※本作品は作品集149「La raison de la grand-guignol」の設定を引き継いではおりますが、深い繋がりはございません。単純に独立した作品として見て頂いて結構です。
――――――――
空が爆ぜた。
焦げた布地と火の粉を撒き散らし、黒々と空にカーテンが広げられる。
カーテンを屠り、夥しい数のナイフが少女に殺到する。
しかし、それを見通していた彼女は”糸”を張り巡らせていた。
向けられていた切っ先全てが、彼女の眼前で弾かれた。
目に刺さる赤と、細く微かに見え隠れする糸が、檻を象っていた。
檻はそれ以上に成る事は赦されない。魔力を湛えた糸は術者を閉じ込める以外の術を持ち合わせていなかった。
目まぐるしい速度で展開していた戦いは、既に佳境を迎えていた。
黒煙の中から、メイドが躍り出る。
刃が檻を捉え、強引に切り裂かれる。
白銀のナイフは黒々とした鉄片へとその姿を変え、赤き檻にぽっかりと大きな裂傷を残した。
露わになった術者――少女の喉元へ、真新しいナイフが突き付けられた。
「さぁ、今回の騒動の張本人は一体どこのどいつ?」
はらり、はらりと檻の格子が音も無く崩れ去っていく。
「……風下の寂れた神社。頭が春っぽい巫女が住んでるから、そいつに違いないわ」
どんな手品か知らないが、いつの間にか突き付けられたナイフが数を増やしていた。指の間に柄を挟み、四本で掻き切る形となる。
流石にお遊びが過ぎたと手を大袈裟に広げ、投降の意を改める少女。
「冗談はさておき……あなたが桜を集めるたびに、春が近付いてる事に気が付かない?」
「風上ね」
「何も言ってないのだけれど」
寒々しい灰色の空を見上げたメイドは、風に流れてくる布切れを手に取る。それは、先程まで人の形をとっていたモノであった。
「ごめんなさいね、折角のお人形さん壊しちゃった」
「壊される前に炸裂させてたけどね」
「壊す位なら私に下さいな」
「今言うか」
メイドは悪戯な笑みを浮かべ、布切れを放すや否や風上へと駆けた――否、姿を消した。
嘘偽り無く、消えたのだ。ただ、残された少女の脇を布切れが掠めていった。
――厭な幕引きだ、と少女は小さく嘆息を漏らすのだった。
――――――――
宴もたけなわ。
今宵もまた、東の最果てに建つ神社には少女達が集い、ある者は灯を囲み、ある者は酒を呑み、ある者は詠い、おのおのが夜を愉しんでいた。
今宵もまた、と言うのにも理由がある。
この宴会自体、異変だったのだ。
春過ぎて、夏来たるらし。季節が夏に差し掛かった矢先の異変であった。
宴会がやたらと多いのだ。
三日に一度は宴会があった。それ以上に変わった兆候はなく、これ以外に的を射た表現があろうものか。
宴で騒ぐのは良い事だ。しかし、妖怪や亡霊が一カ所に留まり三日三晩騒ぐ様を想像してみると良い。果てなく続く百鬼夜行か、跳梁跋扈の地獄絵図か。捉え方は人それぞれ、ここまで長続きすれば、当事者の皆が不審がるのも時間の問題であった。
今宵もまた。
奇怪に続く宴に首を傾げながらも、それに興じる少女達が相も変わらず居るのである。
§
神社の縁側に腰掛ける二人の少女。
目に刺さる程に赤い巫女装束に、人形の如く小奇麗な服装。
宴の喧騒の中、この二人だけは”異変”を視ていた。
「あんたはどう思ってるのよ、”これ”」
巫女――博麗霊夢は、うんざりしきった表情で眼前の騒ぎを指差す。
「……特に何も」
その横、アリス・マーガトロイドは特に関心も持たぬ様子で、適当に返した。その手には、一口も付けられていない杯が乗せられていた。
「そういう貴方はどうなの? 主催として」
「主催とは心外ね。私が主犯とでも言いたいのかしら」
「他意は無いわ。ただ、異変解決の専門家としてのご意見を拝聴しようかと思って」
「……異変ね。それも被害はたったの一カ所に集中する。とんでもなく厄介な異変だわ」
霊夢は大仰に腕を広げ、頭の後ろで組むとそのまま縁側に倒れ込んだ。
側にあった、なみなみと酒の注がれた杯が揺れる。彼女も酒は口にしておらず、頬も血色の良い肌色のままであった。
「ご愁傷様とでも言えばいいのかしら」
「いつもの事だし……いや、いつもは困るのだけれど」
今更ねぇ、と苦笑するアリスを横目に体を丸め始める霊夢。
「ねる」
「不貞寝はみっともないわよ」
「そうだ、寝るにはまだ早いだろ。んん?」
声のする方――祭りの喧騒を遮る様に立った、黒と白の影。
「興が乗らん、って感じだな。アリス」
「そう言う魔理沙も、呑んでない様だけれど」
魔理沙。普通の魔法使い、霧雨魔理沙。そう呼ばれた彼女も酒気を帯びていなく、平静を保っている。
「これから厭と言う程付き合わされるんだ。それに備えたって別に構わんだろ? 宴は戦争だぜ」
「戦争ねぇ……」
「その戦場に神社 が毎回選ばれてるのよ。片す身にもなってみなさい」
「馬鹿言え、ここ以上に戦いやすい場所は無いぜ」
「そうね、ここ程宴会 に向いた場所は無くてよ」
霊夢とアリス、そして魔理沙から更に喧騒を隔てて現れた、宴の灯に逆らって伸びる、大小の影。
その影に気付いた霊夢が体を起こし、心から厭そうな顔を以て、二人を出迎えた。
「ご足労……とでも言えばいいのかしら。レミリア」
「あら、分かってるじゃない」
小さな影の持ち主――レミリア・スカーレットは、異様に長い犬歯を見せつけるかの様に、不適な笑みを湛えたまま霊夢に歩み寄った。
その小さな影から、新たに一対の影が、宴の灯を遮らんと広げられた。
「こんなにも愉しい夜なのに。まだ眠るには早いわ」
「私はあんたみたいに吸血鬼じゃないのよ」
「咲夜」
レミリアが踵を返すと同時に、霊夢の体は大きな影の持ち主に羽交い締めにされていた。眼前を遮っていた影の片割れは既に彼女の背後に居る。
「呑み相手が居なくて困ってたの。相手なさい」
そのままの格好で持ち上げられた霊夢は、げんなりと首を後に倒し、背後の影をなじった。
「……疲れない?」
「たとえ不本意なれど、お嬢様の御心の儘に」
「聞いた私が馬鹿だったわ」
境内から引き摺り落とされる紅白を、無表情で見送るアリス。
「そうそう、そこの」
半ば振り返り、レミリアは縁側に腰掛けるアリスを手招く。
その意図が分からず魔理沙に視線を仰ぐも、わざとらしく肩を上げるだけで答えはそこに無かった。
「妹がお世話になったみたいね。お礼としては無粋だけど、貴女もいかが?」
アリスは少し躊躇った後、再び隣の魔理沙に視線をやる。
魔理沙は笑い、喧騒の一角を後ろ指で示す。相手は幾らでも居る、と言う事だろう。
「悪いわね。……ご一緒するわ」
§
期間にして二月程前、話は少し遡る。
とある魔術を完成へと進める為、同業者であるパチュリーに協力を仰ぐべく紅魔館へ一人赴いたアリス。
――が、肝心の同業者を作業に引き入れる事も出来ず、相も変らぬ単独作業。幻想郷はそう易々と完成を許す程甘く無かった。
無論、場所が場所故に邪魔も入る。
話に聞いただけの存在であったレミリアの妹、フランドール・スカーレット。よもや邪魔に入られたのが彼女だったとは。
払った犠牲は大きかったが案の定、魔法は完成した。否、よくぞ完成してくれたとでも言えばいいのか。代価に見合っているとは到底思えない。
その魔法の世話になるのは、また別の話。
礼、と言うのは主にお守りの事で、だろう。それ以外でアリスにとって合点が行く答えは、思考の範疇に存在しなかった。
「妹が世話になったようね」
開口一番に答えをくれた。満足のいく答えも出、胸を撫で下ろすアリス。
「礼を言われるような事はしてないわ。それに、そちらの世話になったのは私の方だから」
「そう。咲夜」
従者を呼ぶ。その声を最後に、レミリアは
獲物 へと襲い掛かった。
「私じゃ飲めない?」
「いや、まぁその……」
「まぁいいわ。妹様の世話係を買って出てくれたのよね?」
「不可抗力よ。そうする以外に通れるルートは無かったわ」
口では賛辞を述べているが、猜疑心の晴れぬ眼差しが如何にもし難い。用心に越した事は無いとアリスは口をつぐんだ。
本当に聞きたい事象は別にある。彼女もわざと
「して、どうやって妹様を手込めにしたのかしら」
「ハナからそう言いなさい」
アリスは手招く形で指を動かすと、懐から一体の人形――上海人形が顔を出した。ゆったりと肩に留まった人形の頭を、指先でそっと撫でる。
咲夜へ一体の人形が差し出される。下半身が無い代わりに、大きな穴がぽっかり空いた人形だった。
「最初はこの子――上海が捕まったのだけれど、その人形と交換を条件に返してもらったの。この子が壊されたら堪ったもんじゃないわ」
この型の人形は珍しいのか、衣服を摘まみ上げたり、髪の毛を払ってみたりと、触れる手が止まらない。
「それ、フランに渡したげて。あの子が壊したのを新しく作り直したの」
人形を弄れるだけ弄り倒し、嘆息を一つ。加えて――
「私にはくれないのかしら」
「……は?」
――――――――
ろくに酒を口にしていないにも関わらず、頭が重い。
頭痛を伴うソレは、酔いによる気持ち悪さとはまた違っていた。残留思念と言えばいいのか、どこまでも引きずるような重さだった。
兎角、アリスは混乱した頭の整理を始める事にした。
しかしながら――どうしてこうなった。
十六夜咲夜。
その名を耳にした――彼女を彼女と認識したのはつい最近の事、それもこの頻発する宴会による物であった。
冥界に春が集まる異変、俗に言う春雪異変でアリスは一度咲夜と会っている。
異変解決の為に冥界へ急ぐ咲夜と、その前に立ちはだかるアリス。弾幕混じりのファーストコンタクトだった。
面を合わせたのは二回に過ぎない。従者にしてはおこがまし過ぎやしないのだろうか。
考えあぐねてはいたが、いつしか机上には、小綺麗に裁縫道具が並べられていた。
(作るったって……)
人形の構想一つで何を迷っている、アリスは己に言い聞かせるも頭は働かない。
「ああもう。ついでよ、ついで」
紅魔館に行けばフランに託した人形と、フラン自身の様子も見られるだろう。
そうだ、あくまでも”ついで”。アリスは強引に見切りを付け、腕を動かし始めた。
――――――――
結局、夜通しの作業の甲斐あって人形は出来た。
銀髪に腰掛けのエプロン、藍色寄りの青をしたメイド服。普段作っている型の人形を、十六夜咲夜に似せたマイナーチェンジ。
――と、ここまで来てからアリスは悔いた。完全に彼女の思うつぼではないのかと。
乗せられているのは気に食わないが、費やした時間は帰って来ない。
どこまでも乗り気でないのは確かだが、異様に重い腰を上げたのであった。
§
実際の所、人形は門番に任せて足早にここを去る積もりだったのだが――
「サボタージュね」
シエスタである。邪魔をしてはいけない。
器用に立ったまま寝ている。夢心地な門番を門ごと飛び越した。
呆気なく庭へ降り立ったアリスは、急ぎ足で玄関を目指す。
警備こそザルだが中は監獄。それでまかり通っているが故に、人妖問わずこの館に寄り付く者は皆無に等しい。居るとしたら、余程の酔狂か異邦人か。
些細な事には気も留めず、アリスは扉を押し開けた。
陽が昇っているにも関わらず、館内は至る所で灯りが灯されている。加えて、仄かな暗さが残る。
ここの主、レミリア・スカーレットは吸血鬼である。そして、その吸血鬼が忌み嫌う物の一つに日光がある。
故に、窓を作らずとも灯りを確保出来、尚且つそれが十分である事が絶対条件になる。
しかし灯りこそ点っているものの、やはり薄暗さは完全に拭えない。見えない、と言う程では無いが。
幸い、館内はそこまで入り組んでいない。適当に下りていけば図書館にでも着くだろうと考え、アリスは紅魔館の奥へと足を進めた。
「お困り?」
「結構」
自然な応対。
耳で理解する。
遅すぎた。
振り向くより早く、眼前に文字通り「現れた」、十六夜咲夜。されど彼女の顔は何処かで拍子抜けた表情をしていた。
「いつもの黒鼠かと思えば」
「悪かったわね」
「で、何用」
場合によっては、と脅しを含ませた声に多少は身じろぎするが、毅然とした態度を崩さず、彼女を正面に捉え続けた。
「丁度良かったわ、元はと言えば貴女に会う為に来たのだし」
咲夜はここで初めて表情を崩した。猜疑の念に駆られ、眉間に皺を寄せる。
「……呆れた」
更に顔を猜疑に歪ませる咲夜の胸に、人形を突き出す。
丁寧に編み込まれた銀髪、青を基調としたメイド服に掛かる白いエプロン。見紛う事なく十六夜咲夜のそれであった。
「これは?」
「……何時ぞやの物よ。大事な一日を一つくれてやったんだから、感謝なさい」
人形を手に取った彼女は、礼を言うでも喜ぶでもなく――
「……くふふ」
館に、笑い声が響く。
あっけらかんとしたアリスを余所に、見る者も居ない人目を憚る事もせず、腹を抱えて笑い続ける。
アリスはひとしきり笑い終えるまで、ただ彼女の前で待ち続けた。
「満足?」
「……ゃあ、ね。まさか本気だったとは見ず知らず。冗談が通用しない子だとは思って無かったから、悪かったわ」
知らずと溢れた涙を指の背で拭う。その肩は未だに切れ切れの息と共に細かく上下している。
深呼吸を一回。それに合わせ、荒かった呼吸も次第に規則正しくなっていく。
「まぁ……可愛いから、良いか」
「当然よ、私の人形だもの」
「そうじゃないのよ」
咲夜が消えた。
いや違う。
”首筋に吸いついていた。”
いや違う。
接吻だ。
跡が残る程に、強い接吻。
喉元、頬に掛けて舌が這われる。
生暖かな感触が頬を伝う。
背筋に走る悪寒に顔をしかめるも、決してそれを止める様な真似はしなかった。
行為の終わり、一際強く頬を吸われる。小さな破裂音と共に、唇が引き剥がされた。
「可愛いのは、貴女」
「何のつもりかしら」
「ゴアイサツですわ」
ぱっと体を放すと、与えられた人形を誇示する様に振ってみせた。
「有り難く頂戴するわね」
「土産ついでに案内でもしてくれたら嬉しいのだけれど」
従者は何も言わず、下へ――大図書館へと続く階段にその足を進めた。アリスもそれに倣う。
道中、彼女らが言葉を交わす事は無かった。
§
「あの子なら元気よ」
元々は、人形もといフランの様子見が為に此処へ赴いたのだった。少々の手間は掛かったが、ようやく大図書館へ辿り着いた――のだが、肝心の彼女の姿が見受けられない。そこでは、普段通り七曜魔女が本に目を落とし、年代物のロッキング・チェアが軋みを上げている。
「本当に何も無いのね? 壊してないよね?」
「……あぁ、お人形さんなら大丈夫よ。たぶん」
「たぶん、じゃなくて」
「じゃあ、『きっと』」
「だから……」
ぎしり。緩慢な動きを続けていたロッキング・チェアが止まり、厭そうに魔女が目を伏せる。口からは大きく息が吐かれた。
「御生憎様だけど、貴女の望む答えを私は持ち合わせてない」
立ち上がるや否や、本棚の影へとその姿をくらませんとする。
「……本、借りてくから」
七曜魔女は振り返りもせず、手をだらりと上げて返事をした。
「どうしたものかしら……」
本棚の隙間を独り歩く。ここに答えがないと分かった以上、大図書館に居座る理由は無い。
かといって戻るのも憚られる。また咲夜と鉢合わせになる事が、どこか癪だった。
しかし、答えは彼女が持っている。嫌でも会わなければ……
とりあえず、と本棚に手を伸ばす。少し自分の時間が欲しかった。グリモワールの一冊位潰せるだろとは考えていたが、今の彼女にそれが出来るかと言ったら、ノーだった。
手を伸ばした先、目に付いたのはグリモワールとは違う、カバーからしてもきらびやかで、何処か場違いな書物。
表紙を読むに、
「『キスから分かる相手の心』……」
と、あった。何故かような本が此処にあるのだろう。戻し間違いか、それとも――ここまで考えておいて、アリスはその本を手に取っていた。
あまりにも直球な題からしてどこまでも胡散臭い。なのに今の彼女には何処か、惹かれるモノがあった。
首筋に触れ、そのまま手を頬へ滑らせる。何ともし難い生々しさが脳裏によぎり、背筋を凍らせる。
アリスはその場で本を開いた。目次からお誂え向きの頁を探し出し、指先で一気に捲り上げる。
『キスをされる箇所によって分かる相手の本心』と、『それ』っぽく見せた書体で大きく見出しを作っている。
一枚一枚、流し読みで頁を飛ばしていき、とある一頁で戻した。
途端、口の端を吊り上げ、自分の物とは思えぬ声にもならぬ音が延々と漏れ始めた。
頬
頬にされる接吻は、対象への親愛や厚意ないし満足感を感じている事を示します。同性間でも頻繁に行われ、挨拶代わりに頬へ接吻する国も世界には散見されており、最もポピュラー且つオーソドックスな愛情表現です。
喉
喉元にされる接吻は、対象への欲求を示しています。一概に欲求と言えばそれでお終いですが、プラトニック、セクシャル、様々な意味での欲求を孕んでいる事が特徴です。接吻をする部位が部位なので、一概に肯定的な意味で取られる事は多くありません。かと言って、否定的に取られる事もそれ程多くなく、結局はどっちつかずな接吻です。
首筋
前述の喉とは違い、首筋は対象への執着を示しています。正負の念問わず、より強い欲求が形となった接吻で、『狙った獲物は逃がさない』と言う事を暗に示しています。ヴァンパイアのする吸血も首筋な様に、吸血鬼をイメージすると理解が早いかもしれません。
執着、欲求、満足感。
見事に起承転結のなった部位移動。詰まる所、あのメイドは私に何か恨みでもあるのか。憎さ余って可愛さ三乗位はしているんじゃないか。至極どうでも良い事で悶々としていたアリスだったが、観念した様に本を戻すのであった。
――真意を聞くついでに、フランの事を訊いてみるか。
だらりと肩を下げ、肺の中の空気を全て出し切った。
いつの間にか優先順位が逆転している事を、アリスは気にも留めていない。
「満足の行く答えは見つかった?」
重い扉を引き開ければ、奴は居た。
大図書館を隔てる扉、さながら門番の如く壁に寄りかかっていた。
それはもう、勝ち誇った笑みを湛えて。
「この外道」
「それ程でも」
膝上までしか無いスカートの両端をつまみ上げ、半歩下がって仰々しくお辞儀をされる。
「貴女は私に話がある。違って?」
「違わない。それも二つ」
「二つとは存外」
「率直に言うわ。貴女、私の事をどう思ってるの?」
実に安直だった。どうせ真意が分かる保証もへったくれもある訳が無い。冗談混じりで返されるのがオチだろう。
しかし、アリスにはどうしてか冗談には聞こえなかった。そして何より、冗談であればあんな不躾な真似が出来る筈がない。
「あんたと会ったのは二回しか無いわ。亡霊ん所の異変と、この間の宴会」
「ええ」
「異変の時は完全に弾幕ごっこだったし、宴会は宴会で特に何も無かったし、えっと……」
「ええ」
「……何か言い返しなさいよ」
「ええ」
「あぁもう。とにかく、どうなのよ」
「あら、先刻をお忘れ?」
先刻。
悪寒が蘇る。
思わず首元を抑えるが、自分を見つめ微笑む咲夜の顔が嘲笑にしか見えない。
ふつふつと煮え滾る、謎の屈辱。
アリスは軽く爪先で立ち、前へ乗り出す形で咲夜の肩を掴んだ。
均整の取れた銀髪から覗く額に、唇を軽く押し付けた。
「これは?」
「……ゴアイサツよ、されたままが悔しいだけ」
「……へぇ。成る程。ふふーん」
「不服?」
「いいえ。とっても、嬉しい」
その言葉に嘘偽り無く、笑みを湛え嬉しそうに体を揺らす咲夜。アリスが彼女に対する疑心は、とうに失せている。
最初から彼女に弄ばれる結果になってしまったが、そんな些細な事(と考える様になってしまった事)はどうでも良かったのであった。
「お話、もう一つあるんじゃないの?」
「ああ……そっか、そうだった」
「立ち話は疲れるでしょう。紅茶飲める?」
「都会派を舐めないで欲しいわね」
その後、人形遣いが紅魔の館に出入りする事が多くなったらしいと人は言うが、それはまた可能性として『らしい』だけのお話なのであった。
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空が爆ぜた。
焦げた布地と火の粉を撒き散らし、黒々と空にカーテンが広げられる。
カーテンを屠り、夥しい数のナイフが少女に殺到する。
しかし、それを見通していた彼女は”糸”を張り巡らせていた。
向けられていた切っ先全てが、彼女の眼前で弾かれた。
目に刺さる赤と、細く微かに見え隠れする糸が、檻を象っていた。
檻はそれ以上に成る事は赦されない。魔力を湛えた糸は術者を閉じ込める以外の術を持ち合わせていなかった。
目まぐるしい速度で展開していた戦いは、既に佳境を迎えていた。
黒煙の中から、メイドが躍り出る。
刃が檻を捉え、強引に切り裂かれる。
白銀のナイフは黒々とした鉄片へとその姿を変え、赤き檻にぽっかりと大きな裂傷を残した。
露わになった術者――少女の喉元へ、真新しいナイフが突き付けられた。
「さぁ、今回の騒動の張本人は一体どこのどいつ?」
はらり、はらりと檻の格子が音も無く崩れ去っていく。
「……風下の寂れた神社。頭が春っぽい巫女が住んでるから、そいつに違いないわ」
どんな手品か知らないが、いつの間にか突き付けられたナイフが数を増やしていた。指の間に柄を挟み、四本で掻き切る形となる。
流石にお遊びが過ぎたと手を大袈裟に広げ、投降の意を改める少女。
「冗談はさておき……あなたが桜を集めるたびに、春が近付いてる事に気が付かない?」
「風上ね」
「何も言ってないのだけれど」
寒々しい灰色の空を見上げたメイドは、風に流れてくる布切れを手に取る。それは、先程まで人の形をとっていたモノであった。
「ごめんなさいね、折角のお人形さん壊しちゃった」
「壊される前に炸裂させてたけどね」
「壊す位なら私に下さいな」
「今言うか」
メイドは悪戯な笑みを浮かべ、布切れを放すや否や風上へと駆けた――否、姿を消した。
嘘偽り無く、消えたのだ。ただ、残された少女の脇を布切れが掠めていった。
――厭な幕引きだ、と少女は小さく嘆息を漏らすのだった。
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宴もたけなわ。
今宵もまた、東の最果てに建つ神社には少女達が集い、ある者は灯を囲み、ある者は酒を呑み、ある者は詠い、おのおのが夜を愉しんでいた。
今宵もまた、と言うのにも理由がある。
この宴会自体、異変だったのだ。
春過ぎて、夏来たるらし。季節が夏に差し掛かった矢先の異変であった。
宴会がやたらと多いのだ。
三日に一度は宴会があった。それ以上に変わった兆候はなく、これ以外に的を射た表現があろうものか。
宴で騒ぐのは良い事だ。しかし、妖怪や亡霊が一カ所に留まり三日三晩騒ぐ様を想像してみると良い。果てなく続く百鬼夜行か、跳梁跋扈の地獄絵図か。捉え方は人それぞれ、ここまで長続きすれば、当事者の皆が不審がるのも時間の問題であった。
今宵もまた。
奇怪に続く宴に首を傾げながらも、それに興じる少女達が相も変わらず居るのである。
§
神社の縁側に腰掛ける二人の少女。
目に刺さる程に赤い巫女装束に、人形の如く小奇麗な服装。
宴の喧騒の中、この二人だけは”異変”を視ていた。
「あんたはどう思ってるのよ、”これ”」
巫女――博麗霊夢は、うんざりしきった表情で眼前の騒ぎを指差す。
「……特に何も」
その横、アリス・マーガトロイドは特に関心も持たぬ様子で、適当に返した。その手には、一口も付けられていない杯が乗せられていた。
「そういう貴方はどうなの? 主催として」
「主催とは心外ね。私が主犯とでも言いたいのかしら」
「他意は無いわ。ただ、異変解決の専門家としてのご意見を拝聴しようかと思って」
「……異変ね。それも被害はたったの一カ所に集中する。とんでもなく厄介な異変だわ」
霊夢は大仰に腕を広げ、頭の後ろで組むとそのまま縁側に倒れ込んだ。
側にあった、なみなみと酒の注がれた杯が揺れる。彼女も酒は口にしておらず、頬も血色の良い肌色のままであった。
「ご愁傷様とでも言えばいいのかしら」
「いつもの事だし……いや、いつもは困るのだけれど」
今更ねぇ、と苦笑するアリスを横目に体を丸め始める霊夢。
「ねる」
「不貞寝はみっともないわよ」
「そうだ、寝るにはまだ早いだろ。んん?」
声のする方――祭りの喧騒を遮る様に立った、黒と白の影。
「興が乗らん、って感じだな。アリス」
「そう言う魔理沙も、呑んでない様だけれど」
魔理沙。普通の魔法使い、霧雨魔理沙。そう呼ばれた彼女も酒気を帯びていなく、平静を保っている。
「これから厭と言う程付き合わされるんだ。それに備えたって別に構わんだろ? 宴は戦争だぜ」
「戦争ねぇ……」
「その戦場に
「馬鹿言え、ここ以上に戦いやすい場所は無いぜ」
「そうね、ここ程
霊夢とアリス、そして魔理沙から更に喧騒を隔てて現れた、宴の灯に逆らって伸びる、大小の影。
その影に気付いた霊夢が体を起こし、心から厭そうな顔を以て、二人を出迎えた。
「ご足労……とでも言えばいいのかしら。レミリア」
「あら、分かってるじゃない」
小さな影の持ち主――レミリア・スカーレットは、異様に長い犬歯を見せつけるかの様に、不適な笑みを湛えたまま霊夢に歩み寄った。
その小さな影から、新たに一対の影が、宴の灯を遮らんと広げられた。
「こんなにも愉しい夜なのに。まだ眠るには早いわ」
「私はあんたみたいに吸血鬼じゃないのよ」
「咲夜」
レミリアが踵を返すと同時に、霊夢の体は大きな影の持ち主に羽交い締めにされていた。眼前を遮っていた影の片割れは既に彼女の背後に居る。
「呑み相手が居なくて困ってたの。相手なさい」
そのままの格好で持ち上げられた霊夢は、げんなりと首を後に倒し、背後の影をなじった。
「……疲れない?」
「たとえ不本意なれど、お嬢様の御心の儘に」
「聞いた私が馬鹿だったわ」
境内から引き摺り落とされる紅白を、無表情で見送るアリス。
「そうそう、そこの」
半ば振り返り、レミリアは縁側に腰掛けるアリスを手招く。
その意図が分からず魔理沙に視線を仰ぐも、わざとらしく肩を上げるだけで答えはそこに無かった。
「妹がお世話になったみたいね。お礼としては無粋だけど、貴女もいかが?」
アリスは少し躊躇った後、再び隣の魔理沙に視線をやる。
魔理沙は笑い、喧騒の一角を後ろ指で示す。相手は幾らでも居る、と言う事だろう。
「悪いわね。……ご一緒するわ」
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期間にして二月程前、話は少し遡る。
とある魔術を完成へと進める為、同業者であるパチュリーに協力を仰ぐべく紅魔館へ一人赴いたアリス。
――が、肝心の同業者を作業に引き入れる事も出来ず、相も変らぬ単独作業。幻想郷はそう易々と完成を許す程甘く無かった。
無論、場所が場所故に邪魔も入る。
話に聞いただけの存在であったレミリアの妹、フランドール・スカーレット。よもや邪魔に入られたのが彼女だったとは。
払った犠牲は大きかったが案の定、魔法は完成した。否、よくぞ完成してくれたとでも言えばいいのか。代価に見合っているとは到底思えない。
その魔法の世話になるのは、また別の話。
礼、と言うのは主にお守りの事で、だろう。それ以外でアリスにとって合点が行く答えは、思考の範疇に存在しなかった。
「妹が世話になったようね」
開口一番に答えをくれた。満足のいく答えも出、胸を撫で下ろすアリス。
「礼を言われるような事はしてないわ。それに、そちらの世話になったのは私の方だから」
「そう。咲夜」
従者を呼ぶ。その声を最後に、レミリアは
獲物
「私じゃ飲めない?」
「いや、まぁその……」
「まぁいいわ。妹様の世話係を買って出てくれたのよね?」
「不可抗力よ。そうする以外に通れるルートは無かったわ」
口では賛辞を述べているが、猜疑心の晴れぬ眼差しが如何にもし難い。用心に越した事は無いとアリスは口をつぐんだ。
本当に聞きたい事象は別にある。彼女もわざと
「して、どうやって妹様を手込めにしたのかしら」
「ハナからそう言いなさい」
アリスは手招く形で指を動かすと、懐から一体の人形――上海人形が顔を出した。ゆったりと肩に留まった人形の頭を、指先でそっと撫でる。
咲夜へ一体の人形が差し出される。下半身が無い代わりに、大きな穴がぽっかり空いた人形だった。
「最初はこの子――上海が捕まったのだけれど、その人形と交換を条件に返してもらったの。この子が壊されたら堪ったもんじゃないわ」
この型の人形は珍しいのか、衣服を摘まみ上げたり、髪の毛を払ってみたりと、触れる手が止まらない。
「それ、フランに渡したげて。あの子が壊したのを新しく作り直したの」
人形を弄れるだけ弄り倒し、嘆息を一つ。加えて――
「私にはくれないのかしら」
「……は?」
――――――――
ろくに酒を口にしていないにも関わらず、頭が重い。
頭痛を伴うソレは、酔いによる気持ち悪さとはまた違っていた。残留思念と言えばいいのか、どこまでも引きずるような重さだった。
兎角、アリスは混乱した頭の整理を始める事にした。
しかしながら――どうしてこうなった。
十六夜咲夜。
その名を耳にした――彼女を彼女と認識したのはつい最近の事、それもこの頻発する宴会による物であった。
冥界に春が集まる異変、俗に言う春雪異変でアリスは一度咲夜と会っている。
異変解決の為に冥界へ急ぐ咲夜と、その前に立ちはだかるアリス。弾幕混じりのファーストコンタクトだった。
面を合わせたのは二回に過ぎない。従者にしてはおこがまし過ぎやしないのだろうか。
考えあぐねてはいたが、いつしか机上には、小綺麗に裁縫道具が並べられていた。
(作るったって……)
人形の構想一つで何を迷っている、アリスは己に言い聞かせるも頭は働かない。
「ああもう。ついでよ、ついで」
紅魔館に行けばフランに託した人形と、フラン自身の様子も見られるだろう。
そうだ、あくまでも”ついで”。アリスは強引に見切りを付け、腕を動かし始めた。
――――――――
結局、夜通しの作業の甲斐あって人形は出来た。
銀髪に腰掛けのエプロン、藍色寄りの青をしたメイド服。普段作っている型の人形を、十六夜咲夜に似せたマイナーチェンジ。
――と、ここまで来てからアリスは悔いた。完全に彼女の思うつぼではないのかと。
乗せられているのは気に食わないが、費やした時間は帰って来ない。
どこまでも乗り気でないのは確かだが、異様に重い腰を上げたのであった。
§
実際の所、人形は門番に任せて足早にここを去る積もりだったのだが――
「サボタージュね」
シエスタである。邪魔をしてはいけない。
器用に立ったまま寝ている。夢心地な門番を門ごと飛び越した。
呆気なく庭へ降り立ったアリスは、急ぎ足で玄関を目指す。
警備こそザルだが中は監獄。それでまかり通っているが故に、人妖問わずこの館に寄り付く者は皆無に等しい。居るとしたら、余程の酔狂か異邦人か。
些細な事には気も留めず、アリスは扉を押し開けた。
陽が昇っているにも関わらず、館内は至る所で灯りが灯されている。加えて、仄かな暗さが残る。
ここの主、レミリア・スカーレットは吸血鬼である。そして、その吸血鬼が忌み嫌う物の一つに日光がある。
故に、窓を作らずとも灯りを確保出来、尚且つそれが十分である事が絶対条件になる。
しかし灯りこそ点っているものの、やはり薄暗さは完全に拭えない。見えない、と言う程では無いが。
幸い、館内はそこまで入り組んでいない。適当に下りていけば図書館にでも着くだろうと考え、アリスは紅魔館の奥へと足を進めた。
「お困り?」
「結構」
自然な応対。
耳で理解する。
遅すぎた。
振り向くより早く、眼前に文字通り「現れた」、十六夜咲夜。されど彼女の顔は何処かで拍子抜けた表情をしていた。
「いつもの黒鼠かと思えば」
「悪かったわね」
「で、何用」
場合によっては、と脅しを含ませた声に多少は身じろぎするが、毅然とした態度を崩さず、彼女を正面に捉え続けた。
「丁度良かったわ、元はと言えば貴女に会う為に来たのだし」
咲夜はここで初めて表情を崩した。猜疑の念に駆られ、眉間に皺を寄せる。
「……呆れた」
更に顔を猜疑に歪ませる咲夜の胸に、人形を突き出す。
丁寧に編み込まれた銀髪、青を基調としたメイド服に掛かる白いエプロン。見紛う事なく十六夜咲夜のそれであった。
「これは?」
「……何時ぞやの物よ。大事な一日を一つくれてやったんだから、感謝なさい」
人形を手に取った彼女は、礼を言うでも喜ぶでもなく――
「……くふふ」
館に、笑い声が響く。
あっけらかんとしたアリスを余所に、見る者も居ない人目を憚る事もせず、腹を抱えて笑い続ける。
アリスはひとしきり笑い終えるまで、ただ彼女の前で待ち続けた。
「満足?」
「……ゃあ、ね。まさか本気だったとは見ず知らず。冗談が通用しない子だとは思って無かったから、悪かったわ」
知らずと溢れた涙を指の背で拭う。その肩は未だに切れ切れの息と共に細かく上下している。
深呼吸を一回。それに合わせ、荒かった呼吸も次第に規則正しくなっていく。
「まぁ……可愛いから、良いか」
「当然よ、私の人形だもの」
「そうじゃないのよ」
咲夜が消えた。
いや違う。
”首筋に吸いついていた。”
いや違う。
接吻だ。
跡が残る程に、強い接吻。
喉元、頬に掛けて舌が這われる。
生暖かな感触が頬を伝う。
背筋に走る悪寒に顔をしかめるも、決してそれを止める様な真似はしなかった。
行為の終わり、一際強く頬を吸われる。小さな破裂音と共に、唇が引き剥がされた。
「可愛いのは、貴女」
「何のつもりかしら」
「ゴアイサツですわ」
ぱっと体を放すと、与えられた人形を誇示する様に振ってみせた。
「有り難く頂戴するわね」
「土産ついでに案内でもしてくれたら嬉しいのだけれど」
従者は何も言わず、下へ――大図書館へと続く階段にその足を進めた。アリスもそれに倣う。
道中、彼女らが言葉を交わす事は無かった。
§
「あの子なら元気よ」
元々は、人形もといフランの様子見が為に此処へ赴いたのだった。少々の手間は掛かったが、ようやく大図書館へ辿り着いた――のだが、肝心の彼女の姿が見受けられない。そこでは、普段通り七曜魔女が本に目を落とし、年代物のロッキング・チェアが軋みを上げている。
「本当に何も無いのね? 壊してないよね?」
「……あぁ、お人形さんなら大丈夫よ。たぶん」
「たぶん、じゃなくて」
「じゃあ、『きっと』」
「だから……」
ぎしり。緩慢な動きを続けていたロッキング・チェアが止まり、厭そうに魔女が目を伏せる。口からは大きく息が吐かれた。
「御生憎様だけど、貴女の望む答えを私は持ち合わせてない」
立ち上がるや否や、本棚の影へとその姿をくらませんとする。
「……本、借りてくから」
七曜魔女は振り返りもせず、手をだらりと上げて返事をした。
「どうしたものかしら……」
本棚の隙間を独り歩く。ここに答えがないと分かった以上、大図書館に居座る理由は無い。
かといって戻るのも憚られる。また咲夜と鉢合わせになる事が、どこか癪だった。
しかし、答えは彼女が持っている。嫌でも会わなければ……
とりあえず、と本棚に手を伸ばす。少し自分の時間が欲しかった。グリモワールの一冊位潰せるだろとは考えていたが、今の彼女にそれが出来るかと言ったら、ノーだった。
手を伸ばした先、目に付いたのはグリモワールとは違う、カバーからしてもきらびやかで、何処か場違いな書物。
表紙を読むに、
「『キスから分かる相手の心』……」
と、あった。何故かような本が此処にあるのだろう。戻し間違いか、それとも――ここまで考えておいて、アリスはその本を手に取っていた。
あまりにも直球な題からしてどこまでも胡散臭い。なのに今の彼女には何処か、惹かれるモノがあった。
首筋に触れ、そのまま手を頬へ滑らせる。何ともし難い生々しさが脳裏によぎり、背筋を凍らせる。
アリスはその場で本を開いた。目次からお誂え向きの頁を探し出し、指先で一気に捲り上げる。
『キスをされる箇所によって分かる相手の本心』と、『それ』っぽく見せた書体で大きく見出しを作っている。
一枚一枚、流し読みで頁を飛ばしていき、とある一頁で戻した。
途端、口の端を吊り上げ、自分の物とは思えぬ声にもならぬ音が延々と漏れ始めた。
頬
頬にされる接吻は、対象への親愛や厚意ないし満足感を感じている事を示します。同性間でも頻繁に行われ、挨拶代わりに頬へ接吻する国も世界には散見されており、最もポピュラー且つオーソドックスな愛情表現です。
喉
喉元にされる接吻は、対象への欲求を示しています。一概に欲求と言えばそれでお終いですが、プラトニック、セクシャル、様々な意味での欲求を孕んでいる事が特徴です。接吻をする部位が部位なので、一概に肯定的な意味で取られる事は多くありません。かと言って、否定的に取られる事もそれ程多くなく、結局はどっちつかずな接吻です。
首筋
前述の喉とは違い、首筋は対象への執着を示しています。正負の念問わず、より強い欲求が形となった接吻で、『狙った獲物は逃がさない』と言う事を暗に示しています。ヴァンパイアのする吸血も首筋な様に、吸血鬼をイメージすると理解が早いかもしれません。
執着、欲求、満足感。
見事に起承転結のなった部位移動。詰まる所、あのメイドは私に何か恨みでもあるのか。憎さ余って可愛さ三乗位はしているんじゃないか。至極どうでも良い事で悶々としていたアリスだったが、観念した様に本を戻すのであった。
――真意を聞くついでに、フランの事を訊いてみるか。
だらりと肩を下げ、肺の中の空気を全て出し切った。
いつの間にか優先順位が逆転している事を、アリスは気にも留めていない。
「満足の行く答えは見つかった?」
重い扉を引き開ければ、奴は居た。
大図書館を隔てる扉、さながら門番の如く壁に寄りかかっていた。
それはもう、勝ち誇った笑みを湛えて。
「この外道」
「それ程でも」
膝上までしか無いスカートの両端をつまみ上げ、半歩下がって仰々しくお辞儀をされる。
「貴女は私に話がある。違って?」
「違わない。それも二つ」
「二つとは存外」
「率直に言うわ。貴女、私の事をどう思ってるの?」
実に安直だった。どうせ真意が分かる保証もへったくれもある訳が無い。冗談混じりで返されるのがオチだろう。
しかし、アリスにはどうしてか冗談には聞こえなかった。そして何より、冗談であればあんな不躾な真似が出来る筈がない。
「あんたと会ったのは二回しか無いわ。亡霊ん所の異変と、この間の宴会」
「ええ」
「異変の時は完全に弾幕ごっこだったし、宴会は宴会で特に何も無かったし、えっと……」
「ええ」
「……何か言い返しなさいよ」
「ええ」
「あぁもう。とにかく、どうなのよ」
「あら、先刻をお忘れ?」
先刻。
悪寒が蘇る。
思わず首元を抑えるが、自分を見つめ微笑む咲夜の顔が嘲笑にしか見えない。
ふつふつと煮え滾る、謎の屈辱。
アリスは軽く爪先で立ち、前へ乗り出す形で咲夜の肩を掴んだ。
均整の取れた銀髪から覗く額に、唇を軽く押し付けた。
「これは?」
「……ゴアイサツよ、されたままが悔しいだけ」
「……へぇ。成る程。ふふーん」
「不服?」
「いいえ。とっても、嬉しい」
その言葉に嘘偽り無く、笑みを湛え嬉しそうに体を揺らす咲夜。アリスが彼女に対する疑心は、とうに失せている。
最初から彼女に弄ばれる結果になってしまったが、そんな些細な事(と考える様になってしまった事)はどうでも良かったのであった。
「お話、もう一つあるんじゃないの?」
「ああ……そっか、そうだった」
「立ち話は疲れるでしょう。紅茶飲める?」
「都会派を舐めないで欲しいわね」
その後、人形遣いが紅魔の館に出入りする事が多くなったらしいと人は言うが、それはまた可能性として『らしい』だけのお話なのであった。
咲夜さんサイド+続編も見てみたいです。