「ねぇ霊夢、この部屋寒いわよ……熱いお茶はまだかしら?」
「あーもううるさいわね、今やってるでしょ? ごちゃごちゃ文句を言うくらいならずっと冬眠してたらよかったじゃない」
霊夢の抗議の声を、あくびをしながら聞き流しているのは八雲紫だった。神出鬼没の紫はずっと前から部屋の中にいたのだが、霊夢がそれに気付いたのは自分で飲むためのお茶を入れようと腰を上げたときに、「あ、私の分もお願いね」と後ろから不意に声をかけられたからだった。
人に断りもなく図々しいにもほどがあると霊夢は思ったが、そんなことをこのスキマ妖怪に対して言うのはあまりにも今更だった。不法侵入なんて言葉はここでは幻想に過ぎないのだ。
霊夢はお茶の準備を終えてお盆に載せた急須と湯のみを部屋に運ぶ。そこで初めて紫の姿を目視した。
紫は寒そうにコタツに入りながらその顎をコタツ机に載せている。その姿は見るからにだらけきっていた。
しかしそれも冬眠明けのこの時期なら毎度のことである。普段どおりの堂々と胡散臭い八雲紫に戻るには、もう少し時間が必要なのだ。
霊夢はコタツに入り、湯飲みにお茶を注ぎながら尋ねる。
「それで、一体私に何の用があるのよ?」
紫が訪ねてくるとき、それは何かと厄介ごとを一緒に連れてくる。
霊夢はそれを知っていて、だからこそ面倒臭そうにあれこれ文句をいいながら、それでも結局はこうしてお茶を出して紫を迎え入れる。
――八雲紫は妖怪である。
しかしその境界を操る力によって、この幻想郷という世界は成り立っているのだ。博麗の巫女である霊夢と、妖怪である紫。この二人がいなければ幻想郷という世界を維持することは出来ない。
そして紫は霊夢が生まれるよりもずっと昔から、歴代の博麗の巫女たちと共にこの幻想郷を守ってきた妖怪の賢者だった。普段はどうにも胡散臭くてこちらの都合など一切考慮しないわがままな妖怪だが、そういった意味では霊夢は彼女を信頼しているのだ。
霊夢が渡した湯飲みを手に取り、一口啜る。
「……ふぅ、温まるわ」
「それはいいから、用件があるなら――」
「――ないわ」
「は?」
「別に用事なんてないって言ったのよ? ……ただ、家でごろごろしていると藍が小言ばかりでうるさくて、ね」
だから逃げてきた――と。
「あんたねぇ……いや、別にいいわ」
色々と言いたいことはあったが、それも今更なのだ。
何か面倒なことが起きているのかと肩に力を入れていた霊夢は肩透かしを食らったような状態で、大きく一つため息をつく。そうして息を吐ききると肩に入っていた力も一緒に抜けていくようだった。
正面にいるだらけきった妖怪と同じような体勢で、霊夢もだらける。
「はぁ……何よ、全く。別に用がないなら最初にそう言いなさいよね……」
「だってそう言ったら霊夢、『用がないなら帰れ!』って怖い顔で怒るでしょう?」
「怒られるって分かってるなら最初から来なければいいのよ」
「だって、ふと霊夢の入れたお茶が飲みたくなったから……」
そういってもじもじとする紫。
――うん、似合わない。
霊夢はそう思いながら言う。
「あんた、さっき自分の式から逃げてきたって言ったばかりでしょうが」
――全く、このスキマ妖怪は嘘ばかりだ。
舌先三寸、口八丁、嘘八百。紫の言葉を真に受けても疲れるだけなのである。
「大体、自分の式に小言を言われる主ってどうなのよ?」
「別にいいじゃない。それだけ私の教育が良かったってことよ」
「だからって自分がだらけていることを正当化出来るわけじゃないでしょうに……」
と、だらけながら霊夢は言った。
「あ、霊夢。お茶のおかわり――」
「それくらい自分で入れなさいよ、全く……」
と言いながら、霊夢は急須を手にとって紫にお茶を注いだ。
「それを飲んだらさっさと帰ってよね」
「えー、別にいいじゃない。どうせ霊夢も暇なんでしょう? それならもっとじゃれ合いましょうよー」
そういって紫は唐突にスキマから手を伸ばす。標的は霊夢のわき腹だった。
「ちょっと、いきなりどこ触って、ってくすぐるな! あは、っ、こら、紫、やめ――」
「痛いわ、霊夢」
紫が頭を押さえながら言った。
霊夢は呆れながら口を開く。
「バカなことするからよ。……だいたいじゃれ合うにしても、そんなときまでスキマ使って手抜きするんじゃないわよ」
「あら、それならスキマを使わなかったらいいの?」
「………………」
「……ごめんなさい」
霊夢の無言の圧力と握りこぶしを前に、紫は意外なほど簡単に屈した。
「……全く、次やったら問答無用で叩き出すからね」
霊夢は嘆息しながら言った。
少し上がった息を整えて、お茶を飲む。紫のいたずらのせいで少し喉が渇いていたのだ。
――それにしても、本当に。
「――本当に、紫は一体何がしたいのよ。用がないならさっさと帰りなさいよ」
「だから霊夢とじゃれ合いたいって、そう言ってるでしょう?」
「そういうことじゃなくて、突然そんなことを思った理由を訊いてるのよ」
「別に、理由なんて――」
どうして紫が突然じゃれ合おうなんて、そんな意味の分からないことを言い出したのか。紫のことだから、もしかしたら何の理由もなく、ただ思いつきで行動しているだけなのかもしれない。冬眠明けだから、それは充分に考えられることだった。
けれど、ただ何となくだけれど、霊夢には紫が何かを意図してあんなことをしたような気がするのだ。
強いて理由を挙げるとするなら、それは違和感。
紫のその行動は不自然だった。何の脈絡もなく、ただ突然誰かを相手にじゃれ合うような、紫はそんなことをするような妖怪だっただろうか。
――よく考えると、そんな妖怪だったような気もする。
しかし、尋ねてしまったからには仕方がない。
「理由を言わないなら、あんたがスキマを使ってセクハラをする変態妖怪だって新聞屋にタレ込んでやる」
「あら、それは困るわね……。でも、本当に理由なんて大したことないのよ? ただ、霊夢とはこうしてバカみたいにじゃれ合った事が、ほとんどないなって思っただけでね」
「私とは……?」
その意味を考える。
紫は霊夢以外の人間や妖怪と、日頃からあんなことをしてじゃれ合っているような妖怪だっただろうか。
霊夢は普段の紫のことを詳しく知っているわけではないが、それでもそれは何か違うような気がした。
そうして思い至る、一つの事柄。
「もしかして、歴代の博麗の巫女?」
「………………」
紫は何も言わなかった。けれど、おそらくはそれが正解なのだろう。
「何、もしかして紫、昔からずっとセクハラしてきたの?」
「違うわよ。……ただ貴方が私のことを、意外なほどすんなりと受け入れてしまったでしょう?」
「別にすんなり受け入れてなんかないわよ。だからお茶飲み終わったらさっさと帰れって言ってるじゃない」
「まあ貴方の基準ならそうなのでしょうけど、ね――」
そこで言葉を区切って、お茶を一口啜る。
そうして手に持った湯のみを見つめながら呟くように言った。
「――ただ、今までの博麗の巫女は、私に対して『一度もお茶なんて出してくれたりしなかった』のよね」
「……ふーん。私は自分のことをそこそこ倹約家だと思ってたけど、まだまだってことね」
「いや、そういうことじゃないわよ」
少し呆れながら紫は続ける。
「もっと単純な話。――博麗の巫女の生業は《妖怪退治》で、私は《妖怪》なのよ」
「うん、知ってるけど……それが何?」
きょとんとした目で紫を見ている霊夢。
その意味を理解していない、というわけではないだろう。
ただそれが、霊夢の流儀なのだと、ただそれだけの話だった。
「貴方はそうでしょうね。元々私たちに負けない力もあるし、だからこそスペルカードルールも作ることができた。退治をするということが、今ではそれほど重い意味を持たない」
ただ、昔は違ったのだ。
退治するということ。
滅するということ。
それはつまり――殺すということ。
「私はね、霊夢。貴方のその余裕が怖いのよ。この曖昧な距離感が怖い。妖怪を憎むのではなく、かといって馴れ合うのでもない。最初はそれでもいいと思っていた。だってそれは、昔と比べたらずいぶんと楽だったから――」
「………………」
「――けれど、貴方は過去の巫女たちと、何もかもが違いすぎる。その強大な力も、その価値観も。だから私はね、霊夢……貴方が何を考えているのか、本当のところよく分からないのよ」
それは今までの巫女とは違うから。あまりにも違いすぎるから。
――だから紫は戸惑っている、と。
「…………ぷっ」
霊夢は笑った。
紫がおかしくて。冬眠明けとはいえ、あまりにも紫が紫らしくなさすぎて。
「何よ、笑うことはないでしょう?」
「どこが、笑い所しかないわよ。だって私は、博麗霊夢なのよ? 博麗の名を冠していても、私は霊夢なの。今までの巫女のことなんて、知らないわよ」
実際、面識なんてないのだ。
せいぜい先代の巫女に関して噂話を聞くことがある程度で、霊夢は過去の巫女のことなんてそれこそ何も知らないに等しかった。
「それとも何、私に先代みたいな巫女になって欲しいわけ?」
霊夢は少し苛立ちながら、けれどそれを必死に隠して言った。
そして紫は少し困った顔をする。
――それを見て、また少しだけ、苛立ってしまう。
「そういうつもりでは、ないわ。……ごめんなさいね、霊夢。変なことを言ってしまって――」
冬眠明けだからかな――と、そんなことを紫は言う。
けれど、そんなのは嘘だと霊夢は思った。
冬眠明けだとか、そんな話は一切合切関係なく。これは紫の心の奥深くに眠っていた思いなのだろう。
――八雲紫には、博麗霊夢が分からない。
それは過去の博麗の巫女と霊夢が、あまりにも違いすぎるから――本当に、そう思っているのだろうか。だとしたら、それこそ笑う他ないと、霊夢は思う。
「何謝ってるのよ、あんたらしくもない。でも、先代の巫女ねぇ……。私はよく知らないんだけど、私の前の巫女ってどんな人だったの?」
ふと、そんなことを尋ねる。
元々興味自体はあった。ただ今まで知る機会がなかったのだ。だからこれは、ある意味ではちょうどいい機会なのかも知れないと霊夢は思っていた。
「あら、霊夢がそんなことを知りたがるなんて意外だわ……前例なんて気にせず好き放題に巫女をやっているのに」
「別に今後の参考に、なんていう殊勝な考えは持ち合わせてないわよ。ただ何となく興味があるだけ。……先代のことくらい知っておいても損はないでしょう?」
「まあそれもそうね。知りたいというなら、それを拒む理由も確かにないわ。……そうねぇ。貴方と違ってあの子は、それこそクソが付くくらい真面目な子だったわ――」
紫は先代のことをあの子と呼んだ。どこか親しげで、何より懐かしがるように。
そうして語る紫の話を、霊夢はただ静かに聞いている。いきなり「お前は不真面目だ」と遠まわしに言われたことは、とりあえず置いておくことにした。
「――まず初対面の段階で、それはもう大変だったわね。さっきも言ったように、博麗の巫女の生業は《妖怪退治》で、私は《妖怪》だったから、あの子は私を問答無用で退治しようとしてきて、ね――」
――あなたが妖怪である以上、賢者であろうが何であろうが、私はただ退治するまでです。
「あの子は霊夢みたいに特別力が強い巫女ではなかったから、あしらうのは簡単だったのだけど、どうにもあしらい方が悪かったみたいでね。それ以来あの子は意地になってしまって、顔を合わせる度に退治しようとしてきたわ。まあそれは私にとってじゃれ合っているようなものだったのだけど、おかげで結界の維持のために協力してもらうのも一苦労だったわね」
昔話を語る紫の目は優しかった。そこに普段の胡散臭さはない。
「あの子は頑固で、意地っ張りで、決して自分の流儀を曲げたりしなかった。そういう部分はもしかしたら霊夢とも少し似ているかも知れないわ。あの子は力で私に劣ると分かっていながら、決して不意を打ったり罠にかけたりをしなかった。いつだって正々堂々で、目的のために手段を選ぶ人間だった」
霊夢と似ていると言われたが、そういうことは自分では分からないものだと思う。
紫がそういうなら、あるいはそうなのかも知れない。霊夢にとってはその程度の感覚でしかないのだ。
「考えていることが分かりやすい子だったんだけど……」
「……けど?」
霊夢は続きを促す。紫は少し悲しそうな顔をして、口を開いた。
「最期のとき、病床であの子は泣いていたの。どうして泣いたのか分からなくて、だから正直に訊いてみたら、『悔しい』って言うのよ。最初は私を退治出来なくて悔しいのかと思ったのだけど、実際は違っていてね――」
――あなたを退治出来なかったことが悔しいのではなくて、あなたを退治出来なくて良かったと、そう思ってしまうことが悔しいのです。
「妖怪退治の専門家が妖怪を退治出来ず、果てには妖怪の仕事を手伝う……真面目で職務に忠実だった彼女には、やっぱり少し無理を強いていたのでしょうね。けれどこの幻想郷を維持するためにはいつだって私と博麗の巫女の力が必要だった。だから幻想郷を守るために、私は彼女を利用した。力が足りず、自身の流儀に反して利用されるしか出来なかったあの子は、おそらくずっと我慢していたのでしょうね」
そんなことを紫は言った。紫の表情は、まるで子供に先立たれた母親のようだった。
霊夢には先代の気持ちが分かった。真面目で、職務に忠実で、流儀を決して曲げない頑固者。そんな彼女にとって、紫は退治すべき敵だった。
先代にとっての殺し合いが、けれど紫にとってはじゃれ合いに等しかった。それは真面目な彼女にとって紫の言うように、あるいは屈辱だったのかも知れない。しかし何より、じゃれ合いのような殺し合いのなかで互いの心を理解していくうちに、彼女は受け入れてしまったのだ。
――八雲紫という、《妖怪》の存在を。
それは彼女にとって、自身の流儀に反することに違いない。
けれどそう思ってしまう心は、すでにどうしようもなかった。
――確かに、悔しいだろう。
霊夢はそう思った。
「へぇ……紫って、先代にはずいぶんと優しかったみたいね。『あの子』って呼ぶときなんか、まるで母親みたいだったわよ?」
霊夢は少しからかうような口調でそう言った。
しかし――。
「あら、もしかして霊夢……妬いてるの?」
「だ、誰が妬くか!」
あまりにも意表をついた返しに、霊夢は一瞬取り乱してしまう。
事実はどうあれ、これでは霊夢の負けだった。
「ふふ、嫉妬してる霊夢なんて初めて見るけど、意外とかわいいわねー」
そういって紫はスキマから手を出して霊夢の頭を撫でた。
「だから妬いてないってば! というか頭撫でるときまで手抜きしてるんじゃないわよ、っていうか撫でるな!」
段々と、普段の胡散臭さが紫に戻ってきているような気がした。
「痛いわ、霊夢」
きつくつねられた手の甲を押さえながら、紫が文句を言う。
「知らないわよ、そんなの」
霊夢は呆れた口調でそう言った。
「………………」
「………………」
「………………」
「…………ねぇ、紫」
「何かしら?」
「あんた、先代のこと、どう思ってたの?」
「どうって……好きだったわよ。真面目で、少し融通は利かなかったけど、そんなところも含めて、あの子のことを気に入っていたわ」
「……それじゃあ、私のことは?」
「そうねぇ……霊夢は、正直よく分からないけど、それでも今までの誰よりも、見ていて面白いことは確かね」
「何よそれ……見物料とるわよ?」
「ふふ、それは困りますわ」
霊夢は紫に適当にはぐらかされたような気がした。
あるいはこのままでも良かったのかも知れない。別にこのままで、何か困ることがあるわけでもなかった。
それでもどうしてだろう、今の霊夢は、それが知りたくて仕方がなかった。
――だから正直に尋ねた。
「ねえ紫……私のこと、好き?」
紫は答えた。
「……好きよ。今までの誰よりも、今ここにいる貴方のことが一番、ね」
――紫らしい答えだと思った。
「……嘘ばっかり。どうせ毎回そういって、今までの巫女全員に『貴方が一番よー』とか適当なことを言って口説いてきたんでしょ?」
「さぁ……それはどうでしょう?」
にやりと、いやらしく笑って見せる紫。
――そうしてはぐらかして、このままいつもどおりスキマに消えてくれれば良かったのに。
こちらの思い通りには、決して動いてくれないのが八雲紫だった。
「――でもね、霊夢。過去の思い出より、今、この瞬間こそが何よりも大切だっていうのは私の本心よ」
そんなことを、唐突に言う紫。
それは当たり前のようなことで、それ故に残酷な言葉でもあった。
「……つまり、私のこともいつかは、思い出に変わるってこと?」
――次の巫女に代替わりしたら、その巫女が紫にとっての一番になる。
つまりは、そういうことでもあった。
星がきらめく一瞬に人間は生まれ、そして消えていく。
それはこの世の摂理で、だからこそどうしようもないことだった。
そしてそんなことは霊夢にも分かっていて、分かりきっていて。
だから本来は尋ねなくてもよかったはずのことで――けれど、気付けば尋ねていたのだ。
そして、紫は答える。
「――否定をしても、それが嘘だと貴方には分かってしまうのでしょう?」
――ああ。
――どうして紫は。
――こんなときだけ、胡散臭くいてくれないのだ。
――上手くはぐらかして、煙に巻いてくれないのだ。
――どうしてこんなときだけ、正直者なのだ。
そんなことを思いながら、けれど霊夢は何故か、紫はきっとそう答えるだろうと確信していた。
霊夢は紫のことを知っている。知っていて、信頼していて、だからこそ――。
――博麗霊夢は、八雲紫のことが好きなのだと、確信を持って言えるのだ。
紫は霊夢の考えていることが分からないといったけれど、そんなのは当たり前のことだった。
考えていることが分かりやすいといった先代の巫女に関してさえ、その好意に気付くことの出来なかった鈍感が、まさか霊夢の気持ちに気付けるはずもないのだから。
――だから、笑うしかない。
どこか呆れたような笑みを浮かべて、霊夢は口を開く。
「まあ、どうでもいいけどね。自分の死んだ後のことなんて、考えても仕方ないし」
霊夢にとってそれは、必ずしも強がりではなかったけれど、しかし決して本心からの言葉でもなかった。
「ふふ、貴方ならそう言うと思ったわ」
――ただそれは、紫の信頼に応えるための言葉だった。
紫が好きだと言った博麗霊夢は、きっとそう答えるはずだから――。
ふと、紫がコタツから出て立ち上がる。
「さて、それじゃあそろそろ帰るとしようかしら」
帰れといってもなかなか帰ろうとしない紫だが、帰るときは実にあっさりとしている。
背中を向けて最後に一言、紫は肩越しに言った。
「……ありがとう、霊夢」
それだけを言うと、紫はスキマの向こうへと消えていった。
――全く、紫はわがままにも程がある。
そんなことを思うのも今更だと霊夢は思う。
「……何がありがとう、よ」
――これでは自分がバカみたいではないか。
八雲紫という妖怪は、本当に胡散臭くてつかみどころがない。
どこまで分かっていて、何が分かっていないのか。
彼女はそんな境界さえ曖昧にしたまま去っていく。
自分の死んだ後のことを考えても仕方がないと、そう答えた霊夢の意図はおそらくお見通しだったのだろう。だからこその「ありがとう」だったに違いない。
それならば、はたして霊夢の本当の気持ちは、どうなのだろうか?
――紫はそれに気付いているのだろうか。
霊夢にはそれが分からなかった。紫が本当に鈍感なのか、それさえも今では疑わしく思えてしまう。
先代が悔しいといって流した涙の意味を、今でも紫は本当に理解していないのだろうか。
職務に忠実で、真面目で、流儀を曲げない頑固者。先代はそうであったが故に、自身の気持ちを押し殺さざるを得なかった。そしてその気持ちを最後まで打ち明けられなかったことを後悔して、涙した。
――先代はきっと、八雲紫のことが好きだった。
紫は本当に、そのことに気付かなかったのだろうか。
霊夢は思う。
あるいは紫こそが妖怪の賢者として、自身の気持ちを押し殺し続けてきたのではないだろうか――。
「――やめよう。どうせこんなの、推測にしかならないわ」
そう呟くと、霊夢は湯飲みに残ったお茶を飲み干す。
昔のことも、自分が死んだ後のことも、今霊夢が考えたところでどうしようもないことであるのは事実だった。それなら考えるだけ無駄だろうと霊夢は思う。
そう開き直ると、思考がどんどんとクリアになっていくのを感じた。
――そうだ。
元々、理屈であれこれ考えるのは霊夢の流儀ではない。感覚の赴くまま、自分の勘を信じて、やりたいことをやりたいときにやりたいだけやるのが博麗霊夢のスタイルだった。
「そうよ。私の気持ちを紫が知っていようが知っていまいが、それで私の何が変わるわけでもないじゃない」
そう思ってしまえば、楽だった。
――自分は博麗霊夢なのだ。
自分は自分以外の何者でもない。そして、自分のやりたいように生きるのが博麗霊夢ならば――。
――今やるべきことは、一つだった。
霊夢はコタツから出て、小走りで家の中を駆けて、雨戸を全力で開け放つ。
まだ少し冷たい風が霊夢に吹き付けるが、そんなことは気にならない。
さらさらと前髪が揺れ、ふわりとリボンが流れる。
霊夢は大きく息を吸い込むと、雨戸の外に向けて思いっきり叫んだ――。
「――紫の、バーーーーーーカ!」
「あーもううるさいわね、今やってるでしょ? ごちゃごちゃ文句を言うくらいならずっと冬眠してたらよかったじゃない」
霊夢の抗議の声を、あくびをしながら聞き流しているのは八雲紫だった。神出鬼没の紫はずっと前から部屋の中にいたのだが、霊夢がそれに気付いたのは自分で飲むためのお茶を入れようと腰を上げたときに、「あ、私の分もお願いね」と後ろから不意に声をかけられたからだった。
人に断りもなく図々しいにもほどがあると霊夢は思ったが、そんなことをこのスキマ妖怪に対して言うのはあまりにも今更だった。不法侵入なんて言葉はここでは幻想に過ぎないのだ。
霊夢はお茶の準備を終えてお盆に載せた急須と湯のみを部屋に運ぶ。そこで初めて紫の姿を目視した。
紫は寒そうにコタツに入りながらその顎をコタツ机に載せている。その姿は見るからにだらけきっていた。
しかしそれも冬眠明けのこの時期なら毎度のことである。普段どおりの堂々と胡散臭い八雲紫に戻るには、もう少し時間が必要なのだ。
霊夢はコタツに入り、湯飲みにお茶を注ぎながら尋ねる。
「それで、一体私に何の用があるのよ?」
紫が訪ねてくるとき、それは何かと厄介ごとを一緒に連れてくる。
霊夢はそれを知っていて、だからこそ面倒臭そうにあれこれ文句をいいながら、それでも結局はこうしてお茶を出して紫を迎え入れる。
――八雲紫は妖怪である。
しかしその境界を操る力によって、この幻想郷という世界は成り立っているのだ。博麗の巫女である霊夢と、妖怪である紫。この二人がいなければ幻想郷という世界を維持することは出来ない。
そして紫は霊夢が生まれるよりもずっと昔から、歴代の博麗の巫女たちと共にこの幻想郷を守ってきた妖怪の賢者だった。普段はどうにも胡散臭くてこちらの都合など一切考慮しないわがままな妖怪だが、そういった意味では霊夢は彼女を信頼しているのだ。
霊夢が渡した湯飲みを手に取り、一口啜る。
「……ふぅ、温まるわ」
「それはいいから、用件があるなら――」
「――ないわ」
「は?」
「別に用事なんてないって言ったのよ? ……ただ、家でごろごろしていると藍が小言ばかりでうるさくて、ね」
だから逃げてきた――と。
「あんたねぇ……いや、別にいいわ」
色々と言いたいことはあったが、それも今更なのだ。
何か面倒なことが起きているのかと肩に力を入れていた霊夢は肩透かしを食らったような状態で、大きく一つため息をつく。そうして息を吐ききると肩に入っていた力も一緒に抜けていくようだった。
正面にいるだらけきった妖怪と同じような体勢で、霊夢もだらける。
「はぁ……何よ、全く。別に用がないなら最初にそう言いなさいよね……」
「だってそう言ったら霊夢、『用がないなら帰れ!』って怖い顔で怒るでしょう?」
「怒られるって分かってるなら最初から来なければいいのよ」
「だって、ふと霊夢の入れたお茶が飲みたくなったから……」
そういってもじもじとする紫。
――うん、似合わない。
霊夢はそう思いながら言う。
「あんた、さっき自分の式から逃げてきたって言ったばかりでしょうが」
――全く、このスキマ妖怪は嘘ばかりだ。
舌先三寸、口八丁、嘘八百。紫の言葉を真に受けても疲れるだけなのである。
「大体、自分の式に小言を言われる主ってどうなのよ?」
「別にいいじゃない。それだけ私の教育が良かったってことよ」
「だからって自分がだらけていることを正当化出来るわけじゃないでしょうに……」
と、だらけながら霊夢は言った。
「あ、霊夢。お茶のおかわり――」
「それくらい自分で入れなさいよ、全く……」
と言いながら、霊夢は急須を手にとって紫にお茶を注いだ。
「それを飲んだらさっさと帰ってよね」
「えー、別にいいじゃない。どうせ霊夢も暇なんでしょう? それならもっとじゃれ合いましょうよー」
そういって紫は唐突にスキマから手を伸ばす。標的は霊夢のわき腹だった。
「ちょっと、いきなりどこ触って、ってくすぐるな! あは、っ、こら、紫、やめ――」
「痛いわ、霊夢」
紫が頭を押さえながら言った。
霊夢は呆れながら口を開く。
「バカなことするからよ。……だいたいじゃれ合うにしても、そんなときまでスキマ使って手抜きするんじゃないわよ」
「あら、それならスキマを使わなかったらいいの?」
「………………」
「……ごめんなさい」
霊夢の無言の圧力と握りこぶしを前に、紫は意外なほど簡単に屈した。
「……全く、次やったら問答無用で叩き出すからね」
霊夢は嘆息しながら言った。
少し上がった息を整えて、お茶を飲む。紫のいたずらのせいで少し喉が渇いていたのだ。
――それにしても、本当に。
「――本当に、紫は一体何がしたいのよ。用がないならさっさと帰りなさいよ」
「だから霊夢とじゃれ合いたいって、そう言ってるでしょう?」
「そういうことじゃなくて、突然そんなことを思った理由を訊いてるのよ」
「別に、理由なんて――」
どうして紫が突然じゃれ合おうなんて、そんな意味の分からないことを言い出したのか。紫のことだから、もしかしたら何の理由もなく、ただ思いつきで行動しているだけなのかもしれない。冬眠明けだから、それは充分に考えられることだった。
けれど、ただ何となくだけれど、霊夢には紫が何かを意図してあんなことをしたような気がするのだ。
強いて理由を挙げるとするなら、それは違和感。
紫のその行動は不自然だった。何の脈絡もなく、ただ突然誰かを相手にじゃれ合うような、紫はそんなことをするような妖怪だっただろうか。
――よく考えると、そんな妖怪だったような気もする。
しかし、尋ねてしまったからには仕方がない。
「理由を言わないなら、あんたがスキマを使ってセクハラをする変態妖怪だって新聞屋にタレ込んでやる」
「あら、それは困るわね……。でも、本当に理由なんて大したことないのよ? ただ、霊夢とはこうしてバカみたいにじゃれ合った事が、ほとんどないなって思っただけでね」
「私とは……?」
その意味を考える。
紫は霊夢以外の人間や妖怪と、日頃からあんなことをしてじゃれ合っているような妖怪だっただろうか。
霊夢は普段の紫のことを詳しく知っているわけではないが、それでもそれは何か違うような気がした。
そうして思い至る、一つの事柄。
「もしかして、歴代の博麗の巫女?」
「………………」
紫は何も言わなかった。けれど、おそらくはそれが正解なのだろう。
「何、もしかして紫、昔からずっとセクハラしてきたの?」
「違うわよ。……ただ貴方が私のことを、意外なほどすんなりと受け入れてしまったでしょう?」
「別にすんなり受け入れてなんかないわよ。だからお茶飲み終わったらさっさと帰れって言ってるじゃない」
「まあ貴方の基準ならそうなのでしょうけど、ね――」
そこで言葉を区切って、お茶を一口啜る。
そうして手に持った湯のみを見つめながら呟くように言った。
「――ただ、今までの博麗の巫女は、私に対して『一度もお茶なんて出してくれたりしなかった』のよね」
「……ふーん。私は自分のことをそこそこ倹約家だと思ってたけど、まだまだってことね」
「いや、そういうことじゃないわよ」
少し呆れながら紫は続ける。
「もっと単純な話。――博麗の巫女の生業は《妖怪退治》で、私は《妖怪》なのよ」
「うん、知ってるけど……それが何?」
きょとんとした目で紫を見ている霊夢。
その意味を理解していない、というわけではないだろう。
ただそれが、霊夢の流儀なのだと、ただそれだけの話だった。
「貴方はそうでしょうね。元々私たちに負けない力もあるし、だからこそスペルカードルールも作ることができた。退治をするということが、今ではそれほど重い意味を持たない」
ただ、昔は違ったのだ。
退治するということ。
滅するということ。
それはつまり――殺すということ。
「私はね、霊夢。貴方のその余裕が怖いのよ。この曖昧な距離感が怖い。妖怪を憎むのではなく、かといって馴れ合うのでもない。最初はそれでもいいと思っていた。だってそれは、昔と比べたらずいぶんと楽だったから――」
「………………」
「――けれど、貴方は過去の巫女たちと、何もかもが違いすぎる。その強大な力も、その価値観も。だから私はね、霊夢……貴方が何を考えているのか、本当のところよく分からないのよ」
それは今までの巫女とは違うから。あまりにも違いすぎるから。
――だから紫は戸惑っている、と。
「…………ぷっ」
霊夢は笑った。
紫がおかしくて。冬眠明けとはいえ、あまりにも紫が紫らしくなさすぎて。
「何よ、笑うことはないでしょう?」
「どこが、笑い所しかないわよ。だって私は、博麗霊夢なのよ? 博麗の名を冠していても、私は霊夢なの。今までの巫女のことなんて、知らないわよ」
実際、面識なんてないのだ。
せいぜい先代の巫女に関して噂話を聞くことがある程度で、霊夢は過去の巫女のことなんてそれこそ何も知らないに等しかった。
「それとも何、私に先代みたいな巫女になって欲しいわけ?」
霊夢は少し苛立ちながら、けれどそれを必死に隠して言った。
そして紫は少し困った顔をする。
――それを見て、また少しだけ、苛立ってしまう。
「そういうつもりでは、ないわ。……ごめんなさいね、霊夢。変なことを言ってしまって――」
冬眠明けだからかな――と、そんなことを紫は言う。
けれど、そんなのは嘘だと霊夢は思った。
冬眠明けだとか、そんな話は一切合切関係なく。これは紫の心の奥深くに眠っていた思いなのだろう。
――八雲紫には、博麗霊夢が分からない。
それは過去の博麗の巫女と霊夢が、あまりにも違いすぎるから――本当に、そう思っているのだろうか。だとしたら、それこそ笑う他ないと、霊夢は思う。
「何謝ってるのよ、あんたらしくもない。でも、先代の巫女ねぇ……。私はよく知らないんだけど、私の前の巫女ってどんな人だったの?」
ふと、そんなことを尋ねる。
元々興味自体はあった。ただ今まで知る機会がなかったのだ。だからこれは、ある意味ではちょうどいい機会なのかも知れないと霊夢は思っていた。
「あら、霊夢がそんなことを知りたがるなんて意外だわ……前例なんて気にせず好き放題に巫女をやっているのに」
「別に今後の参考に、なんていう殊勝な考えは持ち合わせてないわよ。ただ何となく興味があるだけ。……先代のことくらい知っておいても損はないでしょう?」
「まあそれもそうね。知りたいというなら、それを拒む理由も確かにないわ。……そうねぇ。貴方と違ってあの子は、それこそクソが付くくらい真面目な子だったわ――」
紫は先代のことをあの子と呼んだ。どこか親しげで、何より懐かしがるように。
そうして語る紫の話を、霊夢はただ静かに聞いている。いきなり「お前は不真面目だ」と遠まわしに言われたことは、とりあえず置いておくことにした。
「――まず初対面の段階で、それはもう大変だったわね。さっきも言ったように、博麗の巫女の生業は《妖怪退治》で、私は《妖怪》だったから、あの子は私を問答無用で退治しようとしてきて、ね――」
――あなたが妖怪である以上、賢者であろうが何であろうが、私はただ退治するまでです。
「あの子は霊夢みたいに特別力が強い巫女ではなかったから、あしらうのは簡単だったのだけど、どうにもあしらい方が悪かったみたいでね。それ以来あの子は意地になってしまって、顔を合わせる度に退治しようとしてきたわ。まあそれは私にとってじゃれ合っているようなものだったのだけど、おかげで結界の維持のために協力してもらうのも一苦労だったわね」
昔話を語る紫の目は優しかった。そこに普段の胡散臭さはない。
「あの子は頑固で、意地っ張りで、決して自分の流儀を曲げたりしなかった。そういう部分はもしかしたら霊夢とも少し似ているかも知れないわ。あの子は力で私に劣ると分かっていながら、決して不意を打ったり罠にかけたりをしなかった。いつだって正々堂々で、目的のために手段を選ぶ人間だった」
霊夢と似ていると言われたが、そういうことは自分では分からないものだと思う。
紫がそういうなら、あるいはそうなのかも知れない。霊夢にとってはその程度の感覚でしかないのだ。
「考えていることが分かりやすい子だったんだけど……」
「……けど?」
霊夢は続きを促す。紫は少し悲しそうな顔をして、口を開いた。
「最期のとき、病床であの子は泣いていたの。どうして泣いたのか分からなくて、だから正直に訊いてみたら、『悔しい』って言うのよ。最初は私を退治出来なくて悔しいのかと思ったのだけど、実際は違っていてね――」
――あなたを退治出来なかったことが悔しいのではなくて、あなたを退治出来なくて良かったと、そう思ってしまうことが悔しいのです。
「妖怪退治の専門家が妖怪を退治出来ず、果てには妖怪の仕事を手伝う……真面目で職務に忠実だった彼女には、やっぱり少し無理を強いていたのでしょうね。けれどこの幻想郷を維持するためにはいつだって私と博麗の巫女の力が必要だった。だから幻想郷を守るために、私は彼女を利用した。力が足りず、自身の流儀に反して利用されるしか出来なかったあの子は、おそらくずっと我慢していたのでしょうね」
そんなことを紫は言った。紫の表情は、まるで子供に先立たれた母親のようだった。
霊夢には先代の気持ちが分かった。真面目で、職務に忠実で、流儀を決して曲げない頑固者。そんな彼女にとって、紫は退治すべき敵だった。
先代にとっての殺し合いが、けれど紫にとってはじゃれ合いに等しかった。それは真面目な彼女にとって紫の言うように、あるいは屈辱だったのかも知れない。しかし何より、じゃれ合いのような殺し合いのなかで互いの心を理解していくうちに、彼女は受け入れてしまったのだ。
――八雲紫という、《妖怪》の存在を。
それは彼女にとって、自身の流儀に反することに違いない。
けれどそう思ってしまう心は、すでにどうしようもなかった。
――確かに、悔しいだろう。
霊夢はそう思った。
「へぇ……紫って、先代にはずいぶんと優しかったみたいね。『あの子』って呼ぶときなんか、まるで母親みたいだったわよ?」
霊夢は少しからかうような口調でそう言った。
しかし――。
「あら、もしかして霊夢……妬いてるの?」
「だ、誰が妬くか!」
あまりにも意表をついた返しに、霊夢は一瞬取り乱してしまう。
事実はどうあれ、これでは霊夢の負けだった。
「ふふ、嫉妬してる霊夢なんて初めて見るけど、意外とかわいいわねー」
そういって紫はスキマから手を出して霊夢の頭を撫でた。
「だから妬いてないってば! というか頭撫でるときまで手抜きしてるんじゃないわよ、っていうか撫でるな!」
段々と、普段の胡散臭さが紫に戻ってきているような気がした。
「痛いわ、霊夢」
きつくつねられた手の甲を押さえながら、紫が文句を言う。
「知らないわよ、そんなの」
霊夢は呆れた口調でそう言った。
「………………」
「………………」
「………………」
「…………ねぇ、紫」
「何かしら?」
「あんた、先代のこと、どう思ってたの?」
「どうって……好きだったわよ。真面目で、少し融通は利かなかったけど、そんなところも含めて、あの子のことを気に入っていたわ」
「……それじゃあ、私のことは?」
「そうねぇ……霊夢は、正直よく分からないけど、それでも今までの誰よりも、見ていて面白いことは確かね」
「何よそれ……見物料とるわよ?」
「ふふ、それは困りますわ」
霊夢は紫に適当にはぐらかされたような気がした。
あるいはこのままでも良かったのかも知れない。別にこのままで、何か困ることがあるわけでもなかった。
それでもどうしてだろう、今の霊夢は、それが知りたくて仕方がなかった。
――だから正直に尋ねた。
「ねえ紫……私のこと、好き?」
紫は答えた。
「……好きよ。今までの誰よりも、今ここにいる貴方のことが一番、ね」
――紫らしい答えだと思った。
「……嘘ばっかり。どうせ毎回そういって、今までの巫女全員に『貴方が一番よー』とか適当なことを言って口説いてきたんでしょ?」
「さぁ……それはどうでしょう?」
にやりと、いやらしく笑って見せる紫。
――そうしてはぐらかして、このままいつもどおりスキマに消えてくれれば良かったのに。
こちらの思い通りには、決して動いてくれないのが八雲紫だった。
「――でもね、霊夢。過去の思い出より、今、この瞬間こそが何よりも大切だっていうのは私の本心よ」
そんなことを、唐突に言う紫。
それは当たり前のようなことで、それ故に残酷な言葉でもあった。
「……つまり、私のこともいつかは、思い出に変わるってこと?」
――次の巫女に代替わりしたら、その巫女が紫にとっての一番になる。
つまりは、そういうことでもあった。
星がきらめく一瞬に人間は生まれ、そして消えていく。
それはこの世の摂理で、だからこそどうしようもないことだった。
そしてそんなことは霊夢にも分かっていて、分かりきっていて。
だから本来は尋ねなくてもよかったはずのことで――けれど、気付けば尋ねていたのだ。
そして、紫は答える。
「――否定をしても、それが嘘だと貴方には分かってしまうのでしょう?」
――ああ。
――どうして紫は。
――こんなときだけ、胡散臭くいてくれないのだ。
――上手くはぐらかして、煙に巻いてくれないのだ。
――どうしてこんなときだけ、正直者なのだ。
そんなことを思いながら、けれど霊夢は何故か、紫はきっとそう答えるだろうと確信していた。
霊夢は紫のことを知っている。知っていて、信頼していて、だからこそ――。
――博麗霊夢は、八雲紫のことが好きなのだと、確信を持って言えるのだ。
紫は霊夢の考えていることが分からないといったけれど、そんなのは当たり前のことだった。
考えていることが分かりやすいといった先代の巫女に関してさえ、その好意に気付くことの出来なかった鈍感が、まさか霊夢の気持ちに気付けるはずもないのだから。
――だから、笑うしかない。
どこか呆れたような笑みを浮かべて、霊夢は口を開く。
「まあ、どうでもいいけどね。自分の死んだ後のことなんて、考えても仕方ないし」
霊夢にとってそれは、必ずしも強がりではなかったけれど、しかし決して本心からの言葉でもなかった。
「ふふ、貴方ならそう言うと思ったわ」
――ただそれは、紫の信頼に応えるための言葉だった。
紫が好きだと言った博麗霊夢は、きっとそう答えるはずだから――。
ふと、紫がコタツから出て立ち上がる。
「さて、それじゃあそろそろ帰るとしようかしら」
帰れといってもなかなか帰ろうとしない紫だが、帰るときは実にあっさりとしている。
背中を向けて最後に一言、紫は肩越しに言った。
「……ありがとう、霊夢」
それだけを言うと、紫はスキマの向こうへと消えていった。
――全く、紫はわがままにも程がある。
そんなことを思うのも今更だと霊夢は思う。
「……何がありがとう、よ」
――これでは自分がバカみたいではないか。
八雲紫という妖怪は、本当に胡散臭くてつかみどころがない。
どこまで分かっていて、何が分かっていないのか。
彼女はそんな境界さえ曖昧にしたまま去っていく。
自分の死んだ後のことを考えても仕方がないと、そう答えた霊夢の意図はおそらくお見通しだったのだろう。だからこその「ありがとう」だったに違いない。
それならば、はたして霊夢の本当の気持ちは、どうなのだろうか?
――紫はそれに気付いているのだろうか。
霊夢にはそれが分からなかった。紫が本当に鈍感なのか、それさえも今では疑わしく思えてしまう。
先代が悔しいといって流した涙の意味を、今でも紫は本当に理解していないのだろうか。
職務に忠実で、真面目で、流儀を曲げない頑固者。先代はそうであったが故に、自身の気持ちを押し殺さざるを得なかった。そしてその気持ちを最後まで打ち明けられなかったことを後悔して、涙した。
――先代はきっと、八雲紫のことが好きだった。
紫は本当に、そのことに気付かなかったのだろうか。
霊夢は思う。
あるいは紫こそが妖怪の賢者として、自身の気持ちを押し殺し続けてきたのではないだろうか――。
「――やめよう。どうせこんなの、推測にしかならないわ」
そう呟くと、霊夢は湯飲みに残ったお茶を飲み干す。
昔のことも、自分が死んだ後のことも、今霊夢が考えたところでどうしようもないことであるのは事実だった。それなら考えるだけ無駄だろうと霊夢は思う。
そう開き直ると、思考がどんどんとクリアになっていくのを感じた。
――そうだ。
元々、理屈であれこれ考えるのは霊夢の流儀ではない。感覚の赴くまま、自分の勘を信じて、やりたいことをやりたいときにやりたいだけやるのが博麗霊夢のスタイルだった。
「そうよ。私の気持ちを紫が知っていようが知っていまいが、それで私の何が変わるわけでもないじゃない」
そう思ってしまえば、楽だった。
――自分は博麗霊夢なのだ。
自分は自分以外の何者でもない。そして、自分のやりたいように生きるのが博麗霊夢ならば――。
――今やるべきことは、一つだった。
霊夢はコタツから出て、小走りで家の中を駆けて、雨戸を全力で開け放つ。
まだ少し冷たい風が霊夢に吹き付けるが、そんなことは気にならない。
さらさらと前髪が揺れ、ふわりとリボンが流れる。
霊夢は大きく息を吸い込むと、雨戸の外に向けて思いっきり叫んだ――。
「――紫の、バーーーーーーカ!」
GJ!
だからこそ尊い。
素晴らしき、ゆかれいむ。
人間と妖怪でありながらお互いに必要としているという関係が
霊夢の心情によく出ていました。
紫は霊夢のことをどう思っているんだろうなぁ。
それはいつの日か、今まで紫が押し殺してきた気持ちに、霊夢は踏み込んでくるかも知れないから。
切ない雰囲気の中でも、今を楽しく生きようとする二人が魅力的でした。
最後の霊夢の叫びは紫に届くのだろうか
霊夢の若さは感じ取れた。