夏の空は青く、高く、果てしなく広がっている。
限りなく続く青は、まるで長らく目にしていない海のようで、水を得た魚のように宙を泳ぐ鳶はどこまでも気持ちよさそうで。できることならば私も今すぐ飛び上がり、気ままに空を漂ってみたい。大地に厳しく降り注ぐ光すら私には心地よく、喧噪から離れた世界は私を満たしてくれる。
そう、私は、犬走椛は、夏の空が大好きだ。許されるなら剣も盾も放り捨てて、風の吹くままに身を任せ、あの世界へ―――
(なんてね)
くぁ、とあくび一つ。魅力的な夢想から意識を引きはがし、退屈な見張り任務に戻る。落とした目線の先には、広葉樹の緑にで包まれ、内でセミどもがギャアギャアと鳴き喚く、変わり映えのしない山の姿。一際背の高い楓からふもとを見渡し、ついにかなうことがなかった夢から頭を覚ます。どうせ私は、空なんて飛べやしないのだ、と。
おかしい、と最初に気づいたのは生を受けてから数十余年たった頃。本来、天狗というのは生来より空を飛ぶことのできる妖怪だ。種族や生まれによって個人差はあれど、遅かれ早かれ妖怪として成熟するうちに自然と宙を舞うことができるようになる。
それなのに私はどうだ。数十年、数百年と年を経ても、ほんの少し宙に浮くことすらできない。どれだけ妖力を高めようと、どれだけ訓練を重ねようと、足はまるで根を張ったかのように大地から離れなかった。
過去に私のような前例が無かったわけではないらしい。白狼天狗の中には、百だか千だかに一つの確率で空を全く飛べないものがいる、と、恩師は言った。その多くは身分の低い白狼の中でも特に蔑まれ、埋没するように消えていった、とも。
それで当の私は、というと。幸か不幸かそのような憂き目に遭わずに済んだ。空を飛べない、ということを除けば他の白狼天狗よりも頭一つ力が抜きん出ていたことで、物好きなお上より珍しく重用されるに至った。
空を飛べないこと自体も大きなハンディキャップにはならなかった。宙を舞えない代わりか、私は誰よりも速く大地を駆けることのできる強靭な下半身を手に入れた。
周りがのんきに空を飛んで行く中で私は一人、地を駆け、谷を跳び越え、木々を跳ね回り、いの一番に現場へ駆けつけた。能力で劣る私に負けた不満を抱き突っかかってきた奴は自慢の足で翻弄し、一人残らず力ずくで黙らせた。
そんなことを繰り返している内に私を馬鹿にするものはいなくなり、お上にも認められ、一小隊を預かるまでになったのだ。当時の私は、それで十分に満たされていた。
ところが、だ。先の守矢の出現騒動に際し、山へ侵入してきた人間たちと交戦したことで、再び私の心がくすぶり始めてしまった。
あのとき、私は滝の落ちゆく崖を垂直に登りつつ、警備隊の出動用に掘られた洞窟を利用しながらゲリラのように味気のない弾幕を放った。
対して相手は、人間のくせに優雅に空を舞いながら、色とりどりのきらびやかな弾幕で応戦。信じられない強さに私は圧倒され、撤退せざるを得なかった。
その中で印象に残ったのが、熾烈な弾幕から垣間見えた、心から楽しんでるような人間たちの笑み。まるで弾幕ごっこを本当に遊びだと、空を舞い戯れる遊戯だと、言っているような。
「あら、珍しい」
頭上から言葉が降ってきた。この声には聞き覚えがある。ちょうど守矢の件が縁となって距離が近くなった鴉天狗、傲慢さが鼻につくうっとうしい女。
「射命丸様」
「どうしたのかしら、センチメンタルに空なんか見上げちゃって。遠いお山の犬仲間でも恋しくなったの?」
露骨に煽ってくるのもいつものこと。種族上、一応上司にあたる鴉天狗の射命丸文は、風をまといながら私の隣に留まった。手をスレンダーな腰にあて、楓の葉状の団扇で口を隠し、瞳で偉そうに笑っている。膝までしかない、やけに短いスカートは彼女が巻き起こす風を受けて耐えられないとばかりにはためいている。毎度思うのだが恥ずかしくはないのだろうか。
もとい。
「あなたには関係のないことです」
「そうね、でもあまりにセンチに浸りすぎて侵入者を見逃されるのも困るわ。その分、我々の手間が増えるのだから」
「なら、山に侵入した人間をかくまうのをやめて戴けませんか」
「なんのことやら」
くつくつと忍び笑いが漏れ聞こえる。相変わらず癪に障るが、刃向うわけにもいかない。
せめてもの反抗に右手で刀の柄を握るポーズだけを見せると、おおこわいこわい、とおどけた反応が返ってきた。
鴉天狗なんてものは大体こんなやつばかりだが、彼女のそれは特に鼻をつく。いちいち反応してはきりがないので、私は押し黙ってふもとの監視を続けた。
射命丸様との初対面は山に攻め入った人間が立ち去ったあと。事後処理に人間たち(彼女らが話に聞く博麗の巫女と暴れ者の魔法使いらしい。どうりで人間離れして強いわけだ)へ必要最低限の顛末を伝える任務を賜ったのが私と彼女だった。
よろしくお願いします、と頭を下げた私に対し彼女は、
「これはこれは。噂にたがわぬ忠犬っぷりね。しっぽが振りたくて振りたくて仕方がないのかしら?」
この言いぐさ。
頭のどこかで何かの切れる音を聞いた私は、周りに誰もいないことを確認し、
「こちらこそ。万年底辺の新聞紙は音に聞いております。学級新聞がいやで始めたのが瓦新聞だとか?」
売り言葉に買い言葉である。
しばらく嫌味の大安売りを繰り広げたのち、終わりが見えないということで一時休戦を結んで博麗神社へ。片や空を切り裂き、片や大地を踏み砕きながら。その後人間に一部始終を伝え、山に戻るまで、お互い言葉をかけることはなかった。
以降、顔を合わせれば何かしらの嫌味をお互いに飛ばし続けた結果。
現在では仲が悪いはずなのによく一緒にいるという、何とも奇妙な関係に落ち着いている。何気に天狗の知り合い中、もっとも多くの時間を共に過ごしているかもしれない。
最初は顔を見るたびに不機嫌になった私も、今ではむしろ嫌味を飛ばさないとどこか落ち着かないし、向こうは向こうで日に日に絡まれる頻度が増えていき、最近じゃ宴会のたびに付き合わされるようにすらなった。
「それで、何があったのかしら?」
「…貴方には関係ないといったはずですが」
しばらくの沈黙の後、彼女は口を開いた。言葉こそ同じだが普段の煽る調子が消えた、私を案じるかのような口調。見たことのない振る舞いに動揺してしまう。
「ええ。でも個人的に興味があるわ。いったい何があなたを惚けさせるほどに魅了しているのか、その正体にね」
「…」
「ほらほら、私がなにか知っているかもしれないわよ。文お姉さんに話してみなさいな」
「…空を」
ぽつり。数百年間漏らさなかった弱音だが、射命丸様になら話してもいいか、と、なんとなく思った。
「空を飛んでみたいな、と」
羨望がなかったわけではない。ただ、あのころは空を飛ぶことに対し、便利そうだ、とか、天狗として当然、とか、そんな理由ばかりでほとんど嫉妬に近いものだった。
だから実力をつけて周りに見せつけることで、「別に空なんか飛べなくてもお前たちより強くなれるんだ」と勝手に納得して納めることができたのだ。
でも、あの人間たちの笑みを見てしまった。空を舞い、弾幕ごっこで遊ぶことはこんなにも楽しいんだと主張するような、あの笑みを。
「あやややや…これまた意外や意外。あなたがそんなことに執着するとは」
しばしの沈黙の後、彼女は口を開いた。心底意外そうな顔で。
「悪いですか」
「いえいえそんな。むしろ安心したわ。普段は仏頂面なあなたも、案外俗っぽいところを持ち合わせているのだな、と感心すら覚えたほどよ」
むぅ。
こう返答してくるとは予想外。顔がほんの少しだけ熱くなる、もしかすると早まった行動をとってしまったかもしれない。
「それにしても空を飛びたい、とはね。あいにく私は飛べなかったことがないので、なにもいうことはできないわね。空を飛べない鴉天狗、というものも聞いたことすらありません」
「そうですか。…そうですよね」
大きな期待はしていなかった。もしこんな簡単に見つかるならば、大昔、それこそ克服のためにあれこれと試していた時代になんとかすることができていたはずだから。
「だけど」
一息ついてから、射命丸様は言葉を発する。
「もう一度探してみるのもいいんじゃない?今までじゃ見つからなかった何かが、見つかるかもしれないわよ。もしかしたら、だけど」
「ずいぶん簡単に言いますね」
「何度も言うわよ。だってここは幻想郷、妖怪たちの楽園。好き者たちの集まる場所なんだから、私たち天狗が考えもしない方法もあるかもしれないわ」
それじゃあね、と言い残して鴉天狗は飛び立つ。次の瞬間には小さな点に見えるほど遠くの空にいた。
そういえば、彼女のいいところがただ一つだけあった。空を飛ぶときの彼女は心底楽しそうに、風を生むのだ。その顔を見たときはほんの少しだけ、羨ましく思ったりもしたのだった。
「―――っていうことがあってさぁ」
「珍しく訪ねてきたと思ったら、なにそれノロケ?」
「もし本気でそんな風に聞こえるなら、もう一度私と文さんのやり取りを見るといいよ、にとり」
ところ変わって、ここは川の下流に建つにとりの工房。見張り任務もそこそこに終わらせた私は、その足でこの油の匂いがこもるこの場所にやってきた。鼻が利きすぎるため油臭いここは苦手なのだが、今はとにかく誰かに相談したいと思い、そこそこ古い友人であるにとりの元を訪ねたのだ。
滝の裏でよく大将棋をすることの多い彼女は時々、自らの工房の中に閉じこもることがある。そんなときは大抵、新しい機械を作っているか、新たに手に入れた外の機械を分解しているかのどちらかなので、急ぎの用でもない限り私も邪魔をしないように工房から出てくるのを待つことにしている。
「で、そんなことを話す為だけにここに来たわけじゃないでしょ。何の用なのさ?」
机の上の何かをいじっていたにとりが作業を中断し、体だけをこちらにむけた。腕肘を乗せ体重をかけられた回転椅子の背もたれがギシリと悲鳴を上げる。
「その、ね」
「なんか困りごと?私と椛の仲じゃないか。ほら、話してごらんよ、力になれるかもしれないよ」
「いや、大したことじゃないんだ。ただ、空を飛んでみたいな、って」
「ふぇ?」
きょとん。
音にするならそんな感じだろう、にとりはあっけにとられたように口をぽかんと開けたまま固まってしまった。
「ほら、にとりっていろいろな機械を作ってるじゃない。もしかしたらその中に、空を飛べない奴のための飛行機械だとか、宙に浮かべるようになる不思議な道具だとか、そういったものがあるんじゃないかって思って。その、迷惑かな、とは思ったんだけど…」
「ああ、ごめんごめん、別に迷惑なんてこれっぽっちもかかってないよ。ただ、椛が今までここに来た時って、剣や盾を直してほしいとか、天狗様からの勅命を預かってきたとか、急を要する理由があったからじゃないか。だから、まさか個人的な理由で来たってことに驚いただけ」
というか、あの仏頂面な椛も結構俗っぽいこと考えるんだねぇ、と、にとりはからからと笑いをこぼした。
本日二度目の言質に思わず顔をしかめてしまう。そんなに難しい顔ばかり浮かべているのだろうか、私は。
じゃなくて。
「それで、何かないの?一時的なものでも、ほんの少ししか飛べないものでもいいから」
「残念だけど、そういったものはないね。私たち河童は空を飛ぶ必要もないし、私は道具がなくても空を飛べるし。人間の道具の中には忍用の凧だとか、ハングライダーっていう風に乗るためのものもあるんだけど、話を聞く限りじゃ、椛がイメージしてるものからは程遠いものだから」
忍用の凧。なるほど、はんぐらいだーというものはよくわからないが、そちらならばよく知っている。
あれは風を受けて空に浮かび上がるものだ。私の意志で自由に動かすことは難しいだろうし、凧に張り付きながら弾幕ごっこなどできるわけがない、凧にあたってしまえば即墜落だ。
力になれなくてごめんね。にとりの言葉に私はつい肩を落としてしまう。
最近いろいろなものを作ったというにとりならばもしかしたら、という希望は少なからずあった。失礼だと思いつつも、長年の夢が叶うかもしれないと考えていただけに落胆も大きい。
「はあ、いきなり八方塞がりかぁ」
天狗の秘法ははずれ。河童の技術も駄目。人間の道具にもない。
簡単に見つかるなどとはこれっぽっちも思っていなかったが、いきなり道を失ってしまったことにため息をつかざるを得ない。はたしてこんな調子で見つかるのだろうか、そもそも本当に空を飛ぶためのものがあるかどうかもわからないのに。
「…あ。でも、アイツなら」
「何かあるの!?」
「ひゅい!?」
諦めかけていたところで、にとりがぽつりと呟く。
耳敏く聞いた私は興奮し、つい彼女の眼前までずずずいっと迫ってしまう。当然、友人を驚かせてしまった私はそのまま彼女に怯えられつつなだめられてしまった。
「こほん。さっきも言った通り、私たち河童は空を飛ぶ必要がないから、空を飛ぶ道具なんて作っていない。天狗は空を飛ぶのが当たり前だから、空を飛べるようになる術なんて持っていない。でも人間の中には空を飛べないのに、わざわざ道具を作って飛ぼうとするやつもいる」
ピン、と人差し指を立てて人間の盟友を自称する河童は力説する。
「それはこの幻想郷でも同じだ。そして私はそんな人間の内、本当に空を飛べるようになった奴を知っている。そいつならもしかすると、誰でも空を飛べるようになる方法を知っているかもしれない」
「そ、その人間って?」
ニヤリ、とシニカルな笑い。まるで推理を披露する探偵のように、にとりはある名前を告げる。
「霧雨魔理沙。―――約二年前、守矢神社の騒動の時に山へ攻め込んできた人間の片割れだよ」
幻想郷はとても狭い世界だと妖怪の賢者殿はおっしゃっていたが、それでも十分な広さを持っているように思う。
にとりにお礼を告げて工房を出発したあと、私はそんなことを考えつつ石段を登っている。射命丸様は一日あれば幻想郷中をくまなく探索できると自慢していたが、逆に言えば彼女ほど足の速い者をもってしても幻想郷中の回るには一日かかってしまうということだ。現に私もこの場所に着くまで半刻ほどかかってしまった。
巫女は参拝客が来ないことを必死に嘆いていたが、このような辺境にあっては人里の人間が来ることなどできない。途中で知能の低い低級妖怪の餌になるのがオチだ。守矢のように分社を立てるか、神社そのものを移動させるかしないと改善は見込めないだろう。
(―――っと)
それなりに長かった石段も終わりを見せ、朱に染まった鳥居が姿を現した。はやる気持ちを抑えながらゆっくりと一段一段登っていく。
「魔理沙の家は魔法の森にあるんだけど、知ってる者の案内がないと迷ってしまうからね。でも、大丈夫。あいつはよく博麗神社に顔を出すから、そこに行けば会える可能性も高いと思うよ」
くれぐれも気を付けてね。友人の助言と応援を背に受けた私は博麗神社にやってきた。
思えば自らの用事でこの場所に顔を出すのは二年前に顛末を伝えて以来だ。射命丸様に引きずられて宴会に参加したこともあるけれど、あれは半ば強制みたいなものだったし。
石段を踏破し、鳥居をくぐり、境内へと歩を進める。縁側には二年前と同じく、あいもかわらずのんきに茶を飲んでいる紅白の巫女、博麗霊夢と、
「お?おい、見ろよ霊夢。珍しい奴が珍しく昼間に珍しく保護者の同伴なしでやってきたぜ」
人の家のせんべいを無遠慮にバリバリ噛み砕きながら、私を見るなり失礼なことをのたまった白と黒の魔法使い、霧雨魔理沙が座っていた。
「どうも、お邪魔する。あとあの鴉天狗は私の保護者などではない。断じて」
かつかつと石畳を響かせながら二人のもとへ歩み寄る。
巫女は最初訝しげな視線を送ってきたが、賽銭を入れてやると渋々といった風に自分の左横を叩いた。座れということらしい。
立ち話するような用件でもないのでお言葉に甘えて腰かける。人の姿の見えない神社だが、手入れはそこそこ行き届いているようだった。
「で、何の用?天狗からなにか伝言でもあるのかしら」
はい、と。茶の入った湯呑と一緒に、彼女は私に用件を尋ねた。その裏では魔法使いが興味津々な瞳を向けてくる。
「いや、申し訳ないが巫女に用があってきたんじゃないんだ。そっちの魔法使いに聞きたいことがあってね、ここに来れば会えるかもしれないとにとりに聞いたものだから」
「私は確かに巫女だけど、霊夢って名前があるのよ」
「魔法使いだが魔理沙だぜ。で、私に用事だって?」
呼ばれた魔法使い―――魔理沙が私の隣に移動してくる。せんべいはすでに食い尽くしたようだ。
家主である巫女―――霊夢の方はというと、自分に関係のないことだと分かったからか、ふーんとやる気のない相槌を打って湯呑の茶に集中し始めた。
つられて私も茶を一口。意外と美味い。
「ん、なかなかだな」
「それは光栄ね」
素直に感想を口にしてやると、まんざらでもないのを隠そうとしてか湯呑を傾けた。茶は数少ない娯楽だと聞いているし、多少は自信もあったのだろう。
「おいおい、霊夢の茶もいいが、用件の方も忘れてくれるなよ。殊勝にもわざわざ私のことを訪ねてきたやつの相談に乗ってやろうとしてるんだ、気分が変わらないうちに話したほうがいいと思うぜ」
さぁ、この魔理沙様に何の用だ。無視されて気分を害したのか、無理やり話に割って入りこんできた。相談事があって訪ねてきたのはこちらなのだし、手間を取らせるのも拙い。
少々こっぱずかしい内容だが、すでに二人ほどにばらしてしまっていることもある、早々に話を切り出すか。
「二人は空を飛べるよな」
きょとん。
これも本日二度目である。意外そうな顔を浮かべた魔理沙は、ああ、と不思議そうに首を上下に揺らした。
まるで百面相、見ていて飽きないなと、小さな感想を抱きつつ話を続ける。
「実は…恥ずかしいことなんだが、私は天狗の身でありながら数百年たった今でも空を飛ぶことができないんだ。妖力を高めたり、特別な術を施したりと、ありとあらゆる方法を試したんだが、うんともすんとも言わない。恩師からは生まれ持ってのものだと告げられた」
ほうほう、と魔理沙が興味深そうに相槌を打ってくる。ふと気づけば霊夢の方のこちらに意外そうな視線を向けていて、なんだかむず痒い。
「射命丸様は妙案を知らなかった。河童の道具にも、外の人間の道具にも、私の望むようなものはなかった。だけど幻想郷の人間なら、もともとは空を飛べないはずだったお前たちなら何かいい方法を知ってるんじゃないかと思って」
伝えたいことを一息に吐き出して、お茶に口をつける。顔が熱い。彼女らに感化されたのがきっかけとはいえ、人間にこのような相談事を持ち込むなど天狗にとっては赤っ恥だ。
だが、積年の望みだったのだ。希望があればすがりつきたくもなる。
「なるほどな。通りでお前は崖にへばりつきながら戦っていたわけだ。最初に見たときはどこの曲芸師かと思ったぜ」
「飛べない天狗がいる、っていうのも初耳ね」
「天狗は空を飛べて当たり前の妖怪だからな。飛べない天狗なんて本当なら一族の汚点もいいところだし、もともと百だか千だかの白狼天狗に一つしか生まれない希少性もあって、外部に漏れるようなことのないよう厳重に隠していたのだろう。私は他の白狼よりも抜きん出た実力を身に着けたからな、こうして五体無事でいられている」
思えば自然と消えていったという飛べない天狗たちも、もしかしたら秘匿のために処分されたのかもしれない。一歩間違えれば自分も同じ立場になっていた可能性もあると考えると、しっぽの毛も逆立ってしまう。
「つまり、お前は空を飛んでみたいってことだな?」
「その通り。なにか方法はないだろうか」
二人の顔を見比べる。魔理沙だけではなく、霊夢の方も。
もし魔理沙が方法を知らなくても、博麗の巫女の秘術のなかには何かいい方法があるかもしれない、などという都合のいい願いを抱きながら。
視線を向けられた二人はというと、ひとしきり考えたあと、まずは霊夢が口を開き、
「あいにくだけど、何も知らないわ。私は気が付いたら飛べるようになっていたし」
ばっさりと希望を切り捨てた。落胆は小さい。
巫女は特別な人間だし、もし博麗の秘術にそういったものがあったとして、おそらく博麗の名を冠するもの以外に使うことはできないだろう。それでもため息だけは隠せない。
あわてて茶を飲んでごまかすと、彼女は居間に戻り戸棚から新しいせんべいを出してくれた。謝罪の代わりなのだろう、茶のおかわりと一緒に頂く。二つの味が私を慰めてくれた。
しばらくの間、蝉しぐれに混じって茶をすする音とせんべいをかじる音のみが聞こえた。
肝心の魔理沙はというと、新しいせんべいには目もくれず、あごに手を当ててしきりにあれこれと考え続けている。妙に落ち着かないが、急かすわけにもいかない。
彼女が自分から口を開くまでの間、私は茶とせんべいをいただきながらひたすら沈黙に耐えた。
ふと、魔理沙は箒を抱え境内へ跳び下りた。そして私の前に立つと、
「スマン!」
パン、と手を合わせ、私に頭を下げた。驚きで目が丸くなっているのが自分でもわかる。かつて山に攻め入った人間とは思えない行動だ。
「いろいろと考えてみたんだが、現状じゃ私には何も思いつかない!せっかく私を頼ってきてくれたのに、悪い!」
心から申し訳なさそうに、彼女は謝罪を繰り返した。
その姿をみて、私は射命丸様の新聞から、一つの内容を思い出す。彼女は魔法を繰り出すために、毎日魔法の森で材料となる茸を採取している、という記事だ。
噂によれば集めた茸を何時間も煮詰め、固めたものを使って魔法の実験を行っているという話だ。そして実験には失敗がつきものだという。
なんとなく、古き日の私の姿がダブって見えた。言葉や立ち振る舞いこそ乱暴だが、その根っこは驚くほどに純真なのかもしれない。そう考えると実は結構いいやつなのかな、などと思いながら茶をすすり、
「いえ、私もそう簡単に見つかるとは思っていなかったので。あんなに真剣に考えて頂けただけでもありがたいです。だから顔を上げてください」
感謝の言葉が自然と敬語となって口から出てきた。おそらく彼女は努力が報われなかった時の気持ちをよく知っているのだろう。自分の姿を投影したのはお互い様だ。
話には出さなかったが、決して昔の自分は努力が実を結ばなかったわけではない。空こそ飛べないものの、私は一際高い技術と妖力、そして何より誰もついてくることができない自慢の足を手に入れた。
これらは空を飛べる私では決して手に入らなかっただろう。
「それでだ。せめてもの償いに、空に連れてってやろう」
「え?」
耳を疑った。彼女はつい先ほど、空を飛べるようになる術を知らないといったばかりではないか。それとも本当は、なにかいい方法でもあるのだろうか。
私の疑問を感じ取った普通の魔法使いは、
「ああ、いや。ただ単に私の箒の後ろに乗せてやろうと思ってな。言っておくが、この箒は私の魔力がなけりゃ動かないぜ。一品ものだから譲ってやることもできない」
ざん、と箒で地面をたたきながら胸を張った。謝罪のつもりだろうが、私には嫌味としても聞こえるということに思い至らなかったのだろうか。
全く。この人間は。
自由奔放でめったに悪びれもしない魔女の甘美な提案に、
「わかった。お言葉に甘えさせてもらおう」
口調を戻し、微笑みながら誘惑に誘われてあげた。
「そら、地面を離れるぞ!しっかりつかまってな!」
「はい!」
魔法の力によって周囲の空気が渦巻くのを感じながら、私は箒に腰かけ、前で舵を握る魔理沙の肩をしかとつかんだ。
霊夢にお世話になったことの礼を告げると彼女は、
「また気が向いたら来てもいいわよ。賽銭を入れるなら、お茶と菓子をもって歓迎するわ」
と、ぶっきらぼうに告げた。もてなされるばかりでは気まずい、今度行くときは茶菓子か酒を持参することを決意。
風を身に受けながらどんどん小さくなる紅に手を振ると、向こうも控えめに手を振りかえしてくれた。
そして今、私は。
「うわぁ…!」
空を飛んでいる。
どこまでも続く緑、細く走る水色、ポツンと存在する青、紅、茶色、黄色、白。
遠くには妖怪の山が赤黒い山肌を覗かせ、湖には白い霧がうっすらとかかる。
地上で騒ぐセミどもの声も今は小さく、西には傾き始めた太陽が、まだ終わらぬとばかりに黄金の光を放っていた。
足を振る。どれだけ振っても何かにあたることはない。
尻に自らの体重を感じながらも、ふとした拍子に落ちてしまいそうな感覚を覚える。
移動することによって立ちふさがる空気の壁に全身でぶつかる。
手に、顔に、体に、髪に、しっぽに。体中に優しくも猛々しく風が撫でてくる感触を楽しむ。
ぱたぱたと興奮するしっぽをどうしても抑えることができない。
おとなしくしてくれよ、と苦笑交じりの声で魔理沙にたしなめられたが、気持ちはブレーキを踏むことを忘れたように高まり続ける。
「さあ、霧雨魔法店主催の幻想郷スカイツアーの始まりだ!どこか希望はあるか?日が暮れるまでなら付き合ってやるぜ」
「そうだなぁ…」
思い出す。風を楽しむ上司の自慢を。
「とにかく、幻想郷中を周ってみたい。時間の許す限り」
「オーケー。それじゃ、霧雨魔理沙おすすめの観光コースを行くとするか!」
瞬間、加速。体を後ろに引っ張られそうになりながらも、さらに勢いを増す箒に乗って、短い遊覧飛行が始まった。
まずは湖。
その周辺に建つ紅の館に接近。話には聞いていたが門番はほんとうに寝ているようだ。
数の少ない窓からは妖精メイドがせわしなく動いているのが見える。
テラスには紅茶を楽しむ吸血鬼と従者がこちらを見上げていた。
地下には七曜の魔女と使い魔、紅魔の妹とともに膨大な蔵書の図書館が存在するとか。いつか、その知識に厄介になるのもいいかもしれない。
次は急上昇。
どんどん高みへ突き進み、雲を抜けると、目の前に大きな門が現れた。
幽冥の門。この先には亡霊嬢の住む黄泉の世界が広がっているという。庭師はたいそうな剣の使い手だとか、いつか手合せしてみたい。
据えられた柱に座って、騒霊たちが思い思いの旋律を奏でている。
はるか遠くには天界と呼ばれる大地も見えた。
天人たちに混じって鬼神様が酒を飲んでいるが、だれも気にしていないようだ。
下降。
活気のある人間の里を尻目に迷いの竹林を目指す。
成長の速い竹に囲まれたせいで日々姿を変える魔境の中に、和風の屋敷と掘立小屋を発見。
あそこには殺しても死なない人間が住んでいるとか。
射命丸様の記事に奇妙な薬の記事がいくつもあった。月の頭脳をもってすれば、私の悩みも、あるいは。
Uターン。
無名の丘、太陽の畑を通過し一路妖怪の山へ。
近づきすぎないように警告すると、おとなしくある程度の距離をたもってくれた。
山からは煙がうっすらと立ち上っている。
中腹にはここに至るまでの主原因である守矢の神社が、そこからしばらく下ったところに、地底へとつながる大穴が見える。
神様主導で作られた大穴の先には、太陽の神を宿した妖怪が働いている、と、にとりが有用性と一緒に鼻息荒く語っていた。
再び人里。
近くには新しくできたお寺が立っている。
最近の妖怪の中には、毘沙門天の代理と気風穏やかな尼僧に誘われあのお寺に入門するものも多いという。
側に作られた墓地には唐傘妖怪とキョンシーの姿。
キョンシーは先日復活した飛鳥の聖徳王と関係があるらしいが、傍目からはぼーっと立ってるようにしか見えない。
大天狗様が警戒なさっていたから油断はできないけれど。
「最後に、あそこに見えるのが私の住む魔法の森だぜ」
そのあとも玄武の沢、無縁塚などと幻想郷中を見て回り、最後に魔理沙の家へと案内された。
噂通り、鬱蒼と生い茂る森だ。だがここでとれる茸は、あらゆる用途に活用できるようで、森自体の性質も相まって魔法使いが好んで住むと聞いた。
あれが私の家だ、と、魔理沙は小さな屋根を指差した。今回の旅で形作られた幻想郷の姿にその位置を刻み込んでいると、
「…諦めないからな」
不意に魔理沙が呟いた。
「なにを、だ?」
「お前が空を飛ぶ方法を探すことだ。研究の片手間でもなんでも、探してやる」
だから、霊夢のところだけじゃなくて、私の家にも遊びに来てくれよ。そう言うと魔理沙は帽子をかぶり直した。
やはり彼女は善人だ。ただ、なりふり構わず努力を重ねるから、周囲に迷惑をかける。そのことがわかっているからこそ、霊夢も彼女のことを邪険に扱わないのだろう。
「場所は覚えた。私もまだ、自分の力で空を飛ぶことを諦めていない」
気が向いたらまた訪ねる、と、約束を交わしたところで、
「あら、椛じゃない」
再び射命丸様と出会った。顔にはうっすらと笑みを浮かべている。団扇で隠してはいない。
「どうも、二度目ですね」
「その様子だと、残念ながら見つからなかったみたいね」
「まだ、だぜ。そのうち私が見つけてやる」
「ああ、期待している」
三者三様の会話。思えばこの二人は同じ白と黒の衣服を身にまとっている。私の衣服には白しかない。いつかは彼女たちと同じようになれるのだろうか。自らの意思で自由自在に空を舞い、風を切り裂き、宙を漂い、望むところに行けるようになるだろうか。
ただ、一つ体感したことがある。
「射命丸様」
「なにかしら?」
「空を飛ぶことって、とても気持ちがいいですね」
今回で感じたことを一言に乗せ、笑みを浮かべる。普段は仏頂面な私がちゃんと笑えたかどうか不安だったが、私を見た二人に浮かぶ笑みを見る限り、問題なく笑えたようだった。
太陽は空を茜に染めながら西へ沈みゆく。いつか、もう一度この景色を見てやると、私は心に誓った。
限りなく続く青は、まるで長らく目にしていない海のようで、水を得た魚のように宙を泳ぐ鳶はどこまでも気持ちよさそうで。できることならば私も今すぐ飛び上がり、気ままに空を漂ってみたい。大地に厳しく降り注ぐ光すら私には心地よく、喧噪から離れた世界は私を満たしてくれる。
そう、私は、犬走椛は、夏の空が大好きだ。許されるなら剣も盾も放り捨てて、風の吹くままに身を任せ、あの世界へ―――
(なんてね)
くぁ、とあくび一つ。魅力的な夢想から意識を引きはがし、退屈な見張り任務に戻る。落とした目線の先には、広葉樹の緑にで包まれ、内でセミどもがギャアギャアと鳴き喚く、変わり映えのしない山の姿。一際背の高い楓からふもとを見渡し、ついにかなうことがなかった夢から頭を覚ます。どうせ私は、空なんて飛べやしないのだ、と。
おかしい、と最初に気づいたのは生を受けてから数十余年たった頃。本来、天狗というのは生来より空を飛ぶことのできる妖怪だ。種族や生まれによって個人差はあれど、遅かれ早かれ妖怪として成熟するうちに自然と宙を舞うことができるようになる。
それなのに私はどうだ。数十年、数百年と年を経ても、ほんの少し宙に浮くことすらできない。どれだけ妖力を高めようと、どれだけ訓練を重ねようと、足はまるで根を張ったかのように大地から離れなかった。
過去に私のような前例が無かったわけではないらしい。白狼天狗の中には、百だか千だかに一つの確率で空を全く飛べないものがいる、と、恩師は言った。その多くは身分の低い白狼の中でも特に蔑まれ、埋没するように消えていった、とも。
それで当の私は、というと。幸か不幸かそのような憂き目に遭わずに済んだ。空を飛べない、ということを除けば他の白狼天狗よりも頭一つ力が抜きん出ていたことで、物好きなお上より珍しく重用されるに至った。
空を飛べないこと自体も大きなハンディキャップにはならなかった。宙を舞えない代わりか、私は誰よりも速く大地を駆けることのできる強靭な下半身を手に入れた。
周りがのんきに空を飛んで行く中で私は一人、地を駆け、谷を跳び越え、木々を跳ね回り、いの一番に現場へ駆けつけた。能力で劣る私に負けた不満を抱き突っかかってきた奴は自慢の足で翻弄し、一人残らず力ずくで黙らせた。
そんなことを繰り返している内に私を馬鹿にするものはいなくなり、お上にも認められ、一小隊を預かるまでになったのだ。当時の私は、それで十分に満たされていた。
ところが、だ。先の守矢の出現騒動に際し、山へ侵入してきた人間たちと交戦したことで、再び私の心がくすぶり始めてしまった。
あのとき、私は滝の落ちゆく崖を垂直に登りつつ、警備隊の出動用に掘られた洞窟を利用しながらゲリラのように味気のない弾幕を放った。
対して相手は、人間のくせに優雅に空を舞いながら、色とりどりのきらびやかな弾幕で応戦。信じられない強さに私は圧倒され、撤退せざるを得なかった。
その中で印象に残ったのが、熾烈な弾幕から垣間見えた、心から楽しんでるような人間たちの笑み。まるで弾幕ごっこを本当に遊びだと、空を舞い戯れる遊戯だと、言っているような。
「あら、珍しい」
頭上から言葉が降ってきた。この声には聞き覚えがある。ちょうど守矢の件が縁となって距離が近くなった鴉天狗、傲慢さが鼻につくうっとうしい女。
「射命丸様」
「どうしたのかしら、センチメンタルに空なんか見上げちゃって。遠いお山の犬仲間でも恋しくなったの?」
露骨に煽ってくるのもいつものこと。種族上、一応上司にあたる鴉天狗の射命丸文は、風をまといながら私の隣に留まった。手をスレンダーな腰にあて、楓の葉状の団扇で口を隠し、瞳で偉そうに笑っている。膝までしかない、やけに短いスカートは彼女が巻き起こす風を受けて耐えられないとばかりにはためいている。毎度思うのだが恥ずかしくはないのだろうか。
もとい。
「あなたには関係のないことです」
「そうね、でもあまりにセンチに浸りすぎて侵入者を見逃されるのも困るわ。その分、我々の手間が増えるのだから」
「なら、山に侵入した人間をかくまうのをやめて戴けませんか」
「なんのことやら」
くつくつと忍び笑いが漏れ聞こえる。相変わらず癪に障るが、刃向うわけにもいかない。
せめてもの反抗に右手で刀の柄を握るポーズだけを見せると、おおこわいこわい、とおどけた反応が返ってきた。
鴉天狗なんてものは大体こんなやつばかりだが、彼女のそれは特に鼻をつく。いちいち反応してはきりがないので、私は押し黙ってふもとの監視を続けた。
射命丸様との初対面は山に攻め入った人間が立ち去ったあと。事後処理に人間たち(彼女らが話に聞く博麗の巫女と暴れ者の魔法使いらしい。どうりで人間離れして強いわけだ)へ必要最低限の顛末を伝える任務を賜ったのが私と彼女だった。
よろしくお願いします、と頭を下げた私に対し彼女は、
「これはこれは。噂にたがわぬ忠犬っぷりね。しっぽが振りたくて振りたくて仕方がないのかしら?」
この言いぐさ。
頭のどこかで何かの切れる音を聞いた私は、周りに誰もいないことを確認し、
「こちらこそ。万年底辺の新聞紙は音に聞いております。学級新聞がいやで始めたのが瓦新聞だとか?」
売り言葉に買い言葉である。
しばらく嫌味の大安売りを繰り広げたのち、終わりが見えないということで一時休戦を結んで博麗神社へ。片や空を切り裂き、片や大地を踏み砕きながら。その後人間に一部始終を伝え、山に戻るまで、お互い言葉をかけることはなかった。
以降、顔を合わせれば何かしらの嫌味をお互いに飛ばし続けた結果。
現在では仲が悪いはずなのによく一緒にいるという、何とも奇妙な関係に落ち着いている。何気に天狗の知り合い中、もっとも多くの時間を共に過ごしているかもしれない。
最初は顔を見るたびに不機嫌になった私も、今ではむしろ嫌味を飛ばさないとどこか落ち着かないし、向こうは向こうで日に日に絡まれる頻度が増えていき、最近じゃ宴会のたびに付き合わされるようにすらなった。
「それで、何があったのかしら?」
「…貴方には関係ないといったはずですが」
しばらくの沈黙の後、彼女は口を開いた。言葉こそ同じだが普段の煽る調子が消えた、私を案じるかのような口調。見たことのない振る舞いに動揺してしまう。
「ええ。でも個人的に興味があるわ。いったい何があなたを惚けさせるほどに魅了しているのか、その正体にね」
「…」
「ほらほら、私がなにか知っているかもしれないわよ。文お姉さんに話してみなさいな」
「…空を」
ぽつり。数百年間漏らさなかった弱音だが、射命丸様になら話してもいいか、と、なんとなく思った。
「空を飛んでみたいな、と」
羨望がなかったわけではない。ただ、あのころは空を飛ぶことに対し、便利そうだ、とか、天狗として当然、とか、そんな理由ばかりでほとんど嫉妬に近いものだった。
だから実力をつけて周りに見せつけることで、「別に空なんか飛べなくてもお前たちより強くなれるんだ」と勝手に納得して納めることができたのだ。
でも、あの人間たちの笑みを見てしまった。空を舞い、弾幕ごっこで遊ぶことはこんなにも楽しいんだと主張するような、あの笑みを。
「あやややや…これまた意外や意外。あなたがそんなことに執着するとは」
しばしの沈黙の後、彼女は口を開いた。心底意外そうな顔で。
「悪いですか」
「いえいえそんな。むしろ安心したわ。普段は仏頂面なあなたも、案外俗っぽいところを持ち合わせているのだな、と感心すら覚えたほどよ」
むぅ。
こう返答してくるとは予想外。顔がほんの少しだけ熱くなる、もしかすると早まった行動をとってしまったかもしれない。
「それにしても空を飛びたい、とはね。あいにく私は飛べなかったことがないので、なにもいうことはできないわね。空を飛べない鴉天狗、というものも聞いたことすらありません」
「そうですか。…そうですよね」
大きな期待はしていなかった。もしこんな簡単に見つかるならば、大昔、それこそ克服のためにあれこれと試していた時代になんとかすることができていたはずだから。
「だけど」
一息ついてから、射命丸様は言葉を発する。
「もう一度探してみるのもいいんじゃない?今までじゃ見つからなかった何かが、見つかるかもしれないわよ。もしかしたら、だけど」
「ずいぶん簡単に言いますね」
「何度も言うわよ。だってここは幻想郷、妖怪たちの楽園。好き者たちの集まる場所なんだから、私たち天狗が考えもしない方法もあるかもしれないわ」
それじゃあね、と言い残して鴉天狗は飛び立つ。次の瞬間には小さな点に見えるほど遠くの空にいた。
そういえば、彼女のいいところがただ一つだけあった。空を飛ぶときの彼女は心底楽しそうに、風を生むのだ。その顔を見たときはほんの少しだけ、羨ましく思ったりもしたのだった。
「―――っていうことがあってさぁ」
「珍しく訪ねてきたと思ったら、なにそれノロケ?」
「もし本気でそんな風に聞こえるなら、もう一度私と文さんのやり取りを見るといいよ、にとり」
ところ変わって、ここは川の下流に建つにとりの工房。見張り任務もそこそこに終わらせた私は、その足でこの油の匂いがこもるこの場所にやってきた。鼻が利きすぎるため油臭いここは苦手なのだが、今はとにかく誰かに相談したいと思い、そこそこ古い友人であるにとりの元を訪ねたのだ。
滝の裏でよく大将棋をすることの多い彼女は時々、自らの工房の中に閉じこもることがある。そんなときは大抵、新しい機械を作っているか、新たに手に入れた外の機械を分解しているかのどちらかなので、急ぎの用でもない限り私も邪魔をしないように工房から出てくるのを待つことにしている。
「で、そんなことを話す為だけにここに来たわけじゃないでしょ。何の用なのさ?」
机の上の何かをいじっていたにとりが作業を中断し、体だけをこちらにむけた。腕肘を乗せ体重をかけられた回転椅子の背もたれがギシリと悲鳴を上げる。
「その、ね」
「なんか困りごと?私と椛の仲じゃないか。ほら、話してごらんよ、力になれるかもしれないよ」
「いや、大したことじゃないんだ。ただ、空を飛んでみたいな、って」
「ふぇ?」
きょとん。
音にするならそんな感じだろう、にとりはあっけにとられたように口をぽかんと開けたまま固まってしまった。
「ほら、にとりっていろいろな機械を作ってるじゃない。もしかしたらその中に、空を飛べない奴のための飛行機械だとか、宙に浮かべるようになる不思議な道具だとか、そういったものがあるんじゃないかって思って。その、迷惑かな、とは思ったんだけど…」
「ああ、ごめんごめん、別に迷惑なんてこれっぽっちもかかってないよ。ただ、椛が今までここに来た時って、剣や盾を直してほしいとか、天狗様からの勅命を預かってきたとか、急を要する理由があったからじゃないか。だから、まさか個人的な理由で来たってことに驚いただけ」
というか、あの仏頂面な椛も結構俗っぽいこと考えるんだねぇ、と、にとりはからからと笑いをこぼした。
本日二度目の言質に思わず顔をしかめてしまう。そんなに難しい顔ばかり浮かべているのだろうか、私は。
じゃなくて。
「それで、何かないの?一時的なものでも、ほんの少ししか飛べないものでもいいから」
「残念だけど、そういったものはないね。私たち河童は空を飛ぶ必要もないし、私は道具がなくても空を飛べるし。人間の道具の中には忍用の凧だとか、ハングライダーっていう風に乗るためのものもあるんだけど、話を聞く限りじゃ、椛がイメージしてるものからは程遠いものだから」
忍用の凧。なるほど、はんぐらいだーというものはよくわからないが、そちらならばよく知っている。
あれは風を受けて空に浮かび上がるものだ。私の意志で自由に動かすことは難しいだろうし、凧に張り付きながら弾幕ごっこなどできるわけがない、凧にあたってしまえば即墜落だ。
力になれなくてごめんね。にとりの言葉に私はつい肩を落としてしまう。
最近いろいろなものを作ったというにとりならばもしかしたら、という希望は少なからずあった。失礼だと思いつつも、長年の夢が叶うかもしれないと考えていただけに落胆も大きい。
「はあ、いきなり八方塞がりかぁ」
天狗の秘法ははずれ。河童の技術も駄目。人間の道具にもない。
簡単に見つかるなどとはこれっぽっちも思っていなかったが、いきなり道を失ってしまったことにため息をつかざるを得ない。はたしてこんな調子で見つかるのだろうか、そもそも本当に空を飛ぶためのものがあるかどうかもわからないのに。
「…あ。でも、アイツなら」
「何かあるの!?」
「ひゅい!?」
諦めかけていたところで、にとりがぽつりと呟く。
耳敏く聞いた私は興奮し、つい彼女の眼前までずずずいっと迫ってしまう。当然、友人を驚かせてしまった私はそのまま彼女に怯えられつつなだめられてしまった。
「こほん。さっきも言った通り、私たち河童は空を飛ぶ必要がないから、空を飛ぶ道具なんて作っていない。天狗は空を飛ぶのが当たり前だから、空を飛べるようになる術なんて持っていない。でも人間の中には空を飛べないのに、わざわざ道具を作って飛ぼうとするやつもいる」
ピン、と人差し指を立てて人間の盟友を自称する河童は力説する。
「それはこの幻想郷でも同じだ。そして私はそんな人間の内、本当に空を飛べるようになった奴を知っている。そいつならもしかすると、誰でも空を飛べるようになる方法を知っているかもしれない」
「そ、その人間って?」
ニヤリ、とシニカルな笑い。まるで推理を披露する探偵のように、にとりはある名前を告げる。
「霧雨魔理沙。―――約二年前、守矢神社の騒動の時に山へ攻め込んできた人間の片割れだよ」
幻想郷はとても狭い世界だと妖怪の賢者殿はおっしゃっていたが、それでも十分な広さを持っているように思う。
にとりにお礼を告げて工房を出発したあと、私はそんなことを考えつつ石段を登っている。射命丸様は一日あれば幻想郷中をくまなく探索できると自慢していたが、逆に言えば彼女ほど足の速い者をもってしても幻想郷中の回るには一日かかってしまうということだ。現に私もこの場所に着くまで半刻ほどかかってしまった。
巫女は参拝客が来ないことを必死に嘆いていたが、このような辺境にあっては人里の人間が来ることなどできない。途中で知能の低い低級妖怪の餌になるのがオチだ。守矢のように分社を立てるか、神社そのものを移動させるかしないと改善は見込めないだろう。
(―――っと)
それなりに長かった石段も終わりを見せ、朱に染まった鳥居が姿を現した。はやる気持ちを抑えながらゆっくりと一段一段登っていく。
「魔理沙の家は魔法の森にあるんだけど、知ってる者の案内がないと迷ってしまうからね。でも、大丈夫。あいつはよく博麗神社に顔を出すから、そこに行けば会える可能性も高いと思うよ」
くれぐれも気を付けてね。友人の助言と応援を背に受けた私は博麗神社にやってきた。
思えば自らの用事でこの場所に顔を出すのは二年前に顛末を伝えて以来だ。射命丸様に引きずられて宴会に参加したこともあるけれど、あれは半ば強制みたいなものだったし。
石段を踏破し、鳥居をくぐり、境内へと歩を進める。縁側には二年前と同じく、あいもかわらずのんきに茶を飲んでいる紅白の巫女、博麗霊夢と、
「お?おい、見ろよ霊夢。珍しい奴が珍しく昼間に珍しく保護者の同伴なしでやってきたぜ」
人の家のせんべいを無遠慮にバリバリ噛み砕きながら、私を見るなり失礼なことをのたまった白と黒の魔法使い、霧雨魔理沙が座っていた。
「どうも、お邪魔する。あとあの鴉天狗は私の保護者などではない。断じて」
かつかつと石畳を響かせながら二人のもとへ歩み寄る。
巫女は最初訝しげな視線を送ってきたが、賽銭を入れてやると渋々といった風に自分の左横を叩いた。座れということらしい。
立ち話するような用件でもないのでお言葉に甘えて腰かける。人の姿の見えない神社だが、手入れはそこそこ行き届いているようだった。
「で、何の用?天狗からなにか伝言でもあるのかしら」
はい、と。茶の入った湯呑と一緒に、彼女は私に用件を尋ねた。その裏では魔法使いが興味津々な瞳を向けてくる。
「いや、申し訳ないが巫女に用があってきたんじゃないんだ。そっちの魔法使いに聞きたいことがあってね、ここに来れば会えるかもしれないとにとりに聞いたものだから」
「私は確かに巫女だけど、霊夢って名前があるのよ」
「魔法使いだが魔理沙だぜ。で、私に用事だって?」
呼ばれた魔法使い―――魔理沙が私の隣に移動してくる。せんべいはすでに食い尽くしたようだ。
家主である巫女―――霊夢の方はというと、自分に関係のないことだと分かったからか、ふーんとやる気のない相槌を打って湯呑の茶に集中し始めた。
つられて私も茶を一口。意外と美味い。
「ん、なかなかだな」
「それは光栄ね」
素直に感想を口にしてやると、まんざらでもないのを隠そうとしてか湯呑を傾けた。茶は数少ない娯楽だと聞いているし、多少は自信もあったのだろう。
「おいおい、霊夢の茶もいいが、用件の方も忘れてくれるなよ。殊勝にもわざわざ私のことを訪ねてきたやつの相談に乗ってやろうとしてるんだ、気分が変わらないうちに話したほうがいいと思うぜ」
さぁ、この魔理沙様に何の用だ。無視されて気分を害したのか、無理やり話に割って入りこんできた。相談事があって訪ねてきたのはこちらなのだし、手間を取らせるのも拙い。
少々こっぱずかしい内容だが、すでに二人ほどにばらしてしまっていることもある、早々に話を切り出すか。
「二人は空を飛べるよな」
きょとん。
これも本日二度目である。意外そうな顔を浮かべた魔理沙は、ああ、と不思議そうに首を上下に揺らした。
まるで百面相、見ていて飽きないなと、小さな感想を抱きつつ話を続ける。
「実は…恥ずかしいことなんだが、私は天狗の身でありながら数百年たった今でも空を飛ぶことができないんだ。妖力を高めたり、特別な術を施したりと、ありとあらゆる方法を試したんだが、うんともすんとも言わない。恩師からは生まれ持ってのものだと告げられた」
ほうほう、と魔理沙が興味深そうに相槌を打ってくる。ふと気づけば霊夢の方のこちらに意外そうな視線を向けていて、なんだかむず痒い。
「射命丸様は妙案を知らなかった。河童の道具にも、外の人間の道具にも、私の望むようなものはなかった。だけど幻想郷の人間なら、もともとは空を飛べないはずだったお前たちなら何かいい方法を知ってるんじゃないかと思って」
伝えたいことを一息に吐き出して、お茶に口をつける。顔が熱い。彼女らに感化されたのがきっかけとはいえ、人間にこのような相談事を持ち込むなど天狗にとっては赤っ恥だ。
だが、積年の望みだったのだ。希望があればすがりつきたくもなる。
「なるほどな。通りでお前は崖にへばりつきながら戦っていたわけだ。最初に見たときはどこの曲芸師かと思ったぜ」
「飛べない天狗がいる、っていうのも初耳ね」
「天狗は空を飛べて当たり前の妖怪だからな。飛べない天狗なんて本当なら一族の汚点もいいところだし、もともと百だか千だかの白狼天狗に一つしか生まれない希少性もあって、外部に漏れるようなことのないよう厳重に隠していたのだろう。私は他の白狼よりも抜きん出た実力を身に着けたからな、こうして五体無事でいられている」
思えば自然と消えていったという飛べない天狗たちも、もしかしたら秘匿のために処分されたのかもしれない。一歩間違えれば自分も同じ立場になっていた可能性もあると考えると、しっぽの毛も逆立ってしまう。
「つまり、お前は空を飛んでみたいってことだな?」
「その通り。なにか方法はないだろうか」
二人の顔を見比べる。魔理沙だけではなく、霊夢の方も。
もし魔理沙が方法を知らなくても、博麗の巫女の秘術のなかには何かいい方法があるかもしれない、などという都合のいい願いを抱きながら。
視線を向けられた二人はというと、ひとしきり考えたあと、まずは霊夢が口を開き、
「あいにくだけど、何も知らないわ。私は気が付いたら飛べるようになっていたし」
ばっさりと希望を切り捨てた。落胆は小さい。
巫女は特別な人間だし、もし博麗の秘術にそういったものがあったとして、おそらく博麗の名を冠するもの以外に使うことはできないだろう。それでもため息だけは隠せない。
あわてて茶を飲んでごまかすと、彼女は居間に戻り戸棚から新しいせんべいを出してくれた。謝罪の代わりなのだろう、茶のおかわりと一緒に頂く。二つの味が私を慰めてくれた。
しばらくの間、蝉しぐれに混じって茶をすする音とせんべいをかじる音のみが聞こえた。
肝心の魔理沙はというと、新しいせんべいには目もくれず、あごに手を当ててしきりにあれこれと考え続けている。妙に落ち着かないが、急かすわけにもいかない。
彼女が自分から口を開くまでの間、私は茶とせんべいをいただきながらひたすら沈黙に耐えた。
ふと、魔理沙は箒を抱え境内へ跳び下りた。そして私の前に立つと、
「スマン!」
パン、と手を合わせ、私に頭を下げた。驚きで目が丸くなっているのが自分でもわかる。かつて山に攻め入った人間とは思えない行動だ。
「いろいろと考えてみたんだが、現状じゃ私には何も思いつかない!せっかく私を頼ってきてくれたのに、悪い!」
心から申し訳なさそうに、彼女は謝罪を繰り返した。
その姿をみて、私は射命丸様の新聞から、一つの内容を思い出す。彼女は魔法を繰り出すために、毎日魔法の森で材料となる茸を採取している、という記事だ。
噂によれば集めた茸を何時間も煮詰め、固めたものを使って魔法の実験を行っているという話だ。そして実験には失敗がつきものだという。
なんとなく、古き日の私の姿がダブって見えた。言葉や立ち振る舞いこそ乱暴だが、その根っこは驚くほどに純真なのかもしれない。そう考えると実は結構いいやつなのかな、などと思いながら茶をすすり、
「いえ、私もそう簡単に見つかるとは思っていなかったので。あんなに真剣に考えて頂けただけでもありがたいです。だから顔を上げてください」
感謝の言葉が自然と敬語となって口から出てきた。おそらく彼女は努力が報われなかった時の気持ちをよく知っているのだろう。自分の姿を投影したのはお互い様だ。
話には出さなかったが、決して昔の自分は努力が実を結ばなかったわけではない。空こそ飛べないものの、私は一際高い技術と妖力、そして何より誰もついてくることができない自慢の足を手に入れた。
これらは空を飛べる私では決して手に入らなかっただろう。
「それでだ。せめてもの償いに、空に連れてってやろう」
「え?」
耳を疑った。彼女はつい先ほど、空を飛べるようになる術を知らないといったばかりではないか。それとも本当は、なにかいい方法でもあるのだろうか。
私の疑問を感じ取った普通の魔法使いは、
「ああ、いや。ただ単に私の箒の後ろに乗せてやろうと思ってな。言っておくが、この箒は私の魔力がなけりゃ動かないぜ。一品ものだから譲ってやることもできない」
ざん、と箒で地面をたたきながら胸を張った。謝罪のつもりだろうが、私には嫌味としても聞こえるということに思い至らなかったのだろうか。
全く。この人間は。
自由奔放でめったに悪びれもしない魔女の甘美な提案に、
「わかった。お言葉に甘えさせてもらおう」
口調を戻し、微笑みながら誘惑に誘われてあげた。
「そら、地面を離れるぞ!しっかりつかまってな!」
「はい!」
魔法の力によって周囲の空気が渦巻くのを感じながら、私は箒に腰かけ、前で舵を握る魔理沙の肩をしかとつかんだ。
霊夢にお世話になったことの礼を告げると彼女は、
「また気が向いたら来てもいいわよ。賽銭を入れるなら、お茶と菓子をもって歓迎するわ」
と、ぶっきらぼうに告げた。もてなされるばかりでは気まずい、今度行くときは茶菓子か酒を持参することを決意。
風を身に受けながらどんどん小さくなる紅に手を振ると、向こうも控えめに手を振りかえしてくれた。
そして今、私は。
「うわぁ…!」
空を飛んでいる。
どこまでも続く緑、細く走る水色、ポツンと存在する青、紅、茶色、黄色、白。
遠くには妖怪の山が赤黒い山肌を覗かせ、湖には白い霧がうっすらとかかる。
地上で騒ぐセミどもの声も今は小さく、西には傾き始めた太陽が、まだ終わらぬとばかりに黄金の光を放っていた。
足を振る。どれだけ振っても何かにあたることはない。
尻に自らの体重を感じながらも、ふとした拍子に落ちてしまいそうな感覚を覚える。
移動することによって立ちふさがる空気の壁に全身でぶつかる。
手に、顔に、体に、髪に、しっぽに。体中に優しくも猛々しく風が撫でてくる感触を楽しむ。
ぱたぱたと興奮するしっぽをどうしても抑えることができない。
おとなしくしてくれよ、と苦笑交じりの声で魔理沙にたしなめられたが、気持ちはブレーキを踏むことを忘れたように高まり続ける。
「さあ、霧雨魔法店主催の幻想郷スカイツアーの始まりだ!どこか希望はあるか?日が暮れるまでなら付き合ってやるぜ」
「そうだなぁ…」
思い出す。風を楽しむ上司の自慢を。
「とにかく、幻想郷中を周ってみたい。時間の許す限り」
「オーケー。それじゃ、霧雨魔理沙おすすめの観光コースを行くとするか!」
瞬間、加速。体を後ろに引っ張られそうになりながらも、さらに勢いを増す箒に乗って、短い遊覧飛行が始まった。
まずは湖。
その周辺に建つ紅の館に接近。話には聞いていたが門番はほんとうに寝ているようだ。
数の少ない窓からは妖精メイドがせわしなく動いているのが見える。
テラスには紅茶を楽しむ吸血鬼と従者がこちらを見上げていた。
地下には七曜の魔女と使い魔、紅魔の妹とともに膨大な蔵書の図書館が存在するとか。いつか、その知識に厄介になるのもいいかもしれない。
次は急上昇。
どんどん高みへ突き進み、雲を抜けると、目の前に大きな門が現れた。
幽冥の門。この先には亡霊嬢の住む黄泉の世界が広がっているという。庭師はたいそうな剣の使い手だとか、いつか手合せしてみたい。
据えられた柱に座って、騒霊たちが思い思いの旋律を奏でている。
はるか遠くには天界と呼ばれる大地も見えた。
天人たちに混じって鬼神様が酒を飲んでいるが、だれも気にしていないようだ。
下降。
活気のある人間の里を尻目に迷いの竹林を目指す。
成長の速い竹に囲まれたせいで日々姿を変える魔境の中に、和風の屋敷と掘立小屋を発見。
あそこには殺しても死なない人間が住んでいるとか。
射命丸様の記事に奇妙な薬の記事がいくつもあった。月の頭脳をもってすれば、私の悩みも、あるいは。
Uターン。
無名の丘、太陽の畑を通過し一路妖怪の山へ。
近づきすぎないように警告すると、おとなしくある程度の距離をたもってくれた。
山からは煙がうっすらと立ち上っている。
中腹にはここに至るまでの主原因である守矢の神社が、そこからしばらく下ったところに、地底へとつながる大穴が見える。
神様主導で作られた大穴の先には、太陽の神を宿した妖怪が働いている、と、にとりが有用性と一緒に鼻息荒く語っていた。
再び人里。
近くには新しくできたお寺が立っている。
最近の妖怪の中には、毘沙門天の代理と気風穏やかな尼僧に誘われあのお寺に入門するものも多いという。
側に作られた墓地には唐傘妖怪とキョンシーの姿。
キョンシーは先日復活した飛鳥の聖徳王と関係があるらしいが、傍目からはぼーっと立ってるようにしか見えない。
大天狗様が警戒なさっていたから油断はできないけれど。
「最後に、あそこに見えるのが私の住む魔法の森だぜ」
そのあとも玄武の沢、無縁塚などと幻想郷中を見て回り、最後に魔理沙の家へと案内された。
噂通り、鬱蒼と生い茂る森だ。だがここでとれる茸は、あらゆる用途に活用できるようで、森自体の性質も相まって魔法使いが好んで住むと聞いた。
あれが私の家だ、と、魔理沙は小さな屋根を指差した。今回の旅で形作られた幻想郷の姿にその位置を刻み込んでいると、
「…諦めないからな」
不意に魔理沙が呟いた。
「なにを、だ?」
「お前が空を飛ぶ方法を探すことだ。研究の片手間でもなんでも、探してやる」
だから、霊夢のところだけじゃなくて、私の家にも遊びに来てくれよ。そう言うと魔理沙は帽子をかぶり直した。
やはり彼女は善人だ。ただ、なりふり構わず努力を重ねるから、周囲に迷惑をかける。そのことがわかっているからこそ、霊夢も彼女のことを邪険に扱わないのだろう。
「場所は覚えた。私もまだ、自分の力で空を飛ぶことを諦めていない」
気が向いたらまた訪ねる、と、約束を交わしたところで、
「あら、椛じゃない」
再び射命丸様と出会った。顔にはうっすらと笑みを浮かべている。団扇で隠してはいない。
「どうも、二度目ですね」
「その様子だと、残念ながら見つからなかったみたいね」
「まだ、だぜ。そのうち私が見つけてやる」
「ああ、期待している」
三者三様の会話。思えばこの二人は同じ白と黒の衣服を身にまとっている。私の衣服には白しかない。いつかは彼女たちと同じようになれるのだろうか。自らの意思で自由自在に空を舞い、風を切り裂き、宙を漂い、望むところに行けるようになるだろうか。
ただ、一つ体感したことがある。
「射命丸様」
「なにかしら?」
「空を飛ぶことって、とても気持ちがいいですね」
今回で感じたことを一言に乗せ、笑みを浮かべる。普段は仏頂面な私がちゃんと笑えたかどうか不安だったが、私を見た二人に浮かぶ笑みを見る限り、問題なく笑えたようだった。
太陽は空を茜に染めながら西へ沈みゆく。いつか、もう一度この景色を見てやると、私は心に誓った。
新しい世界が開けた気がします。
ですが魔理沙が頭を下げるまでした心情が掴みづらいのでこの点数で。
椛自身の想像もあるので一人称視点だとこれくらいが味なのかもしれませんが、少し唐突に、というか強引に感じてしまいました。
いつか飛べるようになって欲しいです
魔理沙は椛に自分自身を重ねたのでしょうか
ともあれ爽やかな気分になりました
良い作品でした。
ひとつだけ残念なのが無煙塚かな
煙草が吸えないよ
しかし不器用な椛は可愛いですね。