夕日が山を照らし、木々が赤みを帯び始めた頃、犬走椛の白く滑らかな尻尾も真っ赤に染まっていた。彼女はそれを気に留めることなく、ただ一点をじっと見つめている。
椛の目に映っているのは、人里での一場面だった。そこでは、彼女の見覚えのある烏天狗と、最近見知ったばかりの風祝が、茶屋で仲睦まじく話しをしていた。一見すると、烏天狗が風祝にちょっかいをかけているだけのように映るが、椛には彼女達の内心が読み取れた。
このような光景を、椛は何度か見かけたことがある。初めの内は彼女も、その様子を喧嘩しているという風にしか見ていなかった。しかし、その光景を見かけるのにも飽きてきた頃に、彼女達の表情に隠された感情があることに気付いたのである。
「ねえ、何見てるの?」
突然の来訪者に慌てふためくような真似を、椛はしなかった。風が運んでくれた匂いだけでも、誰なのかは十分判別できた。
「……姫海棠様でしょうか」
「そっ。それで、さっきから何見てるの?」
「……」
椛は自身の能力をあまり快く思っていなかった。上に与えられた哨戒という任務に誇りを持ってはいるが、他人よりも見えすぎる目に恐怖を抱いているのである。もし役目を命じられていなければ、他人のいない、空を見上げる毎日が続いていたかもしれない。
「まあ、言いたくないなら別に良いけどね。こっちも興味本意で訊いただけだし」
「いえ、言いたくないわけではありません。ただ、何分個人の事情に関わりますので……」
「ふーん。まっ、その事情とやらが誰のものか、大方見当はつくけどね」
「……」
「文でしょ? まあ正確には、最近よく文といるあの子の方か」
「……何故、おわかりになったのですか?」
「これでも新聞記者よ、私。ネタはあがってんのよ」
はたてが椛のもとへ向かうきっかけとなったのは、何気なく行った念写のためであった。仕事目的ではなく、暇潰しのために行ったのだが、それが思いの外、彼女の興味を惹く内容だったのである。
射命丸文が最近撮った写真を念写してみたら、そこには話題の風祝と、知り合いの白狼天狗の姿が映っていた(アングルから考えて、隠し撮りと思われる)。勿論、それだけなら、はたての好奇心をくすぐるには至らない。彼女の目を惹いたのは、見たことのない椛の表情だった。
椛は、はしゃぐようにして喋りかけてくる風祝を、普段の仏頂面とは異なる優しげな眼差しで見つめていた。幼い子どもが遊んでいるのを見守るように、眩しげに目を細めていたのである。
「あんたってさ、あの巫女のこと、どう思ってるの?」
「それはどちらを指すのでしょうか?」
「わかってんでしょ?」
犬走椛と博麗霊夢は殆ど交流を行っていない。したがって、巫女という話題から浮かび上がってくる人物は、自然と東風谷早苗となる。
「……彼女のことは、好ましく思っております」
「どの辺が?」
「それは、言わなければいけない事柄でしょうか?」
「さっきも言ったでしょ、興味本意だって。言うか言わないかは、あんたの自由。まっ、面白ければネタにしちゃうけどね」
特に秘密にしておくべきことでもないため、椛は言ってしまうべきか迷っていた。しかし、下手に答えて誤解されてはたまったものではないとも思っている。結局、できるだけ詳しく説明をし、誤解を避けるようにすることにした。
「あの方は……早苗さんは、私にはできないことを当然のように行っています。それが、私には眩しく見えるのです」
「できないことって?」
「信じることです」
「意味わかんない」
「聞かれたからにはお答えしますが、納得できるかどうかは保証致しかねます。それでもお聞きになりますか?」
「あー、うん。まあ暇だしね。できるだけ、わかりやすくしてね」
「善処します」
弁が立つわけではないと自覚している椛は、なるべく丁寧に喋るよう努めた。
「私は天狗社会の一員です。与えられた任務を全うし、山の秩序を守っていくことが使命だと思っております」
「ふむ」
「数えきれない程の日数を過ごした今でも、その心は変わっていないと断言できます」
「うんうん。それで?」
「はい。私はそのことを誇りに思い、今まで生きてきました。……しかし、結局はそれ以上の感情を持つまでには至らなかったのです」
「ちょっと待った」
「何でしょうか?」
制止されることを予想していたのか、椛は静かに相手の出方を伺った。
「私からするとさ、自分の仕事を誇りに思っているんなら、それで充分な気がするんだけど」
「早苗さんと出会う以前なら、私も貴方と同じ考えでした」
「ふーん。そんなに凄い奴だったっけ? あいつ」
はたてからすると、早苗は子供っぽい部分が強いという認識でしかなかった。少なくなくとも、他人の価値観を変えてしまう程の人物には到底思えない。
「それは人によると思いますが、私にはそれ程の方に映ります」
「どこが?」
「早苗さんは、ひたむきに信じることができる人間なのです」
「またそれ? 全然意味わかんない」
「……彼女は、自らが仕える二柱に疑いを持っていません。子が親に甘えるように接しています」
「依存してるってだけじゃないの?」
「そう言ってしまえばそうなのでしょう。ですが、私にはもうそのような生き方はできません。だからこそ、彼女の在り方を愛おしく思ってしまうのです」
「駄目だ、ちっとも理解できない」
「それならば、仕方がないでしょう」
言葉で説明しようにも、そこには大きな壁があるのを椛は知っていた。自分が感じていることを全て汲み取ることは、恐らく、さとり妖怪にさえできないことだろう。
椛がこれまで山の社会に殉じてきたのは、それを望んだためではなかった。ただの獣から白狼天狗へ変化した時、目の前には既に進むべき道が用意されていたのだ。明確な意識が確立した頃には、そこから外れるわけにはいかなくなっていたのである。
「あーあ。せっかくネタになると思ってたんだけどなあ。三角関係とかドロドロしたのって、結構人気だからさ」
「期待に沿えず、申し訳ありません」
「謝られても困るんだけど」
「そうですか」
すっかり元気がなくなってしまったはたてを尻目に、椛はもう一度、人里の茶屋に視線を移した。烏天狗の方は何処かへ去ってしまったのか、湯呑だけが店先の椅子に置かれている。
風祝は二柱への土産と思わしき包みを大切そうに抱えながら、湯呑に残っているだろう緑茶をゆっくりと啜っていた。
「姫海棠様」
「んあ?」
唐突に名を呼ばれたせいか、はたては間抜けな返事を返してしまった。思考は自身の新聞のことで埋まっており、自分から椛に声をかけたことさえ忘れかけていた。
「あー……、ごめんごめん。んで、何?」
「一つ、お聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「私に? ……まあ別にいいけど、特ダネは絶対に譲らないわよ」
「非常に簡単な質問なので、心配いりません」
「そっ。……まーそれじゃあ、どこからでもかかってきなさい!」
気分が高揚してきたはたてとは違い、椛の気分は上がりも下がりもしていなかった。自信満々な表情を浮かべて待ち構えているはたてに向かって、淡々とした口調で問いかけた。
「姫海棠様は、今に満足していますか?」
「……見てわからない?」
「ええ」
「なら、満足してないんでしょ」
「……そうですか」
「まあ少なくとも、引き籠ってた頃よりは満足してると思うけどね」
はたての答えは、椛が聞きたかったものではなかった。しかし、はたてにも自分と同じ部分があることを、椛は悟った。
茶屋に風祝の姿はもう見かけなかった。椅子には二つの湯呑が残っている。どちらがどれを使っていたのか、椛にはわからなかった。
しかし椛は、ただじっと、残された湯呑を見つめていた。
椛の目に映っているのは、人里での一場面だった。そこでは、彼女の見覚えのある烏天狗と、最近見知ったばかりの風祝が、茶屋で仲睦まじく話しをしていた。一見すると、烏天狗が風祝にちょっかいをかけているだけのように映るが、椛には彼女達の内心が読み取れた。
このような光景を、椛は何度か見かけたことがある。初めの内は彼女も、その様子を喧嘩しているという風にしか見ていなかった。しかし、その光景を見かけるのにも飽きてきた頃に、彼女達の表情に隠された感情があることに気付いたのである。
「ねえ、何見てるの?」
突然の来訪者に慌てふためくような真似を、椛はしなかった。風が運んでくれた匂いだけでも、誰なのかは十分判別できた。
「……姫海棠様でしょうか」
「そっ。それで、さっきから何見てるの?」
「……」
椛は自身の能力をあまり快く思っていなかった。上に与えられた哨戒という任務に誇りを持ってはいるが、他人よりも見えすぎる目に恐怖を抱いているのである。もし役目を命じられていなければ、他人のいない、空を見上げる毎日が続いていたかもしれない。
「まあ、言いたくないなら別に良いけどね。こっちも興味本意で訊いただけだし」
「いえ、言いたくないわけではありません。ただ、何分個人の事情に関わりますので……」
「ふーん。まっ、その事情とやらが誰のものか、大方見当はつくけどね」
「……」
「文でしょ? まあ正確には、最近よく文といるあの子の方か」
「……何故、おわかりになったのですか?」
「これでも新聞記者よ、私。ネタはあがってんのよ」
はたてが椛のもとへ向かうきっかけとなったのは、何気なく行った念写のためであった。仕事目的ではなく、暇潰しのために行ったのだが、それが思いの外、彼女の興味を惹く内容だったのである。
射命丸文が最近撮った写真を念写してみたら、そこには話題の風祝と、知り合いの白狼天狗の姿が映っていた(アングルから考えて、隠し撮りと思われる)。勿論、それだけなら、はたての好奇心をくすぐるには至らない。彼女の目を惹いたのは、見たことのない椛の表情だった。
椛は、はしゃぐようにして喋りかけてくる風祝を、普段の仏頂面とは異なる優しげな眼差しで見つめていた。幼い子どもが遊んでいるのを見守るように、眩しげに目を細めていたのである。
「あんたってさ、あの巫女のこと、どう思ってるの?」
「それはどちらを指すのでしょうか?」
「わかってんでしょ?」
犬走椛と博麗霊夢は殆ど交流を行っていない。したがって、巫女という話題から浮かび上がってくる人物は、自然と東風谷早苗となる。
「……彼女のことは、好ましく思っております」
「どの辺が?」
「それは、言わなければいけない事柄でしょうか?」
「さっきも言ったでしょ、興味本意だって。言うか言わないかは、あんたの自由。まっ、面白ければネタにしちゃうけどね」
特に秘密にしておくべきことでもないため、椛は言ってしまうべきか迷っていた。しかし、下手に答えて誤解されてはたまったものではないとも思っている。結局、できるだけ詳しく説明をし、誤解を避けるようにすることにした。
「あの方は……早苗さんは、私にはできないことを当然のように行っています。それが、私には眩しく見えるのです」
「できないことって?」
「信じることです」
「意味わかんない」
「聞かれたからにはお答えしますが、納得できるかどうかは保証致しかねます。それでもお聞きになりますか?」
「あー、うん。まあ暇だしね。できるだけ、わかりやすくしてね」
「善処します」
弁が立つわけではないと自覚している椛は、なるべく丁寧に喋るよう努めた。
「私は天狗社会の一員です。与えられた任務を全うし、山の秩序を守っていくことが使命だと思っております」
「ふむ」
「数えきれない程の日数を過ごした今でも、その心は変わっていないと断言できます」
「うんうん。それで?」
「はい。私はそのことを誇りに思い、今まで生きてきました。……しかし、結局はそれ以上の感情を持つまでには至らなかったのです」
「ちょっと待った」
「何でしょうか?」
制止されることを予想していたのか、椛は静かに相手の出方を伺った。
「私からするとさ、自分の仕事を誇りに思っているんなら、それで充分な気がするんだけど」
「早苗さんと出会う以前なら、私も貴方と同じ考えでした」
「ふーん。そんなに凄い奴だったっけ? あいつ」
はたてからすると、早苗は子供っぽい部分が強いという認識でしかなかった。少なくなくとも、他人の価値観を変えてしまう程の人物には到底思えない。
「それは人によると思いますが、私にはそれ程の方に映ります」
「どこが?」
「早苗さんは、ひたむきに信じることができる人間なのです」
「またそれ? 全然意味わかんない」
「……彼女は、自らが仕える二柱に疑いを持っていません。子が親に甘えるように接しています」
「依存してるってだけじゃないの?」
「そう言ってしまえばそうなのでしょう。ですが、私にはもうそのような生き方はできません。だからこそ、彼女の在り方を愛おしく思ってしまうのです」
「駄目だ、ちっとも理解できない」
「それならば、仕方がないでしょう」
言葉で説明しようにも、そこには大きな壁があるのを椛は知っていた。自分が感じていることを全て汲み取ることは、恐らく、さとり妖怪にさえできないことだろう。
椛がこれまで山の社会に殉じてきたのは、それを望んだためではなかった。ただの獣から白狼天狗へ変化した時、目の前には既に進むべき道が用意されていたのだ。明確な意識が確立した頃には、そこから外れるわけにはいかなくなっていたのである。
「あーあ。せっかくネタになると思ってたんだけどなあ。三角関係とかドロドロしたのって、結構人気だからさ」
「期待に沿えず、申し訳ありません」
「謝られても困るんだけど」
「そうですか」
すっかり元気がなくなってしまったはたてを尻目に、椛はもう一度、人里の茶屋に視線を移した。烏天狗の方は何処かへ去ってしまったのか、湯呑だけが店先の椅子に置かれている。
風祝は二柱への土産と思わしき包みを大切そうに抱えながら、湯呑に残っているだろう緑茶をゆっくりと啜っていた。
「姫海棠様」
「んあ?」
唐突に名を呼ばれたせいか、はたては間抜けな返事を返してしまった。思考は自身の新聞のことで埋まっており、自分から椛に声をかけたことさえ忘れかけていた。
「あー……、ごめんごめん。んで、何?」
「一つ、お聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「私に? ……まあ別にいいけど、特ダネは絶対に譲らないわよ」
「非常に簡単な質問なので、心配いりません」
「そっ。……まーそれじゃあ、どこからでもかかってきなさい!」
気分が高揚してきたはたてとは違い、椛の気分は上がりも下がりもしていなかった。自信満々な表情を浮かべて待ち構えているはたてに向かって、淡々とした口調で問いかけた。
「姫海棠様は、今に満足していますか?」
「……見てわからない?」
「ええ」
「なら、満足してないんでしょ」
「……そうですか」
「まあ少なくとも、引き籠ってた頃よりは満足してると思うけどね」
はたての答えは、椛が聞きたかったものではなかった。しかし、はたてにも自分と同じ部分があることを、椛は悟った。
茶屋に風祝の姿はもう見かけなかった。椅子には二つの湯呑が残っている。どちらがどれを使っていたのか、椛にはわからなかった。
しかし椛は、ただじっと、残された湯呑を見つめていた。