魔法をかけられた小鳥が、「フラン」と私の名を呼んだ。なんとなく私は、小鳥の背中をなでた。私の手に触れられた小鳥は気持ちよさそうに目を閉じる。
それから小鳥は爆散した。
意味も無く弾け飛んだ小鳥の羽根や内臓、血液は室内を汚す。内臓はベッドにのっかり、血は本棚にべったりとこびりついている。目玉は天井にぶら下がるランプに張り付いてしまった。
地下に一人で居ても暇だろうと、お姉さまくれた「物」だ。
あー、やっぱりこうなるわよね。ま、いいわ。掃除しなくちゃね。ありがとう、お姉さま。暇つぶしできそうよ。
もともと赤の多い部屋だから、血液はめだたないが固形物は流石に目につく。頬に付いたまだ温かい鮮血を舌で拭い取る。人間の血ではないから、まずい。
まったく、どうして触れるだけで壊れちゃうのかしら。ま、考えるまでもなく私の力のせいなんだけどね。
私は服を脱いで投げ捨てた。続いてスカート、靴に靴下。最後にはドロワーズ一枚の姿になった。地下室の温度は一年を通して安定しているため、寒くはない。いや、むしろ血生臭さがまじって体感温度は少し高めだ。
タンスから着替えとタオルを取り出す。
タオルで丁寧に血しぶきを拭き取っていると、部屋の鉄の扉がさび付いた音を立てて開いた。
「こんばんは、フラン」
着替え中にノックもせずに入ってきた礼儀知らずはお姉さまだ。彼女は、部屋の有様を見て、「鳥……、殺しちゃったの?」と尋ねてきた。
「いつもの通り。触ったら弾け飛んじゃったのよ。おかげで掃除ができるわ」
皮肉ったつもりはないのだが、お姉さまは苦笑いをし「そう」とだけ返してきた。それから、人差し指を指を突き立てて今思い出したかのように言う。
「そうそう、掃除は咲夜に任せちゃいなさい。今日は神社の宴会に行くわよ」
「私も?」
「そうよ。だから早く服を着なさい」
珍しいこともあるものだ。大抵はお姉さまの外出に私が我がままを言ってついていく。今日はお姉さまの方からお誘いか。しかも、宴会。人妖が溢れるに違いない。そんな場所に行くのは初めてだ。血で汚れたタオルをベッドに投げ捨てる。
「殺しちゃうわよ」
人間を、とはあえて言わなかった。
「大丈夫。すぐ死ぬような弱者は神社に来ないわ」
断る理由はない。むしろ、両手を挙げて喜びたいくらいだ。
「よわっちくておいしそうな人間が来ないことを悪魔に祈るわ」
「そう。紅の悪魔としてその祈りに返答するならば、よわっちい魔理沙が来るわよ」
「なっ!?」
ひくひくと私の頬の筋肉がひきつる。そういうことだったの。わざわざ私を誘うなんて、意図がないわけがないわよね。
「人間が弱いとまとめちゃうんなら霊夢、それに咲夜も居るじゃない」
熱っぽくなる頬を隠すために、私は替え着を引っ掴み頭からかぶった。
「来る予定の人間の中じゃ、魔理沙が一番弱いわ」
どこまでもおちょくる気ね。服の布地を通してお姉さまが意地悪く笑うのが見える。
「なに言ってるのよ。魔理沙は私に勝った数少ない人間よ」
「勝ったねえ。ま、いいわ。行きましょ」
肝心な部分を曖昧にされた気がする。追求する気も起きず、やれやれとため息をつき、私は着替えを済ませた。
「さぁ、行くわよ妹様」お姉さまは、紳士を気取り私に右手を差し出す。「はいはい。麗しきお姉さま」苦笑を唇に乗せ、私は差し出された右手を取る。
妖怪であるお姉さまは、私が触れても壊れない。失われないあたたかさを手に、冷たい地下室を出たのだった。
夜だったのね。
外に出て、はじめて気付いた。お姉さまがこんばんはって言ってたからてっきり朝かと思ってたわ。いつの間にかお姉さまの生活リズムは人間と同じものになっちゃったのね。
ちょうど妖怪の力が絶頂に達する日で、黒ペンキの塗られたような空に満月がぽっかりと浮かんでいた。その光が紅魔館の門を映し出す。
あら、勢ぞろいね。
門には、紅魔館の私達以外の主要メンバー四人が既に待機していた。「さぁ、行くぞ」というお姉さまの声で、待機していたメンバーも私たちと共に歩き出す。
妖怪に魔女、果ては人間とさまざまは種族の入り混じる一行は魔法の森を進む。道中、お姉さまが「白黒を迎えにいこうかしら?」と茶化すことがあった。私はスルーして神社に直行する。けっして恥ずかしかったのではない。魔理沙ならもう神社に居るだろうと考えたからだ。
神社の境内はすでにお祭り騒ぎだった。満月の光は縦横無尽に吊るされた提灯の明かりに打ち消されている。その元で、妖怪が勝手に屋台を展開し、好き放題に騒いでいた。宴会ではなく、もはやお祭りだ。まだ肌寒い季節であるせいか、ひしひしと熱気を感じれた。居るだけで本で読む夏を連想してしまうほどだ。
「それじゃ、好きに行動していいわよ」
保護者を気取り、お姉さまは指示を出す。その言葉を待っていたかのようにパチュリーはさっさと神社の暗がりの方へと消えていく。小悪魔もそれに従う。美鈴は全身で喜びを表現しながら屋台へと走っていった。お姉さまの従者である咲夜は、私たちから離れようとしない。
「さて、私たちはどうしようかね」
さっと辺りを見渡し、私は魔理沙の姿を探した。見たところ、居ない。なら社殿かな。
「私は社殿にお邪魔するわ」
「なら、私も」
「別についてこなくてもいいんだよ」
「まぁまぁ、そんな冷たいことを言いんさんな」
先ほどまできりっとしていたお姉さまは、取り繕いのないにゅほっとした笑顔を浮かべ頬をかいた。まったく、公私がしっかりしているわね。
結局、お姉さまは私について来た。屋台を取り囲み、馬鹿騒ぎしている妖怪の合間を縫い社殿に向かう。屋台からは、香ばしい蒲焼のたれの匂いが漂ってきた。
「三日間続く宴会だけに派手ねえ」
のらりくらりとついてくるお姉さまがぽつり呟く。そうでございますね、とだけ咲夜は返す。庭がこの様子だと、社殿の方も荒れ狂っているだろう。
社殿に踏み入る。案の定、荒れていた。天井を見ると料理のたれによるシミができており、壁には穴が開いている。壁に開いた穴の真下に子鬼が眠っていることから犯人は容易に推定できた。乱雑に並べられた長机には、大量の酒と料理が乗せられているのだが、あまりに混沌としており主食の肉とデザートのケーキが夢のコラボを果たしてしまった料理もある。
既に何人か酔い潰れているものの、まだまだ宴会のテンションは絶頂だ。普段、清楚である者すらも顔を真っ赤にして踊り狂っている
。とにかく、混沌とした世界だ。
そんな中で、あの人は私に向かって手を振っていた。
「おーい、フラン! こっちだこっち」
「魔理沙っ!」
人目もはばからずに私は叫んでしまう。それに気付き私が赤面する頃には、声は既に喧騒にかき消されていた。倒れている妖怪を飛び越えて魔理沙に駆け寄る。どうやら兎の妖怪と猫の妖怪、それに霊夢と酒を飲んでいたようだ。酒で血の巡りが良くなっているようで、魔理沙の顔は熟れたりんごのような赤みを帯びていた。
魔理沙と目が合う。
「なんだぁ、フラン。もう酒飲んだのか? 顔赤いぞ」
「え、え? 嘘でしょ」気になった私は、自分の頬をぺたぺたと触る。
「冗談だ」
「……魔理沙ぁ」
「悪い悪い。そうはぶてんな」
頬を膨らませて威嚇をしてみたものの、まるで効果なし。豪快に彼女は笑う。そのせいで、私の顔に火がついてしまった。結局、魔理沙の言葉は嘘じゃなくなってしまう。
人間が吸血鬼をからかう。よくよく考えれば一昔前ではありえない構図だ。――人間は強くなった?
「まぁ座れよ」手近な座布団を魔理沙は手繰り寄せると、私に差し出してきた。お礼を言い、私は魔理沙のとなりにゆっくり腰を下ろす。
同席している二匹の妖怪はすでに酒に意識を食い尽くされる寸前で、聞き取れもしない独り言をぶつぶつと呟いていた。
「……あんたから、血の匂いがするわ。人襲ってないわよね?」
何その吸血鬼みたいな嗅覚。酒に飲まれそうな妖怪に対し、霊夢はまだまだ酒におぼれそうにない。
「違うわよ。小鳥の血よ。まったく、出会い頭から容赦がないわね」
「吸血鬼って小鳥も食べるのね」
本当に容赦がない。ときどき、霊夢って本当に人間なの? なんて思ってしまう。
「違うってば。私の力が強すぎて小鳥を殺しちゃったの。その返り血が原因だと思うわ」
「へぇ」
ちびちびと酒を飲みながら、霊夢はどうでもよさそうに答えた。事件性がないとわかり、興味をなくしてしまったらしい。
「ほら、お前らが物騒な話をしてるからミスティアが気絶しちゃったぜ」
今の会話を怖がるでもなく、魔理沙は近くで倒れている鳥の妖怪を指差しながら無邪気に大笑いする。それを見て確信する。最近は底辺の妖怪なんかより人間の方がよっぽど強い。なさけなく思うと同時に、もしかしたら人間に触れても壊れないのではないかという希望が生まれて嬉しかった。
社交辞令のような会話をすませ、本格的に話し込もうとしたときに私はお姉さまと咲夜の存在を思い出す。
二人のこと、きれいさっぱり忘れてたわ。
しかし、どうやら二人とも他のグループで雑談をしているようだった。それを見て、私は魔理沙達とおしゃべりを開始しる。勿論、人間二人に触れないように気をつけて。
宴会のグループでは、メンバーが流動的に入れ替わる。兎は上司に呼ばれて千鳥足でどこかに行った。続き、猫が狐に連れ去られたかと思うと、人形使いが入ってくる。霊夢は霊夢で他のグループからもお呼びがかかり、せわしなく行ったりきたりしていた。それでも、私と魔理沙が離れることは一度たりともなかった。
夜も酒も深くなり、いよいよ宴会が小休止を迎えようとした頃だ。一通りの人妖と接し終えた霊夢が戻ってきた。接し終えた、というより大抵の者が酔い潰れてしまい接する者が居なくなった、だ。その頃には、私と魔理沙は二人きりになっており、喧騒はいつの間にかいびきに成り代わっていた。
「霊夢、お疲れだな」
「結構飲まされたわよ」
言われてみれば、最後に見たときよりも霊夢の肌が赤みを帯びている。彼女はけだるそうにあくびを一つ洩らした。そろそろ体力の限界なのだろう。それは魔理沙も同じようだった。
お酒はあまり飲んでないし、もともと体質が夜型の私はまだまだ余裕だ。
「ありがとう。にしてもあんた達、まだ一緒に居たのね。仲良いわねほんと」
嬉しさ三分、恥ずかしさ七分で心臓がバウンドした。いびき以外の音がないこの部屋では心臓音が響いてしまいそうだ。
「偶然よ偶然」
「そうだ。たまたまだぜ」
魔理沙の言葉が少し残念だった。そこは否定してほしかったかな。
「てか、なんだ? 妬いてるのか霊夢」
にへら、と魔理沙は笑みを浮かべる。
「何言ってんのよ。て、抱きつかない!」
魔理沙の悪乗りが始まる。魔理沙が霊夢を押し倒し、お酒でふらふらの状態で二人はじゃれあい始めた。そんな二人を見てふと思う。
ウラヤマシイ。
私が触れるだけで、人間は壊れてしまう。だから、大切な人であればあるほど触ってはならないのだ。魔理沙の存在を知ってからだ。このジレンマがうっとうしいと思い始めたのは。
私は、話すしかできない。
「ほら、あんたが私にじゃれるからフランがすねてるわよ」
霊夢の顔には、こりゃたまらんと書かれている。矛先を私に向けようとしているのが察せれた。いけない。口の中から水分が抜けていくのがわかった。
「ああ、すまんな。ほらっ!」
「待って!」
霊夢から私に飛び移ろうとした魔理沙に手のひらを突きつけて、制す。笑顔を浮かべたまま、時が止まったように固まる魔理沙。つぅっと一筋、私の額から汗が流れる。
「ど、どうしたんだ?」
まさか拒否されるとは思っていなかったのだろう。一気に酒が覚めたようで、神妙な表情を浮かべ魔理沙は問いかけてくる。
「私が、嫌いなのか?」
今度はぎこちない笑顔が浮いた、冗談交じりの問いかけ。
「違う……。違うの」
唇をかみ、私は破壊されたものを触れてきた右手を睨みつける。
「私に触れたら……、魔理沙が怪我しちゃうから」
「とげでも生えてるのか」
冗談に昇華しようと言う魔理沙の努力が感じ取れた。しかし、彼女にもわかっているのだろう。今まで、私が触れ合うのを避けていたことを。多少なり、何かあると勘付いてるはずだ。
黙ってきたけど、もうここまで言ってしまった。これから、付き合っていく上で伝えておかなければならない。
「私の力が強すぎるから、弱い肉体なら触れただけでも壊れちゃうの」
いつかは言わなければならなかったのだ。ある程度の覚悟はしていたから、言葉にするのに抵抗はなかった。
しかし、これを聞いてなお、魔理沙はどこ吹く風。
「はは、なに言ってるんだ。そんなの大丈夫。私は魔法使いだぜ?」
「人間のね」
私の言うべき言葉を霊夢が横取りする。横取りされても不快に思わなかったのは、霊夢が真剣だったからだ。私の言葉の意味を理解してくれたのだろうか。
「霊夢もなにばかなこと言ってるんだ。小鳥は吹き飛んだかもしれないが、私は人間。そして、まがいなりにも魔女だぜ? まさか、吹き飛ぶわけもないだろう」
予想以上に力のこもった魔理沙の反論。
「ほら、フラン」
「え?」
何してるの?
私に対し、魔理沙は右手を差し出していた。
「握手しようぜ」
凶悪な者と知ってなお、触れようとする。よく言う勇気と無謀は違うとはこのことだ。彼女は明らかに後者。
うれしい、うれしいけどだめなんだ。
酔いが覚め、淀みのなくなった魔理沙の瞳。私が触れれば、二度と開かれないかもしれない。
何人もの人間を壊してきた私が、それを一番よく知っているはずだ。
でも、今まで私の触れてきた人間は弱き者だった。だから、壊れたのではなかろうか?
魔理沙は、私を倒した強者。そこらの人間とは訳が違う。強い、強いのだ。魔理沙は強い。もしかしたら、私が触れても壊れないかもしれない。
……ばかね。
何をしてるんの、私は。これではまるで魔理沙に触れる口実を作っているようじゃない。そうそう。私は魔理沙に触れたい。霊夢と魔理沙のようにじゃれあいたい。どんなに誤魔化そうと、本音はこれなの。
「なぁ、ダメか?」
「やめときなさいって」
霊夢の忠告が入る。しかし、魔理沙はやめようとしない。
四百九十五年の孤独を味わってきた私にとって、その誘いはあまりにも強烈だ。強く甘く私を誘惑してくる。
傷一つない、酒の赤みの抜けた白い魔理沙の手。その下には、真紅の血液が流れている。
ここで、握手をしなければ魔理沙との関係に亀裂が入るかもしれない。でも、握手をすれば彼女の肉体が壊れる。
いや、むしろここで握手しといた方がいい? 魔理沙は無茶をするから、握手をしないでいたら無茶をして私に触れようとするんじゃないの?
後の大惨事より、今の小事。今なら右手の怪我だけで済むかもしれない。
見る人が見れば笑うような合理化よね。わかってる。わかってるよ。欲望が私の中をうごめいてる。でも、筋は通っているはずなの。今触れるべき。触れなきゃいけない。その方が、私にとっても彼女にとっても利益になるはずでしょ。
私の合理化は終了した。
「するよ」
もう霊夢は何も言わなかった。
私の手にじっとりとした汗がにじみ出る。しかしそれは緊張による発汗ではなく、喜びによるものだった。まるで、狼が獲物を前にしてよだれを流しているかのような。
大丈夫、魔理沙は怪我しない。
無理やり筋を通そうと私自身に言い聞かせる。
それから脳裏に浮かんだ言葉。
ごめんね。
今まで積み重ねてきた全ての言い訳を殺す一語。それがふいにひょっこりと顔を出す。
私が力をコントロールできてたら絶対怪我しないはずなのにね。
魔理沙の右手に、そっと私の手を添えた。母鳥が卵を抱くように優しく、壊さないように。
現実を見るのが怖くて、私はきゅっと目を瞑る。
「ほら、触れるじゃないか」
触れても、壊れない?
「うそ……。あたたかい」
暗闇の中にある確かな感触。
はじめて味わう生身の人間のぬくもり。お姉さまのものとは、違う。お姉さまが母性的なぬくもりだとしたら、魔理沙は内に熱く、激しく、しかし静かなものだった。
私の体内に太陽があるみたいにあたたかくなる。頭にもやがかかったようにぼうっとなった。
ああ、咲夜がうらやましい。今この時間を、止めれるなら止めてしまいたい。
「ほら、壊れないだろ」
なんでもないように魔理沙は手を握る力を強めた。
「でも、今まで何人も壊してきたんだよ。このままじゃ魔理沙だって壊れちゃうよ」
目を開き、自慢げに笑う彼女の目を見上げながら言った。
その時だ。
ぶちゅり、とトマトを握りつぶしたかのような音が辺りに響いた。
「あ――」
生きたぬくもりが、死んだぬくもりへ。何が起きたのか考える必要はなかった。いつものことだ。遅れて破壊がやってきたのだ。
魔理沙の表情が苦悶のものへ変わっていく。見てられなくて、目を逸らした。
砂袋を落としたかのような音がした後、うめき声があがる。
唇を噛み、おそるおそる彼女を見る。すると、潰れたトマトのように真っ赤になった拳を抱く魔理沙が畳に転がっていた。
やっぱり、こうなるわよね。
驚くほど冷静に、場の状況を分析し、飲み込んでいく。
結局は魔理沙もただの人間で私はただの化け物。化け物が人間に触れてはいけなかった。
地下室は私を封じるためにある。牢獄のような部屋だが、考えようによっては要塞になる。
地下室のベッドで眠りから覚めた私は、仰向けのまま天井を眺めていた。天井の赤が、魔理沙の血を連想させる。覚悟はしていた。でも私は魔理沙を介抱する霊夢を横目に、あの場から逃げたのだ。
相変わらず薄っぺらくて貧弱な精神ね。
白いレースの掛け布団を胸元にかき寄せる。それを頭に被ると、何もない真っ暗な世界が私を出迎えてくれた。
私は、このまま逃げててもいいの? 勿論、答えはだめだ。あやまりに行かなくちゃ行けない。でも、魔理沙に会うのが怖い。傷ついた魔理沙を見るのが怖い。いいや、違う。魔理沙に嫌われてしまうのが怖いのだ。結局、触ろうが触れまいが結末はあまり変わらなかったのかもしれない。
今まで人間を傷つけても、こんな思いにさいなまれることはなかった。
何もない世界でポツンと一人たたずむ寂しがり屋。そのくせ、その世界に入ってくる者が居れば、片っ端から破壊し、無に還す。
私の力のせいだ! 不可抗力だ! と、言い訳をしてしまえばそれまで。でもやっぱり私の努力不足なのだ。こんな力にいつまでもしばられてはいけない。
こんな力に私と魔理沙の関係を壊さたくない。今までどおり、魔理沙と楽しくおしゃべりしたい。
布団を引き裂いて、私は光を取り戻した。のっそりとベッドから起き上がり、身だしなみも整えずに部屋を出る。廊下を歩いていると窓から夜景が目に入った。昨日と同じくらいの時間帯かな。魔法の森の上に浮かぶ月の位置からそう判断した。
私はお姉さまの部屋のドアをノックもなしに開く。いつの間にか姉妹共通の作法になっちゃったみたいね。
室内には誰も居ない。紅魔館のシンボルカラーは赤。お姉さまは特にこだわっており、タンスやベッド、机まで赤だ。
あれは……。
はたと気付く。机にフルーツの盛り合わせと置手紙がある。手紙を見てみると、「宴会に行ってくるわ」と書かれていた。私が人に怪我させることはしょっちゅうある。お姉さまはいちいち動揺したりしない。
フルーツの盛り合わせは、お見舞いの品として持って行けと言うことだろう。
気が利くじゃない。一人苦笑いをする。行動を読まれていると思うと恥ずかしかったが、その気持ちは押し殺した。
バスケットに盛られているのは、メロン、りんご、みかん等様々だ。落とさないように抱えて紅魔館を出た。
たしか、三日間続く宴会だったっけ。今日仲直りして、明日は楽しく過ごしたいな。
魔理沙の家には寄らなかった。彼女のことだから、怪我程度なら宴会に参加するだろう。
さっさと神社への階段を駆け上る。境内は相変わらずにぎやかだった。しかし、二日目と言う中だるみの時期のせいだろうか。屋台に経営者と思わしき妖怪がおらず、勝手に商品が食い荒らされている有様だった。
熱気に押され、私は社殿の前まで来る。今日はまるで私を拒否するかのように障子が閉められており、直接中は見えない。けれど、障子に映る無数の影がせわしなく動き回っていた。
もう傷つけないから、嫌われてなきゃいいな。
障子をずらして、いつものように挨拶をする。それから、魔理沙に会ってあやまる。ただ、それだけ。それで良いはずなのに……。入るのが怖い。今まで引きこもっていたのは、私の力が強大すぎるからだ。私の力を見れば大抵の者は、私を恐れ、忌み、嫌う。
……でも、魔理沙は私に勝ってる。
以前、弾幕勝負を交えたときも、恐れなんて一切感じられなかった。昨日もだ。
だけど、今日彼女が私を恐れない理由にはならない。
いや、恐れるものか! 無鉄砲でまっすぐな魔理沙が私を恐れるはずがない!
どちらにせよ謝らなければならないのだ。
お腹から空気を吐き出し、そっと障子を開けた。今までせき止められていた酒臭いどろっとした空気が流れ出てくる。その中で楽しそうに騒ぐ人妖は、今の私にとっては満月の月明かりよりもまぶしかった。一人、どこか浮いた感覚を味わいながら魔理沙を探す。とんがり帽子を被っているので、彼女はすぐに見つけられた。人に妖怪、それに食べ物とお酒が織り成す混沌のすみでグループを作っている。体をフルに使い、熱く話し込んでいるのがわかった。
「……魔理沙」
人を掻き分け、近づいてから声をかける。意識してもないのに、私の声のトーンは沈んでいた。
「おう、フランか」
いつもどおりの彼女だった。しかし、挨拶代わりに上げられた右手には、痛々しい包帯が巻かれている。それを見た私は思わず顔をゆがめてしまった。苦々しく笑い、魔理沙は私にしか聞こえないように言った。
「手の皮が少し切れただけだ。気にするな。そもそも、私が頼んだことだしな。フランは悪くない」
包帯が巻かれているのは、手のひらと甲だけで指は無傷で残っている。しかし、昨日の様子を見る限り絶対に「少し」ではないはずだ。
「ごめんね」
私が止めていたら。わかってたんだ。力のコントロールできない私が人間に触れたらどうなるかくらい。そう、私はただ……。
「お、フラン。こりゃ差し入れか!」
私の思考を遮るように魔理沙が叫んだ。
お見舞い。と言おうとしたら、魔理沙に「そうか! 差し入れか!」とまたも遮られた。
そういえば、魔理沙の怪我に誰も興味をしるさない。それに昨日の一件について私に聞きいてくる者もいない。
魔理沙、それに霊夢が上手く隠してくれたのだろう。ならばこのフルーツの山は魔理沙の言うように「差し入れ」にしといた方がいい。
「うん、そうだよ」
よく気付いた。と、魔理沙がウィンクで伝えてきた。
「なら、食べちゃおうぜ!」
慣れた手つきでバスケットを私から掠め取った。その動作にほぼ違和感はない。ただ……、気にしすぎかもしれないが、一瞬だけ魔理沙の手が震えたように見えた。
考えようによっては当たり前だ。でも、底の見えない谷を覗いたように怖かった。
「さぁ、食おうぜ」
数ある果実から魔理沙はりんごを選び出し、ナイフで皮をむいていく。
「手先、器用だね」
自分の心の目を昨日の一件から逸らすために魔理沙に話しかけた。
「アリスの家やら図書館やらに入る為にピッキングやってたから器用になるわけよ」
手を怪我しているとは思えない手つきで彼女は皮をむいていく。
「おかげで、最近は施錠が結界になっちゃたんだけどな」
くすりと私は笑う。パチュリーが魔理沙についてぶつくさ言ってたっけな。
あまりにも魔理沙が綺麗にりんごをむいていくので、私はそれに見入っていた。手先の器用さだけだったら咲夜並みだ。
丸裸になったりんごを長机に乗せ、魔理沙は切れそうで切れない細いラインを保ったりんごの皮を披露する。私がケタケタと笑うと、満足そうに彼女は皮を投げ捨てた。たとえりんごの皮が手作りクッキーに乗っかったとしても、この場にとがめる者は誰も居ない。
「ほれ」
りんごを八等分にしたものの一片をつまようじに刺して魔理沙は差し出してきた。受け取ろうとしたが、ふと手を止める。手で取ってしまうと、魔理沙の手に近づきすぎてしまう。そのせいで、彼女が恐れをしるしたら……。
彼女が私を恐れているのがはっきりする。そんな証明、見たくない。
私は辺りを見渡す。さっきまで魔理沙と話していた妖怪は他のグループに溶け込んでおり、誰も私達を見ていない。
よし……。
つまようじに刺さったりんごをかぷり、と口で直接かぶりつく。予想外の私の行動にきょとんとした後、彼女は「そうきたか」と苦笑交じりに呟いた。
私だって恥ずかしいよ。とは言わず、私の口のサイズより一回り大きいりんごをゆっくり噛み砕いていく。
「あら、フラン居たのね」
「ん!?」
見られた!? りんごがのどに詰まりそうになり、喘息発作のように私は咳き込んだ。霊夢め、いつの間に現れたのよ。「ゆっくり食えよ」という魔理沙の忠告がろくに聞き取れないほど私の耳は燃えるように熱くなる。
不意打ちを喰らわせた霊夢は、仏頂面で私の背後に立っていた。
「仲は良いままね」
やっぱり見られてた。
「当然だ」
存外真剣に魔理沙は答えを返した。それに便乗して、うん、と答えたかったのだが、できなかった。もしかしたら、魔理沙は私を恐れているかもしれない。陽気な表情の下に、恐怖におののく姿を隠しているのかもしれないのだ。
考えればきりがない。
コップに注がれていたお酒に私は逃げる。「うん」という言葉は、りんごとお酒と共に胃へ流し込んでしまった。昨日までは、即答できたのにな。
コップに残ったお酒はゆがんだ鏡になり、粘土細工のように私の表情を捻じ曲げた。鏡は泣きそうな私の顔を作り上げる。
「そんなあんたらには悪いんだけど、一ついいかしら」
「なんだ?」
水面に浮く私の顔だけを見て、二人の話を聞く。
たわいもない話だと思っていたが、背後に立つ霊夢の雰囲気が変化した。ちょうど氷を背に背負うような、そんな感覚を私は味わう。
「あなた達は、もうお互い関わらない方がいいわ」
水面に居た私が居なくなり、代わりに霊夢が視界に入ってくる。
霊夢、いま、なんていった?
放った言葉の重みなぞどこ吹く風。変わらず霊夢の瞳には冷徹の色が張り付いている。
「な、何言ってるんだよ」
ふいに放たれた氷塊に魔理沙は明らかに動揺している。
「そうよ。どうしてなの?」
私は冷静なふりをする。けれどお腹の中では内臓が溶け出しそうなほどの熱をもつ生物がのた打ち回っていた。単純に私は今、霊夢にキレている。
「簡単よ。このまま一緒に居たら、魔理沙はあなたに殺される」
私は決めていた。魔理沙と仲良くするために、もう傷つけないと。なのに、私の決意を知らないとはいえ霊夢は私が魔理沙を殺すといった。私の決意を蹴飛ばしたのだ。
「フラン、あなたは魔理沙を殺してしまうのよ」
「どうしてよ!」
私の持っていたコップが甲高い悲鳴を上げて砕け散った。弾け、舞ったガラス片越しに霊夢を睨みつける。
「私はもう魔理沙を傷つけないと決めた。言わなくても勘のいい霊夢にならわかるでしょ」
「じゃあさ、あんたは自分が何を求めているか知ってる?」
は?
ガラスの破片は不思議と霊夢を避けるように落ちていく。それがわかっていたかのように、霊夢は腕を組んだまま微動だにしなかった。
「なにって。私はなにも求めてない」
「本当に?」
「それは、魔理沙と仲良くしたい、とは思ってるわ」
「違う」霊夢は首を横に振る。「そこじゃない。フラン、あなたの問題点はもっと奥深くにあるわ」片目を閉じ、紅白巫女は続けた。「あなたは何を求めているの?」
私の『求めているもの』を一度、わざわざ『問題点』に霊夢は言い換えた。
どろりと、私の右手に生温かい液体が流れる。ガラス片が肉に深々と突き刺さっており、傷口から真紅の血が流れ出ていた。血液は熱を持ち、私に熱を与える。
私の血、小鳥の血、そして魔理沙の血。これらはどれも温かかった。
でも、一つだけあきらかに違う、特別なあたたかさがある。それは、魔理沙に直接触れたときのぬくもり。血液が皮膚の下を通っていた彼女のぬくもりは、忘れられない。時を止めたいと思ったほどだ。
ああ、そうだったんだ。
「私は、魔理沙のぬくもりを求めてる」
夕日のような赤に染まった右手と、新雪のように白い左手を見比べる。
「正解。まぁ、私の勘だけどね」
「……そう。その通り。あってるよ霊夢」
昨日触れたぬくもりは、私の中に今もとどまっている。目を逸らしていただけだ。
確かに、もう一度触れたいと思う。でも、決めたの。傷つけないって。
けど、私にできる? あのぬくもりを知った上で我慢し続けるなんて。
ぬくもりに触れようとすれば魔理沙が壊れ、触れなかったら、私の心が傷つく。なによ、このジレンマ。酷いじゃない。
全てに気づいてしまった。私の中にいる獣が、理性の鎖を噛み千切っていく。
我慢なんて、できっこないよ。
全ては欲望のままに。
私は深く熱い吐息をつく。
「まりさぁ……」
体が火照り、酒に酔ったかのようにろれつが回らなくなった。
「私と、もう一度あくしゅしよぅ」
視界がじょじょにブラックアウトしていく。魔理沙を除き、私の世界には何一つなくなった。
けれど、私の世界に居るただ一人の住民は、怖がっている。
どうして? 昨日は握手してくれたのに。
どうして? もう一度してくれないの。
どうして? 私はあなたと触れ合いたいだけなのに。
「お願いだよぉ。あくしゅしてぇ、まりさぁ」
私の右手の流血が体の体温上昇に比例して激しくなる。その右手を、魔理沙に差し出した。
「ひっ!?」
「なんで逃げるのぉ?」
怪我をした手をかばいながら、魔理沙は後ずさる。蛇に睨まれた蛙、猫に追い詰められたねずみよりも無様におびえていた。
そうか。そうよね。あなたは弱い人間。お姉さまの言ってた弱いは、正しかったのね。
「まりさぁ」
彼女は壁を背に震えていた。逃がさない。血の滴る右手を魔理沙に突き出す。
「そこまでよ」
あと数センチ。だがそれ以上の進行は許されなかった。私の右腕がお札に覆われていく。さらに横腹に鋭い針らしきものが数本刺さったのがわかった。
ああ、霊夢が邪魔をしたのね。
体に力が入らなくなっていた。重力に従い、私は畳とご対面。
「やっぱりこうなるわよね。少し頭を冷やしなさい」
霊夢の忠告など、もはやどうでも良かった。私の世界には魔理沙しか居ないのだから。
薄れていく意識の渦中で私は、一度だけ「どうして」と魔理沙に尋ねる。
がちがちと歯の根を噛み合わせる音だけが、問いに対する唯一の返答だった。
完全に気を失っていた。気付けば紅魔館の地下にある私の部屋に居た。ベッドから身を起こす。右手のお札は元からなかったかのようにはがれており、横腹にできたであろう傷も治っていた。
私は吸血鬼。人間とは違う化け物で、人に触れれば壊れる。魔理沙はいとも簡単に壊れるのだ。霊夢の言うとおり、頭を冷やすべきだろう。私は獣のように本能と狂気に身を任せ動いていた。
でも……。
熱っぽいため息を吐き出す。
触れたいのだ。もう一度、あのぬくもりに。大切な者ほど、もろく儚い。それでも、あの味を知ってしまった私に、我慢は無理だ。魔理沙のことを思えば風邪でもひいたかのように体が火照るし、頭がぼぅっとする。
再び彼女に会ってしまえば、砂粒のようにちっぽけな理性は保てない。
毛糸よりも儚い魔理沙を壊さずに、触れる方法はないのだろうか?
実はあるのだ。それはとても単純。私が自分の力をコントロールできたら良いのだ。しかし今まで何度も試みたが、上手くいかなかった。
ああ、どうして私には人を壊してしまうほどの力があるんだろう。今まで、この力をうっとうしいと思ったことはない。というより、そもそも誰とも会わなかったから力の有無はあまり関係なかったのだ。
でも、お姉さまの起こした異変から全てが変わった。人と遊び、接する楽しさを私は知ってしまったのだ。それを教えてくれたのは言うまでもなく、魔理沙。いつの間にか、私は彼女に魅かれていた。
ああ、うっとうしい。私の腕を引き千切るだけで彼女に触れられるのなら、喜んで実行する。でも無駄。腕なんて、もいでも生えてくるし、力はこれっぽっちも衰えない。私が生きている限りは力は衰退しないのだ。
はぁ、今魔理沙はどこに居るのかな。やっぱり神社? そうだとしたら、私が神社に行ったとしても霊夢に撃退されてベッド送りにされるのが落ちかな。
このままじゃ私の精神が潰れてしまいそう。何か、何か魔理沙に触れる方法はないの?
霊夢を本気で叩き潰して、魔理沙に強引に触れる。抵抗するようなら、魔理沙の意識も落とす。霊夢だって、戦う気で戦えば勝てない相手ではないし……。
一瞬、こんな考えが脳裏をよぎった。何を考えてるんだろうね、私。また同じ過ちを犯すだけじゃない。やっぱり私が生きてる限り、無理なのかな。
生きてる限り……。
あー、生きてる限りねえ。
ふと、頭をよぎった。
がりがりと私は髪をかき回す。
私を殺せばいいのよ。
なぁんだ、簡単じゃない。唐突なひらめきに、知らず知らずのうちに私の頬は緩んでいた。
「さくやー」
どこにでも現れる従者を呼ぶ。数秒の間を空けてから咲夜はベッド横に現れた。
「起きていらっしゃったんですね」
完全で瀟洒な従者はきっちりと頭を下げる。
「まぁね。咲夜、まだ宴会はやってるかしら?」
「ええ、最終日の夜ですよ」
「ふぅん。魔理沙は宴会に来てるのかしら?」
「少々お待ちを」
音もなく、彼女は消え去った。どうやら咲夜は今日、宴会に行かなかったらしい。
「魔理沙は宴会に来ていません」
あくびをする間もなく、咲夜は帰ってきた。なら魔理沙は自宅療養ってやつでもしてるのかな。
「ありがと。あ、一つお願いがあるの」
咲夜の肩がピクリと震えた。そういえば、あなたも人間よね。触れたいという気はさっぱり起こらないけどね。やっぱり魔理沙じゃないとだめみたい。
「触れさせて、なんて言わないわよ。ただ――」
私の頼みごとを聞き終えた咲夜は、目を丸くしていた。普段、驚きの類の表情は表に出さない彼女だが、流石に驚いたようだ。
「よろしいのですか?」
「魔理沙に触れたいの。そのためだったら、なんだってするわ」
判断の早さはぴか一の咲夜だが、この頼みごとについては頭を抱えていた。間をおいて、ようやく歯切れの悪い「わかりました」が返ってきたのだった。
魔法の森には、ねっとりと絡みつくような暗闇が辺りに沈殿していた。大木と多湿、そして鼻にまとわり付く腐葉土の匂いのせいで闇が粘り気を持つのだろう。どこか地下室と似てるから嫌いじゃない。
鉛のように重い体を引きずり、私は魔理沙の家に向かう。
しばらく進むと、人魂のように浮いている光の点が見えてきた。きのこを模した家、魔理沙の家だ。見ようによっては森に巨大きのこが生えているかのようだ。
もうすぐあの人を抱ける。
祝福か、それとも警告か。木々がいっせいにざわめく。たとえ警告であろうとも、止まらないけどね。
魔理沙の家の窓にはカーテンがかけられているものの、隙間から淡い光が漏れていた。木の扉の前で一度深呼吸をしてからノックをする。
応答はない。
……起きてるはずだよね。
動悸が激しくなってきた。
「まりさー」
呼んでみるも、あっという間に森のざわめきにかき消される。勝手に入ってもいいかな。ちょっと悩んだけど、私はドアノブを掴んだ。
すると青白い光が右手を包みこみ、静電気を何十倍にも強めたかのような痛みが走った。とっさに手を引く。右手を見ると、手のひらの皮膚は炭化していた。
「あはぁ、結界かぁ」
炭化した皮膚の修復を試みる。が、あまり上手くいかず、ところどころ黒い部分がはんてんのように残ってしまった。ま、いいか。
「魔理沙居るんだね!」
彼女は在宅時に鍵をかけ、外出時には鍵をかけない。
「私が怖い?」
ちゃんと魔理沙に聞こえてると思う。だが返事はなかった。
私は扉に微笑みかけた。
結界を壊すのにはちょっと手間取るかな。でも入ってみせるよ。
「そこで待っててね」
両手でがっちりドアノブを掴んだ。青白い光に両手が焼かれてみるみる黒く変色していく。痛み? 関係ないよ。全部、壊す。
「あっはぁ!」
思いっきりドアノブを引いた。ばぎん、と厚みのあるガラスを真っ二つに割ったかのような音がし、結界が壊れる。力を入れすぎたために、扉もろとも引き抜いてしまった。その扉を血を全て飲み干した人間を捨てるのと同じ要領で投げ捨てる。
「お邪魔しまぁす」
振動で揺れるランプが、あの人の部屋を照らし出す。まず目に付くのが大量の魔道書。巻順に並べられているとは言え、山のように積まれているため整理されてるとはいえなかった。彼女は外で活動することが多いからだろう。生活用品は比較的少なかった。めぼしい物は、ベッドと机、それからタンスくらいだ。
「あ、いたぁ」
体に火が付く。
魔理沙はベッドの横で尻餅をついていた。おびえきった小動物のように震えている。そんな彼女に対し、私はにっこり笑って見せた。それでも魔理沙は、歯の根がかみ合わずに震えている。
「ふ……ふらん……。なに……してんだ」
子供が母に抱きつくように魔理沙はシーツを掴み、あえぐように尋ねてきた。
「そんなの、決まってるよぉ。まりさを抱きに来たんだよぉ」
重い体を一歩、前に出す。
「ち、違う!」
シーツを握る魔理沙の手にぐっと力が込められたのがわかった。
「お前……、なんて、格好してるんだ!」
もう一歩前へ。すると、私を追いかけるように重い球体を引きずる音がした。
「これのことねぇ」
両手を宙に掲げ、私はお披露目をする。じゃらんと銀の鎖が虚空になびいた。私の両手首、そして両足首には拘束器具が蛇のように巻き付いている。腕輪のようにつけられた器具からは、鎖が垂れていた。鎖は私と囚人の動きを制限する為の錘と繋がっている。これらは全て銀製だ。銀は吸血鬼の力を殺す。つまるところ、私の力を殺すためにあるのだ。もっとも、力全てではないが、私の力が暴走しない程度に押さえ込むことができる。
「私の力を封じる拘束器具。まりさに触れるためにつけたんだよぉ」
全てはこれに完結する。
「お、かしい……ぜ」
魔理沙の反応はもっともだ。きっと私を狂っていると思ってるだろう。いや、実際に狂っているのだ。たとえそうであっても、関係ない。もう一度、あのぬくもりを味わいたい。それも今度は壊さないように。
鎖をなびかせながら、私は魔理沙に歩み寄る。
「銀は吸血鬼の力を弱めてくれるんだぁ」
普段は私が魔理沙を見上げる側なのだが、今は足元でおびえる彼女を私が見下ろしている。
「っ……」
魔理沙は威嚇するように私を睨みつけているが、薄い唇の合間から見える歯は激しくぶつかり合っていた。
全く威圧感のない威嚇だ。
しかしそんな彼女を見てるとすっぱくて気まずい、謝意の思いが今更ながら沸いてきた。
怖がらせてごめんね。
なんで、こう……もっと上手くいかないのかしらね。本で読む恋物語のように。美女と野獣のような物語が素敵ね。野獣が美女から真の愛を受けて人間に戻りました。はい、ハッピーエンド。みたいな。でも現実問題、美女と野獣が出会えばこんな風になるのは当たり前ね。美女が野獣を見て恐れるのは当然だもの。
膝を折り、私はおびえる人間と同じ目線の位置にまで降りてきた。
「今の私が、まりさを傷つけることはないよぉ」
「あ、ぅ……」
もう後ずさりもできないくらいに魔理沙は怯えている。
「私はあなたに触れたい」
不思議とこの言葉だけはにごることはなかった。私の本心。根っこにあたる部分だからだろうか。ただそれだけの思い。しかし根が純粋でも、咲いた花が呪われていたら、意味はない。
彼女の潤む瞳が何かを訴えてくる。
「狂ってる、と思うよね」
私は右手を伸ばし、魔理沙の後ろ髪をそっとなでる。ちょっとくせがあるけど、よく手入れの行き届いた髪だ。
「く……ぁ……」
破壊は起こらない。彼女の髪は今にも消えそうな淡い光を放ったままだった。
くしゃくしゃにゆがむ彼女の顔を見て、私は深く深く、熱い吐息をつく。体に火がついたように熱くなっていた。
更に頭蓋骨の中に水銀を注入されたかのように思考がにごっていく。理性がじょじょに押しつぶされていった。
「まりさぁ」
もう、触れても良いよね。私、我慢できないよ。
私は力を抜く。すると、まるで栓を抜いたかのように疲労が溢れてきた。そうか。私、疲れてたんだ。魔理沙のことで悩み、吸血鬼の力を殺されたまま、結界を破壊した。心も体も限界寸前だったんだ。
だらんと腕をおろしたまま、上半身を重力に任せた。まもなく、私より一回り大きい体にやわらかく受け止められる。魔理沙の肩にあごを乗せた。膨らみ始めて間もない彼女の胸の感触を服越しに感じ取る。
このいとも簡単に壊れそうな儚い生き物。ああ、魔理沙だ。
目の前で揺れる金髪に、私は目を細めた。
「あ、あ、あぁ……」
震える彼女の体が、私の体を小刻みに揺らす。でもそれは関係ない。わかるんだ。とてもあったかい。目を閉じると、とくんとくんと心臓の波打つ音が聞こえてきた。ああ、今私は生きた人間に触れている。それも大好きな人に。
溶けそうだよ。
「怖がらせてごめんね。でも、もう少し私のわがままに付き合ってほしいのぉ。今、とっても幸せなんだぁ」
あやまることが無意味なのはわかっている。化け物が人間の仮面をつけて人語を話しても何も変わらない。
そんな私を見て、魔理沙は何かを言いたそうだった。しかし、上手く言葉が発せないようだ。必死に空気をむさぼり、魔理沙はやっとのことで言葉を発する。
「……幸せ者だなんて、違う、だろ」
上下に二度、覚悟を決めかねるように魔理沙の体が跳ねた。その後、二本の腕が私を包み込んだ。
魔理沙が……。
「いいのぉ?」
「なに……がだ」
野獣を抱いて、だ。
「私を、受け入れてくれるの?」
「そんな……わけないだろ」
「ははぁ、そうだよねぇ」
魔理沙の手が這うように私の焼け焦げた両手をなでる。
今にも肺がパンクするのではないかと思えるほどに彼女の呼吸が荒くなる。
本来人間に触れられないはずの私が、好きな人に抱かれてなでられる。これ以上に幸せなことがあるだろうか。
「お……おかしいだろ。どうして自分を拘束しなきゃ、人間に触れられないんだ」
ああ、「おかしい」は私が狂ってるって意味じゃなかったんだ。閉じたまぶたの裏が、熱くなる。
「私が、力をコントロールできてないからなんだよぉ」
「……くそ」
魔理沙の手が私太ももからももにかけて這う。ちょっと、くすぐったいかな。でも、ありがとう。
やっぱり、もう迷惑はかけれないね。
実は、私が魔理沙に触れた証に一つ誓いを立てようと思っていた。それは、向こう百年間、冷たい地下に居ること。でないと、また魔理沙に会って触れてしまう。そしていつか生身で触れあうことを望むようになる。私の欲望には終わりがない。それは自分自身が一番よく知っている。
だから、百年、音も届かない冷たい地下で頭を冷やして会いに行くのだ。
冷たい墓の下に居る魔理沙に。
今、味わっているぬくもりに誓えば、私は約束を絶対に破らない。魔理沙には私の居ない、楽しい生涯をすごしてもらいたい。
さぁ誓おうかな……。
「はっは……、はっ……はぁ、はっ……」
誓いを立てようとしたとき、魔理沙が苦しそうにもだえ始めた。
「まりさ?」
まさか、破壊? いや、そんなはずはない。
魔理沙の胸が激しく上下する。おそらく、緊張のあまり過呼吸を起こしたのだ。引き際かな。名残惜しいけど、離れよう。そうしようとしたのだが、魔理沙に阻止された。右手で私の頭を抱き、左手を私の背中にまわしている。思いのほか、力強い。やろうと思えば力ずくで離れれるのだけれど、私は魔理沙に甘えて離れなかった。
「だいじょうぶ?」
魔理沙の呼吸が通常のリズムに戻ってから、私は尋ねる。私の頬に触れる彼女の髪の毛は、僅かに汗を含んで湿っていた。
「ああ、大丈夫だ、ぜ……」
語尾を言い切る手前で、魔理沙の上半身から力が抜ける。軽い衝撃の後には、背景が白い壁から木の床に変わっていた。私が魔理沙を押し倒したような体勢になった。
「……まりさ?」
ふいにピクリとも彼女は動かなくなった。さっきまで、恐怖に震えていたのが嘘のように。
形にならない嫌な予感がする。
しかし、そんな不安は杞憂に終わってくれた。再び魔理沙の体が小刻みに震えだす。
「なぁ、なんで私は死んでないんだ?」
「なんでって……。拘束器具がついてるからだよ」
肺に残った僅かな空気を吐き出すように、魔理沙は告げる。
「フラン、お前に拘束器具なんて付いてないぜ……」
震えの種類が変わっているのに気付く。恐怖から来るものではない。安堵からくるものだ――。
「え――」
ようやく魔理沙から解放された私は、体を起こして両手を見る。
うそ……だぁ。
さっきまで蛇のように巻きついていた拘束器具が、ない。そのおかげで、焼け爛れていた手は癒えていた。両足の拘束器具も、なくなっている。拘束器具は口を開き、床に落ちていた。
「ぴ、ピッキングなら、お手の、もん、だぜ」
今にも泣きそうな声だ。
手足に触れてたけど、その時にはずしたの?
「拘束器具をつけたまま、幸せを語るなんて……やっぱり、酷いよなあ。結局、力が操れないだなんてお前の思い込みなんだって……。とりあえず、『魔理沙を触れても大丈夫なんだ』そう思ってくれないか」
状況についていけず、私はただただ頷いた。
「どうして、外したの? 私の力で、一回、壊れてるんだよ」
魔理沙の言葉の意味が飲み込めない。つっかえながら私は問い返した。
「賭けたかった。お前が『魔理沙だって壊しちゃうよ』って言った瞬間に私の右手が壊れた。なら、思い込みが原因じゃないか、と思ったんだ。さっきのフランは拘束されてて、私を壊すはずがない。と思っている。だから、賭けた」
「一枚しかない命のコインを?」
「ああそうだ。お前のためにな」
はっと魔理沙の顔のほうを見る。しかし、彼女の表情は見て取れなかった。いつのまにか持ち前のとんがり帽子で顔を覆ってしまっていたのだ。
「できればさ、怒らないで喜んでくれ……」
「まりさぁ」
私の声が震える。
「後、泣くなよ。私は怖かったけど、泣かなかったんだからな……」
うそ。泣いてるのはばればれだよ魔理沙。帽子なんかで隠して、「ずるいよ」
それでも、彼女は気丈に言い張った。
「泣いてなんか、ない!」
「あ、はぁ……意地っ張り!」
ありがとう。
私は自由に動く両手で、彼女に抱きついた。それから、ほんのちょっとだけ魔理沙の胸をぬらしてしまったのだった。
地下室で私は小鳥をなでた。黄色い羽根を持つ、お姉さまがくれた小鳥だ。小鳥は気持ち良さそうに目を細めた。しばらく小鳥と戯れていると、鉄の扉が音をたてて開く。無遠慮に入ってきたのはあの人。
あの人はいつものようにこう言った。
「よう、フラン!」
それを合図に私はあの人の胸に飛び込む。私が動物そして人間と触れ合えるようになったのは、この弱くて強い人間のおかげ。
前にこのぬくもりに誓い損ねたから、今誓おう。
あなたが還るときまで、ずっと私の触れられるところに居てください、と伝えることを。
内容はオーソドックスだが、それゆえに感慨深いというかなんというか。
>>膨らみ始めて間もない彼女胸の感触を服越しに感じ取る。
彼女の胸
やっぱりフラマリはハッピーエンドに限る。