.
その日の事を思い返すたびに、ぬえはあの時の小傘の寂しげな顔と、切り取られた夜空の星々の残照を心に描いてしまうのだ。
無縁塚に流れ着いた外の世界のガラクタのなかには、何のために存在するのか分からない、正体不明の物品が紛れ込んでいることもある。ぬえはそういったガラクタを集めるのが好きで、だから無縁塚は格好の猟場になった。
その日の夜も、ぬえは腐れ縁の多々良小傘を伴い、再思の道を通り抜けて無縁塚にやってきたのだった。二人はそこで星空を眺めるのが好きで、一緒に酒類を持参するのが常だった。
「何だと思う、ぬえちゃん?」
と茄子色の傘の柄をぎゅっと握りしめながら、小傘が訊いてきた。
「多分……“でんしゃ”って奴だと思う。マミゾウに聞いたことがある」
ぬえはその“ガラクタ”の表面に触れながら答えた。鳥肌が立ちそうな、ざらりとした感触。元の色彩は分からない。時代の流れってやつは色んなものを風化させる。金属も、骨も、思い出すらも。
旧友から見せてもらった写真のなかに、それはあった。窓から手を振る子供たちの笑顔が印象的な写真だった。季節は夏で、空はよく晴れていた。田園に年寄った人間が腰をかがめているのが見えた。それはぬえにはありふれた風景に思えたが、マミゾウはその写真を気に入っていた。外の世界では、そんな風景すらも珍しいものなのだろうか。
旧友の微笑みを思い返しながら、ぬえは小傘の手を引いて列車の周りをぐるりと一周した。廃棄され忘れられたらしい列車は、ペンキで乱雑に塗りたくったみたいに錆で覆われていた。窓ガラスは一枚も残されておらず、ただ窓枠だけが月の光を貪欲に取り入れていた。
枕木とレールも僅かながらあった。枕木は虫食いだらけで、陽に黒ずみ、くたびれ果てていた。レールは巨人に包丁を振り降ろされたみたいに途中で切断されていた。その列車は、これ以上はどこにも行き場がないのは明らかだった。
「なんて長い椅子……!」
「椅子じゃないよ、座席だよ」
びっくりする小傘にぬえは教えてあげた。
「ねぇ、ぬえちゃんからかってるでしょ。こんなでっかい鉄の箱が動くわけないじゃない」
「事実、動くんだから不思議なのよぬぇ。人間を沢山乗せてさ、風を切ってぴゅーっとね。小傘よりも早いんじゃないかな、たぶん」
小傘がむーっと頬を膨らまして睨んできた。青空と夕焼けを溶かし込んだ瞳は、月の光のなかでも輝きを失うことはない。
列車のなかも酷い有り様だった。床一面に落ち葉が散らばり、足を踏み出す度に新聞紙を丸めたような悲鳴が上がった。座席のシートは剥がれて虚ろな内臓をぽかりと投げ出していた。
それでも、ぬえは過去の面影らしき匂いを、まるでホワイトシチューの味見をするかのように肌に感じることができた。その列車の中では子供たちが騒ぎ合い、初老の婦人たちが談笑し、下校途中の女の子が文庫本を読んでいたはずだった。そうした匂いは列車がこちらに何かを訴えかけているかのように鮮明に嗅ぎ取れた。けれど、もっと深くまで当時の面影を感じ取ろうとして、耳を澄ませば澄ませるほど、無縁塚に住まう虫の音が響きを利かせてきた。子供たちは騒ぐのを止め、婦人たちは黙り込み、女の子は本を閉じた。それで列車は力を使い果たして、また元の沈黙に浸ってしまった。
ぬえが顔を振り向かせると、小傘はかろうじて生き残った座席に身を沈めていた。肩に手を置いてやると、微かな震えを感じ取ることができた。
「どうして……」
と小傘は云った。
「どうして、捨てられちゃったんだろうね。こんなに大きいの作ろうとしたら、すごく大変なんでしょ?」
「そうだね。少なくとも、傘よりかは金が掛かる」
「今日のぬえちゃんはイジワルだ……」
小傘の目は少しだけ潤んでいた。そこで、ぬえはもしかしたら、と思った。もしかしたら、小傘は忘れられた列車の囁きを、自分よりもずっと身に迫って聴いていたのかもしれなかった。音楽家が曲の情景を聴き取るように、画家が作品の主題を感じ取るように。
月の光が小傘の肌を青白く染めていた。ぬえは小傘の肩から手を放して隣の座席に身を沈めた。
「いつもより綺麗だね」
「そう? 前と変わんないように思うけど」
二人は窓枠に片腕を預けて、切り取られた夜空を見上げていた。カベルネ・フランの赤ワインが入ったグラスを傾けながら、いつものように夜空のユーフォーロマンスを楽しんだ。
星空は今日も澄んでいた。忘れられた列車の中から見上げる星空には、確かに綺麗という感慨以上の意味があるように思われた。ぬえは旧友から貸してもらった本のことを思い出した。その物語に登場する列車と自分たちの乗っている列車は、地球と月の距離と同じくらいに離れた存在に思えた。
それは世界でいちばんちっぽけな銀河鉄道だった。これは宇宙でなく地上であり、死後の世界でなく忘却の世界であり、夜空を翔ける鉄道でなく地上で朽ちた鉄道だった。
星がいつか燃え尽きてしまうのと同じように、この列車も忘れられ燃え尽きてしまったのだ。乗り遅れた人を拾ってやっているうちに、自分が時代の特急に乗り遅れてしまったのだ。
おそらく、この列車は早晩、天狗の新聞に載るだろう。物好きな妖怪や好奇心旺盛な妖精が集まってきて、もの珍しい眼で眺めることだろう。列車の囁きは既に死んでしまい、その見物人たちに届くことはないだろう。最期を聞き届けたのが自分たちで好かったと、ぬえは素直に思ってグラスを煽った。酔いたい気分なのだ。
いずれは妖怪からも妖精からも、この列車は忘れられてしまう。不思議なニュースには事欠かない場所なのだ。外の世界で忘れられてしまい、この幻想郷でも忘れられてしまったら、この列車は何処に行けば好いのだろう。レールを失った列車は何処に行けば満たされるのだろう。
「ん……」
小傘が空色の髪を肩に預けてきた。いつもなら振り払ってしまう、その小さな傘の妖怪の頭を、ぬえはワインボトルを空けるその時まで撫でてやった。
「ちょっと呑み過ぎちゃった」
「私も羽目を外しちゃったぬぁ」
小傘の肩を支えながら、ぬえは夜空へと舞い上がった。しばらくは無縁塚には来ないかもしれない。いつも元気な小傘が落ち込むところは、見ていて気持ちの好いものでもない。今日のことは二人だけの秘密だった。二人だけの廃線プラネタリウムにするのだ。
「ぬえちゃん」
「なに」
小傘の息遣いが感じ取れた。眼下で朽ちている列車を見つめながら小傘は続けた。
「こんなに大きい道具でも、やっぱり忘れられちゃうものなの?」
「そりゃね。現にここに在るんだから、使われないなら忘れられるだけよ」
「私ね、自分がもっと目立っていたら、もっと目立つ傘だったなら、珍しがって誰かが拾ってくれると思っていたの。もしかしたら私を忘れて行った人だって、ちゃんと私のことを思い出してくれたかもしれないじゃない? でも、でもね、でもさ――」
と小傘は吐息を零した。
「やっぱり……道具は、ただの道具なんだね」
ぬえは答える代わりに、小傘の肩をぎゅっと握った。小傘が身を寄せてきた。
その捨てられた列車が、声にならない声で訴えてきた痛みの正体が、ようやく分かったような気がした。
数日後、列車は天狗の新聞の片隅に載った。寺の誰かから一緒に見に行かないかと誘われたが、ぬえは手を振って断った。
昼飯を済ませた後、ぬえは寺の屋根瓦に座ってワインを舐めていた。おなじ品種の筈なのに、あの日とは味が違っていた。初夏の日差しが目に痛かった。屋根瓦はこれからパンケーキを焼こうとしているかのように熱せられていたが、ぬえは浮き上がる気力も起きずカベルネ・フランのワインを舐め続けていた。命蓮寺の屋根が待ち合わせ場所だったのだ。
三分の一ほど呑み干したところで止め、けほっと咳を転がして昼寝を始めた直後だった。
「う~ら~め~し~や~!」
と陽気な声が転がったので、ぬえは目を開いた。
「おはよう、小傘」
「おはよ、ぬえちゃん」
こんな快晴なのに、小傘は茄子色の雨傘を差してふわりと笑っていた。青空の瞳にも、夕焼けの瞳にも、焼き立てのパンケーキみたいな優しさが凪いでいた。傘に遮られた太陽は真昼の月のように霞んで見えた。太陽が嫌いで月が好き、ぬえは自然に微笑んでいた。
「お昼寝してたの、邪魔しちゃった?」
「ぬ、平気。もう起きようと思ってたところだから」
小傘の手を借りて立ち上がる。真っ黒いワンピースをはたいて、真っ赤なリボンの位置を直す。
んーっと声を絞って伸びをしてから、ワインのボトルを抱えて浮き上がる。
――さて、今日は誰を驚かしてみせようか?
さとり様は地底の独裁者である。
勘違いしないでもらいたい。さとり様は崇高にして偉大なる独裁者なのだ。ギロチンをブリキのおもちゃみたいに酷使することもなく、強制収容所にガス室をこしらえるようなこともなく、粛清と称して年末に臨んだ人間たちもビックリの“大掃除”を敢行することもない。
それどころか自分が着つけてやらないと一日中ずっとパジャマ姿だし、一時間おきにホットチョコレートを届けないと禁断症状で半狂乱になる。彼岸に提出する書類と格闘して徹夜は当たり前、月末になると西部の原住民族のフェイスペイントみたいな隈が目の下にもりもりと浮き上がる。
それでも、さとり様は燐にとって偉大なる独裁者だった。地底どころか世界中でただ一人の、引きこもり独裁者なのだ。
「盗みですって?」
と古明地さとりはホットチョコレートをすすりながら云った。目線はもう片方の手に持った一枚の文書に向けられたままだった。火焔猫燐はいえ、と両手を腰の辺りで重ねて答えた。
「なんでも、配給の缶詰をちょろまかしたそうです」
「ぁあ……」
と独裁者の顔になってさとりがため息をついた。この“独裁者の顔”というのは燐の造語である。眉間に皺が寄り、瞳が物憂げに揺れ、やはり目の下に隈がもりもりと浮き上がる。そんな顔だ。
文書を寄こしてきたのは旧都のまとめ役、星熊勇儀だった。鬼の姐さんが表の治安を担当し、覚妖怪が裏の治安を担当する。荒くれ揃いの旧都には法律なんてない。しかし食料問題となると話が別だ。普段は穏やかな気性で通っている奴でさえ、食い物のことになるとボスニア戦争に臨んだ兵士のごとき形相になる。
腹が減るたびに源平合戦が勃発しても色々とまとまらんので、こと食料に関しては一定のルールが取り決められていた。それを破った命知らずがしょっ引かれ、覚妖怪の審判を待っているというのが今回の按配だった。
地霊殿で働いている燐は食糧に悩まされた経験は殆どない。主人の妹が夢遊病で食糧庫の中身を食い散らかした日は飢死を覚悟したが、さとりが死体から目玉焼きを作ってくれたおかげで窮地を脱した。あの時の目玉焼きは本当に美味かった。さとり様ならパリのリッツのグランシェフだって務まると思った。
「やれやれね」
とさとりは云って右手をこめかみに当ててマッサージした。そして文書をデスクに放り出してカップを引っ掴み、こちらに突き付けてきた。燐は肯いてホットチョコレートのパックを手に取って十三杯目の用意にかかった。
「一時間後に大将が連れて来るそうです――時にさとり様、今回は何を読んでいらっしゃるのですか?」
と燐はデスクの隅に置かれた分厚い書物を見た。インドゾウの表皮みたいに無骨な装丁で、さとりの趣味には合わなそうに見えた。
「ナポレオンよ」
「なんですそりゃ、スパゲッティですか?」
「ナポリタンじゃないわ、フランスの独裁者よ。少年期の頃は文学活動もしていたって聞いたものだから、ちょっと興味が湧いて」
「スパゲッティが小説を書くんですか? こりゃ迂闊に茹でたりフォークで巻いちまったりしては申し訳ないですね」
そこまで云ったところで、さとりがギトリと睨んできたので燐はふざけるのを止めた。この“ギトリ”も燐の造語だった。さとり様が人を睨む時は、“ギロリ”と“じとり”のちょうど中間くらいの気迫で臨む。それをされると頭蓋骨の中身から胃の内容物まで全て見透かされそうな感覚に陥るのだ。
さとり様は本から得た知識を露天商のようにざっと披露してくれた。
「へぇ、大した人間もいたもんですね、さとり様」
「そうね、皇帝になってからは当初の革命の理想も失われたのかもしれないけど、それまでは本当の意味で英雄だったのよ」
「地底にもナポレオン法典が必要ですかねぇ。争い事も少しは減るんじゃないでしょうか」
「書類が増えるだけに終わりそうな気がするわ」
さとりは悲壮な笑みを零してホットチョコレートをすすった。
燐はさとりが白馬にまたがってアルプス山脈を越えるところを想像した。鐙 に足が届かないところまでを幻視したところで鼻血が出そうになったので止めた。
さとりは万年筆を手先で器用に回していた。ともすれば、そのまま握りしめてこちらの目玉に突き刺してきそうな迫力があった。
「妄想も大概にしなさい――そうね、ナポレオンも絵画に描かれているほど背丈が高くはなかったそうよ。あと睡眠時間がとても短かったとか」
燐はかつてのフランスの皇帝がさとりに重なって見えた。もちろん、さとり様は皇帝でもないし軍隊も持っていない。地霊殿の当主であり、ペットなら沢山持っている。しかし独裁者という点では何だか切り離して考えられない、訴えかけてくる何かがあるように思われた。
ナポレオンは大陸封鎖令を出して、同盟国とイギリスとの通商を禁止した。さとり様は自分封鎖令を脳内で公布し、外の世界との交流を絶ち切って引きこもった。
ロシア遠征で大敗したナポレオンは坂道から転げ落ちるドングリのように没落し、何の野心もないさとり様は地上に戦争を仕掛けることもなく、ずっと地霊殿に引きこもり続け、風呂桶千杯分のホットチョコレートを呑み干してきた。
どちらが劇的な生涯を送ってきたかは火を見るより明らかだが、どちらが幸せな生活を送ってきたかを考えてみると、さとり様に一歩の分がありそうだなと燐は思った。
「やぁやぁ――さとりん、久しぶりすぎて顔も忘れちまってたよ」
と云って星熊の大将はわっはっはと笑った。さとりは熟していない桃のように色の薄い微笑みを顔に張り付けていた。唇の端が死にかけの虫みたいに震えていた。ホットチョコレート禁断症状の初期段階だった。早すぎる。
「私も忘れてましたよ勇儀の顔。ざまみろ。で、罪人の方はどちらですか?」
一応、今の時点では容疑者なのだが、主人の中では有罪が確定しているらしい。
「こいつ相当怖がってたよ、あんたのこと。ギロチンで首を落とされるわけでもないのにさ」
引っ立てられたのは燐もいつか見かけた博打好きの妖怪だった。糸蒟蒻 みたいに足腰が使い物にならなくなっており、襟首を大将に掴まれてぶら下がっていた。
「それでは手短に済ませましょうか」
さとり様は腕をへそのところで組んで下手人を見すえた。燐はニヤニヤと笑っていた。勇儀の姐さんは落ち着きなく部屋の入口の方を気にしていた。さとりを怖がっているのではなく、こんな面倒な用事は済ましてさっさと酒を呑みたいのだろう。
息を少し吸い込んでから、さとりは目を細めた。
「単刀直入にお訊きします。あなたは今日配給された人肉の缶詰を、嘘をついてひとつ多く貰い受けましたね?」
罪人の肩がバッタのように跳ねた。この時点で罪は確定したも同然だった。
しばらくの間、さとり様はシャッターでも開閉するみたいに三つの瞳を動かした後、小さく肯いてから勇儀の方を向いた。
「……黒、です」
「こいつの下着が?」
「有罪です!」
とさとり様は吠えた。星熊の大将はこのように、地霊殿に来るたびに無意識にさとり様をからかってしまうのだ。無意識ゆえに翻弄されるさとり様、さながら木枯らしに吹かれる紅葉のよう。
話がこれで終われば平和な一幕なのだが、そうは問屋が卸さなかった。
「俺は泥水をすすって生きてきたんだ。缶詰のひとつがなんだ。贅沢な暮らしをしているお前に何が分かるんだ、チクショウめ」
これは博打好きの妖怪が放った捨て台詞である。さとりはそれを背中で聞いた。燐はカチンときて爪で引っ掻いてやった。勇儀の姐さんも平手でしばいてくれた。惜しむらくは星熊の大将の力が強すぎたせいで罪人の頭が吹っ飛んでしまったことだった。燐は自分の手でそいつの脳みそを掻き出して灼熱地獄跡に放り込んでやるつもりだったのだ。
「あー……ついカっとなっちまったよ。すまん、汚しちまった」
と勇儀は素直に頭を下げて妖怪の死体を担いだ。
「構いませんよ。後で掃除しておきますから」
とさとり様は背中で返事した。燐も鬼の大将に頭を下げると、急いでさとりの後を追った。
また呑みに来いよ、と陽気な声が追いかけてきたが、さとり様はもう答えなかった。
云い忘れていたことがあった。食糧に関してのルールのことだ。ズルした奴は死罪、それだけだ。全文で二二八一箇条もあったナポレオン法典に比べたら、泥水とアルプスの天然水くらい透明度に違いがある。
だから燐はこの取り決めが嫌いじゃない。星熊の大将もそうだろう。
さとり様は、どうだろう?
その夜、さとりの執務室のドアを燐はノックした。返事はなかった。
「失礼します、ホットチョコレートです。暇だったのでクッキーも焼いてみました」
と断って部屋に入った途端、燐はトレーを取り落とした。カップに注がれたホットチョコレートがカーペットにぶちまけられ、せっかく焼いたクッキーがその後を追った。
「さとり様!」
主人は椅子から転げ落ちていた。大慌てで駆け寄り前髪をのけた。顔が真っ赤になっていた。激務で風邪を引いたのやもしれぬ。薬と生姜湯を持って来ようか、いや身体を拭いて服を替えるのが先かムフフと考えていると、さとりが棒切れのように細い腕を持ち上げてデスクのうえを指差した。
何だと見てみると、そこには空になったワインボトルがあった。カベルネ・ソーヴィニヨンの極上の一品だった。いつか二人で呑みましょう、と取っておいてくれたやつだった。
「お酒弱い癖に何やってんですか! 一発芸でもしてくれるんですか!?」
「……別に好いじゃない、たまには。いつもホットチョコレートじゃ飽きるでしょ」
「さとり様っ」
主人の顔には眉間の皺も物憂げな瞳も原住民族の隈もなかった。その時、さとり様は独裁者から少女の姿に戻っていた。
さとりをベッドに横たえて燐は涙をこらえながら付き添った。ここで泣いても主人が余計に気負ってしまうことは分かっていた。
「好い子ね、お燐」
とさとり様は頭を撫でてくれた。いつもの癖で猫なで声が出たけれど、それは嗚咽に邪魔されてしまい、しゃっくりやげっぷみたいな歪な音になった。酒をたらふく呑んだのは向こうなのに、泣き上戸みたいになっているのは自分の方だった。
「さとり様は、ナポレオンです」
と燐は耐えかねて云った。
「ひとりで何でもやっちゃおうとして、何もかも背負いこんじゃって、傷ついても自分だけで片づけようとして……あたいは、悔しいです、さとり様」
「そうね、独裁者は孤独だわ。でも、ナポレオンは孤高だった。私はそんな風にはなれないわね」
こんな情けない姿になっちゃね、とさとり様は寂しげに笑った。
「地底のみんなが必要としているんですよ、さとり様のこと。時代の要請ってやつです」
「でも時が来れば、退けられ忘れられちゃうのかしらね」
ちがうちがう、と燐は首を振った。サイドの三つ編みがワルツを踊った。
「そんなことはありません。私がそうはさせませんから、それが秘書の役目です!」
さとりは首をもたげて目を細めた。
「あなたは、秘書じゃなくて、ペットじゃない」
「なんだって好いです! どっちにしたって、お傍にいれることに変わりはありません!」
さとりは表情をほとんど変えなかった。けれど、胸元の第三の目がダチョウのタマゴみたいに大きく見開かれた。
「……そうね」
とひとつ肯きが返ってきた。
「そうよ――これだから、私はお燐が好きなのよ」
と云って、さとり様は今さらのように、しゃっくりをベッドに零した。
「ホットチョコレート、いただきますか?」
「お願いできるかしら?」
「何杯でも、何度でも」
「二杯お願い。カップは二つね」
「分かりました」
燐はその夜、さとりと夜が明けるまで酒盛りならぬホットチョコレート盛りをした。そのせいで再び日が暮れるまで胸焼けに苦しんだ。
さとり様は地底の独裁者である。
勘違いしないでもらいたい。さとり様は崇高にして偉大なる独裁者なのだ。歴史に残る法典を編纂したわけでもなく、ロシアまで遠征して大敗したわけでもなく、ジョセフィーヌのような生涯忘れえぬ愛人がいるわけでもない。
今日も火焔猫燐は執務室のドアを叩く。
「さとり様、ノックノック!」
「……えぇ、入りなさい、お燐」
燐はトレーを見下ろした。焼き立てのクッキーに、ホットチョコレートの注がれたカップが二つ。
ナポレオンやジョセフィーヌと違い、さとり様と自分は妖怪である。人間よりも長い間、そばにいられる。ジョセフィーヌは子宝に恵まれずナポレオンと離婚したが、その後もナポレオンとは好き話相手であったそうだ。燐も出来ればそう有りたいと思う。もちろん離婚なんて冗談じゃない。ペットを止めるつもりは毛頭ない。
「美味しそうね」
「もちろん。あたいの自慢のクッキーです」
「ちがうわよ」
とさとり様は愛おしそうに笑った。その時だけは独裁者の顔が少女の顔に戻っていた。あるいはナポレオンも、生涯の恋人と話す時は少年の顔に戻っていたのだろうか、と燐は思った。
「ホットチョコレートよ。いつにも増して美味しそうだわ」
なんでかしらね、と主人は笑い続けていた。発作でも起こしたみたいに笑いが止まらないようだった。
クッキーにもホットチョコレートにも、湯気はしっかりと立っていた。開け放たれた窓からはラベンダーの香りが響いている。さとり様はいつにも増して綺麗で可愛らしい。完璧だった。何もかもが完璧だった。
燐もとうとう、さとりに釣られて笑いだしてしまった。
そう。それでも、さとり様は燐にとって偉大なる独裁者だった。地底どころか世界中でただ一人の、引きこもり独裁者なのだ。
――ハイル・サットリー。さとり様の未来に栄光あれ。
.
―― 九十九年の残照/引きこもり独裁者 ――
九十九年の残照
その日の事を思い返すたびに、ぬえはあの時の小傘の寂しげな顔と、切り取られた夜空の星々の残照を心に描いてしまうのだ。
無縁塚に流れ着いた外の世界のガラクタのなかには、何のために存在するのか分からない、正体不明の物品が紛れ込んでいることもある。ぬえはそういったガラクタを集めるのが好きで、だから無縁塚は格好の猟場になった。
その日の夜も、ぬえは腐れ縁の多々良小傘を伴い、再思の道を通り抜けて無縁塚にやってきたのだった。二人はそこで星空を眺めるのが好きで、一緒に酒類を持参するのが常だった。
「何だと思う、ぬえちゃん?」
と茄子色の傘の柄をぎゅっと握りしめながら、小傘が訊いてきた。
「多分……“でんしゃ”って奴だと思う。マミゾウに聞いたことがある」
ぬえはその“ガラクタ”の表面に触れながら答えた。鳥肌が立ちそうな、ざらりとした感触。元の色彩は分からない。時代の流れってやつは色んなものを風化させる。金属も、骨も、思い出すらも。
旧友から見せてもらった写真のなかに、それはあった。窓から手を振る子供たちの笑顔が印象的な写真だった。季節は夏で、空はよく晴れていた。田園に年寄った人間が腰をかがめているのが見えた。それはぬえにはありふれた風景に思えたが、マミゾウはその写真を気に入っていた。外の世界では、そんな風景すらも珍しいものなのだろうか。
旧友の微笑みを思い返しながら、ぬえは小傘の手を引いて列車の周りをぐるりと一周した。廃棄され忘れられたらしい列車は、ペンキで乱雑に塗りたくったみたいに錆で覆われていた。窓ガラスは一枚も残されておらず、ただ窓枠だけが月の光を貪欲に取り入れていた。
枕木とレールも僅かながらあった。枕木は虫食いだらけで、陽に黒ずみ、くたびれ果てていた。レールは巨人に包丁を振り降ろされたみたいに途中で切断されていた。その列車は、これ以上はどこにも行き場がないのは明らかだった。
「なんて長い椅子……!」
「椅子じゃないよ、座席だよ」
びっくりする小傘にぬえは教えてあげた。
「ねぇ、ぬえちゃんからかってるでしょ。こんなでっかい鉄の箱が動くわけないじゃない」
「事実、動くんだから不思議なのよぬぇ。人間を沢山乗せてさ、風を切ってぴゅーっとね。小傘よりも早いんじゃないかな、たぶん」
小傘がむーっと頬を膨らまして睨んできた。青空と夕焼けを溶かし込んだ瞳は、月の光のなかでも輝きを失うことはない。
列車のなかも酷い有り様だった。床一面に落ち葉が散らばり、足を踏み出す度に新聞紙を丸めたような悲鳴が上がった。座席のシートは剥がれて虚ろな内臓をぽかりと投げ出していた。
それでも、ぬえは過去の面影らしき匂いを、まるでホワイトシチューの味見をするかのように肌に感じることができた。その列車の中では子供たちが騒ぎ合い、初老の婦人たちが談笑し、下校途中の女の子が文庫本を読んでいたはずだった。そうした匂いは列車がこちらに何かを訴えかけているかのように鮮明に嗅ぎ取れた。けれど、もっと深くまで当時の面影を感じ取ろうとして、耳を澄ませば澄ませるほど、無縁塚に住まう虫の音が響きを利かせてきた。子供たちは騒ぐのを止め、婦人たちは黙り込み、女の子は本を閉じた。それで列車は力を使い果たして、また元の沈黙に浸ってしまった。
ぬえが顔を振り向かせると、小傘はかろうじて生き残った座席に身を沈めていた。肩に手を置いてやると、微かな震えを感じ取ることができた。
「どうして……」
と小傘は云った。
「どうして、捨てられちゃったんだろうね。こんなに大きいの作ろうとしたら、すごく大変なんでしょ?」
「そうだね。少なくとも、傘よりかは金が掛かる」
「今日のぬえちゃんはイジワルだ……」
小傘の目は少しだけ潤んでいた。そこで、ぬえはもしかしたら、と思った。もしかしたら、小傘は忘れられた列車の囁きを、自分よりもずっと身に迫って聴いていたのかもしれなかった。音楽家が曲の情景を聴き取るように、画家が作品の主題を感じ取るように。
月の光が小傘の肌を青白く染めていた。ぬえは小傘の肩から手を放して隣の座席に身を沈めた。
「いつもより綺麗だね」
「そう? 前と変わんないように思うけど」
二人は窓枠に片腕を預けて、切り取られた夜空を見上げていた。カベルネ・フランの赤ワインが入ったグラスを傾けながら、いつものように夜空のユーフォーロマンスを楽しんだ。
星空は今日も澄んでいた。忘れられた列車の中から見上げる星空には、確かに綺麗という感慨以上の意味があるように思われた。ぬえは旧友から貸してもらった本のことを思い出した。その物語に登場する列車と自分たちの乗っている列車は、地球と月の距離と同じくらいに離れた存在に思えた。
それは世界でいちばんちっぽけな銀河鉄道だった。これは宇宙でなく地上であり、死後の世界でなく忘却の世界であり、夜空を翔ける鉄道でなく地上で朽ちた鉄道だった。
星がいつか燃え尽きてしまうのと同じように、この列車も忘れられ燃え尽きてしまったのだ。乗り遅れた人を拾ってやっているうちに、自分が時代の特急に乗り遅れてしまったのだ。
おそらく、この列車は早晩、天狗の新聞に載るだろう。物好きな妖怪や好奇心旺盛な妖精が集まってきて、もの珍しい眼で眺めることだろう。列車の囁きは既に死んでしまい、その見物人たちに届くことはないだろう。最期を聞き届けたのが自分たちで好かったと、ぬえは素直に思ってグラスを煽った。酔いたい気分なのだ。
いずれは妖怪からも妖精からも、この列車は忘れられてしまう。不思議なニュースには事欠かない場所なのだ。外の世界で忘れられてしまい、この幻想郷でも忘れられてしまったら、この列車は何処に行けば好いのだろう。レールを失った列車は何処に行けば満たされるのだろう。
「ん……」
小傘が空色の髪を肩に預けてきた。いつもなら振り払ってしまう、その小さな傘の妖怪の頭を、ぬえはワインボトルを空けるその時まで撫でてやった。
「ちょっと呑み過ぎちゃった」
「私も羽目を外しちゃったぬぁ」
小傘の肩を支えながら、ぬえは夜空へと舞い上がった。しばらくは無縁塚には来ないかもしれない。いつも元気な小傘が落ち込むところは、見ていて気持ちの好いものでもない。今日のことは二人だけの秘密だった。二人だけの廃線プラネタリウムにするのだ。
「ぬえちゃん」
「なに」
小傘の息遣いが感じ取れた。眼下で朽ちている列車を見つめながら小傘は続けた。
「こんなに大きい道具でも、やっぱり忘れられちゃうものなの?」
「そりゃね。現にここに在るんだから、使われないなら忘れられるだけよ」
「私ね、自分がもっと目立っていたら、もっと目立つ傘だったなら、珍しがって誰かが拾ってくれると思っていたの。もしかしたら私を忘れて行った人だって、ちゃんと私のことを思い出してくれたかもしれないじゃない? でも、でもね、でもさ――」
と小傘は吐息を零した。
「やっぱり……道具は、ただの道具なんだね」
ぬえは答える代わりに、小傘の肩をぎゅっと握った。小傘が身を寄せてきた。
その捨てられた列車が、声にならない声で訴えてきた痛みの正体が、ようやく分かったような気がした。
数日後、列車は天狗の新聞の片隅に載った。寺の誰かから一緒に見に行かないかと誘われたが、ぬえは手を振って断った。
昼飯を済ませた後、ぬえは寺の屋根瓦に座ってワインを舐めていた。おなじ品種の筈なのに、あの日とは味が違っていた。初夏の日差しが目に痛かった。屋根瓦はこれからパンケーキを焼こうとしているかのように熱せられていたが、ぬえは浮き上がる気力も起きずカベルネ・フランのワインを舐め続けていた。命蓮寺の屋根が待ち合わせ場所だったのだ。
三分の一ほど呑み干したところで止め、けほっと咳を転がして昼寝を始めた直後だった。
「う~ら~め~し~や~!」
と陽気な声が転がったので、ぬえは目を開いた。
「おはよう、小傘」
「おはよ、ぬえちゃん」
こんな快晴なのに、小傘は茄子色の雨傘を差してふわりと笑っていた。青空の瞳にも、夕焼けの瞳にも、焼き立てのパンケーキみたいな優しさが凪いでいた。傘に遮られた太陽は真昼の月のように霞んで見えた。太陽が嫌いで月が好き、ぬえは自然に微笑んでいた。
「お昼寝してたの、邪魔しちゃった?」
「ぬ、平気。もう起きようと思ってたところだから」
小傘の手を借りて立ち上がる。真っ黒いワンピースをはたいて、真っ赤なリボンの位置を直す。
んーっと声を絞って伸びをしてから、ワインのボトルを抱えて浮き上がる。
――さて、今日は誰を驚かしてみせようか?
引きこもり独裁者
さとり様は地底の独裁者である。
勘違いしないでもらいたい。さとり様は崇高にして偉大なる独裁者なのだ。ギロチンをブリキのおもちゃみたいに酷使することもなく、強制収容所にガス室をこしらえるようなこともなく、粛清と称して年末に臨んだ人間たちもビックリの“大掃除”を敢行することもない。
それどころか自分が着つけてやらないと一日中ずっとパジャマ姿だし、一時間おきにホットチョコレートを届けないと禁断症状で半狂乱になる。彼岸に提出する書類と格闘して徹夜は当たり前、月末になると西部の原住民族のフェイスペイントみたいな隈が目の下にもりもりと浮き上がる。
それでも、さとり様は燐にとって偉大なる独裁者だった。地底どころか世界中でただ一人の、引きこもり独裁者なのだ。
「盗みですって?」
と古明地さとりはホットチョコレートをすすりながら云った。目線はもう片方の手に持った一枚の文書に向けられたままだった。火焔猫燐はいえ、と両手を腰の辺りで重ねて答えた。
「なんでも、配給の缶詰をちょろまかしたそうです」
「ぁあ……」
と独裁者の顔になってさとりがため息をついた。この“独裁者の顔”というのは燐の造語である。眉間に皺が寄り、瞳が物憂げに揺れ、やはり目の下に隈がもりもりと浮き上がる。そんな顔だ。
文書を寄こしてきたのは旧都のまとめ役、星熊勇儀だった。鬼の姐さんが表の治安を担当し、覚妖怪が裏の治安を担当する。荒くれ揃いの旧都には法律なんてない。しかし食料問題となると話が別だ。普段は穏やかな気性で通っている奴でさえ、食い物のことになるとボスニア戦争に臨んだ兵士のごとき形相になる。
腹が減るたびに源平合戦が勃発しても色々とまとまらんので、こと食料に関しては一定のルールが取り決められていた。それを破った命知らずがしょっ引かれ、覚妖怪の審判を待っているというのが今回の按配だった。
地霊殿で働いている燐は食糧に悩まされた経験は殆どない。主人の妹が夢遊病で食糧庫の中身を食い散らかした日は飢死を覚悟したが、さとりが死体から目玉焼きを作ってくれたおかげで窮地を脱した。あの時の目玉焼きは本当に美味かった。さとり様ならパリのリッツのグランシェフだって務まると思った。
「やれやれね」
とさとりは云って右手をこめかみに当ててマッサージした。そして文書をデスクに放り出してカップを引っ掴み、こちらに突き付けてきた。燐は肯いてホットチョコレートのパックを手に取って十三杯目の用意にかかった。
「一時間後に大将が連れて来るそうです――時にさとり様、今回は何を読んでいらっしゃるのですか?」
と燐はデスクの隅に置かれた分厚い書物を見た。インドゾウの表皮みたいに無骨な装丁で、さとりの趣味には合わなそうに見えた。
「ナポレオンよ」
「なんですそりゃ、スパゲッティですか?」
「ナポリタンじゃないわ、フランスの独裁者よ。少年期の頃は文学活動もしていたって聞いたものだから、ちょっと興味が湧いて」
「スパゲッティが小説を書くんですか? こりゃ迂闊に茹でたりフォークで巻いちまったりしては申し訳ないですね」
そこまで云ったところで、さとりがギトリと睨んできたので燐はふざけるのを止めた。この“ギトリ”も燐の造語だった。さとり様が人を睨む時は、“ギロリ”と“じとり”のちょうど中間くらいの気迫で臨む。それをされると頭蓋骨の中身から胃の内容物まで全て見透かされそうな感覚に陥るのだ。
さとり様は本から得た知識を露天商のようにざっと披露してくれた。
「へぇ、大した人間もいたもんですね、さとり様」
「そうね、皇帝になってからは当初の革命の理想も失われたのかもしれないけど、それまでは本当の意味で英雄だったのよ」
「地底にもナポレオン法典が必要ですかねぇ。争い事も少しは減るんじゃないでしょうか」
「書類が増えるだけに終わりそうな気がするわ」
さとりは悲壮な笑みを零してホットチョコレートをすすった。
燐はさとりが白馬にまたがってアルプス山脈を越えるところを想像した。
さとりは万年筆を手先で器用に回していた。ともすれば、そのまま握りしめてこちらの目玉に突き刺してきそうな迫力があった。
「妄想も大概にしなさい――そうね、ナポレオンも絵画に描かれているほど背丈が高くはなかったそうよ。あと睡眠時間がとても短かったとか」
燐はかつてのフランスの皇帝がさとりに重なって見えた。もちろん、さとり様は皇帝でもないし軍隊も持っていない。地霊殿の当主であり、ペットなら沢山持っている。しかし独裁者という点では何だか切り離して考えられない、訴えかけてくる何かがあるように思われた。
ナポレオンは大陸封鎖令を出して、同盟国とイギリスとの通商を禁止した。さとり様は自分封鎖令を脳内で公布し、外の世界との交流を絶ち切って引きこもった。
ロシア遠征で大敗したナポレオンは坂道から転げ落ちるドングリのように没落し、何の野心もないさとり様は地上に戦争を仕掛けることもなく、ずっと地霊殿に引きこもり続け、風呂桶千杯分のホットチョコレートを呑み干してきた。
どちらが劇的な生涯を送ってきたかは火を見るより明らかだが、どちらが幸せな生活を送ってきたかを考えてみると、さとり様に一歩の分がありそうだなと燐は思った。
「やぁやぁ――さとりん、久しぶりすぎて顔も忘れちまってたよ」
と云って星熊の大将はわっはっはと笑った。さとりは熟していない桃のように色の薄い微笑みを顔に張り付けていた。唇の端が死にかけの虫みたいに震えていた。ホットチョコレート禁断症状の初期段階だった。早すぎる。
「私も忘れてましたよ勇儀の顔。ざまみろ。で、罪人の方はどちらですか?」
一応、今の時点では容疑者なのだが、主人の中では有罪が確定しているらしい。
「こいつ相当怖がってたよ、あんたのこと。ギロチンで首を落とされるわけでもないのにさ」
引っ立てられたのは燐もいつか見かけた博打好きの妖怪だった。
「それでは手短に済ませましょうか」
さとり様は腕をへそのところで組んで下手人を見すえた。燐はニヤニヤと笑っていた。勇儀の姐さんは落ち着きなく部屋の入口の方を気にしていた。さとりを怖がっているのではなく、こんな面倒な用事は済ましてさっさと酒を呑みたいのだろう。
息を少し吸い込んでから、さとりは目を細めた。
「単刀直入にお訊きします。あなたは今日配給された人肉の缶詰を、嘘をついてひとつ多く貰い受けましたね?」
罪人の肩がバッタのように跳ねた。この時点で罪は確定したも同然だった。
しばらくの間、さとり様はシャッターでも開閉するみたいに三つの瞳を動かした後、小さく肯いてから勇儀の方を向いた。
「……黒、です」
「こいつの下着が?」
「有罪です!」
とさとり様は吠えた。星熊の大将はこのように、地霊殿に来るたびに無意識にさとり様をからかってしまうのだ。無意識ゆえに翻弄されるさとり様、さながら木枯らしに吹かれる紅葉のよう。
話がこれで終われば平和な一幕なのだが、そうは問屋が卸さなかった。
「俺は泥水をすすって生きてきたんだ。缶詰のひとつがなんだ。贅沢な暮らしをしているお前に何が分かるんだ、チクショウめ」
これは博打好きの妖怪が放った捨て台詞である。さとりはそれを背中で聞いた。燐はカチンときて爪で引っ掻いてやった。勇儀の姐さんも平手でしばいてくれた。惜しむらくは星熊の大将の力が強すぎたせいで罪人の頭が吹っ飛んでしまったことだった。燐は自分の手でそいつの脳みそを掻き出して灼熱地獄跡に放り込んでやるつもりだったのだ。
「あー……ついカっとなっちまったよ。すまん、汚しちまった」
と勇儀は素直に頭を下げて妖怪の死体を担いだ。
「構いませんよ。後で掃除しておきますから」
とさとり様は背中で返事した。燐も鬼の大将に頭を下げると、急いでさとりの後を追った。
また呑みに来いよ、と陽気な声が追いかけてきたが、さとり様はもう答えなかった。
云い忘れていたことがあった。食糧に関してのルールのことだ。ズルした奴は死罪、それだけだ。全文で二二八一箇条もあったナポレオン法典に比べたら、泥水とアルプスの天然水くらい透明度に違いがある。
だから燐はこの取り決めが嫌いじゃない。星熊の大将もそうだろう。
さとり様は、どうだろう?
その夜、さとりの執務室のドアを燐はノックした。返事はなかった。
「失礼します、ホットチョコレートです。暇だったのでクッキーも焼いてみました」
と断って部屋に入った途端、燐はトレーを取り落とした。カップに注がれたホットチョコレートがカーペットにぶちまけられ、せっかく焼いたクッキーがその後を追った。
「さとり様!」
主人は椅子から転げ落ちていた。大慌てで駆け寄り前髪をのけた。顔が真っ赤になっていた。激務で風邪を引いたのやもしれぬ。薬と生姜湯を持って来ようか、いや身体を拭いて服を替えるのが先かムフフと考えていると、さとりが棒切れのように細い腕を持ち上げてデスクのうえを指差した。
何だと見てみると、そこには空になったワインボトルがあった。カベルネ・ソーヴィニヨンの極上の一品だった。いつか二人で呑みましょう、と取っておいてくれたやつだった。
「お酒弱い癖に何やってんですか! 一発芸でもしてくれるんですか!?」
「……別に好いじゃない、たまには。いつもホットチョコレートじゃ飽きるでしょ」
「さとり様っ」
主人の顔には眉間の皺も物憂げな瞳も原住民族の隈もなかった。その時、さとり様は独裁者から少女の姿に戻っていた。
さとりをベッドに横たえて燐は涙をこらえながら付き添った。ここで泣いても主人が余計に気負ってしまうことは分かっていた。
「好い子ね、お燐」
とさとり様は頭を撫でてくれた。いつもの癖で猫なで声が出たけれど、それは嗚咽に邪魔されてしまい、しゃっくりやげっぷみたいな歪な音になった。酒をたらふく呑んだのは向こうなのに、泣き上戸みたいになっているのは自分の方だった。
「さとり様は、ナポレオンです」
と燐は耐えかねて云った。
「ひとりで何でもやっちゃおうとして、何もかも背負いこんじゃって、傷ついても自分だけで片づけようとして……あたいは、悔しいです、さとり様」
「そうね、独裁者は孤独だわ。でも、ナポレオンは孤高だった。私はそんな風にはなれないわね」
こんな情けない姿になっちゃね、とさとり様は寂しげに笑った。
「地底のみんなが必要としているんですよ、さとり様のこと。時代の要請ってやつです」
「でも時が来れば、退けられ忘れられちゃうのかしらね」
ちがうちがう、と燐は首を振った。サイドの三つ編みがワルツを踊った。
「そんなことはありません。私がそうはさせませんから、それが秘書の役目です!」
さとりは首をもたげて目を細めた。
「あなたは、秘書じゃなくて、ペットじゃない」
「なんだって好いです! どっちにしたって、お傍にいれることに変わりはありません!」
さとりは表情をほとんど変えなかった。けれど、胸元の第三の目がダチョウのタマゴみたいに大きく見開かれた。
「……そうね」
とひとつ肯きが返ってきた。
「そうよ――これだから、私はお燐が好きなのよ」
と云って、さとり様は今さらのように、しゃっくりをベッドに零した。
「ホットチョコレート、いただきますか?」
「お願いできるかしら?」
「何杯でも、何度でも」
「二杯お願い。カップは二つね」
「分かりました」
燐はその夜、さとりと夜が明けるまで酒盛りならぬホットチョコレート盛りをした。そのせいで再び日が暮れるまで胸焼けに苦しんだ。
さとり様は地底の独裁者である。
勘違いしないでもらいたい。さとり様は崇高にして偉大なる独裁者なのだ。歴史に残る法典を編纂したわけでもなく、ロシアまで遠征して大敗したわけでもなく、ジョセフィーヌのような生涯忘れえぬ愛人がいるわけでもない。
今日も火焔猫燐は執務室のドアを叩く。
「さとり様、ノックノック!」
「……えぇ、入りなさい、お燐」
燐はトレーを見下ろした。焼き立てのクッキーに、ホットチョコレートの注がれたカップが二つ。
ナポレオンやジョセフィーヌと違い、さとり様と自分は妖怪である。人間よりも長い間、そばにいられる。ジョセフィーヌは子宝に恵まれずナポレオンと離婚したが、その後もナポレオンとは好き話相手であったそうだ。燐も出来ればそう有りたいと思う。もちろん離婚なんて冗談じゃない。ペットを止めるつもりは毛頭ない。
「美味しそうね」
「もちろん。あたいの自慢のクッキーです」
「ちがうわよ」
とさとり様は愛おしそうに笑った。その時だけは独裁者の顔が少女の顔に戻っていた。あるいはナポレオンも、生涯の恋人と話す時は少年の顔に戻っていたのだろうか、と燐は思った。
「ホットチョコレートよ。いつにも増して美味しそうだわ」
なんでかしらね、と主人は笑い続けていた。発作でも起こしたみたいに笑いが止まらないようだった。
クッキーにもホットチョコレートにも、湯気はしっかりと立っていた。開け放たれた窓からはラベンダーの香りが響いている。さとり様はいつにも増して綺麗で可愛らしい。完璧だった。何もかもが完璧だった。
燐もとうとう、さとりに釣られて笑いだしてしまった。
そう。それでも、さとり様は燐にとって偉大なる独裁者だった。地底どころか世界中でただ一人の、引きこもり独裁者なのだ。
――ハイル・サットリー。さとり様の未来に栄光あれ。
~ おしまい ~
.
盗人の真に迫った恨み言をあっさりスルーするなど徹底してて良かったです
「九十九年」はロマンチックで、「引きこもり」はお燐が素敵でした。
ぬえの語尾とか、ちょいちょい入るギャグも楽しかったです。
しかしチョコにあてられたか、俺も幻視したら鼻血ががが
「~みたい」という文がちょっと多くて少し気になりましたが、楽しく読めました。
独裁者は文句なしに面白かった
キャラも小ネタも良くてこんな感じのをもっと読みたいと思いました
引きこもり独裁者:死体から目玉焼きってお前……うぷっ。
独裁者の安らぎは甘いホットチョコレートと良き理解者なのね。いやぁ、しかし罰結構きっついぜぇ。流石は地獄ってとこか。