「師匠、入ります」
午前中だというのに、外は大分熱気を帯びてきている。夏が近い。されどもこの部屋、いや屋敷か。夏場でここほど快適な場はあまりないだろう。春の生気に刺激され、竹どもは彼女らの苦労も知らずにスクスクヌクヌクスクヌクと伸びては茂り、既に新しい竹の子大家族が顔を見せ始めている。おかげさまで太陽の日差しがシャットアウトされるのはありがたいが、適度に刈り取らないと屋敷の床すら貫きかねない。明日あたり床下を点検したほうが良いだろう。
「どうしたの? うどんげ」
「ちょっと客人が……またスルメですか師匠」
そんな奥床しき和の空気が漂う屋敷にある一室。その部屋には、その空気に似合わぬ試験管やらビーカーやらスポイトやらフラスコやらるつぼやらが並んでいた。床には無数のノートや紙切れ、シャーレなどが散乱し、足の踏み場も無い。
そんな部屋のど真ん中で一人黙々とプレパラートと睨めっこをしている医者が一人、口からゲソ足を食み出させながら振り向いたのを見て、弟子の兎は苦笑した。
「スルメを笑う者はスルメに泣くわようどんげ。いい? スルメにはコレステロールを下げるタウリンが大量に含まれていて、アセチルコリンは神経を休める働きを持っているからデスクワークには最適なのよ、それに」
「その話なら前も――」
「エイコサペンタエン酸やドコサヘキサエン酸は肝機能を強くする働きがある。古くから酒の肴にスルメが使われるのは、昔の人達がこれを知っていたからなのよ、あと」
「あの、師匠」
「何よりも脳の栄養素として欠かせないナイアシンが含まれているのは大きいわ。それらを咀嚼することにより唾液の分泌を促し、消化酵素も増えて体内はより活性化し――」
「師匠!」
「……何よ?」
「その話は前も聞きましたってば」
「あら、そうだったかしら?」
どうもこの師匠は一度うんちくが始まると止まらない。むぐむぐと未だに口を動かしている彼女の師、八意永琳の悪い癖である。
「そもそも噛むのはいいですが噛みすぎですよ、どんだけ噛んでるんですか」
「かれこれ一時間と三十七分ね」
「もう味が無いんじゃないですか? それ」
「ぎゅっと強く噛めば案外染み出てくるものよ?」
机の上に置かれた皿には、割かれたスルメがまだ七、八本は残っている。夕方までスルメだけで生活するつもりなのだろうか? 鈴仙は毎度、常人には理解しがたい師の趣意に振り回されていた。
「噛み過ぎると歯が擦り切れますよ?」
「あら生意気な。ところで、客がどうだの言ってなかった?」
「おっと、そうでした」
そそくさ部屋から立ち去り数秒後、鈴仙が引き連れて来たのは、青い髪、青い服の、鈴仙の背丈の半分程度しかない小さな客だった。
「あら妖精。羽からして氷の類ね」
「あら、あんたあたいのこと知ってるのね」
「部屋の空気が下がったからね」
「あたいはチルノ! あんたが兎の先生ね?」
一妖精にとっては自分がその場で注目されることだけでも楽しい事らしい。チルノはどうだとばかりに意味もなく胸を張る。
「私は八意永琳。兎の先生って言うのはちょっと語弊があるわね。で、うどんげ、何で妖精がこんな場所に――」
目を配らせた時には、鈴仙はその場から姿を消していた。あの生真面目兎にしては珍しい事だ。何かあるな。永琳はそう予感しながらも、ふむと顎を撫でるに留めた。何にせよたかだか妖精一匹だ。何より彼女が師である自分を裏切るような行為に及ぶことは、たとえこの竹林が枯れ果てても有り得ない。
「ところで、貴女はどうしてここへ?」
永琳はチルノに問いかける。この妖精の性格や種族からして、この土地は彼女が住むに適した場所ではない。永琳はそれを見抜いている。竹の棲家には、他の植物はあまり多く生えない。陽が当たらないからだ。お祭りごとや遊びが大好きな妖精が、こんな静かな場所を好むはずが無いのだ。
「目隠し鬼してたら迷って、兎に捕まった」
鬼が捕まってりゃ世話無い。
「で、兎からあんたのこと聞かせてもらって……あ、そーだ! あんた最強のお医者さんなんでしょ!?」
次から次へと頭に浮かんだワードがペラペラと口から飛んでくる。こういう場合は一通り終わるまで黙って聞くのが一番いい。頭の中で整理して、言葉を形にする前に発してしまう妖精の話は、会話の中身を形成するまで時間が掛かるからだ。
「兎が言ってたよ! あんた強くなる薬作れるんでしょ?」
「あら、強さがお望み?」
「いらない! あたいは既に強いんだ!」
話が噛み合わない。ふんすと鼻息を吐き出し自慢げな顔を見せるこの妖精が自分に何らかの興味を持っているのは間違いない。しかし当の本人は当初の目的を半分忘れてしまっているらしい。
「そんじょそこらの妖精より、あたいは全然強いんだから! なんたって、あたいは何でも凍らせることが出来るんだから!」
会話がただの自慢話に発展してしまった。しかし永琳は困った反面、このチルノと名乗る妖精にほんの少し興味を抱き始めていた。
(なるほど、妖精にしては確かに随分と出過ぎた力を持ってるみたいね)
奥歯でナイアシンを押し出しながら、永琳は霜が付き始めている試験管に目をやる。
「ねーねー話聞いてるの? ヤゴリン!」
「永琳よ」
永琳は予測する。彼女は妖精という種族の中では突然変異の部類に近い。病の治療等とは到底関係のない対象であるが、ただ単純に、生物として少し外れたこの妖精を、永琳は少しばかり研究してみようと思った。
「チルノ、貴女は普段何を凍らせているのかしら?」
「んーとね、蛙とか、虫とか、たまに人間も!」
「どうやって凍らせているの?」
「んぇ?」
どうやって。その問いに、チルノはぴたりと動きを止める。
「どーやってって、凍るものは凍るよ?」
何とも答えにならない答えであるが、永琳には特に問題とならない回答だ。妖精は総じて頭が悪い。これは生物として与えられた「仕様」だからだ。
「それじゃあ試しに、これを凍らせてみてくれるかしら?」
そう言って永琳は皿の上のスルメを一本取ると、それをチルノに手渡した。するとどうだろう。チルノの手に触れた瞬間、スルメは一瞬で凍りついたのだ。
「だから凍るものは凍るんだってば」
「……」
さも当たり前のようにチルノは言う。冷気の妖精が物を凍らすのは当然の事だろう。しかし永琳にとっては、この現象は考察するに足るものだった。
「なるほど、貴女からは常に冷気が漏れているのね。だから何も考えなくてもスルメが凍った」
「スルメ?」
「貴女の手に持ってるものよ」
「キンキンに冷えてやがる!」
「貴女が凍らせたからね」
自分で凍らせて自分で驚いているんだから面白いものだ。永琳は口の中でガムの塊のようになったスルメを飲み込み、二本目を口に咥えた。
「ん? これ食べれるの?」
永琳が口に運ぶのを見て、チルノはスルメが食べ物だと初めて知ったらしい。そりゃそうだ。烏賊は海生軟体生物。本来幻想郷には存在しない生物。それを人里がどう調達しているかは、謎である。まあ大体察しは付くが。
「欲しかったらあげるわ」
「ほんとに!?」
「口に合う保障は無いけど」
ゲソ足一本で顔を輝かせるあたりは、やはり幼い妖精だ。あんぐりと口を開け、チルノはスルメを頬張り、そして難しい顔をした。
「んー……んん? すっごく硬いよこれ」
「スルメはよく噛むものよ。噛めば噛むほど味が出るから、すぐに飲み込んじゃ駄目なの。それに噛めば噛むほど頭が良くなるわよ?」
「ふーん……なんか面白い味ね!」
「面白い……言い得て妙ね」
美味い、不味いではなく、食べ物の味を面白いと表現する。天才と呼ばれた永琳をもってしても、この天真爛漫な妖精の思考を読み取るのは少し難があるようだ。
「……」
一方、永琳の部屋の入り口に立ったまま、耳を欹てている兎が一羽。
「鈴仙?」
「うひっ」
気付かぬうちに背後を許してしまい、鈴仙は思わず飛び上がり振返る。そこにいたのは彼女のよく知る、彼女より小さな兎だった。
「な、なんだてゐか。驚かさないでよ」
「あんたが勝手に驚いてただけでしょうに。そんなとこで何やってるわけ?」
てゐは特に企みがあって鈴仙に近付いた訳ではない。ただ単に通り掛かっただけだ。通り掛かった先に何やら楽しそうな気配を漏らしている鈴仙を見かけたので、彼女は声を掛けたのだった。
「……実験よ」
「実験?」
「うん、天才と馬鹿が会話したらどうなるのかの実験」
「……は?」
何を言っているのか理解出来ず、失敗した料理でも口にしたような顔をするてゐに、鈴仙は事の経緯を話した。
「……というわけよ」
「へえ、鈴仙にしちゃ思い切ったことするね。やるじゃん」
「それ、褒めてるの?」
鈴仙がチルノに遭遇したのは偶然だった。目隠しをしたまま竹にぶつかってばかりのチルノをたまたま見かけ、不審に思った鈴仙が彼女に声をかけたのがきっかけである。
「……あなた何してるの?」
「んぉ? ようやく見つけたぞ! 捕まえておぼふっ!」
と、こんな具合に竹に頭をぶつけてすっ転ぶ妖精があまりにも不憫だったので、目を回したチルノの目隠しを外してやったのが事の始まりである。
「んぁ! ちょっと! 目隠し取ったら目隠し鬼じゃないじゃないってどこよ此処!?」
「……よくもまあ目隠し状態でここまで辿り着いたものね」
自分が迷子になっていたことすら気付かなかったこのお転婆妖精には呆れるしかない。とはいえ、一応竹にぶつかったのだ。怪我してないかくらいは見てやったほうがいい。
「大して強く打ってないみたいね。これくらいなら師匠に診せなくてもいいか」
「ん? 師匠? 料理でもするの?」
「……胡椒じゃないわよ多分。そのボケ分かり辛いわ。私の先生みたいなものよ」
「ふーん、そいつって頭いいの?」
額を赤くした妖精は、どうやら永琳に興味を持ったらしい。
「師匠に敵う頭脳の持ち主なんてそうそう居ないんじゃない?」
「よし! あたいあんたの先生に会いに行くわ!」
「へ?」
「ねーねーいいでしょ? あんたの先生に会わせてよ!」
「えー……」
鈴仙は迷った。頭の悪い妖精の話だ、どうせ永琳の得するような事は無いだろう。
とっとと追い返した方がいい。そう思った。
(頭の悪い妖精と師匠が会っても……)
その時、ふと鈴仙の頭に一つの疑問が生まれた。
(そういえば師匠って……あんまり積極的に話とかしないわね)
医者としての職務的な会話や、永遠亭の取り纏め役として説教をする以外の永琳を、鈴仙はあまり知らない。ましてや頭の悪い相手と永琳が会話している所など、見たことが無かった。
(もしこいつと師匠が出会ったら、どうなるんだろう?)
他愛も無い疑問だった。だがその時生まれた一つの疑問が、普段生真面目に過ごしている自身の内に埋もれた小さな悪戯心をくすぐった。しかしそんな事で師匠の手を煩わせたら、後でお咎めを受けるのは間違いなく自分自身である。
「兎ぃー! 会ーわーせーてーよぉー!」
さてどうしようと隙を見せたのがまずかった。痺れを切らしたチルノが鈴仙のスカートを鷲掴みしたのである。
「うわあぁ!? わ、分かった! 分かったからスカート引っ張らないで! 伸びる! スカート伸びちゃうってか脱げちゃうから!」
「……で、連れて来たはいいけどそれ以降のプランが無いから盗み聞きと」
「う、うるさいわね……」
図星を突かれ、鈴仙は苦い顔をする。そう、結局惰性のままに連れて来てしまったのだ。だから今、鈴仙はこうして開き直って自分の悪戯心を満たしていた。
「でもまあ、結構いい薬になるんじゃないの?」
「いい薬?」
「永琳にとっては、こういう息抜きも必要なんじゃないってこと」
てゐはにひひと笑いながら、部屋の戸に耳を近付けた。どうやら彼女も盗み聞きに参加するつもりらしい。
「いい薬って、どういう意味――」
「あー!!」
「!?」
急に部屋の中から大きな声が聞こえたので、二人は飛び上がった。まさか気付かれたか、と思ったが、すぐに違うと判断した。その声はチルノの声だったからだ。
「そうだ思い出したわ! あたいエリチンに聞きたいことあったのよ!」
「永琳よ」
物覚えの悪い妖精だ。しかし何とかこの妖精は自分の目的を思い出すことが出来たらしい。流石はスルメ、素晴らしきかな、ナイアシン。
「ヤリチンは頭が――」
「永琳。いい? え・い・り・ん。E・I・R・I・N、エイリン。何度も言うけど永琳よ、永琳。八意永琳。私は永琳。いい? 永琳なのよ分かる? 上から読んでも下から読んでも永琳。え・い・り・ん」
「……永琳」
「よし」
少々強引だが、無理矢理刷り込めば覚えてくれるようだ。いつまで持続するかは分からないが。
「永琳は頭がいいんでしょ? あたいね、凍らせたいものがあるけど見えないから困ってるの」
「見えないもの?」
中々面白い発想をする妖精だ。大抵の妖精は目に見えるもの以外に興味を持つことは無い。そんな凝った考えするだけ無駄だからだ。現に彼女はそんな凝った考えを持ったが故に、目的を忘れてしまっていたのだから。
「うん! あたいは何でも凍らせられるけど、見えなきゃ凍らせられないでしょ?」
(目に見えないもの……空気でも凍らせたいのかしら?)
夏が近い。彼女にとってはきっと酷な季節が近付いている。なるほど夏の熱気を凍らすことが出来れば、さぞかし気持ちのいい話だろう。
「中々研究熱心な妖精ね」
結果を生み出す過程を作ることを彼女に求めるのは酷なことなのだろうが、疑問に感じるというのはいいことだ。
「一般的に、二酸化炭素を凍らせるならば、マイナス78.5度、酸素ならマイナス218.79度、窒素ならマイナス209.86、水素となるとマイナス259.125度まで冷やす必要があるわね」
「……んぁ?」
「……難しすぎたわね。私が悪かったわ」
くっちゃくっちゃとスルメを噛みながら呆然としているチルノ相手では、永琳の説明は意味を成すことは無いだろう。馬鹿の相手はやりにくい。永琳はつくづくそう思った。
「えーっと、要するに空気を凍らせるには、水を凍らせるよりももっと冷たくしなきゃいけないのよ」
「……空気?」
比較的分かりやすく説明したつもりだったが、チルノは今ひとつの反応を見せる。
「……えーとね、空気っていうのは」
「いや、違うよ永琳」
「違う?」
「あたいが凍らせたいのは空気じゃないよ!」
自分の伝えたいことが伝わらなかったせいか、チルノはむすっとした顔で不機嫌の相を見せる。
「でも、目に見えないものなんでしょう? 空気以外に、何かあるの?」
永琳は戸惑った。一体彼女は何を凍らせたいというのだろう? 医学的な事ならどんな疑問も速やかに解決出来る永琳にとって、チルノの思考とその疑問を解明する作業は、苛立つほど困難なものだった。思わず口の中にもう一本スルメを追加し、永琳は質問した。
「あるよ! えーっとね、見えないんだけど、ずーっと動いてて、触れないけどどこにでもあって……えーとなんて言ったかなあ……」
(目に見えないけど動いてる……?)
ちんぷんかんぷん極まれり。目に見えない物の動きを、一体彼女はどうやってその目で見ているというのだろう? 空気ならば、見えずとも肌の感触で動いてると分かる。しかし彼女の求めているものはそれではない。
(……困った)
うーんと唸りながら頭を抱えているチルノ同様、永琳もスルメを三本に増やして悩みに悩んでいた。噛めば噛むほど味が出る。されど答えは漏れ出さない。
頭の悪い妖精と稀代の天才が、滑稽な事に共に頭を悩ましていた。
「とりあえずその何かの名前だけでも分からないの?」
「えーとねえ……今もあるんだよ! ここにもあるんだけど……」
「……貴女の質問を待つ身にもなって欲しいわ」
質問にすら辿り着けない。こんなふざけた問題用紙があるだろうか? あまりに途方も無い問答に、流石に永琳もはあ、と溜息を吐いた。
「あー! そう、それよ!」
「え?」
しかしチルノは思い出したように声を上げた。一体今の言葉に何の意味があったのだろうか? 妖精に振り回される月の頭脳は、普段丸くする事の無い目を丸くしてチルノを見た。
「待つの! 待ってる間もずっとあるのよ! あ、そうだ! 「間」もそれよね!」
「待つ……? 間……?」
チルノは一人勝手に興奮している。それらが何かしらの質問に辿り着くキーワードになっているのは間違い無い。永琳は今一度それらを整理することにした。
「目に見えず、触れる事も出来ないけど存在して、待っている間も動き続け、存在しているもの……間もそれ、いや間自体がそれ……あっ」
永琳の頭脳はスルメを三本も消費して、ようやく一つの答え、いや、答えらしきものに辿り着いた。
(いや、でも、もし本当にそうなら……)
それはあまりにもありふれていて、生物だけでなく、あらゆる環境、空間さえもその連結を切り離す事が出来ない要素。彼女が「凍らせ」ようとしている「それ」は、あまりにも妖精一人が成すには大それた悩みだった。
「貴女……もしかして」
それがあまりに身近過ぎて、永琳はそれに中々辿り着く事が出来なかったのだ。そしてそんな自分の視界に気付く事が出来なかったものを凍らそうとした妖精、チルノのあまりに純粋で、単純な野望に、永琳はショックを隠し切れなかった。高く積み上げられすぎた灯台は、足元が見えなかったのだ。何故か自身の脳が、単純妖精の思考に敗北したような気がして、永琳は初めて、知というジャンルにおいて挫折を味わった。
「……時間を凍らせたいの?」
「そう! それそれ!」
頭の靄が晴れ、チルノは歓喜した様子で声を張り上げた。
「やれやれね……」
永琳は呆れ果てた。目の前で勝手に喜んでいる妖精にではない。自分自身にだ。
元より相手は妖精、最初から医学などといった難解要素に彼女が食い付いてくる訳が無かったのだ。それなのに、永琳は丁寧に医学者としてチルノに対応しようとしていたのだ。馬鹿真面目にも程がある。自分が馬鹿だと思ったのは初めてだった。
「時間を凍らせたいのよ! 永琳は頭がいいから分かるでしょ?」
無理難題だった。如何なる天才でも、可能と不可能くらいは弁えているつもりだ。命の時間に逆らう事が永琳に出来る精一杯だが、チルノはそんな事は望んでいないだろう。
「時間には温度が無いの。暖かくもないし、冷たくも無い。だから凍らせる事は出来ないのよ」
永琳は、足りない脳を回してそう説明した。この妖精が何とか理解出来る説明、それを言葉に紡ぐ事の何とも難しいことか。
それでも出来ないと言う事を理解してもらえたのか、チルノは残念そうに肩を落とした。
「えー……じゃあ太陽も止まらないんだ」
「太陽?」
「そうよ! すっごい綺麗なんだから!」
どうやら彼女が本当に凍らせたいのは太陽の動きのようだ。ならば尚更冷気の妖精には荷が重い。
「太陽が沈む時ね、湖に映るんだ。それがすっごい綺麗なのよ!」
「……」
やれやれ、なんと言う事か。会った時に自分の強さ自慢をしていたこの妖精が望んだ事は、綺麗な夕日をずっと眺めていたいという、なんとも幼稚で無邪気な願いだったのだ。
「……ふふっ」
「あ! 何よ! そんなに変!?」
だから、永琳は笑った。思わず笑ってしまった。自分はなんて馬鹿なのだろう。ちょっと暇つぶしに頭の悪い妖精を弄るつもりが、結局弄られ倒される結果に終わったのだから。
「貴女がそんなに好きな景色なら、きっととても綺麗なんでしょうね」
「もっちろん! あそこ以上に綺麗な場所なんてないさ!」
「そんなに綺麗なら、天狗にでも頼んでみたら? 写真くらいなら、形に残せるわよ?」
「あ、そっか! 写真ならいつでも太陽が見られるもんね! やっぱり先生は頭いいわ!」
簡単な解決方法も見つけられない単純な妖精は、実に単純にパッと表情を明るくした。怒ったり悩んだり笑ったり、コロコロと表情が変わる子だ。
(……そういえば、私さっき笑ったのよね)
肺から空気が押し上げられ、自然に声が押し出されて笑ってしまったのはいつぶりだっただろうか? 永琳は自分の頬に触れた。この表情筋を感触を、ここ最近の自分は忘れていたのかもしれない。
「そうだ! 今度永琳も見に来ればいいよ。本当にすっごく綺麗なんだから!」
「そうね、暇が出来たら是非見させてもらうわ」
永琳は、表情を和らげてそう答えた。それは意識から生まれた表情か、それとも無意識か、それは永琳自身にも分からなかった。
「過去は無限にやってくるわ」
あの姫は、以前そんな事を言っていた。
「だから、今を楽しまなければ意味が無いじゃない」
(私は、今を楽しんでいただろうか?)
もしかしたら自らが意識しないうちに、自分は罪の意識に絡まれていたのかもしれない。誰よりも早く回転すると思っていた自分の脳は、もしかしたら凍りついていたのかもしれない。
「よーし、それじゃあ早速天狗に相談ね!」
考えることを意識しない妖精は意気揚々と肩を回す。
「待ちなさい。あなただけじゃまた迷子になっちゃうから、案内をつけてあげるわ」
この妖精の事だ。この竹林を一人で抜けようものならば、太陽に置いてけぼりを食らってしまうだろう。
「うどんげ、てゐ、いるんでしょう?」
「は、はい!?」
「ばれてた!?」
突然に呼ばれ、二羽の兎は飛び上がった。こうなっては逃げようが無い。二羽は硬い表情で部屋に入ってきた。
「うどんげ、彼女を案内してあげなさい」
「は、はい……そ、それじゃあチルノ、行くわよ?」
「うん、またね永琳! 絶対太陽見に来てよね?」
「ええ、必ず行くわ」
恐らく咎めを受けるであろう。半泣き状態の鈴仙は、手を振るチルノを連れて、永遠亭から飛び立ったのだった。残されたのはてゐ。
「えーと……よ、妖精はどうでしたかねえ……?」
笑顔をひくつかせながら聞いてみる。勿論こんな事を聞いたところで、永琳から逃れることは出来ないだろう。今のてゐを例えるならば、鮫の背に立つ白兎だ。
「そうね……馬鹿でかいクレーターの上に立たされた気分だったわ」
「ふえ?」
予想に反して、永琳に怒りの表情は見えない、元よりあまり感情を表に出さない彼女だが、てゐの目には、その表情はどこかすっきりとしたように見えた。
「あんまり窪みが大きすぎて、そこがクレーターだって意識出来ないってこと」
「それって……あいつが大物ってこと?」
「宛ら私は穴あきチーズってとこかしら」
「は?」
「穴だらけってことよ」
「はあ……?」
天才の言葉は分からない。てゐは生焼けの魚を食わせられたような顔で首を傾げた。
「まあ、私はチーズよりスルメのほうが……あら?」
永琳は気付いた。自分はいつの間にか、スルメを飲み込んでしまっていたのだ。
「……ふふっ」
「うげげ」
急にどこも見ずに永琳が笑ったので、てゐは思わず後ずさりした。妖精が飛んでいった先に、太陽が昇っていた。その太陽を見つめ、永琳は自然と頬を緩めた。
「たまには柔らかいものでも食べましょうか」
~完~
午前中だというのに、外は大分熱気を帯びてきている。夏が近い。されどもこの部屋、いや屋敷か。夏場でここほど快適な場はあまりないだろう。春の生気に刺激され、竹どもは彼女らの苦労も知らずにスクスクヌクヌクスクヌクと伸びては茂り、既に新しい竹の子大家族が顔を見せ始めている。おかげさまで太陽の日差しがシャットアウトされるのはありがたいが、適度に刈り取らないと屋敷の床すら貫きかねない。明日あたり床下を点検したほうが良いだろう。
「どうしたの? うどんげ」
「ちょっと客人が……またスルメですか師匠」
そんな奥床しき和の空気が漂う屋敷にある一室。その部屋には、その空気に似合わぬ試験管やらビーカーやらスポイトやらフラスコやらるつぼやらが並んでいた。床には無数のノートや紙切れ、シャーレなどが散乱し、足の踏み場も無い。
そんな部屋のど真ん中で一人黙々とプレパラートと睨めっこをしている医者が一人、口からゲソ足を食み出させながら振り向いたのを見て、弟子の兎は苦笑した。
「スルメを笑う者はスルメに泣くわようどんげ。いい? スルメにはコレステロールを下げるタウリンが大量に含まれていて、アセチルコリンは神経を休める働きを持っているからデスクワークには最適なのよ、それに」
「その話なら前も――」
「エイコサペンタエン酸やドコサヘキサエン酸は肝機能を強くする働きがある。古くから酒の肴にスルメが使われるのは、昔の人達がこれを知っていたからなのよ、あと」
「あの、師匠」
「何よりも脳の栄養素として欠かせないナイアシンが含まれているのは大きいわ。それらを咀嚼することにより唾液の分泌を促し、消化酵素も増えて体内はより活性化し――」
「師匠!」
「……何よ?」
「その話は前も聞きましたってば」
「あら、そうだったかしら?」
どうもこの師匠は一度うんちくが始まると止まらない。むぐむぐと未だに口を動かしている彼女の師、八意永琳の悪い癖である。
「そもそも噛むのはいいですが噛みすぎですよ、どんだけ噛んでるんですか」
「かれこれ一時間と三十七分ね」
「もう味が無いんじゃないですか? それ」
「ぎゅっと強く噛めば案外染み出てくるものよ?」
机の上に置かれた皿には、割かれたスルメがまだ七、八本は残っている。夕方までスルメだけで生活するつもりなのだろうか? 鈴仙は毎度、常人には理解しがたい師の趣意に振り回されていた。
「噛み過ぎると歯が擦り切れますよ?」
「あら生意気な。ところで、客がどうだの言ってなかった?」
「おっと、そうでした」
そそくさ部屋から立ち去り数秒後、鈴仙が引き連れて来たのは、青い髪、青い服の、鈴仙の背丈の半分程度しかない小さな客だった。
「あら妖精。羽からして氷の類ね」
「あら、あんたあたいのこと知ってるのね」
「部屋の空気が下がったからね」
「あたいはチルノ! あんたが兎の先生ね?」
一妖精にとっては自分がその場で注目されることだけでも楽しい事らしい。チルノはどうだとばかりに意味もなく胸を張る。
「私は八意永琳。兎の先生って言うのはちょっと語弊があるわね。で、うどんげ、何で妖精がこんな場所に――」
目を配らせた時には、鈴仙はその場から姿を消していた。あの生真面目兎にしては珍しい事だ。何かあるな。永琳はそう予感しながらも、ふむと顎を撫でるに留めた。何にせよたかだか妖精一匹だ。何より彼女が師である自分を裏切るような行為に及ぶことは、たとえこの竹林が枯れ果てても有り得ない。
「ところで、貴女はどうしてここへ?」
永琳はチルノに問いかける。この妖精の性格や種族からして、この土地は彼女が住むに適した場所ではない。永琳はそれを見抜いている。竹の棲家には、他の植物はあまり多く生えない。陽が当たらないからだ。お祭りごとや遊びが大好きな妖精が、こんな静かな場所を好むはずが無いのだ。
「目隠し鬼してたら迷って、兎に捕まった」
鬼が捕まってりゃ世話無い。
「で、兎からあんたのこと聞かせてもらって……あ、そーだ! あんた最強のお医者さんなんでしょ!?」
次から次へと頭に浮かんだワードがペラペラと口から飛んでくる。こういう場合は一通り終わるまで黙って聞くのが一番いい。頭の中で整理して、言葉を形にする前に発してしまう妖精の話は、会話の中身を形成するまで時間が掛かるからだ。
「兎が言ってたよ! あんた強くなる薬作れるんでしょ?」
「あら、強さがお望み?」
「いらない! あたいは既に強いんだ!」
話が噛み合わない。ふんすと鼻息を吐き出し自慢げな顔を見せるこの妖精が自分に何らかの興味を持っているのは間違いない。しかし当の本人は当初の目的を半分忘れてしまっているらしい。
「そんじょそこらの妖精より、あたいは全然強いんだから! なんたって、あたいは何でも凍らせることが出来るんだから!」
会話がただの自慢話に発展してしまった。しかし永琳は困った反面、このチルノと名乗る妖精にほんの少し興味を抱き始めていた。
(なるほど、妖精にしては確かに随分と出過ぎた力を持ってるみたいね)
奥歯でナイアシンを押し出しながら、永琳は霜が付き始めている試験管に目をやる。
「ねーねー話聞いてるの? ヤゴリン!」
「永琳よ」
永琳は予測する。彼女は妖精という種族の中では突然変異の部類に近い。病の治療等とは到底関係のない対象であるが、ただ単純に、生物として少し外れたこの妖精を、永琳は少しばかり研究してみようと思った。
「チルノ、貴女は普段何を凍らせているのかしら?」
「んーとね、蛙とか、虫とか、たまに人間も!」
「どうやって凍らせているの?」
「んぇ?」
どうやって。その問いに、チルノはぴたりと動きを止める。
「どーやってって、凍るものは凍るよ?」
何とも答えにならない答えであるが、永琳には特に問題とならない回答だ。妖精は総じて頭が悪い。これは生物として与えられた「仕様」だからだ。
「それじゃあ試しに、これを凍らせてみてくれるかしら?」
そう言って永琳は皿の上のスルメを一本取ると、それをチルノに手渡した。するとどうだろう。チルノの手に触れた瞬間、スルメは一瞬で凍りついたのだ。
「だから凍るものは凍るんだってば」
「……」
さも当たり前のようにチルノは言う。冷気の妖精が物を凍らすのは当然の事だろう。しかし永琳にとっては、この現象は考察するに足るものだった。
「なるほど、貴女からは常に冷気が漏れているのね。だから何も考えなくてもスルメが凍った」
「スルメ?」
「貴女の手に持ってるものよ」
「キンキンに冷えてやがる!」
「貴女が凍らせたからね」
自分で凍らせて自分で驚いているんだから面白いものだ。永琳は口の中でガムの塊のようになったスルメを飲み込み、二本目を口に咥えた。
「ん? これ食べれるの?」
永琳が口に運ぶのを見て、チルノはスルメが食べ物だと初めて知ったらしい。そりゃそうだ。烏賊は海生軟体生物。本来幻想郷には存在しない生物。それを人里がどう調達しているかは、謎である。まあ大体察しは付くが。
「欲しかったらあげるわ」
「ほんとに!?」
「口に合う保障は無いけど」
ゲソ足一本で顔を輝かせるあたりは、やはり幼い妖精だ。あんぐりと口を開け、チルノはスルメを頬張り、そして難しい顔をした。
「んー……んん? すっごく硬いよこれ」
「スルメはよく噛むものよ。噛めば噛むほど味が出るから、すぐに飲み込んじゃ駄目なの。それに噛めば噛むほど頭が良くなるわよ?」
「ふーん……なんか面白い味ね!」
「面白い……言い得て妙ね」
美味い、不味いではなく、食べ物の味を面白いと表現する。天才と呼ばれた永琳をもってしても、この天真爛漫な妖精の思考を読み取るのは少し難があるようだ。
「……」
一方、永琳の部屋の入り口に立ったまま、耳を欹てている兎が一羽。
「鈴仙?」
「うひっ」
気付かぬうちに背後を許してしまい、鈴仙は思わず飛び上がり振返る。そこにいたのは彼女のよく知る、彼女より小さな兎だった。
「な、なんだてゐか。驚かさないでよ」
「あんたが勝手に驚いてただけでしょうに。そんなとこで何やってるわけ?」
てゐは特に企みがあって鈴仙に近付いた訳ではない。ただ単に通り掛かっただけだ。通り掛かった先に何やら楽しそうな気配を漏らしている鈴仙を見かけたので、彼女は声を掛けたのだった。
「……実験よ」
「実験?」
「うん、天才と馬鹿が会話したらどうなるのかの実験」
「……は?」
何を言っているのか理解出来ず、失敗した料理でも口にしたような顔をするてゐに、鈴仙は事の経緯を話した。
「……というわけよ」
「へえ、鈴仙にしちゃ思い切ったことするね。やるじゃん」
「それ、褒めてるの?」
鈴仙がチルノに遭遇したのは偶然だった。目隠しをしたまま竹にぶつかってばかりのチルノをたまたま見かけ、不審に思った鈴仙が彼女に声をかけたのがきっかけである。
「……あなた何してるの?」
「んぉ? ようやく見つけたぞ! 捕まえておぼふっ!」
と、こんな具合に竹に頭をぶつけてすっ転ぶ妖精があまりにも不憫だったので、目を回したチルノの目隠しを外してやったのが事の始まりである。
「んぁ! ちょっと! 目隠し取ったら目隠し鬼じゃないじゃないってどこよ此処!?」
「……よくもまあ目隠し状態でここまで辿り着いたものね」
自分が迷子になっていたことすら気付かなかったこのお転婆妖精には呆れるしかない。とはいえ、一応竹にぶつかったのだ。怪我してないかくらいは見てやったほうがいい。
「大して強く打ってないみたいね。これくらいなら師匠に診せなくてもいいか」
「ん? 師匠? 料理でもするの?」
「……胡椒じゃないわよ多分。そのボケ分かり辛いわ。私の先生みたいなものよ」
「ふーん、そいつって頭いいの?」
額を赤くした妖精は、どうやら永琳に興味を持ったらしい。
「師匠に敵う頭脳の持ち主なんてそうそう居ないんじゃない?」
「よし! あたいあんたの先生に会いに行くわ!」
「へ?」
「ねーねーいいでしょ? あんたの先生に会わせてよ!」
「えー……」
鈴仙は迷った。頭の悪い妖精の話だ、どうせ永琳の得するような事は無いだろう。
とっとと追い返した方がいい。そう思った。
(頭の悪い妖精と師匠が会っても……)
その時、ふと鈴仙の頭に一つの疑問が生まれた。
(そういえば師匠って……あんまり積極的に話とかしないわね)
医者としての職務的な会話や、永遠亭の取り纏め役として説教をする以外の永琳を、鈴仙はあまり知らない。ましてや頭の悪い相手と永琳が会話している所など、見たことが無かった。
(もしこいつと師匠が出会ったら、どうなるんだろう?)
他愛も無い疑問だった。だがその時生まれた一つの疑問が、普段生真面目に過ごしている自身の内に埋もれた小さな悪戯心をくすぐった。しかしそんな事で師匠の手を煩わせたら、後でお咎めを受けるのは間違いなく自分自身である。
「兎ぃー! 会ーわーせーてーよぉー!」
さてどうしようと隙を見せたのがまずかった。痺れを切らしたチルノが鈴仙のスカートを鷲掴みしたのである。
「うわあぁ!? わ、分かった! 分かったからスカート引っ張らないで! 伸びる! スカート伸びちゃうってか脱げちゃうから!」
「……で、連れて来たはいいけどそれ以降のプランが無いから盗み聞きと」
「う、うるさいわね……」
図星を突かれ、鈴仙は苦い顔をする。そう、結局惰性のままに連れて来てしまったのだ。だから今、鈴仙はこうして開き直って自分の悪戯心を満たしていた。
「でもまあ、結構いい薬になるんじゃないの?」
「いい薬?」
「永琳にとっては、こういう息抜きも必要なんじゃないってこと」
てゐはにひひと笑いながら、部屋の戸に耳を近付けた。どうやら彼女も盗み聞きに参加するつもりらしい。
「いい薬って、どういう意味――」
「あー!!」
「!?」
急に部屋の中から大きな声が聞こえたので、二人は飛び上がった。まさか気付かれたか、と思ったが、すぐに違うと判断した。その声はチルノの声だったからだ。
「そうだ思い出したわ! あたいエリチンに聞きたいことあったのよ!」
「永琳よ」
物覚えの悪い妖精だ。しかし何とかこの妖精は自分の目的を思い出すことが出来たらしい。流石はスルメ、素晴らしきかな、ナイアシン。
「ヤリチンは頭が――」
「永琳。いい? え・い・り・ん。E・I・R・I・N、エイリン。何度も言うけど永琳よ、永琳。八意永琳。私は永琳。いい? 永琳なのよ分かる? 上から読んでも下から読んでも永琳。え・い・り・ん」
「……永琳」
「よし」
少々強引だが、無理矢理刷り込めば覚えてくれるようだ。いつまで持続するかは分からないが。
「永琳は頭がいいんでしょ? あたいね、凍らせたいものがあるけど見えないから困ってるの」
「見えないもの?」
中々面白い発想をする妖精だ。大抵の妖精は目に見えるもの以外に興味を持つことは無い。そんな凝った考えするだけ無駄だからだ。現に彼女はそんな凝った考えを持ったが故に、目的を忘れてしまっていたのだから。
「うん! あたいは何でも凍らせられるけど、見えなきゃ凍らせられないでしょ?」
(目に見えないもの……空気でも凍らせたいのかしら?)
夏が近い。彼女にとってはきっと酷な季節が近付いている。なるほど夏の熱気を凍らすことが出来れば、さぞかし気持ちのいい話だろう。
「中々研究熱心な妖精ね」
結果を生み出す過程を作ることを彼女に求めるのは酷なことなのだろうが、疑問に感じるというのはいいことだ。
「一般的に、二酸化炭素を凍らせるならば、マイナス78.5度、酸素ならマイナス218.79度、窒素ならマイナス209.86、水素となるとマイナス259.125度まで冷やす必要があるわね」
「……んぁ?」
「……難しすぎたわね。私が悪かったわ」
くっちゃくっちゃとスルメを噛みながら呆然としているチルノ相手では、永琳の説明は意味を成すことは無いだろう。馬鹿の相手はやりにくい。永琳はつくづくそう思った。
「えーっと、要するに空気を凍らせるには、水を凍らせるよりももっと冷たくしなきゃいけないのよ」
「……空気?」
比較的分かりやすく説明したつもりだったが、チルノは今ひとつの反応を見せる。
「……えーとね、空気っていうのは」
「いや、違うよ永琳」
「違う?」
「あたいが凍らせたいのは空気じゃないよ!」
自分の伝えたいことが伝わらなかったせいか、チルノはむすっとした顔で不機嫌の相を見せる。
「でも、目に見えないものなんでしょう? 空気以外に、何かあるの?」
永琳は戸惑った。一体彼女は何を凍らせたいというのだろう? 医学的な事ならどんな疑問も速やかに解決出来る永琳にとって、チルノの思考とその疑問を解明する作業は、苛立つほど困難なものだった。思わず口の中にもう一本スルメを追加し、永琳は質問した。
「あるよ! えーっとね、見えないんだけど、ずーっと動いてて、触れないけどどこにでもあって……えーとなんて言ったかなあ……」
(目に見えないけど動いてる……?)
ちんぷんかんぷん極まれり。目に見えない物の動きを、一体彼女はどうやってその目で見ているというのだろう? 空気ならば、見えずとも肌の感触で動いてると分かる。しかし彼女の求めているものはそれではない。
(……困った)
うーんと唸りながら頭を抱えているチルノ同様、永琳もスルメを三本に増やして悩みに悩んでいた。噛めば噛むほど味が出る。されど答えは漏れ出さない。
頭の悪い妖精と稀代の天才が、滑稽な事に共に頭を悩ましていた。
「とりあえずその何かの名前だけでも分からないの?」
「えーとねえ……今もあるんだよ! ここにもあるんだけど……」
「……貴女の質問を待つ身にもなって欲しいわ」
質問にすら辿り着けない。こんなふざけた問題用紙があるだろうか? あまりに途方も無い問答に、流石に永琳もはあ、と溜息を吐いた。
「あー! そう、それよ!」
「え?」
しかしチルノは思い出したように声を上げた。一体今の言葉に何の意味があったのだろうか? 妖精に振り回される月の頭脳は、普段丸くする事の無い目を丸くしてチルノを見た。
「待つの! 待ってる間もずっとあるのよ! あ、そうだ! 「間」もそれよね!」
「待つ……? 間……?」
チルノは一人勝手に興奮している。それらが何かしらの質問に辿り着くキーワードになっているのは間違い無い。永琳は今一度それらを整理することにした。
「目に見えず、触れる事も出来ないけど存在して、待っている間も動き続け、存在しているもの……間もそれ、いや間自体がそれ……あっ」
永琳の頭脳はスルメを三本も消費して、ようやく一つの答え、いや、答えらしきものに辿り着いた。
(いや、でも、もし本当にそうなら……)
それはあまりにもありふれていて、生物だけでなく、あらゆる環境、空間さえもその連結を切り離す事が出来ない要素。彼女が「凍らせ」ようとしている「それ」は、あまりにも妖精一人が成すには大それた悩みだった。
「貴女……もしかして」
それがあまりに身近過ぎて、永琳はそれに中々辿り着く事が出来なかったのだ。そしてそんな自分の視界に気付く事が出来なかったものを凍らそうとした妖精、チルノのあまりに純粋で、単純な野望に、永琳はショックを隠し切れなかった。高く積み上げられすぎた灯台は、足元が見えなかったのだ。何故か自身の脳が、単純妖精の思考に敗北したような気がして、永琳は初めて、知というジャンルにおいて挫折を味わった。
「……時間を凍らせたいの?」
「そう! それそれ!」
頭の靄が晴れ、チルノは歓喜した様子で声を張り上げた。
「やれやれね……」
永琳は呆れ果てた。目の前で勝手に喜んでいる妖精にではない。自分自身にだ。
元より相手は妖精、最初から医学などといった難解要素に彼女が食い付いてくる訳が無かったのだ。それなのに、永琳は丁寧に医学者としてチルノに対応しようとしていたのだ。馬鹿真面目にも程がある。自分が馬鹿だと思ったのは初めてだった。
「時間を凍らせたいのよ! 永琳は頭がいいから分かるでしょ?」
無理難題だった。如何なる天才でも、可能と不可能くらいは弁えているつもりだ。命の時間に逆らう事が永琳に出来る精一杯だが、チルノはそんな事は望んでいないだろう。
「時間には温度が無いの。暖かくもないし、冷たくも無い。だから凍らせる事は出来ないのよ」
永琳は、足りない脳を回してそう説明した。この妖精が何とか理解出来る説明、それを言葉に紡ぐ事の何とも難しいことか。
それでも出来ないと言う事を理解してもらえたのか、チルノは残念そうに肩を落とした。
「えー……じゃあ太陽も止まらないんだ」
「太陽?」
「そうよ! すっごい綺麗なんだから!」
どうやら彼女が本当に凍らせたいのは太陽の動きのようだ。ならば尚更冷気の妖精には荷が重い。
「太陽が沈む時ね、湖に映るんだ。それがすっごい綺麗なのよ!」
「……」
やれやれ、なんと言う事か。会った時に自分の強さ自慢をしていたこの妖精が望んだ事は、綺麗な夕日をずっと眺めていたいという、なんとも幼稚で無邪気な願いだったのだ。
「……ふふっ」
「あ! 何よ! そんなに変!?」
だから、永琳は笑った。思わず笑ってしまった。自分はなんて馬鹿なのだろう。ちょっと暇つぶしに頭の悪い妖精を弄るつもりが、結局弄られ倒される結果に終わったのだから。
「貴女がそんなに好きな景色なら、きっととても綺麗なんでしょうね」
「もっちろん! あそこ以上に綺麗な場所なんてないさ!」
「そんなに綺麗なら、天狗にでも頼んでみたら? 写真くらいなら、形に残せるわよ?」
「あ、そっか! 写真ならいつでも太陽が見られるもんね! やっぱり先生は頭いいわ!」
簡単な解決方法も見つけられない単純な妖精は、実に単純にパッと表情を明るくした。怒ったり悩んだり笑ったり、コロコロと表情が変わる子だ。
(……そういえば、私さっき笑ったのよね)
肺から空気が押し上げられ、自然に声が押し出されて笑ってしまったのはいつぶりだっただろうか? 永琳は自分の頬に触れた。この表情筋を感触を、ここ最近の自分は忘れていたのかもしれない。
「そうだ! 今度永琳も見に来ればいいよ。本当にすっごく綺麗なんだから!」
「そうね、暇が出来たら是非見させてもらうわ」
永琳は、表情を和らげてそう答えた。それは意識から生まれた表情か、それとも無意識か、それは永琳自身にも分からなかった。
「過去は無限にやってくるわ」
あの姫は、以前そんな事を言っていた。
「だから、今を楽しまなければ意味が無いじゃない」
(私は、今を楽しんでいただろうか?)
もしかしたら自らが意識しないうちに、自分は罪の意識に絡まれていたのかもしれない。誰よりも早く回転すると思っていた自分の脳は、もしかしたら凍りついていたのかもしれない。
「よーし、それじゃあ早速天狗に相談ね!」
考えることを意識しない妖精は意気揚々と肩を回す。
「待ちなさい。あなただけじゃまた迷子になっちゃうから、案内をつけてあげるわ」
この妖精の事だ。この竹林を一人で抜けようものならば、太陽に置いてけぼりを食らってしまうだろう。
「うどんげ、てゐ、いるんでしょう?」
「は、はい!?」
「ばれてた!?」
突然に呼ばれ、二羽の兎は飛び上がった。こうなっては逃げようが無い。二羽は硬い表情で部屋に入ってきた。
「うどんげ、彼女を案内してあげなさい」
「は、はい……そ、それじゃあチルノ、行くわよ?」
「うん、またね永琳! 絶対太陽見に来てよね?」
「ええ、必ず行くわ」
恐らく咎めを受けるであろう。半泣き状態の鈴仙は、手を振るチルノを連れて、永遠亭から飛び立ったのだった。残されたのはてゐ。
「えーと……よ、妖精はどうでしたかねえ……?」
笑顔をひくつかせながら聞いてみる。勿論こんな事を聞いたところで、永琳から逃れることは出来ないだろう。今のてゐを例えるならば、鮫の背に立つ白兎だ。
「そうね……馬鹿でかいクレーターの上に立たされた気分だったわ」
「ふえ?」
予想に反して、永琳に怒りの表情は見えない、元よりあまり感情を表に出さない彼女だが、てゐの目には、その表情はどこかすっきりとしたように見えた。
「あんまり窪みが大きすぎて、そこがクレーターだって意識出来ないってこと」
「それって……あいつが大物ってこと?」
「宛ら私は穴あきチーズってとこかしら」
「は?」
「穴だらけってことよ」
「はあ……?」
天才の言葉は分からない。てゐは生焼けの魚を食わせられたような顔で首を傾げた。
「まあ、私はチーズよりスルメのほうが……あら?」
永琳は気付いた。自分はいつの間にか、スルメを飲み込んでしまっていたのだ。
「……ふふっ」
「うげげ」
急にどこも見ずに永琳が笑ったので、てゐは思わず後ずさりした。妖精が飛んでいった先に、太陽が昇っていた。その太陽を見つめ、永琳は自然と頬を緩めた。
「たまには柔らかいものでも食べましょうか」
~完~
むしろわかりやすい。作中の情緒が、すっと胸に染みいる。
幻想郷らしく、のんびりした空気で楽しく読めました。
チルノの力しだいでは限定的ながらその物質の「時間をとめる」ことができるかもしれない。
この会話がヒントになってEx化したチルノが
幻想郷のみならず太陽系、宇宙をも凍結させるスペクタクルが……起きないな。