人里に地獄が訪れた。
村人の一人が声もあげられないまま倒れ込む。
この里に住む上白沢慧音は、目を疑った。かつてない大災厄が、目の前に広がっていたのだ。
一人、また一人と村人が卒倒する。人々の視線の先には、『災厄』そのものがあった。
薄れゆく意識の中で、慧音は記憶を探る。
どうしてこうなってしまったのか。反省も後悔もなく、ただただ絶望に彩られた走馬灯が頭の中を駆け巡るのだった。
――――『厄神様フェスティバル!』――――
その日、人間の里は色めき立っていた。里の者はみな期待に胸を躍らせ、もう待ちきれないといった様子でしきりにそわそわしている。
「まったく、落ち着かないな」
明日の授業の準備を済ませて軒先に出ると、思わずそう呟いていた。私、上白沢慧音は寺子屋の前でぼんやりと人里を見回した。辺りは不穏というには浮き足立った、妙な空気が支配していた。
大きな期待と願望、わずかな不安、そしてちょっぴり甘酸っぱさが混ざりあったその雰囲気に、少しばかり心当たりがあった。ちょうど、私が寺子屋で席替えを提案する際に漂うあの独特の緊張感に似ている。それが、今まさに里中を包んでいるのだから、落ち着かないのも無理はない。
こんな事態になったのは、ある噂に原因があった。
今日はこの里で宴が執り行われる。これは人間たちが越冬を祝って毎年行なっているささやかなものだ。しかし、ひとつだけ例年と違う点があった。それは宴の目玉として、その席に厄神様が招かれた、という点だ。噂は途端に里中を駆け巡った。
厄神様は常日頃から人々を護っていながら、普段は人前に現れることはない。まだ見ぬ厄神様の御姿に想像を巡らせれば、人間たちが盛り上がらないわけがなかった。
「なんだか下品な空気が流れているわね。いやになっちゃう」
不意に、隣から声がかけられる。見ると、小柄な少女が頬を膨らませていた。よく見知った顔だ。
「ああ、稗田の。今日はよろしく頼む」
ご機嫌斜めな様子で突っかかってきた少女は、稗田阿求。今日は私と共に宴の進行役を任されている。
「どうして私が進行役なんか。私が忙しいことぐらい、皆承知の上でしょうに」
「なにをいまさら。私と阿求殿が、里の者から信頼されている証拠じゃないか」
ぷりぷりと不平を口にする阿求を、とりあえずなだめる。
なぜ、彼女はこんなに機嫌が悪いのだろう。そもそも、里で何かを催す際はだいたい後見役として慧音か阿求が任命されていた。何も任されないほうが、かえって不安になってしまうくらいだ。
「やけに不満そうじゃないか。普段なら笑顔で引き受けていただろう」
彼女がこうした祭事に乗り気でないのは珍しい。気になって軽く聞いたつもりだったのだが、これが完全に地雷だった。
「不満? 当たり前じゃないですか! 里の様子を見てくださいよ、厄神様の噂で持ちきりですよ」
阿求は、小さい体からは想像できないほどの剣幕で怒りを口にする。
「私がどれだけ頑張っても、どうせ脇役ですよ」
「催し物の役職なんて、もともとそんなものだろう。目立ってどうする。縁の下の力持ちがいるからこそ、里は上手く――」
「それじゃあただの損な役回りですよ!」
阿求が憤る。言葉を遮られて閉口しながらも、阿求の言わんとすることは読み取れた。
(ははあ、前からそういうところがありそうな気はしたが、しかし)
ふと生じた予感に呼応するように、阿求が言い切ってみせた。
「私は、ちやほやされたいんです!」
(こわいな、この子)
外見はとっても清純で可憐な少女を眺めながら、心の中でそう呟くに留めておく。
まだ、阿求の不満は収まらない。
「だいたい、すぐ近くにこんなに可愛い子がいるのに、なぜ男たちは他の子に目が行っているのでしょうね!?」
私に聞かれても困るのだが。でも、とにかく何か答えないと、私まで敵にされてしまう勢いだ。
「阿求殿。君に想いを寄せたところで、絶対に叶わない。それは里の者も分かっている。だから、けして君に魅力がないとかそういったことでは――」
「それは厄神様でも半獣先生でも同じじゃないですか!」
「半獣先生って……」
語呂がいいな、と思ったのは置いておいて。しかし、私としたことが下手な言い訳だった。里の者が阿求を差し置いて沸き立つ、もっともらしい理由を考えなければ。阿求が私を睨みつけると、自然と上目遣いになる。頬は怒りで桃色に上気していた。
「……」
というより、阿求は見た目がすでに犯罪だ。可愛い。可愛いのだが、幼すぎる。言い寄ろうものなら、即お縄だ。
「そうだ! 普段から里に住んでいる者は、慣れてしまっている。それが原因だろう」
窮地に陥った私は、思いついたことを咄嗟に口に出していた。だがどうだろう、今度の出任せはなかなか説得力がありそうだ。幼いころから見慣れている者に対しては、そういった対象で見ることができない。幼なじみが勝てない法則である。
「ほら、歴史的に見ても色恋というのはそんなものだろう?」
私も、実のところは、自分でいうのもなんだが、外見はなかなかのものだと思っている。胸はけっこうある。よく肩が凝って困る。髪艶にも気を配っているし、授業中は眼鏡を掛けることもある。これは特定の層には受けるはずだ。なにより女教師というものは、それだけで加点要素ではなかろうか。
そんな私に対して、人間たちはしかし、恋心ではなく尊敬の念を向けてくるのが普通だった。つまりは、そういうことなのだ。うん。
「人間たちも、珍しいものを見たいだけだ。察してやれ」
私がうまいことまとめると、阿求は黙り込んでしまった。不満そうではあるが、まあ大丈夫だろう。
里中に漂うそわそわした空気。先ほど、これは寺子屋で席替えを提案した際に流れる空気に似ている、と説明したが、あれは少し正確さを欠いていた。訂正を加えるなら、席替えよりもずっと期待度が高いのだ。私なりにもっと適当な描写をすると、寺子屋に転校生が来て、その転校生が神がかり的な(神だが)可愛さだ、という噂が流れている状況に合致する。寺子屋に転校生など来たことはないが、これ以上伝わりやすい表現がないのだから仕方がない。
しかし、ここまで噂になっていると気にはなる。私も厄神様に直接会ったことはないので、しきりに囁かれている噂の真偽はわからない。
「厄神様については、容姿に関する噂が絶えないな。なんでも、この世のものではないほどの美しさで、まさに人間離れした麗しさだということじゃないか。実際はどうなんだ? 阿求殿は、会ったことはあるのだろう?」
この話題を続けるのもどうかと思ったが、どうせ今日は厄神様一色だろう。さすがに好奇心が勝った。阿求は、面倒そうに受け答える。
「ええ、今の代ではないので少し曖昧な部分もありますが」
「ほう」
「まあ、可愛いですよ。……私には敵わないですけど」
「……意地を張るな、阿求よ」
まったくこれだから。私はなんとか情報を引き出そうと食い下がる。しつこいぐらいの追求に、阿求は諦めたように口を開いた。
「そうですね。全体的に西洋人形みたいでしたね。色白で整っていて、服装も煌びやかで。たしかに綺麗だし、可愛かったですよ。華奢だけど女の子らしいというか。俗っぽくない感じはしましたけど」
「なんなんですかね。あんな感じが神秘的でいいんですかね。庇護欲をくすぐるといいますか。私もそういう路線なんですけど」
阿求の毒が大変なことになっていたが、なるほど噂は本当らしい。常に人間を支えてくれていながら、あまり表に出ず、健気で華奢で色白で、でもスタイルは良く、神秘的な魅力がある。私たち歴史家な二人よりも「スタンダード」な需要を感じずにはいられなかった。
「ふむ。普段妖怪に怯えている里の奴らが、好きそうな感じだな」
男とは単純なものだ。私は呆れて阿求に同意した。
そのとき、山のほうから声があがった。
「厄神様がお見えになったぞー!」
日はそろそろ上りきろうかというころ。今日の目玉ゲストの登場だろう。
「もう来たか。さて、出迎えなければな」
宴の進行役、また里の代表として、お出迎えしなければならない。私はむくれる阿求を引っ張りながら、声のあがったほうへ歩を向けた。
里の入口近くに着くと、厄神様を一目見ようという人で、すでに人垣ができていた。その人気のほどは、こちらから厄神様の姿を確認することができないほどだ。
「ちょっとすまない、通してくれ」
大事な客人に無礼なことがあってはならない。私は阿求を盾にして突き進むような具合で、人垣に割って入った。阿求の小さな体を人ごみに無理やり押し込んで、スペースを確保しながら前進する。しばらく奮闘して、ようやくあと少しで先頭にたどり着くか、と思ったそのときだった。
私の前方、阿求の目の前にいた男が、突如真っ赤な血しぶきとともに倒れた。
蒼天を見上げた男の鼻から噴水のように舞った鮮血は、そのまま頭上から阿求に殺到する。
――全身から滴る生暖かい液体。阿求はかつてない悪寒に放心しながらも、なんとか己の状況を把握しようと試みる。ぬるぬるとした異様な感触を確認した直後、阿求の視界に赤く染まった自らの両手が飛び込んできた。
「なんじゃこりゃぁああああああ!」
阿求の、清純小動物系幼女らしからぬ絶叫がこだました。
一体なにが起きたのか。私が顔をあげると、目の前には果たして、女神がいた。いや、よくみるとそれは件の厄神様であった。厄神様は一連のできごとに、おろおろと立ちすくんでいた。
「ど、どうしましょう……!」
水晶のように美しい瞳に清廉な涙を湛え、厄神様は長いまつげを懸命にしばたたかせていた。
その西洋絵画のような芸術的な光景に、群集はいっせいに心を打たれた。近くにいた者がもう一人、思わず鼻血を吹き出して倒れた。よく見ると、厄神様の周りには無数の人が倒れていた。誰も彼も、厄神様の美しさにやられて失神してしまっているらしかった。
厄神様は、周りで次々と人が倒れていく様子に動揺し、ますます涙を浮かべる。それが悲しいかな、ますます美しさを引き立てる結果となり、人々の心を打ち抜く感動は加速していった。
「まずい、このままでは……!」
そんな圧倒的な女子力を前に、私はどう対処すればよいか、必死で頭を働かせていた。宴の責任者としての自負もあったが、それよりもなによりも、このままでは厄神様の魅力に里中が骨抜きにされてしまう。なんとか、里の平和を守らなければ。
「や、やあ、どうも、厄神様。ようこそ人里へおいでくださいました」
私は狂乱する阿求を掴み、二人で無理やり厄神様の目前に躍り出ると、なんとか挨拶した。
里側の代表者である私と阿求が出ていくことで、その場の混乱は一応おさまった。里中の者が、私たちの一挙手一投足に注目している。さあ、ここからが私の腕の見せ所だ。
「私が今日の進行役を務める、上白沢慧音だ。宴の準備もそろそろ済むので、早速その席に案内しよう」
こんなとき、敬語は不要だ。幻想郷の神様は、必要以上に畏れられ祭りあげられるのを好まない。
厄神様のほうは、一瞬阿求の血まみれの姿に目を見開いたものの、一応は里の正式な案内ということで、少し緊張した面持ちで姿勢を正す。体の前側でちょこんと両手を合わせる様など、いちいち仕草が愛らしい。それを見て皆鼻の下を伸ばすが、失神する者が出るには至っていない。
「だが、その前に。いつまでも厄神様、と呼んでいては壁ができてしまう。我々はどのようにしたらいいかな?」
私は他の呼び名を探った。これが、厄神様の圧倒的な女子力に対抗するための打開策の一つだ。人間というものは、自分より優れた、素晴らしい存在を見つけると、急に自分が浅ましく、穢れた存在に感じられ、その強烈な劣等感から自ら破滅に向かってしまう。鼻血はその副作用とも呼べるものだ。
そこで解決策として、まず厄神様という仰々しい呼び方から変更し、とにかくフレンドリーに呼ぶ。こうして人間の近くに降りてきてもらうことで、これ以上人間側に被害をださないという算段だ。
厄神様はハッとなって、慌てて言葉を返した。
「ああ、ごめんなさい。自己紹介がまだだったわね。私は鍵山雛。適当に呼んでくれて、構わないわ」
澄みきって清らかで、それでいて独特の甘さがある声で、おずおずと名乗った。鍵山様、では仰々しいことに変わりないので、雛様、とでも呼べばいいだろうか。これなら、秋の収穫祭に招く穣子様とか静葉様と同じノリで接することができるだろう。
「うむ、では雛様。今日はよろしく」
私が手を出すと、雛様は一瞬、驚いた表情を浮かべた。
それにしても、雛様は間近で見ると一層愛らしい。可憐で、儚く揺れる花を連想させるような愛らしさだが、一方で精巧に作られた人形のような、無機質な美しさも持ち合わせ、そうかと思えば、全体的に程よく締まりながら、女の子らしい無防備な部分が垣間見える官能的な雰囲気は、女豹のそれを思わせるほどの誘惑があった。
よく「女の可愛いは信用ならない」という言葉を聞くが、私にはようやくその意味が分かったような気がした。たしかに目の前の少女は可愛い。可愛いが、それを一言、「可愛い」と出してしまうと、途端に陳腐なものになってしまう。これほどの素晴らしい少女を前に、私は「可愛い」などと、うわっつらの賞賛を並べようという無粋な真似はできなかった。
ちなみに、阿求は不本意ながらも、私に倣って雛様に手を差し出していた。頬を赤くして、嫉妬が含まれた感情を隠すつもりもなくむくれている阿求は、その、つまり、可愛かった。
雛様はしばし逡巡した様子だったが、意を決したように手を握ってきた。
「よ、よろしくお願いします……!」
雛様の手の感触に、私はかつてないほどの衝撃を受けた。雛様の手は、小さくて、すべすべで、そして、やわらかい――!
私の感嘆とともに、あまりの感触の素晴らしさに思わず、体の一部分が反応して、荒々しい硬さをもって興奮を表現しようとする。体中の血液が集中し、反り立つほどに棒を固くしていく。もちろんツノのことである。もちろん、ツノのことである。
「では、宴の席へ行きましょうか」
感情の制御で手一杯な私に代わって、血まみれの阿求が珍しく仕事をした。一行は大量の村人を引き連れ、移動を開始する。
「雛様――雛様――」
私の作戦が功を奏したのか、村人の間でも雛様という呼称は広まったようで、群集の中から時折、確認するような声が聞こえてくる。これで、近づいただけで失神するような神々しさも多少は抑えることができただろうか。
しかし、安心できたのも僅かな間だけだった。じきに、誰が思いついてしまったのだろうか、あまりにも危険な響きが耳に飛び込んできた。
「雛ちゃん……!」
それはいけない。その響きは反則級の愛らしさだ。
私が身の危険を感じた直後、命知らずの若者が一人、雛様の目前に躍り出て言い放った。
「雛ちゃんって呼んでもいいですか!?」
溢れ出る信仰心と止まらないロマンチックを抑えきれず、半ば暴走のような形で問いかけたその若者は、しかし、答えを聞くことはできなかった。
若者は無言で膝から崩れ落ちる。その視線の先には、突然のことでドギマギし、困惑した表情で小首を傾げる雛様の姿があった。この世のものとは思えぬ、あんな愛らしいものを至近距離で目の当たりにした若者は、もう助からないだろう。
だが、これはまだ序章に過ぎなかった。
雛様は小さく首を縦に振り、頬を染める。
「みなさんが、そう呼びたいのなら……。――い、いいよっ!」
極限の照れと恥ずかしさを混ぜ合わせた、甘い声。それを、目を瞑って力いっぱい発した様子は、なんと表現すれば良いだろう。
その声は人々の耳の中で甘く反響し、脳まで響いて蕩けさせるほどだった。
雛様は、顔から指の先まで、色白な肌を真っ赤に染めている。あまりにも、目に毒だった。
雛様という存在、それ以外の全ての事象が、塵に等しい。
それは疑いようのない、当たり前のことだった。
おわり
ていうか血が通ってるのかww
仕草を想像したらあまりの可愛さに卒倒しそうになった。
雛ちゃんが可愛いことは十分すぎるほどわかった。惜しいことはこのSSが一週間前だったら……
いいぞもっとやれ!鼻血出しながら俺も倒れたい!
雛はもちろん、慧音も阿求も可愛いかったです。
もっと死屍累々のさまを読みたい。
出だしに「3年B組!」とか入りそうw
もちろんかまってちゃんな阿求も半獣先生の慧音も可愛いですよ
妄想が滾り、村の男たちにとても共感できました。短いSSですが、その中にあどけない阿求と幻想的な雛の可愛さを存分に読者に伝えていたと思います。
これは濃いSSです。100点を入れるしかあるまい。
慧音先生、よくぞ耐えきった。