生きることは病であり、眠りは緩和剤、死は根治療法である――マックス・ウェーバー
*
魔法の森を散歩道にする人間がいるとすれば、それはよほどの死にたがりか、でなければ何も知らない外来人だろう。
そこに例外があるとするならば、それこそが霧雨魔理沙だった。
彼女は魔法の森に住む人間である。
日々魔法の研究に明け暮れて、それに行き詰ると大抵はこうして散歩をすることにしていた。
魔理沙にとって、魔法の森は自分の庭と似たようなものだった。
隅から隅まで知り尽くしていて、だからこそ迷うことなどあるはずがない。
「……あるはずがなかったんだけどな? ……いやー、完全に迷ったぜ」
魔理沙は帰り道の途中で、そんな独り言を呟いた。
――そうなのだ。
霧雨魔理沙が――よりにもよって自分の庭であるはずの魔法の森で――迷っていた。
その異常性を、今ここで唯一理解できるのは魔理沙だけである。
けれど。
「……まあそんな日もあるよな」
魔理沙はどこか楽天的にそういった。
魔理沙はまだ自覚していなかった。
――自身がすでに、異変へと足を踏み入れているのだということを。
◆
――博麗神社では異変が起きていた。
「無い! 確かに取っておいた、私のお饅頭が!」
――饅頭がなくなっている。
その事実から博麗霊夢が真実を暴き出すまでは、それこそ一瞬のことだった。
「紫でしょ! 出てきなさい、今日という今日は本当に許さないんだから!」
霊夢は虚空に叫んだ。
一瞬の静寂、そして――。
――霊夢の眼前の空間が裂ける。
「あら怖い。そんなことを言われてのこのこ出てくる妖怪がいるとしたら、お目にかかりたいものですわ」
空間の裂け目から顔を出したのは、妖怪の八雲紫だった。
一人一種族、神出鬼没の大妖怪。
普通の人間なら一目見た時点で臆してしまうだろう紫に、けれど普通ではない霊夢は物怖じせずに口を開く。
「鏡ならそっちにあるわよ……ってそうじゃなくて! あんた、私のお饅頭食べたでしょう!」
「……? ああ、あれね。あまり美味しくなかったわ」
「味の感想は訊いてない! ……あーもう、せっかく楽しみにしてたのに。あんたはいつも、どうしてそういうことするのよ……」
「……あら?」
珍しくしょんぼりと肩を落とす霊夢に、紫は意外そうな声を上げる。
――これは、もしかするとまずいのではないだろうか。
そんなことを思いながら、紫は焦りを覚えていた。
俯いて、今にも肩を震わせて泣き出しそうな霊夢。
普段なら間違いなく、問答無用でその手のお払い棒が側頭部を狙って横薙ぎに振るわれるはずなのに――。
「わ、悪かったわ。霊夢がそんなに楽しみにしているとは思わなかったのよ……あ、ほら、代わりといっては何だけど、これをあげるわ」
「……何?」
紫はスキマの中で何やらもぞもぞと探し物をしてから、それを取り出した。
「ほら、とんがりコーンのカレー味と焦がしバター醤油味! ハウス食品のホームページの食品カタログに載ってないから、ちょうどこっちに持ってきたところなのよ」
紫の両手にあるそのスナック菓子のパッケージをぼうっと見つめながら、霊夢は言った。
「…………お茶に合わないじゃない」
それを聞いて、紫は答える。
「…………確かに」
*
「……ん? こんなところに家なんてあったか?」
魔理沙は目の前にある建物を見ながら、そう独りごちる。
それもそのはず、魔理沙は魔法の森にある家に関しては全て把握しているはずだった。
まず魔理沙の家、次に魔法使いのアリスの家、最後に香霖堂。
この三件しか魔法の森には存在しないことを、魔理沙は確かに知っていた。
知っていたけれど、しかし。
「ちょうどいいや、ここでお茶でもご馳走になりながら道を訊くとするぜ」
そう言いながら魔理沙はその家の扉をノックした。
その音に反応するように、家の中で人の歩くような物音がする。
「はい、どちら様ですか?」
そういって扉を開けたのはずいぶんと若く見える男性だった。といっても魔理沙より一回りほどは年上に見える。
「私は魔理沙だぜ。ちょっと道に迷って困ってるんだが、お茶でもご馳走しながら道を教えてくれたりすると助かるな」
悪びれもせずそう言った魔理沙を、男は少し不思議そうな顔で見ていた。
少なくとも見た目は、普通の人間の少女だ。
魔法の森で迷ったとすれば本来助かる見込みは薄い、そんな存在。
しかし目の前にいる魔理沙には、そうした恐怖の感情が見えなかった。
死の恐怖という感情が、どこか欠落しているような少女。
男は少し迷った素振りを見せながら、けれど結局は魔理沙を家に招き入れる。
「お邪魔しまーす、っと」
男の案内を待たず、まるで勝手知ったる我が家のごとく魔理沙は一人で家に上がりこんだ。
いくつかの扉があったが、魔理沙は迷うことなく、すぐ左の扉を選ぶ。
そうして魔理沙が嬉々として入った部屋は、思ったとおりに洋風のテーブルと椅子が並んでいる。そこにはもう一人の男性がいた。
歳は五十過ぎくらいで、頭頂部は禿げ上がっている。見るからに頑固そうな男だった。
かけている眼鏡越しのするどい眼光が、まるで射抜くように魔理沙を睨みつけている。
「……ここから立ち去れ」
低く、重い声。少し枯れたその声で、確かに「立ち去れ」と、そう魔理沙に言った。
「すみませんね、ボクが招き入れたんですよ」
「………………」
「私も別に長居するつもりはないぜ? ただちょっとお茶をご馳走になって、ついでに道を訊きたいだけなんだ」
いつのまにか主客転倒したように、道を尋ねることがついでになっていた。
「……ふん。どうなっても知らんぞ」
そんな不穏な言葉を残すと、頑固そうなその男は奥の部屋に下がっていった。
「……すみません。ああ見えて、結構な人見知りで」
「いや、見た目どおりだぜ? ……ところであんたら、親子でここに住んでるのか?」
「ええ、そうです。母親の方は若くして亡くなったので、今はこうして二人暮らしをしているんですよ」
「へぇ……そりゃ、大変そうだな」
魔理沙は大して興味もなさそうにそう言いながら、部屋の中を見回した。
まるで掃除の途中のような、お世辞にも片付いているとは言いがたい部屋。
そんな部屋に、魔理沙は小さな違和感を覚えていた。
けれどその違和感の正体がどうにもはっきりとしない。
頭に靄でもかかったかのように、思考が上手く回らなかった。
そうこうしているうちに男はお茶の準備を始める。テーブルについて待つように言われたので、魔理沙は言われたとおりに座ることにした。
◆
――ザクッ、ザクッ。
スナック菓子を噛み砕く小気味良い音を立てながら、霊夢は尋ねた。
「妖怪退治? ……珍しいわね、そんな真っ当な依頼」
――ザクッ、ザクッ。
「いや、それが貴方の本来の仕事でしょう?」
「まあそうなんだけどね……そんなことよりもまず、私は目の前にいる妖怪を退治したい気持ちでいっぱいだわ」
「あら嫌だ、やっぱり食べ物の恨みは怖いわね……」
――ザクッ、ザクッ。
「……意外とお茶にも合うわね、これ」
「そうね、さすがはハウス食品のとんがりコーンといったところかしら。特にこの焦がしバター醤油味はなかなか味わい深いというか――」
そうして少しの間、二人はスナック菓子の感想を好き好きに言い合った。
「――このお菓子を見てると、無性に指にはめて紫に目潰しをしたくなるのよね」
「……それは洒落にならないからやめてくれるかしら」
そういって身を震わせて怖がる振りをする紫と、それを見て笑う霊夢。
「……それで? 私は一体何を退治すればいいのよ?」
霊夢のその一言でその場の空気が変わる。
それは霊夢が「冗談はここまで」と、そう宣言したかのような雰囲気だった。
真面目に依頼内容を尋ねる霊夢に、紫も対応するように真剣な声色で言った。
「今回退治してもらいたいのは、厳密に言えば妖怪ではないわ」
「……は? どういう意味よ、それ」
「そのままの意味よ。やっていることはあまりにも妖怪じみているけれど、種族としてみればそいつは暦とした人間なのよね」
「……? 人間相手なら、それこそ里の自警団にでも任せておけばいいじゃない。むやみやたらと人間の社会に干渉したらバランスが崩れるとか言ったのは、確かあんたの方でしょ?」
「それはそのとおりなのだけど……そうして五十年余り放置していたら、予想外に被害が増えてしまってね。気付いたら妖怪化寸前みたいな状況まで来ているのよね。バランスという話なら、このまま放置したほうがよっぽどバランスが崩れてしまうのよ」
「五十年って……それはさすがにあんたの怠慢だと思うわ」
霊夢は呆れたように肩をすくめてため息をつく。
「それで、私にあんたの尻拭いをさせようってわけね」
「ご名答」
「…………あんたが自分でやるって発想はないの?」
「ないわ。だって、人間の問題は人間の間で解決するのが原則なのよ?」
そういって意地悪く笑う紫。
それを見て霊夢は何か言ってやりたくなったが、しかし結局は何を言っても無駄にしかならないのだと思い、ただ沈黙する。
その代わりに霊夢はまた大きなため息を一つついた。
「はぁ……まあいいわ。それで、その人間は具体的に何をしたのよ?」
「その人間、名前を仮にAとするわ。元々Aは、嘘つきなだけのただの子供だった。そこに一つおかしな点があるとするなら、Aの嘘は何故かばれることが極めて少なかったということ。そうしてAは、周囲からは特に疑われることもなく嘘をつきながら大人になっていった。問題が起きたのはAが二十歳を過ぎた頃のことよ。Aは結婚して、子供を一人もうけた。結婚相手はその後すぐに死んだとされているわ」
紫はそこで言葉を切る。
そんな紫に、霊夢は不思議そうに尋ねた。
「それの何がおかしいのよ? 特におかしな点なんてないじゃない」
「そうね、確かにどこもおかしくはない――」
紫は続ける。
「――本当に、その結婚相手が死んでいたならね」
*
「うーん……何かもやもやするぜ?」
魔理沙はそんな独り言を呟く。
男は紅茶の入った茶器を魔理沙に差し出しながら尋ねた。
「……? どうかしましたか?」
「いや、どうもしてないぜ。……だが、どうもしてないからこそ問題ということも、あるかもしれないよな」
「……?」
男は首をかしげたが、魔理沙はそれ以上何かを話すつもりはないようだ。
そしてこの話題はもう終わりだといった雰囲気で、魔理沙は尋ねる。
「それで訊きたいんだが、ここは魔法の森でいうとどのあたりになるんだ?」
「結構奥の方ではありますが、どのあたりと口で説明するのは難しいですね。地図なんかもありませんし……そうだ、もしよかったら森の外まで送りましょうか?」
男は人の良さそうな笑顔でそう提案する。
けれど魔理沙の目的は森の外に出ることではなく、自分の家に帰ることだった。
「悪いけど、私も森の中に住んでる人間だから外まで案内されても、な」
かといって魔法の森にはこれといって目立った目印はない。あるとすればそれこそ森の中にある三件の家くらいだった。
一番早いのは男が魔理沙の家まで案内してくれることだが、残念ながら男は魔理沙の家を知らないという。
そこでこの後どうするかを魔理沙は真剣に考え始めた。
こうなった以上、面倒ではあるが一度森の外に出てしまうというのもありかもしれない。
そう考えながら一口紅茶を飲んだところで、魔理沙は一つの問題に思い至る。
そうして一度外に出たとして――次も迷わない保証はどこにある?
それは単純な問題だった。普段どおりの散歩をして、まっすぐ帰るだけの道程。来た道をそのまま辿るだけのことが、どうしてか魔理沙は出来なかったのだ。
そこまで考えて、ようやく魔理沙は気付く。
――そもそも霧雨魔理沙が魔法の森で迷うなんて、それこそが異常ではないか。
◆
「霊夢は村八分って言葉を知っているかしら?」
「そりゃまあ、知ってはいるわよ。あれでしょ? 村落の中での決まり事を破った人間なんかを全員で無視したり陰湿な嫌がらせをしたりするっていう」
秩序を乱すものに対する消極的制裁。
実態はともかくとして、知識としては霊夢もそれを知っていた。
それを聞いて、紫は面倒が省けて僥倖とばかりに微笑む。
「ええ、そのとおり。あえて補足するなら、それらのほとんどは権力者の号令によって行われるということね。そこで、今回の件におけるAが出てくる」
紫は一旦言葉を切り、お茶を一口飲んだ。
霊夢は何も言わず、ただ紫の話に耳をかたむけている。
「Aは結婚相手が子供を生んですぐに死んだと言った。けれど実際のところ彼女は生きていたのよ。それだけならただAが不謹慎な嘘をついたとして、それで終わる話。でも、そこからが異常だった」
紫は続ける。
「目の前に生きた本人が現れた。けれどどうしてか、そこの村人全員が彼女を死んだものとして扱ったの」
「死んだものとしてって――」
「そう、実質的な村八分ね。彼女がそこに存在することを、誰一人として認めようとはなかった。結果、彼女は村の中で居場所を得られず数日後に村の外で死んでしまった」
「………………」
「それが最初の異変。それからも何度か同じようなことが起きて、何人もの人間が犠牲になったわ。別にこれが村の権力者による意図的な村八分行為だというなら普通にありえることなんでしょうけどね。それが本来何の権力も持たないはずのAによって行われたのだとしたら――それはやっぱり、異常なことでしょう?」
同意を得るように、紫は霊夢にそう尋ねた。
全くもってそのとおりだと、霊夢は思う。
何故そんなことが起こり得るのか、それは理屈では到底説明の出来ないことだった。
けれどそんな事象を、霊夢は淡々と受け入れる。そうした本来起こり得ないことが起こるからこそ異変なのである。そして霊夢は、そんな異変を今まで幾度となく解決してきた。
すでに起こってしまった事実に、ありえないと口に出すことには何の意味もない。少なくとも霊夢はそう思っていた。
Aの持つ力の正体までは分からないが、少なくとも人間としては大きすぎる力である。妖怪化寸前と、そう紫が語るのも無理はない。
そしてその力で、すでに何人もの人間を死に追いやっているのだとしたら、断罪される理由としては充分だろう。
そこまではいい。けれど、どこかで何かが霊夢は引っかかっていた。
――そうだ。
「ねえ紫、そのAの子供はどうなのよ? 自分の親に違和感を覚えたりとか、Aと同じ力を持っていたりとかはしないわけ?」
その質問を紫はあらかじめ想定していたのだろう、すぐに答えた。
「私の式が調べた限り、そうした話は出てないわ。あくまでも異常なのはAであり、Aの子供は正常な人間である……とね。でもいつものことながら、そう最初から決めてかかると――」
「はいはい、足元をすくわれるかもしれない、でしょ? お説教はどこかの仙人だけで充分よ。……それで、そいつらは今どこにいるの?」
霊夢は面倒臭そうな表情のまま尋ねた。
「これ以上人間の被害を増やさないために手を打ったところ、どうやら魔法の森に逃げ込まれてしまったらしいわ。幸い、Aの力は妖怪をどうこう出来るほど強いものじゃないみたいだから――」
――魔法使いと、人妖のハーフしか住まない魔法の森なら安全だけれど。
紫はそんなことを言った。
しかしその言葉に、霊夢は即座に反論する。
「あんたねぇ……アリスと霖之助さんはともかく、魔理沙は人間じゃない」
「……ああ。言われてみれば、確かに、そうね」
「……もしかして、忘れてたの?」
「………………てへっ」
「え、じゃあ何……もしかして魔理沙、すでに巻き込まれてたりするわけ?」
霊夢は少し心配そうにそう言ったが、紫は気まずそうな苦笑いを浮かべるだけだった。
*
――自分が魔法の森で迷った。
魔理沙はその事実の異常性を認識すると同時に、思考の靄が晴れるような感覚があった。
まるで頭の中の歯車がカチリとはまったかのような、そういった感覚。
魔理沙がそうして思考を巡らせていると、奥の部屋から頑固そうな男が出てくる。
「……確かに立ち去れと、そう言ったはずだがな」
「ああ、確かに言われたぜ? だからこのお茶を飲み終わったらすぐかえるよ、私の家にな」
男の重い声にも動じず、魔理沙はそう言った。
「まあまあそんなことを言わずに。魔理沙さんも森で迷って心細いのでしょうから――」
優しそうな男は、そう言って魔理沙をフォローする。
しかし魔理沙はその男の言葉を無視するように、頑固そうな男を見ながら尋ねた。
「そういえば、さっき言ってたあれ――どうなっても知らない、だったか? あれは、どういう意味なんだぜ?」
「………………」
男は答えない。
「……まあいいか、じゃあ次だ。さっき聞いたんだが、あんたらは親子二人でここに住んでるんだってな?」
「…………そうだ」
「それは、いつからだ?」
「………………」
「あの、魔理沙さん? そうした質問ならボクが――」
答えに窮する男に、優しそうな男が少し困ったような顔で助け舟を出す。
「ああそうかい。じゃあ訊くけどさ……あんたらの、一体どっちが親なんだぜ?」
◆
「――あら、意外ね。霊夢なら、親友のピンチとなれば文字通り飛んでいくかと思っていたのだけど」
からかうような口調で紫は言う。
魔理沙が異変に巻き込まれていると知った霊夢だったが、しかしその異変を解決しに行こうとはしなかったのだ。
「……ふん。そんなことを言ってまた私に面倒なことを押し付けて、それを眺めながら笑うつもりだったんでしょ?」
「あら、人聞きが悪いわね。……まあ、そういうつもりがなかったとは言わないわ。面倒臭がりの霊夢が今回の頼みを聞いてくれるかどうかまでは、さすがに私にも分からないからね。ちょっと保険をかけただけよ」
保険――つまり、魔理沙のことだ。
魔理沙が異変に巻き込まれていると知れば、日頃から親しくしている霊夢が動かないはずはない。
そうした計算が紫には確かにあったのだ。
「だとしたら、それこそ『策士策に溺れる』ってやつね。普通に頼んでくれたなら私だって文句の一つや二つを言いながら、しぶしぶと今回の仕事を引き受けたでしょうに……まさかあんたが、異変に関してそんな初歩的なミスをするわけないじゃない。あるとしたら、それは『意図的に』でしょう? ……全く、舐められたものだわ」
不機嫌そうに腕組みをしながら、ぷいっとそっぽを向く霊夢。
そんな霊夢を見て、紫は素直に謝ることにした。
それは霊夢の言葉の端々に、紫への信頼が見て取れたからだ。そんな霊夢に対して悪いことをしたと、紫の良心が咎めたのだ。
「ごめんなさいね、霊夢。別に貴方を信頼していないというわけではないのよ?」
「……ん? ああ、違う違う、そっちじゃないわよ」
「…………はい?」
霊夢の言葉の意味が分からないとばかりに、紫はきょとんとした目で霊夢を見た。
紫がそんな顔を見せるのは珍しいことで、霊夢は思わず笑ってしまう。
「ぷっ、いや、だからね? 私が言ってるのは私のことじゃなくて、魔理沙のことよ」
霊夢は一呼吸置いてから続けた。
「だってさ、異変の真っ只中に魔理沙がいるんでしょ? それだったら私が出るまでもなく、異変は魔理沙が解決するに決まってるじゃない。今から私が出て行っても無駄足にしかならない――だから私は行かないのよ。つまり私が言ってるのは、あんたが魔理沙を舐めてるっていう、そういう話よ」
どこか自慢げに、そう話す霊夢。
確かに紫は魔理沙のことを、「人間の割に」よくやる方だとは思っていた。
そんな紫の下した評価を、けれど霊夢はそれでは足りないと、そう言うのだ。霊夢の言葉を聞いても、紫は自分の目が間違っているとは思わない。
少なくとも現段階の魔理沙は、人間にしてはよく出来る程度の、そんな力を持っているだけで――霊夢が買うほどの「何か」を持っているようには、到底思えなかった。
だから紫は霊夢にそう正直に話した。
「私も魔理沙のことは知っているつもりだけど……貴方が言うほどの力を持っているようには、どうしても思えないわね」
すると霊夢は、ただ不敵に笑って、言った。
「そう? ……それなら魔理沙がこの異変を解決出来るかどうか、賭ける?」
霊夢の表情からは確かな自信が見て取れる。その賭けに、まさか自分が負けるはずはないと、心の底から信じているようだった。
――言い換えれば、それは霊夢が魔理沙をそれだけ深く信頼しているということである。
自信に満ちた笑みを浮かべて、まっすぐに自分を見つめてくる霊夢を見て、だから紫は悟った。
「……やめておくわ。当代の博麗の巫女に賭け事を挑むなんて、それこそ莫迦のすることだもの」
人間であれ妖怪であれ、賢明な者は信じがたい強運を持つ霊夢に賭け事で挑むようなことはしない。
確かにそれは事実ではあるけれど、今の紫にとって、おそらくそれはあまり重要な事柄ではなかったに違いない。
*
「……見て分かりませんか?」
どちらが親なのかと尋ねられて、一見優しそうな男はそう答えた。
彼は魔理沙より一回り程度上の年齢に見える。せいぜい二十代半ばといったところだろう。
一方で頑固そうな男は禿げ上がった頭と顔の深いシワで、どうみても五十過ぎだ。
そんな親子である彼らに、けれど魔理沙は尋ねたのだ――どちらが親なのか、と。
「ああ、分からないな。だから教えてくれないか?」
魔理沙はにやりと笑いながら、優しそうな男に尋ねた。
男は少し怪訝な表情をして一瞬沈黙する。疑わしそうに魔理沙を見て、次に頑固そうな男に目配せをする。頑固そうな男はかぶりを振るかわりに、ただ静かに目を閉じた。
そうしてから、優しそうな男がそれを口に出す。
「見てのとおり――こちらが父で、ボクが息子ですよ」
魔理沙はその言葉を聞いていたのかさえも分からないくらい、一切微動だにせず、ただまっすぐにその男の目を見ていた。
まばたき一つせず、まるで彫刻のように。
そんな凍りついた時間の中で、ふと魔理沙の口だけが時間を取り戻す。
「……なるほど、な。お前はそうやって『嘘をつく』のか」
「………………」
「私はもう全てを理解しているぜ。お前は嘘つきで、だから本当は若く見えるお前が父親でそっちが息子だってこと――そして、お前の目的が何であるのか」
魔理沙は続ける。
「だってこの家、本当は私の家だよな? そんな私の居場所を、お前は私を騙して乗っ取ろうとした――そういうことだろ?」
魔理沙は得意げに笑いながらそう言った。
しばらく男は悩むような素振りを見せていたが、やがて諦めたようにため息を一つつくと、魔理沙に尋ねるように言う。
「……どうしてわかったんですか?」
「そんなの勘に決まってるだろ? ……なんて、あいつみたいなことはさすがに私には無理だからな、もちろん理由はいくつかある。その中で一番大きな要因となったのはやっぱり、『私が魔法の森で迷うはずがない』ということだぜ。この森は私にとって庭みたいなものだ。どのキノコがどこに生えているかさえ、完全に記憶出来ている程度にはこの森の道に詳しい自負がある。もし私がこの森で迷うとしたら、それは何らかの『異変』が起きているときだ。まあ実際のところは、私は迷ったのではなく、迷ったと『思い込まされていた』だけみたいだが……その証拠に、私はこうしてちゃんと自分の家にたどり着いているんだからな?」
魔理沙は続ける。
「ただ最初はそんなことにさえ思い至らない程に、完璧にお前の術中にはまっていた。もし何のきっかけもなかったら、そのまま私は自分の家から追い出されて、気付いたときにはどこにも居場所がなくなっていたかも知れない」
よく考えれば、それはどこまでも恐ろしいことだった。正しい道を歩みながら、迷ったと思い込まされる。本来の居場所にいながら、そこを自分の居場所だと思うことが出来なくなる。
魔理沙は途中まで、そうした術中にはまっていたのだ。
その術中から抜け出すきっかけ。それが――。
「――この紅茶、珍しい味だよな? これはな、実は紅魔館のメイドに少しだけ分けてもらった、とっておきなんだぜ。あまりに珍しいものだからなかなか手に入らないらしくてな、今はそのメイドだって在庫を切らしているくらいだ。だからこの紅茶が今飲めるとしたら、そんなとっておきを勿体無いからとずっと飲まずにいた、この私の家くらいなんだよな」
貧乏くさいだろうと、自嘲気味に笑いながら言う魔理沙。
突然訪ねてきた本来の家主である魔理沙にお茶を要求されて、慣れない家で目に付いた紅茶を慌てて入れた男は、そんなささいなことが結果に決定的な差異を生んだことに愕然とした。
それさえなければ――否。
たとえそれがなくとも、きっと魔理沙は何か別のきっかけを見つけて、どうあったところで必ず同じ結末に行き着いたのだろう。
それほどに、男から見た魔理沙は異質だった。
思えば最初から、魔理沙は異様な存在だったのだ。
本来魔理沙くらいの年齢の少女が魔法の森で「迷わされた」なら、その心はどうしようもないほどの恐怖に支配されるはずだった。それは死という、絶対的な恐怖。
けれど魔理沙からは、そんな感情をほんのひとかけらたりとも読み取ることが出来なかった。
家の扉を開けた先にいた少女は、どこまでも楽天的に、笑みを浮かべていた。
まるでその少女は、どんなに過酷な状況に陥ったとしても、その全てを笑いながら受け入れてしまうかのようで――。
――だから男はその瞬間に、魔理沙を標的にしたことを心の底から後悔していたのだ。
「さて……ここからが本題だ。信じるかどうかは任せるが、別に私はお前を恨んだりはしていない。人間がそんな大きな力を手に入れたら、まあ嬉々として使いたくなる気持ちも分からなくもないしな。金輪際私に迷惑をかけないというなら、あんたらがこのまま玄関から出て行ってくれれば今回は一件落着ってわけだ」
魔理沙はそんなことを言う。
けれどその言葉を聞いて、男の様子が変わった。
「……嬉々としてこの力を使ったことなんて、一度もありませんよ」
「……?」
「あなたは、ボクの力を意図して『人を騙す』能力だと思っていませんか? 違うんですよ。ボクの力は、そんな使い勝手のいいものなんかじゃない」
そう前置きをすると、男は静かに語り始めた。
「始まりは五十年と少し前です。ボクには妻がいて、ちょうどその妻がそこにいる息子を産んですぐの話です――」
人里から少し離れた場所で働く男を、妻が赤ん坊を抱きながら迎えに来たのだという。
危ないからよせとは普段から言っていたが、実際に来られると嬉しいもので、男は息子を抱きながら、上機嫌で家に帰る途中のことだった。
――妖怪。
男の目の前に、名前もないような低俗な妖怪が現れた。それを認識した次の瞬間には、男は頭に強い衝撃を受けて、息子をかばうように抱いたまま意識を失った。
次に男が意識を取り戻したとき、周囲に妖怪の姿はなく、ただ息子の泣き声がこだまするだけだった。
身の危険は去ったのだと理解すると同時に、もう一つ――。
――妻の姿がどこにもなかった。
男はそれがどういったことを示すのか、信じたくないと思う一方で、頭では理解してしまう。
いつの時代でも、妖怪が生贄に求めるのは女性の肉であることがほとんどだ。
――だから妖怪は、男の妻だけを食べて、満足して去ったのだ。
「何というかボクは、昔からそうなんです。早とちりというかうっかりというか、どうにも勘違いをしてしまうことが多かった」
そう話していくたびに、男の二十代半ばだった見た目が、徐々に老けていくことに魔理沙は気付いた。
二十代から三十代、四十代へと、止まることなく――。
男はそれを気にした風もなく話を続けた。
「それから里に帰った『私』は塞ぎこんだ。それを心配した近所の人間がどうしたのかと尋ねるので、私は言ってしまった。『妻は妖怪に食われて死んだ』と」
――けれどそれは、間違いだった。
男の妻は、本当は生きていたのだ。
本来なら、そこでめでたしめでたしと、そうなるはずの話だった。けれど――。
「――何故か里の人間は、本人を目の前にしても妻が生きていると信じようとはしなかった。そうして『ワシ』が妻を発見したときには、彼女は里の外れで無残に死んでおった。里の人間は、どうしてかワシの言葉だけを盲目的に信じ続けてしまったのじゃ! ……分かるかね? ワシの力は、人を必要以上に信じ込ませてしまう能力なんじゃよ。ワシはこの力のせいで、それからも意図せず何人もの人間を死に追いやってしまった。ワシのちょっとした愚痴や、軽い冗談を必要以上に真に受けたりした人間が、どんどん死んでいくんじゃよ? この恐怖が、あんたに理解出来るかね?」
男の見た目はすでに八十手前の老人になっていた。
頭は完全に禿げ上がり、顔もしわだらけである。
それこそが彼の本来の姿であることは魔理沙にも分かる。魔理沙の何倍もの時間を、そんな思いをしながら生きてきた彼を、しかし魔理沙は睨みつけるように見た。
そのまま苛立ちを隠そうともせず、魔理沙は言う。
「それで――それでお前は被害者気取りか? ……ふざけるんじゃないぜ! お前は自分に瑕疵があると知りながら、一向にそれを直そうともしなかったんだろ。何の努力もせず、自分の怠惰を棚に上げてるだけじゃないか。お前の能力は、言ってしまえばただ単に『説得力がある程度の能力』でしかなかった。その能力は、お前が努力すればもっと素晴らしいことに生かせるはずの能力だっただろうに……お前のその怠惰が、自分の能力を『不用意に人を死に追いやる能力』に変えてしまったんだよ。それはお前が逃げて目を逸らしたからだ。だったらお前の身に降りかかった不幸は全部、お前の責任だぜ! お前は被害者なんかじゃ絶対にない。その証拠に、お前が私を騙そうとしたことについては、何一つとして正当性は存在しないんだからな!」
「それは、これ以上被害を増やさないために、人との関わりを――」
「残念ながらもうお前に私を騙すことは出来ない。だからそれは嘘だ。お前という人間を理解して確信したぜ。本当はお前、逃げてきたんだろう? ――九尾の狐から」
「っ……!」
「大方お前みたいな奴にはこの幻想郷に住む資格がないと、どこぞの妖怪がお怒りになっているんだろうな。こうなった以上、私の家を乗っ取ったところでどうにもならないぜ。あいつが目をつけたからには、お前に逃げ場なんてどこにもない。それこそ幻想郷の外に逃げたって、あいつは絶対にお前を追い詰める」
老人は睨みつけるように魔理沙を見たが、魔理沙は全く臆することなく、まっすぐにその目を射抜くように見ていた。
老人は何かを言いたがっていたが、何も言葉が見つからないようだった。
すると、それまで沈黙していた頑固そうな男が唐突に口を開く。
「親父……もうやめにしないか」
「だが、それではお前が――」
「もういいさ。もう充分なんだ。そうなるしかないとその娘がいうなら、きっとそのとおりなんだろう。……だったら、もうそれを受け入れるしかないんだ。親父も、もう充分生きただろう? だからそろそろ、潮時だ――」
◆
「ねえ紫」
「……何かしら?」
「あんたは魔理沙が異変を解決するとは思ってなかったわけよね?」
「……まあ、そうなるわね」
「だったら、私がこの依頼を断った場合はどうするつもりだったのよ?」
「どうするって……まあ、なるようになったんじゃないかしら?」
「何よそれ……今回の依頼って、そんな適当でよかったわけ?」
「よくはないけど……ずっと放置してたから、正直今更すぎる気もするのよね」
「今更?」
「そう。だって――その人間も、そろそろ寿命でしょう?」
「………………」
霊夢は無言で紫の頭を叩いた。
「痛っ、何するのよ霊夢」
「……ふん」
不機嫌そうに顔を背ける霊夢。
霊夢は気に食わなかったのだ――霊夢に本当のことを言わない、紫のことが。
§
老人とその息子は魔理沙の家を後にして、魔法の森の中をただあてどもなく歩いていた。
出て行こうとする老人に、魔理沙はそれ以上何も言ったりはしなかった。
老人は考える。
――自分はどこで間違えたのだろうか。
人生で最大の後悔は、やはり最愛の妻を、自分の勘違いとその言葉で殺してしまったことだ。自分が足を踏み外したとすれば、あのとき以外に考えられない。けれどそれだって、自分にこんな力がなければ起こりえなかったことで――。
――ああ、そうか。
それの考え方こそを、魔理沙は「逃げて目を逸らした」と言ったのだ。
目の前で起きた悲劇から逃げて、自分の力から目を逸らした。
そうして悪いのはこんな力を自分に授けた世界の方だと責任を他に押し付けた。
意図せず人を死に追いやったことは何度もあったが――意図して人を死に追いやったことだって、やはり老人にはあったのだ。けれどその責任さえ、老人は世界に押し付けようとした。
きっとそれこそが、魔理沙のいうどこぞの妖怪の逆鱗に触れたのだろう。
自分の咎を一方的に押し付けられて、怒るなという方が無理な話だ。
――だったらもう、息子の言うとおり、ただ受け入れる他ないのだろう。
老人がそんな結論に至ると、不意に周囲が闇に覆われた。
「なんじゃこれは……」
「………………」
「あら、人間」
小さな子供の姿をした金髪の妖怪。
闇を自在に操るその妖怪は、ただ無邪気に老人たちに尋ねた。
「あなたたちは、食べてもいい人類?」
「食べてもいい……? ……ああ、そうじゃな。少なくともワシは、食べられても文句の言えん人類じゃ。だが、そっちの息子は食べてはいかん人類だからな」
「そーなのかー?」
「そうなんじゃ」
そうして老人が息子を解放するように言い、そして自分の息子に向かって言った。
「すまなかったな、ワシはお前に何もしてやれなかった。お前を幸せに出来なかったワシは父親失格で――」
聞き取れた老人の言葉はそこまでだった。
闇から解放された男は、気付くと見慣れた草原に立っていた。
人里から少し外れたその場所で、しばらくぼうっと立ち尽くす。
最後に自分の父親は言った――自分は父親失格だった、と。
けれど男は、そうは思わなかった。
男にとっては、彼こそが普通の父親だった。よその父親のことなど、知るはずもない。男は他人と少し変わった力を持つ父親を、それもただの個性だとして全てを受け入れていた。
ただ一人、本人だけがその力を受け入れることが出来なかった。
「幸せに出来なかった……か。自分では幸せなつもりだったが、分からないものだ。……いるんだろう、九尾の狐」
そう呼びかけると、男の目の前に美しい九尾の狐が現れる。
彼女の名前は八雲藍――八雲紫の式だった。
「何か」
淡白に短い疑問の言葉を発した藍。
「頼みがある」
「何だ」
「私を楽にしてほしい」
「……それは主の命に含まれていない」
「だからこそ頼みなのだ」
「……了解した」
「――ありがとう」
それが、男の最後の言葉だった。
*
あれから数日後、紅魔館の図書館で魔理沙はパチュリー・ノーレッジの話を聞いていた。
「外の世界の社会学者マックス・ウェーバーによって示された支配の三類型によれば、正当性は三つに分けられるそうよ。一つ、昔から正しいのだからこれからも正しいと推定する『伝統的正当性』。二つ、法や秩序に基づいた正しい手続きによって導かれたから正しいと推定する『合法的正当性』。三つ、正しいと思われる人が言うのだから正しいと推定する『カリスマ的正当性』。……簡単にいえば、人が他人の言うことを聞くためには、このうちのどれかの正当性が必要ということよ。さっき魔理沙が言った今回の件の老人が持っていたのは、これらの正当性のうちのカリスマ的正当性と言えるでしょうね。それも、とてつもなく強大な先天性のカリスマ。その老人が発する言葉には、普通では考えられないほどの力があった。それこそ言霊や呪いの類に近いような、まるで魔法のような力を持った言葉。本来それほどのカリスマを持った人間が生まれることは本当にごく稀なことだと聞くけどね。外の世界だと、大抵そうしたカリスマを持って生まれた人間は独裁的、あるいは宗教的な指導者になってしまうものらしいわね」
パチュリーの小難しい話を七割がた聞き流していた魔理沙がそこで質問をはさむ。
「ということは何だ? 霊夢が紫から聞いたっていう、妖怪化寸前ってのは嘘ってことか?」
「それが、必ずしもそうとは言えないの」
「どういうことだぜ?」
「うーんと、例えば魔理沙は、妖怪と聞いてどんなものを思い浮かべる?」
「妖怪? そうだな……何というか、人間の日常の中にふと紛れ込んだ、本来存在しないはずの異常みたいな――」
魔理沙は考えながら言葉を発していく。
普段何気なく関わっている妖怪たちを、改めて言葉にして説明することはどうにも難しかった。
「まあ、魔理沙にしては良い線いってるわ。……妖怪というのはね、『物語』なのよ」
「物語?」
「そう。埋もれていく平凡な日常の中で、時折何かの歯車が狂ってしまう。最初はただの偶然だった。例えばたまたま血を全部抜かれて殺された人間の死体が一つ見つかったとする。それだけならただの猟奇殺人事件。でもその偶然が二つ重なったら? そんな死体が二つ見つかったとき、ふと誰かが言うのよ――『吸血鬼の仕業だ』ってね」
そのときただの偶然は、「意味のある偶然」になる。そして気付けばそこに、「何か」が生まれていた。
その「何か」こそが妖怪である。
偶然が妖怪を生むのか、妖怪が偶然に乗じているのか。
そこまでは分からないけれど、とパチュリー。
「言葉が人を殺すことは、決して珍しいことじゃない。けれどそれが、同じ人間の手によって何度も引き起こされたら? そこに物語が生まれたとしても、不思議じゃないでしょう?」
「つまり、何だ? あの老人は妖怪化していたとしても不思議じゃないが、ただのカリスマを持って生まれただけの人間かも知れないってことだよな? ……それって結局、どちらとも言い切れないって話じゃないか」
「それはそうでしょう? だって私は魔理沙の話を聞いただけで実物を見たわけじゃないんだから」
そう言ってパチュリーは目を細めて笑う。
「何だよパチュリー……さんざん小難しい話をしときながら、結局何の役にも立ってないぜ?」
そんな文句を言う魔理沙だったが、すでにパチュリーはこの話題は終わりだとばかりに読書を再開していた。
「……あーもう。紫のやつが何を考えてたのか、結局分からず仕舞いじゃないか。霊夢は分かっているみたいだが、私が訊いても何も言わないし……むしゃくしゃするから何冊か魔導書借りていくとするか」
「持っていくなー……って言っても無駄なんでしょうね」
「お? 今日はやけに物分りがいいなパチュリー」
「別に、そういうわけじゃないけど。それより魔理沙、魔導書もいいけどたまには他の学術書とかも読んだらどうなの? ほら、さっき言ったマックス・ウェーバーとか――」
「小難しい本は遠慮するぜ。私の時間は限られてるからな、興味のあることに全力を注がないと。寄り道している余裕はないんだよ」
そう言いながら、本棚からめぼしい本を物色する魔理沙。
横目でそれを見ながら、パチュリーは大きなため息をつく。
「お、これいいな。ちょっと死ぬまで借りてくぜ」
「はいはい、さっさと帰れー」
やる気のない声でそう言いながらパチュリーは、しっしと犬をあしらうように片手をひらひらと揺らしていた。
魔理沙は元気よく手を振って、図書館から去っていく。
そうして残された図書館で、パチュリーは思う。
魔理沙はいつも、何かと言えば自分の寿命を口に出す。「妖怪のお前らと違って、私の寿命は短い」とそんなことを、けれど笑いながら冗談でも言うような軽さで言うのだ。
――おそらく魔理沙は死ぬことを恐れていない。
それは誰にだって訪れる当然の結末として、ただ静かに受け入れている。
十代前半の、ただの少女が――死をさも当然のこととして受け入れる。
それがいかに異様なことか、本人はきっと気付いていないだろう。
魔理沙は別に死にたいなどとは思っていない。
ただ、別にいつ死んでもおかしくないと思っていて――それが転じて、いつ死んだとしても別にいい程度には思っているのだ。
彼女は死を受け入れている。全てを、ただ受け入れている。
そしてそれはおそらく、霊夢だって同じなのだろう。
霊夢と魔理沙はよく似ているとパチュリーは思っていた。二人はその心の根っこの部分で、同じように楽天的な思考をしているのだ。
楽天的――それは本来、前向きを意味する言葉ではない。
――この最善なる可能世界においては、あらゆる物事はみな最善である。
それは、この世界は現実に起こりうることの中では一番ましであるといった意味でしかない。
言い換えれば、起きたことは全て必然であったとする諦観にも似た概念。
仮に過去に戻って何かをやり直せるとしても、楽天的な世界観ではより良い結果が得られることは決してなく、何度やり直しても同じ結果しか得られない。
それはつまり、目の前で起きることを、ただありのままに享受するということ。
「……そんなものは、何百年も生きた妖怪が持つ心よ。あなたたちみたいな十代前半の小娘が持っていい心ではないの。普通はもっと無様に泣き喚きながら、世界と現実の残酷さを呪ったりするものだというのに……」
――これではまるで、あの二人は妖怪と大差ないではないか。
パチュリーはそう思ったが、けれどそんなことを自分が考えたところでどうなるものでもないと思い直す。
結局それは、彼女たち自身の問題でしかなくて――。
――だからきっと、他人が何を思ったところでなるようにしかならないのだ。
妖怪とは、物語だ。
一度なら単なる偶然でも、二度三度と重なれば意味のある偶然となる。
霊夢はともかく、普通の人間である魔理沙が何度も異変に頭を突っ込んでいる状況は、一体何だというのだろうか。
それはパチュリーには分からないことで、そして特別知りたいことでもなかった。
ただパチュリーは考える。
魔理沙のような普通の人間などいるのだろうか――?
――そうして考えれば考えるほど、それはどこまでも妖怪的なのであった。
魔理沙も霊夢も死を恐れていないというのは確かにそうなのでしょう。
里の庇護からも外れ、いつ妖怪に殺されてもおかしくない環境で一人暮らしをしている訳ですから。
弾幕ごっこでも、事故で死んだら自己責任となっていますが、間違いなく死ぬ可能性があるのは人間だけでしょうし。
でもどうなのでしょうね。
その死を受け入れている思考は妖怪に近いのか、それとも安全がありふれている現代の人間には理解出来ないだけなのか。
幻想郷も遠くに想ったり観光に行くだけなら楽園でしょうが、妖怪の隷属の様な形で生きる事は外来の人間の無駄なプライドが許さないかもしれませんね。
なんとなく、スタンドバトルのような妙味があると感じました。
楽天的と言い表せる、ある種の『諦観』が、思い込ませる能力に打ち勝ったと、そういう解釈で良いんでしょうかね。
なんでマリサが勝てたのかが、今一はっきりとは読み取れなかったかな。
ちょっと構えて読んでましたけど、ごくまっとうに面白かったです。
なんていうか哲学関係のネタ、ライプニッツ、ニーチェ、ヴェーバーなどなどが盛り込まれてますが、少し道具めき過ぎてるように感じました
あとはオリキャラがさっぱりと死にすぎっていうのが気になりましたね。それこそこのSS全体が予定調和的なので、節々に安っぽさを覚えてしまうかも
ただ、ところどころ展開の説得力が足りなかったような気もします。
もう少しストーリーに組み込めたのではないかと。
文章も淡々としながらなかなかスリルがありました。
部屋の描写に「お前が言うなー」と心ツッコミしたら…w
個人的考えですが、霊夢は異常な程楽天的に死を受け入れているのに同意ですが、
魔理沙は種族変えの可能性があるだけ、より人間的に「死」に対して足掻いてるイメージがあります。例の台詞もその表れかと。
ただ、最初のウェーバーの言葉、最後の支配の三類型は正直少々とってつけた感が…。
個人的な考えですが、哲学的な話とウェーバーは意外と合わない気がします。