※この作品は、作品集152『庭師、山にて白狼天狗と相対すること』の設定を引き継いでいます。
迫る木刀。
「くっ!」
がッ!
左下から振り上げられた一撃を、妖夢は自身の木刀で受け、そのまま相手の力に逆らわず後ろへ跳躍。攻撃の勢いを利用して大きく距離をとった。
だが、向こうもすぐさま追ってくる。一時は離れた距離も刹那に縮まって。
ずざざっ、と砂埃を巻き上げながら着地。息つく間もなく迫るは横薙ぎの一閃。
二度目の跳躍。今度は真上に、やや高めに。
――いける……!
相手はいま、薙ぎ払った大太刀の慣性に引かれて、わずかに体勢を崩している。即ち、隙。
跳躍が頂点に達した。
「龍……」
妖夢は手にした長刀を大上段に構え、
「槌っ」
落下の勢いに合わせて振り下ろす!
がヅ!
「せ!?」
しかし一撃は、相手の左手に構えた盾に防がれてしまった。
「甘い」
言葉が妖夢の耳に届くと同時に、盾が押し上げられる。真っ白な盾の中央にスタンプされた紅い楓模様が視界いっぱいに広がって。
がんっ!
「あいたッ!」
衝撃。
バランスを崩して尻から落下した妖夢は、追撃の振り下ろしを額を抑えながら横に転がってかわした。そして素早く立ち上がり、バックステップを一回、二回。
ずざっ。
引いた踵が何かに突っかかった。
ちらりと背後に目をやれば、そこには真っ赤な鳥居の柱。
小さく舌打ちをしながら視線を戻せば、正面から――もはや何度目だろうか――木刀が迫る。また上段から。
――今度こそ!
妖夢は長刀を掲げて防御の姿勢。
引き伸ばされた時間感覚の中、大太刀がゆっくりと迫る、迫る、迫る。
――……いま!
長刀を引きながら妖夢は身を捻る。ちりりと前髪を掠りながら、眼前を木の刃が通り過ぎた。
「龍……」
そのままくるりと相手の背後に回り込み、
「巻っ」
遠心力を利用した一撃を相手の背に叩き込む!
が、
「せんぁ?」
予想していた手ごたえはなく、空を切った長刀に振られて妖夢はよろめいた。
即ち、
「それも、甘い」
隙。
背後でがつんと力強い足音、次いでこん、と頭に何かが乗った。振り向けば、そこには微笑む友の顔。
赤い高下駄、赤い楓模様が裾に散りばめられた藍色のスカートに、白い脇出しの装束。頭の上には小さな赤い八角帽。その髪の毛と、狼の耳、狼の尾はただ白く、雪のようで。
「また負けちゃいました。やっぱり椛には敵いません」
息荒く、苦笑を浮かべてぼやくと、椛――妖怪の山の白狼天狗、犬走椛は、妖夢の頭に乗せていた木刀を持ち上げて自分の肩に乗せた。たったいままで立ち合っていたというのに、彼女の呼吸はほとんど乱れていない。
「案ずるな。お前は強くなっている」
故に、妖夢はつい頬を膨らませてしまう。
「と、涼しい顔で言われましても」
山の中腹に位置するここは、守矢神社の境内。妖怪が蔓延り、人間の寄り付かない博麗神社ほどではないが、この神社もまた、道程の険しさ故に参拝客の数はあまり多くない。
ここは妖怪の山の中で唯一、山のコミュニティに属さない人妖でも足を踏み入れることを許され、また神社に住まう神々の神徳に護られた地。故に、妖夢と椛は時々ここを修行の場として借りていた。
「そうむくれるな。そうだな……最後の一手。あれは悪くなかった」
「本当ですか?」
社へと歩き出しながら椛。その言葉に、妖夢は表情を明るくした。
妖夢は半霊――半人半霊たる自身の半身に引っ掛けた手ぬぐいを椛の前に差し出す。手ぬぐいを受け取りながら椛は続けた。
「ああ。改善点はあるが、回避運動をそのまま攻撃に転化させる発想は悪くない」
「やった!」
「ただし」
手ぬぐいを頭に引っ掛けて小さくガッツポーズをとる妖夢だったが、間髪いれずに差し込まれた椛の言葉にぴくりとその身を震わせた。
「ここぞというところで『リューツイ』だの『リューカン』だのと言うのはやめることだ。相手に悟られてしまう」
「それは……出来ません」
「なに?」
至極もっともな駄目出しに、しかし妖夢は決然とした表情で椛を見上げて言う。頭の手ぬぐいがずり落ちたが、椛から視線を外すことなく、背後を飛んでいた半霊に素早くすくい上げさせて。
椛に鋭い眼差しを向けられているが、妖夢は臆すことなく言葉を続ける。
「聞いてください、椛。技の名を言うことは、とても重要なことなんです」
「ほう。言ってみろ」
「いいですか、椛。ここだけの話なんですけど」
妖夢は人差し指をぴっと立て、
「技の名を叫ぶことで、なんと……その技の威力が三割増しになるらしいんですよ!」
「…………」
椛の唖然とした表情に、妖夢はうんうんと頷いた。さもありなん。自分もその話を聞いたときには言葉を失ったものだ。
「椛、“言霊”という言葉を聞いたことはありませんか? 言葉には霊が宿るとされていて、声に出した言葉が現実に作用することがあるらしいんですよ」
「待て、待て。妖夢、待て」
さらに続けようとしたところで、椛の制止。
「わかってもらえましたか」
「いや、何と言うか……まず、この話は誰から――」
「妖夢ちゃん、椛さん、お茶が入りましたよー」
「……いや、もういい。わかった」
背後から聞こえた第三者の声に、椛はげんなりと呟いた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
「……ああ、すまない」
守矢神社の賽銭箱の前、小さな階段に腰掛けて三人。
差し出された湯飲みを受け取って、ず、と一口。疲れた身体に染み渡るは、熱々から少しだけ冷まされた、飲みやすい温度の緑茶。
妖夢はほう、と息をついて、ふと左隣に座る椛の様子に気がついた。
湯飲みの中でたゆたう緑を、椛は眉間に皺を寄せて睨みつけている。
「椛、どうかしたんですか?」
「ん、うむ」
呼びかけに、渋い顔を崩さないままに椛はこちらに顔を向け、
「東風谷殿」
妖夢の右隣に座る少女に声をかけた。
「“早苗”」
しかし、椛が二の句を告げるよりも早く、少女は小さく口を尖らせながら訂正を促す。
「そう呼んでくださいっていつも言ってるじゃないですか」
そして早苗――守矢神社の現人神、東風谷早苗はにこりと微笑んだ。
緑と白を基調とした脇出しの巫女服。深い翡翠色の長髪には、守矢神社に祀られる二柱の象徴である蛇と蛙、二種類の髪飾り。
守矢神社とともに幻想入りをしてしばらく、いくつかの異変に首を突っ込んでは少なくない功績を挙げている巫女――ここでは“風祝(かぜはふり)”と呼ぶらしい――である。
幻想入り当初は大層真面目な少女だったらしいが、最近は少々はっちゃけはじめているらしい噂を妖夢は聞いていた。
「……早苗殿」
「“さ・な・え”」
再び訂正。変わらずの笑顔であるが、無駄に霊力を放っていてコワい。
「…………早苗」
「はい、何ですか?」
ようやく呼びかけに応じた早苗に、椛はげんなりと続けた。
「妖夢に技名がどうのと教えたのは貴方ですね?」
「はい。どうでした? いつもより強力だったでしょう?」
キラキラと輝く瞳に見つめられ、椛は盛大にため息を吐く。ああ、これは本気で呆れているんだと妖夢は察した。
眉間の皺を左手で揉み解しながら、椛は結果を簡潔に述べる。
「避けた」
「えー!? ダメじゃないですか! 必殺技には当たってあげるのが礼儀ですよ!?」
「すまない、ちょっと何を言っているのか分からない。
そも、技の名を叫んだだけで威力が上がるわけがないでしょうに」
「え!?」
「…………妖夢……」
「まあ知ってましたけど」
「!?」
「…………早苗……」
椛から明かされた驚愕の事実。さらにけろっとダメ押しを叩き込む早苗に、妖夢は言葉もなく顔を右へ、左へ。
果たして自分の努力はなんだったのか。一生懸命タイミングを見計らって、動きに合わせて技の名を叫ぼうとして……
なんだかもう、騙されていたこととか、真に受けて叫ぼうとしていたこととか、何もかもが恥ずかしくて、妖夢は耳まで赤くして項垂れた。
その様子に、椛が半眼で早苗を見るが、当の早苗は堪えることなくころころと笑っている。
「だって妖夢ちゃん素直で楽しいんですもん。
あっ、でも技名を叫ぶのは本当にオススメですよ。だって、そのほうがかっこいいですいから!」
「かっこいいのはわかりますけど……」
「分かるな分かるな」
「いやでも、みんな叫んでるんですよ」
「発動前にスペルカード宣言をするのは、スペルカードルールの取り決めだからだ」
「いえ、スペルカードルールではなく」
「あ、妖夢ちゃん、ソレ」
ふと、弱々しくも弁解する妖夢の背後を早苗は指差した。そこには一抱えほどの風呂敷包みが一つ。
「もう読み終わったやつ?」
「はい、そうです」
「じゃあ、続き持ってくるね」
風呂敷包みを抱えて立ち去る早苗を見送って、
「妖夢、あれは本か?」
椛の問いに、妖夢の瞳に光が宿った。
「はい。日本の明治という時代を生きる剣客を描いた物語です」
「ほう」
「主人公は不殺(ころさず)を誓った剣客で、逆刃刀(さかばとう)を手に並み居る強敵たちと戦うんです」
「ほ、ほう。逆刃刀……?」
「刃と峰が逆になっている刀です。不殺の信念の象徴ですね」
すっかり元気を取り戻した妖夢の様子に、椛は得心のいったような表情を浮かべた。
「なるほど、先ほどの“リューツイ”やら“リューカン”やらというのは、その登場人物が使っている技だな?」
「いやあ、お恥ずかしながら……。やっぱり、漫画のようにうまくはいかないものですね」
「まったく……書から剣を学ぶことも悪くはないが、あまり影響されすぎないようにな」
「あはは……」
頬をかきながら妖夢は照れくさそうにして。
半人半霊と白狼天狗。この異色の歓談風景は、守矢神社ですっかり恒例になりつつあった。
二人の出会いは、ある秋の日から始まる。
あの日、美味しい栗を食べたいがために、冥界、白玉楼の主人は、紅葉美しい妖怪の山へと庭師の魂魄妖夢を向かわせた。
当然、不可侵の地である山がそれを見逃すはずがなく。妖夢は山に入ってすぐに、山の警護を担う哨戒天狗に見つかってしまった。
それが白狼天狗、犬走椛である。
始まりは敵同士。しかし、刃を交えて、言葉を交わして。やがて二人は友となった。
その後も二人は、文のやり取りをして、時間が合えば剣を交えて言葉を交わして。
いつしか妖夢にとって、犬走椛はかけがえのない存在となっていた。
「遅いな」
歓談の合間、椛は神社の裏手に目を向けて呟いた。言われてみればと、妖夢もそちらを見て。
「そうですね。本を取りにいっただけにしては時間が……あ」
その折、二人の視線の先、神社の裏手からふらりと現れた一つの影。
早苗だ。しかし、手には何も包まれていない風呂敷を握っているだけ。
いぶかしんだ妖夢が声をかけようとしたが、それよりも早く早苗は憔悴しきった表情で言った。
「ない……」
「え?」
「十五巻……外の世界に置いてきちゃった……」
「なん……ですって……?」
…………
「椛、付き合ってくれてありがとうございます」
「私も紅魔館には行ってみたいと思っていた。問題ない。
それで、その大図書館とやらには期待ができるのか?」
視界はほんのり白く。
妖怪の山を下りてしばらく、“霧の湖”と呼ばれる湖の上空にて、妖夢の隣を飛ぶ椛が問いかけた。その名の通り辺り一面は深い霧に覆われ、その白い装束も相まって椛の姿は掠れて見えて。
うっかりはぐれてしまっては大変だと、妖夢は椛に少しだけ寄り添いながら苦笑を浮かべた。
「さて、どうでしょうか……?」
「なんだ、行ったことがないのか?」
「いえ、異変絡みで一度だけ」
吸血鬼、レミリア・スカーレットの居城たる館、紅魔館の地下には広大な図書館がある。城主のレミリアが、親友の魔法使いのために設えたのだとか。そこには魔道書だけでなく、外界から流れてきた本も数多く保管されているらしい。
かつて妖夢は、ある異変の調査で大図書館を訪れたことがあった。その時は異変の解決を目指すあまり周りをよく見ていなかったが、それでもかなりの量の本があったと記憶していた。
外界の代物であれば、そういった物を専門に扱っている“香霖堂”という古道具屋がある。しかし、あそこの主人は自分が気に入った物は非売品にしてしまうという悪癖を持っていた。かの明治剣客浪漫譚(めいじけんかくろまんたん)ともなれば、その面白さ故に非売品となることは必定。行ったところで時間の無駄だ。
「うん、やっぱり紅魔館の大図書館しか頼れるところはありません」
早苗からも頼まれていることだし、是非とも借りて帰りたいところだ。
ぐっと拳を握り締め、一縷の望みを胸に抱いて妖夢は飛ぶ。目指すは悪魔の住処、紅魔館、その地下に位置する大図書館。
「……熱中するのは構わないが、あまり影響され過ぎるなよ」
椛のため息交じりの呟きは、霧の白に溶けて消えた。
不気味な紅。
館の正門から少し離れたところに降り立った妖夢は、改めてそう感じた。
屋根から壁から――ご丁寧にも、窓にかけられているカーテンさえ――何処もかしこも紅一色。いや、屋根、壁、カーテンのそれぞれでは微妙に濃淡が異なるので、一色とは言えないのか?
隣に並んで紅魔館を見上げる椛が、腕を組んで感嘆の声を上げた。
「なるほど、これはなかなか不気味にして荘厳だな」
「椛は紅魔館を見るのは初めてなんですか?」
「ああ。山からでは湖の霧が邪魔で、私の千里眼を以ってしてもはっきりと視認することは出来ないからな」
「ふうん……」
妖夢が問うと、椛は紅魔館から目を離さぬまま答えた。尻尾がゆらゆらと揺れていることに、椛は気付いているだろうか?
「椛、楽しみですか?」
「うん?……そうだな、それなりに、と言ったところか」
普段と変わらない様子ではあるが、やはり尻尾はゆらゆら。どうやら、気付いていないようだ。
「“それなりに”ですか。ふふ」
「?」
「いえなんでも。さあ、行きましょう」
口元からこぼれる笑みを見られぬよう、妖夢はそそくさと紅魔館の門扉へと歩き出した。
鉄製の格子は年季が入ってくすんだねずみ色。そして、それを支える紅い煉瓦造りの柱。
その柱に身を預け、腕を組んで瞑目する女がいた。
深い緑の拳法着。同じ意匠の帽子の額部分には、中心に“龍”の字が彫られた赤銅の五芒星。腰まで伸びた紅い長髪が衣装によく映えている。
しかし、拳法着だというのに何故か穿いているのはズボンではなくスカート。深い切れ込みの入ったスカートからのぞく、すらりと伸びた美しく健康的な足がまぶしい。
女は二人の接近に伴って、その双眸を静かに開いた。深い藍色の瞳に宿るは、警戒の光。
その目が妖夢の姿を捉え……次の瞬間、それは柔和なものに変化した。
「あら、あなたは……」
「お久しぶりです、美鈴」
妖夢が笑いかけると、女――紅魔館の門番、紅美鈴も笑みを返してくれた。
「ええ、久しぶりね、妖夢。あれ? 今日ってここで宴会する予定なんてあったっけ?」
「いえ、今日は別件で……大図書館に用がありまして……」
「大図書館に? 珍しいわね。……ところで」
美鈴は小さく首をかしげ、次いで妖夢の斜め後ろに視線を移した。その瞳には再び警戒の光。
「そちらの方は? 初めて見るけど」
「友達の椛です」
紹介を受けた椛は妖夢の前に出た。そして、柱から離れて門の前に立ちはだかる美鈴と正面から向き合って、
「妖怪の山の白狼天狗、犬走椛です」
「あら礼儀正しい。私は紅美鈴。この紅魔館の門番を任されているわ」
「……」
「……」
「あ、あの……?」
しばし二人の視線が交差して。
あわや一触即発かと妖夢は二人を交互に見上げてはらはらとしたが、やがてどちらともなく笑みを浮かべ、
「なるほど、悪魔の館を守護するにふさわしい手合いとお見受けした」
「ありがとう。あなたもいい腕をしているようね」
緊迫した空気が霧散した。
無用なトラブルに見舞われなかったことに安堵しつつ、しかし短いやり取りの間に何かを感じあった様子の二人に妖夢はなんとなく疎外感を覚え。
「そう言うわけで、美鈴、大図書館にお邪魔してもいいですか?」
二人の間にさりげなく半霊を割り込ませつつ、改めて美鈴に申し出た。
「いいわよ。あなたたちからは悪い“気”は感じられないし。妖精メイドに案内させるわ」
妖精メイドに導かれ、二人は紅魔館の地下へ――
しかしこのメイド、紅魔館の内部を把握し切れていないようで、あっちへ行っては首をかしげ、こっちへ行ってはひとつ頷き。
やがて木製の大扉の前まで来たところで、メイドは欠伸をしながら去っていった。
「ふむ、紅魔館は人材不足のようだな」
「行きましょう、椛」
何故か難しい顔で頷いている椛を横目に、妖夢は大扉に手をかけた。目的はもう目の前なのだ。気がはやるのも仕方がない。
ぎぃぃ……と、見た目に違わぬ重厚な音を立てて、扉がゆっくりと開かれる。
一歩踏み込むと、鼻腔を満たすは本のにおい。
……ぺらり。
さらに踏み込み、中をぐるりと見回して、
「相変わらず、凄い本の量……」
妖夢はぽつりと呟いた。
室内には、長く、背の高い本棚が整然と並べられている。壁面までもが本棚になっていて、ぎっしりと詰められた本が、部屋の壁を形成しているかのように錯覚させる。
見上げれば、天窓から差し込む陽光が館内の埃をきらきらと輝かせていて。
……ぺらり。
「ほう、これは……」
遅れて入ってきた椛も感嘆の声。
「確かに、此処ならばあるいは……」
「でしょう?」
相槌を打ちながら、妖夢は正面に目を向けた。
視線の先には、白いクロスの敷かれた大きな丸テーブルが一卓と、そこにうずたかく積まれた本の山。テーブルの周りに散乱している本は、山から転げ落ちた脱落者たちだろうか。
……ぺらり。
ばたんと背後で椛が大扉を閉めた。かすかに聞こえていた館の喧騒も完全に消え去って。
辺りを支配するは、本のにおいと、
……ぺらり。
頁をめくる音。
「誰?」
本の山が喋った。
否。その向こう側、妖夢たちからは見えないところにいる何者かの誰何の声。
妖夢と椛は顔を見合わせ、声の元へと歩き出した。紅魔館内の装飾よりも少し落ち着きのある小豆色の絨毯に足音を飲み込ませながら、近づくにつれて増えてゆく本を踏みつけないよう気を付けながら。
やがてテーブルまで辿り着いた二人は、本の山の向こう側を覗き込み、
「パチュリー、お久しぶりです」
……ぺらり。
妖夢の呼び掛けに、その少女は頁をめくる音で応えた。
そのすみれ色の髪は、美鈴のものよりもさらに長く。白藤のローブをゆったりと着込み、月の飾りが付いた同色の帽子が特徴的だった。
「……ちょっと待ってて」
古びた木の椅子に腰掛けた大図書館の主――“知識と日陰の少女”パチュリー・ノーレッジは、分厚い本の頁に視線を落としたまま応えた。
再び椛と顔を見合わせてから、妖夢は言われるままに口をつぐみ、
……ぺらり。
……ぺらり。
……ぺらり。
……ぺらり。
……ぺらり。
「……おい」
ぱたむ。
業を煮やした椛が声を上げたところで、ようやくパチュリーは顔を上げた。
「お待たせ」
テーブルに構築された本の山、その頂上に手にした本を乗せながら、眠たげな紫紺の瞳をこちらに向けて、
「ここに来るなんて珍しいわね、魂魄妖夢。本には興味ないんじゃなかったの? それとも、また斬りに来たのかしら?」
「……妖夢」
「ち、違いますよ椛。あの時は異変の解決を最優先に考えていてですね……」
「そして、貴女も珍しい」
妖夢の弁解を無視して、パチュリーはゆらぁりと視線を動かした。
「妖怪の山の白狼天狗。山の見張りと侵入者の排除を主な仕事とする、山の門番とも言うべき存在。そんな種が此処まで足を運ぶなんて、山にとって不利益となることを、この館の住人がしたのかしら? その大きな刀は斬り捨て御免のためなのかしら?」
「よく知っているな。だが、あいにく私は仕置き人ではない」
「そう。では、私の尻子玉が目当て?」
「それは河童が抜くものだ」
「あら、それは失礼」
パチュリーは再び視線を妖夢に戻して、
「ところで、何の話だったかしら?」
「……本を探しに来たのです。外界の漫画本で、出来ればお借りしたいと……」
「ふむ、漫画ね……」
頬に手を当て、天窓を見上げて思案顔のパチュリーを、妖夢は固唾を飲んで見守る。ここで断られてしまえば、もはや他に頼れる場所はない。
――最悪の場合は、やはり香霖堂の主人を斬ってでも……!
思考が危険な方向へ飛び始めたところで、ようやくパチュリーは一つ頷き、
「いいわよ。私は漫画に興味はないし。レミィがぐずるかもしれないけれど」
紡がれた快諾の言葉に、妖夢の表情が輝いた。
「ありがとうございます! このご恩は必ず!」
「……本を貸すくらいお安いご用よ」
パチュリーは薄く微笑み、
「外界の本は……あっちだったかしら」
館内をぐるりと見回して、人差し指をひと振り。ぽう、とその指先に光が灯った。
そしてパチュリーは、その光を居並ぶ本棚で作られた路地の一本に放り込む。
「これについて行きなさい。外界の漫画本がまとめられているところまで案内するわ。あとは自力で探して頂戴」
「わかりました、ありがとうございます」
ふよふよと本棚の向こう側へと飛んでいく光を妖夢は追って。
「……椛?」
しかし椛はその場を動かず。
椛は眉間に小さなしわを作ってじっとパチュリーを見つめていた。その瞳に宿るは、疑念。
当のパチュリーはといえば、椛の視線を意に介すことなく、机の上から新たな本を取り出して読み始めている。
「早く行きましょう。見失っちゃいますよ」
「……ああ」
ようやく動いた椛を伴って、妖夢は光を追う。その先に、求める本があると信じて――
…………
「椛、さっきはどうしたんですか? 様子がおかしかったですけど……」
ふよふよと前方を飛ぶ光球について大図書館を歩きながら、妖夢は問いかけた。天窓からの採光だけでは足りないのだろう。辺りには、似たような光球が入ったガラス玉が、ぽつぽつと天井から吊るされていた。
「……どうにも、いやなにおいがする」
「“におい”?」
うめくように呟かれた椛の言葉に、妖夢は思わずおうむ返し。
「ああ。パチュリー・ノーレッジの笑顔。私は彼女の笑顔にひどく作り物めいたものを感じた。不吉なにおいを感じた」
「作り物めいたって……考えすぎじゃないですか?」
「さて、どうだかな……」
椛は眉間にしわを寄せ、前方の光球をにらみつけながら言葉を続ける。
「相手は魔法使いだ。何を仕掛けてくるかわかったものじゃないと思うが」
その物言いに、今度は妖夢が顔をしかめた。
「……椛、あまり人を疑うのは良くないと思います」
「む……」
これまでずっと、“妖怪の山”という枠組みの中で生活してきた椛である。とりわけ、彼女の仕事は哨戒。仲間以外は全て“敵”として認識してきたのだ。他種族に対する警戒心が強いのは仕方のないことだとは思うが……
「ここの人たちは大丈夫ですよ。みんな悪い人ではないです」
「いや、紅霧異変の主犯だったはずだが……」
椛は突っ込みかけて、しかし口をつぐんで黙考し、
「……いや、すまない。少し神経質になっていたようだ」
息をつきながら小さく首を振って呟いた。
「いえ、わかってくれて何よりです。
さあっ、気を取り直して行きましょう! きっと目的地はすぐそこですよ!」
ぴっ、と前方を飛ぶ光球を指差して、妖夢は歩幅を広げて歩く。
その襟首を、
「妖夢」
椛が引っ張るのと、
ッキィィィィィン――……!
眼前に輝く水晶が出現したのは、ほぼ同時だった。
「…………」
「誰が、悪い人ではないと?」
「うっ、うーんっ……」
椛に背を預け、妖夢は指差しポーズのまま呻き声をあげて。
翡翠のような水晶は、床で煌々と輝く魔法陣を中心に出現していた。たったいま妖夢が足をつけたところだ。その高さ、そびえる本棚のてっぺんまであろうかというほど。パチュリーの操る土属性の魔法“エメラルドシティ”だ。
「さて、どうしてこんなものが仕掛けられていたのか。これはいよいよきな臭くなってきたな……!」
背の大太刀と盾を手にし、身を屈めて魔法陣を眺めながら椛は呟く。並んで妖夢もしゃがんで魔方陣を眺め。
おそらくこれは、
「踏むと動く仕掛け、でしょうか」
「う、む……さて、本当にそれだけだろうか……?」
妖夢の言葉に、しかし椛は思案の表情。
やがて魔法陣は静かに霧散して床に吸い込まれ、同時に水晶は霞となって消えた。
椛はとん、とん、と何度か魔方陣のあった箇所を大太刀の切っ先で小突く。
「一度しか動かない仕掛けなのか」
「何にしろ」
妖夢はふわりと浮き上がって、
「こんな罠、飛んで移動すれば恐れるに足りませんね」
「進むのか?」
「当然です。ここまで来て引き下がれますか」
ご丁寧にこちらを待ってくれていた光球を、妖夢は低空飛行で追いかけた。背後に目をやれば、しかめっ面の椛も宙に浮いてついてきている。
「仕方ないな。だが、魔法使いの罠だ、甘く見ないほうがいいぞ」
「了解です」
二人の接近を認識したのか、再び動き出した光球に導かれて、妖夢と椛は大図書館のさらに奥へ――
ガシャシャシャンッ!
「みょぉぉぉ……!?」
「まあ、だろうとは思ったが」
降り注ぐ紫水晶の雨を回避して、避けきれない分は楼観剣で迎撃して。
――今度はドヨースピア!?
同じく土属性の魔法である。
妖夢は足元で輝く魔法陣を愕然と見つめた。
空を飛んでいた。床には触れていなかったはずだ。だが、罠は動いた。
「魔法陣に近づくだけでも発動してしまうようだな」
そういうことなのだろう。
椛の言葉に妖夢は首肯し、地に降りて楼観剣を構えた。
「なら、こうやって進めば今度こそ大丈夫ですよね」
右手に持った楼観剣を前方に向けて、右半身を前に出して歩く。
「こうしておけば、私よりも先に楼観剣に反応して罠が動く。これだけ距離があれば、私でも対応できるはずです!」
その様、西洋の剣術の構えに似たものがあっただろうか。
ずるずるとすり足で進む妖夢に対して、椛はいつもと変わらぬ足取りで。
「……妖夢、私が前を歩こうか?」
背後から椛が心配そうに声をかけてくる。そんなに危なっかしいだろうかと思いながら、妖夢は首を左右に振って。
「いえっ、心配ご無――」
こうっ。
“足元”から魔法陣。次いで前方からも魔法陣が展開された。間髪入れずに前方の魔法陣から放たれたのは、二枚の金属の鋸。金属性の“オータムブレード”だ。
「みょう!?」
「っ!」
ギンッ! ギャリリリィン!
一枚は素早く前に出た椛が大太刀で弾き返し、もう一枚は間一髪、妖夢が楼観剣で防ぎ、尻餅をつきながらも上方へ弾き飛ばした。二枚の鋸はあさっての方向へ飛んでゆき、やがて魔法陣の消滅とともにシャリンと乾いた音を立てて砕け散った。
「刀のような無機物には反応しない、か。だいぶ条件が絞れてきたな」
「ちょ、ちょこざいなっ……!」
ふるふると震えながら立ち上がる妖夢の肩に手を乗せて、椛が前に出た。そのまま光球へと歩を進め、
「やはり私が先に行こう。妖夢にはまだ、早い」
「うう……面目ありません」
「なに、気にするな」
妖夢は、振り向いて微笑む友の後をとぼとぼと追った。
ふわりふわりと光球は二人を導き、やがて十字路を右に曲がって。
「早くしろ。見失ってしまうぞ」
「あ、はい」
椛の後を追って妖夢は歩を早めた。光球と椛を追ってぱたぱたと小走りに十字路へと差し掛かり、
こうっ。
「え」
足元に輝き。次いで前方――前を行く椛の背後でもある――にも輝き。
「なんだと!?」
慌てて振り向く椛の髪の毛がふわりと浮いて。
っぱう!
「ぐッ!?」
小さな炸裂音と同時に、腹を襲う強烈な衝撃。次いで全身をなぶるこれは、
――風!?
「ッがぁ!」
「妖夢!」
木属性の“フラッシュオブスプリング”。圧縮された空気の爆発に抗うことができず、妖夢は思い切り吹き飛ばされた。
一回、二回とバウンドし、やがてごろごろと転がってその勢いはようやく止まって。
「妖夢! 大丈夫か!?」
「来ないでください!」
慌てて駆け出した椛を、妖夢は制した。
「だ、大丈夫です。効きましたけど……」
腹を押さえながら妖夢はゆっくり立ち上がって。
「いたた……。いまそっちに行くので待ってて下さい。椛が余計な危険を冒す必要はありません」
「し、しかし……」
「ご心配なく。もう大丈夫ですから!」
とは言え、おそらく先ほどの動きからして、椛に対して罠は発動しないのではないかと妖夢は思う。ここに仕掛けられた罠は、いまのところ妖夢にしか反応していないのだから。
兎にも角にも、まずは心構えを変えよう。
いまの自分では、罠の発動は回避できない。そのことはもう十二分にわからされた。
ならば、
――動いた罠を避ければいいだけだ。
この辺りに仕掛けられている罠は、魔法陣の展開から発動までに若干の間がある。陣の展開にいち早く気付くことができれば、回避も不可能ではないはずだ。
――さっきまでは油断していたから駄目だった。でも、もう油断はしない。
起点となる魔法陣は床に仕掛けられている。妖夢は足元を注視しながら歩を進めた。
本棚の縁に手を添えてゆっくりと。椛のもとまでは、まだ少し距離がある。
道中、絨毯の上に無造作に置かれている本があった。パチュリーが読みっぱなしっで置いたものだろうか?
――ああ、あいつかも。
そういえば、知り合いの魔法使いはここの常連だったか。とにかく手癖の悪いやつだ。こうして本を読み散らかしていたとしても不思議ではない。
と、
こうっ。
――光った!
右手が。
「え?」
否、たまたま手が触れていた本から魔法陣が展開されたのだ。
「そっ」
妖夢は慌ててそちらに目を向けて、次の瞬間、
「ち!?」
足元の床が消滅した。
とっさに空を飛ぼうとしたが、
――飛べない!?
霊力を思うように操れず、混乱するうちに身体は重力に引っ張られて。
「妖夢!!」
罠のことなど忘れてしまったのか、椛が大太刀を放り出して無防備に走ってくる。しかし、その伸ばした手が妖夢に届くことはなく。
最後に見たのは、罠の仕掛けられた本の背表紙。
その本の、背に綴られた、題名は。
“ザ・きのこ”
――って、これ、
「魔理沙用の罠かあぁぁー!」
怒声むなしく、妖夢の視界は暗闇に閉ざされてしまった。
「わああぁぁぁぁああぁ!?」
落とし穴の先は、長い斜面だった。
滑らかな下り坂を、妖夢は右へ左へと転げ落ちて行く。
「痛っ! ちょっ、おしり!」
相変わらず飛ぶことは叶わず、光は見えず。妖夢は地下へ、地下へ――
そして、
ぼふんっ!
「わぷ!」
柔らかな感触に受け止められて、ようやく斜面は終わりを告げた。
「あいたたた……」
楼観剣を手放さなかったことは称賛に値すると言いたいところだが、しかし身体のあちこちが痛い。あざになっていなければ良いのだが。
「こ、おとと。ここは……?」
バランスを崩しながらも身を起こし、楼観剣を鞘に収めながら背後を見ると、壁にぽっかりと開いた、丸く、暗い空洞がゆっくりとその穴を狭めていて。ずいぶんとまあ、手の込んだ落とし穴である。
おそらく妖夢が通ってきた穴には、霊力や魔力など、そういった類の力を封じる細工が施してあるのだろう。キノコ好きの魔法使い――霧雨魔理沙を引っ掛けるために用意された罠であるならば、当然の仕掛けだ。
「まったく、魔理沙のとばっちりなんてついてない……」
ぼやきながら、妖夢はぐるりと部屋を見回した。
広い部屋だ。窓はひとつもなく――地下なのだから当たり前か――光源は天井から吊るされたランプのみ。当然、そんなものだけでこの空間全体を照らせることもなく、部屋の隅は闇の中。かろうじて視認できる向こう側の壁にはドアが一枚。あれが出入り口だろうか。
じじ、と獣脂の焼ける音が妙に大きく聞こえる。
しかし、部屋の広さに対して、ここはものが少なすぎると妖夢は感じた。
だだっ広い空間にあるのは、椅子と、テーブルと、その上に詰まれた数冊の分厚い本とトレイに乗せられたティーセットが一式。そして、いま妖夢が座っている大きなベッドだけだ。
妖夢は改めてベッドに目を向けて、
「うっ……!?」
思わず呻き声を上げた。
横たわれば身体が埋まってしまうほどふわふわのベッドには、先客がいた。
「な……ななっ……なに、これ……?」
棺桶。
過度でない程度の装飾が施された豪奢な黒檀の棺桶が、ベッドの上に鎮座していたのだ。
ほんのり発光している半霊で棺桶を照らし、妖夢はその異様な光景をまじまじと見つめる。
「どうして棺桶がこんなところに……?」
ごそり。
「ひぃ!?」
棺桶の中から、物音が聞こえた。
――何かいる! 何かいる! 何かいる!?
ばくばくと脈打つ心臓に突き動かされるように、妖夢は慌ててベッドの縁へと移動した。こんな不気味なところから早く脱出して、椛と合流したかった。きっと心配しているはずだから。
妖夢は転げるようにベッドから降りて、
『んん、まぶしい……』
ずっ。
「!?」
かすかに聞こえた声と音にびくりと身をすくませた。ぎぎぎ、と妖夢は硬い動きで振り返る。
なるほど。よく見れば、棺桶の蓋には小さな窓がついていた。先ほど棺桶の様子を見たときに、そこから半霊の光が差し込んでしまったのだろう。
『誰かいるの……?」
ずずっ……
ああ、逃げなくては、逃げなくてはと思いつつも、足は竦んで動かず。棺桶の蓋は、ゆっくりと開いてゆき。
ず、ずず、ず……
やがて半ばまでずらされたところで、中から現れたものは。
シャリン。
薄桃色のネグリジェをまとう肌は、しみひとつない透き通るような白。眠たげにこする眼は紅玉のようで。流れる髪は金の糸。
そして背に負うは、異形としか表現のしようがない何か。いびつな枯れ枝のようなものと、それに実る果実のような、色鮮やかな宝石たち。左右から一対だけ生えているということは、羽であると見てよいのだろうか。
棺桶から現れたのは、どこまでも美しく、愛らしい少女。しかし同時に、妖夢は底知れぬ“恐怖”をその少女から感じていた。
シャリン。
少女がうーん、と伸びをすると、その背の宝石が触れ合い、涼やかな音色を奏でた。
――怖いくらい綺麗だから?……違う、そんなんじゃない。もっと、こう……
得体の知れない恐怖に、妖夢は後ずさる。しかし、ようやく意識がはっきりしてきたか、辺りをきょろきょろと見回す少女と目が合ってしまった。
「あ……」
「……」
互いに目を丸くして見つめあい。
「……」
「……さ」
先に動いたのは、少女のほうだった。その紅い瞳をさらに大きく見開いて、
「サムライ!」
びっ! と妖夢を指差して叫んだ。
「……え?」
「あなたサムライでしょう? その“カタナ”ってやつ、本で見たことがあるわ」
「あ、いえ、私は……」
面食らった妖夢をよそに、少女は無邪気にはしゃぎながら棺桶から飛び出した。そしてベッドの縁まで移動して、妖夢の姿をまじまじと見つめる。
「チョンマゲが無いけれど、些細な問題よね。ねえねえ、“ハラキリ”とかするんでしょ?」
「いや腹切りはすると死んじゃうから」
「死んじゃうんだ?」
「死んじゃうのよ」
「ふうん。えっと、じゃあね、じゃあね……」
あと自分は侍ではないことも言うべきかと思ったが、妖夢は口をつぐんだ。無邪気で無害に見える少女。しかし、本能的な恐怖は拭えていない。下手に刺激しないほうがいいだろう。
なおも少女は瞳を輝かせて言葉を探していたが、やがてその口角が上がった。その形、鋭利な三日月のようで。
「私と斬り合い、してくれる?」
ぞわり。
「ッ!?」
妖夢は抜刀しながら後ろに大きく跳躍。そして楼観剣を構えた。感知能力の乏しい妖夢でも気が付くほどの強大な妖力。この少女は……
――危険だ!
悪寒が背筋をぞわぞわと刺激し続けている。いますぐ逃げろと警告している。
「あははっ! 遊んでくれるのね!」
無邪気に笑って、少女が宙に舞う。パチンと指をならし、くるんと横に一回転すると、
ぼうっ。
その身体が紅蓮の炎に包まれた。
「うふふ……」
炎の中から妖しい笑い声が響く。
――冗談じゃない!
楼観剣を構えてしまったのは反射だ。決して合意ではない。
だが、それを言っても彼女は聞かないだろう。話の通じる手合いには思えなかった。
――でも、いまなら、逃げられる?
少女は炎の中だ。逃げるなら今しかない。
妖夢は踵を返して走り出して、
「どこに行くの?」
「!?」
背後から声。
目を向ければ、炎を散らしてこちらに突進してくる少女。身にまとうは先ほどまでのネグリジェではなく、紅のスカートと、薄桃のシャツに紅いベスト。金の髪は頭の横でひとつにまとめて、紅いリボンのついた薄桃の帽子を被っている。
そして、
ギンッ!
「ぐぅ!?」
その一撃を、妖夢は辛うじて楼観剣で受け止めた。
少女が手にするは、紅蓮の炎をまといし一振りの剣。
「禁忌『レーヴァテイン』」
一拍遅れの宣言に、少女の横でくるくると回転しながら浮いていた符が紅い霞となって散り消えた。
「さあ、斬り合いましょう?」
「私は忙しいの! あなたと遊んでいる時間はないのよ!」
その小さな体躯に見合わない、尋常ならざる腕力に何とか抗いながら妖夢は声を上げた。
「だーめ。“サムライガール”は私と遊ぶの」
案の定、少女は聞く耳を持たず。
「“サムライガール”じゃない! 魂魄妖夢だ!」
「私はフランドール。フランドール・スカーレットよ。よろしくね」
「……フランドール?」
その名前には覚えがあった。
“悪魔の妹”フランドール・スカーレット。紅魔館当主レミリア・スカーレットの妹だ。その能力の危険性と情緒の不安定さゆえ、地下に幽閉されていると聞いたが、ここがそうだったとは。
そんなところへ直行させてくれたパチュリーを恨みつつ、妖夢はレーヴァテインをはじいて距離をとった。
吸血鬼が相手では、ここから逃げ切ることは難しいだろう。だが不幸中の幸い、フランドールは”斬り合い”をご所望だ。剣での勝負なら、逃げる隙を作れるかもしれない。
こちとら、日々の修行に加えて白狼天狗の手ほどきも受けているのだ。いかに身体能力の高い吸血鬼が相手とはいえ、遅れは取るまい。
「……遊んでくれないなら」
ぞわり。
思考を巡らせていると、対峙するフランドールの声色が低くなった。レーヴァテインを持った右手をだらりと下げて、開いた左手をこちらに向けて。
「……?」
様子を窺う妖夢の前で、フランドールが左手を閉じた、その瞬間、
ぱんっ!
「!?」
小さな破裂音とともに、頭の黒いリボンが弾けた。
「こうだよ?」
――いま、何を……!?
妖夢は愕然としながらぼろぼろになったリボンに手を当てて、フランドールを見る。
――そうか、これが……
音に聞く、フランドール・スカーレットの“ありとあらゆるものを破壊する程度の能力”というものか。
その気になれば、頭を破壊することもできただろう。やはり、迂闊に刺激するのはまずい。いまはとにかく、彼女の機嫌を損ねないようにしなくては。
「しょうがないわね……」
妖夢は楼観剣を構え、
「一本だけよ?」
「やった!」
ため息交じりの承諾に、フランドールは跳びはねて喜んでいた。
――隙がなんだって!?
ギッギギ!
上段からの一撃を受け止め、流しながら、妖夢は焦燥感を募らせていた。
能力で破壊されることはなくとも、あの剣から一撃をもらえば、ただではすまないだろう。
そして、やはり吸血鬼。フランドールの身体能力はすさまじく、体力、腕力、瞬発力さえも妖夢を上回っている。おかげで、間断なく続く攻撃に反撃の糸口も、逃げる隙も見出せずにいた。
唯一の救いは、攻撃が単調で読みやすいことだった。レーヴァテインをただがむしゃらに振り回しているだけ。未熟な力押し程度だったおかげで、こうして凌ぐことができている。
――速くて重い攻撃には慣れてるのよね。
いつも修行に付き合ってくれている椛に感謝しつつ、妖夢は横薙ぎの一閃を後ろに飛んでかわした。
「もー! ちょこまかとー!」
ぶんぶんとレーヴァテインを振りながら、フランドールは地団駄を踏む。とは言え、こちらも攻めに転じることができずに地団駄を踏みたい気分なのだが。
と、フランドールはぴたりと地団駄をやめて、
「いいこと思いついちゃった」
にやりと笑った。
そしてフランドールはレーヴァテインを両手で構え。
次の瞬間、
ヴンっ!
「げ!」
レーヴァテインが伸びた。三倍ほど。
「こんなのはいかがかしら!?」
吠えてフランドールはレーヴァテインを振るう。
「反則じゃないかしら!?」
袈裟懸けに迫る長大過ぎる破壊の具現を、妖夢は真上に飛んでかわした。
ガァン!!
叩きつけられたレーヴァテインは、床に大きな亀裂を刻んで。
「もういっちょう!」
おそらくは自身の妖力で作った刃。重さなどないのだろう。フランドールは素早くレーヴァテインを振り上げると、大上段から振り下ろした。
――避け切れない!
着地と同時に、妖夢は頭上に迫る紅蓮に楼観剣を掲げて、
ギガァン!!
「っが!?」
瞬く間さえもたなかった。
直撃は免れたものの、その怪力に抗うこと叶わず、妖夢は床に叩きつけられた。妖夢を中心にして、石造りの床に亀裂が走る。
身体がずきずきと痛むが、休んでいる暇はない。紅玉の瞳を爛々と輝かせたフランドールが、三度レーヴァテインを振るう。
倒れた妖夢の視界いっぱいに紅蓮の刃。
「~~!!」
声にならないうめきをあげながら横に転がって回避。
ゴガァ!
床が陥没した。
肝を冷やしながら立ち上がると、やはり追撃の姿勢に入るフランドールの姿。
回避は難しい。かといって防御などもっての外。
ならば、
――返すしかない!
妖夢は上着から符を取り出してから、白楼剣に手をかけた。
迫り来るは袈裟懸けの一撃。白楼剣を抜き放つと同時に、妖夢は宣言する。
「空観剣!」
ギッ!
逆手に構えた白楼剣と、レーヴァテインが交差した。
「ぐ、うっ、う、う……!!」
その尋常ならざる力に抗いながら、スペルカード宣言を続ける。
「『六根』!」
ギッ……
「『清浄』……!」
ギギ……
「ッ『斬』!!」
ギァン!!
「きゃ!?」
宣言の完遂によってスペルカードの恩恵を受けた妖夢は、レーヴァテインを打ち上げた。同時に、レーヴァテインを通して自身の霊力を送り込み、フランドールを一時的な金縛り状態に陥らせる。
次いで四つに分裂した半霊とともにフランドールを囲んで、霊力を練り上げながら駆けた。やがて半霊はその形を変えて。
「すごい! 分身の術! あなた“ニンジャ”だったのね!」
動けぬままにはしゃぐフランドールを横目に、五人の妖夢はさらに霊力を練る。その足元に大きな花びらを落として。
一枚。それは桃色の花弁。
二枚。それは霊力の具現。
三枚。それはフランドールの身体をさらに拘束し。
四枚。それは妖夢の身体能力を向上させて。
五枚。開花を果たしたそれは、桜の花。
妖夢たちはそれぞれ花びらの上で立ち止まり、居合いの構え。
「忍者でもない!」
訂正を入れつつ、同時に駆け出し。
そして、
「私も分身する!」
「え?」
虚空より、フランドールの手元にスペルカードが現れた。フランドールはそれをぎしぎしとぎこちない動きで掴むと、駆ける妖夢に微笑を向けながら宣言する。
「禁忌『フォーオブアカインド』!」
「!?」
振りぬいた楼観剣に手応えはなく。ただ驚愕に瞠る眼前に広がるは、蝙蝠の群れ。
フランドールだったそいつらは四方に散ると、その身を黒く染め、固まり、溶け合って。
『じゃーん!』
やがて姿を現したのは、四人のフランドール。
「こ、これって……」
――まずくない?
一人でさえ手を焼いたフランドールが四人に増え、対するこっちは必殺の一撃をかわされ、霊力を大きく消費して疲労が大きい。これでは回避はおろか、防御すらままならない。せめて分身がそのまま残っていてくれればよかったのだが、すでにスペルカードの効力は切れている。分身だったものは解けて集まり、すでにもとの半霊の姿へと戻ってしまった。
そも、自分の写し身を作り出すなど、生半可な霊力でできるわけがないのだ。妖夢にしても、半霊という自身の半身を媒体に、スペルカードの恩恵を受けてもなお数秒から十数秒が限界だというのに、フランドールはいとも簡単に、それも三人も作り出してしまうとは。常識はずれも甚だしい。
床に片膝をつき、肩で息をする妖夢を四人のフランドールは見下ろして、
「あら?」
「もう終わり?」
「また見たいな、“分身の術”」
「もっと遊びましょう?」
交互に言葉を発した。
「ちょっと……休憩しない?」
『やだ』
苦し紛れの提案もバッサリと切り捨てられ。
「早く早く」
「もう動けないの?」
「じゃあ……もう要らない」
「使えないおもちゃは」
そろって邪悪な笑みを浮かべたフランドールは、それぞれ通常サイズに戻ったレーヴァテインを構えて、
『壊れちゃえばいいよ!」
四振りの紅蓮が迫る。
「待った待った!」
――逃げなきゃ!
もはや打つ手は無い。
動かぬ身体に渇を入れ、妖夢は扉のほうへと身を投じた。部屋の外に出られれば、あるいは。
しかし……
ゴガァ!!
背後で床が大きく砕けた。
――無理、かも。
「あは、今度は鬼ごっこね」
「私たちが鬼」
「吸血鬼だもの、当然ね」
「さあ、逃げて逃げて!」
ふらりと身を起こして駆け出す妖夢に追いすがる四人の吸血鬼。分身といっても力までは分かれていないようで、相変わらずその身体能力は妖夢を大きく凌駕している。
「あは」
ぞわり。
振り向く間さえ惜しんで、妖夢は横に跳んだ。その空間を、紅蓮が通過する。
ずざっと着地して振り向けば、すぐさま次のフランドールが迫っていた。
「それ!」
鋭い突き。かろうじて動かした頭の横をレーヴァテインが通過した。猛る紅蓮が頬をなぶる。
妖夢は扉に背を向けたまま後ろに跳躍して距離をとった。一回、二回――
と、足元に影が差した。振り仰げば、三人目のフランドールが高みからレーヴァテインを振りかぶり。
「バイバイ」
「くっ!」
うめいて楼観剣を構えるが、どうせ受け切れないだろうなと妖夢は思う。
――だったら、やるしかない!!
紅蓮が迫る。残りの鬼も、すぐそこまで来ていた。
集中力が高まっていく。引き伸ばされた刹那の中、妖夢は狂気の一撃をただ見つめ――
――いまだ!
身を捻って一撃を回避。そのままくるりとフランドールの背後に回り込んで、
「龍巻――」
「デモンズディナーフォーク!」
響く声と、間髪入れずに走る三条の紅い閃光。
『きゃあ!』
「せ……」
三人のフランドールに、それぞれの閃光が突き刺さった。フランドールたちの姿は黒ずみ、やがて霞と化して散り消える。
そして、
「神槍『スピア・ザ・グングニル』!!」
ギィィィンッ!
残った一人――最後尾にいた本物のフランドール――のレーヴァテインを弾き飛ばしたのは、真紅の槍。
フランドールはレーヴァテインを振りかざした姿勢でしばし硬直し、やがて手をぷらぷらと振りながら妖夢の背後に目を向けた。
「御機嫌よう、お姉様。よく私が本物だってわかったわね」
「姉だからな」
つられて妖夢も振り向けば、開け放った扉の前でため息をつく少女がひとり。
紅いリボンの装飾が散りばめられた薄桃色のドレスに、同じ色の帽子はフランドールの被っているものと同じ意匠。少し色の薄い蒼の髪によく映える瞳は紅玉。
そして、ばさりと広げた一対の黒い、蝙蝠の羽。
「やあ魂魄妖夢。久しぶりだな」
フランドールの姉にして紅魔館の主、“永遠に紅い幼き月”レミリア・スカーレットは、ひょいと片手をあげた。
その様子を、妖夢はうろんな目で見つめる。
「レミリア……」
「なんだ、その目は?」
――成功しそうだったんだけどな……
「いえ、何でも……」
「まあいい。パチェと、君の連れ……犬走椛と言ったか。彼女らから話は聞いたよ」
「椛! 椛は無事なの!?」
「ああ、ぴんぴんしている。そもそも……いや、詳しくはパチェに聞け」
肩をすくめながらレミリアはこちらに歩き出す。
「咲夜、こいつを図書館まで送ってやれ」
「かしこまりました」
言葉と同時に妖夢の前に現れたのは、銀髪の少女。紅魔館のメイド長、十六夜咲夜だ。
「肩を貸す?」
「ううん、大丈夫。その、ありがとう」
「お嬢様の命令だからね」
咲夜の先導で妖夢は扉のほうへと歩き出した。そしてレミリアは、入れ違いにフランドールと対峙する。フランドールは手をかざし、その手に再びレーヴァテインを顕現させて構えた。
「どいてよお姉様。私は“サムライニンジャガール”と遊んでるの」
「だから、侍でも忍者でもない!」
「略して“サムジャール”」
「ちょっと! 聞いてる!?」
無論、聞いていないのだろう。フランドールもレミリアも、こちらに一瞥もくれない。ただ、横を歩く咲夜は口元に手を当ててぷるぷると肩を震わせていたが。
「悪いが、それはできないんだよフラン。彼女はパチェの客人なんでね」
「でも、私の部屋に来たのよ。だから私のお客よ」
「それはパチェの――」
「やだ! もっと遊ぶの!」
レミリアが穏やかに諭すが、フランドールは聞く耳を持たず。レーヴァテインをがんがんと床に叩きつけて駄々をこねる。
その様子に、レミリアは大きなため息をついて、
「……わかった。なら私が遊び相手になってやる」
「本当!?」
「ああ。だからあいつは見逃してやってくれ」
「わかった!」
一転してフランドールは表情を輝かせ、ふわりと宙に舞う。
「まったく、我が侭な妹を持つと大変だな。
ほらお前たち、早く行け。巻き添えを食っても知らんぞ」
レミリアはさらにため息をつくと、やり取りを眺めていた二人に警告の声をかけてから、フランドールの後を追った。
「行くわよ、妖夢」
「う、うん……」
スペルカードの宣言と、放たれる弾幕の輝きを背に、妖夢はフランドールの部屋を後にした。
「咲夜」
カツン、カツンと足音を響かせながら、妖夢と咲夜は石造りの階段を上る。ときおり地面が揺れているように感じるのは、気のせいではないだろう。
「なに?」
「レミリア、置いてきちゃってよかったの?」
相手は情緒が不安定で、危険な力を持った吸血鬼だ。いかに同じ吸血鬼とはいえ、果たして無事でいられるかどうか……
「命令だからね。それに、初めてのことでもないし、大丈夫よ」
しかし、あまりにもあっけらかんと言うものだから、そんなものかと妖夢は納得することにした。
やがて階段を抜け、地上のフロアを経由して再び地下へ。流石は紅魔館のメイド長。その足取りに迷いはない。
規則正しく揺れる銀の髪をなんとなしに眺めている間に、見覚えのある大扉が妖夢の前に立ちはだかった。
「はい到着。それじゃ、私は戻るわね」
それだけ言うと咲夜は踵を返し、来た道を変わらぬ足取りで歩き出した。
「咲夜、ありがとう」
「ええ、またね」
その背に礼を告げると、咲夜は振り返ることなく手を振ってから姿を消した。
「――さて」
再びの大扉。
戻ってきたのだ、ここに。
まずはパチュリーに文句を言わねば気がすまない。危うく死に掛けたのだ。椛にも心配をかけてしまった。
ぎぃぃ……
果たしてパチュリーにこの重厚な扉を開ける腕力があるのだろうか? などと疑問に思いつつ、妖夢は大扉を開いた。鼻腔をくすぐる本の香り。
浮世とは一線を画した静寂に、妖夢は再び足を踏み入れて。
広がる光景は先ほどとほとんど変わらず。小豆色の絨毯と、無数の本棚。そして正面に見えるはテーブルがひとつと本の山。
異なる点は、ただ一つ。
くすんだ色彩の中に、胸の透くような白があった。
「妖夢!」
白――犬走椛がこちらに駆け寄ってくる。妖夢も小走りで椛に駆け寄って、
「椛!」
「怪我をしてるじゃないか! 大丈夫なのか?」
椛は心配そうに妖夢の左頬を撫でた。ちくりと痛み。どうやらすりむいていたらしい。
その手に妖夢は自分の手を重ね。
「大丈夫です。ちょっとやられちゃいましたけど、大したことはないです」
「そ、そうか……」
椛は安堵の息をつくと、そのままゆっくりと妖夢の身体を抱きしめた。
「もっ、椛!?」
「よかった、本当に……!」
「椛……」
よほど心配をかけてしまったようである。いつも凛としている椛からは想像もつかないその様子に、妖夢は申し訳なく思った。
だから、妖夢は椛の身体に手を回して、
「ごめんなさい。私が不甲斐ないばかりに」
「いい。お前が無事なら、それで……」
まだ、椛にとって妖夢は“守るもの”であるようで。それが少し、歯がゆい。
――違う。私は、椛の後ろを歩きたいんじゃない。対等でありたいんだ。
そのためには、まだ力が足りない。
――もっと……もっと、強くならないと。
その剣はまだ天狗には遠く、足元にも及ばないだろう。だが、いつかは……いつかは……!
「……そろそろいいかしら?」
「!?」
割って入った第三者の声に、二人は慌てて身体を離した。
「あ……その、すまない」
「いえ、ここ、こちらこそ」
なんとなしに謝りあって。
声のほうへと目を向ければ、眠たげな目でこちらを見つめる魔女の姿。先ほどと変わらず古びた椅子に腰掛けて、足の上には分厚い本を乗せている。
はっとして、妖夢は身構えた。
「パチュリー! 酷いじゃないですか、私たちを罠にかけるなんて! 危うく死ぬところでしたよ!」
「だってあなた『恩は返す』って言ってたじゃない」
妖夢の訴えにまるで動じることなく、パチュリーは淡々と応える。
「命を差し出せと!?」
「違うわよ“実験体”になってもらっただけ」
「……実験体? って……」
妖夢は眉間にしわを寄せて唸る。
「あの罠のことですか?」
「そう。最近、新しい魔術トラップを開発してみたのよ。少し凝った代物でね。人間にだけ発動するようにしてみたの」
「……だと思いましたよ」
「その罠の実験体とすることを、妖夢の“恩返し”としたのか」
最後の二つ。椛には発動しなかった罠と、きのこ本に仕掛けられていた罠で妖夢は確信を持った。あれは人間――それも、特定の人物を標的にしたものだと。
「本当に助かったわ。咲夜を実験体にするわけにはいかないし、ぶっつけで試すには不安だったから」
「……もう少し威力は抑えたほうがいいですよ。あんなの、人間がまともに受けたらひとたまりもありません」
「考えておくわ。それよりも問題は発動時間よ。魔法陣の展開から術の発動まで、予想よりも時間がかかっている。やっぱり彼女の“人間”が半分しかないからかしら……?」
大丈夫だろうか?
ぶつぶつと考察を始めてしまった魔女をうろんな目で眺めながら、標的であろう“人間”の魔法使いの身を案じつつ、妖夢はため息をついた。
「あの……それで本は……?」
「……ああ、そうだったわね」
しばし間のあと、パチュリーは思い出したかのように顔を上げると――本当に忘れていたのかもしれない――人差し指をひと振り。ぽう、とその指先に光が灯った。
「これについていきなさい。外界の――」
「ハイワカリマシタってまた嵌める気ですか!?」
どこかで見た流れに、妖夢は声を上げた。
「……ち」
「あっ、いま舌打ちしましたよ!」
「そのくらいにしてやってくれ」
さらに文句を言ってやろうとパチュリーに詰め寄りかけたところで、背後から静止の声がかかった。振り向けば、紅魔館の主、ところどころが破けたドレスを身にまとうレミリア・スカーレットと、その従者、こちらは傷ひとつない十六夜咲夜の姿。
「レミリア! ぼろぼろじゃない!」
「なに、服をやられただけだ。まったく、いつまでも加減を覚えない妹だよ」
ひらりひらりと手を振りながらレミリアはこちらに歩いてくる。
「パチェ、こいつらの願いを聞いてやれ」
「あら、どういう風の吹き回しかしら?」
「不可抗力とはいえ、妹の遊び相手をしてもらったからな。それくらいの褒美を出してもバチは当たらないだろう。
いやしかし助かったよ妖夢。フランのやつ、最近退屈していたみたいでな。おかげで私の負担が減った」
「……もしかして」
「ああ、ギリギリまで静観させてもらった」
いいタイミングで現れたと思ったら、そういうことだったのか。どうにも、ここの連中は他人を道化に仕立て上げることが好きらしい。
「まあ、もう過ぎたことだからいいけれど。もう嫌よ、あんな危険な“遊び”に付き合うのは」
「フランは、また遊びたいと言っていたぞ」
「丁重にお断りします」
命がけの“遊び”などこりごりだった。
「それは残念。まあそう言うわけだ。パチェ、頼む」
「……はあ。しょうがいないわね。妹様が暴れだしたら、私じゃどうしようもなかっただろうし」
「やった!」
怪我の功名というやつだろうか。ため息交じりのパチュリーの言葉に、妖夢は諸手を挙げて喜んだ。
「ひとまず茶でも飲んで行くといい。咲夜」
「かしこまりました」
次の瞬間、テーブルの上にはティーセットが広げられていた。先ほどまで卓上を制圧していた本はどこに行ったのだろうか……?
「こ、これは……!?」
椛が目を瞠る。そういえば、咲夜の能力を見るのは初めてだったかと、なかなか見ることのできない驚愕の表情を妖夢は眺めた。
「咲夜は時を操ることができる。時を止めて茶の準備をするくらい造作も無い。うちの自慢のメイド長だよ」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
得意げに言うと、レミリアは椅子に腰掛けて自分のカップに角砂糖を放り込み始めた。
「時を操る……そんなことが……」
「あら、あなた……」
では自分も、と妖夢も椅子に腰掛けようとして、ふと気付く。
いつの間にか椛の正面に立っていた咲夜は、その灰青の瞳で椛をじっと見つめていた。
「……何か?」
たじろぐ椛。
「…………」
「…………」
奇妙な沈黙が流れる中、レミリアだけはのんきにクッキーをかじって「うまい」などと舌鼓を打っていた。
「…………」
「…………」
「…………」
「……――」
やがて咲夜は口をゆっくりと開き――
「お手。」
ぷちん。
何かが切れる音を、妖夢は聞いた気がした。
「椛! 落ち着いてください!」
大太刀を振りかぶる椛を、妖夢は正面から必死に抑える。
「止めるな妖夢っ……こいつだけは、こいつだけは斬ってやる!」
「駄目ね。忠誠心が足りませんわ」
「私は貴様の犬ではないッ!!」
誇り高き白狼天狗である。犬扱いするような咲夜の言動に我慢がならなかったのだろう。ため息混じりに呟く咲夜に、噛み付かんばかりの剣幕で椛は怒鳴り声を上げた。
レミリアはといえば、腹を抱えて笑っている。
「あっはっは! 駄目よ、咲夜。犬はもうあなただけで十分」
「ッ!!」
「レミリア! 煽らないでー!」
「まあいいじゃないか、“サムジャール”よ」
「その呼び方はやめて! 咲夜も笑わないで!」
「……図書館では静かにしなさい」
喧々諤々の大図書館。その主がスペルカードを取り出したことに気が付いたものはいなかった。
「新しいスペルカードを考えました!」
後日の守矢神社にて。開口一番、妖夢は椛に向かってそう言った。
「……そうか」
椛は自分の木刀を取り出しながら適当な相槌を打ち。
しかし、そんな態度をものともせずに、妖夢は熱っぽく語る。
「『現世斬』の発展型なんですけどね。通常の抜刀術は右足を前に出して行うんですけど、これは抜刀の瞬間に左足をさらに踏み出します。これによって抜刀を加速させ、その一閃を神速の領域にまで引き上げるのです」
「……待て、妖夢」
額に汗を流しながら椛は静止の声をあげるが、妖夢はさらに言葉を続ける。完全に自分の世界に入っているのだろう、目を閉じて、拳をぐぐいっと握りこんでいたりする。
「ですが、これは生半可な覚悟では撃てるものではないんですよ。確固たる信念、強い意思が必要なんです。“捨て身”や“死中に活を見出す”などといった後ろ向きな気持ちが一片でも含まれていては絶対に成功しません。
そんな決意や信念の具現とも言える、私の新しいスペルカード。その名も――」
「待て、待て、待て」
椛の静止は、やはり届かず。妖夢は取り出したスペルカードを高々と掲げてその名を叫ぶ。
「飛天『天翔龍(あまかけるりゅうの)――」
「それ以上はいけない!!」
了
迫る木刀。
「くっ!」
がッ!
左下から振り上げられた一撃を、妖夢は自身の木刀で受け、そのまま相手の力に逆らわず後ろへ跳躍。攻撃の勢いを利用して大きく距離をとった。
だが、向こうもすぐさま追ってくる。一時は離れた距離も刹那に縮まって。
ずざざっ、と砂埃を巻き上げながら着地。息つく間もなく迫るは横薙ぎの一閃。
二度目の跳躍。今度は真上に、やや高めに。
――いける……!
相手はいま、薙ぎ払った大太刀の慣性に引かれて、わずかに体勢を崩している。即ち、隙。
跳躍が頂点に達した。
「龍……」
妖夢は手にした長刀を大上段に構え、
「槌っ」
落下の勢いに合わせて振り下ろす!
がヅ!
「せ!?」
しかし一撃は、相手の左手に構えた盾に防がれてしまった。
「甘い」
言葉が妖夢の耳に届くと同時に、盾が押し上げられる。真っ白な盾の中央にスタンプされた紅い楓模様が視界いっぱいに広がって。
がんっ!
「あいたッ!」
衝撃。
バランスを崩して尻から落下した妖夢は、追撃の振り下ろしを額を抑えながら横に転がってかわした。そして素早く立ち上がり、バックステップを一回、二回。
ずざっ。
引いた踵が何かに突っかかった。
ちらりと背後に目をやれば、そこには真っ赤な鳥居の柱。
小さく舌打ちをしながら視線を戻せば、正面から――もはや何度目だろうか――木刀が迫る。また上段から。
――今度こそ!
妖夢は長刀を掲げて防御の姿勢。
引き伸ばされた時間感覚の中、大太刀がゆっくりと迫る、迫る、迫る。
――……いま!
長刀を引きながら妖夢は身を捻る。ちりりと前髪を掠りながら、眼前を木の刃が通り過ぎた。
「龍……」
そのままくるりと相手の背後に回り込み、
「巻っ」
遠心力を利用した一撃を相手の背に叩き込む!
が、
「せんぁ?」
予想していた手ごたえはなく、空を切った長刀に振られて妖夢はよろめいた。
即ち、
「それも、甘い」
隙。
背後でがつんと力強い足音、次いでこん、と頭に何かが乗った。振り向けば、そこには微笑む友の顔。
赤い高下駄、赤い楓模様が裾に散りばめられた藍色のスカートに、白い脇出しの装束。頭の上には小さな赤い八角帽。その髪の毛と、狼の耳、狼の尾はただ白く、雪のようで。
「また負けちゃいました。やっぱり椛には敵いません」
息荒く、苦笑を浮かべてぼやくと、椛――妖怪の山の白狼天狗、犬走椛は、妖夢の頭に乗せていた木刀を持ち上げて自分の肩に乗せた。たったいままで立ち合っていたというのに、彼女の呼吸はほとんど乱れていない。
「案ずるな。お前は強くなっている」
故に、妖夢はつい頬を膨らませてしまう。
「と、涼しい顔で言われましても」
山の中腹に位置するここは、守矢神社の境内。妖怪が蔓延り、人間の寄り付かない博麗神社ほどではないが、この神社もまた、道程の険しさ故に参拝客の数はあまり多くない。
ここは妖怪の山の中で唯一、山のコミュニティに属さない人妖でも足を踏み入れることを許され、また神社に住まう神々の神徳に護られた地。故に、妖夢と椛は時々ここを修行の場として借りていた。
「そうむくれるな。そうだな……最後の一手。あれは悪くなかった」
「本当ですか?」
社へと歩き出しながら椛。その言葉に、妖夢は表情を明るくした。
妖夢は半霊――半人半霊たる自身の半身に引っ掛けた手ぬぐいを椛の前に差し出す。手ぬぐいを受け取りながら椛は続けた。
「ああ。改善点はあるが、回避運動をそのまま攻撃に転化させる発想は悪くない」
「やった!」
「ただし」
手ぬぐいを頭に引っ掛けて小さくガッツポーズをとる妖夢だったが、間髪いれずに差し込まれた椛の言葉にぴくりとその身を震わせた。
「ここぞというところで『リューツイ』だの『リューカン』だのと言うのはやめることだ。相手に悟られてしまう」
「それは……出来ません」
「なに?」
至極もっともな駄目出しに、しかし妖夢は決然とした表情で椛を見上げて言う。頭の手ぬぐいがずり落ちたが、椛から視線を外すことなく、背後を飛んでいた半霊に素早くすくい上げさせて。
椛に鋭い眼差しを向けられているが、妖夢は臆すことなく言葉を続ける。
「聞いてください、椛。技の名を言うことは、とても重要なことなんです」
「ほう。言ってみろ」
「いいですか、椛。ここだけの話なんですけど」
妖夢は人差し指をぴっと立て、
「技の名を叫ぶことで、なんと……その技の威力が三割増しになるらしいんですよ!」
「…………」
椛の唖然とした表情に、妖夢はうんうんと頷いた。さもありなん。自分もその話を聞いたときには言葉を失ったものだ。
「椛、“言霊”という言葉を聞いたことはありませんか? 言葉には霊が宿るとされていて、声に出した言葉が現実に作用することがあるらしいんですよ」
「待て、待て。妖夢、待て」
さらに続けようとしたところで、椛の制止。
「わかってもらえましたか」
「いや、何と言うか……まず、この話は誰から――」
「妖夢ちゃん、椛さん、お茶が入りましたよー」
「……いや、もういい。わかった」
背後から聞こえた第三者の声に、椛はげんなりと呟いた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
「……ああ、すまない」
守矢神社の賽銭箱の前、小さな階段に腰掛けて三人。
差し出された湯飲みを受け取って、ず、と一口。疲れた身体に染み渡るは、熱々から少しだけ冷まされた、飲みやすい温度の緑茶。
妖夢はほう、と息をついて、ふと左隣に座る椛の様子に気がついた。
湯飲みの中でたゆたう緑を、椛は眉間に皺を寄せて睨みつけている。
「椛、どうかしたんですか?」
「ん、うむ」
呼びかけに、渋い顔を崩さないままに椛はこちらに顔を向け、
「東風谷殿」
妖夢の右隣に座る少女に声をかけた。
「“早苗”」
しかし、椛が二の句を告げるよりも早く、少女は小さく口を尖らせながら訂正を促す。
「そう呼んでくださいっていつも言ってるじゃないですか」
そして早苗――守矢神社の現人神、東風谷早苗はにこりと微笑んだ。
緑と白を基調とした脇出しの巫女服。深い翡翠色の長髪には、守矢神社に祀られる二柱の象徴である蛇と蛙、二種類の髪飾り。
守矢神社とともに幻想入りをしてしばらく、いくつかの異変に首を突っ込んでは少なくない功績を挙げている巫女――ここでは“風祝(かぜはふり)”と呼ぶらしい――である。
幻想入り当初は大層真面目な少女だったらしいが、最近は少々はっちゃけはじめているらしい噂を妖夢は聞いていた。
「……早苗殿」
「“さ・な・え”」
再び訂正。変わらずの笑顔であるが、無駄に霊力を放っていてコワい。
「…………早苗」
「はい、何ですか?」
ようやく呼びかけに応じた早苗に、椛はげんなりと続けた。
「妖夢に技名がどうのと教えたのは貴方ですね?」
「はい。どうでした? いつもより強力だったでしょう?」
キラキラと輝く瞳に見つめられ、椛は盛大にため息を吐く。ああ、これは本気で呆れているんだと妖夢は察した。
眉間の皺を左手で揉み解しながら、椛は結果を簡潔に述べる。
「避けた」
「えー!? ダメじゃないですか! 必殺技には当たってあげるのが礼儀ですよ!?」
「すまない、ちょっと何を言っているのか分からない。
そも、技の名を叫んだだけで威力が上がるわけがないでしょうに」
「え!?」
「…………妖夢……」
「まあ知ってましたけど」
「!?」
「…………早苗……」
椛から明かされた驚愕の事実。さらにけろっとダメ押しを叩き込む早苗に、妖夢は言葉もなく顔を右へ、左へ。
果たして自分の努力はなんだったのか。一生懸命タイミングを見計らって、動きに合わせて技の名を叫ぼうとして……
なんだかもう、騙されていたこととか、真に受けて叫ぼうとしていたこととか、何もかもが恥ずかしくて、妖夢は耳まで赤くして項垂れた。
その様子に、椛が半眼で早苗を見るが、当の早苗は堪えることなくころころと笑っている。
「だって妖夢ちゃん素直で楽しいんですもん。
あっ、でも技名を叫ぶのは本当にオススメですよ。だって、そのほうがかっこいいですいから!」
「かっこいいのはわかりますけど……」
「分かるな分かるな」
「いやでも、みんな叫んでるんですよ」
「発動前にスペルカード宣言をするのは、スペルカードルールの取り決めだからだ」
「いえ、スペルカードルールではなく」
「あ、妖夢ちゃん、ソレ」
ふと、弱々しくも弁解する妖夢の背後を早苗は指差した。そこには一抱えほどの風呂敷包みが一つ。
「もう読み終わったやつ?」
「はい、そうです」
「じゃあ、続き持ってくるね」
風呂敷包みを抱えて立ち去る早苗を見送って、
「妖夢、あれは本か?」
椛の問いに、妖夢の瞳に光が宿った。
「はい。日本の明治という時代を生きる剣客を描いた物語です」
「ほう」
「主人公は不殺(ころさず)を誓った剣客で、逆刃刀(さかばとう)を手に並み居る強敵たちと戦うんです」
「ほ、ほう。逆刃刀……?」
「刃と峰が逆になっている刀です。不殺の信念の象徴ですね」
すっかり元気を取り戻した妖夢の様子に、椛は得心のいったような表情を浮かべた。
「なるほど、先ほどの“リューツイ”やら“リューカン”やらというのは、その登場人物が使っている技だな?」
「いやあ、お恥ずかしながら……。やっぱり、漫画のようにうまくはいかないものですね」
「まったく……書から剣を学ぶことも悪くはないが、あまり影響されすぎないようにな」
「あはは……」
頬をかきながら妖夢は照れくさそうにして。
半人半霊と白狼天狗。この異色の歓談風景は、守矢神社ですっかり恒例になりつつあった。
二人の出会いは、ある秋の日から始まる。
あの日、美味しい栗を食べたいがために、冥界、白玉楼の主人は、紅葉美しい妖怪の山へと庭師の魂魄妖夢を向かわせた。
当然、不可侵の地である山がそれを見逃すはずがなく。妖夢は山に入ってすぐに、山の警護を担う哨戒天狗に見つかってしまった。
それが白狼天狗、犬走椛である。
始まりは敵同士。しかし、刃を交えて、言葉を交わして。やがて二人は友となった。
その後も二人は、文のやり取りをして、時間が合えば剣を交えて言葉を交わして。
いつしか妖夢にとって、犬走椛はかけがえのない存在となっていた。
「遅いな」
歓談の合間、椛は神社の裏手に目を向けて呟いた。言われてみればと、妖夢もそちらを見て。
「そうですね。本を取りにいっただけにしては時間が……あ」
その折、二人の視線の先、神社の裏手からふらりと現れた一つの影。
早苗だ。しかし、手には何も包まれていない風呂敷を握っているだけ。
いぶかしんだ妖夢が声をかけようとしたが、それよりも早く早苗は憔悴しきった表情で言った。
「ない……」
「え?」
「十五巻……外の世界に置いてきちゃった……」
「なん……ですって……?」
…………
「椛、付き合ってくれてありがとうございます」
「私も紅魔館には行ってみたいと思っていた。問題ない。
それで、その大図書館とやらには期待ができるのか?」
視界はほんのり白く。
妖怪の山を下りてしばらく、“霧の湖”と呼ばれる湖の上空にて、妖夢の隣を飛ぶ椛が問いかけた。その名の通り辺り一面は深い霧に覆われ、その白い装束も相まって椛の姿は掠れて見えて。
うっかりはぐれてしまっては大変だと、妖夢は椛に少しだけ寄り添いながら苦笑を浮かべた。
「さて、どうでしょうか……?」
「なんだ、行ったことがないのか?」
「いえ、異変絡みで一度だけ」
吸血鬼、レミリア・スカーレットの居城たる館、紅魔館の地下には広大な図書館がある。城主のレミリアが、親友の魔法使いのために設えたのだとか。そこには魔道書だけでなく、外界から流れてきた本も数多く保管されているらしい。
かつて妖夢は、ある異変の調査で大図書館を訪れたことがあった。その時は異変の解決を目指すあまり周りをよく見ていなかったが、それでもかなりの量の本があったと記憶していた。
外界の代物であれば、そういった物を専門に扱っている“香霖堂”という古道具屋がある。しかし、あそこの主人は自分が気に入った物は非売品にしてしまうという悪癖を持っていた。かの明治剣客浪漫譚(めいじけんかくろまんたん)ともなれば、その面白さ故に非売品となることは必定。行ったところで時間の無駄だ。
「うん、やっぱり紅魔館の大図書館しか頼れるところはありません」
早苗からも頼まれていることだし、是非とも借りて帰りたいところだ。
ぐっと拳を握り締め、一縷の望みを胸に抱いて妖夢は飛ぶ。目指すは悪魔の住処、紅魔館、その地下に位置する大図書館。
「……熱中するのは構わないが、あまり影響され過ぎるなよ」
椛のため息交じりの呟きは、霧の白に溶けて消えた。
不気味な紅。
館の正門から少し離れたところに降り立った妖夢は、改めてそう感じた。
屋根から壁から――ご丁寧にも、窓にかけられているカーテンさえ――何処もかしこも紅一色。いや、屋根、壁、カーテンのそれぞれでは微妙に濃淡が異なるので、一色とは言えないのか?
隣に並んで紅魔館を見上げる椛が、腕を組んで感嘆の声を上げた。
「なるほど、これはなかなか不気味にして荘厳だな」
「椛は紅魔館を見るのは初めてなんですか?」
「ああ。山からでは湖の霧が邪魔で、私の千里眼を以ってしてもはっきりと視認することは出来ないからな」
「ふうん……」
妖夢が問うと、椛は紅魔館から目を離さぬまま答えた。尻尾がゆらゆらと揺れていることに、椛は気付いているだろうか?
「椛、楽しみですか?」
「うん?……そうだな、それなりに、と言ったところか」
普段と変わらない様子ではあるが、やはり尻尾はゆらゆら。どうやら、気付いていないようだ。
「“それなりに”ですか。ふふ」
「?」
「いえなんでも。さあ、行きましょう」
口元からこぼれる笑みを見られぬよう、妖夢はそそくさと紅魔館の門扉へと歩き出した。
鉄製の格子は年季が入ってくすんだねずみ色。そして、それを支える紅い煉瓦造りの柱。
その柱に身を預け、腕を組んで瞑目する女がいた。
深い緑の拳法着。同じ意匠の帽子の額部分には、中心に“龍”の字が彫られた赤銅の五芒星。腰まで伸びた紅い長髪が衣装によく映えている。
しかし、拳法着だというのに何故か穿いているのはズボンではなくスカート。深い切れ込みの入ったスカートからのぞく、すらりと伸びた美しく健康的な足がまぶしい。
女は二人の接近に伴って、その双眸を静かに開いた。深い藍色の瞳に宿るは、警戒の光。
その目が妖夢の姿を捉え……次の瞬間、それは柔和なものに変化した。
「あら、あなたは……」
「お久しぶりです、美鈴」
妖夢が笑いかけると、女――紅魔館の門番、紅美鈴も笑みを返してくれた。
「ええ、久しぶりね、妖夢。あれ? 今日ってここで宴会する予定なんてあったっけ?」
「いえ、今日は別件で……大図書館に用がありまして……」
「大図書館に? 珍しいわね。……ところで」
美鈴は小さく首をかしげ、次いで妖夢の斜め後ろに視線を移した。その瞳には再び警戒の光。
「そちらの方は? 初めて見るけど」
「友達の椛です」
紹介を受けた椛は妖夢の前に出た。そして、柱から離れて門の前に立ちはだかる美鈴と正面から向き合って、
「妖怪の山の白狼天狗、犬走椛です」
「あら礼儀正しい。私は紅美鈴。この紅魔館の門番を任されているわ」
「……」
「……」
「あ、あの……?」
しばし二人の視線が交差して。
あわや一触即発かと妖夢は二人を交互に見上げてはらはらとしたが、やがてどちらともなく笑みを浮かべ、
「なるほど、悪魔の館を守護するにふさわしい手合いとお見受けした」
「ありがとう。あなたもいい腕をしているようね」
緊迫した空気が霧散した。
無用なトラブルに見舞われなかったことに安堵しつつ、しかし短いやり取りの間に何かを感じあった様子の二人に妖夢はなんとなく疎外感を覚え。
「そう言うわけで、美鈴、大図書館にお邪魔してもいいですか?」
二人の間にさりげなく半霊を割り込ませつつ、改めて美鈴に申し出た。
「いいわよ。あなたたちからは悪い“気”は感じられないし。妖精メイドに案内させるわ」
妖精メイドに導かれ、二人は紅魔館の地下へ――
しかしこのメイド、紅魔館の内部を把握し切れていないようで、あっちへ行っては首をかしげ、こっちへ行ってはひとつ頷き。
やがて木製の大扉の前まで来たところで、メイドは欠伸をしながら去っていった。
「ふむ、紅魔館は人材不足のようだな」
「行きましょう、椛」
何故か難しい顔で頷いている椛を横目に、妖夢は大扉に手をかけた。目的はもう目の前なのだ。気がはやるのも仕方がない。
ぎぃぃ……と、見た目に違わぬ重厚な音を立てて、扉がゆっくりと開かれる。
一歩踏み込むと、鼻腔を満たすは本のにおい。
……ぺらり。
さらに踏み込み、中をぐるりと見回して、
「相変わらず、凄い本の量……」
妖夢はぽつりと呟いた。
室内には、長く、背の高い本棚が整然と並べられている。壁面までもが本棚になっていて、ぎっしりと詰められた本が、部屋の壁を形成しているかのように錯覚させる。
見上げれば、天窓から差し込む陽光が館内の埃をきらきらと輝かせていて。
……ぺらり。
「ほう、これは……」
遅れて入ってきた椛も感嘆の声。
「確かに、此処ならばあるいは……」
「でしょう?」
相槌を打ちながら、妖夢は正面に目を向けた。
視線の先には、白いクロスの敷かれた大きな丸テーブルが一卓と、そこにうずたかく積まれた本の山。テーブルの周りに散乱している本は、山から転げ落ちた脱落者たちだろうか。
……ぺらり。
ばたんと背後で椛が大扉を閉めた。かすかに聞こえていた館の喧騒も完全に消え去って。
辺りを支配するは、本のにおいと、
……ぺらり。
頁をめくる音。
「誰?」
本の山が喋った。
否。その向こう側、妖夢たちからは見えないところにいる何者かの誰何の声。
妖夢と椛は顔を見合わせ、声の元へと歩き出した。紅魔館内の装飾よりも少し落ち着きのある小豆色の絨毯に足音を飲み込ませながら、近づくにつれて増えてゆく本を踏みつけないよう気を付けながら。
やがてテーブルまで辿り着いた二人は、本の山の向こう側を覗き込み、
「パチュリー、お久しぶりです」
……ぺらり。
妖夢の呼び掛けに、その少女は頁をめくる音で応えた。
そのすみれ色の髪は、美鈴のものよりもさらに長く。白藤のローブをゆったりと着込み、月の飾りが付いた同色の帽子が特徴的だった。
「……ちょっと待ってて」
古びた木の椅子に腰掛けた大図書館の主――“知識と日陰の少女”パチュリー・ノーレッジは、分厚い本の頁に視線を落としたまま応えた。
再び椛と顔を見合わせてから、妖夢は言われるままに口をつぐみ、
……ぺらり。
……ぺらり。
……ぺらり。
……ぺらり。
……ぺらり。
「……おい」
ぱたむ。
業を煮やした椛が声を上げたところで、ようやくパチュリーは顔を上げた。
「お待たせ」
テーブルに構築された本の山、その頂上に手にした本を乗せながら、眠たげな紫紺の瞳をこちらに向けて、
「ここに来るなんて珍しいわね、魂魄妖夢。本には興味ないんじゃなかったの? それとも、また斬りに来たのかしら?」
「……妖夢」
「ち、違いますよ椛。あの時は異変の解決を最優先に考えていてですね……」
「そして、貴女も珍しい」
妖夢の弁解を無視して、パチュリーはゆらぁりと視線を動かした。
「妖怪の山の白狼天狗。山の見張りと侵入者の排除を主な仕事とする、山の門番とも言うべき存在。そんな種が此処まで足を運ぶなんて、山にとって不利益となることを、この館の住人がしたのかしら? その大きな刀は斬り捨て御免のためなのかしら?」
「よく知っているな。だが、あいにく私は仕置き人ではない」
「そう。では、私の尻子玉が目当て?」
「それは河童が抜くものだ」
「あら、それは失礼」
パチュリーは再び視線を妖夢に戻して、
「ところで、何の話だったかしら?」
「……本を探しに来たのです。外界の漫画本で、出来ればお借りしたいと……」
「ふむ、漫画ね……」
頬に手を当て、天窓を見上げて思案顔のパチュリーを、妖夢は固唾を飲んで見守る。ここで断られてしまえば、もはや他に頼れる場所はない。
――最悪の場合は、やはり香霖堂の主人を斬ってでも……!
思考が危険な方向へ飛び始めたところで、ようやくパチュリーは一つ頷き、
「いいわよ。私は漫画に興味はないし。レミィがぐずるかもしれないけれど」
紡がれた快諾の言葉に、妖夢の表情が輝いた。
「ありがとうございます! このご恩は必ず!」
「……本を貸すくらいお安いご用よ」
パチュリーは薄く微笑み、
「外界の本は……あっちだったかしら」
館内をぐるりと見回して、人差し指をひと振り。ぽう、とその指先に光が灯った。
そしてパチュリーは、その光を居並ぶ本棚で作られた路地の一本に放り込む。
「これについて行きなさい。外界の漫画本がまとめられているところまで案内するわ。あとは自力で探して頂戴」
「わかりました、ありがとうございます」
ふよふよと本棚の向こう側へと飛んでいく光を妖夢は追って。
「……椛?」
しかし椛はその場を動かず。
椛は眉間に小さなしわを作ってじっとパチュリーを見つめていた。その瞳に宿るは、疑念。
当のパチュリーはといえば、椛の視線を意に介すことなく、机の上から新たな本を取り出して読み始めている。
「早く行きましょう。見失っちゃいますよ」
「……ああ」
ようやく動いた椛を伴って、妖夢は光を追う。その先に、求める本があると信じて――
…………
「椛、さっきはどうしたんですか? 様子がおかしかったですけど……」
ふよふよと前方を飛ぶ光球について大図書館を歩きながら、妖夢は問いかけた。天窓からの採光だけでは足りないのだろう。辺りには、似たような光球が入ったガラス玉が、ぽつぽつと天井から吊るされていた。
「……どうにも、いやなにおいがする」
「“におい”?」
うめくように呟かれた椛の言葉に、妖夢は思わずおうむ返し。
「ああ。パチュリー・ノーレッジの笑顔。私は彼女の笑顔にひどく作り物めいたものを感じた。不吉なにおいを感じた」
「作り物めいたって……考えすぎじゃないですか?」
「さて、どうだかな……」
椛は眉間にしわを寄せ、前方の光球をにらみつけながら言葉を続ける。
「相手は魔法使いだ。何を仕掛けてくるかわかったものじゃないと思うが」
その物言いに、今度は妖夢が顔をしかめた。
「……椛、あまり人を疑うのは良くないと思います」
「む……」
これまでずっと、“妖怪の山”という枠組みの中で生活してきた椛である。とりわけ、彼女の仕事は哨戒。仲間以外は全て“敵”として認識してきたのだ。他種族に対する警戒心が強いのは仕方のないことだとは思うが……
「ここの人たちは大丈夫ですよ。みんな悪い人ではないです」
「いや、紅霧異変の主犯だったはずだが……」
椛は突っ込みかけて、しかし口をつぐんで黙考し、
「……いや、すまない。少し神経質になっていたようだ」
息をつきながら小さく首を振って呟いた。
「いえ、わかってくれて何よりです。
さあっ、気を取り直して行きましょう! きっと目的地はすぐそこですよ!」
ぴっ、と前方を飛ぶ光球を指差して、妖夢は歩幅を広げて歩く。
その襟首を、
「妖夢」
椛が引っ張るのと、
ッキィィィィィン――……!
眼前に輝く水晶が出現したのは、ほぼ同時だった。
「…………」
「誰が、悪い人ではないと?」
「うっ、うーんっ……」
椛に背を預け、妖夢は指差しポーズのまま呻き声をあげて。
翡翠のような水晶は、床で煌々と輝く魔法陣を中心に出現していた。たったいま妖夢が足をつけたところだ。その高さ、そびえる本棚のてっぺんまであろうかというほど。パチュリーの操る土属性の魔法“エメラルドシティ”だ。
「さて、どうしてこんなものが仕掛けられていたのか。これはいよいよきな臭くなってきたな……!」
背の大太刀と盾を手にし、身を屈めて魔法陣を眺めながら椛は呟く。並んで妖夢もしゃがんで魔方陣を眺め。
おそらくこれは、
「踏むと動く仕掛け、でしょうか」
「う、む……さて、本当にそれだけだろうか……?」
妖夢の言葉に、しかし椛は思案の表情。
やがて魔法陣は静かに霧散して床に吸い込まれ、同時に水晶は霞となって消えた。
椛はとん、とん、と何度か魔方陣のあった箇所を大太刀の切っ先で小突く。
「一度しか動かない仕掛けなのか」
「何にしろ」
妖夢はふわりと浮き上がって、
「こんな罠、飛んで移動すれば恐れるに足りませんね」
「進むのか?」
「当然です。ここまで来て引き下がれますか」
ご丁寧にこちらを待ってくれていた光球を、妖夢は低空飛行で追いかけた。背後に目をやれば、しかめっ面の椛も宙に浮いてついてきている。
「仕方ないな。だが、魔法使いの罠だ、甘く見ないほうがいいぞ」
「了解です」
二人の接近を認識したのか、再び動き出した光球に導かれて、妖夢と椛は大図書館のさらに奥へ――
ガシャシャシャンッ!
「みょぉぉぉ……!?」
「まあ、だろうとは思ったが」
降り注ぐ紫水晶の雨を回避して、避けきれない分は楼観剣で迎撃して。
――今度はドヨースピア!?
同じく土属性の魔法である。
妖夢は足元で輝く魔法陣を愕然と見つめた。
空を飛んでいた。床には触れていなかったはずだ。だが、罠は動いた。
「魔法陣に近づくだけでも発動してしまうようだな」
そういうことなのだろう。
椛の言葉に妖夢は首肯し、地に降りて楼観剣を構えた。
「なら、こうやって進めば今度こそ大丈夫ですよね」
右手に持った楼観剣を前方に向けて、右半身を前に出して歩く。
「こうしておけば、私よりも先に楼観剣に反応して罠が動く。これだけ距離があれば、私でも対応できるはずです!」
その様、西洋の剣術の構えに似たものがあっただろうか。
ずるずるとすり足で進む妖夢に対して、椛はいつもと変わらぬ足取りで。
「……妖夢、私が前を歩こうか?」
背後から椛が心配そうに声をかけてくる。そんなに危なっかしいだろうかと思いながら、妖夢は首を左右に振って。
「いえっ、心配ご無――」
こうっ。
“足元”から魔法陣。次いで前方からも魔法陣が展開された。間髪入れずに前方の魔法陣から放たれたのは、二枚の金属の鋸。金属性の“オータムブレード”だ。
「みょう!?」
「っ!」
ギンッ! ギャリリリィン!
一枚は素早く前に出た椛が大太刀で弾き返し、もう一枚は間一髪、妖夢が楼観剣で防ぎ、尻餅をつきながらも上方へ弾き飛ばした。二枚の鋸はあさっての方向へ飛んでゆき、やがて魔法陣の消滅とともにシャリンと乾いた音を立てて砕け散った。
「刀のような無機物には反応しない、か。だいぶ条件が絞れてきたな」
「ちょ、ちょこざいなっ……!」
ふるふると震えながら立ち上がる妖夢の肩に手を乗せて、椛が前に出た。そのまま光球へと歩を進め、
「やはり私が先に行こう。妖夢にはまだ、早い」
「うう……面目ありません」
「なに、気にするな」
妖夢は、振り向いて微笑む友の後をとぼとぼと追った。
ふわりふわりと光球は二人を導き、やがて十字路を右に曲がって。
「早くしろ。見失ってしまうぞ」
「あ、はい」
椛の後を追って妖夢は歩を早めた。光球と椛を追ってぱたぱたと小走りに十字路へと差し掛かり、
こうっ。
「え」
足元に輝き。次いで前方――前を行く椛の背後でもある――にも輝き。
「なんだと!?」
慌てて振り向く椛の髪の毛がふわりと浮いて。
っぱう!
「ぐッ!?」
小さな炸裂音と同時に、腹を襲う強烈な衝撃。次いで全身をなぶるこれは、
――風!?
「ッがぁ!」
「妖夢!」
木属性の“フラッシュオブスプリング”。圧縮された空気の爆発に抗うことができず、妖夢は思い切り吹き飛ばされた。
一回、二回とバウンドし、やがてごろごろと転がってその勢いはようやく止まって。
「妖夢! 大丈夫か!?」
「来ないでください!」
慌てて駆け出した椛を、妖夢は制した。
「だ、大丈夫です。効きましたけど……」
腹を押さえながら妖夢はゆっくり立ち上がって。
「いたた……。いまそっちに行くので待ってて下さい。椛が余計な危険を冒す必要はありません」
「し、しかし……」
「ご心配なく。もう大丈夫ですから!」
とは言え、おそらく先ほどの動きからして、椛に対して罠は発動しないのではないかと妖夢は思う。ここに仕掛けられた罠は、いまのところ妖夢にしか反応していないのだから。
兎にも角にも、まずは心構えを変えよう。
いまの自分では、罠の発動は回避できない。そのことはもう十二分にわからされた。
ならば、
――動いた罠を避ければいいだけだ。
この辺りに仕掛けられている罠は、魔法陣の展開から発動までに若干の間がある。陣の展開にいち早く気付くことができれば、回避も不可能ではないはずだ。
――さっきまでは油断していたから駄目だった。でも、もう油断はしない。
起点となる魔法陣は床に仕掛けられている。妖夢は足元を注視しながら歩を進めた。
本棚の縁に手を添えてゆっくりと。椛のもとまでは、まだ少し距離がある。
道中、絨毯の上に無造作に置かれている本があった。パチュリーが読みっぱなしっで置いたものだろうか?
――ああ、あいつかも。
そういえば、知り合いの魔法使いはここの常連だったか。とにかく手癖の悪いやつだ。こうして本を読み散らかしていたとしても不思議ではない。
と、
こうっ。
――光った!
右手が。
「え?」
否、たまたま手が触れていた本から魔法陣が展開されたのだ。
「そっ」
妖夢は慌ててそちらに目を向けて、次の瞬間、
「ち!?」
足元の床が消滅した。
とっさに空を飛ぼうとしたが、
――飛べない!?
霊力を思うように操れず、混乱するうちに身体は重力に引っ張られて。
「妖夢!!」
罠のことなど忘れてしまったのか、椛が大太刀を放り出して無防備に走ってくる。しかし、その伸ばした手が妖夢に届くことはなく。
最後に見たのは、罠の仕掛けられた本の背表紙。
その本の、背に綴られた、題名は。
“ザ・きのこ”
――って、これ、
「魔理沙用の罠かあぁぁー!」
怒声むなしく、妖夢の視界は暗闇に閉ざされてしまった。
「わああぁぁぁぁああぁ!?」
落とし穴の先は、長い斜面だった。
滑らかな下り坂を、妖夢は右へ左へと転げ落ちて行く。
「痛っ! ちょっ、おしり!」
相変わらず飛ぶことは叶わず、光は見えず。妖夢は地下へ、地下へ――
そして、
ぼふんっ!
「わぷ!」
柔らかな感触に受け止められて、ようやく斜面は終わりを告げた。
「あいたたた……」
楼観剣を手放さなかったことは称賛に値すると言いたいところだが、しかし身体のあちこちが痛い。あざになっていなければ良いのだが。
「こ、おとと。ここは……?」
バランスを崩しながらも身を起こし、楼観剣を鞘に収めながら背後を見ると、壁にぽっかりと開いた、丸く、暗い空洞がゆっくりとその穴を狭めていて。ずいぶんとまあ、手の込んだ落とし穴である。
おそらく妖夢が通ってきた穴には、霊力や魔力など、そういった類の力を封じる細工が施してあるのだろう。キノコ好きの魔法使い――霧雨魔理沙を引っ掛けるために用意された罠であるならば、当然の仕掛けだ。
「まったく、魔理沙のとばっちりなんてついてない……」
ぼやきながら、妖夢はぐるりと部屋を見回した。
広い部屋だ。窓はひとつもなく――地下なのだから当たり前か――光源は天井から吊るされたランプのみ。当然、そんなものだけでこの空間全体を照らせることもなく、部屋の隅は闇の中。かろうじて視認できる向こう側の壁にはドアが一枚。あれが出入り口だろうか。
じじ、と獣脂の焼ける音が妙に大きく聞こえる。
しかし、部屋の広さに対して、ここはものが少なすぎると妖夢は感じた。
だだっ広い空間にあるのは、椅子と、テーブルと、その上に詰まれた数冊の分厚い本とトレイに乗せられたティーセットが一式。そして、いま妖夢が座っている大きなベッドだけだ。
妖夢は改めてベッドに目を向けて、
「うっ……!?」
思わず呻き声を上げた。
横たわれば身体が埋まってしまうほどふわふわのベッドには、先客がいた。
「な……ななっ……なに、これ……?」
棺桶。
過度でない程度の装飾が施された豪奢な黒檀の棺桶が、ベッドの上に鎮座していたのだ。
ほんのり発光している半霊で棺桶を照らし、妖夢はその異様な光景をまじまじと見つめる。
「どうして棺桶がこんなところに……?」
ごそり。
「ひぃ!?」
棺桶の中から、物音が聞こえた。
――何かいる! 何かいる! 何かいる!?
ばくばくと脈打つ心臓に突き動かされるように、妖夢は慌ててベッドの縁へと移動した。こんな不気味なところから早く脱出して、椛と合流したかった。きっと心配しているはずだから。
妖夢は転げるようにベッドから降りて、
『んん、まぶしい……』
ずっ。
「!?」
かすかに聞こえた声と音にびくりと身をすくませた。ぎぎぎ、と妖夢は硬い動きで振り返る。
なるほど。よく見れば、棺桶の蓋には小さな窓がついていた。先ほど棺桶の様子を見たときに、そこから半霊の光が差し込んでしまったのだろう。
『誰かいるの……?」
ずずっ……
ああ、逃げなくては、逃げなくてはと思いつつも、足は竦んで動かず。棺桶の蓋は、ゆっくりと開いてゆき。
ず、ずず、ず……
やがて半ばまでずらされたところで、中から現れたものは。
シャリン。
薄桃色のネグリジェをまとう肌は、しみひとつない透き通るような白。眠たげにこする眼は紅玉のようで。流れる髪は金の糸。
そして背に負うは、異形としか表現のしようがない何か。いびつな枯れ枝のようなものと、それに実る果実のような、色鮮やかな宝石たち。左右から一対だけ生えているということは、羽であると見てよいのだろうか。
棺桶から現れたのは、どこまでも美しく、愛らしい少女。しかし同時に、妖夢は底知れぬ“恐怖”をその少女から感じていた。
シャリン。
少女がうーん、と伸びをすると、その背の宝石が触れ合い、涼やかな音色を奏でた。
――怖いくらい綺麗だから?……違う、そんなんじゃない。もっと、こう……
得体の知れない恐怖に、妖夢は後ずさる。しかし、ようやく意識がはっきりしてきたか、辺りをきょろきょろと見回す少女と目が合ってしまった。
「あ……」
「……」
互いに目を丸くして見つめあい。
「……」
「……さ」
先に動いたのは、少女のほうだった。その紅い瞳をさらに大きく見開いて、
「サムライ!」
びっ! と妖夢を指差して叫んだ。
「……え?」
「あなたサムライでしょう? その“カタナ”ってやつ、本で見たことがあるわ」
「あ、いえ、私は……」
面食らった妖夢をよそに、少女は無邪気にはしゃぎながら棺桶から飛び出した。そしてベッドの縁まで移動して、妖夢の姿をまじまじと見つめる。
「チョンマゲが無いけれど、些細な問題よね。ねえねえ、“ハラキリ”とかするんでしょ?」
「いや腹切りはすると死んじゃうから」
「死んじゃうんだ?」
「死んじゃうのよ」
「ふうん。えっと、じゃあね、じゃあね……」
あと自分は侍ではないことも言うべきかと思ったが、妖夢は口をつぐんだ。無邪気で無害に見える少女。しかし、本能的な恐怖は拭えていない。下手に刺激しないほうがいいだろう。
なおも少女は瞳を輝かせて言葉を探していたが、やがてその口角が上がった。その形、鋭利な三日月のようで。
「私と斬り合い、してくれる?」
ぞわり。
「ッ!?」
妖夢は抜刀しながら後ろに大きく跳躍。そして楼観剣を構えた。感知能力の乏しい妖夢でも気が付くほどの強大な妖力。この少女は……
――危険だ!
悪寒が背筋をぞわぞわと刺激し続けている。いますぐ逃げろと警告している。
「あははっ! 遊んでくれるのね!」
無邪気に笑って、少女が宙に舞う。パチンと指をならし、くるんと横に一回転すると、
ぼうっ。
その身体が紅蓮の炎に包まれた。
「うふふ……」
炎の中から妖しい笑い声が響く。
――冗談じゃない!
楼観剣を構えてしまったのは反射だ。決して合意ではない。
だが、それを言っても彼女は聞かないだろう。話の通じる手合いには思えなかった。
――でも、いまなら、逃げられる?
少女は炎の中だ。逃げるなら今しかない。
妖夢は踵を返して走り出して、
「どこに行くの?」
「!?」
背後から声。
目を向ければ、炎を散らしてこちらに突進してくる少女。身にまとうは先ほどまでのネグリジェではなく、紅のスカートと、薄桃のシャツに紅いベスト。金の髪は頭の横でひとつにまとめて、紅いリボンのついた薄桃の帽子を被っている。
そして、
ギンッ!
「ぐぅ!?」
その一撃を、妖夢は辛うじて楼観剣で受け止めた。
少女が手にするは、紅蓮の炎をまといし一振りの剣。
「禁忌『レーヴァテイン』」
一拍遅れの宣言に、少女の横でくるくると回転しながら浮いていた符が紅い霞となって散り消えた。
「さあ、斬り合いましょう?」
「私は忙しいの! あなたと遊んでいる時間はないのよ!」
その小さな体躯に見合わない、尋常ならざる腕力に何とか抗いながら妖夢は声を上げた。
「だーめ。“サムライガール”は私と遊ぶの」
案の定、少女は聞く耳を持たず。
「“サムライガール”じゃない! 魂魄妖夢だ!」
「私はフランドール。フランドール・スカーレットよ。よろしくね」
「……フランドール?」
その名前には覚えがあった。
“悪魔の妹”フランドール・スカーレット。紅魔館当主レミリア・スカーレットの妹だ。その能力の危険性と情緒の不安定さゆえ、地下に幽閉されていると聞いたが、ここがそうだったとは。
そんなところへ直行させてくれたパチュリーを恨みつつ、妖夢はレーヴァテインをはじいて距離をとった。
吸血鬼が相手では、ここから逃げ切ることは難しいだろう。だが不幸中の幸い、フランドールは”斬り合い”をご所望だ。剣での勝負なら、逃げる隙を作れるかもしれない。
こちとら、日々の修行に加えて白狼天狗の手ほどきも受けているのだ。いかに身体能力の高い吸血鬼が相手とはいえ、遅れは取るまい。
「……遊んでくれないなら」
ぞわり。
思考を巡らせていると、対峙するフランドールの声色が低くなった。レーヴァテインを持った右手をだらりと下げて、開いた左手をこちらに向けて。
「……?」
様子を窺う妖夢の前で、フランドールが左手を閉じた、その瞬間、
ぱんっ!
「!?」
小さな破裂音とともに、頭の黒いリボンが弾けた。
「こうだよ?」
――いま、何を……!?
妖夢は愕然としながらぼろぼろになったリボンに手を当てて、フランドールを見る。
――そうか、これが……
音に聞く、フランドール・スカーレットの“ありとあらゆるものを破壊する程度の能力”というものか。
その気になれば、頭を破壊することもできただろう。やはり、迂闊に刺激するのはまずい。いまはとにかく、彼女の機嫌を損ねないようにしなくては。
「しょうがないわね……」
妖夢は楼観剣を構え、
「一本だけよ?」
「やった!」
ため息交じりの承諾に、フランドールは跳びはねて喜んでいた。
――隙がなんだって!?
ギッギギ!
上段からの一撃を受け止め、流しながら、妖夢は焦燥感を募らせていた。
能力で破壊されることはなくとも、あの剣から一撃をもらえば、ただではすまないだろう。
そして、やはり吸血鬼。フランドールの身体能力はすさまじく、体力、腕力、瞬発力さえも妖夢を上回っている。おかげで、間断なく続く攻撃に反撃の糸口も、逃げる隙も見出せずにいた。
唯一の救いは、攻撃が単調で読みやすいことだった。レーヴァテインをただがむしゃらに振り回しているだけ。未熟な力押し程度だったおかげで、こうして凌ぐことができている。
――速くて重い攻撃には慣れてるのよね。
いつも修行に付き合ってくれている椛に感謝しつつ、妖夢は横薙ぎの一閃を後ろに飛んでかわした。
「もー! ちょこまかとー!」
ぶんぶんとレーヴァテインを振りながら、フランドールは地団駄を踏む。とは言え、こちらも攻めに転じることができずに地団駄を踏みたい気分なのだが。
と、フランドールはぴたりと地団駄をやめて、
「いいこと思いついちゃった」
にやりと笑った。
そしてフランドールはレーヴァテインを両手で構え。
次の瞬間、
ヴンっ!
「げ!」
レーヴァテインが伸びた。三倍ほど。
「こんなのはいかがかしら!?」
吠えてフランドールはレーヴァテインを振るう。
「反則じゃないかしら!?」
袈裟懸けに迫る長大過ぎる破壊の具現を、妖夢は真上に飛んでかわした。
ガァン!!
叩きつけられたレーヴァテインは、床に大きな亀裂を刻んで。
「もういっちょう!」
おそらくは自身の妖力で作った刃。重さなどないのだろう。フランドールは素早くレーヴァテインを振り上げると、大上段から振り下ろした。
――避け切れない!
着地と同時に、妖夢は頭上に迫る紅蓮に楼観剣を掲げて、
ギガァン!!
「っが!?」
瞬く間さえもたなかった。
直撃は免れたものの、その怪力に抗うこと叶わず、妖夢は床に叩きつけられた。妖夢を中心にして、石造りの床に亀裂が走る。
身体がずきずきと痛むが、休んでいる暇はない。紅玉の瞳を爛々と輝かせたフランドールが、三度レーヴァテインを振るう。
倒れた妖夢の視界いっぱいに紅蓮の刃。
「~~!!」
声にならないうめきをあげながら横に転がって回避。
ゴガァ!
床が陥没した。
肝を冷やしながら立ち上がると、やはり追撃の姿勢に入るフランドールの姿。
回避は難しい。かといって防御などもっての外。
ならば、
――返すしかない!
妖夢は上着から符を取り出してから、白楼剣に手をかけた。
迫り来るは袈裟懸けの一撃。白楼剣を抜き放つと同時に、妖夢は宣言する。
「空観剣!」
ギッ!
逆手に構えた白楼剣と、レーヴァテインが交差した。
「ぐ、うっ、う、う……!!」
その尋常ならざる力に抗いながら、スペルカード宣言を続ける。
「『六根』!」
ギッ……
「『清浄』……!」
ギギ……
「ッ『斬』!!」
ギァン!!
「きゃ!?」
宣言の完遂によってスペルカードの恩恵を受けた妖夢は、レーヴァテインを打ち上げた。同時に、レーヴァテインを通して自身の霊力を送り込み、フランドールを一時的な金縛り状態に陥らせる。
次いで四つに分裂した半霊とともにフランドールを囲んで、霊力を練り上げながら駆けた。やがて半霊はその形を変えて。
「すごい! 分身の術! あなた“ニンジャ”だったのね!」
動けぬままにはしゃぐフランドールを横目に、五人の妖夢はさらに霊力を練る。その足元に大きな花びらを落として。
一枚。それは桃色の花弁。
二枚。それは霊力の具現。
三枚。それはフランドールの身体をさらに拘束し。
四枚。それは妖夢の身体能力を向上させて。
五枚。開花を果たしたそれは、桜の花。
妖夢たちはそれぞれ花びらの上で立ち止まり、居合いの構え。
「忍者でもない!」
訂正を入れつつ、同時に駆け出し。
そして、
「私も分身する!」
「え?」
虚空より、フランドールの手元にスペルカードが現れた。フランドールはそれをぎしぎしとぎこちない動きで掴むと、駆ける妖夢に微笑を向けながら宣言する。
「禁忌『フォーオブアカインド』!」
「!?」
振りぬいた楼観剣に手応えはなく。ただ驚愕に瞠る眼前に広がるは、蝙蝠の群れ。
フランドールだったそいつらは四方に散ると、その身を黒く染め、固まり、溶け合って。
『じゃーん!』
やがて姿を現したのは、四人のフランドール。
「こ、これって……」
――まずくない?
一人でさえ手を焼いたフランドールが四人に増え、対するこっちは必殺の一撃をかわされ、霊力を大きく消費して疲労が大きい。これでは回避はおろか、防御すらままならない。せめて分身がそのまま残っていてくれればよかったのだが、すでにスペルカードの効力は切れている。分身だったものは解けて集まり、すでにもとの半霊の姿へと戻ってしまった。
そも、自分の写し身を作り出すなど、生半可な霊力でできるわけがないのだ。妖夢にしても、半霊という自身の半身を媒体に、スペルカードの恩恵を受けてもなお数秒から十数秒が限界だというのに、フランドールはいとも簡単に、それも三人も作り出してしまうとは。常識はずれも甚だしい。
床に片膝をつき、肩で息をする妖夢を四人のフランドールは見下ろして、
「あら?」
「もう終わり?」
「また見たいな、“分身の術”」
「もっと遊びましょう?」
交互に言葉を発した。
「ちょっと……休憩しない?」
『やだ』
苦し紛れの提案もバッサリと切り捨てられ。
「早く早く」
「もう動けないの?」
「じゃあ……もう要らない」
「使えないおもちゃは」
そろって邪悪な笑みを浮かべたフランドールは、それぞれ通常サイズに戻ったレーヴァテインを構えて、
『壊れちゃえばいいよ!」
四振りの紅蓮が迫る。
「待った待った!」
――逃げなきゃ!
もはや打つ手は無い。
動かぬ身体に渇を入れ、妖夢は扉のほうへと身を投じた。部屋の外に出られれば、あるいは。
しかし……
ゴガァ!!
背後で床が大きく砕けた。
――無理、かも。
「あは、今度は鬼ごっこね」
「私たちが鬼」
「吸血鬼だもの、当然ね」
「さあ、逃げて逃げて!」
ふらりと身を起こして駆け出す妖夢に追いすがる四人の吸血鬼。分身といっても力までは分かれていないようで、相変わらずその身体能力は妖夢を大きく凌駕している。
「あは」
ぞわり。
振り向く間さえ惜しんで、妖夢は横に跳んだ。その空間を、紅蓮が通過する。
ずざっと着地して振り向けば、すぐさま次のフランドールが迫っていた。
「それ!」
鋭い突き。かろうじて動かした頭の横をレーヴァテインが通過した。猛る紅蓮が頬をなぶる。
妖夢は扉に背を向けたまま後ろに跳躍して距離をとった。一回、二回――
と、足元に影が差した。振り仰げば、三人目のフランドールが高みからレーヴァテインを振りかぶり。
「バイバイ」
「くっ!」
うめいて楼観剣を構えるが、どうせ受け切れないだろうなと妖夢は思う。
――だったら、やるしかない!!
紅蓮が迫る。残りの鬼も、すぐそこまで来ていた。
集中力が高まっていく。引き伸ばされた刹那の中、妖夢は狂気の一撃をただ見つめ――
――いまだ!
身を捻って一撃を回避。そのままくるりとフランドールの背後に回り込んで、
「龍巻――」
「デモンズディナーフォーク!」
響く声と、間髪入れずに走る三条の紅い閃光。
『きゃあ!』
「せ……」
三人のフランドールに、それぞれの閃光が突き刺さった。フランドールたちの姿は黒ずみ、やがて霞と化して散り消える。
そして、
「神槍『スピア・ザ・グングニル』!!」
ギィィィンッ!
残った一人――最後尾にいた本物のフランドール――のレーヴァテインを弾き飛ばしたのは、真紅の槍。
フランドールはレーヴァテインを振りかざした姿勢でしばし硬直し、やがて手をぷらぷらと振りながら妖夢の背後に目を向けた。
「御機嫌よう、お姉様。よく私が本物だってわかったわね」
「姉だからな」
つられて妖夢も振り向けば、開け放った扉の前でため息をつく少女がひとり。
紅いリボンの装飾が散りばめられた薄桃色のドレスに、同じ色の帽子はフランドールの被っているものと同じ意匠。少し色の薄い蒼の髪によく映える瞳は紅玉。
そして、ばさりと広げた一対の黒い、蝙蝠の羽。
「やあ魂魄妖夢。久しぶりだな」
フランドールの姉にして紅魔館の主、“永遠に紅い幼き月”レミリア・スカーレットは、ひょいと片手をあげた。
その様子を、妖夢はうろんな目で見つめる。
「レミリア……」
「なんだ、その目は?」
――成功しそうだったんだけどな……
「いえ、何でも……」
「まあいい。パチェと、君の連れ……犬走椛と言ったか。彼女らから話は聞いたよ」
「椛! 椛は無事なの!?」
「ああ、ぴんぴんしている。そもそも……いや、詳しくはパチェに聞け」
肩をすくめながらレミリアはこちらに歩き出す。
「咲夜、こいつを図書館まで送ってやれ」
「かしこまりました」
言葉と同時に妖夢の前に現れたのは、銀髪の少女。紅魔館のメイド長、十六夜咲夜だ。
「肩を貸す?」
「ううん、大丈夫。その、ありがとう」
「お嬢様の命令だからね」
咲夜の先導で妖夢は扉のほうへと歩き出した。そしてレミリアは、入れ違いにフランドールと対峙する。フランドールは手をかざし、その手に再びレーヴァテインを顕現させて構えた。
「どいてよお姉様。私は“サムライニンジャガール”と遊んでるの」
「だから、侍でも忍者でもない!」
「略して“サムジャール”」
「ちょっと! 聞いてる!?」
無論、聞いていないのだろう。フランドールもレミリアも、こちらに一瞥もくれない。ただ、横を歩く咲夜は口元に手を当ててぷるぷると肩を震わせていたが。
「悪いが、それはできないんだよフラン。彼女はパチェの客人なんでね」
「でも、私の部屋に来たのよ。だから私のお客よ」
「それはパチェの――」
「やだ! もっと遊ぶの!」
レミリアが穏やかに諭すが、フランドールは聞く耳を持たず。レーヴァテインをがんがんと床に叩きつけて駄々をこねる。
その様子に、レミリアは大きなため息をついて、
「……わかった。なら私が遊び相手になってやる」
「本当!?」
「ああ。だからあいつは見逃してやってくれ」
「わかった!」
一転してフランドールは表情を輝かせ、ふわりと宙に舞う。
「まったく、我が侭な妹を持つと大変だな。
ほらお前たち、早く行け。巻き添えを食っても知らんぞ」
レミリアはさらにため息をつくと、やり取りを眺めていた二人に警告の声をかけてから、フランドールの後を追った。
「行くわよ、妖夢」
「う、うん……」
スペルカードの宣言と、放たれる弾幕の輝きを背に、妖夢はフランドールの部屋を後にした。
「咲夜」
カツン、カツンと足音を響かせながら、妖夢と咲夜は石造りの階段を上る。ときおり地面が揺れているように感じるのは、気のせいではないだろう。
「なに?」
「レミリア、置いてきちゃってよかったの?」
相手は情緒が不安定で、危険な力を持った吸血鬼だ。いかに同じ吸血鬼とはいえ、果たして無事でいられるかどうか……
「命令だからね。それに、初めてのことでもないし、大丈夫よ」
しかし、あまりにもあっけらかんと言うものだから、そんなものかと妖夢は納得することにした。
やがて階段を抜け、地上のフロアを経由して再び地下へ。流石は紅魔館のメイド長。その足取りに迷いはない。
規則正しく揺れる銀の髪をなんとなしに眺めている間に、見覚えのある大扉が妖夢の前に立ちはだかった。
「はい到着。それじゃ、私は戻るわね」
それだけ言うと咲夜は踵を返し、来た道を変わらぬ足取りで歩き出した。
「咲夜、ありがとう」
「ええ、またね」
その背に礼を告げると、咲夜は振り返ることなく手を振ってから姿を消した。
「――さて」
再びの大扉。
戻ってきたのだ、ここに。
まずはパチュリーに文句を言わねば気がすまない。危うく死に掛けたのだ。椛にも心配をかけてしまった。
ぎぃぃ……
果たしてパチュリーにこの重厚な扉を開ける腕力があるのだろうか? などと疑問に思いつつ、妖夢は大扉を開いた。鼻腔をくすぐる本の香り。
浮世とは一線を画した静寂に、妖夢は再び足を踏み入れて。
広がる光景は先ほどとほとんど変わらず。小豆色の絨毯と、無数の本棚。そして正面に見えるはテーブルがひとつと本の山。
異なる点は、ただ一つ。
くすんだ色彩の中に、胸の透くような白があった。
「妖夢!」
白――犬走椛がこちらに駆け寄ってくる。妖夢も小走りで椛に駆け寄って、
「椛!」
「怪我をしてるじゃないか! 大丈夫なのか?」
椛は心配そうに妖夢の左頬を撫でた。ちくりと痛み。どうやらすりむいていたらしい。
その手に妖夢は自分の手を重ね。
「大丈夫です。ちょっとやられちゃいましたけど、大したことはないです」
「そ、そうか……」
椛は安堵の息をつくと、そのままゆっくりと妖夢の身体を抱きしめた。
「もっ、椛!?」
「よかった、本当に……!」
「椛……」
よほど心配をかけてしまったようである。いつも凛としている椛からは想像もつかないその様子に、妖夢は申し訳なく思った。
だから、妖夢は椛の身体に手を回して、
「ごめんなさい。私が不甲斐ないばかりに」
「いい。お前が無事なら、それで……」
まだ、椛にとって妖夢は“守るもの”であるようで。それが少し、歯がゆい。
――違う。私は、椛の後ろを歩きたいんじゃない。対等でありたいんだ。
そのためには、まだ力が足りない。
――もっと……もっと、強くならないと。
その剣はまだ天狗には遠く、足元にも及ばないだろう。だが、いつかは……いつかは……!
「……そろそろいいかしら?」
「!?」
割って入った第三者の声に、二人は慌てて身体を離した。
「あ……その、すまない」
「いえ、ここ、こちらこそ」
なんとなしに謝りあって。
声のほうへと目を向ければ、眠たげな目でこちらを見つめる魔女の姿。先ほどと変わらず古びた椅子に腰掛けて、足の上には分厚い本を乗せている。
はっとして、妖夢は身構えた。
「パチュリー! 酷いじゃないですか、私たちを罠にかけるなんて! 危うく死ぬところでしたよ!」
「だってあなた『恩は返す』って言ってたじゃない」
妖夢の訴えにまるで動じることなく、パチュリーは淡々と応える。
「命を差し出せと!?」
「違うわよ“実験体”になってもらっただけ」
「……実験体? って……」
妖夢は眉間にしわを寄せて唸る。
「あの罠のことですか?」
「そう。最近、新しい魔術トラップを開発してみたのよ。少し凝った代物でね。人間にだけ発動するようにしてみたの」
「……だと思いましたよ」
「その罠の実験体とすることを、妖夢の“恩返し”としたのか」
最後の二つ。椛には発動しなかった罠と、きのこ本に仕掛けられていた罠で妖夢は確信を持った。あれは人間――それも、特定の人物を標的にしたものだと。
「本当に助かったわ。咲夜を実験体にするわけにはいかないし、ぶっつけで試すには不安だったから」
「……もう少し威力は抑えたほうがいいですよ。あんなの、人間がまともに受けたらひとたまりもありません」
「考えておくわ。それよりも問題は発動時間よ。魔法陣の展開から術の発動まで、予想よりも時間がかかっている。やっぱり彼女の“人間”が半分しかないからかしら……?」
大丈夫だろうか?
ぶつぶつと考察を始めてしまった魔女をうろんな目で眺めながら、標的であろう“人間”の魔法使いの身を案じつつ、妖夢はため息をついた。
「あの……それで本は……?」
「……ああ、そうだったわね」
しばし間のあと、パチュリーは思い出したかのように顔を上げると――本当に忘れていたのかもしれない――人差し指をひと振り。ぽう、とその指先に光が灯った。
「これについていきなさい。外界の――」
「ハイワカリマシタってまた嵌める気ですか!?」
どこかで見た流れに、妖夢は声を上げた。
「……ち」
「あっ、いま舌打ちしましたよ!」
「そのくらいにしてやってくれ」
さらに文句を言ってやろうとパチュリーに詰め寄りかけたところで、背後から静止の声がかかった。振り向けば、紅魔館の主、ところどころが破けたドレスを身にまとうレミリア・スカーレットと、その従者、こちらは傷ひとつない十六夜咲夜の姿。
「レミリア! ぼろぼろじゃない!」
「なに、服をやられただけだ。まったく、いつまでも加減を覚えない妹だよ」
ひらりひらりと手を振りながらレミリアはこちらに歩いてくる。
「パチェ、こいつらの願いを聞いてやれ」
「あら、どういう風の吹き回しかしら?」
「不可抗力とはいえ、妹の遊び相手をしてもらったからな。それくらいの褒美を出してもバチは当たらないだろう。
いやしかし助かったよ妖夢。フランのやつ、最近退屈していたみたいでな。おかげで私の負担が減った」
「……もしかして」
「ああ、ギリギリまで静観させてもらった」
いいタイミングで現れたと思ったら、そういうことだったのか。どうにも、ここの連中は他人を道化に仕立て上げることが好きらしい。
「まあ、もう過ぎたことだからいいけれど。もう嫌よ、あんな危険な“遊び”に付き合うのは」
「フランは、また遊びたいと言っていたぞ」
「丁重にお断りします」
命がけの“遊び”などこりごりだった。
「それは残念。まあそう言うわけだ。パチェ、頼む」
「……はあ。しょうがいないわね。妹様が暴れだしたら、私じゃどうしようもなかっただろうし」
「やった!」
怪我の功名というやつだろうか。ため息交じりのパチュリーの言葉に、妖夢は諸手を挙げて喜んだ。
「ひとまず茶でも飲んで行くといい。咲夜」
「かしこまりました」
次の瞬間、テーブルの上にはティーセットが広げられていた。先ほどまで卓上を制圧していた本はどこに行ったのだろうか……?
「こ、これは……!?」
椛が目を瞠る。そういえば、咲夜の能力を見るのは初めてだったかと、なかなか見ることのできない驚愕の表情を妖夢は眺めた。
「咲夜は時を操ることができる。時を止めて茶の準備をするくらい造作も無い。うちの自慢のメイド長だよ」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
得意げに言うと、レミリアは椅子に腰掛けて自分のカップに角砂糖を放り込み始めた。
「時を操る……そんなことが……」
「あら、あなた……」
では自分も、と妖夢も椅子に腰掛けようとして、ふと気付く。
いつの間にか椛の正面に立っていた咲夜は、その灰青の瞳で椛をじっと見つめていた。
「……何か?」
たじろぐ椛。
「…………」
「…………」
奇妙な沈黙が流れる中、レミリアだけはのんきにクッキーをかじって「うまい」などと舌鼓を打っていた。
「…………」
「…………」
「…………」
「……――」
やがて咲夜は口をゆっくりと開き――
「お手。」
ぷちん。
何かが切れる音を、妖夢は聞いた気がした。
「椛! 落ち着いてください!」
大太刀を振りかぶる椛を、妖夢は正面から必死に抑える。
「止めるな妖夢っ……こいつだけは、こいつだけは斬ってやる!」
「駄目ね。忠誠心が足りませんわ」
「私は貴様の犬ではないッ!!」
誇り高き白狼天狗である。犬扱いするような咲夜の言動に我慢がならなかったのだろう。ため息混じりに呟く咲夜に、噛み付かんばかりの剣幕で椛は怒鳴り声を上げた。
レミリアはといえば、腹を抱えて笑っている。
「あっはっは! 駄目よ、咲夜。犬はもうあなただけで十分」
「ッ!!」
「レミリア! 煽らないでー!」
「まあいいじゃないか、“サムジャール”よ」
「その呼び方はやめて! 咲夜も笑わないで!」
「……図書館では静かにしなさい」
喧々諤々の大図書館。その主がスペルカードを取り出したことに気が付いたものはいなかった。
「新しいスペルカードを考えました!」
後日の守矢神社にて。開口一番、妖夢は椛に向かってそう言った。
「……そうか」
椛は自分の木刀を取り出しながら適当な相槌を打ち。
しかし、そんな態度をものともせずに、妖夢は熱っぽく語る。
「『現世斬』の発展型なんですけどね。通常の抜刀術は右足を前に出して行うんですけど、これは抜刀の瞬間に左足をさらに踏み出します。これによって抜刀を加速させ、その一閃を神速の領域にまで引き上げるのです」
「……待て、妖夢」
額に汗を流しながら椛は静止の声をあげるが、妖夢はさらに言葉を続ける。完全に自分の世界に入っているのだろう、目を閉じて、拳をぐぐいっと握りこんでいたりする。
「ですが、これは生半可な覚悟では撃てるものではないんですよ。確固たる信念、強い意思が必要なんです。“捨て身”や“死中に活を見出す”などといった後ろ向きな気持ちが一片でも含まれていては絶対に成功しません。
そんな決意や信念の具現とも言える、私の新しいスペルカード。その名も――」
「待て、待て、待て」
椛の静止は、やはり届かず。妖夢は取り出したスペルカードを高々と掲げてその名を叫ぶ。
「飛天『天翔龍(あまかけるりゅうの)――」
「それ以上はいけない!!」
了
あと誤字をば、 あっちへ言っては首をかしげ、こっちへ言ってはひとつ頷き の言っては行ってかと思います。
次回も楽しみに待ってますね!
「目にも映らぬ」現世斬からさらに加速って何と言えばいいのだろう。
>>2, 3
ありがとうございます!
>>終焉刹那さん
白玉楼の蔵で三本目の刀を探す妖夢かわいい。
あるいはあえて鼻唄三丁的な……
誤字の指摘ありがとうございます。
修正させていただきました。
>>9
そんな人もいましたねぇ。懐かしや。
>>白銀狼さん
ありがとうございます!
次もがんばらせていただきます!
>>11
派手さは九頭龍閃のほうが上ですね。
弾幕にも再現できそうな。
>>14
私的には“神速”が一番しっくり。
この妖夢が某オサレ漫画なんて読んだらどうなる事やら。
コメントありがとうございます!
きっと、夜な夜な楼観剣と白楼剣に向かってぶつぶつと語りかけるコワい妖夢が。
あの漫画の技を一つでも再現できたら、そりゃあもうラストスペルものですよ。
特に九頭龍閃なんかは、時間を重ねられる輝夜辺りにしかできないんじゃなかろうか。咲夜じゃ無理だろう。
みょんはまだ常人技のコンセントレーション・ワン辺りから始めればいいと思うよ。
もみみょんは髪の色的にもちょっと年の離れた姉妹みたいですね。和むわぁ。
ちょっと気になったのは、最初の罠に遭遇した後に、引き返してパチュリーさんに説明を求めなかったところかなぁ。
「本を借りたいなら実験台に」という交換条件を最初から提示しておいたほうがフェアかな、と思いました。
戦闘描写は緊張感が出ていて良かったです。妹様、蝙蝠化によるスペルカード無効は勘弁していただきたい。
椛さんの妖夢に対する態度がどんどん柔らかくなっていくのが良いですねぇ。
…一方で、今回はあんまり目立てなかったかなぁ。
>>19
妖夢ならば、九頭龍閃以外の飛天は再現可能かなと思ったんですけど、無茶でしたかねぇ。
本当に再現ができなさそうなのは、刀が発火するアレとか。
百合ん百合んするのもいいですけど、私としてもこれくらいの距離感がベストかなぁと思っていたり。
今後、私の趣向の変化によっては変わってしまうかもですがっ。
>>20
うむむ、ご指摘ごもっともです。
もっとはやる気持ちを表現できていれば、まだ自然に見えたでしょうか?
交換条件として最初に提示しなかった理由としては、「この先に罠があるから気をつけてね☆」って言っちゃうと
警戒されちゃって正しいデータが取れないんじゃないかな、みたいな考えがあったのですけど、こちらも表現不足でした。
精進します。
戦闘描写のお褒め、ありがとうございます。一生懸命動かした甲斐がありました。
舞台を紅魔館に移して今度は吸血鬼がお相手。前々作で触れられていた、妖夢のいわゆる魔眼が本領を発揮するのかな、
と緊張しましたが、あくまで自分の実力で妹様に立ち向かっていったのは、流石は剣士たるところですね。
こうしてシリーズを重ねるにつれて、妖夢も一歩一歩と成長してきているんだな、ということが好く分かります。
一方で、椛もまた妖怪の山から出て幻想郷を巡りゆくうちに新たな自分を見つけていって欲しいなぁ、
という気持ちがより強くなってきました。発展途上だからこその、エネルギッシュな二人のやり取りは、
このシリーズを読むうえでもかなりの魅力のウェイトを占めているような気がします。
今回もありがとうございました。さぁ、次は魔法の森ですね。