――良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も。
――共に歩み、他の者に依らず。
――死が二人を分かつまで。
◆ ◇ ◆
――こんなとき、傍に誰もいなかったらと思うと、とても怖いの。
怖くはないけれど。
でも、とても辛い。
◆ ◇ ◆
妻を愛している。式で誓ったこの言葉を、何度でも、神にでも悪魔にでも言うだろう。彼女への愛以上に誓うべきことは僕の中に無い。しかしそんな僕でも、妻のあれを蒐集癖と一口に括るのは、流石に世のコレクターに失礼だなと思ったのだ。
僕が妻の家に入って最初にしたことは、まずリビングに人が座れる椅子を用意することだった。「座れるなら椅子がいらないなんてことはないんだよ」と僕が言うと、妻は「どこに座るかなんて些細な問題よ。ここは私の家。それでいいじゃない」と即答した。「なるほど」と僕は納得した。
結局はたきで埃だけ落として、積み上げた本の上にティーカップを並べてお茶を飲んだ。本に零しやしないかと僕ははらはらしていたが、妻は何でもないことのように平然としていた。もう結婚したというのに、僕は改めて改めて、そんな彼女のことが好きになった。
ちなみにあのとき下敷きにした本が、実は人を呪い殺せる代物だったと知ったのは、妻がベッドの上から動けなくなってからのこと。
――あそこらへんの魔導書はね、みんな借り物なの。
まるで遠い昔のことのように、妻は話した。そんなに昔のことじゃなかったはずだ。妻が寝たきりになったのはほんの半年前だったし、結婚したのは二年前、初めて出会ったのはわずか三年前のことだ。
――ほら、紅魔館って。あの湖の真っ赤な洋館。
――あなたは行ったことがないでしょうけど、あそこの地下には大きな図書館があってね。
――そこに住んでる魔女は友達なの。彼女から借りたのよ。
僕と結婚したとき『あのおてんば娘もようやく落ち着くか』と言う人(そのほとんどは妖怪)も居た。もちろん僕はそんなことは微塵も思わなかったし、実際そうならなかった。
結婚しても妻は魔法使いだった。箒に乗って、流れ星より速く、煌いて。
僕を置いて、夜空を駆けていた。寂しいと思うことはなかった。むしろ誇らしく思った。妻には僕に気兼ねなどせず、自由に飛んで欲しかった。まあ「新婚生活より君の夜の生活のほうが大事だ」と言ったのは、流石に反省したけれど。
でも、そんな僕の気持ちを知っていたから、妻は苦しんだのかもしれない。
最近、そう思う。
――ごめんなさいね。
病に伏せてから、妻はよく謝るようになった。「全然気にならないよ」と僕は言っても、力なく笑うだけだった。ベッドの上に横たわる不随の躰を、見下ろすことすら出来ない妻は。
「たとえあのとき死んだとしても、悔いなんてあるはずないよ」
僕は表現を変えて何度も言い直した。それはプロポーズの科白を考えるよりもずっと難しく、根気の要ることだった。互いに愛していることがわかっているとき、それ以上の愛を伝えるのはどうしてあんなに難しいのだろう。
でも、推敲の甲斐あって、最後に妻は少しだけ笑ってくれた。
頬がこけて、肌も随分青白くなっていたけれど。
僕が恋したときのままの、愛おしい、
――どうしてあなたって、私よりも落ち着いているのに、私よりも危なっかしいの?
あの笑顔を覚えている。
何と応えたかは、忘れてしまった。
――あんなこと、言うんじゃなかったな。
――死んだら、自分で本を返すことも出来ないのに。
たとえ飛べなくなっても、動けなくなっても、妻は魔法使いで、僕が愛した女性だった。
――ごめんなさい。でもありがとう。
――どうかお願いね、あなた。
それが最期の会話というわけではなかったけれど。
そのささやかな遺言が、今の僕を動かしている。
◆ ◇ ◆
収まるべきところに収まるというのが、妻には気に入らなかったのかもしれない。好きなものを好きなように置くのが妻の流儀だった。妻は魔導書に限らずよく本を読んでいたが、この家には本棚というものがなかった。だからこの家では本を探すなら“手当たり次第”が一番の正解だった。
当てもなくどさどさと物の山を崩しては積み上げていく。
まるで宝探しのようだった。妻が遺したものの多くはがらくたといわれても仕様が無いものかもしれないものだったが、それらが作る隙間に妻の痕跡を強く感じた。宝は無くとも、これは宝探しだった。それがますます妻らしくて、僕はこの作業が好きになっていた。
ずっとずっと、宝探しをしていたかった。
もしこの作業を僕一人でしていたのなら、きっとそうしていただろう。何も見つからなくても、延々と。
「アリスさん」
この片手で持ち上げるのは些か辛い重量の古びた本も、食器が入っている棚にあるのなら、やはり食器のようなものなのだろうか。
僕にはわからない。だからアリスさんへと手渡した。
アリスさんは――薄茶色の革の長手袋をした――腕でそれを受け取り、ぐるぐると回して装丁を見た後、「甲種ですね」と言った。
安全なものだったらしい。僕は彼女から本を受け取り、廊下に累々と散ばっている品々を踏まないようにリビングへ向かった。
本は重く、魔導書はさらに重いが、丁寧に積めばそうそう崩れないのは好かった。逆に厄介なのは床に転がっている細長かったり丸かったりするものたちだ。魔導書が片付いたら、これらも片付けなければいけないのだろう。しかし、これはどこに仕舞われるべきなのか――僕にはそれらが魔法の品なのかもわからない――そう考え始めた矢先に、どさどさという音。
またどこかで崩落でもあったらしい。来た道を振り返ってみると、さっき足場にしていた廊下が埋もれていた。また廊下を整理しないといけないようだ。
なるべく大きくて四角くてどっしりしたものを持ち上げては、廊下の端に積み、その上にさらに物々を積んでいく。雪かきでもしているような気分になる。
雪なら、春を待てば溶けて消えるだろう。あるいは落ち葉なら、集めて盛って燃やしてしまえば……。
できるはずがない。燃やすのは亡骸だけで十分なのに。
崩れても好い。
積み直せば好い。
そうしていつか、僕も埋もれられるなら。
「アリスさん」
アリスさんは、さっき居た場所のまま、じっと妻の遺品たちを眺めていた。除けるでもなく、拾い上げるでもなく。
何処にも行けず、此処で囲まれることを望んでいるように……いや、これは錯覚だろうか。
「大丈夫ですか」
「大丈夫ですよ。もうほとんど崩れていましたから」
アリスさんはなんでもないことのように言うが、それでは困るだろうと僕は思った。
この廊下で車椅子が通れるだけのスペースを確保するのは、なかなかに面倒なのだから。
「こちらに……」
僕はアリスさんへと手を伸ばして、自分は何をやっているのかと思った。
例えばの話。彼女が伸ばした腕をつかんで、引っ張り、抱きとめて、お姫様抱っこをしながらこの廊下をぴょんぴょんと跳んでいけるかといえば、とても難しいだろう。僕はお世辞にも体力があるとはいえない。しかし、それでもやらねばと思う程度には騎士道精神と甲斐性を持ち合わせている。僕はそういう性格らしかった。「たらしなのよ、あなた」とは妻の言。
それでもやはり妻ではない女性――しかも妻と近しかった人――には、気恥ずかしい以上に後ろめたさを感じた。
謝ることも償うことも出来ない罪悪感を、僕は恐れているのだろうか。沈黙の重さに耐え切れず僕は「リビングへ戻ったら、少し休憩しませんか」と誤魔化すように言った。
なんとまあ、我ながら間の抜けた調子だったと思う。でも、それが好かったのかもしれない。アリスさんは大人が子供へ向けるような笑顔で「少し時間がかかりそうですね」と――薄茶色の革の長手袋をした右腕で――僕の手を握り返した。
その腕は、アリスさんと繋がっていない。
彼女の膝の上に置かれた彼女自身の腕は、もう何を掴むこともできない。
薄茶色の革の長手袋をした、少女にしては少し太い上腕。
糸で吊るされているように宙に浮かんでいる、魔法の腕。
腕だけ。
それを引っ張るべきかどうかわからず、僕はそのままぶんぶんと大きく振って握手をした。
本当に、僕は何をやっているのだろう。
彼女を見るに、もう隠せないほどに僕は微笑ましいらしかった。
◆ ◇ ◆
アリス・マーガトロイドさんは首から下が麻痺していて、全く動かない。
その症状の進行は、驚くほど妻のそれに似ていたらしい。
――初めは火の粉のような痺れ。
――弾けるような薄く鋭い痛み。
――いつしか熱さを感じなくなって。
――最後には重力だけが残る。
そのサイクルが時間差で、手足の指先から首元へと伸びていったらしい。
原因は不明だった。竹林の名医ですら、それが病毒なのかどうかもわからなかったという。
◆ ◇ ◆
紅茶を淹れるのは僕の趣味の一つだった。結婚してすぐに妻が「私が奥さんなんだから」と家事を率先してやっていたのだが、どれも僕のほうがずっと上手かった。勉強家な彼女は負けじと特訓を重ねて、僕は彼女の手料理を美味しく頂いた。妻が倒れるまで、ずっとそれが続いていた。
けれど、紅茶だけは妻が早々に降参してしまい、二人の紅茶を淹れるのは僕の役割になっていた――その理由を、僕は知っている。
――お嫁さんになったら、やっぱりアリスには敵わない。
そう言って、妻は少し寂しそうだった。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
ティーカップをアリスさんの前に出してから、それが結婚祝いでもらったペアのカップだったことに気付いた。もちろんアリスさんは知らないだろう。少なくとも僕達が結婚してから、アリスさんが妻の家に来たことは一度も無かった。
妻が亡くなって。
葬儀の日、初めて僕は彼女がアリス・マーガトロイドであることを知ったのだ。
「まだまだ、先は長いですね」
一瞬、それが魔導書のことだとわからなくて、少し口ごもった。
「ご迷惑をおかけして」
「いえ。いいんです。報酬はパチュリーから貰う約束ですから」
魔導書の山を前にした僕はすぐに途方にくれた。古ぼけた分厚い本にしか見えなくても、それらは人を簡単に廃人にする悪魔の代物だ。妻に先立たれたとはいえ、四十九日も経たずに後追いする気はない。
僕はこれらの魔導書を持ち主に返さなければならないのだが、それには『全ての本を』『生きて』という隠れた条件があったわけで、それはいかにも達成困難だった。僕の「せめて取扱説明書でもあれば」という呟きに対して、パチュリー・ノーレッジさん――魔導書の持ち主にして妻の友人――曰く「もしそうなら小悪魔なんて遣ってないわ」とのことだった。小悪魔さん(名前は知らない)はにこりと笑ってこちらに手を振った。
結局、僕は――まったく情けないことだが――持ち主の助言に従い、助っ人を頼ることにしたのだった。
「本当はこちらがお礼をするのが筋なんでしょうが……」
「魔女の言うことはあまり気にしないほうがいいですよ。それに」
アリスさんは一度言葉を切って、目の前に置かれたカップに眼を落とした。
“彼”がカップを持ち上げ、アリスさんの口元へと運んだ。
一口。
「……いえ、何でもありません」
アリスさん。アリス・マーガトロイドさん。
妻の旧知で、同じ森に住む同じ魔法使い。そして同じ症状。
彼女はときどき、妻と同じ表情をする。
「とにかく、あまり気を遣われなくても結構です。気紛れだとでも思ってください」
「気紛れですか」
「はい。気紛れ、です」
革の長手袋をした、女性にしては少し太い腕が浮いている。それが絹の長手袋なら薔薇柄のティーカップによく合っただろう。薄茶の革手袋は新品のもののように汚れや傷がないものの、ティータイムには不釣合いなほど丈夫そうだった。
彼女のものではない腕が、音も立てずにカップをソーサに置いた。作法が隅々まで行き届いた、彼女に相応しい所作だった。
「意味は、無いのでしょう。もう」
会話が途切れた。アリスさんは、あまり自分から話しを振るタイプではなかった。
しかし彼女と過ごすこんな時間は、窮屈さを感じない。ただ紅茶を楽しむことに専念できた。紅茶が喉を通るたびに、ただ過ぎるがままの時間を感じられた。普段は薄暗い森なのに、窓から入る光の具合からか不思議と明るく感じた。
本当に妻が話していたような時間。
きっと妻が失ってしまった関係。
その中で僕と“彼”は余分なのだろう。
「……そろそろ、始めますか」
「ええ」
「片付けてきますね」
僕は逃げるようにキッチンへと引っ込み、茶器を洗いながら溜息をついた。
彼女はリビングで待っている。“彼”は微動だにせずにその傍らにいるだろう。
妻はもういない。僕は、
――お嫁さんになったら、やっぱりアリスには敵わない。
妻が話してくれた紅茶の香りをまだ知らない。
「アリスさん」
誰にも聞こえないように、水の流れる音に紛れて僕は呟いた。
「僕は貴女に紅茶を淹れて欲しかった」
あゝこの気持ちは、きっと的外れな羨望。
◆ ◇ ◆
(僕はあまり考えずに言葉を発するタイプだった)
「アリスさんは」
「はい」
「人形劇をされていたと聞きました」
「ああ、昔はそんなこともしていました。体がこうなってからは、もうやらなくなってしまいましたが」
「子供に人気だったと」
「子供向けに作りましたから。人形の可愛さを素直に受け止められる大人は少ないのです」
「そうなのですか」
「そうなのです。残念なことですが」
「アリスさんの」
(僕はあまり考えずに言葉を発するタイプだった)
「はい」
「その腕も、人形なのですか?」
「ああ……彼ですか」
(革の長手袋をした、二本の腕)
(糸に吊るされているように宙を浮いていたそれらがゆっくりと動いて、アリスさんの肩に手を置いた)
「違いますよ」
「そうなのですか」
「彼は作業用の義腕なんです」
「義腕は、人形ではないんですか」
「違います。彼は……ただの腕です。腕だけ。動かなくなった、私の代わり」
「代わりなんて、無いですよ」
(僕はあまり考えずに言葉を発するタイプだった)
「無いんです」
(妻を失ってからは、特に)
「……すみません」
「いえ、こちらこそすみません」
「少しだけ待ってください。少しだけ……」
(僕にも彼女にも、流れる涙を拭う腕がなかった)
「魔理沙は、貴方と一緒になれて、幸せだったんですね」
貴女は幸せではなかったのですかと、僕は訊けなかった。
◆ ◇ ◆
少しずつ本を分類し、安全処理を施してから運ぶ。運ぶのは僕だ。そこまではアリスさんに頼れない。
重いバッグを肩に、もう何度もこうして紅魔館の地下へと本を返しに来ている。門番さんとはすっかり仲良くなって、行き帰りは決まって門前で軽く世間話をするくらいだ。
「今日もご苦労様ね」
それでも、ノーレッジさんとは目線を合わせることが少ない。
「このごろは暖かくて、ここまで歩いて来るのが気持ち好いくらいです」
「……健脚なことね」
「ノーレッジさんもたまにはどうです。外に出て、散歩など」
「……日光は本と髪が傷むから嫌」
「そうですか」
門番さんと同様に毎回世間話を試みているのだが、話に花が咲いたことはまだなかった。ノーレッジさんとアリスさんは同じ魔法使いのはずだが、タイプはまるで異なるようだった。ちなみにアリスさんはむしろ妻に似ているように思う。例えばだが、妻とノーレッジさんをうまく組み合わせてそれを半分に割れば、ちょうどアリスさんのようになる……気がする。
などと下らないことを考えられる程度には、ノーレッジさんとの会話(といっていいかどうか)にも慣れた。
「なんとか梅雨に入る前に、終わらせるつもりです」
「……前も言ったけれど、別にこちらは急いでないの。本が濡れるのは困るから梅雨は遠慮してもらうけれど、夏まで伸びても好い」
「夏だと僕が倒れてしまいます」
「……ご自慢の健脚はどこにいったのかしら?」
「健脚ではありませんよ。暢気なんです」
ノーレッジさんは机に広げた大きな図鑑に目線を落としていて、僕を見向きもしない。確かに、会話をするのに顔を向き合わせる必要はないのだ。
声が通じれば会話はできるし、それでいいじゃないか。
この考えは非人間的で、魔女的だろうか。
「奇遇ね、私も暢気なの。秋でも冬でも待てるわ……それとも何? すぐにでも魔法使いとは関わり合いたくないのかしら?」
問い詰めるようなのは、口調だけ。冗談で言っているわけでもないし、自虐でもない。もし僕がそうだと言っても、ノーレッジさんは何も思わないだろう。
妻のおかげか、はたまた性格か。僕は魔女と話すのは、それほど苦痛ではなかった。
「そういうわけでは、ありませんよ」
「どうかしら。幸せだったからこそ辛いのなら、いっそ――」
「ノーレッジさんは」
問い詰めるような、目線だけ。
「妻がああなった原因を、知っているのですか?」
「八意永琳がわからないというのなら、私に分かるわけないわ」
「そうですか。まあ、でも、そんなに長くアリスさんを付き合わせることはできませんから」
「……それは困るわね」
僕は聞こえない振りをした。
「……アリスはどうかしら?」
「どう、とは?」
「……機嫌が悪かったり、とか。どう?」
こういうとき、ノーレッジさんはいつも目を細めていて、機嫌が悪く見えてしまうのは勿体無いと思う。
実際のところこの人は、雰囲気ほど陰気な人ではないと思うのだ。
「いいえ。そのようには感じられませんでしたよ」
「魔理沙の家はまだ散らかっているのかしら。車椅子は面倒なんじゃない?」
「そうですね。本当に申し訳ないと思っています。でも、まだ整理がつかなくて」
「そんなことはどうでもいいわ。どう? アリスは、困っていたりしていなかった?」
「……いいえ。特には」
アリスさんが何かに困っている様を想像するのも難しかった。ほとんど完全麻痺に近い状態なのだから、普通ならとても森で一人暮らしはできないものなのに。アリスさんなら問題はないと僕は確信している。
よくよく考えてみれば、これはとても不思議なことだ。
アリスさんは独りなのに。
「そういえば、アリスさんへの報酬はどんなものなのですか?」
「……別に貴方に魔導書以外は求めないわよ」
「いえ。本来は私から報酬を出すのが筋ですから、こちらからも何かしらお礼はしたいなと思っていまして」
「……ただの人間では、アリスを満足させられない」
「はい?」
僕は聞こえない振りをした。
「……車椅子」
「え?」
「だから、車椅子。宙を滑ることができる程度の性能。必要魔力は外部供給。制御は本人との直結ラインで……」
一分ほど、複雑怪奇な機能説明が続いた。もちろん内容はさっぱりだったが。
「……最高の操作性よ。自分の意思だけでスムーズに動き回れるようになるわ」
この最後の一言で、アリスさんには合わないであろうことは見当がついた。
「ところでノーレッジさん」
「何?」
「その車椅子、押し手はありますか?」
ノーレッジさんはしばし沈黙した。即答するべきかどうか、迷っているようだった。
「……ないわよ。押してもらう必要なんてないから」
「なら、つけたほうがいいと思いますよ。ないと手持ち無沙汰になるんじゃないかと」
「……何を言っている?」
「“彼”のことです」
ノーレッジさんが顔を上げた。
ノーレッジさんが僕と目を合わせないのは、必要がないからだ。そしてそれが僕に対するデフォルトになっている。
だからノーレッジさんが僕と眼を合わせないことに、きっと意味はなくて。
ノーレッジさんと僕の眼が合うことには、きっと意味があるのだろう。
「……ああ、義腕。“彼”……ね。そう。ふうん」
呟いたノーレッジさんの目は暗かった。
憎んでいるのでもない。恨んでいるのでもない。その瞳は、きっと僕と同じ色をしていた。
「パチュリーさんは“彼”について知っているのですか」
「知ってる。原理はそう複雑ではないけれど、高度な技術を要する魔法よ」
「人形遣いの?」
「……違うわ。もっと呪術に近い……あゝ、貴方もアリスの人形が生きているように見えるクチかしら」
「ええ。見えますね」
「私にも見えるわ」
僕は即答した。
ノーレッジさんも即答した。
「でも、そう見えるだけ。人形が動いているのはアリスが動かしているからよ」
僕は少し意外に思った。
ノーレッジさんにしてはあんまり非人間的で、魔女的過ぎると思った。
アリスさんに関わることなら、なおさら。
「……ノーレッジさんは、そういうことは言わないと思っていました」
「何故?」
「だって、それじゃああんまり――」
――夢が無いでしょう、と言いかけて、やめた。
夢、とか。
恋、とか。
魔法はそれらを生み出すかもしれないけれど、それ自体は魔法ではない――とは妻の言葉だったか、妻の友人の言葉だったか。
失念していたつもりはなかったが、やはりノーレッジさんは魔女だったということだろう。
「……貴方には、魔法使いの才能があると思っていたのだけれど」
そしてそれが賞賛なのか軽蔑なのかわからない僕はやはり人間で、とりあえず意味もなく微笑んでみた。
「死者蘇生の魔法ってあるんでしょうか?」
「ないわ。死者は死者。再生は出来ても蘇生はできない」
「夢の無い話ですね」
「私は夢なんて見ないわ。実現させるものは夢と呼ぶに値しないからよ……貴方は魔理沙のような人間と、私のような魔法使いの決定的な違いが何かわかる?」
わからないので、ノーレッジさんに足りないものを挙げてみた。
「健康ですか?」
「いいえ」
「冷酷さ」
「まさか」
「愛想とか」
「……」
睨まれてしまった。そんな顔も可愛いとは思うけれど、冗談にできない冗談はやはり良くない。きっとノーレッジさんは、言葉遊びはしても冗談は言わないタイプだ。嘘も言わないだろう。真実というものがこの世に実在しているかはさておいて、知識人というものは決まって言質に対して誠実だから。
「……本質的に魔法を必要としているか、どうか。魔法使いは職業ではない。生き様でもない。端的に言ってしまえば、食性なの」
食性。
思いもしなかった生々しい単語に、僕は少し戸惑った。
「魔法を食べて、私たちは生きているの」
ノーレッジさんが手招きでもするように。
つい、と腕をこちらに向けた。
「この血も肉も」
裾から伸びる、血の気の感じられない手首。
頁を捲るのに都合の好さそうなか細い指。
眠ってしまった妻のような、弱々しい躰。
「指の先まで、もう魔法なの。魔法は技術、ええそれは正解。でも私たちは魔法で出来ている」
人形遣い。人形を動かす魔法。
魔女。アリス・マーガトロイドを生かす魔法。
では“彼”は何の魔法?
「……それは“彼”も?」
「……そうね。アリスが“彼”を創った理由を知っている?」
「いいえ」
「人形を作るため、だそうよ。彼女はたいていのことは人形にさせるけれど、人形に人形を作らせることは絶対にしない」
何故貴女がそれを知っているのですか、とは訊かなかった。
流石にそれは野暮というものだった。魔法使いではないただの人間の僕は、今、魔女と話をしているのだ。
「それが気に入らない?」
「……別に。それは好いの。彼女の性だから。でも」
ならば彼女の言葉は全て呪文だと思うべきだ。
その心意が何処から来て、何処へ向かうのか、などわからなくてもいい。
「あれはアリスよ。“彼”なんかじゃあ、ない」
溜息をつくように言ったパチュリー・ノーレッジさん。その暗くて混沌とした瞳の奥に何があるのか、わからなくてもいい。
「……疲労もなく、取替えも可能。生身の腕では到達できない精度と力。感覚だってちゃんと、いえむしろ鋭敏になったわね。彼女は真なる魔女になった。彼女は進化したのよ。もっともっと、可愛いものを創れる。美味しいお菓子も。きれいな洋服も。それなのに……」
――アリスさんは紅茶を淹れなくなった。
――もし妻が聞いたら、どんな顔をするだろう。
――想像したくもなかった。
「……貴方の紅茶は美味しいってアリスが言っていたわ」
「ありがとうございます。でも、きっとアリスさんの紅茶のほうが美味しいですよ」
「飲んだことあるの?」
「いいえ。ノーレッジさんは?」
ノーレッジさんは――アリスさんと違って――沈黙があまり上手ではなかった。
◆ ◇ ◆
実のところ、僕にはアリスさんが紅茶を淹れなくなった理由に見当がついていた。妻が話してくれたことがあったのだ。
アリスさんが体の自由を失ったとき、妻は「一緒に住もう」と彼女に言ったらしい。
アリスさんは断った。
「魔法があるから。一人でも大丈夫」
それはアリスさんらしい誠実さで、しかし優しすぎる妻には鋭すぎたのだろう。
二人の関係はそこで途切れた。妻は裏切られたと思っていたのかもしれない。アリスさんに寄せていた信頼と、憧れと、愛情と、そしてそれらを取り戻したいという希望に。
もちろんアリスさんに責は無い。種族の差とか、価値観の相違とか、愛と恋の差とか、それについてはいろいろな言い方がきっとこの世にはあって、しかしそのどれもが“仕様が無い”という結論に行き着くのだから。
妻は泣いただろう。それについてアリスさんには八つ当たりじみた怒りを覚える。
妻は泣いた。だから僕は彼女と結婚できたという事実がある。
妻は笑っていた。あの笑顔を失ったアリスさんの悲しみをありありと想像できる。
妻は眠ってしまった。もういない。会えない。
“仕様が無い”で済ますには、二人が交わしたであろう笑顔は眩しすぎる。
◆ ◇ ◆
「僕は、なんとなくアリスさんの気持ちがわかりますよ」
「……それは貴方が人間だから?」
ノーレッジさんの声音に隠れたおどおどとした気弱さが、僕には新鮮だった。
ノーレッジさんの実年齢は僕よりずっと上で、僕には到底理解できない難解な魔法を巧みに操る魔女だ。その人が見た目通りの少女の声で尋ねてきたものだから、僕はつい意味の無い、遠回りな表現をしてしまった。
大人気がないと、アリスさんなら怒るだろうか。
「たぶん、人間は関係ないと思いますよ」
「なら、どうして」
「僕は魔理沙の友達ではありませんでした。だから、魔理沙と僕は結婚したんです」
そうだ、僕だ。僕が魔理沙は結婚した。アリスさんではない、この僕が。
あゝ彼女のほうがよほど大人だったのだ。
あんなに合理的で、不足も無く、感傷を感傷として行動で示せたなら!
「……どうして魔理沙? 謎かけ? それとも惚気かしら」
「まあ、しなくてもいい未練と言いますか……口で言うのは難しいですね」
「説明して頂戴。論理的に、陰気な魔女にも解りやすく」
「では、目でお話しましょう」
僕はノーレッジさんの瞳をじっと見つめた。
暗くて混沌としているけれど、彼女の紫紺の瞳はとても表情が豊かで、覗き込んでいて楽しい。
楽しい。
僕は悲しいけれど、辛くはなくて、楽しいと思うことが出来る。
「アリスさんは、素敵な女性ですね」
調子に乗って不意討ちをしてみた。
「そうね。彼女はとてもミステリアス……」
言い終える前に、顔を真っ赤にしたノーレッジさんがすごい勢いで顔を本に埋めた。
「……むきゅう」
頁のすきまから漏れた可愛らしい呟きを聞いて、僕は返却のペースを遅くしてもいいかもしれないと思い始めていた。
◆ ◇ ◆
僕は、想像したことがある。
薄茶色の革の長手袋をした僕の両腕が、魔法のように動いて、
彼女を椅子に座らせて、
彼女の口元へとスプーンを運び、
彼女をベッドへと運んで、
彼女の寝巻きを脱がせ、
彼女の体を濡れ布で拭いて、
彼女の経血を拭い、
彼女の排泄を手伝って、
彼女に紅茶を飲ませて、
彼女の髪を梳いて、
彼女の涙を掬って、
彼女の手を握る。
昔――ほんのつい最近まで――僕が妻に感じていたあの手触りが、重さが、暖かさが、愛しさが、そこにはあった。
しかしそれを伝えるための表情が、声が、目が、僕には無かった。彼女が安らかに眠っているかどうかもわからず仕舞い。
ただ彼女の造形が、きれいに閉じていて、素敵だと思った。
◆ ◇ ◆
わかっている。
こうして彼女たちと語らっているのは、単純に自分を癒そうとしているだけなのだ。感傷ですらない。妻の代わりはいないと言いながら、その欠落を埋めるために妻の残り香を求めている。魔法使い。魔法。魔女――。
それでも妻を愛していると心の中で誓い続ける僕が魔女的なら、紅茶を淹れなくなったアリスさんはなんて人間的なのだろう。僕は彼女が羨ましかった。それは僕のよりもずっと真摯で、背徳の陰りなど一点も無い愛の証明だったから。
妻が飲みたがっていた紅茶を、ついに僕が淹れられなかった紅茶を、いつかまた彼女は淹れてくれるだろうか。妻がいなくなった日々を受け入れて、薄情と責め立てる愛情の残骸が埋もれた頃。その時が来たら、僕はそれを一口して、改めて妻の思い出を彼女と語り合いたかった。
もちろんノーレッジさんも一緒に。彼女は嫌がるかもしれないけれど。
その時“彼”もそこにいるだろうか。
もしいたとしても、淹れられたそれはマーガトロイドさんの紅茶で、きっと涙が流れるほど美味しいに違いない。
なんだかわからんがすごくよかった。
もっと深く作品に触れるためにもっかい読んできます。
アリスの紅茶か...面白い視点ですね。
むしろ明瞭に語られた方が興醒めする題材だと思います
詮索するのが野暮に感じられる作品でした
ライトなものに慣れてる人が多いから、好き嫌いが激しくわかれる話だろうけど。
語り手となる「僕」が物語の当事者としては不自然なほど醒めすぎていて、だからといって物語を俯瞰視する立ち位置としては感傷的すぎて、どちらにせよ中途半端で綺麗に機能してくれていない点
物語全体として感情に訴えかける話だとすれば書くべき無駄が纏まりすぎていて気持ちがスムーズに引っ掛かってくれず、概念的な話だとすれば無駄が多すぎて逆に理解しづらくこれも中途半端
描写の面でも満遍なく均一に書いてしまっている印象で、作者さんがどこに力点を置きたかったのかいまいち見えてきませんでした
ただ物語は興味深い題材ですし、文章の興味深いフレーズ、言葉選びの綺麗さ、節回しの心地よさなど見るべき点も多く、的が絞れて調整できていれば良作になったのだろうなといった感想を持ちました
嫌いじゃないですよ。
物語というか、描き方というか。段落の部分部分で分からないところが所々あったので、そういうのは読み手の力不足というか。魔法使い達側は、とても良いのですが、語り手の「僕」にそこまで没入できないというか。オリキャラっぽいっちゃぽいんですが。