月は冷たく、昏く、紅く冴えていた。妖精たちが姿を消した霧の湖からは湿った夜風が吹き、昏い空を蒼く滲ませていた。
闇染の翼を撓め、レミリア・スカーレットは尖塔の天辺に降り立つ。
湖の畔に建つ洋館の一番高い塔の上。
夜空は不気味なほど冷たく、澄み渡っていた。少しだけ欠けた歪な紅い月を背負う。抉るように冷たい風を翼の先端で切り裂き、異様な猫背で下界を睥睨する。双眸が濡れるように紅く、燃える。
「はぁ、ぁ」
熱いため息。幼い笑顔に唇がめくれ、錐のように尖った犬歯がのぞく。
眼下に広がる勇壮な紅い城館に目を細めると、おもむろに細い左腕を振り上げ、振り下ろした。
空気が歪む。遠くの木立から飛び立つ無数の鳥影。
そして破壊が巻き起こる。遥か下方に見える城壁が広域に渡って軋み、くもの巣のようなひびに覆われる。
持ちこたえたのは一瞬で、すぐに城壁は飴細工のようにひしゃげ、潰れ、自重に耐え切れずに崩落した。音と衝撃が遅れて届き、吹き上がった瓦礫と土ぼこりを眺めながら、レミリアは身悶えた。
潤んだ瞳。震える四肢。だらしなく緩む口元。圧倒的な破壊がもたらす快感が幼い身体を通り過ぎていく。たまらない。気持ちいい。口が裂けるほど笑い、嬌声を上げた。
崩れ落ちた瓦礫の下に、大切な家族の誰かがいたかもしれないことなど、今の彼女にはどうでも良かった。すぐに忘れてしまった。ただ楽しかった。とてもとても楽しかった。
こんなに楽しかったのは久しぶりだ。いつかの赤い霧の夜以来だろうか。
ぼんやりした頭で夢想する。美しい何かと、ダンスを踊った夜。ヴィンテージ・ワインよりもなお芳しい、極上の愉悦。喉が鳴る。胸板を掻き毟って心臓をさらけ出して、それでもまだ足りなかった。
ダンスの相手は誰だっけ? 乱舞する紅と白の断片的なイメージ。どうしても思い出せない。すぐにどうだって良くなる。あれは蝶だ。紅白の翅を持つ、ひどく美しい蝶。
逢いに行こう。
そして今度こそ、あれをこの手で引き裂き、
全身に浴びるほど、
血を
ひどく甘美な夢想に、紅い悪魔は酔い狂った。声を押し殺して笑い、歪めた口の端から一筋の涎を伝わせる。調子の外れた鼻歌をめちゃくちゃに唄い上げ、黒翼を不器用に広げて夜空に踊る。
真っ赤な瞳はいよいよ潤み、散った涙は虹色の輝き。短い手足を思い切り広げ、ふいに右手に掴んだモノのことを思い出す。
頚椎をへし折られ、吊り下げられ、時折びくりびくりと痙攣をする名も知らぬ一人の妖精メイド。
幼い仕草で不思議そうに首をかしげ、それからレミリアは、大きく笑った。
妖精の胸元をリボンごと柔らかなバターのように爪で切り裂き、血が溢れ出た傷口に直接牙を突きたて、ゴクリゴクリと嚥下する。ぴんと伸びた妖精の細いつま先が、一際大きく痙攣する。飲みきれずに溢れた血液を受け、あっという間に染色されていく白いドレス。
スカーレット・デビル。
うっとりと細めた瞳を同じ色で輝かせ、レミリアは笑った。
笑った。
笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。笑った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……ひっ、う、ふ」
震えている。読みかけの本から顔を上げ、パチュリー・ノーリッジは振り返る。大図書館に併設された寝室。赤々と燃える暖炉に照らし出された寝台の上で、毛布に包まった小さな塊が声を殺して泣いている。
「な、なにあれ。なんなのよっ!」
怯えきった幼い大声に、背中を覆っていた毛布がめくれ、水晶がまとわりついた枯れ木のような歪な翼が顔を出す。
フランドール・スカーレット。
紅い悪魔の妹が震えながら泣いている。パチュリーは小さなため息をひとつ。静かに本を閉じ、寝台の脇へ。身をかがめ、フランドールの薄い背中を撫でてやる。
「情けないわね、フランドール。あなたもデーモンロードの末裔なら、もっとしゃんとしていなさい」
「……おまえ、壊されたいのか?」
毛布の下から、真っ赤に燃える双眸が覗く。小さな掌が持ち上がる。そこに己の存在を構成する『目』が移動したのを感じながらも、パチュリーは興味なさそうに視線を逸らした。
「止めておきなさい。私の結界が破れれば、レミィは必ずここに来るわ。そうしたら、あなたも殺される。私と一緒に死神の世話になりたくはないでしょ」
フランドールの顔がくしゃくしゃに歪む。枕に鼻先を押し付け、駄々っ子のように頭を振った。
「あいつは、――あれは、お姉様じゃない。あんなの知らない。知らないもん!」
「あれはレミィよ、紛れもなく。そっか、あなたは知らないのね、ああなったレミィのこと。ずっと幽閉されていたから」
「なんで? どういうこと? 全然分かんない!」
苛立ったフランドールから少し離れる。間髪入れず、暴走した魔力の余波が枕を穿つ。ずたずたになった羽毛が飛び散るのを見て、やれやれと嘆息する。
「狂性の開放、って言ったらピンと来るかしら?」
「……知らない」
「夜族の頂点に君臨するあなたち悪魔の根源的な欲求、つまり、果てしない渇きみたいな圧倒的な破壊欲とか殺戮衝動。今のレミィはね、抑圧されていたその手の感情が表層人格を支配している状態なの。物凄く凶暴になっているし、見境がつかないのもそのせいね。
厳密には違うけど、ストレスが溜まって癇癪を起こしているという理解で構わないわ。別に珍しくもない。数十年周期で罹る持病みたいなものよ」
「ち、ちょっと待ってよ」
パチュリーの話はいつも難しい。五百年近い永い生に比例しないあまりにも乏しい知識で、それでもフランドールはどうにか話についていく。
「おかしいよ、そんなの! だって、私も悪魔なのに! わ、私は、あんなふうになったことなんて、一度も、」
「なってるじゃない」
「え?」
「例えば今みたいな魔力の暴走。例えば制御のできない理不尽な怒り。理由もなく気分が高揚して、目についたものを壊さずにはいられないこと、あるでしょ? あなたが普段少しずつ発散している狂気の欠片がそれなのよ」
「う、嘘だ。だって私は、あんな、」
「そりゃあ、レミィは何十年も我慢していたからね。多く溜め込んだのなら、吐き出す量もまた然り。想像できるでしょ。許してあげなさい。普段は私や咲夜、そして誰より、あなたを傷つけないように、意思の力で完全に本能を抑え込んでいるんだから。そうするのがどれだけ辛いか、あなたにだって分かるでしょ」
「な、何よ! 私そんなこと頼んでな――」
激昂して立ち上がりかけたフランドールの言葉は、巨大な地鳴りによって遮られた。天井からぱらぱらと埃が落下し、フランドールは血の気を失って尻餅をついた。
「い、今の……?」
「レミィの咆哮、ね。いよいよ興が乗ってきたみたい。参っちゃうわね」
普段よりさらに青白い顔で、パチュリーは本を開いて目を落とす。隙間風ひとつない閉じた部屋の中で、蝋燭の灯がいやに揺らいでいた。
「本を読まずに積み上げていけば、それはいつか必ず崩れる。つまりはそういうことよ。レミィがああなるのは必然で、それがたまたま今日だったってだけの話」
「やだよぅ。……やだぁ」
「フラン?」
ベッドにぺたんと尻をつき、涙を流し、フランドールは小さな子供のように泣き喚く。
「あ、悪魔なんてろくな死に方できないって分かっているけど、お姉様に殺されるなんてやだよ。ひどいよ。こんなのってないよ」
「落ち着きなさい。誰もレミィに殺されやしないわ」
「なによ。パチェの結界くらいじゃ今のお姉様は止められない。さっきの咆哮がここまで届いているんだから、その気になれば簡単にこじ開けられちゃう」
「まあ、魔女と吸血鬼じゃ行使する魔力の桁が違うからね。でも、初めからレミィを止めようなんて思ってないし。この結界はね、レミィから身を隠すためにあるのももちろんだけど、それ以上に巻き添えにならないようにっていう意味合いが強いのよ」
「……巻き添え?」
「自分が狂気に堕ちたときの対策を、レミィは前もって用意していたってこと。ちょっと荒っぽいけどね。心配せずにフランは寝ていなさい。目覚める頃には、あれもいつものレミリアに戻っているわ」
本を広げたまま、パチュリーは難儀そうに腕を伸ばして、縮こまったフランドールに毛布をかけなおしてやる。小さな塊は力なくもぞもぞ動き、泣き腫らした目を毛布の隙間から魔女に向けた。
「……対策ってなに? どうするの?」
「難しいことじゃない。うちの荒っぽいのをレミィにぶつけて目を覚まさせるの。今のレミィなら、思い切り暴れ回れてストレスを発散すれば、それだけで元に戻る可能性もあるしね」
「――咲夜じゃ無理だよ。あの子は強いけど、脆すぎる。きっと死んじゃうよ」
「掃除係にそこまでの期待はしてないわ。もっと頑丈で、そういうのが得意な奴がいるでしょ?」
パチュリーがその名を告げると、フランドールはいよいよ眼差しを暗くして、声の調子を落とした。
「……無理だよ。あんな弱っちのじゃ、すぐに壊されちゃう。やっぱりだめだ。あれを止めるなんて、誰にもできない。みんな死ぬんだ」
「死なない。あの子が誰も死なせない。毎日毎日バカみたいに鍛錬を繰り返していたのも、弾幕ごっこでボコボコに被弾しながら実戦を想定した大きな踏み込みで立ち回っていたのも、全部この日のための準備。あの子は、強いわよ」
「うそ」
「嘘じゃない。疑り深い子ね。まあ、いいわ。見ていなさい」
眠たげな瞳の魔女は、透き通ったこぶし大の水晶玉を、ベッドに座り込んだフランドールの膝元に放る。
簡単な印を結び、古式に則った呪文で使役している大気の精霊に呼びかけると、水晶玉は紅魔館の正門に至る庭園の俯瞰風景を写し込んだ。
堂々たる威容の門柱の下に、見覚えのある赤毛頭が確認できた。
「あの門番には少しは懐いていた貴女でしょ。応援でもしてあげるといい。それで何かが良くなるとは思わないけど」
絶望に濡れた瞳のまま、フランドールは魔女と千里眼の水晶とを交互に眺めた。それからおずおずと、見慣れた赤毛の門番が映る小さな水晶玉を覗き込んだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「えっくし」
気の抜けたくしゃみをした。
風が吹き始めた。きらびやかだった月光が陰り、霧の立ち込めた湖を影が走る。それはすぐに館の上を抜けていく。
仄暗い夜闇。厚い雲の向こうに月を隠した空の下で、洟を啜り上げながら、紅美鈴は少しばかり渋い顔をした。
「まあ、いいけど……」
月下の吸血鬼は血に飢えた獅子のように凶悪だが、闇に紛れた吸血鬼だって怒り狂った虎くらいには危険なのだ。獅子と虎がケンカをしたらどうなるか知らないが、ここで大切なのは、どちらも尋常でないくらいヤバいということだ。
待つという行為は、直情型の美鈴にとってあまり得意ではない。何だか手持ち無沙汰で、頭の帽子を手に取り、指先でくるくる回してみる。少し回りが鈍いのは、手が汗で湿っているからだ。緊張しているのかもしれない。悪いことではない。適度な緊張は身を引き締め、精神を鋭化させる。
地響きのような轟音が響いたのはその時で、美鈴は思わず首をすくめた。
「うわ、荒れてるなぁ……」
「そうね」
返事が返ってくるとは思わなかった。でも驚かない。時の流れを自由にできる彼女にとって、神出鬼没はいつものことだ。振り仰ぎ、巨大な正門の支柱の上に立つ銀髪のメイドに軽く会釈をした。
「お疲れ様です、咲夜さん。どんな按配でした?」
「ひどい有様ね。大ホールは全壊。中庭もクレーターだらけになってるし、時計塔も傾いちゃったわ。あと、内勤の子が一人捕まってる」
「……そうですか」
「こっ酷くやられているようだけど、まあ妖精だし、死にはしないでしょ。そっちは私が何とかするから、あなたは余計な気を回さないこと」
「は、はぁい」
怒られたような気がして、美鈴はいつものように首をすくめた。横目で咲夜を盗み見ると、門の上で腕を組み、美鈴など眼中にないかのように、静かに遠くを見つめていた。
そして、呟いた。
「あーあ、悔しいわね」
「はい?」
「悔しいって言ったの。お嬢様のことは、残らず全部、この私の手でして差し上げたいのに。こんな大切な役回りを、あなたに任せなくてはならないなんてね。本当に悔しい」
そう言って、じっとりと、高いところから美鈴を睨め付ける。
「あ、あはは」
なんと言って良いかわからず、帽子を胸に抱いたまま誤魔化し笑いを浮かべる美鈴。
そこでようやく、咲夜は小さく微笑んだ。
「なんてね」
次の瞬間、音も気配すらなく、澄ました顔のメイド長が美鈴の隣に立っていた。
「まあ、実際のところ、お嬢様をぶん殴って正気に戻すなんて、どう考えても私の仕事の埒外ね。素直にあなたに任せるわ」
「いや~。実際、代わって頂きたいくらいなんですがね」
「パチュリー様の考えた段取りでいくなら、私にも色々とやることがあるのよ。いいから諦めて、愛らしいお嬢様のダンスのお相手をなさい」
「うーん、さすがに、あれは愛せないです」
刺すような突風が吹き荒れた。二人が顔を上げるのと、陰っていた月が雲間から出るのは同時だった。真っ赤な月を背負い、黒い翼を広げた悪魔が空にいた。
咲夜はスカートを広げて膝を折り、メイリンは握った拳を掌に沿える大陸式で、それぞれ臣下の礼を取る。
そのままの姿勢で、咲夜は囁く。
「悪いけど、私はお嬢様を傷つけない。傷つけられない。そんなことをするくらいなら、死んだほうがマシ。だから、あんたを手伝えない」
「それでこそ咲夜さんです。メイドの鑑です。手は出さないでください。こんな汚れ仕事はこの私に任せて下さい。私はそのためにいるんですから」
「……ごめんね」
潤んだ声は一瞬だった。すぐに咲夜は、凛々しく澄んだメイド長としての声で告げた。
「美鈴、紅魔館のメイド頭として命じます。死ぬな。お嬢様に誰も殺させるな。必ず生きて帰れ。いいな」
「心得ました。この紅美鈴、お嬢様をコテンパンにして正気に戻して差し上げた後、今一度メイド長の拝謁を賜ることをお約束致します」
臣下の礼を解き、いつもの飄々とした笑みを浮かべながら、紅美鈴はとてもとても難しい約束をした。
「生きて帰ります。必ず」
遥か上空より、幼い体躯が落下する。減速のない着地。石畳が砕け、土煙が舞う。その中でも爛々と輝く双眸だけが鮮やかに夜闇を穿つ。魔王と化したレミリア・スカーレットの降臨だった。
「咲夜、ああ咲夜。ここにいたのか」
メイド長が思わず息を飲んだのは、幼いお嬢様の声が、仕草があまりにも普段通りだったからだ。その自然すぎる様子は逆に不自然なほどだったが、咲夜が反射的に主人の元へ駆け寄るのを控えたのは、レミリアが不出来な人形みたいに壊されたメイドを引きずっていたからだった。
「聞いてよ咲夜。パチェったらひどいのよ。私はただ遊びに行きたいだけなのに、妙な結界を屋敷中に張り巡らせて、閉じ込めようとするんだ」
陽気に笑うレミリア。幼すぎる表情の中で、瞳だけが燃えるように輝く。べったりと血の跡を残すメイドを引きずりながら、ひたりひたりと素足で歩む。
「まあ、いいわ。こうして貴女にも出会えたし。門を開けて頂戴。少し出かけてくるわ。でもその前に、貴女とも遊ぼうかしら、ねえ、咲夜ぁ?」
「っ!」
甘えるような鼻にかかった声。立ち尽くした咲夜は、伸ばされる小さな指の先に、凄まじい悪意と死の匂いを感じた。
「あのー、すみません」
何でもないことのようにひょいと割って入る人影があった。さらりと揺れる炎のような赤髪。しなやかな体躯。幻想郷では珍しい大陸風の衣。
人懐こい猫のように目元を細め、紅美鈴はレミリアの進路を塞いでいた。
「……なんだ、おまえは」
穏やかな、しかし凍えるような鋭さを孕んだ声が美鈴に突き刺さる。聞くだけで生命を切り崩す濃厚な呪詛をまとう魔声に、何故か美鈴はえへへと照れたように笑う。
「紅美鈴ですよ。忘れちゃったんですか? 冷たいなぁ。ここの門番です。私がいる以上、たとえ咲夜さんだろうが、パチュリー様だろうが、私がよしとしない限りこの門を開けることは叶わないんです。『外のものはともかく、内のものは死んでも通すな』 お嬢様より勅命を預かっておりますゆえ」
慇懃無礼に頭を下げてみせる美鈴。レミリアは笑った。新しい玩具を与えられた、小さな子供の顔だった。
「その私が、開けろと言ってもか?」
「門を開けてどちらへ行かれるおつもりですか? 巫女のところですか? 巫女を殺すおつもりですか? そうなれば『隙間』始めとする古い妖はお嬢様を許しますまい。何よりお嬢様がご自身をお許しにはなられない。
なれば、どうしてここを開けられましょう。この門を守るのが私の誇り。お嬢様の信頼が私の宝。その上でここを通りたければ、この私と遊んでからにして下さいな」
ばぐんっ、と。大顎が閉じた。
それは大きく撓んだレミリアの両翼で、左右から美鈴の頭に齧り付いていた。
「めっ……!」
声を失う咲夜。
「……お嬢様はせっかちですねぇ」
残像を引きずるほどの滑らかさで上身を逸らしていた美鈴は苦笑する。
「そんなに欲しければ、差し上げますよっ」
後方に極端に傾いた重心を戻さず、頭という錘を振り回す反動で脚を振るい、一撃を放ったばかりのレミリアの側頭部に爪先をぶち込む。
しなやかな鞭で打たれたような衝撃に小さな少女の身体が無防備に傾ぐ、間を置かずして、金剛石のように固めた拳が真っ直ぐに征く。教本以上の完璧な崩拳が吸血鬼の身体の真芯を打ち抜いた。
この上ない手ごたえ。衝撃は完全に徹り、取り返しのつかないモノを大量にへし砕いた。真上に抜けた反動で美鈴の赤髪がふわりと浮く。そうして、その頃になって、レミリア・スカーレットは吹き飛んだ。自身の血と捕らえていたメイドを空中に残し、ノーバウンドで城の外壁に激突、崩れ落ちた瓦礫と土煙の中に消えた。
「咲夜さん!」
「っ!」
美鈴の反応より早く、メイド長は時間を止めていた。そしてズタボロになった部下を空中で受け止め、元いた位置まで戻っていた。
傲慢な不死王は、玩具が奪われるのを許さない。
もうもうと巻き上がる土煙を割り、レミリアが飛び出してくる。迅く、鋭く、何のダメージも負っていない身体で、死と破壊を強力に纏った爪指を咲夜が胸に抱いたメイドに向ける。
再度立ち塞がる長身。割って入った勢いで腕を蹴り上げ、そのままエグい角度で踵をこめかみに突き刺す。ぐらりと崩れる体勢。
もう一丁。
「でえぇいっ!」
だあぁんっ! と。石畳を踏み抜いた。蜘蛛の巣のように走った無数のヒビ。欠けた石材の破片がふわりと浮かび、その中を切り込む問答無用の突進。交差法。身を翻し、山を抉る竜巻のような運動エネルギーを肩と背面通じて、情け容赦なくブチ込む。
――鉄山靠。
耳を塞ぎたくなるような炸裂音と共に錐揉み状態で吹き飛んだレミリアは、今しがた飛び出して来たばかりの瓦礫と土煙の中に叩き戻された。
「ふぅ」
呼気を短く吐き出し、残心を解く。
「無事よ」
振り返ると、血まみれのメイドを抱きかかえた咲夜と目が合う。息があることを確認し、その顔には小さな安堵が広がっていた。美鈴も少しだけ頬を緩める。
「さ、早くパチュリー様のところへ」
「ええ。……約束、破るんじゃないわよ」
いつもみたいな能天気な感じで、美鈴は笑った。
「もちろんですとも」
瞬きをする間に、咲夜の姿は消えていた。
これで、ひとつ心配が減った。他の何かを気にしながら闘うというのは、不器用な自分の性に合わない。加えてお嬢様には、自分がいかにオモシロイ玩具か分かっていただけただろう。興味は完全に自分へと向いたはずだ。
「さて、と……」
啜るような呼気。丹田に気を練り、全身に行渡らせる。己の深淵がじわりと熱を帯びる。虎勁と呼ばれる独自の呼吸。緊張のためわずかに強張っていた筋肉が解けていく。
これから絶望的な闘いを強いられることが嘘のような、穏やかな心地。自分でも信じられないくらい、心が凪いでいた。
もうもうと舞い上がっていた土煙が吹き散らされる。そして飛来する無数の赤光。美鈴をその周囲の空間ごと抉り潰すことを目的とした、『貫く』呪詛を具現化した槍状の魔弾が雨あられと降り注ぐ。
目視できる速度ではないそれを、美鈴は見なかった。肌に触れる空気の流れ、視線、殺気。それらを頼りに踊るように身を捌き、死の豪雨の隙間を縫う。そうして自身の心臓を狙った本命の一刺を極彩の気を込めた掌底で叩き散らし、そのまま拳を握り、前へと突き出した。
「温い、ですよ」
拳の先にはレミリアがいた。美鈴の連撃を受け、纏ったドレスはひどい有様になっていたが、その小さな身体には傷ひとつなく、白く美しいままだった。
笑っていた。歯をむき出しにして。与えられた玩具が思ったよりもずっと『遊べる』ことが分かって、その怪物は喜んでいた。
やはり吸血鬼にとって肉体の単純な損傷などは、そよ風に吹かれた程度でしかない。しかし、それを実感してなお、美鈴は滾っていた。
感じる。夜風に巻き上げられた砂の一粒までも知覚できる。これほどの気の充実は初めてだ。
これは闘争である。いつものごっこではない。本気で挑む命のやり取り。美鈴はこのために技を磨いてきた。このために妖怪となってまで、命を永らえてきた。己の百年の全てを、今、存分に振るう。
「では、紅美鈴。参ります」
武人らしい簡素な、大陸式の礼。
その瞬間、大地が抉れた。樹の大枝がへし折れた。花壇の花々が鮮やかに散った。そして紅美鈴はレミリア・スカーレットの眼前に立っていた。
「しぃっ!」
長袍の裾を翼のように翻し、転華震掌を思いつく限りの急所にぶち込む。内臓がめためた。まだ。更なる踏み込みと同時に鉄の頂心肘で喉を潰し、返す刀の崩錘で顎を射抜く。それでもまだ。抉りこむような踏み込みからの無影脚が猛禽の爪のように頭蓋をかち割る、――寸前、レミリアが消える。
早すぎて見えなかったが、知覚はしている。美鈴の頭上やや後方、尋常ならざる脚力で美鈴の死角を取り、大きく羽を広げて、慣性をものともせずに制動している。予測されるのは反撃の鉄槌。
壮絶なまでの死の予感に、転がるように距離を取る。直後、落下する吸血鬼の小さな体躯。緋色の呪詛が炎のように広がり、美鈴の髪先を焼き切った。
「あっはぁ!」
レミリアは笑う。大きく口を開け、涎を垂らし、目を見開いて笑う。笑いながら、鋼をも断つ悪夢のような爪を振るう。恐るべき魔力が顕現し、血のような真っ赤な尾を引く。爪を振るう。振るう振るう、振るう。
美鈴は目を見開いた。炎のような髪が逆立ち、形の良い唇がぎゅうとかみ締められる。
ここからは詰め将棋だ。
極限まで研ぎ澄ました集中力で、己に迫る魔爪の軌道を見極める。腰を落とし、頸を狙った一撃をかわし、心臓を狙う刺突は軽く叩いて逸らす。股下からの真っ二つを狙うやつは体を入れ変えて流し、滅多矢鱈に振り回される爪撃を必死に捌く。
興が乗った吸血鬼の攻撃は人智を越えた破壊力を生む。一撃でも貰えば、美鈴は熟れすぎた柿のようにぶちまけられるだろう。
突如としてレミリアの姿が眼前から消えた。
移動攻撃!?
視界の右端に微かに映った血染めのドレス。反射的に向き直りかける身体を本能で押さえる。
右じゃない、左!
独楽のような反転。しかしレミリアはすでに接吻ができそうな距離まで肉薄していた。目が合う刹那、狂気じみた殺気が伝わる。
ツ・カ・マ・エ・タ
レミリアがぶつかって来た。技術もクソもない、子供がじゃれ付くような体当たり。しかし美鈴が感じのは、斜面を転がり落ちる巨大な岩に轢き跳ばされる衝撃だった。
そしてその通りに、美鈴は地面と水平に吹き飛び、中庭の巨木に叩きつけられた。
「う、が、げほっ!」
肺の空気を残らず吐き出す。飛び散った唾液に血が混じる。とっさに受けた左腕に激痛。骨にヒビくらいは入っただろう。それでもこの程度で済んだのは僥倖だ。当たられた瞬間に地面を蹴っていなければ、全身の骨がバラバラになっていたかもしれない。
「っ!!」
崩れ落ちそうになる身体に活を入れ、美鈴は大きく跳ねる。その靴先を掠めるように、レミリアの爪撃が疾る。悠々と振り返るレミリアの背後で、巨木が斜めに滑り、倒れていく。
「づあぁぁっ!」
これ以上後手に回るのは絶対に許容できなかった。美鈴は嵐のような連撃をレミリアの全身に叩き込む。軋む骨、飛び散る血潮。しかし肉体の損傷は、叩く側から再生していく。
肩甲骨を砕く美鈴の手刀を受けたまま、レミリアは跳ねた。愛らしい小さな脚で蹴り上げると、化け物じみた衝撃波が身を沈めた美鈴の肩口を掠め、真っ赤な尾を引き虚空へと消える。
意を外した。レミリアの身体は、無防備に空中を停滞する。そこに叩き込む。低く沈めた重心を、足首から膝、腰、脊髄、肩、肘、手首にて加速し、音速にて斜め上方に打ち上げる。素手での攻城を目的に編み出された絶技。
――破山砲
絶大な破壊力が小さなレミリアの身体に収束し、風船のように炸裂した。響き渡った重低音は結界を飛び越え地下のフランとパチェにまで届いた。
徹底的に破壊されたレミリアの肉体は、即座に半霧化し再生を始める。それをヒビの入った左腕で引っ掴み、めり込むほどの勢いで地面へと叩きつける。
「セラ」
大跳躍。長袍の裾をはためかせながら、丹田で練り上げた極彩色の気を放出。飛翔の頂点でトンボを切り、眩いほどの輝きを放つ。
「ギ」
隼のような急降下。闘気を拳に圧縮し、熱を帯びた極光は黄と赤の色彩を帯びる。
「ネラ」
本気の時しか使わない禁じ手。弾幕ごっこの際には全方位に爆散する気功弾だが、本来は拳に込めた極大の気を、下段突を通じて叩き込む、自身の考案による退魔の奥義。
「9っ!!」
彗星のような尾を引く拳は杭を模し、再生を終えたばかりのレミリアの心臓に、正確に突き刺さった。大地が震えるような衝撃。肉を焼く眩い閃光。そして。
「ギィィイggggggっぃいいiiiiiiiっ!!」
錆びた金属を擦り潰すような、異形の悲鳴。効いた。初めて攻撃が徹った。拳を引き抜き、苦しげに蠢く小さな身体を黄震脚で踏みつけ動きを封じる。逃がさない。このまま畳み込む。
幻想郷の龍脈を利用し、練り上げる巨大な気弾『星脈弾』。
「お覚悟!」
それを放つ直前、レミリアの身体が爆散した。
「っ!?」
思わず顔を手で庇う。飛び散り、乱舞するそれが無数の蝙蝠だということに気づく。
「しまっ」
「遅い」
両眼を爛々と光らせるレミリアが、姉に甘える妹のように、美鈴の腰に抱きついていた。周囲を飛び回る蝙蝠の群れと共に、その小さな体躯が真っ赤に灼熱した。
「死ね」
そして、神を冒涜する巨大な真紅の十字架が顕現した。
――不夜城レッド
自身を構成する全ての魔素を、生きとし生けるものの存在を許さない絶対呪の結界と化す、真祖にのみ許された魔技。
弾かれたように大きく跳躍し、錐揉み回転をしながら美鈴は着地した。重心を低く落としたそのままの姿勢で、前方を見据える。
天を焼く紅十字は、周囲の草を枯らし、木々の葉を落とし、やがて収束して小さな少女の姿となった。レミリア・スカーレット。あどけない表情の奥に底知れぬ悪意を隠そうともせず、王者の貫禄で美鈴を睥睨した。
美鈴は動かない。その頬をついと一筋の汗が辿った。
とっさにレミリアの腕を蹴り、脱出を図った。仕損じていれば、今頃自分は塵ほども残っていまい。
しかし――。
構えを崩さぬまま、目を落とす。
左脚。脛より下の長袍が焼け落ち、むき出しになったそこは、赤黒く爛れ、今なお薄い黒煙を上げていた。
一瞬、間に合わなかった。蹴り跳ねるのに用いた左脚は殺呪を浴び、じくじくとした痛みを伝えるだけの器官へと成り下がった。
それでもなお、美鈴は不敵に笑う。幸運を喜んだ。一発でも貰えば終わりと思っていた。自らの迂闊さ、未熟さから、致命的な攻撃を二度も許しながら、なお自分は生きている。
代償が脚の一本なら安いくらいだ。いくらでもやり様はある。
「楽しいですか、お嬢様」
一動作で、片方が消し炭と化した功夫靴を脱ぎ捨てる。ゆっくりと重心を上げ、まともに動く右足に体重をかけ、鳥の雛を扱うような柔らかな動作で掌をレミリアに向ける。攻防一体の柔の拳、太極拳『推手』
「私も楽しいですよ。さあ、もっと遊びましょう!」
いつもの柔和な印象からは想像もできない好戦的な表情で、美鈴は歯をむき出して笑った。轟くような咆哮。呼応するように煮え滾ったレミリアが、黒翼を大きく広げ、飛翔した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
床に広げた毛布の上に、その小さな妖精メイドは横たわっていた。全身の傷口には魔法の秘薬と包帯。さらに施されたのは、知識の魔女の粋を凝らした解毒、呪詛返し、生命強化、魂魄固定、死神除け、秘法の数々。
そこまでして、ようやくメイドの容態は安定した。自然の化身である妖精すらも『殺し』かけるレミリアの殺呪に薄ら寒いものを感じつつ、パチュリーは小さく息を吐いた。
「済んだわ」
結界を維持しながらの多重魔法の行使に無理が生じ、軽く咳き込む魔女には目もくれず、フランドールはベッドの上にぺたんと腰を落とし、手の中の水晶玉を食い入るように見つめていた。
メイドを連れてきた咲夜の姿はない。死にかけの部下をパチュリーに預け、すぐに結界を出て行ったのだ。今頃は、止まった時間の中で他の負傷者探しに奔走しているのだろう。
「何もできないなんて……」
幼い妹君が悔しそうに囁いた。
微動だにせずに見入っている水晶玉の中では、美鈴が闘っていた。レミリアの攻撃を受け、左脚が使い物にならない状態になってからは、柔らかな受け手と巧みな体捌きで、縦横無尽の猛攻を凌いでいた。
悪夢のような身体能力と強靭すぎる翼を用いた全方位攻撃。同族であるフランドールをして、目で追うのがやっとであるその死の嵐を掻い潜り、驚くべきことに美鈴は幾度にも及ぶ有効打を叩き込んですらいた。
魔力の続く限り無限に再生する吸血鬼に対して、その存在概念自体に打撃を与える、強力に練り上げられた美鈴十八番の気功撃。
『セラギネラ9』『星脈弾』『大鵬拳』『飛花落葉』『芳華絢爛』……。
それはしかし、巨大な山を素手で掘削する作業に似ていた。達人という言葉の域に収まらぬほど練り上げられた美鈴の技をもってして、レミリア・スカーレットという山はあまりにも大きかった。
そして、当然のことではあるが、美鈴はレミリア以上に傷ついていた。
フランドールの手元の水晶玉。そこに映り込んだ美鈴。遠目でも分かる。灼けた左脚はもちろん、肩口、わき腹、額など、至るところから無視できない量の出血がある。濃緑の長袍はところどころを見る影もないほど引き裂かれている。
肉を斬らせて骨を断つ、どころではない。自らの命を餌として差出し、ぎりぎりのところで活を拾っているにすぎない。
脱力し、緩やかに掲げた右掌。その周囲を、影すら映らぬ速度で跳ね回るレミリア。その機動は、もはやそれ自体が凶器。僅かに触れるだけで石畳は削れ、庭木の幹が抉れる。
一手間違えれば即座に死へと繋がる殺劇空間の中で、美鈴の表情は涼やかだった。
それは信じられないような練度にまで高められた聴勁。怖いほどに研ぎ澄まされた美鈴の感覚は、そのタイミングを如実に知らせる。
一層激しさを増した乱舞の果てに、レミリアは美鈴の真後ろ、月明かりの下に伸びたその影に潜むような位置を取る。完全な死角。間髪入れず、恐るべき強靭さを誇る四肢にて跳ね上げられる己自身という強力無比な砲弾。
「デーモンロード・クレイドル……!」
俯瞰にて見るフランドールがようやくその攻撃を判別した。確実に絶命せしめる一撃が美鈴の背に迫る。
と、ふわりと。
「………!?」
レミリアの身体が美鈴を飛び越えるように、緩やかに宙を舞った。
身を屈め、優しく右掌で撫でたようにしか見えなかった。力の流れを完璧にコントロールすることで得られる境地。剛を殺す、柔の拳。まるで理解できず、フランドールは絶句するしかない。
そして、美鈴の眼前、絶好の位置にレミリアの身体が落下する。すかさず打ち込まれる拳。滑らかで、優しげですらある一撃は、しかし見た目に反してレミリアの身体をくの字に折る。
『……虹色太極拳』
水晶玉越しに微かに聞こえた美鈴の呟きとともに、レミリアの身体が捩れた。その内側より、拳撃を通じて叩き込まれた莫大な気功が爆発する。迸った極彩色の衝撃波は、周囲を薙ぎ倒しながら天を突いた。
「すごいっ。やっちゃえ美鈴! もっとっ!」
無邪気な歓声を上げたフランドールだが、その意に反して美鈴は距離を取る。
「なんで!?」
その叫びに答えるように、一瞬前まで美鈴がいた場所を、肉体の損傷をそのまま引きずったレミリアが抉り払った。そのまま追尾する。喰らいつくような機動。毒々しい真っ赤な殺傷の呪詛を溢れさせた、進路に存在するあらゆるものを粉砕する、先ほどより遥かに強力なクレイドル――。
「デーモンキング……!」
そのタイミング、破壊力は、極限の域に達した美鈴の太極拳ですらも捌ききれなかった。
推手でもって多少軌道を逸らすことには成功したものの、それでも美鈴を捉え続けるクレイドルを、大きく身を反らして避けるしかなかった。崩れた体勢。それを、傷ついた美鈴の左脚は支えられない。
「美鈴!」
フランドールの悲鳴じみた叫び。
片膝を付いた美鈴は苦痛に顔を歪め、その眼前に無数の蝙蝠が飛び集まり、小さな魔王の姿を形成する。
ドラキュラ――
地獄の釜の蓋があく。生命そのものを徹底的に呪い尽くす、炎にも似た夜王の胎動。溢れたそれは無限の螺旋を描き、『面』で制圧する圧倒的なまでの質量でもって、空の月をも穿ち貫く。
――クレイドル
嵐の中の一枚の木の葉のように、美鈴の身体は宙を舞った。あまりに大きな衝撃は空中での制動を許さず、美鈴は中庭の樹木を幾つもなぎ倒し、頑丈な城壁にぶち当たってようやく止まった。
ずるり、と。
凄惨な血の跡を残し、美鈴の脚は地に着く。
身体が残っているだけでも奇跡だった。その代償として支払ったのは右腕。もはや腕には見えないくらいに捻り切られ、血まみれになったそれは、もう二度と動かすことは叶わない。
長い血染めの赤髪が顔にかかり、表情は見えない。ふらつきながら、それでも前に歩を進める。その背が、びくりと震える。何度も咳き込む。夥しい量のどす黒い血が、まるで美鈴の命そのもののように、大量に地面へとぶちまけられた。
知らぬ間に、フランドールは泣いていた。口元を押さえる小さな手では、あふれ出る嗚咽を押さえられなかった。パチュリーですら言葉がなかった。ただ立ち尽くすしかなかった。
糸が切れたように、美鈴が自身の血反吐の中に膝をつく。力なく、崩れ落ちる。がくりと垂れた頭が、いつの間にかそこに立っていたレミリアの肩に載る。
一切の力を失い、自分に身を預ける美鈴を、赤い悪魔は幼子の瞳で眺めた。そして詰まらなそうに鼻を鳴らし、壊れた玩具を投げ捨てるように、美鈴を掴み、地面へと叩き付けた。
骨が砕ける音が、水晶玉を通じて確かに聞こえた。
フランドールの絶叫。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
地面へと叩き付けられた。信じられないような衝撃に、骨の幾つかが折れたのが分かった。
耐え難い痛みと、混濁する意識。そんな状態にあって、美鈴はどこか穏やかな心地で夢想している。
ああ、この夢か。
もう百年も前になるか。懐かしい、自分がまだ人間だった頃の話だ。
幼くして神童と称えられ、拳ひとつを振り回すのに明け暮れた日々。少女の時分にして、すでに己に並び立つ者など皆無であり、それでも体面を重んじる武術界は美鈴の存在を決して肯定しなかった。美鈴の方もそんな仮初の名声などに用はなく、稀代の天才はやがて闘争の相手を人外に求めるようになる。
それでもなお、美鈴は敗北を知らなかった。闘いの中で才能はさらに開花し、数千年の歴史を持つ武術界でも幻と呼ばれる『気』の概念を自在に操り、魑魅魍魎を葬る術を着実に身につけていった。
輝かしい戦績。約束された勝利。そんなものに、いつしか夢中になっていたのかもしれない。
人間としての美鈴が最後に出会ったのは、あらゆる退魔機関の刺客をことごとく退けながら、海の向こうからやって来た小さな吸血鬼だった。
一目でその強さは見抜いていた。それでも負ける要素などないと思っていた。天地を揺るがすような激闘。死力を尽くし、あらゆる奥義禁じ手を行使した。
その結果、しこたま血反吐を吐かされた上で、美鈴は地面へと叩きつけられた。情けも容赦もなく、負った傷、折れた骨などは数え切れない。
良く見なくても致命傷だった。美鈴の呼吸は少しずつ小さくなっていった。
『ふぅ、汗かいちゃったわね。おまえ、なかなか強くて、面白かったぞ。人間にしてはな』
闘いのときの狂乱ぶりからは想像もできないくらい、幼くも理知的な声に少しだけ驚いたのを覚えている。
ずっと後になって吸血鬼の友人である口煩い魔女に聞いた話だが、このときの吸血鬼は数十年間溜め込んだストレスで、癇癪を起こしている状態だったそうなのだ。それが美鈴との闘争ですっきりして、普段の自分を取り戻したというわけだ。ひどく迷惑な話だった。
地面に横たわり、すでに心臓も動いていない美鈴の眦から、ついと一筋の涙が流れた。幼い頃よりやれ神童だ天才だと持て囃されてきた美鈴だが、そこには常に嫉妬と羨望が渦巻いていた。周囲から賞賛を浴びながらも、美鈴は常に孤独だった。だから、格好は悪いが、少しだけ嬉しかったのだ。ただ一人の敵として立ち塞がった、この恐るべき吸血鬼に認められたことが。
まだ死にたくないと思った。もう一度闘いたいと思った。そして、次は絶対に負けないと、そう思った。
『ふぅ、ん』
吸血鬼が目を細め、興味深そうに笑った。
『おまえの運命は、なかなか面白そうだな。よし。もしおまえが望むなら、生かしてやってもいい。だが、そのときおまえは、もはや人間ではいられない。何者でもない一人一種の孤独な妖として、永遠に等しい時間を苦痛のうちに過ごすこととなる。その覚悟はあるか?』
『―――』
意地も誇りも失くした人間など、こちらから願い下げだ。
『ふふっ。よし』
吸血鬼が美鈴の側で膝を折る。いささか乱暴にその頭を掴み、柔らかな膝の上に乗せる。
『差し当たって、おまえには我が城の門番でもやってもらおうか。招かれざる客が多いから、退屈はしまい。そうして何十年後か、あるいは百年後。また私が私でなくなったら、もう一度おまえが止めてくれろよ』
『―』
今度は負けない。無事で済むと思うなよ。
吸血鬼は愉快そうに笑い、美鈴の頭をそっと抱き寄せ、その耳元で囁いた。
『名前を寄越せ。私に捧げるおまえの名だ』
『……め、ぃ……、ん』
『May-Rin……? ふむ、美鈴か。私はスカーレット。レミリア・スカーレットだ。我が銘をやろう。おまえの国の言葉で紅。今より、紅美鈴と名乗るがいい』
そうして、レミリア・スカーレットは紅美鈴の首元に唇を寄せ、その愛らしい白い牙で頚動脈を食い破り、鮮血をごくりごくりと嚥下したのだった。
それから多くの時間が流れた。レミリア・スカーレットの一家は、時間を操る不思議な人間をメイドとして雇ったり、新たな刺激を求めて幻想郷へと引っ越したり、引っ越した先で先住民に喧嘩を売ってボコボコにされたり、性質の悪いイタズラを咎めに来た変な巫女に、またしてもボコボコにされたりした。
今わの際に、次は絶対に負けないと誓ったあの日。美鈴が死に、紅美鈴が生まれたあの日から、数え切れない強敵と闘い、うんざりするくらい負けた。
それでもその百年の約束は熱を持ち、今でも美鈴の胸の奥で燃えている。
――また私が私でなくなったら、もう一度おまえが止めてくれろよ。
「だというのに、おまえはどうしてそんなところで寝ているんだ?」
「は、はぁいっ!」
ひどく懐かしい気がする声が聞こえて、美鈴は思わず直立不動で跳ね起きた。それは幻聴だったのだろうが、消えかけた美鈴の意識を覚醒されるには十分だった。
危ない危ない。
盛大に咳き込みながら、まだ何とかマシな方の左手で、幾度も胸を叩く。心臓が止まりかけていた。右腕はお釈迦。左脚もだめ。骨折、打ち身は枚挙にいとわず、度重なる脳震盪で頭はグラグラ。内臓だってぐっちゃぐちゃだ。
なんという様か。これでは百年前の方がまだ善戦していたじゃないか。
そうこうしているうちに、どうにかこうにか心臓がやる気を出し、美鈴は安堵の息を吐いた。
しかし、随分打ち込んだと思う。流した気功の量は百年前の比ではない。それでもお嬢様は目覚めない。どれほど溜め込んでおられるのか。
己のうちに仕舞い込んだ殺意と負の感情を抑えに抑えた百年間。それが妹君や親友、最愛のメイド長をはじめとするたくさんの配下、そしてもしかしたら自分すらも勘定に入っているかもしれない、多くの家族を守るための無意識であることを美鈴は知っている。
ありがたい話だ。涙が出る。そんなお嬢様に、報いなければならない。
命と引き換えに交わした約束、それを果たさなければならない。
百年前と今を比べ、足りないものがあるとするなら、それは、殺意。
かつて、美鈴は拙い功夫ながら全身全霊をかけ、レミリアを殺す気で挑んだ。しかし今、美鈴が目的とするのは、闘争を通じてレミリアが正気を取り戻すこと。極力傷つけぬよう、当初は気の使用すら躊躇していた。この甘さ、腑抜けた心構えが、血と死に飢えた夜の王を満足させられぬ要因だとしたら……。
レミリアはとうに気付いている。美鈴がもっと愉快な玩具を隠し持っていることを。親祖たる吸血鬼すら殺し得る、超絶の切り札を会得していることを。
覚悟を決めなくてはならない。臣下としてではなく、狩人として、再びお嬢様の前に立つ、覚悟を。
美鈴は顔を上げる。凄絶な破壊に巻き込まれ、ひどく傾いてしまった城の時計台の上に、レミリアはいた。美鈴が立ち上がるのが分かっていたかのように、門を越えずに、小さな魔王は待っていた。
「お待たせしてしまって、申し訳ございません、お嬢様」
ひゅーひゅーと、傷だらけの唇から無様な呼吸を漏らしながら、美鈴は頭を下げた。長くはもたない。それでも左腕、右脚はまだ生きている。僥倖だ。十分すぎるほどだった。
「今度こそ、紅美鈴、参ります」
真っ直ぐに立つ。壊れた呼吸が沈む。ざわりと、乱れ切った赤髪が揺らめき、明らかに空気が変わる。ここに来て、ようやく、美鈴は百年前の自分自身に追いつくことができた。
そんな美鈴の正面に、レミリアは降り立った。牙をむき出しにして楽しげに笑う口元。ギラギラした光を放つ縦に割れた瞳。小さな身体に込められた絶望的なまでに巨大な力は、今なお美鈴を屠るべき敵として認識している証拠だった。
ただ、感謝。
一念を胸に、ゆっくりと、息を吸う。
吸う。
まだ吸う。
もっと深く。己という小さな海の深淵に沈んだ、最後の力を揺り起こすために。もっともっと深く。もっと奥へ。さらなる深淵へ。
吸い続ける。
やがて美鈴の吸気は、吹きすさぶ嵐のような激しさを纏う。
コオオォオオォォォォォォ――
かつて美鈴が人間だった頃、西蔵の山深い小さな隠し寺にて、修行僧より学んだ理論。独自の呼吸法により体内の血液を波打たせ、振動という形で生命エネルギーを収束させる超常の秘伝。
よく知る気功や理合いとは全く違ったアプローチによる、『気』の行使。
当時は未熟さゆえに体得することは叶わなかったが、百年に及ぶ鍛錬の末、『気を使う能力』を有する美鈴は、ついにその領域にまで到達する。
コォォォォオオォオォォォォ――
腕の、脚の、全身の痛みが痺れに、やがて焼け付くような熱に変わる。身体がゆっくりと整えられる。気が高められていく。身体の中にリズムが生まれる。足元に広がった自身の血溜まりが、煮え立つように激しく震える。
鍛錬では、ここまで練り上げることはできなかった。死の寸前まで追い込まれたからか、あるいは決死の覚悟によるものか。
コオオォオオォオオオォォォ――
この『気』のリズムは、生命の波動。それは太陽光の波長と同じ軌跡で疾走する。
元々は、太陽を最大の弱点とする特別な種類の『吸血鬼』を、そして、その上に君臨するより強大な人外を滅却するために編み出された技巧と聞いている。
なればこそ、同一の弱点を抱える『吸血鬼』たるレミリアにとっても、この呼吸で練り上げた『気』は強大な武器となり得るのだ。
コオオオオォォオオォォォォォ――
そんなものを、ただ黙って眺めるレミリアではなかった。
昏い赤眼が煌く。翼を撓め、不自然なほど大きく仰け反ると、その手に生まれる小さな赤い棘。
一振りすると、それはレミリアの身長をも上回る巨大な槍へと変貌する。『心臓を貫く運命』を具現化した、最高純度の死の呪い。その意は、必ず殺す。
――ハートブレイク
投擲。
吸血鬼の身体能力をもってなされたそれは、どんな魔弾より速く宙を駆ける。
対する美鈴は全力を込め、レミリアに向けて地を蹴った。どうせ避けられないし、新たに気を練る時間など、もはや残されていない。即死さえしなければいい。
全身に漲る波動をほんの少しだけ前面に開放する。微かに走る火花。大気が乱れ、創られた運命が歪む。必中の槍棘は僅かに逸れ、美鈴の右肩に大穴を穿ち、遥か虚空へと消えていった。
「コオオォオォォォォオオオオオッ!」
今この瞬間、美鈴の気は最高潮へと高まった。ふるえるほど、燃えつきるほど。
漆黒の翼を羽ばたかせ、宙に逃れようとするレミリア。今の今まで美鈴の攻撃のほとんどを気にも留めなかったレミリアが、逃げようとしている。それほどの脅威を感じている。
ならばなおさら、
逃がさない!
「っっっ!!!」
一気に弾けた山吹き色(サンライトイエロー)の輝きを纏い、生涯最高の練度でもって繰り出す螺光歩が、レミリア・スカーレットに撃ち込まれた。
「が、げ GGっぎいllliiイイィィイイiiiiiiiっ!!」
聞くに堪えない異形の悲鳴。極限まで高められた太陽の波動を真芯に打ち込まれ、レミリアは無様にぶちまけられた。
「~~~~~~~~~~っ!!」
転げ回る。苦しみ方が尋常でない。腐ったような、焦げるような、ひどい匂いが鼻をつく。
美鈴が打った胸部を中心に、周囲の肉が溶け出している。強靭な翼が滅多やたらに振り回され、やがて力を失い、干乾びるように地面に落ちた。びくりびくりと、痙攣を繰り返した。
「ぐ、げほっ、お嬢様……」
駆け寄ろうとしたが、それができる状態ではなかった。全身から力が抜け、美鈴は倒れ伏した。何もかもが限界だった。
荒く、浅い呼吸。半開きの唇からは、細い血の糸が流れ続けていた。あの呼吸法なら少しは楽になるのだが、それすらできないほど消耗しきっていた。
命があるのが不思議なくらいだった。
ひどい有様だが、とにかくこれで片はついた。次お目覚めになる頃には、お嬢様も正気を取り戻しているだろう。
約束は、守りましたよ。お嬢様。
やっとの思いで顔を上げると、そこにレミリアの姿はなかった。
「……え?」
歪んだ視界の中に映る、一対の小さな赤い靴。
「っ、かはっ!」
蹴られた、と思った瞬間には、美鈴は庭木の大樹に背中から叩き付けられていた。鼻から、口から血が溢れ、全身の筋肉が音を立てて引き千切れたのが分かった。
動かなきゃ。動けっ!
しかし美鈴の身体は意に反して、前のめりに倒れ――るのをレミリアは許さなかった。
とん、と。
鋭い衝撃が走ったときには、もうそれは済んでいた。
「……っあ、あ」
ハートブレイク。あの呪いの槍棘が今度こそ心臓を貫き、昆虫採集のように美鈴を庭木に磔にしていた。
痛い、痛い、痛い、痛い痛い痛いいたいイタイ。
全身を走る冷たい苦痛。魂が燃えていく。消えてしまう。
震える両手で、今も胸に刺さったままの槍を掴む。じゅうと掌の肉が焼ける。槍は抜けない。やがて力を失い、美鈴の手は垂れ下がった。
薄れ行く視界の中で、鬼の形相のレミリアがより巨大で醜悪な緋槍を振りかぶっていた。
――スピア・ザ・グングニル。
ひどく確定的な死がそこにあった。
パチュリー様、ご期待に沿えず、申し訳ありません。
妹様、もう一緒に遊べなくなっちゃいました。
咲夜さん、生きて帰る約束、守れそうにありません。
お嬢様――。
美鈴の瞳が色を失う。がくりと頭を垂れ、今まさに解き放たれようとしている死の運命を、髪の毛の隙間から眺めた。
――それでも、善戦はした。
お嬢様は力の大半を失い、すでに門の外で暴れられる状態ではない。正気を取り戻すのは時間の問題だろうし、今ならパチュリー様と妹様で何とか抑えられるだろう。
役目は果たした。
もう……。
視界が霞む。ちくしょう。知らぬ間に涙が溢れる。死にたくないなぁ。そして、レミリアが槍を投げ、
「美鈴っ!」
引き裂くような声が響いた。美鈴は息を飲んだ。突如として空中に現れたナイフが、レミリアの額に突き立ち、頭を跳ね上げていた。
これは……!
次の瞬間には、吸血鬼の小さな体躯を無数のナイフの群れが包囲していた。踊るように、飢えたピラニアのように、ナイフは各々が意思を持ち、レミリアに喰い付き、引き裂いていく。
殺人ドール!
ナイフは全て純銀製。太陽と同じくらい吸血鬼が苦手とする聖金属を全身に打ち込まれ、今だ胸の肉が溶解したままのレミリアは絶叫し、身を捩る。
ふらつきながら、振り返る。磔になった美鈴との対角線上に、十六夜咲夜がいた。
ナイフを放ったままの姿勢で、顔を死体のように真っ青にし、小刻みに全身を震わせていた。自分がやったことが信じられないという様子だった。
逃げろ!
声にならない声で、美鈴は叫ぶ。レミリアの手の中には、まだ槍がある。凄まじい苦痛と憎悪で愛らしい顔を別人のように歪め、レミリアは吼えた。標的は、最愛のメイド長。
だめだ。
咲夜は動かない。足が竦んだわけではあるまい。蝋のような顔色のまま、かすかに微笑み、目を瞑った。
やめろ!
『私はお嬢様を傷つけない。傷つけられない。そんなことをするくらいなら、死んだほうがマシ』
声が蘇る。そう言ったのに。傷つけないと言っていたのに。それは紛れもないメイド長の本心だったはずなのに。
手を出させてしまった。こんな自分を救うために。咲夜さんはお嬢様に刃を向けた。それを――死んだほうがマシと評していたその行為を、償おうとしている。自らの命をもって。
そんなことをしても誰も喜ばない。あなたを殺したら、お嬢様はもう戻れない!
美鈴の視界の霧が晴れた。猛烈に腹が立った。
『死ぬな』
そう言ったあなたが。
『お嬢様に誰も殺させるな』
そう言ってくれたあなたが。
『必ず生きて帰れ。いいな』
あんなに眩しい約束をくれたあなたが、こんな簡単に死のうとするのか!
先に諦めようとしたことなんて忘れた。後で幾らでも土下座してやる!
「……コオオォォォ」
心臓で良かった。肺を刺されなくて良かった。鼓動は止まっても、呼吸は死んでない。身体の深淵に、生命の波動が再び小さな産声を上げる。
小突いてやると、あっけなく、戒めの槍棘は砕けて消えた。地に足が着く。レミリアの背が見える。今にも咲夜に向け、死槍を放たんとしている。やらせない。
美鈴の身体が前のめりに倒れ込む。それは極端な前傾姿勢。全身の筋繊維が爆発するほどの力で背後の樹の幹を蹴り込んで成し得る、瞬間移動と見紛うばかりの大加速。
縮地。
遠い背後に庭木がへし折れる音を聞きながら、レミリアをすぐ眼前に捕らえた。
振り向いている。牙をむき出し、薄く笑っている。レミリア・スカーレット。狂化してなおの悪魔的思考。戦意がなく、これ以上の脅威にはなり得ない咲夜をあえて狙うことで、美鈴の行動を操作したのだ。
太陽の波長を込めて突き出した拳は空を切る。拳にまとわりつくのは薄紅色の霧。気化することで決死の一撃を無力化し、同時に美鈴の懐に飛び込んだ。
すぐさま身体を生成したレミリアは、もう絶対に逃がさない間合いに美鈴を捕らえ、大きく声を上げ、笑った。その小さな体躯が融け落ち、弾け、吹き上がる。
次の瞬間、『不夜城レッド』を遥かに上回る深紅の十字架が顕現し、美鈴を飲み込んだ。
レミリア・スカーレットという悪魔を構成する肉体から精神、魔力に至るまで、残らず変換した究極の呪詛。それは神を、生命を、運命を呪い尽くす虚無そのもの。
「スカーレット……デビル」
膝をつき、呆然と呟く咲夜。レミリアが自分自身を象徴する銘を授けた、最終殺戮用の絶対的切り札。
「美鈴っ!」
掠れ果てた声で叫んだ。吹き付ける瘴気で魂が剥がれてしまいそうになりながら、咲夜はただ立ち尽くすしかなかった。
荒れ狂う死の奔流の中で、咲夜の叫びを聞いた気がした。ありがとうございます。あなたがいなかったら、私はこんなにがんばれませんでした。
少しだけ笑う。予感はあった。レミリアならこうするだろうと、何となくだが、分かっていた。
だからこそ、必滅の闇炎を敢えて受けたのだ。
左脚を灼かれたときに思い至った仮説。自己の全てを呪詛に変換した、この紅十字の殺界こそが、レミリア・スカーレットという悪魔の本来の姿ではないか。今やそれは確信を帯びていた。死、凶、滅、暴、殺……。邪悪さに満ちた魔素は、悪魔の魂そのものだ。
太陽の波長を打ち込んでも仕留めきれないレミリアだが、激しく燃え上がる魂に内部から直接生命エネルギーを流し込めば、あるいは……!
呪詛は引き潰すような圧力と共に、一瞬で美鈴を蝕む。皮膚は灼け、肉は焦げ、全身の血液が煮え立った。消し飛びかける意識を、ぎりぎりで繋ぐ。すでに目も見えない。それでも動ける。動く!
練り上げた気弾を全方位に向け放出、連鎖的な爆発を巻き起こす空間制圧用の切り札『彩光乱舞』。そこに、腹の底に残った最後の波動を乗せる。
世界でただ一人、美鈴にしか成し得ない『気』を伝播する生命エネルギーが、幻虹色(ファンタズマプリズム)の煌きでもって、レミリア・スカーレットを疾走する。
「―――――――っっ!!?」
叫びは音にすらならなかった。堪らず元の姿に戻ったレミリアの全身は傷つき、白煙を上げていた。
美鈴は駆ける。悪魔の呪詛に蝕まれ、視覚を失い、それでも満身創痍のレミリアを追う。跳躍。飛燕のような静やかな飛翔。
「コオオォォォ!」
最後の呼吸。練り上げた太陽のエネルギーと残された己の全てを左掌に乗せ、生命を賭した無念無想の打ち込み。
――彩光蓮華掌
迎え撃つレミリア。致死量の太陽エネルギーを浴び、なお揺るがない圧倒的な魔力を凝縮。空間すら歪ませながら、渾身の力で殴り潰す。
――レミリアストレッチ
二つの影が交錯したとき、音もなく、地平の彼方が琥珀色に燃え上がった。一筋の光が群青の空を薙ぎ、城を照らし、湖を渡り、幻想郷の果てまで一目散に駆け抜けていった。
夜明けの瞬間だった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「お嬢様、お嬢様。起きてくださいまし」
耳に馴染んだ間延びした声に、レミリアはゆっくりと蘇生した。最悪の目覚めだった。全身が焼けるように痛み、ひどい眩暈がした。
喉を鳴らし、軽く頭を振っていると、視界がピントを結び始める。そこでようやく、レミリアは紅美鈴という不出来な門番と抱き合うような姿勢で、地面に座り込んでいたことに気が付いた。
「うわっ」
キスでもするかのような位置にぐちゃぐちゃに腫れ上がった美鈴の顔があり、ちょっとびっくりした。全てを理解し、それから、少しため息を吐いた。
「美鈴、おまえ、私を殺したな」
数百ある命のうちの、ひとつを殺された。この気だるさが何よりの証拠だ。情けないと嘆くより、美鈴を褒めるべきか。レミリアは笑った。
「よくやった」
「……えへへ」
眩しいように、照れるように、腫れ上がった口元を、美鈴も緩めた。
「ふふっ、ひどい顔だ。私も同じか? それにしても、我ながらずいぶんと派手に暴れたもんだなぁ」
言いながら、周囲を見渡す。なぎ倒された庭木が折り重なり、その向こうには無残に崩落した城壁の残骸。柔らかだった芝生は埃を被って全体的に煤けており、そこかしこで派手に散り剥がされ、台無しになっている。遠くに見える時計台は何かの冗談のように傾いているし、庭を飾っていた精緻な彫刻は粉砕され、散らばった破片の中に足首だけが残っているのがもの悲しかった。
ひどい有様だ。この惨状を元通りにすることを考えると、頭が痛い。蘇生したばかりで体調も最悪だったが、それでも、気分は不思議と悪くなかった。
きっと自分でも呆れるくらいはしゃぎ倒し、暴れまわったからなのだろう。『裏返った』ときの記憶などほとんど残っていないが、じんと痺れるような充実感が、素晴らしい闘争だったことを教えてくれていた。
妙に明るいと思ったら、いつの間にか朝が来ていた。斜めに差す透明な光が、瓦礫や倒木の影を引き伸ばしていた。それでも熱い鉄板に落とした水滴のように蒸発しないで済んでいるのは、十六夜咲夜が当然のようにすぐ側で日傘を差していてくれていたからだ。
「ああ、咲夜、そこにいたのか」
寵愛する従者に、レミリアは弾んだ声を投げた。
「おまえにも迷惑をかけたようだな。迷惑ついでにもうひとつ。美鈴を医務室に運んでやってくれ。見ての通りひどい有様だし、私はまだ身体が自由に動かん。…… 咲夜?」
返事がない。震えている。よく見ると、日傘を差しながら、十六夜咲夜は泣いていた。
「おじょうさま……」
「咲夜、どうした? どこか怪我でも、」
「美鈴は、もう……」
「え?」
身じろぎをした拍子に、レミリアの右手がずるりと引き抜けた。さっきまで美鈴の腹腔に深々と突き刺さっていたそれは、どす黒い血でぬらぬらと濡れ光っていた。
温い。
あふれ出した血と臓物を受けながら、レミリアは呆然と、そんなことを考えた。捩れるような咲夜の悲鳴。美鈴は困ったように少しだけ微笑み、身体を起こそうと試みて、失敗した。
美鈴は、もう息すらしていなかった。
「私、がんばりましたよ、お嬢、様」
「待て」
「あのときの……約束。ちゃんと、守って」
「やめろ、聞きたくない」
「最後に会え、て……ほんと、よかっ」
「だめだ。止めろ。命令だ。聞け、聞けっ、紅美鈴っ」
「さよなら、お嬢様」
力を失った美鈴を、自由にならない身体でレミリアは受け止めた。支えようとしても上手くいかない。焦る。歯の根が合わない。傷口は開いたままなのに、血が止まっている。冷たくなっていく身体にひどく腹が立った。
「咲夜! 何してる早く医務室へ! それからパチェを呼べ! 何をしてる急げ! 咲夜! 咲夜ぁっ!」
こんなの許さない。こんな運命は、絶対に認めない。奥歯が砕けるほど食いしばり、レミリアは美鈴を強く、強く掻き抱いた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
暗く、ふわふわした空間をずっと漂っていた。
右も左も下も上も、感覚も気配もない場所に、ただぽつんと浮かんでいた。
何も分からない。自分が誰かも覚えていない。動くこともできないが、動く気もない。
ふわふわふわふわふわふわ。
あまりふわふわふわふわしていたら、巫女になってしまうよ。そんな心配をしだした頃、美鈴はどすんと頭から落ちた。
「な、何事……。いてて」
受身も取れずに、石造りの床に横たわっていた自分に気づく。起き上がると、だんだんと目が冴えてくる。
湿気た石壁に囲まれた狭い空間。傍らには簡素なパイプベッド。ずり落ちた毛布が纏わりつく。周囲を見渡す。生活に最低限必要な調度品だけを揃えた、ひどく殺風景な、牢獄のような部屋だった。
はて、と。首を傾げる。ここは一体……。
澱んだ空気。黴の臭い。それにしても狭い部屋だ。息が詰まる。生きていくのに楽しみなどいらない、無趣味を是とする者ならばともかく、思い切り身体を動かす楽しみを知る美鈴にとって、ここはあまりに……。
――なるほど。
思い至る。ごくりと唾を飲む。ベッドとは反対側に見える鉄の扉。どこかしらに通じるはずのそれは、おそらく、開くことはないのだろう。悪寒めいた確信がある。以後、自分はここに閉じ込められるのだ。本能で理解する。美鈴の頬を一筋の冷たい汗が流れた。悪魔に殺された者は、必ず堕ちると聞いたことがある。
「ここが、地獄――」
「喧嘩売ってんの?」
「あひゃい!」
驚いて飛び上がった。振り返ると、地獄の獄卒よりもなお恐ろしい十六夜咲夜が立っていた。
「あ、あれ、咲夜さん」
間違いなく、よく知るメイド長だ。不機嫌そうな顔をしている。何故か右足にギブスを嵌め、松葉杖で細身の身体を支えている。
「そんな、どうして咲夜さんが、地獄に……」
「ふんっ!」
「おげぇ!」
達人の美鈴から見ても百点満点のショートアッパーがレバーに突き刺さり、美鈴は腹を抱えて七転八倒。松葉杖に体重を預けながら、咲夜は憮然とした表情で右拳をさする。
「まったく。四日ぶりに目を覚ましたと思ったら、失礼極まりない奴。ここは私の部屋です。瓦礫の下敷きになった子たちで医務室がいっぱいになったから、私のベッドを貸してあげているのよ。次、地獄とか言ったら問答無用で抉るからね」
「うううううぅぅん、すみません」
床をごろごろ転がって痛みを紛らわす美鈴をしばらく見下ろし、それから咲夜は柔らかく微笑んだ。
「まあ、とにかく、目が覚めて良かったわ。お嬢様は心配ないって言ってたけど、さすがに少しほっとした。具合はどう? どこか痛くない?」
「お、お腹が痛いですぅ……」
「ご愁傷様」
「うぐ。あの、どうも状況が把握できませんで……。あの、私ってば、その、言いにくいんですが……、死にましたよね?」
「ええ、死んだわ」
「そ、そうですか。ぐへへ……」
普通に肯定されると、どんな顔をしてよいか分からない。曖昧に微笑んだつもりが不審者っぽくなってしまい、美鈴はますます憂鬱になる。
そんな美鈴にため息をひとつ。咲夜はよいしょと自らのベッドに腰を下ろした。
「いいわ、順を追って教えてあげる。ちなみに、どこまで覚えているの?」
言われて思い出す。百年ぶりに正気を失ったお嬢様と、ガチでやった。ごっこではない、生命を賭した本気のステゴロ。夜通し殴り合い、敬愛する主をコテンパンに叩きまくった。一方自分も壊された。手加減なしの悪魔の力は常軌を逸しており、冗談みたいにボロクソにされた。腕を捻り切られ、全身を灼かれ、心臓すらも消し飛ばされた。
そして終わりのとき、互いに死力を尽くした最後の一手をその身に受け合い、朝焼けの中に沈んだ。お嬢様はようやく正気を取り戻し、咲夜さんは泣いてて、自分の腹には大穴が……。
「あれ?」
やっと気づく、腹腔にぶち空けられた穴がない。そういえば脚も、腕も、全身の火傷も打ち身も骨折も、完治ではないものの、ずいぶんマシになっている。得体の知れない治療が施された形跡があった。
「傷が、癒えてる……?」
逆に不気味な心地だった。癒えるとか、治るとか、そういうレベルの怪我ではなかったはずだが。吹っ飛ばされたはずの心臓すら、今は力強い鼓動を繰り返している。
「これ、パチュリー様が?」
「いいえ。パチュリー様もずいぶん頑張ってくれたけど、どうしようもない状態だった。……八意永琳って知ってる?」
「ひっ」
永遠亭の天才キチガイ!
「彼女の施術よ。評判はともかく、腕は確かだったわ。大丈夫、ちゃんと立ち会ったから、変なことはされていない……と思う。多分」
「はは、は」
笑うしかなかった。手がロケット噴射で飛んだり、分離変形ができるような身体になっていたりしないことを、祈るしかない。
「まあ、ともかく、私は咲夜さんに命を救ってもらったようですね」
「うん?」
幻想郷のパワーバランスの一翼を担う永遠亭。その影の首魁とすら噂されるほどの人物が、紅魔館の門番風情のために出張ってくるはずがない。ここは力と弾幕が支配する幻想郷。我を通すには、相手に参ったと言わせるしかない。
咲夜の怪我はそのときに負ったものだろう。全く、恐ろしい人だ。月の頭脳、八意永琳を向こうに回して、美鈴だったら脚の一本程度では絶対に済まない。
美鈴の意図を悟った咲夜は、自分のギブスと松葉杖にちらりと目をやり、少し恥ずかしそうな顔をした。
「……まあ、巫女ならもう少し上手くやったかもね。でも、違うわよ」
「え?」
「私があんたを救ったわけじゃない。確かに、私は八意永琳にあなたの怪我の治療をさせた。だけど手遅れだった。あなたはもう死んでいた。月の医術をもってしても、死者の蘇生はできなかった」
紅魔館の医務室で緊急手術を終えた永琳は、渋い顔で首を横に振ったという。並みの妖怪なら百回死んでもお釣りが来るような肉体の損傷より、悪魔の呪詛を何度も浴びた方が致命的だった。
魂が跡形もなく消し飛んでおり、怪我を塞いでも美鈴は息を吹き返さなかった。パチュリーが喘息に苦しみながら、何度も魂魄返しの秘術を施していたが、効果はなかった。
皆、言葉もなく、うな垂れていた。フランドールは泣きじゃくっていた。永琳からの報告を詰まらなそうに聞いていたレミリアは、話が終わると立ち上がり、ちょっと出かけてくる、と言った。
「どこへですか?」
「順を追って説明しているんだから、口を挟まないで」
咲夜は脚を折っていたため、主のお供ができなかった。だから、これは後になって聞いた話だ。
レミリアが向かった先は妖怪の山の向こう。中有の道を抜けた先。三途の河だった。そこで見つけた顔見知りの死神を一瞬で簀巻きにして船を奪い、レミリアは彼岸へと向かった。
『生きながらにして三途の川を越える奴がいるなんて思わなかったね』
船上で、簀巻きにされたままの死神は感慨深そうにそんなことを呟いたという。
「ちょ、ちょっと待ってください」
堪らず、美鈴は口を挟んだ。簀巻きにされた死神というのは、たぶん昼寝仲間のアイツのことだが、そんなことはどうでもいい。
「彼岸って、まさか……」
「そう。お嬢様は彼岸まで出向いて、閻魔様に話をつけて、あんたの霊魂を奪い返してきたのよ」
「な」
無茶苦茶だ。
「まあ、普通じゃないわね。でも、お嬢様は悪魔。誘惑と契約による魂の簒奪者。元々そういう類のモノの扱いは、得意なんじゃないの。
それに、よく分からないけど、『死にたて』の霊魂っていうのは、熱した鉄みたいに加工しやすいし、動かしやすいって、パチュリー様も言ってたわ」
咲夜は少しまじめな顔になり、声を落とした。
「もちろん、そんなに簡単な話じゃなかったみたいだけどね」
相手は閻魔・四季映姫ヤマザナドゥ。隙間や亡霊姫すら畏れる輪廻の管理人。幻想郷の裁定者。噂くらいは聞いている。厳格で鳴る彼女が一個人の反魂など許すはずもない。
そこで一体どんな『話し合い』が行われたのかは、咲夜も知らない。しかし深夜になって館に帰ってきたレミリアは、美鈴にやられたのとは別に十を数えるほどの命を失っていた。消耗はあまりに激しく、それ以来ずっと寝込んでいた。
「そんなに……」
美鈴は絶句した。ここに来て、美鈴は己のしでかしたとんでもない過ちに気づいた。
『生きて帰る』という咲夜との約束を、美鈴は破ろうとした。命を諦めた。レミリアとの百年の約束を果たし、皆を助けるためなら、自らの死も止むなしと切って捨てた。
それがこの様だ。咲夜に怪我をさせ、パチュリーの手を煩わせ、フランドールを悲しませ、挙句の果てにはレミリアの命を大量に失わせた。
美鈴は絶対に諦めてはいけなかった。最後の瞬間、調子こいてレミリアに別れなんか告げている暇があったら、気合一発、生きる努力をするべきだった。
少し考えれば分かっていたはずだ。美鈴が守ろうとした、大好きな家族たちは、引き換えに美鈴が死ぬことなんて絶対に認めない。許すわけがない。美鈴が命を賭けて守ろうとした同じ分だけ、助けられるに決まっているのに。
美鈴の大きな目が潤み、清らかな泉のように涙が溢れた。鼻水も垂れた。
「ざ、咲夜ざんっ!」
「なに?」
「私が間違っでいばじだっ! 守る、つもりが、守られ、て、お嬢様、命を、たくさん、咲夜さに、も、怪我っ……。わ、私を、殴ってくだざいっ!」
「オラァ!」
「べぶっ!」
抉り込むような右フックにテンプルをぶち抜かれ、もんどり打って美鈴は倒れた。
「言っとくけど足りないくらいだからね。皆、どれほど心配したか。フランドール様がどれだけ泣いたか。私だって……」
興奮に頬をうっすらと染め、咲夜は囁くように言った。最後のほうは声が湿っていた。そんなことにも気づかず、美鈴はよろよろと立ち上がり、涙をどばどば流した。
「ご、ごめんさい。ごめんなさい」
背中を丸め、声を震わせ、美鈴は幼子のように泣いた。こっそり涙を拭い、咲夜は美鈴の手を握った。
「……私もね、お嬢様にひどく叱られたのよ。あの時、自分の命を捨てようとしたこと。ふふ、頬を張られたのなんて、初めてよ」
そう言って、愛しげに己の右頬に指を這わす。
「だから本当はね、私も偉そうなことなんて言えない。あんたと同じことをして、お嬢様を悲しませるところだった。だから、あんたにも私を殴る権利があるわ。殴りなさい」
そんなことできるわけなかった。代わりに、美鈴は咲夜に抱きついた。咲夜は姉のように、母のように、自分より遥かに年上で、上背もある美鈴を優しく抱きしめた。
「美鈴、あんたにお礼を言わなきゃね。助けられたわ。それに、約束を守ってくれた。『生きて帰ってきた』わね、美鈴。どんな過程であっても、あんたが今ここにいることが嬉しい。だから、ありがとう。お帰り、美鈴」
「美鈴!」
病室代わりの咲夜の部屋から出た美鈴は、ばったりとフランドールに会った。美鈴を見たフランドールは目を丸くして、持っていた本の束をダバダバ落とした。
「あ、妹様……えぶぅ!」
全力で腰元に抱きつかれた。一瞬身体がくの字に折れ曲がったが、何とか持ち堪えた。
「美鈴美鈴美鈴めいりんめーりん! 目が覚めたの? 生きてる? 大丈夫なの?」
「ご、ごほ。心配をおかけして、ごめんなさい、妹様。紅美鈴、ただ今戻りました」
「うんっ。うん!」
フランドールは顔をくしゃくしゃにして笑った。嬉しそうだった。美鈴は、死なないで本当に良かったと、心から思った。
「美鈴美鈴! 私ね、ずっと美鈴が闘っているところ、見てたんだよ! パチェの水晶玉で見てたんだ! すごいね、強かったね! お姉さまをズバーってやっつけてたね! 美鈴がグシャってなっちゃったときは、怖くて目を瞑っちゃったんだけど……」
その光景を思い出したのか、唐突に声を潜めたフランドールの頭を、美鈴は優しく撫でた。
「フランドール様の声、聞こえましたよ」
「本当!?」
「はい。一瞬でしたけど、私のために叫んでくれたのが、確かに聞こえました。ありがとうございます。本当に、勇気付けられました」
「うんっ!」
牙をむき出して笑い、フランドールは猫の子のように喉を鳴らした。
「美鈴、本当は強かったんだね。知らなかった」
天真爛漫な笑顔に陰が刻まれる。
「ね、お姉さまだけじゃなくて、今度は私とも、いっぱい、『遊んで欲しいなー』」
綺麗にハモったカルテット。興奮したフランドールが無意識のうちに作り出したフォーオブアカインドの分身たちと共に、双眸を真っ赤に濡らして、美鈴を取り囲む。
美鈴の頬を冷たい汗が伝った。
「あ、その、妹様。たくさんの本をお持ちでしたが、どちらに行かれるつもりだったので?」
「え?」
意表を突かれたフランドール。分身も消える。
「あ、いけない。パチェにお使いを頼まれているんだった!」
「お使い?」
「そう。パチェったら、魔法の使いすぎで、喘息がひどくなっちゃったんだって。軟弱よねぇ。パチェの部屋は埃っぽくて喘息には良くないから、今は医務室のベッドで寝ているんだけど、咲夜が『病人は寝ていなさい』って言って、ご本を隠しちゃったんだ。だから、今こっそり図書館から別のご本を運んでいる最中なの!」
「そうなんですか、偉いですねぇ」
「うんっ!」
なでなで、ゴロゴロ。
咲夜の話によると、パチュリーの喘息の原因は、美鈴を救わんとして禁呪を連発したからだという。頭が下がる。
後で何かお礼を持って、お見舞いに行こう。きっと面倒くさそうな、詰まらなそうな顔をして、露骨に寝たふりをされるか、虫を払うみたいにあっちへ行けと言われるのだろうが、一見冷たげだけど本当は家族思いな紅魔館の作戦参謀が、美鈴は好きだった。
「あれ、美鈴、目が腫れてるよ」
「い、いてて」
顔を掴まれ、強引に引き寄せられた。
「涙の跡。泣いたのね? 誰かに苛められた? それとも怪我が痛むの?」
「どっちも違いますよ。悪いことをしたので、叱られたのです。悲しくて、情けなくて、少しだけ泣いてしまったのですよ」
「咲夜ね。怒ると怖いもの、人間の癖に。でも、だめよ、美鈴。泣いても何も良くならないわ。悪いことをしたのなら、ちゃんと目を見てごめんなさいをしなくちゃね」
その通りだ。
天真爛漫な悪魔の妹君と別れ、美鈴は一番ごめんなさいを言わなくてはならない人の元へ向かった。
拵えの良い樫の扉を恐る恐るノックする。しばらく待つ。返事がない。もう一度ノックをするか、出直すか、思案しているうちに、最高に不機嫌な声が中から聞こえた。
「入れ」
「は、はぁい」
おっかなびっくり扉を開け、中に身体を滑り込ませる。足元は上質な絨毯で、靴を乗せると、踝まで沈んだ。土足でいいのかしら。お嬢様の寝室にお邪魔したことなんてほとんどないから、そんなトンチンカンな疑問すら浮かんだ。
ひどく軋みながら、樫扉はゆっくりと閉まる。暗い。紅魔館の主の部屋は、当然のように窓がなく、明かりもなく、深海のように沈殿した静かな暗黒の中にあった。
やがて、目が慣れる。寛ぐにはもってこいの、ローテーブルを囲むL型カウチソファが見える。日課の絵日記を書くだけにしては、あまりにも上質すぎるアンティークデスクが見える。部屋の隅には贅を凝らしたバーカウンターまである。すげえ。
「何をしている」
しかも部屋は二間続きになっていた。声はそっちから聞こえた。
「あ、あのー、お嬢様」
小市民丸出しで、びくびくしながらそちらを覗く。厳密には、そこからがレミリア・スカーレットの寝室だった。隣よりは幾分小さめの落ち着いた部屋に、発情した孔雀のような装いの天蓋付きベッドがある。その柔らかそうな布団の上に、黒塗りの小さな棺桶が横たわっていた。
以前、パチュリーか誰かに、聞いたことがあった。レミリアは普段ベッドで眠る。狭い棺桶に入るより、その方がお洒落だと信じているからだ。だから、もしレミリアが棺桶で眠るようなことがあれば、それは古式に則らざるを得ないほど極度に消耗している証拠なのだと。
ごくりと唾を飲み込んだ。
「……お嬢様、紅美鈴が参りました」
「えっ、美鈴!?」
「わっ!?」
棺桶の蓋が勢い良く開いた。びっくりして引き気味の美鈴を、棺桶の中から顔を半分だけ出して、レミリアは見つめた。
「あ、その、棺桶の中にいると、声がこもって聞こえて、それで、あんただとは気づかなかったのよ。えーと、おはよう。目が覚めたのね」
「え、あ。は、はい」
やつれている。暗闇でも分かるほどだ。頬はこけ、血色は悪く、元来の人並み外れた美貌と合わさり、幼いながら妙な色香すら漂わせている。
「お、お嬢様。その、お加減は……」
思わず聞いてしまってから、美鈴は唇を噛んだ。良いわけないのに。
咲夜に聞いていたはずだ。閻魔とやり合い、命をたくさん失ったこと。それからずっと寝込んでいること。
「う、うん。存外に良いわ。明日になれば、起き上がるのも、何とか……」
もじもじしながら、レミリアはごにょごにょ呟く。棺桶の中から、美鈴をちらちら盗み見る。その弱々しい様子が見ていられなくて、美鈴は視線を落とした。取り返しのつかない失態の責任があまりにも重く圧し掛かっていた。
謝らなければならない。
「――あの、お嬢」
「美鈴、ごめんね」
「……へ?」
意外すぎるほど意外な言葉に、美鈴は思わずフリーズ。
「いや、私やり過ぎて、あんた殺しちゃったし……。『裏返え』ると本当に制御効かないから、言い訳じゃないんだけど、今回は百年ぶりで、ちょっと溜め過ぎちゃったみたいっていうか、こんなことになるとは思わなくて、その」
キャラに似合わず神妙な様子の美鈴が、怒っているとでも思っているのか、レミリアはますます小さくなり、棺桶の奥の方に引っ込む。
「……ごめん、ごめんね。悪かったって反省している。こんなことで許してもらえるなんて思ってないけど、美鈴、私のこと気が済むまでぶっ飛ばしていいからぁ!」
最後の方は泣きが入っていた。自分も、咲夜も、レミリアですら、ぶん殴られることで水に流そうとする。何という肉体言語か、紅魔館。そう思うとおかしくて、美鈴は少し笑った。
「な、なによう」
「お嬢様」
美鈴はレミリアの棺桶に駆け寄り、額がめり込むほどのジャパニーズ・ドゲザを繰り出す。
「ちょ、え、美鈴?」
「謝らなきゃいけないのは、私の方です。すみませんでしたっ! 私が不甲斐ないばかりに、お嬢様のお手を煩わせました! 私ごときを助けるために、十の命を失われたと聞きました! あってはならないことです。私が情けないせいで、お嬢様に大変な迷惑をっ!」
「やだ、止めなさい、美鈴。元はといえば私が悪いのよ。私がもっとちゃんと自分を抑えられていれば」
「いや、そんな。私が簡単に諦めたからです。本当なら」
「いやいや、私が」
「いやいやいや、私が」
「いやいやいやいやいや」
「いやいやいやいやいや」
「………」
「………」
何だか妙に下らなくなって、美鈴も、レミリアも、言い合うのを止めてしまった。互いが深く思いやっていることを知れば、謝罪の言葉なんてあまりに陳腐だった。家族だから、ごめんと言って、いいよと返せば、それで全部おしまいになるのだった。
請われて、美鈴はレミリアを抱き上げ、ベッドの端に座った。レミリアは見た目通りの幼い子供のように、美鈴の腕の中でもぞもぞ動いて、自分の居心地の良い姿勢を見つけると、えへへと照れたように笑った。
「フランや咲夜には言うなよ。美鈴、がんばったご褒美だ。今日だけおまえに甘えてやる」
「ふふふ、光栄です。ありがとうございます。お嬢様」
レミリアは目を細め、引き締まったしなやかな美鈴の身体に、鼻先を摺り寄せた。
「美鈴」
「はい?」
「少しでいい、おまえの血が飲みたい」
「おやおや、指で構いませんか?」
「うん」
美鈴にしがみついたレミリアに人差し指を寄せる。高度な拳法を修めたとは思えぬほどにほっそりとしたその指に、レミリアは愛おしそうに頬ずりをし、可愛らしい小さな舌でチロチロ舐め、それから白い犬歯で優しく噛んだ。
「……っ」
溢れ出した紅い血を、レミリアは目を瞑り、鼻を鳴らしながら、美味しそうに嚥下した。
「痛いか?」
「いいえ。ただ、昔のことを少し思い出しましたわ」
「百年前か?」
「はい」
「あの頃のおまえも強かったが、更に強くなったな」
「頑張りましたもの。お嬢様も、相変わらず、とんでもない強さでしたよ」
「もちろん、夜の王だからな」
額を寄せ合い、二人で笑った。血と破壊に彩られたあの恐ろしい死闘を、二人はそうやって、セピア色の思い出にした。
「あのときの約束、守ってくれたな」
「はい」
「次の百年後、またおまえに任せたい」
「はい」
謳うように、美鈴は最高の笑顔で、その輝く新たな約束を、心臓の隣に仕舞い込んだ。
「もちろん。この紅美鈴にお任せ下さい!」
妖怪讃歌な波紋戦士美鈴、ありですな。
紅魔館メンバーの良さが凝縮されていて
感動しました。
100点じゃ足りないくらいです。
これからもがんばってください!
ちょっと唐突な展開の感じだけど「この瞬間の為に雇われていた」と言うのは実に面白いネタだと思います
美鈴が実はお嬢とタメを晴れると言う見解を持つ自分としては特に
でもシリアスに美味くパロ(波紋)が溶け込んでない気もするなー
> 永遠亭の天才キチガイ!
ひどいがちょっとわらたw
戦闘描写もかっこよかったし、美鈴もおぜうもかっこよかった。
で本当に燃え尽きちゃったよ
美鈴は波紋の技だけでなく呼吸法もちゃんと学ばなくちゃね
呼吸さえちゃんとしていれば首だけになっても波紋入りのバラとか使えるらしいし
テンションあがりすぎてやばい
どこの少年誌に出しても恥ずかしくない熱さだった
というか死んでた
美鈴と永琳の間に面識がないなら天才キチガイ!の人物評になるのもよくわかる。
ということで咲夜さんはもしかして空回っちゃったんじゃないだろうか、
とか妄想する一読者です
それが正解か見当違いか、どんなストーリーがあったのか。
あとお嬢様の彼岸交渉の話も読みたいと思いました
話自体が面白いだけじゃなく、サイドの部分も何があったんだろかって
興味を持たせてくれたこの作品に文句なしの100点です
波紋疾走!
とてつもなく愛らしいお嬢様の御姿が頭にスパークした自分の二次脳がうらめしい
あとはやはりえーりんへの反応が、やはり。
そんなこんなな魔作かと思えば終盤きれいで佳かったり。なかなか楽しめました。
いやぁ激アツなバトルSSでした。
自分も彼岸交渉が見たいと思いましたね。