春の兆しというものは、唐突にやって来るものだ。
つい昨日まで人々を震わせていた風が、不意をつくようにして優しく、暖かくなる。固く閉ざしていた花の蕾が緩み始め、大きく開花するための準備をする。静かに積もった白雪は穏やかな陽光に溶けて雫を垂らす。そうした小さな事柄が積み重なって、徐々に、しかし確実に春を知らせるのだ。
生命の始まりを強く感じさせる春という季節は、幻想郷に希望をもたらしていると言っても過言ではないだろう。どこぞの妖精が「春ですよー」と告げて回る声を皆が楽しみにしている。
そんな幻想郷は好きだけれど。
春が来るというのは、私には不都合なことでもあるのだ。
暖かくなり始めた空気は、段々と身体をだるくさせる。美しく咲いた花を眺める前に雪は姿を消し、私の居場所もなくなってしまう。だからこうして、もうすぐ冬が終わるという頃は、季節という見えない敵を恐れながら過ごすことになる。
皆が期待する春が苦手だというのは、たまらなく寂しいことだった。意図的ではなく、当然の成り行きとして生まれる疎外感。他人にも自分にも非のないその感情は行きどころがなく、ただ自分の中に積もってゆく。
徐々に膨れた感情の袋は、些細なことでも破裂してしまう。そう、例え親友の何気ない一言でも。
彼女の言葉に他意がないのは分かっている。分かっているけれど、その時の私には少し、刺激が強かった。袋に刺す針として、十分過ぎる鋭さを持っていた。
シンプルな親友の望みは、複雑を私に思わせたのだ。
『あーあ、早く春がこないかなあ』
───
「あなたが黒幕ね」
突然現れたメイド服の彼女はそう言った。
黒幕、か。
私がそうだったらどんなに良いことだろう。長く長く冬が続き、チルノや他の妖精たちと遊ぶことができる。疎外はなくなり、寂しく感じることもなくなるだろう。
「私は黒幕だけど、普通よ」
「こんな所に黒幕も普通もないわ。そもそもあんたは今何が普通じゃないか分かってるの?」
「例年より、雪の結晶が大きいわ。大体三倍くらい。
でもそれが普通になったっていいじゃない。何の問題があるの?」
自分勝手な言葉なのは重々承知している。しかしこのメイドの四分の一しか活動できない私に、冬を長引かせる権利があってもいいじゃないか。妖怪と人間の平等というのは、そういうことではないか。
「問題しかないわよ。コーヒー豆と炭をいちいち買いに行くのは面倒じゃない。さっさと春になってもらいたいものだわ」
「それはあなたの勝手でしょう」
「その通り」
ムッと顔をしかめる。私の言ったことに肯定しただけだが、そのストレートさが頭にきた。こうなったら実力勝負だ。
「ああ、一つ忘れていたわ。頭のおかしいメイドが一人、空を飛んでいることも普通じゃない」
この軽いジャブに反応すれば、それが弾幕ごっこの始まり。勝っても負けても文句なしの一騎打ち。
「やっぱり、あなたが黒幕ね」
言葉尻が大気へ消えないうちに、メイドの手元が動いたかと思うとナイフが横から迫ってきていた。それを横目に避けながら氷の礫を作り出し、思い切り飛ばす。鋭利な切っ先を持った氷は、刃物にも劣らない。
しかし、彼女に飛ばしたと思っていた礫は当たらず、氷樹の森へと消えていった。知らぬ間にメイドは私の後ろへと回り込んでいる。その手には再びナイフが握られ、その先はこちらを睨んでいた。
氷を飛ばしては回り込まれ、攻撃される。その繰り返し。すれすれで避け続けているため余裕は皆無であり、徐々に追い詰められている感もあった。それを打開するため、私は思い切って周囲に無数の氷柱を作り上げ、八方へと繰り出した。全方向の攻撃なら移動で避けるのは難しいはずだ。
勢いのついた氷の針が、メイドを吹き飛ばす──
その姿を幻視し、勝利を想う。私は黒幕ではないけれど、加担することは出来るのだ。春なんか、訪れさせない。
自信を持って敗者を見ると、彼女はニヤリと笑った。片側の口角を持ち上げた唇が動く。「残念でした」と。
その瞬間、私とメイドの立場は逆転した。
八方に向かったはずの氷柱は、ただ一点──私へと収束を始めていたのだ。
自分の攻撃を一身に受け、宙に浮くのもやっとな状態な私は、去ってゆくメイドの背を見つめていた。
彼女は一体春に何を求めるのだろう。柔らかな風か、咲き誇る桜か、あるいはただ買い出しが面倒だっただけなのか。冬に執着する身として、聞いてみたいとふと思った。
「あなたは、なぜ春が来て欲しいの?」
声を掛けるとメイドは振り向いた。凍った湖に反射した日光が、両側に下げた白銀の三つ編みを凛と光らせる。その眩しさは強者の特権とも見えた。
鋭い光を湛えた双眸の色もまた銀。形容するならクリスタライズシルバー。透明な美しさを持ったそれは、つい見とれてしまいそうなものだった。
「なぜって、理由なんかないわ。それが当たり前だからよ」
曖昧に、ともすると適当に答えた彼女は、私に興味を失ったように冬の空へと消えていった。敗者は納得のいかない言葉を反芻しながら、その方を見つめ続けるのみだった。
───
「冬の雪山は遭難しやすいんだぜ」
物騒にレーザーを放つ魔法使いは、そう言いながら現れた。見る限り、ふらりとたまたま通った体(てい)だ。
「なんで遭難しやすいか、知ってる?」
「冬の雪無し山が無いからだな」
例年、幻想郷の冬には雪の積もらない山が一つだけ見える。神様の力だとか、地下に溶炉があるだとか様々な噂が飛び交うが、真偽の程は定かでない。原因が何であれど、普段は不思議と雪がないはずなのだ。吹雪で視界の悪いとき、方角の頼りに用いられるそれがないのは大層困ることであり、遭難者を出す所以ともなる。
「やっぱり、あなたも遭難者?」
「私は普通だぜ」
「かわいそうに、寒さにやられたのね」
強力な攻撃を乱発しながら前へ進む彼女は、確かに遭難者とするには違和感がある。しかし普通でないのは瞭然だ。
「そうだな。本来なら今ごろは、人間たちが桜の木の下で眠る季節だしな」
桜という単語を持ちだした魔法使いに、小さく舌打ちをする。
どうも誰も彼もが春の話をしたがる。皆次なる季節への期待値が高すぎるんだ。生温くて、温度が中途半端に移行する季節。そこに魅力を垣間見るなど私には無理だ。
「今年は冬が長いわねぇ。私には好都合だけれど」
「冬が好きだなんて変わり者だな。でも私の邪魔はさせないぜ」
──小さな会話のターニングポイント。言葉の戦いから弾幕の戦いへ変わる予感。
「邪魔しまくるわ。あなたが嫌になるくらい」
「上等だ」
短く返答した白黒の魔法使いは、星屑を散らしながら大きく飛翔した。無数に迫るそれらは単なる目眩ましだろう。本物の攻撃はきっとその後だ。
こんな形の砂糖菓子があったな、などと思いながら凍らせてゆく。もとより緩慢だった動きが更に遅くなり、やがてピタリと静止する。表面は氷で覆われて滑らか。それこそ氷砂糖のようで美味しそうだった。
そうして星屑を処理していると、横に一筋の光が差した。パキリと小気味良い音を立てて氷が砕ける。それが何か分かる前に、本能的に私は後ろへ飛び退いた。
細い筋は、二拍ほど置いてからぐわりと広がった。飛び散った氷片にレーザーの光が乱反射して眩しい。まるでエネルギー爆弾かのような、予想以上の威力だ。
大火力のレーザーを吐き出している魔法使いの手元を見ると、小さな八卦炉が目に留まった。魔力の媒体だろうか、確かに素手で放つには危険過ぎる代物だ。それさえ撃ち落とせばこちらが有利になるに違いない。
視界の悪い吹雪の中、八卦炉に焦点を絞る。派手な金色で目立つのが幸いだった。降り注ぐ星を避けつつ、集中的に氷礫を彼女の手元へ飛ばすが、すばしこく移動するためなかなか当たらない。
さらに目を細め、八卦炉のみを見つめる。視界にある他のものの姿がぼやけ、光沢を持った表面がより際立つ。
無心に追っていると、急に金色の動きが単調になった。上へ持ち上がり、その速度は段々と落ちてゆく。上がりきり静止したかと思うと、引きつけられるようにして下がり始めた。私の手元からの距離を推し測り、八卦炉の位置を大体見極めて──
「そこだっ」
氷柱を一本、勢い良く放った。針のようなそれは吸い込まれるようにして対象の中心を射て、同時に私の視界の限定を破る。目に入ったのは、日光をこれでもかと反射し輝くそれのみ。耳に入ったのは、張りのある大声。
「私はここだぜ」
声の主を振り返ると、前に突き出した右手が私に向いていた。モノクロな魔法使いは、自らの手首を強く押さえ、叫んだ。
「恋符『マスタースパーク』!」
周りが眩い白に包まれ、痛いほど目に入る光に圧倒される。しかしそれ以外の何かを感じる前に、私の意識は周囲と真逆の色に染まっていた。
意識が戻り、身体を起こすと雪が滑り落ちた。その量からして、さして長い時間こうしていたわけではないと悟る。
周囲は相変わらずの銀世界。白、白、白……そして一ドットの黒。私を負かした魔法使いだ。落とした八卦炉を探しているのだろうか。
それにしても、驚いた。あれほどのパワーを素手で繰り出すとは普通思わない。腕が飛んでもおかしくない威力だった。
そんな危険を犯してまで、何が彼女にそうさせるのだろう。メイドに対して抱いたものと同じような疑問が湧き出る。私はその答えが欲しかった。何となく季節を期待する程度の人間に負けただなんて、悔しいから。
「ねぇ」
声を掛けてみる。小さな声は彼女まで届かないだろうと思ったが、意外なことにこちらを振り向いた。きっと周りがあまりに静かなせいだ。
眩しい。意識していなかったが、魔法使いの金髪はモノクロな服に対して鮮やかに映えた。白くて単調な風景からも浮いて見え、とても目立っている。
勝者というのは美しい。自ら発光しているのではと疑う程に輝いて見える。勝敗は概念的なものだけれど、視覚的にもそれはしっかりと映るものだと私は思う。
「あなたは、春に何を期待しているの?」
「ん、主に花見かな。酒盛ってワイワイ騒ぐのはいいものだぜ」
笑顔で彼女は言う。どうやら私の存在は花見なんてものに負けたらしい。甚だしい屈辱だった。
「そんなことのためにこの異変を解決するのね」
「そいつはちょいと違うな」
今度は対照的な真顔での否定。大火力の魔法使いは帽子に手をあてがって、心持ち引き下げた。影になって表情が読めなくなる。
「そこに異変があるから、私は解決するんだよ」
口元をニッと横に広げると、彼女はいつの間にか探しだしていた相棒を空へ放った。箒に跨ってくるりと宙返り、上昇を止めた黄金のそれを掌握、薄曇りの彼方へと飛び立っていった。
───
「冬は氷の生き物が活発で嫌ね」
怠そうに浮遊してきたのは博麗の巫女。確か名は霊夢といったはず。異変解決の第一人者が出てくるとは大層なことだ。前の二人に解決できなかったこともあって、相当に手強い相手なのだろうと分かる。
「唯一ここに居られる季節なんだからしょうがないでしょ」
「あら、じゃあ悔いのないように楽しみなさいよ。もうすぐ冬は終わるから」
面倒くさそうな忠告。しかしそれは妥当とも言えるだろう。弾幕ごっこにおいては彼女が最強、さすがの異変の主犯も歯が立たないはずだ。
当然私にも勝ち目はないわけだが、やすやすとここを通すのも面白くない。最後の足掻きというヤツをしてみようか。
「もちろん邪魔するわ」
「百も承知」
会話もそこそこに弾幕を張る。きっとそこに言葉など必要なかったから。
いくらかの氷柱を頭上に配置し、礫を霊夢に向けて放つ。不可能へギリギリまで近づいた高密度な弾を、しかし彼女はするりと避けてゆく。常駐させた氷柱もタイミングよく身体をずらしてグレイズ。
一ミリの無駄もない、完璧な動きだった。最低限の移動で私の攻撃を避け、弾かれることが分かりきっているためかこちらを攻撃する素振りを見せない。トリッキーな動きのメイドや、パワーで押し切る魔法使いとは違う、余裕の滲む強さが感じられる。
回避特化の霊夢にどう対策すべきか思考を巡らせる。物量での圧倒は効果がないと分かった。パワーが駄目ならトリックか。安易ながらもそう思いついて実行に移す。
大きく湾曲して動くレーザー。横への切り込みが大きいこれは、今まで様々な相手を苦しめて来た。果たして通用するか──
案の定、というとおかしいのだけれど、霊夢は華麗に避けた。むしろ彼女をレーザーが避けたと言っても過言では無いほど、完璧だった。見惚れるほどに、美しい回避。
などと思考する暇は本来無いはずで、私は手数を増やすことに決める。霊夢に向かって急接近、氷を纏わせた左手を思い切り振る。硬い衝撃は玉串で受け止められたそれで、痺れる腕を無視しながら後退。何度か行われた反撃を身を翻して避け、氷礫を生み出してぶっつける。
しかしそれは玉串の一払いでいなされた。宙を煌々と舞う氷の欠片を横目に、霊夢との距離を取る。
さて、どうするか。霊夢は再び落ち着き、宙を漂うようにして浮いている。弾幕は避けられ、打撃は受け止められる。私に何の方法が残るというのか。
様子を見つつ思考していると、不意に霊夢が動いた。
何をするのかと構えたが、どんどんと彼女の背は遠ざかってゆく。吹雪にその姿がおぼろげになりつつあり、消えてしまいそうだ。
半ば呆然として見送っていたが、声が届かなくなる前に我に返った。
「何やってるの?」
呼びかけると、霞かけた紅白の身体がこちらを振り向いた。表情は伺えないが、面倒そうな雰囲気を醸している。
「私は忙しいの、雑魚を構ってる暇はないのよ」
私が何か言い返す前に、彼女は再び口を開いた。
「いつもは礼儀だからと思って叩きのめすけど、あんたは違う。弾幕に必死さがない。
確かに私が博麗の巫女である限り、勝ち目はないわ。でもさ、そんな状況でもチルノはかかってきた。それこそ馬鹿みたいな量の弾幕張って、無謀に突っ込んできた。
あんたの弾幕は高密度に見せかけて、中身はスカスカ。中途半端な数の氷柱なんて空気みたいなものだし、曲がるレーザーも捻りがあるのは動きだけで、打ち方は短調。打撃も氷の硬さに任せきりで力がない。半端に考えて攻撃するくらいなら、めちゃくちゃにやった方がまし。
春になるのを止めたいなら、全力でそうしなさいよ。推測とか、読みとか、パターンとか、そんなの全部捨ててただ弾幕を撒き散らしてくればいい」
吹雪が、止まった。止んだのではなく、動きを止めた。
そしてゆっくりと雪の結晶が私の方へ近寄り始める。結びついて欠片に、また結びついて塊に、徐々に形を変えてゆく。それにつれて視界が晴れ、冬の淡い陽を感じた。
すっかり巻き上げられた周囲の雪は、私の頭上で大きな雪塊を作り上げていた。しかし尚も結晶は一点への収束を続け、圧縮されてゆく。より小さく、より硬く、より濃密に。圧力で溶かされ、再結晶した雪は、もはや氷となっていた。
圧縮し尽くされた雪は、今やビー玉ほどの大きさになっていた。小さなそれを握ると、静かな、しかし力強い鼓動が感じられる。とく、とく、とく、と心臓が拍を打つようなテンポ。自然の奏でるアンダンテ。
しばらくその心地よさを楽しんだ後、私はそれを放り投げ、得意の氷柱で貫いた。
──その光景は、なんと形容すべきだろう。
氷の花、冷たい蝶、銀の桜。
ああ、私は馬鹿だ、自ら春の言葉で表現するなんて。貶し続けた次なる季節、私を楽園から追い出す憎むべき春を美しさの描写に用いるとは愚かな。
しかし、少しだけ。
ほんの少しだけ、生命の季節を感じてみたいような気がした。
──絵本の春は、あれだけ綺麗だったのだから。
体積を無理やり小さくさせられ、エネルギーを押し込められたビー玉は、衝撃に敏感だった。氷柱が命中した瞬間、待ってましたとばかりに弾け、爆弾ばりの威力を呈する。うるさいくらいの空気を切る音。
凄まじい勢いの氷礫は回避不能のはず――しかし、やはり博麗の巫女というのは一味違った。
霊夢に被弾した礫は一つもない。確かに彼女のいたところへ飛んでいったのだが、当たっていなかった。半透明になり、全てすり抜けていたから。
すべての事象から浮くという、反則じみた能力。しかし、ルールは争いを鎮めるために彼女が作ったもの、創設者が最強であることに異存はない。
霊夢は目を閉じ、静かに宙を漂っている。張り詰めた雰囲気。
じっと見つめていると、不意に口を開いた。
「やればできるじゃない。もう終わりだけど」
ゆっくりと回転していた陰陽玉から、たった一枚だけの御札が飛び出す。薄いそれは真っ直ぐに、不思議と風の影響を受けずにこちらへ向かってくる。
迫ってくる御札をぼんやりと見つめる。身体は何故か動かず、避けることは無理そうだ。
胸に御札を受けると、力が抜けた。周りの氷が落下を始め、私自身も自然とそれに倣う。
つめたい空気を全身に受ける。徐々にスピードが増してゆき、それにつれて抵抗も大きくなる。普段自由に空を飛んでいる私からすると、どこまでも奇妙な感覚。謎めいた不自由の心地よさ。
ドサリ、という他人ごとのような物音を聞き、深く積もった雪に沈みながら。
再び私の意識は、暗転した。
───
いつだったか、私は少し頭の回らない親友と、絵本を読んだ。
妖精たちが雪遊びをするとか、そんなような内容だったと思う。
雪合戦、かまくら、雪だるま。
見慣れたものばかりだったけれど、楽しそうにする妖精たちの姿は、
見ているこちらも愉快になるものだった。
物語が後半になると、雪が溶け始めてしまう。
『ずっと冬が続けばいいのになぁ』
妖精たちが残念がる気持ちは、痛いほどよく分かる。
しかしその次のページに描かれていたのは。
──満開の桜、咲き誇る花、飛び回る蝶を見て、大いに喜ぶ妖精の姿だった。
───
目を開くと、天井があった。
普段家の中で寝るということはないため、目覚めると木目が視界に入る、といことは殆ど無い。少し新鮮だった。
身を起こして周りを見てみると、縁側に腰掛ける巫女の背中があった。少々髪が乱れ、リボンが傾き、服もところどころほつれている。一見する限り、強敵にぶつかって渋々引き上げたように映る。
しかし、どうしても私は霊夢が負けたとは思えなかった。回避能力然り、能力然りだが、何より彼女の敗北した様子というものが想像できない。彼女には、悔しがる姿も、すごすごと立ち去る姿も似合わない。常にただ当たり前然(あたりまえぜん)として、凛とした勝者であるはずなのだ。
そうして後ろ姿を見ていると、ふいと霊夢がこちらを向いた。
「あら、起きたの」
ええ、と頷きながら言って、沈黙。喋る声がなくなるとひたすらに静かだ。
心持ち強くなった、しかしまだぽかぽかという表現の似合う陽の光が、外の白い雪を照らす。小さい春の兆しだろうか、柔らかさをはらんだそれは、少し心地良い──ような気がした。
「もうすぐ春ね」
──ええ。
機械的に同じ言葉を返す。霊夢の春という単語には、何故だかあまり憤りは感じない。
「私は──いや、魔理沙も咲夜もそうだと思うけどね。別に春を期待してるわけじゃないのよ。冬の後は春、そんな当然をただ望むだけ」
「当たり前なんて、退屈」
「確かにそうね」
薄く口だけで笑う。なぜそんなに儚く笑うのだろう。何が悲しくて、何が寂しいのだろう。異変が起これば皆に頼られて、解決すれば皆に感謝される霊夢。春の幻想郷も、夏も秋も冬も知っている霊夢。そんな彼女が、どうしてそんな表情をするのだろう。
分からない。春を共有出来ない私の疎外と同じような寂寥を、彼女が背負っている理由が分からない。
「誰かが異変を起こして、それを私や魔理沙が解決する。それでいい。
その構図はきっと崩れないし、崩させない」
そう言うと、突然霊夢が立ち上がった。不格好に乗っていたリボンを整え、傍らの玉串を手にする。裂けたスカートの裾を見てあーあと呟きながら、軽くはたく。さっきまでの素振りは何処へやら、なに食わぬ顔で出発の準備をしていた。
「さて、また厄介者が出てきたみたい。さようなら、せいぜい残りの冬を楽しむことね」
振り返ることもなく、彼女は空へと飛び出した。服をひらひらはためかせながら、少しずつ遠ざかって行く。限りなく白に近い青色の空に、紅白の服がよく映えていた。
ぼんやりと見送った後、どうにも手持ち無沙汰になる。霊夢のあの儚げな表情は気になったが、私に理解できるものではないだろう。他人に私の孤独が分からないのと同じで。
───
私を呼ぶ声に気付いたのは、それから随分と時間の経った頃。甲高いあの声は、きっと少し間抜けな私の親友のものだ。
「おーい!」
神社の境内を、雪を踏みしめ踏みしめしながらこちらへやって来る、ぼんやりとした青い姿。まどろみから覚めたばかりの頭は、なかなか思う通りに働いてくれない。じっと目を凝らして見つめると、妖精の姿の像を結んだ。
彼女は、どうだろう。絵本の妖精のように、冬が過ぎるのを残念がり、春が来たのを喜ぶのだろうか。
「あれ、寝てた? 昼間から呑気さんだね」
腰に手を当てながら、親友は話し出す。
「その間にあたいは弾幕ごっこしてたんだ! 最初は湖の館にいるメイドで、次は確か……んーえっと」
身振り手振りで武勇伝を語り、忘れたことを必死で思い出そうとする彼女は、見ていてとても愉快だ。物覚えが悪いのと、一つのことに集中すると周りが全く見えなくなるのは困りものだけれど、そのお転婆な性格がカバーしてしまう。
ニコニコしながら話を聞いていると、何かを思い出したかのように、唐突に彼女は言った。
「ねぇ、フキノトウが芽を出してたよ」
その言葉にきっと他意はない。小さな発見を共有しようと、純粋に話をしただけに違いない。親友の目は輝いていて、フキノトウで頭が一杯の様だったから。
すくりと立ち上がる。長い時間寝転んでいた身体は少し強張っていて動かしづらい。でも大丈夫だ。飛び回っていれば自然とそんなもの消え去ってしまう。
「どこにあったの? 見に行こうよ」
縁側から飛び降りて、そう尋ねる。親友はもっと嬉しそうにして、こっちだよ、と境内裏の林へと駆けて行く。多分に彼女はもう場所を忘れていて、探しまわることになるに違いない。そうしてきっと、今度は途中で何かを見つけて、フキノトウのことなど吹き飛んでしまうのだ。
「……せいぜい残りの冬を、楽しませてもらうことにするわね」
深呼吸をすると、肺には冷気と、少しだけ新鮮な匂いが満たされる。
──春はもう、すぐそこまで来ていた。
つい昨日まで人々を震わせていた風が、不意をつくようにして優しく、暖かくなる。固く閉ざしていた花の蕾が緩み始め、大きく開花するための準備をする。静かに積もった白雪は穏やかな陽光に溶けて雫を垂らす。そうした小さな事柄が積み重なって、徐々に、しかし確実に春を知らせるのだ。
生命の始まりを強く感じさせる春という季節は、幻想郷に希望をもたらしていると言っても過言ではないだろう。どこぞの妖精が「春ですよー」と告げて回る声を皆が楽しみにしている。
そんな幻想郷は好きだけれど。
春が来るというのは、私には不都合なことでもあるのだ。
暖かくなり始めた空気は、段々と身体をだるくさせる。美しく咲いた花を眺める前に雪は姿を消し、私の居場所もなくなってしまう。だからこうして、もうすぐ冬が終わるという頃は、季節という見えない敵を恐れながら過ごすことになる。
皆が期待する春が苦手だというのは、たまらなく寂しいことだった。意図的ではなく、当然の成り行きとして生まれる疎外感。他人にも自分にも非のないその感情は行きどころがなく、ただ自分の中に積もってゆく。
徐々に膨れた感情の袋は、些細なことでも破裂してしまう。そう、例え親友の何気ない一言でも。
彼女の言葉に他意がないのは分かっている。分かっているけれど、その時の私には少し、刺激が強かった。袋に刺す針として、十分過ぎる鋭さを持っていた。
シンプルな親友の望みは、複雑を私に思わせたのだ。
『あーあ、早く春がこないかなあ』
───
「あなたが黒幕ね」
突然現れたメイド服の彼女はそう言った。
黒幕、か。
私がそうだったらどんなに良いことだろう。長く長く冬が続き、チルノや他の妖精たちと遊ぶことができる。疎外はなくなり、寂しく感じることもなくなるだろう。
「私は黒幕だけど、普通よ」
「こんな所に黒幕も普通もないわ。そもそもあんたは今何が普通じゃないか分かってるの?」
「例年より、雪の結晶が大きいわ。大体三倍くらい。
でもそれが普通になったっていいじゃない。何の問題があるの?」
自分勝手な言葉なのは重々承知している。しかしこのメイドの四分の一しか活動できない私に、冬を長引かせる権利があってもいいじゃないか。妖怪と人間の平等というのは、そういうことではないか。
「問題しかないわよ。コーヒー豆と炭をいちいち買いに行くのは面倒じゃない。さっさと春になってもらいたいものだわ」
「それはあなたの勝手でしょう」
「その通り」
ムッと顔をしかめる。私の言ったことに肯定しただけだが、そのストレートさが頭にきた。こうなったら実力勝負だ。
「ああ、一つ忘れていたわ。頭のおかしいメイドが一人、空を飛んでいることも普通じゃない」
この軽いジャブに反応すれば、それが弾幕ごっこの始まり。勝っても負けても文句なしの一騎打ち。
「やっぱり、あなたが黒幕ね」
言葉尻が大気へ消えないうちに、メイドの手元が動いたかと思うとナイフが横から迫ってきていた。それを横目に避けながら氷の礫を作り出し、思い切り飛ばす。鋭利な切っ先を持った氷は、刃物にも劣らない。
しかし、彼女に飛ばしたと思っていた礫は当たらず、氷樹の森へと消えていった。知らぬ間にメイドは私の後ろへと回り込んでいる。その手には再びナイフが握られ、その先はこちらを睨んでいた。
氷を飛ばしては回り込まれ、攻撃される。その繰り返し。すれすれで避け続けているため余裕は皆無であり、徐々に追い詰められている感もあった。それを打開するため、私は思い切って周囲に無数の氷柱を作り上げ、八方へと繰り出した。全方向の攻撃なら移動で避けるのは難しいはずだ。
勢いのついた氷の針が、メイドを吹き飛ばす──
その姿を幻視し、勝利を想う。私は黒幕ではないけれど、加担することは出来るのだ。春なんか、訪れさせない。
自信を持って敗者を見ると、彼女はニヤリと笑った。片側の口角を持ち上げた唇が動く。「残念でした」と。
その瞬間、私とメイドの立場は逆転した。
八方に向かったはずの氷柱は、ただ一点──私へと収束を始めていたのだ。
自分の攻撃を一身に受け、宙に浮くのもやっとな状態な私は、去ってゆくメイドの背を見つめていた。
彼女は一体春に何を求めるのだろう。柔らかな風か、咲き誇る桜か、あるいはただ買い出しが面倒だっただけなのか。冬に執着する身として、聞いてみたいとふと思った。
「あなたは、なぜ春が来て欲しいの?」
声を掛けるとメイドは振り向いた。凍った湖に反射した日光が、両側に下げた白銀の三つ編みを凛と光らせる。その眩しさは強者の特権とも見えた。
鋭い光を湛えた双眸の色もまた銀。形容するならクリスタライズシルバー。透明な美しさを持ったそれは、つい見とれてしまいそうなものだった。
「なぜって、理由なんかないわ。それが当たり前だからよ」
曖昧に、ともすると適当に答えた彼女は、私に興味を失ったように冬の空へと消えていった。敗者は納得のいかない言葉を反芻しながら、その方を見つめ続けるのみだった。
───
「冬の雪山は遭難しやすいんだぜ」
物騒にレーザーを放つ魔法使いは、そう言いながら現れた。見る限り、ふらりとたまたま通った体(てい)だ。
「なんで遭難しやすいか、知ってる?」
「冬の雪無し山が無いからだな」
例年、幻想郷の冬には雪の積もらない山が一つだけ見える。神様の力だとか、地下に溶炉があるだとか様々な噂が飛び交うが、真偽の程は定かでない。原因が何であれど、普段は不思議と雪がないはずなのだ。吹雪で視界の悪いとき、方角の頼りに用いられるそれがないのは大層困ることであり、遭難者を出す所以ともなる。
「やっぱり、あなたも遭難者?」
「私は普通だぜ」
「かわいそうに、寒さにやられたのね」
強力な攻撃を乱発しながら前へ進む彼女は、確かに遭難者とするには違和感がある。しかし普通でないのは瞭然だ。
「そうだな。本来なら今ごろは、人間たちが桜の木の下で眠る季節だしな」
桜という単語を持ちだした魔法使いに、小さく舌打ちをする。
どうも誰も彼もが春の話をしたがる。皆次なる季節への期待値が高すぎるんだ。生温くて、温度が中途半端に移行する季節。そこに魅力を垣間見るなど私には無理だ。
「今年は冬が長いわねぇ。私には好都合だけれど」
「冬が好きだなんて変わり者だな。でも私の邪魔はさせないぜ」
──小さな会話のターニングポイント。言葉の戦いから弾幕の戦いへ変わる予感。
「邪魔しまくるわ。あなたが嫌になるくらい」
「上等だ」
短く返答した白黒の魔法使いは、星屑を散らしながら大きく飛翔した。無数に迫るそれらは単なる目眩ましだろう。本物の攻撃はきっとその後だ。
こんな形の砂糖菓子があったな、などと思いながら凍らせてゆく。もとより緩慢だった動きが更に遅くなり、やがてピタリと静止する。表面は氷で覆われて滑らか。それこそ氷砂糖のようで美味しそうだった。
そうして星屑を処理していると、横に一筋の光が差した。パキリと小気味良い音を立てて氷が砕ける。それが何か分かる前に、本能的に私は後ろへ飛び退いた。
細い筋は、二拍ほど置いてからぐわりと広がった。飛び散った氷片にレーザーの光が乱反射して眩しい。まるでエネルギー爆弾かのような、予想以上の威力だ。
大火力のレーザーを吐き出している魔法使いの手元を見ると、小さな八卦炉が目に留まった。魔力の媒体だろうか、確かに素手で放つには危険過ぎる代物だ。それさえ撃ち落とせばこちらが有利になるに違いない。
視界の悪い吹雪の中、八卦炉に焦点を絞る。派手な金色で目立つのが幸いだった。降り注ぐ星を避けつつ、集中的に氷礫を彼女の手元へ飛ばすが、すばしこく移動するためなかなか当たらない。
さらに目を細め、八卦炉のみを見つめる。視界にある他のものの姿がぼやけ、光沢を持った表面がより際立つ。
無心に追っていると、急に金色の動きが単調になった。上へ持ち上がり、その速度は段々と落ちてゆく。上がりきり静止したかと思うと、引きつけられるようにして下がり始めた。私の手元からの距離を推し測り、八卦炉の位置を大体見極めて──
「そこだっ」
氷柱を一本、勢い良く放った。針のようなそれは吸い込まれるようにして対象の中心を射て、同時に私の視界の限定を破る。目に入ったのは、日光をこれでもかと反射し輝くそれのみ。耳に入ったのは、張りのある大声。
「私はここだぜ」
声の主を振り返ると、前に突き出した右手が私に向いていた。モノクロな魔法使いは、自らの手首を強く押さえ、叫んだ。
「恋符『マスタースパーク』!」
周りが眩い白に包まれ、痛いほど目に入る光に圧倒される。しかしそれ以外の何かを感じる前に、私の意識は周囲と真逆の色に染まっていた。
意識が戻り、身体を起こすと雪が滑り落ちた。その量からして、さして長い時間こうしていたわけではないと悟る。
周囲は相変わらずの銀世界。白、白、白……そして一ドットの黒。私を負かした魔法使いだ。落とした八卦炉を探しているのだろうか。
それにしても、驚いた。あれほどのパワーを素手で繰り出すとは普通思わない。腕が飛んでもおかしくない威力だった。
そんな危険を犯してまで、何が彼女にそうさせるのだろう。メイドに対して抱いたものと同じような疑問が湧き出る。私はその答えが欲しかった。何となく季節を期待する程度の人間に負けただなんて、悔しいから。
「ねぇ」
声を掛けてみる。小さな声は彼女まで届かないだろうと思ったが、意外なことにこちらを振り向いた。きっと周りがあまりに静かなせいだ。
眩しい。意識していなかったが、魔法使いの金髪はモノクロな服に対して鮮やかに映えた。白くて単調な風景からも浮いて見え、とても目立っている。
勝者というのは美しい。自ら発光しているのではと疑う程に輝いて見える。勝敗は概念的なものだけれど、視覚的にもそれはしっかりと映るものだと私は思う。
「あなたは、春に何を期待しているの?」
「ん、主に花見かな。酒盛ってワイワイ騒ぐのはいいものだぜ」
笑顔で彼女は言う。どうやら私の存在は花見なんてものに負けたらしい。甚だしい屈辱だった。
「そんなことのためにこの異変を解決するのね」
「そいつはちょいと違うな」
今度は対照的な真顔での否定。大火力の魔法使いは帽子に手をあてがって、心持ち引き下げた。影になって表情が読めなくなる。
「そこに異変があるから、私は解決するんだよ」
口元をニッと横に広げると、彼女はいつの間にか探しだしていた相棒を空へ放った。箒に跨ってくるりと宙返り、上昇を止めた黄金のそれを掌握、薄曇りの彼方へと飛び立っていった。
───
「冬は氷の生き物が活発で嫌ね」
怠そうに浮遊してきたのは博麗の巫女。確か名は霊夢といったはず。異変解決の第一人者が出てくるとは大層なことだ。前の二人に解決できなかったこともあって、相当に手強い相手なのだろうと分かる。
「唯一ここに居られる季節なんだからしょうがないでしょ」
「あら、じゃあ悔いのないように楽しみなさいよ。もうすぐ冬は終わるから」
面倒くさそうな忠告。しかしそれは妥当とも言えるだろう。弾幕ごっこにおいては彼女が最強、さすがの異変の主犯も歯が立たないはずだ。
当然私にも勝ち目はないわけだが、やすやすとここを通すのも面白くない。最後の足掻きというヤツをしてみようか。
「もちろん邪魔するわ」
「百も承知」
会話もそこそこに弾幕を張る。きっとそこに言葉など必要なかったから。
いくらかの氷柱を頭上に配置し、礫を霊夢に向けて放つ。不可能へギリギリまで近づいた高密度な弾を、しかし彼女はするりと避けてゆく。常駐させた氷柱もタイミングよく身体をずらしてグレイズ。
一ミリの無駄もない、完璧な動きだった。最低限の移動で私の攻撃を避け、弾かれることが分かりきっているためかこちらを攻撃する素振りを見せない。トリッキーな動きのメイドや、パワーで押し切る魔法使いとは違う、余裕の滲む強さが感じられる。
回避特化の霊夢にどう対策すべきか思考を巡らせる。物量での圧倒は効果がないと分かった。パワーが駄目ならトリックか。安易ながらもそう思いついて実行に移す。
大きく湾曲して動くレーザー。横への切り込みが大きいこれは、今まで様々な相手を苦しめて来た。果たして通用するか──
案の定、というとおかしいのだけれど、霊夢は華麗に避けた。むしろ彼女をレーザーが避けたと言っても過言では無いほど、完璧だった。見惚れるほどに、美しい回避。
などと思考する暇は本来無いはずで、私は手数を増やすことに決める。霊夢に向かって急接近、氷を纏わせた左手を思い切り振る。硬い衝撃は玉串で受け止められたそれで、痺れる腕を無視しながら後退。何度か行われた反撃を身を翻して避け、氷礫を生み出してぶっつける。
しかしそれは玉串の一払いでいなされた。宙を煌々と舞う氷の欠片を横目に、霊夢との距離を取る。
さて、どうするか。霊夢は再び落ち着き、宙を漂うようにして浮いている。弾幕は避けられ、打撃は受け止められる。私に何の方法が残るというのか。
様子を見つつ思考していると、不意に霊夢が動いた。
何をするのかと構えたが、どんどんと彼女の背は遠ざかってゆく。吹雪にその姿がおぼろげになりつつあり、消えてしまいそうだ。
半ば呆然として見送っていたが、声が届かなくなる前に我に返った。
「何やってるの?」
呼びかけると、霞かけた紅白の身体がこちらを振り向いた。表情は伺えないが、面倒そうな雰囲気を醸している。
「私は忙しいの、雑魚を構ってる暇はないのよ」
私が何か言い返す前に、彼女は再び口を開いた。
「いつもは礼儀だからと思って叩きのめすけど、あんたは違う。弾幕に必死さがない。
確かに私が博麗の巫女である限り、勝ち目はないわ。でもさ、そんな状況でもチルノはかかってきた。それこそ馬鹿みたいな量の弾幕張って、無謀に突っ込んできた。
あんたの弾幕は高密度に見せかけて、中身はスカスカ。中途半端な数の氷柱なんて空気みたいなものだし、曲がるレーザーも捻りがあるのは動きだけで、打ち方は短調。打撃も氷の硬さに任せきりで力がない。半端に考えて攻撃するくらいなら、めちゃくちゃにやった方がまし。
春になるのを止めたいなら、全力でそうしなさいよ。推測とか、読みとか、パターンとか、そんなの全部捨ててただ弾幕を撒き散らしてくればいい」
吹雪が、止まった。止んだのではなく、動きを止めた。
そしてゆっくりと雪の結晶が私の方へ近寄り始める。結びついて欠片に、また結びついて塊に、徐々に形を変えてゆく。それにつれて視界が晴れ、冬の淡い陽を感じた。
すっかり巻き上げられた周囲の雪は、私の頭上で大きな雪塊を作り上げていた。しかし尚も結晶は一点への収束を続け、圧縮されてゆく。より小さく、より硬く、より濃密に。圧力で溶かされ、再結晶した雪は、もはや氷となっていた。
圧縮し尽くされた雪は、今やビー玉ほどの大きさになっていた。小さなそれを握ると、静かな、しかし力強い鼓動が感じられる。とく、とく、とく、と心臓が拍を打つようなテンポ。自然の奏でるアンダンテ。
しばらくその心地よさを楽しんだ後、私はそれを放り投げ、得意の氷柱で貫いた。
──その光景は、なんと形容すべきだろう。
氷の花、冷たい蝶、銀の桜。
ああ、私は馬鹿だ、自ら春の言葉で表現するなんて。貶し続けた次なる季節、私を楽園から追い出す憎むべき春を美しさの描写に用いるとは愚かな。
しかし、少しだけ。
ほんの少しだけ、生命の季節を感じてみたいような気がした。
──絵本の春は、あれだけ綺麗だったのだから。
体積を無理やり小さくさせられ、エネルギーを押し込められたビー玉は、衝撃に敏感だった。氷柱が命中した瞬間、待ってましたとばかりに弾け、爆弾ばりの威力を呈する。うるさいくらいの空気を切る音。
凄まじい勢いの氷礫は回避不能のはず――しかし、やはり博麗の巫女というのは一味違った。
霊夢に被弾した礫は一つもない。確かに彼女のいたところへ飛んでいったのだが、当たっていなかった。半透明になり、全てすり抜けていたから。
すべての事象から浮くという、反則じみた能力。しかし、ルールは争いを鎮めるために彼女が作ったもの、創設者が最強であることに異存はない。
霊夢は目を閉じ、静かに宙を漂っている。張り詰めた雰囲気。
じっと見つめていると、不意に口を開いた。
「やればできるじゃない。もう終わりだけど」
ゆっくりと回転していた陰陽玉から、たった一枚だけの御札が飛び出す。薄いそれは真っ直ぐに、不思議と風の影響を受けずにこちらへ向かってくる。
迫ってくる御札をぼんやりと見つめる。身体は何故か動かず、避けることは無理そうだ。
胸に御札を受けると、力が抜けた。周りの氷が落下を始め、私自身も自然とそれに倣う。
つめたい空気を全身に受ける。徐々にスピードが増してゆき、それにつれて抵抗も大きくなる。普段自由に空を飛んでいる私からすると、どこまでも奇妙な感覚。謎めいた不自由の心地よさ。
ドサリ、という他人ごとのような物音を聞き、深く積もった雪に沈みながら。
再び私の意識は、暗転した。
───
いつだったか、私は少し頭の回らない親友と、絵本を読んだ。
妖精たちが雪遊びをするとか、そんなような内容だったと思う。
雪合戦、かまくら、雪だるま。
見慣れたものばかりだったけれど、楽しそうにする妖精たちの姿は、
見ているこちらも愉快になるものだった。
物語が後半になると、雪が溶け始めてしまう。
『ずっと冬が続けばいいのになぁ』
妖精たちが残念がる気持ちは、痛いほどよく分かる。
しかしその次のページに描かれていたのは。
──満開の桜、咲き誇る花、飛び回る蝶を見て、大いに喜ぶ妖精の姿だった。
───
目を開くと、天井があった。
普段家の中で寝るということはないため、目覚めると木目が視界に入る、といことは殆ど無い。少し新鮮だった。
身を起こして周りを見てみると、縁側に腰掛ける巫女の背中があった。少々髪が乱れ、リボンが傾き、服もところどころほつれている。一見する限り、強敵にぶつかって渋々引き上げたように映る。
しかし、どうしても私は霊夢が負けたとは思えなかった。回避能力然り、能力然りだが、何より彼女の敗北した様子というものが想像できない。彼女には、悔しがる姿も、すごすごと立ち去る姿も似合わない。常にただ当たり前然(あたりまえぜん)として、凛とした勝者であるはずなのだ。
そうして後ろ姿を見ていると、ふいと霊夢がこちらを向いた。
「あら、起きたの」
ええ、と頷きながら言って、沈黙。喋る声がなくなるとひたすらに静かだ。
心持ち強くなった、しかしまだぽかぽかという表現の似合う陽の光が、外の白い雪を照らす。小さい春の兆しだろうか、柔らかさをはらんだそれは、少し心地良い──ような気がした。
「もうすぐ春ね」
──ええ。
機械的に同じ言葉を返す。霊夢の春という単語には、何故だかあまり憤りは感じない。
「私は──いや、魔理沙も咲夜もそうだと思うけどね。別に春を期待してるわけじゃないのよ。冬の後は春、そんな当然をただ望むだけ」
「当たり前なんて、退屈」
「確かにそうね」
薄く口だけで笑う。なぜそんなに儚く笑うのだろう。何が悲しくて、何が寂しいのだろう。異変が起これば皆に頼られて、解決すれば皆に感謝される霊夢。春の幻想郷も、夏も秋も冬も知っている霊夢。そんな彼女が、どうしてそんな表情をするのだろう。
分からない。春を共有出来ない私の疎外と同じような寂寥を、彼女が背負っている理由が分からない。
「誰かが異変を起こして、それを私や魔理沙が解決する。それでいい。
その構図はきっと崩れないし、崩させない」
そう言うと、突然霊夢が立ち上がった。不格好に乗っていたリボンを整え、傍らの玉串を手にする。裂けたスカートの裾を見てあーあと呟きながら、軽くはたく。さっきまでの素振りは何処へやら、なに食わぬ顔で出発の準備をしていた。
「さて、また厄介者が出てきたみたい。さようなら、せいぜい残りの冬を楽しむことね」
振り返ることもなく、彼女は空へと飛び出した。服をひらひらはためかせながら、少しずつ遠ざかって行く。限りなく白に近い青色の空に、紅白の服がよく映えていた。
ぼんやりと見送った後、どうにも手持ち無沙汰になる。霊夢のあの儚げな表情は気になったが、私に理解できるものではないだろう。他人に私の孤独が分からないのと同じで。
───
私を呼ぶ声に気付いたのは、それから随分と時間の経った頃。甲高いあの声は、きっと少し間抜けな私の親友のものだ。
「おーい!」
神社の境内を、雪を踏みしめ踏みしめしながらこちらへやって来る、ぼんやりとした青い姿。まどろみから覚めたばかりの頭は、なかなか思う通りに働いてくれない。じっと目を凝らして見つめると、妖精の姿の像を結んだ。
彼女は、どうだろう。絵本の妖精のように、冬が過ぎるのを残念がり、春が来たのを喜ぶのだろうか。
「あれ、寝てた? 昼間から呑気さんだね」
腰に手を当てながら、親友は話し出す。
「その間にあたいは弾幕ごっこしてたんだ! 最初は湖の館にいるメイドで、次は確か……んーえっと」
身振り手振りで武勇伝を語り、忘れたことを必死で思い出そうとする彼女は、見ていてとても愉快だ。物覚えが悪いのと、一つのことに集中すると周りが全く見えなくなるのは困りものだけれど、そのお転婆な性格がカバーしてしまう。
ニコニコしながら話を聞いていると、何かを思い出したかのように、唐突に彼女は言った。
「ねぇ、フキノトウが芽を出してたよ」
その言葉にきっと他意はない。小さな発見を共有しようと、純粋に話をしただけに違いない。親友の目は輝いていて、フキノトウで頭が一杯の様だったから。
すくりと立ち上がる。長い時間寝転んでいた身体は少し強張っていて動かしづらい。でも大丈夫だ。飛び回っていれば自然とそんなもの消え去ってしまう。
「どこにあったの? 見に行こうよ」
縁側から飛び降りて、そう尋ねる。親友はもっと嬉しそうにして、こっちだよ、と境内裏の林へと駆けて行く。多分に彼女はもう場所を忘れていて、探しまわることになるに違いない。そうしてきっと、今度は途中で何かを見つけて、フキノトウのことなど吹き飛んでしまうのだ。
「……せいぜい残りの冬を、楽しませてもらうことにするわね」
深呼吸をすると、肺には冷気と、少しだけ新鮮な匂いが満たされる。
──春はもう、すぐそこまで来ていた。
あと、地の文でしっかり描写しているところが個人的に好印象だったりします。
最後のシーンのレティ良いですね
ほのぼのだから当然っちゃ当然だけど、筋がいいだけにもったいないと思いました
季節を司るって、妖怪にしろ神にしろ妖精にしろ、各々の生を縛られているような印象ですわ。
このような文体はここで受け入れられない傾向にあるけれど、めげずに頑張って欲しいなあと思いました