一から二にするのは簡単だが、零から一にするのは困難である。
一つのアメをあげたら、二つのガムをもらえる。
アメをあげなかったら、ガムはもらえない。
簡単な理論だ。
それに霊夢は悩んでいた。いや、死にかけていた。
一日中畳の上をゾンビのように這いつくばっていた。肌が畳にこすれて血が滲む。枯れ果てて潤いを無くした目に濁った涙が浮かぶ。
「う……飢え死にするぅ……ううぅ……」
神社の食糧が……尽きた。
霊夢は最期に、昨日の出来事を思い浮かべた。
それはとても不思議なものだったーー
とくにひもじい思いをしたのは昨日だった。
たくあん一つ。それも最後の最後まで残ったはしっこの丸くなった部分。故意に閉じ込めるように縮こまっている見るも哀れな、それしか博麗神社にはなかった。
それをどうにかしてマトモな食糧に変えようとして、意識が朦朧とした中、死に物狂いでわらしべ長者に出かけた。
正直、煮干し三匹になれば幸いだと思っていた。
悲劇は突然起きた。
幻覚が見えた。背の低い女神がこちらに手を差し伸べる。私の知らない“神”。
手にはお椀があった。お椀は幸福には程遠いものに思えたが、中身次第で霊夢は誘われた。
女神は静かに唱えた。
「そのたくあんを麺つゆに変えてあげましょう。うどんも四本入っていますよ」
「たくあんのはしっこが、うどん四本と麺つゆ……たくあんのはしっこが、うどん四本と麺つゆ……」
すでに霊夢の手にはお椀があった。自分でとったのか、それとも女神がすり替えたのか、たくあんは女神がすでに持っていた。
お椀に視線を落とす。女神の言ったとおり、うどん四本と麺つゆがたっぷり入っていた。陽に反射する麺つゆが、私には希望の聖なる光に感じた。
苦笑いをする。からだが震えて、うどんがウネウネと絡まる。
「……ふふふふ……麺つゆと、うどん……ふふふふ……ふふ…」
そして、霊夢は気を失った。
幻聴が聞こえる。さっきからずっとだ。意識が霞んで声も聞き取れず、食べ物が尽きて力の限りに動けない。
誰かが呼んでいる気が霊夢にはしたが、目があかない。
「……さん! む…ん……!」
確かに声は聞こえるけど、頭が痛い。身体が言うことを効かない。
ぼやぁと目の前に人影は見えるが、判別できない。
血の色が目の前に見える。床を見てはいない。血ではないが、真っ赤に見えた。
「霊夢さん!」
冷たいものが顔にかかった。それが水だと理解した霊夢はすぐさま目をあけた。
視界が回復する。鳥の囀りが聞こえる。声も鮮明。そして目の前の人物を把握した。
赤く鈍った輝きを放つ瞳、天まで大きく生えた二本の耳。
久しぶりな気がした。
「優曇華……どうしたの?」
「それより霊夢さん、これを食べてください」
鈴仙は丁寧に畳に重箱のようなものをスライドさせて、霊夢の前に置いた。
開けるとそれは霊夢にとって見たこともない食べ物だった。よだれが落ちる。目はまばゆく輝いていた。
すぐに霊夢はむしゃぶりついた。ほんのり甘く口に広がる甘みに霊夢は思わず涙を流した。
「おいしい……おいひいよぉ! はうぁっ……」
普段見せない霊夢の食べっぷりに、鈴仙は微笑する。
ハッと我に返った霊夢が表情を直してしかめっ面をする。若干頬を赤く染めて。
「……なんで笑ってるのよ」
「いえ、こんなに必死に食べる霊夢さん初めて見たので」
鈴仙は目に涙を浮かべていた。感動ではなく、ただの笑いすぎである。赤い瞳は可愛らしい“普段通り”になっていた。
霊夢は羞恥と怒りを持った。
「ちょっと、人がものを食べてる姿を見て泣き笑いするとはいい度胸してるじゃない」
ようやく食べ物によって体力を回復した霊夢が声を荒げる。鈴仙に鼻がつくまで顔を近づける。
誰だってあの姿の霊夢を見たら笑うだろうと鈴仙は思っているようだったが、口にはしなかった。
鈴仙は顔を少し遠ざけて、霊夢を一瞥した。
「ごめんなさい……ふふっ」
「笑うなこら!」
怒っている間に、すでに食べ終えていた。三つくらいあったはずなのに。
口についた甘いものを舌で舐める。
鈴仙から視線をそらした。
「食べ物をくれたことにはとても感謝するわ」
「いえいえ」
霊夢は無情に言ったつもりだったが、ツンと赤面しながらそう言った。
「で、あの食べ物は何だったの?」
「え、それって霊夢さん、本気で言ってます?」
鈴仙が拍子抜けした表情をする。アホを前にするような顔だった。首筋が硬直している。
霊夢にはそれが理解できなかったが、一応頷いた。
鈴仙はため息を漏らして、霊夢を見据えながら言った。
「おまんじゅうに決まってるじゃないですか」
おまんじゅう……霊夢がいつも食べてた大事な主食の一つである。あの口に広がる餡子の甘みは忘れるはずが無い。
幻覚と幻聴で食べ物の判別すらままならなかったらしい。
霊夢は恥じた。生命線の血色がよく働く。
ボテボテの弁解を始める。
「そうよ……! まんじゅうよ! それよそれ!」
「……大丈夫ですか?」
腹が減っては戦はできぬ、どころの話ではなかった。腹が減っては主食すら忘れる、とはよく言ったものだ。
ふと、霊夢の肩に手が置かれた。
華奢で、経験のある温もり。家ではどんなことをやっているのか、一瞬で判断がついた。
苦労者だろう……
そういえば霊夢は鈴仙と二人でいたことは一度もなかった。それどころか、話す機会すら少なかった気がする。
前々から永遠亭のウサギと言うことで、やはり宴会などでしか見かけなかった。
その度にあの意味不明な医者と理解不能な黒髮の月人を見る。そしてアホみたいに簡単に霊夢は幸福のウサギを目にする。これでは幸福もクソもないと、霊夢は常々思っていたほどだ。実際幸福なんて来やしない。
竹林の永遠亭は、霊夢の頭の中では意味がわからないものとイコールで繋がっているようなものだった。
が、今は違う。
「優曇華、あんた…」
「よくお師匠様に肩揉みしてるんです」
そして今ここで鈴仙とともに二人っきりでいるこの空間は偶然だろうか。霊夢はそうは思わなかった。
何故かはわからなかったが、何となくそんな気がするのだ。
霊夢は鈴仙の手に手を重ねた。どけようとしたつもりだったが、繊細な指に手を引いた。
少し鈴仙に甘えたかった。
「お疲れでしょう。私が肩揉みしてさしあげます」
そう言って鈴仙は両指に優しく力を入れた。
パキパキパキ、と骨の音が響く。身体の芯から芯まで一貫して、解放を得た気分になった。
鈴仙は手慣れた手つきで肩甲骨から腰に至るまで、揉みほぐした。その度に骨の音がする。それは一種の軽快なリズムにも思えた。
鈴仙はまた、さっきのような表情で言った。
「どんだけ凝ってるんですか」
「妖怪退治大変なのよ。巫女を侮らないで」
「いったい何歳なんですか」
「うるさいわね。歳下よ」
霊夢は久々にリラックスできていた。この幸福な時間は、わらしべ長者の賜物だろう、と思った。
妖怪退治はもちろんのこと、いつもは魔理沙や萃香が神社をよく訪れるので、休む暇が少なかった。
お茶を出したり、イタズラされたり、魔理沙を追いかけたり……私の周りはどうして厄介者が多いのだろうと、常日頃思っていた。
「にしても、零から一になることもあるのね。今回は一より大きい気もするけど」
「何か言いました?」
「いや、何もあげてないのにあんたはこうやって世話焼いてくれるんだなぁ……って」
一から二にするのは簡単だが、零から一にするのは困難である。
ただ、今回の霊夢はひょっこりやってきた鈴仙によって一命を取り留めた。まんじゅうももらい、あまつさえマッサージまでしてもらっている。
これほどの利得はない。
「魔理沙なんて、一から零にするんだから」
「確かに、魔理沙さんならやりかねませんね」
「前なんて私が寝てる間に衣類を持ち出したのよ! とっちめてやったわ!」
口に手を当てて優曇華は微笑んだ。幸せそうな表情……
気分も軽くなり、霊夢は昨日のことを話してみようと思った。
「昨日ね、たくあんのはしっこだけ持って外に出かけたのよ」
霊夢はポツリポツリと鈴仙に語りかけた。内容は質素だが、鈴仙なら聞いてくれると思ったからだった。
この短時間で自分が鈴仙を信頼したと思うと、霊夢は幸福だった。それゆえ、永遠亭に僅かながら親近感を抱いた。今度訪れようかしら。
鈴仙はしっかり聞いてるようだった。
霊夢はマッサージに顔を緩めながら続ける。
「意識を失いかけたときに女神が私の前に現れたの。私は大概の神の姿を知ってるけど、あれは見たことなかったわ」
「どんなお姿でしたか?」
優曇華が緊張感の欠片も感じさせないような声で訊いた。
手は止めていない。一定のリズムで霊夢を刺激していた。
「そうね……胸が赤く光ってて、触覚が二本長いのが生えてたわ。あとはミニスカート……っぽいの履いていたわ」
「ああ、やっぱり……」
大きなため息をついて鈴仙はそう漏らした。手を額に当てて、やれやれと言った様子である。
霊夢は困惑した。
所詮竹林のウサギ、何故神の姿を知っているのか気になったからだ。
霊夢は素直に訊いた。
「あんたはその神を知ってるの?」
「知ってるもなにも、あれは私です」
霊夢は驚愕した。恐る恐る鈴仙の顔を覗き込んだが、嘘をついてるような顔には見えない。それどころか、申し訳なさそうな顔をしている。
一瞬視線が合い、慌てて前に向き直す。
冷静さを失った声で霊夢は訊いてみる。
「それってどういうこと?」
「実はですね、そのとき神……あ、これは私です。霊夢さんが見た神様は私ですから」
「もうそこはわかってるの。それがなんなの?」
「そのとき私はですね、気絶してたんです」
「…………?」
……訳がわからない。得意の勘を働かせたが、よくわからない。
鈴仙はようやく手を止めたようで、話し始めた。
少し霊夢は寂しかった。
「そんなにたいした話じゃないのですが……」
『鈴仙!』
私は突然お師匠様に呼ばれました。ちょうど部屋の掃除を任されていた頃なので、綺麗になっていない場所を指摘されると思ってました。
しかし、それは意外すぎる言葉でした。
『どうしたのですか師匠?』
『たくあん無い?』
『え?』
なぜかお師匠様はたくあんが必要だったらしいです。それも最後に残るはしっこの部分。
後から聴いた話、『“秘薬の材料”だから追求しないで』と仰ってました。
もちろん私がそんなもの……いえ、そのような食べ物を持っているはずなかったので、悩んでいたのです。
そしたら……
『鈴仙! たくあんあるよ!』
てゐ……だったと思います。
私が気絶したのは“コイツ”のせいなので、記憶が曖昧なんです。
どうやらてゐは霊夢さんがたくあんのはしっこを持ってる事を知っていたようです。てゐの情報網はいったいどこからくるのやら……
それはいいとして、てゐは私に提案してきました。
『私には作戦があるんだ』
『作戦?』
後からお師匠様に聴いたのですが、私はてゐに気絶させられたようです。
提案は後からお師匠様から伝えられました。もちろん、その時は既にてゐは霊夢さんからたくあんのはしっこをとっていたのですが。
「へえ……つまり貴方も言ってしまえば被害者ね」
「まあ、そうなります」
鈴仙は話をまとめた。
「霊夢さんが見たものをまとめます。私の憶測ですが……。胸の赤い模様は私の瞳、触覚は私の耳、ミニスカートは私の服。つまり、女神はてゐが持ち上げていた気絶した私だった、ということです」
「となると、幻覚が見えたのも辻褄が合うわね。貴方の瞳を見ると錯乱するって言うし」
「それがてゐの作戦でした。戦闘で勝てない霊夢さん相手にーー尤も昨日の霊夢さんは瀕死状態だったのですがーー頭をおかしくさせてしまって、気絶させて、たくあんを奪った」
「永遠亭のウサギも侮れないわね……。瀕死とは言え妖怪にこの私が一本とられるなんて」
霊夢はわざとらしく頭を抱えた。
鈴仙がかたい声で詫びる。
「ですので、そのお詫びとして私が訪問しに来たのです」
「そうね。貴方のおかげでだいぶ楽になったわ」
結果的にはたくあんより豪華なものが食べられたので、特に問い詰めることはしなかった。
それ以上に、鈴仙がいることに嬉しさを感じている自分に気づいて、少し恥ずかしくなった。
鈴仙はすぐにそれに気づく。
「なんで顔赤くしてるんですか? 怒ってます?」
すぐに表情に出てしまうのが霊夢。気づかれたくなかったので適当に合わせる。
「そ…そうよ! 私はいまとんでもなく怒ってるわ」
「それならまた明日食べ物をお持ちします。少しの償いにでも」
相変わらず丁寧な鈴仙に、霊夢は感謝していた。
無意識に鈴仙の肩に手を伸ばす。暖かい……
胸が熱くなる。鈴仙の目を見ることだけはできなかった。
「どうしました?」
「……次は、私の番よ」
「はあ……助かります」
「ほら! さっさと後ろ向きなさい! 正面からなんて……い、嫌よ…」
急にもどかしくなる自分に幼さを感じた。
魔理沙なんかとは正面で遊びあってるのに。鈴仙だと、急に恥ずかしくなる。
鈴仙はけろっとしてるのに、自分だけ恥ずかしい。特別な感情なんてないはずなのに、対面の幸せは霊夢にとって苦だった。
頭の中でその矛盾を克服したかった。
どうしてこの数分間でこんなにも鈴仙に惹かれるのか、自分でもわからなかった。瞳のせいではない。高揚する霊夢の鼓動は、かつてない気持ちだった。
でずっといたい。また明日来てほしい。その心の内だけは、確かに霊夢は感じていた。
「では、お願いします」
「…………もぅ」
霊夢はプイと余所見して、手を肩に乗せて、静かに鈴仙の背中に顔を埋めた。
「明日……明日また来なかったら…………むぅ」
「ど、どうしました……?」
霊夢の胸の鼓動は、たぶん鈴仙の背中に届いていた。
唯一顔色だけは伺えない鈴仙に対し、霊夢は全てを見て、そして預けていた。
それでも霊夢はボソッと呟いた。
「………………殴るもん」
一つのアメをあげたら、二つのガムをもらえる。
アメをあげなかったら、ガムはもらえない。
簡単な理論だ。
それに霊夢は悩んでいた。いや、死にかけていた。
一日中畳の上をゾンビのように這いつくばっていた。肌が畳にこすれて血が滲む。枯れ果てて潤いを無くした目に濁った涙が浮かぶ。
「う……飢え死にするぅ……ううぅ……」
神社の食糧が……尽きた。
霊夢は最期に、昨日の出来事を思い浮かべた。
それはとても不思議なものだったーー
とくにひもじい思いをしたのは昨日だった。
たくあん一つ。それも最後の最後まで残ったはしっこの丸くなった部分。故意に閉じ込めるように縮こまっている見るも哀れな、それしか博麗神社にはなかった。
それをどうにかしてマトモな食糧に変えようとして、意識が朦朧とした中、死に物狂いでわらしべ長者に出かけた。
正直、煮干し三匹になれば幸いだと思っていた。
悲劇は突然起きた。
幻覚が見えた。背の低い女神がこちらに手を差し伸べる。私の知らない“神”。
手にはお椀があった。お椀は幸福には程遠いものに思えたが、中身次第で霊夢は誘われた。
女神は静かに唱えた。
「そのたくあんを麺つゆに変えてあげましょう。うどんも四本入っていますよ」
「たくあんのはしっこが、うどん四本と麺つゆ……たくあんのはしっこが、うどん四本と麺つゆ……」
すでに霊夢の手にはお椀があった。自分でとったのか、それとも女神がすり替えたのか、たくあんは女神がすでに持っていた。
お椀に視線を落とす。女神の言ったとおり、うどん四本と麺つゆがたっぷり入っていた。陽に反射する麺つゆが、私には希望の聖なる光に感じた。
苦笑いをする。からだが震えて、うどんがウネウネと絡まる。
「……ふふふふ……麺つゆと、うどん……ふふふふ……ふふ…」
そして、霊夢は気を失った。
幻聴が聞こえる。さっきからずっとだ。意識が霞んで声も聞き取れず、食べ物が尽きて力の限りに動けない。
誰かが呼んでいる気が霊夢にはしたが、目があかない。
「……さん! む…ん……!」
確かに声は聞こえるけど、頭が痛い。身体が言うことを効かない。
ぼやぁと目の前に人影は見えるが、判別できない。
血の色が目の前に見える。床を見てはいない。血ではないが、真っ赤に見えた。
「霊夢さん!」
冷たいものが顔にかかった。それが水だと理解した霊夢はすぐさま目をあけた。
視界が回復する。鳥の囀りが聞こえる。声も鮮明。そして目の前の人物を把握した。
赤く鈍った輝きを放つ瞳、天まで大きく生えた二本の耳。
久しぶりな気がした。
「優曇華……どうしたの?」
「それより霊夢さん、これを食べてください」
鈴仙は丁寧に畳に重箱のようなものをスライドさせて、霊夢の前に置いた。
開けるとそれは霊夢にとって見たこともない食べ物だった。よだれが落ちる。目はまばゆく輝いていた。
すぐに霊夢はむしゃぶりついた。ほんのり甘く口に広がる甘みに霊夢は思わず涙を流した。
「おいしい……おいひいよぉ! はうぁっ……」
普段見せない霊夢の食べっぷりに、鈴仙は微笑する。
ハッと我に返った霊夢が表情を直してしかめっ面をする。若干頬を赤く染めて。
「……なんで笑ってるのよ」
「いえ、こんなに必死に食べる霊夢さん初めて見たので」
鈴仙は目に涙を浮かべていた。感動ではなく、ただの笑いすぎである。赤い瞳は可愛らしい“普段通り”になっていた。
霊夢は羞恥と怒りを持った。
「ちょっと、人がものを食べてる姿を見て泣き笑いするとはいい度胸してるじゃない」
ようやく食べ物によって体力を回復した霊夢が声を荒げる。鈴仙に鼻がつくまで顔を近づける。
誰だってあの姿の霊夢を見たら笑うだろうと鈴仙は思っているようだったが、口にはしなかった。
鈴仙は顔を少し遠ざけて、霊夢を一瞥した。
「ごめんなさい……ふふっ」
「笑うなこら!」
怒っている間に、すでに食べ終えていた。三つくらいあったはずなのに。
口についた甘いものを舌で舐める。
鈴仙から視線をそらした。
「食べ物をくれたことにはとても感謝するわ」
「いえいえ」
霊夢は無情に言ったつもりだったが、ツンと赤面しながらそう言った。
「で、あの食べ物は何だったの?」
「え、それって霊夢さん、本気で言ってます?」
鈴仙が拍子抜けした表情をする。アホを前にするような顔だった。首筋が硬直している。
霊夢にはそれが理解できなかったが、一応頷いた。
鈴仙はため息を漏らして、霊夢を見据えながら言った。
「おまんじゅうに決まってるじゃないですか」
おまんじゅう……霊夢がいつも食べてた大事な主食の一つである。あの口に広がる餡子の甘みは忘れるはずが無い。
幻覚と幻聴で食べ物の判別すらままならなかったらしい。
霊夢は恥じた。生命線の血色がよく働く。
ボテボテの弁解を始める。
「そうよ……! まんじゅうよ! それよそれ!」
「……大丈夫ですか?」
腹が減っては戦はできぬ、どころの話ではなかった。腹が減っては主食すら忘れる、とはよく言ったものだ。
ふと、霊夢の肩に手が置かれた。
華奢で、経験のある温もり。家ではどんなことをやっているのか、一瞬で判断がついた。
苦労者だろう……
そういえば霊夢は鈴仙と二人でいたことは一度もなかった。それどころか、話す機会すら少なかった気がする。
前々から永遠亭のウサギと言うことで、やはり宴会などでしか見かけなかった。
その度にあの意味不明な医者と理解不能な黒髮の月人を見る。そしてアホみたいに簡単に霊夢は幸福のウサギを目にする。これでは幸福もクソもないと、霊夢は常々思っていたほどだ。実際幸福なんて来やしない。
竹林の永遠亭は、霊夢の頭の中では意味がわからないものとイコールで繋がっているようなものだった。
が、今は違う。
「優曇華、あんた…」
「よくお師匠様に肩揉みしてるんです」
そして今ここで鈴仙とともに二人っきりでいるこの空間は偶然だろうか。霊夢はそうは思わなかった。
何故かはわからなかったが、何となくそんな気がするのだ。
霊夢は鈴仙の手に手を重ねた。どけようとしたつもりだったが、繊細な指に手を引いた。
少し鈴仙に甘えたかった。
「お疲れでしょう。私が肩揉みしてさしあげます」
そう言って鈴仙は両指に優しく力を入れた。
パキパキパキ、と骨の音が響く。身体の芯から芯まで一貫して、解放を得た気分になった。
鈴仙は手慣れた手つきで肩甲骨から腰に至るまで、揉みほぐした。その度に骨の音がする。それは一種の軽快なリズムにも思えた。
鈴仙はまた、さっきのような表情で言った。
「どんだけ凝ってるんですか」
「妖怪退治大変なのよ。巫女を侮らないで」
「いったい何歳なんですか」
「うるさいわね。歳下よ」
霊夢は久々にリラックスできていた。この幸福な時間は、わらしべ長者の賜物だろう、と思った。
妖怪退治はもちろんのこと、いつもは魔理沙や萃香が神社をよく訪れるので、休む暇が少なかった。
お茶を出したり、イタズラされたり、魔理沙を追いかけたり……私の周りはどうして厄介者が多いのだろうと、常日頃思っていた。
「にしても、零から一になることもあるのね。今回は一より大きい気もするけど」
「何か言いました?」
「いや、何もあげてないのにあんたはこうやって世話焼いてくれるんだなぁ……って」
一から二にするのは簡単だが、零から一にするのは困難である。
ただ、今回の霊夢はひょっこりやってきた鈴仙によって一命を取り留めた。まんじゅうももらい、あまつさえマッサージまでしてもらっている。
これほどの利得はない。
「魔理沙なんて、一から零にするんだから」
「確かに、魔理沙さんならやりかねませんね」
「前なんて私が寝てる間に衣類を持ち出したのよ! とっちめてやったわ!」
口に手を当てて優曇華は微笑んだ。幸せそうな表情……
気分も軽くなり、霊夢は昨日のことを話してみようと思った。
「昨日ね、たくあんのはしっこだけ持って外に出かけたのよ」
霊夢はポツリポツリと鈴仙に語りかけた。内容は質素だが、鈴仙なら聞いてくれると思ったからだった。
この短時間で自分が鈴仙を信頼したと思うと、霊夢は幸福だった。それゆえ、永遠亭に僅かながら親近感を抱いた。今度訪れようかしら。
鈴仙はしっかり聞いてるようだった。
霊夢はマッサージに顔を緩めながら続ける。
「意識を失いかけたときに女神が私の前に現れたの。私は大概の神の姿を知ってるけど、あれは見たことなかったわ」
「どんなお姿でしたか?」
優曇華が緊張感の欠片も感じさせないような声で訊いた。
手は止めていない。一定のリズムで霊夢を刺激していた。
「そうね……胸が赤く光ってて、触覚が二本長いのが生えてたわ。あとはミニスカート……っぽいの履いていたわ」
「ああ、やっぱり……」
大きなため息をついて鈴仙はそう漏らした。手を額に当てて、やれやれと言った様子である。
霊夢は困惑した。
所詮竹林のウサギ、何故神の姿を知っているのか気になったからだ。
霊夢は素直に訊いた。
「あんたはその神を知ってるの?」
「知ってるもなにも、あれは私です」
霊夢は驚愕した。恐る恐る鈴仙の顔を覗き込んだが、嘘をついてるような顔には見えない。それどころか、申し訳なさそうな顔をしている。
一瞬視線が合い、慌てて前に向き直す。
冷静さを失った声で霊夢は訊いてみる。
「それってどういうこと?」
「実はですね、そのとき神……あ、これは私です。霊夢さんが見た神様は私ですから」
「もうそこはわかってるの。それがなんなの?」
「そのとき私はですね、気絶してたんです」
「…………?」
……訳がわからない。得意の勘を働かせたが、よくわからない。
鈴仙はようやく手を止めたようで、話し始めた。
少し霊夢は寂しかった。
「そんなにたいした話じゃないのですが……」
『鈴仙!』
私は突然お師匠様に呼ばれました。ちょうど部屋の掃除を任されていた頃なので、綺麗になっていない場所を指摘されると思ってました。
しかし、それは意外すぎる言葉でした。
『どうしたのですか師匠?』
『たくあん無い?』
『え?』
なぜかお師匠様はたくあんが必要だったらしいです。それも最後に残るはしっこの部分。
後から聴いた話、『“秘薬の材料”だから追求しないで』と仰ってました。
もちろん私がそんなもの……いえ、そのような食べ物を持っているはずなかったので、悩んでいたのです。
そしたら……
『鈴仙! たくあんあるよ!』
てゐ……だったと思います。
私が気絶したのは“コイツ”のせいなので、記憶が曖昧なんです。
どうやらてゐは霊夢さんがたくあんのはしっこを持ってる事を知っていたようです。てゐの情報網はいったいどこからくるのやら……
それはいいとして、てゐは私に提案してきました。
『私には作戦があるんだ』
『作戦?』
後からお師匠様に聴いたのですが、私はてゐに気絶させられたようです。
提案は後からお師匠様から伝えられました。もちろん、その時は既にてゐは霊夢さんからたくあんのはしっこをとっていたのですが。
「へえ……つまり貴方も言ってしまえば被害者ね」
「まあ、そうなります」
鈴仙は話をまとめた。
「霊夢さんが見たものをまとめます。私の憶測ですが……。胸の赤い模様は私の瞳、触覚は私の耳、ミニスカートは私の服。つまり、女神はてゐが持ち上げていた気絶した私だった、ということです」
「となると、幻覚が見えたのも辻褄が合うわね。貴方の瞳を見ると錯乱するって言うし」
「それがてゐの作戦でした。戦闘で勝てない霊夢さん相手にーー尤も昨日の霊夢さんは瀕死状態だったのですがーー頭をおかしくさせてしまって、気絶させて、たくあんを奪った」
「永遠亭のウサギも侮れないわね……。瀕死とは言え妖怪にこの私が一本とられるなんて」
霊夢はわざとらしく頭を抱えた。
鈴仙がかたい声で詫びる。
「ですので、そのお詫びとして私が訪問しに来たのです」
「そうね。貴方のおかげでだいぶ楽になったわ」
結果的にはたくあんより豪華なものが食べられたので、特に問い詰めることはしなかった。
それ以上に、鈴仙がいることに嬉しさを感じている自分に気づいて、少し恥ずかしくなった。
鈴仙はすぐにそれに気づく。
「なんで顔赤くしてるんですか? 怒ってます?」
すぐに表情に出てしまうのが霊夢。気づかれたくなかったので適当に合わせる。
「そ…そうよ! 私はいまとんでもなく怒ってるわ」
「それならまた明日食べ物をお持ちします。少しの償いにでも」
相変わらず丁寧な鈴仙に、霊夢は感謝していた。
無意識に鈴仙の肩に手を伸ばす。暖かい……
胸が熱くなる。鈴仙の目を見ることだけはできなかった。
「どうしました?」
「……次は、私の番よ」
「はあ……助かります」
「ほら! さっさと後ろ向きなさい! 正面からなんて……い、嫌よ…」
急にもどかしくなる自分に幼さを感じた。
魔理沙なんかとは正面で遊びあってるのに。鈴仙だと、急に恥ずかしくなる。
鈴仙はけろっとしてるのに、自分だけ恥ずかしい。特別な感情なんてないはずなのに、対面の幸せは霊夢にとって苦だった。
頭の中でその矛盾を克服したかった。
どうしてこの数分間でこんなにも鈴仙に惹かれるのか、自分でもわからなかった。瞳のせいではない。高揚する霊夢の鼓動は、かつてない気持ちだった。
でずっといたい。また明日来てほしい。その心の内だけは、確かに霊夢は感じていた。
「では、お願いします」
「…………もぅ」
霊夢はプイと余所見して、手を肩に乗せて、静かに鈴仙の背中に顔を埋めた。
「明日……明日また来なかったら…………むぅ」
「ど、どうしました……?」
霊夢の胸の鼓動は、たぶん鈴仙の背中に届いていた。
唯一顔色だけは伺えない鈴仙に対し、霊夢は全てを見て、そして預けていた。
それでも霊夢はボソッと呟いた。
「………………殴るもん」
変わった組み合わせだと色々苦労しますよね(;´Д`)
100点にしたいのですが、心情描写から見て霊夢の一人称視点かと思われるのに霊夢の呼び方が「霊夢」だったりと、違和感を感じるとこがあるので90点とさせていただきます
鈴仙にもう少し感情の動きがあったら更によかった
とても印象深い一文です。感銘を受けました。霊夢は餌付けされすぎ。饅頭こわい。