「それじゃあこれがメモだから。後はよろしく頼んだわよ?」
「はい、お任せください幽々子様」
それは、よくある光景だった。
白玉楼の渡り廊下の一角で、魂魄妖夢は主である西行寺幽々子にお使いを頼まれていた。
買う物が全て書かれているメモを受け取ると、妖夢は意気揚々と玄関へと向かう。
「よいしょ……っと」
戸口に辿り着き、靴を履こうと、妖夢が身を屈めようとした時だった。
「ちょっと待ちなさい妖夢」
不意に、後ろから声がかけられた。
妖夢が振り返ると、丁度居間の戸が開き、自身の師であり祖父である、魂魄妖忌が姿を現した。
「師匠?」
「いきなり呼び止めてすまんな。これから買い物に行くのだろう?」
「ええ、そのつもりですけど」
「そうか、ならばこれを着けて行きなさい」
そう言うと妖忌は、手に持っていた物を妖夢の方に差し出した。
「……帽子と、マフラー?」
妖忌が持っていた物。それは、緑のニット帽と、薄いピンク色をしたマフラーだった。
「師匠、これを私に?」
突然差し出された防寒具に、妖夢は僅かに戸惑いながら言葉を返す。
「うむ。今の季節、外は冷えるからな。それにこれは『島村』に住むと言われる名匠が作った一品で、なかなかの優れ物らしいぞ。遠慮はいらぬ、受け取りなさい」
「は、はぁ、ありがとうございます……では早速」
妖夢は緑色のニット帽を手に取り、頭に被る。
(うん……確かに、優れ物と言われるだけの事はありますね)
帽子の位置を軽く調整しながら、その被り心地の良さに妖夢は満足そうに頷いた。
「それにしても、どうして師匠がこんな物を持っているんです?」
「なぁに、細かい事は気にするでない。ほら、こっちもあったかいぞ」
そう言って、ふわりと、妖夢の首元に妖忌がマフラーを掛けた。
「あ……」
そんな何気ない行為。
妖夢は、一瞬困った様な表情を浮かべた後、少しだけ俯き気味に言った。
「……ありがとうございます師匠。それでは、行ってきます」
「うむ、風邪を引かんように気を付けるんだぞ」
妖忌の言葉に笑顔で返すと、妖夢は玄関の扉を開け放った。
────────
季節は冬。
何日もかけてしんしんと舞い落ちた雪は、人里に所余す事なく降り積もり、今ではすっかり辺り一面が白く染まっていた。
地を踏みしめる度に、しゃり、しゃりと小さな音が鳴り、雪道に足跡が残る。自分が歩いたという軌跡。これもまた、冬の風物詩だ。
見上げれば、空もまた雪空。今もまだ、微かに雪は降り続けていた。
「はぁー……」
妖夢は両手を口元に寄せると、長い息を吐き出した。
寒さで少し悴んだ手に、白く飽和した息が、ほんのりとした暖かさを伝えてくる。
「やっぱり外は寒いですね……」
妖夢はそう小さく呟くと、両手の指をにぎにぎと動かす。
妖忌に貰った帽子とマフラーのおかげで大分暖くはあるのだが、直に肌を出している部分はさすがにそうもいかない。
この寒さもまた修行の一環と妖夢は考えていたが、それでも、寒いものは寒かった。
「そら!」
「いて、このーやったなー!」
人里の麓まで来ると、外で子供達が雪遊びをしていた。楽しそうに駆け回る子供達の姿は、見ていて何だか微笑ましい。
それを横目に、妖夢はさくさくと雪道を進んで行く。
「へっへーん、こっこまーでおーいでー!」
「あーん、チルノちゃん待ってよー」
空を元気に飛び回る、二匹の妖精の影。妖精達も、この雪にどうやら浮かれているようだった。こうして見ると、彼女達もなかなか可愛らしく見えるものだと妖夢は思う。
(ま、問題さえ起こさなければ……ね)
去り際に、心の中でそう付け加えると、妖夢は消え行く妖精達の後ろ姿を見送った。
人里の中心街に辿り着く。
ここまで来ると、周りには様々な店が立ち並び、歩く人の数も当然多くなる。
妖夢は買い物のメモ──九割方食料品ばかり記載──を取り出すと、それに軽く目を通す。
(……随分豪勢な食材が多いですね……誰か客人でも招くのでしょうか?)
渡されたメモの中身に、普段はあまり見ないような食材が多く記載されている事に気付いて、妖夢は不思議に思った。
しかしすぐにそんな疑問を頭の中から取り除くと、妖夢は街の中を練り歩き始める。
手始めは、行きつけの店からだった。
*
「ありがとうございましたー」
店の主人の声に軽い会釈をし、妖夢は店を出た。
「……思ったよりすんなり買えてしまった」
そう言う妖夢の両手には、ずっしりと重量感のある買い物袋が二つ握られていた。
目的の品が店に置いてあるか少し心配だったが、数件回っただけで全て買い揃える事が出来ていた。
(やけにセールやら特売なんかが多かった気もするけど……まぁいいです。買えたのなら後は早く白玉楼に戻るだけ……)
そう思って、妖夢が帰ろうとした……その時だった。
「ママーお腹すいたよー」
「……え?」
不意に、子供の声が聞こえてきた。
「もう少し我慢してね。家に帰ったらすぐに美味しいもの作ってあげるから」
「えー今すぐ食べたいよー」
「こらこら、ママを困らせちゃ駄目だろ? ちゃんと我慢出来たらきっと良い事があるぞー」
ふと視線を先に向けると、楽しそうに話す三人の親子連れの姿が、こちらに向かってくるのが見えた。
「あ……」
妖夢は足を止め、その親子達の事を目で追っていた。
ほとんど、無意識に近い行動だった。
「うー……分かった、なら我慢するー」
「よし良い子だ。家に帰ったら、ママがとびっきり美味しい料理作ってくれるからな!」
「もお、パパったら」
会話に花を咲かせながら、三人は妖夢の側を通り過ぎて行った。
そうして、やがて建物の角を曲がり、三人は妖夢の視界から完全に姿を消した。
親子達の姿が見えなくなっても、妖夢はそこから動けなかった。
呆然と、その場に立ち尽くしていた。
────逃げなさい、妖夢!
突然、妖夢の頭の中で声が響いた。
余裕なんて微塵も感じられない、必死の叫び声。
それは忘れもしない、あの日の父の声。
「…………また、思い出してしまった」
ぽつりと、妖夢は呟いた。
もうずっと前の事のはずなのに、時々思い出してしまう。
本当なら忘れてしまいたいはずの、あの忌わしき過去の記憶を。
「……はぁ」
妖夢は小さく溜息をつくと、今まで不動だった足をようやく動かし始めた。
そして、道の端まで寄ると、近くの店の壁に静かに背を預ける。
一度蘇り始めた過去の記憶を止める事は、妖夢は今までの経験から無駄だと知っていた。
無理に記憶の奔流に逆らおうとすると、思考が乱れて行動に支障が生じてしまう。
不本意ではあるが、こうなったら思い出せるだけ思い出して、すっきりするのが一番だった。
少々時間の無駄になってしまうが、もやもやしたまま白玉楼に戻るのは、妖夢の気持ちが許せなかった。
「…………」
壁に背を預けたまま、妖夢は小さく空を仰いだ。
見えるのは、さっきより少しだけ雲の大きくなった雪空と、そこからはらり、はらりと舞い落ちる雪。
まるで、あの日と同じだった。
────あの日、この雪空の下で、惨劇は起こった。
…………………………
『お父さんお母さん! ほら早く早く!』
『おーい妖夢、あんまり急ぐと転ぶぞー?』
『ふふふ、ずっと楽しみにしていましたからね』
冬になると花を咲かせる珍しい桜。
それを一目見るために、妖夢は両親と共に村外れの山岳部へと訪れていた。
妖夢が生まれる前に、両親が偶然見つけたというその桜をもうすぐ見れると知って、この時妖夢は浮かれに浮かれていた。
白く染まった山道を抜けて、目当ての桜を目の当たりにした時など、飛び上がって喜んだ。
とても、幸せな時間だった。
そして妖夢は、ここまでの疲れを癒すため、雪の掛かっていない桜の根元で、一眠りする事にした。
事件が起きたのは、そのすぐ後の事だった。
『────ぐるるううううう……!』
静寂の中、場違いなほどに凶悪なうなり声が辺りへと響き渡る。
『……?』
妖夢は、そのうなり声で目を覚ました。
そしてすぐに、目の前の光景を疑った。
『え!?』
視線の先、妖夢から少し離れた所に父と母が居た。
そしてその周りを、熊程に大きく、まるで狼のように鋭い爪と牙を持った妖獣が、複数取り囲んでいたのだ。
『……え、え?』
当然、妖夢は困惑した。
妖夢達は知らなかった。
人の滅多に来ないこの場所は、ここ数年の間に、凶暴な妖獣達の格好の住処となっていた事を。
知らずその奥地まで足を踏み入れた侵入者達に対して、彼らは明らかな攻撃の意思を見せていた。
『くっ……逃げなさい妖夢!』
妖夢へと向かって、父は必死に叫んだ。
しかし、今の状況に理解が追いついていない妖夢は、その場から動く事が出来なかった。
そうこうしている内に、妖獣達が徐々に二人へと距離を縮めて行く。
鋭い牙をむき出しにし、目の前の獲物を見据える。
そして。
『ぐるるうぅぅああぁあああ!』
振り下ろされる、剛腕。
…………鮮血。
『……あ、ああ……』
妖獣の一匹が、妖夢の方を見た。
その目に、残る一人の獲物を映して、ゆっくりと、ゆっくりと近づいてくる。
迫る妖獣のその後ろに、血を流して倒れている両親の姿が在った。
『あ……いや……いやああああああああ!』
妖夢は叫んでいた。
何が起こったのか分からない。どうして、両親が血を流して倒れているのか分からない。
それでも、確実に自身へと迫りつつある危機に対して、その声はあらん限りの拒絶の意を示していた。
妖獣は不意の絶叫に一瞬動きを止めたが、しかしそれだけだった。
迫り来る、影。
怯える妖夢の目の前に、ついに妖獣が立ちはだかる。
そして、まるで獲物をいたぶるかのように、妖獣はゆっくりとその腕を振り上げ、妖夢に狙いを定めた。
『……はぁ……ぁ』
天に向けられた妖獣の爪が、ギラリと鈍く光る。
妖夢はその時、ふとその輝きが、剣の輝きに似てると思った。あまりの恐怖で思考もままならない妖夢だったが、その瞬間脳裏に、祖父の姿がよぎった。
口数が少なく不器用な所もあるけれど、いつも優しく温厚で、それでいて剣の腕が強い自慢の祖父。
ここに祖父が居たならば、両親の事も自分の事も、きっと守ってくれたに違いない。
…………だから。
『…………助けて、おじいちゃん!』
妖夢は、自然とそう叫んでいた。
助けに来るわけがない。分かっていても、今の妖夢には祖父を呼ぶ事しか出来なかった。
今度は、妖獣も動きを止めなかった。
剛腕から繰り出される一撃が、妖夢へと振り下ろされる。
妖夢はそれを直視出来ず、ぎゅっと目を瞑った。
だから妖夢は、その瞬間の出来事を見てはいなかった。
────振り下ろしたはずの妖獣の腕は、刹那吹き抜けた一陣の風と共に、肘元から分かたれ勢いよく宙を舞った。
『………………ごおおおおおああああああああ!?』
『……!?』
突如絶叫する妖獣。
何事かと、妖夢は驚いて目を開けた。見れば妖獣は、片腕が中ほどから千切れて仰向けに倒れていた。
そしてそれを見降ろす形で、その脇に立つ一人の人物。
『……無事か、妖夢』
『あ……』
妖夢はその人物を見て、思わず声を失った。
もう駄目だと思っていた。
もう助からないと、諦めていた。
なのに、来てくれた
本当に、来てくれた。
目の前に…………剣を握る祖父の姿があった。
『遅れてすまない……すぐに、終わらせるからな』
そう言って魂魄妖忌は、残る妖獣の群れの中に、単身飛び込んで行った。
──────
──────────
…………………………
「…………」
そこまで回想を終えたところで、妖夢は思考を中断した。
軽く頭を振り、ぼんやりとした意識を現在に引き戻す。
そこは、雪で白く染め上げられた、人里の街道。
いつの間にか、雪は止んでいた。
(……あの後、師匠のおかげで、私は助かった)
寄りかかっていた壁から体を離すと、んっ、と妖夢は小さく伸びをした。。
もう何度目になるかは分からないが、こうして中途半端に出かかっていた記憶を掘り起こす事で、大分頭の中がすっきりすると妖夢は知っていた。
時々思い出す、あの日の記憶。記憶はまるで戒めのように、思い出すたび妖夢の胸の内を、小さな痛みと共に苛ませる。
あの日、自分は助かった。自分だけが、助けられた。
あの日、自分が無力だったがために、両親は…………
「……やめやめ、早く帰ろう」
一瞬よぎった思考を切り捨て、妖夢は早々に頭を切り替えた。
ご飯はまだかとお腹を空かせてうずうずしている幽々子の姿が、妖夢には容易に想像が出来た。
待たせてしまっては悪いと、今度こそ妖夢が家路に付こうとしたその時、聞き覚えのある声がすぐ近くから投げかけられた。
「────ああ、やっぱり君だったか」
「……?」
反射的に、妖夢は声のした方に目を向けていた。
するとそこには、眼鏡をかけた大柄な男の姿があった。
「……あ」
妖夢は、小さく声をあげる。
見知った顔だ。しかし人里で合うには、それは少々意外な人物だった。
「こんにちは。何だか難しい顔をしていたようだけど……どうかしたのかい?」
そう言って、その男────森近霖之助は、少しだけ怪訝そうな顔をした。
「……ああ……いえ、何でもありませんよ」
どうやら、さっきまでの様子を見られていたらしい。考え事に没頭しすぎていたため、妖夢は霖之助の存在にまったく気付いていなかった。
その事に軽い羞恥を感じて、妖夢の頬に微かに赤みがさす。
「……そっちこそどうしたんです? あなたは店から一歩も出ない様な人だと思ってましたけど」
妖夢はすぐさま話題を変えるために、見られていた事への皮肉をちょっとだけ込めて聞いた。
「ははは……まぁ、あながち間違いじゃないけど、僕だって人里に買い出しに来る時ぐらいあるんだよ」
妖夢の返しに、笑って霖之助は、手に持っていた物を小さく掲げて見せる。
そこには、買い物袋が一つ握られていた。
「買い出し……あ、そうでした! 私も買い物の途中ですので、これで失礼しますね」
それを見た妖夢は、今の自分の状況を思いだして、急いで話を切り上げる事にした。
「え? ……うん。気をつけてね」
妖夢の言葉に一瞬きょとん、とした霖之助だったが、すぐにいつもの調子で言葉を返す。
しかしその顔には、どこか薄らと翳りが混じっていた。
「…………」
急いでいた妖夢はその事に気付かず、すでに霖之助に背を向けて歩きだしていた。
意識はもうすでに、家路に着く事に移り変わっていた。
「────待ってくれ!」
だから後ろから、柄にもなく大声を出した霖之助に腕を掴まれた時には、妖夢は心臓が飛び出るかと思う程に驚いた。
「……っ!? …………!?」
慌てて振り返り、突然の事に目を白黒させながら、妖夢は腕を掴んだままの霖之助を見上げた。
何故か焦った様子を浮かべる霖之助の顔が、そこにはあった。
「……あ! ご、ごめん。驚かせるつもりはなかったんだ。えっと、その……」
明らかな戸惑いを見せる妖夢に、霖之助は慌てて妖夢から手を離した。
「…………あの、いきなりどうしたんですか……まだ私に何か用が……?」
未だ早鐘のように高鳴る鼓動を抑えながら、おずおずと妖夢は訊ねた。決して悪戯や悪ふざけで引き止めた訳ではない事は、霖之助の様子からなんとなく窺い知ることが出来た。
なんとも言えない空気が漂う中、少し間をおいて、霖之助は口を開いた。
「……本当は、口止めされていたんだ。誰にも言わないでくれって。でも、さっき壁に寄りかかって、物思いに耽っている君の顔を見ていたら……何だかとても寂しそうに見えて…………君にだけは、言っておかなきゃいけないような気がして……」
「…………?」
独白の様な、霖之助の言葉。
それが何を意味しているのか理解できず、妖夢は小首を傾げた。
「……その帽子とマフラー」
「え?」
霖之助は言った。
「それ、君のおじいさんがくれた物じゃないかな?」
「…………そうですけど、どうしてあなたがその事を?」
いよいよもって、妖夢には謎だった。
何故その事を、霖之助が知っているのか。
「……そうか、やっぱりあの人が君の……」
妖夢の答えに、霖之助は口元に手をやって一人納得する。
そして今度は、しっかりと妖夢の方を見て、霖之助は静かに語り始めた。
「それはね、一週間ぐらい前に腰に刀を下げた老師が、僕の店で買っていった物なんだ」
「……えっ……それって……」
霖之助が頷く。
「うん。暖かくて、出来るだけ質が良くて、なるべく動きの邪魔にならない物が良いって言ってたから、僕がそれを勧めたんだ」
「……師匠が……これを……?」
妖夢はそっと、帽子とマフラーに触れる。
てっきりこれは、祖父がどこかから貰ってきた物だと妖夢は思っていた。
それを偶然、自分が貰い受けただけだと、そう思っていたのだ。
「これは愛する孫娘へのプレゼントなんだ、この時期はさすがに冷えるから、孫が風邪を引かないように……って。彼はそう話していたよ」
「………………」
霖之助の言葉に、妖夢は俯く。
俯いたまま、妖夢は何も言う事が出来なかった。
頭の中で、霖之助の言葉を何度も反芻する。ぐるぐると、思考だけが巡っていた。
何か言おうと口を開こうとしても、考えがまとまらず言葉に出来ないまま、再び思考の渦に飲み込まれるという事を、妖夢は繰り返していた。
(師匠は最初から、私へのプレゼントとしてこれを……? でもどうして……)
主に使える者ならば、欲を見せてはいけない。いつも清楚である事を心掛けよと、妖夢はそう教えられてきた。
妖夢自身、それを今まで疑う事はなかったし、主である幽々子に使える内に、自然とその言葉の意味を理解出来ていた。
何より、これは祖父の教えの一つでもあったのだ。
だからこそ、祖父がこうして、自分へと宛ててプレゼントを用意していたという事実が、妖夢にはすぐには受け入れられなかった。
「……納得できない、かな?」
下を向いて何も喋らない妖夢を見て、霖之助は困ったように眉を寄せる。
しかしそこでふと、霖之助は何かに気が付くと、穏やかな口調で今度は妖夢へと問いかけた。
「ところでその帽子とマフラー。彼が買っていったのは一週間前だけど、君に渡したのはもしかして今日が初めてじゃないかい?」
「…………! ど、どうしてそんな事まで……」
驚いて、妖夢は俯かせていた顔を上げる。
そんな妖夢の様子を見て、霖之助は小さく笑って、言った。
「簡単な事さ。だって今日は……クリスマスだから」
その答えは、実に簡潔なものだった。
「…………クリスマス……?」
霖之助の口から発せられた言葉。
しかしそれは、妖夢にとって耳慣れないものだった、
「やっぱり、知らなかったようだね。まぁ元は外の世界の風習だし、知らないのも無理はないかな」
「……そ、それは一体、どういう日なんですか?」
思わず、妖夢は聞き返していた。
「そうだね……一般には、赤い服を着た大柄な老人が珍しい動物にソリを引かせて、町中の子供達にプレゼントを渡して回るなんて言われてる。まぁ彼なら赤い服を着ればそれっぽくなるかも知れないけど……今回は、少し意味合いが違ってくる」
「……?」
「その日はね、家族でお祝いをする日でもあるんだ。そういう日でも、あるんだよ」
「…………!」
それを聞いて、妖夢は微かに息を呑んだ。
『家族』という言葉が、強く胸に響いた。
「彼はこうも言っていたよ。孫には両親がいなくて、いつも寂しい思いをさせている。剣の修行ばかりで親らしい事は何一つしてやれないから、せめてクリスマスぐらいは、愛する孫娘にプレゼントを渡してやりたい。こんな日ぐらいは、親の様な事をしてあげたいんだ……ってね」
優しく語りかける様に、霖之助は言った。
「……そ、そんなの……だって師匠、そんな事一言も……」
戸惑いに、妖夢の声は震えていた。
「……言えなかったんじゃないかな。いつも師として君の傍に居る彼が、こんな事を直接君に言うのは、さすがに躊躇われたんだろう」
「………………っ!」
今度こそ、妖夢は絶句した。
霖之助の言う通りだった。
どうして、今まで気付かなかったのだろうか。
いつも傍に居る、祖父の想い。そんな簡単な事に、どうして今まで────
「………………違う」
そう思いかけて、妖夢は小さく否定した。
最初から気付いていたのだ。
祖父がどれだけ自分の事を想っていたのかを。
知っていながら、ずっと、知らない振りをしていた。
そうせずには、いられなかった。
─────全ては、あの時から変わってしまっていたんだ。
「……僕は君達の過去は分からないけれど……きっと彼も、悩んでいるんだと思う。
この事を話している彼の顔が、さっき一人で考え事をしていた君の寂しそうな顔と、よく似ていたから……」
「…………」
「…………ごめんよ、変に老婆心が動いたみたいだ。関係のない僕がこんな事を言うのは、おせっかい……だったかな……」
再び黙り込んでしまった妖夢を見て、霖之助はばつが悪そうに視線を泳がせた。
「……いえ、そんな事はありません。おかげで、大切な事を思い出しました、感謝します。では今度こそ……失礼します」
本心からの言葉だった。
小さく礼をして、妖夢は霖之助に背を向ける。
「! ……うん、またね」
まるでこの短い間に成長を遂げたかのような妖夢の表情に、霖之助は驚いた。
しかし次の瞬間には、霖之助も微笑んで、妖夢へと小さく手を振っていた。
駆けだす妖夢の背中には、もう迷いは見えなかった。
………………
私は、ずっと愛されてきました。
その事を、私はずっと前から知っていました。
でも、知っていながら、私はずっと知らない振りをし続けてきました。
そうする事で、私は祖父を師としてだけ見る事が出来ました。
親としてではなく、家族としてではなく、強くなるためだけに、私は祖父を見続けてきました。
それだけが、私にとって必要な事でした。
……だって、私は……愛されてはいけない子なのだから。
「……私は……馬鹿だっ……!」
道に積もる雪を蹴飛ばしながら、妖夢は吐き出すように呟いた。
全ては、あの日を境に変わってしまった。
あの日、両親を守れなかった事。あの日、自分だけが生き残ってしまった事。
その事実が、強烈な罪の意識として残り、妖夢の心に深い傷を負わせていた。
自分は、幸せを望んではいけない。愛を求めてはいけない。
両親を救えなかった自分には、そんな資格はないと妖夢は心のどこかで思い続けてきた。
そんな歪んだ思いを、妖夢はあの日から胸に抱え込んでしまっていた。
弱い自分に対する、戒めとして。
感じていた愛に、目を背けてまで、ずっと。
「……師匠」
霖之助の言葉で、妖夢はその事に気付かされた。
妖夢自身、無意識の内に気付かないようにしていたその事実に。
祖父の本心を聞かされて、今はただ、妖夢は祖父に会いたかった。
会って、話しがしたい。
そう思いながら、妖夢は雪道を走り続ける。
……………………
……そして数刻後。
白玉楼へと辿り着いた妖夢は、手に持っていた買い物袋を玄関で放り投げると、すぐさま妖忌の部屋へと向かった。
「師匠!」
ガラリ、と勢いよく襖を開く。
果たしてそこに、妖忌の姿はあった。
「おぉ妖夢、帰ったのか……どうしたんだ、そんなに慌てて」
今の妖夢は荒く息を切らし、急いで帰って来たという事がはっきりと分かるような状態だった。
部屋で一人、座ってお茶を飲んでいた妖忌は、そんな妖夢の様子に小さく眉をひそめた。
「……師匠!」
「!?」
再び妖夢は叫ぶと、妖忌の目の前で滑り込むように素早く正座の姿勢を取った。
さらに両手を床について、真っ直ぐに妖忌へと視線を向けて、言った。
「師匠、私……寂しくなんかありません。お父さんとお母さんが居なくても、私には師匠と……それに、幽々子様が居ます」
「…………! 妖夢、いきなり何を……」
改まって妖夢が話し始めた事の内容に、妖忌は大きく目を見開いた。
「……プレゼント、ありがとうございます。それに……ごめんなさい。私、師匠の想いにずっと気付けなくて……」
言葉を探しながら、とつとつと妖夢は言った。
そこまで聞いて、妖忌はようやく話の本筋に気付いた。
「…………そうか、あやつか……まったく、あれほど言うなと言っておいたものを……」
はぁ、と一つ溜息をついて、妖忌は妖夢を見やった。
その仕草に、次に何を言われるのかと、妖夢は少しだけ緊張した面持ちで妖忌の言葉を待った。
そして。
「…………許してくれ、妖夢」
「……え?」
ぽつりと、妖忌は言った。
「妖怪のせいで両親を失ってしまったあの日から、お前は自分にもっと力があればと、剣の道を歩み始め、これまで己の腕を磨き続けてきた」
「…………」
「だが私には、それ以上にお前が、まるで罪滅ぼしのために剣を振っているように思えていた」
「そ、それは……」
妖夢が口を挟もうとして、しかし妖忌は、首を横に振った。
「言うな妖夢……私は、それに気付かないふりをして、ずっとお前に剣を教え続けてきた。そうする事しか……出来なかったのだ」
「……師匠?」
ふと、妖夢は違和感を感じた。
熱に浮かされたように、妖忌は話しを続ける。
「全て、私のせいなのだ。あの日、お前達があそこに行く事にもっと早く気付いていれば、私がもっと早くあの場に駆け付けていれば……お前にこんな寂しい思いをさせる事も……辛い思いをさせる事もなかったのだ……すまない妖夢」
「…………!」
突然の告白に、今度は妖夢が驚く番だった。
「私では、あの二人の代わりにお前の寂しさを埋めてやる事は出来ないのだ……こんな老いぼれに出来る事と言えば、せめて剣の修行に手を貸す事と、親の真似事の様に、小さなプレゼントを与えてやるぐらいしか思いつかなくてな……本当に情けない話だ」
「師匠……それは……」
違う、と言いたかった。
しかし妖忌の見せる悲しそうな表情に、妖夢は思わず言葉に詰まる。
「……ずっと後悔していた。力があっても、私はあの二人を守る事が出来なかった。そして私の愛では、お前を満たしてやる事も出来ない。なんと……なんと無力な事か……すまない、すまない……妖夢……!」
「…………っ!」
妖夢は息を呑んだ。
こんな悲しそうな顔をしている妖忌を見るのは初めての事だった。
それを目の当たりにして、妖夢の胸は突然に、張り裂けんばかりに苦しくなった。
頭の中で、疑問が飛び交う。
……どうして。
力がなかった事を後悔していたのは私の方なのに。
どうして、師匠が謝るの?
どうして、師匠がこんなに悲しそうな顔をしているの?
違うのに。
悪いのは私なのに。
違う、違う。
お願い、そんな悲しそうな顔をしないで。
私は……私は……!
「ぁ……違う……違うんです師匠……じゃない、えっと……」
言いかけて、妖夢はその言葉を飲み込んだ。
一瞬の躊躇。
しかし、心を決める。
……そして。
「ち、違うの…………おじいちゃん!」
うなだれる妖忌の胸に、妖夢は思いっ切り飛び込んだ。
「……よ、妖夢……?」
戸惑う妖忌の声が上から聞こえる。
妖夢はそれに構わず、妖忌の体を強く抱き締めた。
「おじいちゃん……私、おじいちゃんと幽々子様が居るだけで、幸せです……本当に幸せなんです」
「…………」
「お父さんとお母さんがいなくなって、もちろん寂しく思う時もあったけど……でもそれは、おじいちゃんのせいなんかじゃない! 誰の……誰のせいでも、ないんです……」
「妖夢……」
妖忌の胸の中で、妖夢は絞り出すように言葉を紡ぐ。
師としてではなく、一人の家族へと向けて、その想いを紡いでいく。
「……ごめんなさいおじいちゃん。おじいちゃんから愛されてるって事、私は分かっていたのに……ずっと気付いてない振りをしてました。あの日何も出来なかった私には、誰からも愛される資格なんかないって、そう思ってたんです……」
「……………」
「でも……それって違いますよね。そんなの、間違ってます。そんな事をしたって、誰も喜んだりしない。お父さんとお母さんが知っても……きっと悲しむだけです……だから、どうか……どうかおじいちゃんも、自分の事を許してあげてください。そんな風に、自分を責めないでください……」
それは、妖夢自身へと向けられた言葉でもあった。
妖夢自身、あの日の事をずっと後悔していた。
そして妖忌も、両親を守れなかった事に、深い後悔の念を感じていた。
皮肉な話しではあったが、祖父と自分はやはり繋がっているんだと、改めてそう思えた。
「私、おじいちゃんから愛を貰っています。今もこうして、おじいちゃんから愛を貰っています。親の代わりだとか、真似事とかじゃなくて、おじいちゃんはおじいちゃんとして、いつも私に愛を注いでくれていたじゃないですか……! だからお願いです……もう……苦しまないで……っ」
────ぽんっ、
その、時だった。
「……え?」
妖夢の頭を、しわしわの手が触れた。
「おじい……ちゃん?」
「もういい……もう、何も言わなくていいんだ……妖夢」
そのまま、妖忌は妖夢の頭を優しく撫でる。
「お前の言う通りだ妖夢。こんな感情をずっと抱いていても、誰も幸せにはなれん……それを孫娘に諭されて気付くとは、私も本当に老いたものだな」
そう言って、妖忌は自嘲気味に笑う。
その表情は、どこか吹っ切れたように清々しかった。
「……ありがとう妖夢。お前は、優しい娘だな……こんなに優しい娘になったと知れば、あの二人もさぞ喜ぶだろう」
「おじいちゃん……」
「妖夢も、もう苦しまなくていい。寂しい時は、いつでもそう言ってくれていい。私はいつだって、お前の事を想っているからな」
「……! おじいちゃん……おじいちゃん……!」
想いが、伝わる。
噛みしめるように、妖夢はその名を呟いた。
嬉しくて、悲しくて、色んな感情が混ざり合いながら、気付けば妖夢の目からは涙が溢れていた。
今まで抱えていた心の枷が外れた事で、止めどなく涙が零れ落ちていく。
妖忌の体を強く抱きしめながら、妖夢は声を出して泣いた。
妖忌は、そんな妖夢の事を、とても愛おしそうに、そっと抱き締めた。
お互いの愛を確かめながら、二人はしばらくじっとそのままでい続けた。
────だから、襖の奥からその様子をじっと見ている者が居た事に、二人は最後まで気が付かなかった。
「……料理が遅いんで呼びに来てみれば……やれやれ、これはとても邪魔出来る雰囲気じゃないわね……」
ぼそりと一言、誰にも聞こえないほどに小さく呟くと、西行寺幽々子は静かに襖から離れた。
そう言う幽々子の顔も、なんだか嬉しそうだった。
「……あれ、そういえば……」
自分の部屋へと戻る道すがら、ふと足を止めて、幽々子は振り返った。
「『おじいちゃんと幽々子様』って事は……もしかして私、おばあちゃんポジション?」
一瞬、頭をよぎった疑問。
その可能性に、幽々子は少しだけ考えるそぶりを見せ…………
「……ま、いっか!」
しかしすぐにまた軽い足取りで歩き出すと、そのまま幽々子は部屋の奥へと姿を消した。
………………
…………………………
その夜。
「はーい幽々子様ーお肉が焼けましたよー」
「待ちかねたわよ妖夢! お腹が減ってもう我慢出来ないわ、いただきます! ……がぶっ」
「幽々子様、行儀が悪いですよ。手に持っているナイフとフォークが意味ないじゃないですか」
「もぐもぐ……もぐもぐ……」
「はぁ……こうなると幽々子様は耳を貸さないんだから……」
やれやれと軽い溜息をついて、妖夢はそんな幽々子の様子を見る。
改めて思い返してみれば、毎年このぐらいの時期になると、幽々子は豪勢な料理を頼んで食卓を賑わせていた。
それはもしかしたら、そうする事で家族としての雰囲気を醸し出そうという、彼女なりの思い遣りだったのかも知れない。
もちろん、単に自分が美味しいものを食べたかっただけという可能性も、十分に有り得るのだが。
そんな事を少しだけ考えて、妖夢は小さく微笑む。
そして、そっとその場を離れると、今度は妖忌の方へと近づいて行く。
「では、師匠にもお酒をお注ぎしますね」
「うむ、ありがとう妖夢……ところで」
酌をする妖夢に向かって、妖忌はどこか言いにくそうに、話を切り出した。
「……その、さっきのおじいちゃんと言う呼び方は……もうやめたのかい?」
そう言って照れ笑いを残す妖忌を見て、自然と妖夢の顔は綻んだ。
「……師匠が必要とあれば、いつでもそう呼んであげますよ……おじいちゃん」
「そ、そうか……何だか悪い気はしないな……!」
「ふふっ、もぅおじいちゃんったら」
「もぐもぐ……もぐもぐ……(にこり)」
これは妖夢が、異変と呼ばれるものに関わっていく前の、まだ少し幼き日の出来事。
三人の楽しそうな声と共に、白玉楼から漏れ出す小さな灯りは、夜空から舞い落ちる雪を仄かに照らしていく。
雪は優しく、どこまでも彼女たちの幸せを見守るかのように、しんしんと降り続けた。
「はい、お任せください幽々子様」
それは、よくある光景だった。
白玉楼の渡り廊下の一角で、魂魄妖夢は主である西行寺幽々子にお使いを頼まれていた。
買う物が全て書かれているメモを受け取ると、妖夢は意気揚々と玄関へと向かう。
「よいしょ……っと」
戸口に辿り着き、靴を履こうと、妖夢が身を屈めようとした時だった。
「ちょっと待ちなさい妖夢」
不意に、後ろから声がかけられた。
妖夢が振り返ると、丁度居間の戸が開き、自身の師であり祖父である、魂魄妖忌が姿を現した。
「師匠?」
「いきなり呼び止めてすまんな。これから買い物に行くのだろう?」
「ええ、そのつもりですけど」
「そうか、ならばこれを着けて行きなさい」
そう言うと妖忌は、手に持っていた物を妖夢の方に差し出した。
「……帽子と、マフラー?」
妖忌が持っていた物。それは、緑のニット帽と、薄いピンク色をしたマフラーだった。
「師匠、これを私に?」
突然差し出された防寒具に、妖夢は僅かに戸惑いながら言葉を返す。
「うむ。今の季節、外は冷えるからな。それにこれは『島村』に住むと言われる名匠が作った一品で、なかなかの優れ物らしいぞ。遠慮はいらぬ、受け取りなさい」
「は、はぁ、ありがとうございます……では早速」
妖夢は緑色のニット帽を手に取り、頭に被る。
(うん……確かに、優れ物と言われるだけの事はありますね)
帽子の位置を軽く調整しながら、その被り心地の良さに妖夢は満足そうに頷いた。
「それにしても、どうして師匠がこんな物を持っているんです?」
「なぁに、細かい事は気にするでない。ほら、こっちもあったかいぞ」
そう言って、ふわりと、妖夢の首元に妖忌がマフラーを掛けた。
「あ……」
そんな何気ない行為。
妖夢は、一瞬困った様な表情を浮かべた後、少しだけ俯き気味に言った。
「……ありがとうございます師匠。それでは、行ってきます」
「うむ、風邪を引かんように気を付けるんだぞ」
妖忌の言葉に笑顔で返すと、妖夢は玄関の扉を開け放った。
────────
季節は冬。
何日もかけてしんしんと舞い落ちた雪は、人里に所余す事なく降り積もり、今ではすっかり辺り一面が白く染まっていた。
地を踏みしめる度に、しゃり、しゃりと小さな音が鳴り、雪道に足跡が残る。自分が歩いたという軌跡。これもまた、冬の風物詩だ。
見上げれば、空もまた雪空。今もまだ、微かに雪は降り続けていた。
「はぁー……」
妖夢は両手を口元に寄せると、長い息を吐き出した。
寒さで少し悴んだ手に、白く飽和した息が、ほんのりとした暖かさを伝えてくる。
「やっぱり外は寒いですね……」
妖夢はそう小さく呟くと、両手の指をにぎにぎと動かす。
妖忌に貰った帽子とマフラーのおかげで大分暖くはあるのだが、直に肌を出している部分はさすがにそうもいかない。
この寒さもまた修行の一環と妖夢は考えていたが、それでも、寒いものは寒かった。
「そら!」
「いて、このーやったなー!」
人里の麓まで来ると、外で子供達が雪遊びをしていた。楽しそうに駆け回る子供達の姿は、見ていて何だか微笑ましい。
それを横目に、妖夢はさくさくと雪道を進んで行く。
「へっへーん、こっこまーでおーいでー!」
「あーん、チルノちゃん待ってよー」
空を元気に飛び回る、二匹の妖精の影。妖精達も、この雪にどうやら浮かれているようだった。こうして見ると、彼女達もなかなか可愛らしく見えるものだと妖夢は思う。
(ま、問題さえ起こさなければ……ね)
去り際に、心の中でそう付け加えると、妖夢は消え行く妖精達の後ろ姿を見送った。
人里の中心街に辿り着く。
ここまで来ると、周りには様々な店が立ち並び、歩く人の数も当然多くなる。
妖夢は買い物のメモ──九割方食料品ばかり記載──を取り出すと、それに軽く目を通す。
(……随分豪勢な食材が多いですね……誰か客人でも招くのでしょうか?)
渡されたメモの中身に、普段はあまり見ないような食材が多く記載されている事に気付いて、妖夢は不思議に思った。
しかしすぐにそんな疑問を頭の中から取り除くと、妖夢は街の中を練り歩き始める。
手始めは、行きつけの店からだった。
*
「ありがとうございましたー」
店の主人の声に軽い会釈をし、妖夢は店を出た。
「……思ったよりすんなり買えてしまった」
そう言う妖夢の両手には、ずっしりと重量感のある買い物袋が二つ握られていた。
目的の品が店に置いてあるか少し心配だったが、数件回っただけで全て買い揃える事が出来ていた。
(やけにセールやら特売なんかが多かった気もするけど……まぁいいです。買えたのなら後は早く白玉楼に戻るだけ……)
そう思って、妖夢が帰ろうとした……その時だった。
「ママーお腹すいたよー」
「……え?」
不意に、子供の声が聞こえてきた。
「もう少し我慢してね。家に帰ったらすぐに美味しいもの作ってあげるから」
「えー今すぐ食べたいよー」
「こらこら、ママを困らせちゃ駄目だろ? ちゃんと我慢出来たらきっと良い事があるぞー」
ふと視線を先に向けると、楽しそうに話す三人の親子連れの姿が、こちらに向かってくるのが見えた。
「あ……」
妖夢は足を止め、その親子達の事を目で追っていた。
ほとんど、無意識に近い行動だった。
「うー……分かった、なら我慢するー」
「よし良い子だ。家に帰ったら、ママがとびっきり美味しい料理作ってくれるからな!」
「もお、パパったら」
会話に花を咲かせながら、三人は妖夢の側を通り過ぎて行った。
そうして、やがて建物の角を曲がり、三人は妖夢の視界から完全に姿を消した。
親子達の姿が見えなくなっても、妖夢はそこから動けなかった。
呆然と、その場に立ち尽くしていた。
────逃げなさい、妖夢!
突然、妖夢の頭の中で声が響いた。
余裕なんて微塵も感じられない、必死の叫び声。
それは忘れもしない、あの日の父の声。
「…………また、思い出してしまった」
ぽつりと、妖夢は呟いた。
もうずっと前の事のはずなのに、時々思い出してしまう。
本当なら忘れてしまいたいはずの、あの忌わしき過去の記憶を。
「……はぁ」
妖夢は小さく溜息をつくと、今まで不動だった足をようやく動かし始めた。
そして、道の端まで寄ると、近くの店の壁に静かに背を預ける。
一度蘇り始めた過去の記憶を止める事は、妖夢は今までの経験から無駄だと知っていた。
無理に記憶の奔流に逆らおうとすると、思考が乱れて行動に支障が生じてしまう。
不本意ではあるが、こうなったら思い出せるだけ思い出して、すっきりするのが一番だった。
少々時間の無駄になってしまうが、もやもやしたまま白玉楼に戻るのは、妖夢の気持ちが許せなかった。
「…………」
壁に背を預けたまま、妖夢は小さく空を仰いだ。
見えるのは、さっきより少しだけ雲の大きくなった雪空と、そこからはらり、はらりと舞い落ちる雪。
まるで、あの日と同じだった。
────あの日、この雪空の下で、惨劇は起こった。
…………………………
『お父さんお母さん! ほら早く早く!』
『おーい妖夢、あんまり急ぐと転ぶぞー?』
『ふふふ、ずっと楽しみにしていましたからね』
冬になると花を咲かせる珍しい桜。
それを一目見るために、妖夢は両親と共に村外れの山岳部へと訪れていた。
妖夢が生まれる前に、両親が偶然見つけたというその桜をもうすぐ見れると知って、この時妖夢は浮かれに浮かれていた。
白く染まった山道を抜けて、目当ての桜を目の当たりにした時など、飛び上がって喜んだ。
とても、幸せな時間だった。
そして妖夢は、ここまでの疲れを癒すため、雪の掛かっていない桜の根元で、一眠りする事にした。
事件が起きたのは、そのすぐ後の事だった。
『────ぐるるううううう……!』
静寂の中、場違いなほどに凶悪なうなり声が辺りへと響き渡る。
『……?』
妖夢は、そのうなり声で目を覚ました。
そしてすぐに、目の前の光景を疑った。
『え!?』
視線の先、妖夢から少し離れた所に父と母が居た。
そしてその周りを、熊程に大きく、まるで狼のように鋭い爪と牙を持った妖獣が、複数取り囲んでいたのだ。
『……え、え?』
当然、妖夢は困惑した。
妖夢達は知らなかった。
人の滅多に来ないこの場所は、ここ数年の間に、凶暴な妖獣達の格好の住処となっていた事を。
知らずその奥地まで足を踏み入れた侵入者達に対して、彼らは明らかな攻撃の意思を見せていた。
『くっ……逃げなさい妖夢!』
妖夢へと向かって、父は必死に叫んだ。
しかし、今の状況に理解が追いついていない妖夢は、その場から動く事が出来なかった。
そうこうしている内に、妖獣達が徐々に二人へと距離を縮めて行く。
鋭い牙をむき出しにし、目の前の獲物を見据える。
そして。
『ぐるるうぅぅああぁあああ!』
振り下ろされる、剛腕。
…………鮮血。
『……あ、ああ……』
妖獣の一匹が、妖夢の方を見た。
その目に、残る一人の獲物を映して、ゆっくりと、ゆっくりと近づいてくる。
迫る妖獣のその後ろに、血を流して倒れている両親の姿が在った。
『あ……いや……いやああああああああ!』
妖夢は叫んでいた。
何が起こったのか分からない。どうして、両親が血を流して倒れているのか分からない。
それでも、確実に自身へと迫りつつある危機に対して、その声はあらん限りの拒絶の意を示していた。
妖獣は不意の絶叫に一瞬動きを止めたが、しかしそれだけだった。
迫り来る、影。
怯える妖夢の目の前に、ついに妖獣が立ちはだかる。
そして、まるで獲物をいたぶるかのように、妖獣はゆっくりとその腕を振り上げ、妖夢に狙いを定めた。
『……はぁ……ぁ』
天に向けられた妖獣の爪が、ギラリと鈍く光る。
妖夢はその時、ふとその輝きが、剣の輝きに似てると思った。あまりの恐怖で思考もままならない妖夢だったが、その瞬間脳裏に、祖父の姿がよぎった。
口数が少なく不器用な所もあるけれど、いつも優しく温厚で、それでいて剣の腕が強い自慢の祖父。
ここに祖父が居たならば、両親の事も自分の事も、きっと守ってくれたに違いない。
…………だから。
『…………助けて、おじいちゃん!』
妖夢は、自然とそう叫んでいた。
助けに来るわけがない。分かっていても、今の妖夢には祖父を呼ぶ事しか出来なかった。
今度は、妖獣も動きを止めなかった。
剛腕から繰り出される一撃が、妖夢へと振り下ろされる。
妖夢はそれを直視出来ず、ぎゅっと目を瞑った。
だから妖夢は、その瞬間の出来事を見てはいなかった。
────振り下ろしたはずの妖獣の腕は、刹那吹き抜けた一陣の風と共に、肘元から分かたれ勢いよく宙を舞った。
『………………ごおおおおおああああああああ!?』
『……!?』
突如絶叫する妖獣。
何事かと、妖夢は驚いて目を開けた。見れば妖獣は、片腕が中ほどから千切れて仰向けに倒れていた。
そしてそれを見降ろす形で、その脇に立つ一人の人物。
『……無事か、妖夢』
『あ……』
妖夢はその人物を見て、思わず声を失った。
もう駄目だと思っていた。
もう助からないと、諦めていた。
なのに、来てくれた
本当に、来てくれた。
目の前に…………剣を握る祖父の姿があった。
『遅れてすまない……すぐに、終わらせるからな』
そう言って魂魄妖忌は、残る妖獣の群れの中に、単身飛び込んで行った。
──────
──────────
…………………………
「…………」
そこまで回想を終えたところで、妖夢は思考を中断した。
軽く頭を振り、ぼんやりとした意識を現在に引き戻す。
そこは、雪で白く染め上げられた、人里の街道。
いつの間にか、雪は止んでいた。
(……あの後、師匠のおかげで、私は助かった)
寄りかかっていた壁から体を離すと、んっ、と妖夢は小さく伸びをした。。
もう何度目になるかは分からないが、こうして中途半端に出かかっていた記憶を掘り起こす事で、大分頭の中がすっきりすると妖夢は知っていた。
時々思い出す、あの日の記憶。記憶はまるで戒めのように、思い出すたび妖夢の胸の内を、小さな痛みと共に苛ませる。
あの日、自分は助かった。自分だけが、助けられた。
あの日、自分が無力だったがために、両親は…………
「……やめやめ、早く帰ろう」
一瞬よぎった思考を切り捨て、妖夢は早々に頭を切り替えた。
ご飯はまだかとお腹を空かせてうずうずしている幽々子の姿が、妖夢には容易に想像が出来た。
待たせてしまっては悪いと、今度こそ妖夢が家路に付こうとしたその時、聞き覚えのある声がすぐ近くから投げかけられた。
「────ああ、やっぱり君だったか」
「……?」
反射的に、妖夢は声のした方に目を向けていた。
するとそこには、眼鏡をかけた大柄な男の姿があった。
「……あ」
妖夢は、小さく声をあげる。
見知った顔だ。しかし人里で合うには、それは少々意外な人物だった。
「こんにちは。何だか難しい顔をしていたようだけど……どうかしたのかい?」
そう言って、その男────森近霖之助は、少しだけ怪訝そうな顔をした。
「……ああ……いえ、何でもありませんよ」
どうやら、さっきまでの様子を見られていたらしい。考え事に没頭しすぎていたため、妖夢は霖之助の存在にまったく気付いていなかった。
その事に軽い羞恥を感じて、妖夢の頬に微かに赤みがさす。
「……そっちこそどうしたんです? あなたは店から一歩も出ない様な人だと思ってましたけど」
妖夢はすぐさま話題を変えるために、見られていた事への皮肉をちょっとだけ込めて聞いた。
「ははは……まぁ、あながち間違いじゃないけど、僕だって人里に買い出しに来る時ぐらいあるんだよ」
妖夢の返しに、笑って霖之助は、手に持っていた物を小さく掲げて見せる。
そこには、買い物袋が一つ握られていた。
「買い出し……あ、そうでした! 私も買い物の途中ですので、これで失礼しますね」
それを見た妖夢は、今の自分の状況を思いだして、急いで話を切り上げる事にした。
「え? ……うん。気をつけてね」
妖夢の言葉に一瞬きょとん、とした霖之助だったが、すぐにいつもの調子で言葉を返す。
しかしその顔には、どこか薄らと翳りが混じっていた。
「…………」
急いでいた妖夢はその事に気付かず、すでに霖之助に背を向けて歩きだしていた。
意識はもうすでに、家路に着く事に移り変わっていた。
「────待ってくれ!」
だから後ろから、柄にもなく大声を出した霖之助に腕を掴まれた時には、妖夢は心臓が飛び出るかと思う程に驚いた。
「……っ!? …………!?」
慌てて振り返り、突然の事に目を白黒させながら、妖夢は腕を掴んだままの霖之助を見上げた。
何故か焦った様子を浮かべる霖之助の顔が、そこにはあった。
「……あ! ご、ごめん。驚かせるつもりはなかったんだ。えっと、その……」
明らかな戸惑いを見せる妖夢に、霖之助は慌てて妖夢から手を離した。
「…………あの、いきなりどうしたんですか……まだ私に何か用が……?」
未だ早鐘のように高鳴る鼓動を抑えながら、おずおずと妖夢は訊ねた。決して悪戯や悪ふざけで引き止めた訳ではない事は、霖之助の様子からなんとなく窺い知ることが出来た。
なんとも言えない空気が漂う中、少し間をおいて、霖之助は口を開いた。
「……本当は、口止めされていたんだ。誰にも言わないでくれって。でも、さっき壁に寄りかかって、物思いに耽っている君の顔を見ていたら……何だかとても寂しそうに見えて…………君にだけは、言っておかなきゃいけないような気がして……」
「…………?」
独白の様な、霖之助の言葉。
それが何を意味しているのか理解できず、妖夢は小首を傾げた。
「……その帽子とマフラー」
「え?」
霖之助は言った。
「それ、君のおじいさんがくれた物じゃないかな?」
「…………そうですけど、どうしてあなたがその事を?」
いよいよもって、妖夢には謎だった。
何故その事を、霖之助が知っているのか。
「……そうか、やっぱりあの人が君の……」
妖夢の答えに、霖之助は口元に手をやって一人納得する。
そして今度は、しっかりと妖夢の方を見て、霖之助は静かに語り始めた。
「それはね、一週間ぐらい前に腰に刀を下げた老師が、僕の店で買っていった物なんだ」
「……えっ……それって……」
霖之助が頷く。
「うん。暖かくて、出来るだけ質が良くて、なるべく動きの邪魔にならない物が良いって言ってたから、僕がそれを勧めたんだ」
「……師匠が……これを……?」
妖夢はそっと、帽子とマフラーに触れる。
てっきりこれは、祖父がどこかから貰ってきた物だと妖夢は思っていた。
それを偶然、自分が貰い受けただけだと、そう思っていたのだ。
「これは愛する孫娘へのプレゼントなんだ、この時期はさすがに冷えるから、孫が風邪を引かないように……って。彼はそう話していたよ」
「………………」
霖之助の言葉に、妖夢は俯く。
俯いたまま、妖夢は何も言う事が出来なかった。
頭の中で、霖之助の言葉を何度も反芻する。ぐるぐると、思考だけが巡っていた。
何か言おうと口を開こうとしても、考えがまとまらず言葉に出来ないまま、再び思考の渦に飲み込まれるという事を、妖夢は繰り返していた。
(師匠は最初から、私へのプレゼントとしてこれを……? でもどうして……)
主に使える者ならば、欲を見せてはいけない。いつも清楚である事を心掛けよと、妖夢はそう教えられてきた。
妖夢自身、それを今まで疑う事はなかったし、主である幽々子に使える内に、自然とその言葉の意味を理解出来ていた。
何より、これは祖父の教えの一つでもあったのだ。
だからこそ、祖父がこうして、自分へと宛ててプレゼントを用意していたという事実が、妖夢にはすぐには受け入れられなかった。
「……納得できない、かな?」
下を向いて何も喋らない妖夢を見て、霖之助は困ったように眉を寄せる。
しかしそこでふと、霖之助は何かに気が付くと、穏やかな口調で今度は妖夢へと問いかけた。
「ところでその帽子とマフラー。彼が買っていったのは一週間前だけど、君に渡したのはもしかして今日が初めてじゃないかい?」
「…………! ど、どうしてそんな事まで……」
驚いて、妖夢は俯かせていた顔を上げる。
そんな妖夢の様子を見て、霖之助は小さく笑って、言った。
「簡単な事さ。だって今日は……クリスマスだから」
その答えは、実に簡潔なものだった。
「…………クリスマス……?」
霖之助の口から発せられた言葉。
しかしそれは、妖夢にとって耳慣れないものだった、
「やっぱり、知らなかったようだね。まぁ元は外の世界の風習だし、知らないのも無理はないかな」
「……そ、それは一体、どういう日なんですか?」
思わず、妖夢は聞き返していた。
「そうだね……一般には、赤い服を着た大柄な老人が珍しい動物にソリを引かせて、町中の子供達にプレゼントを渡して回るなんて言われてる。まぁ彼なら赤い服を着ればそれっぽくなるかも知れないけど……今回は、少し意味合いが違ってくる」
「……?」
「その日はね、家族でお祝いをする日でもあるんだ。そういう日でも、あるんだよ」
「…………!」
それを聞いて、妖夢は微かに息を呑んだ。
『家族』という言葉が、強く胸に響いた。
「彼はこうも言っていたよ。孫には両親がいなくて、いつも寂しい思いをさせている。剣の修行ばかりで親らしい事は何一つしてやれないから、せめてクリスマスぐらいは、愛する孫娘にプレゼントを渡してやりたい。こんな日ぐらいは、親の様な事をしてあげたいんだ……ってね」
優しく語りかける様に、霖之助は言った。
「……そ、そんなの……だって師匠、そんな事一言も……」
戸惑いに、妖夢の声は震えていた。
「……言えなかったんじゃないかな。いつも師として君の傍に居る彼が、こんな事を直接君に言うのは、さすがに躊躇われたんだろう」
「………………っ!」
今度こそ、妖夢は絶句した。
霖之助の言う通りだった。
どうして、今まで気付かなかったのだろうか。
いつも傍に居る、祖父の想い。そんな簡単な事に、どうして今まで────
「………………違う」
そう思いかけて、妖夢は小さく否定した。
最初から気付いていたのだ。
祖父がどれだけ自分の事を想っていたのかを。
知っていながら、ずっと、知らない振りをしていた。
そうせずには、いられなかった。
─────全ては、あの時から変わってしまっていたんだ。
「……僕は君達の過去は分からないけれど……きっと彼も、悩んでいるんだと思う。
この事を話している彼の顔が、さっき一人で考え事をしていた君の寂しそうな顔と、よく似ていたから……」
「…………」
「…………ごめんよ、変に老婆心が動いたみたいだ。関係のない僕がこんな事を言うのは、おせっかい……だったかな……」
再び黙り込んでしまった妖夢を見て、霖之助はばつが悪そうに視線を泳がせた。
「……いえ、そんな事はありません。おかげで、大切な事を思い出しました、感謝します。では今度こそ……失礼します」
本心からの言葉だった。
小さく礼をして、妖夢は霖之助に背を向ける。
「! ……うん、またね」
まるでこの短い間に成長を遂げたかのような妖夢の表情に、霖之助は驚いた。
しかし次の瞬間には、霖之助も微笑んで、妖夢へと小さく手を振っていた。
駆けだす妖夢の背中には、もう迷いは見えなかった。
………………
私は、ずっと愛されてきました。
その事を、私はずっと前から知っていました。
でも、知っていながら、私はずっと知らない振りをし続けてきました。
そうする事で、私は祖父を師としてだけ見る事が出来ました。
親としてではなく、家族としてではなく、強くなるためだけに、私は祖父を見続けてきました。
それだけが、私にとって必要な事でした。
……だって、私は……愛されてはいけない子なのだから。
「……私は……馬鹿だっ……!」
道に積もる雪を蹴飛ばしながら、妖夢は吐き出すように呟いた。
全ては、あの日を境に変わってしまった。
あの日、両親を守れなかった事。あの日、自分だけが生き残ってしまった事。
その事実が、強烈な罪の意識として残り、妖夢の心に深い傷を負わせていた。
自分は、幸せを望んではいけない。愛を求めてはいけない。
両親を救えなかった自分には、そんな資格はないと妖夢は心のどこかで思い続けてきた。
そんな歪んだ思いを、妖夢はあの日から胸に抱え込んでしまっていた。
弱い自分に対する、戒めとして。
感じていた愛に、目を背けてまで、ずっと。
「……師匠」
霖之助の言葉で、妖夢はその事に気付かされた。
妖夢自身、無意識の内に気付かないようにしていたその事実に。
祖父の本心を聞かされて、今はただ、妖夢は祖父に会いたかった。
会って、話しがしたい。
そう思いながら、妖夢は雪道を走り続ける。
……………………
……そして数刻後。
白玉楼へと辿り着いた妖夢は、手に持っていた買い物袋を玄関で放り投げると、すぐさま妖忌の部屋へと向かった。
「師匠!」
ガラリ、と勢いよく襖を開く。
果たしてそこに、妖忌の姿はあった。
「おぉ妖夢、帰ったのか……どうしたんだ、そんなに慌てて」
今の妖夢は荒く息を切らし、急いで帰って来たという事がはっきりと分かるような状態だった。
部屋で一人、座ってお茶を飲んでいた妖忌は、そんな妖夢の様子に小さく眉をひそめた。
「……師匠!」
「!?」
再び妖夢は叫ぶと、妖忌の目の前で滑り込むように素早く正座の姿勢を取った。
さらに両手を床について、真っ直ぐに妖忌へと視線を向けて、言った。
「師匠、私……寂しくなんかありません。お父さんとお母さんが居なくても、私には師匠と……それに、幽々子様が居ます」
「…………! 妖夢、いきなり何を……」
改まって妖夢が話し始めた事の内容に、妖忌は大きく目を見開いた。
「……プレゼント、ありがとうございます。それに……ごめんなさい。私、師匠の想いにずっと気付けなくて……」
言葉を探しながら、とつとつと妖夢は言った。
そこまで聞いて、妖忌はようやく話の本筋に気付いた。
「…………そうか、あやつか……まったく、あれほど言うなと言っておいたものを……」
はぁ、と一つ溜息をついて、妖忌は妖夢を見やった。
その仕草に、次に何を言われるのかと、妖夢は少しだけ緊張した面持ちで妖忌の言葉を待った。
そして。
「…………許してくれ、妖夢」
「……え?」
ぽつりと、妖忌は言った。
「妖怪のせいで両親を失ってしまったあの日から、お前は自分にもっと力があればと、剣の道を歩み始め、これまで己の腕を磨き続けてきた」
「…………」
「だが私には、それ以上にお前が、まるで罪滅ぼしのために剣を振っているように思えていた」
「そ、それは……」
妖夢が口を挟もうとして、しかし妖忌は、首を横に振った。
「言うな妖夢……私は、それに気付かないふりをして、ずっとお前に剣を教え続けてきた。そうする事しか……出来なかったのだ」
「……師匠?」
ふと、妖夢は違和感を感じた。
熱に浮かされたように、妖忌は話しを続ける。
「全て、私のせいなのだ。あの日、お前達があそこに行く事にもっと早く気付いていれば、私がもっと早くあの場に駆け付けていれば……お前にこんな寂しい思いをさせる事も……辛い思いをさせる事もなかったのだ……すまない妖夢」
「…………!」
突然の告白に、今度は妖夢が驚く番だった。
「私では、あの二人の代わりにお前の寂しさを埋めてやる事は出来ないのだ……こんな老いぼれに出来る事と言えば、せめて剣の修行に手を貸す事と、親の真似事の様に、小さなプレゼントを与えてやるぐらいしか思いつかなくてな……本当に情けない話だ」
「師匠……それは……」
違う、と言いたかった。
しかし妖忌の見せる悲しそうな表情に、妖夢は思わず言葉に詰まる。
「……ずっと後悔していた。力があっても、私はあの二人を守る事が出来なかった。そして私の愛では、お前を満たしてやる事も出来ない。なんと……なんと無力な事か……すまない、すまない……妖夢……!」
「…………っ!」
妖夢は息を呑んだ。
こんな悲しそうな顔をしている妖忌を見るのは初めての事だった。
それを目の当たりにして、妖夢の胸は突然に、張り裂けんばかりに苦しくなった。
頭の中で、疑問が飛び交う。
……どうして。
力がなかった事を後悔していたのは私の方なのに。
どうして、師匠が謝るの?
どうして、師匠がこんなに悲しそうな顔をしているの?
違うのに。
悪いのは私なのに。
違う、違う。
お願い、そんな悲しそうな顔をしないで。
私は……私は……!
「ぁ……違う……違うんです師匠……じゃない、えっと……」
言いかけて、妖夢はその言葉を飲み込んだ。
一瞬の躊躇。
しかし、心を決める。
……そして。
「ち、違うの…………おじいちゃん!」
うなだれる妖忌の胸に、妖夢は思いっ切り飛び込んだ。
「……よ、妖夢……?」
戸惑う妖忌の声が上から聞こえる。
妖夢はそれに構わず、妖忌の体を強く抱き締めた。
「おじいちゃん……私、おじいちゃんと幽々子様が居るだけで、幸せです……本当に幸せなんです」
「…………」
「お父さんとお母さんがいなくなって、もちろん寂しく思う時もあったけど……でもそれは、おじいちゃんのせいなんかじゃない! 誰の……誰のせいでも、ないんです……」
「妖夢……」
妖忌の胸の中で、妖夢は絞り出すように言葉を紡ぐ。
師としてではなく、一人の家族へと向けて、その想いを紡いでいく。
「……ごめんなさいおじいちゃん。おじいちゃんから愛されてるって事、私は分かっていたのに……ずっと気付いてない振りをしてました。あの日何も出来なかった私には、誰からも愛される資格なんかないって、そう思ってたんです……」
「……………」
「でも……それって違いますよね。そんなの、間違ってます。そんな事をしたって、誰も喜んだりしない。お父さんとお母さんが知っても……きっと悲しむだけです……だから、どうか……どうかおじいちゃんも、自分の事を許してあげてください。そんな風に、自分を責めないでください……」
それは、妖夢自身へと向けられた言葉でもあった。
妖夢自身、あの日の事をずっと後悔していた。
そして妖忌も、両親を守れなかった事に、深い後悔の念を感じていた。
皮肉な話しではあったが、祖父と自分はやはり繋がっているんだと、改めてそう思えた。
「私、おじいちゃんから愛を貰っています。今もこうして、おじいちゃんから愛を貰っています。親の代わりだとか、真似事とかじゃなくて、おじいちゃんはおじいちゃんとして、いつも私に愛を注いでくれていたじゃないですか……! だからお願いです……もう……苦しまないで……っ」
────ぽんっ、
その、時だった。
「……え?」
妖夢の頭を、しわしわの手が触れた。
「おじい……ちゃん?」
「もういい……もう、何も言わなくていいんだ……妖夢」
そのまま、妖忌は妖夢の頭を優しく撫でる。
「お前の言う通りだ妖夢。こんな感情をずっと抱いていても、誰も幸せにはなれん……それを孫娘に諭されて気付くとは、私も本当に老いたものだな」
そう言って、妖忌は自嘲気味に笑う。
その表情は、どこか吹っ切れたように清々しかった。
「……ありがとう妖夢。お前は、優しい娘だな……こんなに優しい娘になったと知れば、あの二人もさぞ喜ぶだろう」
「おじいちゃん……」
「妖夢も、もう苦しまなくていい。寂しい時は、いつでもそう言ってくれていい。私はいつだって、お前の事を想っているからな」
「……! おじいちゃん……おじいちゃん……!」
想いが、伝わる。
噛みしめるように、妖夢はその名を呟いた。
嬉しくて、悲しくて、色んな感情が混ざり合いながら、気付けば妖夢の目からは涙が溢れていた。
今まで抱えていた心の枷が外れた事で、止めどなく涙が零れ落ちていく。
妖忌の体を強く抱きしめながら、妖夢は声を出して泣いた。
妖忌は、そんな妖夢の事を、とても愛おしそうに、そっと抱き締めた。
お互いの愛を確かめながら、二人はしばらくじっとそのままでい続けた。
────だから、襖の奥からその様子をじっと見ている者が居た事に、二人は最後まで気が付かなかった。
「……料理が遅いんで呼びに来てみれば……やれやれ、これはとても邪魔出来る雰囲気じゃないわね……」
ぼそりと一言、誰にも聞こえないほどに小さく呟くと、西行寺幽々子は静かに襖から離れた。
そう言う幽々子の顔も、なんだか嬉しそうだった。
「……あれ、そういえば……」
自分の部屋へと戻る道すがら、ふと足を止めて、幽々子は振り返った。
「『おじいちゃんと幽々子様』って事は……もしかして私、おばあちゃんポジション?」
一瞬、頭をよぎった疑問。
その可能性に、幽々子は少しだけ考えるそぶりを見せ…………
「……ま、いっか!」
しかしすぐにまた軽い足取りで歩き出すと、そのまま幽々子は部屋の奥へと姿を消した。
………………
…………………………
その夜。
「はーい幽々子様ーお肉が焼けましたよー」
「待ちかねたわよ妖夢! お腹が減ってもう我慢出来ないわ、いただきます! ……がぶっ」
「幽々子様、行儀が悪いですよ。手に持っているナイフとフォークが意味ないじゃないですか」
「もぐもぐ……もぐもぐ……」
「はぁ……こうなると幽々子様は耳を貸さないんだから……」
やれやれと軽い溜息をついて、妖夢はそんな幽々子の様子を見る。
改めて思い返してみれば、毎年このぐらいの時期になると、幽々子は豪勢な料理を頼んで食卓を賑わせていた。
それはもしかしたら、そうする事で家族としての雰囲気を醸し出そうという、彼女なりの思い遣りだったのかも知れない。
もちろん、単に自分が美味しいものを食べたかっただけという可能性も、十分に有り得るのだが。
そんな事を少しだけ考えて、妖夢は小さく微笑む。
そして、そっとその場を離れると、今度は妖忌の方へと近づいて行く。
「では、師匠にもお酒をお注ぎしますね」
「うむ、ありがとう妖夢……ところで」
酌をする妖夢に向かって、妖忌はどこか言いにくそうに、話を切り出した。
「……その、さっきのおじいちゃんと言う呼び方は……もうやめたのかい?」
そう言って照れ笑いを残す妖忌を見て、自然と妖夢の顔は綻んだ。
「……師匠が必要とあれば、いつでもそう呼んであげますよ……おじいちゃん」
「そ、そうか……何だか悪い気はしないな……!」
「ふふっ、もぅおじいちゃんったら」
「もぐもぐ……もぐもぐ……(にこり)」
これは妖夢が、異変と呼ばれるものに関わっていく前の、まだ少し幼き日の出来事。
三人の楽しそうな声と共に、白玉楼から漏れ出す小さな灯りは、夜空から舞い落ちる雪を仄かに照らしていく。
雪は優しく、どこまでも彼女たちの幸せを見守るかのように、しんしんと降り続けた。
最後のほうはよかったです。しかしうん……物足りない。
妖夢もおじいちゃんもよかったね・・・!
ただ、この妖忌が孫置いて出ていく姿が思い浮かばんw