私達は追い返す事に専念すれば良いのです。
――小説版東方儚月抄:綿月豊姫
――小説版東方儚月抄:綿月豊姫
鉛色の管制室で、綿月豊姫は一つ息を吐いた。
背もたれに身を預け、コンピュータのモニターから一旦目を外す。そして伸びを一つ。やけに疲れた気がするのは不得手な調べ作業などしているせいか、久方ぶりの外勤のせいか、単純に椅子が硬いからか。
「豊姫様、大丈夫ですか?」
側に立っていたレイセンが不安そうに声を掛けてくる。もっとも口調にはやや遠慮が見られた。何ら作業に貢献できていない自分への後ろめたさがあるのだろう。
せめてとの思いから出たペットの気遣いに、豊姫は微笑みで応える。
「別に平気よ。ただほら、ちょっと暑いでしょ此処。蒸すし」
「ああ、そうですね……」
二人は同時に振り返る。無機質な空間の向こう、ガラス一枚隔てた先には、"命"がひしめき合っていた。縦横無尽に伸び這う草木は互いに絡み、縺れ、粘りながらなおも己が生き場所を索(もと)め進まんとする。押し寄せる緑に、豊姫の本能が身震いを起こす。命の足掻き――月人にとってそれは本来厭うべき穢れでしかないから。
くっと、喉が詰まる感じがした。慌てて目の前の仕事に意識を戻す。
「豊姫様が調べておられるそれは、一体何なのですか?」
レイセンがおずおずと尋ねてきた。ずらりとボタンが並んだキーボードに指を踊らせながら、豊姫は答える。
「これ? まあ、簡単に言えば式神ね。予め命令を書き込んでおくと、後は勝手にその通り動いてくれるの。地上の人間が月に攻め込んできた時も、似たような物を使っていたわ」
「じゃあやっぱり、この宇宙船は地上の人間が操作していると見て間違いないのですね」
「ええ……」豊姫は少し言いよどむ。「まあ、そういうことね」
「なるほど」と頷くレイセン。素直な子だなあと、豊姫は微笑ましい気持ちになった。早く帰っておもいっきり可愛がってやりたいもんだと、軽い現実逃避に走る。
「となると……地球の連中はまた懲りずに月への侵攻を目論んでいる、ってことになるんでしょうか?」
「ふふっ……ま、少なくとも月夜見様はそんな懸念を抱いておられるみたいね」
「? では豊姫様は別のお考えを?」レイセンは意外そうに訊いた。
「さあどうなんでしょうねぇ……って依姫帰ってきたみたいね」
その生真面目顔をもうしばらくからかっていたかったが、監視カメラのモニターにもっと真面目な顔が映った。豊姫は作業を止め出迎えに行く。管制室の外に出ると、ムワッとした熱気が彼女の肌を刺した。くらっとする。
「只今戻りました」
顔を顰めていた姉へ硬質な声が投げられる。声の主である綿月依姫は、この熱気と湿気にも顔色ひとつ変えることはない。汗すらかいていないのだろう。豊姫は単純に「凄いなぁ」と思った。長めのポニーテールを軽く振った依姫、手にあった業物を腰へ差し直す。
「どうだった、様子は?」
「植物と蟲が至る所に跋扈していました。どれも地球の生命体で間違いないようですね」
依姫は淡々と報告する。けれどその顔には若干の辟易も覗えた。彼女程の実力があっても、かくも濃密な穢れに触れるのはやはり快いもので無いということか。
「それと、船内の中央部に神社と思しき建造物を確認しました」
「神社? それは面白いわね」豊姫は扇子をぱっと開く。
「どうやら天鳥船を祀っているようです」
「あら、なかなかいいチョイスじゃない。地上の人間共にも、まだそんな信仰心が残ってたのねぇ」
「ええ、私も少々意外でした」依姫はニヤリと笑みを浮かべた。「祭祀の方法もしっかりしていて、正統な手順を踏んでいました。とっくに廃れたと思っていましたが、そんなことが出来る者もまだ残っているのですね」
豊姫も扇子の裏で笑った。レイセンはちょっとたじろぐ。主人達が交わす含み笑いは、およそ彼女の理解が及ぶものではない。
「さて、どうしたものかしらね」
と帽子を脱ぐ豊姫。再び腰を下ろす前に、
「墜としますか」
依姫の一言が飛ぶ。躊躇いの欠片もない口調であった。そんな妹を茶化したかったのか、姉はわざとらしい間を設けてから、
「さあ? そんなこと私の一存でどうとは言えないわ。月夜見様のお考えもあるでしょうし」
他人事のように返す。端から上への報告など、まともに行うつもりがない上での言葉。曖昧な返答に依姫は少々不服そうだ。表情に出すことはなかったが。
この宇宙ステーションの存在を豊姫が知ったのは打ち上げられた直後のこと。数年ほど前になるだろうか。その時は豊姫はじめ月人の誰もが、地上の連中が性懲りもなく宇宙に向けゴミを飛ばした――そんな程度の認識しかなかった。
だが船は奇妙な挙動を示す。想定された軌道を外れ、ゆっくりと地球−月系のラグランジュ点を目指したのである。大多数の月人は愚かな地球人の失策と笑い飛ばしたが、一部の心配性があれやこれやと憶測を立てた。曰くあれは偵察衛星なのではないか、前線基地なのではないか、或いは超遠距離型の大量破壊兵器では――云々。すったもんだの末、豊姫一行が偵察に向かうことと相成ったわけだ。
無論そんな任務を甘んじて受けるほど、彼女たちもお人好しではない。生真面目な依姫はまた別として、豊姫からすれば月夜見の当てこすりとしか思えなかった。やる気などあるわけがない。
3人の輪に無音が下りる。響くのは水のせせらぎと木々のざわめきくらい。それすら分厚い部屋の壁に阻まれ届くことはない。だとしても月に住まう者からすれば十分すぎるほど姦しい。ここは余りに生命が――穢れが――満ち溢れすぎている。
湿気でべたつく髪をいじりつつ、豊姫は管制室を埋めるコンピュータへ再び目を遣る。金属の式は主人の命の下、粛々と務めを果たし続けているようだ。大気、水質、土壌……全てが"何者か"の意思に基づき適切に調整維持されている。ここから38万km離れた、あの穢土(えど)と同じ環境となるように。
「――もう一つ、報告せねばならないことがあります」
もったいぶった調子で口を開いたのは依姫。豊姫は思い出したように振り向く。
「この船全体には、結界が張ってあるようです。非常に特殊な」
「特殊というのは――」
レイセンが尋ねようとした瞬間、場の空気が変わる。正確に言えば、問われた依姫のみが変わったのか。眼光鋭く刀へ手を掛ける。
「どうかしたの?」
問う豊姫はあくまで平か、動揺の欠片さえ臭わせない。とは言え何も感じていないわけでは無論ない。腹の内では場の変化をそれなりの深刻さで受け止めていた。
「結界に緩みが生じました。どうやら侵入者のようです」
半ば予想していたのか、豊姫は仄かに頷いた。外していた帽子を掴み上げる。
「数は?」
「断定はできません。ただ歪みの大きさからして一人か二人、多くて三人でしょう」
「他に予想しうることは?」そう言いながらすっくと立ち上がる。
「種族についてはやはり判断しかねます。ただ、それほど強い力は感じません」
「宜しい」
帽子を被り終えた豊姫は軍師の顔をしていた。侵入者という言葉が出て以来ずっと体を強張らせていたレイセンへ、二人の綿月はピタリ同じタイミングで視線を投げる。
「レイセン、貴女に偵察の任を与えます」
「えっ! わ、私ですか?」
「他にいますか」依姫の面持ちも既に上官のそれであった。「交戦の必要はありません。敵の数、性質を把握し、確認次第私にまで報告すること。何か質問は?」
「いや、えっと、無いです……」
もにょもにょ口ごもるレイセン、豊姫の悪戯心がパッと灯る。
「そうだ依姫。こういう場合一応カモフラージュが必要ではなくて? 相手が正体不明とあれば、玉兎と悟られることも避けるべき。それなりの予防策を張るのが必定かと思うけれど」
依姫も姉の意図を汲んだのだろう、怜悧な顔つきにはお転婆な少女の面が混じっている。こちらも姉に負けず劣らず部下いじりが好きなのだ。根が真面目な分さらに質が悪いとも言える。
「確かにそうですね。兎のまま、というのは任務遂行の妨げとなりしょう。レイセン、貴女変装とかはできないの?」
「へ、変装ですか?」
上司の質問ということも忘れて、哀れな玉兎は素っ頓狂な声を上げてしまう。豊姫は笑いが漏れそうになるのを堪えながら、言葉を重ねる。
「そう。天女に化けるとか、猿とか鼠とか、あと猫とか。なんでもいいわよ」
レイセンは完全に狼狽していた。玉兎が変化(へんげ)できるなんて話、初めて聞いたからだ。もちろんできるわけないのだが。
「なんですか、貴女はそんなこともできないのですか?」こちら依姫も笑いを噛み殺し大げさな溜息を吐く。「なら仕方ないですね。私が神降ろししてそれっぽくしてあげましょう。どんなのが良いでしょうか」
「そうねえ……なんか突飛なのがいいわ。そんじょそこらじゃお目にかかれない感じの」
「いや、私、出来れば普通の方が……」
ほとんど消え入りそうな声で、愛玩動物はこれだけ返す。依姫はにやけ顔を明後日の方へ向けながら答えた。
「なりません。これは重大な任務なのですよ」
「そうですよ」姉の方は緩み切った口元を扇子で隠す。「それにこれは貴女の命を護るためでもあるのだから」
もうレイセンは「はい」と言うしか無かった。姉妹はしてやったりの顔を突き合わす。月人にとって戦とはこういうものであった。戦争が暇つぶしでなければ何だというのだろう。
*
それからさして間を置かぬ内に、レイセンはジャングルの奥深くにいた。
結局綿月姉妹にされるがまま、しっちゃかめっちゃかに神様を降ろされた。猫神に天鳥船、稲荷神なんかもいたはず。狐の体に鳥の羽、猫の顔に、耳だけ兎――今の自分の姿を想像してレイセンは死にたくなった。
とはいえ今は曲りなりに任務中の身である。この密林の向こうに未知の侵入者がいると思えば、自然と身も引き締まる。雑念を打ち消し、息を整えた。
縺れあう木々は深い。鼻から入る木霊は、数百年前地上に堕り立った時と近い。いやもっと濃密かもしれない。彼女は軽い目眩すら覚えた。ここは紛れもなく地球なのだと思い知らされる。たとえ銀河に浮かぶ、隔絶された小島の中だったとしても。
いそいそと虫が這う。土と水の匂い。彼女はもはや上司に弄ばれたことなど忘れた。それほど周囲は穢く、月に住まう者には苛烈な世界であった。飲みこまれそうな恐怖すら覚えたのである。
息を止める。長い耳が気配を察したのは、その直後。
『――わぁ、これが衛星トリフネの内部なの?』
緊迫感のない声であった。レイセンも梯子を外される。まだ若い、女の声だ。
それでも身を伏せ、物陰から様子を窺う。藪がチクチクと四肢を刺した。
どうやら二人組、らしい。格好からして兵士や宇宙船の乗組員には見えない。というかスカート履いた少女二人組なんて、そもそもがこの場に――無人の宇宙船とジャングルのどちらにも――相応しくない。二人は和気藹々と会話しながら、散歩でもするかのような足取りでうねる木々の隙間を跳ね回っている。
レイセンは大いに戸惑った。さっきまでの緊張感はどこいっちゃったの? といった感じである。まだコテコテの宇宙怪獣あたりとドンパチやってた方がマシだったんじゃ……なんて考えが浮かぶほど。
それでも一応任務は任務だという、まっとうな義務感がこの玉兎を促した。相手の背後をとって、ギリギリまで接近を試みる。
一人は黒髪。帽子にケープ、スカートも黒と、全身黒ずくめの身なりだ。周囲を蠢く蟲や植物を摘み上げつつ、あれこれ講釈を垂れているのだろうか。上司の言葉通り、大した力はなさそうである。
そしてもう一人。紫のワンピースに肩までかかった金髪、そして豊姫に似た帽子……と、ここでレイセンの脳裏に引っかかりが生まれる。
――あれ? あいつ、どこかで……?
紫の方は黒装束の後ろにひっつきながら、止まない薀蓄に耳を傾けているふうだ。若干うんざり気味にも見える。まごうことなき人間。ごく普通の……でも、どこかで見たよなあ――レイセンは記憶をたぐる――やっぱりこんな穢れに満ちた、生物に囲まれた場所で、でももっと暗くて、月が――
「あっ!!」
間抜け玉兎はここで声を上げてしまう。当然相手もそれを聞き漏らさない。
『……ん? 何の音?』
振り向く。近づいてくる。当然逃げるという選択肢はあった。いや、依姫の命に忠実たらんとすれば、そうすべきだったろう。レイセンがそうしなかったのは、あの金髪の女が誰だったか思い出したから――そのことが大きい。要するに高を括ったわけだ。かつてふん縛って土下座させた"妖怪"なんぞ、今更恐るるに足らず! と。
勇ましく藪から姿を現す。幸いと言うべきか、フェムトファイバーは携帯している。あの時とおんなじように縛り上げて、豊姫様の前にひっ立ててやろう――経験の浅い兵士がよくやらかす勘違いに、今の彼女も陥っていた。
レイセンの姿を見るやいなや、金髪の方は明らかな動揺を見せた。こちらはいっそう自信を深める――やっぱりそうだ。いけるぞ、と。
しかし黒髪の反応は予想外だった。興味深げな面持ちで、こっちをじろじろ観察してくる。
『うーん、合成獣かしら。』
夜郎自大の玉兎もようやく思い出す。今自分がどんな姿形をしているのかを。
その後も黒髪はあれこれ言っていたが、レイセンの耳には一切入らなかった。それ以前に恥ずかしくてたまらなかったのだ。宴会の罰ゲームでもやらないような格好をして、意気揚々と飛び出した自分の間抜けっぷりが。
金髪はやはり怯えを隠せないでいる。黒髪の背に身を隠し、何やら喚いている。だがそんなことは今のレイセンにとって些事であった。
脳裏に自分の姿態が浮かぶ。想像したくもないのに、振り払おうとすればするほど鮮明な像を結ぶ。顔は猫、体は狐、鳥の羽を背に負い、耳は兎――これはひどい。本当にひどい。
瞬間頭が吹っ飛んでしまったこの玉兎は、こんな姿を見られたという羞恥心と、相手への理不尽な怒りと、地上の生き物を見くびる気持ち、そしてほんの僅か残っていた任務への忠誠心をごたまぜにして爆発させた。要するに特攻を仕掛けたわけだ。策もへったくれもなく、正面から飛びかかる。
「こっち見るなぁぁ!!」
言った本人が訳もわからず、腕を振る。金髪の顔面を強かに捉えたはずだった。かつて月に攻め入ろうとした愚かな"妖怪"を、再び地べたに這わせたはずだった。だが拳は虚空を切るばかり。
加減なしで飛びかかったせいであろう、レイセンはそのままつんのめりすっ転げた。混迷の只中で身を立て直す。自分が敵と相見えていたことを思い出す。慌てて周囲を見回した。いない。気配すら失せた。
そう、二人は忽然と消えたのだ。
レイセンは、何か悪い夢でも見ていたかのような気分になった。
*
「――と、いうことがありました」
レイセンは消え入りそうな声で報告を閉じた。肩は落ち、憔悴しきっている。豊姫はちょっとおふざけが過ぎたかなと反省した。
「で、その金髪の女に見覚えがあったというのは、確かなのですね?」
しかし依姫はそれどころではないらしい。まあそりゃそうだよなぁと、豊姫も横で聞いていて思った。レイセンを慰めるのは後回しにせざるを得ない。
「は、はい。前に豊姫様と地球に堕りた時、竹林で捕縛したあの妖怪、それと瓜二つでした。力は……無さそうでしたし、今思うとそんな妖怪っぽくもなかったですけど……」
レイセンの声は、後ろの方へ進むほどボリュームが下がっていく。依姫は困ったものだと嘆息した。まあまあと、姉は目配せで妹をたしなめる。
「わかりました。ご苦労様。貴女は少し向こうで休んでいなさい」
依姫の労いにも、やっと聞こえるか聞こえないかの声で「はい……」と返すだけ。レイセンはとぼとぼと管制室を出る。姉妹は苦笑いを浮かべながら目配せ。ペットを不憫に思う気持ちは、どちらも変わらないらしい。
「――して、お姉さまはどう見ますか」
そして切り替えの早さも、この姉妹は共通している。依姫の眼光には鋭さがあった。
「さあ、どうでしょう」
と惚けた豊姫にも、普段の緩さは失せていた。先程まで調べていたコンピュータの前に、音もなく腰掛ける。
「実はこの式神、ちょっとばかりおかしな所があるのよ」キーボードへ指を添える。「作り自体はもちろん人間が使っているもので間違いない。でもね、内部で動いている式本体は別物」
「妖の式、ということですか?」
「理解が早くて助かるわ」くすりと意味深な微笑。「正確に言えば、人間の組んだ式に妖怪の式が潜ませてあった、みたいな感じかしら。それはしかるべきタイミングで人の式を乗っ取り、意のままに操る。妖怪らしい姑息なやり方」
「つまり、船をここまで移動させ、生物を存続させているのは――」
「そう、どこぞの妖怪の仕業ってことになっちゃうわねぇ」
依姫は小さく頷く。豊姫は扇子を開き、口元で泳がせた。
「私もさっきは言いそびれてましたが」目を瞑った依姫、白々しく説明をはじめる。「この船に張り巡らしてある結界、おそらくは妖怪が張ったものかと。お姉さまのよくご存知の、幻想と現実を分ける結界です」
「あらまあ、どうしましょう」
豊姫の視線はコンピュータを向いたまま。言葉は続かない。それでも脳裏に浮かぶのは同じ。「妖怪」なんて曖昧な言い方で濁しても、心当たりなど幾つもない――式を操り、地球から38万km離れた宇宙ステーションと行き来ができ、古来のやり方で神を祀る術を知り、広大なステーション全てを覆う結界を張ることができる妖怪など。
「貴女は、どう考えますか。この船の目的を」
豊姫は少しばかり低い声で意見を求める。依姫は率直に返した。
「難しい質問ですね。まだ"これ"という確信は持てずにいます」
「例えば? なんでもいいわ。言ってみて」
「あくまでこれは想定しうる最悪のケースですが」依姫は一息挟んだ。「この船を直接月の都へ落下させる、とか」
「まあ怖い」芝居臭さ満点で怯えてみせる豊姫。
「物理的損害もあるでしょうが、それよりも問題となるのは船内にひしめく動植物達です。この量の命が月面上で死に絶えれば、穢れによる被害は甚大となりましょう」
淡々と述べられた妹の言葉に、豊姫は「うーん……」と唸り声を上げた。帽子を取って髪を掻き上げる。こうなってしまっては適当に調査を済ませて「はいおしまい」とはいかない。面倒な事になったなと、心中で顔を顰めた。
「仮にレイセンの話が全て事実だったとして、気になるのは――」
「黒ずくめの女、でしょ?」
素早く話を引き取る豊姫。依姫は無言で以って肯定する。
「あれの式も、あの時共謀した亡霊も黒髪ではなかった。何者でしょうね」
「博麗の巫女、ということは?」
「十分ありえるでしょう」依姫の推察に、姉は扇子を唇に当てながら答える。「ただあの人間が月に来たのはもう数百年も前。後継者ってこと?」
「はい。そう考えれば神社があったのも頷けますし、それに――」
言いかけた依姫の表情が一変する。素早く刀に手をかけた。豊姫も妹の変化を敏に察する。眼差しだけで尋ねた。
「どうやら戻ってきたようです」
姉の目配せを受けて、依姫は簡潔に答える。声にはかつてない冷たさが宿っていた。今度は妹が目で問う――如何しますか? と。
豊姫は投げられた眼差しに依姫の本気を見た。軽く是を臭わせば、彼女は直ちに"あの女"を仕留めに向かうだろう。殺めることも躊躇しないかもしれない。
「ますます訳がわからないわねぇ……」
だからはぐらかした。手は刀の柄に置いたまま、しかし依姫から殺気が霧散する。豊姫はにこりと笑みをつくった。
念のため補足しておけば、「訳がわからない」と呟いたのは確かに彼女の本心からであった。件の金髪女が本当にこちらの見立て通りならば、さっきレイセンに施した変装など易々と見破っているはず。ならば自分たちがここにいる可能性も斟酌するに違いない。だからほとぼりが冷めるまでは大人しくしているだろう――それが豊姫の見立てであった。
読みとしては至って常套と言えよう。依姫も同じことを考えていた。
「数は?」
「おそらく先程と変化はありません」
「ふぅ」と、豊姫は今日何度目かの溜息を吐いた。外していた帽子をしっかと被り直す。
「仕方ない、私が出ますわ。こうなったら直接訊いてみるのが一番でしょう」
「では私も――」
「いえ、貴女は神社に向かって頂戴な。今度こそあれを逃さないよう、結界をきつく、きつーく締めておいて」
依姫は頷く。けれど面差しには口惜しさも滲んでいた。すまないことをしたかなと、豊姫はもう一度微笑みかけてやる。このまま行かせては本当に殺生沙汰になるかもしれない。姉として、妹に無用な穢れを纏わせたくはなかった。
だがそんな建前以上に、豊姫自身が"あの妖怪"に会いたくてたまらなかったのかもしれない。あの時「ぎゃふん」と言わされたお返しができる、千載一遇のチャンスが巡ってきたのだから。
*
豊姫は密林を歩いていた。
久方ぶりに穢土を踏みしめていた。ぬかるみ、柔らかな黒土、硬い岩盤――歩を進める度、足裏に異なる感触が届く。一種背徳感に似たものがあった。
依姫ならば絶対に地上の土など踏まないだろう。飛んでいくはずだ。泥で汚れるから――なんて可愛らしい理由ではない。もし小さな虫や草を踏んで殺めてしまえば、それは穢れとして月人の身を蝕んでしまう。月に蟲のような蒙昧な命がいないのも同じ理由。
彼ら月の民にとって、どんな形であれ殺生は禁忌なのだ。慈悲の心が故でなく、ただ己可愛さが故に。
「ほら、早くしなさいな。置いてっちゃうわよ」
「あっ、申し訳ありません……」
不安定な地面に足を取られるレイセンへ、振り向き一言。豊姫はずんずんと歩を進める。お付きの玉兎は置いていかれないようにするのがやっと。もっとも不慣れなのはさっき偵察に出した時の様子から解っていたこと、こうやって急かすのも単にからかっているだけなのだろう。
それでも彼女は自分の精神状態がいつもと違うことを自覚していた。それは隠し切れない昂揚感。この密林――穢れの海――を闊歩するのが、なぜか愉しくてたまらなかった。
不浄の都で何不自由なく暮らしているからこんな思いに駆られるのかな――豊姫は自問する。だが月の民の基準に照らせば、自分が変わりものであることは疑いようがない。汚穢(おわい)渦巻く大地に胸踊らせるなど。
思わず苦笑が漏れる。いつだか水江浦嶋子を月に3年匿った時、師匠に「優しいのね」と暗に戒められたことを思い出した。
実際、彼女は穢れに対し無頓着なところがあった。もちろん月人の性として、穢れを厭う気持ちはちゃんと持っている。しかし穢れた存在への憧憬に似た思いも、また同時に持ち合わせていた。
それは即ち、かの青き蛮地へと堕ちた八意永琳への複雑な感情と相似形を描いているのだろう。月での地位を投げ捨て罪人へと身を窶した師への、止むことのない敬慕と。
凄絶な環境だった。熱をたっぷり含んだ湿気が全身に粘りつく。空気は木々の薫りを染み込ませ、吸っているだけで寿命を得そうなほど。蟲は気ままに空を舞い、草葉を、同族を我が物顔で喰む。視界に収まる範囲であっても、命の簒奪が止むことはない。これぞ月が日頃見下ろしている牢獄で繰り広げられている現実――豊姫は汗が噴き出すのをこらえ切れずにいた。
「豊姫様、まもなくです」
「ええ、わかっています」
背中からの声。豊姫は我に返る。息を切らしたレイセンは、しかし緊迫の面持ちで横にいた。今度は猫も鳥も憑いていない。銃剣を構え、ぐっと腰を落とす。
豊姫も付き合ってやる。軽く身を屈め、藪に潜る。チクチクと肌を刺す感覚が、おぞましくも愛おしい。
『おもしろーい!』
声だけがかすかに届く。確かに二人。一人は地球より小さな重力を乗りこなし、人間離れした跳躍を見せている。もう一人は後方、どこか不安そうな足取りだ。
「あれです」
囁くレイセン。豊姫の位置からでは相手の顔は窺えない。けれど楽しそうに飛び跳ねている方が例の黒ずくめであることは分かった。妖気めいたものは感じない。だが結界を出たり入ったりできる人間が、"ただ"の人間であるとは思えない。考えれば考えるほど分からなくなる。
「――レイセン、一つお願いしてもいいかしら?」
「はい、何でしょうか」
豊姫は扇子を開き、玉兎の耳元へささめく。
「あの黒い方の注意を惹いて欲しいの。捕縛は私がやる。貴女は奴の気を逸らしてさえくれればいい」
やはり豊姫にとって警戒すべきは、あの黒ずくめに他ならなかった。いくら地上の生き物と月の民という絶対的な力量差があろうと、見当がつかない分慎重に出ざるを得ない。
「で、でもどうやって……?」
「あれの前で適当に跳ね回っていればいいわ。貴女の瞬発力は玉兎の中でも一番だって、前に依姫が褒めてたわよ」
と言ってウィンクしてやる。先の任務報告からずっと沈んだ顔をしていたレイセンが、ぱぁっと表情を明るくした。さっきの悪戯の禊……とまではいかないかなと、豊姫は腹の中で苦笑する。
配置につく。こちらが動くのは黒いのが大きく跳ね上がった瞬間、もう片方と距離をとった隙を狙う。
『んもー。いくらこれが夢だとしても、怪我でもしたらどうなるか判らないわよ?』
レイセンが黒ずくめに迫ったのはその時だった。
同時に豊姫も能力を使う。玉兎に気を取られた少女と自分が潜んでいる藪の中を繋ぐ。
「あれっ、今のって――」
「っ! 蓮子戻って!!」
金髪少女の絶叫。豊姫は構わず動く。薮中へワープしてきた黒髪少女を後ろから組み伏せる。拍子抜けするくらい抵抗が無かった。
もう片方は驚愕に打たれたらしい。なんせ跳び上がったパートナーが、中空で忽然と姿を消したのだ。ぴたと声が止む。
「え……ぁ、蓮――」
「動くな」
狼狽する金髪の喉元に、銃剣が突き出される。レイセンであった。呻き声すら止む。紫のワンピースを纏った少女にできたのは、唾を飲み立ちすくむことくらい。
藪中にいた豊姫は戸惑っていた。ペットの行動が予想外だったこともある。あの妖怪に真正面から行くのは危険すぎる。だがそれ以上の懸案が懐に抱かれていた。捕らえた黒ずくめの女だ。あっさりと気を失い、愛らしい寝顔を見せている。巫女なんてとんでもない。こちらが驚いてしまうほどの、脆弱な存在。
豊姫はものすごく悪いことをした気分になった。同時にますます訳がわからなくなった。相方が本当にあの妖怪ならば、なぜこんな娘を連れ立ってここへ来なければならないのか? ごく普通の人間を連れて、なぜまたここへ乗り込んできたのか?
嫌な予感がした。自分はまた何か重大なことを見落としているではないか、と。
黒髪の少女を優しく地面に寝かせ、豊姫は急いで道を拓いた。
レイセン個人としては、スタンドプレーをした意識はなかった。いつだか自分の手で縛り上げた"妖怪"、さっき逃した相手、それが目の前にいる。もう絶対に逃してはならない――そんな兵士の本能が働いただけ。もっとも先ほど醜態を晒したことが全く影響していないかと言えば、そんなことはなかったろう。本人は絶対に認めないだろうが。
向こうはといえば怯えた顔を見せるだけ。さっきとまるで変わらない。されどレイセンは露ほどの疑念も抱かなかった。もしあの妖怪が懺悔のさなかも絶えず余裕たっぷりの薄笑いを浮かべていたことを覚えていれば、彼女も銃剣を収めたかもしれない。だがそこまでは気が回らない。以前完敗した月の民に畏れ慄いているだけ、そう思っていたのである。
金髪の少女は半歩たじろぐ。本当は逃げ出したかったのだろう。しかし一方で逃げることを頑なに拒んでいるのは、レイセンも見て取った。生存本能と、それに匹敵する強い想い――そのせめぎ合いが今の半歩だったに違いないと。
「おとなしく、降伏しなさい」
鋭い視線で、これだけ告げる。向かいあう少女は、涙目で切に乞うた。
「蓮子は……どこなの?」
レイセンにとって予想外の言葉だった。剥き出しの敵意か、哀れな命乞い――そんなものを想像していたから。
「そんなことより、今は自分の心配をしなさい」
だから必死に切り返す。ペースを取られないがために。終始逃げ腰だった相手の心が瞬間炸裂した。
「っ! そんなことって何よ!? 蓮子は……蓮子はっ!」
なんと詰め寄ってきた。たじろいだのはレイセン。銃身を掴まれ、手首までも捻り上げられる。この時初めて、彼女は相手が自暴自棄になっていることに気付いた。
「くっ――」
「蓮子をどこにやったの!?」
「離せっ!」
力いっぱい銃剣を振り回す。もとより単純な力なら玉兎の方が上。振り飛ばされた少女、哀れ地面に叩きつけられる。紫のワンピースが緑の大地に舞い散った。けれど怖気づく気配はない。怒りに濡れた眼差し、再び抗わんと立ち上がる。レイセンの方も容赦する気持ちは失せていた。真っ直ぐ構えた銃剣、間合いに入った瞬間串刺しにする――
「はい、そこまで」
その間合いを埋める影。たっぷりの量感を持った金糸と、ゆとりある藍地のスカートを棚引かせて、豊姫は対峙する二人へ掌を向けた。
真っ先に度肝抜かれたのはレイセン。上司に向けた切っ先を慌てて収める。ペットが我を取り戻したのを確認してから、豊姫はもう一人の鼻先に扇子を突き立てる。
「お久しぶりね、八雲紫」
面を向け、勝ち誇った笑みを投げる。憤激に彩られていた相手の面立ちが、たちまち当惑でくすむ。
「……え?」
「人間のふりなんかして、それでごまかせたつもりかしら。私の目は節穴じゃないわよ」
「あ、貴女何を言って――」
「こんなところに船まで浮かべて、今度はなんのつもりかしら?」
カマをかける一方で、豊姫は一瞬たりとも相手から目を離さなかった。途方に暮れた顔つき、やはり状況が一切理解できていないふうに見える。妖力を解く気配もない。少々異能だが、どう見ても人間だ。
もちろんあの"八雲紫"なら人妖の境界をいじって人間を装うことくらい造作もなかろうが、だとしても何かが違う。あの臓腑の底から滲み出てくるような、隠し切れない薄気味悪さが感じられないのだ。
「あくまで白を切るつもりなら、こちらも"二度"は無いわよ」
鋭く告げて扇子を開く。森を一瞬で素粒子レベルにまで浄化する風を起こせる扇子を。だが向かいの少女に扇子への警戒は見られない。豊姫は確信した。
「……さっき一緒にいた子も、無事では済まさないわ」
「蓮子は生きてるの!?」
これまでのやり取りが嘘のような反応。豊姫は微かな笑みを零した。扇子を閉じ、下ろす。
「どこにいるの? あの子は、蓮子は違うの。ここへ来たのは、私の夢――」
「まったく、本っ当に悪趣味な"妖怪"ね……いったいどういう仕組みなのやら」
苦笑いとともに豊姫は吐き捨てる。一変した口調に、向かいの金髪少女はまた声が出なくなってしまったらしい。月人はなるたけ優しく問いかける。
「貴女、名前は?」
「マエリベリー・ハーン……です」
マエリベリーと名乗った金髪の少女は訝しげな眼差しを向けてくる。先程まであからさまな敵意を見せていた相手が、突如馴れ馴れしく名を訊いてきたのだ。当然だろうと豊姫は思う。
正対し、詰め寄る。さっき揉みあったからか、服の袖が破け、肘のあたりを擦りむいていた。滲む血、穢れの象徴。
「夢を介して、ここまで入って来た。そんなところかしら?」
「え、ええそうですけど……それより蓮子は、あの子はどこにいるんですか?」
八意様ならこの子をどうするだろうか?――豊姫はふと思う――やはりあの時と同じく即断で殺せと仰るだろうか。妹の依姫はどうか。今なら師と同じように振る舞うかもしれない。では自分は?
依姫が言っていた最悪のケースを思い出した。あの話を絵空事としか思えなかった自分がいた。そんな物騒なことを連中がやらかすはずがないと。
何故か妖怪を信頼している自分に気づく。どこかで愛おしく思っているのだ、あの穢れた者達のことを。だからいつかの時も八雲紫を月へ引っ立てず竹林に置いてきた。生温い措置だと月の連中から後ろ指差されるのを覚悟の上で。
結局何も成長してないんだなあと豊姫は自嘲する。でもそれはそれでいいんじゃないかという開き直りもあった。一つ息吐き、マエリベリーなる少女へ説き掛ける。
「貴女のお友達は、私が預っています」
「……蓮子を返して」一瞬の沈黙の後、破れそうな声で乞うマエリベリー。「……お願い」
その想いをしっかと受け取りつつ、豊姫は小さくかぶりを振る。
「……貴女は以前私達から大切な物を奪いました。だから今度は我々が貴女の大切な物を奪う、それだけのことです」
「そんなっ、私そんなことしてません!!」こちらはまた感情を爆発させた。「貴女達のことなんか知りません。大切な物を奪ったりなんか……そんなこと……」
「嘘おっしゃい。あんなものを盗み出しておいて」
「してません……そんなこと、あたしじゃない……お願い、蓮子を返して……」
とうとう泣き出してしまった。豊姫は険しい態度を崩さぬよう唇を噛みしめる。レイセンに覚えた申し訳なさと似たものが頭を苛んだ。
「ふむ、本当にしていないと?」
「知りません……本当に知らないんです……」
「貴女は八雲紫ではない?」
「違います……そんな人知らない……お願い、信じて……」
「そうですか……」もったいぶった調子で一つ咳払い。「判りました。そこまで言うのなら人違いなのでしょう。本当に、本当によく似ていたものですから。ならば貴女達をこれ以上留めていく必要もないですね。地球に帰してあげます」
「え?」
マエリベリーの顔が持ち上がった。豊姫は表情を引き締め直す。
「ただし、一つだけこちらの言うことを聞くのなら、という条件付きですが」
再び青ざめるマエリベリー。開きかけた口が閉じる。
「さあ、どうしますか?」と念押し。
「……わかりました。なんでもします」
健気な少女は、怯えをねじ伏せるように声を絞り出す。豊姫は無性にこの子を愛でてやりたくなった。たっぷり間をとってから、
「『ぎゃふん』と言いなさい」
厳かに告げた。向かいの少女は唖然とするばかり。豊姫は笑いを堪えるので精一杯だった。
「へ? あの、えと――」
「聞こえませんでしたか? 『ぎゃふん』と言いなさい。今ここで」
マエリベリーは一番の困り顔を見せた。豊姫は必死で無表情をつくり続ける。戸惑いで幾度も唇をあわあわさせた後、哀れな人間は小声で漏らした。
「……ゃ、ん……ゃふん」
「聞こえません。もっと大きな声で」
「ぎゃ、ぎゃふん」
「まだ足りません。もっとお腹から声を出して」
「ぎゃふん! ぎゃふんぎゃふん!!」
豊姫は妹を連れてこなかったことを心から後悔した。ぱっと表情を和らげる。場の空気がたちまち緩んだ。
「ふふっ……もう十分ですよ。おかげで少しだけ胸がすっとしました」そう言ってマエリベリーの額に手をかざす。「では愉しい夢の時間はおしまいとしますか。そろそろお目覚めなさいな」
「ちょっ、待ってよ! その前に蓮子――」
「あの子なら、目覚めた時貴女の隣にいるはずよ、たぶん」
「そんなっ、それじゃ――」
「確かに私は地球に帰すとは約束した。でも一緒に、とは言わなかったわ」
「何よそれ! そんなのずるい――」
「そうね。でもこれは罰なの。遥か彼方の地でこの夢を見ている、不埒な観測者へのせめてもの罰。果たして本当に約束通り目覚めることができるのか、無事目覚めることができたとして本当にあの子と再会できるのか、そんな不安に震えつつ悪夢から覚めなさい。永遠に忘れえぬような、寝覚めの悪さを味わいなさい。夢を見る度に、今日の屈辱を思い出しなさい」
足掻くマエリベリーの両目を覆い、子守唄のように耳元へ囁く。紫の少女から、不思議と抵抗する力が抜けていく。
「そしてできれば」微睡む彼女へ、豊姫は優しく告げた。「目覚めた後にも『ぎゃふん』と言ってくれたら、嬉しいかな」
ジャングルとはこういう物だったのだろうか。
――鳥船遺跡:マエリベリー・ハーン
――鳥船遺跡:マエリベリー・ハーン
八雲紫は跳ね起きた。たっぷりの寝汗、心臓は野原を駆けた後のように脈打っている。
荒い息を整え、改めて周囲を見回す。見ずとも分かるくらい見慣れた、自宅の寝室であった。
目覚める前のことが頭を過ぎる。遣り場のない感情が腹の底から吹き上がった。奥歯を軋ませ、被っていた帽子をくしゃりと握りつぶす。
「紫様、お目覚めですか?」
明朗な声が響いて、襖が開く。顔を覗かせたのは八雲藍。単に起こしに来ただけだった彼女も、ただならぬ様子の主人に驚いたようだ。
「どうされました紫様?」
「なんでもない」
ひどくぶっきらぼうな紫の声。話したくもないという感じだった。藍はしばし戸惑う。だが、最終的には式としての責任感が勝った。
「お体の具合が――」
「違うわ」紫はぴしゃりと遮る。「ただ、ちょっと夢で……ううんなんでもない」
それ以上の言葉は出てこなかった。握りしめた帽子ごと拳を振り落とす紫。結わえていた髪を乱暴にほどき、荒っぽく振り下ろす。主の不機嫌を藍は無言で引き取る。意外と感情的なところがある主人は、一旦へそを曲げるともう何を言っても聞かないところがある。
こういう時はなるべく粛々と進めるのがよかろうと、藍は主人が寝ていた間の業務報告を始めた。八雲の家では起きがけの日課だ。紫も仕事の話なら気が紛れるのか、淡々と耳を傾けていた。相変わらず顔つきはぶすったれたままだったが。
「――幻想郷の結界については以上です。次に先日外界で消滅し、幻想入りしていた熱帯雨林の件ですが、衛星トリフネへの移送を段階的に進めています。とりあえず植物と節足動物類については移送が完了しました、大型動物類についてはまだ手をつけていませんが、如何致しましょう?」
「問題ないでしょう。海洋生物についても、あの衛星の一画に人工海洋を設けておいたから順次移送を開始しなさい」
「了解しました」
幻想郷では近年、大きな問題が持ち上がっていた。それは外界で絶滅する動植物の多さ、ペースの早さ。幻想郷単体では収容力にも当然限りがあるし、生息環境が大きく異なる生物も多い。
何かいい手立てはないかと、幻想郷の精鋭達が何度も会合を重ね知恵を絞り合った。結果飛び出してきたのが、宇宙に幻想郷支部を設営するという奇抜なアイデアだったわけだ。廃棄された宇宙ステーションを改装し、博麗大結界と同じ結界で覆う。そして入りきらなくなった幻想を移す。
まだ実験段階ではあるが、各勢力の協力もあり見通しは立ってきた。これで幻想郷がパンクするという事態は当面回避できそうではある。余計な邪魔さえ入らなければ。
「まさかあいつらに嗅ぎつかれるとはね……面倒だなあ」
「何か仰いましたか?」
「だからなんでもないの。ただの独り言」
紫はあくまで白を切る。それはそうだろう。口が裂けたって言えやしない。それは八雲紫のプライドが許さない。
「はぁ、そうですか」藍ももう詮索しないことにした。「ああもう一つ。先ほど幽々子様にお会いしまして、『早くそのジャングルとかいう所に連れてってよー』と催促しておいででしたよ」
思わず深い溜息が漏れた。そういやそんな約束をしてしまった。謝罪と言い訳の文句をひねり出そうとしたところで、気持ちの糸が切れてしまったらしい。のろのろと、紫は布団の中へ身を沈め出す。
「……紫様、お食事の支度はもう整っておりますが」
幾分嫌みのこもった言い方、そして嘆息。しかしこの程度で翻意してくれるのなら藍も苦労はしない。
「いい。いらない。寝る」
「紫様」
今度はやや高圧的な口ぶり。紫は構わずもぞもぞと布団の奥へ。髪も下ろしたままだ。こうなると拗ねた子どもと同じ、藍の手には負えない。仕方なく「2時間だけですよ」と言い残し、式は寝室を後にする。そして部屋には半睡の妖怪一人だけ。
「……後で幽々子に謝りに行かないとなあ。当分無理そうだって」
そんなことを呟きながら、紫は夢の中へ帰っていく。いつもに比べれれば、かなり寝付きは悪かったけれど。
*
「メリー! メリー起きて!?」
マエリベリー・ハーンはその声で目を覚ました。肩を揺すっていたのは宇佐見蓮子。
「ああ、起きた……良かったぁ」
眼前には安堵する蓮子がいる。寝ぼけ眼を必死で動かして、メリーは周囲を確認する。そこは地上の天鳥船神社。うだるような蒸し暑さも、絡みあう緑もない。
「何しても起きないし、ずっとうわ言みたいになんか呟いてるし、なんか腕怪我してるっぽいし……ホント心配したのよ」
蓮子の口は止まらない。相方とようやく話ができる喜び、そんな想いが言葉の節々から見て取れた。
メリーはぼんやりと聞き入ってるだけ。一方的にくっちゃべる蓮子の顔を眺めながら、目覚める前の出来事がつらつらと頭を巡る。はっきりとは覚えていない。何かとんでもない怪物に襲われた気がするだけ。でもたった一つ、しっかり覚えていたことがあった。
「で、なんか周りが暗くなったと思った瞬間目が覚めて、私だけ先に戻ってるし――」
「……ぎゃふん」
ひたすらに言葉を連ねていた蓮子も、この反応には停止せざるを得なかった。メリーは相変わらず寝ぼけ面のまま。
「あのー、メリーさん?」
「ぎゃふん」
蓮子は声を失う。メリーは何だかほっとした表情を浮かべて、もう一度「ぎゃふん」と唱えた。
「……メリー、病院行こう。今すぐ」
―了―
感服しました。
面白い!
絶滅種のトリフネ移送計画にもしえーりんが絡んでたとしたら
彼女も遠まわしに意趣返しを果たしたのかも
月人姉妹とレイセンが地上に降りてきて永遠亭で酒宴を開きそうで楽しいですね
月面戦争異変Stage4(?)は…また数百年後かな?w
あと鳥船遺跡でも思ったけどメリーかわいい
綿月姉妹と秘封倶楽部の魅せ方が素晴らしいね
いろいろと妄想が書きたてられて良かった
機会があれば購入したいものです。
メリーにぎゃふんと言わせて遊んでる豊姫様……。まさにイメージどうりのドSっぷり。
月人はつくづく屑だなぁ。
いやはや、楽しませてもらいました
とても面白かったです
少し感情移入しづらい書き方だったのかも。
誰が主役だったかもよくわからなかったし。
でも面白かった。
妄想だって仰る割には綺麗に纏まっていたかと
一つ苦言を呈するならば、『なるたけ』は酷く口語めいた単語なので、使用は控えた方が良いでしょうな
作者様としては、なるべく、をあまり皆に馴染みのない単語で置き換えて文に『らしさ』を出したかったのでしょうが。いや、やもすれば、作者様も『なるたけ』を日常的に使われる地域にお住まいか
内容は文句無しの満点ですよね、勿論
話のベースは原作、もとい、ブックレットにありますから違和感もなし
んー、あれだ、ぎゃふん。
鳥船遺跡のブックレットも併せて読むと尚のこと面白くて素敵でした