これは作品番号集167の『地上彷徨記』の続編です。
前作を読んでいただきますと、もれなく話の理解度が高まりますので、読んでいない方はまずそちらの方をお読みになられてから本作に入ることをオススメ致します。
それでは、どうぞお茶を片手にごゆるりとして下さいませ。
雨の降らない曇り空は大歓迎だ。地上と地底をある程度相違ないものに装飾してくれると、私の気分も幾分か落ち着く。陽が見えていたら萎えるし、かと言って雨で濡れるのも嫌だ。灰色の空は私が地上で唯一好きな景色だ。
だが、今私たちがいるここでは空模様なんて関係ないのかもしれない。見上げれば鬱鬱葱葱とした隔絶壁。その緑色は竹林をすっかり覆う蓋のようにも感じられた。ここからでは全く空の様子を窺えない。
「ここって雨入ってこないわよね?」
「たぶんそうだよー」
隣で歩く少女ーーこいしは、眉を顰めて怪訝そうな表情になった。イラついてるのだろうか。今にも大声を出しそうに震えているこいしが、ちょっと可愛い。
今日誘ってきたのは貴方のほうよ、こいし。
ちょうど一ヶ月前、こいしが地上に出掛けた話を私は聞き、勝手に一緒に地上へ行くことになっていた。どうやらとある人間と約束をしたらしく、曰く、美味しいものが食べられるらしい。どんな食べ物でもいいが、珍しくこいしと二人きりで外出するのは非常に楽しみだった。
でもやはり私はいつも通りに橋の上でこいしと喋ってる方がオイシイと頭の片隅で思ったが、たまには陽を浴びるのも悪くないと思い、そしてこいしの表情に負け、しぶしぶ賛成して今に至る。
あのときのこいしの笑顔は忘れられない。
それよりも、この陰湿として鬱蒼と繁る緑の植物は何なのだろうか。まるで地上のように感じられない。地底に緑が生えただけのような景色。足元では気色悪い蟲が蠕動し、鼻を突く死臭にも気が滅入る。地底とは似ても似つかない、そんなものだと私は感じた。
青と言うより緑の景色。茶色と言うよりどす黒い血斑な褐色の地面。邪悪な雰囲気が漂うここは宛ら深海のようである。時折風が吹いたと思ったら、夥しい蠅と共に死臭を運んでくる。かと思えば足元にぐにゃりとした違和感。雰囲気は好きだが、旅には向いていない。特に歩き旅は道もわからないので艱難辛苦を極めるだろう。
この場合彷徨うと言えば正解だが、だとするとこいしの目的がわからない。まるで故意に此処に侵入し、故意に迷っているかのようだった。例えそうだとしても、こいしはこれで楽しいと思えているのだろうか。私はこいしといるだけで嬉しい。
地上はもう少し明るく、私の嫌悪感を鰻登りさせる穢土と想像していたが、私好みの穢土であった。それはもちろん、地底を感じさせる繁った植物のお陰だ。この暗い雰囲気は私を地底にいる時と変わりない気持ちにさせている。この不安感が、この暗さが、堪らなく心地良い。もしかしたら、こいしも同じように思っているのかもしれない。
気持ちの悪い蟲を死滅させればこの場所に文句はないと考えた。そして道に迷わずに済む立て看板もあれば、私はここに住み着くだろう。でも食事には困らないのだろうか。いや、だからこそ今日ここに来て美味しいものを食べに来たのだ。
「そういえばさ、ちょうど一ヶ月前にここに来る途中、一本角の鬼に背中叩かれたんだよね。あの体操服のお姐さん」
急に何を言うかと思えば、酒豪の星熊勇儀の話題だ。あの鬼にはよく橋の上や旧都(旧地獄街道)辺りで絡まれ、以前には無理矢理酒を流し込まれた。鬼の呑む酒はたいてい一般よりも強い。徳利軽く一口で倒れてしまった苦い思い出が脳裏を過る。
急にこのように無意識に問われることに慣れるにはどうしたらいいのだろうか。私は直接的にこいしに訊かずにいままでそのことを思案してきたが、どうもこの問題は難しい。迅速な対応が好ましいが、私には普通に会話しているだけで良いと思える。
「体操服かどうかはともかく、星熊勇儀ね」
「何で叩けたのかな?」
「どういう意味?」
「だってこいしの能力……」
そうだ。無意識を操る程度の能力。彼女はこれを駆使して、姉にも他の誰にも気付かれずに地上へと旅立つ。そして気付いたら帰って来てるのだ。まるで小石に足が生えたように、魑魅魍魎の目を潜り抜けるのだ。
こんな可愛らしいこいしだが、地底でもトップクラスの実力者であることに間違いない。少なくとも弾幕勝負で私に勝機はほぼない。
だが、上には上がいる。
「確かにそうね。でも相手は元四天王の一角よ。妖怪少女の一人や二人、なんてことないんじゃないかしら」
「なんかバカにされたみたい」
そう言って不貞腐れながら、小さな体を私にぶつけてくるこいしが可愛くて堪らない。
美味しいものなんてどうでもいい。少しでも長い間、この娘といたかった。
今はそう思っていた。
その時、ふわりと二人の前に鳳凰が舞い降りた。灼熱の焔を纏った翼から出る熱気が肌を襲い、近くの竹を一瞬で灰にして見せた。ただ地上に降り立っただけなのに、鳳凰降臨の如く威風堂々とした人間に私は目を丸くした。鋭い眼差しとポケットに突っ込まれた腕に、私は臆した。
俯きながら人間が口を開いた。
「迷い込んだ人間だと思って助けに来てみれば……」
その鋭利な目線がこいしを捉えた。
そして皮肉たっぷりに言い放った。
「またお前か」
「だって今度来るときは竹林に迷えって言ったの、焼き鳥屋さんの貴方よ?」
「焼き鳥? 鳳凰と掛けたジョーク?」
「違うよ。紹介するね。この人は焼き鳥屋さんの藤原妹紅さん。今日はこの人に会いに来たの」
こいしが何か喋ったが、私には全く耳に入ってこなかった。
ただ呆然と焔を纏う人間を見ていた。
目の前で焼き鳥を作られると、ついつい見入ってしまう。第一段階である肉捌きから入り、汗が滲む額を余所に丹精込めて長時間焼いている。タレは用意していたようだが、美味しくするコツなのだろうか、再度熱している。半刻は経ったのではないか。肉の焼ける匂いと、随時かけられるタレの香ばしい匂いときたら……堪らない! ああ妬ましいっ!
「疑って悪かったわ。早く食べたい死にそう」
「まあそう急かすな。焼き鳥の極意はじっくりと焼くことに限る。客が何と言おうと、私は一本入魂、丁寧に仕上げて必ず客を唸らせる。もう少し待て」
鉢巻を巻いた妹紅がかっこよく見える。
私は妹紅の表情を見つめたが、不意に視線が合ったので慌てて反らす。
「メニュー欄のこの漢字、なんて読むの?」
こいしが暖簾近くに貼られた木製の趣のある板を指差した。豪快に筆でメニューの一つ一つが書かれていて、見た感じでは焼き鳥が大半を占めているようだった。如何にも町外れの屋台と言う感じだ。
他には熱燗や唐揚げ、ライスなど王道なものが勢揃いしている。どれも食べたかったが、今日は焼き鳥だ。
こいしが指差したとこには〈餺飥〉と書いてある。
『漢字はつくりを読め』を駆使すると……なんだろうか。
悔しいが、私には読めない。
私は妹紅にアイコンタクトをした。
「それは〈ほうとう〉だ。元は外の世界のある地域の郷土料理だったらしい。饂飩よりも平たく、味噌の成分が強いガッチリ極太麺だ。無論、溶けるように柔らかく、噛み堪えも抜群。今は初夏だから……葱、玉葱、馬鈴薯が沢山入ったものだな」
妹紅が様になって流暢に答えていく。
まるで言葉の銃乱射だ。
「しかしオススメは冬だ。南瓜や里芋、茸類が豊富になるから夏よりかはずっと美味い。もちろん味噌の味も残したまま、南瓜の甘みが絶妙にマッチングする。ビタミン成分、澱粉質、蛋白成分、どれも釣り合って栄養バランスにも優れているぞ。食べたいなら冬に来るといい。私は夏か冬かと問われれば、冬と答える」
新しい銃が妹紅の手に渡った。
「ほうとうは麺の確かな噛み堪えと豊富な野菜の味の奥深さが売りだ。これは夏でも冬でも言えることだ。肉などは慎ましく、決してそれに頼ることのない味噌の染みた具材が美味い。肉は鳥や豚を使うから、別に肉だけ美味しくないわけではない。むしろ野菜と絡めて食べると、私は感涙したほどだ。冬もまた一入で、味噌よりもサッパリとして甘みが増した南瓜ベースだと、シメジがほうとうを制する。その計り知れない潜在能力を持つキノコ頭は一度食うとやみつき必至だ。七味なんかをかけると、更に奥行きが現れ、際限なく美味い。言葉にできない旨みが次々と口内を巡り、その味わい深さと言ったら麺類で右を行くものはない。冬の方が具が多くて色鮮やかだから、五感でより楽しめるのも冬だろう。もちろん、夏だろうが冬だろうが美味いことに偽りは断じてない。噛めば噛む程、ほうとうの虜になること間違いなしだな。そして最後に……」
最後の一丁を取り出し、銃口を私の胸にむけて引鉄を降ろした。
「ほうとうは蕩みがミソだ。味噌だけにな」
ようやく装填弾が切れて撃鉄が下ろされた。百発百中、見事な説明に私は胸を打たれた。痛くはない。むしろ圧倒され、清々しい。
妹紅は銃口に軽く息を吹き掛け、大事にしまった。
私は饂飩より蕎麦が好きとは言えなかったが、ほうとうを食べてみたいと思えた。
「そうだった。お前に訊きたいことがあるんだ」
妹紅が何事もなかったようにカラッと表情を変え、焼き途中のタレが滴り香ばしい匂いを漂わせている肉に突き刺す予定の串をこいしに向けた。
お冷のコップに結露した水滴で遊んでいるこいしが妹紅に視線を移した。
「ん? なに?」
「お前は一ヶ月前くらいに一度私と竹林の奥地で邂逅しただろう。私は自分から素性を明かすことはないんだ。だが、その時は何故か操られるように口走ってしまった。不老不死や私の役割などをな。お前、何か特異な能力でもあるんだろう。言ってみろ」
「無意識を操る程度の能力」
こいしが間も無く答えた。
この人間は只者ではないと、橋の上でこいしから聞いていた。曰く、不老不死と言う御伽噺のような運命らしく、オマケに妖怪顔負けの妖力と圧力。そこらへんの雑魚妖怪や中堅クラスの妖怪なら、彼女にとっては赤子の手を捻るようなものだろう。
彼女のその化物染みたスペックから察するに、こいしへの考察力を疑うのは愚かだと思える。自分の行動制限を把握しているからこそ、彼女はこいしにこの疑問を訊ねることができた。
博麗の巫女以外にこんな恐ろしい人間がいるとは、地底にいる頃は夢にも思わなかった。
今こうして焼き鳥を焼いている姿が信じられない。
「相手の無意識を自由に使えるの。それで気配を消したりしてるのよ。あの時は、貴方が無意識の内に〈素性〉を意識していたのを引っ張り出してやったわ。そっちは認識してなくても、こっちは丸聞こえ。不思議でしょ?」
「……地底と言うのは不思議なところだな」
妹紅が作業に戻った。そんなことか、と軽くあしらうように素っ気なく応え、腕まくりした。
この数秒間の会話の内は、肉の焼ける馥郁は感じられなかった。
竹林を彷徨っているときと同じ空気だった。暗く、何もかもを敵視してしまう緊張感。まさしく、地底世界。
私は焙じ茶を軽く呑み、妹紅の動作をしっかりと見つつも、こいしの行動を見守りながら焼き鳥の完成を静かに待った。
「さあできたぞ」
妹紅は更に数十分を要して完成させた。その表情からは、達成感と自信に満ち溢れる強い心を感じ取れた。
妹紅はそれぞれの皿に五本ずつ焼き鳥を盛って、私とこいしの前に置いた。鮮やかなタレが肉を覆い、表面の粗くも柔らかい皮膚が私の喉を枯らす。食欲は意に忠実で、思わず涎が垂れる。
全て皮で統一か……。それだけ拘りと自信があるに違いない。焼き鳥は塩派とタレ派で別れるが、私は何と言ってもタレだ。あの口溶け感がツボで、食べ終えたのに唇にどうしても残ってしまうタレを舌で舐めるのも、タレ味わいの醍醐味の一つだ。周りの目なんか気にせず、残さず食べ尽くすのが私クオリティ。タレ漬けの鳥皮は絶品だ。そして妹紅の焼き鳥は、タレのかかった鳥皮。もはやこの時点で合格点だ。
程良い焦げ目が良い味を出している。見た目以上に味は期待できそうだ。タレをより深くみると、黒点が疎らに入っている。胡椒かガーリックのような隠し味に違いない。もはや焼き鳥屋台の定番とも言えるタレ味は、私の食欲を爆発させる。もう……堪らん!
「さあ食え」
「いただきまーす!」
「いただきます」
豪快に二つまとめて肉を頬張る。タレが皿に滴る。
「ん~~~~!」
その刹那、私の頭にお花畑が出現し、ありとあらゆる花を咲かせた。まず襲ったのは肉の柔軟さと旨み。弾力のある噛み堪えと口いっぱいに広がる肉という旨み。タレはしつこくなく、それでいて濃厚さを忘れない逸品。鳥皮肉とタレの空前の化学反応は鼻まで伝い、思わず唸ってしまう味わい深さ。地味に振り掛けられた一味唐辛子の辛味も混ざり、この鳥皮肉とタレと一味唐辛子の三段波攻撃は超反則級だ。噛む度噛む度に幾度となく襲う肉の旨みは飽きがこない。仄かに鼻を筒抜けるあの食前の匂いが再び私を支配した。
「秘密味にガーリックを少々入れている。基本はシンプルに構成しているから飽きはこないはずだ」
焼き鳥だけでは足りなかった。
なにか添えて食べるものが欲しい。
口休めの焙じ茶を啜り、妹紅に注文する。この焙じ茶も見事だ。
「ライスもらえる?」
「ほれ」
肉にタレをたっぷり漬けて、ライスに乗せる。白米に綺麗な透明度の醤油色が混ざる。ライスと鳥皮を口に運ぶと、また違った味わい。飽きないタレとライスが良く合い、思わず箸が進んでしまう。程良くタレに絡んだガーリックと、それを崩さずに包み込むライスとが絶妙にマッチする。タレを器用に箸で掬い、肉を除いてライスにかけて食べる。これもまた乙な味で、大蒜の味がしっかりと、しかし優しく練りこまれている。ライスとの相性は抜群だ。やはりこの焼き鳥の美味しさの秘密はタレにあると確信した。舌の上に広がるシンプルなタレの旨みが、肉やライスと絶妙に合い、それでいて両者の利点を崩さない丁寧なタレだ。肉単独でも、ライスと肉を食べても、タレとライスで食べても、ほっぺたが落ちるほどの旨み。頭を駆け巡る焼き鳥の奥深さとその計り知れない味わい深さに感動を覚え、私は思わず感涙した。
「これが藤原焼き鳥店の鳥皮タレだ。美味いか?」
「最高よ! 本当に最高よ! すっごく美味しいわ!」
私は今までに出したこともないような明るい声で返事をしてしまった。
「安心したぜ」
「ああ~……まだ夢を見ているみたい……」
こいしの意外そうなものを見るような視線には目もくれず、焼き鳥を食べた。
五本の焼き鳥とライスはすぐに食べ終わったが、足らずも満腹満足な私は有頂天だった。
地上が一気に好きになってしまった。
「パルスィ……凄い勢いだったよ」
「だって美味しいんだもの!」
「ほう……パルスィと言うのか。良い名だ」
突然名前を褒められて、顔を赤らめる。静かに俯いた私に対し、妹紅の表情はよくわからなかった。
それよりも名前を名乗るのを忘れていたことにいま気づき、恥らう。
妹紅が暖簾に手を掛けた。
「熱燗を呑み交わしたい気分だが、生憎そろそろ閉店の時間だ。オマケに今日は慧音に仕事の書類纏めの手伝いを頼まれていて、遅れて彼女に迷惑をかけることができない。早めの別れが惜しまれるが、申し訳ない」
「いいえ、とても満足」
「帰り道は私が案内しよう。二人ではこの竹林を抜けることは不可能だ」
「そうね……ん?」
傍ではこいしが気持ち良さそうに寝ていた。お気に入りの帽子も地面に落ちてしまっている。小さな寝息を立て、和やかな寝顔なこいしに私と妹紅は微笑した。
子どもの寝るスピードとタイミングを判定するには、どうやら長年苦労して研究することが要求されるみたいだ。
「子どももいるしな。こいつは私が負ぶるから着いてきな」
妹紅は軽々とこいしを背中に乗せ、寝顔を一瞥したあと屋台の電気を消し、私に人差し指を曲げて見せた。
私はカウンターの端に置かれた燐寸箱を二箱だけ掴み取り、それをポケットにしまってから、妹紅の後に続いた。
妹紅の盛る焔は、仄かに二人を包み込んでいた。この明るさは、地上の明るさだ。
見上げると射干玉の闇夜。この娘の姉も心配してる頃だろう。
私はこいしの背中を見ながら、極上の焼き鳥の余韻に浸っていたのだった。
地底に戻り、雰囲気は変わった。竹林を抜けてからは〈地上〉だったので、月明かりに私は妬ましいと呟いたのだった。
橋の欄干から見下ろすと、下では透き通った水が心潤す音を立てていた。サラリと小石とが行き来し、水の優しい流れに抗うことなく転がされていた。浸蝕され、削れて丸みを帯びた石ころが岸に流れ着く。
私はいつかここで水を浴びたいと思ったが、それはこの娘が寝ている間は一生来なくてもいいと思った。
土の道を抜け、ようやく私の背中で寝ているこいしの実の姉の姿が見えた。大理石の床に反射する彼女は、私からは第三の眼が蠢いている影しか見えなかったので、化物のように影が写る。
地底なのに大理石に反射するとは、面白い話である。事実、ここは明るかったのだ。その主な理由は、地上の連中がよく知っているはずだ。
桃色を基調にした服の少女の姿も明瞭になってきて、彼女は私の目を見るや、すぐに状況を理解して言った。
「地上で焼き鳥を食べている内にこいしが寝てしまったのですね。わざわざおんぶして来て下さりありがとうございます」
さとりは妹と違って律儀で礼儀正しく、私が疲れている顔を見せるとすぐに心を読んで状況把握してくれる。本当に気が利く姉で、私はいつも彼女に嫉妬していた。でもやはり、私はさとりのことも好きだった。ついついさとりの前でそのように心で思ってしまい、さとりがそれを読んだ時に赤面する姿は、無邪気に私の前で笑みを浮かべるこいしのように、堪らなく可愛いのだった。
さとりはこいしを私から授かり、私や妹紅と同じように背中に預けた。
その時幽かにこいしから漏れた一言。
「お姉ちゃんの背中、あったか~い……むにゃ……」
さとりの温もりを感じたこいしの一言に、私は爪をギリっと噛み、心の中で呟いた。
(妬ましい……)
もちろんさとりは私を一瞥してから微笑み、「姉ですから」と言った。それでも妬ましいものは妬ましい。
ーー姉とは、いかなる存在なのか。
やがてさとりの姿は大理石の奥へと消え、私は俯いて下を見る。その時気づいたのが、口の周りにタレが少しついてしまっていることだった。
焼き鳥のタレの醍醐味ーー唇に残ってしまったタレを数刻後にとある拍子に気づいて、再び味わうことができる。
私はそれを舐め、あの時の幸せを思い浮かべてから、ちょっとした案を口にしてみる。
「冬の竹林は雨降らないわよね」
私はそんな計画を胸に秘め、足早に帰ったのだった。
前作を読んでいただきますと、もれなく話の理解度が高まりますので、読んでいない方はまずそちらの方をお読みになられてから本作に入ることをオススメ致します。
それでは、どうぞお茶を片手にごゆるりとして下さいませ。
雨の降らない曇り空は大歓迎だ。地上と地底をある程度相違ないものに装飾してくれると、私の気分も幾分か落ち着く。陽が見えていたら萎えるし、かと言って雨で濡れるのも嫌だ。灰色の空は私が地上で唯一好きな景色だ。
だが、今私たちがいるここでは空模様なんて関係ないのかもしれない。見上げれば鬱鬱葱葱とした隔絶壁。その緑色は竹林をすっかり覆う蓋のようにも感じられた。ここからでは全く空の様子を窺えない。
「ここって雨入ってこないわよね?」
「たぶんそうだよー」
隣で歩く少女ーーこいしは、眉を顰めて怪訝そうな表情になった。イラついてるのだろうか。今にも大声を出しそうに震えているこいしが、ちょっと可愛い。
今日誘ってきたのは貴方のほうよ、こいし。
ちょうど一ヶ月前、こいしが地上に出掛けた話を私は聞き、勝手に一緒に地上へ行くことになっていた。どうやらとある人間と約束をしたらしく、曰く、美味しいものが食べられるらしい。どんな食べ物でもいいが、珍しくこいしと二人きりで外出するのは非常に楽しみだった。
でもやはり私はいつも通りに橋の上でこいしと喋ってる方がオイシイと頭の片隅で思ったが、たまには陽を浴びるのも悪くないと思い、そしてこいしの表情に負け、しぶしぶ賛成して今に至る。
あのときのこいしの笑顔は忘れられない。
それよりも、この陰湿として鬱蒼と繁る緑の植物は何なのだろうか。まるで地上のように感じられない。地底に緑が生えただけのような景色。足元では気色悪い蟲が蠕動し、鼻を突く死臭にも気が滅入る。地底とは似ても似つかない、そんなものだと私は感じた。
青と言うより緑の景色。茶色と言うよりどす黒い血斑な褐色の地面。邪悪な雰囲気が漂うここは宛ら深海のようである。時折風が吹いたと思ったら、夥しい蠅と共に死臭を運んでくる。かと思えば足元にぐにゃりとした違和感。雰囲気は好きだが、旅には向いていない。特に歩き旅は道もわからないので艱難辛苦を極めるだろう。
この場合彷徨うと言えば正解だが、だとするとこいしの目的がわからない。まるで故意に此処に侵入し、故意に迷っているかのようだった。例えそうだとしても、こいしはこれで楽しいと思えているのだろうか。私はこいしといるだけで嬉しい。
地上はもう少し明るく、私の嫌悪感を鰻登りさせる穢土と想像していたが、私好みの穢土であった。それはもちろん、地底を感じさせる繁った植物のお陰だ。この暗い雰囲気は私を地底にいる時と変わりない気持ちにさせている。この不安感が、この暗さが、堪らなく心地良い。もしかしたら、こいしも同じように思っているのかもしれない。
気持ちの悪い蟲を死滅させればこの場所に文句はないと考えた。そして道に迷わずに済む立て看板もあれば、私はここに住み着くだろう。でも食事には困らないのだろうか。いや、だからこそ今日ここに来て美味しいものを食べに来たのだ。
「そういえばさ、ちょうど一ヶ月前にここに来る途中、一本角の鬼に背中叩かれたんだよね。あの体操服のお姐さん」
急に何を言うかと思えば、酒豪の星熊勇儀の話題だ。あの鬼にはよく橋の上や旧都(旧地獄街道)辺りで絡まれ、以前には無理矢理酒を流し込まれた。鬼の呑む酒はたいてい一般よりも強い。徳利軽く一口で倒れてしまった苦い思い出が脳裏を過る。
急にこのように無意識に問われることに慣れるにはどうしたらいいのだろうか。私は直接的にこいしに訊かずにいままでそのことを思案してきたが、どうもこの問題は難しい。迅速な対応が好ましいが、私には普通に会話しているだけで良いと思える。
「体操服かどうかはともかく、星熊勇儀ね」
「何で叩けたのかな?」
「どういう意味?」
「だってこいしの能力……」
そうだ。無意識を操る程度の能力。彼女はこれを駆使して、姉にも他の誰にも気付かれずに地上へと旅立つ。そして気付いたら帰って来てるのだ。まるで小石に足が生えたように、魑魅魍魎の目を潜り抜けるのだ。
こんな可愛らしいこいしだが、地底でもトップクラスの実力者であることに間違いない。少なくとも弾幕勝負で私に勝機はほぼない。
だが、上には上がいる。
「確かにそうね。でも相手は元四天王の一角よ。妖怪少女の一人や二人、なんてことないんじゃないかしら」
「なんかバカにされたみたい」
そう言って不貞腐れながら、小さな体を私にぶつけてくるこいしが可愛くて堪らない。
美味しいものなんてどうでもいい。少しでも長い間、この娘といたかった。
今はそう思っていた。
その時、ふわりと二人の前に鳳凰が舞い降りた。灼熱の焔を纏った翼から出る熱気が肌を襲い、近くの竹を一瞬で灰にして見せた。ただ地上に降り立っただけなのに、鳳凰降臨の如く威風堂々とした人間に私は目を丸くした。鋭い眼差しとポケットに突っ込まれた腕に、私は臆した。
俯きながら人間が口を開いた。
「迷い込んだ人間だと思って助けに来てみれば……」
その鋭利な目線がこいしを捉えた。
そして皮肉たっぷりに言い放った。
「またお前か」
「だって今度来るときは竹林に迷えって言ったの、焼き鳥屋さんの貴方よ?」
「焼き鳥? 鳳凰と掛けたジョーク?」
「違うよ。紹介するね。この人は焼き鳥屋さんの藤原妹紅さん。今日はこの人に会いに来たの」
こいしが何か喋ったが、私には全く耳に入ってこなかった。
ただ呆然と焔を纏う人間を見ていた。
目の前で焼き鳥を作られると、ついつい見入ってしまう。第一段階である肉捌きから入り、汗が滲む額を余所に丹精込めて長時間焼いている。タレは用意していたようだが、美味しくするコツなのだろうか、再度熱している。半刻は経ったのではないか。肉の焼ける匂いと、随時かけられるタレの香ばしい匂いときたら……堪らない! ああ妬ましいっ!
「疑って悪かったわ。早く食べたい死にそう」
「まあそう急かすな。焼き鳥の極意はじっくりと焼くことに限る。客が何と言おうと、私は一本入魂、丁寧に仕上げて必ず客を唸らせる。もう少し待て」
鉢巻を巻いた妹紅がかっこよく見える。
私は妹紅の表情を見つめたが、不意に視線が合ったので慌てて反らす。
「メニュー欄のこの漢字、なんて読むの?」
こいしが暖簾近くに貼られた木製の趣のある板を指差した。豪快に筆でメニューの一つ一つが書かれていて、見た感じでは焼き鳥が大半を占めているようだった。如何にも町外れの屋台と言う感じだ。
他には熱燗や唐揚げ、ライスなど王道なものが勢揃いしている。どれも食べたかったが、今日は焼き鳥だ。
こいしが指差したとこには〈餺飥〉と書いてある。
『漢字はつくりを読め』を駆使すると……なんだろうか。
悔しいが、私には読めない。
私は妹紅にアイコンタクトをした。
「それは〈ほうとう〉だ。元は外の世界のある地域の郷土料理だったらしい。饂飩よりも平たく、味噌の成分が強いガッチリ極太麺だ。無論、溶けるように柔らかく、噛み堪えも抜群。今は初夏だから……葱、玉葱、馬鈴薯が沢山入ったものだな」
妹紅が様になって流暢に答えていく。
まるで言葉の銃乱射だ。
「しかしオススメは冬だ。南瓜や里芋、茸類が豊富になるから夏よりかはずっと美味い。もちろん味噌の味も残したまま、南瓜の甘みが絶妙にマッチングする。ビタミン成分、澱粉質、蛋白成分、どれも釣り合って栄養バランスにも優れているぞ。食べたいなら冬に来るといい。私は夏か冬かと問われれば、冬と答える」
新しい銃が妹紅の手に渡った。
「ほうとうは麺の確かな噛み堪えと豊富な野菜の味の奥深さが売りだ。これは夏でも冬でも言えることだ。肉などは慎ましく、決してそれに頼ることのない味噌の染みた具材が美味い。肉は鳥や豚を使うから、別に肉だけ美味しくないわけではない。むしろ野菜と絡めて食べると、私は感涙したほどだ。冬もまた一入で、味噌よりもサッパリとして甘みが増した南瓜ベースだと、シメジがほうとうを制する。その計り知れない潜在能力を持つキノコ頭は一度食うとやみつき必至だ。七味なんかをかけると、更に奥行きが現れ、際限なく美味い。言葉にできない旨みが次々と口内を巡り、その味わい深さと言ったら麺類で右を行くものはない。冬の方が具が多くて色鮮やかだから、五感でより楽しめるのも冬だろう。もちろん、夏だろうが冬だろうが美味いことに偽りは断じてない。噛めば噛む程、ほうとうの虜になること間違いなしだな。そして最後に……」
最後の一丁を取り出し、銃口を私の胸にむけて引鉄を降ろした。
「ほうとうは蕩みがミソだ。味噌だけにな」
ようやく装填弾が切れて撃鉄が下ろされた。百発百中、見事な説明に私は胸を打たれた。痛くはない。むしろ圧倒され、清々しい。
妹紅は銃口に軽く息を吹き掛け、大事にしまった。
私は饂飩より蕎麦が好きとは言えなかったが、ほうとうを食べてみたいと思えた。
「そうだった。お前に訊きたいことがあるんだ」
妹紅が何事もなかったようにカラッと表情を変え、焼き途中のタレが滴り香ばしい匂いを漂わせている肉に突き刺す予定の串をこいしに向けた。
お冷のコップに結露した水滴で遊んでいるこいしが妹紅に視線を移した。
「ん? なに?」
「お前は一ヶ月前くらいに一度私と竹林の奥地で邂逅しただろう。私は自分から素性を明かすことはないんだ。だが、その時は何故か操られるように口走ってしまった。不老不死や私の役割などをな。お前、何か特異な能力でもあるんだろう。言ってみろ」
「無意識を操る程度の能力」
こいしが間も無く答えた。
この人間は只者ではないと、橋の上でこいしから聞いていた。曰く、不老不死と言う御伽噺のような運命らしく、オマケに妖怪顔負けの妖力と圧力。そこらへんの雑魚妖怪や中堅クラスの妖怪なら、彼女にとっては赤子の手を捻るようなものだろう。
彼女のその化物染みたスペックから察するに、こいしへの考察力を疑うのは愚かだと思える。自分の行動制限を把握しているからこそ、彼女はこいしにこの疑問を訊ねることができた。
博麗の巫女以外にこんな恐ろしい人間がいるとは、地底にいる頃は夢にも思わなかった。
今こうして焼き鳥を焼いている姿が信じられない。
「相手の無意識を自由に使えるの。それで気配を消したりしてるのよ。あの時は、貴方が無意識の内に〈素性〉を意識していたのを引っ張り出してやったわ。そっちは認識してなくても、こっちは丸聞こえ。不思議でしょ?」
「……地底と言うのは不思議なところだな」
妹紅が作業に戻った。そんなことか、と軽くあしらうように素っ気なく応え、腕まくりした。
この数秒間の会話の内は、肉の焼ける馥郁は感じられなかった。
竹林を彷徨っているときと同じ空気だった。暗く、何もかもを敵視してしまう緊張感。まさしく、地底世界。
私は焙じ茶を軽く呑み、妹紅の動作をしっかりと見つつも、こいしの行動を見守りながら焼き鳥の完成を静かに待った。
「さあできたぞ」
妹紅は更に数十分を要して完成させた。その表情からは、達成感と自信に満ち溢れる強い心を感じ取れた。
妹紅はそれぞれの皿に五本ずつ焼き鳥を盛って、私とこいしの前に置いた。鮮やかなタレが肉を覆い、表面の粗くも柔らかい皮膚が私の喉を枯らす。食欲は意に忠実で、思わず涎が垂れる。
全て皮で統一か……。それだけ拘りと自信があるに違いない。焼き鳥は塩派とタレ派で別れるが、私は何と言ってもタレだ。あの口溶け感がツボで、食べ終えたのに唇にどうしても残ってしまうタレを舌で舐めるのも、タレ味わいの醍醐味の一つだ。周りの目なんか気にせず、残さず食べ尽くすのが私クオリティ。タレ漬けの鳥皮は絶品だ。そして妹紅の焼き鳥は、タレのかかった鳥皮。もはやこの時点で合格点だ。
程良い焦げ目が良い味を出している。見た目以上に味は期待できそうだ。タレをより深くみると、黒点が疎らに入っている。胡椒かガーリックのような隠し味に違いない。もはや焼き鳥屋台の定番とも言えるタレ味は、私の食欲を爆発させる。もう……堪らん!
「さあ食え」
「いただきまーす!」
「いただきます」
豪快に二つまとめて肉を頬張る。タレが皿に滴る。
「ん~~~~!」
その刹那、私の頭にお花畑が出現し、ありとあらゆる花を咲かせた。まず襲ったのは肉の柔軟さと旨み。弾力のある噛み堪えと口いっぱいに広がる肉という旨み。タレはしつこくなく、それでいて濃厚さを忘れない逸品。鳥皮肉とタレの空前の化学反応は鼻まで伝い、思わず唸ってしまう味わい深さ。地味に振り掛けられた一味唐辛子の辛味も混ざり、この鳥皮肉とタレと一味唐辛子の三段波攻撃は超反則級だ。噛む度噛む度に幾度となく襲う肉の旨みは飽きがこない。仄かに鼻を筒抜けるあの食前の匂いが再び私を支配した。
「秘密味にガーリックを少々入れている。基本はシンプルに構成しているから飽きはこないはずだ」
焼き鳥だけでは足りなかった。
なにか添えて食べるものが欲しい。
口休めの焙じ茶を啜り、妹紅に注文する。この焙じ茶も見事だ。
「ライスもらえる?」
「ほれ」
肉にタレをたっぷり漬けて、ライスに乗せる。白米に綺麗な透明度の醤油色が混ざる。ライスと鳥皮を口に運ぶと、また違った味わい。飽きないタレとライスが良く合い、思わず箸が進んでしまう。程良くタレに絡んだガーリックと、それを崩さずに包み込むライスとが絶妙にマッチする。タレを器用に箸で掬い、肉を除いてライスにかけて食べる。これもまた乙な味で、大蒜の味がしっかりと、しかし優しく練りこまれている。ライスとの相性は抜群だ。やはりこの焼き鳥の美味しさの秘密はタレにあると確信した。舌の上に広がるシンプルなタレの旨みが、肉やライスと絶妙に合い、それでいて両者の利点を崩さない丁寧なタレだ。肉単独でも、ライスと肉を食べても、タレとライスで食べても、ほっぺたが落ちるほどの旨み。頭を駆け巡る焼き鳥の奥深さとその計り知れない味わい深さに感動を覚え、私は思わず感涙した。
「これが藤原焼き鳥店の鳥皮タレだ。美味いか?」
「最高よ! 本当に最高よ! すっごく美味しいわ!」
私は今までに出したこともないような明るい声で返事をしてしまった。
「安心したぜ」
「ああ~……まだ夢を見ているみたい……」
こいしの意外そうなものを見るような視線には目もくれず、焼き鳥を食べた。
五本の焼き鳥とライスはすぐに食べ終わったが、足らずも満腹満足な私は有頂天だった。
地上が一気に好きになってしまった。
「パルスィ……凄い勢いだったよ」
「だって美味しいんだもの!」
「ほう……パルスィと言うのか。良い名だ」
突然名前を褒められて、顔を赤らめる。静かに俯いた私に対し、妹紅の表情はよくわからなかった。
それよりも名前を名乗るのを忘れていたことにいま気づき、恥らう。
妹紅が暖簾に手を掛けた。
「熱燗を呑み交わしたい気分だが、生憎そろそろ閉店の時間だ。オマケに今日は慧音に仕事の書類纏めの手伝いを頼まれていて、遅れて彼女に迷惑をかけることができない。早めの別れが惜しまれるが、申し訳ない」
「いいえ、とても満足」
「帰り道は私が案内しよう。二人ではこの竹林を抜けることは不可能だ」
「そうね……ん?」
傍ではこいしが気持ち良さそうに寝ていた。お気に入りの帽子も地面に落ちてしまっている。小さな寝息を立て、和やかな寝顔なこいしに私と妹紅は微笑した。
子どもの寝るスピードとタイミングを判定するには、どうやら長年苦労して研究することが要求されるみたいだ。
「子どももいるしな。こいつは私が負ぶるから着いてきな」
妹紅は軽々とこいしを背中に乗せ、寝顔を一瞥したあと屋台の電気を消し、私に人差し指を曲げて見せた。
私はカウンターの端に置かれた燐寸箱を二箱だけ掴み取り、それをポケットにしまってから、妹紅の後に続いた。
妹紅の盛る焔は、仄かに二人を包み込んでいた。この明るさは、地上の明るさだ。
見上げると射干玉の闇夜。この娘の姉も心配してる頃だろう。
私はこいしの背中を見ながら、極上の焼き鳥の余韻に浸っていたのだった。
地底に戻り、雰囲気は変わった。竹林を抜けてからは〈地上〉だったので、月明かりに私は妬ましいと呟いたのだった。
橋の欄干から見下ろすと、下では透き通った水が心潤す音を立てていた。サラリと小石とが行き来し、水の優しい流れに抗うことなく転がされていた。浸蝕され、削れて丸みを帯びた石ころが岸に流れ着く。
私はいつかここで水を浴びたいと思ったが、それはこの娘が寝ている間は一生来なくてもいいと思った。
土の道を抜け、ようやく私の背中で寝ているこいしの実の姉の姿が見えた。大理石の床に反射する彼女は、私からは第三の眼が蠢いている影しか見えなかったので、化物のように影が写る。
地底なのに大理石に反射するとは、面白い話である。事実、ここは明るかったのだ。その主な理由は、地上の連中がよく知っているはずだ。
桃色を基調にした服の少女の姿も明瞭になってきて、彼女は私の目を見るや、すぐに状況を理解して言った。
「地上で焼き鳥を食べている内にこいしが寝てしまったのですね。わざわざおんぶして来て下さりありがとうございます」
さとりは妹と違って律儀で礼儀正しく、私が疲れている顔を見せるとすぐに心を読んで状況把握してくれる。本当に気が利く姉で、私はいつも彼女に嫉妬していた。でもやはり、私はさとりのことも好きだった。ついついさとりの前でそのように心で思ってしまい、さとりがそれを読んだ時に赤面する姿は、無邪気に私の前で笑みを浮かべるこいしのように、堪らなく可愛いのだった。
さとりはこいしを私から授かり、私や妹紅と同じように背中に預けた。
その時幽かにこいしから漏れた一言。
「お姉ちゃんの背中、あったか~い……むにゃ……」
さとりの温もりを感じたこいしの一言に、私は爪をギリっと噛み、心の中で呟いた。
(妬ましい……)
もちろんさとりは私を一瞥してから微笑み、「姉ですから」と言った。それでも妬ましいものは妬ましい。
ーー姉とは、いかなる存在なのか。
やがてさとりの姿は大理石の奥へと消え、私は俯いて下を見る。その時気づいたのが、口の周りにタレが少しついてしまっていることだった。
焼き鳥のタレの醍醐味ーー唇に残ってしまったタレを数刻後にとある拍子に気づいて、再び味わうことができる。
私はそれを舐め、あの時の幸せを思い浮かべてから、ちょっとした案を口にしてみる。
「冬の竹林は雨降らないわよね」
私はそんな計画を胸に秘め、足早に帰ったのだった。
素晴らしい、よく私の体重管理を壊してくれた。
して悔やまれるのは近くに焼き鳥屋がない。とりあえずデリバリーとかできませんか((
あ、お代は点数で。御馳走様でした。
食べたくなってきた