狭くて仄暗い場所というのは何かしら心躍るものだ。
誰だって子供の頃に机の下に隠れたことくらいあるだろうし、今だってしんとした冬の夜に布団に包まるのには何ともいえない親近感が漂う。
しかし、それはその後に広く明るい外に出られる保証がある時に限ったことだ。
束の間、暗い場所にいて、その後明るい場所に出て安堵する。
それを前提にして、暗い場所に対する親近感というものが生まれてくる。
要するに何が言いたいかというと、永遠に地底で暮らすことを義務付けられた私たちにとっては地下に対する親近感もへったくれもない、ということだ。
長い間逼塞した場所で生きていると感情までもが煮え立ってくる。
私の場合、その感情とはすなわち嫉妬に他ならないので尚更性質が悪い。
ただ、蠍が己の毒で死ぬことはないのと同じように、私も自分の嫉妬心によって押し潰されることはない。
いや、それは正確ではない。
表面上、私は嫉妬に押し潰されないように見える、というのが正しい。
すなわち、私は外から見れば至極明るく、健気で、優しい妖怪だということだ。
それが、私のキャラクター。
嫉妬を操る、けれど快活で心優しい妖怪。
私は今まで自分の配役を上手く演じてきたように思う。
「そうですね、私もそう思いますよ」
そして、こいつだ。
こいつが。
こいつこそが……私の敵。
「私は敵ですか」
「ええ。何でも良いから私の視界から消えてくれる?今すぐ」
心を読む覚り妖怪、古明地さとり。
私がどれだけ表面を取り繕おうと、こいつにはすべてが筒抜けだ。
こいつがいる。
こいつが私の近くで生きている間、私は安心して眠ることすら出来ない。
ぎり、と歯を噛み締める。
「どうしてそんなに私を疎むんですか?私が何をしたというんです」
白々しく、さとりが言う。
私より小さく、痩せた体躯。
癖のある毛に、割合整った顔立ち。
眠そうな双眸とは対照的に、胸の前でぎょろりと剥く第三の目。
それが私の思考を、内面を、秘め事を、悪意を、すべて暴き出す。
「謂われなき迫害にはお互い慣れっこでしょう。甘んじて受けなさい」
「確かにそうですね。ではそうすることにしましょう」
無表情にこちらを見るさとり。
もちろん私から離れなどしない。
こいつは私が何をされたら嫌がるかを完璧に把握しているのだ。
地底に住む妖怪たちのほとんどが、私とさとりは仲の良い友人同士だと思っている。
それも無理はないだろう。
私がさとりに表面的に憎悪を剥き出しにするのは二人だけの時のみで、さとりはと言えばいつでも私に薄ら寒い友人面で接してくる。
他の者達に私たちがどう見えているか、容易に想像がついて吐き気がする。
私は橋姫として地上と地下とを結ぶ縦穴を守る任についている。
これは要するに地底の公務の一つで、すなわち私は公務員だ。
地底の公務を統括しているのが地霊殿で、その主であるさとりは私の直属の上司ということになる。
文字通りのアングラ世界の地底で安定した暮らしを営むのは難しい。
誰もが羨む公務員の職をみすみす捨てるような阿呆はいない。
しかし、ここで公務員として働くということは、古明治さとりの部下になるということだ。
気に入らない。
何もかもが気に入らない。
何もかもが私に不利に出来上がっている。
地上を追われたはぐれ者の私達には、暮らせる場所は地底しかない。
今更どうすることも出来ないのだ。
もうこれ以上逃げる場所はない。
ここは世界の果てだ。
だから私はここでうまくやっていこうと思った。
嫉妬心を押さえ込み、快活で明るく優しい水橋さんを演じることに決めた。
それは私が思っていた以上に上手くいった。
多くの妖怪たちが私を受け入れてくれた。
しかし、こいつはすべてを知っている。
私の心に渦巻く猜疑心を、狡猾さを、巨大な嫉妬心を、何より余裕のなさを知っている。
どれだけ今の私のささやかな暮らしが脆いものであるかを知っているのだ。
そしてこの覚り妖怪は視察と称していつも私の橋にへらへらとやってくる。
こんな風に。
周りには人っ子一人いない。
単純に腕力だけなら私はこいつに勝てる。
こいつをここでぶちのめしたらどんなにスカッとするだろうと思う。
「ええ。でも、そんなことをあなたはしない」
そうだ、そんなことは私にはできない。
せっかく勝ち得たまともな暮らしなのだ。
例えそれがどんなにささやかなものであれ、以前の私にはどうしても得ることが出来なかったものを、今何とか手にしたのだ。
それを一時の暴力的な衝動でぶち壊しにすることなどもってのほかだ。
「ねえ、どうしてあなたはそんなに私に付きまとうの」
「付きまとっているつもりはありませんよ。上司としては部下の仕事振りをある程度確認する必要がありますから」
「他にも色々いるでしょう。歪んだ心を持ったあなた好みの妖怪たちは。痛めつけて嬲り殺すならそいつらにすればいいじゃない」
「酷いことを言いますね、あなたという人は」
はあ、と一つ溜め息をついてさとりは向きを変えて、橋の下の川に視線をやる。
私もそっぽを向いて川を見た。
川は相も変わらず澱んでいる。
まったくもって、いつ見ても澱んでいる。
地底の住人たちの心を集めて絞ればこんな汁が出るのだろうか。
それとも川を汚しているのは私の心だろうか。
遠く遠くの川下には滝があるらしい。
らしい、というのは誰も見たことがないからだ。
誰もそんな危ない場所にわざわざ近づこうとはしない。
誰の心も届かないそこで、水はようやく綺麗に浄化されるのだろうか。
一体何なんだろうか、この喪失感は。
色々なことがマシになってきたはずだ、と思う。
暮らしにしても、人間関係にしても……。
以前の私のそれらに比べて、今の状況は格段に良い筈だ。
それなのに、不安だ。
一度得たものを手放すのは、元々持っていないよりもずっと辛い。
私は上手く振舞えているだろうか。
上手く立ち回れているだろうか。
どこかでボロを出してはいないか。
目の端に、まるで心配しているかのように私を見ているさとりが映る。
もう良い。
そんな寒い演技はいらない。
勘弁して欲しい。
お願いだから。
もうこれ以上私の心を晒しものにしないで欲しい。
もうこれ以上私の心を掻き回さないで欲しい。
私にだってまともな生活を楽しむ権利くらいある。
私にだって……。
私が例え下手を打たなくても、それよりもっと酷いことがさとりにはできる。
私が心の底から恐れていることを、残らず現実にすることが出来る。
ちょっと他の妖怪を唆すだけで。
ちょっと口を滑らせるだけで。
叫びたくなるくらい怖い。
ギチギチと何かが音を立てて軋んでいる。
歯車が上手く回らなくなってきている。
歯の根が合わなくなってくる。
がたがたと、体が震える。
怖い。
怖い。
怖い。
怖い。
「もういいです」
「…………なに」
「もういいと言ったのです、パルスィ。今日は家に帰って休みなさい。これは職務命令です」
「…………」
「あなたが心配しているようなことは起こりません。いいですか。あなたが帰ったことを職務放棄として上に報告するようなことはありませんし、あなたを不適正者として解任する気もありませんし、代わりに私のペットを連れてきて橋を乗っ取らせることもありませんし、あなたがいない間に橋を壊してその責任を擦り付ける気もありませんし……ああもう、よくこんなに思いつきますね」
ぐっとさとりが詰め寄ってきた。
離れろ。
「とにかく。あなたに不利になるようなことは何も起こりません。私が責任を持って起こさせません。そんなことがあればあなたの前で首を掻き切ってあげます。……だから、あなたを殺人犯に仕立て上げることもしませんから!」
さとりが私の胸倉を掴む。
離せ。
「もういいから!黙って帰って寝ていなさい!」
さとりはそう言うと手を離してそっぽを向いた。
咄嗟にその背中に弾幕を撃ち込むことを考える。
びくり、とさとりの背中が震える。
その無防備な背中に向けて、ほとんど無意識に手を挙げる。
静止。
耳に突き刺さるような沈黙。
私は何も出来なかった。
さとりは振り返らずにそのまま走り去った。
◎ ◎ ◎
怖かった。
本当に殺されると思った。
彼女の心の中は私に対する殺意だけで占められていて、私は恐ろしさのあまり身を庇うことすら考えられなかった。
彼女が私を嫌っていることは最初から知っていた。
表面には出さないよう努力しているものの、やはり彼女は生粋のペシミストであり、あらゆる物事について、その最悪の事態ばかり考えているのだ。
私に対する否定的な感情もその一環に過ぎないと思っていた。
むしろ、私は彼女の負の感情を隠そうともしない開放的な性格に、好意すら抱いていたのだ。
しかし、最近の彼女の心の中では、悲観論者だから云々では済まないくらい被害妄想が増大して、明らかに精神病の域にまで達していた。
だからこそ、今日は休むように言ったのだが、その後私に向けられた感情は……。
屋敷に帰るとペットのお燐が紅茶を淹れてくれた。
彼女は私に何かがあったと感づいて、口には出さないが心配してくれている。
聡い子だ。
紅茶を一口飲んでようやくまともな息をついた。
パルスィの私に対する被害妄想は日に日に酷くなっている。
不安が私に対する憎悪にとってかわり、ついにそれは今日殺意にまで達した。
彼女が精神に異常をきたし始めたのに最初に気付いたとき、すぐに彼女に近づいたのが良くなかったのだろう。
彼女は、私が接近したせいで自分の心が不安定になったと誤解している。
その誤解がどんどん膨れ上がって、私が彼女の心の中を地底の連中に触れ回って彼女の居場所をなくそうと画策している、などという奇妙な妄想を作り出している。
もちろん私は彼女に危害を加えるつもりなど一切ない。
錯乱し始めていて、放っておけば何をしでかすか分からない彼女が心配で、話をしようと近づいただけだ。
やりきれない。
地底では、彼女のように心に仮面を被って生きている者は少なくない。
それは皆が、もうここを追い出されたらどこにも居場所がないことを知っているからだ。
私だってそうだ。
私はもう何も失いたくない。
なんやかやと大事なものを道端に落としても平然としているような生き方は私にはできない。
そうやって生きるには、私は既にあまりに多くを失いすぎた。
最近、放浪していた妹がようやく家を拠点に暮らすようになった。
お燐が妹を説得して、私とちゃんと話し合う機会を作ってくれたのだ。
お燐にはいくら感謝してもしきれない。
パルスィは同じ地底に暮らす大切な仲間だ。
彼女を失いたくはない。
精神に異常をきたし始めた彼女を見て、どうにかしなければいけないと思った。
しかし……実際この有様はどうだ。
パルスィはどんどん心を病んでいき、私は彼女にあらぬ誤解を受け、憎まれている。
どうすればいいのだろう。
どうすれば……。
◎ ◎ ◎
一ヶ月が過ぎた。
さとりは私を常に私を見張っている。
私の背後から。
建物の影から。
橋の裏から。
川の中から。
頭上から。
幾度も殺してやろうと弾幕を放ったが、どれも上手く当たらなかった。
私はずっとさとりを仕留めるチャンスを窺っていた。
そして遂にさとりは他の妖怪の皮を被ってやってきた。
私の前にのこのこと。
今が好機とばかりにそいつに襲い掛かると、別の妖怪の皮を被ったさとりが邪魔をして、仕留めることができなかった。
さとりは分裂するのだ。
知らなかった。
それ以来というもの、橋には人間も妖怪もやってこない。
最近姿を見せる者と言えば獣の皮を被ったさとりくらいだ。
獣の形をしたそれを一発で仕留める。
皮を剥ぐと、既にさとりは逃げおおせていた。
狡猾なやつ。
私は歯噛みをする。
あっ。
後ろに気配を感じて振り向くが、さとりはまたも私の視界からするりと消え失せる。
私の思考を読んでいるから、私がいつ振り向くかなどお見通しと言うわけだ。
弄ばれている。
恥辱と怒りが喉までせり上がってくる。
しかしこの思考も読まれているのだ。
私が汚い言葉を口に出さなくても、さとりは自分のやっていることの効果を十二分に把握している。
ああ、ちくしょう。
天を仰ぐとそこにもやはりさとりがいて、その上またしても私が放った弾幕は空を切る。
私はうなだれた。
川の水音がやけに大きく聞こえた。
◎ ◎ ◎
パルスィが妖怪を襲った。
幸い近くにいた別の妖怪が機転を利かせたため、誰も怪我はしなかったが、この事件は閻魔様の耳に入った。
閻魔様は、早急にパルスィを始末するように、という手紙を寄越してきた。
そんなことをさせるわけにはいかない。
地霊殿の主としてやるべきことをやる。
一刻の猶予もない。
まず、人妖に橋に近寄らないよう通達を出した。
周辺の人妖の安全を確保するのはもちろん、問答無用でパルスィが退治されないように、という配慮も少なからずある。
犠牲者がいないことは、パルスィを始末しろと迫ってきている閻魔様をいなす上で有効な手立てとなる。
次に、地上の妖怪の賢者に、橋を通らないルートから手紙を持たせたお空を派遣してメッセージを伝えた。
被害者が出ないよう、既に対策は打っている。
この件は地底で責任を持って解決するため介入は不要、と。
最後に、お燐に橋へと偵察に向かわせた。
くれぐれもパルスィに気取られないように、と言い含めて。
お燐は野生の獣の死体を車に載せて持って帰ってきた。
「さとり様。どうやら、パルスィは通りがかった獣を殺して皮を剥いでいるみたいです」
お燐は顔をしかめて言った。
皮を剥ぐ?
そんなことをして、何の意味があるのか分からない。
調べなくてはならないが、これ以上お燐に負担をかけるのは憚られる。
やはり、この目で確かめなくてはならないだろう。
私は恐怖に駆られながらも、橋へと向かった。
橋が見えるより遥かに前に、パルスィの強烈な思念が頭に響いた。
思わず身震いする。
……これは、無理だ。
パルスィは私に監視されているという妄想に憑かれている。
彼女の頭の中では無数の私が彼女を弄び、嘲笑っていた。
パルスィは、私を必死に撃退し、殺そうとしている。
彼女の被害妄想は取り返しのつかないところまで進行していた。
パルスィの中の私は橋の裏に隠れ、頭上から見下ろし、建物の蔭から見張り、背後から近寄り、そして獣の皮を被って隙を窺っていた。
なるほど、だからパルスィは獣を仕留めて皮を剥いでいたのだ。
実際には、そんな冷静な分析が出来たのは屋敷に帰ってからの話で、その時の私は気付いたら泣きながら走って逃げ帰っていた。
怖かった。
向けられる強烈な殺意が怖かった。
友人だと思っていた者に蛇蝎の如く嫌われていることが怖かった。
ただただ恐ろしかった。
しかし、不思議とパルスィを憎む気持ちにはなれなかった。
息が切れる。
私は体が強くない。
後ろを気にせずにはいられない。
気付かれてはいなかったが、それでもパルスィが私を殺そうと追ってきているのでは、という考えはそう簡単には消えなかった。
なんとか短時間で息を整えてもう一度走り出す。
無限にも思えた距離を走ってようやく屋敷に辿り着く。
「さとり様!何があったんです!」
蒼褪めた顔の私を見て驚いたお燐が駆け寄ってくる。
「大丈夫……大丈夫だから。後で話すわ。今は休ませてちょうだい」
お燐は心の中では事情を聞きたがっていたが、それが伝わっているのだからあえて口に出して私を煩わせるべきでない、と考えている。
本当に賢い子だ。
彼女のお陰で私はなんとかやっていけている。
そう、思った。
そして、はたと気付いた。
そうだ、それだけでは駄目だ。
思っているだけでは駄目なのだ。
「ありがとう、お燐。ごめんね、あなたにはいつも迷惑ばかりかけて……」
「いえ、何おっしゃってるんですかさとり様」
強張っていたお燐の表情が少し和らいだ。
「お疲れなんでしょう。ちゃんと休んでください。でも後でちゃんとお話は聞かせていただきますよ」
「ええ、ええ。もちろんです。ありがとう。あなたもくれぐれも無理はしないように」
それじゃ、と言ってお燐は台所に向かった。
お燐の背中を見送りながら思う。
もしかして、これではないだろうか。
私は言葉を疎かにしすぎていた。
パルスィとの間に決定的な溝が生じてしまったのも、ひとえに私が細やかに言葉をかけることを怠ったからではないだろうか。
私は相手の心が読める。
だから、相手の反応を読むことばかりで、自分で言葉をかけることは少ない。
今お燐に対して、後で話すから今は休ませて、という最初の言葉しかかけなければ、お燐はどう思っただろうか。
心配しているのにぶっきらぼうな態度をとられれば誰だっていい気はしない。
彼女は賢くて優しいが、それでも私に対して何がしかの不満を抱いただろう。
口に出すことはなくても、小さなしこりが残っただろう。
同じ屋根の下に暮らしている、長い付き合いのお燐でさえそうなのだ。
付き合いがあるとはいえ、頻繁に会うという程のことはないパルスィだったらどうだろうか。
相手の心をつぶさに読みとりながら、その癖自分の感情をあまり語らない私に対して不信を抱くな、という方が無理だ。
仮説はほとんど確信に変わっていた。
後悔する。
取り返しのつかないことだ。
私は周りの好意に甘えて、初めて得た暮らしやすい環境に浮かれ切って、そんなことにすら思考が至らなかったのだ。
パルスィは悪くない。
悪いのは私だ。
私は自分の部屋に戻って考えた。
どうすればいいのか。
私は何をすべきなのか。
悩んだ。
悩んだ。
悩んだ末に、一つ答えが出た。
いや、むしろ最初から分かっていたことなのだ。
悩んだと言って、他の方法はないかと逃げ道をうだうだと考えていたのに過ぎない。
やはりこうするしかない。
私は覚悟を決めた。
お空は地上の賢者に手紙を渡した後、他の地上の大きな勢力に対してもメッセンジャーとして向かっていて、まだ帰ってきていない。
こいしは、パルスィを始末しろと迫る閻魔様を説得しに行ってくれていて、彼女もまだ帰ってきていない。
今、地霊殿にいるのは動物たちを除けば私とお燐の二人だけだ。
お燐が作ってくれた夕飯を二人で食べながら、さっき起こったことをお燐に話す。
お燐は怒った。
そんな理不尽な話があるか、と。
嬉しかった。
ありがたかった。
私が悪いのだと分かってはいても、彼女が心から私に味方してくれる、という事実に私は救われた。
だからこそ、もう迷いはなかった。
この時間、お燐はもう眠っているはずだ。
そっと部屋を抜け出して、玄関へと向かう。
「さとり様」
残念ながら、そう上手くはいかないようだ。
「なあに、お燐」
「こんな時間にどこに行かれるんですか」
「大した事ではないわ。すぐに戻ります」
「嘘でしょう。虫の知らせがするんです。今ここを通したらさとり様は二度と帰ってこない気がする。駄目ですよ。行かせません」
両手を広げて通せんぼをするお燐。
「あなたも人の心が読めるようになったの?」
「いえ、長いお付き合いですから」
そう言って笑うお燐。
泣き顔と区別がつかない。
「そう……でも、通してもらいますよ。お燐、そこを退きなさい」
「嫌です」
「退きなさい。それとも私を倒してでも止めますか?」
「……嫌ですっ!」
一瞬の動揺を突いて弾幕を放つ。
目くらましの、威嚇にもならないような弱い弾幕。
でも、隙を作るにはそれで充分だった。
お燐が気がついた時には私はもう彼女の脇を通り過ぎている。
「さとり様……」
お燐の心は泣いていた。
私は彼女の姿を見なかった。
一度でも振り返ったらもう行けなくなると思ったから。
それでも、言葉はかけなければならない。
もう後悔しないために。
「ありがとう、お燐。愛しています。体に気をつけて」
これ以上、彼女の心を読むことすら辛くて、私は橋へと駆け出した。
◎ ◎ ◎
正面からさとりがやってくる。
誰の皮も被っていない。
何の後ろにも隠れていない。
「なにをしに来たの」
さとりは質問には答えず、私に問うた。
「私を殺すのでしょう、パルスィ」
「ええ」
私はゆっくりとさとりとの距離を詰めた。
「逃げないの?」
「ええ。逃げるのならば最初から来ませんよ」
「それもそうね」
息の届く距離にまで近づいた。
さとりは溜め息をついた。
「まず謝らせてください。今までごめんなさい、パルスィ。私が悪かった」
私は何も言わずにさとりを漠然と眺めた。
「そして、覚悟は決めてきました。私を殺しなさい。それであなたの気が済むのならば」
「言いたいことはそれだけ?」
「ええ」
私は何も言わずにさとりの首に両手をかける。
びくり、とさとりが震えた。
構わず絞め上げる。
さとりの顔が苦痛に歪む。
小柄な体が宙に浮いた。
さとりの爪が、私の手に食い込む。
両手に更に力を込める。
さとりの喉から、ひゅうひゅうと笛のような音が鳴る。
彼女の顔が赤らむ。
視界が歪んだ。
一瞬遅れて何かが頬を伝い、私は自分が涙を流していることに気付く。
あと少し。
あと少しこの両腕に力を入れればさとりは死ぬ。
彼女の命の気配が両手の中に感じられた。
この手の中に、握り潰せるものとして存在していた。
あと少し。
そうすれば、私の心を暴く者はいなくなる。
私を陥れる者はいなくなる。
あと少し。
それですべてが終わる。
あと、少し。
それなのに私はどうして涙を流しているのだろう。
ようやく念願が叶うのに。
嬉しいはずなのに。
涙が頬を伝って止まらない。
力が入れられなかった。
腕から少しずつ力が抜けていく。
私は……。
………………。
………………………。
……………………………。
…………………………………。
気がついたときには足元に荒い息を吐くさとりが転がっていた。
咳き込み、顔を赤らめて目に涙を浮かべている。
その姿はぼんやりとして現実のものに見えなかった。
周りを見る。
私をとりまく景色の何もかもが夢の中のようにぼんやりとしている。
ふいに、川下から滝の音が鮮明に聞こえてきた。
誰も見たことがない、ずっとずっと遠くにある滝。
それが唯一、現実のものに思える。
さとりが私に向かって何事かを叫んでいる。
しかし彼女の声は水音に遮られて、まったく私には届かなかった。
私は、音のする方へ向かってふらふらと歩き出した。
何とも言えない終わり方ですね…
もういっそ倍くらいにして三人の関係や変化とかを描きだせば説得力が出たのに。
パルスィの気持ちがわかってしまう…
これがさとりの嫌われる理由なのかな
これは
好みだ
尺を長めにじっくり煮詰めて欲しいかも。