稗田家の歴史は永く、記録が残っているだけでも千年余りを遡ることができる。屋敷の離れとなっている書庫にはその長い歴史に相応しく、古今東西ありとあらゆる書物が収められていた……碌に整理もされないまま。
念のために言っておくと、書庫が未整理の荒れ放題なのは私の責任では無い。
蔵書の数が膨大だということも勿論なのだが、御阿礼の子以外の者が当主を務める世代に書庫が物置同然の扱いを受けていることにも原因があるのだろう。
そういったわけで、書庫の整理は阿礼乙女の日常的な仕事のひとつであった。誠に遺憾ではあるが仕方ない。
「ふーむ……」
その書物はまるで人目を避けるよう、書架の隅のほうに押し込められていた。
表題は無し。内容は、どうやら転生前の私が付けていた日記のようである。
転生を経て歴代の膨大な記憶を受け継いでいると思われがちな御阿礼の子であるが、実際には幻想郷縁起と関係ない記憶は受け継がれない。だから転生前の私が一体どんな生活を送っていたのかなんて、さっぱり分からないわけだ。
日記に綴られていた私の生活は大変興味深い物であった。八代目の阿礼男となる彼は、私の知っているある人物と、どうやら深い関係にあったらしい。つまり恋仲というやつだ。
これに書かれていることが事実だとするのならば、この日記は朽ちるに任せてここに収めておくべきではなく、当事者の下に手渡されるべきではないかと私は考えた。もし私がこの日記を書いた者だったとしたら、きっとそうして欲しいと願うだろうから。
私は手隙きの女中に使いを頼み、あちこちを取材と称して飛び回っているはずの烏天狗を招くよう手配した。当の本人が先代の私のことを果たして記憶しているのかどうか、それだけが僅かな懸念材料であったが。
1 阿求
座卓に差し出した書物を一瞥して、射命丸さんは怪訝な顔を私に向ける。見るからに古い書物でしょうし他ならぬ稗田阿求がわざわざ呼びつけて差し出した書物なのですから、さぞや歴史的価値のある物か物騒で面倒な物かなのでしょうね。でもそれを一体私にどうしろと? とでも言いたげな表情だ。
「書庫の整理をしていたら出てきました」
「ふむ、相当くたびれていますね。なにが書かれているのです?」
「先代の御阿礼の子、つまり八代目阿礼男稗田阿弥が生前に付けていた日記のようです」
瞬きほどの気持ちの揺らぎ。それを取り繕うかのように彼女は表情の籠もらない笑顔で向き直る。
「先代の人というと優に百年は前の記録ということになりますか。でも、御阿礼の子の日記がはたして面白い記事になるのかどうか」
「射命丸さんをお呼び立てしたのは新聞記者だからという訳ではありません」
「むぅ、話が見えてきませんが」
紅茶で唇を湿らせ、私は目を瞑り日記の内容を諳んじる。
「十月四日、里の外れに手傷を負った烏天狗が迷い込む。近頃山に現れた鬼との決闘に敗れたと見られ意識は無くかなりの重傷。放っておくのも忍びないが妖怪を里に匿うことに不安を抱く者もおり、結局妖怪に詳しいということで私のところにお鉢が回ってきた。鬼の反感を買うことが無ければいいのだが」
「っ……」
明らかな動揺が呻き声として伝わってきた。彼女は唇を噛んで震える視線を向ける。
「この烏天狗とは、あなたのことですね」
「日記に……書かれていたのですか」
弱々しく震える声で呟く。
「妖怪は六十年の周期で記憶の大半を失うと聞いていましたが、先代のことは忘れていなかったのですね」
「忘れたくても忘れられないことはあります。いえ、忘れなきゃいけないのに忘れられない。覚えていても辛くなるだけなのに」
自傷するかのような笑みは、ひどく寂しく写る。
「人である御阿礼の子と妖怪である烏天狗。許されざる恋といったところでしょうか」
「…………」
頼りない風情で居座る様子は、飄々とした普段の彼女とはまるで別人のようだ。
潤んだ瞳で日記を見詰める姿は、まるで純真な少女のようで、先代が心を奪われてしまうのも理解できる。
「その日記は差し上げます。私が持っていても仕方の無いものですし」
それだけを言い残すと私は彼女を残して部屋を後にした。私の中に稗田阿弥として彼女と過ごした記憶は無いのだから、彼女と再会を果たすのは私ではなくあの日記ということになる。
ならば私は邪魔者でしか無いのだろうから。
2 阿弥
靄がかかっていたかのような不確かな記憶が、少しずつ鮮明になっていく。
この部屋の景色にも匂いにも覚えがある。私は確かにここで暮らしていた。
心地よい懐かしさに心が満たされていくようだ。
目の前には阿弥さんのつけていた日記がある。
彼が日記をつけていたなんて知らなかった。そして私のこと、私たちのことを綴っていたなんて。
言葉にできないほど嬉しかった。
私と彼の過ごした時間が、確かにあったということ。
あの気持ちが、紛れもないものであったということ。
それが、とても嬉しかった。
あの人の癖のある字を目で追うと、二人で過ごした日々がまるで昨日のことのようにはっきりと思い出されて、私の心は暖かな幸せで包まれていった。
――烏天狗の意識が回復した。流石に妖怪なだけあり、人間とは比べものにならない回復力だ。怖い思いをしたのだろうか、酷く怯えている様子。逃げようと思えば私のような非力な人間など障害にすらならないのだろうが、今のところは大人しく養生してくれている。念のためと博麗の巫女に根回しをしておいたが、さほど心配することも無さそうだ。
――ここでの生活に多少は慣れたからなのか、烏天狗は少しずつ素性を語ってくれるようになった。彼女の名前は射命丸文というらしい。文と書いて読みは、あや。私の名前と同じだ。神様の悪戯のような奇妙な運命を感じる。
――名前の読みが同じということでお互いに相手を呼ぶ時に混乱するのではないかと心配だったが、実際に呼び合ってみると別段不都合を感じないことがわかった。私たち以外の人がどちらかを呼ぶ時はややこしくなりそうだが、女中さんは私のことを旦那様と呼ぶし、文は屋敷の外に出たがらないので特に問題は無さそうだ。
生真面目な阿弥さんがぶつぶつと独り言を呟きながら悩んでいたことを思い出す。その様子が可愛くて私は思わず笑い出してしまったのだった。
平和すぎる日常を思い出しながら、思わず顔がほころぶのを自覚できる。
――文と一緒にいて私は幸せを感じている。こうして改めて書いてしまえば、言い逃れのできない自分の素直な気持ちが明らかになる。私の中で彼女は大切な人になってしまったようだ。しかし先行きの短い御阿礼の子である私が恋をすることは許される事なのだろうか? 相手を不幸にする恋ならば最初から無いほうが良いのではないか? いずれにせよまずは文の気持ちを確かめるべきだろう。
綺麗な満月の夜、阿弥さんに想いを告げられて、私には嬉しさよりも戸惑いの気持ちのほうが大きかった。私は妖怪で彼は人間。人間とそういう関係になるだなんて想像したことすら無かったのだから。
でも阿弥さんの想いを聞いて、私も阿弥さんにどうしようも無いくらい惹かれているということに気付くことができた。一度それに気付いてしまえば、もう気持ちを押し殺すだなんてことできるはずが無かった。
彼は長く生きられないこと、それによって私を悲しませてしまうことをいつも心配していたけれど、私には彼がそれを気にしすぎることのほうが悲しかった。
私が空元気でも明るく振る舞うと、彼も将来の事を心配するのを止めて、今の私に向いてくれる。彼が私の気持ちに向き合ってくれて、はじめて私は安心できるのだった。
――夏祭りのための浴衣を仕立てるため文を里に連れ出した。外に出ることを頑なに拒んでいた彼女も、根気よく説得を続けることで渋々承諾する。姿形は人間と大差無いのだから、わざわざ自分から触れて回らない限り奇異の目で見られることも無いのだろうに。藍色の浴衣は文の黒い髪によく似合い、溜息を吐くほど綺麗だった。年甲斐も無く夏祭りが楽しみに思えてくる。
いつまでも一緒にいることはできないって最初からわかっていた。だからできるだけ長く、阿弥さんと一緒にいられる時間が続くようにと願っていた。
妖怪と人間が愛し合うだなんて、里の人たちも山の仲間たちも許してくれるはずが無かった。でも、この屋敷から出なければそれは許されることなのだと、そう思っていた。
――最近、白狼天狗が飛び回っているのを頻繁に見かけると、里の人たちから聞いた。ひょっとしたら文を探しに来たのかもしれない。怪我をして私の所にきてそれっきりなのだから、彼女は天狗の間では行方不明だということになる。無事を知らせるため一度山に帰ったほうが良いのだろうか?
阿弥さんはきっと、私と相談するべきか悩んでいたんだと思う。もし相談されていたら私は何と答えたんだろう?
帰りたくは無かった。でもいつまでも隠し通せるものでもないし、阿弥さんに迷惑がかかってしまうかも知れなかった。
しかし阿弥さんと話し合うまでもなく、油断してた私は椛の千里眼に捕まってしまい、強引に山まで連れ戻されてしまった。
突然の事すぎて、阿弥さんに別れの挨拶すらなくて、私の幸せは壊されてしまった。
楽しみにしていた夏祭りに行けなかったことは今でも心残りだ。
――朝から咳が酷く痰に血が混じる。もう長くは無いのかもしれない。
別れてからの日記は、まだ見る勇気が湧いてこない。阿弥さんがもう居なくて、二度と会うことができない。そのことを受け入れてしまうのが怖かった。
終わってしまった事実が変わることなんて無いのだけれど、せめてあと少しだけはあの人との幸せな思い出に浸っていたかった。
日記を閉じようとした私は、なにか紙のような物が挟まれているのを見つける。
「あ……」
それは一枚の写真だった。
あの日の思い出が、心の中に鮮やかによみがえってくる。
「ただいま。退屈してなかったかい」
「ん、大丈夫。おかえりなさい」
あの日も私は、阿弥さんの仕立ててくれた藍色の浴衣を着て、縁側で庭に咲く朝顔を眺めていたんだっけ。退屈してなかったわけじゃないけれど、阿弥さんを待っている時間も私には楽しいものだったので、不満に感じなかっただけ。
「文、こっちにおいで。面白い物を買ってきたんだ」
「面白い物?」
膝立ちですり寄る私に、阿弥さんは歪な形をした箱を見せる。
「これは河童の発明品で写真機というらしいんだけど、一瞬の光景を切り取って紙に収めることができる機械という話で」
「光景を切り取る? うーん、なんだかよく分からないけど」
「そうだな、例えばこの機械で、文の顔を写したとする」
阿弥さんはそういうと写真機を構えて私の顔をのぞき込む。カシャッという音がして、私は思わず驚きの声をあげてしまう。
「今ので、驚いた文の一瞬がこの機械に収められたわけ。あとはこの機械から紙に写し出せば、その一瞬はいつまででも残って何度でも見返すことができるんだ」
「え、えっ? いま私驚いちゃったけど、変な顔してなかった? いつまででも残るって、やだちょっと待って!」
「心配しなくても、とても可愛い顔してたよ」
「待ってやり直してっ! 今度は綺麗にするから」
「駄目。紙に写し出したらちゃんと見せてあげるから、楽しみにしてるといいよ」
「もうっ、阿弥さんの意地悪!」
ところどころ擦れて薄くなってしまった写真。
そこには驚いて目を見開いた、浴衣姿の私が写っていた。
阿弥さんは、この写真を見せるはずだった私が突然いなくなってしまって、どんな気持ちだったんだろう?
私はいま、どんな気持ちになればいいんだろう?
自分の気持ちもわからないまま、涙だけが溢れてきて止めることができなかった。
3 文
一週間ほどが経っただろうか。
散歩がてら茶屋で甘い物を楽しんでいる私のところに、何気ない素振りで射命丸さんが現れた。
彼女は挨拶もそこそこに、聞いてもいないことを一方的に話し始める。内容は日記に書かれていなかった、つまり稗田阿弥の知ることの無かった、二人の関係の顛末について。
「そんなわけで、無理矢理山に連れ戻されてしまった私は、人里に住むなんてケシカラン! と、こってり絞られてしまったわけです」
「そうですか」
「ええ。当時は妖怪は人を襲う物、人は妖怪に怯える物、妖怪退治は専門家へ、とキッチリしてましたからね。いくら好き同士だからといっても妖怪と人間の恋なんて天狗の体面を潰すようなもの、許されるはずありません。まったく面倒な連中ですよ」
彼女はやれやれと言いたげな風情で三色団子を口にする。日記を渡したことにより落ち込んでいるのではないかと心配していたのだが、どうやらそれは杞憂のようであった。空元気なだけなのかもしれないが。
「それでやっと解放されたから阿弥さんに会いに行ってみれば、もうお亡くなりになった後だったって聞いて、流石の私もあの頃は荒れましたね」
既に吹っ切れているのだろうか。まるで他人事のような口ぶりだ。
「この写真機、あの人の形見なんですよ。阿弥さんのお兄さんだって名乗る人から渡されて。阿弥さん里にとても愛着があったから、私があの人の代わりに里を撮ってあげようって決めたんです。それがいつのまにか新聞記者になってたんですけどね。六十年周期で記憶が薄れちゃいますから、すっかり忘れていました」
「なるほど」
山を中心に活動する他の烏天狗と違い、なぜ彼女だけ人里に現れるのか。多少疑問に思っていたことだったが、分かってみれば納得のいく理由だった。
「しかし、なんでそんなことを私に聞かせるのです」
「ええっ、だって私は阿弥さんのことを誰かに聞いて欲しいし、だったら相手は阿求さんにしか務まらないじゃないですか」
「まぁそれはそうですが。でも私は阿求であって阿弥では無いのですよ。確かに転生する前は阿弥だったことになりますが、日記に書かれていたことなんてこれっぽっちも記憶していないし、彼と私はむしろ赤の他人と思って頂くぐらいで丁度良いかと」
「うーん、そうなんですよね。だから正直に言ってしまうと阿求さんを怨んだこともあります」
彼女の紅い瞳に、僅かな陰が射したように見える。
「御阿礼の子のことはよく分からなかったから、転生しても私のことを覚えていてくれるかも分かりませんでした。でもきっと信じていれば叶うって思っていたんです。時代も変わって妖怪と人間が仲良くしてても不思議じゃ無いわけですし、今度こそ誰に遠慮することなく一緒に暮らせるって信じて、転生を待ってたんです。それがですよ、待ちわびてやっと転生してきたかと思ったら、私のことを覚えてないばかりじゃなくて、よりによって女の子に転生しちゃってるじゃないですか。こんなのあんまりだと思いません?」
「それはまぁ、うーん……女の子で御免なさい」
阿礼乙女に産まれたのは私の責任では無いのだが。
「いいですよ今は気にしてませんから。阿求さんを怨んだからって一度産まれたものが変わる訳でも無いですし、それに今では阿求さんのこともけっこう気に入ってますし」
晴れやかな笑顔を私に向ける。
「私は阿弥さんと一緒にいられて本当に幸せでした。そして阿弥さんを好きなまま終わることができた。だからきっとこの幸せはいつまでも続いていくんじゃないかなって、そう思うんです」
「そういうものですか」
「ええ、そういうものです」
彼女は力強く頷いた。
「阿求さん」
「はい」
「あの、夏になったら、私と一緒にお祭りに行ってくれませんか」
「……」
「だ、駄目ですか?」
「いいですよ。喜んでお供させていただきます」
「あ、ありがとうございます!」
百年越しの約束が今更になって果たされる、といったところだろうか。
まぁ折角のことだから、私も夏の訪れを心待ちにするとしましょう。
終
ただもうちょい尺取って文に感情移入させてほしかったかな。さっぱり感を狙っているのだと思うけど駆け足すぎる気がしました
良かったです。