薄暗い林の中を少女が駆ける。
木々を吹き抜ける風。右手に掲げた灯りは煽られ、左手に提げた籠は振り回される。今にも少女の手から離れてしまいそうなほどに。
着物はあちこちが枝葉に擦れ、結び目も解けかけていた。しかし少女はそれを直そうともしない。ただ一心不乱に駆けてゆく。
既に空は暗く、幻想郷は妖怪の世界となっている。
その中で、人間の少女が一人。
「――あっ!」
里まであと少しという所で、少女はうつ伏せに倒れ込む。
すぐに起き上がり、落とした灯りと籠を拾い直す。風の音がより大きく聞こえ、少女は一瞬身を竦ませる。
そして再び走り出した。
やがて林を抜ける。
里の灯りは、林の中に比べると眩いほどに感じられた。
その中へ飛び込み、ようやく少女は足を止めた。
「おぅーい!」
息を切らせてしゃがみ込む少女の元へ、男が走り寄って行く。
その声を聴いて少女はやっと安堵したのか、顔を上げて微笑んだ。
「大丈夫だったか? 怪我はないか?」
「うん、大丈夫だよ、お父さん」
父親は娘の手を取り、背中に負ぶって里の中へと歩き始めた。
背中に感じる娘の体温に、父親はほっと一息つく。
「まったく、どうしてこんな夜中まで外で遊んでいたんだ」
「その……木苺を摘みに行ってたら、途中でお昼寝しちゃって」
「気を付けてな。ただでさえ、ここしばらくは妖怪の被害が多いんだから」
背中の娘と話しながら、父親は家路につく。
夜の人里は静かで、人影もまばらであった。
「ねえ、その妖怪の被害に遭った人って、どうなっちゃうの?」
不安げな口調で、娘が聞いてくる。
「それはだな……ん?」
ぬるり。
少女の脚を持っていた父親の左手が、少し滑った。
汗にでも濡れたか。そう思い、父親は娘の脚を持ち直そうとして――また滑る。
それを二度三度繰り返して、訝しげに父親は自分の左手を見た。
その手は、真っ赤に染まっていた。
◆ ◆ ◆
「なあ、あの話聞いたか?」
「ああ。なんでも、今度の被害者は子供らしい」
「ついに子供まで……これで何人目だ?」
「七人目だ。もういつ死人が出てもおかしくない」
次の朝、人里の話題は昨夜の事で持ちきりだった。
不可解な事件。夜の林から帰った少女が、父親に背負われて帰路についた。その途中、何も危険なものはないはずの里の中で、大怪我をしたという。
里の周辺では似たような事件が最近になって起き始め、大きな問題となっていた。
妖怪の仕業だと里の人々は思ったが、里を訪れる妖怪は皆事件との関わりを否定する。
そのこともあってか、里の人間と里を訪れる妖怪との間にどことなく不和が表れ始めていた。
里の寄り合いにおいても、男たちの話題の中心は一連の事件についてであった。
「このままじゃ、碌に外も出歩けなくなるな……何とかしなきゃいかん」
「かといって、里の妖怪退治できるもんは大体やられたか、到底敵わんと逃げ出したかだしなぁ」
「既に大分噂が広まっちまってるけど、これ以上里に不安を広める訳にもいかないだろ」
あれやこれやと意見を出し合うが、なかなか良案には巡り合えない。
やがて、誰かがぽつりと言った。
「……博麗さんは、どうかねぇ」
男たちは顔を見合わせる。
そういえば、と言わんばかりの様子であった。
「確かにな。里のもんにどうしようもないなら、それも手かも知れん」
「頼りになるのか? まだ小さい女子だそうじゃないか」
「さてねぇ。だけど、他に妖怪を退治できるもんがいるかというと……」
その後、男たちはしばらく話を続けたが、ひとまず里の有力者の積極的な協力を仰ぐという結論が出たところで、その場はお開きとなった。
◆ ◆ ◆
二日後。
「すみません。これ、ください」
人里の茶屋にて、少女が暢気に買い物をしていた。
幻想郷でも珍しい白袖に緋袴、赤い大きなリボンで髪を結んでいて、手には小さい袋を提げている。
「はい、どうも。それじゃあこれはおまけだよ」
「ありがとうございます」
「こっちこそ、いつも買って行ってくれるから大助かりだよ、博麗さん」
博麗さんと呼ばれた少女――博麗霊夢は、少し多めの茶葉を籠に入れて、上機嫌に鼻歌を歌いながら次の店へと歩いて行こうとする。
その時。
「おお、博麗さん、ちょっと待ってくれぇ!」
大声で呼び止められて、霊夢は少し驚いた様に振り向く。
「あの、どうかしたんですか?」
「丁度良かった。博麗さん、あんたに頼みたい事が……いや、依頼したい事があるんだ」
「依頼したい事、ですか」
「そうだ。とりあえず、話だけでも聞いてくれないか」
ゆうに倍は生きているであろう男に深く頭を下げられて、霊夢は慌てて止めさせた。
男の申し出で近くの団子屋に入り、霊夢は出されたお茶を啜って、姿勢を正す。
「それで、依頼というのは……」
「他でもない、退治して欲しい妖怪がいるんだ。いや、まだ妖怪だってはっきりしてる訳じゃないんだが、皆妖怪の仕業だと思ってる」
そして男は、最近の里で連続して起こる怪事件の事を、知る範囲で霊夢に話し始めた。
主に里の外に出た人間が被害に遭う事、何故か里に戻って来てから激痛が生じると共に傷が広がる事、姿が見えず手の出しようがない事。
一通り話し終えた所で、男は再び霊夢に頭を下げる。
「既に里の人に被害が出ているんだ。是非とも、博麗さんの力を借りたい」
そう伝えて頭を上げ、団子を運んで来た店員にお金を払い、男は霊夢をじっと見つめる。
話を聞きつつ団子を頬張り、霊夢は何かを考えていた。
「他に、共通した事はないですか?」
「あ、ああ……被害に遭った人は皆、足に深い切り傷があったって事くらいか。そ、そうだ、それにもう一つ。こんなこと言っても信じてもらえないかも知れんが……」
「何でしょう。なんでも言ってみてください」
男は、少しの間逡巡している様子だったが、やがて呟くように言った。
「無事だと、思ったんだ」
「えっ」
「どこも怪我していなかった。そう見えた。だから、何ともなかったんだと。なのに! 背負っていたら、血が……」
そう絞り出すように言って、男は手で顔を覆った。
「そうですか……」
そうして少しの間、霊夢はお茶と団子を食べ進める。
皿に串だけが残った頃、霊夢は左の袖に手を入れ、頷いた。
「分かりました、引き受けます。それと、お茶とお団子、ありがとうございました」
ふっと微笑んで、霊夢は立ち上がり団子屋を出る。
男が何か言おうと追いかけて行った時には、既に霊夢は里を飛び立っていた。
◆ ◆ ◆
暗い林の中を、霊夢は歩いていた。
札を燃やして灯りとし、手には何も持たず、けもの道を奥へと進んで行く。
吹き荒ぶ風が木々を揺らし、葉を散らしては霊夢の袴を撫でて流れて落ちた。
「さて、聞いた話ではこの辺りだったはずだけど……」
林の中、詳しい場所までは霊夢にも分からない。ただ、現時点で最後の被害者である少女が居たのが、この林だった。
じっと立ち止まって、妖怪の気配を調べる。風に擦れる枝葉の音が、一際大きく耳に入る。
「…………」
時間が経つに連れて林に吹く風も強さを増し、耳障りな程の唸りを上げる。
つむじを巻くように散った葉を吹き上げ、風はそのまま霊夢の足元へと飛んできた。
――キィン!
その瞬間、金属同士を叩いたような音が、霊夢の右の足もとから響いた。
霊夢の袴は風で僅かに捲れ、結界で覆われていた素足を表に晒す。
それに目もくれず、霊夢は風に負けぬほどの大きな声で、木々に向かって話しかけた。
「私は博麗霊夢。もしあんたに意思が有るなら、スペルカードルールで勝負よ!」
しかし、返ってきたのは先程のような金属音であった。今度は霊夢の左足からである。
スペルカードルールにおいて宣言のない攻撃は認められない。結界がなければ、霊夢の両脚は無事では済まなかっただろう。
妖怪に決闘の意思は無し。それを確認した霊夢は左の袖に手を入れた。
引き出されたのは、霊夢の指に挟まった四枚の御札である。
「それじゃあ、遠慮無く退治させてもらうわ」
姿の見えない妖怪に向かって告げ、霊夢は手にした御札を四方に投げた。
投げた札は途中で軌道を変え、動きを合わせて飛び回る。
しばらく周囲を廻った後、御札は一直線に霊夢の方へと戻って行く。
「はっ!」
霊夢は右足を軸に九十度回転する。その背中を突風が掠め、すぐ後ろを御札が通り過ぎて行った。
御札は再び霊夢の周囲を旋回し、断続的に霊夢目掛けて飛来する。
横にステップを踏み、右手側からの風を一歩下がって避ける。
さながら風の中を舞う鳥のように、霊夢は戦っていた。
やがて、飛び回っていた御札が電撃のような音を立てて弾けた。
御札は一枚、二枚と数を減らし、終には四枚全てが弾けて消える。
同時にガサガサという草の音は止み、強く吹き付けていた風も嘘のように止んだ。
「そこに居るんでしょう?」
ある一点に霊夢は目を留め、再び左の袖に手を差し入れて二本の針を取り出す。
投げた針は狙い違わず霊夢の視線の先へ飛び、草むらを射抜いた。
おおよそ、人間とは思えない叫び声が上がる。
霊夢は無言で針の向かった先に歩いて行き、草むらを掻き分けて針の存在を確かめた。
「やっぱりね――鎌鼬」
そこには、霊夢の投げた針に脚を貫かれ、恨みがましく見上げてくる小さなイタチの姿があった。
◆ ◆ ◆
「お待たせしました。元凶はこの妖怪だったようです」
翌日、霊夢は里の依頼者の所へ出向き、昨夜に捕らえた妖怪を見せて、真相を説明した。
人の脚を斬り、その傷口は間をおいて開き、現れる時は風が吹く。
鎌鼬――幻想郷においては天狗の使い魔として使役されることもある低級妖怪である。
しかし、使い魔ならば無暗に人間を襲う事など考えにくい。これは主を持たない野良鎌鼬だと思われた。
知性を持たぬ、本能に駆られた妖怪が人間を襲う事は稀にあったのである。
鎌鼬の特徴と共にその正体を確認して、男は喜びの声を上げた。
「なるほど、こいつが原因だったのか……まだ生きているみたいだけど、暴れたりしないのか?」
霊夢の掲げる鎌鼬の身体は、微かに動いていた。
話している間も、時折弱弱しげにもがき、か細い鳴き声をあげる。
「厳重に封印してあるので大丈夫です。暴れたとしても、精々かすり傷程度でしょう」
「そうか……それならむしろ好都合だ。こいつを見せて回れば皆が納得してくれるだろうよ」
恐る恐る鎌鼬を受け取って、男は改めて霊夢に頭を下げた。
そして懐から大き目の封筒を取り出して、そのまま霊夢に差し出す。
「ありがとう。今回のお礼には少ないかも知れないが、これからも頼りにさせてもらうよ」
「どう致しまして。これは有り難く受け取ります」
「それから――これを」
封筒を受け取った霊夢へ、男はさらに小さな籠を渡してくる。
笑顔を見せながら、男は言った。
「摘みたての、ってほどでもないですが、木苺です。少しですが、よければ」
「あら、いいのでしょうか。では遠慮なく」
霊夢はその籠も受け取って、話を続ける。
「まず大丈夫だと思いますが、できるなら早めに今後の事を決めておいた方がよいですよ」
「そうだな……とりあえず、里の連中に知らせてやらないと」
事情を知らない人や妖怪は、未だに疑念を抱えたままでいる。
そういった者たちも、事件の真相が明らかになったと知れば心の平穏を取り戻すだろう。
人里に立ち込めていた暗雲、人間と妖怪たちとの間の不和も、ようやく解消される。
「これでやっと娘も安心できる、早く伝えてやらなきゃな」
「そうですね」
「それじゃ、本当にありがとう、博麗さん」
依頼者である男は繰り返し頭を下げ、丁寧に礼を述べた。
そして鎌鼬に襲われて床で臥せっている娘の元へ、走り帰って行く。
去り際に、男の掴む鎌鼬が一際高く、哀しげな悲鳴をあげた。
「さて、折角里まで来たんだから、またお茶でも買おうかしら。お茶菓子も買い足さなきゃね」
貰った封筒は、割と厚みがあった。
その感触に上機嫌で鼻歌を歌いながら、霊夢は行き付けの茶屋へと歩いて行く。
「ああ、いらっしゃい博麗さん」
昨日と同じように、店員は笑顔で霊夢を迎える。
霊夢はお気に入りのお茶を手に取って、封筒の中身を少し取り出す。
そして同じく笑顔で言った。
「すみません。これ、ください」
平穏な人里の、昼下がりのことであった。
終
少しだけ、戦闘時のテンポが気になりました。説明は必要ですが、もう少し大胆に削ってテンポを付ける部分があればもっとメリハリがつくのでは、とも思います。
楽しく読めました。
文章力が高い作品であると思います。
ただ、あまりにも短い。面白いのに全然食い足りない。
この雰囲気で50kbほどの作品を読みたいと、切望する次第です。