闇夜に咲く桜、と言えば、どんな情景が目に浮かぶだろうか。
真っ暗な闇だ。視界を埋め尽くす、巨大な闇。
空にぽっかりと空いた、黄金の穴。
そして、はらはらと舞い散る桜の花びら。
散る桜こそ美しい。散らぬ桜は、桜ではない。その在り様が武士のようだ、とはじめに言ったのは、一体誰だったのだろうか。
それを知る者達もまた、桜のように散ってしまった。
「……ねぇ、妖忌」
「はい、幽々子様」
「優曇華の花を知っているかしら?」
夜も更けて子の刻。日は沈み、世界は闇へと沈んだ。
闇とは、人の恐怖だ。人間は視ることによって世界を識る。識ることとは、即ち、恐怖の克服であるのだ。
一寸先は闇。人間は、識らないことを極度に恐れる。光がないところは、人の住む場所ではない。
ならば、そこは誰の住処なのか。
決まっている。人非ざるモノ……妖物の、人間の『恐怖』の住処である。
「……存じませんな。生憎、花の名には疎いもので」
「そうね、あなたはそういう人。姿形に囚われず、本質のみを追求する……これだけ見事な庭園を作っておきながら、その花の名を知らず、その樹の名を知らず、その技の名を知らず。剣士とは、そういうものなのかしら?」
「…………」
幻想郷。忘れ去られた幻想達の住む世界の、そのまた終わりの端、冥界に存在する白玉楼。行き交う者は人魂ばかり、真人間などいるはずがない。
夜闇の中、その縁側に佇む二人の人影も、当然生きているはずがない。片や亡霊、片や半霊。生きているのか死んでいるのか、そもそも生とはなんであるのか。それもまた、人の識らない『恐怖』。
「……そうね、では、竹取物語は知っているかしら?」
ややあって、亡霊……白玉楼の女主人、西行寺幽々子は再度口を開いた。ゆったりとした夜着に包まれて、その視線はぼんやりと前を見つめている。亡霊であるというのにしっかりとついているその両足は、きちんと正座の形に折りたたまれ、しかし余分な力は入っていない。
彼女の言葉を受けて、隣にて着流しに胡坐で侍る半霊、魂魄妖忌はふむ、と顎髭をなでつけた。
「──あるところに、たけとりのおきなといふものありけり。のやまにまじりてたけをとりつつ、よろづのことにつかいけり……」
「あら、物知らずの老翁でも、流石に竹取物語くらいは知っているのね」
「……妖夢が生まれてすぐ、ぐずるあの娘の寝物語に、と覚えさせたのはあなたでしょう、幽々子様」
「あら、そうだったかしら?」
そうですよ、とため息をつく妖忌を見て、幽々子はおかしげに口元を隠した。彼女が突然意地の悪いことを言うのはいつものこと、妖忌にとっては慣れたものであり、またそこに悪意が含まれていないことはよく理解していたので、ことさら怒りを表したりはしない。ただ、口の端を苦笑の形に歪めるだけだ。
「妖夢は、もう寝たのかしら?」
「はい、既に。かなりしごきましたから、明日の朝まで目を覚ましますまい」
「そう」
夜風が吹く。秋頃ならばともかくとして、今の季節に虫は鳴かない。その代わり、庭一面に広がる桜の木々が目を楽しませてくれる。
その中でも、ひときわ立派な桜の木。だがしかし、一向の咲く様子を見せない桜の木を、幽々子はじっと眺めていた。
そして唐突に、口を開く。
「……迷いの竹林に、おかしな人達がいるの。知ってる?」
「ええ。なよ竹の姫君に、その従者、そして兎達。存じております」
「優曇華」
妖忌は、一瞬わけが分からなくなって口を閉ざした。それと言うのも、迷いの竹林にいる人々と優曇華の花の関係が全く分からなかったからだ。思考が迷宮入りをした時、人は自然と口を閉ざす。
「……だから、優曇華の花。分かるでしょ?」
だが、再度幽々子の言葉を聞いて、ようやく妖忌は思い出した。
そういえば、竹林にそんな名前の者がいたことを。
「……そういえば、竹林の兎にそんな名前の者がいましたか。なんでも、姫御自らが名をつけたとか」
「ええ、そう。……不思議よね」
「……はぁ……」
ますますもってわけが分からない。だが、幽々子がこういう物の喋り方をすることは常のことだった。ふわふわとしてつかみどころがない、真理をついているのか、それともただの戯言なのか。その一生を剣に捧げ、幽々子に捧げてきた妖忌にはまったくわけの分からない単語の羅列。ばらばらになったパズルのピースのような、そういう言葉を投げかけて人が困惑するのを見るのが好きなのだ、この姫君は。
そういったところがあの妖怪の賢者、八雲紫と通じ合うところなのだろうな、と、妖忌は内心苦笑する。彼女もまた、人を煙に巻くのか大好きな困った女性だ。人はあまり食わないが、人を食った喋り方をする紫を、妖忌はあまり好いてはいない。だからこそ、彼女と敬愛する主の共通点には苦笑いを漏らす他なかった。
だが、紫に比べて幽々子の方が『マシ』な点がひとつだけある。彼女はひとしきり楽しんだ後に、正解を言ってくれるのだ。
「ふふ……それじゃあ、蓬莱の玉の枝は?」
「もちろん存じ上げております。五つの難題のひとつでしょう」
「ええ、そう……ふふふ、分からないかしら?」
……『ひとしきり』楽しんだ後、なのが困りものだが。
「ねぇ、妖忌。迷いの竹林にいる彼女達は、何者かしら?」
「……なよ竹のかぐや姫、そしてその従者達、ですか?」
「うーん……本当に、そうかしら?」
「と、言いますと?」
わけがわからない。
蓬莱山輝夜。その名前が示す通り、迷いの竹林に住む女主人はなよ竹のかぐや姫だ。彼女達が完全に閉じこもっているためさほど交流があるわけではないが、仮にも冥界を、幻想郷を支配する者の一人として幽々子は幾度か言葉を交わしたことがあるし、妖忌もその場にいたことがある。
だから、分からない。彼女は、てっきり伝承にあるかぐや姫本人だと考えていた。本人がそう言っていることもさることながら、ここは忘れ去られた幻想が集う場所だ。本当にそうであったとして、それは不思議なことでもなんでもない。
だが、幽々子はそこに疑問を促した。そこにはどんな意図が隠されているのか? 竹林の人々が本物のかぐや姫であろうとなかろうと、彼らにはなんの関係もない。彼女が「そう」である、と言うのならば。例えそうでなかったとしても彼女はかぐや姫であるとする、それでもいいはずだ。
妖忌の背筋に、冷たいものが走った。まさか、幽々子様はとんでもないことを考えているのではないか?
「……幽々子様。それは、どういう意味でしょうか?」
「どうしたの? そんなに怖い顔をして……ああ、違うわ。そんなに馬鹿なこと、考えるはずがないじゃない。妖夢もいるのに」
「……そうですか」
「ええ、そうよ。そうじゃくて……優曇華の花と、蓬莱の玉の枝。分かる?」
「…………」
ほっと胸をなでおろした妖忌は、しかし依然として難しい顔のままで静かに首を横に振った。
なるほど、とりあえず火急の話でないことは理解できた。だが、ならばなぜ……?
「……蓬莱の玉の枝はね、優曇華の花だったのよ」
「は?」
「だから、蓬莱の玉の枝は優曇華の花でもあるの。竹取物語の……どの本だったかしら、もしかしたら大陸だったかもしれない。そう、五つの難題のひとつは蓬莱の玉の枝じゃなくて、優曇華の花であるものもあるのよ」
「……はぁ。それはまた、意外な……しかし、どうして?」
「そんなこと知らないわ。私が知っているのは、優曇華の花と蓬莱の玉の枝、それぞれを所望したかぐや姫がいたという事実だけ。物語として面白くするための改変かもしれないし、ただの誤植かもしれない」
「ふむ……、なるほど」
「でもね、そんなことはどうでもいいの」
言って、初めて幽々子は初めて首を回し、妖忌を見た。彼女はいつもながらぼぅ、としたまなざしを、妖忌の双眸へと投げかける。
まるで舞い散る桜のようだ、と、妖忌は思った。
「ねぇ、妖忌。彼女は……誰なのかしら?」
「……蓬莱山、輝夜ですか?」
「ええ。……私はね、彼女は本物のかぐや姫だと確信しているわ。どうしてか、と言われれば困るけれど……ううん、でも、分かるのよ。彼女は本物だ、ということが。でも……」
「ならば、優曇華の花を愛した姫君はどこにいるのか。そういうことですか?」
「……ええ、そうよ」
蓬莱山輝夜は、本物のかぐや姫。だが、優曇華の花を求めたのも、また本物のかぐや姫。ならば、後者はどこにいるのか。どこに行ってしまったのか。
二人のかぐやは、確かに同一人物のはずだ。だが、かぐやはひとり、難題は五つ。この存在してしまった矛盾を解くことは、どんな難題よりも難しい。
ましてや、妖忌は生来頭脳労働には向かない性質だ。すぐに思考は袋小路に迷い込み、その口は重く閉ざされてしまった。
「ねぇ、妖忌。優曇華の姫君は、どこにいるのかしら」
「……分かりません。幽々子様は、分かるのですか?」
「そうねぇ……、分からないわ」
「……そうですか」
それっきり、幽々子はまた庭に、桜に視線を戻してしまった。夜闇に映える桜に桜、その中で唯一花を咲かせぬ巨大な桜。その代わりに青々と繁る葉は、見る者に生命の活力よりも寒々しさを覚えさせる。
季節外れの桜を、狂い桜と言うらしい。だが、咲かぬ桜もまた狂っているのではないだろうか。そして、それに目を奪われる者も、また。
「……でも、なんとなく分かるわ」
唐突に、そう、幽々子は呟いた。
「……ほう。お聞かせ願えますかな?」
「兎。彼女は、そこにいるのよ、きっと」
いつも通り、少なすぎる彼女の言葉。だが、察しの悪い妖忌であっても流石に分かる。兎とは、件の花の名を与えられた兎なのだろう。
もっとも、どうして彼女がそこにいるのか、そう考える幽々子の心にまでは理解が及ばないのだが。
「鈴仙・優曇華院・イナバ……彼女はね、きっと消えてしまったかぐや姫の悲鳴。消えたくない、忘れ去られたくないと言う彼女の叫び……ねぇ、妖忌。人々から忘れ去られた幻想が集う幻想郷、その中からすら忘れられてしまった幻想は……いったい、どこに行くのかしら?」
「……分かりません」
「そうね、分からない。分からないのよ……だから、怖いの。とても」
いつの間にか、幽々子の瞳はまた妖忌を射抜いていた。
確かにそれは射抜いていた。先ほどまでのぼぅ、とした視線ではなく、確かに意思を持った目だった。
そして同時に、すがりつくような……そんな、目だった。
「ねぇ、妖忌。あなたは、消えたりしないわよね?」
「……質問の意図が分かりかねますな。なぜ、そのようなことを?」
妖忌は、喉の奥によくわからないむずがゆさを感じていた。干上がった、と言うよりも、喉になにかが詰まったようなもどかしさを感じていた。
何かを言おうとしてその内容を忘れてしまったかのような、苛立ちがあった。幽々子の言わんとすることが分かるような、分からないような……そもそも、そこが気になる時点でおかしいのだ、ということに妖忌は気づいていなかった。
そのようなことは茶飯事で、気にも留めぬことであるはずなのに。
「幻想郷は……文字通り、忘れ去られた幻想によって形作られる世界。でも、それはやはり幻想。人の夢。不変であり続けるはずはなく、常に流動し続けている。だから、不安になるの……あなたが、消えるのではないかと」
「それは……それは、私の力が不足しているからでしょうか? 私の実力では、この幻想郷の妖物共に不覚をとる、と?」
「いいえ、そうではないわ。あなたの実力は、私もよく知っている。だけど……ねぇ、妖忌。私の名前は、西行寺なのよ」
言って、幽々子は困ったように微笑んだ。
「ねぇ、妖忌。私は、自分の正体も、どうしてあの桜に惹かれるのかも……なんとなく、だけど、おぼろげにだけど、分かっているつもりよ」
「……でしょうな。貴女は知識がないわけではなく、頭が働かないわけでもない」
「だから、私は大丈夫なの。幻想がはっきりとしているから、そうそう揺らいだりはしない……だけど妖忌、あなたは違うわ。あなたはただの魂魄よ、肉体と精神という二つの存在、それを体現しているだけの存在。幻想は揺らぎ易いわ……そして、幻想は女性となって安定する」
男は理性で生き、女は感情で生きる。
ならば、感情の赴くまま、野生のままに生きる妖怪は女性であろう。男性の妖怪は、人間的でない者が多い……それは、妖怪という野生の生き物の心と人間性という理性が合致しないからだ。もちろん、例外は存在するが。
ちら、と、幽々子は背後、母屋を見遣った。その視線の先には、一対のふすまが閉じている。
その向こうでは、彼女の予想が正しいならば、幼い妖夢が眠っているはずだった。魂魄の家の者として、西行寺に仕えるための修行をこなし、疲労困憊で眠りに就いた妖夢が。
妖忌の見る限りでは、その視線は慈愛に満ちたものだった。
「妖夢の誕生は、素晴らしいことだと思うの。これまであなたひとりでしていた門の番、庭の手入れ、食事の支度、その他雑用……正直、あなたを働かせ過ぎだとは思っていたわ。だから、将来的に彼女がその仕事をしてくれることであなたの負担が減るのなら、それはとてもいいことだな、って思ったの……最初は、ね」
「……今は、そうではないと?」
「そんなことはないわ。ただ、こうも思ってしまったのよ。……妖夢は、あなたの代わりなんじゃないかって。幻想郷という世界が生み出した、魂魄という幻想を確実化させるための存在なんじゃないかって……そしてあの娘が独り立ちした時に、あなたは消えてしまうんじゃないか? って」
ぎゅ、と、着流しの袖を幽々子が掴んだ。
剣術指南役も務めている妖忌は、幾度となく幽々子の手を握ったことがある。と言うのも彼女は剣についてはとんとだめなので、指南を始める度に握りから教えないといけないからだ。もっとも、剣術指南とは名ばかりであり、実態は普段運動不足の主人を無理やり運動させるためになんとか妖忌が考え出した軽い運動のようなものなので、それで問題があるわけではないのだが。
だが、今日の彼女の手の感触は、いつにも増して心細いものだった。まるで、今にも消え去りそうな程に。
対する妖忌は、無言。
幽々子の所作を止めるでもなく、ただ泰然とその場にあるのみ。その瞳からは、どんな感情も伺えない。
もとより、剣士とは……男とは、そういうものだ。
例えるならば、そう、
「枯れ木。あなた、永遠に枯れた桜みたいよ」
「咲かぬ桜に、意味はありません。このまま朽ち果てるのみでしょうな」
「……その桜を、私は咲かせてみたいのよ」
「それはなりません。許されざることです」
話はそれまで。
幽々子の手を振り払い──そう、それは穏やかな挙動ではあったものの、確かに『振り払う』という動作だった──さっと立ちあがった妖忌は、そのまま奥へと引っ込んでしまう。
残されたのは、幽々子ひとり。しばし妖忌を見送った後、桜へと振り返る。常のごとく、ぼう、とした面持ちで。
「──桜、咲かないかしらねぇ……」
ここは幻想郷。人に忘れ去られたものの集う、未明の地。
ここには、ガスの灯りも届かない。
真っ暗な闇だ。視界を埋め尽くす、巨大な闇。
空にぽっかりと空いた、黄金の穴。
そして、はらはらと舞い散る桜の花びら。
散る桜こそ美しい。散らぬ桜は、桜ではない。その在り様が武士のようだ、とはじめに言ったのは、一体誰だったのだろうか。
それを知る者達もまた、桜のように散ってしまった。
「……ねぇ、妖忌」
「はい、幽々子様」
「優曇華の花を知っているかしら?」
夜も更けて子の刻。日は沈み、世界は闇へと沈んだ。
闇とは、人の恐怖だ。人間は視ることによって世界を識る。識ることとは、即ち、恐怖の克服であるのだ。
一寸先は闇。人間は、識らないことを極度に恐れる。光がないところは、人の住む場所ではない。
ならば、そこは誰の住処なのか。
決まっている。人非ざるモノ……妖物の、人間の『恐怖』の住処である。
「……存じませんな。生憎、花の名には疎いもので」
「そうね、あなたはそういう人。姿形に囚われず、本質のみを追求する……これだけ見事な庭園を作っておきながら、その花の名を知らず、その樹の名を知らず、その技の名を知らず。剣士とは、そういうものなのかしら?」
「…………」
幻想郷。忘れ去られた幻想達の住む世界の、そのまた終わりの端、冥界に存在する白玉楼。行き交う者は人魂ばかり、真人間などいるはずがない。
夜闇の中、その縁側に佇む二人の人影も、当然生きているはずがない。片や亡霊、片や半霊。生きているのか死んでいるのか、そもそも生とはなんであるのか。それもまた、人の識らない『恐怖』。
「……そうね、では、竹取物語は知っているかしら?」
ややあって、亡霊……白玉楼の女主人、西行寺幽々子は再度口を開いた。ゆったりとした夜着に包まれて、その視線はぼんやりと前を見つめている。亡霊であるというのにしっかりとついているその両足は、きちんと正座の形に折りたたまれ、しかし余分な力は入っていない。
彼女の言葉を受けて、隣にて着流しに胡坐で侍る半霊、魂魄妖忌はふむ、と顎髭をなでつけた。
「──あるところに、たけとりのおきなといふものありけり。のやまにまじりてたけをとりつつ、よろづのことにつかいけり……」
「あら、物知らずの老翁でも、流石に竹取物語くらいは知っているのね」
「……妖夢が生まれてすぐ、ぐずるあの娘の寝物語に、と覚えさせたのはあなたでしょう、幽々子様」
「あら、そうだったかしら?」
そうですよ、とため息をつく妖忌を見て、幽々子はおかしげに口元を隠した。彼女が突然意地の悪いことを言うのはいつものこと、妖忌にとっては慣れたものであり、またそこに悪意が含まれていないことはよく理解していたので、ことさら怒りを表したりはしない。ただ、口の端を苦笑の形に歪めるだけだ。
「妖夢は、もう寝たのかしら?」
「はい、既に。かなりしごきましたから、明日の朝まで目を覚ましますまい」
「そう」
夜風が吹く。秋頃ならばともかくとして、今の季節に虫は鳴かない。その代わり、庭一面に広がる桜の木々が目を楽しませてくれる。
その中でも、ひときわ立派な桜の木。だがしかし、一向の咲く様子を見せない桜の木を、幽々子はじっと眺めていた。
そして唐突に、口を開く。
「……迷いの竹林に、おかしな人達がいるの。知ってる?」
「ええ。なよ竹の姫君に、その従者、そして兎達。存じております」
「優曇華」
妖忌は、一瞬わけが分からなくなって口を閉ざした。それと言うのも、迷いの竹林にいる人々と優曇華の花の関係が全く分からなかったからだ。思考が迷宮入りをした時、人は自然と口を閉ざす。
「……だから、優曇華の花。分かるでしょ?」
だが、再度幽々子の言葉を聞いて、ようやく妖忌は思い出した。
そういえば、竹林にそんな名前の者がいたことを。
「……そういえば、竹林の兎にそんな名前の者がいましたか。なんでも、姫御自らが名をつけたとか」
「ええ、そう。……不思議よね」
「……はぁ……」
ますますもってわけが分からない。だが、幽々子がこういう物の喋り方をすることは常のことだった。ふわふわとしてつかみどころがない、真理をついているのか、それともただの戯言なのか。その一生を剣に捧げ、幽々子に捧げてきた妖忌にはまったくわけの分からない単語の羅列。ばらばらになったパズルのピースのような、そういう言葉を投げかけて人が困惑するのを見るのが好きなのだ、この姫君は。
そういったところがあの妖怪の賢者、八雲紫と通じ合うところなのだろうな、と、妖忌は内心苦笑する。彼女もまた、人を煙に巻くのか大好きな困った女性だ。人はあまり食わないが、人を食った喋り方をする紫を、妖忌はあまり好いてはいない。だからこそ、彼女と敬愛する主の共通点には苦笑いを漏らす他なかった。
だが、紫に比べて幽々子の方が『マシ』な点がひとつだけある。彼女はひとしきり楽しんだ後に、正解を言ってくれるのだ。
「ふふ……それじゃあ、蓬莱の玉の枝は?」
「もちろん存じ上げております。五つの難題のひとつでしょう」
「ええ、そう……ふふふ、分からないかしら?」
……『ひとしきり』楽しんだ後、なのが困りものだが。
「ねぇ、妖忌。迷いの竹林にいる彼女達は、何者かしら?」
「……なよ竹のかぐや姫、そしてその従者達、ですか?」
「うーん……本当に、そうかしら?」
「と、言いますと?」
わけがわからない。
蓬莱山輝夜。その名前が示す通り、迷いの竹林に住む女主人はなよ竹のかぐや姫だ。彼女達が完全に閉じこもっているためさほど交流があるわけではないが、仮にも冥界を、幻想郷を支配する者の一人として幽々子は幾度か言葉を交わしたことがあるし、妖忌もその場にいたことがある。
だから、分からない。彼女は、てっきり伝承にあるかぐや姫本人だと考えていた。本人がそう言っていることもさることながら、ここは忘れ去られた幻想が集う場所だ。本当にそうであったとして、それは不思議なことでもなんでもない。
だが、幽々子はそこに疑問を促した。そこにはどんな意図が隠されているのか? 竹林の人々が本物のかぐや姫であろうとなかろうと、彼らにはなんの関係もない。彼女が「そう」である、と言うのならば。例えそうでなかったとしても彼女はかぐや姫であるとする、それでもいいはずだ。
妖忌の背筋に、冷たいものが走った。まさか、幽々子様はとんでもないことを考えているのではないか?
「……幽々子様。それは、どういう意味でしょうか?」
「どうしたの? そんなに怖い顔をして……ああ、違うわ。そんなに馬鹿なこと、考えるはずがないじゃない。妖夢もいるのに」
「……そうですか」
「ええ、そうよ。そうじゃくて……優曇華の花と、蓬莱の玉の枝。分かる?」
「…………」
ほっと胸をなでおろした妖忌は、しかし依然として難しい顔のままで静かに首を横に振った。
なるほど、とりあえず火急の話でないことは理解できた。だが、ならばなぜ……?
「……蓬莱の玉の枝はね、優曇華の花だったのよ」
「は?」
「だから、蓬莱の玉の枝は優曇華の花でもあるの。竹取物語の……どの本だったかしら、もしかしたら大陸だったかもしれない。そう、五つの難題のひとつは蓬莱の玉の枝じゃなくて、優曇華の花であるものもあるのよ」
「……はぁ。それはまた、意外な……しかし、どうして?」
「そんなこと知らないわ。私が知っているのは、優曇華の花と蓬莱の玉の枝、それぞれを所望したかぐや姫がいたという事実だけ。物語として面白くするための改変かもしれないし、ただの誤植かもしれない」
「ふむ……、なるほど」
「でもね、そんなことはどうでもいいの」
言って、初めて幽々子は初めて首を回し、妖忌を見た。彼女はいつもながらぼぅ、としたまなざしを、妖忌の双眸へと投げかける。
まるで舞い散る桜のようだ、と、妖忌は思った。
「ねぇ、妖忌。彼女は……誰なのかしら?」
「……蓬莱山、輝夜ですか?」
「ええ。……私はね、彼女は本物のかぐや姫だと確信しているわ。どうしてか、と言われれば困るけれど……ううん、でも、分かるのよ。彼女は本物だ、ということが。でも……」
「ならば、優曇華の花を愛した姫君はどこにいるのか。そういうことですか?」
「……ええ、そうよ」
蓬莱山輝夜は、本物のかぐや姫。だが、優曇華の花を求めたのも、また本物のかぐや姫。ならば、後者はどこにいるのか。どこに行ってしまったのか。
二人のかぐやは、確かに同一人物のはずだ。だが、かぐやはひとり、難題は五つ。この存在してしまった矛盾を解くことは、どんな難題よりも難しい。
ましてや、妖忌は生来頭脳労働には向かない性質だ。すぐに思考は袋小路に迷い込み、その口は重く閉ざされてしまった。
「ねぇ、妖忌。優曇華の姫君は、どこにいるのかしら」
「……分かりません。幽々子様は、分かるのですか?」
「そうねぇ……、分からないわ」
「……そうですか」
それっきり、幽々子はまた庭に、桜に視線を戻してしまった。夜闇に映える桜に桜、その中で唯一花を咲かせぬ巨大な桜。その代わりに青々と繁る葉は、見る者に生命の活力よりも寒々しさを覚えさせる。
季節外れの桜を、狂い桜と言うらしい。だが、咲かぬ桜もまた狂っているのではないだろうか。そして、それに目を奪われる者も、また。
「……でも、なんとなく分かるわ」
唐突に、そう、幽々子は呟いた。
「……ほう。お聞かせ願えますかな?」
「兎。彼女は、そこにいるのよ、きっと」
いつも通り、少なすぎる彼女の言葉。だが、察しの悪い妖忌であっても流石に分かる。兎とは、件の花の名を与えられた兎なのだろう。
もっとも、どうして彼女がそこにいるのか、そう考える幽々子の心にまでは理解が及ばないのだが。
「鈴仙・優曇華院・イナバ……彼女はね、きっと消えてしまったかぐや姫の悲鳴。消えたくない、忘れ去られたくないと言う彼女の叫び……ねぇ、妖忌。人々から忘れ去られた幻想が集う幻想郷、その中からすら忘れられてしまった幻想は……いったい、どこに行くのかしら?」
「……分かりません」
「そうね、分からない。分からないのよ……だから、怖いの。とても」
いつの間にか、幽々子の瞳はまた妖忌を射抜いていた。
確かにそれは射抜いていた。先ほどまでのぼぅ、とした視線ではなく、確かに意思を持った目だった。
そして同時に、すがりつくような……そんな、目だった。
「ねぇ、妖忌。あなたは、消えたりしないわよね?」
「……質問の意図が分かりかねますな。なぜ、そのようなことを?」
妖忌は、喉の奥によくわからないむずがゆさを感じていた。干上がった、と言うよりも、喉になにかが詰まったようなもどかしさを感じていた。
何かを言おうとしてその内容を忘れてしまったかのような、苛立ちがあった。幽々子の言わんとすることが分かるような、分からないような……そもそも、そこが気になる時点でおかしいのだ、ということに妖忌は気づいていなかった。
そのようなことは茶飯事で、気にも留めぬことであるはずなのに。
「幻想郷は……文字通り、忘れ去られた幻想によって形作られる世界。でも、それはやはり幻想。人の夢。不変であり続けるはずはなく、常に流動し続けている。だから、不安になるの……あなたが、消えるのではないかと」
「それは……それは、私の力が不足しているからでしょうか? 私の実力では、この幻想郷の妖物共に不覚をとる、と?」
「いいえ、そうではないわ。あなたの実力は、私もよく知っている。だけど……ねぇ、妖忌。私の名前は、西行寺なのよ」
言って、幽々子は困ったように微笑んだ。
「ねぇ、妖忌。私は、自分の正体も、どうしてあの桜に惹かれるのかも……なんとなく、だけど、おぼろげにだけど、分かっているつもりよ」
「……でしょうな。貴女は知識がないわけではなく、頭が働かないわけでもない」
「だから、私は大丈夫なの。幻想がはっきりとしているから、そうそう揺らいだりはしない……だけど妖忌、あなたは違うわ。あなたはただの魂魄よ、肉体と精神という二つの存在、それを体現しているだけの存在。幻想は揺らぎ易いわ……そして、幻想は女性となって安定する」
男は理性で生き、女は感情で生きる。
ならば、感情の赴くまま、野生のままに生きる妖怪は女性であろう。男性の妖怪は、人間的でない者が多い……それは、妖怪という野生の生き物の心と人間性という理性が合致しないからだ。もちろん、例外は存在するが。
ちら、と、幽々子は背後、母屋を見遣った。その視線の先には、一対のふすまが閉じている。
その向こうでは、彼女の予想が正しいならば、幼い妖夢が眠っているはずだった。魂魄の家の者として、西行寺に仕えるための修行をこなし、疲労困憊で眠りに就いた妖夢が。
妖忌の見る限りでは、その視線は慈愛に満ちたものだった。
「妖夢の誕生は、素晴らしいことだと思うの。これまであなたひとりでしていた門の番、庭の手入れ、食事の支度、その他雑用……正直、あなたを働かせ過ぎだとは思っていたわ。だから、将来的に彼女がその仕事をしてくれることであなたの負担が減るのなら、それはとてもいいことだな、って思ったの……最初は、ね」
「……今は、そうではないと?」
「そんなことはないわ。ただ、こうも思ってしまったのよ。……妖夢は、あなたの代わりなんじゃないかって。幻想郷という世界が生み出した、魂魄という幻想を確実化させるための存在なんじゃないかって……そしてあの娘が独り立ちした時に、あなたは消えてしまうんじゃないか? って」
ぎゅ、と、着流しの袖を幽々子が掴んだ。
剣術指南役も務めている妖忌は、幾度となく幽々子の手を握ったことがある。と言うのも彼女は剣についてはとんとだめなので、指南を始める度に握りから教えないといけないからだ。もっとも、剣術指南とは名ばかりであり、実態は普段運動不足の主人を無理やり運動させるためになんとか妖忌が考え出した軽い運動のようなものなので、それで問題があるわけではないのだが。
だが、今日の彼女の手の感触は、いつにも増して心細いものだった。まるで、今にも消え去りそうな程に。
対する妖忌は、無言。
幽々子の所作を止めるでもなく、ただ泰然とその場にあるのみ。その瞳からは、どんな感情も伺えない。
もとより、剣士とは……男とは、そういうものだ。
例えるならば、そう、
「枯れ木。あなた、永遠に枯れた桜みたいよ」
「咲かぬ桜に、意味はありません。このまま朽ち果てるのみでしょうな」
「……その桜を、私は咲かせてみたいのよ」
「それはなりません。許されざることです」
話はそれまで。
幽々子の手を振り払い──そう、それは穏やかな挙動ではあったものの、確かに『振り払う』という動作だった──さっと立ちあがった妖忌は、そのまま奥へと引っ込んでしまう。
残されたのは、幽々子ひとり。しばし妖忌を見送った後、桜へと振り返る。常のごとく、ぼう、とした面持ちで。
「──桜、咲かないかしらねぇ……」
ここは幻想郷。人に忘れ去られたものの集う、未明の地。
ここには、ガスの灯りも届かない。
次作を楽しみにしています。