「あ……駄目、そんなとこ触っちゃ……」
「こいし……」
その指は、私の身体の一部を静かに撫でた。
「あ、やだ、そこ開いちゃだめ……っ」
「こいし……」
それは、私の身体にとって、もっとも大事なところ。
「だめ、だめなの! そんなに開いたら……っ」
「こいし」
それそのものが、私であると言っていい。
「そんなに開いたら……眼球飛び出ちゃうよぉ!」
「こいしちょっと黙りなさい」
「えー……」
さとりは、まさか自分が地上の医者の世話になるとは思ってもいなかった。地霊殿の主として、健康管理は日々行っているつもりだった。
そう、別に風邪やちょっとした怪我程度なら、わざわざ月の頭脳と呼ばれるこの名医の所まで足を運んだりはしない。今、彼女が見てもらっているのは、彼女にとって、もっとも大事なところ。さとり、いやさとり妖怪という種族にとって、代えの利かない部分。
「……疲れ目ね多分」
心を読む彼女の瞳。第三の目を見て、医者はそう結果を告げた。
そう、さとりの第三の目は今、充血している。というよりなんか血管が浮き出てる。正直気持ち悪いことになっている。
それに気付いたのは昨日のことだ。朝起きて、その異常に気付くことにそうそう時間は掛からなかった。
「疲れ目……そんなに酷使したかしら」
「自覚が無いならよっぽどね。自分で感覚が麻痺するほど、きっと貴女はその眼を使いすぎたんだわ」
「……そうだったかしら」
今、彼女とこの医者は、いたってごく自然な会話をしている。これが意味することは一つ。
今のさとりは、心が読めないのだ。
「お燐……貴女今何考えてるの?」
「さとり様は多分注射とか眼の前にしたらすっごい泣きそうな気がするって思ってましたが?」
「とりあえず腹筋三百回してなさい」
とまあ、こんな具合にペットの心も読めなかったため、腹筋を強制させられた猫を放っておいて地上まで出てきたのだ。
「それで、どうすれば治るのです?」
「えー、治しちゃったら面白くないじゃない」
そして何故か横で勝手に茶々を入れる妹のこいし。どこで話を耳にしたのか、あるいは最初から見ていたのか、こいしはさとりについて来たのだ。
「こいしちょっと黙りなさい」
「もー、お姉ちゃんたら冷たいんだから」
「そうよさとりさん、せっかく可愛い妹さんがいるんだから、邪険にしちゃ可哀想よ?」
「ほら! 先生もそう言ってるじゃない」
ついて来るのは勝手だが、さっきからこの子は、いちいち話の腰を折る。本当に何を考えているのだろう。さとりは内心苛ついていた。
「私は甘やかさない主義なんです」
「あら、時には飴も必要よ? あ、こいしちゃんスルメ食べる?」
「何それ美味しいの?」
「先生」
「分かった分かった。そんなに慌てないの」
さとりはもどかしさを感じていた。こいしはやたらこの医者に懐いてるし、医者は医者でこの妹に対してやたら優しい。
いや、もどかしいのはきっとそこじゃない。自信が会話の主導権を握ることが出来ないからだ。わざわざ地上まで出てきたのに、この医者の心を読むことが出来ないからだ。
「はいこれ」
「なにこれ?」
「金魚鉢」
「いや分かりますが」
医者が持ち出したのは金魚鉢だった。こんなもんでいったいどうしろというのだろうか? さとりは首を傾げた。
「とりあえずこの中を目薬で満たすから、その真っ赤な塊一日漬けておきなさい」
「塊じゃなくて目です」
「ちょっと突っ込みの才能無いわね貴女」
「そんな才能要りません」
どうも疲れる。普段なら相手の心が読めるから、何か言われる前に釘を刺せるのに。
「うほー! お姉ちゃん! このスルメっておやつ美味しいよ! 持ち帰っていい?」
「あら、気に入ったなら少し分けてあげるわよ」
「さすが先生! 話が分かるわね!」
おまけにこの医者……さとりが想像する医者像に比べ妙にフランクすぎるから会話が予測し難いのである。
「それにしても、金魚鉢に漬けるというのは少し強引じゃありませんか?」
「一滴二滴でなんとかなる大きさの目なら、私だってこんなことしないわよ」
第三の目は大きい。さとりの拳一つ分の大きさはある。確かにこれに目薬を差すなら、スポイトか霧吹きが必要だろう。
「それにどうせ今日は一日入院になりそうだし、静養にはちょうどいいんじゃないかしら?」
「?」
たかだか疲れ目で入院とは大袈裟だ。さとりはそう思ったが、耳に入り込んできた雑音を捉え納得した。どうやら雨が降ってきたようだ。それもかなり強い。
「傘を用意するべきでしたね」
「あら、地獄に雨が降るのかしら?」
「……。購入を検討します」
「お姉ちゃんと外でお泊りなんて久しぶりだね!」
溜息を吐くさとりをよそに、こいしは楽しそうに笑っていた。さとりは戸惑っていた。普段陸すっぽ屋敷に帰って来ないどころか、いたとしても姿を現さない。本当はいつも屋敷にいるのかもしれないが、それすら確認することが出来ないこいしが、今日は随分と姉である自分にくっついている。何を考えているのか分からない、空気のような彼女が、まるで心を開いたかのように感情を露にするかのよな素振りを見せている。故に、さとりは戸惑っていた。
「ねえねえお姉ちゃん雨だよ? 地獄じゃ降らないから珍しいよねー」
こいしは部屋の壁に取り付けられた窓から身を乗り出し、折角の綺麗な髪が雨粒に濡らされているのを気にする様子なく、脚をばたばたさせていた。
結局、さとりは形式上入院をすることとなった。パイプで組み立てられたベッドに、真っ白な壁と薄緑色の床。まさにスタンダードな病室といった雰囲気だ。
「雨なら、あなたはいつも見てるんじゃないの?」
「こんな土砂降りは久しぶり!」
何故だろうか。こいしはこんなにも興奮し、まるで撒き散らすかのように笑顔を向けてくる。それはさとりにとっては本来喜ばしいことだ。だが、さとりはそれを真正面から受け入れることが出来なかった。それがこいしの本心からの興奮であり、それがこいしの本心からの喜びではないことを、さとりはよく知っていたからだ。
彼女の水晶のような眼はこちらを見ていても、そこに自分は映っていない。たとえどんな言葉を発しようと、どんな行動を起こそうと、そこにこいしの意思は無いからだ。
「……雨、か」
さとりはベッドから上半身だけ起こしたまま、自身の紅い目が浸かった金魚鉢を胸に抱き、窓から見える景色を虚ろに眺めていた。別に寝ている必要は無いのだが、たまにはこういった静養も悪くない。医者から傘を借りれば帰ることは出来ただろうに、あの医者はそれをしなかった。
ベッドに半身を預けて半刻程が経っている。そこでようやくさとりは気付いた。自身が気付かぬほどに疲労していたことに。なるほど入院だ。何故、私はこんなにも疲れているのだろう?
「お姉ちゃん、寝なくていいの?」
「え……ええ、大丈夫よ。心配してくれてありがとう」
気付けばこいしがぬっと顔を近付けてきていたので驚いた。この子は無意識かも知れないが、こうしていきなり間を詰められるのは少し困る。
「おかしいわね。ちゃんと睡眠は取っていたのに」
「そう? 私には毎日徹夜してるように見えたけど?」
「こいし……あなた、家に居たの?」
「うん」
困った子だ。こちらは毎日気が気で無いのに、こいしはいつでもそんなことはお構いなく、自由気ままに漂っている。
「居るなら、せめて居ることくらいは言いなさい」
「やだ」
「?」
違和感を覚えた。今までこいしが、ここまではっきりと姉である自身の言葉を拒絶したことがあっただろうか?
さとりはこいしの顔をじっと見た。その顔は怒っているようで、不機嫌なようで、それでいて表情が無いように見える。
「こいし、あなた……何考えてるの?」
「なーんにも?」
素っ気無く、こいしはぷいっと顔を逸らした。例え姉であっても、さとりには未だにこいしが分からなかった。
「困った子ね」
溜息が出る。今まで何度も、この紅い目で彼女を覗こうと試みてきた。例え彼女の心が閉ざされていようとも、姉である自分ならば、この目を持つ自分ならば、彼女の心の中に侵入出来るのではと淡い期待を抱いてきた。
でも、出来なかった。何度周りの穢れた心を、醜き欲望を覗いてきただろうか。それでも、一番近いはずのこいしが、さとりにとっては最も遠かった。
「ほんと、困ったお姉ちゃん……」
「え?」
そっぽを向いていたはずのこいしは、さとりを見ていた。その顔を見て、さとりはゾッとした。
「瞳を開いても閉じても……お姉ちゃんにはなーんにも? 見えてないのね?」
笑っていた。大きな眼を開いて、こいしは眼前でさとりに笑い掛けていた。
「な……何が言いたいの? こいし」
「私はね、嬉しいんだよお姉ちゃん。どうして分かってくれないかなあ?」
雨は激しく竹林の中にあるこの建物を打ち付けている。それなのに、こいしの小さな口から零れ出る小さな声が、はっきりと耳に伝わってきていた。
「こいし……あなたが何を言っているのか分からないわ。一体何が嬉しいの……?」
「だって、今日はお姉ちゃんが怖くないんだもの」
こいしが無意識にさとりを襲う。その可能性は否定は出来ない。だが今のこいしはただこいしを見つめてくるだけで、その素振りに攻撃の色は見て取れなかった。
それでも、今さとりが抱いているのは、愛すべき妹に対する得体の知れない不安と緊張感だった。
こいしが何を言っているのか分からなかった、こいしが何を喜んでいるのか分からなかった。
「私が怖い……? 何言ってるのこいし。あなたは私より強いじゃない」
さとりは戦いが得意では無い。彼女は心を読み、相手の精神を容易に揺さぶるという大きな強みを得た代わりに、本来あるべき妖怪としての戦闘力が高くない。
こいしはその逆である。彼女はその目を閉ざしたことにより、妖怪さとりという種の奥に秘められた高い妖怪としての力を存分に解放することが出来るのである。故に、純粋な喧嘩でさとりはこいしに勝つ事は出来ないのだ。
「……ほんっとに何も分かってないなあお姉ちゃんは」
近付けていた顔を遠ざけ、こいしははあっと溜息を吐いた。それと同時に、こいしから漏れ出していた妙な緊迫感も散らすように消えていった。
さとりは呆然とした。今のは一体何だったのだろう? あのようなこいしを、さとりは今まで一度も見たことが無い。だからさとりはゾッとした。普段は空気に紛れているかのようなこいしの存在。でもあの瞬間、確かにこの空間に、さとりは「こいし」を感じていた。
「こいし、あなたもしかして」
「心を開いたか?」
「!」
「お姉ちゃんてば、一体何を期待してるのかなあ?」
こいしが笑った。また笑った。さとりは今混乱していた。金魚鉢を支える両手が僅かに震えたのを、さとりは感じていた。
理由は分からない。だが認めなければならなかった。今のさとりは、こいしに恐怖を抱いている。
「どうしたのお姉ちゃん? 顔が青いよ?」
「え……ええ、疲れてるのかしらね? こいしの言うとおり、少し眠ったほうが」
「私が怖い?」
「……!」
雨雲は太陽を覆い隠し、部屋に暗い影を落とす。影が濃くなったせいか、さとりの眼から見えるこいしの表情は、いつもよりはっきりと見て取れた。
ごくり、と、さとりは無意識のうちに唾を飲んでいた。蜘蛛糸に引っ掛かった羽虫のように、今の自分に逃げ場が無いように思えた。
「怖がりなのねお姉ちゃんは……まるで私みたい」
ゆっくりと、こいしの白い手が伸びる。その手が自身の頬に触れた瞬間、さとりはひっと声を漏らした。
「大丈夫だよお姉ちゃん……お姉ちゃんは慣れてないだけ」
「慣れて、ない……?」
「いつも料理を作ってる人が包丁を無くすとね、すごく困った顔をするの。俺の包丁はどこ行った? って」
「こいし……?」
「でもね、本当は違う。怖いんだよその人は。もしかしたら二度と料理が出来なくなっちゃうんじゃないかって錯覚しちゃうの」
まるでぐずる幼児を諭すように、こいしの手は優しい。その手の柔らかさ、暖かさが、今のさとりを怯えさせていた。
「大丈夫、お姉ちゃんの目はすぐよくなるよ。だから何も心配は要らないんだよ?」
こいしは眼を細めて笑って見せた。
私は、いつも他人の心を読んで生きてきた。全ての生物の穢れをこの目で見つめてきた。今日はそれが出来ない。だから私は怖いのか……?
「違う、そうじゃないのよこいし……」
だがそれは違う。私はそんなことが怖いんじゃない。さとりはそう思った。そう思ったから、こいしの手首をそっと掴み、頬から遠ざけた。
「うん、ちょっと分かってきたんだね、お姉ちゃん」
こいしがまた笑った。でもそれは先程の笑顔とは違うように思えた。自分を突き刺すような笑みではなく、今の言葉に安堵を覚えたかのような、こいし自身の安らぎから出た笑みのように、さとりには思えた。
未だにこいしが何を考えているのかは分からない。それでも、さとりには一つだけ理解出来たことがあった。
「こいし、私に何を求めているの?」
こいしは何かに気付いて欲しいのだ。さとりはそう思った。きっとそれは、姉である自身にしか分からないことであり、恐らくこの眼を使うことの出来なくなった、今の私だからこそ出来ること。だから普段は眼の前に現れないこいしが、わざわざ私の傍に纏わりついて離れないのだ。さとりはそう直感した。
「惜しい。いいとこ行ってるよお姉ちゃん」
こいしは人差し指を立てながら機嫌を直した様子でさとりを見つめる。
それはいつものこいしに見えて、いつものこいしではない。こいしは何かを焦らしている。姉である自分に少しずつヒントを与え、その答えに辿り着くために悩んでいる様をまるで楽しんでいるようにも見える。いや、実際そうなのだろう。これはこいしの、姉に対する明確な意地悪である。さとりはそれを確信した。
「いい加減になさいこいし」
「ん、何が?」
「何故あなたは私を困らせるような真似をするの?」
それを確信したから、さとりは憤った。こいしはそんな自分の想いにもう気付いているはずだ。それなのに未だ気付かぬ素振りを続けている。さとりはそれに腹が立った。
「私がどれだけあなたのことをいつも心配してると思ってるの? あなたは何がしたいの? いつも誰にも言わず居なくなって、急に現れたと思ったら今度は何? どうして私をいつもあなたは困らせるの?」
「私は」
「言いたいことがあるならはっきり言いなさいこいし。私はそれだけをいつも待ち続けてきたのよ」
それはさとりの本心だった。何の理由も残すことなく、こいしは自らの目を閉じ、さとり達の前から姿を消した。姿を現せても、その目を閉じた理由を聞くことは出来ない。聞こうとする度彼女は姿をくらますのだ。
適当に地獄の者達を弄り、自分だけを傷付けず、無責任に漂うだけのこいしの存在は、さとりにとっては哀れ以外のなにものでもなかった。
人間に恐れられ、妖怪にも恐れられ、誰からも畏怖の眼で見られる己の能力を呪い、その目を閉ざした者。人はこいしをそう呼ぶ。だが、こいしは未だにその真相を誰にも話した事は無い。
だからさとりは知りたかった。妖怪としてではなく姉として、こいしの本当の心を知りたかった。だからいつでも目を閉じずにいた。もしひょっこり現れた時は、彼女の心の声を一言たりとも逃さぬように。
ずっと、ずっとそうやって悩み、苦しんできた。今こうやって自分が病床にある理由も、元はと言えばこいしが原因なのに。今なおこいしはそんな自分の思いも知らず、こうして姉である私を苦しめている。さとりにはそれが我慢ならなかった。
「もう私を苦しませないでこいし。私はあなたの敵じゃないの。何が嬉しかったの? 何が怖かったの? お願いだから私に」
「やっぱり何にも分かってないなあお姉ちゃんは!」
突然、こいしが叫んだ。大きな瞳をぎょろりと開き、まるで狂ったような形相でこいしはさとりに笑んでいた。
「こいし……?」
「あー痛い、痛くて痛くてしょうがないよ! これだけ私に見られてるのに、これだけ私が分からせようとしてるのに、お姉ちゃんはいつだって私をちゃんと見ようとしない!」
「何言ってるのこいし! 私はいつだってあなたを――」
「何を見ようとしてたのかな? 何を覗こうとしてたのかな? 私が傍に居ても居なくても、大きな「目」だけ開いて、小さな「眼」には頼らない!」
まるで踊りでも舞うかのように、こいしはその場でくるりと身体を翻らせ背を向けた。
「さーてここで問題です! 今日の私は何が違ったかな?」
こいしは背を向けたまま、大きな声で姉に問いかけた。
「こいし……何言ってるの? 分からないわよこいし……! あなたが言いたいこと……!」
さとりは震えた。たとえ目が開かずとも、今のこいしの心が安易に見て取れたからだ。
こいしは怒っている。誰よりも心を露にしないこいしが。使い慣れない表情をくねくね変えながらも、自分に対して剥き出しの感情をぶつけてきているのだ。
こんなにも心配していたのに、こんなにも想っていたのに。誰よりも溺愛していた妹からの心からの憤怒に、さとりは震えたのだ。
「ほーらね、やっぱり見えてない! お姉ちゃんはいつだってそうなんだよ!」
こいしは振り返り、心臓を抉り取るような笑みを向けながら、こいしはさとりを攻め立てた。
「もっとよく見てよ! あんな草臥れた目じゃなくて、その眼で私を見てよ! 何で三つも瞳があるのに、一つの目だけで私を見るの!?」
「!」
さとりは、眼の前に立つこいしの姿を見て、ようやく気付いた。
「こいし……いつから……?」
「お姉ちゃんの前に現れてからずーっとだよ」
さとりの胸ではなく、顔についた二つの眼に映ったものは、こいしの第三の目だった。その瞼は薄く開き、さとりをじっと見つめていたのだ。
「ああ……そうか……そうだったのね」
さとりはようやく分かった。何故自分が妹に恐怖を感じたのか。何がこいしを怖がらせていたのか、何故自分の目が使えなくなったことをこいしが嬉しく思ったのか、全てを理解した。
「ごめんなさい、こいし」
全てを理解した。だからこそ、さとりは謝った。
自分がこいしを怖いと思った理由は、自分の心をこいしに読まれていると本能が警鐘を鳴らしていたから。
「ごめんなさい……」
こいしを怖がらせていたのは、いつでも自身の姿ではなく、心の内を覗こうとしかしないさとりの強く、盲目でありすぎた感情。
「ごめんなさい……!」
だからこそ、さとりが心を読めなくなった事にこいしは喜んだのだ。
「私だったのね。あなたを追い込んでいたのは……」
これでようやく、私の眼を見てくれると思った。私の顔についた、二つの眼を見てくれると思った。だからこいしは嬉しかったのだ。
そんな妹の感情を、さとりは知ろうとするどころか、そんな時ですら使えない目に頼ろうとした。だから、こいしは怒ったのだ。
「お姉ちゃん」
歩み寄ってくるこいしの姿が、さとりにはぼやけて見えた。
(ああ、こんな時ですら、私はこいしをまともに見てやれてないのね)
自分が涙を流している事に気付き、さとりは自嘲した。そんなさとりをよそに、こいしは姉の抱えた金魚鉢をその手から奪った。
「こいし……?」
「ごめん、ちょっとこれ邪魔」
薬の匂いが漂う紅い目からは、ポタポタと雫が落ち、さとりの腰に掛かった毛布を濡らした。
こいしは金魚鉢を床に置くと、そのまま膝を折り、さとりのお腹に頭を埋めた。
「あー……やっと近付けた」
それだけ言うと、こいしはそれ以上何も言わなかった。
さとりのお腹に顔を隠したこいしの表情は読み取れない。でも、さとりには、こいしが笑っているように感じられた。だからさとりはこいしの頭に、そっと手を置いたのだった。
「雨、止んじゃったねお姉ちゃん」
「そうね」
丸一日続くと思われていた雨は、思いの外半日で収まった。太陽が雲の隙間から顔を出し、暖かい光が窓から射し込む。
「これじゃ、入院する意味無いわね」
「そだね。退院しちゃおっか」
こいしの青い目は、再び閉ざされていた。何故閉じたのかを問うた時、
「だってこの方が色々悪戯できるし」
こいしはそう言った。
「ねえこいし」
「ん?」
「ちょっとだけ抜け出しちゃおっか?」
「え?」
姉からの意外な言葉に、こいしは目を丸くした。
「せっかくだし、傘でも買いに行きましょう。ついでに人里で散歩をするのも悪くないわ」
「でもお医者さんに怒られちゃうよ? それに地上の人は私達を嫌ってるんでしょ?」
「大丈夫」
金魚鉢に入れられた、閉じられた紅い目を見せつけながら、さとりは微笑んだ。
「今日、この時間だけ、この世にさとりはいないんだから」
真面目で頑固なはずの姉が初めて見せた悪戯の表情。それを見て、こいしは表情を輝かせた。
「それじゃ、私お茶屋さん行きたいな! 巫女が草団子が美味しいって言ってたから、こっそり頂いちゃおうよ!」
「だーめ、食べるのはいいけどお金は払います」
「えー」
左手に金魚鉢を抱え、さとりはこいしの手を握った。離れ離れにならないように。互いがたとえ見えずとも、互いを感じ取れるように。
その日一日、二人のさとり妖怪はこの世から姿を消していた。それに気付いた者は、誰もいない。
~完~
抱えた金魚鉢にドボンと目を入れている光景は、中々にシュールで笑えるモノもあって良かったです。
最後一文、「それに気付いた者は、誰もいない」の含みがちょっと疑問点でした。
作中で、心を見透かされている事への本能レベルでの恐怖を語っていただけに、
ならば普段とは違うさとり達を見たら、周りは何かしら違和感を抱くんじゃないかなと。
あと重箱の隅みたいな感じですが、
容易に換えの利く包丁を唯一無二の第三の眼を表す例えとして持ち出したのは、ちょっと共感が出来ませんでした。
こいしちゃんがこれほど感情的になるというのは中々見たことがなくて新鮮でした。
時折混ざる小ネタとかシュールなところだったりが絶妙な加減で好きです。
でも良い姉妹が見れて良かったです
関係のない話だけど、第3の目に限らず発展系ばっかり考えて基本系を忘れてる事ってよくあるよね。
最後の永遠亭を抜け出して二人で遊びに行くところが素敵です
・・・と思ったら普通にイイ話じゃねーか
心の読めない人間からすると、中々共感し辛い面があったかもしれません。
人間側に、もっと歩み寄った描写でもよかったかもしれません。
でもでも、長所に頼っちゃうってアイデアも二人の距離感も、好きです。
大抵さとりは強がってるけど、根は臆病者って描かれることも多いしなぁ
ともあれ、物理的にも精神的にもリラックス出来たようで何より
誤字報告
>さとりにとっては哀れ意外のなにものでもなかった。
以外
何か一つに注力するといつの間にか凝り固まって、ルールじみた物が出来上がっちゃってそれ以外見れなくなっちゃうんだよね・・・
そういう時、それから離れてみてふっと見直すと今まで気が付かなかった色んなものが見えてくる。ああ、ホントはずっと広い世界だったんだな~と。
なんか上手く言えないけどそんな感じだった。
面白く、暖かい話をありがとうございました。