「――それでは紫様、少し出かけて参りますので、留守の方をよろしくお願いします」
昼過ぎに起きてきた紫の朝昼兼用の食事の片付けを済ませると、一息つく間もなく藍は出かける準備をしていた。
「はいはい……いってらっしゃーい」
そうして出かける藍を、紫はいかにも適当に見送る。
どうせ紫は終日ごろごろと寝て過ごすのだから、こうして朝昼兼用の食事を食べ終わった以上、次に藍が必要になるのは夕食時だろう。実際ここ数日は結界も安定していて特に仕事らしい仕事もないので、藍がどこかへ出かけるとしても紫は自由にさせていた。
そんな藍がどこへ出かけているのか、紫は知らないでいる。
「別に、何か問題があるわけじゃないし……いちいち把握するのも面倒だし……」
藍はしっかり者だった。特に何も言わなくたって、橙と違ってちゃんと日が暮れるまでには帰ってきて夕食を作ってくれる。藍は橙と違って賢いので、最近では紫があれこれと口出しをすることも少なくなっていた。そのうえ不意に何か問題が発生したとしても、式神である藍であればどこにいたとしても瞬時に呼び出すことも容易いのだ。
そんな藍がどこへ遊びにいくのか、いちいち紫が把握するのもおかしな話だ。
もしそんなことをしていたら、紫がまるで我が子を溺愛するあまりに過保護に育ててしまうバカ親みたいに見えてしまうだろう。
「私が藍の母親……? ……よしてよね。それじゃあ――」
紫はその先の言葉を飲み込んだ。
それは絶対に言ってはならない禁句に他ならない。
紫は藍の母親ではないし、藍は橙の母親でもないのだ。
その関係はあくまでも主と式であって、決して親子であろうはずがない。
もしそうであったなら、それでは――紫は橙のおばあちゃんになってしまうではないか。
紫はおばあちゃんではない。それどころかおかあさんですらない。
――紫は少女だ。
昼過ぎに起きてきては自分の式の作った朝昼兼用の食事を取るが、少女だ。
日頃こうしてごろごろとして過ごしてはいるが、それでも少女だ。
寿命の長い妖怪なのですでに千年単位で生きているが、誰が何と言おうと少女なのだ。
「そうよ、私は少女。八雲紫、設定年齢十九歳、かに座のB型ッ!」
――美……美形だ!
「………………」
「…………ねえ、橙。あなた、いつからそこにいたの?」
「えっと、『私は少女』からです」
よりにもよって一番おいしいタイミングで橙は現れたらしい。
「………………」
「………………」
「…………わかったわ。マタタビをあげるからこのことは忘れなさい」
そういってスキマからマタタビを取り出して橙に渡す。
藍には油揚げ、橙にはマタタビを。この家のヒエラルキーの頂点に立つ紫の編み出した最強の秘策だった。
「ありがとう、紫様!」
嬉しそうな笑顔でそれを受け取った橙に、紫はちょうどいいとばかりに質問を投げかける。
「そうだ。あなた、藍が最近どこに出かけているか知らないかしら?」
「藍様ですか? それだったら最近はよく博麗神社にいるみたいですけど」
(博麗神社? どうして藍が霊夢のところなんかに――)
紫はそんな疑問を持ちながら橙に礼を言った。
そうして話が終わったと見るなり橙はぱたぱたとどこかへ駆けていく。
「……さて、(何か大切なものを代償に)藍の居場所を突き止めたわけだけど」
紫はこのあとどうしたものかと思い悩む。
確かに藍が普段どこに出かけているのか、気にならなかったといえば嘘になる。
しかし本当に知りたいことだというのなら、そんなものは本人に訊けばそれで済む話でもあったはずだ。藍はそれを紫に秘密にしていたわけではないのだから。
けれど紫がそうしなかったのは何故だろうか。
いちいち把握するのが面倒だったから?
――違う。
それでは、心配性の母親みたいに思われるのが嫌だったからだろうか?
――おそらくそれも違うだろう。
それらが正解ではないことを紫は理解する。
「なんというか、周囲に置いていかれるような感覚がこう、少し嫌なのかしらね」
――自分のあずかり知らないところで、何か楽しいことが起きていたら嫌だ。
あるいはそういった子供のようなわがままな感情が紫の中にはあるのかも知れない。
そしてそんな心の内を自分と主従関係にある藍に知られるのは、さすがに紫も困るというものだろう。
(何が困るのかって、ほら、主としてと尊厳とか、ね? そう、あれよ、生徒に舐められて教師が勤まるか、みたいな)
だからこそ紫は藍の行き先を尋ねはしなかったのだと、自分に思い込ませる。
藍がどこで何をしていても、それは藍の自由だ。式神だから紫が命令したことは命令した通りにこなしてもらわねば困るが、その他のことに対してまで藍を束縛するつもりはない。そうした信条の上で、それでも少しだけ――ほんの少しだけ気になってしまうのだから、それはもう仕方のないことなのかも知れない。
「別に、藍に遊びにいくなとか言うつもりではないのだし、ちょっと覗くくらいは、いいわよね」
紫はそう自分に言い聞かせるように呟くと、次の瞬間には身体の下に開いたスキマへと落ちるように消えていった。
藍は石階段を登って境内を横切り、神社の裏手にある居住スペースに顔を出す。するとそこにはすでにお茶を飲みながら談笑している人間の姿があった。
「あ、藍さんも来たんですね。どうぞ上がって下さい、汚い部屋ですけど」
「汚いって、ここ私の家なんだけど?」
藍を招ききれる早苗と、その早苗の物言いに対して一睨みする霊夢。
「ああ、お邪魔するよ」
「それにしても藍さん、今日は少し遅かったですね……何かありました?」
「いや、何かというほどのことでもないけど……紫様の起きてくるのが少し遅くてね」
「ほら、私の言ったとおりじゃない」
そういってどこか得意げに笑うと、霊夢は手に持ったお茶を一口すすった。
その言葉を聞いて不思議そうな顔をする藍に、早苗が説明する。
「あのですね、さっき私が今日は藍さん来ないのかなーって言ったら、霊夢さんが『どうせ紫の世話でも焼いてるんでしょ、そのうち来るわよ』って――」
そんな風に談笑を始めた藍たちに気付かれないように、開いたスキマから覗き見をしている妖怪がいた――まあそれは、言うまでもなく紫なのだが。
(へぇ……もう常連客として溶け込んでいるのね、藍は)
さすがは自分の式、社交性もばっちり問題無しだと、紫は自画自賛する。
そうして覗かれているとも知らずに会話は進んでいく。藍の紫の世話の話から、今度は藍が早苗に尋ねるように口を開いた。
「――そういう早苗の方はどうなの? 神様の世話とか、二つの柱で苦労も二倍だったりしないの?」
「私ですか? 確かに二柱いるからこその苦労もありますけど、神奈子様は私よりもしっかりしていますし、諏訪子様も少しお寝坊さんですけど、さすがに紫さんみたいに昼過ぎまで寝ていることはありませんので……あ、でも先日はちょっとそれでひと悶着ありまして――」
早苗はそう前置きすると、数日前の出来事を話し始めた。
「あ、神奈子様、おはようございます」
朝食の準備をしていた早苗は起きてきた神奈子の気配に振り返り、笑顔で挨拶をした。
「おはよう、早苗。何か手伝うことはある?」
「いえ、もう出来上がりますので……そうだ、それなら諏訪子様を起こしてきてもらえませんか?」
「ああ、それなら無理よ。あいつの寝起きの悪さは早苗もよく知っているでしょう?」
「……ちっ」
充分に知っているからこそ、あわよくばその役目を神奈子に押し付けてしまおうと思っていた早苗だった。
「今舌打ちしなかった?」
「いえ、舌鼓の間違いではありませんか?」
早苗はそういって味見用の小匙を神奈子に見せる。
「……まあいいけどね。とりあえずそういうわけだから、私は諏訪子を起こすのだけは御免だよ」
「そうですか……では私が起こしに行ってきますので――」
「ああ、朝食を並べとけばいいのね?」
「――私が帰らなかったときは、後任の巫女の人事をよろしくお願いします」
「……いや、戦場じゃないんだから」
真面目な顔で冗談を言う早苗に、呆れたように肩をすくめる神奈子だった。
その場を後にして、早苗は諏訪子の寝室へと向かう。
戦場じゃないと神奈子は笑ったが、そこへ向かう早苗の表情は数々の修羅場を潜り抜けてきた戦士そのものだった。
「諏訪子様、朝です!」
「………………」
「……まあ、呼びかけただけで起きてくださるはずがないですよね」
ため息を一つ。そうして次の策へと移る。
「ほら、諏訪子様、朝食が冷めてしまいますよ!」
そう言いながら、布団の上から諏訪子の身体を揺する。
「うーん……あと五十年」
「さすがにそれは待てません! 朝食が冷めるどころか、私がおばあちゃんになってしまいます!」
「いいじゃん……早苗なら……おばあちゃんになっても、きっとかわいいよ……」
「かわいいだなんて、そんな、諏訪子様ぁ……じゃなくて! ほら、神奈子様も食事を待っているんですから」
「神奈子は食いしん坊だね……そして私はお寝坊だ」
「わけの分からないこと言ってないで、さっさと起きてください!」
そういうと早苗は諏訪子にかかった布団を剥ぎ取った。
――しかし。
「……ぐぅ」
土の中でさえ眠れる諏訪子が、布団を剥ぎ取られただけで眠れなくなるはずもない。朝の少し冷たい空気に触れても、諏訪子はそのまま一切身じろぎせず眠り続けるだけだった。
早苗は手に掛け布団を持ったまま、横向きに寝ている諏訪子を見る。
少し乱れた寝間着、流れるような柔らかい金髪、かすかに覗かせるうなじ。
幼い外見からは想像しがたい色気がそこにはあった。
「まさに、眠り姫!」
しかし迂闊に抱きしめようものなら、寝ぼけた諏訪子にベリートゥベリー・スープレックスを決められることは必然であった。綺麗なバラには棘があるのと同様に、可憐な幼女にはレスリングの大技が完備されているものなのだ。
しかし布団を剥いでしまった以上、もう後戻りは出来なかった。布団越しなら触れても安全な眠れる諏訪子だが、今では迂闊に近づいたが最後、多彩な組み技から押さえ込みに派生し、早苗の身動きを封じたまま眠りを謳歌することだろう。
けれども虎穴に入らずんば虎児を得ず、布団を剥がずに諏訪子を起こす術があるはずもない。早苗は神に祈りを捧げながら、けれど祈りを捧げるべき神こそが今目の前で眠っている最大の障害であることに気付き、絶望する。
それでも過去の恐怖を押し殺し、震える身体に鞭を打つと、早苗は恐る恐る諏訪子に近づいて――
「――ってちょっと待ちなさいよ。早苗、いくらなんでもそれは大げさすぎるでしょ?」
いつつっこむべきかタイミングを見計らっていた霊夢がとうとう我慢しきれなくなって早苗の話を遮った。
「大げさなんかじゃありませんよ。今回だって神奈子様が助けてくれなかったら私は諏訪子様の三角締めの前に失神KO負けするところだったんですから!」
「三角締めってそれ、すでにレスリングじゃないんだけど……」
「神話の時代から自身の眠りを妨げるものと戦い続けてきた諏訪子様ですから、すでにレスリングの枠組みで語れるレベルではないのです。眠っているときの強さはヒョードルと塩田剛三と木村政彦を足して三乗したような、それはもう恐ろしいまでの総合格闘家なんですよ!」
「……? よく分からないけど、紫様とはまた違ったベクトルでの苦労があるみたいだね……。紫様の場合は、せいぜい布団と自身の境界を弄って一体化する程度だから、まだ楽な方で助かるよ」
「いや、あんたたちの基準はおかしいわよ?」
霊夢は冷静に指摘する。
「大体、布団と一体化した紫をあんたはどうするわけ?」
「どうするって、普通に天日干ししたり、押入れにしまったりするだけだけど」
「……ああ、そう」
(布団がベースなんだ……)
それだったら布団たたきを使って日頃のストレスを発散出来そうだなと、霊夢は思った。
実際は布団をたたいても中の繊維が切れるだけでいいことはないのだけど、そんなときくらいはやっても構わない気がするのだ。
(今、霊夢がよからぬ事を考えている気がするわ……)
スキマから覗いている紫がそんなことを考えていると、唐突に早苗が口を開いた。
「そうだ、霊夢さんは何か苦労していることとかってないんですか?」
「わ、私?」
早苗が霊夢にそんなことを尋ねた。
霊夢は「うーん」とうなりながら少し考える。
「苦労ねぇ。いつも宴会の片付けを一人でやるのが大変といえば大変だけど……あ、そういえばそれに関してなんだけど――」
そういって霊夢は少し前の出来事を話し出した。
「……さて、残る問題は『これ』をどうするかだけど」
困ったようにため息をつく霊夢の目線の先にあるそれは酔いつぶれた魔理沙に他ならない。空になった一升瓶を抱き枕がわりにすぅすぅと寝息を立てている彼女を、どう片付けるべきか――それこそが今一番の問題であったのだ。
「今日に限って保護者のアリスは来てなかったし……今から家まで運送するのも、さすがに面倒だわ」
宴会がお開きになる頃には当然日は暮れきっている。魔理沙を梱包して自宅まで送り届けてから帰ってくるのは、さすがに時間がかかりすぎるというものだ。
「……すぅ」
「……この悩みのなさそうな無防備な寝顔を見ていると、何だか無性に腹が立ってくるわね」
そう思うが早いか、霊夢は棚から墨と硯(すずり)と筆を取り出すと、硯に水を溜めて墨をすりはじめた。
中国では墨と硯と筆と紙を指して文房四宝と呼ぶ。それらのうち「紙」だけが今ここには存在しないが、その代替となるものは今霊夢の目の前で眠り転げていた。
霊夢は力強く、しかし丁寧に墨をすっていく。そうして充分に色が濃くなったのを確認すると、霊夢は墨を置き、代わりに筆を手に持ち、それを墨に浸す。
筆に浸透した墨がこぼれないように硯で余分な水分を落とすと、霊夢はそのまま魔理沙の寝顔に空いている手を伸ばした。
柔らかそうな金髪を持つ魔理沙。その前髪は寝汗で額に少し張り付いていた。霊夢はそれを優しくかきあげて――そこで一瞬静止する。
ここまで準備したのはいいが、魔理沙の顔に何を書くのか、そんな肝心なところの思考が抜け落ちていたのだ。
「うーん……さすがに額に肉では芸がないし……」
その体勢のまま霊夢が頭を悩ませていると、何か不穏な空気を感じたのか魔理沙が唐突にその目を開けた。
霊夢と魔理沙の目線が重なる。
状況を認識しようと、ぱちぱちと何度か瞬きをする魔理沙に対し、突然の出来事に瞬きも忘れたまま魔理沙の目を見る霊夢。
その一瞬の間に、魔理沙は高速で思考を巡らせていた。
目の前に霊夢。それが筆を持ち、逆の手では自分の前髪をかきあげて顔を覗きこんでいる。そんな霊夢が何をしようとしていたのか、魔理沙はひとつの答えに行き着いた。
「なるほど……お前に、他人を筆でくすぐり責めにする特殊な性癖があったなんて」
「違うわよ! どこをどう見たらそうなるのよ、ちゃんと硯とか墨のことも考慮しなさいよね!」
興奮した状態で、霊夢はその手に持った筆を魔理沙の鼻先に突きつけながら否定する。
しかしその勢いが余って、その筆先が魔理沙の鼻に触れてしまった。
「あ」
「え?」
疑問の声を上げて、自分の鼻に手を当てる魔理沙。その手を見ると、そこには黒い液体が付着していた。
「…………ああ、なるほどな」
そうして全てを理解した魔理沙はゆっくりと身体を起こして棚の方まで歩いていく。そうして棚からもう一本の筆を取り出して、黙ったまま霊夢の隣にある硯の墨に筆を浸す。そのままその筆先を霊夢の鼻に当てた。
「さて、これでイーブンだな……それじゃあ、決着をつけるとするか」
「え……? いや、ちょっと待ちなさいって、決着って何よ?」
「何を言ってるんだ? そんなのもちろん、どっちが先に相手の額に肉って書くかの勝負に――決まっているじゃないか!」
そう言うと同時に魔理沙の筆が霊夢の額に襲い掛かる。
霊夢は瞬時に後ろへ身体を倒すようにして回避し、転がるように距離を取った。
そうはさせないと、魔理沙は飛び掛るように追撃をかける――
「――その後はもう泥沼よ。墨がなくなるまで暴れまわって、部屋中を墨で汚しまくった末に引き分け。こんなことならもっと沢山墨をすっておくべきだったわ」
(いや、問題はそこじゃないでしょう……)
スキマで盗み聞きしていた紫は呆れたように嘆息する。
「あの、霊夢さん?」
「何よ、早苗」
尋ねるように声をかけてきた早苗に、霊夢と藍は目を向ける。
紫はそんな早苗に、自分のつっこみたい気持ちを代弁してくれるかも知れないと少しだけ期待した。
「その勝負を私として、もし私が勝ったら霊夢さんを筆でくすぐり責めにしてもいいですか?」
「いいわけあるか!」
霊夢は間髪いれずにつっこみを入れる。そして同時に驚愕した。
――魔理沙の言っていた特殊な性癖持ちが、まさか実在していようとは。
「私は別に変じゃないですよ。霊夢さんのその剥き出しの腋に筆の毛先を這わせて、その刺激から漏れそうになる声を必死に我慢する霊夢さんをさらに責め立てて、漏れる吐息に段々熱が帯びていくのを楽しみたいっていうのは、きっとみんなが持っている普通の感覚に決まっています!」
「……ああ、そう。それならあんたの剥き出しの腋でそれをやってやろうかしら?」
「いやーん、霊夢さんのえっちー」
「………………」
今の早苗には、何を言っても勝てる気がしない霊夢だった。
「――でもまあその話だけでも、霊夢と魔理沙は普段から仲がいいということはわかるよ」
ふと、藍がそんなことを言う。
けれどその言葉に対する霊夢の反応は、藍の予想とは大きく異なっていた。
「仲が、いい……? 私と、あれが……?」
凄く意外そうな顔で、目を丸くして、確認するように霊夢は隣の早苗の顔を見た。
「え? 霊夢さんと魔理沙さんって、親友とかそういうのですよね?」
「私と、魔理沙が……親友?」
「……あれ、何ですかこの反応」
早苗と藍は目を合わせて、二人同時に首をかしげた。
確かにこんな話をして、霊夢が素直に認めるとは思いがたい。だから二人の予想では霊夢は魔理沙と仲がいいということを軽く否定するか、あわよくば照れながら全力で否定するような反応が見られれば「おいしい」と、そう思っていたのだ。
けれど、今の霊夢の反応は否定とかそれ以前に、そんな風に思われていたこと自体が心底意外だというような雰囲気だった。
「いや、じゃあ霊夢さんにとって魔理沙さんって一体何なんですか?」
「私にとっての魔理沙ねぇ……」
霊夢はそういって少し考える。そして思いついた答えを口に出した。
「多分、この神社みたいなもの……かな」
「神社!」
霊夢は巫女だ。巫女にとって神社とはかけがえのないものである。だからこそ、その神社に例えられた魔理沙は霊夢にとって大切な人だ。
そんな三段論法で導き出した答えをもって、早苗は少し興奮した声を出した。
けれど。
「そうね、別にあってもなくても構わないという意味で――」
「……不謹慎な巫女もいたものだね」
「……ええ、全くもって藍さんの言うとおりです」
そういって二人は肩をすくめて呆れた。
けれどスキマから覗く紫だけはその言葉の意味を深く考える。
あってもなくても構わない。そう思うのは、それは元々霊夢自身が欲して手に入れたものではないからだ。それでも霊夢はそれを手放さない。決して遠ざけようとせず、今なおそこにある。そこに、あり続ける。
あることが自然で、当たり前すぎるからこそ――見えていない。
それがなくなった未来を、霊夢は想像することが出来ないのだ。
そして二人は知らない。けれど紫だけは知っている。
過去の異変で神社が倒壊したときの、霊夢の静かな怒りを。
(その神社と同じということは、魔理沙が傷つけられたなら同じように怒るということでしょう? ……ふふ。まだまだかわいいわね、霊夢も)
そんなことを紫は思う。
同時に、藍は心配なさそうだし面白いものも見れたので、そろそろ帰って家でごろごろしようかと、そう思っていたときだった。
「それなら、藍。あんたにとって、紫って何なのよ?」
「紫様、ですか?」
唐突に自分の名前が出て、紫は興味を引かれる。
「式神にとっての主ってのは分かるわよ? でも普段の紫といえばだらだらと寝てばかりじゃない。それで起きたと思えば遠まわしにわけの分からないことを言ったり、スキマを使ってしょうもないイタズラとかセクハラとかしてさ」
「せ、セクハラ?」
困惑した表情で意外そうな声をあげる藍。
「あ、それなら私も一回されましたよ? 急に背後に上半身だけ出した紫さんが現れて、胸を揉みしだかれましたから」
「ああ、恒例の新参者に対する身体測定ね」
「こ、恒例なの?」
「確かにそんなこと言ってましたね。おかえしに胸を揉み返したら慌ててスキマに逃げていきましたけど」
「……まあ早苗のことは置いとくとして。とりあえずそんな紫に仕えているあんたから、紫は一体どう見えているの、って話。ぐーたらで、胡散臭くて、子供っぽくてさ。あんたはあれを、本当に尊敬しているの?」
――藍は紫を本当に尊敬しているのか?
それは紫にとっても、気になる事柄ではあった。
けれどそれを、こんな盗み聞きのような形で聞いてしまうのは、少なくとも紫の本意ではない。
本当に気になることなら、自分で直截尋ねればいいことなのだ。
それをしなかったのは――。
(――ああ、そういうこと)
紫は気付いた。自分がどうして、それを藍に尋ねなかったのか。それは藍の行き先を尋ねられなかった本当の理由と、同じだった。
周囲に置いていかれる感覚。
自分のあずかり知らないところで楽しいことが起きていたら嫌だ。
確かにそんな心が紫にはあるのかも知れない。けれどそれは、別に藍だけを相手取った感情ではない。それを理由とすることは嘘ではないが、正解でもない。
紫が藍にだけ持つ感情。それはきっと霊夢が神社や魔理沙に持つ感情と同じなのだ。
紫にとって、藍はそこにあって当たり前になっている。
そんな藍がいなくなることを、紫はすでに想像することが出来なくなっている。
藍がどこにいくのか、紫は尋ねることが出来なかった。
藍が紫をどう思っているのか、それを尋ねることが出来なかった。
思えば単純なことだったと、紫は気付く。
紫は藍が嘘をつけば分かる。それが式神と主の絶対的な関係だった。そしてそれは当然、藍だって知っていることなのだ。
だからこそ――。
(だからこそ私は、藍の本意に因らずとも、藍の本心を聞き出せてしまう)
藍が本当は言いたくないと思っていることでさえ、主である紫は藍に言わせることが出来てしまうのだ。
あれほどに、対外的には「藍は道具」だと言い張り続けてきた紫が、けれどこうして藍の心を尊重している矛盾。その意味に気付いたとき、紫はただ自嘲気味に笑う。
そうしてこそ、今ここでそれを聞くことは、藍の本意に因らないのだから――。
――紫はそっと、そのスキマを閉じて、帰路に着くのであった。
「た、確かに紫様はだらだらと寝てばかりのぐーたらで、色々と胡散臭くて、子供っぽいいたずらが好きで、それがセクハラなどに発展してしまうこともあるダメな妖怪かも知れない! それでも――」
藍は必死に自分の主の名誉を挽回しようとしていた。
その必死な様子を、霊夢と早苗は微笑ましく見ている。
――紫は愛されているなと、そう二人は思うのであった。
「それでも?」
霊夢が続きを促す。
「それでも……ええっと……そうだ、言い方ってものがあるじゃないか!」
「………………」
「………………」
「………………あの?」
沈黙に耐え切れなくなった藍が言葉を発すると同時に、霊夢と早苗は大声で笑い出す。
「よりにもよって、何よそれ」
「それじゃあ全然フォローになってませんよ、藍さん」
そうしてしばらく二人は笑い続けた。
それからも三人は様々な他愛も無い話をしていく。そのたびに優しく、楽しげな笑い声が博麗神社に木霊する。
こうして一日が終わっていく。
決して特別ではない、平凡で、自然で、そこにあることが当たり前のような、そんな一日が。
「ただいま戻りました」
その声を聞いて、紫は藍が帰ってきたことを理解する。
「遅いわよ、藍。せっかくの晩御飯が冷めちゃうじゃない」
「藍様、今日は紫様が晩御飯を作ってくれたんですよ?」
「え、そんな、(あの紫様が)どうして……?」
「今何か失礼なことを考えたわね? まあいいけど、そんなことよりほら、早く手を洗ってらっしゃい」
そう言われて、藍は手早く手洗いとうがいを済ませて食卓についた。
「いただきます」
三人が声を揃えて、手を合わせる。
そうして始めて食卓に並んだ食事を見て、藍は絶句する。
「……あの、紫様?」
「あら、何かしら?」
「どうして肉じゃがとビーフシチューとカレーなんですか?」
「仕方ないじゃない、それしか材料がなかったのよ。買い出しに出るのは面倒だったし」
スキマを使って一瞬で移動できる便利な能力があっても、それを使うのが紫では宝の持ち腐れなのかも知れないと、そんなことを思いながら藍は言った。
「だからって、三つとも作ることはないと思うのですが……」
「いいじゃない、豪勢で」
紫は適当な雰囲気でそんなことを言う。
「藍様、じゃがいも、嫌いですか?」
「いや、そんなことはないけど……」
そう答えながら、藍は橙を観察する。
どうやら橙は目の前に並んだ料理に感激しているらしい。
それならまあ細かいことはいいかと、そんな気がしてくるから不思議なものだった。
「でもどうして突然、紫様が料理を?」
「たまには自分でやらないと、ね。便利な道具に甘えてばかりいたら、私自身がダメになってしまう。ただそれだけのことよ」
「そうですか」
そう返事をしながら、藍は肉じゃがを箸で口に運ぶ。
それは文句なしに美味しかった。
(忘れがちだけど、私に料理を教えてくれたのは紫様なのだ)
久々の紫の味を堪能するように、藍は次々に料理を口に運んでいった。
「あとね、藍」
「はい?」
「私は、もう少し早起き出来るように頑張るわ」
「はあ」
「出来ないかも知れないけど、出来るだけ出来るように、少しずつでもね」
「それはいいことだと思いますが、突然どうしたんですか?」
「別に、いつも道具に甘えてばかりいたらいけないって話よ」
「そうですか」
「………………」
「………………」
「でも、やっぱり起きられなかったら、そのときは起こしに来て頂戴ね?」
「ええ、それは構いませんよ。いつものことですから」
「寝ぼけてあなたにロングスリーパーをかけてしまうかも知れないけど」
「ロングスリーパーはヨーヨーの技です。……というか紫様、今日の話、聞いていましたね?」
「な、何の話かしらー?」
「………………」
「………………えへ?」
「……はぁ。まあ、別にいいですけどね」
藍は毒気を抜かれたように、小さくため息をついた。
「何よー。ちょっと藍のくせに生意気よー?」
「藍様は、生意気です?」
「ちょっと紫様、橙に変なこと教えないでくださいよ!」
そんな風に、紫たちの食事はにぎやかに進んでいった。
そうした、どこの家庭にでもあるような、そんな団欒。
それが「式は道具」だと言い続ける、紫の家にあるということ。
しかしそれは何も不思議なことではなかった。
ただ自然に、当たり前のように紫の隣にいる藍と橙――。
――その二人を、紫が「家族」だと思っていれば、何も不思議なことではないのであった。
昼過ぎに起きてきた紫の朝昼兼用の食事の片付けを済ませると、一息つく間もなく藍は出かける準備をしていた。
「はいはい……いってらっしゃーい」
そうして出かける藍を、紫はいかにも適当に見送る。
どうせ紫は終日ごろごろと寝て過ごすのだから、こうして朝昼兼用の食事を食べ終わった以上、次に藍が必要になるのは夕食時だろう。実際ここ数日は結界も安定していて特に仕事らしい仕事もないので、藍がどこかへ出かけるとしても紫は自由にさせていた。
そんな藍がどこへ出かけているのか、紫は知らないでいる。
「別に、何か問題があるわけじゃないし……いちいち把握するのも面倒だし……」
藍はしっかり者だった。特に何も言わなくたって、橙と違ってちゃんと日が暮れるまでには帰ってきて夕食を作ってくれる。藍は橙と違って賢いので、最近では紫があれこれと口出しをすることも少なくなっていた。そのうえ不意に何か問題が発生したとしても、式神である藍であればどこにいたとしても瞬時に呼び出すことも容易いのだ。
そんな藍がどこへ遊びにいくのか、いちいち紫が把握するのもおかしな話だ。
もしそんなことをしていたら、紫がまるで我が子を溺愛するあまりに過保護に育ててしまうバカ親みたいに見えてしまうだろう。
「私が藍の母親……? ……よしてよね。それじゃあ――」
紫はその先の言葉を飲み込んだ。
それは絶対に言ってはならない禁句に他ならない。
紫は藍の母親ではないし、藍は橙の母親でもないのだ。
その関係はあくまでも主と式であって、決して親子であろうはずがない。
もしそうであったなら、それでは――紫は橙のおばあちゃんになってしまうではないか。
紫はおばあちゃんではない。それどころかおかあさんですらない。
――紫は少女だ。
昼過ぎに起きてきては自分の式の作った朝昼兼用の食事を取るが、少女だ。
日頃こうしてごろごろとして過ごしてはいるが、それでも少女だ。
寿命の長い妖怪なのですでに千年単位で生きているが、誰が何と言おうと少女なのだ。
「そうよ、私は少女。八雲紫、設定年齢十九歳、かに座のB型ッ!」
――美……美形だ!
「………………」
「…………ねえ、橙。あなた、いつからそこにいたの?」
「えっと、『私は少女』からです」
よりにもよって一番おいしいタイミングで橙は現れたらしい。
「………………」
「………………」
「…………わかったわ。マタタビをあげるからこのことは忘れなさい」
そういってスキマからマタタビを取り出して橙に渡す。
藍には油揚げ、橙にはマタタビを。この家のヒエラルキーの頂点に立つ紫の編み出した最強の秘策だった。
「ありがとう、紫様!」
嬉しそうな笑顔でそれを受け取った橙に、紫はちょうどいいとばかりに質問を投げかける。
「そうだ。あなた、藍が最近どこに出かけているか知らないかしら?」
「藍様ですか? それだったら最近はよく博麗神社にいるみたいですけど」
(博麗神社? どうして藍が霊夢のところなんかに――)
紫はそんな疑問を持ちながら橙に礼を言った。
そうして話が終わったと見るなり橙はぱたぱたとどこかへ駆けていく。
「……さて、(何か大切なものを代償に)藍の居場所を突き止めたわけだけど」
紫はこのあとどうしたものかと思い悩む。
確かに藍が普段どこに出かけているのか、気にならなかったといえば嘘になる。
しかし本当に知りたいことだというのなら、そんなものは本人に訊けばそれで済む話でもあったはずだ。藍はそれを紫に秘密にしていたわけではないのだから。
けれど紫がそうしなかったのは何故だろうか。
いちいち把握するのが面倒だったから?
――違う。
それでは、心配性の母親みたいに思われるのが嫌だったからだろうか?
――おそらくそれも違うだろう。
それらが正解ではないことを紫は理解する。
「なんというか、周囲に置いていかれるような感覚がこう、少し嫌なのかしらね」
――自分のあずかり知らないところで、何か楽しいことが起きていたら嫌だ。
あるいはそういった子供のようなわがままな感情が紫の中にはあるのかも知れない。
そしてそんな心の内を自分と主従関係にある藍に知られるのは、さすがに紫も困るというものだろう。
(何が困るのかって、ほら、主としてと尊厳とか、ね? そう、あれよ、生徒に舐められて教師が勤まるか、みたいな)
だからこそ紫は藍の行き先を尋ねはしなかったのだと、自分に思い込ませる。
藍がどこで何をしていても、それは藍の自由だ。式神だから紫が命令したことは命令した通りにこなしてもらわねば困るが、その他のことに対してまで藍を束縛するつもりはない。そうした信条の上で、それでも少しだけ――ほんの少しだけ気になってしまうのだから、それはもう仕方のないことなのかも知れない。
「別に、藍に遊びにいくなとか言うつもりではないのだし、ちょっと覗くくらいは、いいわよね」
紫はそう自分に言い聞かせるように呟くと、次の瞬間には身体の下に開いたスキマへと落ちるように消えていった。
藍は石階段を登って境内を横切り、神社の裏手にある居住スペースに顔を出す。するとそこにはすでにお茶を飲みながら談笑している人間の姿があった。
「あ、藍さんも来たんですね。どうぞ上がって下さい、汚い部屋ですけど」
「汚いって、ここ私の家なんだけど?」
藍を招ききれる早苗と、その早苗の物言いに対して一睨みする霊夢。
「ああ、お邪魔するよ」
「それにしても藍さん、今日は少し遅かったですね……何かありました?」
「いや、何かというほどのことでもないけど……紫様の起きてくるのが少し遅くてね」
「ほら、私の言ったとおりじゃない」
そういってどこか得意げに笑うと、霊夢は手に持ったお茶を一口すすった。
その言葉を聞いて不思議そうな顔をする藍に、早苗が説明する。
「あのですね、さっき私が今日は藍さん来ないのかなーって言ったら、霊夢さんが『どうせ紫の世話でも焼いてるんでしょ、そのうち来るわよ』って――」
そんな風に談笑を始めた藍たちに気付かれないように、開いたスキマから覗き見をしている妖怪がいた――まあそれは、言うまでもなく紫なのだが。
(へぇ……もう常連客として溶け込んでいるのね、藍は)
さすがは自分の式、社交性もばっちり問題無しだと、紫は自画自賛する。
そうして覗かれているとも知らずに会話は進んでいく。藍の紫の世話の話から、今度は藍が早苗に尋ねるように口を開いた。
「――そういう早苗の方はどうなの? 神様の世話とか、二つの柱で苦労も二倍だったりしないの?」
「私ですか? 確かに二柱いるからこその苦労もありますけど、神奈子様は私よりもしっかりしていますし、諏訪子様も少しお寝坊さんですけど、さすがに紫さんみたいに昼過ぎまで寝ていることはありませんので……あ、でも先日はちょっとそれでひと悶着ありまして――」
早苗はそう前置きすると、数日前の出来事を話し始めた。
「あ、神奈子様、おはようございます」
朝食の準備をしていた早苗は起きてきた神奈子の気配に振り返り、笑顔で挨拶をした。
「おはよう、早苗。何か手伝うことはある?」
「いえ、もう出来上がりますので……そうだ、それなら諏訪子様を起こしてきてもらえませんか?」
「ああ、それなら無理よ。あいつの寝起きの悪さは早苗もよく知っているでしょう?」
「……ちっ」
充分に知っているからこそ、あわよくばその役目を神奈子に押し付けてしまおうと思っていた早苗だった。
「今舌打ちしなかった?」
「いえ、舌鼓の間違いではありませんか?」
早苗はそういって味見用の小匙を神奈子に見せる。
「……まあいいけどね。とりあえずそういうわけだから、私は諏訪子を起こすのだけは御免だよ」
「そうですか……では私が起こしに行ってきますので――」
「ああ、朝食を並べとけばいいのね?」
「――私が帰らなかったときは、後任の巫女の人事をよろしくお願いします」
「……いや、戦場じゃないんだから」
真面目な顔で冗談を言う早苗に、呆れたように肩をすくめる神奈子だった。
その場を後にして、早苗は諏訪子の寝室へと向かう。
戦場じゃないと神奈子は笑ったが、そこへ向かう早苗の表情は数々の修羅場を潜り抜けてきた戦士そのものだった。
「諏訪子様、朝です!」
「………………」
「……まあ、呼びかけただけで起きてくださるはずがないですよね」
ため息を一つ。そうして次の策へと移る。
「ほら、諏訪子様、朝食が冷めてしまいますよ!」
そう言いながら、布団の上から諏訪子の身体を揺する。
「うーん……あと五十年」
「さすがにそれは待てません! 朝食が冷めるどころか、私がおばあちゃんになってしまいます!」
「いいじゃん……早苗なら……おばあちゃんになっても、きっとかわいいよ……」
「かわいいだなんて、そんな、諏訪子様ぁ……じゃなくて! ほら、神奈子様も食事を待っているんですから」
「神奈子は食いしん坊だね……そして私はお寝坊だ」
「わけの分からないこと言ってないで、さっさと起きてください!」
そういうと早苗は諏訪子にかかった布団を剥ぎ取った。
――しかし。
「……ぐぅ」
土の中でさえ眠れる諏訪子が、布団を剥ぎ取られただけで眠れなくなるはずもない。朝の少し冷たい空気に触れても、諏訪子はそのまま一切身じろぎせず眠り続けるだけだった。
早苗は手に掛け布団を持ったまま、横向きに寝ている諏訪子を見る。
少し乱れた寝間着、流れるような柔らかい金髪、かすかに覗かせるうなじ。
幼い外見からは想像しがたい色気がそこにはあった。
「まさに、眠り姫!」
しかし迂闊に抱きしめようものなら、寝ぼけた諏訪子にベリートゥベリー・スープレックスを決められることは必然であった。綺麗なバラには棘があるのと同様に、可憐な幼女にはレスリングの大技が完備されているものなのだ。
しかし布団を剥いでしまった以上、もう後戻りは出来なかった。布団越しなら触れても安全な眠れる諏訪子だが、今では迂闊に近づいたが最後、多彩な組み技から押さえ込みに派生し、早苗の身動きを封じたまま眠りを謳歌することだろう。
けれども虎穴に入らずんば虎児を得ず、布団を剥がずに諏訪子を起こす術があるはずもない。早苗は神に祈りを捧げながら、けれど祈りを捧げるべき神こそが今目の前で眠っている最大の障害であることに気付き、絶望する。
それでも過去の恐怖を押し殺し、震える身体に鞭を打つと、早苗は恐る恐る諏訪子に近づいて――
「――ってちょっと待ちなさいよ。早苗、いくらなんでもそれは大げさすぎるでしょ?」
いつつっこむべきかタイミングを見計らっていた霊夢がとうとう我慢しきれなくなって早苗の話を遮った。
「大げさなんかじゃありませんよ。今回だって神奈子様が助けてくれなかったら私は諏訪子様の三角締めの前に失神KO負けするところだったんですから!」
「三角締めってそれ、すでにレスリングじゃないんだけど……」
「神話の時代から自身の眠りを妨げるものと戦い続けてきた諏訪子様ですから、すでにレスリングの枠組みで語れるレベルではないのです。眠っているときの強さはヒョードルと塩田剛三と木村政彦を足して三乗したような、それはもう恐ろしいまでの総合格闘家なんですよ!」
「……? よく分からないけど、紫様とはまた違ったベクトルでの苦労があるみたいだね……。紫様の場合は、せいぜい布団と自身の境界を弄って一体化する程度だから、まだ楽な方で助かるよ」
「いや、あんたたちの基準はおかしいわよ?」
霊夢は冷静に指摘する。
「大体、布団と一体化した紫をあんたはどうするわけ?」
「どうするって、普通に天日干ししたり、押入れにしまったりするだけだけど」
「……ああ、そう」
(布団がベースなんだ……)
それだったら布団たたきを使って日頃のストレスを発散出来そうだなと、霊夢は思った。
実際は布団をたたいても中の繊維が切れるだけでいいことはないのだけど、そんなときくらいはやっても構わない気がするのだ。
(今、霊夢がよからぬ事を考えている気がするわ……)
スキマから覗いている紫がそんなことを考えていると、唐突に早苗が口を開いた。
「そうだ、霊夢さんは何か苦労していることとかってないんですか?」
「わ、私?」
早苗が霊夢にそんなことを尋ねた。
霊夢は「うーん」とうなりながら少し考える。
「苦労ねぇ。いつも宴会の片付けを一人でやるのが大変といえば大変だけど……あ、そういえばそれに関してなんだけど――」
そういって霊夢は少し前の出来事を話し出した。
「……さて、残る問題は『これ』をどうするかだけど」
困ったようにため息をつく霊夢の目線の先にあるそれは酔いつぶれた魔理沙に他ならない。空になった一升瓶を抱き枕がわりにすぅすぅと寝息を立てている彼女を、どう片付けるべきか――それこそが今一番の問題であったのだ。
「今日に限って保護者のアリスは来てなかったし……今から家まで運送するのも、さすがに面倒だわ」
宴会がお開きになる頃には当然日は暮れきっている。魔理沙を梱包して自宅まで送り届けてから帰ってくるのは、さすがに時間がかかりすぎるというものだ。
「……すぅ」
「……この悩みのなさそうな無防備な寝顔を見ていると、何だか無性に腹が立ってくるわね」
そう思うが早いか、霊夢は棚から墨と硯(すずり)と筆を取り出すと、硯に水を溜めて墨をすりはじめた。
中国では墨と硯と筆と紙を指して文房四宝と呼ぶ。それらのうち「紙」だけが今ここには存在しないが、その代替となるものは今霊夢の目の前で眠り転げていた。
霊夢は力強く、しかし丁寧に墨をすっていく。そうして充分に色が濃くなったのを確認すると、霊夢は墨を置き、代わりに筆を手に持ち、それを墨に浸す。
筆に浸透した墨がこぼれないように硯で余分な水分を落とすと、霊夢はそのまま魔理沙の寝顔に空いている手を伸ばした。
柔らかそうな金髪を持つ魔理沙。その前髪は寝汗で額に少し張り付いていた。霊夢はそれを優しくかきあげて――そこで一瞬静止する。
ここまで準備したのはいいが、魔理沙の顔に何を書くのか、そんな肝心なところの思考が抜け落ちていたのだ。
「うーん……さすがに額に肉では芸がないし……」
その体勢のまま霊夢が頭を悩ませていると、何か不穏な空気を感じたのか魔理沙が唐突にその目を開けた。
霊夢と魔理沙の目線が重なる。
状況を認識しようと、ぱちぱちと何度か瞬きをする魔理沙に対し、突然の出来事に瞬きも忘れたまま魔理沙の目を見る霊夢。
その一瞬の間に、魔理沙は高速で思考を巡らせていた。
目の前に霊夢。それが筆を持ち、逆の手では自分の前髪をかきあげて顔を覗きこんでいる。そんな霊夢が何をしようとしていたのか、魔理沙はひとつの答えに行き着いた。
「なるほど……お前に、他人を筆でくすぐり責めにする特殊な性癖があったなんて」
「違うわよ! どこをどう見たらそうなるのよ、ちゃんと硯とか墨のことも考慮しなさいよね!」
興奮した状態で、霊夢はその手に持った筆を魔理沙の鼻先に突きつけながら否定する。
しかしその勢いが余って、その筆先が魔理沙の鼻に触れてしまった。
「あ」
「え?」
疑問の声を上げて、自分の鼻に手を当てる魔理沙。その手を見ると、そこには黒い液体が付着していた。
「…………ああ、なるほどな」
そうして全てを理解した魔理沙はゆっくりと身体を起こして棚の方まで歩いていく。そうして棚からもう一本の筆を取り出して、黙ったまま霊夢の隣にある硯の墨に筆を浸す。そのままその筆先を霊夢の鼻に当てた。
「さて、これでイーブンだな……それじゃあ、決着をつけるとするか」
「え……? いや、ちょっと待ちなさいって、決着って何よ?」
「何を言ってるんだ? そんなのもちろん、どっちが先に相手の額に肉って書くかの勝負に――決まっているじゃないか!」
そう言うと同時に魔理沙の筆が霊夢の額に襲い掛かる。
霊夢は瞬時に後ろへ身体を倒すようにして回避し、転がるように距離を取った。
そうはさせないと、魔理沙は飛び掛るように追撃をかける――
「――その後はもう泥沼よ。墨がなくなるまで暴れまわって、部屋中を墨で汚しまくった末に引き分け。こんなことならもっと沢山墨をすっておくべきだったわ」
(いや、問題はそこじゃないでしょう……)
スキマで盗み聞きしていた紫は呆れたように嘆息する。
「あの、霊夢さん?」
「何よ、早苗」
尋ねるように声をかけてきた早苗に、霊夢と藍は目を向ける。
紫はそんな早苗に、自分のつっこみたい気持ちを代弁してくれるかも知れないと少しだけ期待した。
「その勝負を私として、もし私が勝ったら霊夢さんを筆でくすぐり責めにしてもいいですか?」
「いいわけあるか!」
霊夢は間髪いれずにつっこみを入れる。そして同時に驚愕した。
――魔理沙の言っていた特殊な性癖持ちが、まさか実在していようとは。
「私は別に変じゃないですよ。霊夢さんのその剥き出しの腋に筆の毛先を這わせて、その刺激から漏れそうになる声を必死に我慢する霊夢さんをさらに責め立てて、漏れる吐息に段々熱が帯びていくのを楽しみたいっていうのは、きっとみんなが持っている普通の感覚に決まっています!」
「……ああ、そう。それならあんたの剥き出しの腋でそれをやってやろうかしら?」
「いやーん、霊夢さんのえっちー」
「………………」
今の早苗には、何を言っても勝てる気がしない霊夢だった。
「――でもまあその話だけでも、霊夢と魔理沙は普段から仲がいいということはわかるよ」
ふと、藍がそんなことを言う。
けれどその言葉に対する霊夢の反応は、藍の予想とは大きく異なっていた。
「仲が、いい……? 私と、あれが……?」
凄く意外そうな顔で、目を丸くして、確認するように霊夢は隣の早苗の顔を見た。
「え? 霊夢さんと魔理沙さんって、親友とかそういうのですよね?」
「私と、魔理沙が……親友?」
「……あれ、何ですかこの反応」
早苗と藍は目を合わせて、二人同時に首をかしげた。
確かにこんな話をして、霊夢が素直に認めるとは思いがたい。だから二人の予想では霊夢は魔理沙と仲がいいということを軽く否定するか、あわよくば照れながら全力で否定するような反応が見られれば「おいしい」と、そう思っていたのだ。
けれど、今の霊夢の反応は否定とかそれ以前に、そんな風に思われていたこと自体が心底意外だというような雰囲気だった。
「いや、じゃあ霊夢さんにとって魔理沙さんって一体何なんですか?」
「私にとっての魔理沙ねぇ……」
霊夢はそういって少し考える。そして思いついた答えを口に出した。
「多分、この神社みたいなもの……かな」
「神社!」
霊夢は巫女だ。巫女にとって神社とはかけがえのないものである。だからこそ、その神社に例えられた魔理沙は霊夢にとって大切な人だ。
そんな三段論法で導き出した答えをもって、早苗は少し興奮した声を出した。
けれど。
「そうね、別にあってもなくても構わないという意味で――」
「……不謹慎な巫女もいたものだね」
「……ええ、全くもって藍さんの言うとおりです」
そういって二人は肩をすくめて呆れた。
けれどスキマから覗く紫だけはその言葉の意味を深く考える。
あってもなくても構わない。そう思うのは、それは元々霊夢自身が欲して手に入れたものではないからだ。それでも霊夢はそれを手放さない。決して遠ざけようとせず、今なおそこにある。そこに、あり続ける。
あることが自然で、当たり前すぎるからこそ――見えていない。
それがなくなった未来を、霊夢は想像することが出来ないのだ。
そして二人は知らない。けれど紫だけは知っている。
過去の異変で神社が倒壊したときの、霊夢の静かな怒りを。
(その神社と同じということは、魔理沙が傷つけられたなら同じように怒るということでしょう? ……ふふ。まだまだかわいいわね、霊夢も)
そんなことを紫は思う。
同時に、藍は心配なさそうだし面白いものも見れたので、そろそろ帰って家でごろごろしようかと、そう思っていたときだった。
「それなら、藍。あんたにとって、紫って何なのよ?」
「紫様、ですか?」
唐突に自分の名前が出て、紫は興味を引かれる。
「式神にとっての主ってのは分かるわよ? でも普段の紫といえばだらだらと寝てばかりじゃない。それで起きたと思えば遠まわしにわけの分からないことを言ったり、スキマを使ってしょうもないイタズラとかセクハラとかしてさ」
「せ、セクハラ?」
困惑した表情で意外そうな声をあげる藍。
「あ、それなら私も一回されましたよ? 急に背後に上半身だけ出した紫さんが現れて、胸を揉みしだかれましたから」
「ああ、恒例の新参者に対する身体測定ね」
「こ、恒例なの?」
「確かにそんなこと言ってましたね。おかえしに胸を揉み返したら慌ててスキマに逃げていきましたけど」
「……まあ早苗のことは置いとくとして。とりあえずそんな紫に仕えているあんたから、紫は一体どう見えているの、って話。ぐーたらで、胡散臭くて、子供っぽくてさ。あんたはあれを、本当に尊敬しているの?」
――藍は紫を本当に尊敬しているのか?
それは紫にとっても、気になる事柄ではあった。
けれどそれを、こんな盗み聞きのような形で聞いてしまうのは、少なくとも紫の本意ではない。
本当に気になることなら、自分で直截尋ねればいいことなのだ。
それをしなかったのは――。
(――ああ、そういうこと)
紫は気付いた。自分がどうして、それを藍に尋ねなかったのか。それは藍の行き先を尋ねられなかった本当の理由と、同じだった。
周囲に置いていかれる感覚。
自分のあずかり知らないところで楽しいことが起きていたら嫌だ。
確かにそんな心が紫にはあるのかも知れない。けれどそれは、別に藍だけを相手取った感情ではない。それを理由とすることは嘘ではないが、正解でもない。
紫が藍にだけ持つ感情。それはきっと霊夢が神社や魔理沙に持つ感情と同じなのだ。
紫にとって、藍はそこにあって当たり前になっている。
そんな藍がいなくなることを、紫はすでに想像することが出来なくなっている。
藍がどこにいくのか、紫は尋ねることが出来なかった。
藍が紫をどう思っているのか、それを尋ねることが出来なかった。
思えば単純なことだったと、紫は気付く。
紫は藍が嘘をつけば分かる。それが式神と主の絶対的な関係だった。そしてそれは当然、藍だって知っていることなのだ。
だからこそ――。
(だからこそ私は、藍の本意に因らずとも、藍の本心を聞き出せてしまう)
藍が本当は言いたくないと思っていることでさえ、主である紫は藍に言わせることが出来てしまうのだ。
あれほどに、対外的には「藍は道具」だと言い張り続けてきた紫が、けれどこうして藍の心を尊重している矛盾。その意味に気付いたとき、紫はただ自嘲気味に笑う。
そうしてこそ、今ここでそれを聞くことは、藍の本意に因らないのだから――。
――紫はそっと、そのスキマを閉じて、帰路に着くのであった。
「た、確かに紫様はだらだらと寝てばかりのぐーたらで、色々と胡散臭くて、子供っぽいいたずらが好きで、それがセクハラなどに発展してしまうこともあるダメな妖怪かも知れない! それでも――」
藍は必死に自分の主の名誉を挽回しようとしていた。
その必死な様子を、霊夢と早苗は微笑ましく見ている。
――紫は愛されているなと、そう二人は思うのであった。
「それでも?」
霊夢が続きを促す。
「それでも……ええっと……そうだ、言い方ってものがあるじゃないか!」
「………………」
「………………」
「………………あの?」
沈黙に耐え切れなくなった藍が言葉を発すると同時に、霊夢と早苗は大声で笑い出す。
「よりにもよって、何よそれ」
「それじゃあ全然フォローになってませんよ、藍さん」
そうしてしばらく二人は笑い続けた。
それからも三人は様々な他愛も無い話をしていく。そのたびに優しく、楽しげな笑い声が博麗神社に木霊する。
こうして一日が終わっていく。
決して特別ではない、平凡で、自然で、そこにあることが当たり前のような、そんな一日が。
「ただいま戻りました」
その声を聞いて、紫は藍が帰ってきたことを理解する。
「遅いわよ、藍。せっかくの晩御飯が冷めちゃうじゃない」
「藍様、今日は紫様が晩御飯を作ってくれたんですよ?」
「え、そんな、(あの紫様が)どうして……?」
「今何か失礼なことを考えたわね? まあいいけど、そんなことよりほら、早く手を洗ってらっしゃい」
そう言われて、藍は手早く手洗いとうがいを済ませて食卓についた。
「いただきます」
三人が声を揃えて、手を合わせる。
そうして始めて食卓に並んだ食事を見て、藍は絶句する。
「……あの、紫様?」
「あら、何かしら?」
「どうして肉じゃがとビーフシチューとカレーなんですか?」
「仕方ないじゃない、それしか材料がなかったのよ。買い出しに出るのは面倒だったし」
スキマを使って一瞬で移動できる便利な能力があっても、それを使うのが紫では宝の持ち腐れなのかも知れないと、そんなことを思いながら藍は言った。
「だからって、三つとも作ることはないと思うのですが……」
「いいじゃない、豪勢で」
紫は適当な雰囲気でそんなことを言う。
「藍様、じゃがいも、嫌いですか?」
「いや、そんなことはないけど……」
そう答えながら、藍は橙を観察する。
どうやら橙は目の前に並んだ料理に感激しているらしい。
それならまあ細かいことはいいかと、そんな気がしてくるから不思議なものだった。
「でもどうして突然、紫様が料理を?」
「たまには自分でやらないと、ね。便利な道具に甘えてばかりいたら、私自身がダメになってしまう。ただそれだけのことよ」
「そうですか」
そう返事をしながら、藍は肉じゃがを箸で口に運ぶ。
それは文句なしに美味しかった。
(忘れがちだけど、私に料理を教えてくれたのは紫様なのだ)
久々の紫の味を堪能するように、藍は次々に料理を口に運んでいった。
「あとね、藍」
「はい?」
「私は、もう少し早起き出来るように頑張るわ」
「はあ」
「出来ないかも知れないけど、出来るだけ出来るように、少しずつでもね」
「それはいいことだと思いますが、突然どうしたんですか?」
「別に、いつも道具に甘えてばかりいたらいけないって話よ」
「そうですか」
「………………」
「………………」
「でも、やっぱり起きられなかったら、そのときは起こしに来て頂戴ね?」
「ええ、それは構いませんよ。いつものことですから」
「寝ぼけてあなたにロングスリーパーをかけてしまうかも知れないけど」
「ロングスリーパーはヨーヨーの技です。……というか紫様、今日の話、聞いていましたね?」
「な、何の話かしらー?」
「………………」
「………………えへ?」
「……はぁ。まあ、別にいいですけどね」
藍は毒気を抜かれたように、小さくため息をついた。
「何よー。ちょっと藍のくせに生意気よー?」
「藍様は、生意気です?」
「ちょっと紫様、橙に変なこと教えないでくださいよ!」
そんな風に、紫たちの食事はにぎやかに進んでいった。
そうした、どこの家庭にでもあるような、そんな団欒。
それが「式は道具」だと言い続ける、紫の家にあるということ。
しかしそれは何も不思議なことではなかった。
ただ自然に、当たり前のように紫の隣にいる藍と橙――。
――その二人を、紫が「家族」だと思っていれば、何も不思議なことではないのであった。