「幽々子様、幽々子様はほとんど白玉楼からお出でになられませんが、何処かへ行きたいとは思われないのですか?」
「ええ、必要ないもの」
「必要ない、ですか…」
「胡蝶の夢」
「は?」
「私は夢中で旅をしているの。ならば此処を出る必要もないでしょう?」
「夢の中、ですか。亡霊も夢を見るのですね」
「あら、その口ぶりだと妖夢も夢を見ているのかしら?」
「ええ、半人半霊は夢を見ますが」
「それは嘘。夢を見るのは生きている者の特権よ?」
「私は半分生きております。それに幽々子様は死んでおられるのでは?」
「大間違い。はやく妖夢も生き返れるといいわね」
「はぁ、全く意味が分かりません」
「そう。じゃ、早く残りの春を集めに行ってらっしゃい」
妖々桜霊廟 ――sleeping cherry blossoms in full bloom――
▼1.開幕の龍笛 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「遅い」
時代は平安、されど世の中は平安とは程遠い権謀術数と反乱一揆に満ち溢れた時代。
大陸風の趣向を凝らした屋敷の中、床に座した武人が一人、高杯に並べられた数々の食材を盛った器を前に忌々しげに舌打ちする。
年のころは三十路前後といったところだろう。白髪よりも白く光を映す雪のような髪。引き締まった口元に贅肉の欠片も無い頬、深く鋭い眼差し。
そして何より纏っている水干や袴から覗く、見るものに鎧を連想させる程に引き絞られた四肢の筋繊が只者でない事をうかがわせる。
武人は別に料理が冷めてしまうとかそういった事を心配しているのではなかった。そもそも最初から盛られた料理は冷めている。
武人は約束をしていたのだ。指定された時間に相手の屋敷を訪れ、小宴の準備が整えられた部屋に通されてから既に二刻(一時間)近くが経過している。
温和な者でも流石に眉をひそめてもよい時間である。ましてや武人は抜き身、とまでは行かないが鯉口を切られた太刀のような性格である。
怒気を抑えようともせず、しかし何かにぶつけるというわけにもいかず、ただ静かに苛立ちを募らせていた。
だがようやく、背後からお帰りなさいませという声と共に足音が響いてきた。約束の相手が帰宅したのだろう、そのまま足音は武人の元へと近づいてくる。
「おう、待たせたな妖忌」
「無能者が。仕事が遅いからこうなる」
襖障子を勢いよく開け放ち、悪びれもせずに詫びの言葉を口にする相手に対して武人、魂魄妖忌は痛烈に切り返す。
「仕方があるまい。最近藤原やら平家やらの争いが酷くてな。死者の量が半端でないのだ。あいつら飽きもせずよく殺しおる」
「いつも言っておるではないか、十王で一人の裁判なんぞをやっておるからいつまで経っても仕事が終わらんのだ。何故それが分からぬ」
「数多の目線から判断せねば公平な判断は出来ぬ、と言いたいが流石に限界だな。我らが閻魔王も重い腰を上げたようだ。十三王に拡張する計画もあるらしい」
「たわけ、人数を増やしても体制が変わらぬのなら何の意味もないだろうに!そんな馬鹿共が地獄を統括しているというのだから呆れて物が言えんわ」
「十王たる我等をそこまでこき下ろすのはお前位だよ」
大焦熱地獄に構えられた館の主、死者に裁きを与える十王の一人である都市王は苦笑し、往年の友人の毒舌をさらりと受け流して宴席に腰を下ろす。
本来、都市王は十王の中でも予備の裁判を行う立場にある。その予備ですら現在は休み無く働いているのだ。地獄の混雑ぶりが窺えるというものである。
都市王が座すと共に部屋の外から龍笛の音が聞こえ始め、それを音頭に合奏が開始される。
これは酒宴における単純な催し物というだけではなく、部屋の主達の会話が他者の耳に入らないように、という意味合いも含んでいる事を妖忌は理解していた。
どうやら今回妖忌が呼び出された用件は内々に留めておきたいものであるようだ。
「まあいい、とりあえずは酒といこうじゃないか」
「ふん、安酒ではなかろうな」
「今に軽口がたたけなくなるわ」
たった二人の酒宴である。三献なんぞ無視して勝手に杯に酒を注ぐ。あまり様式など気にしない二人であった。
「…悪くない。美酒に免じて遅刻の件は勘弁してやろう」
「まさにお酒様だな。酒は仏神より偉大なり、か」
「酒は現世に幸福をもたらしてくれる。来世でしか幸福を与えない神よりはるかに役に立つわ」
「言ってくれる」
都市王はまたしても苦笑し、羹の用意をするよう部屋の外、通常の会話声が聞こえない程度の位置で待機している使用人に大声で促した。
「それで、今日は何の用だ?それだけ忙しい中で時間を割いたのだ。ただ杯を交えたい、と言う訳ではあるまい?」
「うむ、無頼のお前に一つ、頼みごとがある」
やはりか、と妖忌は嘆息する。こいつは何時も面倒な仕事を妖忌に振ってくるのだ。
若い頃は白楼楼観の区別無く刃を振るっていた妖忌である。白楼剣の意味も良く分からずざくざくと霊を成仏させていく妖忌を諌める為に現れた、十王になる前の彼とは敵として相見えて以来の付き合いだ。
互いに無数の剣戟を重ね、疲れ果て、休憩がてら酒を飲んで酔いつぶれて眠り、目が覚めたときには友人となっていた。
以降、彼が都市王になろうが、妖忌が妻を娶って人の親になろうが二人の友誼は途切れることなく続いている。
かつては兵として集団を率いていた妖忌も、既に棟梁の座を退き義理の息子に後を譲って今は無頼の身。都市王にとって妖忌は使い勝手の良い駒というわけである。
妖忌も妖忌とて都市王が毎度相場をはるかに上回る報酬を用意してくれるし、故に普段は金に無心で斬りたいものだけを斬っていられるというわけで、両者は持ちつ持たれつといった所だ。
「で、今回の仕事は何だ?」
「うむ、現世に人を傷つける事無く命だけを奪う事の出来る人間が現れた、と報告が入ったのでな」
「ほう?」
その死をもたらす能力とやらに妖忌は興味を持った。死をもたらすのは容易い。妖忌とて簡単に死を大量生産できる。
だがそれは斬った結果として死があるのであり、妖忌には斬らずして死をもたらす手段など無い。過程があって、結果があるのだ。
それとは全く真逆を行く能力とは。
「お主にはその人間を見定めてもらいたい。こんなもの、お前にしか頼めまい?」
なるほど、妖忌にしか不可能な依頼であろう。
過程を通り越して死という結果を与える能力に拮抗できるのは、最初から死を内包している種族だけだ。
半人半霊、魂魄妖忌は生と死を共に抱く種族である。内部に既に「死んでいる」という事実を持つ以上、ただ死だけを与える能力では妖忌を殺すことはできない。
真に可笑しなことに生者にとって畏怖すべき、過程を通り越して絶対死を与える能力は半人半霊には脅威で無く、逆に病魔や重傷といった過程が無ければ半人半霊を殺しきることが出来ないのである。
「しかし、よくそんな人間を見つけたな。まさか地上の人間一人一人を常時管理しているわけではないだろうに」
「まぁな、あれだ。知ってるか?西行寺家」
その響きに妖忌は懐かしさを覚えた。人間でありながら冥界に住むことが許されている一族。
かつては妖忌の祖父が仕えていた事もあるらしく、かつての愛刀であった白楼剣は彼らから功績を讃えられ、下賜されたと伝え聞いているが…
「ああ、その西行寺家がどうした?」
「冥界のほうで色々あってな。…ええい貴様に隠しても仕方ない。奴ら内紛でも起こしそうなのよ」
「…内紛か。内乱でないだけましだな」
「まさか、内乱のほうがはるかにましよ。こちらからも表立って介入できるからな。しかし内紛とあっては奴ら内の事情。下手に口を挟むことは出来ぬ」
「内紛の原因は?名家の内紛の理由など色々有るだろうが」
「一番分かりやすい理由だ」
「世継ぎ争いか」
何処もかしこも、名家――貴族――という者は変わらぬな、と妖忌はほとほと呆れ返る。冥界に住まうような連中とて所詮はただの人であるようだ。
悪態を酒で喉奥へと留め、妖忌は訊ねる。
「それで?」
「万が一、西行寺家が死に絶えた場合、代わりに冥界の管理をする者が必要になってくる。各仏とも、自分の息のかかった連中を息巻いて推挙してくるだろう」
「お主らほんと腐敗しておるな」
「…続けるぞ。我ら十王とて一枚岩ではないが、ただでさえ忙しいのに冥界を権力闘争の道具にされてしまってはかなわんという点で利害は一致している。だから要は西行寺の予備がいれば良い訳だ。しかもなるべくそういった権力闘争とは無縁そうな予備が。で、駄目元で地上を探ってみたところ」
「いたのか」
「ああ、過去に権力争いで負けて地上に降りた連中の末裔が。しかも傍系ではないぞ、直系だ。その上に人を死に至らしめる力まであるときている。格は十分過ぎるほどだ」
古来より死を操る力はほぼ神のみが所持していた力。それをただの人が手にしている、それだけで他の連中を黙らせるだけの説得力があるだろう。
だがしかし問題となるのは。
「性格」
「そうだ。どんなに条件が良くても人格破綻者や俗に媚売るような輩では困る。故に、お主に見定めてもらいたいというわけだ。無論その死を操るという能力の詳細も含めてな」
そこで一旦話は途切れた。双方、移動する気配を察知したからだ。
盆を手にした使用人が入室し、二人の高杯の上に羹(あつもの)を追加して去っていく。
その間二人は口を噤む。
使用人たちの足音が去った後、羹を啜って舌を潤わせた妖忌は改めて口を開いた。
「まあ、見定めるのはいいとして、どうするつもりだ?」
「なに、あくまで予備だ。世継ぎ問題が上手く片付けば用はないのだが、もし使えるようなら死神にでもなってもらうという手もある」
「死神だと?」
「問答無用で命を奪う。これほど魅力的な死神などおるまい?これならば忌々しい天人や仙人ですら容易に死に誘えるであろうよ」
「地獄が死者で溢れているのに何を考えておる」
妖忌は呆れ返った。今でさえ十王の手に余るほどの死者が量産されているのに、これ以上死者を増やしてどうしようというのか。
だが都市王は忌々しげに言を重ねる。
「そうは言うがな、十王としてもこのまま舐められるわけにもいかんのだ。天人や仙人になった努力は褒め称えてしかるべき。だが、その時点でそいつらは本来の輪廻の輪から外れてしまう。これを編集するのが死神たちにとってどれだけ大変か、おぬしだって分かっておろう?」
「まあ、な。昔お主から嫌と言うほど愚痴を聞かされたわ」
「天人や仙人が死神を追い払う事が許容されるなら、それを上回る死神を用意することもまた許容されてしかるべきだろうに」
「違いない」
そして、他の死神が殺しえなかった相手を都市王直属の死神が仕留める事によって実績と声名を得て、都市王の政力基盤は更に磐石になるということか。世継ぎ問題がどっちに転んでも都市王には利益が残る。
なるほど、誰も不利益を被らない完璧な筋書きだ。なに?天人や仙人が不利益を被る?違うな、先に寿命を破っている時点であいつらのほうが十王からすれば罪悪であるのだから。
妖忌は都市王の思考を理解して溜息をついた。感心半分、小賢しさに対する呆れ半分といったところである。
「見定めて、当主にも死神に至るにもふさわしくなかった場合は?」
「その場合は二つ、現世にとって不利益をもたらさない場合はそのままだ。天寿を全うさせよ。不利益、かつ説得も不可能な場合はこれだ」
都市王は首に主刀を当て、トンと叩く。
「十王が殺人示唆もどうかと思うが…いや当然なのか?」
「不満そうだな?だが、無意味に死を振りまく輩を始末するのもまた正道、命を大切だと思うならば。わかっておろう?」
「…分かっているし知っている」
「おぬしの最大の弱点はそこよな。正道を把握していながら徹底して正道に殉じられぬ」
「揺るがない信念など、そのほうが恐ろしい。古来より最も多くの人間を殺したのは、己の正義を疑わない人間なのだから。この間まで戦争をしていた奴らとてそうなのだろう」
ま、そのおかげで武者は仕事を得られるのだがな、と若干苦々しげに妖忌は語り、口直しをするかのように杯をあおる。
「まあよい、十王の判断だ。これより正しきものは他にあるまい、という事にしておこう」
「行ってくれるか?」
「ああ」
「感謝する」
そこで両者の打ち合わせは終了し、残る時間は由無し事を語りながら高杯の上の盛り合わせを腹に詰め込むことに専念した。
独活や土筆の煮物を平らげ、酒の合間に胡桃を摘む。鴨肉を咀嚼し、羹で嚥下する。
肉食禁止などお構いなし、それに鳥肉ならばお目溢しだ。仏神がそれでよいのかなどと非難を飛ばす者などここには居ない。
片や素浪人、片や仏神であるがその前に双方とも武人である。そして武人は健啖であらねばならない。身体が資本、動けぬ武人に価値などない。
半刻と経たぬうちに双方二人分以上盛られていた料理をあっさりと片付け、残った酒を舌の上で転がしていた。
何とはなしに会話が途切れ、両者の間を心地よい沈黙が支配する。
酔いが回りきる前に先ほど受けた依頼を心中で反芻し、妖忌は必要な物を頭の中で見繕ってみた。取り急ぎ最も必要となるのは、
「太刀が欲しい」
「またか?」
「仕方あるまい。どんなに大事に扱っても武器は武器、消耗品よ」
脇に置いた大太刀宗近に目をやる。娘夫婦に棟梁の座と共に家宝の剣を譲って以来、様々な太刀を振るってきた。
人間が拵えた太刀ではどうやっても妖怪相手には消耗品となってしまうのが困り物だが、現在の愛刀は例外とばかりによく保っている。
妖怪相手に戦を交えること数度を経ても未だに妖忌の腕の延長であり、今後もしばらくは頼れるであろう。
だが一方で妖忌は時に長刀短刀を操る二刀剣士であり、されど二の太刀におさまるべき短刀は現在空席である。
一刀でも妖怪相手に引けはとらないのだが、やはりというかなんというか、空いた手が寂しさを訴えてくるのだ。
「たまには自分で仕入れよ。目が効かなくなるぞ」
「そうしたいところだが、清貧を心がけておる故路銀しか懐に無い」
「ぬかせ」
使用人により運ばれてきた追加の料理に手を伸ばしながら都市王は苦笑する。
「まあいい、出立までに見繕っておこう。…ああそうだ、駅鈴も持っていけ。前くれてやった奴が使えなくなっていたと言っていたな?」
「ああ、助かる」
「気にするな。有事の連絡は早いほうがいいからな」
「ふん、そういうことか」
駅鈴があれば、各地に設置された駅で馬を借りる事が出来る。
官人しか入手できないそれを都市王がどうやって入手しているか不思議ではあったが、どうせ権力者の枕元にでも立って浮世浄土を餌にでもしているのであろう。
その様を想像した妖忌もまた口の端を僅かに釣り上げて笑い、新たな鉢へと端を伸ばす。
またしても沈黙が両者の間に揺蕩った。
雉肉を咀嚼しつつ、ふと、都市王が訪ねる。
「そういえばお主、孫がおったな。御息女夫君共に息災か?」
「うむ、よくぞ聞いてくれた」
妖忌の目が蕩け落ちる。
しまった、こやつもまた人であったか、と都市王は己の失態を呪った。やれやれ、これは長くなるに違いない。
▼2.幻想の始まり ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
季節は初夏。既に猛暑と言ってよい日差しであるが都市王の管轄である大焦熱地獄に比べれば涼風同然。
むしろ青空と緑をちりばめた木々のもたらす風景は妖忌にとって爽やかさすら感じさせる。
二人だけの酒宴から数日後、地底の大焦熱地獄を発った妖忌は「幻想郷」と一部の者達の間で呼ばれている土地に足を踏みいれていた。
今回の職はその幻想郷内にある西行寺家の屋敷である。そこで園丁として雇用されるように都市王が既に話をつけていた。
末端まで上手く人間を扱っての手配なので、さかのぼっても十王の手配とばれる事は無いため、後はそ知らぬ顔で一介の園丁として顔を出せばよい。
貴族の邸宅の護衛などは何度も行ったことがあるし、庭園の造形に関しても浅くは無い。相手は片田舎の貴族である事を鑑みれば、おそらく何とかなるであろう。
問題があるとすれば背に負った、園丁には不釣合いなれど手放す気にはなれない大太刀であるが、まぁ太刀の事を聞かれたら自衛のためとでも答えておけばよい。
外は未だ貴族の天下なれど、末端は乱世の様相を示している。一介の技術職とて武装していても十分に言い訳は立つ。
そう考えつつ、妖忌は腰に佩いた新たな相棒、短刀友成に手を這わせほくそ笑む。
都市王が「孫の自慢話は半刻以内に収めろ。それが貴様が積める善行だ」という言葉と共に妖忌に与えた短刀である。
その拵えは妖忌の想像以上の物であった。備前国の新進気鋭の刀工作との事だが、新人の作にしては驚くほどに出来が良い。
大太刀と比べても些かも見劣りしない剛剣であり、妖忌の実力を存分に乗せてくれるであろう。
これを抜いて暴れるときが楽しみだ、と若干不謹慎な期待を抱いてしまう位、妖忌はこの新たな相方を気に入っていた。
そんな妖忌の願いを神か悪魔かが聞き入れたのかもしれない。
「ふむ、思ったよりも早いかも知れぬな」
張り付かれている。
挨拶代わりに郷に張られていた結界を切って入った辺りからだ。
結界は構築術式に沿って上手く切った為、妖忌が進入した後に即座に元通りになった筈。
だが結界が傷ついたこと自体を感知するような仕掛けがあれば追尾されていても致し方ない。
気配は…おそらく妖獣。随分と品のある妖気だが力は強くなさそうである。さて、何処で仕掛けてくるか。妖忌が腰の得物の柄に指をかけた
瞬間、虚空から声が響く。
「八雲藍、下がりなさい」
「はい」
その美しい、されどどこか弛緩したような声を耳にするや否や、後方から妖忌をややぎこちない動作で監視していた妖獣はあっさりと姿を現し妖忌の十数歩前に移動して畏まる。
直後に妖獣の隣の空が真っ二つに割れ、混沌たる空間から八卦をあしらった滑らかな深衣に身を包んだ、この国では珍しい金髪の少女が顔を覗かせた。
旧年来の友人であり、妖忌が敬語で相対する数少ない相手の一人。間隙の妖怪、八雲紫は久方ぶりの旧友を非難の表情で出迎えた。
「…紫様でありましたか。お久しゅうございますな。今日はふむ、相変わらずお美しい。…と言うか今日は可愛らしい。若返りましたか?」
八雲紫はその場その時に合った姿で現れるため、普段妖忌が見かける紫は黒髪である事が多いのだが、今日は本来の金髪金瞳である。
相変わらず黄金も羨むほどの美しさよ、と内心では常に感嘆の溜息をもらしている妖忌だったが、今日の紫は以前に比べて明らかに幼びて見えた。
「世辞はいい。やっぱり貴方だったのね、思慮深い猪武者。私の結界を元通りくっつくように切ってのける奴なんて貴方ぐらいしか存在しないものね。…でもなんで切ったのよ。あれ、単なる気配感知用の結界よ?」
「なんと、そうでしたか。とりあえずそこにあったから切ってみたのですが」
紫は溜息をつき、目で妖忌に危ない奴めと語りかけながら隙間内で佇まい直す。
思慮深い猪武者とは、色々と熟慮検討はするくせに最後にはそれらを全て放棄して力技で解決する妖忌の生き方を皮肉ったものだ。
貴女のほうが危ないですわい、と目で返しながら妖忌は口では別の言葉を紡いだ。
「まあしかし流石は紫様の結界。どうりで洗練されているわけですな…そちらの方は」
「新しく式神にした九尾よ。これを式にするために少なからず消耗させられたわ。藍、挨拶なさい」
「…」
「…八雲藍、挨拶なさい」
「おはようございます」
紫の傍に控えていた藍と呼ばれた頭上に狐耳を備え、長い金毛を腰まで伸ばした九尾は紫の指示で胸の前で重ねた両腕――夏だというのに厚ぼったい深衣に隠れて見えないが――を少し上げ、やわらかい笑みを浮かべて会釈した。
だが妖獣とは思えぬほど上品に洗練された妖気や気配とは裏腹にその動きは些かぎこちなく、表情も作り物めいて見える。
「…なにか不自然ですな」
「元の素材が良すぎてね。これまでに組んだ式では不足みたいで、式を被せると逆に大幅に機能低下しちゃうのよ。式付与中の意識もほとんど無し。こんなの初めてだわ」
「式を外したほうが良いのでは?それとも押さえつけているのですか?」
「別に力量差は示して見せたから式を外しても反乱は起こさないわよ。でもあまり計算できずに動くものは好きじゃないの。勝手に動かれて、勝手に死なれたら堪らないじゃない」
不満そうな口調で妖忌に応答するが、おそらくはどのような式を組み上げるかという難題は一術者としての紫の好奇心を刺激しているのだろう。
瞳には不満だけでなく、隠しきれていない期待もまた同程度に揺れている。
「それはそれは、将来が楽しみですな」
「…言っておくけど貴方にぶつける気は無いわよ。せっかく私の妖気をかなり目減りさせてまで手に入れた上物なのに、あっさり切り捨てられてたまるもんですか」
「成る程、以前よりひとまわり幼く見えるのは妖気の減衰が原因と、以前仰っていた月侵攻準備の一環ですか。…しかしその言ではまるで拙者が辻斬りのようですな」
当たり前じゃない、と言わんばかりの表情で紫は再度妖忌をねめつける。
先刻まで新たな愛刀を振るうことばかり考えていた事を思い出し、妖忌は今回だけは苦笑してその視線を受け入れた。
「で、私の管轄区域に何の用かしら?」
「そういえば普段紫様がなにをしているか、まったく聞いたことが有りませなんだな。この郷の管理が紫様の仕事でしたか」
「質問に答えなさいな」
「この先にある、西行寺家とやらの屋敷で園丁として雇われることになりましてな。そこへ向かっている途中です」
その回答を耳にした紫は当惑したかのように眉をひそめる。
「そ、ついに十王に目をつけられたか。人の口に戸は立てられないわね」
「こちらの友好関係もご存知とは恐れ入る。まぁ誤魔化すつもりも有りませなんだので構いませぬが」
そう語る妖忌に対して数瞬ばかりなにやら思案顔を浮かべていた紫だったが、すぐにその表情を振り払って間隙から身を乗り出し、一方を指差した。
「次の分岐を直進した先にある巨大な桜を抱いた屋敷周辺が幻想郷の東端にして、現在の西行寺一族の敷地です。あまり事を荒立てないように」
「御案内、感謝いたします」
説明を終えた後、紫はこじ開けていた空間を閉じて、そのままその存在が蜃気楼であったかのごとく姿を消した。
同時に藍もまた、見回りだろうか?妖忌の目の前で控えるのをやめてそのまま高速で何処かへと飛び去ってしまう。
それを確認した後、妖忌もまた未だ分岐の見えぬ旅路を再度歩み始めた。
歩みだした妖忌の後姿を隙間の向こうから黄金の瞳が見つめている。
「嵐が来るかもね。この私が消耗している時に…」
大妖怪、八雲紫が妖怪を率いて月面戦争を起こすためには郷の結界を維持し、留守を預けられる式が必要だ。
こっそりと人に紛れ込んで大陸からやってきた九尾を燻り出し囲い込み、追い詰めて屈服させる。流石に最高の妖獣である九尾ともなれば、紫と言えど撃退はともかく捕獲するとなると容易ではない。
さらにその妖獣を素体として過分なく実力を発揮させるための式というだけでも一筋縄ではいかないのに、紫の最終目標は式による紫の一時的な再現である。
そのための式神八雲藍の土台ともなれば大妖八雲紫とて己の一部を分割して組み込むくらいの仕込が必要であった。消耗した力を取り戻すには下手をすれば数十年はかかるだろう。
だがそこまでして土台を作成した式神八雲藍であるが完成の目処など全く立っておらず、今はまだ他の式と同等か、それ以下の性能しか発揮できていない。
もしかしたら紫の分身として機能する完全な完成は紫の力の回復より遅くなるかもしれなかった。
己の一部を割いたせいで今の紫は頭脳も妖気も低空飛行、手足となる式は未完成。このように問題は山積みだというのに。
「八雲藍を試作段階までもっていくのが先か、結界の強化に努めるのが先か…どっちから手をつけるべきかしらね、これは」
◆ ◆ ◆
魂魄妖忌は一人、丘を迂回する分岐を無視して直進し、丘を登っていく。峠に差し掛かり道切りを確認し、左右の樹林が開けると同時に視界に巨大な樹木と西行寺家の屋敷の全景が飛び込んできた。
現在の峠からもう一つ先、そそり立ったというほどではないがそれなりに急峻と言ってよい丘一帯が西行寺家の敷地であるようだ。
その丘の最も高い位置にあるのが先ほど紫が言っていた桜の巨木と、西行寺家の屋敷である。
「想像以上に大きい…田舎貴族と馬鹿には出来んな、これは」
四足の総門が東に一つ。水源を庭内に持ち寝殿と北、北東、東、北西に四つの対屋を構える左右対称の屋敷は、なるほど都の邸宅と比較しても遜色ない大きさだ。
だがその一方で北西の対屋は檜皮葺が所々痛んでいて既に閉鎖されているようであり、建築当時の栄華は最早失われて久しいことが伺える。
しかしそんな事よりも妖忌にとって気になるのが、屋敷の西に位置し、異様な巨大さを誇っている桜であった。
桜の巨木は築地塀からはみ出して存在しており、また桜のための空間を確保する為に西の対屋を取り払った、そんな印象を与えるかのように渡殿が途中で断絶している。
「まるで後から桜が巨大になって、塀と西対を破壊したかのようだが…そんな馬鹿な」
桜以外の庭に目をやると、周囲が自然に溢れているためか庭のほうは若干狭く作られているようで、池もさほど大きくはなく橋が一つで島もない小ぶりなものである。
前栽もさほど多くはなく、これならば妖忌の手に余るということはないだろう。
築地塀内の敷地面積およそ二千坪弱。これが西行寺家の屋敷の全貌であった。
「と、あまり遅くなってもいかんな」
桜の異様さに気をとられてつい屋敷の簡易確認に移ってしまったが、そんなものは雇われてからやれば十分である。
軽く深呼吸すると、降ろしていた荷物を背負いなおした妖忌は改めて、残り一里を切った屋敷へ続く道を下っていった。
そして紫と別れた場所から合計二里ほど歩いた妖忌はようやく西行寺の屋敷の入り口へと辿り着く。
その門前にて門の左右に立って警備をしていた二者の顔を見て妖忌は驚きの声を上げた。
一方の顔は見覚えがない。透けるような銀髪と、不貞腐れたような表情を湛えた娘である。だがもう一方の男の方には見覚えがあったのだ。
「お前、このような場所でなにをしている?」
「棟梁?」
それはかつて妖忌が兵として率いていた武装集団魂魄一党の一員であり、そして現在は妖忌の元弟子にして義理の息子の配下であるはずの武者だった。
「元、だ。なんぞ、お前等息子に首にされたか?あやつめ、なんと馬鹿な事を」
妖忌は唖然とし、掠れたような声を絞り出す。目の前の元部下は一党の中でも上から数えたほうが早いほどの手練である。
あやつめ、剣の才能はあっても棟梁としての才能は無かったか、と一人猛る妖忌の気配をすばやく察知した元部下が慌てて妖忌に説明する。
「いえ、棟梁も含め現在、我等一党はこの郷に駐留しております。あ、ちゃんと郷内各地の警備という名目で禄も八雲のなんたらとやらから出ておりますゆえ御心配なく」
「なら良いのだが…やはり、稼ぎにくくなったか?」
「ええ…ただ各地で反乱も頻発しており情勢も安定しないことを踏まえ、さらに棟梁の御息女も未だ幼いゆえに一旦ここは骨を休めて次の身の振り方を決めようという一党協議の結果です」
「それならば仕方ないな」
孫を引き合いに出された途端にあっさりと手のひらを返したかのように納得した妖忌を見て、娘のほうは呆れたように相方を見やったが、男は苦笑して頭を振った。
長くなるから何も言うな、ということだろう。
「で、大将は如何なさったのですか?その様子では妖夢様の御様子を見に来られた、というわけではなさそうですが…」
「うむ、ぜひそうしたいところだが違う。西行寺の者に取り次いでくれ、件の園丁が謁見を所望している、と」
「…まさか大将が昨今に雇われることになったという園丁ですか?」
「まぁ、そういうことだろうな。ほれ、速うせい」
「大将は引退するには早いと思いますがねぇ…しばしお待ちを」
あの野郎、と妖忌は口を引きつらせる。妖忌を送り込む為に根回しをしていた都市王が魂魄一党がここに居る事を知らない筈はない。
知っていて、あえて黙っていたのだ。今頃地獄で妖忌の驚いた姿を想像して笑いをかみ殺しているのだろう。後で殴る。
そんな妖忌の心中などさておいて妖忌の元部下が屋敷の中へと消えていく。それを尻目に見ながら妖忌は片割れの娘のほうに声をかけた。
「新入りか?」
「ええ、そう。あんたが、先代の棟梁?」
値踏みするように少女は妖忌に視線を這わせる。敵を作る事など恐れないかの如きその態度は妖忌の好奇心を刺激するのに十分だった。
だがそれよりも妖忌の興味を引いたのは彼女の纏う気配である。生きているのに死んでいるかの様な気配。それは何処かしら妖忌にも似た気配だった。
思わず長考に陥りそうになる思考を振り払い、妖忌は少女の問いに答える。
「そうだ、妖忌と言う。愚息を存分に支えてやって欲しい」
頭を垂れる。親子ほども年の離れているであろう相手にあっさりと頭を下げた妖忌の態度に、少女は若干態度を軟化させた。
「妹紅。ま、短い間だけどよろしく」
「よろしく頼む。しかし短い間とは?」
「ああ、あんたの息子の一党、つまり私たちは解散するかもって話でね。人間妖怪問わずの軍勢はもう巷じゃお呼びでないのよ」
「…そうか」
「かといって血の気の多い私達はまだこんな郷で隠居する気にはなれないからね、外で人妖分かれて活動しようかって。…この一党は居心地良かったから残念だけどね」
最後に些か落胆気味の妖忌と、ついでに己をも慰めるかのように妹紅と名乗った少女は付け加え、そして親指で背後を指差すと口を閉ざす。
相方が西行寺家の者を連れて戻ってきたのだ。つまり話はここでお終いということである。
旧知の仲間との再会、そしてその仲間達の苦境。驚くことは多いが、さりとて思案げな表情もしては居られぬと妖忌は佇まいを正す。
だが、妖忌の驚きはまだ終了していなかったのだ。
門前に一人の少女が現れる。年の頃は十五を超えるか、いやおそらく超えぬと言った頃だろう。多分妹紅と名乗った少女と大差あるまい。
白絹の小袖と空色系統で合わせた衵を薄花桜の帯紐で纏め、煩わしいのか唐衣、裳を省略している。なれば未だ裳着(女子の成人儀礼)前かもしれない。
袴が見えぬから恐らくは切袴なのだろう、その動きやすさを重視したまるで貴族らしからぬそのなりに妖忌は驚いたが、それより驚かされたのはその少女が放った言の内容であった。
「え、ええと、お待たせいたしました。私が西行寺家の現当主を務めさせていただいております、西行寺幽々子と申します」
魂魄妖忌が新たに仕えることになる屋敷の主、周囲に死をもたらすと言われる死の化身は二十歳にも満たないうら若き少女であったのだ。
かつての部下と妹紅は妖忌の心中を正確に把握して苦笑を浮かべている。
妖忌は己の心の中にて爆笑している都市王の偶像を新たなる相棒、短刀友成で滅多刺しにしながら、西行寺家の屋敷へと足を踏み入れていった。
▼3.四惑 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「まったく、嘘をつかない十王なんかに一杯食わされるなんてなんとも情けない話ね」
「まったくですな。娘が人妻になるくらいです。拙者も老いた、と言うことでしょうな。奴の思惑にまんまとはまるとは」
謁見、というか門前であっさりと顔合わせは終了してしまったのだが、場所を寝殿前に移した後も特に問題なく雇用に関する話は終了してしまった。
そのうえ、妖忌の住処も屋敷内で構わないと言うのだから驚きである。流石にそれは堅持して辞退し、妖忌は魂魄一党が駐屯の為に用意した住居の一つに居るという訳だった。
今は突如空間を割いて現れた紫と二人、杯を交わしている最中である。
幻想郷はどういうわけか郷外に比べて酒が豊富にあった。最初は驚いたものの平時でも酒が呑めるというのは良いことであろう。
そう妖忌が賞賛を送ったためか少し機嫌が良い紫に、二人しか居らぬゆえ言葉を崩したら如何かしら?と勧められた妖忌はしかし首を振って、慣れてしまったので、とそれを断った。
「しかしなんで屋敷への駐屯を拒否したのかしら。他の使用人だって屋敷で暮らしているし、雑舎も余裕がある。斯様なあばら屋よりも快適ではなくて?」
母の様な姉のような、妹のような娘のような表情を浮かべながら紫は囁くように妖忌に問いかける。
西行寺家、と言うのは屋敷の大きさに対して驚くほど少なかった。そもそも女性が当主をやっている、と言う時点で予想してしかるべきであったのだ。
彼女のほかには年老いた親戚四名、それと血縁ではないやはり老いた使用人が四名、総勢九名があの屋敷の住人全てであった。
「だからと言って厚かましく御好意に甘えるわけにもいきませぬでしょう。それにその、なんだ、あれです」
「うら若き乙女たる主君と一つ屋根の下で眠るわけにはいかないと言うことかしら?」
「紫様の言い方は些か色が濃すぎますな。しかしその通りです」
妖忌は苦々しい顔を紫に向けて杯をあおる。
だが次に紫が発した発言内容は妖忌にとって全く予想もしない内容だった。
「何言ってるのかしら?貴方だってまだまだ若いんだし、そのまま伴侶となってしまえばいいでしょうに。可愛らしい子だったでしょう?」
「ぶふぅ!」
思わず妖忌は口に含んだ酒を噴出す。
酒まみれになった紫が精緻な美貌を引きつらせているが、妖忌からすればそれどころじゃない。完全な不意打ちだった。
「…汚いわね。貴方、喧嘩売っているのかしら?」
「き、汚いのは紫様のその思考でありましょう!何をおっしゃるのですか!」
「あまり大声を出さないように。多分隣家まで響いているわ。孫娘が起きてしまうわよ?」
「むぐ…」
孫を溺愛する妖忌は口を噤むしかない。そんな妖忌に対して紫は邪悪な、そう邪悪なと言ってよい表情を浮かべて嘯いた。
「ふむ、私なにか可笑しな事言いましたか?」
「当然でしょう、仕えるべき主に対して欲情するなど不敬の極みではないですか」
「でも貴方は心から彼女に仕える為に来たわけではないのでしょう?」
「む…」
痛いところを突かれる。妖忌は彼女が都市王の下で冥界西行寺の当主、ないしは死神として働けるか、現世において他者の生を不当に脅かす存在でないかを見極めに来たのだ。
それゆえに妖忌には反論することができない。満足そうに紫は杯を傾ける。
「主を敬するも良し、それは心を満たします。賃金を敬するも良し、それは生活を満たします。しかし何にも敬さずして仕えるこそ不敬の極み。なら突き抜けてしまっても何も問題ありません」
「己の娘より幼い女性を妻に娶れと紫様は示唆するのですか?」
「愛があれば何てことありません。長寿たる妖怪や半人半霊にとって年齢なんてあまり意味を成さないでしょう?」
「それは…そうですが」
妖忌の実年齢は三十路頃の外見に反して百をとうに超えている。そんな存在が人間に対して年齢がどうとか言うのは確かに馬鹿げた話である。
紫の言っていることは実に正しかった。であるのに妖忌が腹を立てるのは紫は完全な正論で以て妖忌をからかっているだけであるからだ。
見よ、本心から愛や敬意を語っている者ならば浮かべるはずのない、可笑しくて仕方が無いというように笑う妖艶な表情を!
それでも妖忌は非難の言葉を酒と共に飲み込んだ。もとより愚直な男、口で紫に勝てるはずなどないのだ。
「時々貴方は男色なんじゃないかって思うのだけど…もし私がここで貴方を誘惑し始めたら貴方はどうするのかしらね?」
「それはもう全力で押し倒したいところですが、後が怖いので全力で逃走します」
「………」
…どうやら紫に口で勝ったようだが、誇りを痛く傷つけられた紫の額にすっと怒りの青筋が浮かんだのを目にした妖忌は慌てて恋だの愛だのといった流れを断ち切るべく話題を変えた。
「年齢と言えば、屋敷の使用人達は皆高齢でしたな。若い者が当主を除いて一切居ない。何故でしょうか?」
「強引ね。まぁいいわ。貴方は何故だと思う?」
「…誘われたのでしょうか」
「大正解」
そうですか、と妖忌は息を吐いた。人を殺すような少女には見えなかった、という己の読みが浅かったのだと思うと落胆する。
その落胆ははたして読み違えた、という己の未熟さに対するものか、それとも少女が人を殺しているという事実にか。そのどちらによるものかは妖忌にも分からなかった。
だが、顔をゆがめる妖忌を興味深そうに眺めた後、若干真面目な表情で紫は口を開いた。
「ええ、死に誘われました。ですが彼女にではありません」
「どういうことですか?」
「あの屋敷には、もう一体、人を死に誘う者が存在しているのです」
言われて妖忌は屋敷の全景を思い浮かべる。はて、そんな者が存在していたか?屋敷の住人は全員人間であったが…いや、一つ。
高さは約十五丈、広がりは百二十尺に迫ろうという、おおよそ桜という種の大きさとも思えぬ圧倒的な佇まいを誇る巨木。
「桜、か」
「ええ、そのとおり。今の季節では分からないけどね」
ま、大きさからして異様さは見て取れるわよね、と洩らした後に紫もまた酒で喉を湿らせて、私も常にこの屋敷だけを見ている訳にもいかないから一部は伝聞と推測ですが、と前置きしてから妖忌に説明を始めた。
なんだかんだで説明することが大好きな紫はここぞとばかりに流麗な声を披露する。
「あの桜は魔性の桜です。現在幻想郷にあるものの中では最も美しい桜、と言ってよいでしょう。ですが、その美しさに人は恋焦がれる」
「と言われますと?」
「おそらく、己もまたあの美しい桜の一部となれれば、ということなのでしょうね。最初に西行寺の先代当主が己の死期を悟り、あの桜の元で死を迎えました。これは自然死です」
「姫君の父親ですか」
「ええ、彼は聖人、と言っても良いほどの格を備えた人間でした。そしてその血肉を吸収したあの桜は益々美しいものとなった」
「嫌な予感がいたしますな」
「正解。歌聖に陶酔し、しかし残された者達も、同様の死に方を選ぶようになりました。これには自然死と、そして自殺が含まれています」
自ら命を投げ捨てるなんて実に愚か、と鼻を鳴らして紫は冷ややかな目線を酒に向けた。その認識は妖忌も共通である。
武人たる剛毅さを持つ彼にはそのように一時の感傷に流されて自尽を選ぶ連中の心中など理解できない。
「そうして多数の死を受け入れ、そしてそれが己の血肉となる事を理解したあの桜は、能動的に人に自尽を選ばせるようになりました。これは私も体験しましたので間違いありません」
「なんと!」
「ふふ、なかなか面白い余興でしたが妖怪を死に誘うには些か足りませんわ。ですが感受性の強く、死の何たるかをまだよく知らぬ者はそうはいかないでしょう」
「だから、屋敷に若者がいないのですか」
「そういうことです。幻想郷の住人はあの桜を西行妖と呼んでいます。…全く人間には困ったものね。管理者たる私からすればあんな者をこしらえてくれていい迷惑ですわ」
「西行妖か…」
妖忌は噛締めるように復唱した。
「ただ気をつけなさい。西行妖は人に自尽を押し付けるだけでなく、樹木の特性として人の生命力を吸い上げもしていますので、用が無いならあまり近づかないことです。体力吸引による衰弱、という原因のある死なので半人半霊でも防げませんよ?」
「そうは言われましても、園丁なので」
「まぁ、貴方の生命力なら普通に食べて寝てれば大丈夫だと思いますが。ただ枝打ちは遠当てで行ったほうが良いかもしれません」
「…その桜だけ紫様にお任せいたしましょうか」
庭仕事なんて冗談じゃないわ、と半眼で妖忌を睨む紫に然様ですか、と頷いた妖忌だったが、ふと当惑したかのように眉を寄せた。
「もしや、姫君が死に誘う能力を持っているというのは誤解で、その西行妖が成した結果が姫君に押し付けられているのでしょうか?」
「…世間の評判としてはそうなのかもしれません。ですが彼女もまた、やはり死に誘う能力を持っています。尤も、その能力が開花――ああぴったりな表現ね――したのも西行妖が人を死に誘うようになってからとの事らしいので、最初に父君があそこで死んだために奇妙な繋がりが出来てしまったのかもしれません」
「紫様は彼女の能力を見たことがあるのですか?」
「無論あります。あまり自分に近づかないように、と彼女は私の前で野鳥を殺して見せましたから。まあ私がやらせたんですけど」
それを聞いた妖忌は苦々しげな表情で目を伏せる。
「どんな感じなのでしょう。西行妖と同じでしょうか?それとも紫様のように境界を動かすような形でしょうか?」
「いえ、例えるならば…対象の中の生を、少しずつ死へと塗りかえていく、と言ったところかしらね。結構時間がかかっていました。そして全てを塗り潰し終えると」
「死に至る」
「正解。彼女が手を下したという証拠は一切残らない。おそらく衰弱死と区別がつかないでしょうね。しかも錬度が上がれば一瞬で死に誘えるようになるんじゃないかしら。ま、これは死と言う結果の押し付けなので貴方たち半既死人には効かないでしょう。ですが私は死ねるでしょうね」
そこで紫はこんなところかしら、と説明を打ち切った。久々に長話が出来て実に満足そうである。
一方で妖忌は昼に出会ったあの少女が、己が知る限り最高の実力と格を誇る大妖八雲紫をして死に至らしめるというその事実に戦慄した。
「然様ですか」
「ええ」
若干血の気の引いた表情を浮かべる妖忌の顔を軽く一瞥した後、紫はからかうような表情で妖忌に笑いかける。
「どうしたの?良かったじゃない。夫婦喧嘩で貴方が殺される心配は無くてよ?」
「またそこに戻りますか…」
うんざりしたように眉をひそめて妖忌は溜息をつく。下手に最初に動揺したのが拙かった。今晩は延々この話題でからかわれるに違いない。
逃げ出したいな、と歴戦の猛者は情けない表情を浮かべる。
金色の双眸が、そんな妖忌を楽しげに見つめていた。
▼4.姫様 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
妖忌が西行寺家の園丁となってから一週間ほど後、当主たる西行寺幽々子から直々に庭を案内するとの申し入れがあった。
既に一通り庭の概要を把握し、道具の確認及び不足していると思われる道具の補充に移っていた妖忌だったが、ありがたくその提案を受け入れる事にした。
改めて幽々子の人柄を確認する良い機会であるし、園丁として当主の注文を聞いておく必要もあるだろう。
幽々子に案内されて庭園を一巡して寝殿前へと戻ってきた妖忌は早速今後の方針について幽々子の意見を拝聴すべく質問を投げかけた。
西行寺家の庭園の端には塀を突き破って屹立する巨大な桜の樹がある事、庭園内に湧水がある事、若干狭めである事を除けばほぼ中、上流貴族らの館とそう変わりは無い。
故に贅を凝らした、と言うわけにはいかないだろうが、それなりの要望は叶えられるはずだ。
「それでは西行寺様、いかような庭園を御所望でしょうか?至らぬ身ではございますが誠心誠意務めさせていただきますゆえ」
「え、ええと、そうですね…活気のある庭が良いです」
「活気のある、ですか。それでは滝でも用意いたしましょうか?」
「その、あの、…任せます」
「心得ました。不足があるようでしたら御指摘くださいませ」
「は、はい」
活気か。これまた難しい注文である、と妖忌は嘆息した。植物を配するのだから多少なりとも活気は存在するが、それを主題にする事はまず通例ではありえない。
庭園は普段はただ主のためだけに存在し、同時に来客に対しては主の格を示す指標でも有り、そこに本来求められる主題は風情と品格である。
虫を放ったりすれば秋には鈴虫の合唱を楽しむことも出来ようが、それも一年中というわけにはいかない。
鳥を呼びこむのも手だが、望んだときに来るとも限らぬし、餌となる実をつける樹木を用意せねばならぬ。とても一朝一夕では達成は出来まいし、糞の掃除も面倒だ。
うむむと妖忌が考え込んでいると、依頼主であるはずの西行寺幽々子のほうが萎縮した表情で訊ねてきた。
「あの、魂魄様」
「拙者も他の方々と同様に姫様とお呼びさせていただいてもよろしいですかな?」
「え?あ、はい」
「それでは姫様、御慈悲を否定するようで申し訳ありませぬが拙者のことは妖忌と呼び捨てくださいませ、もしくはただの園丁と」
「しかし、ですが…」
「この屋敷において最も尊重されるべきは姫様の願いです。それは疑いようがありませぬ。ですが他の貴族方に誤解されること無き様、下々との区別ははっきりさせておく必要があります」
「それは…」
「…とまあ偉そうな話はともかくとして、魂魄は現在幻想郷に複数居りますゆえ、些かややこしゅうございますれば。魂魄様、と呼ばれましてもやれ返事をしてよいやら、と逡巡してしまうのですよ」
「なるほど、これは失礼いたしました」
冗談めかして語った妖忌であるが、それに真面目に謝罪されては立つ瀬がない。全く以て、西行寺幽々子には身分といった概念があまり無い様であった。
分かりやすい上下関係を受け入れる事を是とする武者として生きてきた妖忌にとっては少しばかりやりづらい相手である。
「それで、如何なされましたか?姫様」
「ええと、なんでしたっけ?」
「…申し訳ありませんがそれは拙者にも分かりませぬ」
そう答えた妖忌だったが、成る程よく見ると幽々子の視線はさっきから彷徨っている。いや、彷徨っているのではなくて妖忌の半霊を追っているのだ。
「気になりますか?これが」
「ああ!ええと、はい、そうでした」
「既に我が娘を一度はごらんになられていると思いますが、見ての通り我が一家は半人半霊という種族でしてな」
「はい、伺っております」
「生きてもおり、そして同時に死んでおる、と言うわけです。しかし見た目どおり綺麗に半人と半霊が分かれているわけではありませんぞ?どちらもが、半人半霊です。故に」
此方が既に知っている、と言う事を語ってよいものか。妖忌は多少言い淀んだが、結局続けることにした。
「姫様のお力は我等には届きませぬ。なにせ、既に死んでおるのですからな」
「…そうですか」
幽々子は何か訊ねようと口を開き、そしてそのまま口を噤んだ。その表情から、聞いては拙いと考えたからではないようだ。
おそらく、妖忌に何故この人寄り付かぬ屋敷に来たのかと訊ねようとして、家族の傍で働く為だろうと結論し自己完結したのだろう、と妖忌は推測した。
そのまま幽々子は「んー」と思案顔を続けていたが、何か思いついたかのように一瞬目を見開いた後、いたずらっ子のような笑みを浮かべる。
「ふふ、ですが妖忌様は一つ勘違いしていらっしゃいます」
「はて、なにをでしょうか?」
幽々子と口元を押さえて笑うと、もう一方の手を妖忌の半霊へと向ける。すると、
「なんと!」
妖忌の半霊は妖忌の意思に反して幽々子の方へと引き寄せられていき、そのまま幽々子の周囲を漂い始めた。まるで幽々子が半人半霊になったかのようである。
驚く妖忌の顔を見て、幽々子は若干してやったりといった表情で笑う。
「私の力は死をもたらすだけではありません。このように死霊を操ることが私の本来の力なのです。私の力は妖忌様に届きますわ」
「…」
「あ、あの、勝手に半身を操ってしまいまして申し訳ありませんでした…」
「いえ、そのようなことは」
苦い顔を浮かべた妖忌に慌てて幽々子は笑顔を引っ込めて謝罪し、妖忌の半霊を開放する。
別に妖忌も半身を操作されたことに対して不快を覚えたわけではなかったのだが、慰める上手い言葉が口をついて出てこなかった。
言える訳が無い。己の半霊が幽々子の周囲を舞う様がまるで付き纏っているように見えて、紫と酒の席で交わした会話が思い出されたのだ等と。
二人の間にさほど重くは無いものの払拭し難い沈黙が漂った。
「…それでは庭の件はあまり急いではおりませんので、まずは現状のまま手入れをお願いしますね」
「心得ました」
ばつが悪そうに幽々子はそれだけ語ると、そそくさと屋敷の中へと戻っていった。
思わず苦い顔を浮かべてしまった不注意を妖忌は呪ったが、今からどうすることもできず、結局黙々と屋敷の奥で半ば放置されていた道具の手入れに戻り、それに没頭していった。
▼5.幽々子様 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「あの、この前は申し訳ありませんでした」
数日後、長いこと放置され乱雑になっていた庭園内の樹木の枝を落としていた妖忌は後ろから声をかけられた。不意に、という訳ではない。この距離で気配が分からなければ武者として無能の極みである。
割と手斧の乗りが良かったので中断するのはもったいないな、等とまことの園丁であるような感想を抱きながら妖忌は手を止めて振り返った。
もとより当主の言葉を無視するなどという選択肢は存在していない。腰を折って、謝罪する。
「こちらこそ、申し訳ありませんでした。己の半霊を纏う姫様を拝見し、まるで姫様も半人半霊になったかのようである、と笑みがこみ上げてきてしまいまして」
「あらあら」
「その笑みを抑えた結果、あのような表情になってしまい申した。真申し訳ありませぬ」
「そうでしたか。そのような場合は笑っていただいて構いませんよ」
「御好意、痛み入ります」
謝罪を許されたほうではなく、許したほうがほっとしたように胸をなでおろす。なんとも可笑しな光景だと妖忌は心の中で苦笑した。
「して如何なされました?もしや、何か不足でもございますでしょうか?」
「いえ、そういうわけではないのですが…作業を拝見させてもらってもよろしいでしょうか?」
「無論構いませぬが、そう面白い物でもありませぬぞ?」
「ええ、かまいません」
「では、本日も猛暑が予想されますゆえ、失礼ながら我が半身を姫様のお傍に置いておきます」
「半身を?あら、涼しい?」
「幽霊ですので。しかし霜焼になる可能性もありますので直接触れないようお願いいたします」
「分かりました」
実際には半人半霊の霊はそこまで冷たくないのだが、感覚は共有しているし流石に抱かれても困るので方便で対処する。
幽々子は妖忌に頷くと寝殿の簀子に腰を下ろし、そして妖忌はそれを確認した後そのまま園丁の作業に舞い戻って行った。今日からは剪定である。
自然のまま伸びるに任せるのも様式の一つだが、現在の状況はあまりに乱雑としすぎているので、やはり多少は枝打ちをしておくべきであろうと妖忌は判断したのだ。
ばさり、ばさりと自分勝手に伸びている枝を落とす。さび付いていた手斧は先日のうちに研ぎなおしておいたので切れ味は申し分ない。
む、あそこの枝が少し飛び出ておる。ばさり。ふむ、悪くない。次だ。
「………ま?」
ばさり。しまった、少し切りすぎたか?いやまだ、十分に対処可能だ。身長に、少しずつ切りすぎた枝が目立たないようにその周りの枝を合わせていく。
ばさばさ、ばさばさ。うむ、完璧だ。我ながら筋がいい。
「……様?」
次だ、丹田に気合が入る。なんとまあ乱雑に伸びた枝よ。まるで拙者に切って欲しいと語りかけているようだ。待っているが良い。すぐに落としてくれるわ。
ばさり。む、これは?落とすべきか落とさざるべきか、どちらが釣り合いが取れる?ええい、ままよ。本能が導くままに手斧を動かす。ばさり。よし、落としたので正解だ。
「…忌様?」
既に我が心は明鏡止水。最早一瞥するだけでどう枝を落とせば良いかはっきりと分かる。うん、乗っておるわ。流れるように手斧を動かし、流れるように枝を落としていく。
もはや赤子の手をひねるより簡単よ。む、あそこは届かんな。手斧で遠当て出来るか?ふむ、やってみるか。では
ぬおお!なにやら背中にやわらかい感触が!これは何ぞ!と言うかさっきから聞こえているかもしれなかったりする声はもしかして…
「妖忌様!」
妖忌は恐る恐る振り返った。背後では頬を膨らませた幽々子に妖忌の半霊がさば折りをかけられているところであった。
「…もしや先ほどから呼ばれておりましたか?」
「もう、さっきからずっと声をかけているのに!」
「こ、これは失礼いたしました!」
なのでそのさば折りをやめてくだされ。その、なんというか、胸が。感触が。
触れるなって言っておいたであろうに!って、ああ、だから手を使わずに着衣の上から腕だけで締め付けてるのか。成る程ー…じゃない!
やむを得ず妖忌は半霊を暴れさせる。その様子が苦しんでいるように見えたのだろう。幽々子は妖忌の半霊を開放した。
ふー、危なかった。
「申し訳ありません姫様。手斧の乗りが良かった物で、つい」
「ふーん!妖忌は当主の命令より目の前の木のほうが大切なんですねー」
「そのような御無体を仰らんで下され。これこの通り反省しておりますゆえ」
膝をつき、簀子に腰掛けた幽々子に妖忌は頭を垂れる。すると妖忌の視界に映るは単の端から覗く幽々子のすらりと伸びた足。
ちらりとのぞく素足が実に艶かしい…じゃなくてはしたないから貴族らしく緋袴を…等と園丁風情が当主に言えるわけもない。
心の中で悶絶する妖忌に幽々子はわざとらしくやれやれといった表情を作りながらも楽しそうな声色で妖忌に問いかける。
「まあいいです。不問にしましょう。それで、妖忌様は一体何がそんなに楽しかったのでしょうか?」
「何が、と言われますと?」
「先ほどから枝を落としている妖忌様はなにやら楽しそうに見えましたゆえ」
やれやれ、あっさりと様に戻ってしまったな、と妖忌は心の中だけで苦笑する。のんびりしているかと思いきや意外に幽々子は妖忌の表情に敏感であるということを遅まきながら把握したのだ。
とはいえ、ふむ?
「楽しそうに見えましたか」
「ええ」
はて、確かに妖忌は剪定を楽しんでいたが、そもそもこういう楽しさを言語化すること自体が困難である。
これがこうだから楽しかった、というふうに熱中している事を説明するのは難しいものだ。
だが、切って理解するのは妖忌の十八番。今度は、明確な意思を持って枝を落とす。バサリ。ふむ。
それをまたしても無視されたと思ったのだろう。幽々子が非難の声をあげる。
「妖忌様!」
「失礼、確認を行いたかったもので」
「と、言いますと?」
「己の内に、理想となる風景があります。そして己が手斧を動かすことで現実が一歩、また一歩と理想へと近づいてゆきます。その充実感が、楽しかったのでしょう」
「理想の世界に、近づく、ですか」
「ええ、己の力で。己が腕を振るう事によって目標へ近づいていく。それが実感できるのはやはり悦楽でありましょう」
「目標…」
目標という単語を幽々子は言い淀んだ。それが意味する事を正確に把握しながらも妖忌は言葉を続ける。
幽々子の未来への展望を知る良い機会である。それが冥界だの死神だのと重なる可能性がある未来であればよいのだが…ま、そんな事はあるまいが。
「姫様には何某かの目標はありませぬか?如何様なものでも構いませぬ。先を見据えれば自然と人生は豊かになりましょう」
「…」
「歌などは?姫様のお父君はそれは立派な歌聖であったと窺っておりますが」
「…私には、歌の才などありません」
「然様ですか。しかし拙者は愚者ゆえ、己の目耳で見聞きしたもの以外はあまり信用せんのです。よろしければ一首お聞かせ願えませんか?」
即興で作り上げた歌ならばそこには余程歌に傾注している者達――例えばその技巧が出世にも繋がる中央貴族とか――でなければそのときの心情や本音が含まれるものである。
そう畳み掛けられて幽々子は若干困ったような顔をしたものの、やはりここは貴族として粛然と振舞うべきであろうと判断したのか、玲瓏な声でさえずる様に一首読み上げた。
「春過ぎて 夏の日照りを浴びぬれど わがひだるさは かはらざりけり」
(超意訳:春が過ぎて、眩しい夏の日差しを浴びるようになってもわたしの空腹感は止まるところを知らないなぁ)
「…ぶ」
……なんでそんな題材を選ばれるのですか。思わず妖忌は下を向く。
「…笑いましたね」
「笑ってませぬ」
才能以前にそもそも目の付け所がおかしい。普通少しくらいはあはれなるものを歌にしようと努力するのではないのですか、と妖忌は唇をかむ。
「笑いましたね」
「笑ってませぬ」
くぅ、と幽々子の腹が音を立てる。一瞬泣いているかのような表情で踏みとどまったものの、こらえきれず妖忌は笑い出した。
「…ふふ、わははははははは!」
「やっぱり笑ってるじゃないですか!」
幽々子は顔を真っ赤にすると、傍らに浮いていた妖忌の半霊の尻尾?を掴み、全力で廊下へと打ち付ける。
幽々子の死霊を操る能力に因るものか、本来ならいかなる痛痒ももたらさないはずその一撃は半霊を通して妖忌に凄まじい衝撃を伝え、笑顔を浮かべたまま妖忌は庭園にばたりと倒れ伏した。
◆ ◆ ◆
照り付ける初夏の日差しに眩しさを覚え、妖忌は目を覚ました。気絶してしまっていたようだが太陽の高度からそう時間が経っていないことが確認できる。
何時の間にやら妖忌は寝殿へと上げられ、幽々子の腿を枕に寝かされていた。
幽々子一人で妖忌を運べるはずも無い。誰かしらが手伝ったのだろう。だからその手伝った誰かは幽々子に膝枕される妖忌を目撃したに違いない。
そう思うと妖忌にはやおら気恥ずかしさがこみ上げてきた。義理の息子だったら斬って捨てよう。そう決めた。
幽々子の腿から頭を起こした妖忌は平身低頭して謝罪する。
「申し訳ありませんでした」
「…私は謝りませんからね」
「姫様に落ち度などございませぬ。言を違えた事、勤務中に意識を失ったこと、全て拙者の失態にございますれば」
「…」
「申し訳ありませぬ。許しを請える立場にはありませぬが、重ねてお詫び申し上げます」
「…もう不問でいいです。私には歌の才能がない事ぐらい分かっておりましたので」
才能がないと言うか、目の付け所がおかしいと言うか。ただしかし需要にあった選択が出来ないというのもまた、才能がないと言うことかもしれない。
幽々子が若干悲しげに目を伏せる。
「ありがとうございます。…ですが拙者としては姫様のことがまた一つ理解できてうれしゅうございます」
「…歌の才能が無いことですか?」
「いえ」
いぶかしむ幽々子の表情を楽しんだ後、妖忌は廊下へと腰掛け、脱がされていた草鞋を履いてにやりと笑う。
「昼食にしましょう」
◆ ◆ ◆
「如何ですかな?」
「釣れません…」
妖忌の問いかけに、悲しげに幽々子は答えた。
既に魚篭の中には妖忌が釣り上げた鮎が10匹近く収まっている。しかし幽々子が釣り上げた数は零。幽々子は坊主であった。
「ま、最初はそんなものでしょう。さて、遅まきながら昼食といたしましょうか」
あの後妖忌は「幽々子が簡単な屋敷の周辺案内を申し出た」と言う理由をでっち上げて幽々子に外出の準備を勧めた。
自らは厨に赴いて未醤やら塩やらを小壷へ詰め、ついでに鍋やら薪やら器やらを拝借する。
後はそれらを風呂敷で包んで背負い、汗衫を纏い市女笠を身につけ外出の支度を終えた幽々子を伴って近くの沢へと足を運び、二人で釣りを始めたのであった。
妖忌にとってはいつもの食料調達だが、幽々子にとっては初めての経験であるため坊主に終るのも致し方ないだろう。
せめて一匹だけでも、と闘志を燃やす幽々子を尻目に見ながら妖忌は熟艾に火打石で火をつけて火種代わりとし、石を並べ薪をくべて火を用意する。
己が釣り上げた鮎のうち腸を抜いた3匹を含め6匹を串刺しにして姿焼きにし、残りは乱切りにして山菜と共に未醤を入れた鍋に放り込んで火にかけた。
そのうち辺りに漂い始めた焼魚の香ばしい香りにつられたのか、幽々子は若干恨めしげな顔をしながらも竿を垂らすのをやめて火の元へ近づいてくる。
妖忌は幽々子のために衣服が汚れないよう木陰の下となる平べったい岩の上に手拭いを敷き、そこに腰掛けた幽々子に焼きあがった腸抜きのほうの鮎を手渡す。
「これは、どうすれば?」
「調味は普段どおり。未醤を匙で塗るか、塩を振りかけてそのまま齧りなされ」
当惑した表情を浮かべたものの、言われたとおりに匙で未醤を掬って鮎に塗り、そのまま幽々子は鮎に齧り付く。
「骨に気をつけなされ」
「むぐ…」
咀嚼して、飲み込む。
「…こんな食べ方は初めてですが、美味しいですね」
「さもありなん。何物も、採りたてが一番上手いのですよ」
そのようですね、と幽々子は頷き、妖忌が一匹目を食べ始める前にあっさりと一匹目を完食する。
若干苦笑しつつ、妖忌は腸抜きの二匹目を幽々子に差し出した。実に健啖なことである。
二人が姿焼きを食べ終える頃には鍋がいい具合に湯気を放っていた。妖忌はそれを器に盛り、匙と共に幽々子に差し出す。
冷ますのもほどほどに、幽々子はそれを口へと運び始める。
その様を見て、妖忌は成る程、と幽々子が歌った心境を理解した。貴族は小食を一日二食で、しかも完食ははしたなし、少し箸をつけて残すべしと言う時代である。健啖家にはさぞ辛かろう。
ましてや、女性とあっては尚更である。
「如何ですかな?」
「…熱くて、暑いけれど美味しいです」
「それは重畳」
額に汗を浮かべながら、はふはふと幽々子は汁物を平らげていく。妖忌もまた、自身の器に手をつけ始めた。
◆ ◆ ◆
「妖忌様は元武者、と聞き及んでおりますが武者様は皆昼に食事をとられるのですか?」
ある程度食を進め、一息ついた幽々子は若干うらやましげに妖忌に問いかけた。
「ふむ。様々ですな。武者などと申しても所詮はならず者の集団。つまり腹が減れば飯を食う、と言った次第でしょうな」
「うらやましいです」
「その代わり、飯の種が手に入る保障などありませぬ。安定して一日二食が取れる貴族との違いはそこですな」
「一食も取れないときもあると?」
「野山に踏み入ればそのようなことはまずあり得ませぬが、野山では仕事にありつけませぬし、薬味をそろえる事も出来ませぬ。職探しの最中に路銀が尽きればまぁ、一食も取れない事もあります」
「そうですか…」
多分、自分は恵まれた立場にいるのだろう、と思いを巡らせ始めた幽々子を見て妖忌は笑みを浮かべる。
「まぁ、いずれにせよここは都ではありませぬし、ある程度自由に振舞っても罰は当たりますまい。たまには我等、一日三食といたしましょう」
「むしろ毎日がいいですが」
満腔たる思いをこめて幽々子が呟くが、まさか毎日外出するわけにもいかないので妖忌は聞かなかったことにした。
「ふむ、屋敷の方々に三食にするように依頼してみては如何ですか?」
「…縁者達が許してはくれないでしょう」
むしろ食事を餌に幽々子を誘い出しているようで気が引けた妖忌は一つ提案をしてみたものの、悲しげに幽々子は目を伏せる。
とはいえ妖忌の見たところ、幽々子の老いた親戚たちは別に幽々子に不必要に厳しいという様には見えなかった。
おそらくは、幽々子がゆくゆくは貴族の令嬢として他の貴族へと嫁いだ際に恥をかかないように、という老婆心の現れに違いない。
成る程、残る親族たちは皆高齢な上、既に幽々子と西行妖が死をもたらす存在であることが幻想郷では割と有名であるらしいため、この先幽々子が独りにならない為には外の貴族へ嫁ぐ事を考えたほうが現実的かもしれない。
冥界、そして幻想郷と移り住んだ経歴ゆえに伝統ある西行寺家の歴史は表舞台からは消え去って久しく、西行寺家など都の貴族からすれば単なる素性不明の貴族気取りに過ぎないのだろう。
だが素性が不明であっても、それなりに貴族らしく振舞うことが板についていれば幽々子の美貌とあわせて中流貴族の次男坊辺りなら十分に狙えるのではないか。
そこまで考えて、だったらまずは貴族らしい服装をさせろよ、と幽々子の衣装から覗く脚(多分今は袴すら穿いていない!)に目をやっては妖忌は呆れるのだが、この夏の暑さである。
多少の薄着は仕方ないのかもしれないと己を納得させた。決して眼福だから妥協したわけではない。ないのである。
「それでは仕方ありますまい。機を見て何やかやと外出することにいたしましょう。もっともそう何度も姫様をお誘いいたしますと拙者としても首が危ういのでその点は御容赦を」
「分かりました。それと後一つお願いがあるのですが」
「なんでしょうか?拙者に叶えられる範囲内であればなんなりと」
「二人で居る間だけでも良いので、名前で読んでいただけないでしょうか」
「なんだと!?」
思わず無礼な台詞というか驚愕の叫びが口をついて出てしまい妖忌は焦ったが、幽々子は不問としたようで真面目な表情で妖忌を見つめてくる。
心の中で薄ら笑いを浮かべている紫に心の中ですら当たらぬ斬撃を繰り出しながら妖忌は何とか次の言葉をひねり出した。
「そ、その心は?」
「名前で呼ばれないと不安になるのです。私が存在することに価値があるのだろうか、と」
然様か、と妖忌は心の中で振り回していた刃物をしまって首肯した。
それは、おそらくは貴族として生まれた者ならば一度は考えることであろう。すなわち、求められているのは貴族としての形骸か、それとも己自身か。
そして悲しいことに多くの貴族にとって求められるのは前者である。故に貴族の長女や次男等はそれを理解し、諦め、時には物言わぬ人形と成ってゆくのである。
今後、貴族に嫁ぐ事を考えるならば幽々子はそういう生き方を許容する覚悟を持たねばならない。
だが、
「心得ました。それでは可能な限り努めましょう。幽々子様」
妖忌にはそんな生は許せなかった。己を殺す生き方など呼吸する骸と大差ない。半人半霊、生と死が共に在る存在であるからこそ、そのような生き方は許容できなかったのだ。
妖忌が口にした回答に幽々子の顔がぱっと明るくなる。
なんかどんどんと墓穴を掘り進めているような気がしないでもなかったが、なるほど、この笑顔の為であれば多少の苦労は背負い込んでも良いかもしれない。そう妖忌は結論付けた。
▼6.紅の夏 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「おや義父さん。姫君の膝枕の感触は如何でした?」
「…渇!」
幽々子と共に屋敷に戻った後、一日の仕事を終えて荒ら屋に戻る道すがらの妖忌に見慣れた顔が聞きなれた声で話しかけてきた。
妖忌の娘の夫、つまり魂魄一党の現棟梁にして義理の息子である妖怪のからかうような発言に、こんなこともあろうかと妖忌は用意しておいた木刀を打ち込んだ。
急ごしらえの木刀は妖忌の願いに答え、妖忌の霊力による青い光を纏ったまま宙を切り裂いて奔る。
これなるは現世斬。現し世のあらゆる物を斬る、と名付けられた斬撃。神速で間合いを詰めつつ一切の容赦なく放たれる妖忌の横薙ぎの一撃が敵の喉元へと迫る。
「憤っ!」
されど敵もさる者。これあるを予想していたかのように後手に用意していた木刀を構え、あらん限りの妖気を込めて振り下ろす。
迎え撃つは断迷剣。痛みを伴わぬ死を以て一切の迷いから開放するという、慈悲深い一撃。神速で振り下ろされる木刀が妖忌の木刀と交差する。
両者必殺の気迫をこめた一撃は噛み合い、喰らい合い、そして両者の木刀は交差点から折れるのではなく爆ぜたかのように粉砕されて宙を舞う。
飛散した2つの切っ先は圧縮された霊力と妖気を湛えたまま回転して近くの木に突き刺さ…らず、そのまま幹を豆腐か何かのように抉り抜いて飛んでいった。
「用意の良いことよ」
「そちらこそ」
互いに互いの顔をねめつけて鋭く笑い、同時に折れた木刀を捨てて拳を振りぬく。
一瞬の機微を分けた妖忌の拳が相手の顔へとめり込んで鼻骨を砕き、妖忌の義理の息子は背中から地面にどう、と落下した。妖忌はそれを以て溜飲を下げる。
「ととー」
「おお妖夢!!見ていたか!?お祖父ちゃんは悪に勝ったぞ!」
「…息子を゛殴り倒じで、言う事がぞれでずが?」
愛娘が抱いた初孫に対して誇らしげに勝利の宣言を行う妖忌に、妖忌の息子は鼻血を喉に詰まらせながら呆れたような表情で妖忌を下から睨めあげる。
そんな義理の息子に手を伸ばしつつも、そ知らぬ表情で妖忌は嘯く。
「さて、これから一党の前で今後の説明だったか」
「ええ゛、鼻血が止ま゛っだら」
片手で妖忌の手をとり、片手で鼻を押さえながら彼は立ちあがる。妖忌の義理の息子は体が資本の妖怪であったのですぐに鼻血は滴るのをやめていた。
一部始終を見届けていた魂魄妖忌の娘にして魂魄妖夢の母親は笑顔を浮かべている妖夢に一度笑いかけて、溜息をついた。
こいつらは一体全体、いつになったら大人になるつもりなのだろう、と。
◆ ◆ ◆
次の処暑を以て、魂魄一党は解散する。皆と共にこの国を駈け回れた事を嬉しく思う。
妖忌の義理の息子が一党数十名の前で語った一党会議の展開は以上のような口上から始まった。
誰もが残念そうな顔をしているものの、不思議そうな表情をした者はいない。
不当な扱いを受けてきたのは顔役として交渉等の取り纏めを行っていた棟梁だけではなかったのだ。
魂魄一党は人妖綯交ぜ、戦うことをこそ生き甲斐とする連中が人とも妖ともつかぬ妖忌の元へ自然と集まって出来た集団だった。
共に戦う戦友も、倒す相手も人妖選好みしない、純粋な戦闘集団である。なればこそ仲間内での結束は固い。
されど近年そんな彼らへの風当たりは強かった。異形を引き連れる様は人間からすれば疎ましく、人間を信頼する様は妖怪からすれば愚かしかった。
結界都市、平安京。魑魅魍魎を拒絶する象徴の如きあれが全てを物語っている。
ただでさえ難しかった、人と妖怪が共存できる状況はとうの昔に終わりを告げていたのだ。故に誰も棟梁を責める言葉など持ちはしない。
今後は人間のみの集団、妖怪のみの集団に分かれて活動することになるという。
魂魄一家を含め若干名は幻想郷に残るようだが、元々が歩く闘争本能のような連中の集まりである。大半はどちらかについて幻想郷を出て行くだろう。
そこまで思いをめぐらしたところで、妖忌はふとこの前会った銀髪の新入りのことが頭に浮かんだ。
仲間内では「死なずの妹紅」と呼ばれ、圧倒的な自己再生能力を持っているらしい、己や己の娘と同じように生と死が共に在るような気配を持った少女はどうするのだろうか?
そう思って周囲に視線を巡らすと幸いと言うかなんと言うか、彼女の美しい銀髪はすぐに目に付いた。
「おう」
「ん?…これは御大将、何か用?」
妹紅の態度は最初に会ったときと変わらなかった。それを良し、と気に入った妖忌は少女に問いかける。
「なに、死なずの妹紅はどちらに行くのかと思うてな。人間側か?それとも妖怪側か?」
「失礼ね、私はこれでも人間よ、多分…。でも、どうしようかな」
「やはり死なずの妹紅は年もとらぬのか?」
「まあね、だからどっちにつこうか悩んでる。あーこの一党でもうちょっと人間の技も妖怪の技も学びたかったのになー」
まこと残念そうに妹紅は溜息をつく。
「おぬしは術者ではないのか?高名な術者でなければ年もとらず、致命傷から瞬時に再生など出来はせぬと思ったのだが」
「残念ながら私のは体質。ただ死なないだけの人間よ。取り押さえられれば手も足も出ない、ね。下手すりゃ下種や妖怪の慰み者よ」
「…だから戦う術を磨く為にここへ来たと?」
「まーそんな感じ。ま、どうせ死なないってことは何されたって多分元通り直るんだろうから、どうでもいいんだけどね」
投げやりに呟く妹紅に妖忌は怒りを覚えた。年頃の娘が死なないんだから何されたって良い等と、そんなことがあっていい訳はない!
旅の荷物を詰め込んでいた雑嚢から布に包んだ物体を取り出して妹紅に手渡す。
手渡された妹紅は首をかしげた。
「なにこれ?」
「魔獣の卵らしい。貴様にくれてやる」
「魔獣の卵?何に使うのよ?」
「ただの魔獣ではない。大陸産の式神のようなものらしい」
「式神?火術しか使えない私に使いこなせるとは思えないけど…にしても卵で渡されてもねぇ?」
どうすりゃ良いのよ、と首をかしげる妹紅に妖忌はこれを妖忌に譲った相手から聞かされた内容をそのまま伝えることにした。
「心配無用。これを行使するのに修行など必要ない。ただ、己が格上だと示せばよいだけのようだ」
「どうやって?」
「これに血をかけると卵が孵化して魔獣が現れる。それを倒せば以後そいつを使役できるらしい」
「そりゃお手軽。でもなんであっさりと譲ってくれるわけ?もしかして同情とかかしら?」
若干不満そうに妹紅は妖忌を睨みつける。
だがそれを涼しい顔で受け流し、妖忌はのほほんと妹紅の質問に答えた。
「その魔獣には難点があってな。式神は行使するときしか霊力を使わないが、その魔獣は使役していないときですら主の生命力を常に吸い続けるらしい」
「…あー、成る程。そりゃ一般人には有難味がないわね」
「然様、しかしおぬしが本当に不死人であれば、どうであろうな?」
「確かに。美味しいところだけ持ってけるわね」
納得したかのように妹紅は笑う。
「そういうことだ。拙者らにはあまり旨みがないし、そもそも拙者は己の腕で斬る事にしか興味がない。だからくれてやってもまったく惜しくないというわけだ。というか下手に孵化しても危ないし処理に困っていた」
「そういうことならありがたく頂いておくわ。…でもどんなのが出てくるの?」
「ふむ、地を走る三本爪の魔獣と聞いていたが。その爪で全てを引き裂くらしいが、拙者にとっては斬るならば刀で十分よ」
「へぇ」
「だが孵化させるときは人気のないところでやってくれ。先に言ったようにお主が格上と分かるまではそいつは延々と暴れまわるらしいのでな」
「りょーかい。となるとこっちも御礼をしなきゃかしらね」
妹紅は渡された物体を自身の風呂敷に放り込むと、なにやら自分の荷物をあさり始める。
「別に要らぬ物を押し付けただけ故、礼など不要であるが」
「受けた恩は返す。それが出来ない奴は唯の屑よ。わたしがそうなりたくないだけ」
「そうか」
「そうよ。はい、これあげる」
妹紅はそう言うと、荷物から輝く羽を取り出して妖忌に手渡した。
「これは?随分と美しい羽よの」
「死者を生き返らせる不死鳥の羽だって。偽物だけど」
「偽物?」
「死者を前にしてささやいたり詠唱したり祈ったり念じたりしたけれど、そいつはぜんぜん反応しなかった。だから偽物。蓬莱の玉の枝と同じよ」
「ほう?」
「多分うまく作られた贋作。でも火鼠の皮衣よりかはましな物のはずよ。火にくべても燃えなかったし」
「然様か…これが燃えぬとは。良く出来ているな」
「そ、だから上手く話術を駆使すれば高値で売れると思うわ。それに綺麗だし、意中の相手に送るのも悪くないかもね」
何が原因かは分からないが自分が発した言葉に対して忌々しげな表情を妹紅は浮かべ、しかし妖忌のいぶかしむ様な視線を察知すると即座に元の態度に戻った。
そんな妹紅に妖忌は感心したような表情を浮かべる。それを目にした妹紅は不満げに訊ねた。
「あによ?」
「お主、才女なのだな。蓬莱の玉の枝、火鼠の皮衣。竹取物語であろう?文字が読めるのか」
「……まーね」
妖忌はそれ以上追求するのをやめた。妹紅が益々忌々しげな表情になったからである。
必要なのは唯信頼のみ、それを言葉で語れぬなら行動で示せが魂魄一党の掟。死なずの妹紅は既に仲間内でそれなりの信頼を得ていた。
ならばこれ以上の詮索は不要であろう。故に妖忌は話は終わりとばかりに笑う。
そんな妖忌を見て感心したとも呆れたともつかない声で妹紅は語る。
「あんたさ、いい人だから忠告しとくけどあまり誰彼構わず女に優しくしていいことはないよ?」
「そうなのか?優しくしているつもりはないのだが…」
そう語る妖忌の顔を見て、妹紅はわかってない、といった表情で首を振った。
「意中の女にゃ信頼されなくなるし、それに女ってのは男を…いや人を騙すのが男より得意なんだから。男なんて女からすりゃ幾つになったって童よ」
「…違いないな」
何処かしら私怨の篭ったような声で妹紅は力説する。
さもありなん、と豪奢な金髪を誇る友人の妖艶な微笑を思い出して妖忌は身震いした。身震いついでに近くに居たりしないか不安になって周囲を見渡す。
幸い紫は見当たらなかったが、気付けば一党はそれぞれの思いを胸に自分の荒ら屋に戻り始めていた。日も傾き始めたし、そろそろ解散時だろう。
そう妖忌は考え、妹紅にさらばと目で語って歩みだした。すれ違いざまに肩を叩く。
「では男を手玉にとる良い女になれよ、妹紅。己の一片たりとも安売りしないことだ。たとえ換えの利く命であってもな」
「…三百年くらいは覚えておくよ」
礼はしたが、どちらかと言えばやはり恩を受けたのだろう、と感じた妹紅は最後ぐらいはとばかりに妖忌の背中に柔らかい笑みを返す。
妹紅の冗談とも本気ともつかぬ応答に軽く振り返った妖忌は初めて妹紅の素の表情を垣間見たように思う。
夕陽を背負い、銀髪に燃えるような紅を照り返しながら笑う妹紅は思わず息を飲むほどに美しい。
それだけ確認し、妖忌は歩み去った。妹紅が不死人であるならば、またいずれ会うこともあるかもしれない。
◆ ◆ ◆
そして次の処暑を迎え、魂魄一党は二つに分かれて旅立っていった。妹紅がどちらを選択したのか、妖忌は確認しなかった。
郷に残った者も、めいめいに己の職を探し、それに便利な場所に居を構えていった為、駐屯地のあばら家を利用するのは妖忌一人である。
まぁ、いずれにせよ一つの時代が終わったのだ。無骨たる妖忌の心にも若干の寂寥が吹き抜けていった。
▼7.空色の夏と 移り行き ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「むむむ」
残暑も終わりに近づこうという頃、妖忌は唸っていた。
一通り草木の手入れを負え、藻を取り除き苔を整え終え、手入れという段階まではほぼ完了したのだ。
屋敷を訪れた当初の寂れた様子はなりを潜め、静謐にして清潔、西行寺家の庭は質素だが纏まりのある様相を取り戻している。
だが本番はここから。園丁の仕事は整形のみにあらず、造形こそが腕の見せ所である。当初に幽々子に語ったとおりまずは北対付近から湧き出す清水で滝を、と思ったのだがそうなると現在庭にある石だけでは足らなくなってくる。
やはり、何処かしらから石を取ってこなくてはなるまいか、と妖忌は想いを巡らせた。このまま悩んでいても、時は過ぎるばかりである。
このままでは秋めく滝どころか、冬になっても滝は完成しない。庭に活気を、と語った幽々子に対する妖忌の面目はこのままでは丸つぶれだ。
すっかり園丁色に染まった妖忌は屋敷の管理を行っている使用人に引車を借り受け、外出の準備を始めた。
門では、当然のように青の汗衫を羽織り、市女傘をかぶった幽々子が妖忌を待っている。
やれやれ、と妖忌は諦めたように頭を振った。
◆ ◆ ◆
「滝を作る為の岩を探せば良いのですね?」
車を引く妖忌に連れ立って河原を訪れた幽々子は楽しそうに垂衣の向こうで微笑んでいる。
「ですが幽々子様」
「私の屋敷の庭になる物ですし。…それともお邪魔でしたか?」
幽々子が不安そうに妖忌の顔を覗き込む。
妖忌からすれば邪魔と言うより幽々子が岩場で怪我をしないかが心配なのである。
人手は多いに越したことは無いが、幽々子に注意を払いながらではあまり妖忌の作業は進まないだろう。それでも、
「では、お願いします。本来は自然のままの岩を使うほうが風情があるのですが、手ごろな物が早々見つかるとも思えませぬので今回は加工します。ゆえに色合い、質、模様がよろしく、一定以上の大きさであれば構いませぬ」
「分かりました」
楽しそうに笑う幽々子を前にしては口を噤むほかない。
「庭の石の色は御記憶に御座いますか?」
「勿論です。私の庭ですから」
「これは失礼いたしました。ではそれにあった色の物をお願いいたします。…ただ、あまり川の近くにはお近づきになられないように。探しながらですと、思わぬところで苔などに足を取られることがありますゆえ」
「はい、気をつけます」
神妙な表情で頷いた後、ゆゆこは「たつたがわー きしのまがきを みわたせばー…」などと朗じながら岩を探しに河原を歩いていく。
その後ろを妖忌は少し遅れて歩いてゆく。そして離れていく幽々子に聞こえないように小さく溜息をついた。自分は一体何をやっているのか、と。
友人の頼みで幻想郷に来たはずだ。そしてもう目的はすませたようなものだ。
目の前の少女に死神など勤まるはずは無い。そして脅威も無し。彼女が人を殺すことはおろか、傷つける事すらあるはずはない。人格は温厚なれど覇気が足りない。だからあまり当主としても期待はできぬ。そう妖忌は結論付けていた。
もうここに留まる理由はない。いや、それは正確じゃない。まだ園丁としての仕事をやり終えておらず、それを途中で投げ出すなど男のやることではない。だがそれだけと言ってしまえばそれだけ、義務感だけの筈だ。
だから今のこの時間は無駄な時間だ。いや、それも正確じゃない、義務感だけじゃない。やってみて意外に園丁は楽しかった。年を取った証拠かもしれないが、まあそれはいい。
園丁の業務に費やす時間は楽しい。趣味と仕事が両立した時間は無駄じゃない。それは心に潤いを与える時間だからだ。
だが今妖忌が行っているのは、造園の為の岩探しではなく、岩を探す幽々子の安全を見守ることである。それは造園作業ではない。
だからこれは無駄な時間、無意味な時間のはずだ。それなのに。
それなのに、どうしてこうも自分はそれを楽しげに受け入れているのか。
その答えはさっき自分で出している。それは心に潤いを与える時間だからだ。つまるところ妖忌は幽々子を見ているだけの時間を無駄と感じていない。
その感情の意味するところを持て余している。
幽々子のことが嫌いかと問われれば、「嫌いではない」と答えられる。では好きかと問われると多分「分からない」としか答えられないだろう。
生まれながらにして自分達が貧民と異なると錯覚している者達、すなわち貴族という連中を妖忌がさほど好いてない分だけ公平に見ていない可能性もある。
逆に罪もないのに周囲から恐れられているという幽々子の境遇に哀れんでいるのかもしれないし、娘ある親として既に妖忌の元から巣立って行った去りし日の娘の姿を重ねているのかもしれない。
いずれにせよ、嫌いではないと好きの間にはそれらを内包した数限りない感情が存在しているわけで、自分の感情がその何処に位置しているのか、妖忌には測りかねていた。
いっそ自分を斬ってのけることが出来ればはっきりするのに、などと埒も明かぬ事を妖忌は考え始める、っと?
「きゃ!」
「危ない」
遠方を見据えていた故に足元の不安定な石に足をかけてしまい、幽々子が体制を崩す。
その傍に音も立てずにふわりと移動し、妖忌は転びかける幽々子を抱きとめた。
「も、申し訳ありません」
「なに、誰しも最初はそのようなもの。失敗せずして注意を払えるようになる者等おりませぬゆえ、そう萎縮なされるな。次が無ければよろしいのです」
「は、はい」
釘を刺されていながらもあっさりと転びかけてしまった幽々子は頬を朱に染めて妖忌に謝罪する。
「ありがとうございました、妖忌様。妖忌様は素晴らしい身体能力をお持ちなのですね」
「いや、その、まあ、これでも元武者の端くれですので」
流石にずっと幽々子を見ていたから反応できただけだとは妖忌は言い出せなかったので、黙って幽々子を支えていた手を放す。
「やはり足場が悪いようですし、幽々子様は車の傍にてお待ちいただいたほうが…」
「いえ、もう大丈夫です。次は転びません」
根拠のない自信と稚気を放つ幽々子の顔を見て、妖忌は心の中で深い溜息をついた。
己の娘の時の経験から分かる。こういう表情を浮かべている相手に更に言を重ねても不機嫌になるばかりなのだ。
不機嫌は不注意を助長するため、ここは沈黙が吉であろう。が、さらに困ったことになってしまった。
厄介なことに、一回失敗した相手は、心配していると覚られたら不機嫌になってしまうのが大半である。
つまり見守っていることがばれたらもうどうしようもない。それだけで不機嫌、不注意の円環が出来上がってしまう。
だから延々心の中で溜息を重ね、もうどうとでもなれと結局妖忌は匙を投げることにした。
周囲に曲者の気配もないし、そもそも死の少女の噂は幻想郷の皆が知るところ、近寄る者などありはしない。
であれば心配事は幽々子自身の不注意だが、転んだら転んだで幽々子も己の失態を素直に受け入れるだろう。仮にそれで幽々子が怪我をしても後は妖忌が屋敷の親戚に非難される事を受け入れればいいだけのこと。
そう腹をくくった妖忌はしかし、己の心の中に幽々子を不機嫌にするような選択肢が存在していないことには気がつかなかった。
「それでは幽々子様には引き続き石の探索をお願いしてもよろしいですかな?…ああ、後お気に召した石でもございましたら申し付けくださいませ。持ち帰って庭の一部といたしましょう」
「はい、…しかしその物言いですと妖忌様は?」
問われて妖忌は引いてきた車の上に乗せられていた物を一瞥する。つられて幽々子も視線を移す。
そこには鍋やら器やらの他に、弓と矢が用意されていた。
「昼食の準備をいたします」
「!分かりました!岩の探索はお任せください」
破顔する幽々子の表情を見て、この顔がやはり一番良い顔だなぁと妖忌は心の中で奇妙な感嘆をおぼえた。
◆ ◆ ◆
「あ」
二人で鴨と鶉の丸焼きを平らげ、三、四ほど手ごろな岩を見繕って屋敷へ戻ろうかというその道中。
何気なく幽々子がふと声をあげて川のほうへと近づいていく。
妖忌もまた車を引く手を休め、その幽々子の後を追っていった。
「どうなされました?」
「すみません。何がどうというわけではないのですけれど」
そう語りながらも、幽々子は着衣がぬれるのにも構わず、浅瀬の中へと踏み込んでいき、そして浅瀬の中にある石を持ち上げようとする。
さりとて一抱え弱ほどある石は幽々子の腕力では持ち上がらない。
妖忌がそれを持ち上げて初めてその全景が河川の内から白日の下へと晒された。
妖忌が持ち上げたそれは……ただの変哲もない石であった。川の流れによって研磨され、他の石よりもはるかに優美な曲線を湛え、しかしながらただの石。
川原の他の石よりも白く、光の下では若干桜色にも見えなくもない、されどただの石。それを幽々子は甚く気に入ったようであった。
「妖忌様、これを屋敷の庭へは飾れないでしょうか?」
…これをか?妖忌は心の中で呻いた。
確かに、お気に召した石でもございましたらと語ったのは妖忌である。
そうなのだが、屋敷の庭の石は全て、ごつごつとした質感の威風堂々とした物ばかり。それらは山岳を見立てたものであるため当然である。
はたしてその中において斯様な石をどのように設置すればよいのだろう?これは何の見立てになるのだろうか?分からない、分からない…
「あまり、よろしくないでしょうか…」
考え込む妖忌を見て幽々子がおずおずと問いかける。
「いえ、問題ありませぬ。それでは持って帰るといたしましょうか」
主の意向を酌むのもまた、園丁の役目である。
はてさて、幽々子はこの石に何を見出したのだろうか?そんな事を考えながら妖忌はその石を抱え上げ、幽々子と共に濡れた衣を翻して岸へと戻っていった。
◆ ◆ ◆
色々悩みを抱えた妖忌はその後の庭作業も混迷を極め、この日採集した石の加工は全て失敗に終わった。
あの日川で拾った石も未だに設置場所が定まらずにいる。幽々子は何も言わずにいてくれるが、園丁の面目は完全に丸つぶれである。
何とかせねばと思うのだが、そんな妖忌を待ってくれるはずもなく季節は流れるように移り変わり。
結果、秋を迎えるどころか秋が終わっても未だ滝は完成しないままである。
▼8.悩み深まる 紫の秋 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「妖忌様、不景気そうな顔をなさっておいでなのですね」
そろそろ冬を迎えようという頃、冬眠前の一献として久々に妖忌と杯を交わす機会を持った八雲紫の第一声はそのようなものであった。
それは明らかに誰かの物真似である。
不機嫌そうな表情で妖忌は応答も返さずに杯をあおり、空になった杯にまた並々と酒を注ぐ。
あら、と紫はその様子を興味深げに注視する。
紫は妖忌をからかいに来たのだ。ここの所ずっと己の時間を式神八雲藍の構築につぎ込んでいたのだが、先日ついうっかり保存を忘れたまま構築環境を削除してしまったのである。
先の保存は一月近くも前。一月を棒に振ってしまった迂闊さを妖忌をからかって紛らわそうとしたのだが、どうやら当てが外れたようであった。
まずは妖忌の機嫌を直さねば、からかって遊ぶことも出来まい。
「はぁ、ではお姉さんが相談に乗ってあげましょう。お姉さん今ならなんだって聞いてあげちゃう」
「では妻になってください」
「え!?ちょっと待ちなさいな!」
「冗談です」
そ、そうか、ちょっと焦った。
「紫様。紫様はいつも心にもないことばかり仰いますゆえ、紫様に相談することなど、なにも」
その回答に紫は若干傷ついたような表情を浮かべる。
「妖忌、一応私にも傷心と言うものがあるのだけれど」
「これは失礼。寡聞にして存じませなんだ」
そこでひとしきり現在の不機嫌と普段やり込められていた分のわだかまりを吐き出し終えたか、妖忌は失礼しました、と謝罪する。
「環境が、よろしくないのです。居心地が悪い」
ぽつりと、妖忌は洩らす。はて?と紫は不可解と言わんばかりの表情を浮かべる。
この男を取り巻く環境は悪くない筈だ。家族がすぐ傍におり、何時だって愛しい孫娘の様子を窺うことが出来る。
幽々子を含めた屋敷の者達も概ね好意的に妖忌を受け入れている。噂の西行寺家で働く者として里に住む他の人間からは距離を置かれているが、それを気にする妖忌とも思えない。
「何が不満なのかしら?」
「あの屋敷には、己が斬らねばならぬ物がない」
ああ、と紫は妖忌の心境の一部を看過した。なるほど、妖忌のように戦乱やそれに伴う権謀術数に慣れ親しんだ者にとっては西行寺家の静かな平穏は居心地の悪いものであるかもしれない。
それは魂魄一党の大半が幻想郷を離れたのと根源を同じくする問題だろう。
覗き見は紫の趣味の一つである。たまに西行寺家を覗き見して得られた情報から察するに妖忌は庭仕事をそれなりに楽しんでいるように思えたのだが、それでも未だ戦場の空気こそがこの男の住処であるようだ。
今の妖忌はさながら善意の海でどう息をすればいいか分からずにもがいている闘魚のような有様であるにちがいない。
太刀は未だ納まるべき鞘を知らず。紫は妖忌の現状をそのように結論付けた。
「でも、それだけではないのでしょう?」
「と、申されますと?」
「彼女から向けられる好意にどう対処すれば良いのか分からないのではなくて?」
「…」
妖忌は沈黙した。あらあら、と紫はその様子を感慨深げに観賞する。
紫は妖忌をからかったつもりだったのだ。だがそれは正鵠を得ていたのか、妖忌は黙りこくったまま杯に映る己の顔を睨んでいる。
妖忌の心中はまさに紫の指摘したとおりだった。会ったその日から幽々子は妖忌に好意的だったのが妖忌には不思議でならなかった。
とはいえ、妖忌の娘の言によると、娘は幽々子と(外見的には)それほど年が離れていない為わりと仲がよいらしい。
故に娘は西行寺家の邸宅に招かれる事も多々あり、その時互いの親についても軽く触れていたらしいので、出会う前から幽々子は妖忌の人となりを知っていたためではないか。
そのような解を得たためにある程度はその疑問は氷解したのだが、それを差し引いても幽々子はなお妖忌に好意的――いや、表現は悪いが懐いている様――に思われた。
「人寂しさか、それとも父親を求めているのか…」
紫に語るのではなく、なんと無しに声が漏れる。
何を期待され、何を返すべきか。それが妖忌の最大の問題だった。幽々子は妖忌がこれまで会って来たどのような人間とも異なる。
平民ではない。貴族とも言いがたい。戦士でもなく、従者でもない。そうやって様々な枠を排除していくと最も近いのが娘、と言うことになる。
だから父親のように振舞うのが幽々子のためであろう。そう妖忌は考えているのだが…
「一概には言い切れないわ、乙女心は複雑なのよ。確かに彼女の父親は娘よりも風雅と風情を愛する性格だったから、彼女は随分と寂しい思いをしたのは間違いないでしょう。来客もない屋敷で、ほとんど知己もない生活はやはり寂しいものでしょう。されど、それが全てとも言えないでしょう」
「…恋慕が…あるとでも?ありえませぬ」
「随分と卑下するのね?貴方はそこまで己に魅力がないと思っているのかしら?」
「では、何故紫様は先ほどの拙者の求婚で鼻白んだのです?」
そうきたか、とその返答を紫は些かの驚きをもって受け入れた。すこしは捻った回答をするようになったじゃないの、と出来の悪い弟子を賞賛するかのように紫は光彩を帯びた目で妖忌を見る。
「私はこの里を管理し、見守っていく事をこの身に課しました。今の私には誰かを特別視することは許されない。故に、私には恋は不要です。目の前にどれだけ魅力的な相手が現れても、ね」
心にもないことばかり仰いますゆえ、と友人に言われたのが若干悔しかったのか紫は妖忌の問いをはぐらかす事無く、本心を吐露してみせる。
妖忌もまた、紫の発言が本気である事を覚ったようだ。首肯も否定もせずただ、そうですか、と呟く。
「恋は魔物。人も妖怪も狂わせますからね…一つ秘密を教えてあげましょう。私が新しく式にした九尾、覚えているかしら?」
「無論」
「彼女は大陸からこの小さな島国へと密航してきた。何故故郷を捨ててこの国へ来たのか、と問うた私に彼女はなんて答えたと思う?」
「流れからして大陸で暴れすぎたから、と言う訳ではないのでしょうな」
「ええ、彼女はこう答えたの。『やり直すために。今度こそ、正しく誰かに恋するために』ってね」
「…」
「生まれ育った故郷をも捨てさせるだけの力が恋にはある。私にはそんな力は不要です。されどあなた達はそうではないでしょう?弱い弱い人間には、己を奮い立たせる力が必要です」
無論それは正にも負にも働くけどね、と紫は肩をすくめる。
「そんないたいけな妖狐を式にしてしまうのが紫様ですか」
呆れたように語る妖忌に、紫は分かってないとばかりに大仰に溜息をつく。
「妖忌、人間と違ってね、妖怪は決して己の業からは逃れられないの。神や妖怪は人をはるかに上回る力を持つが故に、その在り方はほとんど揺るがない。ただ、神はこうあって欲しいという信仰を受けることである程度柔軟に対応する事も出来るけど、妖怪はそうはいかない」
「妖狐の業は化かす事、ですか」
「そう、化かす事、墜とす事が妖狐の業。妖狐の恋は絶対に成就しないのよ。そうして自らの能力と業を忌避した妖狐はいずれ己の存在をも忌避するようになるでしょう。ああなんて可愛そうな妖孤!そんな事になる前にわたしが救ってあげなければ!」
「のうのうと仰るものですな」
よくもまぁ滑らかに舌が回るものだ、と芝居がかった紫の言葉に妖忌は呆れたが、されどその言葉の端には僅かながら紫の優しさらしき物が含まれているような気がして妖忌は沈黙を選んだ。
そして妖忌の沈黙を機に、二人の思考は主題へと還ってゆく。
「けどそれは妖怪の話、人間は違うわね。さあ魂魄妖忌、貴方は西行寺幽々子の好意にどう応えるつもりなのかしら?」
「…しばらくは、父親の代替でありましょう。彼女も大部分でそれを望んでいるでしょうし。…違いますか?」
「人の心を読むのは覚りの領分。私の分野ではないけど、多分違わないのでしょうね」
違わないけどつまらないわ、と紫は心の中で吐息を洩らす。それが表情に表れることはなかったが妖忌は紫の心境の一端を密かに捕らえたような気がした。
多分、紫は己の代わりに妖忌と幽々子を己の恋の代替として投影したかったのだろう。そう、まるで恋愛物語を読むかのように。
「では頑張りなさいな、お父様」
妖忌の困惑の最も中核となっている問題について紫は触れなかった。すなわちそれは何故そこまで妖忌が幽々子を気にしなくてはならないのか、ということである。
妖忌の任は幽々子の資質を見極めることであって、平たく言ってしまえば幽々子と関わる必要は一切ない。だから妖忌が幽々子に何かしてやる必要があるかと言えば実の所、ないというのが解答となる。
さりとて妖忌は刃物以外は不器用な男だし、それを指摘することはとりあえずの答えを見出した妖忌を悪戯に混乱させるだけ。
まあいつか気付くでしょうと紫は追及をやめ、園丁のくせに日増しに料理の腕を上げていく妖忌をからかうことに専念し始めた。
▼9.鳴声、呼声、泣声 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「…で、姫君の、資質は、どうであった?」
背後で荒い息をしている都市王が行きも絶え絶えに妖忌に訊ねる。
細雪が大粒の雪に変わり、深々と降り積もってあたりを白く染め上げる季節。
秋の紫との酒宴以降、己の立ち位置を決めた妖忌は精彩を取り戻した。もとより愚直な男である、混迷から脱出すれば一直線だ。
だが残念な事にそれからあっという間に郷は冬将軍の支配下に置かれてしまった。こうなってしまうともう園丁はもうやることがない。全てが白い雪の下に埋まってしまうのだから当然である。
冬の間は妖忌は屋敷を訪れなくとも構わないと言われていたものの、屋敷に残る住人達の体力膂力を慮ればそうもいくまい。
屋敷の雪掻きを自主的に行っていた妖忌ではあるが、つかの間の晴れを利用して大焦熱地獄に経過の報告に向かったのである。
相手の顔を見るなり西行寺の屋敷を最初に訪れたときの感情が甦り、妖忌は拳を硬く握って流れるように都市王の顔面へと拳をめり込ませた。
そのまま売り言葉に買い言葉。二人は乱戦へと縺れ込み数刻の凌ぎ合いの後、今は互いの背を背に座り込んで荒い息を吐いてるという有様だ。
「…正直な、話、死神も、当主も、無理そうだ。文字通り、虫も殺せぬ、少女よ」
正直に思った所を妖忌は口にする。
半年にわたって幽々子の事を見てきたが、その間幽々子は一回もその死をもたらすと言う能力を発揮しなかった。
能力を発揮する機会が無かった、と言うのもあるだろうが、それでも鬱陶しい羽虫一匹殺すぐらいはやってもよさそうなものである。
それすらしないということは、おそらく幽々子は己の能力を好いてはいないという事なのだろう。
さもあらん。死をもたらす能力など、ただの人には荷が勝とうというものだ。
「…まあそれでもよい、殺人嗜好者でなければな。死神は無理でも当主は可能だろう。いつでも殺せる、と言う能力があればそれだけで重圧になる。多少気が弱くても能力がそれを補填できよう」
「そうかも知れん。向いてはいないが不可能ではないな。で、どうする?」
「しばらくは現状維持だ。冥界西行寺も具体的な行動は起こしていないから、引き続き彼女を護衛していてくれ。不慮の事故なんかで失いたくないのでな」
「護衛か…」
「不満そうだな」
「まあな、退屈すぎて時折死にそうになる」
「それも仕事の内、だ。報酬に色はつけるから我慢しろ。本人にはまだその話は告げるなよ?ああでも、なるべく姫君とは仲良くなっておいてくれ」
「何故だ?」
「そのほうが、いざと言うとき動かしやすかろう?おぬしを通して依頼をする事で」
背後の彼は人好きのしない笑みを浮かべているに違いない。この政治家めが、と妖忌は頭を振る。
だがまぁ、都市王の思考は都市王のもの。それを妖忌が丸々映す必要もない。であれば妖忌もまた都市王を利用するまでだ。
こいつの権力ならば、手に入れにくい物でもわりと入手が可能だ。幽々子の顔を思い浮かべて、妖忌の口から突いて出た言葉は、
「唐菓子を大量に用意しろ」
「ご機嫌取りか?」
「そうだ。己が少女に気に入られるような性格をしていると思うか?」
「…思えないな。仕方ない、用意しよう」
「なるべく保存を効く物を、大量にな」
「わかったわかった」
糖の効いた菓子はこの時代高級品であるが、大陸と繋がりが深い仏神である彼なら多種多様の唐菓子を用意できるだろう。幽々子も喜ぶに違いない。
悪くない土産が出来た、と妖忌は静かに笑う。
背中越しにその笑いを感じ取った都市王は妖忌の若干の変化に気がついたものの特に口を差し挟まず、どんな唐菓子を用意すれば女子に受けるか、友神である毘沙門天、その御使いの小動物のような従者に聞いてみようかなどと思考をめぐらせていた。
◆ ◆ ◆
………デ
純白で全てを埋め尽くしていた豪雪が粉雪へと変わってそして消え去り、身を切るような寒さの風が温かみを増して誰もが春の伊吹を感じられる様になった頃。
既に住み慣れたあばら家で一人晩酌をしていた妖忌はふと何者かの声を聞いたような気がした。
妖忌の周りには誰もいない。気配もなく妖忌に声をかける事が出来そうな唯一の妖怪は未だ冬眠中だろう。
式にかなりの力を割いて以降、眠くて仕方ないと語っていた彼女はそうそう春のうちに目を覚ましたりはしまい。
はて、と耳を欹てた妖忌であったが、特に何者の声も聞こえてこない。幻聴か?と思い、庭園の完成予想図に意識を向けた妖忌であったが、
……イデ
再び、何者かの声を耳にする。
いや、それは耳にしたのではない。鼓膜ではなく、心へと直接響いてくる声であった。
それは囁く様に、浸透するように妖忌の心へと吸い込まれていく。
「良いだろう、行ってくれる」
短刀友成を腰に佩き徳利杯を手にし、防寒用に特別に仕立てた厚手の狩衣を羽織る。
あばら家を後にし、導かれるように歩を進めた妖忌が辿り着いたのは既に通い慣れたる西行寺の邸宅である。
その西側の塀、そこにあるそれを視界に納めた妖忌の産毛が一瞬、ぞわりと逆立った。日中にはまだ、それはそんな姿ではなかった筈である。
ごつごつとした樹皮に覆われた太い幹、そこから伸びる節くれだった枝は幾重にも分岐し、折り重なったその先には垂れ下がらんばかりの満開の花。
その樹のつける花は月の光を照り返して淡く輝き、白雪残る西行寺の風景と調和して幽玄なれど厳かに佇む。
流れる風を受けた花が静かに揺らめき、淡い花弁がふわりと踊り閃きながら宙を舞う。
…オイデ
西行妖。西行寺家を西行寺家足らしめる象徴たる妖樹。美しくも呪わしい、全ての感情を淡墨に染め上げるような典雅たる闇。
それはたった一夜のうちに蕾から満開の桜へと姿を変えていた。
「貴様か、己を呼んだのは」
ほぅ、と妖忌は溜息をつき、築地塀を突き破って屋敷の外にはみ出した西行妖の根元に腰を下ろす。
そこから見上げる桜もまた、息をのむほど美しい。
「で、来たが?これからどうするのだ?」
くくっと妖忌は苦笑を洩らす。成る程、妖忌や紫を殺すには些か物足りない。
確かに心の隅に、僅かに死を望む感情が湧き上がっている。これ以上無駄に人斬りを重ねるのか?と。
斬殺死体を増やすだけしか能のない己に生きる意味があるはずも無い。ならば死んでしまえ。死んでこの美しい桜の一部となれ、と。
だが、それを一息で妖忌は斬って捨てる。
「くだらぬ。生きるという事は殺すという事だ。己も貴様も、それは同じよ」
オイデ
「言葉は通じぬか。まあ、どうでもいいことだ」
そう、どうでもいいことだ。妖忌にとってはただ美しい花がそこにある。それだけである。
僅かながら体力を吸われているような感もあるが、それも紫の言うとおり人より強靭な半人半霊なら食って寝れば回復する程度。全く脅威にならない。
それどころか半人半霊、半分死んでいる影響か、匂い立つ死臭漂うこの場所は妖忌にとって奇妙に居心地が良いのである。
であれば忌むべきものなど何もない、花見酒と洒落込もうか。同席できそうな友人は未だ冬眠の真っ最中だろうから些か物悲しいが。
そう結論付けた妖忌は一人酒をあおる。これだけの桜を独り占め、というのも悪くはないものだ。
そのうちだんだんと眠気が増してきてあばら家に帰るのが億劫になった妖忌は、そのまま静かに眠りに落ちる事を選択する、というか意識を放棄する。
なに、一人旅の間はいつもそうしてきた、いまさら風邪などひくまいよ…
◆ ◆ ◆
こーん、こーんと、石を削る音が妖忌の耳に響き渡っている。それに交じるように誰かの声が聞こえてくる。
「……様!」
誰かね?見れば分かるであろう、今拙者は石の加工で忙しいのだ。後にしてくれんか。
石の中にある形を見つけ、違う事無く表に出すというのはなかなか難しいのである。今年こそは滝を完成させねば、幽々子様に合わせる顔が無い。
「…忌様!」
だから待てといっておろうに。
都市王から大量に渡された唐菓子はやはりというか、幽々子に喜んでもらえたが、それはあくまで都市王が用意したもの。己自身が何かしたわけではない。
それはなんとなく悔しいじゃないか。この悔しさを払拭するには己の作品でもって幽々子に喜んでもらうより他無かろう。
…はてさて、この感情はなんだろうか?負けず嫌いの男の意地だろうか?それとも…
「妖忌!目を開けなさい!」
◆ ◆ ◆
頬に鈍い痛みが走る。
それと同時に妖忌ははっと目を覚ました。
何時の間にやらそれなりの時が経過していたようで、妖忌の上には幾許かの桜の花弁が積もって妖忌を斑な桜色に染め上げている。
気付けば加工していた筈の石も手にしていた槌ものみもない。
夢、か。
はたして、あのまま夢を見続けていれば、この感情に答えは出たのだろうか?
夢の中で削り続けていた石は、すなわち妖忌の心の形は、はたしてどんな姿になったのだろうか?
だがそんな感慨に浸る時間も余裕も妖忌には無かった。
目の前で、西行寺幽々子が泣いているのだから。
「こ、これは幽々子様、如何致しました?…と、いや、まずはこのような場所で眠りこけてしまい申し訳ありませぬ」
いくら酒を飲んで寝てたとはいえ、妖忌がここまで他者の接近を許すはずもない。誰かが近づいてきても即座に気配を読み取れ、目を覚ませる筈だった妖忌はしかし幽々子の接近に気がつかなかった。
それほどまでに西行妖の気配と幽々子の気配はそっくりだったのである。
だがそんな事実は何の言い訳にもならない。とりあえず非礼を詫びる意味で謝罪を述べるものの、それを口にしてから改めて妖忌は己の愚行を悟った。
西行妖は、人を死に誘う妖怪桜なのだ。そんな桜の元で眠りこけている様が傍から見ればどう映るかなど、考えるまでも無いではないか。
ましてや卓越した武人である妖忌は、眠っているときですら死人のように息と気配を殺すことが出来る。はたから見れば死んでいると思われても仕方が無い。
棟梁の座を義理の息子に譲ってから妖忌は一人旅を続けていた。そのせいで己の行動が他者にどう印象を与えるか、という事に対する注意が随分と疎かになっていたのだ。
結果、この様である。妖忌の無恥に対する罰は、割と妖忌にとって最悪な形で与えられたようだ。
「ああ、ああ、配慮が足らず申し訳ありませんでした。どうか泣き止んでくだされ」
彼女の父親は、この桜の下で死を迎えたのだ。動かぬ妖忌を見て何を思ったか、そのときの幽々子の心境を慮れば何遍土下座したとて足りるものではないだろう。
幽々子は何も語らない。ただ立ち上がった妖忌の胸に顔を埋めて、童のように泣きじゃくるばかり。
妖忌は身動きが取れない。唯一自由になる手でどうするべきなのか。頭をなでてやるべきか、それとも抱きしめるべきか。
頬の痛みと、幽々子の嗚咽だけが妖忌の中を木霊しているのみでどうしていいか分からない。
だが何もせず流されるだけなど妖忌の生き方に非ず。何であろうと選択し、前に進まねばそれは死んでるのと同じ事。
故に妖忌は歩を止める思考を放棄して、己の感情に全てをゆだねる。幽々子の肩を抱いて、静かに語りかけた。
「御安心くだされ。拙者は何があろうと幽々子様より先に死ぬ事はございません」
先に謝るべきだろうとか、思い上がっているんじゃないだろうとかそんな愚考は後回し。ただ口にしようと思った事だけを口にする。
はてさてその言葉は効果があったのかなかったのか、肩に回した手から幽々子の震えがおさまりつつあることを把握して妖忌はほっとする。
「ほ゛んどうに゛、じにま゛ぜんか」
「二言はございませぬ」
ろくに声になっていない声に、はっきりと断言する。それを耳にした幽々子の体がふっと重くなった。
どうやら安心して脱力してしまったようで、足に力が入らない幽々子を妖忌は抱き上げた。
幽々子の顔が朱に染まる。果たしてそれは抱き上げられた事に対する反応か、それとも涙と鼻水で酷い事になっているであろう顔を見られたことに対する反応か。
軽く幽々子に微笑んで、妖忌は幽々子を抱いたまま築地塀に沿って門を目指し歩き出した。西行妖は西行寺家の塀の一部を粉砕して屹立している為にその隙間から庭園内に入れはするのだが、
あまり広い隙間とも言えないため幽々子を抱いたままでは無理があるし、それに幽々子が落ち着くまではこうしていたい。だからぐるりと大回りをする。
「どうやらあの桜もまた、拙者を殺すには至らぬようです。故に御心配召されるな」
そう語る妖忌に声を返そうとして、幽々子は先ほどの自分の酷い鼻声を思い出した。目の前にある布でずびーと鼻をかむ。
それは当然のように妖忌の着衣であるのだが未だ絶望と混乱の渦から逃れ切れていない幽々子には気がつかなかった。
「…妖忌もまた、私を置いて死んでしまうのかと思いました。でも、そういえば妖忌には死に誘う能力は効かないのでしたね。…取り乱してしまってすみません」
思い出したように幽々子は未だ赤い目を瞬かせる。
実際は幽々子と西行妖の能力は異なるし、力が足らないだけで西行妖は妖忌を殺せるのだが、それを言ったら幽々子は再度混乱するだろう。
だから妖忌は静かに幽々子に頷いた。どうせ西行妖も妖忌を殺しきれないのだから結果としては同じである。
「すみませぬ。幽々子様には危険を冒させてしまいましたな。幽々子様の命を危険に晒すなど、もはやどうお詫びすれば良いやら」
その謝罪に幽々子はきょとんとした顔を浮かべていたが、
「え?いえ、違います。私はなぜか西行妖に死に誘われないので」
「ほう」
そういえば西行妖が妖樹と化すと共に幽々子は死を操る能力を得た、と紫が言っていた事を妖忌は思い出した。
成る程、幽々子の父親の死をきっかけに妖怪としての生を歩み始めた西行妖と幽々子は姉妹のような物なのかもしれない。…姉弟かもしれないが。
人を死に誘う妖樹を切らずに残してあるのは、それが父の形見、というだけでなくそういった感情もあるのだろうか。
「そういえば、何故幽々子様はあそこに?」
「ふと目が覚めたら毎年恒例の声が聞こえたもので。屋敷の者達はあれに近づけませんし、ちょっと様子を見ようかと…」
そう語った幽々子はそこで言葉を切って身震いをする。魂が凍りついたかのような、桜の元にいる妖忌を目にした瞬間を思い出したのだろう。
密着している妖忌にも幽々子の震えが伝わってくる。妖忌は謝罪を繰り返そうとするが、目を合わせた幽々子に制されてしまった。
仕方無しに黙って歩を進める。
「も、もう大丈夫です、歩けます」
門を目の前にして、幽々子は顔を赤らめる。流石に童のように抱かれたまま屋敷の者達と対面するのは恥ずかしいようだ。
ではと妖忌は幽々子をおろし、閉ざされたままの門を見る。まだ日も昇り始めぬ時刻、いくら老人の朝が早いとて屋敷の者達は目覚めていないようである。幽々子の心配は杞憂だったようだ。
故に未だ門には閂がかかったまま。ならばと妖忌は短刀を抜き、静と閂を切り落として門を開く。
「お見事です。が…確か妖忌は半人半霊なので空が飛べたのでは?」
「あ」
幽々子の指摘に妖忌は呆然とする。その通り、飛んで中に入って閂を外せばよかったのだ。
どうにも己には障害は全て切ればよいという思考があるようだ、とその短絡さに恥じ入った妖忌は肩をすくめる。
そんな妖忌を目にしてようやく幽々子はほころぶような微笑を見せた。
「と、とりあえず幽々子様は先に屋敷の中へお入りくだされ」
「妖忌はどうするのですか?」
「閉められぬ門をこのまま放置しては置けぬでしょう。ここで誰かが目を覚ますのを待ち申す」
「では、御一緒しますね」
自身の醜態に溜息をつきながら腰を下ろした妖忌の傍に、幽々子もまた腰を下ろす。
言っても聞くまいな、と妖忌は己の羽織っていた短めかつ厚手に拵えた狩衣を脱いで幽々子に羽織らせる。
その狩衣の胸元についた、鼻をかんだ跡を目にした幽々子は顔を赤らめて縮こまった。
10.望むは殺意、臨むは決意~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「少し、妖忌の話が聞きたいです」
手のひらに白い息を吐きかけながら、幽々子はそう妖忌に持ちかけてきた。
妖忌はどちらかといえば沈黙を気にしない、いやむしろ愛する方であった。自分が語るのもそう好まぬし、相手の言葉に相槌を打つのもそう得意ではない。
だから幽々子の提案は妖忌にとってあまり喜ばしいものではなかったが、されど先ほどから幽々子に心配ばかりかけている妖忌には幽々子の提案を断れるはずもない。
「構いませぬが、あまり能弁なほうでもありませぬゆえ、何を話してよいやら」
「では、こちらから質問した事に応答する、というのは如何ですか?」
幽々子の桜枝を煮出したかのような濃桜色の瞳に喜びの光が揺れた。おそらくは最初からそれが目的だったのだろう、と妖忌は苦笑する。
「ええ、答えられる範囲であれば」
それではと幽々子は前置きすると、妖忌の顔色をおずおずと伺いながらも、しかしいきなり本陣へと踏み込んできた。
「妖忌は、再婚はしないのでしょうか」
妖忌は幽々子に目線を向ける。もしその話題を振ってきたのがそれを寝殿で談笑の種とする貴婦人方であったのなら、妖忌は間違いなく問答無用で鉄拳を叩き込んでいただろう。
だが幽々子の視線は好奇心や享楽といったものは一切なく、まるで我が事の様に真剣な面持ちを浮かべている。
深呼吸し、楽しい話にはなりませんが、と前置きして妖忌は己の内心を吐露し始めた。
「一言で言ってしまえば、拙者は怖いのです」
「怖い、ですか。女性がですか?」
「いやいや…いや、女性が怖い事はよく存じ上げておりますが」
妖忌の脳裏に微笑みすらも恐ろしい友人の顔が浮かびあがる。はてさて、こんな光景を見られたらまた延々からかわれるに違いない。
妖忌が戦慄している様の意味が分からずに小首をかしげている幽々子の視線を受け流した妖忌は軽くせきをして話の本筋に戻る。
「怖いのは拙者が、父のようになってしまうかもしれない、ということです」
いきなり妖忌の父の話をされても幽々子にはさっぱりである。
だがこれから説明があるのだろう、と疑問符を顔に浮かべながらも黙って妖忌の次の言葉を待っていた。
「元服の際、拙者は今の名を父から貰いました。妖忌、と。この名の意味がお分かりになられますか?」
「…妖を忌め、ですか?」
「その通りです。妖怪を忌め、妖怪を厭え、妖怪を斬れ。幼い頃からそう延々と父に教えられました。…憎しみと共に、斬魔刀であれと」
幽々子が隣で息を飲んだのが分かる。少し、間を置いて妖忌は続けた。
「拙者にとっては、良き父ではありませんでした。ただひたすらに妖怪を斬れと語り、拙者に剣技を仕込む父はまるで熱病に浮かされる病人のようでもありました…ああ、そのような顔をなされるな。剣の修行そのものは嫌いではありませなんだし、なによりそれでも拙者は父には愛され、大切にされていたのですから」
そう、愛されていた。されどそれはまるで大事な道具を労わるかのように。子として愛されたのではなく、道具として愛されたのだ。
しかしそれらのことは口に出さず妖忌は話を続ける。
「親戚が言うには、元々は父はそれは心優しい者だったそうです。剣士として失格な位に。そう、妻が、つまり拙者の母が妖怪に殺されるまでは」
「!」
「もうお分かりでしょう。恋は魔物である、と拙者の友人は申しておりました。拙者もそう思います。拙者は、父のようにはなりたくないのです」
半人半霊もまた人間から見れば妖怪と大差はない。幼心にも妖忌はそれを理解していたので、妖怪を殺せという父の有り様は実際の所滑稽ですらあった。
「拙者の妻は病死でした。その時既に四十を超えていたので、寿命だったのかもしれませぬ。妻の死に、拙者はそれはもう赤子のように泣き申した。せがれが「あれはお前の一生の恥だな」と申すくらいには」
幽々子は何も言わない。黙って妖忌の言葉に耳を傾ける。
「ですがもし妻の命を奪ったのが病魔でなく、五体ある生物の形をとっていたら、妻の遺体の横であざ笑っていたら。拙者は父のようにならずにいられたのだろうか、そう慄然としたのです。そしてその時に悟りました。拙者には、最早人を愛する事は出来ないと。父に刀として育てられた拙者はすなわち奪う側なのですから。母の命を奪ったものと同じ、誰かの命を奪う物です。そしてそれが分かっていながらも」
妖忌は上半身全てを使って深く深呼吸する。
「拙者は刀である事をやめられない。それしか、拙者にはないのです。それだけしか幼少の頃より積み上げてきた物がないのですから、それを捨てては拙者には何もなくなってしまう」
幽々子は震えていた。妖忌の言葉に対してか、それとも寒さゆえか。
半人半霊、人より体温は低かれど初春の夜風よりかは暖かい。妖忌は腕を伸ばし、幽々子を抱き寄せる。幽々子は、抵抗しなかった。
「すみませぬ、少々話が逸れてしまいましたな。まぁこれが拙者が再婚をしない理由でしょうか」
そう語り終えた妖忌は、少しだけ胸の奥が軽くなっているのを感じた。それと同時に自身の行動に疑問も感じる。
なぜ、己は娘夫婦や紫にも話した事がないこの感情を、幽々子に吐露してしまったのだろうかと。
共に父親に一個人として見向きもされなかった者としての共感だろうか?
「妖忌でも、その恐怖は切り開けないのですか?」
「自分自身を斬ってのけることは、刀には出来ませぬ。刀に出来る事は精々、使い手の魂を宿す程度でございましょう」
妖忌は戦を好む性分ではあるが、一般の武芸を志す者たちと異なりさほど強さと言うものには関心がなかった。
斬れる物は斬れるし、斬れぬ者は斬れぬ、ただそれだけ。それは父親に刀として育てられた結果かもしれない。砥ぎ師が刀を砥ぐかのように、黙々と己をみがいて来たのである。
されどその身は刀であるから、みがいた結果は試してみたい。斬れるものを斬るのは楽しいし、斬れぬ物を斬らぬのはつまらぬ。斬れるか斬れぬかは判断するが、斬って良いか悪いかは判断しない。
そういう意味ではみがいては試す、みがいては試すを繰り返すそのあり方は強さを求める求道者よりはるかに性質が悪い。
そんな己が求めているのは…
「拙者は、主を求めているのでしょうな。刀としての己を正しく導いてくれる主を」
ぽつり、と妖忌は呟いた。
この世に生まれ出でて二百に届こうかという妖忌である。今更そうそう生き方を変える事は出来ない。
刀である妖忌は、もう死ぬまで刀であろう。妖忌が重ねてきた人生はただ斬り捨てるだけ、何も生み出せぬ人生でありながら、しかして積み重ねてきたそれを否定できない。
であるならば、妖忌は己を正しく振るってくれる主を探しているのだろう。
そんな妖忌の発言に、幽々子はぽんと手のひらを打ち合わせ、心得たかのようにその立派な胸を張って妖忌に宣言した。
「あ、じゃあ私が妖忌の主になりましょう」
「…えーー?」
「…やっぱり不満ですか?ええと、たしかに正も邪も分かりませんし、園丁の分と随人の分、二人分の禄は出せませんが…」
「誰も禄の話などしておりませぬが…幽々子様は斬りたいものなど御座いませんでしょう?幽々子様が主では拙者はこれより一生何も斬る事が出来ませんでしょうに。刀は、斬るべきものを、斬るものです」
「刀は、斬るものなのですか?」
不思議そうに、かつ若干悲しそうに幽々子は訊ねる。
当たり前とばかりに妖忌は首肯した。
「当然で御座いましょう。刀はただの殺傷兵器です。ゆえに、誰を、何を斬って良いか。それを正確に判断してくれる主を求めているのでしょう」
「…では、やはり私が妖忌の主となりましょう」
「幽々子様、人の話を聞いておられましたか?」
「斬って良い命など、ありません」
静かに、きっぱりと幽々子は言い切った。
「そのような事はありませぬでしょう。我等は生きるため、鳥を、獣を殺しましょうに」
「生きるために他者の命を取り込む。それは確かに自然の定め、致し方ないことでしょう。ですがそれとて斬って「良い」命ではないでしょう?」
「…然り」
「斬って良い命などありません。斬るほうも、斬られたほうも幸せになれるとは思えません。血に濡れた刀より、椿油に濡れた刀のほうが美しくはありませんか?」
「…ですが、刀は斬る事を望んで生み出されます」
「なるほど、刀は殺傷兵器かもしれません。ですが血を吸って錆び、傷を負い、ついには折れる刀と、死蔵される刀。生まれた意義を果たして急逝する刀と、生まれた目的を果たせないで死蔵され時を重ねる刀は、どちらが幸せを感じるでしょうか?生み出したものの意図を反映することだけが、喜びでしょうか?」
貴族の娘として一度も刃を振るった事が無く、父から与えられた守り刀を大切な宝としてきた幽々子と、戦乱に明け暮れ、太刀を大事にすれど使い捨ててきた妖忌では絶対的な意見の差があった。
だが、両者が所有しているそのどちらもが刀であり、どちらかが本物でどちらかが偽者であるというわけではないのである。
「刀の刃は鋭すぎて、人と人との繋がりをもあっさりと斬ってしまいます。…だから斬らずにいられるならば、斬らないほうが美しい。そう、思います」
「たとえそれで振るい手が傷つくことになったとしても?」
「強き振るい手と立派な太刀。二つ揃えば抜かぬとて、他者を圧倒できましょう。…もっとも、私は悲しいまでに貧弱ですが」
偉そうな事を語ったとばかりに、幽々子は若干恐縮した表情で、しかしそれが本心である事を示すように静かに笑っている。
妖忌は呻いた。結局のところ武器であることが疑いない太刀であってすら、所有者の意図する所がそのあり方であるのだ。当人が御守りと思えば、それは御守りなのである。
刀は斬るべきもの、という思考すら、もしかしたら父の怨念によって制御された思考であるのかもしれない。
そう考える一方で、幽々子の言うことが全て正しいとも妖忌は思っていない。少女の語った事は、全て戦を体験した事の無い者の奇麗事にすぎないからだ。
だが、奇麗事ならば鼻で笑い飛ばして良いものだろうか?それを美しい、と感じるからそれは奇麗事なのではないだろうか?
それを忠実に体現できれば、やはり美しいのではないだろうか?それを試してみる事には、意味がない?
「私が立派な振るい手になれるかはともかく、妖忌は美しい太刀になれますよ」
多分、己が幽々子の求める様な形におさまることはないだろう、と自分の気性を良く知っている妖忌は理解している。
だからと言って、奇麗事を試さずに最初から奇麗事なんぞ、と切り捨ててしまうのも如何なものか。
で、あるならば。今までと違う目線で見てみるのもよいかもしれない。何者も斬らぬ事を望む彼女を、主と仰いでみるか?
そう考えた妖忌だったが、一方で幽々子と会話を続けるうちにかつての疑問が再燃してくるのを感じていた。
すなわち、何故ここまで幽々子は己に好意的なのだろうか、ということである。
ちょうどよい、これを機に直接幽々子に訪ねてしまおうと妖忌は目を細めて幽々子の瞳を覗き込んだ。
「幽々子様、主云々の前に拙者も一つ幽々子様に質問があるのですが、よろしいでしょうか?」
「主としての軽重を問われるわけですね?よろしい、なんでもお答えしましょう」
むむむ、としかめっ面を作りながらも幽々子は口元をほころばせている。その幽々子の表情に苦笑して、妖忌は西行寺家園丁着任以来の疑問を幽々子に投げかけた。
「幽々子様は、なぜそうも拙者を信用なさっておいでなのですか?正直、些か過剰にすぎるように拙者には思われるのですが」
可能な限り何気ない口調で質問を投げかけた妖忌だったが、相手の反応に疑念を抱かざるを得なかった。幽々子は、その問いに対して一瞬だけだがはっとした表情を浮かべたのである。
それはあたかも、痛いところを突かれたといわんばかりの表情であった。
「…そう、でしょうか?特にそんな事はないと思うのですが」
いつもの微笑を浮かべてそう答える幽々子の表情はしかし若干芝居めいていて、まるで後ろめたさを隠しているようであった。それが妖忌の疑念を助長する。
単純に父親代わりや、己を恐れない人間を求めていた、というのであればこのような反応にはなるまい。
ならばと妖忌もまた一芝居打つ。
「成る程、では幽々子様は縁もゆかりもない相手をあっさりと信用なさるのですか。それは些か不用心過ぎますな。ほれ、このように」
語ると同時に幽々子の両手首を掴んで幽々子を大地に組み伏せて、その上に圧し掛かる。
「あまり良く知りもしない人を信用せぬ事です。人を信用できるのは美徳ですが、相手を見ずして信用するは愚かと言わざるを得ませぬ」
幽々子の体温を着物越しに感じながらそう語った妖忌だったが、しかし彼女の反応が予想と大きく異なっている事に気がついていぶかしんだ。
幽々子は妖忌に自由を奪われ、組み伏せられた状態ながら全く動じる様子がなかったのだ。
先ほど妖忌の目の前で泣きじゃくっていた少女と同一人物とは思えないほどのその落ち着き払った態度に、妖忌はあたかも相手に飲み込まれたかのような錯覚を抱いた。
「…改めてお願いがあるのです」
とはいえこれでは埒が明かぬ、ならば着衣に手をかけるふりでもしようかと考えていた妖忌の思考を先回りするかのように、幽々子が口を開いた。
「なんでしょうか?」
「我々西行寺一同の、守り刀になってはいただけないでしょうか?もし引き受けていただけるのであれば、私が持てるものはなんであれ、すべて妖忌に差し上げます。…私自身も含めて」
「ほう?」
「一点、私は妖忌に謝罪せねばならないことがあります。私は妖忌に二回目に会ったときから、貴方に好かれようと些かの演技も含めて振舞っておりました。これに関しては今まで貴方を欺いたと同じ事。今更申開きのしようもありませんので、ただ謝罪するばかりにございます」
身動きの取れない幽々子は、表情だけで陳謝する。
幽々子の声は決意と誠意に満ちており、そこには一片の嘘も詭弁も込められていない様であった。
「私は、形式だけとはいえ、落ちぶれた一門とはいえ、一族の頂点たる当主です。その私には屋敷の者達を守らなければならない義務があります。今屋敷に居る者達は、今は亡き父とのかりそめの絆の証である西行妖を捨て置けないと語る愚かな私に付き合っているがために、人里に、妖怪に襲われずに住める場所に住む事が出来なくなってしまった者達です」
幽々子はまっすぐ妖忌の目を見つめながら言葉を紡ぐ。その揺るがぬ瞳に妖忌は驚きを隠せない。
これほど澄んだ瞳は長年生きてきた妖忌ですらほとんど目にした事はなかった。ましてや、年いかぬ少女のそれとあっては。
「今は人妖等しく私の能力を過大評価しています。ゆえに人里離れたこの屋敷も人妖暴漢に襲われる事はありませんが、それもいつまで持つか分かりません。さりとて」
幽々子は組み伏せられた状態で軽く深呼吸をする。
「我々は他に己の身を守る術を知りません。だから、何よりも強き護衛を望んでいるのです。私にとって妖忌の存在はまさに渡りに船。
…私が死ぬまで、とは申しません。せめて親族使用人が皆寿命にて冥府へ旅立つまで、心優しき彼等をお守りください。
その見返りに私は可能なものは全て妖忌に提供する心積もりです。お望みとあらば、なんであれ」
静かな、そして揺るぎのない声で幽々子は妖忌にそう告げた。
――目の前の少女は経験も知識も不足しているうえに若干自己犠牲の嫌いがあるものの、十分に当主としての格を備えている――
妖忌は己の目算を修正しなければならないようであった。
にしても、芝居をしていた、か。
一体何処までが本心で、どこからが芝居だったのか。幽々子とのこれまでを思い返してみても妖忌には全くその区別がつかない。
(お主の申したとおり、やはり女は恐ろしいなぁ、妹紅よ)
幽々子の芝居の前では、今の妖忌の振る舞いなど童の遊戯にも等しい。最初っから本気でない事など見抜かれていたのだろう。
妖忌は幽々子の拘束を解き、起き上がらせる。
「続けないのですか?」
「続けて欲しかったのですか?」
何気なく訊ねてしまってから、馬鹿な事を言った、と幽々子は赤面した。
つい普段通り返してしまってから、馬鹿な事を聞いた、と妖忌は赤面した。
そのまま、どちらから言を発する事もなく、数刻前のように肩を並べて門前の小階段に座している。
ややあって、幽々子が意を決したかのように口を開いた。
「私の守り刀になってくれますか?魂魄妖忌」
それも、悪くないかもしれない。
周囲の者達が己の幸福のために存在すると信じてやまない貴族の当主は腐るほど見てきたが、己が周囲の者達の幸福のために在らんとしている当主は妖忌は初めて目にした。
もし今日語った内容まで芝居だったとしたら、とも考えたのだが、すぐに妖忌はその考えを振り払った。先ほどの言すら嘘であれば、幽々子が妖忌を手元に置きたがる理由などない。
だから、恐々とした表情を浮かべている幽々子に微笑んで、口を開く。かしずいてみようかとも思ったが、たぶん幽々子はそういうのは好きじゃないだろう。肩を並べたまま、しかしはっきりと己の意思を言葉に乗せる。
「誠心誠意、お努めいたしましょう、我が主よ。…しかしその言葉遣いはいただけませぬな。配下に敬語を使っては御身の立つ瀬がございませぬぞ?」
彼等は至近で互いに笑顔を交し合い、その後はやはり言葉を発する事もなく、目を覚ました使用人が見回りにやってくるまでただ肩を寄せ合って、少しずつ白くなりゆく空を飽きる事無く眺めていた。
▼11.水増す雨の ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「妖忌殿、少しお話があります」
梅雨ももう半ば、あともう少しで妖忌が庭師となって一年が経とうという頃、妖忌は西行寺の親族の一人に声をかけられた。
「なんでございましょうか?」
「立ち話もなんですので、屋敷の中にて」
そう語る親族――確か幽々子の伯父――の顔には真摯な、しかし若干の苦悩の篭った表情が浮かんでいる。その表情に妖忌は尋常ならざるものを見出した。
今現在、当主である幽々子は叔母や使用人と共に人里へ秋物の仕立てに向かっている。
里人から恐れられている西行寺とて物入りな物は物入りであるし、それを頑なに否とするほど里の住人も冷血ばかりではない。もっとも、進んでお近づきになりたいという者は流石にいなかったし、長時間の滞在はやはり煙たがられるのだが。
それはさておき当主のいない間に重要と思われる相談事、やはりこれは楽しいことではあるまい。出来ることなら遠慮したかったが、一使用人に過ぎぬ妖忌に断る事など出来はしないので。
くるりと己に背を向けたその者の背中に、妖忌は声に出さない溜息を投げかけた。
妖忌が案内された室内には幽々子と共に外出した親族を除く全員――と言っても三人だけだが――が既に座していた。
益々面倒なことになりそうだと妖忌は内心顔をしかめたが、表には出さずに彼らと正対する位置に正座する。
しばし、場に沈黙が揺蕩った。
目下の者から口を開くわけにもいかず、口を閉ざしていた妖忌が啓かれる事のない沈黙に辟易して口を開こうとした時。ようやく親族の中ではもっとも高齢で普段は床に伏している、幽々子の父方の祖父が口を開いた。
「話、というのは我等西行寺の当主、幽々子のこの先の事にございます」
噛み締めるように、その老爺は妖忌に語りかける。
「ご覧の通り、当西行寺家は最早消え行くのみの没落貴族にございます。若き者は去り、またもしくは桜の亡者となり、後を継ぐ者は先代の娘たる幽々子のみ。
我等はこのまま静かに終局を迎えることに肝胆迷いなどございませぬが、我等亡き後の幽々子の去就を思えばやすらけく眠る事も叶いませぬ」
そこで彼は一旦言葉を切る。そして息を吸うと厳かに次の言葉を紡いだ。
「故に、我等は幽々子の身を貴方に託すことに決めました」
「己にだと?!」
思わずその場に相応しからぬ言葉が妖忌の口をついて出てしまうが、それも致し方あるまい。一介の園丁に令嬢の身柄を預けるなどと、何故にそうなるのだ?
こいつらは阿呆か。そうに違いない。何が「故に」だ、故が一体何処にあった!?
憤慨し目まぐるしく表情を変える妖忌にも彼らは動じずに、そのまま沈黙を保つ。妖忌の言葉を待っているようだった。
「そもさん」
「…貴方がたは、ゆ…姫様を何処かの貴族に嫁がせようとしていたのではありませぬか?そのための教育を施していたのではありませぬか?」
「普段どおり幽々子とお呼びなさいませ。彼女がそう願ったのでしょう?」
「…」
その指摘に一つ拒絶の城壁を崩された妖忌は思わず呻く。
「確かに、最初はそのつもりでした。貴方が我等の屋敷を訪ね来る迄は」
しわがれた声でささやくように、妖忌に染み込ませるように老爺は語る。
「されど我等とて親の代よりこのような田舎に引き篭もりし身。満足のいく教育など施せませぬし、なによりあのように闊達な娘。貴族に嫁げば命は紡げましょうが、そこで幽々子が生きとし活ける事が出来るでしょうか?」
「それは…」
難しいだろうな、と妖忌も思う。幽々子は活発発地というわけではないが、そういった方向とは別の意味で枠に収まるような性格とも思えない。庭の趣味も歌も装束も壊滅的だし、…大喰らいだし。
「貴方と、時々幽々子の元を訪れてくださる貴方の御息女をこれまで見定めさせていただきました。貴方だけでなく貴方の御息女も屹とした御仁。御息女をそのように育てられた貴方は幽々子を託すに不足なし。我等は、そう結論付けました」
「いやいや、娘は…」
どちらかと言えば妖忌の娘は妖忌が育てたと言うより勝手に育っていった、と言ったほうが正しい位であった。正直な所、剣の手解き位しか妖忌はした覚えがない。
多分妖忌の妻に似たのだろう。勝手に育って勝手に立派になったのだ、と言ってもこの親族達は耳を貸してくれまいなと妖忌は肩をすくめる。
しかしまぁ、見定めに来たつもりが逆に見定められていたとは。その醜態に肩をすくめたまま苦笑する。
「実のところ」
苦笑する妖忌に軽く微笑を返し、話を続ける。
「これは最早決定事項なのです。我々は、貴方にこれを拒否させるつもりはありませぬ」
「拙者の都合などお構い無しに?」
「然様。されど同時に我等は貴方に幽々子を幸せにするよう、強制するつもりは御座いませぬ。貴方が幽々子をどうしようと我等は貴方を怨みますまい。
邪魔である、重荷であると感じたならば即座に打ち棄てて頂いても結構。それは貴方に託した我等の目利きが悪かっただけの事」
「…」
「我等にとって、貴方は幽々子を幸せにするための道具にすぎませぬ。思い通りに動かせなかったとて、それは使い手の問題。道具に罪はありませぬ」
表現は悪いものの、いやあえて妖忌を人とも捉えないような表現を用いたのだろう。彼等は妖忌を道具呼ばわりする事で妖忌には幽々子に対する責任を一切問わない、と明言しているのだ。
だがそれと同時に、妖忌が幽々子を打ち棄てられる様な性格ではない事も看過しているのだろう。妖忌ならば幽々子の幸せのために可能な限り尽力してくれるだろうと。
それは妖忌への配慮や謝罪を含み、されど幽々子の幸福を願う親族達の心の三重奏だった。
「御引受願えますでしょうか?」
「拒否できないのではありませなんだか?」
「然様に御座います」
されど、言葉とは裏腹に親族は揃って頭を垂れる。彼らの頭頂を見やって、妖忌は己の意思を告げる。
「全身全霊で、お断り申す」
その言葉に全員がはっとして頭を上げ、妖忌の顔を見る。
彼らの生気を失った表情を見渡して、妖忌は静かに笑う。
「拙者とて元は武者ゆえに命令される事には慣れておりますが、生憎道具扱は納得できかねる。貴族という者は何時もそう、命は道具ではござらぬというに。
あらゆる者を斬り捨てる我ら下郎とて、命を道具扱いはいたしませぬぞ。そのような扱いにはむかっ腹が立ち申す」
「それは…」
本心で妖忌を道具となど思っていないであろうが、さりとて今から言葉を覆すわけにはいかず、親族達は言葉に詰まってしまったようだった。
そんな彼等の血の気の引いた顔を見回して、妖忌は険しげな表情を崩した。あまりいじめるのも悪かろう。
「なので、拙者は拙者の意思でもって、幽々子様が幸せになれるよう後見として全力を尽くす事を約束いたしましょう」
どうやら、妖忌は普段自分が思っている以上にお人よしであったらしい。自ら城壁を崩してしまった。
だがどうせ妖忌はすでに西行寺幽々子を主と定めているのだ。ここに親族との約束が加わった所でどれほどの差があろうか?
「…よろしいのですか?」
責任を分かち合う、という妖忌に一人の親族――確か幽々子の叔父――がおずおずと問いかける。
「ええ。まあ幽々子様がそれを拒絶すればそれまでですが。なに、幽々子様が伴侶となる男を見つけるまで。見つけられねば三、四十年程幽々子様の御身を御守りすればよいのでしょう?
これでも長寿な身ゆえ、それぐらいであれば」
「ありがとうございます…!」
再度、一族揃って頭を垂れる。
妖忌は相手に顔が見えない事を良いことに呆れたような笑いを浮かべていた。
幽々子といい、この親族といい、全くもって似た者同士である。相手を思いやる心も、それを形にする方法もまるっきり同じだ。やはり、子は育ての親に似るのだろうか?
「ただまぁ、そうなると何処かへ稼ぎに出るわけにも行きませぬしなぁ。どうしたものか」
妖忌は胸中にふと浮かんだ疑問を呈するが、顔を上げた老人が心配ない、と首を振る。
「幽々子と、あと一人位はつつましく一生を終えられる程度の財産はかろうじて残してあります。御心配召されるな」
「成る程」
没落貴族と言えど、流石は元名家。その程度の貯えはあるという事か。うらやましい限りであると清貧を自称する妖忌は吐息を洩らし、将来ついでに己の任務を思い出した。
この親族に冥界行きの話をするべきかせざるべきか。妖忌は少し悩んだが、結局それは秘する事にした。いらぬ期待や心配をさせる事もあるまいと思ったし、
幽々子はその芯は強いものが在るが、他者に力を振るう事を厭う性格からして冥界行きはたぶん実現しないであろうから。然様な事を考えていた妖忌に幽々子の叔父が控えめに問いかける。
「いっそお気に召したのであれば妖忌殿に嫁にもらっていただければとも思うのですが」
「お前らもかい!」
ここにも紫予備軍がいるよ、と妖忌はまたしても言葉を選ぶ余裕のない悲鳴を上げる。
しかもこっちは紫のようにからかい半分ではなく割と本気である。確かに主従の誓いは済ませたとはいえ、婚姻となれば話は別だ。
なんでどいつもこいつも幽々子と己をそのように結び付けようとするのだ、と妖忌はほとほと呆れかえった。
意味の分からない親族一同はきょとんとした顔を浮かべている。
「貴方は…いえ貴方がたは愛娘をしがない下郎の、斬ることしか能がない血に汚れた人斬りの妻とする事をお望みか?もう少し真面目に考えられよ」
「我等は」
親族の中で最も若い(それでも五十近い)幽々子の伯父が、全員を代表して妖忌を睨むかの如き鋭さで見つめ返してくる。その眼差しには一点の曇りもなく、誠実さの錐でもって妖忌の心に突き刺さる。
残る者達も皆一様に彼とよく似た、真剣かつ嘘偽りのないと言わんばかりの表情を浮かべており、それはまるで彼らが一つの意思の元、完全に統一されているかのようであった。
「職も能力も問いませぬ。ただ、幽々子が幽々子を大切にしてくれる者の元へ在ることをこそ、望みます」
きっぱりと、言い切った。
それっきり誰も口を開く事はなく、その日の会談は幽々子に知られる事なく解散となった。
◆ ◆ ◆
それから二週間と経たず、初夏の暑けにやられたのだろうか。妖忌に後を託した西行寺家第二位の老人が静かにその天寿を全うした。
それはまるでようやく肩の荷を降ろすことが出来た、と言わんばかりの安らかな死に顔だった。
もはや残り少なく、肩を寄せ集まって生きてきた親族の死である。誰もが悲しみと慈しみの表情を浮かべていたが、今際の言葉が「西行寺家はこれから一日三食にするように」
と言うものであった事には皆少なからず苦笑させられた。
その葬式は粛々と進められ、深い悲しみと寂寥感をともなっていたが、しかし同時に祝福じみた奇妙な空気があるように妖忌には感じられた。
それを幽々子の叔母に尋ねたところ、返ってきた返事は以下のようなものであった。
「彼は西行妖の誘いを最後まで拒み、死に至りました。それはかの者が己の生に満足して死んで逝った、という事の証明に他なりません」
成る程、人を死に誘う桜ですら今なお館に残る西行寺にとっては己の生の価値を問う試金石にすぎない様だ。
それは並の人間とは比較にならぬほどの自信と自立と自尊に満ちた生を西行寺の者達が送っている証明に他ならない。
そんな者達に妖忌は幽々子を託されたのだ、妖忌にはもはや手を引くことなど出来はしない。
いいだろう。娘一人の未来すら切り開けなくて何の刀か。死者の魂を前に妖忌は決意を硬くする。
老人の霊が妖忌の目の前に現れて、笑っているような気がした。だがそれとて気のせいではないのかもしれない。
ここは西行寺家。死に親しみ、死を操り、死霊を導く一家の屋敷なのだから。
▼12.園丁 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
そして夏も終わりに近づき、節気が大暑に移り行こうと言う頃。
妖忌は黙々と庭の手入れを続けていた。
梅雨や台風と共に量を減らした西側の砂利を補填し、前栽が生い茂る東側の雑草を引き抜く。
段々と、今年の春に練った作庭計画が形になってきている。昨年の庭は単なる西行寺家庭園の復元に終わったから、これからが腕の見せ所。
西行妖以外、というか西行妖のせいで草木も生えぬ西側の扱いも含め、構想は十分。
西行寺家は来訪者も無く、祭儀を考慮せず平地や歩行路は最小限に抑えることができるため、草花だけでなく樹木の配置まで(西端を除き)庭の自由度は高い。
ここのところの妖忌はあれこれ草花を入れ替えてみたりと、美観を高める為に連日やりたい放題である。
今年こそ滝を作ろうか、作るまいかと屋敷北から流れ来る遣水を眺めながら妖忌がぼんやりと考えていると、背後に気配なく足音が現れる。
振り向くと寝殿の簀子で幽々子が妖忌のほうを見つめていた。
「今年こそ、滝を作りましょうかなぁ」
そう、幽々子に問いかける。
だが帰ってくるのは呆けたような返事だ。
「妖忌は本当に滝が好きなのね」
「いやいや、そういうわけではありませぬが、滝の音は活気を感じさせましょう?まだ拙者はこの庭に活気をもたらせていませんので」
「あら、そんな事ないわ」
はて、と妖忌は首をかしげる。
確かに若干庭に手を加えたりもしたが、この庭はまだ未完成な煩雑さに満ち満ちている。それを活気と言われるのは園丁として少々寂しいが…
そんな妖忌の疑念を他所に幽々子は微笑んだ。
「妖忌が庭にいるでしょう。それだけで十分活気があるというものよ」
あぁ、と妖忌は得心がいった。成る程、認識がすれ違っていた。
庭にいる妖忌にとっては己を含めない光景が庭だったが、寝殿から眺める幽々子にとってはそこで働く妖忌を含めた全体が庭だったというわけだ。
それに気付くと同時に、昨年の夏に川で拾ったあの丸くて白い石、景観にあまりにそぐわないから今は西の隅にひっそりと置かれている石。
あれに幽々子が何を見出していたのか、なんと見立てていたのかようやく妖忌は気がついた。
あれは、妖忌の半霊だ。
妖忌がいる庭が活気がある庭と言うならば、妖忌がいないときはこの庭は活気がない庭だ。
人を模した石などはそうそう存在しないが、半霊を模したかのような石ならばほれ、あのように存在する。
白い色合い、妖忌の半霊と大して変わらぬ大きさ。
あの石は幽々子にとって妖忌が庭に居ない時の妖忌の代理という見立てだったのだろう。
若干の気恥ずかしさを感じつつも、妖忌はその石を寝殿から目に付きやすい位置へと移動させる。つまりそこは庭の中央。
池に隣する松の樹の下、腰掛にちょうどよい大きさの石の上にそれを重ねる。幸い若干のくぼみにおさまり、その石はぐらつかず固定された。
これならばよほど酷い嵐でも来ない限り大丈夫だろう。
「如何でしょうか?」
屋敷へと歩を進め、簀子に立って庭を眺めている幽々子の傍に腰を下ろす。
奇妙な丸い石が設置され、若干風情がなくなった庭園を見つめながら幽々子に問いかけた。
「良いと思います」
幽々子が妖忌の隣に腰を下ろして笑顔を向ける。幽々子の笑顔に満足し、妖忌もまた幽々子に柔らかな微笑みを返した。
あとは、あれが無くとも活気がある庭である、と幽々子に言わしめるだけだ。
▼13.移調 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
平穏な、そして静かな一年が終わりを告げた。そう、この一年は特に問題とも呼べるような事も無く、ごく普通に過ぎ去っていったのである。
まぁその間には妖夢が言葉らしきものを発するようになり、やれどっちの名を呼んだなどと妖忌と妖忌の義理の息子が喧嘩して斬り合いにまで発展したり。
魂魄西行寺両家揃ってやれ妖夢の衵は青がいいだのいや赤だのと妖夢そっちのけで延々議論を続けた結果、放置された妖夢が泣き出してしまったり。
幽々子の叔父と妖忌がつい寝食を惜しんで双六に興じすぎた結果として叔母に賽を取り上げられたり。
妖忌と妖忌の息子が蹴鞠と称する弾の打ち合いで中門を破壊して妖忌の娘に膾にされたり。
ついうっかり幽々子の着替え中に出くわした妖忌が幽々子に蛸殴りにされたり。
式神八雲藍の作成に息詰まったのか紫が歌いながら現れ、歌いながら去って行く様に幽々子と顔を見合わせてしばし呆然としたりと色々あるにはあったのだが、そんなものは些細な事である。
少なくとも、西行寺家と魂魄家には交流があり、平穏があり、そして幸福があったのだから。
八雲家?さぁ、どうだろう。
◆ ◆ ◆
そして降り積もる豪雪もそろそろ終局の様相を呈し、突き刺さるような冬の風がなんとなく温かみを帯びてきたかのように感じられ始めた頃。
屋根から庭へと落とされた雪を淡々と処理していた妖忌は幽々子の叔父に声をかけられた。
彼が申すには珍しい事に来客があり、当主たる幽々子に謁見を求めているらしいので念のため護衛代わりに同席して欲しいとのことだった。
寝殿前に通され、自らを流浪の商人であると名乗ったその男は自己紹介も程々にこう幽々子に依頼してきたのである。
曰く、
「妖怪を一匹、貴方様のお力で殺していただきたいのです」
もうすぐ、西行妖が花を付ける頃だ。
「ええ、必要ないもの」
「必要ない、ですか…」
「胡蝶の夢」
「は?」
「私は夢中で旅をしているの。ならば此処を出る必要もないでしょう?」
「夢の中、ですか。亡霊も夢を見るのですね」
「あら、その口ぶりだと妖夢も夢を見ているのかしら?」
「ええ、半人半霊は夢を見ますが」
「それは嘘。夢を見るのは生きている者の特権よ?」
「私は半分生きております。それに幽々子様は死んでおられるのでは?」
「大間違い。はやく妖夢も生き返れるといいわね」
「はぁ、全く意味が分かりません」
「そう。じゃ、早く残りの春を集めに行ってらっしゃい」
妖々桜霊廟 ――sleeping cherry blossoms in full bloom――
▼1.開幕の龍笛 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「遅い」
時代は平安、されど世の中は平安とは程遠い権謀術数と反乱一揆に満ち溢れた時代。
大陸風の趣向を凝らした屋敷の中、床に座した武人が一人、高杯に並べられた数々の食材を盛った器を前に忌々しげに舌打ちする。
年のころは三十路前後といったところだろう。白髪よりも白く光を映す雪のような髪。引き締まった口元に贅肉の欠片も無い頬、深く鋭い眼差し。
そして何より纏っている水干や袴から覗く、見るものに鎧を連想させる程に引き絞られた四肢の筋繊が只者でない事をうかがわせる。
武人は別に料理が冷めてしまうとかそういった事を心配しているのではなかった。そもそも最初から盛られた料理は冷めている。
武人は約束をしていたのだ。指定された時間に相手の屋敷を訪れ、小宴の準備が整えられた部屋に通されてから既に二刻(一時間)近くが経過している。
温和な者でも流石に眉をひそめてもよい時間である。ましてや武人は抜き身、とまでは行かないが鯉口を切られた太刀のような性格である。
怒気を抑えようともせず、しかし何かにぶつけるというわけにもいかず、ただ静かに苛立ちを募らせていた。
だがようやく、背後からお帰りなさいませという声と共に足音が響いてきた。約束の相手が帰宅したのだろう、そのまま足音は武人の元へと近づいてくる。
「おう、待たせたな妖忌」
「無能者が。仕事が遅いからこうなる」
襖障子を勢いよく開け放ち、悪びれもせずに詫びの言葉を口にする相手に対して武人、魂魄妖忌は痛烈に切り返す。
「仕方があるまい。最近藤原やら平家やらの争いが酷くてな。死者の量が半端でないのだ。あいつら飽きもせずよく殺しおる」
「いつも言っておるではないか、十王で一人の裁判なんぞをやっておるからいつまで経っても仕事が終わらんのだ。何故それが分からぬ」
「数多の目線から判断せねば公平な判断は出来ぬ、と言いたいが流石に限界だな。我らが閻魔王も重い腰を上げたようだ。十三王に拡張する計画もあるらしい」
「たわけ、人数を増やしても体制が変わらぬのなら何の意味もないだろうに!そんな馬鹿共が地獄を統括しているというのだから呆れて物が言えんわ」
「十王たる我等をそこまでこき下ろすのはお前位だよ」
大焦熱地獄に構えられた館の主、死者に裁きを与える十王の一人である都市王は苦笑し、往年の友人の毒舌をさらりと受け流して宴席に腰を下ろす。
本来、都市王は十王の中でも予備の裁判を行う立場にある。その予備ですら現在は休み無く働いているのだ。地獄の混雑ぶりが窺えるというものである。
都市王が座すと共に部屋の外から龍笛の音が聞こえ始め、それを音頭に合奏が開始される。
これは酒宴における単純な催し物というだけではなく、部屋の主達の会話が他者の耳に入らないように、という意味合いも含んでいる事を妖忌は理解していた。
どうやら今回妖忌が呼び出された用件は内々に留めておきたいものであるようだ。
「まあいい、とりあえずは酒といこうじゃないか」
「ふん、安酒ではなかろうな」
「今に軽口がたたけなくなるわ」
たった二人の酒宴である。三献なんぞ無視して勝手に杯に酒を注ぐ。あまり様式など気にしない二人であった。
「…悪くない。美酒に免じて遅刻の件は勘弁してやろう」
「まさにお酒様だな。酒は仏神より偉大なり、か」
「酒は現世に幸福をもたらしてくれる。来世でしか幸福を与えない神よりはるかに役に立つわ」
「言ってくれる」
都市王はまたしても苦笑し、羹の用意をするよう部屋の外、通常の会話声が聞こえない程度の位置で待機している使用人に大声で促した。
「それで、今日は何の用だ?それだけ忙しい中で時間を割いたのだ。ただ杯を交えたい、と言う訳ではあるまい?」
「うむ、無頼のお前に一つ、頼みごとがある」
やはりか、と妖忌は嘆息する。こいつは何時も面倒な仕事を妖忌に振ってくるのだ。
若い頃は白楼楼観の区別無く刃を振るっていた妖忌である。白楼剣の意味も良く分からずざくざくと霊を成仏させていく妖忌を諌める為に現れた、十王になる前の彼とは敵として相見えて以来の付き合いだ。
互いに無数の剣戟を重ね、疲れ果て、休憩がてら酒を飲んで酔いつぶれて眠り、目が覚めたときには友人となっていた。
以降、彼が都市王になろうが、妖忌が妻を娶って人の親になろうが二人の友誼は途切れることなく続いている。
かつては兵として集団を率いていた妖忌も、既に棟梁の座を退き義理の息子に後を譲って今は無頼の身。都市王にとって妖忌は使い勝手の良い駒というわけである。
妖忌も妖忌とて都市王が毎度相場をはるかに上回る報酬を用意してくれるし、故に普段は金に無心で斬りたいものだけを斬っていられるというわけで、両者は持ちつ持たれつといった所だ。
「で、今回の仕事は何だ?」
「うむ、現世に人を傷つける事無く命だけを奪う事の出来る人間が現れた、と報告が入ったのでな」
「ほう?」
その死をもたらす能力とやらに妖忌は興味を持った。死をもたらすのは容易い。妖忌とて簡単に死を大量生産できる。
だがそれは斬った結果として死があるのであり、妖忌には斬らずして死をもたらす手段など無い。過程があって、結果があるのだ。
それとは全く真逆を行く能力とは。
「お主にはその人間を見定めてもらいたい。こんなもの、お前にしか頼めまい?」
なるほど、妖忌にしか不可能な依頼であろう。
過程を通り越して死という結果を与える能力に拮抗できるのは、最初から死を内包している種族だけだ。
半人半霊、魂魄妖忌は生と死を共に抱く種族である。内部に既に「死んでいる」という事実を持つ以上、ただ死だけを与える能力では妖忌を殺すことはできない。
真に可笑しなことに生者にとって畏怖すべき、過程を通り越して絶対死を与える能力は半人半霊には脅威で無く、逆に病魔や重傷といった過程が無ければ半人半霊を殺しきることが出来ないのである。
「しかし、よくそんな人間を見つけたな。まさか地上の人間一人一人を常時管理しているわけではないだろうに」
「まぁな、あれだ。知ってるか?西行寺家」
その響きに妖忌は懐かしさを覚えた。人間でありながら冥界に住むことが許されている一族。
かつては妖忌の祖父が仕えていた事もあるらしく、かつての愛刀であった白楼剣は彼らから功績を讃えられ、下賜されたと伝え聞いているが…
「ああ、その西行寺家がどうした?」
「冥界のほうで色々あってな。…ええい貴様に隠しても仕方ない。奴ら内紛でも起こしそうなのよ」
「…内紛か。内乱でないだけましだな」
「まさか、内乱のほうがはるかにましよ。こちらからも表立って介入できるからな。しかし内紛とあっては奴ら内の事情。下手に口を挟むことは出来ぬ」
「内紛の原因は?名家の内紛の理由など色々有るだろうが」
「一番分かりやすい理由だ」
「世継ぎ争いか」
何処もかしこも、名家――貴族――という者は変わらぬな、と妖忌はほとほと呆れ返る。冥界に住まうような連中とて所詮はただの人であるようだ。
悪態を酒で喉奥へと留め、妖忌は訊ねる。
「それで?」
「万が一、西行寺家が死に絶えた場合、代わりに冥界の管理をする者が必要になってくる。各仏とも、自分の息のかかった連中を息巻いて推挙してくるだろう」
「お主らほんと腐敗しておるな」
「…続けるぞ。我ら十王とて一枚岩ではないが、ただでさえ忙しいのに冥界を権力闘争の道具にされてしまってはかなわんという点で利害は一致している。だから要は西行寺の予備がいれば良い訳だ。しかもなるべくそういった権力闘争とは無縁そうな予備が。で、駄目元で地上を探ってみたところ」
「いたのか」
「ああ、過去に権力争いで負けて地上に降りた連中の末裔が。しかも傍系ではないぞ、直系だ。その上に人を死に至らしめる力まであるときている。格は十分過ぎるほどだ」
古来より死を操る力はほぼ神のみが所持していた力。それをただの人が手にしている、それだけで他の連中を黙らせるだけの説得力があるだろう。
だがしかし問題となるのは。
「性格」
「そうだ。どんなに条件が良くても人格破綻者や俗に媚売るような輩では困る。故に、お主に見定めてもらいたいというわけだ。無論その死を操るという能力の詳細も含めてな」
そこで一旦話は途切れた。双方、移動する気配を察知したからだ。
盆を手にした使用人が入室し、二人の高杯の上に羹(あつもの)を追加して去っていく。
その間二人は口を噤む。
使用人たちの足音が去った後、羹を啜って舌を潤わせた妖忌は改めて口を開いた。
「まあ、見定めるのはいいとして、どうするつもりだ?」
「なに、あくまで予備だ。世継ぎ問題が上手く片付けば用はないのだが、もし使えるようなら死神にでもなってもらうという手もある」
「死神だと?」
「問答無用で命を奪う。これほど魅力的な死神などおるまい?これならば忌々しい天人や仙人ですら容易に死に誘えるであろうよ」
「地獄が死者で溢れているのに何を考えておる」
妖忌は呆れ返った。今でさえ十王の手に余るほどの死者が量産されているのに、これ以上死者を増やしてどうしようというのか。
だが都市王は忌々しげに言を重ねる。
「そうは言うがな、十王としてもこのまま舐められるわけにもいかんのだ。天人や仙人になった努力は褒め称えてしかるべき。だが、その時点でそいつらは本来の輪廻の輪から外れてしまう。これを編集するのが死神たちにとってどれだけ大変か、おぬしだって分かっておろう?」
「まあ、な。昔お主から嫌と言うほど愚痴を聞かされたわ」
「天人や仙人が死神を追い払う事が許容されるなら、それを上回る死神を用意することもまた許容されてしかるべきだろうに」
「違いない」
そして、他の死神が殺しえなかった相手を都市王直属の死神が仕留める事によって実績と声名を得て、都市王の政力基盤は更に磐石になるということか。世継ぎ問題がどっちに転んでも都市王には利益が残る。
なるほど、誰も不利益を被らない完璧な筋書きだ。なに?天人や仙人が不利益を被る?違うな、先に寿命を破っている時点であいつらのほうが十王からすれば罪悪であるのだから。
妖忌は都市王の思考を理解して溜息をついた。感心半分、小賢しさに対する呆れ半分といったところである。
「見定めて、当主にも死神に至るにもふさわしくなかった場合は?」
「その場合は二つ、現世にとって不利益をもたらさない場合はそのままだ。天寿を全うさせよ。不利益、かつ説得も不可能な場合はこれだ」
都市王は首に主刀を当て、トンと叩く。
「十王が殺人示唆もどうかと思うが…いや当然なのか?」
「不満そうだな?だが、無意味に死を振りまく輩を始末するのもまた正道、命を大切だと思うならば。わかっておろう?」
「…分かっているし知っている」
「おぬしの最大の弱点はそこよな。正道を把握していながら徹底して正道に殉じられぬ」
「揺るがない信念など、そのほうが恐ろしい。古来より最も多くの人間を殺したのは、己の正義を疑わない人間なのだから。この間まで戦争をしていた奴らとてそうなのだろう」
ま、そのおかげで武者は仕事を得られるのだがな、と若干苦々しげに妖忌は語り、口直しをするかのように杯をあおる。
「まあよい、十王の判断だ。これより正しきものは他にあるまい、という事にしておこう」
「行ってくれるか?」
「ああ」
「感謝する」
そこで両者の打ち合わせは終了し、残る時間は由無し事を語りながら高杯の上の盛り合わせを腹に詰め込むことに専念した。
独活や土筆の煮物を平らげ、酒の合間に胡桃を摘む。鴨肉を咀嚼し、羹で嚥下する。
肉食禁止などお構いなし、それに鳥肉ならばお目溢しだ。仏神がそれでよいのかなどと非難を飛ばす者などここには居ない。
片や素浪人、片や仏神であるがその前に双方とも武人である。そして武人は健啖であらねばならない。身体が資本、動けぬ武人に価値などない。
半刻と経たぬうちに双方二人分以上盛られていた料理をあっさりと片付け、残った酒を舌の上で転がしていた。
何とはなしに会話が途切れ、両者の間を心地よい沈黙が支配する。
酔いが回りきる前に先ほど受けた依頼を心中で反芻し、妖忌は必要な物を頭の中で見繕ってみた。取り急ぎ最も必要となるのは、
「太刀が欲しい」
「またか?」
「仕方あるまい。どんなに大事に扱っても武器は武器、消耗品よ」
脇に置いた大太刀宗近に目をやる。娘夫婦に棟梁の座と共に家宝の剣を譲って以来、様々な太刀を振るってきた。
人間が拵えた太刀ではどうやっても妖怪相手には消耗品となってしまうのが困り物だが、現在の愛刀は例外とばかりによく保っている。
妖怪相手に戦を交えること数度を経ても未だに妖忌の腕の延長であり、今後もしばらくは頼れるであろう。
だが一方で妖忌は時に長刀短刀を操る二刀剣士であり、されど二の太刀におさまるべき短刀は現在空席である。
一刀でも妖怪相手に引けはとらないのだが、やはりというかなんというか、空いた手が寂しさを訴えてくるのだ。
「たまには自分で仕入れよ。目が効かなくなるぞ」
「そうしたいところだが、清貧を心がけておる故路銀しか懐に無い」
「ぬかせ」
使用人により運ばれてきた追加の料理に手を伸ばしながら都市王は苦笑する。
「まあいい、出立までに見繕っておこう。…ああそうだ、駅鈴も持っていけ。前くれてやった奴が使えなくなっていたと言っていたな?」
「ああ、助かる」
「気にするな。有事の連絡は早いほうがいいからな」
「ふん、そういうことか」
駅鈴があれば、各地に設置された駅で馬を借りる事が出来る。
官人しか入手できないそれを都市王がどうやって入手しているか不思議ではあったが、どうせ権力者の枕元にでも立って浮世浄土を餌にでもしているのであろう。
その様を想像した妖忌もまた口の端を僅かに釣り上げて笑い、新たな鉢へと端を伸ばす。
またしても沈黙が両者の間に揺蕩った。
雉肉を咀嚼しつつ、ふと、都市王が訪ねる。
「そういえばお主、孫がおったな。御息女夫君共に息災か?」
「うむ、よくぞ聞いてくれた」
妖忌の目が蕩け落ちる。
しまった、こやつもまた人であったか、と都市王は己の失態を呪った。やれやれ、これは長くなるに違いない。
▼2.幻想の始まり ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
季節は初夏。既に猛暑と言ってよい日差しであるが都市王の管轄である大焦熱地獄に比べれば涼風同然。
むしろ青空と緑をちりばめた木々のもたらす風景は妖忌にとって爽やかさすら感じさせる。
二人だけの酒宴から数日後、地底の大焦熱地獄を発った妖忌は「幻想郷」と一部の者達の間で呼ばれている土地に足を踏みいれていた。
今回の職はその幻想郷内にある西行寺家の屋敷である。そこで園丁として雇用されるように都市王が既に話をつけていた。
末端まで上手く人間を扱っての手配なので、さかのぼっても十王の手配とばれる事は無いため、後はそ知らぬ顔で一介の園丁として顔を出せばよい。
貴族の邸宅の護衛などは何度も行ったことがあるし、庭園の造形に関しても浅くは無い。相手は片田舎の貴族である事を鑑みれば、おそらく何とかなるであろう。
問題があるとすれば背に負った、園丁には不釣合いなれど手放す気にはなれない大太刀であるが、まぁ太刀の事を聞かれたら自衛のためとでも答えておけばよい。
外は未だ貴族の天下なれど、末端は乱世の様相を示している。一介の技術職とて武装していても十分に言い訳は立つ。
そう考えつつ、妖忌は腰に佩いた新たな相棒、短刀友成に手を這わせほくそ笑む。
都市王が「孫の自慢話は半刻以内に収めろ。それが貴様が積める善行だ」という言葉と共に妖忌に与えた短刀である。
その拵えは妖忌の想像以上の物であった。備前国の新進気鋭の刀工作との事だが、新人の作にしては驚くほどに出来が良い。
大太刀と比べても些かも見劣りしない剛剣であり、妖忌の実力を存分に乗せてくれるであろう。
これを抜いて暴れるときが楽しみだ、と若干不謹慎な期待を抱いてしまう位、妖忌はこの新たな相方を気に入っていた。
そんな妖忌の願いを神か悪魔かが聞き入れたのかもしれない。
「ふむ、思ったよりも早いかも知れぬな」
張り付かれている。
挨拶代わりに郷に張られていた結界を切って入った辺りからだ。
結界は構築術式に沿って上手く切った為、妖忌が進入した後に即座に元通りになった筈。
だが結界が傷ついたこと自体を感知するような仕掛けがあれば追尾されていても致し方ない。
気配は…おそらく妖獣。随分と品のある妖気だが力は強くなさそうである。さて、何処で仕掛けてくるか。妖忌が腰の得物の柄に指をかけた
瞬間、虚空から声が響く。
「八雲藍、下がりなさい」
「はい」
その美しい、されどどこか弛緩したような声を耳にするや否や、後方から妖忌をややぎこちない動作で監視していた妖獣はあっさりと姿を現し妖忌の十数歩前に移動して畏まる。
直後に妖獣の隣の空が真っ二つに割れ、混沌たる空間から八卦をあしらった滑らかな深衣に身を包んだ、この国では珍しい金髪の少女が顔を覗かせた。
旧年来の友人であり、妖忌が敬語で相対する数少ない相手の一人。間隙の妖怪、八雲紫は久方ぶりの旧友を非難の表情で出迎えた。
「…紫様でありましたか。お久しゅうございますな。今日はふむ、相変わらずお美しい。…と言うか今日は可愛らしい。若返りましたか?」
八雲紫はその場その時に合った姿で現れるため、普段妖忌が見かける紫は黒髪である事が多いのだが、今日は本来の金髪金瞳である。
相変わらず黄金も羨むほどの美しさよ、と内心では常に感嘆の溜息をもらしている妖忌だったが、今日の紫は以前に比べて明らかに幼びて見えた。
「世辞はいい。やっぱり貴方だったのね、思慮深い猪武者。私の結界を元通りくっつくように切ってのける奴なんて貴方ぐらいしか存在しないものね。…でもなんで切ったのよ。あれ、単なる気配感知用の結界よ?」
「なんと、そうでしたか。とりあえずそこにあったから切ってみたのですが」
紫は溜息をつき、目で妖忌に危ない奴めと語りかけながら隙間内で佇まい直す。
思慮深い猪武者とは、色々と熟慮検討はするくせに最後にはそれらを全て放棄して力技で解決する妖忌の生き方を皮肉ったものだ。
貴女のほうが危ないですわい、と目で返しながら妖忌は口では別の言葉を紡いだ。
「まあしかし流石は紫様の結界。どうりで洗練されているわけですな…そちらの方は」
「新しく式神にした九尾よ。これを式にするために少なからず消耗させられたわ。藍、挨拶なさい」
「…」
「…八雲藍、挨拶なさい」
「おはようございます」
紫の傍に控えていた藍と呼ばれた頭上に狐耳を備え、長い金毛を腰まで伸ばした九尾は紫の指示で胸の前で重ねた両腕――夏だというのに厚ぼったい深衣に隠れて見えないが――を少し上げ、やわらかい笑みを浮かべて会釈した。
だが妖獣とは思えぬほど上品に洗練された妖気や気配とは裏腹にその動きは些かぎこちなく、表情も作り物めいて見える。
「…なにか不自然ですな」
「元の素材が良すぎてね。これまでに組んだ式では不足みたいで、式を被せると逆に大幅に機能低下しちゃうのよ。式付与中の意識もほとんど無し。こんなの初めてだわ」
「式を外したほうが良いのでは?それとも押さえつけているのですか?」
「別に力量差は示して見せたから式を外しても反乱は起こさないわよ。でもあまり計算できずに動くものは好きじゃないの。勝手に動かれて、勝手に死なれたら堪らないじゃない」
不満そうな口調で妖忌に応答するが、おそらくはどのような式を組み上げるかという難題は一術者としての紫の好奇心を刺激しているのだろう。
瞳には不満だけでなく、隠しきれていない期待もまた同程度に揺れている。
「それはそれは、将来が楽しみですな」
「…言っておくけど貴方にぶつける気は無いわよ。せっかく私の妖気をかなり目減りさせてまで手に入れた上物なのに、あっさり切り捨てられてたまるもんですか」
「成る程、以前よりひとまわり幼く見えるのは妖気の減衰が原因と、以前仰っていた月侵攻準備の一環ですか。…しかしその言ではまるで拙者が辻斬りのようですな」
当たり前じゃない、と言わんばかりの表情で紫は再度妖忌をねめつける。
先刻まで新たな愛刀を振るうことばかり考えていた事を思い出し、妖忌は今回だけは苦笑してその視線を受け入れた。
「で、私の管轄区域に何の用かしら?」
「そういえば普段紫様がなにをしているか、まったく聞いたことが有りませなんだな。この郷の管理が紫様の仕事でしたか」
「質問に答えなさいな」
「この先にある、西行寺家とやらの屋敷で園丁として雇われることになりましてな。そこへ向かっている途中です」
その回答を耳にした紫は当惑したかのように眉をひそめる。
「そ、ついに十王に目をつけられたか。人の口に戸は立てられないわね」
「こちらの友好関係もご存知とは恐れ入る。まぁ誤魔化すつもりも有りませなんだので構いませぬが」
そう語る妖忌に対して数瞬ばかりなにやら思案顔を浮かべていた紫だったが、すぐにその表情を振り払って間隙から身を乗り出し、一方を指差した。
「次の分岐を直進した先にある巨大な桜を抱いた屋敷周辺が幻想郷の東端にして、現在の西行寺一族の敷地です。あまり事を荒立てないように」
「御案内、感謝いたします」
説明を終えた後、紫はこじ開けていた空間を閉じて、そのままその存在が蜃気楼であったかのごとく姿を消した。
同時に藍もまた、見回りだろうか?妖忌の目の前で控えるのをやめてそのまま高速で何処かへと飛び去ってしまう。
それを確認した後、妖忌もまた未だ分岐の見えぬ旅路を再度歩み始めた。
歩みだした妖忌の後姿を隙間の向こうから黄金の瞳が見つめている。
「嵐が来るかもね。この私が消耗している時に…」
大妖怪、八雲紫が妖怪を率いて月面戦争を起こすためには郷の結界を維持し、留守を預けられる式が必要だ。
こっそりと人に紛れ込んで大陸からやってきた九尾を燻り出し囲い込み、追い詰めて屈服させる。流石に最高の妖獣である九尾ともなれば、紫と言えど撃退はともかく捕獲するとなると容易ではない。
さらにその妖獣を素体として過分なく実力を発揮させるための式というだけでも一筋縄ではいかないのに、紫の最終目標は式による紫の一時的な再現である。
そのための式神八雲藍の土台ともなれば大妖八雲紫とて己の一部を分割して組み込むくらいの仕込が必要であった。消耗した力を取り戻すには下手をすれば数十年はかかるだろう。
だがそこまでして土台を作成した式神八雲藍であるが完成の目処など全く立っておらず、今はまだ他の式と同等か、それ以下の性能しか発揮できていない。
もしかしたら紫の分身として機能する完全な完成は紫の力の回復より遅くなるかもしれなかった。
己の一部を割いたせいで今の紫は頭脳も妖気も低空飛行、手足となる式は未完成。このように問題は山積みだというのに。
「八雲藍を試作段階までもっていくのが先か、結界の強化に努めるのが先か…どっちから手をつけるべきかしらね、これは」
◆ ◆ ◆
魂魄妖忌は一人、丘を迂回する分岐を無視して直進し、丘を登っていく。峠に差し掛かり道切りを確認し、左右の樹林が開けると同時に視界に巨大な樹木と西行寺家の屋敷の全景が飛び込んできた。
現在の峠からもう一つ先、そそり立ったというほどではないがそれなりに急峻と言ってよい丘一帯が西行寺家の敷地であるようだ。
その丘の最も高い位置にあるのが先ほど紫が言っていた桜の巨木と、西行寺家の屋敷である。
「想像以上に大きい…田舎貴族と馬鹿には出来んな、これは」
四足の総門が東に一つ。水源を庭内に持ち寝殿と北、北東、東、北西に四つの対屋を構える左右対称の屋敷は、なるほど都の邸宅と比較しても遜色ない大きさだ。
だがその一方で北西の対屋は檜皮葺が所々痛んでいて既に閉鎖されているようであり、建築当時の栄華は最早失われて久しいことが伺える。
しかしそんな事よりも妖忌にとって気になるのが、屋敷の西に位置し、異様な巨大さを誇っている桜であった。
桜の巨木は築地塀からはみ出して存在しており、また桜のための空間を確保する為に西の対屋を取り払った、そんな印象を与えるかのように渡殿が途中で断絶している。
「まるで後から桜が巨大になって、塀と西対を破壊したかのようだが…そんな馬鹿な」
桜以外の庭に目をやると、周囲が自然に溢れているためか庭のほうは若干狭く作られているようで、池もさほど大きくはなく橋が一つで島もない小ぶりなものである。
前栽もさほど多くはなく、これならば妖忌の手に余るということはないだろう。
築地塀内の敷地面積およそ二千坪弱。これが西行寺家の屋敷の全貌であった。
「と、あまり遅くなってもいかんな」
桜の異様さに気をとられてつい屋敷の簡易確認に移ってしまったが、そんなものは雇われてからやれば十分である。
軽く深呼吸すると、降ろしていた荷物を背負いなおした妖忌は改めて、残り一里を切った屋敷へ続く道を下っていった。
そして紫と別れた場所から合計二里ほど歩いた妖忌はようやく西行寺の屋敷の入り口へと辿り着く。
その門前にて門の左右に立って警備をしていた二者の顔を見て妖忌は驚きの声を上げた。
一方の顔は見覚えがない。透けるような銀髪と、不貞腐れたような表情を湛えた娘である。だがもう一方の男の方には見覚えがあったのだ。
「お前、このような場所でなにをしている?」
「棟梁?」
それはかつて妖忌が兵として率いていた武装集団魂魄一党の一員であり、そして現在は妖忌の元弟子にして義理の息子の配下であるはずの武者だった。
「元、だ。なんぞ、お前等息子に首にされたか?あやつめ、なんと馬鹿な事を」
妖忌は唖然とし、掠れたような声を絞り出す。目の前の元部下は一党の中でも上から数えたほうが早いほどの手練である。
あやつめ、剣の才能はあっても棟梁としての才能は無かったか、と一人猛る妖忌の気配をすばやく察知した元部下が慌てて妖忌に説明する。
「いえ、棟梁も含め現在、我等一党はこの郷に駐留しております。あ、ちゃんと郷内各地の警備という名目で禄も八雲のなんたらとやらから出ておりますゆえ御心配なく」
「なら良いのだが…やはり、稼ぎにくくなったか?」
「ええ…ただ各地で反乱も頻発しており情勢も安定しないことを踏まえ、さらに棟梁の御息女も未だ幼いゆえに一旦ここは骨を休めて次の身の振り方を決めようという一党協議の結果です」
「それならば仕方ないな」
孫を引き合いに出された途端にあっさりと手のひらを返したかのように納得した妖忌を見て、娘のほうは呆れたように相方を見やったが、男は苦笑して頭を振った。
長くなるから何も言うな、ということだろう。
「で、大将は如何なさったのですか?その様子では妖夢様の御様子を見に来られた、というわけではなさそうですが…」
「うむ、ぜひそうしたいところだが違う。西行寺の者に取り次いでくれ、件の園丁が謁見を所望している、と」
「…まさか大将が昨今に雇われることになったという園丁ですか?」
「まぁ、そういうことだろうな。ほれ、速うせい」
「大将は引退するには早いと思いますがねぇ…しばしお待ちを」
あの野郎、と妖忌は口を引きつらせる。妖忌を送り込む為に根回しをしていた都市王が魂魄一党がここに居る事を知らない筈はない。
知っていて、あえて黙っていたのだ。今頃地獄で妖忌の驚いた姿を想像して笑いをかみ殺しているのだろう。後で殴る。
そんな妖忌の心中などさておいて妖忌の元部下が屋敷の中へと消えていく。それを尻目に見ながら妖忌は片割れの娘のほうに声をかけた。
「新入りか?」
「ええ、そう。あんたが、先代の棟梁?」
値踏みするように少女は妖忌に視線を這わせる。敵を作る事など恐れないかの如きその態度は妖忌の好奇心を刺激するのに十分だった。
だがそれよりも妖忌の興味を引いたのは彼女の纏う気配である。生きているのに死んでいるかの様な気配。それは何処かしら妖忌にも似た気配だった。
思わず長考に陥りそうになる思考を振り払い、妖忌は少女の問いに答える。
「そうだ、妖忌と言う。愚息を存分に支えてやって欲しい」
頭を垂れる。親子ほども年の離れているであろう相手にあっさりと頭を下げた妖忌の態度に、少女は若干態度を軟化させた。
「妹紅。ま、短い間だけどよろしく」
「よろしく頼む。しかし短い間とは?」
「ああ、あんたの息子の一党、つまり私たちは解散するかもって話でね。人間妖怪問わずの軍勢はもう巷じゃお呼びでないのよ」
「…そうか」
「かといって血の気の多い私達はまだこんな郷で隠居する気にはなれないからね、外で人妖分かれて活動しようかって。…この一党は居心地良かったから残念だけどね」
最後に些か落胆気味の妖忌と、ついでに己をも慰めるかのように妹紅と名乗った少女は付け加え、そして親指で背後を指差すと口を閉ざす。
相方が西行寺家の者を連れて戻ってきたのだ。つまり話はここでお終いということである。
旧知の仲間との再会、そしてその仲間達の苦境。驚くことは多いが、さりとて思案げな表情もしては居られぬと妖忌は佇まいを正す。
だが、妖忌の驚きはまだ終了していなかったのだ。
門前に一人の少女が現れる。年の頃は十五を超えるか、いやおそらく超えぬと言った頃だろう。多分妹紅と名乗った少女と大差あるまい。
白絹の小袖と空色系統で合わせた衵を薄花桜の帯紐で纏め、煩わしいのか唐衣、裳を省略している。なれば未だ裳着(女子の成人儀礼)前かもしれない。
袴が見えぬから恐らくは切袴なのだろう、その動きやすさを重視したまるで貴族らしからぬそのなりに妖忌は驚いたが、それより驚かされたのはその少女が放った言の内容であった。
「え、ええと、お待たせいたしました。私が西行寺家の現当主を務めさせていただいております、西行寺幽々子と申します」
魂魄妖忌が新たに仕えることになる屋敷の主、周囲に死をもたらすと言われる死の化身は二十歳にも満たないうら若き少女であったのだ。
かつての部下と妹紅は妖忌の心中を正確に把握して苦笑を浮かべている。
妖忌は己の心の中にて爆笑している都市王の偶像を新たなる相棒、短刀友成で滅多刺しにしながら、西行寺家の屋敷へと足を踏み入れていった。
▼3.四惑 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「まったく、嘘をつかない十王なんかに一杯食わされるなんてなんとも情けない話ね」
「まったくですな。娘が人妻になるくらいです。拙者も老いた、と言うことでしょうな。奴の思惑にまんまとはまるとは」
謁見、というか門前であっさりと顔合わせは終了してしまったのだが、場所を寝殿前に移した後も特に問題なく雇用に関する話は終了してしまった。
そのうえ、妖忌の住処も屋敷内で構わないと言うのだから驚きである。流石にそれは堅持して辞退し、妖忌は魂魄一党が駐屯の為に用意した住居の一つに居るという訳だった。
今は突如空間を割いて現れた紫と二人、杯を交わしている最中である。
幻想郷はどういうわけか郷外に比べて酒が豊富にあった。最初は驚いたものの平時でも酒が呑めるというのは良いことであろう。
そう妖忌が賞賛を送ったためか少し機嫌が良い紫に、二人しか居らぬゆえ言葉を崩したら如何かしら?と勧められた妖忌はしかし首を振って、慣れてしまったので、とそれを断った。
「しかしなんで屋敷への駐屯を拒否したのかしら。他の使用人だって屋敷で暮らしているし、雑舎も余裕がある。斯様なあばら屋よりも快適ではなくて?」
母の様な姉のような、妹のような娘のような表情を浮かべながら紫は囁くように妖忌に問いかける。
西行寺家、と言うのは屋敷の大きさに対して驚くほど少なかった。そもそも女性が当主をやっている、と言う時点で予想してしかるべきであったのだ。
彼女のほかには年老いた親戚四名、それと血縁ではないやはり老いた使用人が四名、総勢九名があの屋敷の住人全てであった。
「だからと言って厚かましく御好意に甘えるわけにもいきませぬでしょう。それにその、なんだ、あれです」
「うら若き乙女たる主君と一つ屋根の下で眠るわけにはいかないと言うことかしら?」
「紫様の言い方は些か色が濃すぎますな。しかしその通りです」
妖忌は苦々しい顔を紫に向けて杯をあおる。
だが次に紫が発した発言内容は妖忌にとって全く予想もしない内容だった。
「何言ってるのかしら?貴方だってまだまだ若いんだし、そのまま伴侶となってしまえばいいでしょうに。可愛らしい子だったでしょう?」
「ぶふぅ!」
思わず妖忌は口に含んだ酒を噴出す。
酒まみれになった紫が精緻な美貌を引きつらせているが、妖忌からすればそれどころじゃない。完全な不意打ちだった。
「…汚いわね。貴方、喧嘩売っているのかしら?」
「き、汚いのは紫様のその思考でありましょう!何をおっしゃるのですか!」
「あまり大声を出さないように。多分隣家まで響いているわ。孫娘が起きてしまうわよ?」
「むぐ…」
孫を溺愛する妖忌は口を噤むしかない。そんな妖忌に対して紫は邪悪な、そう邪悪なと言ってよい表情を浮かべて嘯いた。
「ふむ、私なにか可笑しな事言いましたか?」
「当然でしょう、仕えるべき主に対して欲情するなど不敬の極みではないですか」
「でも貴方は心から彼女に仕える為に来たわけではないのでしょう?」
「む…」
痛いところを突かれる。妖忌は彼女が都市王の下で冥界西行寺の当主、ないしは死神として働けるか、現世において他者の生を不当に脅かす存在でないかを見極めに来たのだ。
それゆえに妖忌には反論することができない。満足そうに紫は杯を傾ける。
「主を敬するも良し、それは心を満たします。賃金を敬するも良し、それは生活を満たします。しかし何にも敬さずして仕えるこそ不敬の極み。なら突き抜けてしまっても何も問題ありません」
「己の娘より幼い女性を妻に娶れと紫様は示唆するのですか?」
「愛があれば何てことありません。長寿たる妖怪や半人半霊にとって年齢なんてあまり意味を成さないでしょう?」
「それは…そうですが」
妖忌の実年齢は三十路頃の外見に反して百をとうに超えている。そんな存在が人間に対して年齢がどうとか言うのは確かに馬鹿げた話である。
紫の言っていることは実に正しかった。であるのに妖忌が腹を立てるのは紫は完全な正論で以て妖忌をからかっているだけであるからだ。
見よ、本心から愛や敬意を語っている者ならば浮かべるはずのない、可笑しくて仕方が無いというように笑う妖艶な表情を!
それでも妖忌は非難の言葉を酒と共に飲み込んだ。もとより愚直な男、口で紫に勝てるはずなどないのだ。
「時々貴方は男色なんじゃないかって思うのだけど…もし私がここで貴方を誘惑し始めたら貴方はどうするのかしらね?」
「それはもう全力で押し倒したいところですが、後が怖いので全力で逃走します」
「………」
…どうやら紫に口で勝ったようだが、誇りを痛く傷つけられた紫の額にすっと怒りの青筋が浮かんだのを目にした妖忌は慌てて恋だの愛だのといった流れを断ち切るべく話題を変えた。
「年齢と言えば、屋敷の使用人達は皆高齢でしたな。若い者が当主を除いて一切居ない。何故でしょうか?」
「強引ね。まぁいいわ。貴方は何故だと思う?」
「…誘われたのでしょうか」
「大正解」
そうですか、と妖忌は息を吐いた。人を殺すような少女には見えなかった、という己の読みが浅かったのだと思うと落胆する。
その落胆ははたして読み違えた、という己の未熟さに対するものか、それとも少女が人を殺しているという事実にか。そのどちらによるものかは妖忌にも分からなかった。
だが、顔をゆがめる妖忌を興味深そうに眺めた後、若干真面目な表情で紫は口を開いた。
「ええ、死に誘われました。ですが彼女にではありません」
「どういうことですか?」
「あの屋敷には、もう一体、人を死に誘う者が存在しているのです」
言われて妖忌は屋敷の全景を思い浮かべる。はて、そんな者が存在していたか?屋敷の住人は全員人間であったが…いや、一つ。
高さは約十五丈、広がりは百二十尺に迫ろうという、おおよそ桜という種の大きさとも思えぬ圧倒的な佇まいを誇る巨木。
「桜、か」
「ええ、そのとおり。今の季節では分からないけどね」
ま、大きさからして異様さは見て取れるわよね、と洩らした後に紫もまた酒で喉を湿らせて、私も常にこの屋敷だけを見ている訳にもいかないから一部は伝聞と推測ですが、と前置きしてから妖忌に説明を始めた。
なんだかんだで説明することが大好きな紫はここぞとばかりに流麗な声を披露する。
「あの桜は魔性の桜です。現在幻想郷にあるものの中では最も美しい桜、と言ってよいでしょう。ですが、その美しさに人は恋焦がれる」
「と言われますと?」
「おそらく、己もまたあの美しい桜の一部となれれば、ということなのでしょうね。最初に西行寺の先代当主が己の死期を悟り、あの桜の元で死を迎えました。これは自然死です」
「姫君の父親ですか」
「ええ、彼は聖人、と言っても良いほどの格を備えた人間でした。そしてその血肉を吸収したあの桜は益々美しいものとなった」
「嫌な予感がいたしますな」
「正解。歌聖に陶酔し、しかし残された者達も、同様の死に方を選ぶようになりました。これには自然死と、そして自殺が含まれています」
自ら命を投げ捨てるなんて実に愚か、と鼻を鳴らして紫は冷ややかな目線を酒に向けた。その認識は妖忌も共通である。
武人たる剛毅さを持つ彼にはそのように一時の感傷に流されて自尽を選ぶ連中の心中など理解できない。
「そうして多数の死を受け入れ、そしてそれが己の血肉となる事を理解したあの桜は、能動的に人に自尽を選ばせるようになりました。これは私も体験しましたので間違いありません」
「なんと!」
「ふふ、なかなか面白い余興でしたが妖怪を死に誘うには些か足りませんわ。ですが感受性の強く、死の何たるかをまだよく知らぬ者はそうはいかないでしょう」
「だから、屋敷に若者がいないのですか」
「そういうことです。幻想郷の住人はあの桜を西行妖と呼んでいます。…全く人間には困ったものね。管理者たる私からすればあんな者をこしらえてくれていい迷惑ですわ」
「西行妖か…」
妖忌は噛締めるように復唱した。
「ただ気をつけなさい。西行妖は人に自尽を押し付けるだけでなく、樹木の特性として人の生命力を吸い上げもしていますので、用が無いならあまり近づかないことです。体力吸引による衰弱、という原因のある死なので半人半霊でも防げませんよ?」
「そうは言われましても、園丁なので」
「まぁ、貴方の生命力なら普通に食べて寝てれば大丈夫だと思いますが。ただ枝打ちは遠当てで行ったほうが良いかもしれません」
「…その桜だけ紫様にお任せいたしましょうか」
庭仕事なんて冗談じゃないわ、と半眼で妖忌を睨む紫に然様ですか、と頷いた妖忌だったが、ふと当惑したかのように眉を寄せた。
「もしや、姫君が死に誘う能力を持っているというのは誤解で、その西行妖が成した結果が姫君に押し付けられているのでしょうか?」
「…世間の評判としてはそうなのかもしれません。ですが彼女もまた、やはり死に誘う能力を持っています。尤も、その能力が開花――ああぴったりな表現ね――したのも西行妖が人を死に誘うようになってからとの事らしいので、最初に父君があそこで死んだために奇妙な繋がりが出来てしまったのかもしれません」
「紫様は彼女の能力を見たことがあるのですか?」
「無論あります。あまり自分に近づかないように、と彼女は私の前で野鳥を殺して見せましたから。まあ私がやらせたんですけど」
それを聞いた妖忌は苦々しげな表情で目を伏せる。
「どんな感じなのでしょう。西行妖と同じでしょうか?それとも紫様のように境界を動かすような形でしょうか?」
「いえ、例えるならば…対象の中の生を、少しずつ死へと塗りかえていく、と言ったところかしらね。結構時間がかかっていました。そして全てを塗り潰し終えると」
「死に至る」
「正解。彼女が手を下したという証拠は一切残らない。おそらく衰弱死と区別がつかないでしょうね。しかも錬度が上がれば一瞬で死に誘えるようになるんじゃないかしら。ま、これは死と言う結果の押し付けなので貴方たち半既死人には効かないでしょう。ですが私は死ねるでしょうね」
そこで紫はこんなところかしら、と説明を打ち切った。久々に長話が出来て実に満足そうである。
一方で妖忌は昼に出会ったあの少女が、己が知る限り最高の実力と格を誇る大妖八雲紫をして死に至らしめるというその事実に戦慄した。
「然様ですか」
「ええ」
若干血の気の引いた表情を浮かべる妖忌の顔を軽く一瞥した後、紫はからかうような表情で妖忌に笑いかける。
「どうしたの?良かったじゃない。夫婦喧嘩で貴方が殺される心配は無くてよ?」
「またそこに戻りますか…」
うんざりしたように眉をひそめて妖忌は溜息をつく。下手に最初に動揺したのが拙かった。今晩は延々この話題でからかわれるに違いない。
逃げ出したいな、と歴戦の猛者は情けない表情を浮かべる。
金色の双眸が、そんな妖忌を楽しげに見つめていた。
▼4.姫様 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
妖忌が西行寺家の園丁となってから一週間ほど後、当主たる西行寺幽々子から直々に庭を案内するとの申し入れがあった。
既に一通り庭の概要を把握し、道具の確認及び不足していると思われる道具の補充に移っていた妖忌だったが、ありがたくその提案を受け入れる事にした。
改めて幽々子の人柄を確認する良い機会であるし、園丁として当主の注文を聞いておく必要もあるだろう。
幽々子に案内されて庭園を一巡して寝殿前へと戻ってきた妖忌は早速今後の方針について幽々子の意見を拝聴すべく質問を投げかけた。
西行寺家の庭園の端には塀を突き破って屹立する巨大な桜の樹がある事、庭園内に湧水がある事、若干狭めである事を除けばほぼ中、上流貴族らの館とそう変わりは無い。
故に贅を凝らした、と言うわけにはいかないだろうが、それなりの要望は叶えられるはずだ。
「それでは西行寺様、いかような庭園を御所望でしょうか?至らぬ身ではございますが誠心誠意務めさせていただきますゆえ」
「え、ええと、そうですね…活気のある庭が良いです」
「活気のある、ですか。それでは滝でも用意いたしましょうか?」
「その、あの、…任せます」
「心得ました。不足があるようでしたら御指摘くださいませ」
「は、はい」
活気か。これまた難しい注文である、と妖忌は嘆息した。植物を配するのだから多少なりとも活気は存在するが、それを主題にする事はまず通例ではありえない。
庭園は普段はただ主のためだけに存在し、同時に来客に対しては主の格を示す指標でも有り、そこに本来求められる主題は風情と品格である。
虫を放ったりすれば秋には鈴虫の合唱を楽しむことも出来ようが、それも一年中というわけにはいかない。
鳥を呼びこむのも手だが、望んだときに来るとも限らぬし、餌となる実をつける樹木を用意せねばならぬ。とても一朝一夕では達成は出来まいし、糞の掃除も面倒だ。
うむむと妖忌が考え込んでいると、依頼主であるはずの西行寺幽々子のほうが萎縮した表情で訊ねてきた。
「あの、魂魄様」
「拙者も他の方々と同様に姫様とお呼びさせていただいてもよろしいですかな?」
「え?あ、はい」
「それでは姫様、御慈悲を否定するようで申し訳ありませぬが拙者のことは妖忌と呼び捨てくださいませ、もしくはただの園丁と」
「しかし、ですが…」
「この屋敷において最も尊重されるべきは姫様の願いです。それは疑いようがありませぬ。ですが他の貴族方に誤解されること無き様、下々との区別ははっきりさせておく必要があります」
「それは…」
「…とまあ偉そうな話はともかくとして、魂魄は現在幻想郷に複数居りますゆえ、些かややこしゅうございますれば。魂魄様、と呼ばれましてもやれ返事をしてよいやら、と逡巡してしまうのですよ」
「なるほど、これは失礼いたしました」
冗談めかして語った妖忌であるが、それに真面目に謝罪されては立つ瀬がない。全く以て、西行寺幽々子には身分といった概念があまり無い様であった。
分かりやすい上下関係を受け入れる事を是とする武者として生きてきた妖忌にとっては少しばかりやりづらい相手である。
「それで、如何なされましたか?姫様」
「ええと、なんでしたっけ?」
「…申し訳ありませんがそれは拙者にも分かりませぬ」
そう答えた妖忌だったが、成る程よく見ると幽々子の視線はさっきから彷徨っている。いや、彷徨っているのではなくて妖忌の半霊を追っているのだ。
「気になりますか?これが」
「ああ!ええと、はい、そうでした」
「既に我が娘を一度はごらんになられていると思いますが、見ての通り我が一家は半人半霊という種族でしてな」
「はい、伺っております」
「生きてもおり、そして同時に死んでおる、と言うわけです。しかし見た目どおり綺麗に半人と半霊が分かれているわけではありませんぞ?どちらもが、半人半霊です。故に」
此方が既に知っている、と言う事を語ってよいものか。妖忌は多少言い淀んだが、結局続けることにした。
「姫様のお力は我等には届きませぬ。なにせ、既に死んでおるのですからな」
「…そうですか」
幽々子は何か訊ねようと口を開き、そしてそのまま口を噤んだ。その表情から、聞いては拙いと考えたからではないようだ。
おそらく、妖忌に何故この人寄り付かぬ屋敷に来たのかと訊ねようとして、家族の傍で働く為だろうと結論し自己完結したのだろう、と妖忌は推測した。
そのまま幽々子は「んー」と思案顔を続けていたが、何か思いついたかのように一瞬目を見開いた後、いたずらっ子のような笑みを浮かべる。
「ふふ、ですが妖忌様は一つ勘違いしていらっしゃいます」
「はて、なにをでしょうか?」
幽々子と口元を押さえて笑うと、もう一方の手を妖忌の半霊へと向ける。すると、
「なんと!」
妖忌の半霊は妖忌の意思に反して幽々子の方へと引き寄せられていき、そのまま幽々子の周囲を漂い始めた。まるで幽々子が半人半霊になったかのようである。
驚く妖忌の顔を見て、幽々子は若干してやったりといった表情で笑う。
「私の力は死をもたらすだけではありません。このように死霊を操ることが私の本来の力なのです。私の力は妖忌様に届きますわ」
「…」
「あ、あの、勝手に半身を操ってしまいまして申し訳ありませんでした…」
「いえ、そのようなことは」
苦い顔を浮かべた妖忌に慌てて幽々子は笑顔を引っ込めて謝罪し、妖忌の半霊を開放する。
別に妖忌も半身を操作されたことに対して不快を覚えたわけではなかったのだが、慰める上手い言葉が口をついて出てこなかった。
言える訳が無い。己の半霊が幽々子の周囲を舞う様がまるで付き纏っているように見えて、紫と酒の席で交わした会話が思い出されたのだ等と。
二人の間にさほど重くは無いものの払拭し難い沈黙が漂った。
「…それでは庭の件はあまり急いではおりませんので、まずは現状のまま手入れをお願いしますね」
「心得ました」
ばつが悪そうに幽々子はそれだけ語ると、そそくさと屋敷の中へと戻っていった。
思わず苦い顔を浮かべてしまった不注意を妖忌は呪ったが、今からどうすることもできず、結局黙々と屋敷の奥で半ば放置されていた道具の手入れに戻り、それに没頭していった。
▼5.幽々子様 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「あの、この前は申し訳ありませんでした」
数日後、長いこと放置され乱雑になっていた庭園内の樹木の枝を落としていた妖忌は後ろから声をかけられた。不意に、という訳ではない。この距離で気配が分からなければ武者として無能の極みである。
割と手斧の乗りが良かったので中断するのはもったいないな、等とまことの園丁であるような感想を抱きながら妖忌は手を止めて振り返った。
もとより当主の言葉を無視するなどという選択肢は存在していない。腰を折って、謝罪する。
「こちらこそ、申し訳ありませんでした。己の半霊を纏う姫様を拝見し、まるで姫様も半人半霊になったかのようである、と笑みがこみ上げてきてしまいまして」
「あらあら」
「その笑みを抑えた結果、あのような表情になってしまい申した。真申し訳ありませぬ」
「そうでしたか。そのような場合は笑っていただいて構いませんよ」
「御好意、痛み入ります」
謝罪を許されたほうではなく、許したほうがほっとしたように胸をなでおろす。なんとも可笑しな光景だと妖忌は心の中で苦笑した。
「して如何なされました?もしや、何か不足でもございますでしょうか?」
「いえ、そういうわけではないのですが…作業を拝見させてもらってもよろしいでしょうか?」
「無論構いませぬが、そう面白い物でもありませぬぞ?」
「ええ、かまいません」
「では、本日も猛暑が予想されますゆえ、失礼ながら我が半身を姫様のお傍に置いておきます」
「半身を?あら、涼しい?」
「幽霊ですので。しかし霜焼になる可能性もありますので直接触れないようお願いいたします」
「分かりました」
実際には半人半霊の霊はそこまで冷たくないのだが、感覚は共有しているし流石に抱かれても困るので方便で対処する。
幽々子は妖忌に頷くと寝殿の簀子に腰を下ろし、そして妖忌はそれを確認した後そのまま園丁の作業に舞い戻って行った。今日からは剪定である。
自然のまま伸びるに任せるのも様式の一つだが、現在の状況はあまりに乱雑としすぎているので、やはり多少は枝打ちをしておくべきであろうと妖忌は判断したのだ。
ばさり、ばさりと自分勝手に伸びている枝を落とす。さび付いていた手斧は先日のうちに研ぎなおしておいたので切れ味は申し分ない。
む、あそこの枝が少し飛び出ておる。ばさり。ふむ、悪くない。次だ。
「………ま?」
ばさり。しまった、少し切りすぎたか?いやまだ、十分に対処可能だ。身長に、少しずつ切りすぎた枝が目立たないようにその周りの枝を合わせていく。
ばさばさ、ばさばさ。うむ、完璧だ。我ながら筋がいい。
「……様?」
次だ、丹田に気合が入る。なんとまあ乱雑に伸びた枝よ。まるで拙者に切って欲しいと語りかけているようだ。待っているが良い。すぐに落としてくれるわ。
ばさり。む、これは?落とすべきか落とさざるべきか、どちらが釣り合いが取れる?ええい、ままよ。本能が導くままに手斧を動かす。ばさり。よし、落としたので正解だ。
「…忌様?」
既に我が心は明鏡止水。最早一瞥するだけでどう枝を落とせば良いかはっきりと分かる。うん、乗っておるわ。流れるように手斧を動かし、流れるように枝を落としていく。
もはや赤子の手をひねるより簡単よ。む、あそこは届かんな。手斧で遠当て出来るか?ふむ、やってみるか。では
ぬおお!なにやら背中にやわらかい感触が!これは何ぞ!と言うかさっきから聞こえているかもしれなかったりする声はもしかして…
「妖忌様!」
妖忌は恐る恐る振り返った。背後では頬を膨らませた幽々子に妖忌の半霊がさば折りをかけられているところであった。
「…もしや先ほどから呼ばれておりましたか?」
「もう、さっきからずっと声をかけているのに!」
「こ、これは失礼いたしました!」
なのでそのさば折りをやめてくだされ。その、なんというか、胸が。感触が。
触れるなって言っておいたであろうに!って、ああ、だから手を使わずに着衣の上から腕だけで締め付けてるのか。成る程ー…じゃない!
やむを得ず妖忌は半霊を暴れさせる。その様子が苦しんでいるように見えたのだろう。幽々子は妖忌の半霊を開放した。
ふー、危なかった。
「申し訳ありません姫様。手斧の乗りが良かった物で、つい」
「ふーん!妖忌は当主の命令より目の前の木のほうが大切なんですねー」
「そのような御無体を仰らんで下され。これこの通り反省しておりますゆえ」
膝をつき、簀子に腰掛けた幽々子に妖忌は頭を垂れる。すると妖忌の視界に映るは単の端から覗く幽々子のすらりと伸びた足。
ちらりとのぞく素足が実に艶かしい…じゃなくてはしたないから貴族らしく緋袴を…等と園丁風情が当主に言えるわけもない。
心の中で悶絶する妖忌に幽々子はわざとらしくやれやれといった表情を作りながらも楽しそうな声色で妖忌に問いかける。
「まあいいです。不問にしましょう。それで、妖忌様は一体何がそんなに楽しかったのでしょうか?」
「何が、と言われますと?」
「先ほどから枝を落としている妖忌様はなにやら楽しそうに見えましたゆえ」
やれやれ、あっさりと様に戻ってしまったな、と妖忌は心の中だけで苦笑する。のんびりしているかと思いきや意外に幽々子は妖忌の表情に敏感であるということを遅まきながら把握したのだ。
とはいえ、ふむ?
「楽しそうに見えましたか」
「ええ」
はて、確かに妖忌は剪定を楽しんでいたが、そもそもこういう楽しさを言語化すること自体が困難である。
これがこうだから楽しかった、というふうに熱中している事を説明するのは難しいものだ。
だが、切って理解するのは妖忌の十八番。今度は、明確な意思を持って枝を落とす。バサリ。ふむ。
それをまたしても無視されたと思ったのだろう。幽々子が非難の声をあげる。
「妖忌様!」
「失礼、確認を行いたかったもので」
「と、言いますと?」
「己の内に、理想となる風景があります。そして己が手斧を動かすことで現実が一歩、また一歩と理想へと近づいてゆきます。その充実感が、楽しかったのでしょう」
「理想の世界に、近づく、ですか」
「ええ、己の力で。己が腕を振るう事によって目標へ近づいていく。それが実感できるのはやはり悦楽でありましょう」
「目標…」
目標という単語を幽々子は言い淀んだ。それが意味する事を正確に把握しながらも妖忌は言葉を続ける。
幽々子の未来への展望を知る良い機会である。それが冥界だの死神だのと重なる可能性がある未来であればよいのだが…ま、そんな事はあるまいが。
「姫様には何某かの目標はありませぬか?如何様なものでも構いませぬ。先を見据えれば自然と人生は豊かになりましょう」
「…」
「歌などは?姫様のお父君はそれは立派な歌聖であったと窺っておりますが」
「…私には、歌の才などありません」
「然様ですか。しかし拙者は愚者ゆえ、己の目耳で見聞きしたもの以外はあまり信用せんのです。よろしければ一首お聞かせ願えませんか?」
即興で作り上げた歌ならばそこには余程歌に傾注している者達――例えばその技巧が出世にも繋がる中央貴族とか――でなければそのときの心情や本音が含まれるものである。
そう畳み掛けられて幽々子は若干困ったような顔をしたものの、やはりここは貴族として粛然と振舞うべきであろうと判断したのか、玲瓏な声でさえずる様に一首読み上げた。
「春過ぎて 夏の日照りを浴びぬれど わがひだるさは かはらざりけり」
(超意訳:春が過ぎて、眩しい夏の日差しを浴びるようになってもわたしの空腹感は止まるところを知らないなぁ)
「…ぶ」
……なんでそんな題材を選ばれるのですか。思わず妖忌は下を向く。
「…笑いましたね」
「笑ってませぬ」
才能以前にそもそも目の付け所がおかしい。普通少しくらいはあはれなるものを歌にしようと努力するのではないのですか、と妖忌は唇をかむ。
「笑いましたね」
「笑ってませぬ」
くぅ、と幽々子の腹が音を立てる。一瞬泣いているかのような表情で踏みとどまったものの、こらえきれず妖忌は笑い出した。
「…ふふ、わははははははは!」
「やっぱり笑ってるじゃないですか!」
幽々子は顔を真っ赤にすると、傍らに浮いていた妖忌の半霊の尻尾?を掴み、全力で廊下へと打ち付ける。
幽々子の死霊を操る能力に因るものか、本来ならいかなる痛痒ももたらさないはずその一撃は半霊を通して妖忌に凄まじい衝撃を伝え、笑顔を浮かべたまま妖忌は庭園にばたりと倒れ伏した。
◆ ◆ ◆
照り付ける初夏の日差しに眩しさを覚え、妖忌は目を覚ました。気絶してしまっていたようだが太陽の高度からそう時間が経っていないことが確認できる。
何時の間にやら妖忌は寝殿へと上げられ、幽々子の腿を枕に寝かされていた。
幽々子一人で妖忌を運べるはずも無い。誰かしらが手伝ったのだろう。だからその手伝った誰かは幽々子に膝枕される妖忌を目撃したに違いない。
そう思うと妖忌にはやおら気恥ずかしさがこみ上げてきた。義理の息子だったら斬って捨てよう。そう決めた。
幽々子の腿から頭を起こした妖忌は平身低頭して謝罪する。
「申し訳ありませんでした」
「…私は謝りませんからね」
「姫様に落ち度などございませぬ。言を違えた事、勤務中に意識を失ったこと、全て拙者の失態にございますれば」
「…」
「申し訳ありませぬ。許しを請える立場にはありませぬが、重ねてお詫び申し上げます」
「…もう不問でいいです。私には歌の才能がない事ぐらい分かっておりましたので」
才能がないと言うか、目の付け所がおかしいと言うか。ただしかし需要にあった選択が出来ないというのもまた、才能がないと言うことかもしれない。
幽々子が若干悲しげに目を伏せる。
「ありがとうございます。…ですが拙者としては姫様のことがまた一つ理解できてうれしゅうございます」
「…歌の才能が無いことですか?」
「いえ」
いぶかしむ幽々子の表情を楽しんだ後、妖忌は廊下へと腰掛け、脱がされていた草鞋を履いてにやりと笑う。
「昼食にしましょう」
◆ ◆ ◆
「如何ですかな?」
「釣れません…」
妖忌の問いかけに、悲しげに幽々子は答えた。
既に魚篭の中には妖忌が釣り上げた鮎が10匹近く収まっている。しかし幽々子が釣り上げた数は零。幽々子は坊主であった。
「ま、最初はそんなものでしょう。さて、遅まきながら昼食といたしましょうか」
あの後妖忌は「幽々子が簡単な屋敷の周辺案内を申し出た」と言う理由をでっち上げて幽々子に外出の準備を勧めた。
自らは厨に赴いて未醤やら塩やらを小壷へ詰め、ついでに鍋やら薪やら器やらを拝借する。
後はそれらを風呂敷で包んで背負い、汗衫を纏い市女笠を身につけ外出の支度を終えた幽々子を伴って近くの沢へと足を運び、二人で釣りを始めたのであった。
妖忌にとってはいつもの食料調達だが、幽々子にとっては初めての経験であるため坊主に終るのも致し方ないだろう。
せめて一匹だけでも、と闘志を燃やす幽々子を尻目に見ながら妖忌は熟艾に火打石で火をつけて火種代わりとし、石を並べ薪をくべて火を用意する。
己が釣り上げた鮎のうち腸を抜いた3匹を含め6匹を串刺しにして姿焼きにし、残りは乱切りにして山菜と共に未醤を入れた鍋に放り込んで火にかけた。
そのうち辺りに漂い始めた焼魚の香ばしい香りにつられたのか、幽々子は若干恨めしげな顔をしながらも竿を垂らすのをやめて火の元へ近づいてくる。
妖忌は幽々子のために衣服が汚れないよう木陰の下となる平べったい岩の上に手拭いを敷き、そこに腰掛けた幽々子に焼きあがった腸抜きのほうの鮎を手渡す。
「これは、どうすれば?」
「調味は普段どおり。未醤を匙で塗るか、塩を振りかけてそのまま齧りなされ」
当惑した表情を浮かべたものの、言われたとおりに匙で未醤を掬って鮎に塗り、そのまま幽々子は鮎に齧り付く。
「骨に気をつけなされ」
「むぐ…」
咀嚼して、飲み込む。
「…こんな食べ方は初めてですが、美味しいですね」
「さもありなん。何物も、採りたてが一番上手いのですよ」
そのようですね、と幽々子は頷き、妖忌が一匹目を食べ始める前にあっさりと一匹目を完食する。
若干苦笑しつつ、妖忌は腸抜きの二匹目を幽々子に差し出した。実に健啖なことである。
二人が姿焼きを食べ終える頃には鍋がいい具合に湯気を放っていた。妖忌はそれを器に盛り、匙と共に幽々子に差し出す。
冷ますのもほどほどに、幽々子はそれを口へと運び始める。
その様を見て、妖忌は成る程、と幽々子が歌った心境を理解した。貴族は小食を一日二食で、しかも完食ははしたなし、少し箸をつけて残すべしと言う時代である。健啖家にはさぞ辛かろう。
ましてや、女性とあっては尚更である。
「如何ですかな?」
「…熱くて、暑いけれど美味しいです」
「それは重畳」
額に汗を浮かべながら、はふはふと幽々子は汁物を平らげていく。妖忌もまた、自身の器に手をつけ始めた。
◆ ◆ ◆
「妖忌様は元武者、と聞き及んでおりますが武者様は皆昼に食事をとられるのですか?」
ある程度食を進め、一息ついた幽々子は若干うらやましげに妖忌に問いかけた。
「ふむ。様々ですな。武者などと申しても所詮はならず者の集団。つまり腹が減れば飯を食う、と言った次第でしょうな」
「うらやましいです」
「その代わり、飯の種が手に入る保障などありませぬ。安定して一日二食が取れる貴族との違いはそこですな」
「一食も取れないときもあると?」
「野山に踏み入ればそのようなことはまずあり得ませぬが、野山では仕事にありつけませぬし、薬味をそろえる事も出来ませぬ。職探しの最中に路銀が尽きればまぁ、一食も取れない事もあります」
「そうですか…」
多分、自分は恵まれた立場にいるのだろう、と思いを巡らせ始めた幽々子を見て妖忌は笑みを浮かべる。
「まぁ、いずれにせよここは都ではありませぬし、ある程度自由に振舞っても罰は当たりますまい。たまには我等、一日三食といたしましょう」
「むしろ毎日がいいですが」
満腔たる思いをこめて幽々子が呟くが、まさか毎日外出するわけにもいかないので妖忌は聞かなかったことにした。
「ふむ、屋敷の方々に三食にするように依頼してみては如何ですか?」
「…縁者達が許してはくれないでしょう」
むしろ食事を餌に幽々子を誘い出しているようで気が引けた妖忌は一つ提案をしてみたものの、悲しげに幽々子は目を伏せる。
とはいえ妖忌の見たところ、幽々子の老いた親戚たちは別に幽々子に不必要に厳しいという様には見えなかった。
おそらくは、幽々子がゆくゆくは貴族の令嬢として他の貴族へと嫁いだ際に恥をかかないように、という老婆心の現れに違いない。
成る程、残る親族たちは皆高齢な上、既に幽々子と西行妖が死をもたらす存在であることが幻想郷では割と有名であるらしいため、この先幽々子が独りにならない為には外の貴族へ嫁ぐ事を考えたほうが現実的かもしれない。
冥界、そして幻想郷と移り住んだ経歴ゆえに伝統ある西行寺家の歴史は表舞台からは消え去って久しく、西行寺家など都の貴族からすれば単なる素性不明の貴族気取りに過ぎないのだろう。
だが素性が不明であっても、それなりに貴族らしく振舞うことが板についていれば幽々子の美貌とあわせて中流貴族の次男坊辺りなら十分に狙えるのではないか。
そこまで考えて、だったらまずは貴族らしい服装をさせろよ、と幽々子の衣装から覗く脚(多分今は袴すら穿いていない!)に目をやっては妖忌は呆れるのだが、この夏の暑さである。
多少の薄着は仕方ないのかもしれないと己を納得させた。決して眼福だから妥協したわけではない。ないのである。
「それでは仕方ありますまい。機を見て何やかやと外出することにいたしましょう。もっともそう何度も姫様をお誘いいたしますと拙者としても首が危ういのでその点は御容赦を」
「分かりました。それと後一つお願いがあるのですが」
「なんでしょうか?拙者に叶えられる範囲内であればなんなりと」
「二人で居る間だけでも良いので、名前で読んでいただけないでしょうか」
「なんだと!?」
思わず無礼な台詞というか驚愕の叫びが口をついて出てしまい妖忌は焦ったが、幽々子は不問としたようで真面目な表情で妖忌を見つめてくる。
心の中で薄ら笑いを浮かべている紫に心の中ですら当たらぬ斬撃を繰り出しながら妖忌は何とか次の言葉をひねり出した。
「そ、その心は?」
「名前で呼ばれないと不安になるのです。私が存在することに価値があるのだろうか、と」
然様か、と妖忌は心の中で振り回していた刃物をしまって首肯した。
それは、おそらくは貴族として生まれた者ならば一度は考えることであろう。すなわち、求められているのは貴族としての形骸か、それとも己自身か。
そして悲しいことに多くの貴族にとって求められるのは前者である。故に貴族の長女や次男等はそれを理解し、諦め、時には物言わぬ人形と成ってゆくのである。
今後、貴族に嫁ぐ事を考えるならば幽々子はそういう生き方を許容する覚悟を持たねばならない。
だが、
「心得ました。それでは可能な限り努めましょう。幽々子様」
妖忌にはそんな生は許せなかった。己を殺す生き方など呼吸する骸と大差ない。半人半霊、生と死が共に在る存在であるからこそ、そのような生き方は許容できなかったのだ。
妖忌が口にした回答に幽々子の顔がぱっと明るくなる。
なんかどんどんと墓穴を掘り進めているような気がしないでもなかったが、なるほど、この笑顔の為であれば多少の苦労は背負い込んでも良いかもしれない。そう妖忌は結論付けた。
▼6.紅の夏 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「おや義父さん。姫君の膝枕の感触は如何でした?」
「…渇!」
幽々子と共に屋敷に戻った後、一日の仕事を終えて荒ら屋に戻る道すがらの妖忌に見慣れた顔が聞きなれた声で話しかけてきた。
妖忌の娘の夫、つまり魂魄一党の現棟梁にして義理の息子である妖怪のからかうような発言に、こんなこともあろうかと妖忌は用意しておいた木刀を打ち込んだ。
急ごしらえの木刀は妖忌の願いに答え、妖忌の霊力による青い光を纏ったまま宙を切り裂いて奔る。
これなるは現世斬。現し世のあらゆる物を斬る、と名付けられた斬撃。神速で間合いを詰めつつ一切の容赦なく放たれる妖忌の横薙ぎの一撃が敵の喉元へと迫る。
「憤っ!」
されど敵もさる者。これあるを予想していたかのように後手に用意していた木刀を構え、あらん限りの妖気を込めて振り下ろす。
迎え撃つは断迷剣。痛みを伴わぬ死を以て一切の迷いから開放するという、慈悲深い一撃。神速で振り下ろされる木刀が妖忌の木刀と交差する。
両者必殺の気迫をこめた一撃は噛み合い、喰らい合い、そして両者の木刀は交差点から折れるのではなく爆ぜたかのように粉砕されて宙を舞う。
飛散した2つの切っ先は圧縮された霊力と妖気を湛えたまま回転して近くの木に突き刺さ…らず、そのまま幹を豆腐か何かのように抉り抜いて飛んでいった。
「用意の良いことよ」
「そちらこそ」
互いに互いの顔をねめつけて鋭く笑い、同時に折れた木刀を捨てて拳を振りぬく。
一瞬の機微を分けた妖忌の拳が相手の顔へとめり込んで鼻骨を砕き、妖忌の義理の息子は背中から地面にどう、と落下した。妖忌はそれを以て溜飲を下げる。
「ととー」
「おお妖夢!!見ていたか!?お祖父ちゃんは悪に勝ったぞ!」
「…息子を゛殴り倒じで、言う事がぞれでずが?」
愛娘が抱いた初孫に対して誇らしげに勝利の宣言を行う妖忌に、妖忌の息子は鼻血を喉に詰まらせながら呆れたような表情で妖忌を下から睨めあげる。
そんな義理の息子に手を伸ばしつつも、そ知らぬ表情で妖忌は嘯く。
「さて、これから一党の前で今後の説明だったか」
「ええ゛、鼻血が止ま゛っだら」
片手で妖忌の手をとり、片手で鼻を押さえながら彼は立ちあがる。妖忌の義理の息子は体が資本の妖怪であったのですぐに鼻血は滴るのをやめていた。
一部始終を見届けていた魂魄妖忌の娘にして魂魄妖夢の母親は笑顔を浮かべている妖夢に一度笑いかけて、溜息をついた。
こいつらは一体全体、いつになったら大人になるつもりなのだろう、と。
◆ ◆ ◆
次の処暑を以て、魂魄一党は解散する。皆と共にこの国を駈け回れた事を嬉しく思う。
妖忌の義理の息子が一党数十名の前で語った一党会議の展開は以上のような口上から始まった。
誰もが残念そうな顔をしているものの、不思議そうな表情をした者はいない。
不当な扱いを受けてきたのは顔役として交渉等の取り纏めを行っていた棟梁だけではなかったのだ。
魂魄一党は人妖綯交ぜ、戦うことをこそ生き甲斐とする連中が人とも妖ともつかぬ妖忌の元へ自然と集まって出来た集団だった。
共に戦う戦友も、倒す相手も人妖選好みしない、純粋な戦闘集団である。なればこそ仲間内での結束は固い。
されど近年そんな彼らへの風当たりは強かった。異形を引き連れる様は人間からすれば疎ましく、人間を信頼する様は妖怪からすれば愚かしかった。
結界都市、平安京。魑魅魍魎を拒絶する象徴の如きあれが全てを物語っている。
ただでさえ難しかった、人と妖怪が共存できる状況はとうの昔に終わりを告げていたのだ。故に誰も棟梁を責める言葉など持ちはしない。
今後は人間のみの集団、妖怪のみの集団に分かれて活動することになるという。
魂魄一家を含め若干名は幻想郷に残るようだが、元々が歩く闘争本能のような連中の集まりである。大半はどちらかについて幻想郷を出て行くだろう。
そこまで思いをめぐらしたところで、妖忌はふとこの前会った銀髪の新入りのことが頭に浮かんだ。
仲間内では「死なずの妹紅」と呼ばれ、圧倒的な自己再生能力を持っているらしい、己や己の娘と同じように生と死が共に在るような気配を持った少女はどうするのだろうか?
そう思って周囲に視線を巡らすと幸いと言うかなんと言うか、彼女の美しい銀髪はすぐに目に付いた。
「おう」
「ん?…これは御大将、何か用?」
妹紅の態度は最初に会ったときと変わらなかった。それを良し、と気に入った妖忌は少女に問いかける。
「なに、死なずの妹紅はどちらに行くのかと思うてな。人間側か?それとも妖怪側か?」
「失礼ね、私はこれでも人間よ、多分…。でも、どうしようかな」
「やはり死なずの妹紅は年もとらぬのか?」
「まあね、だからどっちにつこうか悩んでる。あーこの一党でもうちょっと人間の技も妖怪の技も学びたかったのになー」
まこと残念そうに妹紅は溜息をつく。
「おぬしは術者ではないのか?高名な術者でなければ年もとらず、致命傷から瞬時に再生など出来はせぬと思ったのだが」
「残念ながら私のは体質。ただ死なないだけの人間よ。取り押さえられれば手も足も出ない、ね。下手すりゃ下種や妖怪の慰み者よ」
「…だから戦う術を磨く為にここへ来たと?」
「まーそんな感じ。ま、どうせ死なないってことは何されたって多分元通り直るんだろうから、どうでもいいんだけどね」
投げやりに呟く妹紅に妖忌は怒りを覚えた。年頃の娘が死なないんだから何されたって良い等と、そんなことがあっていい訳はない!
旅の荷物を詰め込んでいた雑嚢から布に包んだ物体を取り出して妹紅に手渡す。
手渡された妹紅は首をかしげた。
「なにこれ?」
「魔獣の卵らしい。貴様にくれてやる」
「魔獣の卵?何に使うのよ?」
「ただの魔獣ではない。大陸産の式神のようなものらしい」
「式神?火術しか使えない私に使いこなせるとは思えないけど…にしても卵で渡されてもねぇ?」
どうすりゃ良いのよ、と首をかしげる妹紅に妖忌はこれを妖忌に譲った相手から聞かされた内容をそのまま伝えることにした。
「心配無用。これを行使するのに修行など必要ない。ただ、己が格上だと示せばよいだけのようだ」
「どうやって?」
「これに血をかけると卵が孵化して魔獣が現れる。それを倒せば以後そいつを使役できるらしい」
「そりゃお手軽。でもなんであっさりと譲ってくれるわけ?もしかして同情とかかしら?」
若干不満そうに妹紅は妖忌を睨みつける。
だがそれを涼しい顔で受け流し、妖忌はのほほんと妹紅の質問に答えた。
「その魔獣には難点があってな。式神は行使するときしか霊力を使わないが、その魔獣は使役していないときですら主の生命力を常に吸い続けるらしい」
「…あー、成る程。そりゃ一般人には有難味がないわね」
「然様、しかしおぬしが本当に不死人であれば、どうであろうな?」
「確かに。美味しいところだけ持ってけるわね」
納得したかのように妹紅は笑う。
「そういうことだ。拙者らにはあまり旨みがないし、そもそも拙者は己の腕で斬る事にしか興味がない。だからくれてやってもまったく惜しくないというわけだ。というか下手に孵化しても危ないし処理に困っていた」
「そういうことならありがたく頂いておくわ。…でもどんなのが出てくるの?」
「ふむ、地を走る三本爪の魔獣と聞いていたが。その爪で全てを引き裂くらしいが、拙者にとっては斬るならば刀で十分よ」
「へぇ」
「だが孵化させるときは人気のないところでやってくれ。先に言ったようにお主が格上と分かるまではそいつは延々と暴れまわるらしいのでな」
「りょーかい。となるとこっちも御礼をしなきゃかしらね」
妹紅は渡された物体を自身の風呂敷に放り込むと、なにやら自分の荷物をあさり始める。
「別に要らぬ物を押し付けただけ故、礼など不要であるが」
「受けた恩は返す。それが出来ない奴は唯の屑よ。わたしがそうなりたくないだけ」
「そうか」
「そうよ。はい、これあげる」
妹紅はそう言うと、荷物から輝く羽を取り出して妖忌に手渡した。
「これは?随分と美しい羽よの」
「死者を生き返らせる不死鳥の羽だって。偽物だけど」
「偽物?」
「死者を前にしてささやいたり詠唱したり祈ったり念じたりしたけれど、そいつはぜんぜん反応しなかった。だから偽物。蓬莱の玉の枝と同じよ」
「ほう?」
「多分うまく作られた贋作。でも火鼠の皮衣よりかはましな物のはずよ。火にくべても燃えなかったし」
「然様か…これが燃えぬとは。良く出来ているな」
「そ、だから上手く話術を駆使すれば高値で売れると思うわ。それに綺麗だし、意中の相手に送るのも悪くないかもね」
何が原因かは分からないが自分が発した言葉に対して忌々しげな表情を妹紅は浮かべ、しかし妖忌のいぶかしむ様な視線を察知すると即座に元の態度に戻った。
そんな妹紅に妖忌は感心したような表情を浮かべる。それを目にした妹紅は不満げに訊ねた。
「あによ?」
「お主、才女なのだな。蓬莱の玉の枝、火鼠の皮衣。竹取物語であろう?文字が読めるのか」
「……まーね」
妖忌はそれ以上追求するのをやめた。妹紅が益々忌々しげな表情になったからである。
必要なのは唯信頼のみ、それを言葉で語れぬなら行動で示せが魂魄一党の掟。死なずの妹紅は既に仲間内でそれなりの信頼を得ていた。
ならばこれ以上の詮索は不要であろう。故に妖忌は話は終わりとばかりに笑う。
そんな妖忌を見て感心したとも呆れたともつかない声で妹紅は語る。
「あんたさ、いい人だから忠告しとくけどあまり誰彼構わず女に優しくしていいことはないよ?」
「そうなのか?優しくしているつもりはないのだが…」
そう語る妖忌の顔を見て、妹紅はわかってない、といった表情で首を振った。
「意中の女にゃ信頼されなくなるし、それに女ってのは男を…いや人を騙すのが男より得意なんだから。男なんて女からすりゃ幾つになったって童よ」
「…違いないな」
何処かしら私怨の篭ったような声で妹紅は力説する。
さもありなん、と豪奢な金髪を誇る友人の妖艶な微笑を思い出して妖忌は身震いした。身震いついでに近くに居たりしないか不安になって周囲を見渡す。
幸い紫は見当たらなかったが、気付けば一党はそれぞれの思いを胸に自分の荒ら屋に戻り始めていた。日も傾き始めたし、そろそろ解散時だろう。
そう妖忌は考え、妹紅にさらばと目で語って歩みだした。すれ違いざまに肩を叩く。
「では男を手玉にとる良い女になれよ、妹紅。己の一片たりとも安売りしないことだ。たとえ換えの利く命であってもな」
「…三百年くらいは覚えておくよ」
礼はしたが、どちらかと言えばやはり恩を受けたのだろう、と感じた妹紅は最後ぐらいはとばかりに妖忌の背中に柔らかい笑みを返す。
妹紅の冗談とも本気ともつかぬ応答に軽く振り返った妖忌は初めて妹紅の素の表情を垣間見たように思う。
夕陽を背負い、銀髪に燃えるような紅を照り返しながら笑う妹紅は思わず息を飲むほどに美しい。
それだけ確認し、妖忌は歩み去った。妹紅が不死人であるならば、またいずれ会うこともあるかもしれない。
◆ ◆ ◆
そして次の処暑を迎え、魂魄一党は二つに分かれて旅立っていった。妹紅がどちらを選択したのか、妖忌は確認しなかった。
郷に残った者も、めいめいに己の職を探し、それに便利な場所に居を構えていった為、駐屯地のあばら家を利用するのは妖忌一人である。
まぁ、いずれにせよ一つの時代が終わったのだ。無骨たる妖忌の心にも若干の寂寥が吹き抜けていった。
▼7.空色の夏と 移り行き ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「むむむ」
残暑も終わりに近づこうという頃、妖忌は唸っていた。
一通り草木の手入れを負え、藻を取り除き苔を整え終え、手入れという段階まではほぼ完了したのだ。
屋敷を訪れた当初の寂れた様子はなりを潜め、静謐にして清潔、西行寺家の庭は質素だが纏まりのある様相を取り戻している。
だが本番はここから。園丁の仕事は整形のみにあらず、造形こそが腕の見せ所である。当初に幽々子に語ったとおりまずは北対付近から湧き出す清水で滝を、と思ったのだがそうなると現在庭にある石だけでは足らなくなってくる。
やはり、何処かしらから石を取ってこなくてはなるまいか、と妖忌は想いを巡らせた。このまま悩んでいても、時は過ぎるばかりである。
このままでは秋めく滝どころか、冬になっても滝は完成しない。庭に活気を、と語った幽々子に対する妖忌の面目はこのままでは丸つぶれだ。
すっかり園丁色に染まった妖忌は屋敷の管理を行っている使用人に引車を借り受け、外出の準備を始めた。
門では、当然のように青の汗衫を羽織り、市女傘をかぶった幽々子が妖忌を待っている。
やれやれ、と妖忌は諦めたように頭を振った。
◆ ◆ ◆
「滝を作る為の岩を探せば良いのですね?」
車を引く妖忌に連れ立って河原を訪れた幽々子は楽しそうに垂衣の向こうで微笑んでいる。
「ですが幽々子様」
「私の屋敷の庭になる物ですし。…それともお邪魔でしたか?」
幽々子が不安そうに妖忌の顔を覗き込む。
妖忌からすれば邪魔と言うより幽々子が岩場で怪我をしないかが心配なのである。
人手は多いに越したことは無いが、幽々子に注意を払いながらではあまり妖忌の作業は進まないだろう。それでも、
「では、お願いします。本来は自然のままの岩を使うほうが風情があるのですが、手ごろな物が早々見つかるとも思えませぬので今回は加工します。ゆえに色合い、質、模様がよろしく、一定以上の大きさであれば構いませぬ」
「分かりました」
楽しそうに笑う幽々子を前にしては口を噤むほかない。
「庭の石の色は御記憶に御座いますか?」
「勿論です。私の庭ですから」
「これは失礼いたしました。ではそれにあった色の物をお願いいたします。…ただ、あまり川の近くにはお近づきになられないように。探しながらですと、思わぬところで苔などに足を取られることがありますゆえ」
「はい、気をつけます」
神妙な表情で頷いた後、ゆゆこは「たつたがわー きしのまがきを みわたせばー…」などと朗じながら岩を探しに河原を歩いていく。
その後ろを妖忌は少し遅れて歩いてゆく。そして離れていく幽々子に聞こえないように小さく溜息をついた。自分は一体何をやっているのか、と。
友人の頼みで幻想郷に来たはずだ。そしてもう目的はすませたようなものだ。
目の前の少女に死神など勤まるはずは無い。そして脅威も無し。彼女が人を殺すことはおろか、傷つける事すらあるはずはない。人格は温厚なれど覇気が足りない。だからあまり当主としても期待はできぬ。そう妖忌は結論付けていた。
もうここに留まる理由はない。いや、それは正確じゃない。まだ園丁としての仕事をやり終えておらず、それを途中で投げ出すなど男のやることではない。だがそれだけと言ってしまえばそれだけ、義務感だけの筈だ。
だから今のこの時間は無駄な時間だ。いや、それも正確じゃない、義務感だけじゃない。やってみて意外に園丁は楽しかった。年を取った証拠かもしれないが、まあそれはいい。
園丁の業務に費やす時間は楽しい。趣味と仕事が両立した時間は無駄じゃない。それは心に潤いを与える時間だからだ。
だが今妖忌が行っているのは、造園の為の岩探しではなく、岩を探す幽々子の安全を見守ることである。それは造園作業ではない。
だからこれは無駄な時間、無意味な時間のはずだ。それなのに。
それなのに、どうしてこうも自分はそれを楽しげに受け入れているのか。
その答えはさっき自分で出している。それは心に潤いを与える時間だからだ。つまるところ妖忌は幽々子を見ているだけの時間を無駄と感じていない。
その感情の意味するところを持て余している。
幽々子のことが嫌いかと問われれば、「嫌いではない」と答えられる。では好きかと問われると多分「分からない」としか答えられないだろう。
生まれながらにして自分達が貧民と異なると錯覚している者達、すなわち貴族という連中を妖忌がさほど好いてない分だけ公平に見ていない可能性もある。
逆に罪もないのに周囲から恐れられているという幽々子の境遇に哀れんでいるのかもしれないし、娘ある親として既に妖忌の元から巣立って行った去りし日の娘の姿を重ねているのかもしれない。
いずれにせよ、嫌いではないと好きの間にはそれらを内包した数限りない感情が存在しているわけで、自分の感情がその何処に位置しているのか、妖忌には測りかねていた。
いっそ自分を斬ってのけることが出来ればはっきりするのに、などと埒も明かぬ事を妖忌は考え始める、っと?
「きゃ!」
「危ない」
遠方を見据えていた故に足元の不安定な石に足をかけてしまい、幽々子が体制を崩す。
その傍に音も立てずにふわりと移動し、妖忌は転びかける幽々子を抱きとめた。
「も、申し訳ありません」
「なに、誰しも最初はそのようなもの。失敗せずして注意を払えるようになる者等おりませぬゆえ、そう萎縮なされるな。次が無ければよろしいのです」
「は、はい」
釘を刺されていながらもあっさりと転びかけてしまった幽々子は頬を朱に染めて妖忌に謝罪する。
「ありがとうございました、妖忌様。妖忌様は素晴らしい身体能力をお持ちなのですね」
「いや、その、まあ、これでも元武者の端くれですので」
流石にずっと幽々子を見ていたから反応できただけだとは妖忌は言い出せなかったので、黙って幽々子を支えていた手を放す。
「やはり足場が悪いようですし、幽々子様は車の傍にてお待ちいただいたほうが…」
「いえ、もう大丈夫です。次は転びません」
根拠のない自信と稚気を放つ幽々子の顔を見て、妖忌は心の中で深い溜息をついた。
己の娘の時の経験から分かる。こういう表情を浮かべている相手に更に言を重ねても不機嫌になるばかりなのだ。
不機嫌は不注意を助長するため、ここは沈黙が吉であろう。が、さらに困ったことになってしまった。
厄介なことに、一回失敗した相手は、心配していると覚られたら不機嫌になってしまうのが大半である。
つまり見守っていることがばれたらもうどうしようもない。それだけで不機嫌、不注意の円環が出来上がってしまう。
だから延々心の中で溜息を重ね、もうどうとでもなれと結局妖忌は匙を投げることにした。
周囲に曲者の気配もないし、そもそも死の少女の噂は幻想郷の皆が知るところ、近寄る者などありはしない。
であれば心配事は幽々子自身の不注意だが、転んだら転んだで幽々子も己の失態を素直に受け入れるだろう。仮にそれで幽々子が怪我をしても後は妖忌が屋敷の親戚に非難される事を受け入れればいいだけのこと。
そう腹をくくった妖忌はしかし、己の心の中に幽々子を不機嫌にするような選択肢が存在していないことには気がつかなかった。
「それでは幽々子様には引き続き石の探索をお願いしてもよろしいですかな?…ああ、後お気に召した石でもございましたら申し付けくださいませ。持ち帰って庭の一部といたしましょう」
「はい、…しかしその物言いですと妖忌様は?」
問われて妖忌は引いてきた車の上に乗せられていた物を一瞥する。つられて幽々子も視線を移す。
そこには鍋やら器やらの他に、弓と矢が用意されていた。
「昼食の準備をいたします」
「!分かりました!岩の探索はお任せください」
破顔する幽々子の表情を見て、この顔がやはり一番良い顔だなぁと妖忌は心の中で奇妙な感嘆をおぼえた。
◆ ◆ ◆
「あ」
二人で鴨と鶉の丸焼きを平らげ、三、四ほど手ごろな岩を見繕って屋敷へ戻ろうかというその道中。
何気なく幽々子がふと声をあげて川のほうへと近づいていく。
妖忌もまた車を引く手を休め、その幽々子の後を追っていった。
「どうなされました?」
「すみません。何がどうというわけではないのですけれど」
そう語りながらも、幽々子は着衣がぬれるのにも構わず、浅瀬の中へと踏み込んでいき、そして浅瀬の中にある石を持ち上げようとする。
さりとて一抱え弱ほどある石は幽々子の腕力では持ち上がらない。
妖忌がそれを持ち上げて初めてその全景が河川の内から白日の下へと晒された。
妖忌が持ち上げたそれは……ただの変哲もない石であった。川の流れによって研磨され、他の石よりもはるかに優美な曲線を湛え、しかしながらただの石。
川原の他の石よりも白く、光の下では若干桜色にも見えなくもない、されどただの石。それを幽々子は甚く気に入ったようであった。
「妖忌様、これを屋敷の庭へは飾れないでしょうか?」
…これをか?妖忌は心の中で呻いた。
確かに、お気に召した石でもございましたらと語ったのは妖忌である。
そうなのだが、屋敷の庭の石は全て、ごつごつとした質感の威風堂々とした物ばかり。それらは山岳を見立てたものであるため当然である。
はたしてその中において斯様な石をどのように設置すればよいのだろう?これは何の見立てになるのだろうか?分からない、分からない…
「あまり、よろしくないでしょうか…」
考え込む妖忌を見て幽々子がおずおずと問いかける。
「いえ、問題ありませぬ。それでは持って帰るといたしましょうか」
主の意向を酌むのもまた、園丁の役目である。
はてさて、幽々子はこの石に何を見出したのだろうか?そんな事を考えながら妖忌はその石を抱え上げ、幽々子と共に濡れた衣を翻して岸へと戻っていった。
◆ ◆ ◆
色々悩みを抱えた妖忌はその後の庭作業も混迷を極め、この日採集した石の加工は全て失敗に終わった。
あの日川で拾った石も未だに設置場所が定まらずにいる。幽々子は何も言わずにいてくれるが、園丁の面目は完全に丸つぶれである。
何とかせねばと思うのだが、そんな妖忌を待ってくれるはずもなく季節は流れるように移り変わり。
結果、秋を迎えるどころか秋が終わっても未だ滝は完成しないままである。
▼8.悩み深まる 紫の秋 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「妖忌様、不景気そうな顔をなさっておいでなのですね」
そろそろ冬を迎えようという頃、冬眠前の一献として久々に妖忌と杯を交わす機会を持った八雲紫の第一声はそのようなものであった。
それは明らかに誰かの物真似である。
不機嫌そうな表情で妖忌は応答も返さずに杯をあおり、空になった杯にまた並々と酒を注ぐ。
あら、と紫はその様子を興味深げに注視する。
紫は妖忌をからかいに来たのだ。ここの所ずっと己の時間を式神八雲藍の構築につぎ込んでいたのだが、先日ついうっかり保存を忘れたまま構築環境を削除してしまったのである。
先の保存は一月近くも前。一月を棒に振ってしまった迂闊さを妖忌をからかって紛らわそうとしたのだが、どうやら当てが外れたようであった。
まずは妖忌の機嫌を直さねば、からかって遊ぶことも出来まい。
「はぁ、ではお姉さんが相談に乗ってあげましょう。お姉さん今ならなんだって聞いてあげちゃう」
「では妻になってください」
「え!?ちょっと待ちなさいな!」
「冗談です」
そ、そうか、ちょっと焦った。
「紫様。紫様はいつも心にもないことばかり仰いますゆえ、紫様に相談することなど、なにも」
その回答に紫は若干傷ついたような表情を浮かべる。
「妖忌、一応私にも傷心と言うものがあるのだけれど」
「これは失礼。寡聞にして存じませなんだ」
そこでひとしきり現在の不機嫌と普段やり込められていた分のわだかまりを吐き出し終えたか、妖忌は失礼しました、と謝罪する。
「環境が、よろしくないのです。居心地が悪い」
ぽつりと、妖忌は洩らす。はて?と紫は不可解と言わんばかりの表情を浮かべる。
この男を取り巻く環境は悪くない筈だ。家族がすぐ傍におり、何時だって愛しい孫娘の様子を窺うことが出来る。
幽々子を含めた屋敷の者達も概ね好意的に妖忌を受け入れている。噂の西行寺家で働く者として里に住む他の人間からは距離を置かれているが、それを気にする妖忌とも思えない。
「何が不満なのかしら?」
「あの屋敷には、己が斬らねばならぬ物がない」
ああ、と紫は妖忌の心境の一部を看過した。なるほど、妖忌のように戦乱やそれに伴う権謀術数に慣れ親しんだ者にとっては西行寺家の静かな平穏は居心地の悪いものであるかもしれない。
それは魂魄一党の大半が幻想郷を離れたのと根源を同じくする問題だろう。
覗き見は紫の趣味の一つである。たまに西行寺家を覗き見して得られた情報から察するに妖忌は庭仕事をそれなりに楽しんでいるように思えたのだが、それでも未だ戦場の空気こそがこの男の住処であるようだ。
今の妖忌はさながら善意の海でどう息をすればいいか分からずにもがいている闘魚のような有様であるにちがいない。
太刀は未だ納まるべき鞘を知らず。紫は妖忌の現状をそのように結論付けた。
「でも、それだけではないのでしょう?」
「と、申されますと?」
「彼女から向けられる好意にどう対処すれば良いのか分からないのではなくて?」
「…」
妖忌は沈黙した。あらあら、と紫はその様子を感慨深げに観賞する。
紫は妖忌をからかったつもりだったのだ。だがそれは正鵠を得ていたのか、妖忌は黙りこくったまま杯に映る己の顔を睨んでいる。
妖忌の心中はまさに紫の指摘したとおりだった。会ったその日から幽々子は妖忌に好意的だったのが妖忌には不思議でならなかった。
とはいえ、妖忌の娘の言によると、娘は幽々子と(外見的には)それほど年が離れていない為わりと仲がよいらしい。
故に娘は西行寺家の邸宅に招かれる事も多々あり、その時互いの親についても軽く触れていたらしいので、出会う前から幽々子は妖忌の人となりを知っていたためではないか。
そのような解を得たためにある程度はその疑問は氷解したのだが、それを差し引いても幽々子はなお妖忌に好意的――いや、表現は悪いが懐いている様――に思われた。
「人寂しさか、それとも父親を求めているのか…」
紫に語るのではなく、なんと無しに声が漏れる。
何を期待され、何を返すべきか。それが妖忌の最大の問題だった。幽々子は妖忌がこれまで会って来たどのような人間とも異なる。
平民ではない。貴族とも言いがたい。戦士でもなく、従者でもない。そうやって様々な枠を排除していくと最も近いのが娘、と言うことになる。
だから父親のように振舞うのが幽々子のためであろう。そう妖忌は考えているのだが…
「一概には言い切れないわ、乙女心は複雑なのよ。確かに彼女の父親は娘よりも風雅と風情を愛する性格だったから、彼女は随分と寂しい思いをしたのは間違いないでしょう。来客もない屋敷で、ほとんど知己もない生活はやはり寂しいものでしょう。されど、それが全てとも言えないでしょう」
「…恋慕が…あるとでも?ありえませぬ」
「随分と卑下するのね?貴方はそこまで己に魅力がないと思っているのかしら?」
「では、何故紫様は先ほどの拙者の求婚で鼻白んだのです?」
そうきたか、とその返答を紫は些かの驚きをもって受け入れた。すこしは捻った回答をするようになったじゃないの、と出来の悪い弟子を賞賛するかのように紫は光彩を帯びた目で妖忌を見る。
「私はこの里を管理し、見守っていく事をこの身に課しました。今の私には誰かを特別視することは許されない。故に、私には恋は不要です。目の前にどれだけ魅力的な相手が現れても、ね」
心にもないことばかり仰いますゆえ、と友人に言われたのが若干悔しかったのか紫は妖忌の問いをはぐらかす事無く、本心を吐露してみせる。
妖忌もまた、紫の発言が本気である事を覚ったようだ。首肯も否定もせずただ、そうですか、と呟く。
「恋は魔物。人も妖怪も狂わせますからね…一つ秘密を教えてあげましょう。私が新しく式にした九尾、覚えているかしら?」
「無論」
「彼女は大陸からこの小さな島国へと密航してきた。何故故郷を捨ててこの国へ来たのか、と問うた私に彼女はなんて答えたと思う?」
「流れからして大陸で暴れすぎたから、と言う訳ではないのでしょうな」
「ええ、彼女はこう答えたの。『やり直すために。今度こそ、正しく誰かに恋するために』ってね」
「…」
「生まれ育った故郷をも捨てさせるだけの力が恋にはある。私にはそんな力は不要です。されどあなた達はそうではないでしょう?弱い弱い人間には、己を奮い立たせる力が必要です」
無論それは正にも負にも働くけどね、と紫は肩をすくめる。
「そんないたいけな妖狐を式にしてしまうのが紫様ですか」
呆れたように語る妖忌に、紫は分かってないとばかりに大仰に溜息をつく。
「妖忌、人間と違ってね、妖怪は決して己の業からは逃れられないの。神や妖怪は人をはるかに上回る力を持つが故に、その在り方はほとんど揺るがない。ただ、神はこうあって欲しいという信仰を受けることである程度柔軟に対応する事も出来るけど、妖怪はそうはいかない」
「妖狐の業は化かす事、ですか」
「そう、化かす事、墜とす事が妖狐の業。妖狐の恋は絶対に成就しないのよ。そうして自らの能力と業を忌避した妖狐はいずれ己の存在をも忌避するようになるでしょう。ああなんて可愛そうな妖孤!そんな事になる前にわたしが救ってあげなければ!」
「のうのうと仰るものですな」
よくもまぁ滑らかに舌が回るものだ、と芝居がかった紫の言葉に妖忌は呆れたが、されどその言葉の端には僅かながら紫の優しさらしき物が含まれているような気がして妖忌は沈黙を選んだ。
そして妖忌の沈黙を機に、二人の思考は主題へと還ってゆく。
「けどそれは妖怪の話、人間は違うわね。さあ魂魄妖忌、貴方は西行寺幽々子の好意にどう応えるつもりなのかしら?」
「…しばらくは、父親の代替でありましょう。彼女も大部分でそれを望んでいるでしょうし。…違いますか?」
「人の心を読むのは覚りの領分。私の分野ではないけど、多分違わないのでしょうね」
違わないけどつまらないわ、と紫は心の中で吐息を洩らす。それが表情に表れることはなかったが妖忌は紫の心境の一端を密かに捕らえたような気がした。
多分、紫は己の代わりに妖忌と幽々子を己の恋の代替として投影したかったのだろう。そう、まるで恋愛物語を読むかのように。
「では頑張りなさいな、お父様」
妖忌の困惑の最も中核となっている問題について紫は触れなかった。すなわちそれは何故そこまで妖忌が幽々子を気にしなくてはならないのか、ということである。
妖忌の任は幽々子の資質を見極めることであって、平たく言ってしまえば幽々子と関わる必要は一切ない。だから妖忌が幽々子に何かしてやる必要があるかと言えば実の所、ないというのが解答となる。
さりとて妖忌は刃物以外は不器用な男だし、それを指摘することはとりあえずの答えを見出した妖忌を悪戯に混乱させるだけ。
まあいつか気付くでしょうと紫は追及をやめ、園丁のくせに日増しに料理の腕を上げていく妖忌をからかうことに専念し始めた。
▼9.鳴声、呼声、泣声 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「…で、姫君の、資質は、どうであった?」
背後で荒い息をしている都市王が行きも絶え絶えに妖忌に訊ねる。
細雪が大粒の雪に変わり、深々と降り積もってあたりを白く染め上げる季節。
秋の紫との酒宴以降、己の立ち位置を決めた妖忌は精彩を取り戻した。もとより愚直な男である、混迷から脱出すれば一直線だ。
だが残念な事にそれからあっという間に郷は冬将軍の支配下に置かれてしまった。こうなってしまうともう園丁はもうやることがない。全てが白い雪の下に埋まってしまうのだから当然である。
冬の間は妖忌は屋敷を訪れなくとも構わないと言われていたものの、屋敷に残る住人達の体力膂力を慮ればそうもいくまい。
屋敷の雪掻きを自主的に行っていた妖忌ではあるが、つかの間の晴れを利用して大焦熱地獄に経過の報告に向かったのである。
相手の顔を見るなり西行寺の屋敷を最初に訪れたときの感情が甦り、妖忌は拳を硬く握って流れるように都市王の顔面へと拳をめり込ませた。
そのまま売り言葉に買い言葉。二人は乱戦へと縺れ込み数刻の凌ぎ合いの後、今は互いの背を背に座り込んで荒い息を吐いてるという有様だ。
「…正直な、話、死神も、当主も、無理そうだ。文字通り、虫も殺せぬ、少女よ」
正直に思った所を妖忌は口にする。
半年にわたって幽々子の事を見てきたが、その間幽々子は一回もその死をもたらすと言う能力を発揮しなかった。
能力を発揮する機会が無かった、と言うのもあるだろうが、それでも鬱陶しい羽虫一匹殺すぐらいはやってもよさそうなものである。
それすらしないということは、おそらく幽々子は己の能力を好いてはいないという事なのだろう。
さもあらん。死をもたらす能力など、ただの人には荷が勝とうというものだ。
「…まあそれでもよい、殺人嗜好者でなければな。死神は無理でも当主は可能だろう。いつでも殺せる、と言う能力があればそれだけで重圧になる。多少気が弱くても能力がそれを補填できよう」
「そうかも知れん。向いてはいないが不可能ではないな。で、どうする?」
「しばらくは現状維持だ。冥界西行寺も具体的な行動は起こしていないから、引き続き彼女を護衛していてくれ。不慮の事故なんかで失いたくないのでな」
「護衛か…」
「不満そうだな」
「まあな、退屈すぎて時折死にそうになる」
「それも仕事の内、だ。報酬に色はつけるから我慢しろ。本人にはまだその話は告げるなよ?ああでも、なるべく姫君とは仲良くなっておいてくれ」
「何故だ?」
「そのほうが、いざと言うとき動かしやすかろう?おぬしを通して依頼をする事で」
背後の彼は人好きのしない笑みを浮かべているに違いない。この政治家めが、と妖忌は頭を振る。
だがまぁ、都市王の思考は都市王のもの。それを妖忌が丸々映す必要もない。であれば妖忌もまた都市王を利用するまでだ。
こいつの権力ならば、手に入れにくい物でもわりと入手が可能だ。幽々子の顔を思い浮かべて、妖忌の口から突いて出た言葉は、
「唐菓子を大量に用意しろ」
「ご機嫌取りか?」
「そうだ。己が少女に気に入られるような性格をしていると思うか?」
「…思えないな。仕方ない、用意しよう」
「なるべく保存を効く物を、大量にな」
「わかったわかった」
糖の効いた菓子はこの時代高級品であるが、大陸と繋がりが深い仏神である彼なら多種多様の唐菓子を用意できるだろう。幽々子も喜ぶに違いない。
悪くない土産が出来た、と妖忌は静かに笑う。
背中越しにその笑いを感じ取った都市王は妖忌の若干の変化に気がついたものの特に口を差し挟まず、どんな唐菓子を用意すれば女子に受けるか、友神である毘沙門天、その御使いの小動物のような従者に聞いてみようかなどと思考をめぐらせていた。
◆ ◆ ◆
純白で全てを埋め尽くしていた豪雪が粉雪へと変わってそして消え去り、身を切るような寒さの風が温かみを増して誰もが春の伊吹を感じられる様になった頃。
既に住み慣れたあばら家で一人晩酌をしていた妖忌はふと何者かの声を聞いたような気がした。
妖忌の周りには誰もいない。気配もなく妖忌に声をかける事が出来そうな唯一の妖怪は未だ冬眠中だろう。
式にかなりの力を割いて以降、眠くて仕方ないと語っていた彼女はそうそう春のうちに目を覚ましたりはしまい。
はて、と耳を欹てた妖忌であったが、特に何者の声も聞こえてこない。幻聴か?と思い、庭園の完成予想図に意識を向けた妖忌であったが、
再び、何者かの声を耳にする。
いや、それは耳にしたのではない。鼓膜ではなく、心へと直接響いてくる声であった。
それは囁く様に、浸透するように妖忌の心へと吸い込まれていく。
「良いだろう、行ってくれる」
短刀友成を腰に佩き徳利杯を手にし、防寒用に特別に仕立てた厚手の狩衣を羽織る。
あばら家を後にし、導かれるように歩を進めた妖忌が辿り着いたのは既に通い慣れたる西行寺の邸宅である。
その西側の塀、そこにあるそれを視界に納めた妖忌の産毛が一瞬、ぞわりと逆立った。日中にはまだ、それはそんな姿ではなかった筈である。
ごつごつとした樹皮に覆われた太い幹、そこから伸びる節くれだった枝は幾重にも分岐し、折り重なったその先には垂れ下がらんばかりの満開の花。
その樹のつける花は月の光を照り返して淡く輝き、白雪残る西行寺の風景と調和して幽玄なれど厳かに佇む。
流れる風を受けた花が静かに揺らめき、淡い花弁がふわりと踊り閃きながら宙を舞う。
西行妖。西行寺家を西行寺家足らしめる象徴たる妖樹。美しくも呪わしい、全ての感情を淡墨に染め上げるような典雅たる闇。
それはたった一夜のうちに蕾から満開の桜へと姿を変えていた。
「貴様か、己を呼んだのは」
ほぅ、と妖忌は溜息をつき、築地塀を突き破って屋敷の外にはみ出した西行妖の根元に腰を下ろす。
そこから見上げる桜もまた、息をのむほど美しい。
「で、来たが?これからどうするのだ?」
くくっと妖忌は苦笑を洩らす。成る程、妖忌や紫を殺すには些か物足りない。
確かに心の隅に、僅かに死を望む感情が湧き上がっている。これ以上無駄に人斬りを重ねるのか?と。
斬殺死体を増やすだけしか能のない己に生きる意味があるはずも無い。ならば死んでしまえ。死んでこの美しい桜の一部となれ、と。
だが、それを一息で妖忌は斬って捨てる。
「くだらぬ。生きるという事は殺すという事だ。己も貴様も、それは同じよ」
「言葉は通じぬか。まあ、どうでもいいことだ」
そう、どうでもいいことだ。妖忌にとってはただ美しい花がそこにある。それだけである。
僅かながら体力を吸われているような感もあるが、それも紫の言うとおり人より強靭な半人半霊なら食って寝れば回復する程度。全く脅威にならない。
それどころか半人半霊、半分死んでいる影響か、匂い立つ死臭漂うこの場所は妖忌にとって奇妙に居心地が良いのである。
であれば忌むべきものなど何もない、花見酒と洒落込もうか。同席できそうな友人は未だ冬眠の真っ最中だろうから些か物悲しいが。
そう結論付けた妖忌は一人酒をあおる。これだけの桜を独り占め、というのも悪くはないものだ。
そのうちだんだんと眠気が増してきてあばら家に帰るのが億劫になった妖忌は、そのまま静かに眠りに落ちる事を選択する、というか意識を放棄する。
なに、一人旅の間はいつもそうしてきた、いまさら風邪などひくまいよ…
◆ ◆ ◆
こーん、こーんと、石を削る音が妖忌の耳に響き渡っている。それに交じるように誰かの声が聞こえてくる。
「……様!」
誰かね?見れば分かるであろう、今拙者は石の加工で忙しいのだ。後にしてくれんか。
石の中にある形を見つけ、違う事無く表に出すというのはなかなか難しいのである。今年こそは滝を完成させねば、幽々子様に合わせる顔が無い。
「…忌様!」
だから待てといっておろうに。
都市王から大量に渡された唐菓子はやはりというか、幽々子に喜んでもらえたが、それはあくまで都市王が用意したもの。己自身が何かしたわけではない。
それはなんとなく悔しいじゃないか。この悔しさを払拭するには己の作品でもって幽々子に喜んでもらうより他無かろう。
…はてさて、この感情はなんだろうか?負けず嫌いの男の意地だろうか?それとも…
「妖忌!目を開けなさい!」
◆ ◆ ◆
頬に鈍い痛みが走る。
それと同時に妖忌ははっと目を覚ました。
何時の間にやらそれなりの時が経過していたようで、妖忌の上には幾許かの桜の花弁が積もって妖忌を斑な桜色に染め上げている。
気付けば加工していた筈の石も手にしていた槌ものみもない。
夢、か。
はたして、あのまま夢を見続けていれば、この感情に答えは出たのだろうか?
夢の中で削り続けていた石は、すなわち妖忌の心の形は、はたしてどんな姿になったのだろうか?
だがそんな感慨に浸る時間も余裕も妖忌には無かった。
目の前で、西行寺幽々子が泣いているのだから。
「こ、これは幽々子様、如何致しました?…と、いや、まずはこのような場所で眠りこけてしまい申し訳ありませぬ」
いくら酒を飲んで寝てたとはいえ、妖忌がここまで他者の接近を許すはずもない。誰かが近づいてきても即座に気配を読み取れ、目を覚ませる筈だった妖忌はしかし幽々子の接近に気がつかなかった。
それほどまでに西行妖の気配と幽々子の気配はそっくりだったのである。
だがそんな事実は何の言い訳にもならない。とりあえず非礼を詫びる意味で謝罪を述べるものの、それを口にしてから改めて妖忌は己の愚行を悟った。
西行妖は、人を死に誘う妖怪桜なのだ。そんな桜の元で眠りこけている様が傍から見ればどう映るかなど、考えるまでも無いではないか。
ましてや卓越した武人である妖忌は、眠っているときですら死人のように息と気配を殺すことが出来る。はたから見れば死んでいると思われても仕方が無い。
棟梁の座を義理の息子に譲ってから妖忌は一人旅を続けていた。そのせいで己の行動が他者にどう印象を与えるか、という事に対する注意が随分と疎かになっていたのだ。
結果、この様である。妖忌の無恥に対する罰は、割と妖忌にとって最悪な形で与えられたようだ。
「ああ、ああ、配慮が足らず申し訳ありませんでした。どうか泣き止んでくだされ」
彼女の父親は、この桜の下で死を迎えたのだ。動かぬ妖忌を見て何を思ったか、そのときの幽々子の心境を慮れば何遍土下座したとて足りるものではないだろう。
幽々子は何も語らない。ただ立ち上がった妖忌の胸に顔を埋めて、童のように泣きじゃくるばかり。
妖忌は身動きが取れない。唯一自由になる手でどうするべきなのか。頭をなでてやるべきか、それとも抱きしめるべきか。
頬の痛みと、幽々子の嗚咽だけが妖忌の中を木霊しているのみでどうしていいか分からない。
だが何もせず流されるだけなど妖忌の生き方に非ず。何であろうと選択し、前に進まねばそれは死んでるのと同じ事。
故に妖忌は歩を止める思考を放棄して、己の感情に全てをゆだねる。幽々子の肩を抱いて、静かに語りかけた。
「御安心くだされ。拙者は何があろうと幽々子様より先に死ぬ事はございません」
先に謝るべきだろうとか、思い上がっているんじゃないだろうとかそんな愚考は後回し。ただ口にしようと思った事だけを口にする。
はてさてその言葉は効果があったのかなかったのか、肩に回した手から幽々子の震えがおさまりつつあることを把握して妖忌はほっとする。
「ほ゛んどうに゛、じにま゛ぜんか」
「二言はございませぬ」
ろくに声になっていない声に、はっきりと断言する。それを耳にした幽々子の体がふっと重くなった。
どうやら安心して脱力してしまったようで、足に力が入らない幽々子を妖忌は抱き上げた。
幽々子の顔が朱に染まる。果たしてそれは抱き上げられた事に対する反応か、それとも涙と鼻水で酷い事になっているであろう顔を見られたことに対する反応か。
軽く幽々子に微笑んで、妖忌は幽々子を抱いたまま築地塀に沿って門を目指し歩き出した。西行妖は西行寺家の塀の一部を粉砕して屹立している為にその隙間から庭園内に入れはするのだが、
あまり広い隙間とも言えないため幽々子を抱いたままでは無理があるし、それに幽々子が落ち着くまではこうしていたい。だからぐるりと大回りをする。
「どうやらあの桜もまた、拙者を殺すには至らぬようです。故に御心配召されるな」
そう語る妖忌に声を返そうとして、幽々子は先ほどの自分の酷い鼻声を思い出した。目の前にある布でずびーと鼻をかむ。
それは当然のように妖忌の着衣であるのだが未だ絶望と混乱の渦から逃れ切れていない幽々子には気がつかなかった。
「…妖忌もまた、私を置いて死んでしまうのかと思いました。でも、そういえば妖忌には死に誘う能力は効かないのでしたね。…取り乱してしまってすみません」
思い出したように幽々子は未だ赤い目を瞬かせる。
実際は幽々子と西行妖の能力は異なるし、力が足らないだけで西行妖は妖忌を殺せるのだが、それを言ったら幽々子は再度混乱するだろう。
だから妖忌は静かに幽々子に頷いた。どうせ西行妖も妖忌を殺しきれないのだから結果としては同じである。
「すみませぬ。幽々子様には危険を冒させてしまいましたな。幽々子様の命を危険に晒すなど、もはやどうお詫びすれば良いやら」
その謝罪に幽々子はきょとんとした顔を浮かべていたが、
「え?いえ、違います。私はなぜか西行妖に死に誘われないので」
「ほう」
そういえば西行妖が妖樹と化すと共に幽々子は死を操る能力を得た、と紫が言っていた事を妖忌は思い出した。
成る程、幽々子の父親の死をきっかけに妖怪としての生を歩み始めた西行妖と幽々子は姉妹のような物なのかもしれない。…姉弟かもしれないが。
人を死に誘う妖樹を切らずに残してあるのは、それが父の形見、というだけでなくそういった感情もあるのだろうか。
「そういえば、何故幽々子様はあそこに?」
「ふと目が覚めたら毎年恒例の声が聞こえたもので。屋敷の者達はあれに近づけませんし、ちょっと様子を見ようかと…」
そう語った幽々子はそこで言葉を切って身震いをする。魂が凍りついたかのような、桜の元にいる妖忌を目にした瞬間を思い出したのだろう。
密着している妖忌にも幽々子の震えが伝わってくる。妖忌は謝罪を繰り返そうとするが、目を合わせた幽々子に制されてしまった。
仕方無しに黙って歩を進める。
「も、もう大丈夫です、歩けます」
門を目の前にして、幽々子は顔を赤らめる。流石に童のように抱かれたまま屋敷の者達と対面するのは恥ずかしいようだ。
ではと妖忌は幽々子をおろし、閉ざされたままの門を見る。まだ日も昇り始めぬ時刻、いくら老人の朝が早いとて屋敷の者達は目覚めていないようである。幽々子の心配は杞憂だったようだ。
故に未だ門には閂がかかったまま。ならばと妖忌は短刀を抜き、静と閂を切り落として門を開く。
「お見事です。が…確か妖忌は半人半霊なので空が飛べたのでは?」
「あ」
幽々子の指摘に妖忌は呆然とする。その通り、飛んで中に入って閂を外せばよかったのだ。
どうにも己には障害は全て切ればよいという思考があるようだ、とその短絡さに恥じ入った妖忌は肩をすくめる。
そんな妖忌を目にしてようやく幽々子はほころぶような微笑を見せた。
「と、とりあえず幽々子様は先に屋敷の中へお入りくだされ」
「妖忌はどうするのですか?」
「閉められぬ門をこのまま放置しては置けぬでしょう。ここで誰かが目を覚ますのを待ち申す」
「では、御一緒しますね」
自身の醜態に溜息をつきながら腰を下ろした妖忌の傍に、幽々子もまた腰を下ろす。
言っても聞くまいな、と妖忌は己の羽織っていた短めかつ厚手に拵えた狩衣を脱いで幽々子に羽織らせる。
その狩衣の胸元についた、鼻をかんだ跡を目にした幽々子は顔を赤らめて縮こまった。
10.望むは殺意、臨むは決意~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「少し、妖忌の話が聞きたいです」
手のひらに白い息を吐きかけながら、幽々子はそう妖忌に持ちかけてきた。
妖忌はどちらかといえば沈黙を気にしない、いやむしろ愛する方であった。自分が語るのもそう好まぬし、相手の言葉に相槌を打つのもそう得意ではない。
だから幽々子の提案は妖忌にとってあまり喜ばしいものではなかったが、されど先ほどから幽々子に心配ばかりかけている妖忌には幽々子の提案を断れるはずもない。
「構いませぬが、あまり能弁なほうでもありませぬゆえ、何を話してよいやら」
「では、こちらから質問した事に応答する、というのは如何ですか?」
幽々子の桜枝を煮出したかのような濃桜色の瞳に喜びの光が揺れた。おそらくは最初からそれが目的だったのだろう、と妖忌は苦笑する。
「ええ、答えられる範囲であれば」
それではと幽々子は前置きすると、妖忌の顔色をおずおずと伺いながらも、しかしいきなり本陣へと踏み込んできた。
「妖忌は、再婚はしないのでしょうか」
妖忌は幽々子に目線を向ける。もしその話題を振ってきたのがそれを寝殿で談笑の種とする貴婦人方であったのなら、妖忌は間違いなく問答無用で鉄拳を叩き込んでいただろう。
だが幽々子の視線は好奇心や享楽といったものは一切なく、まるで我が事の様に真剣な面持ちを浮かべている。
深呼吸し、楽しい話にはなりませんが、と前置きして妖忌は己の内心を吐露し始めた。
「一言で言ってしまえば、拙者は怖いのです」
「怖い、ですか。女性がですか?」
「いやいや…いや、女性が怖い事はよく存じ上げておりますが」
妖忌の脳裏に微笑みすらも恐ろしい友人の顔が浮かびあがる。はてさて、こんな光景を見られたらまた延々からかわれるに違いない。
妖忌が戦慄している様の意味が分からずに小首をかしげている幽々子の視線を受け流した妖忌は軽くせきをして話の本筋に戻る。
「怖いのは拙者が、父のようになってしまうかもしれない、ということです」
いきなり妖忌の父の話をされても幽々子にはさっぱりである。
だがこれから説明があるのだろう、と疑問符を顔に浮かべながらも黙って妖忌の次の言葉を待っていた。
「元服の際、拙者は今の名を父から貰いました。妖忌、と。この名の意味がお分かりになられますか?」
「…妖を忌め、ですか?」
「その通りです。妖怪を忌め、妖怪を厭え、妖怪を斬れ。幼い頃からそう延々と父に教えられました。…憎しみと共に、斬魔刀であれと」
幽々子が隣で息を飲んだのが分かる。少し、間を置いて妖忌は続けた。
「拙者にとっては、良き父ではありませんでした。ただひたすらに妖怪を斬れと語り、拙者に剣技を仕込む父はまるで熱病に浮かされる病人のようでもありました…ああ、そのような顔をなされるな。剣の修行そのものは嫌いではありませなんだし、なによりそれでも拙者は父には愛され、大切にされていたのですから」
そう、愛されていた。されどそれはまるで大事な道具を労わるかのように。子として愛されたのではなく、道具として愛されたのだ。
しかしそれらのことは口に出さず妖忌は話を続ける。
「親戚が言うには、元々は父はそれは心優しい者だったそうです。剣士として失格な位に。そう、妻が、つまり拙者の母が妖怪に殺されるまでは」
「!」
「もうお分かりでしょう。恋は魔物である、と拙者の友人は申しておりました。拙者もそう思います。拙者は、父のようにはなりたくないのです」
半人半霊もまた人間から見れば妖怪と大差はない。幼心にも妖忌はそれを理解していたので、妖怪を殺せという父の有り様は実際の所滑稽ですらあった。
「拙者の妻は病死でした。その時既に四十を超えていたので、寿命だったのかもしれませぬ。妻の死に、拙者はそれはもう赤子のように泣き申した。せがれが「あれはお前の一生の恥だな」と申すくらいには」
幽々子は何も言わない。黙って妖忌の言葉に耳を傾ける。
「ですがもし妻の命を奪ったのが病魔でなく、五体ある生物の形をとっていたら、妻の遺体の横であざ笑っていたら。拙者は父のようにならずにいられたのだろうか、そう慄然としたのです。そしてその時に悟りました。拙者には、最早人を愛する事は出来ないと。父に刀として育てられた拙者はすなわち奪う側なのですから。母の命を奪ったものと同じ、誰かの命を奪う物です。そしてそれが分かっていながらも」
妖忌は上半身全てを使って深く深呼吸する。
「拙者は刀である事をやめられない。それしか、拙者にはないのです。それだけしか幼少の頃より積み上げてきた物がないのですから、それを捨てては拙者には何もなくなってしまう」
幽々子は震えていた。妖忌の言葉に対してか、それとも寒さゆえか。
半人半霊、人より体温は低かれど初春の夜風よりかは暖かい。妖忌は腕を伸ばし、幽々子を抱き寄せる。幽々子は、抵抗しなかった。
「すみませぬ、少々話が逸れてしまいましたな。まぁこれが拙者が再婚をしない理由でしょうか」
そう語り終えた妖忌は、少しだけ胸の奥が軽くなっているのを感じた。それと同時に自身の行動に疑問も感じる。
なぜ、己は娘夫婦や紫にも話した事がないこの感情を、幽々子に吐露してしまったのだろうかと。
共に父親に一個人として見向きもされなかった者としての共感だろうか?
「妖忌でも、その恐怖は切り開けないのですか?」
「自分自身を斬ってのけることは、刀には出来ませぬ。刀に出来る事は精々、使い手の魂を宿す程度でございましょう」
妖忌は戦を好む性分ではあるが、一般の武芸を志す者たちと異なりさほど強さと言うものには関心がなかった。
斬れる物は斬れるし、斬れぬ者は斬れぬ、ただそれだけ。それは父親に刀として育てられた結果かもしれない。砥ぎ師が刀を砥ぐかのように、黙々と己をみがいて来たのである。
されどその身は刀であるから、みがいた結果は試してみたい。斬れるものを斬るのは楽しいし、斬れぬ物を斬らぬのはつまらぬ。斬れるか斬れぬかは判断するが、斬って良いか悪いかは判断しない。
そういう意味ではみがいては試す、みがいては試すを繰り返すそのあり方は強さを求める求道者よりはるかに性質が悪い。
そんな己が求めているのは…
「拙者は、主を求めているのでしょうな。刀としての己を正しく導いてくれる主を」
ぽつり、と妖忌は呟いた。
この世に生まれ出でて二百に届こうかという妖忌である。今更そうそう生き方を変える事は出来ない。
刀である妖忌は、もう死ぬまで刀であろう。妖忌が重ねてきた人生はただ斬り捨てるだけ、何も生み出せぬ人生でありながら、しかして積み重ねてきたそれを否定できない。
であるならば、妖忌は己を正しく振るってくれる主を探しているのだろう。
そんな妖忌の発言に、幽々子はぽんと手のひらを打ち合わせ、心得たかのようにその立派な胸を張って妖忌に宣言した。
「あ、じゃあ私が妖忌の主になりましょう」
「…えーー?」
「…やっぱり不満ですか?ええと、たしかに正も邪も分かりませんし、園丁の分と随人の分、二人分の禄は出せませんが…」
「誰も禄の話などしておりませぬが…幽々子様は斬りたいものなど御座いませんでしょう?幽々子様が主では拙者はこれより一生何も斬る事が出来ませんでしょうに。刀は、斬るべきものを、斬るものです」
「刀は、斬るものなのですか?」
不思議そうに、かつ若干悲しそうに幽々子は訊ねる。
当たり前とばかりに妖忌は首肯した。
「当然で御座いましょう。刀はただの殺傷兵器です。ゆえに、誰を、何を斬って良いか。それを正確に判断してくれる主を求めているのでしょう」
「…では、やはり私が妖忌の主となりましょう」
「幽々子様、人の話を聞いておられましたか?」
「斬って良い命など、ありません」
静かに、きっぱりと幽々子は言い切った。
「そのような事はありませぬでしょう。我等は生きるため、鳥を、獣を殺しましょうに」
「生きるために他者の命を取り込む。それは確かに自然の定め、致し方ないことでしょう。ですがそれとて斬って「良い」命ではないでしょう?」
「…然り」
「斬って良い命などありません。斬るほうも、斬られたほうも幸せになれるとは思えません。血に濡れた刀より、椿油に濡れた刀のほうが美しくはありませんか?」
「…ですが、刀は斬る事を望んで生み出されます」
「なるほど、刀は殺傷兵器かもしれません。ですが血を吸って錆び、傷を負い、ついには折れる刀と、死蔵される刀。生まれた意義を果たして急逝する刀と、生まれた目的を果たせないで死蔵され時を重ねる刀は、どちらが幸せを感じるでしょうか?生み出したものの意図を反映することだけが、喜びでしょうか?」
貴族の娘として一度も刃を振るった事が無く、父から与えられた守り刀を大切な宝としてきた幽々子と、戦乱に明け暮れ、太刀を大事にすれど使い捨ててきた妖忌では絶対的な意見の差があった。
だが、両者が所有しているそのどちらもが刀であり、どちらかが本物でどちらかが偽者であるというわけではないのである。
「刀の刃は鋭すぎて、人と人との繋がりをもあっさりと斬ってしまいます。…だから斬らずにいられるならば、斬らないほうが美しい。そう、思います」
「たとえそれで振るい手が傷つくことになったとしても?」
「強き振るい手と立派な太刀。二つ揃えば抜かぬとて、他者を圧倒できましょう。…もっとも、私は悲しいまでに貧弱ですが」
偉そうな事を語ったとばかりに、幽々子は若干恐縮した表情で、しかしそれが本心である事を示すように静かに笑っている。
妖忌は呻いた。結局のところ武器であることが疑いない太刀であってすら、所有者の意図する所がそのあり方であるのだ。当人が御守りと思えば、それは御守りなのである。
刀は斬るべきもの、という思考すら、もしかしたら父の怨念によって制御された思考であるのかもしれない。
そう考える一方で、幽々子の言うことが全て正しいとも妖忌は思っていない。少女の語った事は、全て戦を体験した事の無い者の奇麗事にすぎないからだ。
だが、奇麗事ならば鼻で笑い飛ばして良いものだろうか?それを美しい、と感じるからそれは奇麗事なのではないだろうか?
それを忠実に体現できれば、やはり美しいのではないだろうか?それを試してみる事には、意味がない?
「私が立派な振るい手になれるかはともかく、妖忌は美しい太刀になれますよ」
多分、己が幽々子の求める様な形におさまることはないだろう、と自分の気性を良く知っている妖忌は理解している。
だからと言って、奇麗事を試さずに最初から奇麗事なんぞ、と切り捨ててしまうのも如何なものか。
で、あるならば。今までと違う目線で見てみるのもよいかもしれない。何者も斬らぬ事を望む彼女を、主と仰いでみるか?
そう考えた妖忌だったが、一方で幽々子と会話を続けるうちにかつての疑問が再燃してくるのを感じていた。
すなわち、何故ここまで幽々子は己に好意的なのだろうか、ということである。
ちょうどよい、これを機に直接幽々子に訪ねてしまおうと妖忌は目を細めて幽々子の瞳を覗き込んだ。
「幽々子様、主云々の前に拙者も一つ幽々子様に質問があるのですが、よろしいでしょうか?」
「主としての軽重を問われるわけですね?よろしい、なんでもお答えしましょう」
むむむ、としかめっ面を作りながらも幽々子は口元をほころばせている。その幽々子の表情に苦笑して、妖忌は西行寺家園丁着任以来の疑問を幽々子に投げかけた。
「幽々子様は、なぜそうも拙者を信用なさっておいでなのですか?正直、些か過剰にすぎるように拙者には思われるのですが」
可能な限り何気ない口調で質問を投げかけた妖忌だったが、相手の反応に疑念を抱かざるを得なかった。幽々子は、その問いに対して一瞬だけだがはっとした表情を浮かべたのである。
それはあたかも、痛いところを突かれたといわんばかりの表情であった。
「…そう、でしょうか?特にそんな事はないと思うのですが」
いつもの微笑を浮かべてそう答える幽々子の表情はしかし若干芝居めいていて、まるで後ろめたさを隠しているようであった。それが妖忌の疑念を助長する。
単純に父親代わりや、己を恐れない人間を求めていた、というのであればこのような反応にはなるまい。
ならばと妖忌もまた一芝居打つ。
「成る程、では幽々子様は縁もゆかりもない相手をあっさりと信用なさるのですか。それは些か不用心過ぎますな。ほれ、このように」
語ると同時に幽々子の両手首を掴んで幽々子を大地に組み伏せて、その上に圧し掛かる。
「あまり良く知りもしない人を信用せぬ事です。人を信用できるのは美徳ですが、相手を見ずして信用するは愚かと言わざるを得ませぬ」
幽々子の体温を着物越しに感じながらそう語った妖忌だったが、しかし彼女の反応が予想と大きく異なっている事に気がついていぶかしんだ。
幽々子は妖忌に自由を奪われ、組み伏せられた状態ながら全く動じる様子がなかったのだ。
先ほど妖忌の目の前で泣きじゃくっていた少女と同一人物とは思えないほどのその落ち着き払った態度に、妖忌はあたかも相手に飲み込まれたかのような錯覚を抱いた。
「…改めてお願いがあるのです」
とはいえこれでは埒が明かぬ、ならば着衣に手をかけるふりでもしようかと考えていた妖忌の思考を先回りするかのように、幽々子が口を開いた。
「なんでしょうか?」
「我々西行寺一同の、守り刀になってはいただけないでしょうか?もし引き受けていただけるのであれば、私が持てるものはなんであれ、すべて妖忌に差し上げます。…私自身も含めて」
「ほう?」
「一点、私は妖忌に謝罪せねばならないことがあります。私は妖忌に二回目に会ったときから、貴方に好かれようと些かの演技も含めて振舞っておりました。これに関しては今まで貴方を欺いたと同じ事。今更申開きのしようもありませんので、ただ謝罪するばかりにございます」
身動きの取れない幽々子は、表情だけで陳謝する。
幽々子の声は決意と誠意に満ちており、そこには一片の嘘も詭弁も込められていない様であった。
「私は、形式だけとはいえ、落ちぶれた一門とはいえ、一族の頂点たる当主です。その私には屋敷の者達を守らなければならない義務があります。今屋敷に居る者達は、今は亡き父とのかりそめの絆の証である西行妖を捨て置けないと語る愚かな私に付き合っているがために、人里に、妖怪に襲われずに住める場所に住む事が出来なくなってしまった者達です」
幽々子はまっすぐ妖忌の目を見つめながら言葉を紡ぐ。その揺るがぬ瞳に妖忌は驚きを隠せない。
これほど澄んだ瞳は長年生きてきた妖忌ですらほとんど目にした事はなかった。ましてや、年いかぬ少女のそれとあっては。
「今は人妖等しく私の能力を過大評価しています。ゆえに人里離れたこの屋敷も人妖暴漢に襲われる事はありませんが、それもいつまで持つか分かりません。さりとて」
幽々子は組み伏せられた状態で軽く深呼吸をする。
「我々は他に己の身を守る術を知りません。だから、何よりも強き護衛を望んでいるのです。私にとって妖忌の存在はまさに渡りに船。
…私が死ぬまで、とは申しません。せめて親族使用人が皆寿命にて冥府へ旅立つまで、心優しき彼等をお守りください。
その見返りに私は可能なものは全て妖忌に提供する心積もりです。お望みとあらば、なんであれ」
静かな、そして揺るぎのない声で幽々子は妖忌にそう告げた。
――目の前の少女は経験も知識も不足しているうえに若干自己犠牲の嫌いがあるものの、十分に当主としての格を備えている――
妖忌は己の目算を修正しなければならないようであった。
にしても、芝居をしていた、か。
一体何処までが本心で、どこからが芝居だったのか。幽々子とのこれまでを思い返してみても妖忌には全くその区別がつかない。
(お主の申したとおり、やはり女は恐ろしいなぁ、妹紅よ)
幽々子の芝居の前では、今の妖忌の振る舞いなど童の遊戯にも等しい。最初っから本気でない事など見抜かれていたのだろう。
妖忌は幽々子の拘束を解き、起き上がらせる。
「続けないのですか?」
「続けて欲しかったのですか?」
何気なく訊ねてしまってから、馬鹿な事を言った、と幽々子は赤面した。
つい普段通り返してしまってから、馬鹿な事を聞いた、と妖忌は赤面した。
そのまま、どちらから言を発する事もなく、数刻前のように肩を並べて門前の小階段に座している。
ややあって、幽々子が意を決したかのように口を開いた。
「私の守り刀になってくれますか?魂魄妖忌」
それも、悪くないかもしれない。
周囲の者達が己の幸福のために存在すると信じてやまない貴族の当主は腐るほど見てきたが、己が周囲の者達の幸福のために在らんとしている当主は妖忌は初めて目にした。
もし今日語った内容まで芝居だったとしたら、とも考えたのだが、すぐに妖忌はその考えを振り払った。先ほどの言すら嘘であれば、幽々子が妖忌を手元に置きたがる理由などない。
だから、恐々とした表情を浮かべている幽々子に微笑んで、口を開く。かしずいてみようかとも思ったが、たぶん幽々子はそういうのは好きじゃないだろう。肩を並べたまま、しかしはっきりと己の意思を言葉に乗せる。
「誠心誠意、お努めいたしましょう、我が主よ。…しかしその言葉遣いはいただけませぬな。配下に敬語を使っては御身の立つ瀬がございませぬぞ?」
彼等は至近で互いに笑顔を交し合い、その後はやはり言葉を発する事もなく、目を覚ました使用人が見回りにやってくるまでただ肩を寄せ合って、少しずつ白くなりゆく空を飽きる事無く眺めていた。
▼11.水増す雨の ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「妖忌殿、少しお話があります」
梅雨ももう半ば、あともう少しで妖忌が庭師となって一年が経とうという頃、妖忌は西行寺の親族の一人に声をかけられた。
「なんでございましょうか?」
「立ち話もなんですので、屋敷の中にて」
そう語る親族――確か幽々子の伯父――の顔には真摯な、しかし若干の苦悩の篭った表情が浮かんでいる。その表情に妖忌は尋常ならざるものを見出した。
今現在、当主である幽々子は叔母や使用人と共に人里へ秋物の仕立てに向かっている。
里人から恐れられている西行寺とて物入りな物は物入りであるし、それを頑なに否とするほど里の住人も冷血ばかりではない。もっとも、進んでお近づきになりたいという者は流石にいなかったし、長時間の滞在はやはり煙たがられるのだが。
それはさておき当主のいない間に重要と思われる相談事、やはりこれは楽しいことではあるまい。出来ることなら遠慮したかったが、一使用人に過ぎぬ妖忌に断る事など出来はしないので。
くるりと己に背を向けたその者の背中に、妖忌は声に出さない溜息を投げかけた。
妖忌が案内された室内には幽々子と共に外出した親族を除く全員――と言っても三人だけだが――が既に座していた。
益々面倒なことになりそうだと妖忌は内心顔をしかめたが、表には出さずに彼らと正対する位置に正座する。
しばし、場に沈黙が揺蕩った。
目下の者から口を開くわけにもいかず、口を閉ざしていた妖忌が啓かれる事のない沈黙に辟易して口を開こうとした時。ようやく親族の中ではもっとも高齢で普段は床に伏している、幽々子の父方の祖父が口を開いた。
「話、というのは我等西行寺の当主、幽々子のこの先の事にございます」
噛み締めるように、その老爺は妖忌に語りかける。
「ご覧の通り、当西行寺家は最早消え行くのみの没落貴族にございます。若き者は去り、またもしくは桜の亡者となり、後を継ぐ者は先代の娘たる幽々子のみ。
我等はこのまま静かに終局を迎えることに肝胆迷いなどございませぬが、我等亡き後の幽々子の去就を思えばやすらけく眠る事も叶いませぬ」
そこで彼は一旦言葉を切る。そして息を吸うと厳かに次の言葉を紡いだ。
「故に、我等は幽々子の身を貴方に託すことに決めました」
「己にだと?!」
思わずその場に相応しからぬ言葉が妖忌の口をついて出てしまうが、それも致し方あるまい。一介の園丁に令嬢の身柄を預けるなどと、何故にそうなるのだ?
こいつらは阿呆か。そうに違いない。何が「故に」だ、故が一体何処にあった!?
憤慨し目まぐるしく表情を変える妖忌にも彼らは動じずに、そのまま沈黙を保つ。妖忌の言葉を待っているようだった。
「そもさん」
「…貴方がたは、ゆ…姫様を何処かの貴族に嫁がせようとしていたのではありませぬか?そのための教育を施していたのではありませぬか?」
「普段どおり幽々子とお呼びなさいませ。彼女がそう願ったのでしょう?」
「…」
その指摘に一つ拒絶の城壁を崩された妖忌は思わず呻く。
「確かに、最初はそのつもりでした。貴方が我等の屋敷を訪ね来る迄は」
しわがれた声でささやくように、妖忌に染み込ませるように老爺は語る。
「されど我等とて親の代よりこのような田舎に引き篭もりし身。満足のいく教育など施せませぬし、なによりあのように闊達な娘。貴族に嫁げば命は紡げましょうが、そこで幽々子が生きとし活ける事が出来るでしょうか?」
「それは…」
難しいだろうな、と妖忌も思う。幽々子は活発発地というわけではないが、そういった方向とは別の意味で枠に収まるような性格とも思えない。庭の趣味も歌も装束も壊滅的だし、…大喰らいだし。
「貴方と、時々幽々子の元を訪れてくださる貴方の御息女をこれまで見定めさせていただきました。貴方だけでなく貴方の御息女も屹とした御仁。御息女をそのように育てられた貴方は幽々子を託すに不足なし。我等は、そう結論付けました」
「いやいや、娘は…」
どちらかと言えば妖忌の娘は妖忌が育てたと言うより勝手に育っていった、と言ったほうが正しい位であった。正直な所、剣の手解き位しか妖忌はした覚えがない。
多分妖忌の妻に似たのだろう。勝手に育って勝手に立派になったのだ、と言ってもこの親族達は耳を貸してくれまいなと妖忌は肩をすくめる。
しかしまぁ、見定めに来たつもりが逆に見定められていたとは。その醜態に肩をすくめたまま苦笑する。
「実のところ」
苦笑する妖忌に軽く微笑を返し、話を続ける。
「これは最早決定事項なのです。我々は、貴方にこれを拒否させるつもりはありませぬ」
「拙者の都合などお構い無しに?」
「然様。されど同時に我等は貴方に幽々子を幸せにするよう、強制するつもりは御座いませぬ。貴方が幽々子をどうしようと我等は貴方を怨みますまい。
邪魔である、重荷であると感じたならば即座に打ち棄てて頂いても結構。それは貴方に託した我等の目利きが悪かっただけの事」
「…」
「我等にとって、貴方は幽々子を幸せにするための道具にすぎませぬ。思い通りに動かせなかったとて、それは使い手の問題。道具に罪はありませぬ」
表現は悪いものの、いやあえて妖忌を人とも捉えないような表現を用いたのだろう。彼等は妖忌を道具呼ばわりする事で妖忌には幽々子に対する責任を一切問わない、と明言しているのだ。
だがそれと同時に、妖忌が幽々子を打ち棄てられる様な性格ではない事も看過しているのだろう。妖忌ならば幽々子の幸せのために可能な限り尽力してくれるだろうと。
それは妖忌への配慮や謝罪を含み、されど幽々子の幸福を願う親族達の心の三重奏だった。
「御引受願えますでしょうか?」
「拒否できないのではありませなんだか?」
「然様に御座います」
されど、言葉とは裏腹に親族は揃って頭を垂れる。彼らの頭頂を見やって、妖忌は己の意思を告げる。
「全身全霊で、お断り申す」
その言葉に全員がはっとして頭を上げ、妖忌の顔を見る。
彼らの生気を失った表情を見渡して、妖忌は静かに笑う。
「拙者とて元は武者ゆえに命令される事には慣れておりますが、生憎道具扱は納得できかねる。貴族という者は何時もそう、命は道具ではござらぬというに。
あらゆる者を斬り捨てる我ら下郎とて、命を道具扱いはいたしませぬぞ。そのような扱いにはむかっ腹が立ち申す」
「それは…」
本心で妖忌を道具となど思っていないであろうが、さりとて今から言葉を覆すわけにはいかず、親族達は言葉に詰まってしまったようだった。
そんな彼等の血の気の引いた顔を見回して、妖忌は険しげな表情を崩した。あまりいじめるのも悪かろう。
「なので、拙者は拙者の意思でもって、幽々子様が幸せになれるよう後見として全力を尽くす事を約束いたしましょう」
どうやら、妖忌は普段自分が思っている以上にお人よしであったらしい。自ら城壁を崩してしまった。
だがどうせ妖忌はすでに西行寺幽々子を主と定めているのだ。ここに親族との約束が加わった所でどれほどの差があろうか?
「…よろしいのですか?」
責任を分かち合う、という妖忌に一人の親族――確か幽々子の叔父――がおずおずと問いかける。
「ええ。まあ幽々子様がそれを拒絶すればそれまでですが。なに、幽々子様が伴侶となる男を見つけるまで。見つけられねば三、四十年程幽々子様の御身を御守りすればよいのでしょう?
これでも長寿な身ゆえ、それぐらいであれば」
「ありがとうございます…!」
再度、一族揃って頭を垂れる。
妖忌は相手に顔が見えない事を良いことに呆れたような笑いを浮かべていた。
幽々子といい、この親族といい、全くもって似た者同士である。相手を思いやる心も、それを形にする方法もまるっきり同じだ。やはり、子は育ての親に似るのだろうか?
「ただまぁ、そうなると何処かへ稼ぎに出るわけにも行きませぬしなぁ。どうしたものか」
妖忌は胸中にふと浮かんだ疑問を呈するが、顔を上げた老人が心配ない、と首を振る。
「幽々子と、あと一人位はつつましく一生を終えられる程度の財産はかろうじて残してあります。御心配召されるな」
「成る程」
没落貴族と言えど、流石は元名家。その程度の貯えはあるという事か。うらやましい限りであると清貧を自称する妖忌は吐息を洩らし、将来ついでに己の任務を思い出した。
この親族に冥界行きの話をするべきかせざるべきか。妖忌は少し悩んだが、結局それは秘する事にした。いらぬ期待や心配をさせる事もあるまいと思ったし、
幽々子はその芯は強いものが在るが、他者に力を振るう事を厭う性格からして冥界行きはたぶん実現しないであろうから。然様な事を考えていた妖忌に幽々子の叔父が控えめに問いかける。
「いっそお気に召したのであれば妖忌殿に嫁にもらっていただければとも思うのですが」
「お前らもかい!」
ここにも紫予備軍がいるよ、と妖忌はまたしても言葉を選ぶ余裕のない悲鳴を上げる。
しかもこっちは紫のようにからかい半分ではなく割と本気である。確かに主従の誓いは済ませたとはいえ、婚姻となれば話は別だ。
なんでどいつもこいつも幽々子と己をそのように結び付けようとするのだ、と妖忌はほとほと呆れかえった。
意味の分からない親族一同はきょとんとした顔を浮かべている。
「貴方は…いえ貴方がたは愛娘をしがない下郎の、斬ることしか能がない血に汚れた人斬りの妻とする事をお望みか?もう少し真面目に考えられよ」
「我等は」
親族の中で最も若い(それでも五十近い)幽々子の伯父が、全員を代表して妖忌を睨むかの如き鋭さで見つめ返してくる。その眼差しには一点の曇りもなく、誠実さの錐でもって妖忌の心に突き刺さる。
残る者達も皆一様に彼とよく似た、真剣かつ嘘偽りのないと言わんばかりの表情を浮かべており、それはまるで彼らが一つの意思の元、完全に統一されているかのようであった。
「職も能力も問いませぬ。ただ、幽々子が幽々子を大切にしてくれる者の元へ在ることをこそ、望みます」
きっぱりと、言い切った。
それっきり誰も口を開く事はなく、その日の会談は幽々子に知られる事なく解散となった。
◆ ◆ ◆
それから二週間と経たず、初夏の暑けにやられたのだろうか。妖忌に後を託した西行寺家第二位の老人が静かにその天寿を全うした。
それはまるでようやく肩の荷を降ろすことが出来た、と言わんばかりの安らかな死に顔だった。
もはや残り少なく、肩を寄せ集まって生きてきた親族の死である。誰もが悲しみと慈しみの表情を浮かべていたが、今際の言葉が「西行寺家はこれから一日三食にするように」
と言うものであった事には皆少なからず苦笑させられた。
その葬式は粛々と進められ、深い悲しみと寂寥感をともなっていたが、しかし同時に祝福じみた奇妙な空気があるように妖忌には感じられた。
それを幽々子の叔母に尋ねたところ、返ってきた返事は以下のようなものであった。
「彼は西行妖の誘いを最後まで拒み、死に至りました。それはかの者が己の生に満足して死んで逝った、という事の証明に他なりません」
成る程、人を死に誘う桜ですら今なお館に残る西行寺にとっては己の生の価値を問う試金石にすぎない様だ。
それは並の人間とは比較にならぬほどの自信と自立と自尊に満ちた生を西行寺の者達が送っている証明に他ならない。
そんな者達に妖忌は幽々子を託されたのだ、妖忌にはもはや手を引くことなど出来はしない。
いいだろう。娘一人の未来すら切り開けなくて何の刀か。死者の魂を前に妖忌は決意を硬くする。
老人の霊が妖忌の目の前に現れて、笑っているような気がした。だがそれとて気のせいではないのかもしれない。
ここは西行寺家。死に親しみ、死を操り、死霊を導く一家の屋敷なのだから。
▼12.園丁 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
そして夏も終わりに近づき、節気が大暑に移り行こうと言う頃。
妖忌は黙々と庭の手入れを続けていた。
梅雨や台風と共に量を減らした西側の砂利を補填し、前栽が生い茂る東側の雑草を引き抜く。
段々と、今年の春に練った作庭計画が形になってきている。昨年の庭は単なる西行寺家庭園の復元に終わったから、これからが腕の見せ所。
西行妖以外、というか西行妖のせいで草木も生えぬ西側の扱いも含め、構想は十分。
西行寺家は来訪者も無く、祭儀を考慮せず平地や歩行路は最小限に抑えることができるため、草花だけでなく樹木の配置まで(西端を除き)庭の自由度は高い。
ここのところの妖忌はあれこれ草花を入れ替えてみたりと、美観を高める為に連日やりたい放題である。
今年こそ滝を作ろうか、作るまいかと屋敷北から流れ来る遣水を眺めながら妖忌がぼんやりと考えていると、背後に気配なく足音が現れる。
振り向くと寝殿の簀子で幽々子が妖忌のほうを見つめていた。
「今年こそ、滝を作りましょうかなぁ」
そう、幽々子に問いかける。
だが帰ってくるのは呆けたような返事だ。
「妖忌は本当に滝が好きなのね」
「いやいや、そういうわけではありませぬが、滝の音は活気を感じさせましょう?まだ拙者はこの庭に活気をもたらせていませんので」
「あら、そんな事ないわ」
はて、と妖忌は首をかしげる。
確かに若干庭に手を加えたりもしたが、この庭はまだ未完成な煩雑さに満ち満ちている。それを活気と言われるのは園丁として少々寂しいが…
そんな妖忌の疑念を他所に幽々子は微笑んだ。
「妖忌が庭にいるでしょう。それだけで十分活気があるというものよ」
あぁ、と妖忌は得心がいった。成る程、認識がすれ違っていた。
庭にいる妖忌にとっては己を含めない光景が庭だったが、寝殿から眺める幽々子にとってはそこで働く妖忌を含めた全体が庭だったというわけだ。
それに気付くと同時に、昨年の夏に川で拾ったあの丸くて白い石、景観にあまりにそぐわないから今は西の隅にひっそりと置かれている石。
あれに幽々子が何を見出していたのか、なんと見立てていたのかようやく妖忌は気がついた。
あれは、妖忌の半霊だ。
妖忌がいる庭が活気がある庭と言うならば、妖忌がいないときはこの庭は活気がない庭だ。
人を模した石などはそうそう存在しないが、半霊を模したかのような石ならばほれ、あのように存在する。
白い色合い、妖忌の半霊と大して変わらぬ大きさ。
あの石は幽々子にとって妖忌が庭に居ない時の妖忌の代理という見立てだったのだろう。
若干の気恥ずかしさを感じつつも、妖忌はその石を寝殿から目に付きやすい位置へと移動させる。つまりそこは庭の中央。
池に隣する松の樹の下、腰掛にちょうどよい大きさの石の上にそれを重ねる。幸い若干のくぼみにおさまり、その石はぐらつかず固定された。
これならばよほど酷い嵐でも来ない限り大丈夫だろう。
「如何でしょうか?」
屋敷へと歩を進め、簀子に立って庭を眺めている幽々子の傍に腰を下ろす。
奇妙な丸い石が設置され、若干風情がなくなった庭園を見つめながら幽々子に問いかけた。
「良いと思います」
幽々子が妖忌の隣に腰を下ろして笑顔を向ける。幽々子の笑顔に満足し、妖忌もまた幽々子に柔らかな微笑みを返した。
あとは、あれが無くとも活気がある庭である、と幽々子に言わしめるだけだ。
▼13.移調 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
平穏な、そして静かな一年が終わりを告げた。そう、この一年は特に問題とも呼べるような事も無く、ごく普通に過ぎ去っていったのである。
まぁその間には妖夢が言葉らしきものを発するようになり、やれどっちの名を呼んだなどと妖忌と妖忌の義理の息子が喧嘩して斬り合いにまで発展したり。
魂魄西行寺両家揃ってやれ妖夢の衵は青がいいだのいや赤だのと妖夢そっちのけで延々議論を続けた結果、放置された妖夢が泣き出してしまったり。
幽々子の叔父と妖忌がつい寝食を惜しんで双六に興じすぎた結果として叔母に賽を取り上げられたり。
妖忌と妖忌の息子が蹴鞠と称する弾の打ち合いで中門を破壊して妖忌の娘に膾にされたり。
ついうっかり幽々子の着替え中に出くわした妖忌が幽々子に蛸殴りにされたり。
式神八雲藍の作成に息詰まったのか紫が歌いながら現れ、歌いながら去って行く様に幽々子と顔を見合わせてしばし呆然としたりと色々あるにはあったのだが、そんなものは些細な事である。
少なくとも、西行寺家と魂魄家には交流があり、平穏があり、そして幸福があったのだから。
八雲家?さぁ、どうだろう。
◆ ◆ ◆
そして降り積もる豪雪もそろそろ終局の様相を呈し、突き刺さるような冬の風がなんとなく温かみを帯びてきたかのように感じられ始めた頃。
屋根から庭へと落とされた雪を淡々と処理していた妖忌は幽々子の叔父に声をかけられた。
彼が申すには珍しい事に来客があり、当主たる幽々子に謁見を求めているらしいので念のため護衛代わりに同席して欲しいとのことだった。
寝殿前に通され、自らを流浪の商人であると名乗ったその男は自己紹介も程々にこう幽々子に依頼してきたのである。
曰く、
「妖怪を一匹、貴方様のお力で殺していただきたいのです」
もうすぐ、西行妖が花を付ける頃だ。
違ったらごめんなさい。
平安なんて元号は無いと思うんですが。
幽々子様、随所で愛らしい。妖忌はなんだか、若いなあ。
続きはゆっくり読ませて頂こうと思います。
長いっすねこれから二話にいきます
このメンツがどうなっていくのか楽しみにしつつ2へ行ってきます。
『寝る間を惜しむ価値がある』
仰る通り、平安は号ではなくて時代ですね。修正します。
御指摘ありがとうございました。
→吹き抜ける
ゆゆこがかわいい。
ようきもかわいい。
元々作者様の他の作品のようなてんこ盛りの独自設定がわりと好みで読み漁っていたけれども今回のもすさまじいですね。
オリキャラオリ設定なんでもござれ!
だがこれだけやっといても「東方のssを読んでいる」って実感できる技量って素晴らしいと思います。
ともあれあんま偉そうな事は言えないし続きが気になりすぎるので早速読みにいってきまーす。