目を覚ますともう宵であった。無理もない。昨夜から明け方までずっと動きっぱなしだったのだから。また眠ってしまってもよかったが、彼女は布団から身体を起こすと居間へと向かう。
居間は柔らかな光に包まれていた。黄色みを帯びた絹のような光。それは障子の向こうから差し込んでいる。彼女は縁側に出てみることにした。
障子に手を掛けると、静かに横に開く。眼前に夜の世界が広がった。黒々とした山々に囲まれた土地、彼女が住む世界の全てである。そしてそれを照らしているのは、彼女が昨夜「取り戻した」月であった。
この月を見るのに一体どれだけ苦労させられたことか、と博麗霊夢は思った。人間から見れば、「昨日までの月」と「今日の月」の差は分からない。だから放っておいてもさして問題はなかったのだが、「あいつ」に言わせれば一大事だったらしい。結局、訳も分からず急かされるまま、夜通し妖怪退治に勤しむ羽目になってしまった。
「まぁ、今となってはどうでもいいんだけどね」
霊夢はぽつりと呟く。思い出したように袖に手を入れると、赤い果実を取り出した。あの妖怪が「ご褒美」と言って寄越した物だ。大方どこぞの家の庭から失敬してきたのだろうが、彼女は素直に受け取っておいた。送り主はともかく、この果物に罪はない。
袖口で軽く表面を拭くと一口齧る。しゃり、と心地良い音がした。今頃が旬なこともあってか、甘美さも一際である。存外あいつも本当に労ってくれていたのかもしれない、と少女は思った。
「――あらあら、呆れた」
どこからともなく声がして、一人の少女が現れた。派手なドレスに身を包み、妖艶な雰囲気を漂わせる少女。しかし最も異常なのは彼女が上半身だけで宙に漂っていることだろう。実際は空間の裂け目から身体を乗り出しているというだけのことなのだが、初対面なら間違いなく面食らう。いや、初対面じゃなくても面食らう。
「人間は『学ぶ』ということを知らないのね。 それともあなたが異端なのかしら?」
裂け目に肘をつき、興味深そうに彼女は言った。
「どういう意味よ、それ?」
霊夢は露骨に顔をしかめる。ようやく解放されたと思ったのに、と内心溜息を吐いた。
「そのままの意味よ。だってあなた達人間は、いつまでたってもその実を食べることをやめられないんだもの」
「林檎を食べちゃいけないって言うの? でもこれって元はといえば、あんたがくれた物じゃない」
「『あの子達』も同じようなことを言ってたわ。結局、追い出されちゃったけど」
「誰の話?」
「昔話よ。あなたの知らない愚かな人間達のね」
「ふぅん。まぁ、どうでもいいわ」
「あら、興味ない?」
「だって知らない人の話なんでしょ? 聞いても分からないし」
「そうね、どうでもいいわね」
広げた扇越しに八雲紫は笑う。その様子は芝居がかっていて、妙に不愉快であった。
「で、まだ何か用なの? 異変なら昨日、ちゃんと解決したでしょ」
霊夢は腕を組む。異変? と紫は少し首を傾げたが、すぐにあぁ、と頷いた。
「そんなこともあったわねぇ。取るに足らない出来事だったから忘れてたわ」
「人を散々連れ回しておいて、あんたは……」
へそを曲げる霊夢に対し、紫の物腰はあくまでも柔らかい。
「まぁまぁ、そんな表情しないで頂戴。今夜はただ、お喋りをしに来ただけよ」
言葉とは裏腹に紫は霊夢の不機嫌な表情を楽しんでいるように見える……というより楽しんでいた。
「ところで、さっきの話だけど――」
紫が言う。
「あん?」
「ほら、林檎人間の話」
「……そんな変てこな人間の話なんかしたっけ?」
「したわ。それでその人間達だけど、似てると思わない?」
「誰が誰に似てるって? お喋りしたいなら、分かるように話しなさいよ」
霊夢がそう言うと紫はわざとらしく溜息を吐き、これだから人間って駄目なのよねぇ、とこぼした。霊夢にしてみれば、溜息を吐きたいのは自分の方なのだが。
「いい? 私が言っているのは『林檎を食べて楽園を追放された人間達』とあの宇宙人達は似ているんじゃないかってことよ」
「林檎を食べただけで追い出されたの? ずいぶんな楽園ね」
「林檎は『知恵の実』とも言ってね、それを食べたら善悪の知識が得られる代物だったのよ」
「何それ?」
「要するに人間は昔から愚かだったけど、林檎を食べれば少しは賢くなれたの。でもそれだと色々と世話が大変になるから、ある神様が林檎を食べないように言っておいたというわけ。それなのにあなた達人間は愚かにも林檎を食べちゃって、その罰として神様から勘当されてしまいましたって話よ」
「……よく分かんないけど、林檎がすごいってことだけは分かったわ」
「流石ね霊夢、聡明だわ」
紫は微笑む。十中八九馬鹿にされているのだが、その笑顔を見ているとなんだか褒められているような気がしてくる霊夢であった。
「それで、その林檎人間とあの竹林の宇宙人達が似てるって? どこが似てるのかさっぱりだけど」
「駄目よ、霊夢。あなたは物事をもっと深く考える癖をつけなさい」
「大きなお世話よ。大体ねぇ紫、あんたの話は本当か嘘か分かんないものばっかりなんだから、深く考えても仕方ないじゃない」
「心外ねぇ。私は本当のことしか話していないわよ?」
「嘘ばっかり!」
「嘘も重ねれば理になる」
「好き勝手言いたい放題ね、あんた……」
「じゃあ、ついでにもう少し話しましょうか。あの宇宙人達の名前は何だったかしら?」
霊夢はちょっと考え込んだが、やがてきっぱりと言った。
「忘れたわ」
「人の名前はちゃんと憶えないと。『八意』と『蓬莱山』よ」
「へぇ。下の名前は?」
「忘れたわ」
「……」
「蓬莱山はともかく、問題は八意の方ね」
霊夢の冷やかな視線を平然と受け流して紫は続ける。むしろ、愉快そうであった。
「やごころ、ねぇ……。確かに聞き慣れない名前よね。宇宙人だから当然だけど」
それを聞いて紫がくすくすと笑いだした。霊夢は眉をひそめる。
「なんで笑うのよ? 私が何か変なこと言った?」
「いいえ。でも霊夢、巫女のあなたが『八意』を宇宙人と呼ぶのはなかなか滑稽よ?」
紫は小刻みに肩を震わせる。どこが面白いのか霊夢には全く分からない。
「そうかな?」
「そうよ。だって『八意』は地上の神様の名前ですもの」
「……そんな神様いたっけ?」
「オモイカネよ」
「重い鐘? 生憎うちの神社は『カネ』の類とは縁が薄いんだけど」
「それは結構なことね。でも私が言っているのは『八意思兼神』の事よ」
「うーん、知らないなぁ」
「少しは神様の事を知っておいた方がいいわ。そのうち必要になるかも」
そう言って紫は天を仰ぐ。そこには蕩けるような白色をした珠が浮かんでいた。それを見ながら彼女はうっすらと笑む。それは傍目に分かるか分からないか微妙なくらいの、まさに「境目に位置した笑み」であった。
「――そう、例えば二、三年後とかにね」
彼女は呟いた。
「なんでそんなに具体的なのよ。 もしかしてあんた、何か企んでる?」
霊夢が下からじろりと覗き込む。
「うふふ、滅相もありませんわ」
これ以上ないほどやんわりした声で紫が言う。霊夢はしばらく妖怪を睨んでいたが、やがて飽きたかのように視線を元に戻した。
「で、何の話をしてたんだっけ……そうそう『オモイカネ』だか『カルイカネ』だかの神様だったか。それがどうしたって?」
「そう『思兼』、またの名を『八意思兼神』。この神様はその名の通り、知恵と思考を司っている。だからその名をもつあの宇宙人はさぞかし博識なのでしょうねぇ。事実、月を隠す術式を施していたのも彼女だったし、存外月では『賢者』とでも呼ばれて崇められていたんじゃないかしら」
そこまで言って紫はまた笑いだした。どうもこの妖怪の笑いの「ツボ」はよく分からない。
「……話が見えないわね。あの竹林の宇宙人が地上の知恵の神様とやらに関係があるとして、それがどうして林檎人間の話と繋がるのよ?」
「あら、まだ分からない? しょうのない巫女ね、あなたは」
「あんたの話が回りくどいのよ!」
そうかしら、と首を傾げる紫と、そうよ、と口を尖らせる霊夢。両者の間に軽い沈黙が流れた。
さぁ、と風が縁側を通り過ぎる。季節はもう秋であり、風も冬の「気」を徐々に帯び始めているのか、夏の頃よりも明らかに冷たくなっていた。
霊夢がくしゃみをした。彼女は年中肩口の無い服を好んで着ているので、寒さには滅法弱いのだ。ただでさえ人間の着物は生地が薄いというのに、解せない娘だ、と紫は思った。
「冷えてきたわね。そろそろ中に入ろうかしら」
「私は外の方がいいのだけど」
紫がそう言うと、霊夢は不貞腐れたような表情になった。無言で立ち上がるとすたすたと中に入ってしまったが、少しすると袢纏を羽織って戻ってきた。
「寒いのを我慢してあんたに付き合ってあげる」
「別に無理しなくていいのよ?」
「うるさいわね。そのかわり、話のオチをさっさと聞かせなさい!」
「おぉ、こわいこわい」
紫は大袈裟に驚いた身振りをしながら言った。なんだかんだ言って、自分の話に惹きこまれているこの人間の娘は、やはり彼女の退屈しのぎにはもってこいの相手なのだった。
「では教えてあげましょう。楽園を追放された人間達とあの宇宙人達、両者に共通するのは『卑小な欲』です」
「何それ? 寒いんだから、もったいぶらないでよね」
せっかちねぇ、と紫は余裕たっぷりに微笑む。こいつはほんとに性格がひねくれている奴だな、と霊夢は思った。悪意がある分、魔理沙よりも数段性質が悪い。
「いい? 林檎、つまり『知恵の果実』を食べたいという欲に駆られた人間達は、神様の言いつけを守らずに禁忌を犯し、知恵を手に入れ、楽園を追放されました。一方で、その知恵を司る『八意』の名をもつあの宇宙人達もまた禁忌を犯し、月の都にはいられなくなりました」
ここで問題です、と言って紫はぱちん、と扇を閉じた。
「人間と『八意』の神様、両者に『違い』はあるのでしょうか?」
「うーん……」
「答えは『否』です。人間と神様を同列にすべきではない? 否、同じなのです。禁忌の種類が違う? 否、変わらないのです。いかに高度な世界に住んでいようとも、万物を理解できるほどの知を持っていたとしても、ちっぽけで取るに足らない『欲』に手を伸ばしたという理は覆しようがないのです」
かつて無垢で愚かだった人間達。その楽園での生活に終止符を打ったのは「知恵」という名の「欲の果実」であった。そして、その「知恵」の名を冠した神の世界の住人もまた、自らが取るに足らないと一笑に付していた人間と同じ道を行くこととなった。自らの高貴さを謳っていた「あの世界」の住人達が、人間と同じ行動の結果、同じ大地の上で生きる運命を負う。これを滑稽と言わずして、何と言おうか。結局のところ「神」と呼ばれる者達もたかが知れているのだ、と紫は思った。
「言いたいことはなんとなく分かったわ。要するに人間も『知恵の神様』も皆、欲に負けちゃったって話よね?」
霊夢の声で紫は物思いから覚めた。
「そういうことね」
紫は微笑む。
「でも、それって別におかしなことじゃないわ」
「え?」
「だって、そうじゃない? 人間が欲に負けるんだから、その親の神様だって欲に負けることくらいあるわよ。最初の楽園の話だけど、そもそも『知恵の実』が生る木を植えたのも神様なのよね? それって変だと思わない?」
「何が変なのかしら?」
「だって人間は『知恵の実』を食べちゃいけなかったんでしょ? それなら最初から木を植えなければいいのよ。わざわざ誰も食べられない果実の生る木を植えたのはなぜ?」
「……成る程。要するにあなたは『知恵の実』は神様が食べるために植えたと言いたいのね?」
そうよ、と霊夢が頷く。
「ということは神様も実はあんまり賢くなかったってことになるわ。神様が馬鹿だったなら、たまには欲張りたいこともあるんじゃない?」
紫は呆気にとられたように霊夢を見つめる。確かに一理あるのかもしれない。人間は神を模して創られたとも言われているが、その人間が愚かなのは、創り手である神も同じ性質を持つことの表れと言えなくもない。なにしろ「子は親に似る」という諺もあるくらいなのだから。だとすると、あの宇宙人達がこの幻想郷で暮らしていることは何の不思議もないことになる。
「……ということは私の話はひどくつまらないものだったってことになるのかしらね」
紫は独り言のように呟いた。
「さぁね? 面白かったかどうかは知らないけど、私はひとつ新しいことが分かったわ」
「それは?」
「人も神も魅了する林檎は、すごい果実だってことよ!」
しばしの沈黙があった後、妖怪は噴き出した。
「あはははは! 霊夢、あなた流石ね。聡明だわ」
今度こそ、称賛の意を込めて紫が言う。扇を開いて火照った顔をあおぎ始めた。霊夢もつられて笑う。秋の夜空の下、博麗神社に二人の声が響いた。
「――さて。そろそろお暇するわ」
紫が立ち上がる――といっても裂け目の中でだが。
「帰るの?」
「そうねぇ、少し喋りすぎて喉が渇いたから、友人の所にお邪魔しようかしら」
「傍迷惑な奴ねぇ。そういうのを『傍若無人』と言うのよ」
苦笑する人間に妖怪は上品に笑い返す。
「いいじゃない。『自由奔放』なあなたとは釣り合いが取れているわ」
そう言って紫は空間の狭間へと姿を消した。縁側には霊夢が一人残される。ぼんやり空を見上げると、ほんの少し丸みを欠いた黄色い天体が、煌々と大地を照らしていた。
少女は思い出したかのように傍らを見る。そこに鎮座しているのは彼女が食べ残した「欲」であった。手に取って一口齧る。しゃり、と心地良い音がする。もぐもぐと口を動かし、やがてごくりと飲み込んだ。やはり林檎といえば秋である。
「こんなに美味しいんだもの。しかたないわよねぇ」
誰にともなくそう言うと、博麗霊夢はにっこりと微笑んだ。
それでも昔日の雰囲気のようなものを味わえました。
なかなか書けない文章だと思います。次も読ませてください。
それにしても霊夢ぶれないなww
これだ!という作品を投稿なさるその時まで評価はとっておこうと思います
本当に何歳なんだあの妖怪www
まとまりも良いんで次も期待してます
雰囲気が好み
とても良い縁側の雰囲気だと思いました
実に自分好みので面白いと思いました。
そして、この理解できるような、できないような読後感に、東方らしさを強く感じます。
紫と霊夢の微妙な関係性もよく表れていたと思います。
こういう文章は実際、中々書けないんじゃないでしょうか。素敵ですね。
尊敬しちゃいそうです。
とても面白かったです。