湯気を立てるミルクココアを口に含むと少しざらついて、でもとても甘い味がした。
頭上ではシャンデリアが柔らかな光を放っている。
「ねえ咲夜、お話してよ」
「そうですねえ……」
咲夜はうーんと首をひねって、それから話し始めた。
「昔々、あるところにかわいいお姫様がいました。お姫様はかわいいだけじゃなくてとっても強いので、喧嘩の相手になるものがいなくて毎日退屈して暮らしていました。
『私より強いやつはいないのか!』
ある日お姫様はいらいらして叫ぶと、お付きの妖精が言いました。
『お姫様、魔法使いって強いらしいですよ』
『そうか』
お姫様は魔法使いの住んでいる場所を見つけ出して、戦いを挑みました。日が沈む頃に戦い始めて、日が昇るころになってようやくお姫様が勝ちました。お姫様は魔法使いの強さに満足しました。
『お前は強い。私の友達になってくれ』
『いいわよ』
こうして魔法使いはお姫様の友達になりました――」
「それお姉様でしょ?怒られるよ」
私は笑って言った。
「あれ、ばれちゃいました?」
「そのまんまじゃない。次は格闘家でその次はメイドが出てくるんでしょ。その後どうするの?」
「鬼退治に行くんですけど」
「えー」
「駄目ですか?」
「うん」
「まあ問題は鬼退治じゃなくて東西鬼対決になっちゃうところなんですけどね」
いやそこじゃないでしょ。
うーん、と唸って咲夜は私に水を向けた。
「じゃあフラン様ならどんなお話をなさるんですか?」
「え、私?えーとね」
私はお話を聞いたり読んだりするだけで自分で考えたことはない。
うーん、私ならどんなお話をするんだろう。
私はおもむろに口を開いた。
「昔々、あるところに一人の金子光晴がいました。ある日金子光晴が目を覚ますと、何かおかしいことに気付きました。何がおかしいのだろう。金子光晴は悩みながらトーストを食べ、紅茶を飲みました。それでも何がおかしいのか分かりません。金子光晴は不安に思いながら散歩に出かけることにしました。
『うわあ!』
外に出た金子光晴はおかしさの正体に気付きました。街を歩く人々がみんな金子光晴の顔をしているのです。金子光晴は恐ろしくなって家に逃げ帰ろうとしました。しかし金子光晴は慌てていて、すれ違う金子光晴に肩をぶつけてしまいました。
『おい、金子光晴!どこに目をつけて歩いてるんだ!』
『ごめんなさい、金子光晴』
すっかりしょげてしまった金子光晴は家に帰って、今日は家で大人しくしていようと思い、玄関に届いていた新聞を広げてまた悲鳴を上げました。
『金子光晴容疑者(32)は18日、金子光晴さん(25)の後頭部を鈍器で殴打し、死に至らしめたとして逮捕された』
金子光晴は打ちのめされました。この国の至るところで金子光晴は逮捕されたり殺されたり不用意な発言をして更迭されたり賞をもらったり惜しまれて死んだりインタビューを受けたりしているのです――」
「なんですか、それ」
咲夜は呆れた様な顔で私を見た。
「あれ、駄目かな?」
「いや、結構面白いですけど……なんなんですか、それ」
「えー」
地下室から数百年ぶりに出された私の今の部屋はこのなんかやたら小ぎれいな部屋で、相変わらず屋敷の外には出してもらえないけど紅魔館の中は自由に歩き回っていいよとお姉様に言われたのでこれは結構大きな進歩かなと思う。
ピンクの花柄の壁紙とか、天井のやたら豪華なシャンデリアとか、気に入らないところもあるけど、でも今まで私が暮らしていた地下室に比べたらこの部屋は天国だ。
本があるしベッドも柔らかいし、何より鍵がかかっていないというのが大きい。
あと咲夜がなんだかんだと世話を焼いてくれる。
お姉様の差し金かな、とも思うけど、どっちにしても嬉しい。
寝る前には咲夜が必ずミルクココアを持ってきてくれる。
「お嬢様は言わないようにっておっしゃいますけど」と咲夜は言った。
「私はフラン様を騙したりしたくないので言っておきますね。このココアには心のお薬が混ぜてあります。そんなの飲みたくない、ってフラン様が思われるのなら飲まなくたっていいです」
もちろん私はそれを受け取って飲む。
「お願いですから、お嬢様のことを悪く思わないでくださいね。ただ、ちょっとまだ上手く接し方が掴めていらっしゃらないだけなんです」
もちろん悪くなんて思わない。
だって私のお姉様なのだ。
廊下でたまにお姉様とすれ違う。
「お姉様、ご機嫌いかが?」
「あ、お、おう、フランか。うん」
うん、うん、と呟いてお姉様は視線を逸らしてしまう。
不意に抱きついたりするとびくり、と身を竦めてしまう。
私から逸らした目の隅に、怯えたような光が一筋。
当たり前だけど、面白くない。
私はこんなにまともなのに。
誰にも暴力なんて振るったりしないのに。
ノック。
「どーぞ」
がちゃりとドアが開く。
「クッキー焼いたんですけど、召し上がりますか?」
「うんー」
トレイにはカップが二つとお皿に山盛りのクッキー。
カップの飲み物に口をつけてクッキーを食べる。
「ん、美味しい」
「恐れ入ります」
にこり、と微笑んで咲夜も紅茶を啜る。
咲夜については私は十分に彼女のことを知らない。
人間で、メイド長で、お姉様に拾われてきて、時間を操れて、瀟洒で、料理が上手くて、優しくて……。
私が知っているのはこれくらいだ。
咲夜はなんでも聞いたら答えてくれそうだけど、私は何を聞いたらいいのか分からない。
コンテクストが不足しているのだ、すなわち。
「咲夜?」
「なんですか?」
「ううん、なんでもない」
「そうですか」
でも、焦ることはない。
ちゃんと物事に向き合っている間は、時間はたくさんある。
「金子光晴はもはや世界中を埋め尽くしていました。例え誰か一人が死んだとしても、それは金子光晴が一人死んだ、と言うだけで、誰もその一人一人の人格にまでは注意を払わないのです。何故なら誰もが金子光晴で、みんなが自分について、みんなと同じだけしか知らなかったからです。金子光晴は疲れていました。息抜きに、とコンサートを聴きにいっても、何十人もの金子光晴がバイオリン、ビオラ、チェロ、トランペット、トロンボーン、ティンパニなどを抱えて、指揮棒を振る金子光晴をじいっと見ながら金子光晴作曲『交響曲第2番』を演奏するだけです。こんなものは息抜きにもなりません。金子光晴は溜め息をつきました。
『一番嫌なことは』
金子光晴は鏡に向かって独り言を呟きます。
『僕以外の誰も、金子光晴だらけの世界を嫌がっているように見えないことなんだよな』――」
「ふむ」
咲夜は目を細めて、少し考えるような目つきをした。
「それは、フラン様が考えたお話ですか?それとも、フラン様のお話ですか?」
「どう違うのよ、それ」
「かなり違うと思いますけど」
咲夜がそういうのならそうなのだろう。
その事について考えてみる。
「別に考えて喋っているわけじゃないわ」
「そうですか」
ベッドの端に腰掛けて欠伸をする。
「オーケストラを見たことがあるんですか?」
「昔、一度ね」
「どこで見たんですか?」
「外の世界。お姉様とお父様と」
音楽はよく分からなかったけれど、一糸乱れぬ演奏は素直にすごいと思った。
ホールの中の熱気。
上には大きなシャンデリア。
人間は空を飛べないのに、どうやって電球を換えるのだろう。
ミルクココアは舌の上でざらついて、だけどとても甘い。
私がそれを飲み干したのを見て取ると、咲夜は私からコップを受け取る。
それから私が眠くなるまで話をする。
シャンデリアは柔らかい光を放っている。
「ねえ咲夜、お話してよ」
「そうですねえ……」
咲夜は手を顎に当ててうーんと考える。
「昔々、あるところにお姫様がいました。お姫様にはかわいらしい妹がいました。二人はお互いの事が好きでしたが、上手く話すことが出来ません。お姫様にはお付きの従者がいました。従者はそんなお姫様を見かねて訊きました。
『お姫様。どうして妹様とお話しにならないのですか?』
『だってあいつは私のこと、嫌いだろうし』
『そんなことはありません』
『だって私はあいつのこと、傷つけちゃったし』
『気にしていらっしゃいませんよ』
『だって何を話せばいいのか分からないし』
『何だって良いんですよ』
『……ねえ、そしたら、まずお前があいつと話してくれないかな』――」
「つまり、それが咲夜がやってることなのね?」
咲夜はふふっと悪戯っぽく笑った。
「さあ、どうでしょうか?」
「咲夜は私たちに仲直りして欲しい?」
「主とその妹君のご関係に意見するなど、とんでもないことです。私はただの従者ですから」
私は少し考え込む。
「でもさ」
「はい」
咲夜は微かに首を傾げる。
「でもさ、私たち、喧嘩してるわけじゃないんだよ」
「ええ、存じてますよ」
「私はお姉様に怒ってるわけでもないんだよ」
「はい」
「それって結構、難しいと思わない?」
「そうかもしれません」
部屋には静かな時間が流れていた。
じっとりと、空間が焦れた。
薬が少し効いている気がする。
何に効いているのかはよく分からないけれど。
なんだか眠いような気がした。
「ありがとう、もう寝るよ」
「分かりました。おやすみなさい、フラン様」
「おやすみ、咲夜」
ぐるぐると回るシャンデリア。
ふらふらと透き通るクラゲのように、脳の上を私を中心に逆巻く光とか思念とか何とかかんとか。
そう……あのコンサートの時、お姉様はなんて言ってたっけ?
足音が聞こえて、光が消える。
それからドアが閉まる音がする。
空間には消えた光がそこここに飛散して拡散して散り散りになって破けて浮かんで飛び回ってほら、今私の手の平にも。
指揮者が壇上に上がる。
拍手が起こる。
私もお姉様も、わくわくして、目を輝かせて、懸命に手を叩いている。
さあ、羊が一匹羊が二匹羊が三匹羊が四匹羊が五匹羊が六匹羊が七匹羊が八匹羊が九匹羊が十匹羊が十一匹羊が十二匹羊が十三匹羊が十四匹羊が十五匹羊が十六匹羊が十七匹羊が十八匹羊が十九匹羊が二十匹羊が二十二匹羊が二十三匹羊が二十四匹羊が二十五匹羊が二十六匹羊が二十七匹羊が二十八匹羊が二十九匹羊が三十匹羊が三十一匹………………。
終わり方がなんか、好きでした。
すごい、ということだけは分かった
同じ世界観の作品を期待しています。