「あぁもし、一寸 。」
「はぁ、私でしょうか。」
声を掛けられ振り返れば、解 れた古畳を植えたような不精髭、滑稽 けた赤い顔 。煮染めたような、なえなえの手拭い頬被り、克明 に刻んだ額の皺の間に汗が浮かんでる。色煤 びて、眼 は窪 み、継ぎはぎの股引膝までして雪駄履き、埃塗 れの薄汚れた襯衣 は鼠色、処々釦 の断 れた背広を肩衣のように着た男。煙管 の脂 まみれの赤茶けた歯の間から酒臭い息が洩 れていた。
「えぇ、そうだい。失礼だんが此れから何方 へ行らっしゃる。もし、この先の森へ。」
「はい、然 うですが、」
「それは止めといた方が可 い。」
影を倒 にうつして、手桶の水を汲んでは撒いている。
あっちこっち、ちらちらと陽炎が遊ぶ。
雲ひとつない空に陽も溶けて覆 れそうな日盛りに、石を噛 るような惟 いである。
この男は慥 、古道具屋の主人、名は霖之助であったか。何をしてるのか、ついでに少し酒臭いのも気になる、時刻はまだ黄昏 、宵の一献にはちょいと早すぎる。
「何か、拙いですか。」
「拙いもまずい、拙すぎる。お嬢ちゃんは知らねぇようだから教えてやるが、この先にあるのは八雲屋敷、二つ名神隠しの郷 だ。」
「神隠しの郷、」
「先日 も一人、村の少 いのが消えたってえ話だ。お嬢ちゃん、聞いてねえかい。」
「聞いてません。」
ぶっきらぼうに頷いたのは、この男のこともよく知らないからと、神隠しという言葉に何とも言えない興味を覚えたことの両方。
不安げに森を見れば、夕陽が葉の翠 を透かしてる。夏の日の森は煩 いもの、茅蜩 がじいこらじいこら、夜を控えて鳴いている。その声、地を焦がす音のよう。
「だから、止めなせえ。何も意地悪で云ってる訳じゃねえ、お嬢ちゃんの歩みが森の方へ向かっていたから云ってるんで、危ないと忠告してんのさあ。」
「ひい―じぃ、ひい―じぃ、」
「おぉ、くわばらくわばら。ほうら鳴いてなさる。」
「な、何ですか今の鳴き声は、」
蝉とは違う、その異質な森からの声に、私は何となく慄然 した。
「聞こえたかい、お嬢ちゃん。ありゃ化鳥 だ。化鳥が鳴いてなさるのさ。」
「化鳥、ですか、」
鸚鵡返しに問い返せば、銜 えていた煙管をポンと払いて、
「そうさ、神隠しに遭った者たちが、あの森の何処かで鳴いてるのさ、」
と応える。
「彼方はあの屋敷のことを知っているのですか、あの屋敷の人を、」
「知ってると云えば知ってる、知らないと云えば知らねえ。まぁ八雲紫ってえのが、そこの主人だ、これがまたとんでもない美人 で、」
「女なんですね。」
そうさと、煙管に草を詰めなおすと、ぱっぱっと青い煙を吹かす。
「婦 だ。何を考えてるかさっぱりだが、気が向きゃ人里にも降りて来る。人畜無害を装ってはいるが、あれはそんなもんじゃねえ。神隠しの主犯はあれじゃねえかと風説 する奴もいる。」
「妖怪の賢者と云われるのは、その屋敷の主人でしょうか。」
「そう呼ぶ奴もいらあな。けんど、賢いと云ったって、そりゃ妖怪としてで、お嬢ちゃんたち人間の常識で把 えられるもんじゃねえ、何やら興味があるようだが、関わっちゃあいけねえよ。」
「教えて下さい、神隠しと云うのは。」
眉を寄せてふむうと唸 って、煙をぷかり。
「まぁ、教えるだけなら構わねえが、別に捻 りも何もありゃしない、屋敷に行くもの行くもの、誰も帰ってこねぇからよ。主の色香に参って帰ってこねぇのだろうと云う奴もいる、執心が仇になるってことも中にはあるだろうさ。だがよ、それにしたって全部が全部戻ってこねぇと云うのは訝 しい。」
となりゃあ、男は云いながら石に腰を下ろす。
「隠されたとでも考えなきゃ納得がいかんめえよ。あの屋敷はどこか別の空間に繋がってるのかもしらん、それだとしたらもう戻ってはこねぇだろうよ。妖怪の賢者と云われるだけはあらぁな。そいでその無念があの化鳥になって鳴いてなさるのさ、恨めしい怨めしいと、あの屋敷を覆ってるんさ。」
「消えるのは人間だけなのでしょうか。」
「そうだなあ、この間、屋敷の前 ぇを通りがかった時分、何と云ったか、慥なんとか小傘っつう妖怪が干上がった烏賊みてえに、だらんと窓枠に引掛かってたが、そりゃ隠されたとは違うだろうよ、」
「じゃあ隠されるのは矢張り人間だけ、」
そうだろうなと、カキンと石に煙管を打ち付ける。と、再び銜えて、ぷっと輪に吹く。
「行くのかい、お嬢ちゃん。」
男の心配そうな声に、何処か嘲笑 ているような響きを感じ、思わず身が竦 む。
「はい。」
「もうじき夜が降りて来る、それでも行きなさるのか。」
「私は行かなければなりません。深切 に忠告して下さるのは有難いことですが、どうか止めないで下さい、」
「そうかい、なりゃあ止めはしねえ。でも少し待ちなされ、」
春 の過ぎた鰯を焼く匂いが洟 を掠める。
「食べてきなされ。少しでも腹に収めりゃあ元気もでるだろうさ、唯でさえこう暑い日が続いているんだ、そんな青白い顔じゃあ屋敷に着く前にぶっ倒れちまう。さあ遠慮はいらねえ、気は心よ。」
礼を云って鰯を受け取れば、ぷんと匂う、好い塩梅に焦げた身に、腹が鳴る。
「これ。」
「ん、」
「ウイスキイです。お礼にどうぞ、一杯だけですが。」
「おぉ、有難てえ、洋酒なんて幾許 ぶりか、」
欠けた茶碗を差し出す。注げば破目 からちょろちょろと漏れていく。
「もったいねえ、もったいねえ。」
旨そうに口を附 けて啜 れば、喉が鳴く。
「鰯にウイスキイとはちょいと妙な取り合わせだが、悪くない。」
目の縁へ、さっと酔いが出る。
「あの、香霖堂のご主人ですよね、」
「いかにも、何でぇ、知っておったか。」
「何でこんな刻限から酒なんて、」
それを聞くと、そのままがっくりと頭 を垂れる。
「発売されねえんだ。何時まで待っても発売されねえのさ、約束したのに、発売されねえんだよ。」
そう云ったきり、あるのは沈黙。極 が悪くなった私はもう一度礼を云うと、素早くその場を退 た。
夕凪とともに淀 よりと、空も疲れたように、雲がだらけて陽をぐったりと覆いそう。これは一雨濡れるやも。
「ひい―じぃ、ひい―じぃ、」
化鳥の声が、森を前に立淀 んだ私の耳には、遠く伝わる、ものの谺 のように聞こえた。
私は畠芋子 。何の取り柄もない人間である。その私が何故、神隠しの郷に住むと云われる妖怪の賢者を訪ねるのか。
それは、地底の深く、法界と呼ばれる場所に封印された聖白蓮を救いだす為である。
彼女は人も妖怪も分け隔てなく救うと云う旅をしていた。その途中で私も救われたのだ。その恩返しをしようと云うのである。
妖怪の味方をするのは危ないと、心無い人間たちに危険視され、彼等によってこの聖人は封印されてしまったのだ。
助けると云っても唯の人間である私には難しい。特殊な能力がある訳でもない。だから、力を得る為に訪れるのだ、妖怪の賢者の元へと。
白蓮様を助けて来てくれと頼むのではない、そこまで無遠慮ではない。それだけの力と、策があれば授けてもらいたいのだ。勿論、無償とは云わない、その為に村で手に入る最上級の酒を持参した。かの賢者は酒好きらしい。
森に入って、どれだけ経っただろうか。四辺 はすっかり黒い。刻限は恐らくもう、深更 。同じ処ばかり見ている気がする、これは迷ったか。
渓河 の流れの音も寂 として何も聞こえず、時々颯 と音をたてて響くのは先程の化鳥か。瀟殺 たる此の声は、この宵、一際鋭く、幻に濃く成る。
尤 も、村里を遠く離れた此処で、人の声など聞こえようもない。夜が姿をあらわして、私に声を掛けたらしい。
下闇の草の小径 を、その声が蜘蛛手に走る。谷に山に、果てなく底見えない茂りとなって。
雲間から照 す、一際ばかりの月光が、頼母 しいほど、膚 を塗らす。
無心に、夜道を虫の香を嗅いで歩行 いた。
前途 に、だらりと枝に下がる烏賊がいた。これは偶然 か、探究 たか。
「あの、大丈夫ですか。」
「う、ううん、」
それを降ろすと、気付けに一杯ウイスキイを呷 らす。すっかり乾いた唇が見る見る艶に戻る。
「いやぁ、助かりぃした。ほんに有難うござりんした、」
干乾びた烏賊かと思ったが、こうして見れば、まんざらの容色 でなし。
「どういたしまして。」
「わっちは多々良小傘と申しぃす。ぬしさんは、」
「畠、芋子。」
「ははは、旨そうな名でありんすね。」
「失礼ね、」
そう云った、私の頸 へ、小粒な雨がポツリときた。
「雨でござりんしょうか。ささ、此方 へきておくんなんし。」
促されるまま、彼女の傘へと入れば、その腕 の綺麗なこと。
雨の滴々 しとしとと葉を打って、森の暗さが、翠に黒く染込む。幾ら夏の夜と云え、夜露となれば身にも染みる。
「恥ずかしいところをお見せしぃした、どうか忘れておくれなんし。」
「何であんな処に、」
「八雲屋敷をご存じでありんしょうか。其処の主人を驚かしてやろうと突撃したんでありんすが、」
「妖怪の賢者ね。」
「そうでござりますよ。わっちはまだ半人前、故に妖怪の賢者と呼ばれるあのお方を驚かすことが出来れば格も上がると考えて挑んだのでありんすが、見事に帰り打ち、歯も立たないでありんした。」
「それで干されてたんだ。」
「最初は屋敷だったんでありんしょうが、邪魔になったらしく、此処まで飛ばされたと云う訳でありんす。」
「無事で良かったね。」
「かたじけじゃ、お坐 になんせんかえ。」
何処から出したのか、筵 が既 に敷かれている。
半ば枯れて、半ば青々とした矮樹 の下である。この雨に葉桜で酒宴も乙なもの。二人はちょいと風情に相合傘。
「えぇと、小傘ちゃん、」
「小傘で好いわいな。」
「小傘。」
「あい。」
「八雲屋敷の場所を知っているのね。」
「それは知ってるでありんすが、」
「私を其処まで案内してくれないかしら。」
「ぬしさんは人間でありんしょう。何で八雲屋敷なんに、」
「お願い。」
首を傾けて考える彼女に、事情 を説明した。
「そう云うことでありんしたか。屹度 、ぬしさんの意志は固いんでござりんしょうね。」
返事の代わりに一つ、頷いた。
「あい、よございます。案内いたしんしょ。」
「有難う。」
「でも、もう少し此処にいなんせ。まだ早うざんす、宵は始まったばかりでありんす。わっちも、もう少しぬしさんと喋りたいんでござんすよ。」
「此処を行った先に見える、黒板塀に囲まれた御屋敷が、目的の八雲屋敷でありんす。」
「そう、分かったわ、有難う。」
「いえいえ、助けて頂いたにも関わらず、こんなことしか出来ず、ほんにかたじけないでございんす。一緒に行きたいのは山々でござんすが、行った処で役に立たぬのは明白でありんす。」
「何を云っているの、充分助かったわ。小傘が居なければ此処まで来ることも出来なかったでしょうね。だから気にしなくていいの。」
「あい。余計なお世話でありんしょうが、ほんに行きますんで、」
「うん。このまま私一人生きるよりも、白蓮様の封印を解いたほうが、何倍も世の中の為になるからね。」
「それでも、わっちは芋子に助けられたでありんしょう、そうやって、ぬしさんもその白蓮と仰る方のように生きることは出来ないんでござんしょうか。」
「無理よ。私は唯の人間だもの。小傘、貴女なら立派な唐傘お化けに成れるわ、応援してる。」
「そう云って下さって、嬉しうざんす。でもそれなら見届けて欲しいでござりんすよ。」
「ごめんね。ほら、そんな悲しそうな顔しないで、離れずらくなるでしょう、」
「あい。もう、傘は必要ないでありんすね。」
彼女は傘を窄 める。
二人で見た中空は冴 切って、星の器に水垢離 しそうな月明かり。彼女は口を捻 じて片頬笑み、私は棒立ち。
雨は止んでいた。
「通り雨でござりんしたね。また、逢えるでありんしょうか。」
その言葉に少し覚悟が緩んで、怨めしく彼女を見れば、皎々 として澄渡った銀河から、白々と月が射す。
「袖は振り合ったからね。」
応えれば、喊 、と一つ下駄を鳴らして、
「おさらばえ。」
と云って、紅い舌をぺろりと出すと莞爾 して、振返り、するすると月の前を歩行 いて消えた。
「さぁ、行こう。」
覚悟を決め直す。
黒猫が前を過 ぎっていく、これは吉か凶か。にゃおと鳴くたびに口が嘲笑 てるような気がする。足元に纏 わりついては離れて鳴く。付いていけば可 いのか如何か。
想像よりもずっと新しい黒板塀、その向こうに寂 びれた庭園が広がり、早咲きの竜胆が揺れている。じっとり伝わる夜の気配、その向こうから。
「ひい―じぃ、ひい―じぃ、」
さて、今聞くも化鳥と同じ声。
心細く思えば、塀の先に微かな灯 り。提灯 には八雲の二文字。月の光を廂 で浴びて、暗い軒に、掛行燈 が疎 らに白く、壁に踊る。
私は灯りに誘わる、果敢 き蛾 のように、ちらちらと呼ばれてる。
「お嬢ちゃん、お暑うございますね、」
二階の窓から婦 の声がした。
「あ、」
「そんなに身構えなくてもようございますのに。」
「は、はい、」
婦はゆっくりと扇子を使いつつ。
「おぉ暑い。温気 で蒸殺されそう。そしたら溶けてしまいますわ。溶けたら地に縛られる。それは困るでしょう、」
棒立ちのまま、頭だけ頷いた。
「ともかくお嬢ちゃん、お上がり遊ばせ。」
云われるままに戸に手を掛ける。
「如何 様で、」
頭に黒い花を咲かせた少女がぽつりと、一言。
「あ、あの、」
「好いのよ、妖夢。お客様でございます。お上がりになって頂いて。」
判然 とした清 しい声が壁に附いて、此処で聞こえる。
二階のその声に、ついと顎で入れと促され。
「お邪魔します。」
と、応えるが精一杯。
中は、この月夜と違って最 う暗い、古畳の匂いが舞っている。外観よりもずっと広く感じ、二階に婦、目の前に少女、しかし何故か寂 として人気 がない。
「どうぞ、灯 りです。足許暗いです。」
ふよふよと、人魂らしきをぶら下げた少女の声。表情も漸 っと灰 くばかり、目口も見えず、あぁ暗い。
「ど、どうも。」
煤 けた行燈に点灯 したものを掲げて、みしみしと段梯子を上がれば、闇の濃さがきわだち、心の臓が真っ赤な脈を打つ。何処かに穴でもあるのか、吹いた風に板戸が挫 ぐ。暗 が深いと、火の気勢 も墨に染む。
上がった先の障子の破目 から、なんとなく漏れてくるような妖しい風情。
「今晩わ。」
「はい、今晩わ。さ、お入り、お入り、」
解 けば腰までありそうな髪を無造作に結上げて、解 れたものがはらりと、肩に掛かる旭 のような金色 の髪。肩越しに此方を見向いた、薄化粧の中にすっと鼻筋の通った横顔。その眉、唇の色も皆、花のようにはらりと咲いて、云った拍子に俯 けば、雪のような頸脚 が覗く。姿は小造りだけれど、窓際に腰掛けた背はすらりと高い。濃い紫の細い衣を薄紗 が飾る。夜風が翻然 と立てば、布襞 が照って輝き、あぁ、白魚の指に重そうな扇。それが恰 も月を招いた如く、衣からこぼれた膚 に透き通る。
「これ、ウイスキイです。」
「あら、これは嬉しいこと。有難う存じます。」
云いながら、扇ぐ姿は水のよう。此処だけひやりと冷たい。
はたと貼りつく、崩れた前髪払い、静かに反らした指のみ、ちらりと白い。婦の髪、南国の果実を敷いたようで、一篠 でも風に縺 れて来たものを、舌先に寄れば、乾いた口に、唇も濡れそう。
「妖夢、肴の用意を、」
階下で返事が聞こえた。台所だろうか、トトン、トンと寂 びた音。
「それで、お嬢ちゃん。どうして此処に、」
「私は、畠芋子と云います。あの、貴女が妖怪の賢者、八雲紫様でしょうか、」
「いかにも。」
「そうですか。不躾ではございますが、八雲様にお願いがあって参ったのです。」
「ほほ。そうですか、」
私は事情 を話し始める。
賢者は声を挟まず、唯、目で応え、目で頷いた。
「そう、それで妾 の処へ、人の身で難儀なことであったでしょうに、」
「御気づかい、有難うございます。」
「紫様、肴の用意が整いました。」
声のした方向けば、先程案内をしてくれた少女。月と雪洞 に染めて見れば、優容 な物腰、睫 が濃い。眦 凛として切れ上がり、眉一文字に引き締まりて、磨 いだような声が閃く。
「如何 いたしましょう、」
正整 と坐って、伺えば、
「ご苦労様。其処に置いておいてちょうだいな。えぇ、其処でけっこうです。」
頭を下げると音も無く去っていく。
私は持参の酒を注いだ。
受けて華の杯 、淡い雪洞、鬼灯 のように赤い灯りを点 す。肴は、ぬたに貝の刺身。栄螺 、蛤 、皿に映え、蜆 など、ちょいと小粋につまんでみれば、婦の白い喉が、なめりと蠢 く。
「それで、」
と、さも大儀そうに、狂い咲きの紫陽花が、膠 もなく続きを促す。あの酒を、ちょっと唇に附けたところは女の味がするだろう。
「力を、白蓮様を助けだせるだけの力を授けて欲しいのです。」
「そうねえ、」
扇子を開いて閉じて、思案顔、あるのは黙然 。ちょっと取着く端 がないから、
「無理でしょうか、」
と云い棄てに、再度酒を注ぐ。呷ってまた沈黙。糠に釘でぐしゃりとなる。
「藍、おりますか藍、」
「は、此処に」
障子一枚隔てた向こうに影と声。地獄絵を、月夜に映したような怪しの姿。踊る尾が九つ、幻燈 の如し。賢者はそれさえ従えるのか。
「唄を、」
影が頷いた。
三味線の音が、霜を切って流れ出す。白銀の糸で手繰 たように、煌 めく唄の声。ちりちりと想いが散る。
「あの、お嬢ちゃん。此処まで来たと云うことは覚悟があると、そう考えて好いのでしょうか、」
「はい。」
「宜しいですわ、妾にもお願いがございます。その願いさえ叶えて頂ければ、約束通り力を授けましょう。」
「ほ、真個 ですか、」
「串戯 なんぞ云いませんこと。妾の願いとお嬢ちゃんの願いは繋がっているのですから。」
「それは八雲様のお願いを聞けば、自然と私に力が授かると、そう云うことでしょうか、」
闇に咲く花の頬笑み、ゆっくり頷く。湯気に蒸したような生暖 い風が、一陣流れて、髪が靡 く。
「お嬢ちゃん、莨 は喫 むかい、」
「いえ、」
「では、失礼しますよ。」
「どうぞ、」
莨盆からとって巻莨を銜える。とった拍子に裾 が肌蹴 て、真白な脛 も露 わに、誘う袂 に色香が時めき、火燧 を擦れば燐が匂う。燈火 の織目を縫うように、薄ぼんやりした灰色の煙が、暗夜 に漾 う。
「私は何をすれば可 いのでしょうか、」
「お嬢ちゃん、訊いてから無理だと云っても、手遅れでございますよ。そんなこと云えば怨むんですよ、妾。」
「はい。」
「可厭 な蟲が、鳴くんですこと。」
「蟲、ですか、」
「えぇ、蟲です。此処に来る途中、聞かなかったかえ、ひい―じぃ、ひい―じぃ、と」
「き、聞きました、先刻 から何度も。でもあれは、化鳥だって、」
「それは里の人間たちが勝手に呼んでいるだけ、あれは蟲なんでございますよ。」
と、ふらふらと瞼 のあたり、ほんのり紅くして、酔った風情で、莨をぱっぱっ。
「それで、」
「あの蟲を、黙らせて下さいな。」
莨を潰 す姿も、凛として。
「私が、ですか。」
「そうでございます。妾では駄目なんですの、」
「そんな。妖怪の賢者と呼ばれる八雲様に出来ないことを、如何して私などが出来るでしょうか。」
「ほほ。」
と、唇に扇子を當 てて、それなり、たおやかに打ち傾く。
「藍、有難う。もうけっこうですよ、」
そう手を鳴 けば、唄と三味線の音が止む。
「お嬢ちゃんになら出来るんでございます。」
「蟲とは何なのですか、」
「ほら、お聞きなさいまし、一寸 、鳴いている蟲がございましょう。」
と云った爾時 に、
「ひい―じぃ、ひい―じぃ、」
声につられて眼下の庭園に目を移せば、幽 かな蛍の影が、人魂 に見えた。
「如何すれば、私に蟲を黙らすことが出来るのですか、教えて下さい、」
「名を、」
「え、」
「それではねぇ、お嬢ちゃん。名を下さいな。」
遠くで、井戸の水の音が水底 へ響いてポタンと鳴った。不思議に風が留 んで寂寛 した。
婦は今、名と云ったか。
「名、でございますか。」
「名には魂が込められています。魂に刻まれた記憶も。それらを妾に下さいな。」
「それで、あの蟲を黙らせることが、」
羞 しげに、頷く。
「ひい―じぃ、ひい―じぃ、」
「おぉ、あんなに鳴いている。よほどお腹が空いているのだねえ、愛おしい富士見の娘は。」
「名を、食べるのですか、」
「亡霊ですからねえ。お嬢ちゃんたちのように人間の食べ物を口にしたところで腹は膨らまないのでございます。亡霊は魂と、記憶を食べるんでございます。普通、亡霊は一つ魂食らえば四十九日は大丈夫なんでございますが、どうした訳かあの子はとても大食いで、」
「ひい―じぃ、ひい―じぃ、」
「このように、ひもじい、ひもじい、と何時も腹を空かせては、鳴いているのでございます。あぁ、可哀想に。」
「名を、名を渡したら私は如何なるのですか、」
「なくなるんでございますよ。」
鳴いていたのは、腹の蟲。
聞いたのは、蟲の知らせ。
「八雲様、それでは約束が違います。」
「違くはありませんこと。名を失ったお嬢ちゃんは妖怪になるのです。」
「妖怪、ですか。」
「名を貰っても、肉は残る。それは生きても死んでもいない、別の妖となる。境界に住まうモノ、得体の知れぬモノ、そう鵺 に成るのですよ。」
「―ぬえ、その妖怪は強いのですか。」
「えぇ、正体を失くすことで、力の強い妖怪と成るんでございます。その得体の知れなさこそが肝、お嬢ちゃんが人であるよりは断然。」
「でしたら、この名は差し上げます。」
「ただし、鵺と成ったお嬢ちゃんが、必ず、その白蓮と云うお方を助けるかは保証出来ないのでございます。望み通りに封印を解けるか、それともちょっかいを掛けるだけなのか、はたまた、迷惑を掛けるどころか敵対か、」
「それでも、私には頷くしかないのでしょう、」
「ほほ。」
その頬笑みに果てが無いから肝を据えた、もとより引き返すつもりもない。
「此処は神隠しの郷と呼ばれています。八雲様のお屋敷に入った時点で、私の選択肢は一つしかないのでしょう。」
「好い、お覚悟。」
「よろしくお願い致します。」
「まぁ、魂から零れた記憶が、肉にも少しは染みて残っているもんでございます。一度、縁を結んだと云うのなら、再び縁を繋ぐのは容易でございましょう。」
「はい。」
「あの子も嬉 びますわ、だってお嬢ちゃん、とても美味しそうな名前ですもの。幽々子、こちらへいらっしゃいな、幽々子、」
奥の襖が、すらりと開けば、女が幽雅に茫然 。
影が床を這って、ずいと、動き出せば、薫 が颯 と散る。淡雪に、桃を塗 したような儚色の髪。肩を細 り、月射すその影は、絵で見たように咲いた墨染めの桜。莞爾 した、その姿は宛然 、毒のある黒蝶に似たり。頬笑みに心消々 と成れば、佛 と灯りが消えた。蝋燭の匂いが立って、暗夜 の薫が舞った。
蹌踉 とすれば、女に倒された。湿って、饐 えた匂いのする布団。天井の染みと顔 合わせ。匂い立つような吐息が掛かる、色があれば嘸 ぞ紅 いことだろう。顎に沿うように舌が這う、擽 たいような、惧 ましいような。我を忘れた郷 に一心不乱。
そのまま見上げた空に、月だけが、ぽっかりと。あぁ此処は月天心 。杯さえも月を酌 み、静寂の中、此処だけ姦 しい。
「お待ちなさい、幽々子。不可 ません、そんなに食いついては婢 い。お嬢ちゃん、大丈夫、」
「はい、八雲様、」
「お嬢ちゃん、何か、残す遺言 はあるかしら。」
白蓮様に、託 を頼むか。
この境遇を呪うか。理不尽を憎むか。
そのどれも、相応しくない。
「八雲様、」
「なあに。」
「ぬえとなるこの身より、貴女様の方が、よほど得体が―」
知れませんと、続けようとした声は、ひい―じぃ、ひい―じぃ、と鳴く蟲に食われてしまい。
これが、私の聞いた最期の音である。
「はぁ、私でしょうか。」
声を掛けられ振り返れば、
「えぇ、そうだい。失礼だんが此れから
「はい、
「それは止めといた方が
影を
あっちこっち、ちらちらと陽炎が遊ぶ。
雲ひとつない空に陽も溶けて
この男は
「何か、拙いですか。」
「拙いもまずい、拙すぎる。お嬢ちゃんは知らねぇようだから教えてやるが、この先にあるのは八雲屋敷、二つ名神隠しの
「神隠しの郷、」
「
「聞いてません。」
ぶっきらぼうに頷いたのは、この男のこともよく知らないからと、神隠しという言葉に何とも言えない興味を覚えたことの両方。
不安げに森を見れば、夕陽が葉の
「だから、止めなせえ。何も意地悪で云ってる訳じゃねえ、お嬢ちゃんの歩みが森の方へ向かっていたから云ってるんで、危ないと忠告してんのさあ。」
「ひい―じぃ、ひい―じぃ、」
「おぉ、くわばらくわばら。ほうら鳴いてなさる。」
「な、何ですか今の鳴き声は、」
蝉とは違う、その異質な森からの声に、私は何となく
「聞こえたかい、お嬢ちゃん。ありゃ
「化鳥、ですか、」
鸚鵡返しに問い返せば、
「そうさ、神隠しに遭った者たちが、あの森の何処かで鳴いてるのさ、」
と応える。
「彼方はあの屋敷のことを知っているのですか、あの屋敷の人を、」
「知ってると云えば知ってる、知らないと云えば知らねえ。まぁ八雲紫ってえのが、そこの主人だ、これがまたとんでもない
「女なんですね。」
そうさと、煙管に草を詰めなおすと、ぱっぱっと青い煙を吹かす。
「
「妖怪の賢者と云われるのは、その屋敷の主人でしょうか。」
「そう呼ぶ奴もいらあな。けんど、賢いと云ったって、そりゃ妖怪としてで、お嬢ちゃんたち人間の常識で
「教えて下さい、神隠しと云うのは。」
眉を寄せてふむうと
「まぁ、教えるだけなら構わねえが、別に
となりゃあ、男は云いながら石に腰を下ろす。
「隠されたとでも考えなきゃ納得がいかんめえよ。あの屋敷はどこか別の空間に繋がってるのかもしらん、それだとしたらもう戻ってはこねぇだろうよ。妖怪の賢者と云われるだけはあらぁな。そいでその無念があの化鳥になって鳴いてなさるのさ、恨めしい怨めしいと、あの屋敷を覆ってるんさ。」
「消えるのは人間だけなのでしょうか。」
「そうだなあ、この間、屋敷の
「じゃあ隠されるのは矢張り人間だけ、」
そうだろうなと、カキンと石に煙管を打ち付ける。と、再び銜えて、ぷっと輪に吹く。
「行くのかい、お嬢ちゃん。」
男の心配そうな声に、何処か
「はい。」
「もうじき夜が降りて来る、それでも行きなさるのか。」
「私は行かなければなりません。
「そうかい、なりゃあ止めはしねえ。でも少し待ちなされ、」
「食べてきなされ。少しでも腹に収めりゃあ元気もでるだろうさ、唯でさえこう暑い日が続いているんだ、そんな青白い顔じゃあ屋敷に着く前にぶっ倒れちまう。さあ遠慮はいらねえ、気は心よ。」
礼を云って鰯を受け取れば、ぷんと匂う、好い塩梅に焦げた身に、腹が鳴る。
「これ。」
「ん、」
「ウイスキイです。お礼にどうぞ、一杯だけですが。」
「おぉ、有難てえ、洋酒なんて
欠けた茶碗を差し出す。注げば
「もったいねえ、もったいねえ。」
旨そうに口を
「鰯にウイスキイとはちょいと妙な取り合わせだが、悪くない。」
目の縁へ、さっと酔いが出る。
「あの、香霖堂のご主人ですよね、」
「いかにも、何でぇ、知っておったか。」
「何でこんな刻限から酒なんて、」
それを聞くと、そのままがっくりと
「発売されねえんだ。何時まで待っても発売されねえのさ、約束したのに、発売されねえんだよ。」
そう云ったきり、あるのは沈黙。
夕凪とともに
「ひい―じぃ、ひい―じぃ、」
化鳥の声が、森を前に
私は
それは、地底の深く、法界と呼ばれる場所に封印された聖白蓮を救いだす為である。
彼女は人も妖怪も分け隔てなく救うと云う旅をしていた。その途中で私も救われたのだ。その恩返しをしようと云うのである。
妖怪の味方をするのは危ないと、心無い人間たちに危険視され、彼等によってこの聖人は封印されてしまったのだ。
助けると云っても唯の人間である私には難しい。特殊な能力がある訳でもない。だから、力を得る為に訪れるのだ、妖怪の賢者の元へと。
白蓮様を助けて来てくれと頼むのではない、そこまで無遠慮ではない。それだけの力と、策があれば授けてもらいたいのだ。勿論、無償とは云わない、その為に村で手に入る最上級の酒を持参した。かの賢者は酒好きらしい。
森に入って、どれだけ経っただろうか。
下闇の草の
雲間から
無心に、夜道を虫の香を嗅いで
「あの、大丈夫ですか。」
「う、ううん、」
それを降ろすと、気付けに一杯ウイスキイを
「いやぁ、助かりぃした。ほんに有難うござりんした、」
干乾びた烏賊かと思ったが、こうして見れば、まんざらの
「どういたしまして。」
「わっちは多々良小傘と申しぃす。ぬしさんは、」
「畠、芋子。」
「ははは、旨そうな名でありんすね。」
「失礼ね、」
そう云った、私の
「雨でござりんしょうか。ささ、
促されるまま、彼女の傘へと入れば、その
雨の
「恥ずかしいところをお見せしぃした、どうか忘れておくれなんし。」
「何であんな処に、」
「八雲屋敷をご存じでありんしょうか。其処の主人を驚かしてやろうと突撃したんでありんすが、」
「妖怪の賢者ね。」
「そうでござりますよ。わっちはまだ半人前、故に妖怪の賢者と呼ばれるあのお方を驚かすことが出来れば格も上がると考えて挑んだのでありんすが、見事に帰り打ち、歯も立たないでありんした。」
「それで干されてたんだ。」
「最初は屋敷だったんでありんしょうが、邪魔になったらしく、此処まで飛ばされたと云う訳でありんす。」
「無事で良かったね。」
「かたじけじゃ、お
何処から出したのか、
半ば枯れて、半ば青々とした
「えぇと、小傘ちゃん、」
「小傘で好いわいな。」
「小傘。」
「あい。」
「八雲屋敷の場所を知っているのね。」
「それは知ってるでありんすが、」
「私を其処まで案内してくれないかしら。」
「ぬしさんは人間でありんしょう。何で八雲屋敷なんに、」
「お願い。」
首を傾けて考える彼女に、
「そう云うことでありんしたか。
返事の代わりに一つ、頷いた。
「あい、よございます。案内いたしんしょ。」
「有難う。」
「でも、もう少し此処にいなんせ。まだ早うざんす、宵は始まったばかりでありんす。わっちも、もう少しぬしさんと喋りたいんでござんすよ。」
「此処を行った先に見える、黒板塀に囲まれた御屋敷が、目的の八雲屋敷でありんす。」
「そう、分かったわ、有難う。」
「いえいえ、助けて頂いたにも関わらず、こんなことしか出来ず、ほんにかたじけないでございんす。一緒に行きたいのは山々でござんすが、行った処で役に立たぬのは明白でありんす。」
「何を云っているの、充分助かったわ。小傘が居なければ此処まで来ることも出来なかったでしょうね。だから気にしなくていいの。」
「あい。余計なお世話でありんしょうが、ほんに行きますんで、」
「うん。このまま私一人生きるよりも、白蓮様の封印を解いたほうが、何倍も世の中の為になるからね。」
「それでも、わっちは芋子に助けられたでありんしょう、そうやって、ぬしさんもその白蓮と仰る方のように生きることは出来ないんでござんしょうか。」
「無理よ。私は唯の人間だもの。小傘、貴女なら立派な唐傘お化けに成れるわ、応援してる。」
「そう云って下さって、嬉しうざんす。でもそれなら見届けて欲しいでござりんすよ。」
「ごめんね。ほら、そんな悲しそうな顔しないで、離れずらくなるでしょう、」
「あい。もう、傘は必要ないでありんすね。」
彼女は傘を
二人で見た中空は
雨は止んでいた。
「通り雨でござりんしたね。また、逢えるでありんしょうか。」
その言葉に少し覚悟が緩んで、怨めしく彼女を見れば、
「袖は振り合ったからね。」
応えれば、
「おさらばえ。」
と云って、紅い舌をぺろりと出すと
「さぁ、行こう。」
覚悟を決め直す。
黒猫が前を
想像よりもずっと新しい黒板塀、その向こうに
「ひい―じぃ、ひい―じぃ、」
さて、今聞くも化鳥と同じ声。
心細く思えば、塀の先に微かな
私は灯りに誘わる、
「お嬢ちゃん、お暑うございますね、」
二階の窓から
「あ、」
「そんなに身構えなくてもようございますのに。」
「は、はい、」
婦はゆっくりと扇子を使いつつ。
「おぉ暑い。
棒立ちのまま、頭だけ頷いた。
「ともかくお嬢ちゃん、お上がり遊ばせ。」
云われるままに戸に手を掛ける。
「
頭に黒い花を咲かせた少女がぽつりと、一言。
「あ、あの、」
「好いのよ、妖夢。お客様でございます。お上がりになって頂いて。」
二階のその声に、ついと顎で入れと促され。
「お邪魔します。」
と、応えるが精一杯。
中は、この月夜と違って
「どうぞ、
ふよふよと、人魂らしきをぶら下げた少女の声。表情も
「ど、どうも。」
上がった先の障子の
「今晩わ。」
「はい、今晩わ。さ、お入り、お入り、」
「これ、ウイスキイです。」
「あら、これは嬉しいこと。有難う存じます。」
云いながら、扇ぐ姿は水のよう。此処だけひやりと冷たい。
はたと貼りつく、崩れた前髪払い、静かに反らした指のみ、ちらりと白い。婦の髪、南国の果実を敷いたようで、
「妖夢、肴の用意を、」
階下で返事が聞こえた。台所だろうか、トトン、トンと
「それで、お嬢ちゃん。どうして此処に、」
「私は、畠芋子と云います。あの、貴女が妖怪の賢者、八雲紫様でしょうか、」
「いかにも。」
「そうですか。不躾ではございますが、八雲様にお願いがあって参ったのです。」
「ほほ。そうですか、」
私は
賢者は声を挟まず、唯、目で応え、目で頷いた。
「そう、それで
「御気づかい、有難うございます。」
「紫様、肴の用意が整いました。」
声のした方向けば、先程案内をしてくれた少女。月と
「
「ご苦労様。其処に置いておいてちょうだいな。えぇ、其処でけっこうです。」
頭を下げると音も無く去っていく。
私は持参の酒を注いだ。
受けて華の
「それで、」
と、さも大儀そうに、狂い咲きの紫陽花が、
「力を、白蓮様を助けだせるだけの力を授けて欲しいのです。」
「そうねえ、」
扇子を開いて閉じて、思案顔、あるのは
「無理でしょうか、」
と云い棄てに、再度酒を注ぐ。呷ってまた沈黙。糠に釘でぐしゃりとなる。
「藍、おりますか藍、」
「は、此処に」
障子一枚隔てた向こうに影と声。地獄絵を、月夜に映したような怪しの姿。踊る尾が九つ、
「唄を、」
影が頷いた。
三味線の音が、霜を切って流れ出す。白銀の糸で
「あの、お嬢ちゃん。此処まで来たと云うことは覚悟があると、そう考えて好いのでしょうか、」
「はい。」
「宜しいですわ、妾にもお願いがございます。その願いさえ叶えて頂ければ、約束通り力を授けましょう。」
「ほ、
「
「それは八雲様のお願いを聞けば、自然と私に力が授かると、そう云うことでしょうか、」
闇に咲く花の頬笑み、ゆっくり頷く。湯気に蒸したような
「お嬢ちゃん、
「いえ、」
「では、失礼しますよ。」
「どうぞ、」
莨盆からとって巻莨を銜える。とった拍子に
「私は何をすれば
「お嬢ちゃん、訊いてから無理だと云っても、手遅れでございますよ。そんなこと云えば怨むんですよ、妾。」
「はい。」
「
「蟲、ですか、」
「えぇ、蟲です。此処に来る途中、聞かなかったかえ、ひい―じぃ、ひい―じぃ、と」
「き、聞きました、
「それは里の人間たちが勝手に呼んでいるだけ、あれは蟲なんでございますよ。」
と、ふらふらと
「それで、」
「あの蟲を、黙らせて下さいな。」
莨を
「私が、ですか。」
「そうでございます。妾では駄目なんですの、」
「そんな。妖怪の賢者と呼ばれる八雲様に出来ないことを、如何して私などが出来るでしょうか。」
「ほほ。」
と、唇に扇子を
「藍、有難う。もうけっこうですよ、」
そう手を
「お嬢ちゃんになら出来るんでございます。」
「蟲とは何なのですか、」
「ほら、お聞きなさいまし、
と云った
「ひい―じぃ、ひい―じぃ、」
声につられて眼下の庭園に目を移せば、
「如何すれば、私に蟲を黙らすことが出来るのですか、教えて下さい、」
「名を、」
「え、」
「それではねぇ、お嬢ちゃん。名を下さいな。」
遠くで、井戸の水の音が
婦は今、名と云ったか。
「名、でございますか。」
「名には魂が込められています。魂に刻まれた記憶も。それらを妾に下さいな。」
「それで、あの蟲を黙らせることが、」
「ひい―じぃ、ひい―じぃ、」
「おぉ、あんなに鳴いている。よほどお腹が空いているのだねえ、愛おしい富士見の娘は。」
「名を、食べるのですか、」
「亡霊ですからねえ。お嬢ちゃんたちのように人間の食べ物を口にしたところで腹は膨らまないのでございます。亡霊は魂と、記憶を食べるんでございます。普通、亡霊は一つ魂食らえば四十九日は大丈夫なんでございますが、どうした訳かあの子はとても大食いで、」
「ひい―じぃ、ひい―じぃ、」
「このように、ひもじい、ひもじい、と何時も腹を空かせては、鳴いているのでございます。あぁ、可哀想に。」
「名を、名を渡したら私は如何なるのですか、」
「なくなるんでございますよ。」
鳴いていたのは、腹の蟲。
聞いたのは、蟲の知らせ。
「八雲様、それでは約束が違います。」
「違くはありませんこと。名を失ったお嬢ちゃんは妖怪になるのです。」
「妖怪、ですか。」
「名を貰っても、肉は残る。それは生きても死んでもいない、別の妖となる。境界に住まうモノ、得体の知れぬモノ、そう
「―ぬえ、その妖怪は強いのですか。」
「えぇ、正体を失くすことで、力の強い妖怪と成るんでございます。その得体の知れなさこそが肝、お嬢ちゃんが人であるよりは断然。」
「でしたら、この名は差し上げます。」
「ただし、鵺と成ったお嬢ちゃんが、必ず、その白蓮と云うお方を助けるかは保証出来ないのでございます。望み通りに封印を解けるか、それともちょっかいを掛けるだけなのか、はたまた、迷惑を掛けるどころか敵対か、」
「それでも、私には頷くしかないのでしょう、」
「ほほ。」
その頬笑みに果てが無いから肝を据えた、もとより引き返すつもりもない。
「此処は神隠しの郷と呼ばれています。八雲様のお屋敷に入った時点で、私の選択肢は一つしかないのでしょう。」
「好い、お覚悟。」
「よろしくお願い致します。」
「まぁ、魂から零れた記憶が、肉にも少しは染みて残っているもんでございます。一度、縁を結んだと云うのなら、再び縁を繋ぐのは容易でございましょう。」
「はい。」
「あの子も
奥の襖が、すらりと開けば、女が幽雅に
影が床を這って、ずいと、動き出せば、
そのまま見上げた空に、月だけが、ぽっかりと。あぁ此処は
「お待ちなさい、幽々子。
「はい、八雲様、」
「お嬢ちゃん、何か、残す
白蓮様に、
この境遇を呪うか。理不尽を憎むか。
そのどれも、相応しくない。
「八雲様、」
「なあに。」
「ぬえとなるこの身より、貴女様の方が、よほど得体が―」
知れませんと、続けようとした声は、ひい―じぃ、ひい―じぃ、と鳴く蟲に食われてしまい。
これが、私の聞いた最期の音である。
ストーリー自体は分かりやすいものでしたが、誰も彼も胡散臭い感じで面白いなって
あと、霖之助さんの魂の叫びは笑えましたw
白蓮の話が出てきたあたりで、「一輪かな?」と思ったのだがまさかのぬえでびっくり
あと、独特な話口調や仕草のためか、キャラクターの印象が色々新鮮だった
霖之助は外見年齢が倍増、小傘は人懐っこさが倍増、紫は胡散臭さが倍増したように感じた
一つ気になったのは、全体として明治大正期の小説みたいな文体の中に
「今晩わ」「違くはありませんこと」といった現代の新語(若者言葉)が使われていた事かな
若干の違和感を覚えた
案外読みやすかったです