――師匠が死んだ。
――と言っても、本当の師匠が死んだ訳ではない。
――さっさとタネを明かせば、姫様の戯れで一時里で師事していた人間が死んだ、というだけのことだ。
――そもそもの発端はその人間がこちらに彷徨いこんだのがそれだろう。
――が、私が姫様の命令で師事することになったのは、その時ちょっとした異変が起きていたせいだ。
――異変といっても今回の異変は、以前私達が起こしたような夜を止めたり、紅魔館が起こした霧で太陽を遮ったり、白玉楼の亡霊が起こしたような春を集めたりといった幻想郷を巻き込んだ大規模なものではなく、ただ地面からお湯と一緒に怨霊が吹き出してくるという非常に地味なものだった。
――けど、ここに古くからいる連中は協定違反だと地底へ、あの赤い古い方の巫女となぜかあの魔女、そうあの泥棒の方の魔女を担ぎ出して地底へと向かわせた。
――後日、なぜ妖怪達が自分で行かなかったのかと聞いたところ、相手が協定を破ったからといって、即座にこちらが協定を破るのは淑女ではないから、という実に胡散臭い回答だったけど……。
――話がズレた。
――波長がズレる以上に簡単に話がズレるのはなぜか、お師匠様なら研究したことがあるんじゃないか……
――……またズレた。
――兎に角、あ、兎角同盟は参加者を募集中、またズレてる……?
――と、兎に角、巫女と魔女が古妖怪に焚きつけられて、地底へと続く洞窟に潜ったのはいいものの、単調な洞窟ではなかったらしく、途中で迷子になったりなんだりで、たどり着くのにえらい時間がかかったというのが問題になった。
――なにが問題になったかといえば、時を同じくして外から迷い込んだ人間がいたことだ。
その人間は運良く里に辿り着いたのだが、外に帰ろうにも肝心の巫女が地底攻略のために洞窟にビバークしている状況で、帰るに帰れないという状況に陥った。
――通常だと巫女がいない場合でも外来人が用意した建物で巫女が戻ってくるまでせいぜい一日二日待って、という流れのところ、いつ神社に帰るかわからないという事態に直面してしまったのだ。
――これを里の守護者、あの石頭の白沢から聞かされた外来人達は弱り切ったそうだ。
一日二日生活するための食料は提供できても、流石に半月は戻らないかもしれないなどと言われるとそこまで裕福ではない人間の暮らし。
――提供してしまえば自分達の生活が苦しくなると頭を抱えていた一同に、その人間が自分で稼げばいいのか、と言ったことが私がその人間に師事することになった原因だろう。
――その人間はお菓子作りが出来る人間で、そのレシピを作りながら教えることで、生活費を稼ぐということをし始めた。
――それはそれほど広くない人間の里に広まり、一週間しないうちに知らぬものがいないほどの盛況となり、ついには例の白沢からうちの姫様と死なない殺し合いをし続けているあの藤原妹紅、そして姫様へと伝わり、めでたく姫様の口から「いいかしら鈴仙? その評判のお菓子がどれほどのものか、修得してらっしゃい」というお言葉と材料の山が押し付けられて、気がつけば里に送り出されていた。
――本当に、あまりにあれよあれよの出来事だったため、師匠に救いを求めることもできなあったが、よくよく考えてみれば、師匠が絡まなければあそこまであれよあれよの出来事にはならないんだと気がついたのは、どこに申込をすればいいのかと白沢の家に頭を下げに行った際に、白髪の不死者からバカにされた時だったりするから、私もうかつだったんだろう。
――なにしろ、師匠の若作りはたまに姫様が引くレベルだったりするから……、今回のことも女子力アップに必要だったのよと聞かされたが、師匠が今更必要な女子力ってなんなのだろうか?
――まあ、いいや。
――で、白沢の紹介をもとに外来人経由でその人間のところで習えるようになったのは、巫女が異変を解決したらしい、と噂が出回ったころだった。
――結局、習うことができたのは一回だけとなってしまったが、レシピそのものは私より先に教わった里の人間に教えたものまで貰えることになったので姫様の目的は達成できた、とその時は安心していた。
――それが、あんなことになるとは思ってもみなかった。
◆
「それでは、各自持ってきたサツマイモの皮を剥いてください」
さして広くない居酒屋の厨房に女の声が響く。
年の頃は20代後半。肩にかかる程度の黒髪が調理の邪魔にならないようにと布巾で頭を覆った姿の前には、20名ほどの生徒が並んでいた。
生徒のお目当ては女の背後に書かれた看板の通り、「スイートポテトの作り方」。
その作り方を聞こうと詰めかけていたのは、里の奥様だけでなく、一部の物好きな妖怪までいた。
奥様と妖怪の中にはほとんど全ての回に参加する強者まで出るほど盛況だった講座も今回が最後とあって、里の人間に対しては抽選会まで開かれるほどであった。
そんな面々の中、ウサギの耳が所在なげに揺れていた。
鈴仙は、持参したサツマイモ、あのウソつきウサギのてゐに言わせると山にいる神様が手づから作ったサツマイモだそうだが、そんなことはお構いなしに言われた通りに皮を剥き始める。
鈴仙もまた女子の例に漏れず甘味は好きだったが自分で作るとなると団子やお餅などの和風中心で、よもや自分が紅魔館で出すような洋風物を作ることになるとは、と周囲の奥様からの好奇の視線から逃げるように思考を逃避させていた。
頭が遥か彼方へと逃避していても、手だけは忠実に言われたことを守り、
「皮が剥けた方から順に、厚さを揃えて切ってください。厚さはこのあと茹でますので茹で時間が短くなるよう薄めがいいですが、あまりに薄いと甘みが逃げますので、自宅で作られる際は親指の幅程度で切ってください。ただ、今回は竈が足りずに七輪で補ってますので茹でやすいよに、薄め、各机に置いてある菜箸程度の幅でお願いします」
気がつけば剥き終わっていたため、言われた通りサツマイモを切るために包丁を構え直す。
里で一番大きな料理店の厨房を使用して開かれている料理教室だったが、その質は以外にまちまちだったのか、鈴仙の耳に聞こえてくる音は、半分ほどがまだ皮を剥いていた。
――それにしても、親指って、人どころか妖怪までいるんだから、幅がまちまちになりすぎるんじゃないかしら?
製薬で半ば刃物使いに慣れきっている鈴仙は、サツマイモを切る動作そっちのけで思考をさらに教室の外へと飛ばし始めていた。
それでも腕だけは、サツマイモを同じ幅で刻み、それを切ったそばからまな板の隣に置いた丼の中へと放り込んでいく。
丼に張られた水の中へとぼちゃぼちゃと沈んでいくサツマイモなど気にも止めず、思考に沈んでいく鈴仙だったが、
「――――――――」
そこへ聞こえた声が鈴仙を教室へと引き戻す。
微かに、本当に微かに聞こえた声が何だったのかと鈴仙が考えるよりも先に、ガチン、と脇で七輪の火にかけられていた鍋の蓋が音を立て、思考がその先へと行くことを拒んだ。
鈴仙が脇を見れば、七輪にかけられた鍋の中はぐらぐらと十分に煮え立っていた。
そんな煮立った鍋に応じるかのように講師の声が教室に響く。
「それでは、水に晒したサツマイモを鍋で茹でます。茹でる目安は竹串がスッと通る程度ですので、あまり茹ですぎないように注意してください」
下処理が遅れている夜雀のサツマイモの皮剥きを手伝いながら女が教室の生徒へと次の工程を指示する。
鈴仙はサツマイモの処理が終わった他の生徒同様、煮立った鍋の中へと晒したたサツマイモを全て放り込んでいく。
サツマイモが放り込まれて、煮立った鍋が一旦静かになる。
鈴仙は里の奥様達がするのを真似るように鍋に蓋をすると、ふ、と息を吐いた。
と、そこへ講師の師事が間髪入れずに入る。
「このあと、茹でたサツマイモを潰してバター、牛乳、砂糖、卵黄、風味付にラム酒を混ぜていきます。ですので今のうちにバターなど各自必要量をそこにある材料置き場から持っていってください。なお、必要量は量りの正面に張り出していますので、そちらをみてください。あと卵黄と分けた卵白は殻が混ざらないようにして、卵白用と書かれた器に集めておいてください」
指示に従いぞろぞろと量りの前に列が出来る。
鈴仙はその列に並ぶことなく、永遠亭から持参した袋から各食材を取り出し始めた。
それらの食材を羨ましそうな表情で里の奥様達がちらちらと見ていることに気がつきつつ、それに反応しないようぐっと堪えると鈴仙は卵を割って、中の黄身と白身を分ける作業に没頭しようとした。
「――――――――」
それは先ほど、同様に微かで、しかし鈴仙の耳にはハッキリと聞き取れてしまう程度の音量だった。
それは否が応でも鈴仙の意識が作業から厨房へと引き戻されずには済まないそんな言葉だった。
それは、間違いなく独り言で、しかしその意味するところが鈴仙も無関係ではないために、
「師匠」
無意識に日頃使っている言葉が出てしまった。
それはまるでエアポケットのように、鈴仙と講師の間にぽかんとした空気を漂わせ、
「あ、え」
講師の女の戸惑ったような声に、
「あ、あの、ごめんなさい。うちで色々教えて貰っている人のことを師匠って呼んでいるもので、その、つい」
鈴仙はわたわたと畳み掛けるような言い訳を重ねていく。
そんな鈴仙の反応に落ち着きを取り戻した講師は、
「どうされました?」
「あ、いえ。その…………、うちのバターと牛乳なんですが乳牛じゃなくて水牛だったりしたり、卵も鶏じゃなくて烏骨鶏だったり、ラム酒もそこに並んでいるような軽めのじゃなくてかなり匂いがハッキリしているんですけど…………、その……」
畳み掛けるようにしてあれこれと永遠亭の裕福な台所事情を告げながら、どうすればよいかと確認する鈴仙の言葉には、しかし生来の気の弱さ故に一番聞きたいことが含まれることはなく、当然講師からの答えに鈴仙が聞きたいことは含まれてはいなかった。
「…………はぁ。こんなところまできて何やってるんだろ」
鈴仙は、再び沸騰し鍋の中で踊るサツマイモへ竹串を突き刺しては火の通りを確認する作業を繰り返しながら、そう零してしまった。
いつもならそれに軽口を叩いてくれる同僚がいるがここはアウェー。孤立無援で、永遠亭に対する周囲からの羨望の眼差しに気がつかない振りをし続けて、過ごさなければいけなかった。
その事実に、いかに自分があの同僚の軽口に助けられているのかに思いを馳せ、しかし同量の被害にプラスマイナスでマイナスに振れそうな目盛りに頭を振ると、バターなどの材料を量り直していく。
サツマイモは鈴仙が材料を量り終えるころには茹で上がり、
「茹で上がったサツマイモはザルで水気をきって最後に布巾でよく水気を取ってください」
長い爪のせいでドンジリになっている夜雀の世話をしながら、講師は言葉を続ける。
「水気を取ったサツマイモは、水気を拭き取った鍋の中に戻してよく潰してください。切ったサツマイモが残らない程度まで潰したら、バターを加えてよく練ってください」
その声が終わるとそれぞれの台から煮立った鍋が流しへと持ち込まれ、ザルへとサツマイモがあけられ、流しからは湯気が立ち上っていく。
鈴仙は湯気で耳が湿気ないように布巾で一度頭を覆うと、
「潰して、姫様のバター練りこんで、か」
手順の復唱をすると、中を拭いた鍋へと水気を拭き取ったサツマイモを順に放り込んでいく。
その作業が一通り終わると、鍋の中でサツマイモをすり潰し始める。
とりあえず、三日前に自分の分までおやつを食べた同僚に対してこんちくしょー、という今だ忘れえぬ感情を込めて、これでもかと滑らかにすり潰す作業に没頭する。
それはどこの台でも同じだったのか、先ほどまで賑やかだった厨房も、今は各所から上がるがこんがこん、がつがつと鍋に強くすりこ木がぶつかる音が響くだけになっていた。
だから、その時は講師の声は鈴仙の耳にも聞こえることはなかった。
それは鍋の中でサツマイモと輝夜が暇つぶしに自作したバターが滑らかに練りこまれ、
「サツマイモとバターがしっかりと練りこみ終わったら、そこへ牛乳、砂糖、塩をさらによく練り込んでください」
という指示を実行し終わるまで維持できたが、サツマイモの生地が牛乳とよく混ざり合い、練るごとにぶちゅりと粘った音を上げるようになると再び聞こえるようになっていた。
「それでは、炭の量を減らして火を弱めた七輪に鍋を置いて、生地から水分が飛ぶまで注意しながらさらに練ってください。焦げつかせないよう炭は本当に少しで十分です」
材料を練るだけ練って手が疲れたところへさらに無情な指示が飛ぶ。
その指示に嫌そうな顔色を表したのは鈴仙ぐらいで他の奥様達や夜雀は特に反応もせず、黙々と生地を火にかけて水分を飛ばす作業へと没頭していく。
明日になったら筋肉痛になってたり、と苦笑いを浮かべながら鈴仙はため息一つで七輪から炭を減らして、他の参加者同様、焦げつかせないよう注意深く鍋の生地を木べらでかき混ぜていく。
「――――――――」
木べらでかき混ぜる作業がどれくらい続いたか、少なくとも鈴仙の耳に講師の言葉が二回ほど聞こえたのは間違いなく、そのころになるとどろどろだった生地ももったりと粘りつくような重さを木べらに感じさせるようになっていた。
そのため、サツマイモの生地を練るというよりはひっくり返して鍋に叩きつけるような音が厨房の各所から聞こえるようになり、
「それでは、ほどよく水分も飛んだようですので、火からおろして粗熱を取っていきます。粗熱が取れたら生地に先ほど用意した卵黄とラム酒を加えてさらに練ってください。粗熱を取る際に鍋に残った熱で生地が焦げないように注意してください」
まだ練るのか、と顔を引きつらせながら鈴仙はため息もつけずに次の作業へと取り掛かる。
じゅ、という音を立てて布巾の水気が飛び、鍋の余熱で生地が焦げつかないように注意をし、ほどよく粗熱がとれたところへ卵黄とラム酒を加えて木べらでべたべたと練り混んでいく。
「十分に生地と卵とお酒が混ざったら、生地を芋状に整形してください。竈から出し入れしやすいように天板を利用しますので、この上に上手く並べてください。あまり一個の大きさが大きいと火の通りが悪くなりますので、ほどほどでお願いします」
漸くゴールが見えてきたと、安堵した鈴仙の耳には相変わらず講師の独り言は聞こえ続けていたが、もう鈴仙はそれに構うことなく、言われた通りに生地を天板の上に芋状になるよう整形していった。
それは、あたかもお菓子作りが終わればその声を聞かずに済むのだと急いているかのようだった。
「整形が終わったら生地の表面に艶出しのために、卵黄と水を混ぜたものを塗ってください。塗り終わったら180℃ぐらいの竈でだいたい20分ほど焼きます。その際ですが、生地の表面に塗った卵黄が乾いたのが見えたら一度取り出してまた卵黄を塗ってください。その後、表面に焼き色がついたら完成です」
そして、
「長かったぁ…………」
講師の言葉通り、卵黄を塗り直した生地の表面に焼き色がついた完成品を目の前に鈴仙は感慨深くぽつりと呟いた。
教室のあちらこちらでは、奥様達がそれぞれの出来をスイートポテトを交換しながら確認する作業へと移っていたが、
「失礼」
そこへ響いた白沢の声でピタリと静かになった。
白沢はその反応に少々居心地悪くしながらも、講師へと告げるべきことを告げた。
「博麗の巫女から、遅くなったが儀式をやると連絡がありましたので、急で申し訳ないがこれから神社まで同行願えますか」
「手土産にこれが焼けるまで待って貰えませんか?」
僅かに逡巡した後、講師は自分が作っていたスイートポテトを指差しながら、そう白沢に答えた。
白沢は講師の逡巡に何を感じ取ったか、
「巫女がかかっていた件は完全に終わった訳ではなく、またすぐに出掛けるという話でしたが向こうに着くのが今日中であれば問題ないので待ちましょう」
そんな二人のやり取りに、そうか外の世界に戻るのか、とぼんやりと他人事として聞いていた鈴仙は、そのせいで、
「済まないが、道中付き合ってくれないか?」
という白沢の言葉に無意識に頷いてしまい。
◆
「どうしてこうなったんだろう…………」
鈴仙はろくろく話を聞かずにに頷いたために、里から神社までの道を人一人をぶら下げ大急ぎで飛ぶという一層疲れる仕事をこなす羽目になり、境内でへたり込んでいた。
人気のない夜の博麗神社の境内に、鈴仙の荒い呼吸が響く。
「な、に、が、別件で身動きが取れなくて、だ。あ、の白沢。自分だって……」
息を整えるのに手一杯の鈴仙を他所に、女はお賽銭箱の前で胡座に頬杖という行儀の巫女へと歩み寄ると、
「貴女が楽園の素敵な巫女なのかしら?」
「ええ、そうよ。私が楽園の素敵な巫女の博麗霊夢よ」
「貴女が外に帰してくれるって聞いたけどお願いを聞いて貰えるんでいいのかしら?」
「そうね。待たせて悪かったわ。細かい話は伝言見たから知ってるし、さっさと帰してあげるわ」
「あら、ありがとう。これ、つまらないものだけど」
女が抱えていた籠を霊夢へと差し出す。
それを見て、鈴仙はああさっきのスイートポテトかとぼんやりと反応し、
「あら、本当につまらないものね」
すい、と霊夢が受け取ろうとした籠を横から取り上げる腕があった。
肘まで覆う手袋をしたその腕を、親の仇のごとく睨みつけるようにした霊夢が、
「紫、なんの用よ?」
うんざりという声色で、腕の主である八雲紫へと尋ねる。
紫と呼ばれた妖怪は空中に腰掛けるようにし逆の手には夜にも関わらず日傘という姿のまま、
「別に、これが美味しそうだから横取りしたというわけではありませんわ」
「あら、とてもそうは見えないけど?」
「ええ、そう見えなくてもそうなんですわ。美味しそうだから横取りしたのではなく、仕事の報酬だから受け取っただけですわ」
彼女特有の、もってまわったくどい言い回しで霊夢の問いに答えていく。
その受け答えに霊夢はウンザリとした表情を浮かべ、いつのまにか手にしていたお祓い棒をくるりと一回転させて紫へと構える。
弛緩していたハズの夜の境内に、冬以上のピリピリとした冷たい空気が漂い始めていた。
「仕事の報酬だから受け取る、って別に仕事を頼まれたのはアンタじゃないでしょ」
「あら? 修行不足のお気楽な巫女がこれ以上仕事を抱えて過労死しないようにと計らうだけですわ」
「修行不足って、あれはあんた等の案内が下手くそだから魔理沙に先を越されただけでしょ!」
「右と言って右に飛べない巫女が何を」
「主語抜きで相手の右手側に飛ぶとか無理に決まってるでしょ?!」
ピリピリとした空気が霊夢のカリカリとした反応とあいまって、鈴仙がそろそろ帰ったほうがいいかも、と腰が引け出したところへ、
「どっちでも帰れればそれでいいんだけどれど」
女のやんわりとした、しかしハッキリとした言葉が霊夢の頭を無理矢理に冷やした。
霊夢は女の言った言葉を吟味し、
「あんた、こんな胡散臭い妖怪でもいいなんて、長生きできるような思考じゃないわよ」
呆れてみせた霊夢の言葉に、しかし女は苦笑するだけで済ませる。
それを見て、
「お客様の御所望は、元居た場所に戻ること、ですわね? 霊夢にそれが出来たかしら?」
「ああ、はいはい。だったら紫がやればいいでしょ。どうせ私にできるのは外の博麗神社に出すことだけですよ」
悠然と笑う紫に、苦りきった表情を浮かべた霊夢は、これ以上喋るのは面倒臭いと手を振る。
「そんなに言うんだったらさっさと送り出したら?」
まるでハエ追い払うような仕草に、紫は苦笑を色濃くするだけにとどめると、自分の真横に傘を振り下ろした。
ずるん、という音が聞こえそうな光景、紫が傘を振り下ろし始めたところを始点に振り下ろしきったところを終点として空間が左右に広がっていく。
リボンで結び止められた始点と終点の間から歪んだ空間がどめどなく溢れ出る、そんな言葉を選ばせるような光景が広がっていく。
が、女はそんないびつな光景に構うことなくその隙間へと歩み寄り、確認を取るように紫へと視線を投げ、
「こちらから貴女が望む元の場所へと帰ることが出来ますわ」
「あ、そう」
「ええ。どうごご健勝に」
紫の別れの言葉に、女は口の端を釣り上げるだけで答えとすると、そのまま何も言わずに隙間の向こうへと姿を消してしまい、僅かに香るスイートポテトだけが幻想郷に女がいたことを残すだけとなった。
霊夢は、境内に開いた隙間を紫が閉じたのを見届けた時点で「明日、守矢のところに行くから今日はさっさと寝るわ」と、だけ告げると阿呆らしいとボヤいて神社の中に引っ込んだ。
そんな霊夢の背中へ、鈴仙にしか聞こえないような声で紫が独り言を零した。
「死ぬ寸前の人間が作ったものを食べるなんて、黄泉の食べ物を食べるようなもので縁起がよろしくありませんからね」
そして後には、あれよあれよと事が終わっていくのを眺めるだけの鈴仙と相も変わらず胡散臭い笑みを浮かべたままの紫が残るだけとなっていた。
「あ、あのー、もう帰っていいですよね?」
このまわりくどいことこの上ないこの妖怪が自分と一緒に残っている時点でただでは帰れない、オマケにさっきの独り言はワザと聞こえるように言ったと直感が告げる中、あえて鈴仙はそう聞いた。
が、答えは鈴仙の予想通りでしかなかった。
「どうせ里までお帰りでしょう? 折角ですし、お話でもしませんこと?」
その笑顔は実に恐ろしいものだった。
◆
――結局、あの隙間妖怪から聞かされた内容は碌でもなかった。
――あの隙間から繋がっている先は、崖の斜面だったこと。
――隙間から出た後は、彼女は死ぬしかないこと。
――そもそも、彼女は誰かに突き落とされたところをたまたま幻想郷へと辿り着いたにすぎないということを聞かされた。
――碌でもないことの極めつけは、どうして逃げなかったのかしらね? と妖然とこちらへと笑ってみせたのがそれだったろう。
――アレが私の過去をどこまで把握しているのか知らないし知りたくも無いが、少なくともあの隙間妖怪は本気で彼女があの隙間から外へと行ったことが不思議でならないようだった。
――それは、立ち向かい続ける強い妖怪だから、だろう。
――理解できなくて当然だ。
――私にはそれが私とは別種の逃げだったのだろうと、理解できていた。
――私は死なない環境へと逃げたのだとすれば、彼女は立ち向かわずにすむ環境へと逃げたのだ。
――死にさえすれば、立ち向かわずに済むのだから。
◆
ぼんやりと天井を見上げて考え込んでいる鈴仙の前では、永遠亭の面々が鈴仙が持ち帰ったスイートポテトを食しては賞賛していた。
「ただの芋がこれほど美味しくなるなんてね」
「そうね輝夜。気持ちを込めることで一層美味しくなる、というけれど、これは中々……」
「あら、永琳ったら、褒めるときは褒めないと、思いやりとか優しさに欠けるわよ」
「それだったら、輝夜は鈴仙の分を残さないとダメなんじゃないかしら?」
自分の分、という言葉に鈴仙が反応する。
「あ、あの姫様。私は作ってる時に試食してますので……」
「あら、やっぱり鈴仙も美味しいものには目がないわね」
くふふ、と笑う輝夜に、ええまあ、と愛想笑いを浮かべると、ちょっと作るので疲れたのでと先に部屋へと下がることを告げ、鈴仙は輝夜と永琳のスイートポテトへの賞賛の声が聞こえる一室から逃げ出す。
しばらく、スイートポテトは食べたくないと思い出しながら。
鈴仙の舌と脳裏に残るのは、甘く甘くそしてどこまでも苦い味だった。
◆
――姫様達が食べるスイートポテト。
――幻想郷の外へと死ぬためだけに戻った彼女がどんな気持ちを込めたのか、それを知っているのは私しかいない。
――どんな波長でも捉えるこの耳を持った私しか、聞こえなかったあの言葉。
「豚は死ねばいいのに」
――と言っても、本当の師匠が死んだ訳ではない。
――さっさとタネを明かせば、姫様の戯れで一時里で師事していた人間が死んだ、というだけのことだ。
――そもそもの発端はその人間がこちらに彷徨いこんだのがそれだろう。
――が、私が姫様の命令で師事することになったのは、その時ちょっとした異変が起きていたせいだ。
――異変といっても今回の異変は、以前私達が起こしたような夜を止めたり、紅魔館が起こした霧で太陽を遮ったり、白玉楼の亡霊が起こしたような春を集めたりといった幻想郷を巻き込んだ大規模なものではなく、ただ地面からお湯と一緒に怨霊が吹き出してくるという非常に地味なものだった。
――けど、ここに古くからいる連中は協定違反だと地底へ、あの赤い古い方の巫女となぜかあの魔女、そうあの泥棒の方の魔女を担ぎ出して地底へと向かわせた。
――後日、なぜ妖怪達が自分で行かなかったのかと聞いたところ、相手が協定を破ったからといって、即座にこちらが協定を破るのは淑女ではないから、という実に胡散臭い回答だったけど……。
――話がズレた。
――波長がズレる以上に簡単に話がズレるのはなぜか、お師匠様なら研究したことがあるんじゃないか……
――……またズレた。
――兎に角、あ、兎角同盟は参加者を募集中、またズレてる……?
――と、兎に角、巫女と魔女が古妖怪に焚きつけられて、地底へと続く洞窟に潜ったのはいいものの、単調な洞窟ではなかったらしく、途中で迷子になったりなんだりで、たどり着くのにえらい時間がかかったというのが問題になった。
――なにが問題になったかといえば、時を同じくして外から迷い込んだ人間がいたことだ。
その人間は運良く里に辿り着いたのだが、外に帰ろうにも肝心の巫女が地底攻略のために洞窟にビバークしている状況で、帰るに帰れないという状況に陥った。
――通常だと巫女がいない場合でも外来人が用意した建物で巫女が戻ってくるまでせいぜい一日二日待って、という流れのところ、いつ神社に帰るかわからないという事態に直面してしまったのだ。
――これを里の守護者、あの石頭の白沢から聞かされた外来人達は弱り切ったそうだ。
一日二日生活するための食料は提供できても、流石に半月は戻らないかもしれないなどと言われるとそこまで裕福ではない人間の暮らし。
――提供してしまえば自分達の生活が苦しくなると頭を抱えていた一同に、その人間が自分で稼げばいいのか、と言ったことが私がその人間に師事することになった原因だろう。
――その人間はお菓子作りが出来る人間で、そのレシピを作りながら教えることで、生活費を稼ぐということをし始めた。
――それはそれほど広くない人間の里に広まり、一週間しないうちに知らぬものがいないほどの盛況となり、ついには例の白沢からうちの姫様と死なない殺し合いをし続けているあの藤原妹紅、そして姫様へと伝わり、めでたく姫様の口から「いいかしら鈴仙? その評判のお菓子がどれほどのものか、修得してらっしゃい」というお言葉と材料の山が押し付けられて、気がつけば里に送り出されていた。
――本当に、あまりにあれよあれよの出来事だったため、師匠に救いを求めることもできなあったが、よくよく考えてみれば、師匠が絡まなければあそこまであれよあれよの出来事にはならないんだと気がついたのは、どこに申込をすればいいのかと白沢の家に頭を下げに行った際に、白髪の不死者からバカにされた時だったりするから、私もうかつだったんだろう。
――なにしろ、師匠の若作りはたまに姫様が引くレベルだったりするから……、今回のことも女子力アップに必要だったのよと聞かされたが、師匠が今更必要な女子力ってなんなのだろうか?
――まあ、いいや。
――で、白沢の紹介をもとに外来人経由でその人間のところで習えるようになったのは、巫女が異変を解決したらしい、と噂が出回ったころだった。
――結局、習うことができたのは一回だけとなってしまったが、レシピそのものは私より先に教わった里の人間に教えたものまで貰えることになったので姫様の目的は達成できた、とその時は安心していた。
――それが、あんなことになるとは思ってもみなかった。
◆
「それでは、各自持ってきたサツマイモの皮を剥いてください」
さして広くない居酒屋の厨房に女の声が響く。
年の頃は20代後半。肩にかかる程度の黒髪が調理の邪魔にならないようにと布巾で頭を覆った姿の前には、20名ほどの生徒が並んでいた。
生徒のお目当ては女の背後に書かれた看板の通り、「スイートポテトの作り方」。
その作り方を聞こうと詰めかけていたのは、里の奥様だけでなく、一部の物好きな妖怪までいた。
奥様と妖怪の中にはほとんど全ての回に参加する強者まで出るほど盛況だった講座も今回が最後とあって、里の人間に対しては抽選会まで開かれるほどであった。
そんな面々の中、ウサギの耳が所在なげに揺れていた。
鈴仙は、持参したサツマイモ、あのウソつきウサギのてゐに言わせると山にいる神様が手づから作ったサツマイモだそうだが、そんなことはお構いなしに言われた通りに皮を剥き始める。
鈴仙もまた女子の例に漏れず甘味は好きだったが自分で作るとなると団子やお餅などの和風中心で、よもや自分が紅魔館で出すような洋風物を作ることになるとは、と周囲の奥様からの好奇の視線から逃げるように思考を逃避させていた。
頭が遥か彼方へと逃避していても、手だけは忠実に言われたことを守り、
「皮が剥けた方から順に、厚さを揃えて切ってください。厚さはこのあと茹でますので茹で時間が短くなるよう薄めがいいですが、あまりに薄いと甘みが逃げますので、自宅で作られる際は親指の幅程度で切ってください。ただ、今回は竈が足りずに七輪で補ってますので茹でやすいよに、薄め、各机に置いてある菜箸程度の幅でお願いします」
気がつけば剥き終わっていたため、言われた通りサツマイモを切るために包丁を構え直す。
里で一番大きな料理店の厨房を使用して開かれている料理教室だったが、その質は以外にまちまちだったのか、鈴仙の耳に聞こえてくる音は、半分ほどがまだ皮を剥いていた。
――それにしても、親指って、人どころか妖怪までいるんだから、幅がまちまちになりすぎるんじゃないかしら?
製薬で半ば刃物使いに慣れきっている鈴仙は、サツマイモを切る動作そっちのけで思考をさらに教室の外へと飛ばし始めていた。
それでも腕だけは、サツマイモを同じ幅で刻み、それを切ったそばからまな板の隣に置いた丼の中へと放り込んでいく。
丼に張られた水の中へとぼちゃぼちゃと沈んでいくサツマイモなど気にも止めず、思考に沈んでいく鈴仙だったが、
「――――――――」
そこへ聞こえた声が鈴仙を教室へと引き戻す。
微かに、本当に微かに聞こえた声が何だったのかと鈴仙が考えるよりも先に、ガチン、と脇で七輪の火にかけられていた鍋の蓋が音を立て、思考がその先へと行くことを拒んだ。
鈴仙が脇を見れば、七輪にかけられた鍋の中はぐらぐらと十分に煮え立っていた。
そんな煮立った鍋に応じるかのように講師の声が教室に響く。
「それでは、水に晒したサツマイモを鍋で茹でます。茹でる目安は竹串がスッと通る程度ですので、あまり茹ですぎないように注意してください」
下処理が遅れている夜雀のサツマイモの皮剥きを手伝いながら女が教室の生徒へと次の工程を指示する。
鈴仙はサツマイモの処理が終わった他の生徒同様、煮立った鍋の中へと晒したたサツマイモを全て放り込んでいく。
サツマイモが放り込まれて、煮立った鍋が一旦静かになる。
鈴仙は里の奥様達がするのを真似るように鍋に蓋をすると、ふ、と息を吐いた。
と、そこへ講師の師事が間髪入れずに入る。
「このあと、茹でたサツマイモを潰してバター、牛乳、砂糖、卵黄、風味付にラム酒を混ぜていきます。ですので今のうちにバターなど各自必要量をそこにある材料置き場から持っていってください。なお、必要量は量りの正面に張り出していますので、そちらをみてください。あと卵黄と分けた卵白は殻が混ざらないようにして、卵白用と書かれた器に集めておいてください」
指示に従いぞろぞろと量りの前に列が出来る。
鈴仙はその列に並ぶことなく、永遠亭から持参した袋から各食材を取り出し始めた。
それらの食材を羨ましそうな表情で里の奥様達がちらちらと見ていることに気がつきつつ、それに反応しないようぐっと堪えると鈴仙は卵を割って、中の黄身と白身を分ける作業に没頭しようとした。
「――――――――」
それは先ほど、同様に微かで、しかし鈴仙の耳にはハッキリと聞き取れてしまう程度の音量だった。
それは否が応でも鈴仙の意識が作業から厨房へと引き戻されずには済まないそんな言葉だった。
それは、間違いなく独り言で、しかしその意味するところが鈴仙も無関係ではないために、
「師匠」
無意識に日頃使っている言葉が出てしまった。
それはまるでエアポケットのように、鈴仙と講師の間にぽかんとした空気を漂わせ、
「あ、え」
講師の女の戸惑ったような声に、
「あ、あの、ごめんなさい。うちで色々教えて貰っている人のことを師匠って呼んでいるもので、その、つい」
鈴仙はわたわたと畳み掛けるような言い訳を重ねていく。
そんな鈴仙の反応に落ち着きを取り戻した講師は、
「どうされました?」
「あ、いえ。その…………、うちのバターと牛乳なんですが乳牛じゃなくて水牛だったりしたり、卵も鶏じゃなくて烏骨鶏だったり、ラム酒もそこに並んでいるような軽めのじゃなくてかなり匂いがハッキリしているんですけど…………、その……」
畳み掛けるようにしてあれこれと永遠亭の裕福な台所事情を告げながら、どうすればよいかと確認する鈴仙の言葉には、しかし生来の気の弱さ故に一番聞きたいことが含まれることはなく、当然講師からの答えに鈴仙が聞きたいことは含まれてはいなかった。
「…………はぁ。こんなところまできて何やってるんだろ」
鈴仙は、再び沸騰し鍋の中で踊るサツマイモへ竹串を突き刺しては火の通りを確認する作業を繰り返しながら、そう零してしまった。
いつもならそれに軽口を叩いてくれる同僚がいるがここはアウェー。孤立無援で、永遠亭に対する周囲からの羨望の眼差しに気がつかない振りをし続けて、過ごさなければいけなかった。
その事実に、いかに自分があの同僚の軽口に助けられているのかに思いを馳せ、しかし同量の被害にプラスマイナスでマイナスに振れそうな目盛りに頭を振ると、バターなどの材料を量り直していく。
サツマイモは鈴仙が材料を量り終えるころには茹で上がり、
「茹で上がったサツマイモはザルで水気をきって最後に布巾でよく水気を取ってください」
長い爪のせいでドンジリになっている夜雀の世話をしながら、講師は言葉を続ける。
「水気を取ったサツマイモは、水気を拭き取った鍋の中に戻してよく潰してください。切ったサツマイモが残らない程度まで潰したら、バターを加えてよく練ってください」
その声が終わるとそれぞれの台から煮立った鍋が流しへと持ち込まれ、ザルへとサツマイモがあけられ、流しからは湯気が立ち上っていく。
鈴仙は湯気で耳が湿気ないように布巾で一度頭を覆うと、
「潰して、姫様のバター練りこんで、か」
手順の復唱をすると、中を拭いた鍋へと水気を拭き取ったサツマイモを順に放り込んでいく。
その作業が一通り終わると、鍋の中でサツマイモをすり潰し始める。
とりあえず、三日前に自分の分までおやつを食べた同僚に対してこんちくしょー、という今だ忘れえぬ感情を込めて、これでもかと滑らかにすり潰す作業に没頭する。
それはどこの台でも同じだったのか、先ほどまで賑やかだった厨房も、今は各所から上がるがこんがこん、がつがつと鍋に強くすりこ木がぶつかる音が響くだけになっていた。
だから、その時は講師の声は鈴仙の耳にも聞こえることはなかった。
それは鍋の中でサツマイモと輝夜が暇つぶしに自作したバターが滑らかに練りこまれ、
「サツマイモとバターがしっかりと練りこみ終わったら、そこへ牛乳、砂糖、塩をさらによく練り込んでください」
という指示を実行し終わるまで維持できたが、サツマイモの生地が牛乳とよく混ざり合い、練るごとにぶちゅりと粘った音を上げるようになると再び聞こえるようになっていた。
「それでは、炭の量を減らして火を弱めた七輪に鍋を置いて、生地から水分が飛ぶまで注意しながらさらに練ってください。焦げつかせないよう炭は本当に少しで十分です」
材料を練るだけ練って手が疲れたところへさらに無情な指示が飛ぶ。
その指示に嫌そうな顔色を表したのは鈴仙ぐらいで他の奥様達や夜雀は特に反応もせず、黙々と生地を火にかけて水分を飛ばす作業へと没頭していく。
明日になったら筋肉痛になってたり、と苦笑いを浮かべながら鈴仙はため息一つで七輪から炭を減らして、他の参加者同様、焦げつかせないよう注意深く鍋の生地を木べらでかき混ぜていく。
「――――――――」
木べらでかき混ぜる作業がどれくらい続いたか、少なくとも鈴仙の耳に講師の言葉が二回ほど聞こえたのは間違いなく、そのころになるとどろどろだった生地ももったりと粘りつくような重さを木べらに感じさせるようになっていた。
そのため、サツマイモの生地を練るというよりはひっくり返して鍋に叩きつけるような音が厨房の各所から聞こえるようになり、
「それでは、ほどよく水分も飛んだようですので、火からおろして粗熱を取っていきます。粗熱が取れたら生地に先ほど用意した卵黄とラム酒を加えてさらに練ってください。粗熱を取る際に鍋に残った熱で生地が焦げないように注意してください」
まだ練るのか、と顔を引きつらせながら鈴仙はため息もつけずに次の作業へと取り掛かる。
じゅ、という音を立てて布巾の水気が飛び、鍋の余熱で生地が焦げつかないように注意をし、ほどよく粗熱がとれたところへ卵黄とラム酒を加えて木べらでべたべたと練り混んでいく。
「十分に生地と卵とお酒が混ざったら、生地を芋状に整形してください。竈から出し入れしやすいように天板を利用しますので、この上に上手く並べてください。あまり一個の大きさが大きいと火の通りが悪くなりますので、ほどほどでお願いします」
漸くゴールが見えてきたと、安堵した鈴仙の耳には相変わらず講師の独り言は聞こえ続けていたが、もう鈴仙はそれに構うことなく、言われた通りに生地を天板の上に芋状になるよう整形していった。
それは、あたかもお菓子作りが終わればその声を聞かずに済むのだと急いているかのようだった。
「整形が終わったら生地の表面に艶出しのために、卵黄と水を混ぜたものを塗ってください。塗り終わったら180℃ぐらいの竈でだいたい20分ほど焼きます。その際ですが、生地の表面に塗った卵黄が乾いたのが見えたら一度取り出してまた卵黄を塗ってください。その後、表面に焼き色がついたら完成です」
そして、
「長かったぁ…………」
講師の言葉通り、卵黄を塗り直した生地の表面に焼き色がついた完成品を目の前に鈴仙は感慨深くぽつりと呟いた。
教室のあちらこちらでは、奥様達がそれぞれの出来をスイートポテトを交換しながら確認する作業へと移っていたが、
「失礼」
そこへ響いた白沢の声でピタリと静かになった。
白沢はその反応に少々居心地悪くしながらも、講師へと告げるべきことを告げた。
「博麗の巫女から、遅くなったが儀式をやると連絡がありましたので、急で申し訳ないがこれから神社まで同行願えますか」
「手土産にこれが焼けるまで待って貰えませんか?」
僅かに逡巡した後、講師は自分が作っていたスイートポテトを指差しながら、そう白沢に答えた。
白沢は講師の逡巡に何を感じ取ったか、
「巫女がかかっていた件は完全に終わった訳ではなく、またすぐに出掛けるという話でしたが向こうに着くのが今日中であれば問題ないので待ちましょう」
そんな二人のやり取りに、そうか外の世界に戻るのか、とぼんやりと他人事として聞いていた鈴仙は、そのせいで、
「済まないが、道中付き合ってくれないか?」
という白沢の言葉に無意識に頷いてしまい。
◆
「どうしてこうなったんだろう…………」
鈴仙はろくろく話を聞かずにに頷いたために、里から神社までの道を人一人をぶら下げ大急ぎで飛ぶという一層疲れる仕事をこなす羽目になり、境内でへたり込んでいた。
人気のない夜の博麗神社の境内に、鈴仙の荒い呼吸が響く。
「な、に、が、別件で身動きが取れなくて、だ。あ、の白沢。自分だって……」
息を整えるのに手一杯の鈴仙を他所に、女はお賽銭箱の前で胡座に頬杖という行儀の巫女へと歩み寄ると、
「貴女が楽園の素敵な巫女なのかしら?」
「ええ、そうよ。私が楽園の素敵な巫女の博麗霊夢よ」
「貴女が外に帰してくれるって聞いたけどお願いを聞いて貰えるんでいいのかしら?」
「そうね。待たせて悪かったわ。細かい話は伝言見たから知ってるし、さっさと帰してあげるわ」
「あら、ありがとう。これ、つまらないものだけど」
女が抱えていた籠を霊夢へと差し出す。
それを見て、鈴仙はああさっきのスイートポテトかとぼんやりと反応し、
「あら、本当につまらないものね」
すい、と霊夢が受け取ろうとした籠を横から取り上げる腕があった。
肘まで覆う手袋をしたその腕を、親の仇のごとく睨みつけるようにした霊夢が、
「紫、なんの用よ?」
うんざりという声色で、腕の主である八雲紫へと尋ねる。
紫と呼ばれた妖怪は空中に腰掛けるようにし逆の手には夜にも関わらず日傘という姿のまま、
「別に、これが美味しそうだから横取りしたというわけではありませんわ」
「あら、とてもそうは見えないけど?」
「ええ、そう見えなくてもそうなんですわ。美味しそうだから横取りしたのではなく、仕事の報酬だから受け取っただけですわ」
彼女特有の、もってまわったくどい言い回しで霊夢の問いに答えていく。
その受け答えに霊夢はウンザリとした表情を浮かべ、いつのまにか手にしていたお祓い棒をくるりと一回転させて紫へと構える。
弛緩していたハズの夜の境内に、冬以上のピリピリとした冷たい空気が漂い始めていた。
「仕事の報酬だから受け取る、って別に仕事を頼まれたのはアンタじゃないでしょ」
「あら? 修行不足のお気楽な巫女がこれ以上仕事を抱えて過労死しないようにと計らうだけですわ」
「修行不足って、あれはあんた等の案内が下手くそだから魔理沙に先を越されただけでしょ!」
「右と言って右に飛べない巫女が何を」
「主語抜きで相手の右手側に飛ぶとか無理に決まってるでしょ?!」
ピリピリとした空気が霊夢のカリカリとした反応とあいまって、鈴仙がそろそろ帰ったほうがいいかも、と腰が引け出したところへ、
「どっちでも帰れればそれでいいんだけどれど」
女のやんわりとした、しかしハッキリとした言葉が霊夢の頭を無理矢理に冷やした。
霊夢は女の言った言葉を吟味し、
「あんた、こんな胡散臭い妖怪でもいいなんて、長生きできるような思考じゃないわよ」
呆れてみせた霊夢の言葉に、しかし女は苦笑するだけで済ませる。
それを見て、
「お客様の御所望は、元居た場所に戻ること、ですわね? 霊夢にそれが出来たかしら?」
「ああ、はいはい。だったら紫がやればいいでしょ。どうせ私にできるのは外の博麗神社に出すことだけですよ」
悠然と笑う紫に、苦りきった表情を浮かべた霊夢は、これ以上喋るのは面倒臭いと手を振る。
「そんなに言うんだったらさっさと送り出したら?」
まるでハエ追い払うような仕草に、紫は苦笑を色濃くするだけにとどめると、自分の真横に傘を振り下ろした。
ずるん、という音が聞こえそうな光景、紫が傘を振り下ろし始めたところを始点に振り下ろしきったところを終点として空間が左右に広がっていく。
リボンで結び止められた始点と終点の間から歪んだ空間がどめどなく溢れ出る、そんな言葉を選ばせるような光景が広がっていく。
が、女はそんないびつな光景に構うことなくその隙間へと歩み寄り、確認を取るように紫へと視線を投げ、
「こちらから貴女が望む元の場所へと帰ることが出来ますわ」
「あ、そう」
「ええ。どうごご健勝に」
紫の別れの言葉に、女は口の端を釣り上げるだけで答えとすると、そのまま何も言わずに隙間の向こうへと姿を消してしまい、僅かに香るスイートポテトだけが幻想郷に女がいたことを残すだけとなった。
霊夢は、境内に開いた隙間を紫が閉じたのを見届けた時点で「明日、守矢のところに行くから今日はさっさと寝るわ」と、だけ告げると阿呆らしいとボヤいて神社の中に引っ込んだ。
そんな霊夢の背中へ、鈴仙にしか聞こえないような声で紫が独り言を零した。
「死ぬ寸前の人間が作ったものを食べるなんて、黄泉の食べ物を食べるようなもので縁起がよろしくありませんからね」
そして後には、あれよあれよと事が終わっていくのを眺めるだけの鈴仙と相も変わらず胡散臭い笑みを浮かべたままの紫が残るだけとなっていた。
「あ、あのー、もう帰っていいですよね?」
このまわりくどいことこの上ないこの妖怪が自分と一緒に残っている時点でただでは帰れない、オマケにさっきの独り言はワザと聞こえるように言ったと直感が告げる中、あえて鈴仙はそう聞いた。
が、答えは鈴仙の予想通りでしかなかった。
「どうせ里までお帰りでしょう? 折角ですし、お話でもしませんこと?」
その笑顔は実に恐ろしいものだった。
◆
――結局、あの隙間妖怪から聞かされた内容は碌でもなかった。
――あの隙間から繋がっている先は、崖の斜面だったこと。
――隙間から出た後は、彼女は死ぬしかないこと。
――そもそも、彼女は誰かに突き落とされたところをたまたま幻想郷へと辿り着いたにすぎないということを聞かされた。
――碌でもないことの極めつけは、どうして逃げなかったのかしらね? と妖然とこちらへと笑ってみせたのがそれだったろう。
――アレが私の過去をどこまで把握しているのか知らないし知りたくも無いが、少なくともあの隙間妖怪は本気で彼女があの隙間から外へと行ったことが不思議でならないようだった。
――それは、立ち向かい続ける強い妖怪だから、だろう。
――理解できなくて当然だ。
――私にはそれが私とは別種の逃げだったのだろうと、理解できていた。
――私は死なない環境へと逃げたのだとすれば、彼女は立ち向かわずにすむ環境へと逃げたのだ。
――死にさえすれば、立ち向かわずに済むのだから。
◆
ぼんやりと天井を見上げて考え込んでいる鈴仙の前では、永遠亭の面々が鈴仙が持ち帰ったスイートポテトを食しては賞賛していた。
「ただの芋がこれほど美味しくなるなんてね」
「そうね輝夜。気持ちを込めることで一層美味しくなる、というけれど、これは中々……」
「あら、永琳ったら、褒めるときは褒めないと、思いやりとか優しさに欠けるわよ」
「それだったら、輝夜は鈴仙の分を残さないとダメなんじゃないかしら?」
自分の分、という言葉に鈴仙が反応する。
「あ、あの姫様。私は作ってる時に試食してますので……」
「あら、やっぱり鈴仙も美味しいものには目がないわね」
くふふ、と笑う輝夜に、ええまあ、と愛想笑いを浮かべると、ちょっと作るので疲れたのでと先に部屋へと下がることを告げ、鈴仙は輝夜と永琳のスイートポテトへの賞賛の声が聞こえる一室から逃げ出す。
しばらく、スイートポテトは食べたくないと思い出しながら。
鈴仙の舌と脳裏に残るのは、甘く甘くそしてどこまでも苦い味だった。
◆
――姫様達が食べるスイートポテト。
――幻想郷の外へと死ぬためだけに戻った彼女がどんな気持ちを込めたのか、それを知っているのは私しかいない。
――どんな波長でも捉えるこの耳を持った私しか、聞こえなかったあの言葉。
「豚は死ねばいいのに」
お話としては成立しているし、作者さんの書きたかったであろうことは分かるつもりですが、なぜ彼女がそう思ったのか、紫はなぜ鈴仙にあえて伝えてきたのかに疑問が残りました。
抽象的な感想で申し訳ありません。
うどんげの過去と「逃げ」を題材にしたお話は二次創作にはよく見られるのですが、文章の骨太さ、描写の丁寧さなどでひときわ異彩を放っており、読み応えがありました。
あえて欠点をあげるなら、前半の脱線部分が少々いらいらするほど長いこと、結末が受け手に任せると言えば良いですが、丸投げともとれること、でしょうか。
何度も読み返したくなる作品ですな。
外からの迷い人は、何を思って殺されそうになったのか、何を思って幻想郷で生きていたのか、何を思ってスイートポテトを教えたのか、そして、何を思って自殺したのか。
色々、想像してみましたがピンと来ませんでした。
独り言の「豚は死ねばいいのに」も恨みでも侮蔑でも、諦めでもなく、苛立ちとしてしか、自分には読み取れなかった。
とするならば、迷い人は、無明のなかで、苛立ちながら歩み続け、そして見えないままに、崖から落ちた。
ただ、それだけの物語だったのかもしれません。それは、鈴仙の生き様とは決して交わらない物語のようにも思えます。
逃げて逃げて自分以外の全てを拒絶して。
その抜け殻の、呪文の如くひたすら繰り返し続ける怨嗟に聞こえました。
という妄想。
劣等感強い人って生きるのが大変なんです…
最後の会話の気持ちを込めて、という下りが特に印象的でした。