「お姉ちゃん、いる? いるよね」
こいしが姉の部屋のドアを勝手に開けると、さとりはふとんに頭まですっぽりとうずくまっていた。
「まだへこんでるの? どうなのー?」
こいしはふとんの上からさとりを踏みつける。もぞつくばかりでいい反応が返ってこない。どうやらまだへこんでいるらしかった。
見回すと、ぬいぐるみや人形が山のように転がっている。姉は寂しがりなのだとこいしは思う。山は日毎に大きくなるから、もうずっと寂しいらしい。
「まったくすごいよね。もう何日も部屋にこもりきりなんて、並の妖怪にできることじゃないよ」
「業務に支障はないわ」とさとりはくぐもった声で答える。
「無駄な労力を使いたくないのよ」
「ふうん、そんならそれでいいけどさ」
こいしは踏みつけるのをやめて、ふとんのはしっこを持ち上げ、するりと中に入り込んだ。
「うわ、ぬくい……姉くさい……」
「出ていきなさい」とさとりは抵抗するが、あんまり長くふとんの中で寝っ転がっていたので、うまく力が入らない。
「おおよしよし、寂しいねぇ」とこいしは姉にまとわりつく。さとりはしんなりした薄紫のパジャマを着て、苦々しい顔を隠そうともしなかった。
「私は寂しくなどありません。勝手に人の内面を想像して憐れむなんて、品がよくないわよ」
「私は寂しがりのお姉ちゃんが好きだから、寂しがってればいいんだよ」とこいしは答え、姉の目玉をくすぐった。
こいしがサトリをやめてよかったと思うことはたくさんあるが、その中でも、「相手の心情を想像して、その想像通りに接する」という楽しみが生まれたことは格別だった。例えば、「この巫女はお腹が空いているかわいそうな巫女なんだな」と思ったら、たくさん食べ物を寄せ集めて、持っていってあげる。巫女がどんなにお腹がいっぱいで、渋そうな顔をしても、知ったことではない。だって、人の内面は、表情を見ても、言葉を聞いても、それだけで確かなものにはならないからだ。
「ほんとはもっと欲しいけど、強欲と思われるのも嫌だから遠慮してるんだな」
と思ってしまえば、否定しきれる材料はない。
想像を大事にすれば、相手のことを気にせずに、相手のことを思いやれる。
どんな相手にも想像と実物の「二人」がいて、その二人の間のギャップを見つけていくことこそが、サトリの身では絶対に楽しめなかった遊びなのである。
姉にとって妹は一人だけれど、妹にとって姉は二人いる。
ほら、一人増えたと姉に言ったら、寂しがりな方の姉は、喜んでくれることだろう。
「寂しいお姉ちゃんがなんで塞ぎこんでいるのか、当ててあげようか?」
「くだらない」
「じゃあ当たったら私の言うこと一つ聞いてね」
「当たらないから聞きません」
「聖徳太子」
とこいしが言うと、さとりは寝汗を掻いた背中を向けた。
「やっぱりねぇ」とこいしは笑う。「やっぱり聖徳太子のこと気にしてたんだ」
「関係ないわ」とさとりは言う。
「お燐がさ、言ってたよ」とこいしは笑う。
「お姉ちゃんに聖徳太子の話題を振ると不機嫌になるんだって」
「……なってない」
「なってるよぉ」こいしはおかしくてたまらなかった。
「太子さまはさ、相手のどんな望みでも読み取れて、ささっとお助けできちゃうんだってね。お腹が空いたらご飯をあげよう、喉が乾けばお水をあげよう。ね、ペットとか飼うのに便利そうな能力だよね?」
「……そうね」とさとりは背中を向けたまま答える。
「お姉ちゃんペット飼うの好きだよね?」
「それが何か?」
「べつに。どんな気持ちかなって。自分と似たような能力を持ってるみんなの人気者を、日陰者のサトリが見知ったらどんな気持ちになるのかなぁって、思っただけだよ?」
「……」
「ね、だから、お姉ちゃんは寂しいんだよ。そうだよね?」
「寂しくなんてない」とさとりは体を丸めて言った。
「寂しくなんてないったら」
○
翌日、博麗神社。
博麗霊夢はこたつの中でだらだらしていた。他にすることもなかったが、強いて言うならこいしを待っていた。
ここ数日やたらと食べ物や生活必需品を持ってくるのだ。それどころか料理までしてくれる。何故か「霊夢はいつもお腹を空かせている」と思い込んでいるらしく、「かわいそうだね」と憐れみの視線で見つめてくるのが鬱陶しい。だが、寝ているだけでご飯が出てくる幸福には代えがたいので、退治をせずに放っているのである。
「座敷わらしに宗旨変えしたのかしら」
「おーい霊夢」と、出し抜けに、霧雨魔理沙が縁側からのそのそ這ってきた。
「こいしがご飯をくれるそうじゃないか」
「……そろそろやってくる頃だと思ってたわ」
魔理沙はずっと前からぬらりひょんだなと思いながら、霊夢はぬらりひょんをこたつに招いた。
「あーぬくい。春は近くて遠いぜ」
魔理沙は霊夢の足と喧嘩しながら、肩まですっぽりこたつに入り、帽子を畳の上に放った。
「こいしと仲良くなったのか?」
「仲良くなった覚えはないんだけれど。誰かに何か吹きこまれたのかもしれないわね」
「何かって?」
「私が貧乏だとか、かわいそうだとか」
「違うのか? うぐ」
霊夢は魔理沙の腹をかかとで蹴った。
「まったく、誰が言いふらしてるのかしら。退治してやらないといけないわね。魔理沙もそれらしい噂を聞いたら、ちゃんと出所を確かめるのよ?」
「例えば、例えばだぜ霊夢。誰が見ても貧相に見える少女がいたとしたら……」
「……何が言いたいの?」
魔理沙は答える代わりに霊夢の足をくすぐった。
しばらくこたつの中で蹴り合いをして、体が温まったところで、魔理沙はようやく神社に来た理由を思い出した。
「そういや霊夢、無名の丘でおもしろいことが起こってるんだぜ。知ってるか?」
「知らないわ。最近ずっと寝てばかりだったから。何が起こってるの?」
「実はな――」
魔理沙が寝返りをうって姿勢を整え、話を切りだそうとすると、
「霊夢さーん」と元気よく、東風谷早苗が縁側に飛び込んできた。
「霊夢さん!」と一回転して畳に正座をする。
「な、何よ……どうしてそんなに元気なの?」
「信心のおかげです!」
「……まあ入りなさいよ」とこたつに招くと、こたつの中がいよいよ狭くなってしまった。
「苦しい……」魔理沙の腹にたくさんの足が乘っている。
「霊夢さん、こいしちゃんにご飯作ってもらってるって、ほんとですか?」と早苗は言った。
「そうよ。今日はまだ来ないけどね。おかげでお腹が減ってるわ」
「そうなんですか。よかったぁ」と早苗は胸を撫で下ろし、こたつの上のみかんを手に取る。
「こいしちゃん、ずーっとうちに来てないから、気になってたんですよ」
「へぇ、ってことは、前はあんたのところにいたの?」
「はい。一緒にご飯作ったりしたんですけど。急に来なくなっちゃって」
「ふうん。料理はあんたの仕込みだったのね」
霊夢は、もっと早苗と仲良くなっておこうと思った。ご飯を作れる人妖は何人いてもよい。
「でも、守矢神社に来なくなって霊夢さんのところにいるなんて、ちょっぴり妬けちゃいますね」早苗はみかんの白い部分を丁寧にむしりながら言った。ふと見ると、魔理沙が口を開けて物欲しそうにしていたので、一切れ投げ入れた。
「気まぐれでしょ。あの子のやることに深い理由なんてないわよ。あ、それと二人とも、みかん代はちゃんとお賽銭箱に入れとくのよ」
「そういうところが貧相なんだぜ」とみかんを飲み込んで、魔理沙は笑った。
○
「象?」と霊夢が聞き返す。
「象って、動物園にいる象さんですよね」と早苗が言う。
「だから、動物園じゃなくて、無名の丘で草を貪り食ってるんだよ」と魔理沙は言った。
「子細に話すとこういうことだぜ。アリスからの又聞きなんだけどな」
象は前触れもなく突然現れたのだそうだ。最初に見つけたのはメディスン・メランコリー。彼女がすやすや鈴蘭のベッドで眠っていると、ズシンズシンと遠くから重たい地響きが聞こえてきた。なんだろうと思って起き上がると、丘の上を巨大な怪獣が闊歩していた。四足の、山のように大きな体を持ち、全身がねずみ色で、鼻が異様に長く、耳が異常に大きく、牙は上にひん曲がっている。瞳だけがハムスターのようにつぶらなのがなんだか怖いとメディスンは思ったらしい。
「怪獣だ! 怪獣が出たよスーさん」
怪獣はのっしのっしと小走りで、メディスンのところにやってくる。恐怖のあまり見えなくなるまでスーさんと逃げたメディスンだったが、怖いもの見たさで恐る恐る丘に戻ってみると、怪獣は一面の鈴蘭を踏み荒らしてはむしりとり、鼻でつまんで不味そうに、貪り食っていた。
メディスンは怒った。とりあえず、遠くから弾をぶつけてみた。毒々しい彼女の弾幕は生き物には効果抜群のはずである。だが象は全く効いた様子もなく、物憂げな瞳でメディスンを見つめるばかりだった。口をもごもごと動かして。
「鈴蘭って毒があったわよね。象は平気で食べるんだ」と霊夢が言う。
「今頃腹壊してるかもな」と魔理沙は頷く。「それはそれで丘がくさいことになってそうだが」
困ったメディスンとスーさんは、はるばる森を抜け、アリスの家まで飛んでいき、助けを求めた。怪獣と戦うなんてダサいなと思ったアリスは、とりあえず人形数体で偵察部隊を組織し、丘に派遣することにした。
だが、「カイジュウハゾウ、クリカエス、カイジュウハゾウ」という連絡を最後に、偵察部隊からの連絡が途絶える。
事態を重く見たアリスは、寝ている魔理沙を枕元の人形でたたき起こすと、異変の調査を依頼したのである。
「枕元の人形ってなんです?」と早苗が尋ねる。
「アリスとの連絡用だ。ちょっと可愛い糸電話みたいなもんだぜ」と魔理沙は言った。
「いちおう異変扱いなのね」と霊夢が言う。「珍しいわね。あんたが異変の話を私に持ち込むなんて」
「まあ、続きを聞けよ。私だって出来れば自分で解決したかったんだぜ?」
「もう行ったの? ……魔理沙でも倒せない怪獣か、ほうほう」
霊夢はようやく興味が湧いてきたらしく、みかんをむしる手を止めた。
魔理沙が箒で空から舞い降りると、象はお腹がいっぱいになったのか、丘の頂上付近でぼんやりとつっ立っていた。付近の草花は根こそぎにさせられており、焦げ茶色の地肌が見え隠れしていた。
妖精たちが遠巻きに象を見つめている姿も確認できたが、それ以上に目立っていたのは、象の背中に乗っかって兵隊ごっこをしているアリスの偵察部隊たちだった。
魔理沙の姿を見つけると、何故か攻撃してくる。魔理沙が躱しながらどうしたものかと悩むうちに、おもしろがった妖精たちがいつものように乱入してきて、丘の上は混戦模様になった。
「まあ、倒したんだけどな。象以外は一匹残らず」
死屍累々の丘の上。
ところが象だけは、背中に光線を浴びても、星が刺さっても、まるで意に介さない。
鬱陶しそうに首をもたげて、つぶらな瞳で魔理沙を睨みつけるばかり。
それなら冷やしてやろうかとコールド・インフェルノをぶつけても、凍るのは、象の背中の上でくたばっている人形たちだけだった。
「無敵なんだよ」
「無敵……ねぇ」
おかしな話だと霊夢は思った。
弾幕ごっこは幽霊にすら当たり判定がある。スペルカードルールに例外はない。
「ゾンビみたいにタフなのかしら」
「ゾンビっつーか岩だぜ、岩。反撃はしてこないし、意思疎通もできないんだ」と魔理沙は続けた。
「試しに背中に乗っても、蹴っ飛ばしても怒らない。どうしようもないからアリスの家に報告に行ったら、人形焦がしたって怒り出すし。ふんだり蹴ったりだぜ」
魔理沙はぐったりと上半身を大の字に伸ばした。
「そこで博麗さんちの霊夢さんの出番だ。反撃しない相手を一方的にやっつけるの、得意だろ? そんなイメージがあるぜ?」
「あんたのイメージを勝手に押し付けないで」と霊夢はため息を付いた。
「なんだか象が怪獣扱いされてるみたいですけど」と早苗が口を挟んだ。
「幻想郷の皆さんは、象を知ってるんですか? それ本当に象なんでしょうか」
「そりゃ、知ってるわよ。実物は見たことないけど」と霊夢は言った。
「天竺じゃ聖なる動物だし、象の姿を取る神様もいるわ」
「あぁ、そっち繋がりですか。じゃあ魔理沙さんは?」
「伊達に大図書館に通ってないぜ」
「なるほどですね。ならきっと、象で間違いないんでしょう。――うーん、なんだか私も見たくなってきたなぁ」と早苗は霊夢に笑いかける。「ね、一緒に行きませんか? 外の世界にいた頃は、かなり電車に乗らないと、動物園がなかったんです。象を間近で見るのもなかなかない体験ですよ」
「……そうね」霊夢はしばらく悩んでから言った。
「こいしも今朝は来ないみたいだし、行ってみましょうか」
魔理沙の砲撃すら効かない無敵の巨象に興味が湧いたこともあるし、料理が上手らしい巫女と親睦を深める意味もある。
行く理由はあるが、行かない理由はない。それでも少し気になったので、「ちょっと待って」と立ち上がり、霊夢は紙と鉛筆を持ってきた。
『こいしへ 無名の丘に象を見に行きます。料理は帰ってからでいいからね。帰ってから作ってね 霊夢』
『私の分も作っとけよ 魔理沙』
『たまには守矢神社にも遊びに来てね 早苗』
「――さて、怪獣退治に行きますか」
霊夢たちがふわふわと無名の丘に向かった後、こたつのふとんがもぞもぞと動いて、中からこいしが這い出してきた。
「最初からずっと居たりして」
こいしは置き手紙を読んでクスクス笑うと、スキップしながら霊夢たちの後を追いかけていった。
○
無名の丘の草花はすっかり食べつくされてしまって、種まきされる前の畑のように黒々と土が耕されていた。
象は小高い丘の中心で、何をするでもなく首を持ち上げ、ぼんやりと空を見つめている。あんなに大きな頭じゃ辛いだろうに、いったい何を見ているのだろうと霊夢は思った。
「やぁ、絶景かな絶景かな」と、象の背中の上で魔理沙が額に手を当てる。「そろそろ天狗が来てるかと思ったら、来てないな。写真に撮ってほしい時に限っていないなんて、使えない天狗だぜ」
「この象よっぽどお腹が空いてたんですね」早苗は象の足元で、掘り返された土を手に取る。「いい野球場になりそう」
象は飛来した人間三人をチラリと見つめたが、それきり無視を決め込んでいる。霊夢は試しに針をしこたま撃ちこんでみたが、身動ぎもしなかった。背中に乗って踵で思い切り針を突き立てても、痛がりもせず、尻尾をパタパタ揺らしている。
「よっぽど皮が分厚いのね」
霊夢は急所を探すべく象の足元に潜り込んだ。――目的のものは見つからない。どうやらこの象は雌らしい。
「女の子か」
なら顔に陰陽玉をぶつけるわけにもいかないなと霊夢は思った。
「確かにこの頑丈さ、ちょっと手詰まりね。なんでこんなに効きが悪いんだろう」
「霊夢さん、これ、普通の象じゃないですよ」と早苗が言った。いつの間にか首のところに跨って、ためらいがちに、ぺらぺらの象耳に触っている。
「どうやら地上最大のアフリカ象みたいですけど。それにしたって三階建ての家ぐらいありますし、常軌を逸してます。なんらかの妖怪だと思います」
三階建ての家という基準が霊夢にはピンと来なかったが、確かにまっとうな蛋白でできている生き物としては大きすぎる気がした。
霊夢は象の顔の真ん前にふわふわと飛んでいき、文句をつけることにした。
「ちょっとあんた、妖怪なら妖怪らしく、何か喋ったりしなさいよ」
象は口をモグモグとさせた。何か言うのかと思ったら、よだれにまみれた草をべちゃりと地面に吐き捨てた。
「あっそう……そういう態度なわけね」
気が変わった霊夢は懐から陰陽玉を三つ取り出し、上空に投げる。空気を吸うように膨らんでいく陰陽玉が落下してくるのに合わせ、巫女服をヒラヒラさせて、次々とボレーシュートを象の顔面に叩きこんだ。
――はずだったのだが。
象は苦もなく鼻先だけを動かして、陰陽玉をキャッチしては地面に落とし、またキャッチしては地面に落とす。
三つ目もキャッチすると、今度はそれを丁寧に、呆気に取られている霊夢の鼻先に持っていった。
「……わざわざどうも」
霊夢は陰陽玉を受け取ると、異常がないかつまんで叩いて調べてみた。
何の異常も見受けられない。
「な、無敵だろ、この象っころ」と、魔理沙が象の頭の上で嬉しそうにする。
「無敵というか、訳がわからないわね」と霊夢は首をひねった。
「陰陽玉でもダメージがないってことは、妖怪悪霊怨霊その他、巫女が退治するような存在に属してないってことよ? 神様だって痛がるのに」
「じゃあ、何なんです?」と魔理沙の隣で早苗が尋ねる。
「やっぱりただの、すごく大きな象なんでしょうか」
「それなら私が焼いたり凍らせたりできたはずだぜ」と魔理沙は言って、右手でピースサインを作った。
「可能性は二つだぜ。一つは霊夢の言うように、妖怪でも悪霊でもない、なんだかよくわからないUNKNOWNである可能性。べつに正体不明が初めてってわけでもないしな」
「なるほど、UMAですか」と早苗が頷く。
「馬じゃなくて象だろ」と魔理沙が突っ込む。
「UMAは未確認の怪物って意味ですよ。イエティ知りません? 知らない。もっとまじめに図書館に通ってください」
「うへえ。まあなんでもいいぜ。で、もう一つの可能性なんだが、こっちの方が問題だな。この象は、私のマスパでも霊夢の陰陽玉でも傷ひとつ付かないような、未だかつてないほどに規格外の妖怪であるという可能性だぜ」
霊夢は少しぞっとしながら、口を半開きにして空を見つめている不気味な怪獣の鼻を撫でた。
○
「こいつ何考えてんのかさっぱり分からないわね」
霊夢はかれこれ二十分ほど話しかけたり脅したり、笑かそうとして魔理沙と漫才をやったりしたのだが、象はさっぱり反応しなかった。日本語が理解できているのかも怪しい相手にふざけ倒すのもそろそろ疲れてしまったので、地べたに寝っ転がって、視界の端でうごめいているミミズを眺めたりしていた。
いよいよもって手詰まりである。
「あーあ、こんな時にサトリがいると便利なんだけど」と霊夢はぼやく。
「わざわざ地霊殿までこいつを連れて行くわけにもいかないしねぇ」
「鬼ならなんとかなるんじゃないですか?」と、象の背中に寝そべって、幸せそうにしている早苗が言った。
「萃香さんなら持ち上げて運ぶぐらいはおちゃのこでしょう?」
「そうね。おーい萃香ー、聞こえてるー? 聞こえてたら返事してー」と霊夢は寝っ転がったまま呟く。
丘はシンと静まり返り、巨大な幼女が怪獣と取っ組み合いをする気配はない。
「まったく、たまにこっちが必要になると、いないのよねぇ」
「それが妖怪ってもんだぜ」魔理沙は霊夢の隣で大あくびしながら言った。「私、そろそろ帰っていいか? 吹きっさらしの丘は寒いぜ」
「私を巻き込んどいて。帰るなんて許さないわ」と霊夢は寝っ転がったまま言った。
「じゃあどうするんだよ」
「待ちましょう」と霊夢は言った。「どうせ待ってればそのうち天狗が来るでしょ。そしたら天狗をそそのかして、鬼でもサトリでも呼びつければいいのよ。いい絵が撮れるわよって言えばなんでもするでしょ」
「うーん、ま、確かにそれがベストかもな。楽して得とれだ」
魔理沙は帽子を取って、霊夢のお腹を枕にして寝っ転がった。
この人たちはダメだなと早苗は思った。
そもそも異変を解決するのに、妖怪の力を借りようと思うのが間違っているのである。ここで私がしっかりしなければ、いつまで経っても象が丘を踏みならし続けるに違いない。
そうしてついに無名の丘は「象の平原」になるのだ。
……あれ、象の平原の方がステキかもしれないな。
べつに象が居たって誰も困らないんじゃないかしら。
早苗は考えすぎて退治すべきかどうかも分からなくなってしまった。
三人そろってぼんやりとしていると、森の方角から人形の部隊が現れた。迷彩柄のグリーンベレー・スタイルでキメている。
「各員一斉射撃!」と中央の一体が言うと、人形たちはそれぞれに、象に向かって弾幕を撃ち始めた。
「おいアリス」と魔理沙が起き上がる。「そんなんじゃ象には効き目がないぞ」
「メディスンにせっつかれて困ってるのよ」と中央の一体が魔理沙の方を向いて言った。
「あなたたち、地べたに寝っ転がって何してるの」
「天狗待ちだぜ。そうだアリス、人形飛ばして天狗を探してきてくれよ」
「自分でやれ」
「放っておいても来るものを、わざわざ探すのは面倒臭いんだぜ?」
「早く解決してやらないと、メディスンがかわいそうでしょう」
「メディスンはかわいそうだけど、天狗が来るまで動きが取れないぜ」
「そもそもなんで天狗が――」
二人の終わりのない言い争いを聞いて、そうだ、困っている人形がいたんだなと早苗は思い出した。
退治するかはまた別にして、象を人畜無害な場所に移す必要はある。だらだらしている場合ではない。
「よし、神奈子さまに相談してみよう」
早苗は携帯を取り出して、短縮で神奈子を呼び出した。
『あ、早苗? お昼ごはん食べたいんだけど。早く帰って来なさいな。早苗の当番でしょ』と開口一番神奈子は言った。
「そうしたいのは山々なんですけど、ちょっと困ったことが起こってまして」
早苗は神奈子にこれまでの経緯を説明した。
『ふうん。無敵の象ね。……心当たりはなくもない』
「あるんですか。さすが神奈子さまです」やはり信心はしてみるものだなと早苗は思った。
『何故か攻撃が効きづらい怪獣ってのは、神話の昔からたまに出てくるんだよ。孫悟空なんかもその類だね。まあ、あいつの場合は閻魔帳から自分で名前を消したって因果関係がきちんと説明されてるんだけどさ』
「じゃあ、この象も閻魔帳の名前を消したのですか?」
『私の想像通りだとすると、その象はそもそも生まれてないから、閻魔帳には空欄すらないだろうね』
「生まれてない?」
『神様が間違えちゃ格好がつかないから、あんまり細かいことは言わないでおくよ。ともかく、解決したいなら、有象無象の妖怪なんかに頼らずに、チャキチャキ霊夢を働かせなさい』
「でも、霊夢さん、どうにもならないって寝そべってますけど」
『サボってるだけよ。じゃあ霊夢にはこう伝えなさい。「あなたがやろうとやるまいと、あなたの恥は神様にはまるっとお見通しだ」と』
「恥、ですか」
『気が変わったわ。お昼は自分で作るから、あなたは霊夢を焚きつけて、しっかり恥をかかせるのよ? その携帯動画撮れたかしら。撮れた? なら撮っときなさい』
「は、はい」
『じゃ、頑張りなさいね』
そうして電話は切れてしまった。
早苗は首をひねりつつも、ふわりと象の背から飛び立って、ぐったりしている霊夢の傍に降り立った。
「あなたの恥はまるっとお見通しです!」
「なんのこっちゃ」と霊夢は唸った。
○
こいしは象の牙の上を登ったり滑ったりしながら、さとりを連れてくるべきか迷っていた。姉は象に対してコミュ力を発揮できる唯一の存在であり、ここできちんと活躍できれば幻想郷での株が上がるかもしれない。
しかし、姉の株を上げてもしょうがないというか、株が上がって人間と仲良くなってしまったら、それはそれでつまらない気がした。こいしの中にいる二人の姉の片方が、寂しがりで臆病な姉が、死んでしまう気がするのだ。
迷っているうちに、霊夢たちが集まって、地面に紋様を描き始めた。何か新しいことを始めるらしい。ともかくそれを見守ろうとこいしは思った。
「さて」
地面に、人間二人が寝そべれるぐらいの大きさの、シンプルな陰陽図を描き終わった霊夢は、魔理沙と早苗をその上に立たせた。
「今から二人には抱き合ってもらいます」
「抱き合う?」と魔理沙は眉をひそめて、
「な、何を言ってるんですか霊夢さん!」と早苗は色をなす。
「しょうがないでしょう。象の神様を呼び出すには必要なことなのよ」と霊夢はニヤニヤしながら言った。
「早苗、言ったわよね? 恥を恐れるべからず、手間を惜しむべからず、対話を諦めるべからず。なんてありがたい現神人の教えだろうと私は感銘を受けたのよ」
「そ、そこまでは言ってない気がしますけれど……」
「で、私にお説教するぐらいだから、当然早苗も恥を掻いてくれるんでしょう?」
「だ、だからって、なんで魔理沙さんと抱き合う必要があるんですか?」
早苗は魔理沙をチラリと見つめて、目を逸らす。
「私はいいぜ」と魔理沙は言う。
「いいんですか!?」と早苗は慌てる。「だって女の子同士でそんな……」
「女同士だから気にする必要ないだろ」と魔理沙は言う。
「でも、なんで私と早苗が抱き合ったら、象と話せるようになるんだ?」
「今から呼び出すのは大聖歓喜大自在天。象頭人身の神様ね。象は歓喜天の眷属だから、この無敵怪獣が象の振りをしたナニカでなければ、ちゃんとコミュニケーションができるわけよ」と霊夢は言った。
「歓喜天……。ええっと、インドのガネーシャが密教繋がりで日本にやってきたんでしたっけ」と早苗が顎に手を当てる。
「密教限定ってわけでもないけどね。最澄だって好きよ、歓喜天。ガネーシャはシヴァとパールバティの長男とされているから、ヒンドゥー教だとものすごい大物だけど。仏教だと毒気が抜かれていて、とっても親しみやすい仏様になってるの」
霊夢は陰陽図を描くのに使った魔理沙の箒で、肩をトントンと叩いて続けた。
「歓喜天はね、仏教が現世の改善に手を出すための方便なの」
「と言われてもな」と魔理沙が言った。「現世を改善するのにわざわざ方便がいるのか?」
「いるのよ」と霊夢は頷く。
「仏教の根本は一切皆苦であり、現世からの脱出だからね。この世が辛く厳しいのは当たり前で、その中で新たな苦しさを求めてもがくことはしないのよ。釈尊は苦行を否定しておられます」
「あぁ、つまり、何かを改善することも苦しみに繋がると?」と早苗が言う。
「そういうこと。例えば、努力して、努力したなりの成果を手に入れれば、今度はそれを失うかもしれない恐怖や、失った時の喪失感に苦しむ。成果が手に入らなければ、もちろん不満や嫉妬に苦しむ。かと言って努力をしなければ、それはそれで不安よね? つまり、努力して何かを得ようという心の根本は、苦しみで成り立っているの」
「へえ、霊夢がいつもダラダラしているのにはそういう訳があったのか」と魔理沙は関心した。「面倒臭がってるわけじゃなかったんだな」
「そうですとも、そうですとも」と霊夢は頷く。
「何かを得ても、その何かが自分でコントロールできない「外側」にあるものならば、結局苦しみしか残らない。愛別離苦とはよく言ったものね。取得という概念が既に錯覚。もっと内在的で、内面的で、自分の力で思い通りになるようなことに力を尽くしましょうというのが原始の仏教なわけ。カースト制をバッサリ否定して身分差別をなくすためには、それぐらいラジカルじゃないといけなかったのよ」
「ありがたやありがたや」と魔理沙は霊夢を拝んだ。
「霊夢さん仏教徒じゃないでしょうに、詳しいですね」と早苗は感心した。
「ええ、まあね。仏教徒じゃないからって適当言ってるわけじゃないのよ? 適当言ってるわけじゃないの」と霊夢は神妙に頷いた。
「さてさて。釈尊の時代の仏教はそういうものだったんだけど。後世になると、「苦しむ者を救う」という大義がもっといろんな意味を持つようになるの。で、そのうち最も即物的な意味を担ったのが歓喜天という仏様。即物的な意味というのはつまり、「飢えた人には食べ物を」「裸の人には着物を」「家がない人には家を」ということね」
「単純でいい奴じゃないか」と魔理沙は言った。
「アンパンマンですね」と早苗が言った。
「あんぱん……? まあなんでもいいわ。話を戻すけど、仏教は本来、そういう次から次へと湧いてくる欲求を満たすためのものじゃないの。でも、例えば、もう何日もろくに食べてない人に、現世の苦しみから解き放たれるべく食欲を抑えましょうと言っても、そんなの無理でしょう?」
「まあ、無理だな。そんなこと言ったら頭から食われそうだぜ」
「そんな時こそ歓喜天の出番なわけよ。仏教の深い教義のことは置いといて、ともかく目の前の困窮を助け、苦しみを和らげましょうということね。あるいはもっと前向きに、スイーツが食べたければ食べなさい。異性と遊びたければ遊びなさい。一日中寝ていたければ寝ていなさい。そうして気が済み、心が欲望に囚われなくなったなら、その時はきちんと御仏の教えについて考えましょうと。そういう仏様なのよ」
「へぇ、つまり、何をやってもいいわけか?」と魔理沙は首を傾げる。
「やりたいことならね」と霊夢は頷く。
「随分懐の広い仏様だな。どっかのナムサンにも見習わせたいぜ」
「歓喜天は福祉には向くけど教育には向いてないから、あれはあれでいいと思うわよ。妖怪寺の連中がやりたいことやったら、退治しないといけなくなるわ」と霊夢は言った。「歓喜天は神道にも吸収されていて、たくさんの神社で祀られているそうよ。夫婦和合とか、子宝祈願とか、やりたいことやらないと手に入らないようなものが専門ね」
「はあ……それで、抱き合えと」早苗はチラチラ魔理沙を見つめる。
「でも私、べつに、魔理沙さんと抱き合いたいわけじゃないんですけど」
「抱き合いたくなりなさい」と霊夢は命じた。
「なんで私が。霊夢さんが抱きつけばいいでしょう!」
「私は儀式をしないといけないから、手が塞がることはできないの」と霊夢はニヤニヤした。「早苗と魔理沙が愛し合い求め合う心が歓喜天を呼ぶ必要条件なのよ」
「私はべつにいいけどな」と魔理沙は頭を掻いた。「ご無沙汰だし」
「魔理沙さんにとっての愛は軽すぎます……」と早苗はうなだれた。
「まあまあそんなに深く考えないでよ。ハグでいいのよ、ハグで。やることやれってんじゃないんだから」と霊夢は笑った。「ほら、抱き合え。抱き合わないと、お腹を空かせた象さんが人里を襲うかもしれないわよ? ここらの草は食べつくされてるからね」
「でも、だって……」
早苗は顔を赤くしてグズグズしていたが、魔理沙は優しくその手を取ると、思い切りよく抱き寄せてしまった。
「恥ずかしがることはないぜ、早苗。空の雲でも数えてるうちに終わるぜ」
「めっちゃくちゃ晴れてて雲が見えませんよ! ちょっと、離してください!」
もがく早苗の向こうからアリスの人形たちが突撃してきた。
「何やってんのよあんたら! ――斉射、せいしゃー!」と中心の一体が叫ぶ。
ズダダダダと容赦のない弾幕が飛び散るも、陰陽図の周りに張られた結界に弾かれる。
「ほら、愛の障害がやってきたわよ。二人でやっつけて愛を深めるのよ」と霊夢は発破をかける。
(なあ早苗)と魔理沙は早苗の耳元で囁いた。(愛がどうたらはたぶん、霊夢がおもしろがってるだけだから、取り合わなくていいぜ。霊夢の歓喜天の解釈が正しいなら、やりたいことをやるんだって強く決意すれば、愛じゃなくても取り合ってくれるはずだろ?)
(……そ、そうですよね。霊夢さん、おもしろがってるだけですよね)
(そうだぜ。そうだけどもだ、ここは霊夢に付き合ってやってくれないか。私はあの象が気になるし、何物なのか知りたいと強く思ってる。早苗もそうだろ?)
(は、はい)
(なら、ここは霊夢を乗せるだけ乗せとこうぜ。振りでいいんだ。私を愛する振りをしながら、象のことだけ考えるんだぜ)
(……分かりました)
「愛してるぜ早苗」魔理沙は早苗をぎゅっと抱きしめながら叫ぶ。
「私もです、魔理沙さん!」早苗も魔理沙を抱きしめ返す。象、象、象と思っても、魔理沙の意外と華奢な抱き心地のことを考えてしまう。
「その調子よ!」霊夢は満足げに人形たちの弾幕をさばいている。
「さあもっともっと愛を高めるの!」
○
まさか魔理沙と早苗が恋をしていたなんてと、こいしは象の背中で感動していた。
カンギテンとやらが何なのかは、ちゃんと聞いてなかったからよく分からない。こいしにとっては目の前の抱擁だけが真実だった。
「ね、驚いたね」とこいしは象に話しかける。
「あの二人恋仲だったんだよ。全然想像できなかったなぁ」
これでまた、実物と想像のギャップが確認できた。数少ない知り合いたちが、姉に続いて二人に増えた。
「あなたはどんな象なのかしらね」
いくら想像をしてもまったくピンと来ない象の内面を想像しながら、こいしは霊夢たちの儀式を見守った。
抱き合う魔理沙と早苗を中心に、陰陽図の中から、黄金色の小麦畑のようなぼんやりとした光がにじみ出ている。
霊夢は人形たちの弾幕を躱しながら、何やら呪文を唱えているようだった。人形たちがうるさいせいで、こいしにはよく聞こえない。聞いてもさっぱり理解できないだろうなぁと思いながら、こいしは象の背中の上から、人形の部隊に向けて牽制射撃を行った。
「人の恋路を邪魔する奴はー、って、あ!」
こいしは自分の無意識の行動に、撃った後少し後悔した。まだまだ隠れていたかったのに。
隊列の乱れた人形たちが、何処から撃たれたのかと辺りを見回している。こいしは象の背中から滑り降りつつ、丘の影に隠れて、もう少し遠巻きに見つめることにした。
人形部隊が混乱している間に、霊夢は陰陽図の真上をふわふわ漂って、両手を広げて目を閉じる。
「一対の虚栄祝ぎ給い、一切の閃影祝ぎ給う」
ウワンと鐘が鳴るみたいに、霊夢の唱える祝詞が、こいしの頭の中に直接響いてくる。
「一瞬の幸栄祝ぎ給い、一千の大慶祝ぎ給う」
黄金色の光が羽衣のような形を成して、陰陽図の中の三人を包み込んでいく。
「我ら千の姿を持つ閃影。三位に寄りて三千と成り、陰に寄りては乙と化し、陽に寄りては甲と化す。過去もなく未明もなし。本日この地を永遠と成す。祝ぎ給え歓喜天。喜び給え三千院。心の内の一切を、汝が祝ぐ誓約と成さん」
魔理沙と早苗は固く抱き合って、お互いの顔を見つめている。
結婚式の誓いの言葉みたいだなとこいしは思った。宙で黄金色の光にまみれて無駄に壮麗になっている霊夢が神父さま。何もこんな象がほじくり返した野原で結婚式しなくてもいいのになとこいしは思った。
恋はもっとロマンティックでなくちゃ。
やっぱり邪魔してやろうかしら。
「顕現――!」
ドォンと重い祝砲のような音が丘に響き渡り、霊夢が雷に撃たれたみたいに痙攣して、抱き合う魔理沙と早苗の傍に倒れ伏した。
「おい霊夢、大丈夫か?」
魔理沙が早苗を放して駆け寄ると、むくりと起き上がって、ニンマリ微笑む。
「あ、魔理沙だ、魔理沙」
霊夢は満面の笑みを浮かべながら魔理沙に抱きついて、帽子をはじき飛ばして頭を撫でる。
「おお、よしよし。可愛いわねぇ」
「……霊夢?」
魔理沙は困惑顔で霊夢の頬を引っ張った。「おい、どうしたんだ?」
「魔理沙は私に何をしてほしいの?」霊夢は魔理沙の手を上から抑えて、ニコニコとしなを作る。「何をしてほしいのかな? いけないことかな?」
「はあ……えっと」
魔理沙は渋い顔で言った。「とりあえず抱きつくのと、猫撫で声をやめてほしいぜ」
「えー、つまんなーい」霊夢は魔理沙の肩に頬擦りする。「早苗は抱っこするのに私はしてくれないのー?」
「おい早苗」と魔理沙は悲鳴を上げた。「霊夢はいったいどうしたんだ? 召喚に失敗したのか?」
「……いえ、たぶん、憑いてると思いますよ。歓喜天」
早苗はおずおずと答えながら、携帯を取り出して霊夢を録画し始めた。
「してほしいことを聞いてくるってことは、そういうことじゃないですか。ですよね、霊夢さん」
「なんでもお願い、叶えてあげるわよ。それが二人の本当の望みならね」と言って、霊夢は手を後ろに組んでニコニコしている。
「アラジンと魔法のランプって感じですね」早苗は顎に片手を当てて言った。「インドっぽいわ」
「よく分からんが、ともかくだな」魔理沙は地面に落ちた帽子をかぶりなおして、頭を切り替えた。
「霊夢、あの象が何物なのか、ここで何してんのか、話を聞いてやれ。それが私の望みだぜ」
「嘘、それは魔理沙のほんとの望みじゃないよね?」と霊夢は言った。「ほんとはずーっと私と遊んでたいんでしょう?」
「何なんだよそのぶりっ子口調は。似合わないぜ」と魔理沙は頭を抱えた。「あー、背筋がゾクゾクする」
「……ひょっとして、これが霊夢さんのやりたいこと、なんでしょうか」と早苗は言った。
「これが?」
「歓喜天が憑依するってことはつまり、やりたいことをやらないと気が済まないというか、欲望ダダ漏れになってしまうというか……。霊夢さん、ずっと魔理沙さんに甘えたかったんじゃないですか?」
「んなあほな」
「べつに甘えたっていいじゃない」と霊夢はいじけた。「最近ちっとも遊びに来てくれないし。なんで? なんで遊びに来てくれなかったの?」
「最近って、一週間前に遊んだ記憶があるんだけどな……。私にも魔法の練習とか各種いたずらとか、いろいろやることがあるんだぜ」
「それって私と遊ぶより大事なこと? 違うでしょう?」と霊夢は詰め寄る。「じゃあこれからも来てくれないの?」
「行く、行きますぜ」魔理沙はため息を付いた。「毎日でも遊んでやるから、とりあえず今は無敵の象をなんとかしてくれ」
「ほんと?」霊夢はにっこりと笑って、宙にふわりと浮き上がった。「約束だよ? 破ったら針刺すからね?」
「ああ、約束は破らないぜ」魔理沙が小指を突き出すと、霊夢は身を乗り出して指切りをした。
「じゃ、なんとかしてあげる」
霊夢はふわふわと象の方へ飛んでいく。
「やれやれだぜ」魔理沙は地面にへたりこんでしまった。「あーびっくりした」
「ちょっと魔理沙」と、霊夢に対して密集陣形を取っていた人形部隊が魔理沙の傍にやってきた。「霊夢は頭でも打ったの?」と中央の一体が言う。
「ですから、あれが霊夢さんの素なんですよ、きっと」早苗はちゃんと録画できているか、携帯を確認しながら言った。「神奈子さまが言ってた「恥」って、このことだったんですね……。ふふ、ちゃんと撮れてる。おもしろい」
「まさかあんなに甘えただなんて……」と人形が言った。「イメージ崩れたわ」
「全くだ」と魔理沙が頷く。「アリスに蜂蜜たっぷり掛けてもああはならないぜ」
「なによそれ」と人形たちが魔理沙を取り囲む。「だいたい、なんでさっき抱きあってたの?」「だからそれは霊夢がだな……」
早苗は魔法使いたちの口喧嘩には取り合わず、歓喜天を神降ろしした霊夢が何をするのかを、携帯を向け直しながら見守った。
○
霊夢は象の顔の前まで飛んでいくと、右手を付き出して、そっと鼻筋にさわった。
「ふうん、なるほど。それがあんたのやりたいことか」
霊夢が象から距離を取ると、周囲の空間に、碁石をひっくり返したような密度で、サッカーボール大の陰陽玉が次々と出現する。
「我慢しないで、やればいいのよ」と霊夢は言った。
陰陽玉が一斉に動き出す。隣の玉とぶつかりながら、複雑に軌道を変え、速度を増していく。
「好きになさい。あんたじゃ私を壊せないから――陰陽宝玉・散」
霊夢がスペルカードを取り出すと、ガガガガガと硬質な音を立てて加速する陰陽玉の群れの中から、数個の玉が象を目がけて飛び出した。
象は先程と同じように、鼻で受け止めようとする。だが陰陽玉は鼻先をすり抜けて象の額や足にめり込む。
象はつぶらな瞳を霊夢に向ける。次々と白黒の弾が飛んでくる。今度は数個、鼻で受け止められた。だがすり抜けた幾つかが、大きな顔や耳に当たる。
象は初めて甲高く嘶くと、地響きを鳴らして地面を踏みしめ、鼻を鞭のように振り上げた。躱した霊夢はその鼻の上を滑るように駆け下りて、象の額を思い切り踏みつけると、そのまま背中を伝って後ろに回る。
象は巨体からは想像もできないほど素早く体を振って、振り向きざまに牙を突き上げる。霊夢はその牙を掴んでくるりと一回転すると、今度は象の足元に滑りこんで、地面に手をつき、全身をバネのように突き上げて、踵を象の腹にぶつけた。
象は霊夢を踏みつぶすべく前足を高く上げ、二本足で丘に立った。
霊夢は空中に展開したままの弾幕で象の背中を攻撃しながら、捕まえようとしてくる鼻先をすり抜けて、象の耳元で囁いた。
「壊れないでしょう? さ、一緒に遊びましょう」
すごい。戦いになっていると、こいしは霊夢を見なおした。
象にどの程度のダメージがあるかは分からないが、さっきまでは何をされても反応すらしなかったのだから、大いなる進歩だ。巫女はやっぱり神を降ろしてなんぼなのだなと感心した。
もっと近くで戦いを見るべく、こいしは象の背中側にまとわりついた。陰陽玉の流れ弾を無意識で躱しつつ、なんだか我慢できなくなって、象に青バラの弾幕をぶつける。
すると霊夢が背中を伝って、こいしの方にやってきた。霊夢を追って象が振り向く。こいしは無意識のうちに象の背後を維持するように回りこみながら、目は霊夢を追いかけていた。
「青バラってことは、こいしが居るのね」
気づかれて、目が合った。また余計なことをして見つかってしまったと、こいしは頭の端で後悔した。
霊夢は象が矢継ぎ早に振り回す鼻先を躱しながら、こいしに言った。
「残念ね。歓喜天の力でも、あんたの心は読めないみたい」
「そうなんだ」こいしは象を攻撃しつつ、ついでに霊夢も狙ってみる。
「そうでなくっちゃ、目を閉ざした意味がないからね」
姉は二人、妹は一人。
私は誰にも増やされなくて構わないと、弾を撃ち、玉を避けながらこいしは思う。何故そう思うのかは分からない。筋が通っていない思考が心地いい。
「そのうち読んでみせるわよ」と霊夢は言って、懐から見覚えたっぷりの札を取り出した。札は霊夢の周囲を衛星のようにグルグル回り始め、こいしと象に正確な光弾を投射し始める。
「あ、またそれぇ?」
ホーミングするなんて卑怯だと思いつつ、こいしは旋回しながら青バラで迎撃していく。霊夢は象の体ごとの追撃を低空飛行で潜りぬけ、こいしを光弾で牽制しながら、新たなスペルカードを取り出した。
「二重結界」
空中に展開していた陰陽玉の一群が霧消し、代わりに赤と白の無数の札が象の上空から降り注ぎ、背中に貼り付く。紫色の結界が出現し、象は苛立たしげに全身を揺さぶる。
「イドの解放!」
こいしはありったけのハート型の弾幕をばら撒きながら、動きの鈍くなった象の股をくぐって、くぐって、何周もして象をハートにまみれさせる。意識は光弾の迎撃と、逆算できる霊夢の位置を追うのに集中している。
象はハートを物ともせず、ガツンガツンと鈍い音をさせて結界にぶつかり、軋ませてついに壊すと、すぐさま鼻を伸ばしてこいしを狙ってきた。こいしは不意を突かれたが、それでも無意識で対応する。槍のように突き出された鼻の上をスライディングで滑っていくと、象のお尻を駆け上がって、向かいに霊夢が現れる。
「うわ、はち合わせ」
無節操なハートを潜りぬけ、霊夢はこいしの懐に潜り込むと、宙返りしながら額に御札を投げつけた。
スパーンと小気味良い音がして、こいしは象の背中でたたらを踏んだ。
「今、ちょっとむかついたでしょ」霊夢はこいしに笑いかけ、すぐに象の鼻を振りきって腹の下に潜る。
「めちゃくちゃ楽しいよ」
こいしは御札をはがして高く飛ぶ。象ごと霊夢を撃ちぬいてやるべく、スペルカードを放り投げる。
「スーパーエゴ!」
降り注ぐハートの津波を見上げて、象は眩しそうに目を細めた。
○
「いつの間にか三つ巴の戦いになってるぜ」
魔理沙たちは丘の麓まで避難して、ハートにまみれていく頂上付近を見守っていた。
「こいしちゃん、来てたんですね。毎度ながら気配の薄い子だなぁ」
早苗は人形を何体か抱っこしながら宙にふわふわ浮かんでいる。
「弾幕は恋ぃけどな」
魔理沙は箒の上で寝そべりながら、手をこすり合わせてそわそわしている。
「なんだか混ざりたくなってきたぜ」
「本来の目的を見失わないでください」と早苗は釘を刺した。「あの象が何なのかを解析するのが第一です」
「でもなぁ、パワーアップ霊夢とこいしの弾幕で、案外普通に倒されるかもしれないぜ? そうなる前に私だって象と戦いたいぜ」
「……霊夢さん、ちゃんと会話できていましたから、歓喜天を使ったコミュニケーションは成功したんでしょうね」と早苗は言った。「UMAじゃなくて、象であることは確定しています」
「でも、タダの象にしちゃ、でかすぎるし丈夫すぎるんだろ?」
「はい。もう弾を何発食らってるかも分からないぐらいなのに、全然元気ですからね」
象は鼻と体を振り回して、まとわりつく霊夢とこいしを執拗に追いかけている。
元気ハツラツ、底知れぬスタミナだった。
「じゃあ、結局、何なんだよ」
「……分かりませんね」
魔理沙と早苗は顔を見合わせて、吹き出してしまった。
「ったく、ここにいると我慢できなくなりそうだから、私は搦手から行くぜ」と言って、魔理沙は周囲の人形を何体か掻き抱いた。
「何処に行くんです?」
「やっぱりさとりを引きずり出してくる。霊夢に一人で解決されるのも業腹だしな。さとりに読み取ってもらえば、何考えてるかもっとはっきり分かるぜ」
「妖怪の手を借りるんですか?」
「今更だろ。にとりの手なんか借りまくりだぜ?」
「……でも、引きこもりは無理やり外に出しちゃいけないってテレビで見ましたよ?」
「GTOだと無理やり連れ出せばなんとかなってた」
「幻想入りしたマンガを参考にするのは止めた方がよいのでは……」
「うるさいなぁ。だったら早苗には何かいい案があるのか?」と魔理沙は口を尖らせる。
「霊夢さんが戦い終わるのをおとなしく待つ」と早苗は言った。「何か意味があって戦ってるような口ぶりでしたから、戦い終わればきっと事態が進展するはずです」
「却下だ」と魔理沙は言った。「象のスタミナ切れなんて待ってたら日が暮れちまうぜ」
「じゃあ、早くスタミナを切れさせるべく、私と魔理沙さんも参戦しましょう」と早苗は思い立つ。
「あのな、だったらさっき私を止めなくても……まあいいか。今日はやりたいことをやる日だぜ」
魔理沙は箒の上で起き上がり、早苗は帯からお祓い棒を取り出した。
「メディスンがこれ以上丘を壊さないでって泣いてるんだけど」と、魔理沙の背中に取り付いている人形が言う。
「もう遅いぜ」と魔理沙は丘を見つめた。
象が足を踏みしめ体を振るたび、丘の土が飛沫になって飛び散っている。まるで子供が水たまりで遊んでいるみたいだ。
「終わった頃には月の表面みたいにえぐれてるだろうぜ」
「そうさせないためにも」人形は魔理沙の肩に乗っかって、ビシリと象を指さした。「さあ行きなさい魔理沙! 怪獣を蹴散らすのよ!」
「言われなくても」
魔理沙と早苗は人形たちをまといつつ、ハートと土埃と弾幕にまみれた丘の上に突っ込んでいった。
○
そうして六時間が経った。
丘と呼べるものは既に残っていなかった。デコボコとした焦げ茶色の荒地が見渡す限りに広がっている。
埃っぽくなった空の下で、霊夢と魔理沙と早苗とこいしは、互いに寄りかかりながら地べたにへたりこんで息を荒げている。空は赤く染まり始めて、太陽が象の影を霊夢たちに落とす。
――すり減っているのは丘だけではなかった。
三階建ての家ほどもあった象は、今や馬と同じぐらいの大きさになって、鼻と耳をパタパタ動かしながら、大人しく佇んでいる。
「ず、随分縮みましたね……」と早苗が肩で息をしながら言った。
「てか、なんで縮んでんだよ。風船か、この象は」魔理沙は帽子で首元を仰ぎながらぼやく。
「……消えなかったわね」霊夢は調息を済ませて上半身を起こした。「おかしいわ。まだべつの望みが残っているのかしら」
「ちゃんと説明しなさいよ」と、疲れもしないアリスの人形たちが、霊夢の袖を引いてせっつく。
「あーもー鬱陶しい人形」霊夢はまとわりつく人形を叩こうとしたが、腕を振り上げた途端に、背筋から腕の先までに、感電したような痛みが走った。
「痛っ、あぁ、痛い……筋肉痛が……死ぬ……死ぬ……」霊夢は地面を転げまわって苦しんでいる。
「どうやら歓喜天は帰ってしまったようですね」と早苗は首をかしげた。「霊夢さん象の如きパワーを発揮してましたけど、副作用もあるんですね。私も気をつけよう」
そう言えば歓喜天は祟りの凄まじさでも有名だっけと、今更ながらに早苗は思い出した。
「ほーら説明しないとマッサージするわよ」
人形たちは霊夢の全身にまとわりついて、指でグイグイと筋を押し込む。霊夢がかすれた声で悲鳴を上げると、こいしまでおもしろがって、霊夢の肩を思い切り揉み込んだ。
「あぎゃあああああ」
霊夢は怪獣のような断末魔を上げて、気を失ってしまった。
「あのなぁ、霊夢の意識を奪ってどうすんだぜ……」魔理沙は呆れた顔でため息を付いた。
「つい無意識に」とこいしは舌を出した。
「結局謎は謎のままに、小さくなって残ったわけか」
魔理沙は立ち上がると、よたよたとした足取りで象を撫でにいった。
象は目を細めて撫でられるままになっている。体に比例して牙も小さくなり、鼻も細くなって、随分と見た目が可愛くなっている。
「そろそろ日が暮れるぜ。どうする、早苗。明日にするか?」
「明日にして、明日象がまた膨らんでいたら、今日の苦労が水の泡ですよ」と早苗は答えた。「ここで放置する選択肢はなしです。少なくとも、象がまた大きくならない保証がほしいですね」
「確かにな。明日もう一度怪獣の相手するのは、絶対に勘弁だ……。ってことは霊夢をたたき起こすしかないのか。霊夢、済まないぜ」
魔理沙は仰向けで死んだように眠っている霊夢の横に跪いて、むき出しの脇をグリグリと親指の腹で押した。
「あひゃう!」霊夢が痙攣して飛び起きる。
「霊夢、この象いったい何なんだ? 霊夢? ……おーい、聞こえてるか?」
霊夢は口をパクパクとさせて、半泣きになりながら必死で呼吸をしている。
「こりゃダメだ」魔理沙は諦めて首を振った。
「無理に喋らせたら死にかねないぜ」
「残念ですね」早苗はまた携帯を取り出して、霊夢を録画し始める。
「私はいったん、霊夢を永琳のところに連れていくぜ。死なれたら困るからな」魔理沙は声にならない叫び声を上げ続ける霊夢をお姫様抱っこして、箒に跨る。
「また戻ってくるから、それまでにみんなで善後策を考えておいてくれ」
「分かりました」早苗は携帯を切って頷いた。
「ねー、魔理沙は霊夢と早苗どっちが好きなの?」とこいしが空気を切り裂くような質問をする。
「え、ああ……うん」魔理沙は箒の上で倒れそうになりながら、なんとも言えない顔で振り向いた。
「私はまんじゅうが怖いぜ」
「まんじゅう?」
魔理沙はこいしの聞き返しには答えずに、箒で埃を撒き散らすと、夕日に向かって飛び出していった。
「ごまかしたわね」と人形が言う。
「それで、どうする? 私が思いつく選択肢は、このままさらに殴り続けてネズミぐらいの大きさにしてから、踏み潰すことだけれど」
「アリスさんが直々にやるのなら、止めはしませんよ」と早苗は言った。「でも、私もこいしちゃんも限界ですし、何よりこのまま曖昧に解決して、明日もう一匹新しい象が現れたらどうするんだ、とは思います」
「ね、ネガティブね」人形たちは頭を抱えてグルグルと輪を描き始めた。「でも、正しいわ。原因が解析できないと、異変の解決にはならないわね」
「何度か話には出たんですけど、いよいよさとりさんの力が必要だと思うんです」と早苗は言った。「こいしちゃん、お姉さんにこっちまで来てくれるように、頼めないかな?」
「んー、お姉ちゃんか」
こいしは躊躇したが、何故自分が躊躇しているのかはよく分からなかった。
「お姉ちゃん、ここのところずっと引きこもってるから、来てくれないかもしれないよ?」
「ぶっ倒してでも連れてきてくれないかしら」と早苗は言った。「こいしちゃん、お姉ちゃんに対しては相性抜群なんでしょう? 速攻でふん縛って連れてきてくれると助かるなぁって」
「うーん」
あ、そうか。お姉ちゃんが株を上げて、みんなと仲良くニコニコするのがちょっと嫌なんだっけと、こいしは六時間前の思考を思い出した。
「嫌だな」
「どうして?」
「なんとなく」
「……うーん」早苗は地べたにうずくまって、また携帯を取り出した。
「しょうがないわね。あの人達政治的だから、あんまり借りは作りたくないんだけどなぁ」
早苗は連絡先から青娥娘々の電話番号を選んで、通話ボタンを押した。
「――あ、もしもし? 娘々さんですか。私東風谷早苗です」
『あら早苗さん。どうなさったの?』
「実は、聖徳王さまにお力添えしていただきたい事案がありまして」
『そんな畏まらなくてもいいわよ。祝詞じゃあるまいし』
「なら簡潔に」
早苗はこれまでの経緯を簡単に説明した。
『ええっと、整理すると』青娥は五秒ぐらい考えてから口を開いた。
『無名の丘に無敵の象が現れました。霊夢が歓喜天を憑依して話しかけると、戦いが始まりました。人形含めて五人がかりで日暮れまで戦うと、象は馬ぐらいの大きさに縮んで可愛くなりました。霊夢は全身筋肉痛で再起不能。縮んだ理由も含めて象は正体不明のまま、と』
「そういうことです。明日また象が膨らまないとも限らないので、是非とも今夜のうちに、象の目的と言いますか、欲望を調べてほしいんです」
『はいはい。おもしろそうね。すぐに取り次いでみるわ。五分ぐらいしたらかけ直すから、ちょっと待っててね』
「よろしくでーす」
早苗が電話を切ると、こいしが爛々とした瞳で見つめているのに気がついた。
「ねえ、ひょっとして、聖徳太子来るの?」
「たぶんね。何かお礼用意しておかないとなぁ」
「聖徳太子が来るんなら、お姉ちゃん連れてくるわ」
「え? どういうこと?」
聖徳太子が来ると聞いた途端に、こいしの中での優先順位が変わった。
姉がみんなと仲良くしている違和感よりも、姉が聖徳太子と対面した時のリアクションを想像する楽しみが勝った。
心が読める者同士、どんなやりとりがあるのだろう。昔姉と「通じ合ってた」頃のことはもううまく思い出せないけど、というより恥ずかしいから思い出したくないけれど。姉が恥を掻くのは問題ない。恥じらう姉を目の当たりにしたら恋焦がれてしまうかもしれない。
「ふへへへ」
「折り返し電話が来るまでちょっと待っててね。聖徳太子が来てくれるなら、わざわざさとりさんを呼ぶのも悪いし」と早苗は言う。
「ダメだよ早苗。二人をかち合わせないとダメなんだよ」とこいしは言った。「えーっと、私疲れてるし、地底までけっこうかかっちゃうかもだから、太子は二刻ぐらい待たせておいてね」
「うーん……それも先方と応相談ね」
早苗にはこいしの言ってる意味が分からなかったが、象で頭がいっぱいなので、深く考えないことにした。
「じゃ、頼んだよー」
こいしは少々ふらつきながらも、かなりの速さで山の方へと飛んでいった。麓に開通している直通エレベーターを使うのだろうと早苗は思った。
「ま、いいか。さとりさんが来るならそれで」
道仙たちが確実に来るとは、現時点では言い切れない。次善の策は必要だ。
娘々から電話が来たら、神奈子さまにも報告を入れないとなと、早苗は手持ち無沙汰に手元の人形を撫でながら思った。
アリスの人形たちはオートモードになったのか、思い思いに背伸びやストレッチをして休憩している。疲れ知らずの人形に休憩する意味はないから、正確には休憩ごっこだ。小さくなった象の背中に跨って、兵隊ごっこをするものもいる。
一方、象は人形に構わずに、ぼんやりと、夕日が沈むのを眺めている。
なんだか空ばかり見ているなと、早苗は引っかかりを感じた。
○
聖徳道士こと豊聡耳神子は暇をしていたらしく、たった四半刻ほどで仙界からはるばる無名の丘までやってきた。提と篠笛を鳴らすお供を引き連れ、雲に乗ってふんわりやってきたので、宵闇の中でもすぐに分かった。
「……ってあれ、通り過ぎてく」
こっちですよと叫びながら早苗が手を振ると、雲はカーブを切って戻ってきた。
早苗の前でゆっくりと止まる。乗っているのは三人だ。中央に豊聡耳神子、左に物部布都、右に青娥娘々がいて、布都と青娥は提と篠笛を弾いている。
「聖徳王さまのおなーりー」
ポンポンポンと調子よく提を叩いて布都が言った。
「やあ、聖徳太子だよ」と神子が爽やかに挨拶をした。
「はぁ、どうも。東風谷早苗です……」
何度か話したり戦ったりしているものの、全く距離感が掴めない連中だなと早苗は思った。
「丘を目指して飛んでいたのに、すっかりすり潰されているから気づかなかったわ。凄惨な戦場ですね」
神子は掘り返された丘を眺め回して、象を目に止める。
「あれが無敵の象ですか」
「無敵だけど縮んだりもする象です」と早苗は言った。「私もよく分からないので、解説をお願いしたいんです」
「任されましょう」と神子が言うと、雲がふわふわと動いて象の鼻先に移動した。
「見れば見るほど変な生き物だな!」と布都がぽんぽん提を叩きながら言う。「我は初めて見たような気がしないでもない」
「どっちです?」と青娥は篠笛をくるくる回す。「私はなんとなく見覚えありますね。珍味として食べたような記憶があります」
「美味しかったか?」
「タレの味がしました」
神子は二人の会話をよそに、ヘッドフォンを外して、にっこりと象に笑いかける。
象は目を合わせることもなく、またぼんやりと夜空を見つめている。
「……ああ、はい、はい。なるほど、なるほど」
神子は何度か頷くと、またヘッドフォンを付け直した。
「この象が何物か、分かりましたよ、早苗さん」
「もう分かったんですか」
こいしちゃんには悪いけど、さとりさん要らなかったなと早苗は思った。
雲がゆったりと動いて、また早苗の目の前までやってくる。
「あら、これから解説?」
ずっとオートだった人形のうちの一体が、早苗の肩に飛び乗って、肩車の体勢になった。
「お願いします」と早苗は言った。
「この象は、善意の塊です」と神子は言った。
「ぜ、善意の塊ですか」早苗は首をかしげた。
そんなすごいものを寄ってたかって縮めてしまったのかと思うと、冷や汗が出てくる。
「べつに、象が善意を持っているという意味ではありませんよ。この象には自発的な欲というものはありません」
「自発的な欲がない……?」
「つまり、生きてはいない」
「宮古さんのようなゾンビってことですか」と早苗は言った。
「いいえ、少し違います」と神子は言った。
「生きていたものが死に、それでも自発的に動いているものを、幽霊と呼んだり、ゾンビと呼んだりします。最初から生きていないものは、死んだりしないものですよ」
早苗は神奈子の言葉を思い出した。
「……閻魔帳に、名前が、書かれていない」
「書かれていません」と神子は頷く。
「ははーん、象だけに、鼻っから、生きてなかったということか!」と布都がぽんぽん提を叩く。
じゃかぁしいわと早苗は思ったが、流しておくことにした。
「ええっと。それなら、なんで自発的な欲のない象が、幻想郷に現れたんでしょう。生きてなくても死んでなくても、存在できるものですか?」
「全く欲のないものは、この世に存在することができません」と神子は言った。「この世に存在するものには、その全てに、何かしらの欲が備わっていて、それらの組み合わせで世界はなりたっています。あらゆるものは互いに惹かれ合い、引かれ合う。水は低きに流れ、水素と酸素は必ず二つと一つになる。表す言葉が心情表現であれ物理法則であれ、自他の別を取っ払い、欲を群体として見つめてみれば、世界とは必ず「なりたいようになるもの」なのです」
「はあ……なら、あの象は?」
「あれは、象そのものではなく、象の内面が実態となって現れたものでもありません。あれは、人間が象という生き物に、勝手に込めた欲の塊です」と神子は言った。
○
日本において、象はずっと柵の中で飼われてきた。人間を楽しませるため、もとい、人間が勝手に楽しむために、柵の中で生きていた。
動物園に意義はある。人間が動物への愛情や興味を失い、生態系への配慮を失えば、その結果は人間自身の生活にも跳ね返ってくるからだ。生きているものは互いを知って思いやらねばならない。それが和というものだと神子は言った。
もちろん象は自分を取り巻く和のことなど知る由もなく、人間に育てられ、見つめられ、愛にまみれて育った。お腹いっぱい食べることはできなかったし、狭い柵の中で窮屈な思いをしたけれど、比べるべき野生の象のことなんて知らなかったから、不満はなかった。生きるとは柵の中でウロウロ動きまわることで、それ以上でも以下でもない。
「でも、人間。とりわけ子供はそうは思いません」
学校のグラウンドよりも狭い柵より、もっと広い野原を駆けまわらせてやりたい。
柵の向こうから差し入れるバナナ一本じゃなくて、もっとたくさん食べさせてやりたい。
「この象は、そのような素朴な善意の塊です。私の復活の際に騒ぎとなった、いわゆる神霊と同質のものです」
「神霊、ですか」早苗は墓地での騒ぎを思い出す。
あれもつまりは、人格になりきれない微細な欲の塊が、ふわふわ浮いたものだった。
「でも、神霊はこんなふうに、形を成して集まったりはしませんでしたよ?」と早苗は問うた。
「何も全ての神霊が、私のところに集まってきたわけではありません」と神子は言った。
「私のところに集まったのは、私がなんとかしてやれる欲ばかりです。話を聞いてもらいたいとか、誰かに覚えておいてもらいたいとか。一度でいいから聖徳太子を見てみたかった、という欲も集まって来ましたね」
「物部一族のファンもいたぞ! ほんのちょっぴりだけどな!」と布都が威張る。もちろん早苗は無視をした。
「この象の神霊の場合、対象と場所が限定されています」と神子は言った。「象に広い草原で遊んでほしい、思うさま草を食べてほしいという欲ですから、私には構わずに、広い草原に集まってきて、象の形を成した、というわけです」
「神霊は、幽霊みたいに象(かたど)れるんですか?」
「私のところに来たものでさえ、白い人魂を象っていました」と神子は言った。「欲の塊ですから、欲を発散するために、最適の形を取りますよ。幻想郷には広い草原がある。でも、象はいない。だから、象を広い草原で遊ばせるためには、自ら象になるしかなかったのです」
「で、でもでも。それだけであそこまで、大きく強くなりますか?」
「現になったのでしょう? 否定することはできません」と神子は言った。
「おそらく今の外界では、動物園の動物を解き放ってやりたいと思う素朴な善意は、抑圧されて忘れられてしまうのでしょうね。何故動物を飼うのか。可愛いから。商売だから。象だって毎日餌をもらって不足なく生きているのだから、不幸だと決め付けることは間違っている。――と。おそらくその辺りの心情が常識なのでしょう」
そうだろうなと早苗は思った。
――私だって、動物園で象を見た時は、そう思っていたのだから。
「思った端から常識に否定され、忘れ去られた素朴な善意は、それでも随分、大量にあったということでしょう。末法の世までは、まだ幾ばくかの猶予があるのかもしれません」
神子がそう言うと、布都と青娥は控えめに演奏を始めた。どうやら盛り上げどころらしい。
「おそらく丘に出現した時の象は、君が目撃した大きさよりも、もっと大きかったことでしょう。丘の草花を思うさま貪ったことで、いくらかの欲が発散されて、三階建ての家ぐらいの大きさになった。そして君たちと思いきり遊ぶうちに、さらなる欲が発散されて、今の馬ぐらいの大きさになった、ということです。生死のない欲の塊は、発散させる以外に消滅させる方法がない。だから君たちの攻撃は効かなかったのです」
「……霧を撃っていたようなものだったのね」と人形が言った。
だから霊夢さん――もとい歓喜天は、効いていまいとおかまいなしに、攻撃を始めたのかと早苗は理解した。適当に暴れていたのではなかったのだな。
「本来なら、象と人間では一緒に遊ぶことはできない。その常識を取り払うことなしに人間が――あるいは人型の何かが攻撃をしても、それは遊びにならずただの些細な暴力に終わる。だから縮まず、結果として無敵に見える。――きちんと「今から遊ぶんだ」と宣言した歓喜天は、さすがと言ったところでしょうか。欲望に道を作ってあげたんですね」と神子は言った。「霊夢さんの力不足で、十全に消し去ることはできなかったようですけれど」
「分かりました」と早苗は言った。
「では、この象はもう膨らまず、もう少し一緒に遊べば消滅してしまうということですね?」
「いいえ」と神子は首を振った。
「遊んで消滅する分は、もうほとんど滅してしまいました。今ここに残っているのは、人間たちが象に込めた、もう少し厄介な欲ですよ」
「厄介な、欲ですか……?」
「ええ、つまり」神子は微笑みながら言う。
「象とお話したいという、可愛い子供たちの欲のことです」
○
こいしが目を開けると、見慣れた天井がそこにあった。
慌てて起きると自分の部屋だ。まったりしたふとん、壁一面の動物たちの標本。
安楽椅子はギシギシと揺れ、お燐が本を膝に伏せてうたた寝をしていた。
「あれ、なんで私……。やば、もしかして寝ちゃった?」
こいしは慌てて飛び起き、お燐を揺さぶって起こした。
「お燐! お燐! 起きてよ」
「……起きたらお魚くれます?」
「もう起きてるじゃない」と突っ込むと、お燐は大口を開けてあくびをした。
「おはようございます」
「今何時? 私どれぐらい寝てたの?」
「さあ、地獄の片隅で死体みたいに熟睡してたのを運んできたんで、どれぐらいかはよく分からないですね」
「今の時間は?」
「えーっと、朝まで働いて、それから本読んでたらうたた寝コースだから、昼ぐらいですかね」
「昼!?」
こいしはズルズルと崩れ落ちてしまった。
とてもじゃないが姉と聖徳太子のお見合いは叶わない。もう象のことだって片がついてしまっているかもしれない。
――疲れて眠っている間に、何もかもが終わってしまったなんて……。
「お姉ちゃんは部屋だよね」
こうなったら姉に八つ当たりしてやろうとこいしは決意した。
「いえ、さっきお出かけしましたよ。なんでも無名の丘に用があるとかなんとか」
「ガッデム」
こいしは部屋を飛び出して、一目散に地上への直通エレベーターに向かった。
妖怪の山から丘に向かう途中で、こいしはようやくさとりを見つけた。並んで飛んでいる射命丸文と話し込んでいるようだった。
「お姉ちゃーん!」
後ろから叫んで手を振ると、さとりは振り向いて、なんとも言えない顔をした。
「あら、こいし。どうしたの?」
こいしは減速しながら姉にぶつかって、腹立ちまぎれにぎゅっと思い切り抱きしめた。
「なんで起こしてくれなかったの?」
「なんで起こさないといけないのかしら」
「あら珍しい」文はカメラを構えて、抱き合う二人を素早く撮る。
「あのね、無名の丘に象が出たんだよ」こいしはさとりを放して言った。
「天狗に聞いて、知っているわ」とさとりは頷く。
「お姉ちゃん、象が好きなの? 引きこもりのくせに外に出るなんて」
「私はべつに引きこもっていないけれど……まあ飛びながら話しましょう」とさとりは言った。
「あのね、こいし。私が何日も部屋から出なかったのは、ぬいぐるみの制作にハマっていたからよ?」
「嘘、あのぬいぐるみ自作だったの?」
「ええ。毛皮を使った本物仕様よ。気づかなかった?」とさとりは言った。
道理で日毎に増えたわけだとこいしは思った。
「でも、寂しいからぬいぐるみ作ったんでしょう? やっぱり聖徳太子のことで傷ついたんだよね?」
「べつに全然?」とさとりは答える。
「私もあなたも人間の醜さにはうんざりしたけれど、聖徳太子はそうじゃなかった。それだけのことじゃない。だいたい、聖徳太子が復活したのはそこそこ前よ。なんで今更傷つかなくちゃならないの」
「え、だってそれは、何日か前に聖徳太子のことを知ったんだなと思って」
「それはあなたでしょう」とさとりはクスクス笑った。
「たまたまあなたが聖徳太子のことを知った時に、私が部屋にこもっていたものだから。姉はきっと聖徳太子のことで傷ついたんだって、思い込んだだけじゃないかしら」
「そうだよ」
確かにこいしは、聖徳太子と姉を頭の中で勝手に結びつけて、連想し、想像した。
そうして、その設定通りに接したのだ。
「違ったの?」
「設定にはね、リアリティが大切なのよ。あなたの遊びに文句をつける気はないけれど、やるならもう少しうまく遊びなさい」
姉があんまり楽しそうに笑うので、こいしは反撃することにした。
「いいの。現実と想像がどんなにかけ離れていても。想像しないと、卒がなくておもしろみのない姉しか残らないでしょう?」
「……言うわね」
「何の話をしているのかさっぱりですね」と文は笑った。
無名の丘では一匹の象と、魔理沙と早苗とアリス(本体)とメディスンが待っていた。アリスとメディスンの周りには何体かの人形がいて、さとりはキラリと目を輝かせ、人形たちの傍に降り立った。
「待たせたわね」
「待ちぼうけだぜ」と魔理沙が言った。「事情は天狗に聞いてるよな」
「聞いているわ。象と話せばいいんでしょう?」さとりは人形を撫でつつ言った。「象と話せばフランス人形の作り方を教えてもらえるのね」
「教えるわ」とアリスが言った。「ともかく、メディスンが怖がらなくても済むようにしたいのよ。お願いね」
さとりは頷くと、ゆっくりと象の方へ近づいていく。象はさとりを気にせずに、ぼんやりと空ばかり見つめている。
なんだかつまらないなとこいしは思った。姉のこともそうだし。象のこともそうだ。
このまま姉が象がどんな奴かを解析して、やがては綺麗サッパリ解決されて、象は消滅してしまうのだろう。
つまらないな。
どんな奴か分からなくて、勝手に想像できたから、おもしろかったのに。
ところが、「……ヒヒヒ」と姉は不気味に笑った。
「……やられたわね」
「どうしたの、お姉ちゃん。象のモノローグ読んで頭がおかしくなったの?」とこいしはやさぐれ気味に尋ねた。
「頭がおかしくなりそうな欲の塊だということは分かったわ」とさとりは言った。「意思がないのに欲だけが伝わってくるのよ。スピーカーみたいに同じ気持ちの繰り返し……くすぐったいわ。でも、この象、もとい神霊は、誰かと話したいわけじゃないみたい」
「どういうことだ?」と魔理沙が首を傾げる。「太子が欲を聞き間違えたのか?」
「違うわよ。こんなにはっきり伝わってくるんだから、間違えるはずがない」
さとりは象の鼻を撫で、またヒヒヒヒと不気味に笑った。
「たぶん、頭の端でこいしに気を使っていた、早苗の欲を読んだのね。状況から推理すると、そういうことになるわ。わざわざ私を引っ張り出すために、象が話したがっていると嘘を言ったのよ。そうして自分は引き下がった」
「あー……なるほど」と早苗が嘆息した。「姉を呼びに行ったこいしちゃんに、気を使ったわけですか。そうですよね、「話したい」なんて欲、彼女にとっては朝飯前なはずですから。どうして厄介なんて言ったのかと思いましたよ」
「和の心ね」とさとりは口元に手を当てる。「あーおかしい」
「なら、この象は、いったいどういう、馬の大きさぐらいの未練があるんだよ」と魔理沙が腕を組んだ。「こいつは何がしたいんだ?」
「この姿を見れば分かるでしょう」と、さとりは、空を見上げる象の頭を指さした。
「空を飛びたいのよ」
一瞬静まり返った丘の跡地で、最初に反応したのはメディスンだった。
「えー! 象が空を飛ぶの!?」
「象は空を飛ばないわ」とさとりはニヤニヤしながら言った。
「つまりね、人間は柵に囲われた象を見ると、一定の割合で「空を飛んで逃げればいいのにな」と思うらしいのよ。耳を広げて、翼のように動かして、空を飛んだらいいのになと思うの」
「なんだそりゃ」と魔理沙が嘆いた。「突飛にすぎるぜ」
「……名前を言ってはいけないあの企業の名作がありまして」と早苗は恥じらう。
「おもしろくて、笑いが止まらないわ……ヒヒヒ。まだまだ幻想が生きてるじゃないの」
何の話だかさっぱり分からないなとこいしは思った。
どうやら自分の知らないところで、特に聖徳太子絡みで、いろいろと事件は進展していたらしい。
「……馬ぐらいの大きさになっても、軽く百キロはありそうだぜ」と魔理沙は唸った。「箒で担ぐってわけにはいかないだろうな。自力で飛べたらもう飛んでるだろうから、無理なんだろうし……」
「耳をパタパタさせても飛べませんからね」と早苗は頷く。「今からでももっとコミカルな二次元スタイルになれば、飛べるでしょうけど。無理なんでしょうね。「動物園にいるリアルな象への想い」だから」
「めちゃくちゃデカかったくせに形には拘るのかよ」と魔理沙が口を尖らせる。「なんて不条理な欲望なんだ……いや、欲望だから不条理なのか。この異変、解決不可能じゃないか? 文も写真ばっかり撮ってないで、案出せよ」
「萃香さんにぶん投げてもらうとかどうです? 昨日の宴会で酔いつぶれてますけど」と文は言った。「あーあ、私も天狗の飲み会なんか断って、ちゃんとネタ探ししてればよかったなぁ。ネタは毎日探さないとダメですね」
「象が消せないんなら」とこいしは口を挟んだ。「消さなくてもいいんじゃないかな」
「よくないわよ」とアリスが言った。「メディスンがかわいそうじゃない。ねえメディスン」
「私はともかく、こんなに荒れた無名の丘を放ってはおけないよ」とメディスンは言った。「また鈴蘭を植えても、食べられちゃいそうだよ」
無名の丘は隅から隅までほじくり返され、湿った土の平原になってしまっている。
「これだけ土が出来上がってるんだから、もっと象が好きそうなものを育てよう」とこいしはしゃがみ込む。「見渡すかぎり、畑にできるよ。象には野菜を食べさせるの」
「おいおい、またでかくなったらどうすんだよ」と魔理沙が言った。「霊夢はまだ筋肉痛で一歩も動けないんだぜ?」
「毎日殴ればいいんじゃない?」
「誰がそれをするんだ? 野菜育てて、象と戦って」と魔理沙は尋ねる。
「ここに住みたい人形がやればいいじゃない」とこいしは言った。「私は住みたくないから、たまに象と遊ぶだけだよ?」
「わ、私がするの?」とメディスンがオロオロする。「象、怖いよ」
「こんな馬ぐらいの象、全然怖くないじゃない」こいしは象を指さした。
どうしてこんなにムキになっているのか、自分でも分からないなと思いつつ。
「一理ありますね」と早苗は言った。
「外界に動物園があって、今のような常識が続く限りは、迂闊にこの象を消してしまうと、また善意が積もり積もった頃に形を成して、忘れた頃に丘を襲うかもしれません」
「残しておいて、こまめに対処した方が、長期的には楽になるかもってことか」と魔理沙は言った。「それにしたって、コストがかかりすぎる気がするがな。萃香に投げてもらうなり、にとりに気球を作ってもらうなり、そういうのでごまかせないか?」
「自力で飛ばなくても飛んだことになるのか……それを試すのが先ですね」と早苗は頷く。
「自力でなければ、飛んだことにはならないわよ」とさとりは言った。
「象が自力で飛んで逃げればいいのにという想いは、助けたいという善意を貫くことができない弱さへの言い訳。太子は善意の塊と言ったのでしょうけど、それは皮肉ね。これはただの同情の塊よ」
「善意だよ」とこいしは言った。
「ここに在るのが間違っているだけなんだ」
そう言った瞬間に、こいしはようやく自分の心が想像できた。
この象は、こいしの中にいる、寂しがり屋な姉と同じものだ。
実物と、かけ離れていてもいい。二つあるからおもしろいのに、実物に合わせて想像を忘れるなんて、つまらない。
「忘れ去られて、ここに在るのが間違ってるけど。だからって、消す必要はないんだよ」
また静まり返った丘の跡地で、さとりは目を見開いて妹を見つめた。
「あなた、もしかして無意識に悟ったの?」
「何を?」
「……いえ、いいわ」さとりは目を閉じて、ふわりと宙に浮かび上がった。
「善意だろうと同情だろうと、私は人間の気持ちに付き合う気はありません。フランス人形の作り方は、また今度、教えてもらいに伺うわ」
「今教えてもいいわよ」とアリスは言った。「どうやら労働させる人形がたくさん必要みたいだし、私一人じゃ作るの追いつかないわ」
「私が欲しいのは、愛玩用なのよ……ヒヒヒ」
さとりは不気味な笑いと妹を残して、妖怪の山の方角へと飛び去ってしまった。
○
そうして幾つかの季節が巡り、無名の丘の風景はすっかり変わった。
見渡す限りが畑になって、隅には幾つかのビニールハウスと、丈夫な柵が張り巡らされている。
季節によって植えられる作物は違うが、少し小高い日当たりのよい場所には、年中鈴蘭が植わっているそうだ。
「わぁい象さん! メディスン象さん大好き!!」
すっかり象になれたメディスンは、日々機嫌よく農業をこなしているらしい。
象は何をするでもなく、日がな一日ぼんやりと空を見上げているが、時折思い出したように畑に鼻を突っ込んで荒らしている。
今もまた、収穫時期のライ麦畑がかき分けられて、周囲の人形が慌てて臨戦態勢に入る。三十体の人形のフルオート射撃を十分も当てればおとなしくなるが、十分もあればかなりの畑が荒らされるので、人形たちはみな必死だった。
こいしはこっそり隣の畑のじゃがいもを齧りながら、よくもまあ、私が想像しただけの畑が、こうまで形になるものだなと思った。
現実と想像が、たまには入れ替わることもあるらしい。
「あ、なんだか霊夢が、ペガサスの神霊と戦ってる気がする」
じゃがいもをもう一つポケットに入れると、ピンと来た方角に飛んでいく。
無意識のアンテナを尖らせて、今日もこいしは適当に、あらゆる物事を二つに増やして遊ぶのだった。
キャラのやることなすことが自分の思っていたとおりですげー馴染む。そう思うのも、こいしの遊びの仕業に違いない。
物事を眺めてこうなるだろうと予測して、まさしくそうなったときに「やっぱり!」とドヤ顔するのは楽しい。
誤字報告
>済から済まで
いずれはこの幻想郷の作者となるのでしょうか。
原作からそうですけど、霊夢はどこでこういう勉強をしたんでしょうね。
熱心に経典を読むところが想像できない。
ところで「貧相な巫女」という言葉がありますが、貧乏臭いあたりに言い換えた方がいいんではないかしらん。