姉さん。わたしが見せたのは、本当の気持ち」
フランの言葉を真似て返す。レミリアは面白くない。
「本当に不愉快な闖入者ね、やっぱり消しておこうかしら?」
「大丈夫だよ、わたしは消さなくても消えるから」
消えるから。その一言が、なぜかフランには悲しく聞こえた。
「こいし……わたしは」
後の続かない呼びかけ。応えるのは変わらない、全く変わることのない笑顔。
「あーあ、失恋しちゃったなぁ」
「えっ?」
唐突な単語の意味が解らず、フランは目を瞬く。
「だってフランちゃん、お姉さんのことしか見えてないんだもん。わたしの入り込むスキなんてないよ」
こいしはくるりと体を翻してフランに体を寄せる。
「だからね」
そっと手を繋ぐ。蔦が柱を伝うように指を絡める。
そして頬に唇を。
「これだけ、させてね?」
「は、離れなさいッ!」
威厳も何もなく、大慌てで引き剥がすレミリア。
呆気にとられながら口付けられた頬に手を添えるフラン。
そんな二人を見てこいしは微笑む。貼り付けられた能面の笑みではない、どこか寂しげな微笑。
「ばいばい、フランちゃん」
言葉だけが耳に残る。
もうそこにこいしの姿は無かった。
部屋の中には寄り添う姉妹だけ。
驚きと照れくささと気まずさと、そんな無邪気な感情だけが沈黙を埋めていた。
「お姉様」
静かな水面に木の葉を浮かべるように、フランは静かに呼びかけた。
この空間を、時間を壊したくなかったから。
「……何かしら、フラン」
視線は合わせない。
きっとお互いの顔を見たら、そこで終わってしまうから。
今までずっと繰り返してきたことと何も変わらないから。
言うんだ。
「わたしね、外に出たい」
調弦のような作為と何気なさの間で、言葉にする。
やっと言えた達成感と、言わなければ良かったという悔恨が胸のうちに混ざり合う。
叶えたい願いだった。叶わなくとも伝えたい思いだった。
本当に辛かったのは、外に出られないことじゃない。
思いを伝えられない自分がいること。そのことで勝手に姉を嫌いになりそうな自分がいること。
いっそ壊してしまえたら。それが自分でも姉でも構わない。終わらせられるなら。
そうやって願いは歪んでいった。
だから今は、ただ伝えたい。本当に望んでいたこと、それだけを。
レミリアは応えない。
答えはいくつでもあった。
妹が全てを委ねている。
鳥篭を今度こそ永遠に閉ざすことも、開け放って空に放してやることもできる。
レミリアもまた、フランを見ない。
そのままゆっくりと歩き出す。
重い地下室の扉に手を掛ける。
その重さに似合わないほど、静かに開いてゆく。
そしてただ一言。
「これまでと、同じよ」
そう残して部屋を出て行く。
扉が閉まる。
鍵の音は、しなかった。
「か~ご~め~か~ご~め~」
地下室に、覚えたての歌が響く。
「か~ごのな~かのと~り~は~ い~つ~い~つ~で~や~る~」
ところどころ音階が外れる。それでも続ける。
「よ~あ~け~の~ば~ん~に~ つ~るとか~めがす~べった~」
さて困った。最後の部分が思い出せない。
諦めてあてずっぽうで歌おうとした時、あの声が歌を引き継いだ。
「うしろのしょ~めん だ~あれ?」
「……こいし?」
「あったり~♪」
いつのまに。性懲りもなく。
様々な思いが浮かんでは消えたが、最後には自然と笑みが浮かんだ。
「やっほ、フランちゃん。横恋慕にきたよ」
「よこれんぼ?」
「略奪愛でもいいよ」
「りゃくだつあい?」
知らない言葉がどんどん出てくる。
未知は怖い。けど面白い。そう思わせてくれたのはこいしだった。
「というわけでね、フランちゃん」
「なに?」
「今度こそわたしに攫われてみない?」
フランは首を振る。笑いながら。
「むぅ、なんで? もうお外に出られるんでしょ?」
こいしは頬を膨らませる。それがなんだか可笑しくてフランはまた笑う。
そう、外に出られる。
扉に鍵なんて無かった。最初から。
ただ扉を開けようとしなかっただけ。
「わたしは、ここがいいんだ」
屈託の無い笑顔。こいしは変わらない笑顔で応える。
「そっか、それじゃお外に出たくなるような話でもしよっか?」
何が何でも連れ出したいのか、フランの周りをくるくると踊りながら提案する。
まるでかごめかごめみたい。フランはそんなことを思う。
そして思いつく。
「こいし、歌おう」
差し出した手は、しっかりとこいしと繋がった。
「うん、かごめかごめ? それとも他の?」
「他の? 歌ってそんなにたくさんあるの?」
「もっちろん! それじゃ最初はね……てるてる坊主ね!」
「てるてるぼーず?」
「うん! 雨がやまないと首を切られちゃう子の歌だよ!」
「面白そうだね、聞かせてよ」
こいしが歌いだす。
フランが聞き入る。
こいしはフランの手を取って、一緒に歌いだす。
少女たちの声が音色になって満ちる地下室。
ここは開かれた籠目籠目。
愛されて篭る、安心の中。
暗くて、そのくせ半端に広くて、だけど出口は閉ざされている。
出口があるからには、この世界に"外"はある。彼女にとっては縁の無い世界が。
出ることを希ったことはある。何度も、何度も。
495年。そう聞かされている。
それが真実だろうと、実際にはそれより長かろうと短かろうと大して違いは無い。
得られないものは、もとより無いことと変わらない。
彼女にとっては、それが世界だった。
もしも運命というものが本当にあるのなら、これが自分の運命なのだと。
そして運命は確かに存在していた。
"あいつ"が定めたものとして。
「かごめ、かごめ、かごのなかのとりは、いついつでやる」
フランドール・スカーレットはたどたどしく読み上げる。
手元の本に記された"ウタ"とやらを。
「……やっぱり、つまんない」
そっと本を閉じ、元の場所へと戻す。
彼女はその"ウタ"が嫌いではなかった。
だが数え切れないほど読み返しても、言葉の意味以上のものは感じられない。
それはとてもとても縁起の悪い言葉の羅列。
だから気に入っていた。気に入っていたけれど、それだけ。
意味を考えた。イメージを得た。それを模したスペルも作った。
たけどこの"ウタ"には何かが欠けていた。
この"コトバ"が"ウタ"であるための何かが。
もう一度、ゆっくりと読み始める。
「かごめ、かごめ……」
「か~ごのな~かのと~り~は~ い~つ~い~つ~で~や~る~」
この世界にあるはずのない声がした。
他人の声。聞いたことのない声。
それは"ウタ"に奇妙な抑揚をつけて読み上げていた。
「よ~あ~け~の~ば~ん~に~ つ~るとか~めがす~べった~」
どこ? この声はどこから聞こえている?
「うしろのしょ~めん だ~あれ?」
「……だれ?」
後ろの正面に、見知らぬ誰かがいた。
黒い帽子を乗せた癖っ毛の髪。指先まで隠しそうなほど袖を余らせた服。
そして胸元で硬く閉じた目玉。
今の今まで居ることに気付かなかった。
いや、そもそも今の今までここに居たのかすら定かではない。
そして、今本当にここに居るのかも。
掴みどころのない、意識の外に立っているかのような来訪者。
「こんにちは、おじゃましてます。わたし、古明地こいし」
「……変な名前」
「そうかな、わたしは気に入ってるよ? 道端の小石みたいに、誰からも気にされないって素敵じゃない?」
いきなり現れて、訳のわからないことを並べ立てている。
そのことは不愉快。……それ以上に、面白そうだ。
「わたしは気になるなぁ。だってここには小石なんて無いんだから」
ミチバタノコイシ。そんなものは、知らない。
「そっか、だからあなたには見えるんだね。このお屋敷の人は誰も気付かなかったけど」
ああ、もういいじゃないか言葉遊びは。
この退屈な世界に、こんなにも面白そうなのが来たんだ。
だけどその前に。
「わたしはフラン。フランドール・スカーレット」
スカートの裾を広げて、腰を落としてお辞儀。
「わたしと、遊んでくれる?」
それは狂気に満ちた笑顔の告げる破壊の合図。
「うん、いいよ」
応えるのは無垢な笑顔。
空気が歪む。捻れて悲鳴を上げる。
壊す。フランの純粋な目的に、願いに彼女の魔力が従う。
「なにして遊ぶ?」
その問いかけは背後から。
聞き違えるはずもない、たった今耳にしたばかりのこいしの声。
そして彼女はもう、目の前にはいない。
疑問も判断も封殺して、ただ本能的に背後を薙いだ。
が、その一撃は空を切る。そこにはもう、何も無かった。
「わ、びっくりした」
左から声がした。即座に右腕を振り上げ、叩きつける。
手応えなし。二度も壊そうとしたのに、二度も避けられた。
こんなことは思いもしなかったなんて。思い通りにならなかったなんて。
なんて。
「なんて面白いの、あなたは!」
何処にいるのか解らないこいしに、フランは賞賛の哄笑を上げる。
「わかった、フランドールちゃんは鬼ごっこがしたいんだね?」
鬼ごっこ? ああそうだ、それは言いえて妙だ。
「そうよ、捕まったらオシマイの鬼ごっこ。最高に楽しいでしょ?」
声と気配を頼りに左手を突き出す。
耳を聾するほどの唸りを上げたその一撃も、やはりこいしには届かない。
「そうだね、でもそれだけじゃつまんないから……」
フランに続きを聞くつもりはなかった。
こんなチマチマした攻撃じゃ捕まらない。いっそこの部屋をまとめて叩き潰すくらいに―――
「わたしも、フランドールちゃんを捕まえるよ」
「―――っ!?」
左手が戻らない。
代わりに激痛が襲ってきた。
腕が薔薇の蔦に絡め取られている。
まるで何年も前からそこに生えていたかのように、そしてある種の悪意すら感じるほどに生い茂っている。
肌に突き立つのは硬い棘。
獣の牙の如く、食いちぎらんばかりにフランの腕を締め付けている。
動けない。そして背後には"ウタ"。
「うしろのしょ~めん……」
「っあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!!!!!」
あらん限りの力を込めて、絡め取られた腕を"残して"その場を飛び退く。
肩口から魔力と血が混ざって吹き出す。が、それも一瞬。
残された腕は灰となって散り、魔力と血は新たな腕を再生する。
「っはあ、はあ、は……はは、あはははははは!」
吐息は笑いに上塗りされ、衝動がさらにフランの中で色を濃くする。
こいしは呆然とする。それも束の間、顔をしかめて言った。
「フランドールちゃん、そんなことしたら痛いよ?」
痛い? 違う。
「おもしろい……最高にオモシロイよこいし! もっと、もっと遊ぼうよ!」
「……うん、わかった。でも、もうこんなのはダメだよ?」
「あは、いいよ……っ! まだいくらでも、遊び方なんてあるんだから!」」」」
禁忌・フォーオブアカインド。
その場に焼き付けたように、フランの姿が分裂する。
「わっ! どのフランドールちゃんが本物か当てるゲームなの?」
「違うわ」
「4人がわたし」
「4人のわたし」
「4人でわたし」
「「「「鬼ごっこ、続行よっ!!」」」」
たとえ文字通り掴みどころのないこいしが相手でも、単純な数の差ならそうはいかない。
知覚も意識も共有しつつ、それでいて別個。どんなトリックだろうと捕まえてみせる。
「すごいね、フランドールちゃんは。それなら2人でも、じゃなくて5人で"かごめかごめ"できるね」
「そうね」
「いますぐ」
「やっても」
「いいんだよ?」
もっとも、今の鬼ごっこより面白い遊びならだけど。
フランはこいしの言葉を待つ。
そうだ、捕まえられないのなら。
「それじゃ、わたしが鬼だねっ」
捕まえに来るのを待てば、いい。
「うしろのしょ~めん、だ~れだ?」
"ウタ"通りの真後ろ。残る3人のフランがそこに殺到する。
だがそれもまた、フェイク。そこに居ないのは判っている。
3人のフランが消える。
飛び掛った"2人"と、棒立ちのままの1人が。
最後に残った1人が、物理の法則ごと捻じ曲げる勢いで向きを変える。
両の腕を広げ、強い確信と共に―――
「つっかま~えたっ!」
後ろから、抱き締められた。
柔らかな匂い。
渦巻く衝動は凍りつき、一瞬のうちに砕けて消えた。
「えへへ、わたしの勝ちだね! ……フランドールちゃん?」
フランの体から力が抜けた。
振り上げていた腕が垂れ下がり、体に回されたこいしの腕に振れる。暖かかった。
「だいじょうぶ? どこか痛かった?」
かけられる声も耳を素通りしていく。
背中に染み込んで来るこいしの体温が「遊び」とは違う奥底の何かに触れていた。
酷く落ち着かないような、それでいて目を閉じればそのまま眠ってしまいそうな感覚。
これは、なに?
「ねえ、フランドールちゃん!」
「……フラン、でいいよ」
「え?」
「呼び方。フランでいい」
辛うじてそれだけを口にすると、こいしの手が緩んだ。
フランドール、と呼ばれるのはどこか嫌いだった。
畏まっていて、名前を呼ぶことさえ特別なことのようで。
それでも何故、この得体の知れない少女にそう伝えたのかは解らずにいた。
次の瞬間、右腕を強く引き寄せられる。
不意のことに抗う間もなく、フランは体ごとこいしと向き合った。
「うんっ! よろしくね、フランちゃん!」
満面の笑顔。真っ直ぐに向けられた瞳に戸惑い、視線を逸らす。
あまりに無防備で純真な瞳に気恥ずかしさを覚えたから。
だがそれ以上に、その瞳に本能的な恐怖を感じていた。
あんなに輝いているのに、底が見えない。見ているだけで、見つめられただけで、闇の中に放り込まれたような気分になる。
それは自分の輪郭すら見失うほどの、深い闇だ。
「ねえねえ、もっと遊ぼうよ。次は何しよっか?」
だけどこいしは、そんな闇など感じさせないほど明るく振舞う。
その明るさが羨ましかった。
「もう一回おにごっこ? かくれんぼ? それとも弾幕ごっこ?」
こんな相手は初めてだった。
この館の住人は誰も―――そして、たまの来客でさえもフランを恐々と扱っていた。
そのことはフラン自身にだって分かっていた。
だから、求めることをやめた。諦めていた。
それなのに彼女は、こいしはこんなにも踏み込んでくる。
戸惑いばかりが、フランの胸裏に満ちていく。
「そーだっ! 一緒に歌おうよ!」
こいしの表情は春盛りを迎えた花のよう。
だがそれよりもフランの興味を引いたのは「歌」という言葉だった。
「うた……? あれがウタなの?」
「うん、そうだけど。何かヘンだった?」
「……分からない。知らないんだ、ウタがどういうものなのかって」
口にするのは嫌だった。
知らないことを認めるのは嫌だった。
自分の中に足りない何かがある。それを思い知るのは苦痛でしかない。
ちりちりと、焼け石に紙を押し当てるように思考が鈍く燃え上がる。
自分は何をしているのか。こんなおしゃべりに何の意味がある。
そうだ、くだらないことを考える必要はない。いつものように、こいつも……
「じゃ、いっしょに歌おうよ!」
こいしはフランの両手を握ってそう言った。
こんな相手にどう返せばいいのか、フランは知らない。
誰だって自分のことを遠ざけて、腫れ物に触れるようにして。
「……こいしは、わたしが恐くないの?」
「こわい? どうして?」
盗み見たこいしの目は、真っ直ぐにフランを見つめていた。
無垢で暗い瞳。穢れどころか何もないほど澄み渡るそこに引き込まれる錯覚を抱いて目を逸らす。
なんだ、こいつは。フランにとっては未知の感覚。
未知は恐怖だ。恐怖は不快だ。その筈だ。
なのに、どうしてこんなに心躍るのか。
こいしの手を握り返す。壊さないように、そっと。
「いっくよ~? か~ご~め、か~ご~めっ」
「か、ごめ、か、ご、め?」
握ったままの手をぶんぶんと振られながら、たどたどしく真似る。
「そうそう、そうやってリズムつけて、もっと伸ばしてね。か~ごのな~かのと~り~は~」
「か~ごの、かの……り~は~」
言葉を追いかけるのをやめて、音を真似る。
「い~つ~い~つ~で~やあ~るぅ~」
フランをじっと見つめていたこいしの目が細まり、満面の笑顔に変わる。
それを盗み見ながらフランは合わせていく。
「よ、あ~け~の、ば~ん~に」
「つ~るとか~めがす~べった~」
楽しい。理由も何も無く、互いの声を重ねることが楽しいとフランは感じていた。
そしてフランは向き合う。こいしの笑顔を真正面から受け止める。
「「うしろのしょ~めん、だ~あれ?」」
地下室に少女の和音が残響する。
それを最後に一切の音が途絶え、静けさの中で2人は瞳を合わせていた。
「……ふふっ」
「あははっ」
どちらが先か、笑いが漏れる。
もうそこには疑念も敵意も無かった。敢えて言えば、狂おしいまでの純粋さと無邪気さだけ。
フランにとってこいしの"未知"は、不快なものではなくなっていた。
"未知"は、面白い。まだまだ新しいものがある。知ることができる。
こいしはまさに、その塊だった。ともすればそれは、子供が道端の小石を拾って宝物にするようなものかもしれない。
「ねえ、こいし」
「なあに、フランちゃん?」
「もっと教えて。わたしの知らないこと」
「えへへ、いいよ」
こつん、と額を合わせる。
こいしはどんなことを教えてくれるんだろう。フランの心は躍る。
「それじゃ、ここから出よっか?」
そして、その一言で凍りつく。
馳せる思いは格子に囚われる。
「……出られないよ。わたしは、ここから」
それが現実。籠の中の鳥。何時何時出遣る?
495年を待った。その時は未だ来ない。
だから、もういい。この地下室が自分の全てなのだと諦めている。
その外は、未知。幾度となく憧れ、そして怖い世界。
「出られるよ?」
こいしの答えは明瞭だった。
「だって、わたしは入ってこられたもん」
そう、閉ざされたこの空間に彼女は入ってきた。
誰にも見つからず、止められることもなく。
それが出来るこいしなら。自分と渡り合えるほど強いこの子なら。
期待と希望が胸に蘇る。けれどその一方で、それを抑えようとしている自分に気付いていた。
出てはいけない。ここにずっと居る。それが約束だから。
「……ダメ。お姉様との約束だもの」
どんな錠前よりも硬い鍵。
決して破ってはいけないもの。
「そっかあ、フランちゃんは閉じ込められてるんだ?」
「そんな言い方やめてよ!」
知らず、声が荒くなる。何に対して激したのかは解らない。
自分が閉じ込められている事実に対してか、それとも"誰が"閉じ込めているのかを考えることにか。
どちらにせよ、考えたくはない事実だった。
「わたしは閉じ込められてるんじゃないの。わたしの意思でここにいるの」
「あなたの意思? ちがうよ」
無邪気に、冷徹に。こいしは遮る。
「意思ってね、変わるんだ。自分で決めたことってだけだよ」
「……なにが、言いたいの?」
「フランちゃんはね、自分では何も決めてないんだよ」
ざくり、と刃物のように言葉が刺さる。
未知の痛み。自分で引きちぎった腕の方がまだ痛くない。
押さえようもなく、治しようもなく、何が痛んでいるのかも解らない。
イヤだ。これはイヤだ。
「誰かのため、何かのため。そんなふうに考えてガマンしてるだけ」
「やめて……」
「意思なんてもの信じてたら、したいこともできないよ。したくもないことばかりするよ」
「やめてよ!」
「だから教えてよ。フランちゃんが本当に……」
「やめろッ!!」
恐怖を殺意に変えて叩き付ける。そこにもうこいしは居ない。
細い腕が、背中からフランを抱き締める。
さっきの暖かさが嘘のように無機質な腕。
「見せて? フランちゃんがどうしたいのか」
体が動かない。違う、意識が動かない。
「どんなふうに思っているのか」
手が体を這い上がり、探るように胸を触る。
「本当は何を言いたいのか」
首を絞めるように手が添えられる。
「見たいものは何なのか」
小さな手が両目を覆う。フランの世界は闇に閉ざされる。
「ほら、見てごらん?」
その手が離れる。
扉は開いていた。
「……出られる」
言葉になって口から零れた。
「出られるよ」
こいしが肯定する。
足がふらりと一歩を踏み出す。
開かれた扉の向こうには何も見えない。
確かめたくて、また一歩。
それでもまだ見えない。
求めるように、また一歩。
なのに見えてこない。
苛立たしくて、また一歩。
「何処へ行くの」
足が止まった。
「お姉、様……?」
扉は開いていなかった。
前に進んでなどいなかった。
ただそこに、レミリアが―――姉が、いた。
どうして。いつのまに。
「答えなさいフラン、何処へ行くの?」
「わたし、わたしは……」
「フランちゃんはね、わたしと一緒に遊びに行くの」
こいしが割り込む。それを一瞥するレミリアの目は昏い。
「貴女には黙っていて。私はフランに訊いているの」
その僅かな間に姉の視線を逃れたフランの胸のうちに、何かが沸き起こる。
したいこと。いきたいところ。その何もかもを口にしてしまいたくなる。
なのに出来ない。言いたくない自分がいる。
ならその言いたい自分はダレ? 言いたくない自分はダレ?
わたしはどこにいるの?
「おそとにいるよ」
フランの脳裏に響く声。誰よりもよく知っている声。自分の声。
「わたしは、おそとで、まってるよ」
そうだ、おそとにでなきゃ。
そのためにはじゃまだ。
わたしのまえにたっているやつが。
じゃまなもの。
どうすればいい。
きまっている。
こわしてしまえ
腕を振るった。
視界が歪む。
その中にいる姿も。
レミリアも、その後ろにある閉ざされた扉も。
ねじれて、ちぎれて、こわれた。
期待していたほどの快感も恍惚もない。
あるのは疲労と虚脱感だけ。
息が酷く荒れている。頭が重たい。
落ちた視線は床に散らばる四肢を見つめていた。
こんなに簡単なことを、どうして今の今まで躊躇っていたのだろう。
もう誰も邪魔しない。できない。させない。
出ていくんだ、こんな部屋から。暗闇から。
笑いが唇の端を吊り上げる。
瞬きさえも億劫になって目を見開き、顔を上げた。
扉はまだ、そこにあった。
「なに、これ……」
問いに答える者は居ない。
こいしの姿はいつのまにか消え失せ、フランは広大な―――見慣れた部屋とは思えないほど広大な闇の中に居た。
いけない。ここにいてはいけない。
ドアノブに飛びつく。
動かない。がちゃりとも音がしない。力が入らない。
「なんで……っ!? どうしてっ!?」
こわれろ。こわれて。命令は懇願へと変わっていく。
何も出来ない。自分の中に備わっていたはずの力が消え失せている。
「むりだよ」
声がした。レミリアのものでも、こいしのものでもない、自分の声が。
足元から。
恐る恐るその方へと顔を向ける。
バラバラになった自分の体がそこにあった。
「でられないの。わたしは」
そして転がる首が嘲るような表情でそう言い捨てる。
「ずっとずっと、この暗闇でひとりぼっち。そうでしょ?」
ちがう。そう言葉に出来ずに首を振った。
「否定しなくていいよ。だって仕方ないんだもの」
口調は罪状を読み上げるようでいて、しかしどこか言い訳めいた響きで。
「お外は怖いんだもの。見たことのないところに、見たことのない人がいる。とっても怖いところだもの」
体が凍る。ドアノブに手を掛けていることがたまらなく恐ろしくなる。
なのに手を離せない。全身が陶器になってしまったみたいに。誰かに割られるのを待つみたいに。
「だからずっとここにいるんじゃない。ここにいれば傷付かない。怖くない。壊れない。壊されない。心地良いじゃない」
そして気付く。ここはもう自分の部屋なんかじゃないことに。
どこまでも緻密に編まれた籠の中。
分厚い壁は頼りない編目に過ぎない。
怖くて汚い外の世界が透けてくる。照りつける太陽も降りしきる雨も素通ししてしまう。
「もう、ダメだよね」
籠目が指に絡みつく。籠目の向こうから光が透けてくる。
「守ってくれる人のこと、壊しちゃうんだもの」
光が痛い。焼かれていく。
もう何も守ってはくれない。
「か~ご~め~か~ご~め~」
首が歌いだす。
「か~ごのな~かのと~り~は~ い~つ~い~つ~で~や~る~」
だして。ここからだして。
「よ~あ~け~の~ば~ん~に~ つ~るとか~めがす~べった~」
よがあける。あけてしまう。
ひのひかりにやかれてきえてしまう。
ああ、でも。
そうすれば、きっとわたしは。
「うしろのしょ~めん だ~あれ?」
外の世界へ、出て行ける―――
「フラン!」
呼び声はまさに雷鳴。
そして、照らし出した光景を目に焼き付ける雷光。
焼き付くのは―――姉の、顔。
いつもと変わらない、自分の部屋。
何も壊れてはいない。
床も、壁も、天井も、扉も。
「私を見なさい、フラン!」
そして、姉も。
曇りもブレもない鮮明な視界。それなのに目覚めたばかりのように現実感がない。
これはまだ絶望の続きか。
それとも滅びの後の幻か。
「―――お姉、様」
声を出すことに妙な重みがあった。体が現実を主張している。
呆けは暫くして、あは、と笑いになった。
人ならざるこの体が、忌むべきこの力が、こんなにも疲れ果てている。
なんだ。
これはなんだ。
だれに、なにを、された。
「やっぱりダメかあ」
残念そうな語調とは裏腹に、その顔は貼り付けたような笑みを浮かべている。
「こいし……」
「でもいいんだ。フランちゃんの本当の気持ち、わかったから」
その笑顔が、フランには悲しげに見えた。
羨みか、、憧れか、もしくはそれらをとっくに通り過ぎてしまった諦めのようにも。
「貴方ね、私の館に潜り込むだけじゃ飽き足らずフランを惑わせたのは」
そう言ってレミリアはこいしとフランの間に踏み出す。
優雅に、気取るような足取り。それでも背中の翼は妹を守らんと広げられていた。
フランからは、こいしも扉も見えない。ただ、姉の背中だけ。
(―――そうか)
そこにいることが心地よかった。
だから、ずっとそこに居ることにした。
そして怖くなった。外に出て行くことが。
その一方で憧れもした。いつか、この部屋の外へと。
怖くてたまらなくなって、自分から扉に鍵を掛けた。
怖がる自分が認められなくて、鍵を掛けられたことにした。
そうやって、箱庭は完成した。
恐れと嘘で編んだ、籠目の箱庭が。
「お姉様」
フランは呼んだ。まだ力の入らない足を叱り付けて立ち上がる。
それでも支えを欲した腕は、レミリアの肩を求めた。
「無理は許さないわ、フラン」
言葉は厳しく、だけど添えられる手は優しく。フランに力をくれる。
だから大丈夫。
籠の中の鳥は、今今出遣る。
「ありがとう、こいし」
笑いながらそう言った。
こいしは表情を―――笑ったままの表情を―――変えることなく頷いた。
レミリアはそんな二人を代わる代わる見つめ、小さく溜息を吐いた。
「何よ、私は空回り? 蚊帳の外?」
「違うよお姉様。外に出たのは、わたし」
「……まだ変な幻覚でも見せられているのかしら」
じろり、とこいしを睨む。
「違うよお姉さん。わたしが見せたのは、本当の気持ち」
フランの言葉を真似て返す。レミリアは面白くない。
「本当に不愉快な闖入者ね、やっぱり消しておこうかしら?」
「大丈夫だよ、わたしは消さなくても消えるから」
消えるから。その一言が、なぜかフランには悲しく聞こえた。
「こいし……わたしは」
後の続かない呼びかけ。応えるのは変わらない、全く変わることのない笑顔。
「あーあ、失恋しちゃったなぁ」
「えっ?」
唐突な単語の意味が解らず、フランは目を瞬く。
「だってフランちゃん、お姉さんのことしか見えてないんだもん。わたしの入り込むスキなんてないよ」
こいしはくるりと体を翻してフランに体を寄せる。
「だからね」
そっと手を繋ぐ。蔦が柱を伝うように指を絡める。
そして頬に唇を。
「これだけ、させてね?」
「は、離れなさいッ!」
威厳も何もなく、大慌てで引き剥がすレミリア。
呆気にとられながら口付けられた頬に手を添えるフラン。
そんな二人を見てこいしは微笑む。貼り付けられた能面の笑みではない、どこか寂しげな微笑。
「ばいばい、フランちゃん」
言葉だけが耳に残る。
もうそこにこいしの姿は無かった。
部屋の中には寄り添う姉妹だけ。
驚きと照れくささと気まずさと、そんな無邪気な感情だけが沈黙を埋めていた。
「お姉様」
静かな水面に木の葉を浮かべるように、フランは静かに呼びかけた。
この空間を、時間を壊したくなかったから。
「……何かしら、フラン」
視線は合わせない。
きっとお互いの顔を見たら、そこで終わってしまうから。
今までずっと繰り返してきたことと何も変わらないから。
言うんだ。
「わたしね、外に出たい」
調弦のような作為と何気なさの間で、言葉にする。
やっと言えた達成感と、言わなければ良かったという悔恨が胸のうちに混ざり合う。
叶えたい願いだった。叶わなくとも伝えたい思いだった。
本当に辛かったのは、外に出られないことじゃない。
思いを伝えられない自分がいること。そのことで勝手に姉を嫌いになりそうな自分がいること。
いっそ壊してしまえたら。それが自分でも姉でも構わない。終わらせられるなら。
そうやって願いは歪んでいった。
だから今は、ただ伝えたい。本当に望んでいたこと、それだけを。
レミリアは応えない。
答えはいくつでもあった。
妹が全てを委ねている。
鳥篭を今度こそ永遠に閉ざすことも、開け放って空に放してやることもできる。
レミリアもまた、フランを見ない。
そのままゆっくりと歩き出す。
重い地下室の扉に手を掛ける。
その重さに似合わないほど、静かに開いてゆく。
そしてただ一言。
「これまでと、同じよ」
そう残して部屋を出て行く。
扉が閉まる。
鍵の音は、しなかった。
「か~ご~め~か~ご~め~」
地下室に、覚えたての歌が響く。
「か~ごのな~かのと~り~は~ い~つ~い~つ~で~や~る~」
ところどころ音階が外れる。それでも続ける。
「よ~あ~け~の~ば~ん~に~ つ~るとか~めがす~べった~」
さて困った。最後の部分が思い出せない。
諦めてあてずっぽうで歌おうとした時、あの声が歌を引き継いだ。
「うしろのしょ~めん だ~あれ?」
「……こいし?」
「あったり~♪」
いつのまに。性懲りもなく。
様々な思いが浮かんでは消えたが、最後には自然と笑みが浮かんだ。
「やっほ、フランちゃん。横恋慕にきたよ」
「よこれんぼ?」
「略奪愛でもいいよ」
「りゃくだつあい?」
知らない言葉がどんどん出てくる。
未知は怖い。けど面白い。そう思わせてくれたのはこいしだった。
「というわけでね、フランちゃん」
「なに?」
「今度こそわたしに攫われてみない?」
フランは首を振る。笑いながら。
「むぅ、なんで? もうお外に出られるんでしょ?」
こいしは頬を膨らませる。それがなんだか可笑しくてフランはまた笑う。
そう、外に出られる。
扉に鍵なんて無かった。最初から。
ただ扉を開けようとしなかっただけ。
「わたしは、ここがいいんだ」
屈託の無い笑顔。こいしは変わらない笑顔で応える。
「そっか、それじゃお外に出たくなるような話でもしよっか?」
何が何でも連れ出したいのか、フランの周りをくるくると踊りながら提案する。
まるでかごめかごめみたい。フランはそんなことを思う。
そして思いつく。
「こいし、歌おう」
差し出した手は、しっかりとこいしと繋がった。
「うん、かごめかごめ? それとも他の?」
「他の? 歌ってそんなにたくさんあるの?」
「もっちろん! それじゃ最初はね……てるてる坊主ね!」
「てるてるぼーず?」
「うん! 雨がやまないと首を切られちゃう子の歌だよ!」
「面白そうだね、聞かせてよ」
こいしが歌いだす。
フランが聞き入る。
こいしはフランの手を取って、一緒に歌いだす。
少女たちの声が音色になって満ちる地下室。
ここは開かれた籠目籠目。
愛されて篭る、安心の中。
フランちゃんもこいしちゃんも、非常に可愛らしかったです。
なんとなく、レミリア様が人の意思をフランちゃんが人の感情を暗喩している気がします。
無意識が意思によって抑制された感情を解き放とうとするが、意思によって踏み止まるみたいな。
邪推すみません。とにかくおもしろかったです。