一分咲
立春。
人間の使う暦では今日から春。
眠りについていた動物や植物が目を覚まし活動を始める季節。
人も妖怪も浮かれる季節。
福寿草、梅、椿、スミレ、花梨、桜、たんぽぽ、チューリップ、アネモネ、ヒアシンス、イキシア、ラナンキュラス。
春に花を咲かす植物を上げればきりがない。その数えきれない花々に囲まれ毎日を過ごせると思うと幽香は自然と笑顔になってしまう。
達筆な文字で書かれた『立春』という言葉。
人里の花屋で貰った日めくりカレンダーに書かれたその言葉を見つめた後、窓の外に視線を送る。
「やっぱり、人間達は馬鹿ね」
窓から見える景色は白、白、白。どこもかしこも雪に埋もれ色が失われている。
「春の訪れなんて暦で決められる訳ないじゃない」
拗ねた子供のようにそう呟くと、ティーカップを少しだけ傾ける。
口に広がるバニラの甘い香りが幽香を少し落ち着かせた。
人里で買った甘い香りのする紅茶の缶を手に取り呟く。
「あら、おいしいわね」
動物達の鳴き声、妖精達のはしゃぐ声、ありとあらゆる音が降り積もる雪に消されてしまったかのように無音の世界。
聞こえる音はパチパチと暖炉の薪がゆっくりと燃えていく音だけ。
膝掛けを整えると再び窓の外を見つめる。
止む事のない雪を見ているとこのまま春が来ないのではないかと心配になるが、庭先で見つけた梅の花の蕾を思い出し春が近づいている事をしっかりと思い出した。
二分咲
幻想郷にたどり着くよりずっと前。私は花を求め各地を転々としていた。
京の都に旧都の大和、新しく首都となった鎌倉にも足を運んだ。
特に鎌倉の紫陽花は美しく、毎年の様に梅雨が近づくと紫陽花を見に足を運んだものだ。
この地に辿り着いたのはいつ頃だっただろうか。確か季節は冬だった。
甲州の山奥、富士の山が見渡せる美しい湖や富士の山の雪解け水が一年中湧いている土地だった。
小高い丘に広がる花畑。街道から外れた細い道には桜が植えられている。湖に続く小さな渓流の横には椿が群生している。また丘の麓には梅林が広がっている。
花こそ咲いていなかったが、四季を様々な花と共に過ごせる土地を見つけ柄にもなく鼻歌を歌って歩き回ったのをよく覚えている。
私は丘の頂に古民家を見つけ、しばらくこの地に居座る事を決めた。
上機嫌で散歩を終えると期待に胸躍らせ、人里に買い出しに行った。
生活雑貨や食料など必要な物を一式揃えた帰り道、梅林の横を通ると梅の木たちは白い塊をその枝に着けていた。
昨日降った雪がまだ残っており蕾なのか雪なのかはっきりと確認できなかったが、微かに香る独特の香りが漂っている事に気づき私は自然と笑顔になっていた。
三分咲
人里で買い物を終え、幽香は帰路に着いていた。
暦上では春を迎えていたが吹く風は冷たい。おかげで手先は氷の様に冷たくなっていた。
お気に入りの桜色のマフラーに顔を埋めると歩く速度を上げる。
「あら、この香り……。少し寄り道していこうかしら」
嗅覚を刺激する甘い香りが冷たい風に混ざっている事に気付く。
彼女は鼻をヒクヒクさせ香りの流れてくる上流を目指した。
先日の大雪が薄汚れた色になり道の隅に未だに残っている。そんな雪の残る街道を歩き、枯草が敷き詰められた農道を歩き、細い道を進むと小さな雑木林が見えてきた。
雑木林の中、香りを頼りに目的の花を探す。
「多分、この辺りだと思うけど……」
濃くなる香りの元を探しながら歩いていると徐々に木々が減っていく。そして少し開けた空間へと辿り着く。
円形状に広がるその場所は人工的に作られた場所の様だった。辺り一面を覆う枯草の上には所々残る雪が広がっており、中央には巨大な梅の木が一本、凛と立っていた。
岩肌を思わせる樹皮は分厚く、また、四方に広がる枝は、遥か上空を走る雷のように歪で力強い。まだ雪の残る寒さだというのに、幹にはこびりついた苔の緑色がはっきりと残っていた。そして優雅でいて妖艶な香りを放つ梅の花は三分咲きと言ったところだった。
「七百いや、八百歳位かしらね」
長い歳月を過ごした樹木が身に着ける独特の気を読み取り、梅の木の年齢を推定する。
随分と長い間幻想郷にいる幽香だったが、この梅の木の存在を知ったのは今日だった。
四季のフラワーマスターと称される彼女がこの様な立派な梅の木の存在を知らないはずがない。故に、彼女は導き出した答えを口にする。
「貴女みたいなお婆ちゃんがどうして幻想郷に来たのかしら?」
幻想郷にたどり着く物は人々に忘れられてしまった物、力を維持できなくなってしまった人外。永い間生き延び妖怪になった動植物。
ゆっくりと根元に足を運ぶと、僅かだか妖気を感じる。
「いくら人間が馬鹿だって、貴女位立派な梅の木を忘れる訳ないわよね。ようこそ幻想郷へ。梅の木妖怪さん」
楽しそうに日傘をクルクルと廻しながら梅の木の周りを歩き、深呼吸をして上品な香りを肺一杯に吸い込む。
「あら?」
見上げた視線の先には、竹製の短冊が一枚ぶら下がっていた。
――夕されば 蛍よりけに燃ゆるども 光見ねばや人のつれなき
「梅の木に蛍の歌。随分と季節感の狂った歌人がいたものね……」
呆れた様子で呟くと梅の木の幹に手を当て目を瞑る。
「すこし体調が悪そうね。風邪を引かないといいけど」
優しい笑顔で梅の木に話しかけると、何かを閃いた様に日傘を握っていた右手に左手を添え続けた。
「体調が良くなるまで面倒見てあげるわ。その代り満開の花を一番最初に私に見せる事。良いわね?」
一方的に話を終えると買い物かごを置き、腕捲りをして枯草を集め始める。
「それじゃあ、また明日来るわ」
梅の木の根元に枯草を敷き詰めると別れを告げ自宅へ向かった。
四分咲
梅林の中、私の背丈より少し高い梅の木の下で人間の子供がうずくまって泣いているのを見つけた。
「坊や、こんな所で何をしているのかしら?」
「……里に帰る道が分かんなくちゃった」
瞼を真っ赤に腫れさせ子供は言う。
「それはご愁傷様」
「お姉ちゃんも迷子なの?こんな梅林の奥に一人でいるだなんて」
「私は好きでここにいるのよ」
「この辺りは危ない妖怪が出るからって父ちゃんが言ってたよ。一緒に里への道を探そうよ」
「生憎私も妖怪よ?」
「そうなんだ。妖怪って初めて見た。お姉ちゃんは危なくない妖怪?」
「どうかしらね。人間達は私の事を怖がってるようだけど」
「んー、僕はあんまり怖い妖怪だと思わないなぁ」
会話のできる相手との遭遇は子供に一種の安心感を与えたようで、図々しく私にあれこれ話を始めた。
大妖怪『風見幽香』に怯える事無く話を続ける。
迷子の人間など、本来なら相手にせず放っておくのだけど、私に怯える様子を見せない子供に少し興味を持ち、適当に話をした後に街道まで送ってあげることにした。
別れ際、子供は振り返ると大きく手を振った。
「もうこんなところまで来るんじゃないわよ」
「またね、お花のお姉ちゃん」
会話になっていない。人間の子供ってみんなあんなに会話が成り立たない生き物なのかしら。
五分咲
翌日、幽香は梅の木を手入れする為に早朝から雑木林へと向かっていた。
昨日と同様、梅の花の香りを頼りに道を進み、目的地に辿り着く。
「おはよう。今日も寒いわね」
梅の木に話しかける彼女は目を輝かせていた。幼気な少女の様な表情はとても幻想郷屈指の実力を誇る妖怪には見えなかった。
幽香の事を知らない人が見れば、花の妖精が無邪気に花と会話をしているようにも見えただろう。
鼻歌を歌いながら梅の木の根元へ歩み寄る。
ガサッ
根元に敷き詰めた枯草の中で何かが動く。
笑顔は一変し、眉間に皺が寄る。
――幻想郷屈指の妖怪『風見幽香』を倒し、自身の名を上げようと考える妖怪は少なくない。特に花が少ない冬は幽香の力が減少していると思い込み、彼女の命を狙う輩が多いのだ。実際のところ、花が咲いていようと、咲いていまいと彼女の力に変化は無い。彼女に挑んだ者は圧倒的に、一方的に、なす術無く返り討ちに遭い悟る。「風見幽香の力は季節とは無関係だった」と。
幽香は落ち着いた様子で口を開いた。
「出てきなさい。今出てくれば殺しはしないわ」
ガサガサッ
枯草の中の何かは、動きはするが一向に姿を現さない。
咳払いをするともう一度警告をする。
「聞こえなかったのかしら?死にたくなければさっさと出てきなさいって言ってるのよ」
ガサッ
「ひぃぃ、待って!殺さないでっ!うぅぅ、ささ、さ、寒いよぉ」
聞き覚えのある声と共に姿を現したのは蛍の妖怪だった。
何度か八目鰻が名物の屋台で顔を合わせた事があったが、会話らしい会話をした覚えが無く、必死に目の前に現れた羽虫の妖怪の名前を思い出す。
「えーっと、リトル?いや、リグル……だったわね?私の梅の木の下で何をやっているのかしら?」
「ゆ、幽香さんの梅の木とは知らずに申し訳ごめんなさい」
深々と頭を下げ、必死に謝るリグルは寒さに体を震わせていた。
「私は何をやっているのか聞いてるのよ?」
「寒さを凌げる場所を探していていらっしゃいまして、彷徨っていたら大きな梅の木がございましたので……」
怒気を纏った笑顔を浮かべる幽香。寒さと目の前の大妖怪に震えながら答えるリグル。
「寒さを凌ぐなら他にいくらでもあるでしょう?」
「は、はい。仰る通りだとお思いでしょうけど……」
「けど?何かしら?」
「梅の花の良い香りに誘われてついつい」
予想外の答えに怒りが消えた幽香は感心した様子で口を開く。
「貴方みたいな妖怪でも、梅の香りの良さが分かるのね」
「はい、多少なら。なんかこう、虫としてじっとしていられなくなるような感じと言うんでしょうか」
リグルの返答を聞くと再び幽香の顔に怒気が混ざる。
慌てて口を開くリグル。
「いや、ちょっと待ってくださいませ!お話を聞いてください」
手をバタつかせながらリグルは梅の木の下にたどり着いた経緯を説明し始めた。
今から一週間ほど前、暦上で立春を迎えた日の出来事。
幻想郷ではこの冬最後の大雪が降った。真冬に比べると気温が高く、水気を沢山含みぼてりとした雪が幻想郷に積もった。
人里では民家の屋根が雪の重さに負け崩れるという事故が数件起こった。
一方妖怪の山では雪の重さに耐えられず倒れる木々が妖怪達の家を破壊した。
冬眠中だったリグルも被害に遭い、家を失い今は放浪生活を送っている。
「それで、春が来るまで寒さを凌げる場所を探していたと?」
「はい」
事の経緯を説明し終えたリグルに予想もしていなかった言葉が飛んできた。
「春が来るまで、家にいて良いわよ」
「へっ?」
理解が出来ず、間抜けな声を出してしまう。
「だから春が来るまで家に居候して構わないって言ってるのよ」
「あ、ありがとうございました。幽香さんってもっとお怖い人なのかと思っていたのでありますが、優しいのでありますね」
「そう?力の弱い妖怪や人間相手に粋がる様な下種な連中と一緒にしないでくれるかしら」
花畑を荒す者、敬意を払えない者、礼儀のない者には容赦はしないが、普段はとても温和だったりする幽香。そんな彼女は笑顔で続ける。
「それとリグル。下手な敬語はやめなさい。あなたが私との実力の差をはっきりと認識しているのなら言葉使いはそこまで気にしないわ」
「う、うん。ありがとう、ゆ、幽香」
ハラハラしながら返事をするリグル。
「居候になるんだから、仕事くらい手伝いなさい」
「仕事?」
置かれた状況に必死に追いつこうと頭の回転を速める。
「働くって事よ」
「仕事の意味位分かるよ。ただ何するのかなぁと思って」
「この梅の木の手入れよ」
「手入れと言われても私よくわかんないよ?」
首を傾げながら幽香を見る。
「簡単よ。この梅の木はかなりの高齢よ。歳で言えば八百歳くらいかしら」
「それはまた随分とお婆ちゃんなんだねぇ。敬意を込めて梅さんって呼ぶよ」
「呼び方はどうでもいいわ。この子は具合が悪い。だから虫一匹で悪化するかもしれないの」
梅の木に優しい視線を送りながら話を進める幽香。
「虫達も寒さを……」
鋭い視線が飛んできてリグルを黙らせる。
「風邪を引いて寝込んでいる時に寝るなら、普通の布団とダニが入っている布団どっちが良い?」
「そりゃ普通の布団でしょ」
「そう言う事よ。だから貴女の力でこの木に巣食う虫を全部追っ払いなさい。できる?」
「蟲を操る事が出来るからそれ位簡単だけど、こんな寒空のもとに……」
「何か?」
「いえ、他の木に移動してもらうね」
そういうとリグルは意識を高める。
リグルの妖気に操られ、樹皮や幹の隙間から蠢く虫達が溢れてくる。
虫達は黒い塊となって宙を舞いそのまま雑木林へと姿を消した。
「あら、すごいわね」
「えへへ」
関心する幽香と得意げになるリグル。
「さぁさぁ、次は何すればいいの?」
「垢すりよ」
手渡された藁で出来た大きなたわしを見つめながら復唱する。
「垢すりね。って何すれば?」
「樹皮が分厚すぎで余分な栄養を取られているの。それに樹皮の隙間に虫が入り込むのよ」
「樹皮を削ってあげれば良いってこと?」
「その通り」
幽香に説明を受けながらリグルは丁寧に梅の幹を擦る。
「フラワーマスターって言われてるんだから、能力を使って梅さんを咲かせてあげればいいじゃん」
「私は自分の力で満開の花咲かせたこの子を見たいの。それに、手入れをしてあげないと、またすぐに具合が悪くなっちゃうわ」
「お花って奥が深いんだね。虫達にしっかりと味わう様に伝えないと」
「何か言った?」
「何でもないです……」
それから一時間程、二人は黙々と作業に没頭した。初めは慣れない手つきのリグルを見て幹を傷付けられないか冷や冷やしていた幽香だったが、思った以上に呑み込みが早くあっという間に作業が終わった。
「少し早いけどお昼にしましょうか」
梅の木から少し離れた所にシートを広げ腰を下ろす幽香。
「はーい」
出会った時の怯え方が嘘であったかのようにリグルは幽香に返事をする。
シートに座り、マフィンと紅茶で少し早い昼食を楽しむ二人。
「ねぇ幽香」
「何かしら」
マフィンを頬張りながら幽香に話しかける。
「枝からぶら下がってる短冊なんて書いてあるの?」
「短冊?あぁ、あれね。――夕されば 蛍よりけに燃ゆるども 光見ねばや人のつれなき。和歌ってものね」
言葉の意味が理解出来ず、質問をした時の笑顔のまま沈黙するリグル。
「大昔の言葉よ。夕方になるとあの人を思って、私の思いはホタルよりはっきりと光り、思い焦がれるけど、恋心は蛍の光のように見えるわけじゃないから、あの人には気付いてもらえない。そんな感じの意味だと思うけど」
「幽香って頭も良いんだね。それにしても随分健気で乙女チックな歌。羨ましいくらいに素敵な歌。蛍より光るとは恋心は凄いね」
幽香から見ればまだまだ幼いリグルは、恋心を歌った古い和歌に感動したようで、楽しそうにはしゃいでいる。
「恋かぁ。私はまだしたことないんだよなぁ。ねぇねぇ、やっぱり幽香はあるの?」
「……」
小さく咳払いをしリグルを黙らせる。
「さ、食べ終わったから続きをやるわよ」
そう言い足早に作業に戻る幽香の後姿を見てリグルは小さく漏らした。
「危ないとこだったかもしれない……」
六分咲
目の前には楽しそうな笑顔を浮かべる人間の子供。
「また来たよ!お花のお姉ちゃん」
「今度は送ってあげないわよ?」
「えへへ、今度はちゃんと道を覚えて来たから大丈夫」
人間も理解できないが、この子供はもっと理解が出来ない。
人間達の村から半日ほど歩いた場所にあるこの梅林になぜまた来たのだろうか?
道中には妖怪の縄張りもあり普通の人間はまず近寄りもしないというのに。
「今日はね、お花のお姉ちゃんにお礼を持ってきたよ」
「お礼?」
「そう、こないだ街道まで案内してくれたお礼」
「いらないわよ」
「まあまあそう言わないで」
そう言いながら子供は背負っていた竹籠から一本の筒を取り出した。
「はいこれ」
「なによ?」
掌に乗せられた小さな種を突きながら子供を見る。
「お花の種だよ。お花のお姉ちゃん着物も花柄だし、お花みたいな傘持ってるし、お花好きなのかと思って」
「だったら普通、お花を持ってくるんじゃないかしら?」
「今の季節はまだお花が咲かないから。種で我慢してよ」
ニッと笑顔を浮かべる子供は私の横に座り花の話を始める。
両親が庭師を営んでいるようで、花や植物には詳しいそうだ。
人間にもなかなか良い趣味を持っている連中がいるようで少し嬉しかった。
子供は毎日のように私の元に遊びに来た。
ある時は花の手入れをする私をただずーっと眺めているだけ。またある時は一方的に話をしていたり。
そしてまたある時は剣術の真似事の相手をさせられたりもした。
いつものように話を聞き流しているとこの子供は将来の夢っていうものを語り始めた。
「大きくなったら僕は剣士になるんだ」
「そう」
人間は妖怪と違ってその一生が短い。夢や目標を持って生きる事は良い事だと思う。
ただその後の話はちょっと驚いた。
「天下一の剣士になるんだ。そしたらお花のお姉ちゃんをお嫁さんにしようと思ってるんだ」
「そう」
やっぱり子供の戯言は理解できない。
七分咲
幽香の家にリグルが居候するようになってから一週間。二人は毎朝、梅の木の様子を見に出かけていた。
日が昇る頃に家を出て、日が空の一番高い所に昇った頃に家に帰る。そんな生活を過ごしていた。
寒さに弱いリグルは普段より厚着をして着膨れしている。そんな姿を幽香はテントウムシの様だと毎朝大笑いする。
「幽香、テントウムシ好きなの?」
リグルは目を輝かせて聞いた事があるが「害虫は嫌いよ」と笑顔のまま返された。
強大な力を持ち恐ろしいイメージを持たれる幽香だが、根は優しい。
そしてリグルの気さくな性格が功を奏し、二人は昔から親しい間柄の様に過ごしていた。
いつものように梅木の傍で早めの昼食をとっている時、リグルがふと質問をする。
「ねぇ幽香、春っていつから?」
「そうね、強いて言うなら梅の花が満開になった時からかしら。なんで梅の花が他の花達より早く咲くか知ってる?」
サンドウィッチを口にくわえたまま首を大きく左右に振るリグル。
「梅の花が満開になった時、その香りで眠っていた草木達が目を覚ますのよ」
「なるほど」
掌をぱんっと合わせると紅茶を一口すすり話を続ける。
「植物界のリリー・ホワイトだ。ん?じゃあまだ春は来てないって事だね」
「そうなるわね」
「春が楽しみだなぁ」
巨大な梅の木を見上げ、満開になった姿を想像し笑顔になるリグルの横で幽香が小さく頷く。
「そうね。それじゃその春をもっと楽しむために帰ったら種まき手伝いなさい」
「うへぇ、また種まきかぁ。水が冷たくて嫌だ」
「何か言った?」
「いいえ」
昼食を終えると二人は帰路に着いた。
八分咲
あの子供と出会ってから何十回も春を迎えた。あの子供は立派に成長し、青年になっていた。
彼は週に一度か二度私の元を訪れ、花について色々と聞いてきた。
人間にもあんなに真剣に花を愛する事が出来る者がいるのかと感心する位だったのをよく覚えている。
出会った頃はチャンバラごっこ程度の実力だった剣術も今では幽香に少し本気を出させる程まで上達していた。
「幽香さんは僕の師匠です」
「突然どうしたのよ」
梅林から少し離れた場所にある花畑でいつものように他愛もない話をしていると急に真面目な表情を作り青年が口走った。
「あ、いえ。小さな頃から花の事沢山教えてもらったなぁと思って。それに稽古に付き合ってくれたり」
「あの頃は小さくて可愛かったのにね。お花のお姉ちゃんって」
「恥ずかしいから子供の頃の話はやめてくださいよ。僕はもう幽香さんより大きいし、花の知識もそれなりにあります」
「生意気言う様になっちゃって。可愛くないわ。でも確かにあんたはもう鼻垂れ小僧じゃないって事は認めてあげる。私から見たらまだまだお子様だけどね」
「妖怪は見た目じゃ年齢わからないもんなぁ」
「何か?」
「いえ……」
「春が来たらこの地を去ろうと思っているの」
「……」
「前にも言ったと思うけど、私は色んな花を求めて各地を転々としているの。こんなに長く一つの土地に留まったのは初めてよ」
「……」
彼は何言わなかった。
そのまま沈黙が私達を包み、長い時間が過ぎた。いつの間にか太陽はすでにその身を半分以上地平に隠してしまっている。
「毎年春が来る前に、初めて幽香さんに会った梅林で待っています」
「そう」
私は彼に特別な感情を抱いていた訳ではない。これは断言できる。
そして彼は私に何かしらの感情を抱いていたと思う。断言はできないけど。
人間の一生はとても短い。次に私がこの地に訪れる頃には彼は生きてはいないだろう。
そんな事を思うと胸の奥が少し苦しかった。
九分咲
空には分厚い雨雲。雷雲が轟音を響かせながら流れている。
雷雲は地上の標的を探すように数分おきに地響きにも似た低音を上空で鳴らしている。
朝からリグルは轟音に怯え家から出ようとしない。
そんなリグルに文句を言いながらも幽香も外には出ようとはせず、のんびりと紅茶を啜っていた。
「嫌ねぇ」
「嫌だねぇ。雷はおっかないよ」
「地を這う虫のくせに雷が怖いの?」
「残念ながら私は空を舞う虫だから雷は本能的に怖いの」
「焼きリグルとか面白そうじゃない?」
「ぜんっぜん面白くないって」
「そう、残念だわ。はい、あなたの分ね」
紅茶に木苺のジャムを落とすと机の向かいに座っているリグルの前までティーカップを滑らす。
「あっ、ありがと」
頬を膨らませていたリグルだったが、紅茶とジャムの混ざった甘い香りに目を輝かせている。
「こんな美味しい紅茶の飲み方を発見した人は偉大だよね」
「そうね」
「ところでさ――」
リグルが口を開いた瞬間。部屋全体を青白い閃光が駆抜ける。そして光が去ったと同時に耳を塞ぎたくなるほどの爆音と強烈な振動が二人を掴む。
「結構近くに落ちたようね」
呑気に紅茶をすする幽香と机の下に身を隠すリグル。
「ちょっと、出てきなさいよ」
「無理っ!怖い!」
「情けないわね。ちょっと様子見てくるから留守番してなさい」
「無理無理!一人にしないでよ」
「じゃあ出てきなさい」
「どっちも無理だって!」
机の下で必死に懇願するリグルを無視するように幽香は雨傘を手に取り玄関のドアに手をかけていた。
「そう、じゃあ留守番よろしくね。火元には気を付けなさいよ」
「話聞いてよー」
幽香はリグルの問いに答える代りにドアを勢いよく閉めた。
「あぁぁ」
机の下から情けない声を上げる。
幽香が外の様子を見てくると家を空けてから一時間程経とうとしていた。
すでに雷雲は消え、大粒の雨を降らす雨雲が空にいた。
屋根を叩く雨音を聞きながら、飲み終えたティーカップを洗っているリグル。
「幽香、どこまで見に行ったんだろう」
一向に止む事のない雨に煽られ徐々に不安になる。
「何かあったのかな……」
そう思うと居ても立ってもいられなくなり出かける支度を始める。
長靴を履き、愛用の雨合羽に身を包むと家を飛び出した。
「これだけ雨が降ってると私だって飛べないし、虫達に幽香探しのお手伝いは頼めないや」
ピチャピチャと音を立てながらリグルは走り回る。
一緒に種を撒いた花畑を越え、いつも一緒に歩いた細い砂利道を走った。
「ゆうぅかぁぁ」
雨音に消されないよう必死に大きい声を出し走った。
吸い込む空気に木の焼ける匂いが混ざっている事に気付き足を止める。
「まさかとは思うけど梅さん……」
大きく頭を左右に振ると全速力で梅の木のある雑木林に向かった。
雑木林に入ると次第に焦げ臭さが増してくる。遠目からは火や煙は確認できなかった事を考えるとこの大雨ですでに鎮火されたのだろう。
とは言え、梅の木の無事を確認できたわけではないので、胸を締め付けられるような思いで雑木林の中を駆け抜けた。
開けた空間に出ると見慣れた後姿が飛び込んできた。
「幽香っ!」
彼女の元に駆け寄る。
「リグル……梅の木が……」
初めて見せる彼女の泣き出しそうな顔を見て幽香が何を言おうとしているのかを察知したリグルは慌てて梅の木に目をやる。
昨日まで確かに咲いていた純白の花は無かった。光沢のある樹皮は黒く焦げ、所々焼け落ちている。
雑木林の中で一番背の高いこの梅の木を雷の気まぐれで焼かれてしまったのだ。
「そんな……」
自身も自然の一部として生きる身である以上、自然の理不尽さ、圧倒的な力を知っているリグルだったが、あまりの出来事にショックを隠せなかった。
そして何より、満開を楽しみにしていた幽香の事を思うと心が痛んだ。
大妖怪『風見幽香』はとても弱々しく、捨てられた子猫の様な表情で立ち尽くしている。
家を出る時に持っていた筈の雨傘は見当たらず、全身を冷たい雨に打たれている。
「幽香……」
「……」
幽香は何も答えない。
「……」
リグルは何も言えなくなってしまった。
辺りが暗くなりはじめ、雨も次第に弱くなってきた。
「ねぇ、幽香。帰ろう。このままじゃ風邪引いちゃうよ」
「……」
何も答えない幽香の右手をそっと握ると氷の様に冷たくなっていた。
「こんなに冷えちゃってる。早く帰って温まらないと駄目だよっ!」
必死に幽香の手を引っ張り無理矢理その場から動かすと彼女は帰路に着いてくれた。
雨の降る帰り道。リグルに手を引かれ幽香はおぼつかない足取りで歩いていた。
満開
梅の木に落雷があった翌朝。リグルは幽香より早く目が覚め、朝食の支度を始める。
幽香の為に甘めのミルクティーを淹れ、トーストを焼く。
「幽香、朝ごはんできたから一緒に食べようよ」
彼女の寝室のドアに顔だけ入れ声をかける。
「いらないわ」
「いらないって……今日は天気良いんだから種まきするんでしょ?」
「今年の春は来ないのよ」
消え入りそうな声で返事をすると幽香はそのまま毛布に包まって動かなくなってしまった。
諦めてドアを閉め、久しぶりに一人で朝食にすることにした。
妖怪に致命的なダメージを与える為には肉体的な攻撃は殆ど意味を成さない。
妖怪は内面的な物、つまり信念や思考によってその力を維持している。
満開を楽しみにしていた梅の花が落雷により焼け落ちた。もし、これが人為的な出来事だったら怒りをその犯人にぶつける事により精神的なダメージを軽減できただろう。しかし犯人はすでに存在すらしていない雷雲。強いて言うならば自然の力だ。
どこにもぶつけられない怒り、悲しみが彼女に致命傷となる精神的ダメージを与えた。
幽香は理不尽な自然の力に心を裂かれてしまったのだ。
朝食を済ませたリグルは焼焦げた梅の木の様子を見に来ていた。
「明るい時に見ると真っ黒だ……」
姿を変えてしまった梅の木の下で呟く。
数週間という短い時間ではあったが幽香と一緒に過ごした毎日が自然と思い出される。
「幽香はちょっと怖いけど、とっても優しくて私に良くしてくれたよ。梅さんもそう思うでしょ?」
命が消えた梅の木に話しかける。
梅の木を周囲を歩いていると焼焦げた短冊を見つけた。
半分以上を炭になってしまった短冊を拾い上げると幽香に初めて会った日の事を思い出した。
「蛍より光る恋心だっけ?」
少し苦笑いをすると梅の木を見上げる。
「蛍の光も舐められたもんだ」
その時、リグルは何かを閃いた。
「ちょっとまだ寒いけど梅さんと幽香の為に頑張ろうかな」
落雷によって焼け落ちた枝や飛び散った木片を集め始めた。
昨日の雨がまだ乾いておらず、手先を濡らし寒さで真っ赤にしながらもリグルは掃除を続けた。
「あぁ冷たい。でも幽香と梅さんの為だ。頑張らないと!」
自分に言い聞かせるように激を飛ばし気合を入れると作業に戻る。
梅の木の周辺の掃除を終わらせ日が沈む頃に帰宅した。
ダイニングに入ると用意した幽香の朝食が手付かずで置いてあるのが目に入った。幽香は部屋から出て来なかったのだろうと思い大きくため息を吐いた。
コンコンと幽香の部屋のドアを叩く。
「ただいま、幽香」
「……」
「具合はどう?」
「……」
「部屋から出てきてよ」
「……」
最初から返事を期待していた訳ではないが、ここまで無反応だと呼びかけていたリグルも精神的にやられてしまう。
「……もう」
とは言え、ここまでの無反応はリグルの想定内だった。彼女は気を取り直しドアの向こうの幽香に呼びかける。
「おい!フラワーババア!よくも今までこき使ってくれたな!弱ってるお前にこれから仕返ししてやるから覚悟しろよ」
「……」
幽香を刺激するような言葉を選びドア越しに叫ぶ。
「まずは白アリ達を使ってこの家をボロボロにしてやるぞ。その次はアブラムシ達を使って芽を出し始めた花畑を台無しにしてやる。その次はえーっと、伝説の金色カブトムシを使ってお前をやっつけてやる」
物凄い音を立てドアが吹き飛んだ。
「ありがとうリグル、おかげで少し元気が出たわ。貴方を二度と飛べない位にする程度の元気だけど」
「そ、そうか!それは良かった。それじゃ虫の恐ろしさを味わえ!」
震えながらも幽香の前に立ち続けたリグルは力を振り絞り弾幕を放つ。
幽香は放たれた弾幕を力を込めた右手で薙ぎ払う。
突然態度を変えたリグルを睨みつけようとしたが、すでにリグルは家の外に逃げ出していた。
玄関に置いてある愛用の日傘を手にすると幽香は勢いよく家を飛び出す。
「ふはは、よ、ようやく元気になったようだな。弱っている幽香を倒しても意味ないからな」
「頭まで虫レベルだったようね」
「あまり虫を舐めないでよね」
そう言うとリグルは猛スピードで逃げ出した。
「達者なのは口と逃げ足だけね」
ひたすら逃げ回るリグルと弾幕を放つ幽香。
何発も幽香の弾幕を喰らいながらもリグルはひたすら憎まれ口を叩き逃げ回っている。
色鮮やかな弾幕を避け高度を上げるリグルに待っていたのは幽香の強烈な一撃だった。
「地を這ってなさい」
その一言と同時にリグルは幽香の日傘に吹き飛ばされ、地上に激突した。
幽香も後を追うように地上に降り立つ。
「さて、最後に言い残す事はないかしら?」
殺気を込めリグルを睨みつける。
「げほっげほっ。やっと幽香部屋から出てくれた」
困惑する幽香にリグルは続ける。
「梅さんの花、私が咲かせてあげるから元気出してよ」
「何を言っているのかしら?」
家を飛び出してから頭に血が上っていて周りが見えていなかった幽香だったが、冷静に周囲を見渡すとそこはリグルと通った梅の木の前という事に気付いた。
「言ったでしょ?あまり虫を舐めないでって」
リグルはパチンと指を鳴らす。
雷に焼かれ命を失ったはずの梅の木に緑色の光が集まる。
その光は雑木林の至る所から現れ、焼けてしまった梅の木に集まっていく。
「これは……」
立ち尽くす幽香にリグルが話を始める。
「ほら、梅さんの花は満開だよ。もう春が始まるんだからいつまでもメソメソしてないでよ」
「……」
蛍が宙を舞う季節は初夏。今の季節の蛍はまだ幼虫で、水中に生息しているのが普通である。
しかしリグルの蟲を操る程度の能力により急成長をさせられた蛍達は腹部を発光させ優雅に宙を舞い、命を失ってしまった梅の木の代わりに花となっている。
「緑色に光る梅の花なんて聞いた事無いわよ、バカ」
幽香は傷だらけのリグルをそっと抱きしめる。
「新種の梅の花ということで……」
リグルは幽香に抱かれたまま照れくさそうに返事をした。
気が付くと蛍達は光るのを止め、リグルの後ろに整列していた。
「お前達、ありがとう。幽香が笑ってくれたからもう休んで良いよ」
「リグルのくせに虫達には偉そうね」
「誰にでも偉そうな幽香に言われたくないよ」
ポンっとリグルの頭を軽く叩くと腕を解き梅の木へと歩み寄る幽香。
「死んでしまった貴方にもう一度花を咲かせるなんて虫も侮れないわね」
梅の木に話しかけながら、幽香が手を触れるとその形を維持できなくなり梅の木は灰となり崩れ落ちた。
崩れ落ちる梅の木から言葉が聞こえてきた。
――幽香さんありがとうだって。私からもありがとう。
「私からも?」
梅の木のあった場所には小さな新芽が一つ生えていた。
「言葉の真意は成長した貴方から聞くわ。だから立派な梅の木に育ちなさいよ」
「幽香、梅さんと話できるの?」
後ろで幽香と梅の木のやり取りを見ていたリグルが不思議そうな顔を浮かべ話しかけてきた。
「話せないわよ。梅の木も桜の木も、どんな花も私の片思いなんですもの」
「そっか。幽香はいつもお花に恋してたんだ」
「そんなところね。さ、帰るわよ。明日は朝から種まきね」
「えぇぇ、体中が痛いからパス」
「居候は黙って働きなさい」
「……はーい」
こうして二人は帰路に着いた。
落花
「今年も彼女は戻ってこなかったか」
花が散り、新芽を身に纏い始めた梅の木の下で青年は呟いた。
本来ならば切ない表情、辛い表情が似合うはずの発言にも関わらず、青年の顔は穏やかだった。
初恋の相手が妖怪だった。
今思えば笑い話だが、その妖怪がこの地を去った当時は食事が喉を通らない程悩み、苦しんだものだった。
なぜ行かないでくれと言えなかったのか。なぜ好きだと言えなかったのか。自問自答の毎日だった。
幽香がこの地を去った年の夏、溢れる恋心を短冊に書いて梅の木に吊るしたことがあった。
――夕されば 蛍よりけに燃ゆるども 光見ねばや人のつれなき
恐らく彼女がこの歌を詠んだら季節感が狂ってると呆れられただろう。しかし彼はそれでも良かった。
いつか、彼女がこの地を再び訪れた時に少しでも自分の事を思い出してくれさえすれば良い。
「今思えば恥ずかしい」
青年は頭を掻きながらそう呟くと梅の木に手を当てる。
「梅の木よ、わしは冥界のお屋敷に雇われる事になった。ここに来る事もそう多くないだろう。そこでお前さんに頼みがある」
初恋の妖怪との思い出を思い出しながら話を続ける。
「わしがここに来なくなったらお前さんが代わりに彼女を待っててはくれないか?それで彼女に会えたら伝えてくれ。ありがとうと」
新芽
「いつまで居座る気かしら?もうすっかり桜も散ったわよ?」
向かいで紅茶をすするリグルに私は険しい表情で問いかける。
「いやぁ、私は良いんだけどさ。ほら、蛍達がまだ寒いって」
苦笑いをしながら返事をするリグルを見る。
「あんたが無理矢理成虫にしたせいでしょ」
「それは幽香が泣き虫になってたから、元気にしてあげようと思って……」
「まぁ、いいわ。蛍は害虫じゃないからそんなに嫌いじゃないし」
「良かったね、お前達。もう少し居候させてくれるって」
嬉しそうに蛍達に話しかけている姿は何とも無邪気だ。
そんな無邪気な顔されたら、からかいたくもなる。
「言っとくけど蛍達が飛び回る季節になったら出てってもらうわよ」
「う、うん」
私は力のせいか多くの人間、妖怪達に恐れられてきた。
もちろん力を持つ者としてそれが当然だと思っていた。だから私を恐れない生き物が不思議だった。
目の前でヘラヘラ笑っていながら何かを話している友人や昔訪れた土地にいた人間の子供。
――そういえばあの人間の子供はその後どうなったんだろう。たしか半分幽霊だから寿命が普通の人間より長いとは言っていたけど。
「ちょっと幽香!人がせっかく良い事言ってるんだから聞いてよ」
「なにかしら?」
「幽香はちょっと怖いけど本当は優しいって褒めてたんだよ」
よくもまぁそんな恥ずかしい事を面と向かって言えたものだ。
「あなたに褒められても嬉しくないわね」
「……照れ屋」
「なに?」
「幽香の照れ屋っ」
いくら親しくなったからって私をからかうだなんて。
そんな事を思い笑顔で私は口を開く。
「この害虫!駆除してあげるわ」
「わっゴメン、待ってー」
慌てて家を飛び出したリグルを追いかけながら私も家を出た。
外はどこもかしこも花が咲き乱れ、春に支配されていた。
人も妖怪も浮かれる季節。逃げ回る蛍の妖怪も浮かれているが、他人から見れば私も十分浮かれているのだろう。
でも春だし良いじゃない。何か文句ある?
立春。
人間の使う暦では今日から春。
眠りについていた動物や植物が目を覚まし活動を始める季節。
人も妖怪も浮かれる季節。
福寿草、梅、椿、スミレ、花梨、桜、たんぽぽ、チューリップ、アネモネ、ヒアシンス、イキシア、ラナンキュラス。
春に花を咲かす植物を上げればきりがない。その数えきれない花々に囲まれ毎日を過ごせると思うと幽香は自然と笑顔になってしまう。
達筆な文字で書かれた『立春』という言葉。
人里の花屋で貰った日めくりカレンダーに書かれたその言葉を見つめた後、窓の外に視線を送る。
「やっぱり、人間達は馬鹿ね」
窓から見える景色は白、白、白。どこもかしこも雪に埋もれ色が失われている。
「春の訪れなんて暦で決められる訳ないじゃない」
拗ねた子供のようにそう呟くと、ティーカップを少しだけ傾ける。
口に広がるバニラの甘い香りが幽香を少し落ち着かせた。
人里で買った甘い香りのする紅茶の缶を手に取り呟く。
「あら、おいしいわね」
動物達の鳴き声、妖精達のはしゃぐ声、ありとあらゆる音が降り積もる雪に消されてしまったかのように無音の世界。
聞こえる音はパチパチと暖炉の薪がゆっくりと燃えていく音だけ。
膝掛けを整えると再び窓の外を見つめる。
止む事のない雪を見ているとこのまま春が来ないのではないかと心配になるが、庭先で見つけた梅の花の蕾を思い出し春が近づいている事をしっかりと思い出した。
二分咲
幻想郷にたどり着くよりずっと前。私は花を求め各地を転々としていた。
京の都に旧都の大和、新しく首都となった鎌倉にも足を運んだ。
特に鎌倉の紫陽花は美しく、毎年の様に梅雨が近づくと紫陽花を見に足を運んだものだ。
この地に辿り着いたのはいつ頃だっただろうか。確か季節は冬だった。
甲州の山奥、富士の山が見渡せる美しい湖や富士の山の雪解け水が一年中湧いている土地だった。
小高い丘に広がる花畑。街道から外れた細い道には桜が植えられている。湖に続く小さな渓流の横には椿が群生している。また丘の麓には梅林が広がっている。
花こそ咲いていなかったが、四季を様々な花と共に過ごせる土地を見つけ柄にもなく鼻歌を歌って歩き回ったのをよく覚えている。
私は丘の頂に古民家を見つけ、しばらくこの地に居座る事を決めた。
上機嫌で散歩を終えると期待に胸躍らせ、人里に買い出しに行った。
生活雑貨や食料など必要な物を一式揃えた帰り道、梅林の横を通ると梅の木たちは白い塊をその枝に着けていた。
昨日降った雪がまだ残っており蕾なのか雪なのかはっきりと確認できなかったが、微かに香る独特の香りが漂っている事に気づき私は自然と笑顔になっていた。
三分咲
人里で買い物を終え、幽香は帰路に着いていた。
暦上では春を迎えていたが吹く風は冷たい。おかげで手先は氷の様に冷たくなっていた。
お気に入りの桜色のマフラーに顔を埋めると歩く速度を上げる。
「あら、この香り……。少し寄り道していこうかしら」
嗅覚を刺激する甘い香りが冷たい風に混ざっている事に気付く。
彼女は鼻をヒクヒクさせ香りの流れてくる上流を目指した。
先日の大雪が薄汚れた色になり道の隅に未だに残っている。そんな雪の残る街道を歩き、枯草が敷き詰められた農道を歩き、細い道を進むと小さな雑木林が見えてきた。
雑木林の中、香りを頼りに目的の花を探す。
「多分、この辺りだと思うけど……」
濃くなる香りの元を探しながら歩いていると徐々に木々が減っていく。そして少し開けた空間へと辿り着く。
円形状に広がるその場所は人工的に作られた場所の様だった。辺り一面を覆う枯草の上には所々残る雪が広がっており、中央には巨大な梅の木が一本、凛と立っていた。
岩肌を思わせる樹皮は分厚く、また、四方に広がる枝は、遥か上空を走る雷のように歪で力強い。まだ雪の残る寒さだというのに、幹にはこびりついた苔の緑色がはっきりと残っていた。そして優雅でいて妖艶な香りを放つ梅の花は三分咲きと言ったところだった。
「七百いや、八百歳位かしらね」
長い歳月を過ごした樹木が身に着ける独特の気を読み取り、梅の木の年齢を推定する。
随分と長い間幻想郷にいる幽香だったが、この梅の木の存在を知ったのは今日だった。
四季のフラワーマスターと称される彼女がこの様な立派な梅の木の存在を知らないはずがない。故に、彼女は導き出した答えを口にする。
「貴女みたいなお婆ちゃんがどうして幻想郷に来たのかしら?」
幻想郷にたどり着く物は人々に忘れられてしまった物、力を維持できなくなってしまった人外。永い間生き延び妖怪になった動植物。
ゆっくりと根元に足を運ぶと、僅かだか妖気を感じる。
「いくら人間が馬鹿だって、貴女位立派な梅の木を忘れる訳ないわよね。ようこそ幻想郷へ。梅の木妖怪さん」
楽しそうに日傘をクルクルと廻しながら梅の木の周りを歩き、深呼吸をして上品な香りを肺一杯に吸い込む。
「あら?」
見上げた視線の先には、竹製の短冊が一枚ぶら下がっていた。
――夕されば 蛍よりけに燃ゆるども 光見ねばや人のつれなき
「梅の木に蛍の歌。随分と季節感の狂った歌人がいたものね……」
呆れた様子で呟くと梅の木の幹に手を当て目を瞑る。
「すこし体調が悪そうね。風邪を引かないといいけど」
優しい笑顔で梅の木に話しかけると、何かを閃いた様に日傘を握っていた右手に左手を添え続けた。
「体調が良くなるまで面倒見てあげるわ。その代り満開の花を一番最初に私に見せる事。良いわね?」
一方的に話を終えると買い物かごを置き、腕捲りをして枯草を集め始める。
「それじゃあ、また明日来るわ」
梅の木の根元に枯草を敷き詰めると別れを告げ自宅へ向かった。
四分咲
梅林の中、私の背丈より少し高い梅の木の下で人間の子供がうずくまって泣いているのを見つけた。
「坊や、こんな所で何をしているのかしら?」
「……里に帰る道が分かんなくちゃった」
瞼を真っ赤に腫れさせ子供は言う。
「それはご愁傷様」
「お姉ちゃんも迷子なの?こんな梅林の奥に一人でいるだなんて」
「私は好きでここにいるのよ」
「この辺りは危ない妖怪が出るからって父ちゃんが言ってたよ。一緒に里への道を探そうよ」
「生憎私も妖怪よ?」
「そうなんだ。妖怪って初めて見た。お姉ちゃんは危なくない妖怪?」
「どうかしらね。人間達は私の事を怖がってるようだけど」
「んー、僕はあんまり怖い妖怪だと思わないなぁ」
会話のできる相手との遭遇は子供に一種の安心感を与えたようで、図々しく私にあれこれ話を始めた。
大妖怪『風見幽香』に怯える事無く話を続ける。
迷子の人間など、本来なら相手にせず放っておくのだけど、私に怯える様子を見せない子供に少し興味を持ち、適当に話をした後に街道まで送ってあげることにした。
別れ際、子供は振り返ると大きく手を振った。
「もうこんなところまで来るんじゃないわよ」
「またね、お花のお姉ちゃん」
会話になっていない。人間の子供ってみんなあんなに会話が成り立たない生き物なのかしら。
五分咲
翌日、幽香は梅の木を手入れする為に早朝から雑木林へと向かっていた。
昨日と同様、梅の花の香りを頼りに道を進み、目的地に辿り着く。
「おはよう。今日も寒いわね」
梅の木に話しかける彼女は目を輝かせていた。幼気な少女の様な表情はとても幻想郷屈指の実力を誇る妖怪には見えなかった。
幽香の事を知らない人が見れば、花の妖精が無邪気に花と会話をしているようにも見えただろう。
鼻歌を歌いながら梅の木の根元へ歩み寄る。
ガサッ
根元に敷き詰めた枯草の中で何かが動く。
笑顔は一変し、眉間に皺が寄る。
――幻想郷屈指の妖怪『風見幽香』を倒し、自身の名を上げようと考える妖怪は少なくない。特に花が少ない冬は幽香の力が減少していると思い込み、彼女の命を狙う輩が多いのだ。実際のところ、花が咲いていようと、咲いていまいと彼女の力に変化は無い。彼女に挑んだ者は圧倒的に、一方的に、なす術無く返り討ちに遭い悟る。「風見幽香の力は季節とは無関係だった」と。
幽香は落ち着いた様子で口を開いた。
「出てきなさい。今出てくれば殺しはしないわ」
ガサガサッ
枯草の中の何かは、動きはするが一向に姿を現さない。
咳払いをするともう一度警告をする。
「聞こえなかったのかしら?死にたくなければさっさと出てきなさいって言ってるのよ」
ガサッ
「ひぃぃ、待って!殺さないでっ!うぅぅ、ささ、さ、寒いよぉ」
聞き覚えのある声と共に姿を現したのは蛍の妖怪だった。
何度か八目鰻が名物の屋台で顔を合わせた事があったが、会話らしい会話をした覚えが無く、必死に目の前に現れた羽虫の妖怪の名前を思い出す。
「えーっと、リトル?いや、リグル……だったわね?私の梅の木の下で何をやっているのかしら?」
「ゆ、幽香さんの梅の木とは知らずに申し訳ごめんなさい」
深々と頭を下げ、必死に謝るリグルは寒さに体を震わせていた。
「私は何をやっているのか聞いてるのよ?」
「寒さを凌げる場所を探していていらっしゃいまして、彷徨っていたら大きな梅の木がございましたので……」
怒気を纏った笑顔を浮かべる幽香。寒さと目の前の大妖怪に震えながら答えるリグル。
「寒さを凌ぐなら他にいくらでもあるでしょう?」
「は、はい。仰る通りだとお思いでしょうけど……」
「けど?何かしら?」
「梅の花の良い香りに誘われてついつい」
予想外の答えに怒りが消えた幽香は感心した様子で口を開く。
「貴方みたいな妖怪でも、梅の香りの良さが分かるのね」
「はい、多少なら。なんかこう、虫としてじっとしていられなくなるような感じと言うんでしょうか」
リグルの返答を聞くと再び幽香の顔に怒気が混ざる。
慌てて口を開くリグル。
「いや、ちょっと待ってくださいませ!お話を聞いてください」
手をバタつかせながらリグルは梅の木の下にたどり着いた経緯を説明し始めた。
今から一週間ほど前、暦上で立春を迎えた日の出来事。
幻想郷ではこの冬最後の大雪が降った。真冬に比べると気温が高く、水気を沢山含みぼてりとした雪が幻想郷に積もった。
人里では民家の屋根が雪の重さに負け崩れるという事故が数件起こった。
一方妖怪の山では雪の重さに耐えられず倒れる木々が妖怪達の家を破壊した。
冬眠中だったリグルも被害に遭い、家を失い今は放浪生活を送っている。
「それで、春が来るまで寒さを凌げる場所を探していたと?」
「はい」
事の経緯を説明し終えたリグルに予想もしていなかった言葉が飛んできた。
「春が来るまで、家にいて良いわよ」
「へっ?」
理解が出来ず、間抜けな声を出してしまう。
「だから春が来るまで家に居候して構わないって言ってるのよ」
「あ、ありがとうございました。幽香さんってもっとお怖い人なのかと思っていたのでありますが、優しいのでありますね」
「そう?力の弱い妖怪や人間相手に粋がる様な下種な連中と一緒にしないでくれるかしら」
花畑を荒す者、敬意を払えない者、礼儀のない者には容赦はしないが、普段はとても温和だったりする幽香。そんな彼女は笑顔で続ける。
「それとリグル。下手な敬語はやめなさい。あなたが私との実力の差をはっきりと認識しているのなら言葉使いはそこまで気にしないわ」
「う、うん。ありがとう、ゆ、幽香」
ハラハラしながら返事をするリグル。
「居候になるんだから、仕事くらい手伝いなさい」
「仕事?」
置かれた状況に必死に追いつこうと頭の回転を速める。
「働くって事よ」
「仕事の意味位分かるよ。ただ何するのかなぁと思って」
「この梅の木の手入れよ」
「手入れと言われても私よくわかんないよ?」
首を傾げながら幽香を見る。
「簡単よ。この梅の木はかなりの高齢よ。歳で言えば八百歳くらいかしら」
「それはまた随分とお婆ちゃんなんだねぇ。敬意を込めて梅さんって呼ぶよ」
「呼び方はどうでもいいわ。この子は具合が悪い。だから虫一匹で悪化するかもしれないの」
梅の木に優しい視線を送りながら話を進める幽香。
「虫達も寒さを……」
鋭い視線が飛んできてリグルを黙らせる。
「風邪を引いて寝込んでいる時に寝るなら、普通の布団とダニが入っている布団どっちが良い?」
「そりゃ普通の布団でしょ」
「そう言う事よ。だから貴女の力でこの木に巣食う虫を全部追っ払いなさい。できる?」
「蟲を操る事が出来るからそれ位簡単だけど、こんな寒空のもとに……」
「何か?」
「いえ、他の木に移動してもらうね」
そういうとリグルは意識を高める。
リグルの妖気に操られ、樹皮や幹の隙間から蠢く虫達が溢れてくる。
虫達は黒い塊となって宙を舞いそのまま雑木林へと姿を消した。
「あら、すごいわね」
「えへへ」
関心する幽香と得意げになるリグル。
「さぁさぁ、次は何すればいいの?」
「垢すりよ」
手渡された藁で出来た大きなたわしを見つめながら復唱する。
「垢すりね。って何すれば?」
「樹皮が分厚すぎで余分な栄養を取られているの。それに樹皮の隙間に虫が入り込むのよ」
「樹皮を削ってあげれば良いってこと?」
「その通り」
幽香に説明を受けながらリグルは丁寧に梅の幹を擦る。
「フラワーマスターって言われてるんだから、能力を使って梅さんを咲かせてあげればいいじゃん」
「私は自分の力で満開の花咲かせたこの子を見たいの。それに、手入れをしてあげないと、またすぐに具合が悪くなっちゃうわ」
「お花って奥が深いんだね。虫達にしっかりと味わう様に伝えないと」
「何か言った?」
「何でもないです……」
それから一時間程、二人は黙々と作業に没頭した。初めは慣れない手つきのリグルを見て幹を傷付けられないか冷や冷やしていた幽香だったが、思った以上に呑み込みが早くあっという間に作業が終わった。
「少し早いけどお昼にしましょうか」
梅の木から少し離れた所にシートを広げ腰を下ろす幽香。
「はーい」
出会った時の怯え方が嘘であったかのようにリグルは幽香に返事をする。
シートに座り、マフィンと紅茶で少し早い昼食を楽しむ二人。
「ねぇ幽香」
「何かしら」
マフィンを頬張りながら幽香に話しかける。
「枝からぶら下がってる短冊なんて書いてあるの?」
「短冊?あぁ、あれね。――夕されば 蛍よりけに燃ゆるども 光見ねばや人のつれなき。和歌ってものね」
言葉の意味が理解出来ず、質問をした時の笑顔のまま沈黙するリグル。
「大昔の言葉よ。夕方になるとあの人を思って、私の思いはホタルよりはっきりと光り、思い焦がれるけど、恋心は蛍の光のように見えるわけじゃないから、あの人には気付いてもらえない。そんな感じの意味だと思うけど」
「幽香って頭も良いんだね。それにしても随分健気で乙女チックな歌。羨ましいくらいに素敵な歌。蛍より光るとは恋心は凄いね」
幽香から見ればまだまだ幼いリグルは、恋心を歌った古い和歌に感動したようで、楽しそうにはしゃいでいる。
「恋かぁ。私はまだしたことないんだよなぁ。ねぇねぇ、やっぱり幽香はあるの?」
「……」
小さく咳払いをしリグルを黙らせる。
「さ、食べ終わったから続きをやるわよ」
そう言い足早に作業に戻る幽香の後姿を見てリグルは小さく漏らした。
「危ないとこだったかもしれない……」
六分咲
目の前には楽しそうな笑顔を浮かべる人間の子供。
「また来たよ!お花のお姉ちゃん」
「今度は送ってあげないわよ?」
「えへへ、今度はちゃんと道を覚えて来たから大丈夫」
人間も理解できないが、この子供はもっと理解が出来ない。
人間達の村から半日ほど歩いた場所にあるこの梅林になぜまた来たのだろうか?
道中には妖怪の縄張りもあり普通の人間はまず近寄りもしないというのに。
「今日はね、お花のお姉ちゃんにお礼を持ってきたよ」
「お礼?」
「そう、こないだ街道まで案内してくれたお礼」
「いらないわよ」
「まあまあそう言わないで」
そう言いながら子供は背負っていた竹籠から一本の筒を取り出した。
「はいこれ」
「なによ?」
掌に乗せられた小さな種を突きながら子供を見る。
「お花の種だよ。お花のお姉ちゃん着物も花柄だし、お花みたいな傘持ってるし、お花好きなのかと思って」
「だったら普通、お花を持ってくるんじゃないかしら?」
「今の季節はまだお花が咲かないから。種で我慢してよ」
ニッと笑顔を浮かべる子供は私の横に座り花の話を始める。
両親が庭師を営んでいるようで、花や植物には詳しいそうだ。
人間にもなかなか良い趣味を持っている連中がいるようで少し嬉しかった。
子供は毎日のように私の元に遊びに来た。
ある時は花の手入れをする私をただずーっと眺めているだけ。またある時は一方的に話をしていたり。
そしてまたある時は剣術の真似事の相手をさせられたりもした。
いつものように話を聞き流しているとこの子供は将来の夢っていうものを語り始めた。
「大きくなったら僕は剣士になるんだ」
「そう」
人間は妖怪と違ってその一生が短い。夢や目標を持って生きる事は良い事だと思う。
ただその後の話はちょっと驚いた。
「天下一の剣士になるんだ。そしたらお花のお姉ちゃんをお嫁さんにしようと思ってるんだ」
「そう」
やっぱり子供の戯言は理解できない。
七分咲
幽香の家にリグルが居候するようになってから一週間。二人は毎朝、梅の木の様子を見に出かけていた。
日が昇る頃に家を出て、日が空の一番高い所に昇った頃に家に帰る。そんな生活を過ごしていた。
寒さに弱いリグルは普段より厚着をして着膨れしている。そんな姿を幽香はテントウムシの様だと毎朝大笑いする。
「幽香、テントウムシ好きなの?」
リグルは目を輝かせて聞いた事があるが「害虫は嫌いよ」と笑顔のまま返された。
強大な力を持ち恐ろしいイメージを持たれる幽香だが、根は優しい。
そしてリグルの気さくな性格が功を奏し、二人は昔から親しい間柄の様に過ごしていた。
いつものように梅木の傍で早めの昼食をとっている時、リグルがふと質問をする。
「ねぇ幽香、春っていつから?」
「そうね、強いて言うなら梅の花が満開になった時からかしら。なんで梅の花が他の花達より早く咲くか知ってる?」
サンドウィッチを口にくわえたまま首を大きく左右に振るリグル。
「梅の花が満開になった時、その香りで眠っていた草木達が目を覚ますのよ」
「なるほど」
掌をぱんっと合わせると紅茶を一口すすり話を続ける。
「植物界のリリー・ホワイトだ。ん?じゃあまだ春は来てないって事だね」
「そうなるわね」
「春が楽しみだなぁ」
巨大な梅の木を見上げ、満開になった姿を想像し笑顔になるリグルの横で幽香が小さく頷く。
「そうね。それじゃその春をもっと楽しむために帰ったら種まき手伝いなさい」
「うへぇ、また種まきかぁ。水が冷たくて嫌だ」
「何か言った?」
「いいえ」
昼食を終えると二人は帰路に着いた。
八分咲
あの子供と出会ってから何十回も春を迎えた。あの子供は立派に成長し、青年になっていた。
彼は週に一度か二度私の元を訪れ、花について色々と聞いてきた。
人間にもあんなに真剣に花を愛する事が出来る者がいるのかと感心する位だったのをよく覚えている。
出会った頃はチャンバラごっこ程度の実力だった剣術も今では幽香に少し本気を出させる程まで上達していた。
「幽香さんは僕の師匠です」
「突然どうしたのよ」
梅林から少し離れた場所にある花畑でいつものように他愛もない話をしていると急に真面目な表情を作り青年が口走った。
「あ、いえ。小さな頃から花の事沢山教えてもらったなぁと思って。それに稽古に付き合ってくれたり」
「あの頃は小さくて可愛かったのにね。お花のお姉ちゃんって」
「恥ずかしいから子供の頃の話はやめてくださいよ。僕はもう幽香さんより大きいし、花の知識もそれなりにあります」
「生意気言う様になっちゃって。可愛くないわ。でも確かにあんたはもう鼻垂れ小僧じゃないって事は認めてあげる。私から見たらまだまだお子様だけどね」
「妖怪は見た目じゃ年齢わからないもんなぁ」
「何か?」
「いえ……」
「春が来たらこの地を去ろうと思っているの」
「……」
「前にも言ったと思うけど、私は色んな花を求めて各地を転々としているの。こんなに長く一つの土地に留まったのは初めてよ」
「……」
彼は何言わなかった。
そのまま沈黙が私達を包み、長い時間が過ぎた。いつの間にか太陽はすでにその身を半分以上地平に隠してしまっている。
「毎年春が来る前に、初めて幽香さんに会った梅林で待っています」
「そう」
私は彼に特別な感情を抱いていた訳ではない。これは断言できる。
そして彼は私に何かしらの感情を抱いていたと思う。断言はできないけど。
人間の一生はとても短い。次に私がこの地に訪れる頃には彼は生きてはいないだろう。
そんな事を思うと胸の奥が少し苦しかった。
九分咲
空には分厚い雨雲。雷雲が轟音を響かせながら流れている。
雷雲は地上の標的を探すように数分おきに地響きにも似た低音を上空で鳴らしている。
朝からリグルは轟音に怯え家から出ようとしない。
そんなリグルに文句を言いながらも幽香も外には出ようとはせず、のんびりと紅茶を啜っていた。
「嫌ねぇ」
「嫌だねぇ。雷はおっかないよ」
「地を這う虫のくせに雷が怖いの?」
「残念ながら私は空を舞う虫だから雷は本能的に怖いの」
「焼きリグルとか面白そうじゃない?」
「ぜんっぜん面白くないって」
「そう、残念だわ。はい、あなたの分ね」
紅茶に木苺のジャムを落とすと机の向かいに座っているリグルの前までティーカップを滑らす。
「あっ、ありがと」
頬を膨らませていたリグルだったが、紅茶とジャムの混ざった甘い香りに目を輝かせている。
「こんな美味しい紅茶の飲み方を発見した人は偉大だよね」
「そうね」
「ところでさ――」
リグルが口を開いた瞬間。部屋全体を青白い閃光が駆抜ける。そして光が去ったと同時に耳を塞ぎたくなるほどの爆音と強烈な振動が二人を掴む。
「結構近くに落ちたようね」
呑気に紅茶をすする幽香と机の下に身を隠すリグル。
「ちょっと、出てきなさいよ」
「無理っ!怖い!」
「情けないわね。ちょっと様子見てくるから留守番してなさい」
「無理無理!一人にしないでよ」
「じゃあ出てきなさい」
「どっちも無理だって!」
机の下で必死に懇願するリグルを無視するように幽香は雨傘を手に取り玄関のドアに手をかけていた。
「そう、じゃあ留守番よろしくね。火元には気を付けなさいよ」
「話聞いてよー」
幽香はリグルの問いに答える代りにドアを勢いよく閉めた。
「あぁぁ」
机の下から情けない声を上げる。
幽香が外の様子を見てくると家を空けてから一時間程経とうとしていた。
すでに雷雲は消え、大粒の雨を降らす雨雲が空にいた。
屋根を叩く雨音を聞きながら、飲み終えたティーカップを洗っているリグル。
「幽香、どこまで見に行ったんだろう」
一向に止む事のない雨に煽られ徐々に不安になる。
「何かあったのかな……」
そう思うと居ても立ってもいられなくなり出かける支度を始める。
長靴を履き、愛用の雨合羽に身を包むと家を飛び出した。
「これだけ雨が降ってると私だって飛べないし、虫達に幽香探しのお手伝いは頼めないや」
ピチャピチャと音を立てながらリグルは走り回る。
一緒に種を撒いた花畑を越え、いつも一緒に歩いた細い砂利道を走った。
「ゆうぅかぁぁ」
雨音に消されないよう必死に大きい声を出し走った。
吸い込む空気に木の焼ける匂いが混ざっている事に気付き足を止める。
「まさかとは思うけど梅さん……」
大きく頭を左右に振ると全速力で梅の木のある雑木林に向かった。
雑木林に入ると次第に焦げ臭さが増してくる。遠目からは火や煙は確認できなかった事を考えるとこの大雨ですでに鎮火されたのだろう。
とは言え、梅の木の無事を確認できたわけではないので、胸を締め付けられるような思いで雑木林の中を駆け抜けた。
開けた空間に出ると見慣れた後姿が飛び込んできた。
「幽香っ!」
彼女の元に駆け寄る。
「リグル……梅の木が……」
初めて見せる彼女の泣き出しそうな顔を見て幽香が何を言おうとしているのかを察知したリグルは慌てて梅の木に目をやる。
昨日まで確かに咲いていた純白の花は無かった。光沢のある樹皮は黒く焦げ、所々焼け落ちている。
雑木林の中で一番背の高いこの梅の木を雷の気まぐれで焼かれてしまったのだ。
「そんな……」
自身も自然の一部として生きる身である以上、自然の理不尽さ、圧倒的な力を知っているリグルだったが、あまりの出来事にショックを隠せなかった。
そして何より、満開を楽しみにしていた幽香の事を思うと心が痛んだ。
大妖怪『風見幽香』はとても弱々しく、捨てられた子猫の様な表情で立ち尽くしている。
家を出る時に持っていた筈の雨傘は見当たらず、全身を冷たい雨に打たれている。
「幽香……」
「……」
幽香は何も答えない。
「……」
リグルは何も言えなくなってしまった。
辺りが暗くなりはじめ、雨も次第に弱くなってきた。
「ねぇ、幽香。帰ろう。このままじゃ風邪引いちゃうよ」
「……」
何も答えない幽香の右手をそっと握ると氷の様に冷たくなっていた。
「こんなに冷えちゃってる。早く帰って温まらないと駄目だよっ!」
必死に幽香の手を引っ張り無理矢理その場から動かすと彼女は帰路に着いてくれた。
雨の降る帰り道。リグルに手を引かれ幽香はおぼつかない足取りで歩いていた。
満開
梅の木に落雷があった翌朝。リグルは幽香より早く目が覚め、朝食の支度を始める。
幽香の為に甘めのミルクティーを淹れ、トーストを焼く。
「幽香、朝ごはんできたから一緒に食べようよ」
彼女の寝室のドアに顔だけ入れ声をかける。
「いらないわ」
「いらないって……今日は天気良いんだから種まきするんでしょ?」
「今年の春は来ないのよ」
消え入りそうな声で返事をすると幽香はそのまま毛布に包まって動かなくなってしまった。
諦めてドアを閉め、久しぶりに一人で朝食にすることにした。
妖怪に致命的なダメージを与える為には肉体的な攻撃は殆ど意味を成さない。
妖怪は内面的な物、つまり信念や思考によってその力を維持している。
満開を楽しみにしていた梅の花が落雷により焼け落ちた。もし、これが人為的な出来事だったら怒りをその犯人にぶつける事により精神的なダメージを軽減できただろう。しかし犯人はすでに存在すらしていない雷雲。強いて言うならば自然の力だ。
どこにもぶつけられない怒り、悲しみが彼女に致命傷となる精神的ダメージを与えた。
幽香は理不尽な自然の力に心を裂かれてしまったのだ。
朝食を済ませたリグルは焼焦げた梅の木の様子を見に来ていた。
「明るい時に見ると真っ黒だ……」
姿を変えてしまった梅の木の下で呟く。
数週間という短い時間ではあったが幽香と一緒に過ごした毎日が自然と思い出される。
「幽香はちょっと怖いけど、とっても優しくて私に良くしてくれたよ。梅さんもそう思うでしょ?」
命が消えた梅の木に話しかける。
梅の木を周囲を歩いていると焼焦げた短冊を見つけた。
半分以上を炭になってしまった短冊を拾い上げると幽香に初めて会った日の事を思い出した。
「蛍より光る恋心だっけ?」
少し苦笑いをすると梅の木を見上げる。
「蛍の光も舐められたもんだ」
その時、リグルは何かを閃いた。
「ちょっとまだ寒いけど梅さんと幽香の為に頑張ろうかな」
落雷によって焼け落ちた枝や飛び散った木片を集め始めた。
昨日の雨がまだ乾いておらず、手先を濡らし寒さで真っ赤にしながらもリグルは掃除を続けた。
「あぁ冷たい。でも幽香と梅さんの為だ。頑張らないと!」
自分に言い聞かせるように激を飛ばし気合を入れると作業に戻る。
梅の木の周辺の掃除を終わらせ日が沈む頃に帰宅した。
ダイニングに入ると用意した幽香の朝食が手付かずで置いてあるのが目に入った。幽香は部屋から出て来なかったのだろうと思い大きくため息を吐いた。
コンコンと幽香の部屋のドアを叩く。
「ただいま、幽香」
「……」
「具合はどう?」
「……」
「部屋から出てきてよ」
「……」
最初から返事を期待していた訳ではないが、ここまで無反応だと呼びかけていたリグルも精神的にやられてしまう。
「……もう」
とは言え、ここまでの無反応はリグルの想定内だった。彼女は気を取り直しドアの向こうの幽香に呼びかける。
「おい!フラワーババア!よくも今までこき使ってくれたな!弱ってるお前にこれから仕返ししてやるから覚悟しろよ」
「……」
幽香を刺激するような言葉を選びドア越しに叫ぶ。
「まずは白アリ達を使ってこの家をボロボロにしてやるぞ。その次はアブラムシ達を使って芽を出し始めた花畑を台無しにしてやる。その次はえーっと、伝説の金色カブトムシを使ってお前をやっつけてやる」
物凄い音を立てドアが吹き飛んだ。
「ありがとうリグル、おかげで少し元気が出たわ。貴方を二度と飛べない位にする程度の元気だけど」
「そ、そうか!それは良かった。それじゃ虫の恐ろしさを味わえ!」
震えながらも幽香の前に立ち続けたリグルは力を振り絞り弾幕を放つ。
幽香は放たれた弾幕を力を込めた右手で薙ぎ払う。
突然態度を変えたリグルを睨みつけようとしたが、すでにリグルは家の外に逃げ出していた。
玄関に置いてある愛用の日傘を手にすると幽香は勢いよく家を飛び出す。
「ふはは、よ、ようやく元気になったようだな。弱っている幽香を倒しても意味ないからな」
「頭まで虫レベルだったようね」
「あまり虫を舐めないでよね」
そう言うとリグルは猛スピードで逃げ出した。
「達者なのは口と逃げ足だけね」
ひたすら逃げ回るリグルと弾幕を放つ幽香。
何発も幽香の弾幕を喰らいながらもリグルはひたすら憎まれ口を叩き逃げ回っている。
色鮮やかな弾幕を避け高度を上げるリグルに待っていたのは幽香の強烈な一撃だった。
「地を這ってなさい」
その一言と同時にリグルは幽香の日傘に吹き飛ばされ、地上に激突した。
幽香も後を追うように地上に降り立つ。
「さて、最後に言い残す事はないかしら?」
殺気を込めリグルを睨みつける。
「げほっげほっ。やっと幽香部屋から出てくれた」
困惑する幽香にリグルは続ける。
「梅さんの花、私が咲かせてあげるから元気出してよ」
「何を言っているのかしら?」
家を飛び出してから頭に血が上っていて周りが見えていなかった幽香だったが、冷静に周囲を見渡すとそこはリグルと通った梅の木の前という事に気付いた。
「言ったでしょ?あまり虫を舐めないでって」
リグルはパチンと指を鳴らす。
雷に焼かれ命を失ったはずの梅の木に緑色の光が集まる。
その光は雑木林の至る所から現れ、焼けてしまった梅の木に集まっていく。
「これは……」
立ち尽くす幽香にリグルが話を始める。
「ほら、梅さんの花は満開だよ。もう春が始まるんだからいつまでもメソメソしてないでよ」
「……」
蛍が宙を舞う季節は初夏。今の季節の蛍はまだ幼虫で、水中に生息しているのが普通である。
しかしリグルの蟲を操る程度の能力により急成長をさせられた蛍達は腹部を発光させ優雅に宙を舞い、命を失ってしまった梅の木の代わりに花となっている。
「緑色に光る梅の花なんて聞いた事無いわよ、バカ」
幽香は傷だらけのリグルをそっと抱きしめる。
「新種の梅の花ということで……」
リグルは幽香に抱かれたまま照れくさそうに返事をした。
気が付くと蛍達は光るのを止め、リグルの後ろに整列していた。
「お前達、ありがとう。幽香が笑ってくれたからもう休んで良いよ」
「リグルのくせに虫達には偉そうね」
「誰にでも偉そうな幽香に言われたくないよ」
ポンっとリグルの頭を軽く叩くと腕を解き梅の木へと歩み寄る幽香。
「死んでしまった貴方にもう一度花を咲かせるなんて虫も侮れないわね」
梅の木に話しかけながら、幽香が手を触れるとその形を維持できなくなり梅の木は灰となり崩れ落ちた。
崩れ落ちる梅の木から言葉が聞こえてきた。
――幽香さんありがとうだって。私からもありがとう。
「私からも?」
梅の木のあった場所には小さな新芽が一つ生えていた。
「言葉の真意は成長した貴方から聞くわ。だから立派な梅の木に育ちなさいよ」
「幽香、梅さんと話できるの?」
後ろで幽香と梅の木のやり取りを見ていたリグルが不思議そうな顔を浮かべ話しかけてきた。
「話せないわよ。梅の木も桜の木も、どんな花も私の片思いなんですもの」
「そっか。幽香はいつもお花に恋してたんだ」
「そんなところね。さ、帰るわよ。明日は朝から種まきね」
「えぇぇ、体中が痛いからパス」
「居候は黙って働きなさい」
「……はーい」
こうして二人は帰路に着いた。
落花
「今年も彼女は戻ってこなかったか」
花が散り、新芽を身に纏い始めた梅の木の下で青年は呟いた。
本来ならば切ない表情、辛い表情が似合うはずの発言にも関わらず、青年の顔は穏やかだった。
初恋の相手が妖怪だった。
今思えば笑い話だが、その妖怪がこの地を去った当時は食事が喉を通らない程悩み、苦しんだものだった。
なぜ行かないでくれと言えなかったのか。なぜ好きだと言えなかったのか。自問自答の毎日だった。
幽香がこの地を去った年の夏、溢れる恋心を短冊に書いて梅の木に吊るしたことがあった。
――夕されば 蛍よりけに燃ゆるども 光見ねばや人のつれなき
恐らく彼女がこの歌を詠んだら季節感が狂ってると呆れられただろう。しかし彼はそれでも良かった。
いつか、彼女がこの地を再び訪れた時に少しでも自分の事を思い出してくれさえすれば良い。
「今思えば恥ずかしい」
青年は頭を掻きながらそう呟くと梅の木に手を当てる。
「梅の木よ、わしは冥界のお屋敷に雇われる事になった。ここに来る事もそう多くないだろう。そこでお前さんに頼みがある」
初恋の妖怪との思い出を思い出しながら話を続ける。
「わしがここに来なくなったらお前さんが代わりに彼女を待っててはくれないか?それで彼女に会えたら伝えてくれ。ありがとうと」
新芽
「いつまで居座る気かしら?もうすっかり桜も散ったわよ?」
向かいで紅茶をすするリグルに私は険しい表情で問いかける。
「いやぁ、私は良いんだけどさ。ほら、蛍達がまだ寒いって」
苦笑いをしながら返事をするリグルを見る。
「あんたが無理矢理成虫にしたせいでしょ」
「それは幽香が泣き虫になってたから、元気にしてあげようと思って……」
「まぁ、いいわ。蛍は害虫じゃないからそんなに嫌いじゃないし」
「良かったね、お前達。もう少し居候させてくれるって」
嬉しそうに蛍達に話しかけている姿は何とも無邪気だ。
そんな無邪気な顔されたら、からかいたくもなる。
「言っとくけど蛍達が飛び回る季節になったら出てってもらうわよ」
「う、うん」
私は力のせいか多くの人間、妖怪達に恐れられてきた。
もちろん力を持つ者としてそれが当然だと思っていた。だから私を恐れない生き物が不思議だった。
目の前でヘラヘラ笑っていながら何かを話している友人や昔訪れた土地にいた人間の子供。
――そういえばあの人間の子供はその後どうなったんだろう。たしか半分幽霊だから寿命が普通の人間より長いとは言っていたけど。
「ちょっと幽香!人がせっかく良い事言ってるんだから聞いてよ」
「なにかしら?」
「幽香はちょっと怖いけど本当は優しいって褒めてたんだよ」
よくもまぁそんな恥ずかしい事を面と向かって言えたものだ。
「あなたに褒められても嬉しくないわね」
「……照れ屋」
「なに?」
「幽香の照れ屋っ」
いくら親しくなったからって私をからかうだなんて。
そんな事を思い笑顔で私は口を開く。
「この害虫!駆除してあげるわ」
「わっゴメン、待ってー」
慌てて家を飛び出したリグルを追いかけながら私も家を出た。
外はどこもかしこも花が咲き乱れ、春に支配されていた。
人も妖怪も浮かれる季節。逃げ回る蛍の妖怪も浮かれているが、他人から見れば私も十分浮かれているのだろう。
でも春だし良いじゃない。何か文句ある?
強いて言うなら、過去のパートと現在のパートの区別が、最初はわかりにくかったのが難点でした。
何より綺麗なストーリーでした。