「今日も大して変わり映えなどせぬ、な」
山の木々を真上から包む陽気、脇に流れる渓流の水音、そして日差しで火照った身体を刺激する適度な冷涼感、心地良い。春を迎えた暖かな日差しに気が緩み、思わず心中が言葉となってこぼれてしまった。この場に、腰を落ちつけるに相応しい手頃な岩まで用意してくれた、自然の妙に感謝したい。
しかしそんな心地良さとは裏腹に、私の気持ちは陽気ではない。私の目を覆っているのは、もはや何十年も付き合ってきた変わらぬ山の景色。敵襲が無いのはありがたい事だが、やはり何かしらの変化を求めずにはいられない。
私は退屈し、脇にある『犬走 椛(いぬばしり もみじ)』と名が刻まれた剣と盾に目を落とす。
この、右も左も分からぬ新米時代の拙い文字を見る度に、むず痒さを覚える。何度も新調を考えた。しかし長年愛用し、苦楽を共にしたこの支給品への愛着が、結局いつも勝ってしまう。
「もう長い付き合いになるな。私が持ち主で良かったか、お前達」
我が身に立て掛けてあった剣と盾に語りかける。私の問いかけに、返事はしてくれない。
そうして思い出にふけっていると、ふいに後ろから声を掛けられた。
「相も変わらず、暇そうにしておるのぅ。どうじゃ一服ついでに一局指さぬか、久々に付き合ってやっても良いぞ」
小柄な身体に、所々が油やすすでくすんだ服。にとりだ。
会話の出来る友人が登場し、私の心にも温かな日が差し込む。
「気持ちはありがたいが今はまだ就業時間中だ、この場を離れるわけにはゆかぬよ」
「堅物じゃのぅ」
しかし私はぷいと前へ向き直り、誘いを断る。自制の意を込め、思わず冷めた態度を取らざるを得なかった。
もう日は真上に昇っている。腹は減っている。飯の誘いにも出来れば乗りたい。不審な者を追ったと言い張れば、持ち場を多少離れても正当性は主張できる。一度ぐらいならば咎められる事も無いだろう。
しかし私には出来ない。今日一回では済まぬという自覚がある。
「じゃが、実はな。そう言うと思ってほれ、ちゃあんと用意してきたぞ」
にとりは、私の視界へと回り込む。どうだと言わんばかりの顔で、竹皮をなめしたありきたりの包みを取り出して見せた。……握り飯か、なるほど良く考えたものだ。持ち場を離れずとも食べられるように、との配慮なのだろう。
断る理由が一つ消え失せ、断り辛さまでおまけで付けて来た。流石は長い付き合いがある奴だ。私が何を頼んだ訳でも無いのに、しっかりと私の考えそうな事を見透かして来る。
「片手間で食える握り飯程度であれば、仕事に支障もあるまい。なぁに、いざ両手が必要になったら遠慮せず放り出してくれて構わんぞ」
「私に山を汚させる気か、お前は」
頑なに飯の誘いは断る。あくまで身体は職務を優先させねば。
だが今はまだ、職務に口は必要無い。遊んでいる器官を働かせただけでは、誘いに気を許した事とは言えぬはずだ。そう言い聞かせ、会話だけは続ける。
「大事の前の小事、物事の優先順位は弁えておくべきじゃぞ」
その発言を受け、私の中で尤も妥当かつ丁重であろう断り文句が頭に浮かんで来た。腹が減ると頭の回転が良くなると聞いたが、本当らしい。
この閃きを友人と共有する為、私は口を開く。
「うむ、そうだな。ともなれば私が今優先すべきは哨戒任務だ、握り飯に手を付けるわけにはゆかん」
「やれやれ、そう来るか……まぁしばらく横で食わせて貰うぞ、おんしの分も置いておくから好きにせい」
にとりは私の横にちょこんと座り、自分の包みを開いた。目を向けた時に見下ろすような視線になってしまうのを嫌い、気持ち浅く座り直す。
当面の話題であった昼飯の話が一段落してしまったので、私は必死に頭の中の引き出しから次の話題を探した。
監視は、目さえ割いていれば問題無いはずだ。私は頭の全てを使い、引き出しを片っ端から開けて回る。
「ところで、今日の新作カラクリ自慢は無いのか?」
……実にありきたりすぎる。私の引き出しは随分と貧相らしい。まぁ会話が続けられれば良い、気にするな。
「最近は、里の者との付き合いも増えてきての。『河城(かわしろ)工房』としての受注生産へ感けておって、中々新作の開発へ向ける時間が無いんじゃ。私を頼ってくれるのはありがたいのじゃが、これはこれで困り物じゃの」
「嬉しい悲鳴では無いか。以前は人間に対しておどおどしていたお前が、今や自分から話しかける程になったのだろう。守矢の奴らに、菓子折りでも持って行ったらどうだ」
「なぁに、こちらはこちらであの神社への参拝客に道案内をしてやっておるのじゃ。恩は十分に返しておる」
「ふむ、そうか。まぁ外部の者への道案内など、私には考えられぬ事だな」
少々嫌味らしい言い回しになってしまったが、大丈夫だろう。お前は私の立場、私の勤める組織がどういうものか、良く知っているはずだ。
「……のぅ、椛よ」
若干の沈黙の後、にとりが口を開いた。声の調子が今までとは違う。遂に見張りの目も一時緩め、友人の方へ顔を向ける。
「おんし、偉くなろうとは思わんのか」
全く持って予想もしていない一言に、呆気に取られてしまう。意図が一切読めない。
「何を急に、私は今の立場で満足だ。こうしてお前と世間話をする余裕もあるしな」
「そうか……いや何、私の事を気にかけてその任を志願し続けているのだとしたら、私の望む所では無いのでな」
私はお前の寂しさを埋める為に、付き合いを保っていた。お前からは、そう見えているのだろうか。
口は挟まず、にとりの言葉を聞き続けた。
「私は、もう大丈夫じゃ。人間とも、物怖じする事無く接せるようになった。語弊があるかもしれんが……もう、おんしがおらずとも大丈夫じゃよ」
まだ、返すべき言葉が見つからない。
もちろん、私と縁を切りたいと言っている訳では無いだろう。ただ私の持つ数少ない、安息を得られる友人。その相手からの言葉だと思うと、心がざわめく。
寂しく無いと言えば嘘になる。だがそれ以上に、私の事を気に掛けてくれたのが嬉しかった。要らぬ心配はさせたくない。
「私はただ、偉くなって柵が増えてゆくのが嫌なだけだ。こちらも語弊があるかも知れんが、お前の事など気にして今の任に就いているわけでは無い」
「……要らぬ世話じゃったな」
友人は寂しそうに呟く。それと同時に、日差しの温かい光が遮られた。
「も~みじ~」
真っ黒な翼を携えた者が目の前に降り立ち、会話は無理矢理引き裂かれた。乱入者はそんな事など意にも介さず、手をひらひらと振り微笑みかけてくる。会話を遮られた事以上に、親しみの一方的な押し売りに私の苛立ちが積もる。
「こんにちわ、元気してる?」
「さてにとり、何の話だったかな。あぁそう、次の対局日を決めるんだったか」
礼を尽くさぬ奴に礼を尽くしてやる義理など無い。握り飯を頬張り始めていた友人へ、再び話題を振る。しかし、もぐもぐと動かしている口を指差され、会話を始める事は出来なかった。それを見受けたのか、乱入者は口を開いて来た。
「おやおや、無視して宜しいのですか白狼天狗殿。大天狗様からの言伝を持って参りましたのに」
「ちっ、聞いてやるからさっさと読め。射命丸(しゃめいまる)」
「もー、違うでしょ椛。特別に許可しますから、文(あや)って呼んでもいいのですよ」
「腕か翼、今斬り落とすとしたらどちらをお望みだ」
心の底からの憎しみをたっぷりと込めて睨み付けるが、射命丸はやれやれと云った顔をしただけで言葉を続けた。
「ではお伝え致します、心してお聞きくださいませ」
上司だろうと、お前にだけは敬語を使いたくない、親しみも込めたくない。お前の生き方だけは、敬う気が起きない。
心の中で愚痴を垂れ流しつつ、事務連絡だけは必死に耳を傾けておく。聞き落としでもしようものならまた、お前に話のネタを提供するだけだ。
「とまぁそんなわけで、すぐに大天狗様の所へ伺ってください。詳しい内容は、直接お話されるとの事ですので」
「むぅ、残念じゃのぅ。椛よ、握り飯は持って行くか食って行くか?」
食事の手を止め、発言の機会を待っていたらしい友人が口を開く。
思わず心中がそのまま言葉になりそうだったが、すぐに自分の立場を省みる。私はすぐに思い直し、腹の足しにもならぬ言葉を飲み込んだ。
「すまんな。大天狗様をお待たせするわけにもゆかぬし、腰に下げて面会するわけにもゆかぬ」
心情を悟られまいと、耳と尻尾は意識して張らせていたが……露骨過ぎて逆効果だったか。射命丸は忌々しく、ニヤニヤと笑みを浮かべている。
「あ、形はいびつですけど美味しそうですね。じゃあ私が頂きますよ。これ中身は何ですか。にとりさんですし、やっぱりキュウリの漬物?」
「おんし、相変わらず失礼な物言いをするの。これは元々椛用じゃったからな、魚の脂漬けに梅干、それから炒り雑魚に……」
私の腹具合も見越してか、これ見よがしに握り飯の具材を尋ねて来る。まるでこうなる事を見越していたかのような、素早い対応に苛立つ。にとりが私の為に作ってくれた物だ、お前なら聞かずとも察しが付くだろう。私の好物ばかりだ。
妙に丁寧に着地したと感じたが、あの時から既に握り飯の存在を認識していたのか。
「うわぁ、流石は椛、好みが渋いですねぇ。今度私も何か作ってあげましょう、希望はありますか。私、料理には自信ありますよ」
「それ以上、愚弄を続けると斬るぞ」
メモを取るな。私の好みなどお前に知られたくない。おまけに握り飯ごときで、料理の腕を自慢するな。
お前が私に握り飯を作るだと?どうせ毒でも盛るか、ワサビでもふんだんに練り込んでからかう気だろう。誰が食うか。
「おやおやぁ、好みが渋い事気にしてたんですかぁ?ごめんなさい椛、気付いてあげられなかった罪を受け入れて貴方に斬られて差し上げましょう」
射命丸は大袈裟に、手で涙を拭うような仕草をしてみせた。実に白々しい、悔いている気持ちなど微塵も無いだろうに。
「……お前のそういう所が、私は大っ嫌いなんだ!」
言葉を浴びせ、少しでも気を晴らしておく。お前が来てから私の鬱憤は、溜まっていく一方だ。
こんな時間の浪費に等しいやりとりを、いつまでも続ける意味も無い。にとりにだけ一声挨拶を残し、飛び立つ。
社へ着くまでの間、食べられなかった握り飯が幾度と無く目の前にチラついた。
厳かな雰囲気の板張りの回廊を抜け、社の最上階を目指す。重厚な扉で閉ざされた部屋の前に立ち、私はハッキリと告げた。
「白狼、犬走椛にござります。大天狗様のご用命を受け、見参致しました」
「おぉ、よぅ来たよぅ来た。入るが良いぞ」
「はっ、失礼致します」
扉の向こうから歓迎の言葉を頂き、部屋へと入る。私を、屋内とは思えぬ大部屋の開放感が出迎えてくれた。
畏まった態度を保ち、かつ素早く、会話に適当だと思う距離まで身を詰めて行く。この間の、上司がじっとこちらの行動を見るのみの時間は、何度経験しても慣れない。
見定めた距離を歩き終わり、片膝をつき頭を下げる。
「何、そんなに畏まらずとも良い、楽にせい。ただ、もう少し近づいてくれぬか、話し辛い」
「お心遣い、感謝致します」
遠慮がちににじり寄って、距離の調整を図る。この礼に対して礼で返す大天狗様のお人柄を、射命丸にも見習わせてやりたい。
お言葉に甘え心持ち程度に、肩の力を抜かせて貰った。
「して、どのような御用でしょうか」
「ん、射命丸から聞いておらぬのか?」
「……はっ、失礼ながら。詳しいお話は大天狗様から、と伺っておりますが」
「むぅ、あの射命丸が聞き違えるとは珍しいのぅ。内容も説明して置くように頼んだはずなのじゃが」
『あの射命丸が聞き違えるとは珍しい』それに関しては私も、全くの同感だった。アイツが仕事で失態を犯すとは信じ難い。
「まぁ良い、ワシが直接話した方が主も理解が早かろうて。主、『カレー』なる料理を知っておるな?丼の類と聞いておるのじゃが」
「……は?」
思わず、礼を欠いた不躾な言葉が漏れてしまう。誰か他の人物と勘違いされているのではないか。
「いえ、失礼ながらそのような料理は……存じ上げておりません」
「む、どういう事かのぅ。射命丸に聞いた所『カレーなら椛が詳しいから呼んで来ます』との事じゃったが」
『勘違い』という言葉はすぐに消え去る。『失態』の線も一瞬で消えた。今回の件を仲介したのは、あの射命丸。間違いなくこれは、アイツの故意だ。
嵌められた。
私の思考は苛立ちよりも先に、如何にしてしっぺ返しを食らわせてやるかに及んでいく、及ばざるを得ない。
例え大天狗様と言えど、射命丸の肩を持たれる事は容易に想像が付く。ここで事実を言っても私には何の得も無いばかりか、それは射命丸に踊らされているだけの愚行でしかない。
蟻の一噛みだろうと構わない。アイツの思惑、想定、企み、少なくともそれだけは避けようと必死に考えを巡らせる。
結果、私は平然と……虚言を、発した。
「失礼致しました、大天狗様。何分大変美味なり、加えて我ら下々の者では到底食す機会の無かった料理であるが為に、少々失念しておりました」
「な、なんとっ!?それほどまでに美味なる料理であるのか、カレーとは!」
お歳に似合わぬ、まるで新しい玩具を目にした子供のような、そんな好奇と期待の目で私を見ておられる。お許しください大天狗様。私は貴方様に背くのも憚らぬぐらい……アイツの行いが我慢ならぬのです。
「何、頼みたい事と言うのは、ワシも一度そのカレーを食してみたいと思うてな。そこでカレーを良く知ると聞く主に、是非作って貰いたいと思い呼びつけた訳じゃ」
大天狗様の興味は私の心中などより、カレーなる料理へと向いておられるようだ。生じていた問題が解決されたのだ。話題は進行していく。
不味いな。
希少な料理であるという予防線を張っておいたものの、深入りして尋ねられると騙しおおせる保証など無い。ましてや、もし今すぐにでも用意しろと言われれば、間違い無く嘘がばれてしまう。
「して、如何ほどの猶予を与えれば足りるかの?話を聞くに、すぐに用意できるものでも無さそうじゃしな」
「そ、それは……少々お待ちください、思案いたしますので」
「待つぞよ待つぞよ、じっくり考えるが良い」
杞憂であった、とりあえずの急場は凌いだ。今ここでカレーとやらについて、何やかやと聞かれなかったのも幸いだ。調べる時間さえあれば後はどうにでも出来る、が……
どうするべきなのだ、作り方は愚か何が必要なのかすら知らぬのだぞ。一から全てを調べるのであれば、食材調達の時間も踏まえ一月は見ておきたい。
いや、出来ぬ、流石に一月は無い。ならば二週、いやそれでもまだ長い。第一私は、カレーを良く知る者という事になっているのだ。ある程度の猶予を得、かつ違和感の無いギリギリの線を見つけ出さねばならぬ。
部隊を束ねる戦術指揮官のごとく、私は頭の中を駆け抜ける数々の想定を吟味していく。絶対の正解など導く必要は無い、私が持てる最善、最良の選択肢を見つけるのだ。
しばし伏せていた視線を大天狗様へ戻し、告げる。
「お待たせ致しました、大天狗様。一週、頂きとう存じます」
一週で足りるという根拠も確信も無い。しかし私は物怖じせず、ハッキリと期限を告げる。自らの導き出した最善手だ、私自身が自信を持たずしてどうなる。
「一週じゃな、了解した。主は確か哨戒部署じゃったな?この間の職務は、免ずる旨を伝えておく。心配せず、我の任のみに尽力するのじゃ」
「はっ、犬走椛、一週後にカレーを御用意致します事をお約束します」
部屋へ入った時から変わらぬ畏まった態度を崩さぬよう心がけ、私は大天狗様の部屋を後にした。
扉を閉め、大天狗様の目が無くなった途端、怒りが込み上げて来る。私は、お前の新聞を彩るだけの道具では無いのだぞ。
怒りに任せ声を上げたくなって来た。だが目が無くなったとはいえど、まだ声は届く。無理矢理押さえつけ、回廊を足早に駆け抜けた。
まだ大天狗様のお部屋からそう遠く無い。私などとは縁遠い身分の高い方々が働く階層であったが、込み上げる怒りを抑えきれなくなってしまった。
「とんだ事になってしまった。それもこれも全てアイツの性だが、くそぉっ!!」
思わず声を上げ、怒りを露にしてしまう。
目の前に嫌らしい笑みを浮かべている射命丸の姿が浮かび、堪らず拳を振り下ろす。目の前の射命丸はやれやれという表情をしてみせ、私の拳をサラリといなした。
「おやおや、荒れておるな」
射命丸とは似ても似つかぬ口調にハッとし、私は我に返る。
私の目の前に立っていたのは射命丸などではない。このお方とあんな奴を見間違えるなど、生涯恥ずべきに値する行為だ。それほどまでに私は……我を失っていたのか。
「ひ、柊様っ!?失礼しましたっ!!いつからそこにおられたのですか」
「なぁに今しがた、お前の姿が見えたのでな。拳のキレを見るに鍛錬は怠っておらぬようだが、私で無ければ大事になっていたやもしれぬぞ。また射命丸か?」
「えぇ、お察しの通りでございます。実は……」
苛立ちが積もったこの状態で、尊敬する師に会えたのは幸運だ。この方に話を聞いて頂ければ、少しは気が楽になるかもしれない。
射命丸から言伝を受け取ってからの経緯を、たっぷりの憎しみを込めてお話した。
「なるほどなるほど、あやつも良く考えたもの。流石射命丸はシゴトが速い、あやつが後任で間違いなかったな」
「感心しないで下さい」
射命丸の肩を持つような発言に、少々苛立ちを覚える。
柊様がどちらの意味で仰られたのかは、聞き言葉では判断が付かない。だがこれだけは断言する。これは仕事ではない、アイツの私事だ。
「で、お前はどうするつもりなのだ?」
「柊様はご存知ありませんか、カレー」
一抹の期待を胸に掛け、目の前の上司を頼ってみる。
「物事万事、そう上手くゆくわけが無かろう」
駄目だった。
「ですよね……食堂のおばちゃんにでも聞いてみましょうか」
溜め息が漏れる、耳と尻尾がペタリと垂れた。生来付き合い慣れ親しんだこの耳と尻尾も、今は心中の暗たんを反映するかのように、その存在が重くのしかかる。
柊様はしばし目線を上へ向けられた後、わざとらしくポンと手を叩いて見せた。妙案でもあるのだろうか。期待が高まる。
「では椛、こうしてはどうだ。人里へ行き情報を集めるのだ」
「人里、ですか?」
「うむ。いくらお前が出不精とは言えど、流石に天狗内に知っている者がおるような料理なら、知らぬはずもあるまい。ともなれば、この社でアレコレ調べまわった所で進展する望みは薄い。どうだ」
道理は通っている。今の私は地図も磁石も無しに、まっさらな平原へ放り出された状態だ。少しでも、道標となる意見を取り入れない理由は無い。
ただ、里の喧騒はあまり好きでは無い。山の外という事も手伝ってか、自身の居場所を確立する事が堪らなく大変に感じられる。気乗りはしない。
「うーむ……柊様がそう仰られるのであれば、そのお考え参考にさせていただきます。ご助言下さり、ありがとうございます」
気乗りはしないが、師が私の為に案を出してくれたのだ。感謝よりは社交辞令気味に留めて、軽く頭を下げておく。
「まだまだ私も、上の目を気にせねばならぬ身分。あまり大きな声では言えぬが、山の外というのも中々楽しい所だ。ついでに友人の一人でも作って来い」
「……余計なお世話です」
如何に上司といえど、要らぬお節介を焼かれると悪態を付きたくなってしまう。立場を省みて、小声で呟いておいた。
「それにしても、お前自ら随分と敷居を上げたものだな。いざカレーという料理が庶民の食べ物であった時はどうするつもりだ?」
「その時はその時、尤もらしい理由付けを考えるまでです。それに……」
「それに?」
「大天狗様のお耳に入るほどの料理が、美味くないはずがありません。美味でさえあれば、高い安いなど些細な問題でしょう」
「うむ、大天狗様は高い安いで物の優劣を付ける御方ではあらぬからな。その思考、至極尤もである」
柊様は目を閉じ、腕を組み、大天狗様のお人柄を再確認されるように数回頷かれた。柊様も私と同じように、大層尊敬なさっているのだろう。
会話を続けるべく私は、新たな話題を切り出す。
「柊様は、新しいお仕事はいかがでしょうか」
「ん、やはりまだ慣れんな。ただでさえ指揮を任され座ってばかりの毎日であったのに、今度は剣を持つ事すら叶わぬ身になってしまった」
頷いた姿勢を戻しつつ、上目遣い気味の視線でこちらを見られる。
「やはり私は、筆より剣の方が向いておるようだな。椛よ、その内にお前の部隊で新人として世話になるかもしれんぞ」
ケラケラと冗談めかしながら、私の両肩を両脇からポンポンと叩かれた。肩に設けられた布の切れ目から、手が素肌に触れる。射命丸に同じ事をされたら、全力で振り払っただろう。
「まさか、冗談はお止めください。柊様ならば望みさえすれば、いつでも部隊長として一線へ復帰できるでしょう」
「ふむ……椛よ、お前も分かっておろうに」
先程の冗談めかした振る舞いが突如として消え去り、幾度と無く目にした真剣な顔になられた。この後、何を仰るのかは分かっている。何度も聞いた言葉だ。そして、何度も疑問を抱いた。
その疑問は、今も抱いている。
「……それが許されぬのが組織というものだ。組織を変えようとするには偉くならねばならぬ。しかしその為には、自らのやりたい事などにしがみ付いておっては到底叶わぬ」
「それは重々承知しておりますが……」
「あぁすまん、何もお前を責めておるわけではないぞ。むしろ私の分まで剣の道を極めてくれ、いや極めるのだ。これは命令だからな、心して実行せいよ」
違う、私が言いたかったのはそんな事ではない。
「っと、話し込んでしまったな。お前は悪く言うが、射命丸もアレでいて上に立つ者の器である事は確かだ、いざとなったら頼ってやるんだぞ」
如何に貴方様のお言葉と云えど、それだけは賛同しかねます。
まるで自分の伝えるべき事は伝え終わったと言わんばかりに、柊様はスタスタと私の前から去って行かれた。きっとお忙しいのだろう、相手をして頂けただけでも感謝しなくてはならない。
「剣を愛し、剣を極めんとする方が、剣を持てぬ、か」
組織とは、かくも複雑なものだ。
ともあれ、貴方様がお選びになった道。その志を引き止めるなど、きっと野暮な事なのでしょう。
私が抱いている疑問の答え、それを目的の達成という形でお答え頂ける日が来るのを、心待ちにしております。
「さて、私は私の仕事をせねば、な」
一人ポツンと取り残された私は、いそいそとその場を離れ、師の言葉通りに里へと向かう。
……重要な事を一つ忘れていたが、どうせついでだ。食事は里で取る事にしよう。
私は、社を後にした。
里へと踏み入った私を出迎えてくれたのは、やはり喧騒であった。
私の目の前を多くの者が、それぞれの役割が書き記された地図を持ち、右往左往している。彩りの為に植えられた桜の木達もその花びらを散らし、自らの責務を果たそうと頑張っている。恐らく、構えの立派な店へ入ればその中は、この通り以上の喧騒となっているのだろう。人間は私達の倍以上の速さで老いる、生き急ぐのも仕方あるまい。
しかし、これほどの人が行き来しているにも関わらず、そこに私が頼れるであろう人物はただの一人もいない。この人波の中に道標の地図を持っている者が居たとしても、私にはどの者がそうであるのか見当が付かない。何より……そもそも、私の地図を持った者がいるのだろうか。
「あやや~、何やら珍しいお方が立っていらっしゃいますねぇ」
通りの人波を掻き分け、忌々しい声の主がこちらへ迫ってきた。
例えお前が道標の地図を持っていたとしても、その地図を受け取る気は無い。むしろ投げ捨てたい、破り散らしたい、踏みにじりたい。
思わず、腰の剣を手に取った。
「せめてもの情けだ、苦しまぬよう一太刀にしてやる」
「もぅ、ご挨拶ですねぇ。ほらほら収めてください、周りの方々が驚いておられますよ?」
「……ちっ」
山の社と同じように、里にも秩序を保つ役人がいる事を思い出す。職務中である以上は、私個人の責では済まぬ。面倒を起こす訳には行かず、渋々剣を収めた。
十中八九の見当は付いているが一応、問いを投げ掛けてみる。
「それで、どういうつもりだ」
「どう、とは?」
何を言っているのだと言わんばかりの呆け顔で、こちらを見て来る。
面倒は起こしたくないが、怒号を飛ばさずにはいられない。
「とぼけるな!!私はカレーの事など、微塵も知らぬぞ!」
「はい、知ってます。だからこそ、貴方に頼んだのですから」
意外な返答に、しばし呆気に取られた。私の……早とちりだったのか?
「む、何か意図があるのか?」
「ネタ集め」
躊躇う事無く、一閃を放った。怒号の影響か、周囲の人波が若干退いていたのは幸いであった。間合いに誰かしらがいれば……巻き添えで斬っていただろう。
首筋へ振られた剣をいなし、射命丸は涼しい顔で同じ言葉を繰り返す。聞こえませんでしたか、と。話にならない。というより、もう相手にしたく無い。
「くそっ、もういいっ!!言うまでも無いが、私は忙しいのだ!さっさと失せろ!」
置き土産の罵声を無理矢理押し付ける。もう行こう……時間の無駄だ。
「おや、よろしいのですか?私は知ってますよ、カレー」
「……はぁっ!?」
怒りと驚きから、思わず声が裏返ってしまった。
「ほらほら、目の前に頼れる上司がいるんですよ。教えを乞うてはいかがです」
射命丸はこれ見よがしに、得意気に笑みを浮かべ、誘っている。今すぐその顔を殴り付け、苦痛で染めてやりたい。
何故私なのだ、何故私にばかりちょっかいを出すのだお前は……
涙が出そうだ。悲しくも無く感動もしておらず、苦痛から流す涙など出来れば遠慮したい。
「椛、気付いていますか?貴方の記事は、他の天狗の同じようなネタよりも反響が大きいのですよ。人気者ですね。皆、貴方の事を知りたがっているのですよ」
「知るかっ、そんなものっ!!お前には絶対に頼らんっ!意地でも私一人で大天狗様にカレーをお作りしてみせる、覚悟しておけ!」
「別にそれはそれで記事が書けるので、覚悟も何も無いんですけどね。しかし一番面白そうな記事になる事も確か。私の為、そして記事の為、頑張ってください」
のほほんとした様子で、励ましの言葉を投げかけて来た。そこまで見越していたのか。結局良いように踊らされている自分が腹立たしくなり、鬱憤は溜まる一方だ。
「あ、もちろん大天狗様の為でもある事を忘れないで下さいね?あまりにも目に余るようでしたら、最後は私がお手伝いしますので」
「知らんっ、要らんっ、失せろっ!!」
もはや、会話として成り立つ言葉を発するのすら煩わしい。頭に浮かんだ罵声を流れ作業のように、射命丸へと叩き付けていく。
「やれやれ、嫌われたものです。まぁ私は頼ってさえくれれば協力します、頼りたくなったらいつでもどうぞ」
流石に、これ以上からかっても会話にならぬと悟ったか。無理矢理話題を切って飛び去って行った。焚き付けられた私の怒りのみが、行き場を失い轟々と燃え滾っている。
あんなのがこれから私の上司だと?上は何を考えているのだ、私に神経過労で死ねとでも言うのか。
渾身の力で地面を蹴り付け、少しでも鬱憤を晴らそうとする。周りの人波は完全に、私を避けるように形を変えていた。
「いつっ!?」
……そうか、里の歩道は山道と違い、石畳なのだ。私の放った鬱憤は、更に量を増した状態で戻ってきた。落ち着け、典型的な悪循環に陥っているぞ、心を静めねば。
暴力を振るえば暴力で返されるのは、当然だ。地面からの忠告を受け、少し冷静さを取り戻す。今はあんな、どうでもいい奴に感けている時ではない。今、私がすべき事を考えるのだ。
近くに見つけた、手頃な公用の椅子へと腰を下ろす。私がこれから行なうのは、単なるカレー探しではない。尊厳を賭けた戦いだ。お前に一切頼らずカレーを完成させる事で、お前という存在を否定してやる。
私が今すべき事は何か、必死に考えを巡らせた。
案の定、外よりも喧騒が増した場所へ立ち、私は先程辿り着いた結論を再確認する。
「私がすべき事といえば、まずはこれだろうな」
いくら空腹で頭が冴えるといえど、物事には限度がある。腹が減っては何とやら、食事を取る事は今一番優先すべき事だ。
少々昼時は過ぎているが、まだまだ飯屋の中は人で溢れていた。皆それぞれが自らの生存、生命維持を一心に思い行動する場、さながら戦場の趣だ。比較的人の少ない席を探してそそくさと荷物を置き、私がこれから使用する席、私の場である事を周りへ主張する。
一通り品書きに目を通したものの、目前にして食べ損ねた好物達もカレーも見つからなかった。仕方が無いので、妥協案で我慢しよう。
「あ、すまぬ、注文をお願いしたい」
「はい、いらっしゃいませー。何になさいます」
「この『毎日直送!日替わりおまかせお魚定食』を頼む」
「はい、魚定ですね。魚定入りまーす」
私が読み上げた品とは異なる料理が、店員の口から厨房へと伝えられる。堪らず私は、声を挙げた。
「いや、私はこの『毎日直送!日替わりおまかせお魚定食』を頼んだのだが?」
「え、ですから魚定ですよね?」
雑談と注文の騒音が飛び交う中、私と店員との間だけに気まずい沈黙の空間が生じた。彼女の言わんとしている事は分かる、確かに分かるのだが……私が正しいと言いたげな態度が気に食わない。
何だろうこの、私の言葉が受け入れて貰えない感じは。射命丸に似ているのだが何か違う。アイツはこちらが投げ付けた言葉をやんわりと受け流しているだけなのに対して、この店員は棒っ切れで打ち返して来ているような印象だ。非常に、不快だ。
しかし飯にありつくには、私が折れた方が早いだろう。溜め息交じりに言葉を投げ付ける。
「あぁ良い、それで合っている。魚定一つ、な……」
「ですよね、まいどー」
何なのだ、この仕打ちは。こちらは律儀に品名を読み上げているというのに。その気遣いを足蹴にするかのごとき、あの振る舞いが許されて良いのか。
大体、あのような長い品名を付ける事がそもそも非効率では無いか。無意味に着飾っているばかりで、利便性が完全に損なわれている、実に嘆かわしい。
『魚定』とだけ書いてあればこちらもそれだけで済む上に、意思疎通も容易であろうに……全くこの店は何を考えているのか。
「そこの犬耳のお嬢さん?聞こえてますか?」
「あはは……何やら難儀中のようですね」
突如声を掛けられ、ハッとする。いや言動から察するに、何度も私に声を掛けたのであろう。
「す、すまぬ、何か私に用でしょうか?」
突然の事であったので、相手がどのような人物かを確認できなかった。適切な言葉を選び出せず、一言の中で口調が乱れてしまう。
気恥ずかしさを押し殺し目を向けると、少々決まりが悪そうに服の飾り布を弄っているトサカの少女。それと、蝙蝠のような黒い羽を生やした赤い長髪の女性が、隣に立っていた。
「席が空いて無いの、ここ二人ほど宜しいかしら」
「あ、あぁ、構わんよ」
赤髪の女性は口ぶりこそ角があるが、物腰は非常に丁寧であった。相席しても差し支えぬだろう。
対面に広げてあった剣と盾を自分の方へ引き寄せ、二人へ場を提供する意思を示す。
「悪いわね」
「失礼します。立派な刀ですね、どこかのお役人さんですか?」
トサカの少女は床に置いていた大きな風呂敷包みをドンと移動させ、私の剣を話題に挙げた。風呂敷包みは、よほどの馬鹿でもなければつまずかぬぐらいの大きさだ。非常に気になる。あの風呂敷包みへ話題を持って行きたい。
良く見ると包みの合間から、綴じられた紙が目に付いた。
「ん、まぁ、そんな所だ。そちらも随分と大荷物だな、見た所全て本……か?」
「えぇ、興味を惹かれた本を全て買い込んだら、こんな事になってしまいまして」
トサカの少女は恥ずかしそうに、てへへと笑う。そしてまた、服を弄る仕草をする。きっと照れ隠しの時にやる、彼女のクセなのだろう。
「仕事に使うならいざ知らず、これ全部この子一人で全部読むらしいわよ。驚きでしょう?」
「ふむ、それは凄いな。何かの勉学か?」
「いえ、特に何を学ぶというわけでは無いです。ただ純粋に、読む事が好きなだけと言いますか」
何を学ぶでもなく、読む事自体が目的だと?
私には理解し難い感性だ。
「まぁ所謂、本バカって奴ね。あ、私はトマトサンドで」
「あ、私もそれで」
二人は品書きを見る事無く『真っ赤なトマトとシャキシャキレタスのサンドイッチ』を注文して見せた。この二人、かなりの手練か。
熟達した剣士と相対した時のような、隙を許さぬ心構えで会話を続ける。
「えぇっと私、朱鷺子(ときこ)と申します、こっちはリトルさん。お名前、よろしいです?」
「構わんよ。椛だ、犬走椛」
「あら、素敵な名前ね」
リトルと呼ばれた赤髪の女性が、私の名前に興味を示している。何が素敵なのか。目の前の剣が突如開き、中から矢が放たれてきたような気分だ。どう対応すれば良いのか見当が付かない。
しかしこの女性、名とは裏腹にかなりスタイルが良い。友人らしい朱鷺子さんが小柄なので、一層彼女を引き立たせている。
「秋を彩る木々の主役。葉を赤く燃え滾らせ、かつ気品漂わせ舞うその様は、正に秋の山の主役とも言える素敵な存在じゃない」
リトルさんは詞的な言葉を並べ、私の名を褒めた。私に俳句の嗜みでもあれば、この言葉がどれ程素晴らしい言葉であったのか、理解する事も出来ただろう。
褒められて悪い気はせぬがこの二人、私には理解できない。
頭でそう決め付けてしまったからなのだろう。これ以上、二人の事を知りたいと思えなくなってしまった。
「犬走さんはこのお店、長いんですか?」
朱鷺子さんは今の話題を切り、新たな話題を持ち出す。積極的に質問を投げ掛けてくるのは、本を読み知識を得るのが好きな、彼女故の性質なのだろうか。
それにしても、不思議なものだ。もう興味も失せたはずなのに、彼女と話していると安心する。私の事を知ろうとしているのが良く分かる。それがとても嬉しい。
「ん、いや、今日が初めてだ。そもそも里へ来る事自体が、ほとんど無いのでな」
「へぇ、お忙しいんですね。今日は何か特別な用事なのですか?」
「うーむ、用事と言えば用事なのだが、何と言うか」
成り行きで里へ来ただけで、ここで無くてはならぬ用事など何も無い。話を切り出すには、少々決まりが悪かった。
いや、迷っている余裕など無い。ただでさえ時間も手掛かりも無いのだ、どんどん前へ進んで行かねばならぬ。
生じた機会に身を委ね、私はこの里へ来た目的について話を切り出す。
「少々尋ねたい事があるのだが、良いか?」
「あら、何かしら。美味しいお酒処でも御所望?」
リトルさんは悪戯気味な笑顔で、冗談めかした。牽制の矢へ自ら当たりに行くほど馬鹿では無い。サラリと聞き流す。
「うむ実は私、カレーなる料理について調べておってな。何か知っている事があれば教えてもらいたいのだ」
「え、カレー?それだったら私達、知っている事も何も」
「確か、作り方教えて貰いましたよね。村紗(むらさ)さんに」
二人は互いに顔を見合わせ、お互いの記憶を確認し合っているようだ。まさか最初に頼った者が大当たりとは。
思わず声を上げ、立ち上がってしまう。
「分かるのかカレーの作りいっ!?」
思わぬ伏兵が潜んでいた。落ち着けと言わんばかりに、机の角が腿を引っ叩く。周囲から、好奇の視線と嘲笑が浴びせられた。
リトルさんは周囲と同じようにクスクスと笑っているが、朱鷺子さんはもじもじと服を弄っている。申し訳ない、私の性で……
「だ、大丈夫……ですか?知っていると言っても、メモを頂いた程度ですので、今ここで教えて差し上げられる程の知識は、持ち合わせていません、すいません……」
朱鷺子さんは、とても申し訳なさそうな表情をしている。私の、この異常とも言える期待の反応を見れば、当然の事であろう。
貴方は何も悪くないのに、重ね重ね申し訳無い。
だがせっかく見つけた手掛かりだ、食い下がらずにはいられない。何とかここから進展を得ようと必死に食らい付く。
「そうなのか……厳密に作り方が分からずとも、何かカレーについての情報は無いか?」
「そう言われてもねぇ。どうせなら村紗さんから、直接聞いた方が速いんじゃない?」
村紗とは、先程から名が挙がっている人物か。果たしてどのような人物で、どこにいるのであろうか。
「命蓮寺はご存知?」
「いや、生憎だが」
「そこにいる村紗水蜜(みなみつ)さんが、私達にカレーを教えてくれた方なのです。宜しかったら、寺までお付き合いしますよ。彼女は、カレー船長の通り名を持つ程です。カレーについてならば彼女を頼れば、間違いは無いと思います」
何と図らずも、カレー船長なる異名を持つ者と接触する機会が巡ってきた。否が応にも私の胸は高鳴っていく。
「近いのか?距離があるならば、そこまでして貰うのは忍びないのだが……」
期待を抑え、一応の社交辞令を発しておく。しかし断られた所で、私一人でその命蓮寺とやらへ行けば済む話だ。何せ私が求めている物は、間違いなくそこにあるのだ。
「里の南西外れだから、道さえ知っていればすぐよ」
「大した距離でもありませんし、お気になさらず」
全くの杞憂であった。しかしたまたま入った飯屋で、カレー船長なる人物と交友がある二人と出会い、そしてそのカレー船長がこの里にいるとは。
偶然もここまで重なると逆に必然、運命という物の存在を信じても良いかもしれない。
「そうかそれはありがたい、是非お願いする」
話がまとまったと同時に、私の『毎日直送!日替わりおまかせお魚定食』が運ばれてきた。
一言断りを入れてから、私は早速箸を取る。まずは手始めに菜の花のお浸しから手を付けた。
「さ、魚定食ですか」
ちょうど視線を落とし箸を付けた瞬間であった為、朱鷺子さんがどのような表情でその言葉を発したのかは、すぐには分からなかった。私は上目遣いに視線を向ける。
……先程の言葉の意図は、朱鷺子さんのしまったという表情から容易に読み取れた。
「あっ、いえ、すいません!魚って、お肉より健康に良いらしいですね。えっと、脂が違うとか聞きましたよ」
「椛さん、好みが渋いって良く言われません?」
朱鷺子さんは、すぐ横に爆竹でも投げられたかのような驚き方を見せる。次いで物凄い勢いを伴い、リトルさんの方へ首を振った。様々な搦め手を駆使して私をからかって来たのに、ここへ来て実直な一太刀を浴びせてくるとは。
私は、咀嚼を続ける。
続ける。
続ける。
……これを飲み込めば口を開かざるを得ない。
一心に、続ける。
しかし流石に限界を感じ、口の中の物を飲み込んでからそっと箸を置き、口を開く。視線はあえて外した。
「……良く、言われる」
射命丸のように見知った間柄でも無い。声を荒げる事も出来ぬ。心中察してくれと、か細い声で返事をするのが精一杯だった。
食事のお供としてこの二人は、御免被る相手であったかもしれない。
味も満足に堪能できぬ食事を、私は機械的に、腹の中へと運び続ける。焼いたパンに挟まれた、瑞々しい彩り鮮やかな具材が、とても眩しく見えた。
どうにか昼食を腹の中へと押し込んだ後、取り決め通りに案内を受け、寺を目指す。里の南西、里の中と外を仕切るかのような場所。まだまだ真新しい木材により支えられた門の前に、私は辿り着いた。
私がこの寺の存在を知らなかったのは、どうも出不精であったからでは無いらしい。道すがらに聞いた話では、つい最近に出来たばかりだと云う。なるほど、知らなくても当然だ。
紙がみっしりと詰められた風呂敷をスッと地面に下ろして、案内をしてくれた二人へお礼をする。
「世話になったな。ありがとう、助かったよ」
「いえいえ、お役に立てて何よりです。荷物まで持って頂いて、こちらこそ助かりました」
私の身勝手に付き合って貰ったのだ、荷物持ちなど当然やるべき事。礼を言われると少々気まずい。
更に一つ気がかりなのは、果たして彼女達はこの後、来た道を引き返す事にならぬのだろうか。それを尋ねるのは気遣いを踏みにじる様な気がしたので、あえて触れずに置いた。
「有益な情報が得られるといいわね」
リトルさんは私の言葉を待つ事無く、背を向け歩き出してしまった。朱鷺子さんは慌てて、一礼してから荷物を抱え上げ、その後を追う。
あの二人は一体どういう関係なのか。私とにとりのように、何か共通の趣味でも持っているのだろうか。
時計の長針が一周すらしていない短い時間。それだけでは、あの二人の共通項を見つける事が出来なかった。私と、あの二人との共通項を見出す事も。
そして私はまた、一人になる。
「ここが命蓮寺、か」
扉の開け放たれた門をくぐると、明らかに場違いな大きな船が目に飛び込んできた。何でまた寺に船など飾っているのだ、住職の私物であろうか。
視線を下げると整った石畳の道に、掃き掃除をしている少女を見つける。恐らく寺の者であろう。その横辺りにはちょうど私と入れ替わりで、門の方へと向かって来る少女がいる。手には何やら、ズシリとした包みを提げている。
門へと向かう小柄な少女と軽い会釈を交わし、掃除をしている少女に声を掛けた。
「もし、寺の者か?水蜜という者に会いたいのだが、お前で分かるか」
「えっ、水蜜さん、ですか?えぇっと……私が知る限りでは寺にそのような方は」
はて、どういう事か。まさかとは思うが、あの二人に担がれたのか。私の身体を言いようの無い不安が包む。まさかあの親切そうな人が、そんな事は信じたくない。
「おいおい、可哀想な事を言ってやるなよ。村紗だ、村紗の下の名前だ」
奇怪に捻じ曲がった青と赤の……翼らしきものを生やした少女が、突如現れ会話に割り込んできた。手には細身のモリを携えている。
寺とは非常に不釣合いな外見だ。雇われの用心棒だろうか。
「悪いな、お客人。こいつはまだ、ここへ来て日が経たないものでね」
「あっ、ぬえ。こんにちわー!!」
「はいはい、こんにちわ。まぁ里じゃ村紗船長で通ってる上に、水蜜と呼ぶのは私達ぐらいだ。仕方ないのだがな。で何用だ?」
生じていた誤解を手馴れた様子でサクサクと切り崩し、翼を生やした少女は会話の主導権を奪い取った。安心した、ただのすれ違いであったのだ。一瞬でもあの二人の事を疑ってしまった自分が恨めしい。
箒を抱えた少女は、頬を膨らませている。渾身の挨拶をぞんざいに扱われた上に、蚊帳の外へ追いやられればご立腹であろう。
気の利いた言葉でも掛けてやれれば良いのだが、私では主題へ感けるのが精一杯であった。
「その水蜜……村紗さんに少々尋ねたい事があってな。今、おられるか?」
「ふむ、急ぎか?生憎さっき同じように訪ねて来た者がいて、外へ出ているようなんだ」
困った、何と間の悪い。
まだ期限に余裕はあるものの、せっかく見つかった有力な手掛かりが利用できぬとなると、途端に焦りが生じてしまう。焦りが高じて思わず食い下がる。
その様を見てもう相手にされていないと感じたのか、箒の少女はぶつぶつと呟きながら掃除へと戻って行ってしまった。すまぬ、許してくれ……
「急用ではないのだが、出来れば早い内にお会いしたい。いつ頃戻られるかは、分からぬか」
「まぁ、一見の来客だったはずだ。遅くとも夜には戻ってくるだろう。明日でもお前の都合が付くのなら話をつけておくが、どうだ?」
「明日にでも会えるのであれば十分だ、是非お願いする。ぬえ……さん?」
「ぬえで構わんよ。むしろ、堅苦しいのは嫌いだ。水蜜の件は了解した」
もう話は終わったと言わんばかりに、ぬえさんはその場を去ろうとする。
私は堪らず、呼び止めた。
「何だ、まだ何か用か?」
「いや失敬、私がまだ名乗っておらぬ。私の名は」
「興味無い。お前なら外見の特徴だけでも話は付く、名など要らんよ」
何だそんな事かと言いたげな表情で、私の言葉を遮ってきた。惰性で名を発したものの、その声は弱弱しい蚊の鳴く様な音に留まってしまう。間違い無く伝わっていないだろうが、言い直すのも憚られる。興味が無い事を無理に聞かせるのは、宜しく無いだろう。
私は、価値観にケチを付ける気は無い。しかし自己紹介の言葉を遮るなど、いささか礼を欠きすぎではないか。とてもお前は、寺の者とは思えぬ。
思わず不快感を露にしてしまう。
「ぬえっ!!何ですか、お客様に対してその失礼な態度は!!」
また新たな声が私の方へ飛んできた。今度は誰だ。
「見ていましたよ、またお客様に失礼な態度を取ったのでしょう。見なさい、お怒りではないですか!」
「失礼とは何だ、星ちゃん。私なりに便を図っているつもりなのだが?」
「それは、要らぬ世話というものなのです。ぬえ個人としてならともかく寺の者として客人に応対する時は、一般的に善しとされる礼儀・作法を重んじて振舞う事が当然の行いでありまして、もっと命蓮寺という名の重みを心に受け止め、その評判・品格・地位を保つべき努力を日頃から絶やさぬように」
「水蜜の件は了解したぞ、椛。まだ何かあればこいつに話してくれ、じゃあな」
「あっ、こら、待ちなさい、ぬえっ!!」
にししと笑みを浮かべたぬえさんは、モリの柄先でコツンと石畳を叩いた。それと同時に突風のような物が私に襲い掛かり、思わず身を固める。
……風が止み姿勢を戻すと、ぬえさんの姿は忽然と消えていた。
先程乱入しぬえさんを咎めていた者も、固めていた姿勢を戻す。そこにいたはずの者が消えている事を確認し、呆れた様子で溜め息を漏らしていた。
周囲の空気の流れが落ち着いたのを機に、共に突風で乱れた衣服を整える。山の荒風に備えた私の衣服に対して、この人の衣服はとてもゆったりとしている。乱れを整えるのに、かなり手間取っているようだ。あたふたと衣服を整えている。
次いで、腰巻きにあしらわれた黄黒斑模様が目に付く。そこから思い起こされる虎とは似ても似つかぬ可愛らしい様に、思わず噴出してしまいそうだ。
耐え切れず脇に目をやると、そこのモノに気付いてしまった。仕方なく、その茂みまで飛ばされていた髪飾りを拾いに行く。花に疎い私でも良く分かる特徴ある造形、蓮の花をかたどった物だ。
衣服をすっかり整え、周囲をキョロキョロと見回している者に、髪飾りを譲り渡す。
「いやはや申し訳ありません、内の者が大変失礼を致しまして。私この寺の住職をしております、寅丸星(とらまるしょう)と申します」
「気にしておらぬから良い、価値観は人それぞれであるからな」
一時は反感も生まれたが、私はぬえさんの言葉を聞き逃さなかった。
「何よりあいつ、しっかり『椛』と私の名を呼んでおった。声を遮られた尻すぼみでも、しっかり聞き取れるぐらいの大層な興味を持っておったわけだ。天邪鬼なだけなのではないか?」
「あぁ、何と寛大なお言葉でしょう。貴方様は、誠に立派なお方とお見受け致します」
とても丁寧な言葉遣いだ。好感が持てる。
しかし何故私は、苛立ちを覚えるのだ。好感と同時に、とてもわざとらしくも思う。射命丸に小馬鹿にされすぎた性で、敬語全てがからかいの言葉に聞こえてしまうのだろうか。
「ささ、こちらへどうぞ。本堂へ案内致します」
「は?」
不味い、勘違いされている。私は村紗さんを訪ねて来ただけで、寺自体には何も用が無いのだ。
「すまぬが私は……」
「いやぁ、聖(ひじり)の説法は犬走さんにとっても大層有益なお時間になると思いますよ。何しろ聖は、かの法界で修行僧として明け暮れ、更に慈愛に満ち満ちた信念の元、この寺を構えまして」
駄目だ、聞こえていないばかりかもう歩き出している。
大声を張り上げるなり身体を引きとめるなりすれば、流石に気付くだろう。だが明日訪ねた時も同様に、寺の中へと案内される事は容易に想像できる。
どうせ今日の予定はもう無いのだ。ならば今行って紹介を済ませておくのも悪くない、か。私は寅丸さんの後へと続いた。茂みの中に身を潜めていたぬえさんも、これで出られるだろう。
それにしても良く喋る人だ。よっぽど聖という人物を好いているのか、それとも話好きなだけなのか。私に与えられた『寅丸星』という真っ白な紙の上へ、色を置いてみたくなった。
寅丸さんは確かに『本堂へ案内する』と言ったはずだ。ならば何故、この大きな船の前へと案内されるのだ。案内するに相応しい、名物とはなりそうな代物であるが……
寺の物見も兼ねているのだろうか、一応確認を取ってみなければ。
「……もし、寅丸さん」
「はい、何でしょうか?」
「本堂へ案内して下さると言われたはずだが、私の聞き違いであったか?」
「いえ、その通りですが?」
道すがらずっと続けていた聖なる者の自慢話を中断し、しばし怪訝な顔で私の方を見て来る。所がすぐに何かに気付いたように、両手の平をポンと合わせた。
「あぁ申し訳ありません、ご存じありませんでしたか。この命蓮寺はとある事情によりまして、こちらの船体を寺の本堂兼、僧堂として利用しているのです」
「ふむ、なるほど。中々興味深い趣向であるな」
次いで理由を尋ねてみたくなったが、朱鷺子さん達から聞いた村紗さんの異名をふと思い出す。
「もしや、カレー船長と呼ばれているらしい村紗さんと何か関係があるのか?」
「あ、はい、その通りでございます。実は正直に申しますと私共、この寺を構える以前に何かと物入りでして、私物であったこの船体を流用している次第です。寺を構えようとすれば、工事費用だけでもかなりの額になってしまいますからね。村紗が船長と呼ばれているのは、かつてこの船の舵を取っていた、それ故の愛称なんです」
早口だが一語一語ハッキリと、スラスラと発してみせる。寺には場違いに等しい大きな船があるのだ、きっと何度も同じ事を聞かれたのだろう。
しかしそれを踏まえても、随分と喋り慣れていると感じた。ここへ寺を構えたのが最近というだけで、それ以前から喋り慣れざるを得ない仕事をやっていたのか。
「なるほど、そういう経緯であったか。初めてこの船が佇んでいるのを見た時は、何事かと思ったぞ」
「この寺を初めて訪ねて来られる方々は、皆さん驚かれますね。二度目からは良い目印になるらしく、怪我の功名と云うのでしょうか」
船体の側面に設けられた大きな扉をくぐり、中へと案内される。水へ浮かべれば間違いなく水圧に負けるであろう、非常に軽い扉だ。もう船としての用途は、考慮していないのだろう。
しかし出迎えてくれた通路は、船そのままという感じだった。限られた空間から一個でも多くの部屋を作り出す為の、狭い通路。申し訳程度の明かりと重い空気。息苦しい閉塞感が少々煩わしい。所々に設けられた窓から差す光が、とてもありがたい物に感じられてしまう。
表情に出てしまっていたのか。寅丸さんは申し訳無さそうに、たははと照れ笑いを返してくれた。言わずとも意思が伝わった事が嬉しくなり、少しだけ気が楽になる。
いくつかの狭い通路と階段を通り、大きな扉の前で立ち止まった。ここが本堂らしい。
「息苦しかったでしょう、申し訳ありません。まだまだ通路には手を加えねばならぬ所が残っているのですが、本堂の中であればお寛ぎ頂けるでしょう。お入り下さい」
扉を開けると狭く暗い通路の景色が一変し、日の光、そして爽やかな空気が出迎えてくれた。船体の外壁を大きくくり貫いてある部屋だ。景色から察するに三階弱程の高さか。この部屋の位置する高さが、外に広がる景観をより良い位置から眺められるようにしてくれている。
「あら、お客様ですか?」
部屋の中ほど、経文らしきものを読み上げていた女性がこちらの存在に気付く。生え際から先端へ、色が徐々に変化している不思議な長髪が、非常に印象深い。
たおやかな面持ちで立ち上がり、こちらへ歩み寄ってきた。
「ようこそ命蓮寺へ。私、この寺の住職をしております聖白蓮(びゃくれん)と申します」
前へ垂らした合わせた腕を指先までキッチリと伸ばし、深々とお辞儀をされた。
私も思わず、お辞儀をしてしまう。この人の丁寧な振る舞いに釣られて自然と、上司へ向けるような格式ばった、硬いお辞儀をしてしまった。
寅丸さんにクスッと笑われた。例え私でも、ただの挨拶でこんな畏まった奴を見たら笑っただろう。
「こちらが先程からお話しております、聖住職です」
「お名前、お伺いしても宜しいでしょうか?」
「犬走椛だ。村紗さんに会いに来たのだが不在らしく、そこへ寅丸さんが来て貴方の説法を勧められた」
「あら、説法をお聞きになりたかったのです?」
「いや、説法を聞くつもりは無いのだが」
「まぁまぁ、それは……村紗が不在だというのに、寅丸が失礼を致しまして。星、犬走さんを無理矢理お連れしたのですね?」
聖さんは私へ向く体勢は崩さず、横目で見るようにして寅丸さんへ視線を向けた。私もまた、思わず釣られてしまう。
当の寅丸さんはそれまでのにこやかな笑顔が消え、顔が青ざめてしまっていた。
「えっ、あのっ、えっと、も、申し訳ありません!せっかく訪ねて頂いたのですから、寺を案内する意味合いも込めてこちらへご案内したのです。犬走さんの意思を全くお聞きしなかったのは私の失態です、失礼致しましたっ!!身勝手な行いをお許し下さい!」
怒涛の勢いで謝罪の言葉を並べられ、深々と頭を下げられた。寅丸さんにとってよっぽどの事なのか、これは。
きっかけは強引であったが、ここへ来たのは私の意思だ。この謝罪を受け取るわけには行かず、堪らず制止する。誤解を解かねば。
「待て、勘違いするな、私は説法に関して断りを示しただけだ。寺の案内、引いては寺の者を紹介していただく分には、むしろお願いしたかったぐらいなのだ。感謝しているぞ」
「犬走さん、無理なさってません?」
「本心だ。だから聖さんも、寅丸さんを責めないでやってくれ。意思を伝えていなかった私が悪いのだ」
「……お客様のお言葉を否定するのは失礼ですよね、申し訳ありません。星、顔を上げなさい」
寅丸さんは顔を上げ何かを言おうとしたが、まだ言葉が落ち着かない様子だ。出かけた言葉を飲み込み、息を整える為に深呼吸をしている。部隊の新人が失態を犯した時の姿と重なる。仕事にこなれているという私の見立ては、見誤りだったのかもしれない。
いや、慣れない仕事をその素振りすら一切見せずこなして見せたのならば、本来は相当優秀なのではないか。
「私の勝手な思い込みで、ご迷惑をおかけしました」
「気にするな、こちらこそすまなかった。良かれと思ってやってくれた事だというのは、十分に承知している」
「何事も無理強いするのは良くありません。事、教義を広める事においては、尚更気を付けなくてはいけませんよ」
「はい、肝に銘じておきます」
忠告を残し、聖さんは一礼をして奥へと行ってしまわれた。今度は落ち着いて、この場に適当な心持ちの会釈を返す。
言わずとも伝わっているだろう。その思い込みがこのような惨事を招いてしまった事、私も肝に銘じて置かなくてはならない。
感謝の意を間違い無く伝える為に、私は話題を切り出す。
「この船、ここへ来た時からずっとその存在に疑念を抱いていたのだ。寅丸さんがこうして案内してくれたおかげで疑念は晴れた、感謝しているよ」
「こんな大きな船が里の中ほどに鎮座しているのです、驚かれますよね」
にこやかな笑顔で私の話へ相槌を打ってくれた。先程の動揺が嘘の様に、冷静な礼儀正しい姿へと戻っている。やはり……慣れているのか?
二転三転する寅丸さんへの印象から、自身の人付き合いの無さを感じる。このような振る舞いをするのは、一般的にどういう人物であるのか。私の頭の中には知識が蓄えられていなかった。
「所で、船といえば犬走さんは何用で村紗を?」
行いを咎められ反省したのか、それとも私が意思を伝えたからなのか。寅丸さんはここまで続けていた聖さんの自慢話はアッサリと止め、私の事へと話題を向けてきた。
愚行を指摘されすぐに改められる者は、好感が持てる。
「うむ、少々訳あってカレーなる料理について調べていてな。こちらの村紗さんが詳しいと聞き、訪ねさせてもらった」
「そうでしたか。私がお力になれれば良いのですが、生憎そこまで詳しく無いもので。村紗への催促はもう、ぬえと約束されているんですよね?」
「あぁ、先程取り付けたが……寅丸さんは耳が良いのだな、あの遠巻きからそこまで聞き取れていたとは」
純粋な疑問から発した言葉だったのだが、聞いては不味い事だったのかもしれない。寅丸さんはまた、慌てた様子を見せた。
何やら言葉を発しているが、しどろもどろだ。言葉にすらなっていない。
「その子は、『財宝を集める』という変わった能力の持ち主でしてね。転じて、本人のまだ知らない情報は有益な価値を持つと見なされ、聞き取れる事があるのですよ。良からぬ事を企む輩もいますから、出来るだけ公言せぬように言いつけてあるのです」
奥へと去ったはずの聖さんが再び現れ、疑問への答えを代弁してくれた。
にわかには信じ難い力であった。仮に本当ならば、自制を行わねば窃盗も容易な力なのだろう。寅丸さんがどれ程の人格者であるのか、窺い知れた気がした。
「星。犬走さんにお茶をお出ししようと思ったのですが、新しい茶葉が見つかりません。来てくれますか」
「はい、ただいま。申し訳ありません犬走さん、少々お待ち頂けますか。すぐにお茶をご用意致しますので。お好きなお菓子は、ございますか?」
「いや、そんな気を遣って貰わずとも結構だ」
「では言い直しますね。命蓮寺自慢のお茶をご用意致します。もし気に入られたら是非ご購入下さい」
ニッコリと和やかな笑みで、断りの言葉を押さえつけられてしまった。頑なに拒む理由も無い、ご馳走になろうか。
思わず出掛かった、塩煎餅の名を飲み込む。無難な饅頭に言い換えて、一時の別れの挨拶とした。
一人、本堂として使用されている場に残された私は、壁の穴から広がる里の景色をぼんやりと眺めて過ごした。
野菜を売る者、洗濯物を干す者、農地の手入れをする者、立ち話に華を咲かせる者、転がる玉を必死に追いかける者、里に暮らす者達の今が目白押しだ。千里先すら見渡せる、私ならではの特権。そして一時的ではあるが、今の私は何物にも追われていない。出される茶を、殿のように待つだけで良いのだ。ただひたすらに座して一望しているだけの自分に、少々優越感を覚える。
視線を巡らせていると唐突に、私のそんな感慨は踏みにじられた。背の高い人影に少々遮られていたが、一目で分かる。何度も顔を合わせ、殴りかかりたくなったあの顔、それが目に入ってしまった。お前もまだ里に居たのか……さっさと帰って仕事をしろ。
景色を眺める気が失せ、視線を切って立ち上がる。本堂の中を見て回り時間を潰した。
あわよくば村紗さんが戻ってくるやもと期待し、つい長居をしていた。しかし結局、夕暮れが先に訪れてしまい、仕方なく帰路につく。
家へと辿り着いた時には、日もすっかり沈んでいた。ただでさえ目立たぬ位置にある我が家は、山の暗がりと完全に同化してしまっている。
「今日も一日ご苦労様でした、と」
独り言が漏れる。無意識の動作になってしまっている。
出迎えてくれる者がいない故、自分で何かしら『帰ってきた』と認識させる動作が必要なのだろう。
部屋の中に明かりを灯す。仕事道具を立てかける。とりあえず、横になる。飯を作る気は起きない。
「一週、か。我ながら、向こう見ずな取り決めをしてしまったやも知れぬ」
元々は射命丸が元凶なのだ、いざとなれば射命丸に始末を押し付ける事も出来る。しかしそれはそれで、からかわれるネタを提供するだけだ。
どうせアイツは私が泣き付くと踏んで、その時が来るのをほくそ笑んでいるに違いない。そう思い通りにはさせぬぞ、射命丸。お前には頼らず、カレーを完成させてやる。
『一番面白そうな記事になる事も確か。私の為、そして記事の為、頑張ってください』
昼間に言われた言葉が頭に響いて来る。
結局私は手の平の上で踊らされるだけの、操り人形でしか無いのだろうか。組織における歯車の一つでしか無い普段の私と、大して変わらぬか。定めなのかもな。
しかし何故、私なのだ。何故お前は、私ばかりに構う。
『貴方の記事はどういうわけか、他の天狗の同じようなネタよりも反響が大きいのですよ』
……ふざけるな。私はお前にとって、それだけの存在なのか。
目を閉じ考えを巡らせている内に、次第に意識が薄れてゆく。最後の力で脇に畳んである布団を手繰り寄せ、眠りについた。
昨日と同じ、変わらぬ石畳、変わらぬ桜の木。
ただ一つ、昨日の喧騒が嘘のように静まり返っている。昼前と昼時、そのわずかな時間差でこうも変わる物なのか。
喧騒を嫌い満足に眺められなかった里の景色を楽しみつつ、昨日と同じ道を歩いて行く。お目当ての大きな船が見えてきた。なるほど、それと知って見れば非常に分かりやすい目印だ。
門の前へと着くと、見覚えのある奇怪な翼が目に入った。腕を組みぼんやりと、その身を門の柱へと委ねている。私の存在に気付いたのか、一変した明るい表情でこちらへ振り向いた。
「よっ、昨日は世話になったな。助かったよ」
「おはようございます、ぬえさん」
ぬえさんは組んでいた片腕を解き、軽く横へ手刀を切るような仕草を見せた。
何故か感謝を示されたが、何の事だろうか。軽く昨日の出来事を振り返ってみるが、思い当たる節が無い。
「星ちゃん、礼儀に関して凄くうるさいからな。話した感じ、椛もそういう煩わしいのは嫌いと見たが、どうなんだ?」
茂みの件か。ぬえさんも私の行動に気付いていたのだな。
しかし私は場を弁えているだけだ。礼を欠いている者と同列に言われるのは、いささか不愉快である。
「私は、礼には気を付けているつもりだが」
「だろうな、だからこそ言って置く。私はもう友人扱いでいい。何より私が煩わしい。他の奴らに関しては好きにしろ」
一方的に条件を提示され、勝手に決められてしまった。礼を尽くされて煩わしいとは、変わった人だ。この人も、中々に興味を惹かれる。
ともあれ意思を示されたからには、それに応えるのも礼儀であろう。
「分かった。それで、ぬえはここで何をしているのだ?」
「おいおい、そりゃ無いだろう」
ぬえは両手を膝につき、ガックリと肩を落とす。
その大袈裟な程の落胆振りに、わざとらしさすら覚えてしまう。
「待ち合わせの時間を伝え忘れていたから、こうして椛が来るのを待っていたんだぞ。もし早朝にでも来たら、入りにくいだろうと思ってな」
顔を上げ、呆れた顔で私の方へ言葉を投げてくる。
ハッとした。今までの経験から待ち合わせとなれば当然昼頃だろうと、私は勝手に思い込んでいた。思えば早朝、ないし日が暮れてから人と会う約束をした事などあっただろうか。
自らの失礼を恥じ、謝る。
「す、すまないっ。私が勝手に昼頃だとばかり思い込んでいた。朝からずっと待ってくれていたのか?」
「あぁ、朝からずっとさ。春とはいえまだ朝は寒いよな、そんな中をずっと待っていたのにこの仕打ちはあんまりだな」
「もうぬえ、止めなよ」
聞き覚えの無い声が会話に割り込む。良く見ると門の向こう側にもう一人。まだ見覚えの無い者が柱にもたれて、こちらを振り返っている。
「何度も私が替わるって言ったのに。断り続けたのは、ぬえじゃん」
「余計な事は言わなくて良いんだよ、水蜜。ずっと待ち続けたのに、報われる瞬間だけ横取りされるのが嫌だっただけさ」
女性とは思えぬスラリとした長身。白一色の服に、緑色の襟と首もとの赤いスカーフが映える。そして手にしているアレは何だ、柄杓か?
よっと声を上げ、身を起こす。こちらへと歩み寄ってきた。
「じゃあ、そういう事にしておいてあげよう。んで、可愛い耳に尻尾、貴方が犬走さんだよね。初めまして、カレー船長こと村紗水蜜です」
『可愛い』との形容に、一瞬顔が引きつる。どうやらこの女性が、お目当ての人物らしい。
村紗さんはペコリと頭を下げた。私もお辞儀を返す。見映えする外見とは裏腹に、言動は随分とふわふわした人だ。
「申し訳ない。この度は私の身勝手に付き合って貰ったばかりか、待ち合わせの時間も取り決めず失礼した」
「はい、犬走さんは謝らない。時間を決めなかったのは、ぬえが悪い。それに、どうせ昼までは時間潰しだからね、気にしなくていいよ」
村紗さんはぬえの頭を無理矢理押し下げようとしたが、ぬえの抵抗が勝っていた。
私は早速カレーについて教えて貰う気でいたのだが、村紗さんの手が空くのは昼以降、という事だろうか。
しかしそうだとすると『時間潰し』という言い回しは引っ掛かる。何より村紗さんは今ここで、ぬえと一緒に私を待っていたのだ。失礼ながら忙しそうには見えない。
早くカレーについて知りたいという焦りから、思わず問い詰めてしまう。
「時間潰しとは、どういう事だ?」
「言葉通りだよ?」
「村紗さんの都合さえ付くのであれば、早速本題へ入りたいのだが」
「うん、分かってる。だから時間潰し。それから村紗さんはダメ、村紗か水蜜ね」
さっぱり意味が分からない。要領を得ない返答に神経を逆撫でされる。
そしてこの人もまた、人称に非常に拘るのだな。
「悪いが、もう少し具体的な理由を教えて貰えないか」
「椛、水蜜はこういう奴なんだ。悪気があってやってるわけじゃない事だけは、分かってやってくれ」
「そうそう。この仕事を全うするには、欠かせない手順なんだから」
駄目だ、全く掴み所が見つからない。今の私では、太刀打ち出来そうに無い。
問い詰めを続けた所で、私が望む答えは得られないだろう。そう判断し、促されるままに寺の中へと入って行った。信じて大丈夫なのか、この人……
今日もまた息苦しい通路の中を進み、昨日とは違う方向へと案内される。毎日こんな閉塞感に苛まれて生活していては、気が滅入らないのだろうか。
さほど口数が多くないぬえに対し、水蜜は寅丸さん以上に私へ話しかけてきた。話題は二人とも、主に私への質問だったので悪い気はしない。ただ流石に途切れる事無く続けられると、意識も散漫になり、受け答えの言葉数が減ってしまう。
途中、好みの食べ物の話題になってしまったので、緩んだ意識の糸をピンと張り直した。わざと濁しておく。昨日のような思いは、もうしたくない。
「到着、さぁ入って入って」
だだっ広い本堂とは打って変わり、案内されたのは若干こじんまりとした部屋であった。風通しや日差しに配慮した窓が設けられ、倉庫特有の埃臭さも無い。恐らくここは生活空間の一つなのだろう。
所狭しと壁に並べられた本棚、隅へと寄せられた雑多な物々。それに対し妙に片付いている中央の広い空間からは、この部屋が日常的に、誰かしらに利用されている事が感じられる。
目線で物色していると見知った物が目に留まる、将棋盤だ。
「おっ、早速見つけたね。それじゃ時間来るまでやろうか。犬走さん指せるんだよね」
水蜜は手の平を私の肩にポフと当て、将棋盤へと向かって行った。感触を嫌い、若干肩を引く。
一瞬何故知っているのか疑問を抱いたが、なあなあで受け答えしていた内に教えていたのだろう。水蜜は将棋盤を中央の空間へと移動させ、腰を下ろす。ぬえはその脇へと座った。ぬえは指せないのか、高みの見物と洒落込んだだけなのか、どちらであろうか。
それにしても、指したいのは山々だが、私がここへ来た目的はちゃんと伝わっているのか不安だ。確認する為に、もう一度聞いてみる。
「昼になれば、本当にカレーについて教えて貰えるのだろうな」
「だーかーらー、分かってるって。ほら、早く座って。何枚?」
水蜜は気楽そうな笑顔で、こちらへ微笑んでいる。思わず顔をしかめてしまった。今、何と言った。
無知ゆえ強者に戦いを挑むのは悪ではない、だが愚かではある。その慢心、砂上の楼閣に等しい自信を叩き壊してやろう。
臨戦態勢となった私は、盤上へ並び始めていた駒から歩を五枚選び出し、握る。
水蜜とぬえは、私を見てニヤリと表情を変えた。
先程の部屋より、幾分か大きな部屋へ案内された。水蜜達は昼食の支度へと立ってしまい、私一人がポツンと取り残されている。
私の為に卓上へ用意された食器は、何故か箸ではなく杓子であった。柄には鮮やかな模様が描かれており、如何にも来客用といった趣がある。
それにしても、腹も減っているが余りにも暇だ。
暇つぶしも兼ねて、既に用意されていた漬物に手を付け始める。あっさり無くなってしまった。仕方なく、中身が空になった器の造形をしげしげと眺めて、暇を紛らわす。
塩気よりも甘味が強い、食べた事の無い味。細かく切った様々な野菜が入り乱れていたのも印象深い。この寺独自の品なのであろうか。
遂には器についた傷の数を数え始めた時に、水蜜が戻って来た。
「ごめんごめん、退屈だったでしょ。星ちゃんがお鍋ひっくり返しちゃって、てんやわんやだったんだよ」
「寅丸さんか。あの服であれば、何かに引っ掛かっても止むを得ないだろうな」
「服は、たすき掛けしてたんだけどね。普通に何も無い所で転んだ」
「それはまた、よっぽど重い鍋であったのか」
「私でも頑張れば、片手で持てるぐらいだったかな」
昨日だけで二度三度と色を重ねて塗った、寅丸星という紙の上。その上へ、また新たな色を塗り重ねる。あの人、決して悪い人とは思わないがどこか抜けている……
水蜜は、私が手に取り逆さに弄んでいた漬物の器を見て、首を傾げた。
「あれ、福神漬け無くなってた?ごめん、すぐに持ってくるから器借りていい?」
「あ……いや、それぐらいなら私がやろう」
「ダメ。入れ忘れてたなら私の不備じゃん」
……食べたとは言い出せず、素直に従っておいた。
器を手にしてわたわたと出て行く水蜜と入れ替わりで、ぬえに抱えられた桶が入って来た。
客として、こうして座して待つのも礼儀なのであろう。しかし私の為にせっせと働く者を見ると、後ろめたい気持ちに駆られてしまう。
「待たせたな椛。星ちゃんがやらかしちゃって、ちょっと手間取ってたんだ。とりあえず米だけ先に持って来たぞ」
大きな桶、米びつをドスと床に置き、ぬえも私の隣へと座った。彼女の仕事はもう終わったのだろう。
「悪いな、昼食までご馳走してもらって」
「気にするな、むしろ水蜜が無理矢理食べさせてるようなもんだ。それにしても強いんだな、将棋。水蜜が余所者相手に真剣な顔をするなんて、滅多に無いからな。楽しかったぞ」
「まぁ……な」
「独学か?それとも、誰かから教えて貰ったのか?」
結局ぬえは、ずっと横で眺めていただけだった。恐らく嗜みは無いのだろう。
二人だけだから、気を遣ってくれているのか。ぬえは、水蜜と三人でいた時よりも饒舌になっている。私が乗り気だった事を見受けてか、積極的に将棋の話題を示して来た。
適当に相槌を打ちつつ、水蜜の言葉を思い出す。カレーという料理を知るには、まず食べるべきだ。なるほど、言われてみれば尤もな理屈だ。それならそうと最初に言ってくれれば、要らぬ不安も抱かずに済んだ物を。
まぁ、良いか。図らずも将棋を嗜む友と会えたのだ。おまけに、カレーへ至る道は既に見えている。ゆっくりと食事を楽しませて貰おう。
「お待たせ、カレー到着だよ」
中から長物の柄が飛び出た寸胴鍋を両手で支えた水蜜と、肩をすぼめ申し訳無さそうに照れ笑う寅丸さんが入って来た。今日はまだ会っていなかったので、軽く頭を下げておく。聖さんは、今日は留守なのだろうか。
気付けば漬物が入っていた器は、水蜜から寅丸さんへと移動している。適材適所、危険回避、この短時間で見事な采配だ。
鍋を下ろした水蜜は、手馴れた様子で皿に米を盛り付けていく。……皿?私はカレーを丼料理と聞いていたが、皿に盛るのか。
作り方だけ聞いて実物を見なかったら、私は丼椀に盛り付けていただろう。危ない所であった。
まじまじと見つめるその様に気付いたのか、水蜜は私が見やすいように身体の位置を変えてくれた。本来なら、教えを乞う側の私が動かなければならない場面だ。見る事に夢中になり、気を遣わせてしまった事を少々恥じる。
何故か米は、片側に寄せて盛られている。残りのスペースへ具材を乗せるのであろうか。水蜜は米の盛られた皿を片手に委ね、鍋に刺さった棒へと手を伸ばす。
そして鍋の中から掬い上げられた『カレー』らしいものを目にし、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
嫌な汗が額ににじむ。否が応にも、既知の物体と見た目が重なる。今まで興味津々に覗き込んでいた身体も、後ずさりを始める。
その暗い茶色。そして玉杓子からデロリと垂れる、適度な粘性。液体とも固体とも付かぬ様。これではまるで……
「あはは……確かに、見た目はあんまり宜しく無いかもしれませんね」
「心配するな、れっきとした食べ物だ。私達だって、ゲテモノ何ぞ好んで食う趣味は無い」
もはや寅丸さんの笑みも、ぬえの言葉も、何を意図したものなのか判断が付かない。彼女達の行動全てが、企みを含んでいるように感じてしまう。
水蜜だけが、私の反応など意にも介さない様子で、笑顔で淡々と盛り付けの作業を進めている。
私が食べるのか。アレを。これから。ここで。すぐに。
「ふふふ、見た目に騙されるなかれ。犬走さんも一口食べれば、きっと気に入るよ。気に入らないはずが無いんだもん。絶対に、ね」
先程まで座っていた場所へ、盛り付けられたカレーが置かれる。水蜜はにこやかに、食事を促す。
覚悟を決め、席へと着いた。
里を発ちしばらく、山では見慣れぬ不思議な形の木々が点在する道を進む。
目的地へと近づくにつれ、点在する木々は密度を増す。その姿形はより一層奇怪な面持ちへと変化している。水蜜から渡された地図に因るとあの、森の入り口らしき辺りに見えている建物がそうなのだろう。
カレーという料理が持っていた、私好みのほのかな酸味。そして、今まで味わった事の無い辛さ。
ワサビやカラシの様に鼻を抜けるでも無く、トウガラシやタマネギの様に目が痛くなるでも無く。身体全体から汗が噴出すような熱さに見舞われるのに、何故かとても爽やかになれる。あんな魔法のような辛さを演出できる調味料など、本当に存在するのであろうか。私は未だに、半信半疑である。
建物に掲げられた、看板の文字を確認する。ここで間違いないようだ。手触りの良いのれんを掻き分け、建物の中へと入って行く。
「いらっしゃい」
店主らしき眼鏡をかけた男性が、無愛想な声で私を出迎えた。チラとこちらへ視線を振っただけで、すぐに手にしていた新聞紙へと視線を戻してしまう。気難しそうな人だ。
出入り端から、物の位置を尋ねるのも気が引ける。しばらく記憶を頼りに物色し、調味料らしき品物を探して回る。
一体ここは、どういう店なのか。並んでいる品物に全く脈絡が感じられない。
傘や筆など、私でも良く目にする日用品。通路を我が物顔で陣取り、異様な存在感を放っている大きな岩。色取り取りの、煌びやかな飾りを施された木。射命丸が使っている、カメラなる機械も置いてある。店主が気に入った物を順に、右から左へ並べて行ったような印象だ。
雑然と並べられた様は、展示の様相とも思えない。しかしそれが逆に、未知の洞窟へと踏み入る宝探しのような好奇心を煽ってくる。
暇な時ならばこの感情に身を委ね、眺めて回る事も考えただろう。しかし目的の品が定まっている今は、そうもいかない。
一向に進まぬ探索に耐えかねて、男性へ声を掛けた。
「もし、知人の紹介で来た。カレーに使う調味料がこちらにあると聞いたのだが、出して頂けないか」
「ん……あぁ、君がそうなのか。確認の為に、名前だけ貰えるかい」
またも脇目で見ただけだった。何故、名を問う。
名を返した私にすら、目もくれない。新聞紙に視線を落としたまま、片腕だけを伸ばして棚から紙袋を取り出す。
「お代は先に受け取ってある。瓶詰めだから割らないようにね。一応、中身だけは今確認しておいてくれるかい。後から言われても、僕は取り合わないよ」
なるほど、そういう事だったのか。
よほど珍しい調味料なのだろう。事前に代金を支払い、調達を頼む程とは。私が使う分は、後で水蜜に支払わねばな。
机に出された紙袋を開け、中にある二個の小瓶を取り出す。寺で見せて貰った物と同じ、様に見える。問題無いだろう。
紙袋の中へ小瓶を戻し、立ち去ろうとする。ふいに背後から大きな物音が響いた。壁に何かが当たったような、鈍く重い音だ。
男性は新聞に感けていた視線を切り、私の背後を睨み付ける。眼鏡をクイと直した。
「……ふん、まだいたのかい」
視線の先へと目をやると、丸耳の小柄な少女が店の入り口に立っていた。
「おやおや。ボクがいたら、不味い事でもあるのかな?」
挑発的な視線を送っている。
何の話かは分からぬが、私の用は済んだ。関わって面倒になる前に退散させて貰おう。
すれ違いつつ軽く会釈をして店を出ようとすると、チョイチョイと背後の男性の方を指差された。
「……待つんだ。袋は全部で五個、まだ全て渡していない。帰って貰っちゃ困るよ」
私は慌てて、取りに戻った。
日も暮れかかっているのに、まだまだ大通りは人で溢れていた。大切な紙袋を腰の内側に下げ、私は店を順に回っている。気が向いた度に腰に手を当て、紙袋の存在を確認する。
ニンジン、イモ、タマネギ、豚肉。カレーを作る為に必要な残りの物は、里の店を回れば手に入るごく普通の物ばかりらしい。
水蜜は何故かそれとは別に、私個人の好きな食材を何でもいいから一つ買って来いと言っていた。出来るだけ無難な物に留めようと、考えを巡らせる。結果、私が手にしたのはゴボウ。
ニンジンやイモと並んでいても自然な食材だ。からかわれる事は……無いだろう。
喧騒の中、比較的静かな場所の椅子を選んで腰を落ち着ける。買い忘れを確認する為に、覚書を取り出した。
「あれっ、犬走さんですか?」
私を呼ぶ声がした。声の方へ視線を向けると、大きな風呂敷包みが私に迫って来ている。その向こう側から、見覚えのあるトサカが覗いていた。
恐らく、昨日世話になった彼女であろう。
「昨日の今日なのに、また会えるなんて偶然ですね。村紗さんにはお会いできました?」
抱えていた風呂敷包みを椅子の傍らへドッカと置き、私の隣へと座って来る。
どうやら話し込むつもりらしい。照らし合わせは、中断せざるを得ない。
場を選んだとはいえ、目前は未だに人波で賑やかだ。気持ち大きめの声で、受け答えをした。
「あぁ。今は早速、カレーに必要な物を買い揃えていた所だ」
「へぇ、凄いですね。もう、お一人で作れるようになったんですか?」
「いや、まだだな。水蜜に使いを頼まれて、買い揃えていただけだ。恐らく、これから教えて貰えるのだろう」
好きな本はあるのか。水蜜はどんな印象か。仕事は休みか。料理は得意か。命蓮寺の船。里の印象。趣味。強さ。きっかけ。
相変わらず彼女は、私への質問を積極的に投げ掛けてくる。
それらに答えているだけで会話が成り立って行くのは、気が楽である。私はしばし、彼女との会話を楽しんでいた。
私は、楽しんでいた。
「……あの、犬走さん」
それまで聞こえていた明るい口調が、急に淀んだ。
「どうした。何か気がかりな事でもあるのか?」
「いえ、その……ごめんなさい。きっと、私の思い違いですよね」
彼女が何を言わんとしているのか、全く見当が付かない。
「私、もう行きますね。カレー作り頑張って下さい」
彼女は、軽く頭を下げる。そそくさと傍らの風呂敷包みを抱え上げて、去って行ってしまった。
あの様子は、少々気がかりだ。引きとめるという考えも過る。しかし生肉を抱えたまま、外に長居するのも宜しくないだろう。手早く覚書との照らし合わせを済ませ、漏れが無い事を確認する。
もう人の姿もまばらになり始めた通りを、一人トボトボと歩き、寺を目指す。
そういえば、今日も大きな風呂敷包みを抱えていた。あの中はまた、本で溢れているのだろうか。
あれほど長く話していたにも関わらず、私はあの風呂敷包みが何なのかすら知らない。知ろうとも、していなかった。
寺の厨房へと戻り、食材と調味料を引き渡す。水蜜は手馴れた様子で、覚書すら手に取らず確認を済ませて行った。気がかりの一つであった調味料は、無事に全て揃っていたらしい。
最後にゴボウを手に取られ、一番の不安が積もる。
「え……犬走さんの好きなものって、これ?」
水蜜は、目を点にして私に確認を取る。
まさか、ゴボウすら駄目なのか。そんなはずはない。
「へぇ、凄い無難な物を買ってきたね。遠慮しなくても良かったのに。ウチの寺にいる人達は、変な人ばかりだからさ。拍子抜けしちゃった」
特にからかわれる様子も無く、思わず安堵の息が漏れた。
感心すら窺える表情で、水蜜は食材達をテキパキと仕分けして収納して行く。勝手の分からぬ私は無理に手を出そうとはせず、しばし棒立ちのまま考えを巡らせる。
私の印象では、変わった人と言われてもぬえぐらいしか思い浮かばぬ。まだ会っていないだけで、他にも大勢いるのだろうか。
水蜜は野菜箱の蓋をパタンと閉め、話の続きを切り出して来た。
「粕漬けだの乾酪だの、魚の酢漬けやおはぎ買ってきた人もいたんだよ、笑っちゃうよね。それもう食材じゃないって、ねぇ?」
腹を抱え、自分の言葉に自分で笑っている。見事に、各々が食べたい物を見境無く買って来た様な品物達だ。笑って良い物か判断が付かなかったので、愛想笑いを返しておく。
それにしても、わざわざ『食材』と指定して来たからには、何か作るのであろうか。
「所で、水蜜。カレーの食材はともかくとして、このゴボウは何に使うのだ?」
「え、気付いてないの?これも使うんだよ、カレーに」
思わず耳がピクリと張る。私が適当に見繕ってきたこのゴボウなぞが、使えるのだろうか。
呆気に取られていると、水蜜が言葉を続けて来る。
「大丈夫大丈夫、ゴボウ程度ならそのまま入れるだけでも味は整ったままだから。カレーという料理がどれ程万能で、どんな食材も活かせるって事を見せて上げるよ。でも流石に私でも、おはぎは無理だったけどね」
「あらあら、水蜜の料理の腕を信用しての事でしたのに」
「あ、戦犯登場」
入り口の方から穏やかな声が届いた。目を向けると、一見でもすぐに判別がつく特徴ある髪。聖さんが立っている。
「こんばんわ、犬走さん。仕事で今日一日外へ出ていたもので、ご挨拶が遅れてしまい申し訳ありません」
初対面の時に見せたような、とても綺麗なお辞儀をされる。またも釣られかけた。瞬時の所で身体を止め、柔らかく頭を下げ直し挨拶を返す。
このような丁寧な人が、おはぎを食材として買って来たのか。そんな常軌を逸した行動をする事が、あり得るのか。
不躾で礼を欠いていると思いきや、私の名をしっかりと聞き取り親しみを込め接して来る、ぬえ。
礼儀正しく丁寧な言葉遣いのしっかり者と思いきや、どこか抜けていて、たわいない失敗を見せる寅丸さん。
清楚な面持ちで格式ばった気品を備えていると思いきや、おはぎを食材として提示する破天荒ぶりを見せてくる、聖さん。
わずか一日の間に、どれほど変化した事か。これらの人物に対する印象は、狂った羅針盤のごとき様相だ。全く定まる気配が無い。
水蜜、お前はどうなのだ。その掴み所が無い振る舞いの裏に、どんな姿を隠しているのだ……
「どうかした、犬走さん?」
その言葉で我に返る。キョトンとした顔で水蜜が、こちらを見ている事に気付く。知らぬ間に、疑念が表情に出てしまっていたのだろう。
私は慌てて取り繕った。水蜜はあっけらかんと、彼女の投げ掛けた疑問を流した。聖さんはまるで我が子を見るかのように、優しく微笑んでいる。
「それでゴボウの話に戻すけど、犬走さんってしばらく暇なんだよね?」
ゴボウの話に戻っていない。私の暇と、何の繋がりがあるのか。
確かに職務自体は、しばらく無い。しかし、暇と言われるといささか語弊があるように思える。
少々、嫌気が露になった声で答えてしまった。
「期日までは、カレーの準備のみが与えられた仕事だ。水蜜さえ良ければ、また明日もお邪魔させて貰いたい」
「だよね。それは構わないんだけど、じゃあ何で今日、食材を買いに行って貰ったと思う?」
ほくそ笑み、ニヤニヤとこちらを見て来る。
言われて見れば、変である。生肉など日を経れば、その劣化は尋常では無い。
一体、何を企んでいるのだ。
「カレーはね、煮込み料理の一種。作り置きしておくと、より一層美味しくなるんだよ。それを知って貰う為に犬走さんには、今日の内にカレーを作って貰います。作れるまで帰さないから、ねっ」
「遅くなりましたら、お部屋をご用意致します。安心して、ご注力下さい」
水蜜は口調こそ軽く、冗談めかしていたが、その言葉の裏には本気の様が見て取れた。聖さんも、恐怖すら感じる笑みを投げ掛けてくる。断るのは容易では無さそうだ。断ろうと思ったらそれこそ、教えを請う者にあるまじき図々しい態度すら取らざるを得ないだろう。ここは大人しく従うのが賢明であり、礼儀だ。
カレーという料理がどれ程の難しさなのかは、まだ分からない。だが私の料理の腕を省みるに、今日の床は間違いなくお世話になるであろう。
それにしても、何故だろうか。水蜜達が私の為に時間を割き、協力してくれる。その事も勿論嬉しい。
しかし私はそれ以上に、半ば脅迫気味に私へと迫ってくる水蜜。村紗水蜜の新たな一面を見られた事が、とても嬉しく感じられた。
もはや与えられた一週の期日も、半分以上が過ぎてしまっている。毎日試作品を食べ続け、流石にカレーの味にも飽きて来た。
しかし水蜜は、嫌な顔など一切見せず付き合ってくれている。聖さんや寅丸さんは、仕事の合間に顔を出してくれる。ぬえも何かと絡んできて、私の退屈を気遣ってくれている。
私の身勝手な嫌気で、さじを投げるわけには行かない。
「おっ、さっきのやつ完成した?どうかな」
水蜜はこれまで何度も、完成の頃合ぴったりに顔を出してくれた。精通した料理故に、その頃合もおおよその見当が付くのであろう。
カレーの肝となるのはやはり、あの大量に用意していた調味料の分量と比率らしい。こればかりは素人考えではどうにもならず、まだまだ水蜜に頼らざるを得ない。
「お偉いさんに出すなら、まずは無難な方が良いかなって思ったんだけど、どう?馬芹を少し、減らしてみたけど」
「うむ、確かに食べやすい味になっているとは感じるのだが……」
物足りない。
ここ数日ずっと食べ続け、舌が慣れてしまった事を差し引いてもだ。
私が初めて食べた時に味わった、あの爽やかな辛さ。出来れば大天狗様にも、味わって頂きたい。
「物足りなさそうだね。まぁ私は、大天狗様がどんな好みなのか全然知らないし。犬走さんが『これだっ!!』って思う味を、自分で選んでよ。今日は、後どうする?」
「今日も遅くまで付き合わせて申し訳ない。続きは、明日にするよ。ありがとう、水蜜」
「そっか。納得できる味が見つかると良いね、おやすみ」
もう寺全体が闇に染まり、わずか一点。厨房のみに灯された微かな光の中で、私はしばらく味見を続ける。
今日一日だけでも、相当な種類の試作品を作った。それぞれを食べ比べれば、確かに味が違う事は分かる。分かるのだが、どの味を選べば良いのか。大天狗様は、どのような味をお望みなのか。
そして、これほど多くの味を試してきたにも関わらず、私が初めて食べたカレー。私がとても気に入ったあの味が、どうしても見つからない。
水蜜に頼んで、あの時と同じ配合の調味料を何度も作って貰った。しかし何故だ、何故あの時の味に届かないのだ。あの味こそ私が、満を持して勧められる味だというのに。
思い悩んでいると背後から、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。
「どうした、頭を抱えて。鍋でもひっくり返したか」
開けっ放しになっていた扉へもたれ掛かり、ぬえがこちらを見ている。
私は軽く、今の苦悩を伝えた。
「ふむ、なるほどな。椛、再現ありきで考えるんじゃない。逆にお前の食べたい味を、何も考えずに作ってみたらどうだ。お前が気に入ったって事は、ソレはお前の好きな味って事だ」
「私の……食べたい味?」
「まぁ物事、行き詰まると頭に血が上ってくるものだ。ちょっと外を歩かないか、頭も冷えるだろう」
手で軽く私を促すと、返事も待たずに行ってしまった。
このままダラダラと厨房にいても仕方ない。今日の区切りを付けるには、良いきっかけだ。私は素直に従い、ぬえの後を追う。
所々の窓から差し込む月明かりが、暗い通路を適度に照らしてくれていた。
外へと通じる扉が開け放たれると、夜の澄んだ空気が通路に流れ込んでくる。ぬえに続き、月明かりの下へと踏み出す。
青白く照らされた石畳や脇に植えられた松の木々が、静寂をより一層引き立たせている。
「ひゅ~。いつぞや、誰かさんに待たされた時の寒さを思い出すな」
「……私か?」
「さぁ、誰だろうな」
遠回しな嫌味をこぼしつつ、ぬえは歩を進める。
芝の敷き詰められた一画に辿り着くと、ぬえは腰を下ろした。私もそれに倣う。
外気に晒され続けた芝の葉が、立ち尽くめで疲れている足を気持ち良く冷やしてくれる。
「なぁ、椛。お前、私についてどれだけの事を知っている?」
ふいに、問いを投げ掛けられた。
振り向くと、ぬえはこちらには視線を向けず、空を見上げている。
「質問の意図が良く分からぬのだが」
「言葉通りさ。私について椛が知っている事、何でもいいから教えてくれよ」
私は何か、知ってはならぬ事を知ってしまったのだろうか。
名前。容姿。口調。性格。寺の住職である事。人称に拘る事。将棋が指せぬ事。思いついた事を順に挙げていく。
ぬえは言葉の度に頷いていはいるものの、視線は相変わらず私の方へ向けてくれない。
「なるほどな。まぁ半週余りも、ほとんど毎日一緒にいたんだ。言える事も沢山あるだろうな」
そう言い終わると一度うつむき、こちらへ顔を向けて来た。
「じゃあ椛、もう一つ聞こう。今挙げた事の中で『お前自身が知ろうとして知った事』は、何がある?」
……言葉に詰まった。
しばらく考え込んだら、思い当たる事もいくつか浮かんだだろう。だが、咄嗟には言葉が出なかった。
「……一つも出て来ないか。悲しいもんだ」
視線を遠くの方へ向け、言葉を続ける。
「何も知りたくないなら、それで構わない。知った結果、反りの合わない奴だと判断して疎遠になる事もあるだろう。ただ、知ろうとしていない事すら自覚が無いなら、それは改めた方が良いと思うぞ」
私は、何も知りたくなかったわけでは無い。しかし事実、私から他人の事を知ろうとした事があっただろうか。
確信を持って挙げられる者が、私にはにとりぐらいしか思い浮かばなかった。
「何故、急にそんな話をするのだ」
「私も昔、身を持って教えて貰ったからな。受け皿に徹するのは確かに楽だった。でも興味という水は、無限に湧く訳じゃないんだ。こちらからも適度に注ぎ返してやらないと、いずれ相手の水は枯渇する。一度干上がってしまったら、もう多少水を注いだ所で元の状態に戻る事は稀だ。私は、幸運だった……」
ぬえは切々と、思い出に浸るように語っている。私は過去を振り返り、自問自答を続けていた。
それまで何度も私に話しかけてくれ、仲良くなったと思っていた者が、急に疎遠になる事。何度も経験した。その度に私は、私への興味が失せたのだろうと思っていた。その結論に疑問も抱いていなかった。
しかしそれは結果であって、原因では無かったのかもしれない。相手への興味が失せていた。いや、抱いていない事すらあった。興味を持っていなかったのは、私の方ではないか。それなのに皆は、懸命に私への興味を注ぎ続けていてくれたのだ。
それは……あの、射命丸ですら。
「ぬえ……私は、確かにその通りだったやも知れぬ」
「そうか。私が話したかったのは、それだけだ。これから椛がどうするかは、何も言わんよ。悪かったな、忙しいのにカレーと関係ない話に付き合わせてさ」
ぬえはそのままスッと立ち上がり、寺の方へと歩き出す。
何か、何でもいい。打算的な考えと罵られようと構わない。私は、知ろうとしなければならない。
私に、変わる切っ掛けを示してくれたのだ。何か、報いなければならない。
「ぬえっ!!」
後を追うように立ち上がり、夜の静寂に似つかわしくない大声を上げてしまう。
「お前、将棋は指せるのか?もし指せるなら、明日でも何時でも良い、一緒にやろう。もし嗜みが無いのであれば、私が教えるから」
一番に頭に浮かんできた疑問を、そのまま発する。あまりにも唐突な将棋の話題に、自分でも可笑しく思う。
ただ『ぬえは将棋が指せぬ』と思っていた事、省みればお前の口からは一度も聞いていない。私が勝手に決め付け、知ろうとしていなかった事だ。
ぬえはこちらを振り返り、待ってましたと言わんばかりの顔で口を開く。
「水蜜に将棋を教えたのは私だ。アイツに勝てたら、相手してやるよ」
予想外の一言に呆けて、立ち尽くしてしまう。ぬえは私へと歩み寄り、額をツンと小突いた。
「冗談だって。じゃあ早速、明日にでもやるか。手は抜かないぞ」
ぬえは歯を見せ、笑ってみせる。そちらでない方の言葉が、冗談であって欲しかった。
普段は触る機会の無い大きさの寸胴鍋に戸惑いながらも、私はカレー作りを進めている。組織の食を一括で担っている厨房ともなれば、一番小さな鍋でもこの大きさなのか。
堂々とそそり立つ保冷箱や、鈍器と見間違えるほどの玉杓子。見ていて飽きないほど、種類が揃った包丁。かまども好きなものを選べと言わんばかりに、整然と並んでいる。
期日までは、まだ一日残っている。だが水蜜の教え通りに前日から作り置き、より美味な状態で提供したいと思い至った。間借りの申し出に、快く応じて貰えたのがありがたい。
「あぁ、違いますよ。そんなイモ細工でも作るかのような、面倒臭い事はしなくていいんです。ジャガイモの芽は、こうです。刃の根元にある角をこうして」
「大天狗様にお出しするのだぞ。そんな荒っぽいやり方では、イモが不恰好になる。失礼ではないか」
「ひょっとして、村紗さんに教えて貰っている間中、ずっとそのやり方だったのですか?よく何も言われませんでしたね」
射命丸は嫌味を言いつつ、手を伸ばす。私のカゴからイモを一個奪い取り、ササッと慣れた手付きで実践してみせた。
「椛にはこれが、不恰好に見えますか?」
「……いや。やり方を教えてくれるか」
「素直で良い心がけです。まず包丁をこう持って下さい」
寺の皆に協力を仰ぎこそしたものの、私はお前に頼る事無くカレーを作れるようになった。
今こうして肩を並べているのは、あくまで完成度を高める為。頼っているわけではない、はずだ。
何も無理をして、獣道を歩く必要など無い。私の為に道を整えてくれる者がいるのであれば、利用してみるのも良いだろう。
「射命丸は、どこで料理の腕を鍛えたのだ?」
「どこ、でしょうか。やっている内に、自然と身に付いてしまいました。ジャガイモの芽の取り方なんて、教えてくれる所ありませんしね。椛はどこか、心当たりがあるのですか?」
悪戯気味な口調で、問いを返してくる。以前の私であればこの問いも、揚げ足取りにしか聞こえなかった事だろう。
「……無いな。言われて見れば、その通りだ。普段よく料理をしていたのか?」
「はい。食べたい物が食べたい時に作れるのは、中々便利ですよ。椛もこれを機に、料理の腕を磨いて見てはどうです」
「考えておこう」
喋りつつもテキパキと作業をこなして行く様を見ると、お前の優秀さを再認識させられる。
作業が一段落して椅子へ座ると、早速と言わんばかりに手帳を取り出して来た。
もうほとんど経緯は話したというのに、まだ何か聞きたい事があるのか。一体お前の興味は、いつ涸れるのだ。
この無限に湧き続けるかのように思える泉すら、私が水を返さねば、いずれは涸れる時が来るのであろうか。その様を、見てみたい気持ちもあった。
だが生憎、私の持つ受け皿では荷が重過ぎる。涸れるよりも先に、水は溢れてしまうだろう。それは余りにも贅沢で、身勝手だ。だから、私も水を注ぎ返そう。私は、そう決めた。
話題が途切れ、筆を走らせている射命丸へ話しかける。
「お前ばかり質問を続けているのは、不公平だと思わないか?私にも、お前に質問させてくれ。お前の事を、教えてくれ」
射命丸は手帳に目線を向けたまま、一度生返事をした。しかし一瞬間を置いた後、驚いた様子でこちらへ顔を向けて来る。
唖然としたまま、何も言って来ない。承諾と受け取って、口を開く。
「好きな食べ物はあるか?こうして一応は世話になっているんだ、私の腕で良ければ作ってやる」
ようやくハッとした様子の射命丸は、慌てて手帳と筆を傍らへ置いた。コホンと咳払いをし、調子を整えたようだ。
いつもの澄ました態度へと戻り、答えを返してくる。
「本当ですか。じゃあ遠慮なく、鳳凰牛大腰筋を使った煮込み料理辺りを」
「……私が作ってやると言ったはずだ。作れる物にしてくれ」
「冗談ですよ、冗談。もう、椛はすぐ本気にするんですから」
なだめる様に、両肩をポンポンと叩かれた。
軽く手の甲でトンと叩き、除けるように促す。私は、続く言葉を待った。
その様子を見て射命丸は、何故か納得したような顔をして見せた。そして、言葉を続ける。
「それじゃあ、味噌田楽お願いします」
「もう冗談は良い。からかうなら作らんぞ」
「本気ですけど?作れますよね、これぐらいなら」
しばらく目を合わせていたが、言葉を取り消す様子は無い。どうやら、本気らしい。
「散々私の好みを馬鹿にしておいて、味噌田楽か。よくも私を笑えたものだな」
「えぇ。ですから、好みを聞かれた時しか答えていませんよ。尤も、はぐらかす事の方が多いですけどね」
同意を求めるように微笑み掛けて来る。私も何度も好みを問われ、経験していた事だ。その気持ちが、良く分かった。
そんな共感に嫉妬したのか、鍋の蓋がカタカタと鳴り出す。私達二人は、あたふたと鍋へ向かう。
「それで、椛。その『貴方が一番気に入った味』とは、再現の目処が付いたのですか?」
「あぁ、勿論だ」
考えた末に、私の達した結論。その言葉はハッキリと、自信を持ち発した。
あの味、あのほのかな酸味、私好みの味。
水蜜では、再現できなかったあの味。
良く良く考えれば、答えなど一つしかないでは無いか。
私は、持参した瓶詰めを取り出す。
「またあのカレーが食べてみたいものだな、文」
私はしたり顔で、瓶の中身をかざして見せる。
文は特に何を言うでもなく、照れくさそうな顔をしてポリポリと頬を掻いていた。
にとりの口調やにとりと喋ってる椛の喋り方が違和感だらけだったので…
もしその通りでしたらすみません、直ぐにこのコメは消します。
(ゲームでは)よくあることですから全く気にしてませんでした。
よくよく考えれば、質問もなしに断定してしまうのは失礼だったんですね。
(寅丸星を知ろうとする心を、真っ白な紙に色を塗る行為に喩えたのは、すごくわかりやすかったです)
だけれど、質問に答えて嫌な目にあった経験が多ければ(作中だと好物の件、昼食がカレーだと教えない村紗)、
自分がされて嫌なことは他人にもしない、ということで、自分から質問しようという気が失せてしまうのもわかります。
尋ねても大丈夫なラインを空気を読んで、判断する。その辺りは、空気が読めないものにはツラいところですね。
それはともかく
ぬえちゃんはそんなこと言わない!!
犬走椛の成長譚としてみれば出来の良い作品なのだと思いますが、キャラクターへの不快感が上回りました。
射命丸文と和解する場面でも、心が晴れることはありませんでした。
まず一つ目、河城にとりと封獣ぬえの話し口調が、わたしの知っているものと大きく異なっていたために抵抗感を覚えました。
年寄りめいた口調の河城にとりと、男ことばを使う封獣ぬえのことです。
二つ目は、敬語を使わない犬走椛。
この作品の犬走椛は、礼儀を知っていて他者に気をつかえるキャラクターとして設定されている。
大天狗には敬語で接しています。しかし初対面である朱鷺子や小悪魔、命蓮寺の面々に対しては、
失礼になることを承知でぶっきら棒な口調で喋っている。そこに彼女の傲慢さを見ました。
(敬称を抜く呼び方が親しみの表れだと理解できないのだとすれば、
本来の椛は他者との距離感がわからない人物である、上司との距離だけは社会から教えられているので
失礼なく接することができたのだ……と、推理をすることもできますが)
東方の設定はあやふやなものですから、キャラの口調について普段はとやかく言いません。
独自のキャラづけによって新しい魅力を発見できることも多いからです。
しかしこの作品ではキャラに魅力を感じられず、抵抗感だけが最後まで残りました。
惜しいと思います。それさえなければ楽しめたんだと思います。
重箱の隅をつつくような指摘ですが、寅丸星は住職ではなく御本尊です。
>アイツの性
>私の性
→ の所為
>たわいない →たあいない
キャリアウーマンともいえるけど、キャリアウーマンという言葉が似合わず
ガテン系姉ちゃんとも違い
委員長キャラでも、クールキャラでもない微妙な味付けが魅力的
惜しむらくは、そんな椛を堪能できるエピソードが、散らばりすぎて薄まっちゃってること
この椛をもうちょっと小説として纏まった形で読んでみたいと感じました
それはそうと、人付き合いが、苦手というか、興味が無い感じの椛てのも珍しいですね。
わきまえる時はわきまえるけど、実の所割とぶっきらぼうな感じがリアルで良かったです。
ぬえと文がまた、良い味出てて!良い先輩達です。
寅丸星が住職と名乗ることも含めて、原作をおやりになっていないのでしょう。
その程度の理解で独自解釈のSSを書くのは背伸びが過ぎる気がします。
もう少し地に足をつけた、身の丈にあった話を書かれてはいかがでしょう?
登場人物の口調を改変した理由、星の役割改変の理由が「私のイメージ」なんて、説明になってませんよね。それも後書きで
せめて冒頭であらかじめ警告しておけば風当たりも多少変わったかも知れませんね
「この物語は東方プロジェクトからキャラクター名を借りたオリジナル作品です」とでも
ダラダラと色々おっしゃってますが、要は「二次創作なんだから文句言うな」ってことですよね?
自分が二次創作であるのを盾にしながら、他者には原作を盾にするなと言うのは随分な話だと思いますが
書き手の好みが自由であるように、読者の評価の付け方も自由なんですから
話自体は嫌いじゃなかったので、プラス10点で
これでは一時期存在した俺魔理沙と同じレベル。
作中での説明不足を棚に上げて逆ギレされても、言い訳が言い訳として成り立ってなくて見苦しいだけ。
ひとつひとつの設定や解釈について単体では分からないところもありましたが
文にもうすこし踏み込んだ描写があればオチがすっとはいってきたかなぁという気がします。
文とその他の対比が椛の言葉だけで説明することになってしまっていて、
ああ、そういう仕掛けね、と納得する感じになってしまっている、というか・・・そんな印象を自分は受けました。
丁寧な文章のおかげで、読み進めている内にそんなものは気にならなくなりました。
椛の視点から描く幻想郷の日常、そして椛自身の心の成長、変化。どちらもとても面白かったです。
ただ、椛以外のキャラクター、特ににとりや文の思惑がわかりにくかったのが惜しいところです。
作者様も仰られている通り、一人称視点の物語では仕方がないところもあるとは思いますけれど。
他の読者に言いたいことがいくつかあります。が、コメントにコメントをつけるのはマナー違反ということで、
敢えて何も言いません。蛇足ですね。すみません。
作者様の新しい作品がまた読める日を楽しみにしております。それでは。
トントン拍子にはいかないことがあったり、裏で文がこそこそ動いていたり、ままならないことがあったり。
椛の一人称視点のみであることによる情報の少なさ・不自由さが、逆に(?)新鮮で面白かったです。
あまり上手く言えるか自信は無いですが……
椛が他の人物に対して抱く感情がなかなか生々しいものであったり、幻想郷の面々の普段見えない(見せない)面というか。
他の方とは少し違う解釈の上にある世界に、キャラクターがきちんと「生きている」というか。
なんというか、登場人物一人一人が「この幻想郷で生活しているんだなぁ」という感じがして、とても好きになれました。
私のイメージする椛やにとりとは違うキャラ付けに戸惑いもしましたが、あなたの書く幻想郷は、他には無い魅力を持つ、素敵なものでした。
楽しい時間を、ありがとうございました。
にとりの口調には違和感感じたが訓練された読み手は動じない!
作者さん毎に異なる解釈があってしかるべきだと思いますし、テーマにすえたものは面白いかと思います。最後のオチにもにやりとするものがありました。
……ただ、原作設定から離れすぎると、お話の設定や展開を理解しにくくなってしまう危険性がありますので、そこだけは踏まえておいたほうがよろしいかと。
たしかに他の方もおっしゃる通り、情報不足で理解しきれない部分もありますが、
椛の視点からみた状況だけを考えれば、各所にある謎の違和感も これはこういう事だったのだろう と想像する余地があって楽しかったです。
なにより椛が文の興味に答えてくれたのは途中ハラハラとしていた身として嬉しく思います。
この後のお山のお話も読んでみたいものです