『この夏の空よりも青い貴方に捧ぐ1』の続編となっています。
ご注意下さい。
秋―――
暑さも和らぎ、幻想郷はゆっくりと冬へと移ろう狭間にあった。
最近はめっきりと朝夕は冷え込み始め、その寒暖の差から体調を崩した人々が永遠亭の世話になる。
天高く馬肥ゆる、そんな秋。
夏とは違う、薄い青色がかった空を、今日も天狗が飛翔していた。
漆黒の翼で空を切る、射命丸文である。
頬に当たる風を心地よく感じながら、文は霧の湖を目指していた。
というのも、湖周辺の木々が、この幻想郷の何処よりも早く紅葉のピークになった為だった。
「いいネタですよねー。妖怪の山ですらまだ色づき始めたばかりだというのに」
まっすぐに空を飛びながら、わくわくする心を抑えきれずに呟いた。
例年よりも非常に早い紅葉である。
記事のネタとしては申し分ない。
今からどんな写真を撮ってやろうか、と考えると自然とカメラを握る手にも力が入る。
それに、あそこには彼女―――氷精チルノもいる。
好奇心を満たすことが二つもあれば、自然と心躍るというものである。
文は、チルノと夏祭り以降良く顔を合わせていた。
少なくとも、週に一回は会って下らない話しをしていると思う。
今日は何匹カエルを凍らせた、今日はどこどこでこんな悪戯をした。
そんなチルノの日常に耳を傾け、失敗談には思い切り笑って「チルノさんはお馬鹿ですねー」という。
そうすればチルノは顔を真っ赤にさせつつ「馬鹿じゃないもん!」と否定するも、やはり何処か楽しそうにしてるから遠慮はいらないはずだ。
もちろん、一方的に話させてばかり、というわけではない。
文がその日集めたネタや新聞の記事の内容なんかを分かりやすく教えたりもする。
勉強は嫌いだが、好奇心旺盛なチルノはそういった話しも興味深そうに聞いてくれていた。
時にはネタを求めて遠出する事もあったが、気が向けば誘い、大抵良い笑顔で付いてきて軽いピクニックといった感じで良く一緒に動き回る。
ここ最近の二人の関係は、そんな感じだった。
考えれば、本当に最近は良く一緒にいるな、と思う。
あの純真無垢な妖精は、本当に自分とは根本的に違う物の考え方をする。
それを側で見ることが出来るのは、文にとって幸せなことだった。
眼下に紅魔館の敷地が広がっている。
相変わらず、この建物は無駄にでかい。
その巨大な建物を見ながら、はぁー……と文は深い溜息を吐いた。
「だけど、なー……最近チルノさん何か変なんだよなー……」
そう、どうにも最近のチルノは、らしくなかったのだ。
一時期は夏祭りでプレゼントした簪を手に近づいてきて「結って結って」とせがんできたのが、最近はその簪をジッと見つめて物思いに耽っては、冷気をただ漏れさせ周囲を凍りつかせている姿を良く見る。
「結ってあげましょうか?」と笑顔で尋ねると、何故か顔を真っ赤にして「いい!」と全力で否定され、そそくさと簪をしまってしまう。
他にも、ちょっと頭を撫でてやろうとすれば体を面白いくらいびくつかせて避けられたり、取材の話をしていても面白くなさそうに俯いてしまったり。
この前など、一緒に取材しに行きませんか?と誘ってみたら難しい顔をして「今日はいいや」と断られた。
早い話、チルノの笑顔が減ったのだ。
「なんか……気に障るようなことでもしてしまいましたかね……」
頬に風を感じながら、はぁ、とため息を吐いて文は考える。
はたして何か彼女の嫌がることでもしてしまったのだろうか?
だが、頭を捻って考えてみても特に思いつくことはない。
バカバカ言い過ぎたかな―――
結局、そんなしょうもない理由しか思いつかず、ならばとなるべく優しく接してみれば、どこか居心地悪そうに避けられてしまうのだ。
「………え、もしかして私嫌われました?!」
マジか、と頬をひくつかせて考える。
特に嫌われる事をした覚えはなかったが、案外自分の知らぬところで他人を傷付けるものだ。
やっぱり馬鹿にしすぎた?いや、もしかしたら髪が伸びない事を弄りすぎたかもしれない。
考えれば考えるほど、チルノに嫌われた、という可能性しか文には思いつかなかった。
「仲直り、出来るかな……」
というよりも一方的に避けられているのだから、してくれるか、といった表現の方が正しい。
まともに会話が進められないのでは?と弱気になる心が嘆く。
憂鬱になりそうな気分だったが、それでもこのままでは埒が空かない、という事は百も承知だった。
腹を括るしかない、ですよね。
今日、チルノに会えたら事の真相を聞いてみよう。
折角仲がより良くなったのに、それが訳もわからぬうちに壊れてしまうのはもったいない。
相互理解は、やはり声に出さなくては為し得ないのだ。
「よし……頑張れ、私!」
自らを勇気づけるように力強く呟き、文は背中の翼を大きく羽ばたかせ湖畔に広がる森―――いつもチルノとの待ち合わせに使っている大穴を目指した。
「お、いたいた……」
すっかり紅葉した森の中に空いた大きな広場。
そこに空からでも良く見える青い姿があった。
大きく羽ばたき、ゆっくり地面へと下降していくと段々その姿が鮮明になる。
チルノは倒木に腰掛け、やはりというべきか、その手に簪を持ち、ほんの少しだけ伸びた―――といっても1センチ程度であろうが、髪を片手で弄っていた。
どうやって声をかけようか……。
そう逡巡していると、バサバサと羽ばたく音が聞こえたのか、チルノはひょっこりと空を見上げた。
視線が合い、何となく気まずい気持ちになりながら、文は手をひらひらと振りながら直ぐ側に着地する。
「どうもどうも、チルノさん。お元気ですか?」
「あ、うん……あたい元気だよ」
嬉しそうな、そうでもなさそうな。
そんな表情を浮かべながら、何とも微妙な返答をするチルノに、ふぅ、と小さく息を吐いた。
ビクリ、と肩を震わせるチルノは、やはり何か無理をしているのだろう。
どうしたものかなー、と暫くその姿を見詰めていたが、とりあえず同じ木にあえて少し距離を空けて座ることにした。
ざぁ―――と風が吹き抜ける。
秋の風に揺らされ、紅葉した木々の枝葉が揺れた。
微妙なその距離感に居心地の悪さはチルノも感じているようで、二人の空いている間をチラリチラリと何ども盗み見ている。
何となく声を出すのを躊躇う緊張感に、困った、と頬を掻きながら文は尋ねた。
「えーと、ですね。チルノさん?」
「え?!う、ん。何、文?」
「何かあったんですか?」
「……何もない、よ」
「本当ですか?」
「……本当だよッ」
言葉の端々に苛立ちを露にするチルノ。
それを感じながら、文は言いにくそうに聞いた。
「え、と……ひょっとして私何かしましたか?」
「……え?」
驚きに目を見張り、見詰めてくるチルノに、いやだって……と首を傾げて見せる。
「なんだか最近そっけなくないですか?」
「そ、そんなこと、ない……」
「いやいや、ありますから」
「ッ、ないったら、ないッ!」
珍しく声を荒らげたチルノに、思わず目を丸めた。
するとチルノも、あ、と小さく声をだし、何かを喋ろうと口をパクパクと動かしたが、それが言葉になることはなく。
体裁が悪く思ったのか素早く視線を逸らされてしまった。
困った―――な。
困惑気味に心で呟いた。
思い切って踏み込んでみたが、想像以上に拒絶されてしまっているのか、チルノを苛立たせている原因は不明だった。
こういう時は、世間話でもしてアイスブレイクに徹するのが鉄則。
いつもの取材を行う感覚で文は笑顔を浮かべれば、そういえば、と声に出し
「一昨日取材に行った時なんですが―――」
「ッ!」
キンッ―――
瞬間、チルノから漏れでた冷気が周囲の倒木を凍りつかせた。
空気中の水分も結晶化し、秋の陽を浴びてキラキラと輝いている。
そんな幻想的な風景の中、突然の出来事に文は目を丸め、当のチルノは「あっ……」と泣きそうな表情を浮かべた。
「え、ち、チルノさん……?」
「―――ッ全部、文の所為だっ!!」
「えええええ?!!」
寝耳に水、どころの騒ぎではない。
「いや、チルノさん、三段論法って知ってますか?!」
「うるさい!三段六法なんて知るか!!」
「無駄に凄そうですね、それ?!」
全部重ねれば完全に凶器になりそうな程な重みがありそうだ。
だが、チルノはそんな言葉などお構いなしに座っていた倒木から跳ねるように飛び立つと、10メートル以上の距離を置いた上空で止まり、親の仇でも見つけたかのような鋭い視線を文に送った。
空に浮いたまま仁王立ちし、その手には一枚のスペルカードが握られている。
「文なんか、嫌いだ……!」
「うぇ?!唐突過ぎませんか?!」
「うるさいうるさいうるさい!!文なんか、文なんか―――!!」
刹那。
秋色に染まっていた森が急激な冷気に覆われたのが、軽く混乱状態の文にも感じ取れた。
「大っ嫌いだぁー!!」
チルノの絶叫。
それと同時にチルノの手にあったカードが消え、無数の氷が発現した。
『氷符・アイシクルフォール』
秋の空を覆わんがばかりの大量の氷の礫の数々に、思わず文はポカン、とその情景を見詰めた。
「え、多ッ?!」
圧倒的な質量。
物量に物を言わせているとしか思えない、いつも以上に多いその弾幕に思わず目を見張りながら、きっと怒りに任せて自棄になって発動させたんだろうなー、と冷静に考えていた。
「とはいえ、これはマズイですよっ?!」
重力に従い、覆い囲むように迫ってきた弾幕を切り抜けるために、慌てて翼を広げて飛翔する。
いくら相手が妖精とはいえチルノが破格の力を有しているのは周知の事実であったし、何よりまともに喰らえば相当痛い事は目に見えている。
「チッ!」
舌打ち1つ。
以前、花の異変の時に一度、文はチルノと弾幕勝負を行なった事があったが、その時はこれほどの密度の弾幕は展開されていなかった。
斜めに襲い来る弾幕は真っ直ぐ飛んでいては避ける事が困難である。
それが普段と段違いの圧倒的な密度で展開された弾幕とあっては、下手に突っ込めば自爆すること等目に見えている。
だが、文は敢えて一直線にチルノを目指すように飛んだ。
(破格すぎるでしょう、妖精なのにッ!)
心で、ここまで力を付けていたチルノに対して毒づく。
けれども、文もまた、負けるつもりはサラサラ無い。
ジッ!と腕に、翼に弾幕が掠るのを感じながらも、目の前に来る弾幕を紙一重で避けながら、ただ一点のみを目指していた。
そう、この弾幕の安全地帯を―――
(とりあえず、この弾幕ごっこを終わらせて、理由を聞いて、謝って―――!!)
ひゅんひゅん、と耳元を掠める氷の弾幕を掻い潜りながら、文は安置―――チルノの目の前を目指して飛んだ。
やはり知らぬうちに嫌われてしまっていたらしいが、とにもかくにも理由も教えてもらえずに嫌われる事などまっぴらごめんであったし、出来る事なら前と同じように仲良くしたかった。
折角、仲良くなったのだから。
その思いを抱えて、ランダムに迫り来る氷を避け続け、文は漸くその弾幕の嵐の向こう側、チルノの目の前へ―――
「―――あ、れ?」
氷の弾幕の向こうには、デッカイ氷の塊が居た。
「ノットいーじー?!!ごふっ?!!」
前提として、何も無いと思って猛スピードで前へと突っ込んで行ったのだ。
目の前の大質量の氷を避ける事など出来ずもろに腹に喰らえば、肺から空気が抜けるような呻き声と共に、重力に引きずられるようにゆっくりと地面に落下していく。
「―――ぁ」
意識が沈む前、文は視界の隅でチルノが辛そうに顔を歪ませるのが見えた。
どうしたんですか、チルノさん―――
しかしそれが声になることは無く、背中に強い衝撃を感じると同時に、文の意識は暗転した。
「―――っ」
うっすら、と目を開けると、白い筋状の雲が広がる青い空が飛び込んでくる。
陽の傾きからいって、気を失っていたのは数分のようだった。
「っい、たた………」
身を起こすと、ガシャン、と音が鳴った。
慌てて地面を見渡すと、どうやら氷の山に身を横たえていたようで、拳大の氷がゴロゴロと転がっている。
よくまぁこんな場所で寝てて凍傷にならなかったものだ、と思いながら、一つ、羽をバサリ!と羽ばたかせ張り付いていた氷を吹き飛ばせば、改めてボケーっと周囲を見渡してみた。
冷たい空気に包まれたそこには、チルノの能力の爪痕とも言うべき氷が、初雪のようにうっすらと積もっていた。
「あんなにチルノさんって強かったですかねー……」
不意をつかれたとはいえ、呆気なくやられてしまった事を思えば、情けない、と苦笑を浮かべた。
最後は殆ど自爆に近いものだったが、それで意識までぶっ飛ばされた事を思えば、鍛錬が足りませんかね、と困ったように呟いた。
まさか、妖精に二度も負けるとは―――
「あらあら、これはこれは珍しい物が見ることが出来たわね」
「!」
突然近くで発せられた声に目を見張る。
文が驚き振り向くと、そこには紫色のおどろおどろしい空間から半身を出し、扇子で口元を覆ってくすくすと笑っている女性がいた。
「こ、れはこれは。紫さんではないですか……どうかされたんですか、そんなところで?」
「いえ、紅葉が見頃、という話を聞いたので顔を出してみたら、天狗が妖精にあっさり負けたのでついつい……」
「ぐっ……?!」
お淑やか、かつ軽く馬鹿にするように笑い続ける女性―――八雲紫。
スキマを操る能力を有した、幻想郷屈指の猛者の一人である。
頬が引き攣るのを感じながら、ははは、と乾いた笑いを文は浮かべた。
「いやはや、少々油断してしまいましてね~お恥ずかしい限りです」
「ふふふ、油断だとしても負けは負け、ね。それと、チルノに三段論法を問いても無理よ」
「殆ど最初っから見てたんですか!?」
からかわれている。
嘲笑、というには穏やかだが、明らかにからかって楽しんでいるその言葉は「割と本気だったのにチルノに呆気なく負け、かつ本気で嫌われた可能性が高い」という衝撃から抜け出せずにいる文の心を否応なく苛立たせたが―――
「ええ、全くですね。いやはや、本当にチルノさんは強くなりましたね~」
どうせ反応すれば余計にからかわれるのは目に見えていた。
心の荒波を、にこり、と笑顔で押し殺して紫へと視線を向ける。
その様子を紫は可笑しそうに笑いながら、そうね、と呟く。
どうにも胡散臭い笑みを浮かべる相手を見ながら、色々とどうしたものか、と頭を悩ませていると、そうそう……と唐突に紫が訪ねてきた。
「一つ、ブン屋である貴方に聞きたい事があるのだけれども」
「なんですか? 私に聞かなくても大抵の事はお分かりかと思いますが」
「いえ、あれよ」
あれ、と称して差された指先に従って文が視線を移すと、示されたのは例の大穴だった。
「あんな大穴、ここには無かったと記憶しているのだけど、何か知らないかしら?」
「ああ―――紫さんはご存知なかったんですか。これ、魔理沙さんの所為ですよ」
「魔理沙が……?やれやれ、あの子も面白くて良いのだけれど時々変なスイッチが入るのよね……」
よいせ、と声をかけて立ち上がると、氷をガッシャンガッシャンと踏み締めながら大穴へと近付いていく。
紫もまたスキマごと平行移動することで、傍目には『上半身だけが横に滑っていく』というシュールな動きを見せながら文の後を付いて行った。
近づき、改めて見た大穴は、やはり巫山戯た大きさだった。
夏の頃と比べると断面に蔦が茂るなどしているが、基本的に無骨な大穴が地下の洞窟へと繋がっている。
そして、地上から見下ろす中に微かに光りを反射する物体―――あの、巨大な氷が洞窟の中に相変わらず鎮座していた。
「あら、あんなところにチルノが」
「えッ?!」
突然の紫の言葉に、文は慌てて見下ろしていた視線を上げて周囲を見渡した。
種類にもよるが何も目印となるものが無い空を飛ぶ鳥の視力は良く、文の視力も多分に漏れず非常に良好だった。
だが、その自慢の視力で周囲を探っても、あの印象的な青は何処にも見当たらない。
からかわれた―――!
そう思い至れば、文の頬が引きつった。
「っ! ちょっと、紫さん、嘘を吐かないで下さいよ」
「あらあら、勝手に勘違いしたのは貴方なのだけれどね……」
そんな文の表情を見詰め、愉快な、というよりも困り顔で苦笑を浮かべる紫は、あれよ、と声に出して地下の巨大な氷を指さした。
「…………」
文は目をゴシゴシと擦り、もう一度氷を凝視してみた。
当然だが、夏の時の様にチルノが横たわっているという訳ではない。
じゃあひょっとして洞窟の何処かにいるのだろうか?と頑張って周辺にまで目を凝らしてみたが、その姿は何処にも見当たらない。
地下を覗き込んでいた顔を上げると、文は若干青ざめた顔で紫を見た。
「……紫さん、藍さんに色々と任せすぎて遂にボケ「絞めるわよ?」」
間髪いれずに紫は爽やかな笑みを浮かべて殺気をただ流した。
締めるって首だろうか、等どうでも良いことを考えながら、冗談ですよ、と文は心にも無いことを言い肩を竦めてみせた。
「それより、チルノさんは一体何処にいるんですか?」
「貴方ね………まぁ、良いわ。 あの氷がチルノだと、私は言ってるのよ」
頬を引く付かせ何かを堪えていた紫は、はぁ、と溜息を吐くと再び氷を指さした。
「いや、ですから全く意味が分からないんですが」
「チルノを何だと思ってるのよ、貴方」
いや同じ質問をこちらが問い返したい、と文は思った。
いくら冷気を操り、氷を生み出す妖精ではあるが、チルノが氷になった所など見たことが無い。
よく分からん、といった表情が伝わったのか、やれやれ、と紫は肩を竦めた。
「チルノは、氷の妖精でしょ?」
「ええ、氷の妖精であって氷ではないですが」
「一つ質問するけど、妖精って何だと思う?」
「何って……自然現象の歪み、ですよね?」
「ええ、その通り。強すぎる願いや思いが何かを具現化するのと同じで、概念が存在化したものよ。じゃあ、チルノを具現化している自然の歪みって何だと思う?」
「―――え?」
改めて、足元の空洞の更に奥にある氷の塊を見詰めた。
「まさか、あの氷が……?」
「そう、チルノを具現化している母体よ。しかし、本当に立派な氷だこと……あの子が妖怪になる日も、遠くないでしょうね」
ぼんやりと、いわばチルノの本質を眺めていると聞こえた“妖怪”という言葉に顔を上げた。
「そもそも、どうしたら妖精は妖怪になるんですか?」
「あら、気になるの?」
「そりゃ……親しい友人、ですから」
「あの戦闘を見ている限りじゃ、親しい、とは言えなかったと思うけど?」
ぐっ!
思わず言葉が詰まった。
その様子を可笑しそうに笑いながら、そうね、と紫は呟き
「貴方に教える義理はないのだけれど……母体が成長するか、妖精自身が精神的に成長するかで妖怪になるわ。今のチルノは、その両方が成長中ってところね」
「はぁ……。妖精が妖怪になる、という可能性があるのは知っていますが……私も長く生きてますけど、妖精が妖怪になった事例、というのを目の当たりにしたことがないのですが……」
「まぁ、そうね。どちらかといえば神様になっちゃうし」
「……はぁ?」
途端に胡散臭くなった。
妖精が神に、など更に聞いたことが無い。
やっぱり寝ぼけているのかな、と見つめていると、例えばだけど、と紫はクルリと扇子を回した。
「外の世界に飛瀧神社という神社があるわ。そこの御神体は那智の滝という滝なのよ」
「ああ……なるほど。妖怪になれるほどの自然現象は信仰の対象となる、というわけですか」
「ええ、その通り。結果として、圧倒的な力のある自然を母体とする妖精は、周囲の信仰を集めて神様になっちゃう、というわけ。木々も本来妖精の母体となる自然現象だけれども、樹齢何千年ともなれば、自然と人々は信仰してしまう」
「つまり妖精が妖怪になるには、周囲に信仰の心が無い事が条件となるんですか……」
その通り、と紫は頷いた。
「ええ、神様ではなく妖怪を目指すならそうなるわ。だから、誰もが寄り付かない山奥なんかには、妖精から妖怪になった者もいるはずよ?そしてチルノの場合も、地下深くに母体がある所為で信仰の対象となる可能性が低いから、妖怪になる確率の方が高いというわけ」
なるほど、と文は頷いた。
神が神たらしめるのは、周囲からの信仰の力が必要となる。
それが無く、単純に強い力を持つ、となれば妖怪になるということなのだろう。
ふむ、と文は腕を組んで考えた。
一度、しっかりと調べた方がいいのかもしれない。
最近チルノの様子が可笑しかったのも、ひょっとしたら妖精から妖怪へと変化する吉兆であり、その変化に誰よりも本人が戸惑っているのかもしれない。
妖精の思春期というのも可笑しな響きだが。
(どっちにしろ、今のままじゃチルノさんとの仲直りなんて夢のまた夢、ですしね……)
先程のチルノを見る限り、待っていて解決する問題とも思えなかった。
で、あるならば自分から動いて解決するしかないだろう。
「では、そろそろ私は行きますね?」
「あら、そう?」
そう思い至れば、まずは妖精という種族の事を改めて知る必要がある。
こういう事を調べるにあたって、一番良い場所は一つしかない。
紫に尋ねる、という選択肢もあったが、これ以上借りを作るのは、どうにも乗り気にはなれなかった。
「ではでは、貴重な情報をありがとうございました」
「―――ねぇ、文?」
翼を広げ、飛び立とう、とした瞬間に名前を呼ばれた。
不思議に思い、首を傾げながら紫を振り返ると、相変わらず口元を扇子で隠したまま目の弧を緩ませていた。
「貴方はどうして、そこまでチルノにこだわるのかしら?」
「―――え?」
「だって―――ね?力が強いとはいえ、チルノは妖精……妖怪になる可能性を秘めているとはいえ、多くの者にとって取るに足らない存在よ?」
まるで人を試すかのような声で尋ねられた。
意図を読みきれず、微かに眉を寄せつつ文は逡巡する。
一体、目の前の人物は自分に何を求めているのだろうか、と。
だが、幻想郷随一の胡散臭い妖怪だ、そう簡単に心の内を読み取ることが出来る筈もない。
「―――そうかもしれませんね。ですが、私から見ればチルノさんは非常に面白い存在ですよ?」
「面白いから、傍にいたいのかしら?」
「―――妖精でありながらそこから逸脱しているにも関わらず真っ直ぐなチルノさんの笑顔は、皆を幸せにします。それを、傍にいて気づいたんです。それに―――」
「それに?」
だから、自分の心に正直に答える事にしたのだ。
「私は、チルノさんの友達ですから。友達に、嫌われたままなんてまっぴらごめんです」
「……ふふ、ならそういう事にしておきましょう」
何処か面白そうに笑うと、「ではご機嫌よう」と紫はスキマの中へと体を引っ込めた。
紅葉を見に来たんじゃなかったのか、と思ったが、文には別にやらなくてはならないことがあった。
そう、チルノがああなってしまった原因を調べなくてはならないのだ。
心に出来たわだかまりを解消出来ずに当たってしまっているのだとすれば、その相談に乗ってあげるのも友人として出来る事だろう。
「ふふふ、いいでしょう、チルノさん。ブン屋はちょっとやそっとじゃ諦めないんですよ?」
まずは妖精の何たるかを知り、その上でチルノを探して相談に乗る―――。
そんな予定を組み上げれば、先程まで萎んでいた心が再び活気づいてきた。
例え、本当に何か気に障る事をしてしまっていたとしても、理由も教えて貰えずに嫌われるのはゴメンだった。
久々の密着取材を思えば、微かに笑みを浮かべて力強く翼をはためかせ、宙へと舞った。
「それで、今度の記事のネタにしたいから妖精の事を調べたい、と……」
「はい、そういう事です」
訪れたのは、紅魔館の地下にある大図書館。
そこの主、パチュリー・ノーレッジが椅子に座ったまま眠そうな目で文を見上げながら、そう、と頷いた。
「まぁ、それは構わないけど……それで、妖精の何が知りたいの?」
「そうですね……妖精という種族全般について書かれている良い本ありませんか?」
何か調べるならば、やはり図書館である。
確かあっちの棚に……と独り言をボソボソと言いながら立ち上がったパチュリーの後を追い、コツコツ、と足音が響く本棚の迷路を右へ左へと歩きながら、文は改めて図書館を見渡してみた。
整然と並ぶ身の丈の3倍はあろう本棚には、本がギッシリと詰まっており、ここにいるだけで微かに圧迫感を感じさせられる。
静謐な空気が支配するこの空間に、一体どれだけの蔵書があるのだろうかと思うと気の遠くなる思いがした。
そんな蔵書を魔法の補助があるとはいえ逐一把握出来るのだから、改めて目の前で歩いている動かない大図書館の本領が垣間見えるというものである。
時折であるが、文はこの図書館を利用していた。
記事づくりの為に必要な知識があった場合、大抵この大図書館を訪れていたので、必然的にここの主、パチュリーともある程度話す仲になった。
今では文々。新聞の貴重な定期購読者の一人でもある。
「けれど、わざわざ私のところに来なくても良かったんじゃない?」
「いやいや、何をおっしゃいますか。この幻想郷で正しい知識を得ようと考えれば、この大図書館以上に適当な場所はありませんよ?」
振り返る事なく、不審気に訪ねるパチュリーに対し、営業スマイルを浮かべ否定する。
実際、幻想郷には生き字引のような存在は多くいるが、それ以上に客観的な知識を得られる場所はこの大図書館を置いて他にはない。
だがパチュリーは求めた回答が得られなかったらしく、眉を潜めて振り返った。
「そういうことじゃなくて。貴方は確か妖精と仲が良かったでしょう?本人に聞くのが一番なんじゃない?」
「あー……そういう事ですか。確かにそれも面白い話が聞けるかもしれませんが、それ以上に記事を書く上では客観的な知識が必要ですからね」
「まぁ、それはそうかもしれないけど……」
「それに、パチュリーさんは精霊魔法の専門家じゃあないですか」
「精霊魔法が得意だからといって妖精に精通しているわけじゃないんだけど……ああ、あったこれこれ」
まさかその妖精と仲直りするため、と言うわけにもいかず、いつも通り取材のためという体裁をとっている。
それらしい言葉を並べているうちに、どうやら目的の場所に着いたらしくパチュリーは歩を止めた。
文は棚を見上げた。
足元から遥か頭上まで、一切の隙間無く本がギッシリと詰まっており、その多くは知らない文字が背表紙に並んでいる。
そのうちの1つ、一辺50センチはあろう大きなハードカバーの本を、よいしょ、という声を出してパチュリーは本棚から引きずり出した。
本来病弱であるはずの彼女も本なら別腹とでも言うのか、軽々とその巨大な本を脇に携えて近くにある書見台へと歩いていくと、ドンッ、と置いた。
「これが、私が知る限り一番妖精について詳しく書かれている本よ」
そう言いながら、パチュリーはその分厚い本のページへと視線を釘付けにし、パラパラと捲る。
どれどれ、と脇から覗き込むと、なるほど、と頷いた。
ページにはギッシリと文字が敷き詰められており、時折出てくるイラストは己も良く知る妖精の姿かたちをしていた。
誰が書いたのかは知らないが、妖精の専門書なのだろう。
恐らくこの本には、求める知識がある、と文は踏んだ。
問題があるとすれば、ただ1つ―――
「―――ところで、パチュリーさん?」
「何かしら?」
「これ―――何語ですか?」
読める、読めない以前の問題だった。
記号としか思えない幾何学的な文字列がひたすら並んでおり、かつて趣味で覚えた西洋の言語である英語とも違った形をしていた。
見ているだけで頭が痛くなりそうなそれを実際に頭を押さえて眺めていたら、ああ……とパチュリーが頷いた。
「アングロサクソンルーン語よ」
「敢えてもう一度言います。何語ですか」
今まで聞いたことの無いその言語に肩を落とした。
「まぁ、私が読めるから大丈夫よ」
「もう、本当にパチュリーさんって高性能ですよね……」
若干呆れ顔で、パラパラと読み進めていく動かない大図書館を見て、しみじみと呟いた。
一家に一台―――あったとしてもアングロサクソンルーン語を必要とする家庭がいくらもないだろうが。ぶら下がり健康機程に役に立つと思う。
「ええと……ああ、この章ね。まず妖精とは何か、からいくけど貴方が知っている“妖精”とは何かしら?」
「自然の歪みであり、自然現象が具現化したもの、ですよね?」
「ええ、それで相違ないわ。じゃあ今度は、妖精が発生する条件はなんだと思う?」
「条件……ですか?母体は自然現象なんですから、それこそ風が吹けば発生するのでは?」
「間違ってはいなけど、正解でもないわ」
指で文字列を追っていたパチュリーが顔を上げた。
「貴方は妖精に個性があるのは知っている?」
「ええ、まぁ……チルノさんみたいに凄い強い妖精もいますからね」
「そう。それと同じように、一般的に区別は付きにくいけど全ての妖精には個性があって、それを決定付けているのは妖精の母体となる自然現象ではなくて、その環境にあるのよ」
「環境……ですか?」
「ええ、例えばだけど……」
視線を本へと戻したパチュリーは指で僅かにページ持ち上げた。
そこに、ふぅ、と息を吹きかけると、パサッ、という軽い音を立ててページが捲られる。
「こういう事よ」
「なるほど―――さっぱりです」
若干ドヤ顔で言われたその言葉に、全く意味が分からない、とジト目でパチュリーを眺めつつ文は手と首を同時に振る。
その様子を見て、ごめんなさい、とパチュリーは苦笑を浮かべて続けた。
「まぁ、今みたいに私が自然現象である風を起こせば、妖精は生まれるわ。そしてその個性は、この本の1ページに由来するの。だから、次のページに息を吹きかければ、別の妖精が誕生する、という事」
「つまり……自然現象が発生する場所が、妖精の個体識別に関係する、ということですか」
そういうこと、とパチュリーは頷いた。
「例えば水辺に植物が生えると、それを媒体として妖精が誕生し、秋になってその植物が枯れると妖精も一回休む。だけど、また次の年にその場所に植物が生えれば、また妖精として生まれてくる訳」
「ふむふむ、そうやって妖精は過ごしているんですか……じゃあ一年を通して健在する妖精は、川の流れとかそういった物が母体である可能性が高いんですかね」
「後は木とか、ね。落葉樹の葉を母体とする妖精は一年に一度消える事になるけれども、樹木本体は一年を通して顕在してるからね。特に、樹齢何百年なんてなれば信仰の対象にも為り得るから、それを母体とする妖精は非常に大きな力を持つことになるわ」
「ああ、はい。それは知ってます」
先程のやり取りで知り得ていた話を聞けば、1つ頷き考える。
紫の話だと、チルノの母体となる自然現象はあの大穴で繋がっている洞窟内の氷である。
氷は気温が上がれば溶けるが、氷穴内であった御陰でチルノは夏でも顕然だったのだろう。
そして現在、チルノの精神的な部分と暑さが和らいだ事で母体の氷が成長し、己をぶっ飛ばす程の力を手にしている、ということか。
そんな事を脳内で駆け巡らせていると、あら……と再び本の文字を指で追っていたパチュリーが面白い物を見付けたかのような声を上げた。
「どうかしましたか?」
「ええ、ちょっと面白い事が書いてあったのよ……」
ここよ、と相変わらず意味不明な記号の羅列をパチュリーが指さした。
「ここに書いてある事が確かなら、基本的に妖精は記憶を持たない、ということらしいわ」
「……は?いや、でも記憶が無かったら会話が成り立ちませんよね?」
「より正式に言えば、多くを記憶することが出来ない、ということ。そのため、多くの妖精は忘れっぽくて、傍目から見ると幼く見えるみたいよ?」
確かに妖精は平均的に知性が高いとはいえず、その心は幼い。
だが、と文は首を捻った。
例えばチルノやその友人である大妖精などは、幼心ながらも他の妖精と比較すればだが物覚えは良い方である。
だから文には、どうにもそれは納得が出来ないものだった。
「いや、あの……でも、他の妖精と比較して物覚えが良い妖精もいますよね?そういった妖精は、通常の妖精と何が違うんですか?」
「そうね……詳しくは書いてないけど、妖精は母体に最低限以外の記憶を預けるらしいわ。さっきの植物で言えば、母体が枯れれば、その一年間の記憶も一端リセットされる。でも、大樹等の何十年と生きるものを母体とするならば、その年輪を積み重ねるように妖精も記憶を蓄えていく事ができるから傍目から見ても総じて知性が高い、ということでしょうね、きっと」
淡々と語れるパチュリーの言葉を聞き、文は、はぁ、と曖昧に頷いた。
「妖精が忘れっぽいのにも意味があったんですね……」
「まぁ、そういうことね。確かに記憶媒体が外に向けて剥き出しなんだから、なんらかの衝撃で母体が傷つけば簡単に記憶を失ってしまう。もっとも、母体は記憶装置で、妖精自体の思考能力なんかは精神的な成長に左右されるから本来記憶が少ないのと幼いのは直結はしないのだけどね」
「ああ、なるほど……実際はそれなりの精神年齢を持っていても母体が傷けば色々忘れてしまって周囲からは幼稚に見られるのですか」
所詮、主観の問題なのだろう、と文は頷いた。
どんなに思考が成熟していたとしても知識の絶対的な量が少ない為、意思疎通は幼子のそれ並みに困難を極める事になり、周囲からは総じて幼稚な思考をしていると考えられてしまう。
妖精にとっての母体とは、具現化する為の手段であり、力のパロメーターであり、記憶を留めて置く為の装置なのか―――
そこまで考えて文は、ん?と首を捻った。
母体と記憶、何か大事な事を忘れているような――――――
「―――――あ゛ッ??!!」
「な、なに?!どうしたの?!」
とある事を思い出すと、図書館だという事も忘れ思わず大声を出した。
何事かと目を見張るパチュリーを尻目に、徐々に自分の顔が青ざめていくのが分かる。
あの夏の日―――魔理沙のマスタースパークでチルノがぶっ倒れていた時。
チルノの母体と思われるあの氷は、その時微かにではあるが溶けていた。
つまり―――
(あの一時的な記憶喪失は、母体の一部が破壊されたからか―――!!)
うわぁ、と文は天を仰いだ。
無機質な程に薄暗い天井を見上げながら、ははは……と乾いた笑い声が口をついて出てきた。
あれは記憶を失ったのではなく、字の如く破壊されたのか、と。
その原因を作ったのが己である、と思えばふつふつと罪悪感が心に湧いてきた。
下手をすれば、氷が完全に破壊されてチルノがいつ復活するとも知れぬ長期の“一回休み”に入るところだったのだ。
「はっはっは……安すぎましたね……」
「ちょっと……大丈夫?」
不幸中の幸いだったのが、その失った記憶というのが悪鬼と化した魔理沙との戦闘だけだった、という事だろう。
とはいえ、夏祭りのエスコートだけではまだまだ償いとしては安いわけだが。
そんな絶賛大後悔中の天狗を心配、というより引き気味に尋ねてくるパチュリーに、ええ、と文は力無く頷いた。
「ちょっと日頃の行いを今反省していたところです、はい……」
「そ、そう……貴方には珍しく殊勝な心掛けね……」
「ははははは………ああ、もう一つお尋ねしたい事があるんですが、いいですか?」
「え、ええ……どうぞ……」
何とか心を強く持って戻ってくれば、再び不安そうな視線を寄越すパチュリーへと顔を向けた。
過ぎてしまったことを悔やんでも仕方ない。そうであるならば、これから彼女の為に何が出来るかが重要だろう―――と心に言い聞かせながら、首を傾げた。
「じゃあ、妖精にとっての死―――『自然の死』とは一体何なんでしょうか?」
「えーと……それはつまり、各個性を持つ妖精はどうしたら死ぬのか、ということでいいのかしら?」
「はい。妖精にとっての母体の存在意義は分かりましたが、それを壊しても、再びその自然現象が復活すれば妖精も復活する事になります。なら、一体何が妖精にとっての『生死』を左右するのでしょうか?」
「そうね……一番簡単に言ってしまえば環境かしら」
「環境……?」
再び本へと視線を戻し、パラパラとページを捲りながら、そう、とパチュリーは頷いた。
「妖精の死とは自然の死。例えば、川の流れを母体とする妖精は、その川が干上がれば一度消滅するけど、また雨が降って水が流れればまた復活出来る。でも、もしその川をせき止めて堰を作れば川の流れという自然環境が破壊されて、その妖精は未来永劫甦る事はない。
森林でも、人が木々を利用するために伐採すれば妖精は一度消滅するけど、またそこに木が生えれば復活する。ただ、もしも森林地帯を畑なんかに開墾すれば環境が破壊され森林という自然は死に、妖精は『自然の死』を迎える―――」
パタン―――。
重厚な本を閉じると、パチュリーは顔を上げて文を見上げた。
「自然を維持する『環境』が破壊、もしくは変化することが、各妖精にとっての『死』なのよ」
呆然、と見詰める文の視線の先で、但し、とパチュリーは微笑んだ。
「環境が変われば、その環境に即した別の個性を持った妖精が発現するわ。だから、どんな状態になっても、妖精という種族が絶滅することはないんでしょうね」
さて、と小さく呟くと本を再び抱えて、パチュリーは文の顔を覗き込んだ。
「妖精に関する情報としては、こんなものね……次の新聞の記事には役立ちそうかしら?」
「……はい、ありがとうございました」
軽く頭を下げて礼を伝えると、そう……とパチュリーは優しい笑みを浮かべ
「ところで、貴方の新聞の定期購読に関する件なんだけど―――」
「ではでは私はそろそろ行こうかと思いますので!パチュリーさん、ありがとうございましたっ!!」
途端、きな臭い話が持ち出されると察知した文は、翼を広げ幻想郷随一の俊敏を活かして一気に出口へと飛び立った。
軽い突風が吹き荒れ、帽子が飛ばされないように構えたパチュリーが再び顔を上げた時には、漆黒の翼の鴉の影も形も存在していなかった。
「―――はぁ、また、逃げられたか……」
再び静寂が支配する図書館に、大きな溜息が1つ吐き出された。
本来なら先に切り出すべき話なのだろうが、何の気の迷いか忘れてしまったがパチュリーも直筆で契約書にサインをしてしまった手前、強く出ることは出来なかった。
「本当に、逃げ足も早いブン屋だこと……あら?」
ヒラヒラ、と。
空から一枚の紙がパチュリーの目の前に舞って落ちてきた。
膝を曲げ、その紙を覗き込めば途端に目を見張ったが、やれやれ、とパチュリーは首を振れば、その紙を拾い上げた。
「大分あの天狗もご執心ね……」
文々。新聞の一面。
永遠亭で行われた中秋の名月を祝うお月見大会の写真。
満面の笑みを浮かべたチルノが写っているその写真を見て、パチュリーは小さく呟いた。
紅魔館を飛び出し、再び霧の湖の上空を飛びながら、やれやれ危ない、と文は額を拭った。
最近パチュリーの下を訪れると、最後は大抵ああいった手合いの話になるのが常だった。
「パチュリーさんも、いい加減諦めてくれるといいんですが……」
だが妖精という種族について知る上で非常に密度の濃い情報を得ることが出来た事は満足いく結果であった。
今まで妖精、の一言で片付けてきたが、やはりそれなりに複雑な生態があることを思えば、中々興味深いものであったのだから。
「しかし……今度あの穴塞いだ方がいいのかな……?」
今日得た知識で最も重要だったのは、妖精の生死が環境に依存するという事だ。
氷穴内の環境を変化させない為には穴を塞いだ方が良いのだろうが、如何せんあれだけの大穴を一人で塞ぐ事は出来そうもない。
とりあえず今年の夏も乗り切ったのだから当面の心配はいらないだろうが―――
「それに、まずチルノさんとの和解が先ですし、ね」
そう、今回の目的はそれではない。
あくまでチルノとの和解の為に必要だった知識であり、当のチルノと仲直りする為には一度しっかりと話し合う必要があるのだ。
「やっぱり、この後は密着取材、といきますか」
当初の予定通りに、とりあえずにしろ事が進んでいる事を思いながら視線を彼方へと遣ると、本来今日の取材対象であった、黄や赤といった木々の紅葉が見て取れた。
「…………」
その光景を、文はしばし無言で見詰めた。
先程の話が事実であるならば、妖精はあの葉の一枚一枚にも宿る。
紅葉はまさに妖精達が甦る為に一度死ぬ、その時に咲かす花のような物だ。
「落葉もまた、妖精達が一度命を散らしている、と思うと何とも儚いものですね……」
シミジミと。
遥か彼方の木々を想いながら、文は小さく呟いた。
当たり前だと思っている数々の現象は、時に人の想像を超越する。
改めてそれを思えば、やはりこの世界にはまだまだ面白い事があるという事に気付かされる。
「お、いたいた!おーい、文ッ!!」
「―――え?」
そんな軽いセンチメンタルな気分に浸っていると、突然大きな声で名を呼ばれた。
何事だろうか、と翼を羽ばたいてホバリングして声がした方へと視線を向けると、箒にまたがった黒い影が一気に直進してきているところだった。
「―――っと、いきなり会えるとはグッドタイミングだ。流石私だな!」
「魔理沙さん、今日はまたハイテンションですね……」
「はっはっは、私はいつでも絶好調だぜ?」
距離にして数メートルほど離れた場所で空中に留まれば、くったくない笑顔を浮かべる人物。
チルノの記憶を一部損壊させた張本人、霧雨魔理沙その人だった。
先程まで妖精について物思いに耽っていたところに、いつにも増して何故か機嫌の良さそうな魔理沙を見ているとテンションの差を否応なく感じさせられる。
一体何なんだ、と文は肩を落としながら疲れた視線で見遣った。
「はぁ……それで、絶好調の魔理沙は一体どうしたんですか?何か私に用なので?」
「おお、それだそれ!なんでもお前さん、チルノに負けたらしいじゃないか」
「いやいや、どんだけ速いんですか、話が広がるの?!」
きっとあのスキマ妖怪のせいだろう、と意図せず顔を顰めると、楽しそうにニヤニヤと魔理沙は笑みを浮かべて言う。
「いんや、さっきチルノと紫に会ってな」
「なんでその二人が一緒にいるんですか?!」
何となく、心が苛つき、文は意図せず語気を荒らげた。
本来なら似つかわしくないその両者。
恐らく暇を弄ばしていた紫がチルノの下へ訪れたのだろうが、人には「どうしてそこまでこだわるのか?」等と問い掛けて置きながら自分はキッチリ関わっているとは人が悪いにも程がある。
だが、そんな様子の文を見て、魔理沙は意味深な笑みを深めただけだった。
「気になるのか?」
「っそ、りゃ―――」
「何でだ?」
「―――は?」
思わず、文は目を見張った。
あの夏の日、チルノに問いかけられたと同じ言葉を掛けられれば、一瞬言葉を失う。
―――何故?
そんなの―――
「チルノさんが、友達だからに決まってるじゃないですか」
「ほー……友達にしちゃー結構必死ぽかったけどな?」
また、か。
魔理沙からの、まるで人を試すかのような視線。
本日二度目の、そんな居心地の悪い視線を受ければ、スッ―――と文は目を細めた。
「魔理沙さん。結局何が言いたいんですか?」
「いや、別に?ただ―――」
「ただ?」
「お前さんにとって、チルノはただの友達なのか?」
「勿論、友人ですよ?」
暴風でも起こしてやろうか―――。
そんな不機嫌な心を隠さずに断言すれば、ああ違う違う……と魔理沙は苦笑しながら頬を掻いた。
「あー……そうだな、質問を変えよう。私は文の事を友達だと思っているんだが、文はどうだ?」
「は? はぁ……いや、改めて言う事でも無いと思いますが、私だって友人だと思っていますよ?」
「そりゃ良かった。じゃあ、私とチルノ、どっちが大切だ?」
「…………はぁ?」
頭大丈夫だろうか、と文は思わず目の前の人間を呆れた表情で見詰める。
唐突に、どちらが大切なのか言ってみろ、など全く持って意図が理解できない。
だが魔理沙は解答を迫るように、ほれほれ、と手を振りながら再びあのニヤニヤとした笑みを浮かべる。
「まぁ、深く考えるな。別にどっちが大切じゃないとかそういう事を言わせたいんじゃない。相対的に考えて、文はどっちのほうが大切にしたいと思ってるんだ?」
「まぁ……チルノさんですかね、魔理沙さんって100分割しても甦りそうですし」
「おい待て、私はプラナリアか何かか」
ジト目で顔を顰めた魔理沙の表情に、少しは溜飲下がる思いだった。
多少スッキリした思いで、ふぅ、と1つ息を吐き出すと文は手のひらを見せるようにヒラヒラと振ってみせた。
「冗談ですよ。まぁ、魔理沙さんには申し訳ないですが、今の私にとってはチルノさんの方が優先すべき対象です」
「そうかい……。まぁ、それだけ聞ければ、私としては満足だぜ」
「一体何が魔理沙さんを満足させたんですか……」
やれやれ、と文は肩を竦めてみせたが、魔理沙は用はもう済んだ、と言わんばかりにさっさと背を向け、紅魔館へと飛んでいこうとして―――
「―――ああ、そうそう」
半身だけで文へと振り返ると、にやりと、不敵な笑みを浮かべた。
「チルノだが、人里の方に向かったぞ?」
「―――は?」
「それだけだ」
じゃあな、と片手を上げると、今度こそ振り返ることなく紅魔館を目指して飛んでいった。
小さくなるその白黒の背中を、ポカン、と文は見詰めていたが
「……あの人の考えてる事も、良く分かりませんね……」
はぁ―――。
疲れた、と言わんばかりに盛大に溜息を吐き、バサリ、と1つ翼をはためかせ再び飛び始める。
空を切る風を肌に感じながら文は肩を竦めた。
魔理沙の意図は一切分からなかったが、とりあえずにしてもチルノの居場所について有力な情報を得られたのは僥倖だった。
「人里、か……」
数ヶ月前、共に向かったその場所を目指し、ふと文は呟いた。
色褪せぬ、あの夏祭りを思い出したのだ。
幸せそうに綿飴を頬張っていた、あの笑顔を―――。
霧の湖と人里を結ぶ道は一つであり、その間は草原のように見晴らしが良い。
上空から、人里へ続くまでの道を見下ろしていた文がチルノの姿を見付けたのは早かった。
道の傍らにポツンと一本だけ生えている、楠のすぐ下に腰掛けていたからだ。
ただ、チルノは一人ではなく―――
「あれは……妹紅さんですかね?」
数百メートル程離れた場所にある、ブナの木の枝に止まりながら目を凝らす。
腰まで届く銀髪に赤のモンペという特徴的な姿。
不老不死の少女、藤原妹紅がチルノの隣に座っていた。
氷と炎。
本来なら相反しそうだが、チルノが寺子屋に通っている事からも、慧音を仲介として知り合った二人の仲は良かった。
老いることが無いという事で互いにシンパシーを感じたのかもしれない。
ここ最近、文と話している時にも名前が上がる人物だった。
「……やっぱり、普通に喋ってます……よね」
チルノと妹紅。
二人は木の下に並んで腰を下ろし、チルノが一生懸命に何かを伝えるのを、妹紅は時折相槌をうっている。
話している内容こそ聞き取れないが、特に気負うことも無く普通に会話をしているのが見て取れた。
普通に会話をすることすら出来なかった文にとって、それは羨むべき光景でもあった。
「………」
無言で、小さく唇を噛み締める。
何故、自分は拒絶され、妹紅や魔理沙、紫といった人々とは普通に会話をするのか、と。
―――いけない
だが、ふるふる、と首を振り苛立ちを含んだその思いを追い払った。
わざわざここまでやってきたのは仲直りをする為であって、不毛な怒りを覚える為じゃない。
とりあえず妹紅との会話が終わるまで身を潜めているつもりだったが、もう早々に近づいて話を聞こう。
それこそ己に対する不平や不満をチルノはぶちまけているのかもしれないが、もうその言葉を直接掛けられた方がずっとマシだった。
バサリ―――と翼を広げる。
何て声をかけようか?
探しましたよチルノさん、で大丈夫だろうか?
それとも、いやちょっと人里に用事がありまして~と偶然を装った方がいいのだろうか?
そんな思考を繰り返し、ふぅ、と文はため息を吐いて目を閉じた。
らしくもない。
相手は素直で正直な妖精だ。
ならば自分だって正直に行くのが一番に決まってる。
素直に、仲直りしたくて探してました、でいいじゃないか―――
「……さて、じゃあ行きましょうか」
己を鼓舞するように小さく呟き、一本だけ聳え立つ楠を目指そうと目を開くと―――
「―――あっ」
チルノが、妹紅へ抱きついていた。
あの、満面の笑みを浮かべながら―――
―――ドクン
心臓が嫌な跳ね方をし、後頭部に熱が集まるのを感じた。
抱きつかれた妹紅は満更でも無い表情を浮かべ、チルノの頭を撫でている。
二人の表情すら捉える良好な視力を、この時ばかりは呪った。
「…………」
その様子から視線を逸らすことも出来ず、掌に嫌な汗が浮かぶのが、文には分かった。
頭が茹るんじゃないかと思うほどの熱と、焦りとも、憎悪とも似て非なる感情が鎌首をもたげ心に絡み付く。
それが、一体何の感情であるのかを悟れば―――
「ッ!」
バサリ―――!
大きく翼を羽ばたかせ、一目散に人里とは逆の方角へと飛び立った。
何処でもよかった。
誰もいない場所―――一人になれる場所を目指して、文は全力で空を駆けた―――
時は遡り、文が図書館で妖精について調べていた頃。
チルノは霧の湖の畔で、膝を抱えて座っていた。
「…………はぁ」
寄せては返す波の音を聞きながら、ずっと紫蘭の簪を見詰め続け、時折物憂げなため息を吐いては、泣きそうに顔を歪める。
ほぼ奇襲であったが文との弾幕ごっこに勝利し、地面に落ちる姿を見て慌てて逃げ出してから、ひたすらその繰り返しだった。
天狗という強力な妖怪に勝利したという余韻は、チルノには一切なかった。
「あたいは……悪くない……もん」
何度も繰り返したその言葉を呟けば、膝の間に顔を埋める。
心の何処かで文に落ち度は無いと分かっていながらも、それを肯定する事を必死で否定していた。
このまま全部忘れる事が出来ればいいのに―――チルノがそんな事を考えていると―――
「あらあら、折角天狗に勝ったのに嬉しくなさそうね?」
「……え?」
突然降りかかった声。
チルノが伏せていた顔を上げるといつの間にか、はろー、とスキマから半身だけ出して笑顔を浮かべている紫がすぐ傍にいた。
「あれ?紫?何で知ってるの?」
「ふふふ……私ほどになると、何でも知ってるのよ?」
「ふーん……そうなんだ……」
そういうと再び顔を伏せたチルノを見て、これは重症ね、と紫は微かに苦笑してスキマの中をゴソゴソ―――と漁り
「飴食べるかしら?」
「………うん」
はいどうぞ、と差し出した鼈甲飴を素直に受け取り、頬張る。
本来なら好物の甘味にも関わらず機械的に口をもぐもぐと動かすその姿を見て、さて……と紫は小さく呟いた。
「それで、一体どうしたかしら、チルノ?」
「あたいは……どうもしてないよ……」
「天狗に勝てたのに?大金星じゃない」
「別に……勝ったって嬉しくないもん」
「それは、あなたが今別に悩んでる事があるからかしら?」
「―――え?」
何で分かるの?と口の中でコロコロと飴を転がしたチルノが不思議そうに紫を見上げると―――
「あれ?チルノに紫とは随分珍しい組み合わせだな」
「あ、魔理沙……」
「あら、丁度良いのも来たわね」
箒に跨り、空からゆっくりと下降してきたのは魔理沙だった。
今日も今日とて紅魔館へと本を拝借しに行く途中、ふと視界に捉えた珍しい組み合わせに思わず声をかけたのだった。
唐突な千客万来の感にチルノが戸惑い、紫は面白そうに頬を緩めた。
そんな二人にゆっくりと近付きながら、魔理沙は普段の天真爛漫さが無いチルノを見て、軽く首を傾げる。
「よお、チルノ。随分元気なさそうだが、また誰かに手ひどくやられたのか?」
「そんなんじゃないもん……」
「そうよ、魔理沙。なんといっても、チルノは文に勝ったんですから」
「……は?おいおい、冗談は程々にしてくれよ」
魔理沙は箒から降りて地面に立つと、胡散臭げな表情で紫を見た。
その表情に、あらあら、と紫は可笑しそうに口元を扇子で隠し
「なんで冗談だと思うのかしら?」
「まず第一に天狗に妖精が敵うはずないだろ。よしんば、奇跡やら文が油断したやらで勝ったとしたら、こいつがこんなテンション低い訳ない」
こいつ、と再び物憂げな表情で手の中の簪を見詰めるチルノを指差す。
そう、もしチルノが文に勝ったならば、会った途端に自慢気に話してくるに違いないからだ―――本来ならば。
それに同意するように、そうね、と紫は可笑しそうに笑った。
「今、チルノは色々と思春期なのよ」
「思春期関係あるのか……?つか、チルノ。何で文と戦ったんだ?」
「……え?」
膝を抱えたままチルノが魔理沙を見上げれば、いやだって、と握り締めている簪を指差す。
「最近お前ら二人でよく一緒にいたろ。その簪だって買って貰ったー、って散々自慢してきたじゃないか」
「うん……」
「……え、喧嘩でもしたのか?」
「さぁ、どうかしらね?」
ふふふ、と紫が笑う。
それを魔理沙が横目で見遣りながら、楽しんでやがる……と呆れていると、チルノがポツリと呟いた。
「……よくわかんない」
「は?」
「文が、悪いんだ……」
ポカン、と魔理沙はチルノを見詰めた。
要領を得ないその解答に、あー……と声を出しながら頭を掻くと、紫へと視線を移し
「紫、翻訳頼む」
「あらあら、そうやって皆この賢者を頼る……人気者は辛いわね」
よよよ、と何故か泣き真似をする様子を魔理沙が胡散臭げに見ていたら、ごほん、と紫が一つ咳払いをした。
「さて……チルノ?」
「……何、紫?」
「何で、文が悪いのかしら?」
「だって……」
膝の間に顔を埋めるように、丸まりながら、不満を零すように呟いた。
「あたいだけだもん。あたいだけが待ってて、文は来てくれないんだもん……」
「いや、最近ずっと一緒だったろ、お前ら」
「はいはい、もうちょっと魔理沙は黙ってなさい?チルノじゃ妖怪の山に入れないから、文から来てくれるのを待つしか出来ないのに、いつもは来てくれなかった、って事ね?」
「うん……」
「は?何で紫さっきのチルノの言葉で分かるんだ?」
「ふふふ……私ほどになると、何でも知ってるのよ?」
本日二度目の決めゼリフも、ふーん凄い凄い……と再び魔理沙が胡散臭げな視線で見られ、ガックリと紫は肩を落した。
「何故ここまで信用ないのかしら、私は……」
「日ごろの行いってやつだぜ、きっと」
「ふふふ……その台詞は魔理沙にこそ一番似合ってるわね。それで、チルノ?それだけが文が悪い理由じゃないのでしょう?」
「……それに、いつも文は取材の話を楽しそうにする……」
ポツリポツリと語り始めたチルノを、紫は興味深そうに、魔理沙は目を見張って見守る。
「文がお仕事大切にしてるのは知ってるけど、文はあたいに会うよりもずっと、取材の方が楽しいんだ……!!」
誰にも打ち明ける事が出来ず、心に溜まっていた不満が融解し始めたチルノは次第に語気を荒らげ、ギュッ、と一際強く簪を握り締めた。
「だから、全部全部、文のせいだっ!!」
吐き捨てるように叫び、涙を堪えるように顔を顰めて、再び膝の間に顔を挟む。
その姿を見て、漸く納得が行った、と魔理沙が頷いた。
「なるほど……流石だ、紫。なんだっけか、亀の甲より年の功だっけっか?」
「せめてもう少し年長者に敬意を払うことを覚えた方がいいわね、貴方もあの鴉天狗も」
頬を引くつかせながら爽やかな笑顔を浮かべる紫を敢えてスルーし、魔理沙はチルノに一歩近づくと、なぁ、と声をかけた。
「チルノ。お前、文が嫌いなのか?」
「……え?」
「だって、文が悪いんだろ?」
伏せていた顔を驚き上げると、違うのか?と魔理沙が首を傾げる。
それを見て、チルノは慌てて首を縦に振った。
「そ、そうだよ!文が悪いんだ!」
「じゃあ、文の事嫌いか?」
「そんなの!……そんなの……ッ」
「ほれ」
「……え?」
嫌い、と言い切る事が出来ずに言い淀んでいると、魔理沙が手を差し出し、それ、とチルノが握り締めている簪を指さした。
「嫌いな奴からもらった物なんて持っていたくないだろ?代わりに捨てておいてやるよ」
チルノが言葉の意味を理解し、一瞬目を見張り
「―――ッ駄目!!」
途端に、周囲が凍り付いた。
地面から何本もの霜柱が迫り出し、魔理沙の手から必死に守るように、チルノは両手で簪を握り締めた。
だが―――
「魔理沙……あなたやるならもっとスマートにやったらどうかしら?」
「はっはっは、まどろっこしいのは好きじゃないんでな!」
「―――ぇ?」
珍しく嗜めるような呆れ顔の紫と、愉快だ、と言わんばかりに笑い始めた魔理沙。
―――ポカン
その二人を訳が分からない、とチルノが見上げていると、漸く笑いを収めた魔理沙が、なぁ、と尋ねた。
「チルノ。お前、文に構って欲しかったんだろ?」
「な、なんで……」
「だって、待ってても来てくれないことが不満で、取材ばっかじゃなくてお前の事を見て欲しかったんだろ?」
「う、ん……」
なら、と魔理沙は口元をニヤニヤとさせながら告げた。
「それは、お前が文の事が好きってことなんじゃないのか?」
「……え?」
好き―――
その言葉をチルノが理解すると、ボンッ、と顔を赤くした。
「な、ち、ちがっ!」
「一体何が違うんだよ?」
「好きなんかじゃ―――!!」
「じゃあ嫌いなのか?」
「―――っ!!」
両手で握り締めていた簪に目を落とせば、チルノは言葉を飲み込んだ。
好き―――なのかな。
少なくとも、これだけ苦しく、責任は文にあると思っていても、嫌いとは言えなかった。
持て余していた想いの正体を告げられ戸惑い気味に心で呟き、その答えを求めるように、風に吹かれても決して揺れない簪を見つめた。
一心不乱に簪を見詰め続けるチルノを暫く見守っていた紫と魔理沙だったが、紫が手を伸ばせば、妖精の頭をゆっくり撫でる。
チルノがその優しい手つきに気付けば、不思議そうに顔を上げて首を傾げた。
「紫……?」
「まぁ、今すぐ答えを出す必要は無いわ。 自分が納得するまで、ちゃんと考えることね。他の人に相談してもいいし」
ふわり、と優しく笑う紫をしばし見詰め、うん、と小さく呟いた。
チルノは再び手の中の花を一瞥する。
それを貰ったあの時のように、ただ一緒にいた時の事を思い出せば、この理解不能な想いにも納得がつくかもしれない―――
そう考えると音も無く立ち上がり
「……あたい、行くね」
「そうか?まぁ、上手くいくといいな?」
「ふふふ……楽しい結末を楽しみにしてるわね?」
「うん、ありがとー」
ふより、と宙に浮かぶとチルノは紅葉に染まった木々の間をくぐり抜けるように、二人を振り返ることなく人里方面へと飛び去っていった。
落葉の中へと消えていく青い後ろ姿を見送りながら、なぁ、と魔理沙を傍らの紫へと声をかけた。
「なんで紫はチルノに首を突っ込んだんだ?」
魔理沙が不思議そうに首を傾げると、肩を竦め、ふふふ……と扇子で口元を隠し可笑しそうに紫は笑った。
「別に?ただの好奇心よ。妖精と天狗の組み合わせなんて面白いじゃない」
「ああ、それに関しては同意するぜ」
「冬眠前に面白い話の1つくらい蓄えておきたかったし、ね」
「……あれ?もう冬眠の季節か?」
ふと、魔理沙が空を見上げてみる。
高い空と、舞う金の落ち葉。
それらは秋の終わりを感じさせる景色だが、いくらなんでも早すぎるだろ、と魔理沙は首を傾げた。
だが紫は、ええ、と何処か憂鬱そうに頷いた。
「何だか今年は冬が早そうなのよ……今、外の世界で温暖化が流行ってるし、寒さが幻想郷入りしたのかもしれないわね」
「温暖化って……随分あたたかそうな響きだな」
「ええ、星全体が暖かくなることよ」
「なんでそんな事になったんだ?」
「そうね―――」
スッ、と目を細めた紫の様子を見て、反射的に魔理沙はヤバイ、と思った。
「温室効果ガスが地球の大気中に占める濃度が増加する事で太陽から受けた熱が宇宙空間へと解放される事を阻害され結果的に惑星内に留める事になるから惑星内部の気温が上昇するのだけれど、それに伴って海面温度も上昇して大気中へと供給される水蒸気量が上昇、水蒸気もまた温室効果ガスの一種だから更に太陽から熱を宇宙へと放出する事が出来なくなって後は雪だるま方式に惑星の大気温度が際限なく上昇して―――」
「ストップストップッ!!」
「何かしら、これからがいいところだったのに」
何が良いのか分からないが、止めに入らなければ際限なくしゃべり続けそうな紫を両手で待ったをかけると、魔理沙は頬を引き攣らせて尋ねる。
「分かりやすく、頼む」
「あらあら……そうね、色々と原因は言われてるけど、自然なんて案外ちょっとした刺激で変化してしまうものなのよ?」
「へー……案外繊細なんだな、自然って」
「ええ、そうよ?まぁ、それよりも、次に目が覚めた時にあの二人がどうなっているのか楽しみだわ」
「そんなに時間は掛からないかもしれないけどな?」
にやり、と魔理沙が笑みを浮かべると箒に跨った。
その様子を見て、あらあら、と面白そうに紫は呟く。
「魔理沙も、もう行くのかしら?」
「ああ、折角だし魔理沙さんが恋のキューピットをやってやろうかと思ってな?」
「それは出歯亀と言うのよ?立ち入り過ぎは野暮というものだし、近付き過ぎて馬に蹴られないように気をつけなさいね?」
「ははは、そんな人を蹴るような馬は蹴り返すに限るぜ」
じゃあな、と手をヒラヒラと振りながら地面を1つ蹴ると、空へと飛ぶその後ろ姿を見て―――
「ああ、ところで魔理沙?一ついいかしら?」
「ん?なんだよ、改まって」
突然呼び止められ、魔理沙が何事かと振り返ると、ニヤッ、と紫が笑みを浮かべた。
「何が理由か知らないけど、流石にマスタースパークで地面突き破って地下の洞窟まで貫通させるのは頂けないと思うわよ?」
「あ゛……いやー…ははは、まぁ、そんな日もあったかな、うん。 っと、今はまず文を探さないとな、その後紅魔館だっ」
理由は忘れたが何かを追っていた時にチルノと戦闘に入り、思わずやりすぎた事を思い出せば、乾いた笑いを上げて目を泳がせる。
形勢不利を悟れば二の句を継げられる前に、そそくさと秋の空へと飛び出して行った。
その後ろ姿を見遣りながら、やれやれ、と苦笑を浮かべた紫もまた外へと出していた半身をスキマの中へ引っ込めると、紫色の亜空間の入り口もスッ―――と消えた。
人里へ続く道確かめるようにチルノはゆっくりと飛んでいた。
それは夏祭りの日に文と共に歩いた道だった。
最低限の舗装がなされており、道の端にはススキなどの秋の植物が所狭しと生えている。
ところどころ蛇行はしているものの、一本だけ人里へと続く、道だった。
「…………」
無言で、かつて歩んだ道を確かめながら、魔理沙と紫との会話が、チルノの頭の中で何度も繰り返されていた。
「あたいは……文が好き……?」
ポツリと呟くと、今日だけでも何度繰り返したかも分からない、簪を見詰めるという行為を繰り返す。
「……はぁ」
短く溜息を吐くと立ち止まり、改めてチルノは足元の道を見詰める。
数ヶ月前は、とにかく楽しさに満ちて歩いた道が、今は何処か心苦しかった。
「苦しいのに……好きなの……?」
考えるだけで心が苦しくなるにも関わらず、好きなんじゃないのか、と問われた言葉が頭を過ればフルフルと首を振った。
それは、否定では無く、困惑。
ただ、分からなかったのだ。
チルノが考える『好き』という気持ちはもっと甘くて素敵な物の筈だったのだから―――
「…………あれ?」
ふと、チルノが顔を上げると目の前に大きな木が目に飛び込んできた。
夏祭りの日には気が逸り、傍を通った事すら気付かなかった楠だった。
大木、というには少々誇張が入るが、それでも何も無い道に一本だけ聳えるその姿は、どこか重厚な安心感を見ている者に与える。
こんなのあったっけ?とぼんやりとそれを見詰めていたが、誘われるようにふわふわと近付いていくと、木を背もたれに根元に腰掛けた。
頭を木にくっつけるように空を見上げれば、枝葉から覗ける秋の空が、段々と日が沈み始めているのか、青さが微かに霞んできていた。
「―――ん?チルノか?」
「―――え?」
しばらくの間、僅かな隙間から流れる雲を見ていたら突如聞きなれた声がチルノの耳に届いた。
小さく声を出して顔を元に戻すと、不思議そうに首を傾げて見詰める銀髪の少女―――藤原妹紅。
元貴族の娘であり、蓬莱の薬を飲み不老不死となり迷いの竹林に住まう者。
二人は慧音の仲介で知り合ったのだが、ある日妹紅が相当な実力者であることを知ったチルノが勝負を挑み、三日間連続の弾幕ごっこを繰り広げた事が二人の仲を縮めたきっかけだった。
何度負かしても納得しないで直ぐに再戦を申し込んでくるチルノに音を上げた妹紅が、代わりに弾幕勝負のアドバイスをしてやるから、とアイシクルフォールの安置の消し方等を教授してやったら、すっかり懐かれた。
老いぬことに人並みにはジレンマを感じる妹紅は当初こそチルノの扱いに困惑したが、相手も変化の少ない天真爛漫の妖精で話し相手としては不足なく、また単純に好いてくれる相手を邪険に思うほど世捨て人でもなかった。
それ以来、友人としての関係を育んできた両者は、チルノが寺子屋へと通う事で顔を合わせる機会にも恵まれ、何かあれば互いにそれを話のネタにする仲であった。
「もこ……?」
「ああ。今日はあのブン屋と一緒じゃないんだな?」
「うん……」
その名を呼ばれれば、ズキリと痛む心を隠すようにチルノは顔を伏せた。
(みんな、文の事を言う……)
まるで見透かされているかのような言葉に、そんなに自分は彼女とセット扱いされているのだろうか、とチルノは疑問に思った。
膝を抱えたまま黙り込んでしまったチルノを見て、妹紅は顎に手を当てた。
妹紅がここを通りかかったのは、たまたまだった。
昼ごろに人里で急患が発生し永遠亭へと送っていき、その帰り道の案内も受け持つ予定だったのだが予想以上に症状が重く、入院することになった。
その報告と、夕飯は慧音の家で食べるという約束を果たすため、人里へと戻る途中で楠の下で蹲る影を見つけた。
そんな事情の為、早めに帰らなければならないが、叩けば鳴る鐘のような性格をしているチルノにいつもの覇気がない。
何かあったのだろう、と検討を付ければ妹紅は、よっこいせ、と声を出して寄り添うように腰を下ろした。
微かに漏れ出る冷気を感じつつ、なぁ、と隣で蹲っている小さな影に見下ろしながら尋ねる。
「何かあったのか?いつも元気いっぱいのお前が、らしくもない」
「うん……ちょっと。もこーは、何か用事あったの?」
「ああ、永遠亭への急患がいてな。送り届けてきたところだ」
「そっか……」
妹紅は歯切れの悪い様子を静かに見守り続ける。
少なくとも、記憶が許す限りでここまで落ち込んだチルノの姿を見たことは無かった。
よっぽど何か嫌な事があったんだろうか―――?
そんな考えが頭を過ぎったが、ねぇ、と小さくチルノが声を出した。
困惑の瞳で見詰められた妹紅は、どうした?と首を傾げ―――
「好きになるって、どういうこと?」
「は? どういうことって……何がだ?」
唐突な質問に目を丸くした。
意図を読み取れず、思わずそのまま返すと、あのね、とチルノが縋るように言葉を続ける。
「あたいね、文と一緒にいるのが楽しかったんだけど、最近は楽しくなくなったの」
「え?ああ……何でだ?」
「もっともっと一緒に居たいのに、文はどっか行っちゃうし、あたいからは会いにいけないから、ずっとあたいだけが待ってて……。そうしたら、会いたいなって思うと、苦しくて、ギューって痛くなって……文はあたいに会いたくないのかなって……思って……。会っても文は取材の話しばっかりだから、あたいの事はどうでもいいのかなって思っちゃって……悔しくて、痛くて…………」
でもね、と呟き眉をハの字にして困惑の表情浮かべ
「魔理沙にそう言ったら、あたいが文の事を好きなんじゃないか、って言われたの。ねぇ、これが好きって事なの……?」
苦しさに顔を歪めながら全てを吐き出すように言葉を重ねるチルノの様子を見て、妹紅は何とな悟った。
きっとこの小さな友人は本気の恋の病に苛まされてしまったんだろう、と。
微かに口元を緩め、そうだな、と呟いて空を見上げた。
「多分、それが好きって事だと私は思うよ」
「なんで?好きなのに、何で苦しいの……?」
「それは、お前が求めていることを相手がしてくれないからだよ」
分かんない、と首をゆるゆると振る様子を見ると、いいか?と上げていた視線を戻し、チルノの瞳を覗き込む。
困惑と不安で揺れる青い瞳を見詰めながら、言い聞かせるように言葉を重ねる。
「お前が会いたい、って思っても、相手は来てくれない。だから、会いたいって思っているのが自分だけだって思って、苦しかったんだろう?」
「うん……」
「じゃあ逆に、会いたいって思った時に会いに来てくれたらどう思った?」
「それは……嬉しかったよ?でも、あたい最近は文と会ってても苦しいよ……?」
「それはな、チルノ。お前、会えない時に相手が何をしてるんだろう、とか考えなかったか?」
「? うん、考えた」
「じゃあ、考えたお前の中の文は、何をしていたんだ?」
「えっと……楽しそうに、取材してるのかな、って……」
「つまり、お前の事は考えてくれていないって思ったんだな?」
「うん……」
じゃあ、と一言間を取ると、妹紅は優しい笑みを浮かべてポン、とチルノの頭に手を置いた。
「もし取材してるときも、文がお前の事を考えているとしたらどうだ?」
「……え?」
「取材中も、お前が今頃なにをしてるんだろう?とか考えているとしたら、どうだ?」
「それは……」
優しく笑う妹紅を見詰めながら、チルノは考えた。
取材をしながら『チルノさんは今頃なにしてるんでしょうねー……』とボンヤリと呟く、文の姿を。
もし
もしも、そうであるならば―――
「嬉しい……な」
「なら、そういうことだ。チルノ、お前は文と会えない時間に嫉妬してたんだよ」
「嫉妬……?」
「まぁ、その会えない時間が嫌いだった、って事だな」
「でも……あたい、会えない時間が嫌でも文が好きか分からないよ……」
そうか?と可笑しそうに笑いながら、妹紅はチルノの髪をわしゃわしゃと撫でると、不思議そうに見上げてくる瞳を見て肩を竦める。
先程の発言は無自覚なのか、と思えば相当な重症患者に思わず妹紅は苦笑を浮べた。
「何を求めてるかなんて、さっき自分で言ってたじゃないか」
「え……?」
「もっともっと一緒に居たい、って思ったんだろ?」
「あ……」
「なら、それが答え……だろ?」
ポカン、と妹紅を見上げながら、そうだ、とチルノは思った。
もっと一緒にいたかったんだ。
もっと一緒にいて、自分の事を見て欲しかったんだ。
優しく笑って、いつもみたいに頭を撫でて欲しかったんだ―――と。
氷が溶けるように、チルノは自分の心を支配していたモヤモヤとした感覚が霧散していくのを感じた。
呆然と、自分の気持ちに漸く納得がいったように上の空で見詰めてくるチルノの様子にクスリ、と笑いを零すと妹紅は年長者らしく言葉を紡いだ。
「好きだって気持ちも、相手に伝えなきゃ伝わらないぞ?」
「でも……文はあたいの事、好きじゃないかもしれない……」
不安そうに呟くチルノに、だからどうした、と笑い飛ばした。
「なぁ、チルノ。相手がお前の事を好きにならなきゃ、そいつを好きになっちゃいけないって事は無いんだぞ」
「でも……」
「じゃあ、このままずっと苦しいままでもいいのか?」
「え……い、いやっ!!」
慌てて首を勢い良く振るチルノをみて、ほら、と妹紅は優しく目を細めた。
「なら、決まってるじゃないか。どうしたいのか、どうするべきなのか」
「でも……でも、あたい、文に酷いことしちゃったし……」
「酷いことって……何やったんだ?」
「アイシクルフォールで地面に叩きつけちゃった……」
「ははは……そりゃまた派手にやったな。でも、酷いことしたなら、まずやることは1つだろう?」
「え?」
想像以上の惨状に思わず苦笑いを浮かべ、妹紅は頷いてみせた。
まさか妖精が天狗に勝つとは……と思いながら、不思議そうに首を傾げるチルノに分からないか?と肩を竦めて見せた。
「ちゃんと、謝る。それで許してくれなかったら、どうしたら許してくれるのか教えて貰えばいい」
「……出来るかな」
「大丈夫だ、お前がしっかり謝ればちゃんと許してくれるさ」
「うん……」
「ほら、元気を出せ。あの天狗の事が好きだって納得できたんだろ?そんなしょぼくれた顔をしたチルノなんてチルノじゃないぞ?」
「……うん。ありがとう、もこ!」
「お、と……」
憑き物が落ちたように、久々に笑顔を浮かべたチルノが妹紅へと飛びついた。
その勢いに負け、体を揺らつかせて片手でその小さな体を抱きとめると―――
―――バサリ
「ん?」
強く羽ばたく音を耳で捉え、妹紅は反射的に振り向いたが何処までも続く秋の空には何の姿も無かった。
気のせいか?と妹紅が首を傾げていると、体を離したチルノがくいくい、と袖を引き
「えっとね、もこ!」
「ん?なんだ?チルノ」
「えっとね……あたいちゃんと言うよ」
真っ直ぐな瞳で妹紅を見詰め
「謝って、それで言うよ」
いつもの満面の笑みを浮かべ
「文が好きだって」
憂いの無い表情で、言い切った。
それを見れば、そっか、と妹紅は笑い、目を細める。
「それでこそ、チルノ、だな。やっぱり、お前は笑ってる方がいいぞ」
「えへへ……そうかな?」
「ああ……と、そろそろ帰らないと慧音が心配しそうだな。チルノも一緒にくるか?夕飯を慧音のところで食べる予定なんだが」
よいせ、と声を出して立ち上がりながら、座り込んだままのチルノに問いかける。
だが、んー……と声に出して悩んだチルノは首を横に振った。
「……ううん、あたい今から文を探すよ」
「そうか」
やっぱりな、と思い込んだら一直線の友人を見て、妹紅は頷いた。
ならば自分が掛けるべき言葉は1つだ、と―――
「なら頑張ってこい、チルノ」
「うん! ありがとう、もこっ!」
立ち上がり、早速とばかりにチルノは空へと飛翔する。
振り返りながら手を振ると、それに応えるように妹紅も軽く手を振り返し、その後ろ姿を見送った。
「……さて、さっさと帰らないと慧音にまた小言を言われるな」
その姿が空へと完全に消えれば、この後に待ち構えている寺子屋の教師の小言を覚悟して、妹紅はやれやれと肩を竦めた。
きっと小言を聞いている間も、先程の友人の話を思い出してはニヤついてしまうだろう。
そうすればきっと不審な目を向けながら、教師の小言は更に追加される。
決して愉快とは言えない未来だったが、まぁいいか、と苦笑を浮かべながら空を見上げて、もう一度呟いた。
「頑張れよ、チルノ―――」
霧の湖の畔。
そこにある大きな岩に腰掛け、文は夕日に染まる湖面を見詰めていた。
―――笑っていた
先程から心に蘇るのは、妹紅との会話でチルノが浮かべていた笑顔だった。
「…………」
物憂げに寄せては返す湖の波を見て、文は考える。
機嫌が悪いのは自分の所為、とは重々承知していた。
それこそ、彼女自身が言い放った言葉であったのだから。
だが、それでも心のどこかで、実は虫の居所が悪いだけで自分自身には落ち度がないのでは、という思いもあった。
心の中で昇華する事の出来ない思いを抱え、そのために誰に対してもピリピリとした態度を取ることしか出来なかったのでは、と。
時が経てば数週間前と同じように、あの笑顔を自分に向けてくれるかもしれない、と考えていた。
でも、それは違った。
ここ最近向けられていた笑顔は、別の人物へと向けられていたのだから―――
「…………」
ポチャン―――
無言のまま、石を拾えば湖へと投げつけてみた。
小さく波立つ湖に立った小さな波紋は、そのまま広がることなく消えていく。
面白く、なかった。
それは山の会議とは違い、何処か焦燥感を感じさせる心苦しさを伴ったものだった。
(その笑顔を、数週間前までただ一身に受けていたのは私なのに―――)
はぁ―――。
考えれば考えるほど胸に溜まる黒い思いを吐き出すように、深い溜息を吐いた。
文自身もその身勝手で醜い感情が何であるか分かっていた。
即ち、嫉妬―――
「馬鹿なことを……相手は、妖精だというのに……」
だが、否定の言葉を口にしても胸のうちのモヤモヤとした想いが消える訳ではない。
よくよく考えれば、分かることだった。
何故、そこまで彼女が自分を嫌う事を恐れたのか。
何故、そこまで彼女を求めて今日飛び続けたのか。
何故、そこまで彼女に―――固執したのか。
文にとってチルノはあくまで好奇心の対象としての「好き」だった。
だからこそ、その好意が恋へと変遷したことに何よりも戸惑いがあった。
妖精と天狗。
本来なら並び立つ事自体がおかしい程、両者の立場の違いは明白だ。
それだけに飽き足らず、妖精を好きになるなんてことは有り得ない、という思いがずっと脳内を駆け巡っている。
「傍に居すぎました、かねー……」
ポツリ、と呟かれた言葉。
きっとそれもあるんだろうな、と思った。
でも、きっとそれだけでもないんだろうな、とも思った。
傍に居すぎた為に、いざ傍を離れられた事で奪われた、と感じる所有欲だけではなかった。
ただ、その笑顔を自分には向けてくれない、という事が、ただただ悔しく感じたのだ。
思えば、一人になりたいと思いながら、こんな場所に来たのも何処かで出会う事を願っていたたからなのだろう。
それが紫と魔理沙に立て続けに問いかけられた、何故チルノがそんなに気になるのか、に対する答えだった。
「年幅もいかぬ子供でもないでしょうに……我ながら何を考えているのやら……」
子供じみた独占欲に、思わず自嘲の笑みが浮かんだ。
妖精とは、自然の歪みの具現化である。
生物的な死を持たないその存在は、生物的な生を持たないとも言えるのだ。
共に同じ時間を生きられぬ相手を好きになってどうするのか。
ましてや、その姿は、どんなに長い時を生きていると言えども、どう考えても子供のそれであるし、その心もまた何処までも子供のそれだった。
そんな相手を好きになったとしても、ロリコンと称されるのは目に見えているし、年幅もいかぬ子供を好きになるような、そんな罪悪感が心を占める―――
(いや、違う―――)
だが、心に起こったその考えを文は首を振って否定した。
外見と実年齢が伴わない者など、この幻想郷には山といる。
躊躇いの本質は、ただ、何処までもチルノが妖精である、という一事においてだった。
「下らないものね……本当に」
妖精一人にここまで心を揺れ動かされる自分に対して。
そして、妖精、というだけで己の恋心を全力で否定しなくてはいけない自分に対して。
今まで周囲の考え方に囚われない、自由な考え方をしてきたつもりであったが、文は、文が考える以上に天狗であった。
妖精だから恋心を抱える事は絶対に有り得ない、とするそれは、天狗という社会に生きるが為だった。
天狗の社会とは、明確な縦社会である。
権力構造が明確な組織においては、常に人は保守的になるものだ。
現在、妖怪の山では革新派と守旧派の二つの派閥に別れているが、その根底にあるのは保守だった。
大きな変化を好まず、面子を重んじ、プライドが高い。
そんな保守の考えにおいては、妖精という、幻想郷におけるヒエラルキー最下層に属する存在と友情を育むまでなら変人程度の扱いで済むが、もしも、恋心を抱いたとなればそうはいかないだろう。
文は天魔を頭とする革新派に属している。
もし、チルノへの恋心が露呈すれば、天狗全体のプライドを傷付ける、として守旧派からの格好の攻撃の的となるのは目に見えていた。
それは、文だけの問題ではない。
同派閥のトップ、天魔にも多大な迷惑を被らせ、更にはチルノにも何かしらの被害が及ぶ可能性だってある。
そうであるならば、好きになることすら罪、だ。
「でも、チルノさんは普通の妖精……じゃない」
八雲紫の言葉が耳に蘇る。
このまま順調に行けば、彼女が妖怪となる日は遠くない、と。
妖精として圧倒的な力を持つチルノは、普通の妖精、とは決して言うことは出来なかった。
幼い心ながらも、他の妖精と比較して高い知性があり、誰かを思いやるという事を知り、今も妖精ながらにして成長を続ける彼女。
もし、彼女が成長を続け、妖精としての概念から飛躍する日がきたならば―――
「…………」
ふと、真っ赤に染まった空を見上げると、斑のいわし雲が空を覆い隠すようにどこまでも広がっていた。
離れよう―――
このまま傍に居たら、文は己が考える規範を踏み越えかねなかった。
そして何よりも
「チルノさんが嫌がる事は……したくないですし、ね」
小さく、寂しそうな笑みを浮かべ呟いた。
立場の違いが建前ならば、こちらは本音。
好きだからこそ、その人が苦しんだり嫌がったりすることはしたくなかった。
原因は結局分からなかったけれども、今度会ったら、とりあえず謝ろう。
そして、もう近くに寄らないから気にしないでくれ、と伝えよう。
僅か数か月前の、夏祭りの夜に感じた楽しさが遠い過去の事のように感じられた。
ただ目を奪われたその笑顔を傍で見られない。
その程度の事で、此処まで気落ちする己が、どこか滑稽だった。
「ぁーゃー……!」
今日はもう帰ろう。
そう、心に決めて立ち上がろうとしたところで、声が聞こえた。
「……え?」
何よりも、今日求めていた声。
それが耳に届き、その声がした方へと顔を向けると―――
「あやーッ!」
「チルノ……さん?」
目を、耳を、全てを疑った。
求めて止まなかった、その姿が一直線に向かってきていたのだから。
「チルノさゴフッ!?」
「って、うわぁっ?!」
但し、正に弾丸の如く一直線に飛んできたチルノは何の躊躇いもなく飛び込んだ為、文は字のごとく体を張ってそれを止める羽目になった。
腹に抱きつくように飛び込んできたチルノをしっかりと抑えたが、完全に気を緩ませていた状態での激しい衝撃に踏ん張ることが出来ず、その体を抱きかかえたまま岩に背中をしたたかに打ち付けた。
「いったた……」
「あ、あや?!大丈夫?!」
鈍痛に顔を顰めていると、馬乗りになったチルノが心配そうに見詰めてきていた。
夕焼けに赤く染まった青い瞳に覗き込まれ、文は顔を歪めた。
どうして―――
声にならない言葉を呟く。
何故、そんな瞳で見つめるのか、と。
嫌っているはずじゃなかったのか。
だからずっと避けたんじゃないのか。
「ご、ごめんッ!痛かった……よね?」
「いえ、大丈夫ですよ……よっと」
文の表情の変化に気付いたチルノが慌て始めるが、問題ない、と馬乗りになっている小さな体を持って起き上がれば、少し距離を作るように彼女を横に置いた。
あ……と呟くチルノが悲しそうに眉を寄せて俯く姿を見て、一体何なんだ、と文は小さく嘆息した。
「…………」
「…………」
静寂。
並び座りながら互いに言葉を発する事もなく、秋の風が湖面を揺らす音だけが聞こえる。
正面からの夕日を眩しく思いながら、文は隣のチルノを盗み見た。
難しい顔をしたまま俯き、強く拳を握り締めている。
話が進まないな……。
居心地の悪いその静寂を打ち消すように、己の心を押し込めると努めて明るい声を出した。
「それで、チルノさん?どうされたんですか?」
「あ、あのねッ! あの……ね……」
ばっ!と。
文を仰ぎ見て、何かを迷うように口を開いては閉じるを繰り返すチルノ。
昼間と雰囲気の違う、一人で百面相をしている相手の意図を読み取れないが、それが非常に言いにくいという事は文にも理解が出来た。
ひょっとして、もう傍に寄ってくれるな、とでも言われるのだろうか……。
もしそれを望みながら言い出せないでいるなら、こちらから切り出すべきだろう、と思う。
まだ幼い彼女に全てを任せるのは年長者としても申し訳が立たない。
そう思えば、すぅ、と息と共に自分の想いも一つ吐き出した。
二度と、思い起こす事がないように、と。
「チルノさん、私―――」
「あのね、文! ごめんなさいッ!!」
呼吸を整え、謝罪を述べようとしたら、何故か居住いを正したチルノに先に謝られた。
え、と馬鹿みたいにポカンとしながら、深く下げている頭を呆然と見遣る。
「え、な、何がですか……?」
「あたい……文に、いきなり攻撃して怪我させちゃった……から」
ごめんなさいッ!
頭を上げる事なく、ただもう一度された謝罪に、改めて文は驚愕した。
“あの”チルノが頭を下げて謝罪をしているのだ。
負けん気が強く、基本誰であっても物怖じせず、総じて子供らしくプライドも高い、あのチルノが。
驚くな、という方が無理があるというものだった。
「……許して、くれない……?怒ってるよね……」
「怒って……ないですよ?」
「でも、あたい文に怪我させちゃったよ……?」
「天狗を舐めないでください?あの程度ならなんて事はありませんよ?」
本当?
顔を上げ、不安に揺れる瞳で問われれば、ええ、と一つ頷いた。
「そっか……良かったぁ」
えへへ、と。
安心しきった顔で、文が求めてやまなかった、笑顔がチルノの顔に浮かんだ。
「―――そ、それで!謝罪の為に来たんですか?」
思わず見惚れてしまった笑顔から視線を外せば、ドキドキと無駄に早鐘を打つ心臓を必死に隠すように尋ねた。
謝罪の理由が昼間の攻撃に関する事なら、ここ最近の文を避けようとする行動についての答えを聞かせてもらっていない。
まだ、彼女と己とのわだかまりは解決されていないのだ。
「あ、あのね、文……」
「はい、なんですか?」
「あの、その……これ」
おずおず、と。
迷うような表情で、ワンピースのポケットから取り出し、文へと差し出されたのは紫蘭の簪だった。
「結って、欲しいな……」
「え……?」
顔が赤いのは夕日のせいなのだろうか。
戸惑いの表情を浮かべ、文は差し出された簪と赤い顔を何度も往復した。
最近は頑なに結うことを拒否していたのに何故だろう、と。
「だめ……?」
「だめ、なんてことはありませんよ?」
「じゃあ、お願い……」
恐る恐るとその簪を受け取ると、チルノは片手でリボンを解き、すぐさま体を反転させ、背中を文へと向けた。
目の前で、夏の頃と比べて微かに伸びたセミショートの髪が揺れる。
一体何なんだろう……。
拒絶されたかと思えば、謝罪をしたり、髪を結って欲しいと頼んだり。
いつもなら心地よい、チルノのそういった不可思議な行動が、今はどこまでも心苦しかった。
結ったら、早々に告げて別れよう。
それが一番の筈だ、と心で呟くと、青いセミショートの髪に手を添える。
掬うように手にとるとサラサラとこぼれ落ちていく。
相変わらず非常に柔らかい髪質だった。
どれだけ伸びれば綺麗に結えるようになることやら……。
そんな事を思いながら、髪を束ねて捻るとそこに簪を差し込み―――
「―――文が好き」
「―――え?」
そのまま髪束と一緒に巻き込むように回転させようとしたところで、突然チルノが告げた。
ビクリ、と体を震わせる文の口から零れた声も震える。
今、何を言われた―――?
「誰よりも一番、文が好き」
それは、唐突な告白だった。
「あたい、文が好き、なの」
半身だけで振り返り、夕日ほどに顔を赤くした顔で文をチルノが見上げた。
その顔を見詰めながら、何で…、と文は呆然と呟いた。
だって―――
「チルノさん、最近ずっと私の事を避けていたんじゃ―――」
「文が―――」
言いづらそうに、チルノは顔を僅かに俯かせ心の内を吐き出すように訥々と語りだした。
「文が、いろんな話しをしてくれたり、頭を撫でてくれるのが、嬉しかった」
「だけど、そのうち、何でいつも来てくれないんだろ、って思うようになって」
「あたいからは会いにいけないから、いつもずっと待ってるのに、いつもは来てくれなくて」
「あたいだけがそう思ってるんだって思ったら、辛くて、悔しくて―――!」
「頭を撫でてくれるのも、胸がギューって苦しくなって―――!」
「全部、文が悪いんだって……思った」
でも、と呟くとチルノが俯かせた顔を上げると、じっと文の顔を見詰めた。
「もこーと魔理沙と紫に話したら、それは文が悪いんじゃなくて、あたいが文の事を嫌いになったんじゃないって教えて貰って」
揺れる瞳を、文はただ呆然と見詰め返した。
自分だけじゃなかった。
彼女にそんな想いを抱かせていた、という想いが心に沸き起これば、矮小な独占欲が満たされていくのが分かった。
ねぇ、とチルノは泣きそうな声で尋ねた。
「文は―――」
呆気にとられ、潤んだ瞳のチルノがじいっ、と文の瞳を覗き込む。
左手で纏めていた髪が、風に舞って手を離れた。
「あたいのこと、嫌い?」
堪えるように唇を噛み締め、泣きそうな声で告げられた。
そんなの―――
「嫌いじゃ、ありませんよ」
「好きでも、ない………?」
今にもこぼれ落ちそうな雫を瞳の端に蓄えて尋ねられる。
―――反則だ。
溢れそうな想いを、唇を噛み締める事で防いだ。
そんな、何処までも純粋で無垢な目で見られて、どうして「ただの友人ですよ」と肯定など出来るものか。
ただただ好きだと告げるその声を聞かぬ振りをして、どうして拒絶など出来るものか。
醜いまでの嫉妬心を浮かべて相手を求めたのは、己も同じなのだから。
けれども否定だって出来るはずもない。
何故なら、自分は天狗で彼女は妖精だ―――
―――いや、違う。
キツく目を閉じると、その想いを振り払う。
ストーカー紛いに彼女の後を追い、他の誰かと楽しそうに話しているのをみて心に焦りを感じたのは何故なのか。
その答えは、とうに出ているのだ。
純粋なまでに真っ直ぐなチルノの想いに、先程まで文の心を占めていた決意が呆気なく瓦解した瞬間だった。
己が考える規範を踏み越える想いだという事は分かっていた。
それでも、立場とか見た目など関係なかった。
彼女の事が好きか嫌いか、なんて考えるまでもない事なのだから。
私は―――
「―――好きです」
誰よりも彼女の傍に居て、誰よりもその笑顔を向けて欲しい。
ただ、それだけ―――
「チルノさんの事が、一番好きです」
紫蘭の簪を強く握り締めた。
心にある迷いごと潰してしまえるように、強く、強く。
「ほ、んとう……?」
「何で嘘だと思いますか?」
「だって、あたい……文に酷いことしちゃったよ……?」
「だとしても嫌いになる、という道理はありませんよ?」
呆然と。
文をただ眺めていたチルノの瞳から一筋涙がこぼれ落ちた。
「あ、れ……?」
不思議そうに、頬を伝い続ける涙を手のひらで拭いながら、おかしいな……とチルノは小さく呟いた。
「あたい、嬉しい、はず、なん、だけど……な……」
「嬉しくても―――」
文は、その小さく冷たい体に手を伸ばすとそのまま抱き締めた。
わぷっ、と胸にチルノが頭を預けると、優しく背中をポンポン、と叩き始める。
「泣くことだって、あるんですよ―――?」
「え、へへ……そう、なん、だ……ッ」
顔は見えないが、必死の泣き笑いの表情で泣くのを我慢しているんだろう、と思えば何となく微笑ましく思えた。
まったく、と小さく呟き背中に回した腕を一際強く抱き締めて、柔らかなチルノの髪に頬を寄せる。
「チルノさんは、お馬鹿さんですねー」
「っ、ば、かじゃない……っ!も、んっ!!」
「勝手に一人で悩んで飛び出していったのにですか?」
「っ……ご、めんな、さい……っ」
くすっ、と文は笑った。
何処までも素直な彼女の謝罪を聞いて笑いがこみ上げてきたのだ。
勝手に一人で悩んだのは、自分も同じ。
素直な彼女と素直でない自分という、なんともアンバランスな関係を思えば立場以上に滑稽のような気がした。
それでも
「ありがとうございます」
「ふ、ぇ……?」
その自分には無い素直さを持つが故に、きっと彼女に惹かれたんだ―――。
未だに笑いながら泣いているチルノの表情を見て、そろそろ泣き止んで貰おう、とすぐ近くにある顔にゆっくりと唇を寄せて―――
「……ん」
「―――っ?!」
瞳の直ぐ下、涙の跡を掬うように口付けた。
チルノが体を強ばらせるのが唇から伝わってくれば、そりゃそうだ、と文は唐突な己の行動に苦笑を浮かべる。
顔を離してみると、ポカン、と見詰めるチルノの表情が可笑しくてクスクスと笑いながら愛おしげにその頭を撫で、純粋な己の想いを告げた。
「大好きです。チルノさん」
「っ」
夕日に染まったチルノの顔が、なお紅くなった。
きっと、己も大差ないと思えば文は苦笑する。
好きだの何だのと、まるで初恋のように踊る心を思えば、やれやれと肩を竦めた。
どうしたって、今後大変なのは分かっている。
それを見越しながら、敢えてその道に飛び込んだ。
いつか後悔をする日がくるのかもしれない。
それでも、今、この瞬間を選んだ。
チルノさんを、選んだんだ―――
「あたいもっ!」
「はい」
「あたいも、文が大好きだよっ!」
最近、ついぞ見る機会が無かった満面の笑みが目の前で咲いた。
一際強い風が吹けば、夕日に照らされた金色の銀杏の葉が空を舞う。
その一枚一枚に宿る妖精の命は儚い。
冷たい風からチルノの体を守るように翼を広げて被い、その体を大切に抱き締めれば目を細めて思った。
天狗だとか、妖精だからとかではない。
ただ、きっとそれだけを見れば誰だって嫌うはずのない、そんな笑みを一番傍で見たかったんだ。
友達という関係だけで抑える事が出来なかった理由が、それなんだ―――と。
冷たい風が、秋の終わりと冬の訪れを告げている。
季節が移ろう中で、ただ二人きり、夕日の中で互いの体温を確かめ合うように抱きしめ合う。
そんな二人を、文の左手が握っていた紫蘭の花だけがひっそりと見守っていた―――。
ご注意下さい。
秋―――
暑さも和らぎ、幻想郷はゆっくりと冬へと移ろう狭間にあった。
最近はめっきりと朝夕は冷え込み始め、その寒暖の差から体調を崩した人々が永遠亭の世話になる。
天高く馬肥ゆる、そんな秋。
夏とは違う、薄い青色がかった空を、今日も天狗が飛翔していた。
漆黒の翼で空を切る、射命丸文である。
頬に当たる風を心地よく感じながら、文は霧の湖を目指していた。
というのも、湖周辺の木々が、この幻想郷の何処よりも早く紅葉のピークになった為だった。
「いいネタですよねー。妖怪の山ですらまだ色づき始めたばかりだというのに」
まっすぐに空を飛びながら、わくわくする心を抑えきれずに呟いた。
例年よりも非常に早い紅葉である。
記事のネタとしては申し分ない。
今からどんな写真を撮ってやろうか、と考えると自然とカメラを握る手にも力が入る。
それに、あそこには彼女―――氷精チルノもいる。
好奇心を満たすことが二つもあれば、自然と心躍るというものである。
文は、チルノと夏祭り以降良く顔を合わせていた。
少なくとも、週に一回は会って下らない話しをしていると思う。
今日は何匹カエルを凍らせた、今日はどこどこでこんな悪戯をした。
そんなチルノの日常に耳を傾け、失敗談には思い切り笑って「チルノさんはお馬鹿ですねー」という。
そうすればチルノは顔を真っ赤にさせつつ「馬鹿じゃないもん!」と否定するも、やはり何処か楽しそうにしてるから遠慮はいらないはずだ。
もちろん、一方的に話させてばかり、というわけではない。
文がその日集めたネタや新聞の記事の内容なんかを分かりやすく教えたりもする。
勉強は嫌いだが、好奇心旺盛なチルノはそういった話しも興味深そうに聞いてくれていた。
時にはネタを求めて遠出する事もあったが、気が向けば誘い、大抵良い笑顔で付いてきて軽いピクニックといった感じで良く一緒に動き回る。
ここ最近の二人の関係は、そんな感じだった。
考えれば、本当に最近は良く一緒にいるな、と思う。
あの純真無垢な妖精は、本当に自分とは根本的に違う物の考え方をする。
それを側で見ることが出来るのは、文にとって幸せなことだった。
眼下に紅魔館の敷地が広がっている。
相変わらず、この建物は無駄にでかい。
その巨大な建物を見ながら、はぁー……と文は深い溜息を吐いた。
「だけど、なー……最近チルノさん何か変なんだよなー……」
そう、どうにも最近のチルノは、らしくなかったのだ。
一時期は夏祭りでプレゼントした簪を手に近づいてきて「結って結って」とせがんできたのが、最近はその簪をジッと見つめて物思いに耽っては、冷気をただ漏れさせ周囲を凍りつかせている姿を良く見る。
「結ってあげましょうか?」と笑顔で尋ねると、何故か顔を真っ赤にして「いい!」と全力で否定され、そそくさと簪をしまってしまう。
他にも、ちょっと頭を撫でてやろうとすれば体を面白いくらいびくつかせて避けられたり、取材の話をしていても面白くなさそうに俯いてしまったり。
この前など、一緒に取材しに行きませんか?と誘ってみたら難しい顔をして「今日はいいや」と断られた。
早い話、チルノの笑顔が減ったのだ。
「なんか……気に障るようなことでもしてしまいましたかね……」
頬に風を感じながら、はぁ、とため息を吐いて文は考える。
はたして何か彼女の嫌がることでもしてしまったのだろうか?
だが、頭を捻って考えてみても特に思いつくことはない。
バカバカ言い過ぎたかな―――
結局、そんなしょうもない理由しか思いつかず、ならばとなるべく優しく接してみれば、どこか居心地悪そうに避けられてしまうのだ。
「………え、もしかして私嫌われました?!」
マジか、と頬をひくつかせて考える。
特に嫌われる事をした覚えはなかったが、案外自分の知らぬところで他人を傷付けるものだ。
やっぱり馬鹿にしすぎた?いや、もしかしたら髪が伸びない事を弄りすぎたかもしれない。
考えれば考えるほど、チルノに嫌われた、という可能性しか文には思いつかなかった。
「仲直り、出来るかな……」
というよりも一方的に避けられているのだから、してくれるか、といった表現の方が正しい。
まともに会話が進められないのでは?と弱気になる心が嘆く。
憂鬱になりそうな気分だったが、それでもこのままでは埒が空かない、という事は百も承知だった。
腹を括るしかない、ですよね。
今日、チルノに会えたら事の真相を聞いてみよう。
折角仲がより良くなったのに、それが訳もわからぬうちに壊れてしまうのはもったいない。
相互理解は、やはり声に出さなくては為し得ないのだ。
「よし……頑張れ、私!」
自らを勇気づけるように力強く呟き、文は背中の翼を大きく羽ばたかせ湖畔に広がる森―――いつもチルノとの待ち合わせに使っている大穴を目指した。
「お、いたいた……」
すっかり紅葉した森の中に空いた大きな広場。
そこに空からでも良く見える青い姿があった。
大きく羽ばたき、ゆっくり地面へと下降していくと段々その姿が鮮明になる。
チルノは倒木に腰掛け、やはりというべきか、その手に簪を持ち、ほんの少しだけ伸びた―――といっても1センチ程度であろうが、髪を片手で弄っていた。
どうやって声をかけようか……。
そう逡巡していると、バサバサと羽ばたく音が聞こえたのか、チルノはひょっこりと空を見上げた。
視線が合い、何となく気まずい気持ちになりながら、文は手をひらひらと振りながら直ぐ側に着地する。
「どうもどうも、チルノさん。お元気ですか?」
「あ、うん……あたい元気だよ」
嬉しそうな、そうでもなさそうな。
そんな表情を浮かべながら、何とも微妙な返答をするチルノに、ふぅ、と小さく息を吐いた。
ビクリ、と肩を震わせるチルノは、やはり何か無理をしているのだろう。
どうしたものかなー、と暫くその姿を見詰めていたが、とりあえず同じ木にあえて少し距離を空けて座ることにした。
ざぁ―――と風が吹き抜ける。
秋の風に揺らされ、紅葉した木々の枝葉が揺れた。
微妙なその距離感に居心地の悪さはチルノも感じているようで、二人の空いている間をチラリチラリと何ども盗み見ている。
何となく声を出すのを躊躇う緊張感に、困った、と頬を掻きながら文は尋ねた。
「えーと、ですね。チルノさん?」
「え?!う、ん。何、文?」
「何かあったんですか?」
「……何もない、よ」
「本当ですか?」
「……本当だよッ」
言葉の端々に苛立ちを露にするチルノ。
それを感じながら、文は言いにくそうに聞いた。
「え、と……ひょっとして私何かしましたか?」
「……え?」
驚きに目を見張り、見詰めてくるチルノに、いやだって……と首を傾げて見せる。
「なんだか最近そっけなくないですか?」
「そ、そんなこと、ない……」
「いやいや、ありますから」
「ッ、ないったら、ないッ!」
珍しく声を荒らげたチルノに、思わず目を丸めた。
するとチルノも、あ、と小さく声をだし、何かを喋ろうと口をパクパクと動かしたが、それが言葉になることはなく。
体裁が悪く思ったのか素早く視線を逸らされてしまった。
困った―――な。
困惑気味に心で呟いた。
思い切って踏み込んでみたが、想像以上に拒絶されてしまっているのか、チルノを苛立たせている原因は不明だった。
こういう時は、世間話でもしてアイスブレイクに徹するのが鉄則。
いつもの取材を行う感覚で文は笑顔を浮かべれば、そういえば、と声に出し
「一昨日取材に行った時なんですが―――」
「ッ!」
キンッ―――
瞬間、チルノから漏れでた冷気が周囲の倒木を凍りつかせた。
空気中の水分も結晶化し、秋の陽を浴びてキラキラと輝いている。
そんな幻想的な風景の中、突然の出来事に文は目を丸め、当のチルノは「あっ……」と泣きそうな表情を浮かべた。
「え、ち、チルノさん……?」
「―――ッ全部、文の所為だっ!!」
「えええええ?!!」
寝耳に水、どころの騒ぎではない。
「いや、チルノさん、三段論法って知ってますか?!」
「うるさい!三段六法なんて知るか!!」
「無駄に凄そうですね、それ?!」
全部重ねれば完全に凶器になりそうな程な重みがありそうだ。
だが、チルノはそんな言葉などお構いなしに座っていた倒木から跳ねるように飛び立つと、10メートル以上の距離を置いた上空で止まり、親の仇でも見つけたかのような鋭い視線を文に送った。
空に浮いたまま仁王立ちし、その手には一枚のスペルカードが握られている。
「文なんか、嫌いだ……!」
「うぇ?!唐突過ぎませんか?!」
「うるさいうるさいうるさい!!文なんか、文なんか―――!!」
刹那。
秋色に染まっていた森が急激な冷気に覆われたのが、軽く混乱状態の文にも感じ取れた。
「大っ嫌いだぁー!!」
チルノの絶叫。
それと同時にチルノの手にあったカードが消え、無数の氷が発現した。
『氷符・アイシクルフォール』
秋の空を覆わんがばかりの大量の氷の礫の数々に、思わず文はポカン、とその情景を見詰めた。
「え、多ッ?!」
圧倒的な質量。
物量に物を言わせているとしか思えない、いつも以上に多いその弾幕に思わず目を見張りながら、きっと怒りに任せて自棄になって発動させたんだろうなー、と冷静に考えていた。
「とはいえ、これはマズイですよっ?!」
重力に従い、覆い囲むように迫ってきた弾幕を切り抜けるために、慌てて翼を広げて飛翔する。
いくら相手が妖精とはいえチルノが破格の力を有しているのは周知の事実であったし、何よりまともに喰らえば相当痛い事は目に見えている。
「チッ!」
舌打ち1つ。
以前、花の異変の時に一度、文はチルノと弾幕勝負を行なった事があったが、その時はこれほどの密度の弾幕は展開されていなかった。
斜めに襲い来る弾幕は真っ直ぐ飛んでいては避ける事が困難である。
それが普段と段違いの圧倒的な密度で展開された弾幕とあっては、下手に突っ込めば自爆すること等目に見えている。
だが、文は敢えて一直線にチルノを目指すように飛んだ。
(破格すぎるでしょう、妖精なのにッ!)
心で、ここまで力を付けていたチルノに対して毒づく。
けれども、文もまた、負けるつもりはサラサラ無い。
ジッ!と腕に、翼に弾幕が掠るのを感じながらも、目の前に来る弾幕を紙一重で避けながら、ただ一点のみを目指していた。
そう、この弾幕の安全地帯を―――
(とりあえず、この弾幕ごっこを終わらせて、理由を聞いて、謝って―――!!)
ひゅんひゅん、と耳元を掠める氷の弾幕を掻い潜りながら、文は安置―――チルノの目の前を目指して飛んだ。
やはり知らぬうちに嫌われてしまっていたらしいが、とにもかくにも理由も教えてもらえずに嫌われる事などまっぴらごめんであったし、出来る事なら前と同じように仲良くしたかった。
折角、仲良くなったのだから。
その思いを抱えて、ランダムに迫り来る氷を避け続け、文は漸くその弾幕の嵐の向こう側、チルノの目の前へ―――
「―――あ、れ?」
氷の弾幕の向こうには、デッカイ氷の塊が居た。
「ノットいーじー?!!ごふっ?!!」
前提として、何も無いと思って猛スピードで前へと突っ込んで行ったのだ。
目の前の大質量の氷を避ける事など出来ずもろに腹に喰らえば、肺から空気が抜けるような呻き声と共に、重力に引きずられるようにゆっくりと地面に落下していく。
「―――ぁ」
意識が沈む前、文は視界の隅でチルノが辛そうに顔を歪ませるのが見えた。
どうしたんですか、チルノさん―――
しかしそれが声になることは無く、背中に強い衝撃を感じると同時に、文の意識は暗転した。
―― ・ ―― ・ ―― ・ ――
文は、あたいの事を記事にしてくれる面白い奴だった
他の強い妖怪みたいに、妖精だから、って馬鹿にしない
当たり前だけど、他の妖精みたいにあたいを恐がって離れていくこともない
悩んでいれば話を聞いてくれたし、夏祭りにも連れて行ってくれた
夏祭りは本当に楽しかったし、あたいが今大事にしてる物もプレゼントしてくれた
それから、よく一緒にいるようになった
楽しかった。
文が色々な話をしてくれるのが
文の後に付いて行くのが
とっても楽しかった
いつからだろう
その楽しいって気持ちに、苦しいっていう気持ちが混ざっちゃったのは
―― ・ ―― ・ ―― ・ ――
文は、あたいの事を記事にしてくれる面白い奴だった
他の強い妖怪みたいに、妖精だから、って馬鹿にしない
当たり前だけど、他の妖精みたいにあたいを恐がって離れていくこともない
悩んでいれば話を聞いてくれたし、夏祭りにも連れて行ってくれた
夏祭りは本当に楽しかったし、あたいが今大事にしてる物もプレゼントしてくれた
それから、よく一緒にいるようになった
楽しかった。
文が色々な話をしてくれるのが
文の後に付いて行くのが
とっても楽しかった
いつからだろう
その楽しいって気持ちに、苦しいっていう気持ちが混ざっちゃったのは
―― ・ ―― ・ ―― ・ ――
「―――っ」
うっすら、と目を開けると、白い筋状の雲が広がる青い空が飛び込んでくる。
陽の傾きからいって、気を失っていたのは数分のようだった。
「っい、たた………」
身を起こすと、ガシャン、と音が鳴った。
慌てて地面を見渡すと、どうやら氷の山に身を横たえていたようで、拳大の氷がゴロゴロと転がっている。
よくまぁこんな場所で寝てて凍傷にならなかったものだ、と思いながら、一つ、羽をバサリ!と羽ばたかせ張り付いていた氷を吹き飛ばせば、改めてボケーっと周囲を見渡してみた。
冷たい空気に包まれたそこには、チルノの能力の爪痕とも言うべき氷が、初雪のようにうっすらと積もっていた。
「あんなにチルノさんって強かったですかねー……」
不意をつかれたとはいえ、呆気なくやられてしまった事を思えば、情けない、と苦笑を浮かべた。
最後は殆ど自爆に近いものだったが、それで意識までぶっ飛ばされた事を思えば、鍛錬が足りませんかね、と困ったように呟いた。
まさか、妖精に二度も負けるとは―――
「あらあら、これはこれは珍しい物が見ることが出来たわね」
「!」
突然近くで発せられた声に目を見張る。
文が驚き振り向くと、そこには紫色のおどろおどろしい空間から半身を出し、扇子で口元を覆ってくすくすと笑っている女性がいた。
「こ、れはこれは。紫さんではないですか……どうかされたんですか、そんなところで?」
「いえ、紅葉が見頃、という話を聞いたので顔を出してみたら、天狗が妖精にあっさり負けたのでついつい……」
「ぐっ……?!」
お淑やか、かつ軽く馬鹿にするように笑い続ける女性―――八雲紫。
スキマを操る能力を有した、幻想郷屈指の猛者の一人である。
頬が引き攣るのを感じながら、ははは、と乾いた笑いを文は浮かべた。
「いやはや、少々油断してしまいましてね~お恥ずかしい限りです」
「ふふふ、油断だとしても負けは負け、ね。それと、チルノに三段論法を問いても無理よ」
「殆ど最初っから見てたんですか!?」
からかわれている。
嘲笑、というには穏やかだが、明らかにからかって楽しんでいるその言葉は「割と本気だったのにチルノに呆気なく負け、かつ本気で嫌われた可能性が高い」という衝撃から抜け出せずにいる文の心を否応なく苛立たせたが―――
「ええ、全くですね。いやはや、本当にチルノさんは強くなりましたね~」
どうせ反応すれば余計にからかわれるのは目に見えていた。
心の荒波を、にこり、と笑顔で押し殺して紫へと視線を向ける。
その様子を紫は可笑しそうに笑いながら、そうね、と呟く。
どうにも胡散臭い笑みを浮かべる相手を見ながら、色々とどうしたものか、と頭を悩ませていると、そうそう……と唐突に紫が訪ねてきた。
「一つ、ブン屋である貴方に聞きたい事があるのだけれども」
「なんですか? 私に聞かなくても大抵の事はお分かりかと思いますが」
「いえ、あれよ」
あれ、と称して差された指先に従って文が視線を移すと、示されたのは例の大穴だった。
「あんな大穴、ここには無かったと記憶しているのだけど、何か知らないかしら?」
「ああ―――紫さんはご存知なかったんですか。これ、魔理沙さんの所為ですよ」
「魔理沙が……?やれやれ、あの子も面白くて良いのだけれど時々変なスイッチが入るのよね……」
よいせ、と声をかけて立ち上がると、氷をガッシャンガッシャンと踏み締めながら大穴へと近付いていく。
紫もまたスキマごと平行移動することで、傍目には『上半身だけが横に滑っていく』というシュールな動きを見せながら文の後を付いて行った。
近づき、改めて見た大穴は、やはり巫山戯た大きさだった。
夏の頃と比べると断面に蔦が茂るなどしているが、基本的に無骨な大穴が地下の洞窟へと繋がっている。
そして、地上から見下ろす中に微かに光りを反射する物体―――あの、巨大な氷が洞窟の中に相変わらず鎮座していた。
「あら、あんなところにチルノが」
「えッ?!」
突然の紫の言葉に、文は慌てて見下ろしていた視線を上げて周囲を見渡した。
種類にもよるが何も目印となるものが無い空を飛ぶ鳥の視力は良く、文の視力も多分に漏れず非常に良好だった。
だが、その自慢の視力で周囲を探っても、あの印象的な青は何処にも見当たらない。
からかわれた―――!
そう思い至れば、文の頬が引きつった。
「っ! ちょっと、紫さん、嘘を吐かないで下さいよ」
「あらあら、勝手に勘違いしたのは貴方なのだけれどね……」
そんな文の表情を見詰め、愉快な、というよりも困り顔で苦笑を浮かべる紫は、あれよ、と声に出して地下の巨大な氷を指さした。
「…………」
文は目をゴシゴシと擦り、もう一度氷を凝視してみた。
当然だが、夏の時の様にチルノが横たわっているという訳ではない。
じゃあひょっとして洞窟の何処かにいるのだろうか?と頑張って周辺にまで目を凝らしてみたが、その姿は何処にも見当たらない。
地下を覗き込んでいた顔を上げると、文は若干青ざめた顔で紫を見た。
「……紫さん、藍さんに色々と任せすぎて遂にボケ「絞めるわよ?」」
間髪いれずに紫は爽やかな笑みを浮かべて殺気をただ流した。
締めるって首だろうか、等どうでも良いことを考えながら、冗談ですよ、と文は心にも無いことを言い肩を竦めてみせた。
「それより、チルノさんは一体何処にいるんですか?」
「貴方ね………まぁ、良いわ。 あの氷がチルノだと、私は言ってるのよ」
頬を引く付かせ何かを堪えていた紫は、はぁ、と溜息を吐くと再び氷を指さした。
「いや、ですから全く意味が分からないんですが」
「チルノを何だと思ってるのよ、貴方」
いや同じ質問をこちらが問い返したい、と文は思った。
いくら冷気を操り、氷を生み出す妖精ではあるが、チルノが氷になった所など見たことが無い。
よく分からん、といった表情が伝わったのか、やれやれ、と紫は肩を竦めた。
「チルノは、氷の妖精でしょ?」
「ええ、氷の妖精であって氷ではないですが」
「一つ質問するけど、妖精って何だと思う?」
「何って……自然現象の歪み、ですよね?」
「ええ、その通り。強すぎる願いや思いが何かを具現化するのと同じで、概念が存在化したものよ。じゃあ、チルノを具現化している自然の歪みって何だと思う?」
「―――え?」
改めて、足元の空洞の更に奥にある氷の塊を見詰めた。
「まさか、あの氷が……?」
「そう、チルノを具現化している母体よ。しかし、本当に立派な氷だこと……あの子が妖怪になる日も、遠くないでしょうね」
ぼんやりと、いわばチルノの本質を眺めていると聞こえた“妖怪”という言葉に顔を上げた。
「そもそも、どうしたら妖精は妖怪になるんですか?」
「あら、気になるの?」
「そりゃ……親しい友人、ですから」
「あの戦闘を見ている限りじゃ、親しい、とは言えなかったと思うけど?」
ぐっ!
思わず言葉が詰まった。
その様子を可笑しそうに笑いながら、そうね、と紫は呟き
「貴方に教える義理はないのだけれど……母体が成長するか、妖精自身が精神的に成長するかで妖怪になるわ。今のチルノは、その両方が成長中ってところね」
「はぁ……。妖精が妖怪になる、という可能性があるのは知っていますが……私も長く生きてますけど、妖精が妖怪になった事例、というのを目の当たりにしたことがないのですが……」
「まぁ、そうね。どちらかといえば神様になっちゃうし」
「……はぁ?」
途端に胡散臭くなった。
妖精が神に、など更に聞いたことが無い。
やっぱり寝ぼけているのかな、と見つめていると、例えばだけど、と紫はクルリと扇子を回した。
「外の世界に飛瀧神社という神社があるわ。そこの御神体は那智の滝という滝なのよ」
「ああ……なるほど。妖怪になれるほどの自然現象は信仰の対象となる、というわけですか」
「ええ、その通り。結果として、圧倒的な力のある自然を母体とする妖精は、周囲の信仰を集めて神様になっちゃう、というわけ。木々も本来妖精の母体となる自然現象だけれども、樹齢何千年ともなれば、自然と人々は信仰してしまう」
「つまり妖精が妖怪になるには、周囲に信仰の心が無い事が条件となるんですか……」
その通り、と紫は頷いた。
「ええ、神様ではなく妖怪を目指すならそうなるわ。だから、誰もが寄り付かない山奥なんかには、妖精から妖怪になった者もいるはずよ?そしてチルノの場合も、地下深くに母体がある所為で信仰の対象となる可能性が低いから、妖怪になる確率の方が高いというわけ」
なるほど、と文は頷いた。
神が神たらしめるのは、周囲からの信仰の力が必要となる。
それが無く、単純に強い力を持つ、となれば妖怪になるということなのだろう。
ふむ、と文は腕を組んで考えた。
一度、しっかりと調べた方がいいのかもしれない。
最近チルノの様子が可笑しかったのも、ひょっとしたら妖精から妖怪へと変化する吉兆であり、その変化に誰よりも本人が戸惑っているのかもしれない。
妖精の思春期というのも可笑しな響きだが。
(どっちにしろ、今のままじゃチルノさんとの仲直りなんて夢のまた夢、ですしね……)
先程のチルノを見る限り、待っていて解決する問題とも思えなかった。
で、あるならば自分から動いて解決するしかないだろう。
「では、そろそろ私は行きますね?」
「あら、そう?」
そう思い至れば、まずは妖精という種族の事を改めて知る必要がある。
こういう事を調べるにあたって、一番良い場所は一つしかない。
紫に尋ねる、という選択肢もあったが、これ以上借りを作るのは、どうにも乗り気にはなれなかった。
「ではでは、貴重な情報をありがとうございました」
「―――ねぇ、文?」
翼を広げ、飛び立とう、とした瞬間に名前を呼ばれた。
不思議に思い、首を傾げながら紫を振り返ると、相変わらず口元を扇子で隠したまま目の弧を緩ませていた。
「貴方はどうして、そこまでチルノにこだわるのかしら?」
「―――え?」
「だって―――ね?力が強いとはいえ、チルノは妖精……妖怪になる可能性を秘めているとはいえ、多くの者にとって取るに足らない存在よ?」
まるで人を試すかのような声で尋ねられた。
意図を読みきれず、微かに眉を寄せつつ文は逡巡する。
一体、目の前の人物は自分に何を求めているのだろうか、と。
だが、幻想郷随一の胡散臭い妖怪だ、そう簡単に心の内を読み取ることが出来る筈もない。
「―――そうかもしれませんね。ですが、私から見ればチルノさんは非常に面白い存在ですよ?」
「面白いから、傍にいたいのかしら?」
「―――妖精でありながらそこから逸脱しているにも関わらず真っ直ぐなチルノさんの笑顔は、皆を幸せにします。それを、傍にいて気づいたんです。それに―――」
「それに?」
だから、自分の心に正直に答える事にしたのだ。
「私は、チルノさんの友達ですから。友達に、嫌われたままなんてまっぴらごめんです」
「……ふふ、ならそういう事にしておきましょう」
何処か面白そうに笑うと、「ではご機嫌よう」と紫はスキマの中へと体を引っ込めた。
紅葉を見に来たんじゃなかったのか、と思ったが、文には別にやらなくてはならないことがあった。
そう、チルノがああなってしまった原因を調べなくてはならないのだ。
心に出来たわだかまりを解消出来ずに当たってしまっているのだとすれば、その相談に乗ってあげるのも友人として出来る事だろう。
「ふふふ、いいでしょう、チルノさん。ブン屋はちょっとやそっとじゃ諦めないんですよ?」
まずは妖精の何たるかを知り、その上でチルノを探して相談に乗る―――。
そんな予定を組み上げれば、先程まで萎んでいた心が再び活気づいてきた。
例え、本当に何か気に障る事をしてしまっていたとしても、理由も教えて貰えずに嫌われるのはゴメンだった。
久々の密着取材を思えば、微かに笑みを浮かべて力強く翼をはためかせ、宙へと舞った。
―― ・ ―― ・ ―― ・ ――
文は、いつも3日に1回、少なくても、1週間に1回は会いに来てくれた
あたいも文に会いに行こうとしたけど、天狗に邪魔されて、山に入ることも出来なかった
あたいから会いにはいけないから、結局あたいは文が来てくれるのを待つだけだった
でも、文にはお仕事がある
お仕事をしている時は、どんなにあたいが文を探して空を見続けていても、文は来てくれない
こんなに会いたいって思っても、文は来てくれないんだ
だから、会えない時に胸が苦しくなるのは、文のせいだ
文が全部、いけないんだ
―― ・ ―― ・ ―― ・ ――
文は、いつも3日に1回、少なくても、1週間に1回は会いに来てくれた
あたいも文に会いに行こうとしたけど、天狗に邪魔されて、山に入ることも出来なかった
あたいから会いにはいけないから、結局あたいは文が来てくれるのを待つだけだった
でも、文にはお仕事がある
お仕事をしている時は、どんなにあたいが文を探して空を見続けていても、文は来てくれない
こんなに会いたいって思っても、文は来てくれないんだ
だから、会えない時に胸が苦しくなるのは、文のせいだ
文が全部、いけないんだ
―― ・ ―― ・ ―― ・ ――
「それで、今度の記事のネタにしたいから妖精の事を調べたい、と……」
「はい、そういう事です」
訪れたのは、紅魔館の地下にある大図書館。
そこの主、パチュリー・ノーレッジが椅子に座ったまま眠そうな目で文を見上げながら、そう、と頷いた。
「まぁ、それは構わないけど……それで、妖精の何が知りたいの?」
「そうですね……妖精という種族全般について書かれている良い本ありませんか?」
何か調べるならば、やはり図書館である。
確かあっちの棚に……と独り言をボソボソと言いながら立ち上がったパチュリーの後を追い、コツコツ、と足音が響く本棚の迷路を右へ左へと歩きながら、文は改めて図書館を見渡してみた。
整然と並ぶ身の丈の3倍はあろう本棚には、本がギッシリと詰まっており、ここにいるだけで微かに圧迫感を感じさせられる。
静謐な空気が支配するこの空間に、一体どれだけの蔵書があるのだろうかと思うと気の遠くなる思いがした。
そんな蔵書を魔法の補助があるとはいえ逐一把握出来るのだから、改めて目の前で歩いている動かない大図書館の本領が垣間見えるというものである。
時折であるが、文はこの図書館を利用していた。
記事づくりの為に必要な知識があった場合、大抵この大図書館を訪れていたので、必然的にここの主、パチュリーともある程度話す仲になった。
今では文々。新聞の貴重な定期購読者の一人でもある。
「けれど、わざわざ私のところに来なくても良かったんじゃない?」
「いやいや、何をおっしゃいますか。この幻想郷で正しい知識を得ようと考えれば、この大図書館以上に適当な場所はありませんよ?」
振り返る事なく、不審気に訪ねるパチュリーに対し、営業スマイルを浮かべ否定する。
実際、幻想郷には生き字引のような存在は多くいるが、それ以上に客観的な知識を得られる場所はこの大図書館を置いて他にはない。
だがパチュリーは求めた回答が得られなかったらしく、眉を潜めて振り返った。
「そういうことじゃなくて。貴方は確か妖精と仲が良かったでしょう?本人に聞くのが一番なんじゃない?」
「あー……そういう事ですか。確かにそれも面白い話が聞けるかもしれませんが、それ以上に記事を書く上では客観的な知識が必要ですからね」
「まぁ、それはそうかもしれないけど……」
「それに、パチュリーさんは精霊魔法の専門家じゃあないですか」
「精霊魔法が得意だからといって妖精に精通しているわけじゃないんだけど……ああ、あったこれこれ」
まさかその妖精と仲直りするため、と言うわけにもいかず、いつも通り取材のためという体裁をとっている。
それらしい言葉を並べているうちに、どうやら目的の場所に着いたらしくパチュリーは歩を止めた。
文は棚を見上げた。
足元から遥か頭上まで、一切の隙間無く本がギッシリと詰まっており、その多くは知らない文字が背表紙に並んでいる。
そのうちの1つ、一辺50センチはあろう大きなハードカバーの本を、よいしょ、という声を出してパチュリーは本棚から引きずり出した。
本来病弱であるはずの彼女も本なら別腹とでも言うのか、軽々とその巨大な本を脇に携えて近くにある書見台へと歩いていくと、ドンッ、と置いた。
「これが、私が知る限り一番妖精について詳しく書かれている本よ」
そう言いながら、パチュリーはその分厚い本のページへと視線を釘付けにし、パラパラと捲る。
どれどれ、と脇から覗き込むと、なるほど、と頷いた。
ページにはギッシリと文字が敷き詰められており、時折出てくるイラストは己も良く知る妖精の姿かたちをしていた。
誰が書いたのかは知らないが、妖精の専門書なのだろう。
恐らくこの本には、求める知識がある、と文は踏んだ。
問題があるとすれば、ただ1つ―――
「―――ところで、パチュリーさん?」
「何かしら?」
「これ―――何語ですか?」
読める、読めない以前の問題だった。
記号としか思えない幾何学的な文字列がひたすら並んでおり、かつて趣味で覚えた西洋の言語である英語とも違った形をしていた。
見ているだけで頭が痛くなりそうなそれを実際に頭を押さえて眺めていたら、ああ……とパチュリーが頷いた。
「アングロサクソンルーン語よ」
「敢えてもう一度言います。何語ですか」
今まで聞いたことの無いその言語に肩を落とした。
「まぁ、私が読めるから大丈夫よ」
「もう、本当にパチュリーさんって高性能ですよね……」
若干呆れ顔で、パラパラと読み進めていく動かない大図書館を見て、しみじみと呟いた。
一家に一台―――あったとしてもアングロサクソンルーン語を必要とする家庭がいくらもないだろうが。ぶら下がり健康機程に役に立つと思う。
「ええと……ああ、この章ね。まず妖精とは何か、からいくけど貴方が知っている“妖精”とは何かしら?」
「自然の歪みであり、自然現象が具現化したもの、ですよね?」
「ええ、それで相違ないわ。じゃあ今度は、妖精が発生する条件はなんだと思う?」
「条件……ですか?母体は自然現象なんですから、それこそ風が吹けば発生するのでは?」
「間違ってはいなけど、正解でもないわ」
指で文字列を追っていたパチュリーが顔を上げた。
「貴方は妖精に個性があるのは知っている?」
「ええ、まぁ……チルノさんみたいに凄い強い妖精もいますからね」
「そう。それと同じように、一般的に区別は付きにくいけど全ての妖精には個性があって、それを決定付けているのは妖精の母体となる自然現象ではなくて、その環境にあるのよ」
「環境……ですか?」
「ええ、例えばだけど……」
視線を本へと戻したパチュリーは指で僅かにページ持ち上げた。
そこに、ふぅ、と息を吹きかけると、パサッ、という軽い音を立ててページが捲られる。
「こういう事よ」
「なるほど―――さっぱりです」
若干ドヤ顔で言われたその言葉に、全く意味が分からない、とジト目でパチュリーを眺めつつ文は手と首を同時に振る。
その様子を見て、ごめんなさい、とパチュリーは苦笑を浮かべて続けた。
「まぁ、今みたいに私が自然現象である風を起こせば、妖精は生まれるわ。そしてその個性は、この本の1ページに由来するの。だから、次のページに息を吹きかければ、別の妖精が誕生する、という事」
「つまり……自然現象が発生する場所が、妖精の個体識別に関係する、ということですか」
そういうこと、とパチュリーは頷いた。
「例えば水辺に植物が生えると、それを媒体として妖精が誕生し、秋になってその植物が枯れると妖精も一回休む。だけど、また次の年にその場所に植物が生えれば、また妖精として生まれてくる訳」
「ふむふむ、そうやって妖精は過ごしているんですか……じゃあ一年を通して健在する妖精は、川の流れとかそういった物が母体である可能性が高いんですかね」
「後は木とか、ね。落葉樹の葉を母体とする妖精は一年に一度消える事になるけれども、樹木本体は一年を通して顕在してるからね。特に、樹齢何百年なんてなれば信仰の対象にも為り得るから、それを母体とする妖精は非常に大きな力を持つことになるわ」
「ああ、はい。それは知ってます」
先程のやり取りで知り得ていた話を聞けば、1つ頷き考える。
紫の話だと、チルノの母体となる自然現象はあの大穴で繋がっている洞窟内の氷である。
氷は気温が上がれば溶けるが、氷穴内であった御陰でチルノは夏でも顕然だったのだろう。
そして現在、チルノの精神的な部分と暑さが和らいだ事で母体の氷が成長し、己をぶっ飛ばす程の力を手にしている、ということか。
そんな事を脳内で駆け巡らせていると、あら……と再び本の文字を指で追っていたパチュリーが面白い物を見付けたかのような声を上げた。
「どうかしましたか?」
「ええ、ちょっと面白い事が書いてあったのよ……」
ここよ、と相変わらず意味不明な記号の羅列をパチュリーが指さした。
「ここに書いてある事が確かなら、基本的に妖精は記憶を持たない、ということらしいわ」
「……は?いや、でも記憶が無かったら会話が成り立ちませんよね?」
「より正式に言えば、多くを記憶することが出来ない、ということ。そのため、多くの妖精は忘れっぽくて、傍目から見ると幼く見えるみたいよ?」
確かに妖精は平均的に知性が高いとはいえず、その心は幼い。
だが、と文は首を捻った。
例えばチルノやその友人である大妖精などは、幼心ながらも他の妖精と比較すればだが物覚えは良い方である。
だから文には、どうにもそれは納得が出来ないものだった。
「いや、あの……でも、他の妖精と比較して物覚えが良い妖精もいますよね?そういった妖精は、通常の妖精と何が違うんですか?」
「そうね……詳しくは書いてないけど、妖精は母体に最低限以外の記憶を預けるらしいわ。さっきの植物で言えば、母体が枯れれば、その一年間の記憶も一端リセットされる。でも、大樹等の何十年と生きるものを母体とするならば、その年輪を積み重ねるように妖精も記憶を蓄えていく事ができるから傍目から見ても総じて知性が高い、ということでしょうね、きっと」
淡々と語れるパチュリーの言葉を聞き、文は、はぁ、と曖昧に頷いた。
「妖精が忘れっぽいのにも意味があったんですね……」
「まぁ、そういうことね。確かに記憶媒体が外に向けて剥き出しなんだから、なんらかの衝撃で母体が傷つけば簡単に記憶を失ってしまう。もっとも、母体は記憶装置で、妖精自体の思考能力なんかは精神的な成長に左右されるから本来記憶が少ないのと幼いのは直結はしないのだけどね」
「ああ、なるほど……実際はそれなりの精神年齢を持っていても母体が傷けば色々忘れてしまって周囲からは幼稚に見られるのですか」
所詮、主観の問題なのだろう、と文は頷いた。
どんなに思考が成熟していたとしても知識の絶対的な量が少ない為、意思疎通は幼子のそれ並みに困難を極める事になり、周囲からは総じて幼稚な思考をしていると考えられてしまう。
妖精にとっての母体とは、具現化する為の手段であり、力のパロメーターであり、記憶を留めて置く為の装置なのか―――
そこまで考えて文は、ん?と首を捻った。
母体と記憶、何か大事な事を忘れているような――――――
「―――――あ゛ッ??!!」
「な、なに?!どうしたの?!」
とある事を思い出すと、図書館だという事も忘れ思わず大声を出した。
何事かと目を見張るパチュリーを尻目に、徐々に自分の顔が青ざめていくのが分かる。
あの夏の日―――魔理沙のマスタースパークでチルノがぶっ倒れていた時。
チルノの母体と思われるあの氷は、その時微かにではあるが溶けていた。
つまり―――
(あの一時的な記憶喪失は、母体の一部が破壊されたからか―――!!)
うわぁ、と文は天を仰いだ。
無機質な程に薄暗い天井を見上げながら、ははは……と乾いた笑い声が口をついて出てきた。
あれは記憶を失ったのではなく、字の如く破壊されたのか、と。
その原因を作ったのが己である、と思えばふつふつと罪悪感が心に湧いてきた。
下手をすれば、氷が完全に破壊されてチルノがいつ復活するとも知れぬ長期の“一回休み”に入るところだったのだ。
「はっはっは……安すぎましたね……」
「ちょっと……大丈夫?」
不幸中の幸いだったのが、その失った記憶というのが悪鬼と化した魔理沙との戦闘だけだった、という事だろう。
とはいえ、夏祭りのエスコートだけではまだまだ償いとしては安いわけだが。
そんな絶賛大後悔中の天狗を心配、というより引き気味に尋ねてくるパチュリーに、ええ、と文は力無く頷いた。
「ちょっと日頃の行いを今反省していたところです、はい……」
「そ、そう……貴方には珍しく殊勝な心掛けね……」
「ははははは………ああ、もう一つお尋ねしたい事があるんですが、いいですか?」
「え、ええ……どうぞ……」
何とか心を強く持って戻ってくれば、再び不安そうな視線を寄越すパチュリーへと顔を向けた。
過ぎてしまったことを悔やんでも仕方ない。そうであるならば、これから彼女の為に何が出来るかが重要だろう―――と心に言い聞かせながら、首を傾げた。
「じゃあ、妖精にとっての死―――『自然の死』とは一体何なんでしょうか?」
「えーと……それはつまり、各個性を持つ妖精はどうしたら死ぬのか、ということでいいのかしら?」
「はい。妖精にとっての母体の存在意義は分かりましたが、それを壊しても、再びその自然現象が復活すれば妖精も復活する事になります。なら、一体何が妖精にとっての『生死』を左右するのでしょうか?」
「そうね……一番簡単に言ってしまえば環境かしら」
「環境……?」
再び本へと視線を戻し、パラパラとページを捲りながら、そう、とパチュリーは頷いた。
「妖精の死とは自然の死。例えば、川の流れを母体とする妖精は、その川が干上がれば一度消滅するけど、また雨が降って水が流れればまた復活出来る。でも、もしその川をせき止めて堰を作れば川の流れという自然環境が破壊されて、その妖精は未来永劫甦る事はない。
森林でも、人が木々を利用するために伐採すれば妖精は一度消滅するけど、またそこに木が生えれば復活する。ただ、もしも森林地帯を畑なんかに開墾すれば環境が破壊され森林という自然は死に、妖精は『自然の死』を迎える―――」
パタン―――。
重厚な本を閉じると、パチュリーは顔を上げて文を見上げた。
「自然を維持する『環境』が破壊、もしくは変化することが、各妖精にとっての『死』なのよ」
呆然、と見詰める文の視線の先で、但し、とパチュリーは微笑んだ。
「環境が変われば、その環境に即した別の個性を持った妖精が発現するわ。だから、どんな状態になっても、妖精という種族が絶滅することはないんでしょうね」
さて、と小さく呟くと本を再び抱えて、パチュリーは文の顔を覗き込んだ。
「妖精に関する情報としては、こんなものね……次の新聞の記事には役立ちそうかしら?」
「……はい、ありがとうございました」
軽く頭を下げて礼を伝えると、そう……とパチュリーは優しい笑みを浮かべ
「ところで、貴方の新聞の定期購読に関する件なんだけど―――」
「ではでは私はそろそろ行こうかと思いますので!パチュリーさん、ありがとうございましたっ!!」
途端、きな臭い話が持ち出されると察知した文は、翼を広げ幻想郷随一の俊敏を活かして一気に出口へと飛び立った。
軽い突風が吹き荒れ、帽子が飛ばされないように構えたパチュリーが再び顔を上げた時には、漆黒の翼の鴉の影も形も存在していなかった。
「―――はぁ、また、逃げられたか……」
再び静寂が支配する図書館に、大きな溜息が1つ吐き出された。
本来なら先に切り出すべき話なのだろうが、何の気の迷いか忘れてしまったがパチュリーも直筆で契約書にサインをしてしまった手前、強く出ることは出来なかった。
「本当に、逃げ足も早いブン屋だこと……あら?」
ヒラヒラ、と。
空から一枚の紙がパチュリーの目の前に舞って落ちてきた。
膝を曲げ、その紙を覗き込めば途端に目を見張ったが、やれやれ、とパチュリーは首を振れば、その紙を拾い上げた。
「大分あの天狗もご執心ね……」
文々。新聞の一面。
永遠亭で行われた中秋の名月を祝うお月見大会の写真。
満面の笑みを浮かべたチルノが写っているその写真を見て、パチュリーは小さく呟いた。
―― ・ ―― ・ ―― ・ ――
会えなくて気分が苦しくなるうちに、会っていても苦しくなるようになった
頭を撫でて貰うと、擽ったい気持ち以上に苦しかった
胸が、潰れるんじゃないかっていうくらい、苦しかった
だから、それを避けるけど、離れていく手を見るのはもっと苦しかった
文は、取材の内容を楽しそうに話してくれる
お仕事が大切で、それだから文だって事は分かってる
だから、楽しそうに話す文を見ていても、ずっと何とも思わなかった
でも、それも最近嫌になった
あたいと一緒にいるよりも、取材が楽しいの?って思ってしまった
聴きたくて、それでも怖くて聞けなかった
だから、楽しそうに話す文の横顔を、潰れそうな胸を知らんぷりして頑張って聞いていた
だって、そうじゃなきゃ文が会いに来てくれないって、分かってるから―――
―― ・ ―― ・ ―― ・ ――
会えなくて気分が苦しくなるうちに、会っていても苦しくなるようになった
頭を撫でて貰うと、擽ったい気持ち以上に苦しかった
胸が、潰れるんじゃないかっていうくらい、苦しかった
だから、それを避けるけど、離れていく手を見るのはもっと苦しかった
文は、取材の内容を楽しそうに話してくれる
お仕事が大切で、それだから文だって事は分かってる
だから、楽しそうに話す文を見ていても、ずっと何とも思わなかった
でも、それも最近嫌になった
あたいと一緒にいるよりも、取材が楽しいの?って思ってしまった
聴きたくて、それでも怖くて聞けなかった
だから、楽しそうに話す文の横顔を、潰れそうな胸を知らんぷりして頑張って聞いていた
だって、そうじゃなきゃ文が会いに来てくれないって、分かってるから―――
―― ・ ―― ・ ―― ・ ――
紅魔館を飛び出し、再び霧の湖の上空を飛びながら、やれやれ危ない、と文は額を拭った。
最近パチュリーの下を訪れると、最後は大抵ああいった手合いの話になるのが常だった。
「パチュリーさんも、いい加減諦めてくれるといいんですが……」
だが妖精という種族について知る上で非常に密度の濃い情報を得ることが出来た事は満足いく結果であった。
今まで妖精、の一言で片付けてきたが、やはりそれなりに複雑な生態があることを思えば、中々興味深いものであったのだから。
「しかし……今度あの穴塞いだ方がいいのかな……?」
今日得た知識で最も重要だったのは、妖精の生死が環境に依存するという事だ。
氷穴内の環境を変化させない為には穴を塞いだ方が良いのだろうが、如何せんあれだけの大穴を一人で塞ぐ事は出来そうもない。
とりあえず今年の夏も乗り切ったのだから当面の心配はいらないだろうが―――
「それに、まずチルノさんとの和解が先ですし、ね」
そう、今回の目的はそれではない。
あくまでチルノとの和解の為に必要だった知識であり、当のチルノと仲直りする為には一度しっかりと話し合う必要があるのだ。
「やっぱり、この後は密着取材、といきますか」
当初の予定通りに、とりあえずにしろ事が進んでいる事を思いながら視線を彼方へと遣ると、本来今日の取材対象であった、黄や赤といった木々の紅葉が見て取れた。
「…………」
その光景を、文はしばし無言で見詰めた。
先程の話が事実であるならば、妖精はあの葉の一枚一枚にも宿る。
紅葉はまさに妖精達が甦る為に一度死ぬ、その時に咲かす花のような物だ。
「落葉もまた、妖精達が一度命を散らしている、と思うと何とも儚いものですね……」
シミジミと。
遥か彼方の木々を想いながら、文は小さく呟いた。
当たり前だと思っている数々の現象は、時に人の想像を超越する。
改めてそれを思えば、やはりこの世界にはまだまだ面白い事があるという事に気付かされる。
「お、いたいた!おーい、文ッ!!」
「―――え?」
そんな軽いセンチメンタルな気分に浸っていると、突然大きな声で名を呼ばれた。
何事だろうか、と翼を羽ばたいてホバリングして声がした方へと視線を向けると、箒にまたがった黒い影が一気に直進してきているところだった。
「―――っと、いきなり会えるとはグッドタイミングだ。流石私だな!」
「魔理沙さん、今日はまたハイテンションですね……」
「はっはっは、私はいつでも絶好調だぜ?」
距離にして数メートルほど離れた場所で空中に留まれば、くったくない笑顔を浮かべる人物。
チルノの記憶を一部損壊させた張本人、霧雨魔理沙その人だった。
先程まで妖精について物思いに耽っていたところに、いつにも増して何故か機嫌の良さそうな魔理沙を見ているとテンションの差を否応なく感じさせられる。
一体何なんだ、と文は肩を落としながら疲れた視線で見遣った。
「はぁ……それで、絶好調の魔理沙は一体どうしたんですか?何か私に用なので?」
「おお、それだそれ!なんでもお前さん、チルノに負けたらしいじゃないか」
「いやいや、どんだけ速いんですか、話が広がるの?!」
きっとあのスキマ妖怪のせいだろう、と意図せず顔を顰めると、楽しそうにニヤニヤと魔理沙は笑みを浮かべて言う。
「いんや、さっきチルノと紫に会ってな」
「なんでその二人が一緒にいるんですか?!」
何となく、心が苛つき、文は意図せず語気を荒らげた。
本来なら似つかわしくないその両者。
恐らく暇を弄ばしていた紫がチルノの下へ訪れたのだろうが、人には「どうしてそこまでこだわるのか?」等と問い掛けて置きながら自分はキッチリ関わっているとは人が悪いにも程がある。
だが、そんな様子の文を見て、魔理沙は意味深な笑みを深めただけだった。
「気になるのか?」
「っそ、りゃ―――」
「何でだ?」
「―――は?」
思わず、文は目を見張った。
あの夏の日、チルノに問いかけられたと同じ言葉を掛けられれば、一瞬言葉を失う。
―――何故?
そんなの―――
「チルノさんが、友達だからに決まってるじゃないですか」
「ほー……友達にしちゃー結構必死ぽかったけどな?」
また、か。
魔理沙からの、まるで人を試すかのような視線。
本日二度目の、そんな居心地の悪い視線を受ければ、スッ―――と文は目を細めた。
「魔理沙さん。結局何が言いたいんですか?」
「いや、別に?ただ―――」
「ただ?」
「お前さんにとって、チルノはただの友達なのか?」
「勿論、友人ですよ?」
暴風でも起こしてやろうか―――。
そんな不機嫌な心を隠さずに断言すれば、ああ違う違う……と魔理沙は苦笑しながら頬を掻いた。
「あー……そうだな、質問を変えよう。私は文の事を友達だと思っているんだが、文はどうだ?」
「は? はぁ……いや、改めて言う事でも無いと思いますが、私だって友人だと思っていますよ?」
「そりゃ良かった。じゃあ、私とチルノ、どっちが大切だ?」
「…………はぁ?」
頭大丈夫だろうか、と文は思わず目の前の人間を呆れた表情で見詰める。
唐突に、どちらが大切なのか言ってみろ、など全く持って意図が理解できない。
だが魔理沙は解答を迫るように、ほれほれ、と手を振りながら再びあのニヤニヤとした笑みを浮かべる。
「まぁ、深く考えるな。別にどっちが大切じゃないとかそういう事を言わせたいんじゃない。相対的に考えて、文はどっちのほうが大切にしたいと思ってるんだ?」
「まぁ……チルノさんですかね、魔理沙さんって100分割しても甦りそうですし」
「おい待て、私はプラナリアか何かか」
ジト目で顔を顰めた魔理沙の表情に、少しは溜飲下がる思いだった。
多少スッキリした思いで、ふぅ、と1つ息を吐き出すと文は手のひらを見せるようにヒラヒラと振ってみせた。
「冗談ですよ。まぁ、魔理沙さんには申し訳ないですが、今の私にとってはチルノさんの方が優先すべき対象です」
「そうかい……。まぁ、それだけ聞ければ、私としては満足だぜ」
「一体何が魔理沙さんを満足させたんですか……」
やれやれ、と文は肩を竦めてみせたが、魔理沙は用はもう済んだ、と言わんばかりにさっさと背を向け、紅魔館へと飛んでいこうとして―――
「―――ああ、そうそう」
半身だけで文へと振り返ると、にやりと、不敵な笑みを浮かべた。
「チルノだが、人里の方に向かったぞ?」
「―――は?」
「それだけだ」
じゃあな、と片手を上げると、今度こそ振り返ることなく紅魔館を目指して飛んでいった。
小さくなるその白黒の背中を、ポカン、と文は見詰めていたが
「……あの人の考えてる事も、良く分かりませんね……」
はぁ―――。
疲れた、と言わんばかりに盛大に溜息を吐き、バサリ、と1つ翼をはためかせ再び飛び始める。
空を切る風を肌に感じながら文は肩を竦めた。
魔理沙の意図は一切分からなかったが、とりあえずにしてもチルノの居場所について有力な情報を得られたのは僥倖だった。
「人里、か……」
数ヶ月前、共に向かったその場所を目指し、ふと文は呟いた。
色褪せぬ、あの夏祭りを思い出したのだ。
幸せそうに綿飴を頬張っていた、あの笑顔を―――。
―― ・ ―― ・ ―― ・ ――
けど、今日
我慢が出来なかった
文が悪いのに、それに気付かないで取材の話を始めようとしたから
だから、あたいは逃げ出した
何も考えたくなくて、地面に落ちる文から目を背けて逃げ出したんだ
全部、文のせいだ
全部全部、文が悪いんだ―――
―― ・ ―― ・ ―― ・ ――
けど、今日
我慢が出来なかった
文が悪いのに、それに気付かないで取材の話を始めようとしたから
だから、あたいは逃げ出した
何も考えたくなくて、地面に落ちる文から目を背けて逃げ出したんだ
全部、文のせいだ
全部全部、文が悪いんだ―――
―― ・ ―― ・ ―― ・ ――
霧の湖と人里を結ぶ道は一つであり、その間は草原のように見晴らしが良い。
上空から、人里へ続くまでの道を見下ろしていた文がチルノの姿を見付けたのは早かった。
道の傍らにポツンと一本だけ生えている、楠のすぐ下に腰掛けていたからだ。
ただ、チルノは一人ではなく―――
「あれは……妹紅さんですかね?」
数百メートル程離れた場所にある、ブナの木の枝に止まりながら目を凝らす。
腰まで届く銀髪に赤のモンペという特徴的な姿。
不老不死の少女、藤原妹紅がチルノの隣に座っていた。
氷と炎。
本来なら相反しそうだが、チルノが寺子屋に通っている事からも、慧音を仲介として知り合った二人の仲は良かった。
老いることが無いという事で互いにシンパシーを感じたのかもしれない。
ここ最近、文と話している時にも名前が上がる人物だった。
「……やっぱり、普通に喋ってます……よね」
チルノと妹紅。
二人は木の下に並んで腰を下ろし、チルノが一生懸命に何かを伝えるのを、妹紅は時折相槌をうっている。
話している内容こそ聞き取れないが、特に気負うことも無く普通に会話をしているのが見て取れた。
普通に会話をすることすら出来なかった文にとって、それは羨むべき光景でもあった。
「………」
無言で、小さく唇を噛み締める。
何故、自分は拒絶され、妹紅や魔理沙、紫といった人々とは普通に会話をするのか、と。
―――いけない
だが、ふるふる、と首を振り苛立ちを含んだその思いを追い払った。
わざわざここまでやってきたのは仲直りをする為であって、不毛な怒りを覚える為じゃない。
とりあえず妹紅との会話が終わるまで身を潜めているつもりだったが、もう早々に近づいて話を聞こう。
それこそ己に対する不平や不満をチルノはぶちまけているのかもしれないが、もうその言葉を直接掛けられた方がずっとマシだった。
バサリ―――と翼を広げる。
何て声をかけようか?
探しましたよチルノさん、で大丈夫だろうか?
それとも、いやちょっと人里に用事がありまして~と偶然を装った方がいいのだろうか?
そんな思考を繰り返し、ふぅ、と文はため息を吐いて目を閉じた。
らしくもない。
相手は素直で正直な妖精だ。
ならば自分だって正直に行くのが一番に決まってる。
素直に、仲直りしたくて探してました、でいいじゃないか―――
「……さて、じゃあ行きましょうか」
己を鼓舞するように小さく呟き、一本だけ聳え立つ楠を目指そうと目を開くと―――
「―――あっ」
チルノが、妹紅へ抱きついていた。
あの、満面の笑みを浮かべながら―――
―――ドクン
心臓が嫌な跳ね方をし、後頭部に熱が集まるのを感じた。
抱きつかれた妹紅は満更でも無い表情を浮かべ、チルノの頭を撫でている。
二人の表情すら捉える良好な視力を、この時ばかりは呪った。
「…………」
その様子から視線を逸らすことも出来ず、掌に嫌な汗が浮かぶのが、文には分かった。
頭が茹るんじゃないかと思うほどの熱と、焦りとも、憎悪とも似て非なる感情が鎌首をもたげ心に絡み付く。
それが、一体何の感情であるのかを悟れば―――
「ッ!」
バサリ―――!
大きく翼を羽ばたかせ、一目散に人里とは逆の方角へと飛び立った。
何処でもよかった。
誰もいない場所―――一人になれる場所を目指して、文は全力で空を駆けた―――
―― ・ ―― ・ ―― ・ ――
時は遡り、文が図書館で妖精について調べていた頃。
チルノは霧の湖の畔で、膝を抱えて座っていた。
「…………はぁ」
寄せては返す波の音を聞きながら、ずっと紫蘭の簪を見詰め続け、時折物憂げなため息を吐いては、泣きそうに顔を歪める。
ほぼ奇襲であったが文との弾幕ごっこに勝利し、地面に落ちる姿を見て慌てて逃げ出してから、ひたすらその繰り返しだった。
天狗という強力な妖怪に勝利したという余韻は、チルノには一切なかった。
「あたいは……悪くない……もん」
何度も繰り返したその言葉を呟けば、膝の間に顔を埋める。
心の何処かで文に落ち度は無いと分かっていながらも、それを肯定する事を必死で否定していた。
このまま全部忘れる事が出来ればいいのに―――チルノがそんな事を考えていると―――
「あらあら、折角天狗に勝ったのに嬉しくなさそうね?」
「……え?」
突然降りかかった声。
チルノが伏せていた顔を上げるといつの間にか、はろー、とスキマから半身だけ出して笑顔を浮かべている紫がすぐ傍にいた。
「あれ?紫?何で知ってるの?」
「ふふふ……私ほどになると、何でも知ってるのよ?」
「ふーん……そうなんだ……」
そういうと再び顔を伏せたチルノを見て、これは重症ね、と紫は微かに苦笑してスキマの中をゴソゴソ―――と漁り
「飴食べるかしら?」
「………うん」
はいどうぞ、と差し出した鼈甲飴を素直に受け取り、頬張る。
本来なら好物の甘味にも関わらず機械的に口をもぐもぐと動かすその姿を見て、さて……と紫は小さく呟いた。
「それで、一体どうしたかしら、チルノ?」
「あたいは……どうもしてないよ……」
「天狗に勝てたのに?大金星じゃない」
「別に……勝ったって嬉しくないもん」
「それは、あなたが今別に悩んでる事があるからかしら?」
「―――え?」
何で分かるの?と口の中でコロコロと飴を転がしたチルノが不思議そうに紫を見上げると―――
「あれ?チルノに紫とは随分珍しい組み合わせだな」
「あ、魔理沙……」
「あら、丁度良いのも来たわね」
箒に跨り、空からゆっくりと下降してきたのは魔理沙だった。
今日も今日とて紅魔館へと本を拝借しに行く途中、ふと視界に捉えた珍しい組み合わせに思わず声をかけたのだった。
唐突な千客万来の感にチルノが戸惑い、紫は面白そうに頬を緩めた。
そんな二人にゆっくりと近付きながら、魔理沙は普段の天真爛漫さが無いチルノを見て、軽く首を傾げる。
「よお、チルノ。随分元気なさそうだが、また誰かに手ひどくやられたのか?」
「そんなんじゃないもん……」
「そうよ、魔理沙。なんといっても、チルノは文に勝ったんですから」
「……は?おいおい、冗談は程々にしてくれよ」
魔理沙は箒から降りて地面に立つと、胡散臭げな表情で紫を見た。
その表情に、あらあら、と紫は可笑しそうに口元を扇子で隠し
「なんで冗談だと思うのかしら?」
「まず第一に天狗に妖精が敵うはずないだろ。よしんば、奇跡やら文が油断したやらで勝ったとしたら、こいつがこんなテンション低い訳ない」
こいつ、と再び物憂げな表情で手の中の簪を見詰めるチルノを指差す。
そう、もしチルノが文に勝ったならば、会った途端に自慢気に話してくるに違いないからだ―――本来ならば。
それに同意するように、そうね、と紫は可笑しそうに笑った。
「今、チルノは色々と思春期なのよ」
「思春期関係あるのか……?つか、チルノ。何で文と戦ったんだ?」
「……え?」
膝を抱えたままチルノが魔理沙を見上げれば、いやだって、と握り締めている簪を指差す。
「最近お前ら二人でよく一緒にいたろ。その簪だって買って貰ったー、って散々自慢してきたじゃないか」
「うん……」
「……え、喧嘩でもしたのか?」
「さぁ、どうかしらね?」
ふふふ、と紫が笑う。
それを魔理沙が横目で見遣りながら、楽しんでやがる……と呆れていると、チルノがポツリと呟いた。
「……よくわかんない」
「は?」
「文が、悪いんだ……」
ポカン、と魔理沙はチルノを見詰めた。
要領を得ないその解答に、あー……と声を出しながら頭を掻くと、紫へと視線を移し
「紫、翻訳頼む」
「あらあら、そうやって皆この賢者を頼る……人気者は辛いわね」
よよよ、と何故か泣き真似をする様子を魔理沙が胡散臭げに見ていたら、ごほん、と紫が一つ咳払いをした。
「さて……チルノ?」
「……何、紫?」
「何で、文が悪いのかしら?」
「だって……」
膝の間に顔を埋めるように、丸まりながら、不満を零すように呟いた。
「あたいだけだもん。あたいだけが待ってて、文は来てくれないんだもん……」
「いや、最近ずっと一緒だったろ、お前ら」
「はいはい、もうちょっと魔理沙は黙ってなさい?チルノじゃ妖怪の山に入れないから、文から来てくれるのを待つしか出来ないのに、いつもは来てくれなかった、って事ね?」
「うん……」
「は?何で紫さっきのチルノの言葉で分かるんだ?」
「ふふふ……私ほどになると、何でも知ってるのよ?」
本日二度目の決めゼリフも、ふーん凄い凄い……と再び魔理沙が胡散臭げな視線で見られ、ガックリと紫は肩を落した。
「何故ここまで信用ないのかしら、私は……」
「日ごろの行いってやつだぜ、きっと」
「ふふふ……その台詞は魔理沙にこそ一番似合ってるわね。それで、チルノ?それだけが文が悪い理由じゃないのでしょう?」
「……それに、いつも文は取材の話を楽しそうにする……」
ポツリポツリと語り始めたチルノを、紫は興味深そうに、魔理沙は目を見張って見守る。
「文がお仕事大切にしてるのは知ってるけど、文はあたいに会うよりもずっと、取材の方が楽しいんだ……!!」
誰にも打ち明ける事が出来ず、心に溜まっていた不満が融解し始めたチルノは次第に語気を荒らげ、ギュッ、と一際強く簪を握り締めた。
「だから、全部全部、文のせいだっ!!」
吐き捨てるように叫び、涙を堪えるように顔を顰めて、再び膝の間に顔を挟む。
その姿を見て、漸く納得が行った、と魔理沙が頷いた。
「なるほど……流石だ、紫。なんだっけか、亀の甲より年の功だっけっか?」
「せめてもう少し年長者に敬意を払うことを覚えた方がいいわね、貴方もあの鴉天狗も」
頬を引くつかせながら爽やかな笑顔を浮かべる紫を敢えてスルーし、魔理沙はチルノに一歩近づくと、なぁ、と声をかけた。
「チルノ。お前、文が嫌いなのか?」
「……え?」
「だって、文が悪いんだろ?」
伏せていた顔を驚き上げると、違うのか?と魔理沙が首を傾げる。
それを見て、チルノは慌てて首を縦に振った。
「そ、そうだよ!文が悪いんだ!」
「じゃあ、文の事嫌いか?」
「そんなの!……そんなの……ッ」
「ほれ」
「……え?」
嫌い、と言い切る事が出来ずに言い淀んでいると、魔理沙が手を差し出し、それ、とチルノが握り締めている簪を指さした。
「嫌いな奴からもらった物なんて持っていたくないだろ?代わりに捨てておいてやるよ」
チルノが言葉の意味を理解し、一瞬目を見張り
「―――ッ駄目!!」
途端に、周囲が凍り付いた。
地面から何本もの霜柱が迫り出し、魔理沙の手から必死に守るように、チルノは両手で簪を握り締めた。
だが―――
「魔理沙……あなたやるならもっとスマートにやったらどうかしら?」
「はっはっは、まどろっこしいのは好きじゃないんでな!」
「―――ぇ?」
珍しく嗜めるような呆れ顔の紫と、愉快だ、と言わんばかりに笑い始めた魔理沙。
―――ポカン
その二人を訳が分からない、とチルノが見上げていると、漸く笑いを収めた魔理沙が、なぁ、と尋ねた。
「チルノ。お前、文に構って欲しかったんだろ?」
「な、なんで……」
「だって、待ってても来てくれないことが不満で、取材ばっかじゃなくてお前の事を見て欲しかったんだろ?」
「う、ん……」
なら、と魔理沙は口元をニヤニヤとさせながら告げた。
「それは、お前が文の事が好きってことなんじゃないのか?」
「……え?」
好き―――
その言葉をチルノが理解すると、ボンッ、と顔を赤くした。
「な、ち、ちがっ!」
「一体何が違うんだよ?」
「好きなんかじゃ―――!!」
「じゃあ嫌いなのか?」
「―――っ!!」
両手で握り締めていた簪に目を落とせば、チルノは言葉を飲み込んだ。
好き―――なのかな。
少なくとも、これだけ苦しく、責任は文にあると思っていても、嫌いとは言えなかった。
持て余していた想いの正体を告げられ戸惑い気味に心で呟き、その答えを求めるように、風に吹かれても決して揺れない簪を見つめた。
一心不乱に簪を見詰め続けるチルノを暫く見守っていた紫と魔理沙だったが、紫が手を伸ばせば、妖精の頭をゆっくり撫でる。
チルノがその優しい手つきに気付けば、不思議そうに顔を上げて首を傾げた。
「紫……?」
「まぁ、今すぐ答えを出す必要は無いわ。 自分が納得するまで、ちゃんと考えることね。他の人に相談してもいいし」
ふわり、と優しく笑う紫をしばし見詰め、うん、と小さく呟いた。
チルノは再び手の中の花を一瞥する。
それを貰ったあの時のように、ただ一緒にいた時の事を思い出せば、この理解不能な想いにも納得がつくかもしれない―――
そう考えると音も無く立ち上がり
「……あたい、行くね」
「そうか?まぁ、上手くいくといいな?」
「ふふふ……楽しい結末を楽しみにしてるわね?」
「うん、ありがとー」
ふより、と宙に浮かぶとチルノは紅葉に染まった木々の間をくぐり抜けるように、二人を振り返ることなく人里方面へと飛び去っていった。
落葉の中へと消えていく青い後ろ姿を見送りながら、なぁ、と魔理沙を傍らの紫へと声をかけた。
「なんで紫はチルノに首を突っ込んだんだ?」
魔理沙が不思議そうに首を傾げると、肩を竦め、ふふふ……と扇子で口元を隠し可笑しそうに紫は笑った。
「別に?ただの好奇心よ。妖精と天狗の組み合わせなんて面白いじゃない」
「ああ、それに関しては同意するぜ」
「冬眠前に面白い話の1つくらい蓄えておきたかったし、ね」
「……あれ?もう冬眠の季節か?」
ふと、魔理沙が空を見上げてみる。
高い空と、舞う金の落ち葉。
それらは秋の終わりを感じさせる景色だが、いくらなんでも早すぎるだろ、と魔理沙は首を傾げた。
だが紫は、ええ、と何処か憂鬱そうに頷いた。
「何だか今年は冬が早そうなのよ……今、外の世界で温暖化が流行ってるし、寒さが幻想郷入りしたのかもしれないわね」
「温暖化って……随分あたたかそうな響きだな」
「ええ、星全体が暖かくなることよ」
「なんでそんな事になったんだ?」
「そうね―――」
スッ、と目を細めた紫の様子を見て、反射的に魔理沙はヤバイ、と思った。
「温室効果ガスが地球の大気中に占める濃度が増加する事で太陽から受けた熱が宇宙空間へと解放される事を阻害され結果的に惑星内に留める事になるから惑星内部の気温が上昇するのだけれど、それに伴って海面温度も上昇して大気中へと供給される水蒸気量が上昇、水蒸気もまた温室効果ガスの一種だから更に太陽から熱を宇宙へと放出する事が出来なくなって後は雪だるま方式に惑星の大気温度が際限なく上昇して―――」
「ストップストップッ!!」
「何かしら、これからがいいところだったのに」
何が良いのか分からないが、止めに入らなければ際限なくしゃべり続けそうな紫を両手で待ったをかけると、魔理沙は頬を引き攣らせて尋ねる。
「分かりやすく、頼む」
「あらあら……そうね、色々と原因は言われてるけど、自然なんて案外ちょっとした刺激で変化してしまうものなのよ?」
「へー……案外繊細なんだな、自然って」
「ええ、そうよ?まぁ、それよりも、次に目が覚めた時にあの二人がどうなっているのか楽しみだわ」
「そんなに時間は掛からないかもしれないけどな?」
にやり、と魔理沙が笑みを浮かべると箒に跨った。
その様子を見て、あらあら、と面白そうに紫は呟く。
「魔理沙も、もう行くのかしら?」
「ああ、折角だし魔理沙さんが恋のキューピットをやってやろうかと思ってな?」
「それは出歯亀と言うのよ?立ち入り過ぎは野暮というものだし、近付き過ぎて馬に蹴られないように気をつけなさいね?」
「ははは、そんな人を蹴るような馬は蹴り返すに限るぜ」
じゃあな、と手をヒラヒラと振りながら地面を1つ蹴ると、空へと飛ぶその後ろ姿を見て―――
「ああ、ところで魔理沙?一ついいかしら?」
「ん?なんだよ、改まって」
突然呼び止められ、魔理沙が何事かと振り返ると、ニヤッ、と紫が笑みを浮かべた。
「何が理由か知らないけど、流石にマスタースパークで地面突き破って地下の洞窟まで貫通させるのは頂けないと思うわよ?」
「あ゛……いやー…ははは、まぁ、そんな日もあったかな、うん。 っと、今はまず文を探さないとな、その後紅魔館だっ」
理由は忘れたが何かを追っていた時にチルノと戦闘に入り、思わずやりすぎた事を思い出せば、乾いた笑いを上げて目を泳がせる。
形勢不利を悟れば二の句を継げられる前に、そそくさと秋の空へと飛び出して行った。
その後ろ姿を見遣りながら、やれやれ、と苦笑を浮かべた紫もまた外へと出していた半身をスキマの中へ引っ込めると、紫色の亜空間の入り口もスッ―――と消えた。
―― ・ ―― ・ ―― ・ ――
人里へ続く道確かめるようにチルノはゆっくりと飛んでいた。
それは夏祭りの日に文と共に歩いた道だった。
最低限の舗装がなされており、道の端にはススキなどの秋の植物が所狭しと生えている。
ところどころ蛇行はしているものの、一本だけ人里へと続く、道だった。
「…………」
無言で、かつて歩んだ道を確かめながら、魔理沙と紫との会話が、チルノの頭の中で何度も繰り返されていた。
「あたいは……文が好き……?」
ポツリと呟くと、今日だけでも何度繰り返したかも分からない、簪を見詰めるという行為を繰り返す。
「……はぁ」
短く溜息を吐くと立ち止まり、改めてチルノは足元の道を見詰める。
数ヶ月前は、とにかく楽しさに満ちて歩いた道が、今は何処か心苦しかった。
「苦しいのに……好きなの……?」
考えるだけで心が苦しくなるにも関わらず、好きなんじゃないのか、と問われた言葉が頭を過ればフルフルと首を振った。
それは、否定では無く、困惑。
ただ、分からなかったのだ。
チルノが考える『好き』という気持ちはもっと甘くて素敵な物の筈だったのだから―――
「…………あれ?」
ふと、チルノが顔を上げると目の前に大きな木が目に飛び込んできた。
夏祭りの日には気が逸り、傍を通った事すら気付かなかった楠だった。
大木、というには少々誇張が入るが、それでも何も無い道に一本だけ聳えるその姿は、どこか重厚な安心感を見ている者に与える。
こんなのあったっけ?とぼんやりとそれを見詰めていたが、誘われるようにふわふわと近付いていくと、木を背もたれに根元に腰掛けた。
頭を木にくっつけるように空を見上げれば、枝葉から覗ける秋の空が、段々と日が沈み始めているのか、青さが微かに霞んできていた。
「―――ん?チルノか?」
「―――え?」
しばらくの間、僅かな隙間から流れる雲を見ていたら突如聞きなれた声がチルノの耳に届いた。
小さく声を出して顔を元に戻すと、不思議そうに首を傾げて見詰める銀髪の少女―――藤原妹紅。
元貴族の娘であり、蓬莱の薬を飲み不老不死となり迷いの竹林に住まう者。
二人は慧音の仲介で知り合ったのだが、ある日妹紅が相当な実力者であることを知ったチルノが勝負を挑み、三日間連続の弾幕ごっこを繰り広げた事が二人の仲を縮めたきっかけだった。
何度負かしても納得しないで直ぐに再戦を申し込んでくるチルノに音を上げた妹紅が、代わりに弾幕勝負のアドバイスをしてやるから、とアイシクルフォールの安置の消し方等を教授してやったら、すっかり懐かれた。
老いぬことに人並みにはジレンマを感じる妹紅は当初こそチルノの扱いに困惑したが、相手も変化の少ない天真爛漫の妖精で話し相手としては不足なく、また単純に好いてくれる相手を邪険に思うほど世捨て人でもなかった。
それ以来、友人としての関係を育んできた両者は、チルノが寺子屋へと通う事で顔を合わせる機会にも恵まれ、何かあれば互いにそれを話のネタにする仲であった。
「もこ……?」
「ああ。今日はあのブン屋と一緒じゃないんだな?」
「うん……」
その名を呼ばれれば、ズキリと痛む心を隠すようにチルノは顔を伏せた。
(みんな、文の事を言う……)
まるで見透かされているかのような言葉に、そんなに自分は彼女とセット扱いされているのだろうか、とチルノは疑問に思った。
膝を抱えたまま黙り込んでしまったチルノを見て、妹紅は顎に手を当てた。
妹紅がここを通りかかったのは、たまたまだった。
昼ごろに人里で急患が発生し永遠亭へと送っていき、その帰り道の案内も受け持つ予定だったのだが予想以上に症状が重く、入院することになった。
その報告と、夕飯は慧音の家で食べるという約束を果たすため、人里へと戻る途中で楠の下で蹲る影を見つけた。
そんな事情の為、早めに帰らなければならないが、叩けば鳴る鐘のような性格をしているチルノにいつもの覇気がない。
何かあったのだろう、と検討を付ければ妹紅は、よっこいせ、と声を出して寄り添うように腰を下ろした。
微かに漏れ出る冷気を感じつつ、なぁ、と隣で蹲っている小さな影に見下ろしながら尋ねる。
「何かあったのか?いつも元気いっぱいのお前が、らしくもない」
「うん……ちょっと。もこーは、何か用事あったの?」
「ああ、永遠亭への急患がいてな。送り届けてきたところだ」
「そっか……」
妹紅は歯切れの悪い様子を静かに見守り続ける。
少なくとも、記憶が許す限りでここまで落ち込んだチルノの姿を見たことは無かった。
よっぽど何か嫌な事があったんだろうか―――?
そんな考えが頭を過ぎったが、ねぇ、と小さくチルノが声を出した。
困惑の瞳で見詰められた妹紅は、どうした?と首を傾げ―――
「好きになるって、どういうこと?」
「は? どういうことって……何がだ?」
唐突な質問に目を丸くした。
意図を読み取れず、思わずそのまま返すと、あのね、とチルノが縋るように言葉を続ける。
「あたいね、文と一緒にいるのが楽しかったんだけど、最近は楽しくなくなったの」
「え?ああ……何でだ?」
「もっともっと一緒に居たいのに、文はどっか行っちゃうし、あたいからは会いにいけないから、ずっとあたいだけが待ってて……。そうしたら、会いたいなって思うと、苦しくて、ギューって痛くなって……文はあたいに会いたくないのかなって……思って……。会っても文は取材の話しばっかりだから、あたいの事はどうでもいいのかなって思っちゃって……悔しくて、痛くて…………」
でもね、と呟き眉をハの字にして困惑の表情浮かべ
「魔理沙にそう言ったら、あたいが文の事を好きなんじゃないか、って言われたの。ねぇ、これが好きって事なの……?」
苦しさに顔を歪めながら全てを吐き出すように言葉を重ねるチルノの様子を見て、妹紅は何とな悟った。
きっとこの小さな友人は本気の恋の病に苛まされてしまったんだろう、と。
微かに口元を緩め、そうだな、と呟いて空を見上げた。
「多分、それが好きって事だと私は思うよ」
「なんで?好きなのに、何で苦しいの……?」
「それは、お前が求めていることを相手がしてくれないからだよ」
分かんない、と首をゆるゆると振る様子を見ると、いいか?と上げていた視線を戻し、チルノの瞳を覗き込む。
困惑と不安で揺れる青い瞳を見詰めながら、言い聞かせるように言葉を重ねる。
「お前が会いたい、って思っても、相手は来てくれない。だから、会いたいって思っているのが自分だけだって思って、苦しかったんだろう?」
「うん……」
「じゃあ逆に、会いたいって思った時に会いに来てくれたらどう思った?」
「それは……嬉しかったよ?でも、あたい最近は文と会ってても苦しいよ……?」
「それはな、チルノ。お前、会えない時に相手が何をしてるんだろう、とか考えなかったか?」
「? うん、考えた」
「じゃあ、考えたお前の中の文は、何をしていたんだ?」
「えっと……楽しそうに、取材してるのかな、って……」
「つまり、お前の事は考えてくれていないって思ったんだな?」
「うん……」
じゃあ、と一言間を取ると、妹紅は優しい笑みを浮かべてポン、とチルノの頭に手を置いた。
「もし取材してるときも、文がお前の事を考えているとしたらどうだ?」
「……え?」
「取材中も、お前が今頃なにをしてるんだろう?とか考えているとしたら、どうだ?」
「それは……」
優しく笑う妹紅を見詰めながら、チルノは考えた。
取材をしながら『チルノさんは今頃なにしてるんでしょうねー……』とボンヤリと呟く、文の姿を。
もし
もしも、そうであるならば―――
「嬉しい……な」
「なら、そういうことだ。チルノ、お前は文と会えない時間に嫉妬してたんだよ」
「嫉妬……?」
「まぁ、その会えない時間が嫌いだった、って事だな」
「でも……あたい、会えない時間が嫌でも文が好きか分からないよ……」
そうか?と可笑しそうに笑いながら、妹紅はチルノの髪をわしゃわしゃと撫でると、不思議そうに見上げてくる瞳を見て肩を竦める。
先程の発言は無自覚なのか、と思えば相当な重症患者に思わず妹紅は苦笑を浮べた。
「何を求めてるかなんて、さっき自分で言ってたじゃないか」
「え……?」
「もっともっと一緒に居たい、って思ったんだろ?」
「あ……」
「なら、それが答え……だろ?」
ポカン、と妹紅を見上げながら、そうだ、とチルノは思った。
もっと一緒にいたかったんだ。
もっと一緒にいて、自分の事を見て欲しかったんだ。
優しく笑って、いつもみたいに頭を撫でて欲しかったんだ―――と。
氷が溶けるように、チルノは自分の心を支配していたモヤモヤとした感覚が霧散していくのを感じた。
呆然と、自分の気持ちに漸く納得がいったように上の空で見詰めてくるチルノの様子にクスリ、と笑いを零すと妹紅は年長者らしく言葉を紡いだ。
「好きだって気持ちも、相手に伝えなきゃ伝わらないぞ?」
「でも……文はあたいの事、好きじゃないかもしれない……」
不安そうに呟くチルノに、だからどうした、と笑い飛ばした。
「なぁ、チルノ。相手がお前の事を好きにならなきゃ、そいつを好きになっちゃいけないって事は無いんだぞ」
「でも……」
「じゃあ、このままずっと苦しいままでもいいのか?」
「え……い、いやっ!!」
慌てて首を勢い良く振るチルノをみて、ほら、と妹紅は優しく目を細めた。
「なら、決まってるじゃないか。どうしたいのか、どうするべきなのか」
「でも……でも、あたい、文に酷いことしちゃったし……」
「酷いことって……何やったんだ?」
「アイシクルフォールで地面に叩きつけちゃった……」
「ははは……そりゃまた派手にやったな。でも、酷いことしたなら、まずやることは1つだろう?」
「え?」
想像以上の惨状に思わず苦笑いを浮かべ、妹紅は頷いてみせた。
まさか妖精が天狗に勝つとは……と思いながら、不思議そうに首を傾げるチルノに分からないか?と肩を竦めて見せた。
「ちゃんと、謝る。それで許してくれなかったら、どうしたら許してくれるのか教えて貰えばいい」
「……出来るかな」
「大丈夫だ、お前がしっかり謝ればちゃんと許してくれるさ」
「うん……」
「ほら、元気を出せ。あの天狗の事が好きだって納得できたんだろ?そんなしょぼくれた顔をしたチルノなんてチルノじゃないぞ?」
「……うん。ありがとう、もこ!」
「お、と……」
憑き物が落ちたように、久々に笑顔を浮かべたチルノが妹紅へと飛びついた。
その勢いに負け、体を揺らつかせて片手でその小さな体を抱きとめると―――
―――バサリ
「ん?」
強く羽ばたく音を耳で捉え、妹紅は反射的に振り向いたが何処までも続く秋の空には何の姿も無かった。
気のせいか?と妹紅が首を傾げていると、体を離したチルノがくいくい、と袖を引き
「えっとね、もこ!」
「ん?なんだ?チルノ」
「えっとね……あたいちゃんと言うよ」
真っ直ぐな瞳で妹紅を見詰め
「謝って、それで言うよ」
いつもの満面の笑みを浮かべ
「文が好きだって」
憂いの無い表情で、言い切った。
それを見れば、そっか、と妹紅は笑い、目を細める。
「それでこそ、チルノ、だな。やっぱり、お前は笑ってる方がいいぞ」
「えへへ……そうかな?」
「ああ……と、そろそろ帰らないと慧音が心配しそうだな。チルノも一緒にくるか?夕飯を慧音のところで食べる予定なんだが」
よいせ、と声を出して立ち上がりながら、座り込んだままのチルノに問いかける。
だが、んー……と声に出して悩んだチルノは首を横に振った。
「……ううん、あたい今から文を探すよ」
「そうか」
やっぱりな、と思い込んだら一直線の友人を見て、妹紅は頷いた。
ならば自分が掛けるべき言葉は1つだ、と―――
「なら頑張ってこい、チルノ」
「うん! ありがとう、もこっ!」
立ち上がり、早速とばかりにチルノは空へと飛翔する。
振り返りながら手を振ると、それに応えるように妹紅も軽く手を振り返し、その後ろ姿を見送った。
「……さて、さっさと帰らないと慧音にまた小言を言われるな」
その姿が空へと完全に消えれば、この後に待ち構えている寺子屋の教師の小言を覚悟して、妹紅はやれやれと肩を竦めた。
きっと小言を聞いている間も、先程の友人の話を思い出してはニヤついてしまうだろう。
そうすればきっと不審な目を向けながら、教師の小言は更に追加される。
決して愉快とは言えない未来だったが、まぁいいか、と苦笑を浮かべながら空を見上げて、もう一度呟いた。
「頑張れよ、チルノ―――」
―― ・ ―― ・ ―― ・ ――
霧の湖の畔。
そこにある大きな岩に腰掛け、文は夕日に染まる湖面を見詰めていた。
―――笑っていた
先程から心に蘇るのは、妹紅との会話でチルノが浮かべていた笑顔だった。
「…………」
物憂げに寄せては返す湖の波を見て、文は考える。
機嫌が悪いのは自分の所為、とは重々承知していた。
それこそ、彼女自身が言い放った言葉であったのだから。
だが、それでも心のどこかで、実は虫の居所が悪いだけで自分自身には落ち度がないのでは、という思いもあった。
心の中で昇華する事の出来ない思いを抱え、そのために誰に対してもピリピリとした態度を取ることしか出来なかったのでは、と。
時が経てば数週間前と同じように、あの笑顔を自分に向けてくれるかもしれない、と考えていた。
でも、それは違った。
ここ最近向けられていた笑顔は、別の人物へと向けられていたのだから―――
「…………」
ポチャン―――
無言のまま、石を拾えば湖へと投げつけてみた。
小さく波立つ湖に立った小さな波紋は、そのまま広がることなく消えていく。
面白く、なかった。
それは山の会議とは違い、何処か焦燥感を感じさせる心苦しさを伴ったものだった。
(その笑顔を、数週間前までただ一身に受けていたのは私なのに―――)
はぁ―――。
考えれば考えるほど胸に溜まる黒い思いを吐き出すように、深い溜息を吐いた。
文自身もその身勝手で醜い感情が何であるか分かっていた。
即ち、嫉妬―――
「馬鹿なことを……相手は、妖精だというのに……」
だが、否定の言葉を口にしても胸のうちのモヤモヤとした想いが消える訳ではない。
よくよく考えれば、分かることだった。
何故、そこまで彼女が自分を嫌う事を恐れたのか。
何故、そこまで彼女を求めて今日飛び続けたのか。
何故、そこまで彼女に―――固執したのか。
文にとってチルノはあくまで好奇心の対象としての「好き」だった。
だからこそ、その好意が恋へと変遷したことに何よりも戸惑いがあった。
妖精と天狗。
本来なら並び立つ事自体がおかしい程、両者の立場の違いは明白だ。
それだけに飽き足らず、妖精を好きになるなんてことは有り得ない、という思いがずっと脳内を駆け巡っている。
「傍に居すぎました、かねー……」
ポツリ、と呟かれた言葉。
きっとそれもあるんだろうな、と思った。
でも、きっとそれだけでもないんだろうな、とも思った。
傍に居すぎた為に、いざ傍を離れられた事で奪われた、と感じる所有欲だけではなかった。
ただ、その笑顔を自分には向けてくれない、という事が、ただただ悔しく感じたのだ。
思えば、一人になりたいと思いながら、こんな場所に来たのも何処かで出会う事を願っていたたからなのだろう。
それが紫と魔理沙に立て続けに問いかけられた、何故チルノがそんなに気になるのか、に対する答えだった。
「年幅もいかぬ子供でもないでしょうに……我ながら何を考えているのやら……」
子供じみた独占欲に、思わず自嘲の笑みが浮かんだ。
妖精とは、自然の歪みの具現化である。
生物的な死を持たないその存在は、生物的な生を持たないとも言えるのだ。
共に同じ時間を生きられぬ相手を好きになってどうするのか。
ましてや、その姿は、どんなに長い時を生きていると言えども、どう考えても子供のそれであるし、その心もまた何処までも子供のそれだった。
そんな相手を好きになったとしても、ロリコンと称されるのは目に見えているし、年幅もいかぬ子供を好きになるような、そんな罪悪感が心を占める―――
(いや、違う―――)
だが、心に起こったその考えを文は首を振って否定した。
外見と実年齢が伴わない者など、この幻想郷には山といる。
躊躇いの本質は、ただ、何処までもチルノが妖精である、という一事においてだった。
「下らないものね……本当に」
妖精一人にここまで心を揺れ動かされる自分に対して。
そして、妖精、というだけで己の恋心を全力で否定しなくてはいけない自分に対して。
今まで周囲の考え方に囚われない、自由な考え方をしてきたつもりであったが、文は、文が考える以上に天狗であった。
妖精だから恋心を抱える事は絶対に有り得ない、とするそれは、天狗という社会に生きるが為だった。
天狗の社会とは、明確な縦社会である。
権力構造が明確な組織においては、常に人は保守的になるものだ。
現在、妖怪の山では革新派と守旧派の二つの派閥に別れているが、その根底にあるのは保守だった。
大きな変化を好まず、面子を重んじ、プライドが高い。
そんな保守の考えにおいては、妖精という、幻想郷におけるヒエラルキー最下層に属する存在と友情を育むまでなら変人程度の扱いで済むが、もしも、恋心を抱いたとなればそうはいかないだろう。
文は天魔を頭とする革新派に属している。
もし、チルノへの恋心が露呈すれば、天狗全体のプライドを傷付ける、として守旧派からの格好の攻撃の的となるのは目に見えていた。
それは、文だけの問題ではない。
同派閥のトップ、天魔にも多大な迷惑を被らせ、更にはチルノにも何かしらの被害が及ぶ可能性だってある。
そうであるならば、好きになることすら罪、だ。
「でも、チルノさんは普通の妖精……じゃない」
八雲紫の言葉が耳に蘇る。
このまま順調に行けば、彼女が妖怪となる日は遠くない、と。
妖精として圧倒的な力を持つチルノは、普通の妖精、とは決して言うことは出来なかった。
幼い心ながらも、他の妖精と比較して高い知性があり、誰かを思いやるという事を知り、今も妖精ながらにして成長を続ける彼女。
もし、彼女が成長を続け、妖精としての概念から飛躍する日がきたならば―――
「…………」
ふと、真っ赤に染まった空を見上げると、斑のいわし雲が空を覆い隠すようにどこまでも広がっていた。
離れよう―――
このまま傍に居たら、文は己が考える規範を踏み越えかねなかった。
そして何よりも
「チルノさんが嫌がる事は……したくないですし、ね」
小さく、寂しそうな笑みを浮かべ呟いた。
立場の違いが建前ならば、こちらは本音。
好きだからこそ、その人が苦しんだり嫌がったりすることはしたくなかった。
原因は結局分からなかったけれども、今度会ったら、とりあえず謝ろう。
そして、もう近くに寄らないから気にしないでくれ、と伝えよう。
僅か数か月前の、夏祭りの夜に感じた楽しさが遠い過去の事のように感じられた。
ただ目を奪われたその笑顔を傍で見られない。
その程度の事で、此処まで気落ちする己が、どこか滑稽だった。
「ぁーゃー……!」
今日はもう帰ろう。
そう、心に決めて立ち上がろうとしたところで、声が聞こえた。
「……え?」
何よりも、今日求めていた声。
それが耳に届き、その声がした方へと顔を向けると―――
「あやーッ!」
「チルノ……さん?」
目を、耳を、全てを疑った。
求めて止まなかった、その姿が一直線に向かってきていたのだから。
「チルノさゴフッ!?」
「って、うわぁっ?!」
但し、正に弾丸の如く一直線に飛んできたチルノは何の躊躇いもなく飛び込んだ為、文は字のごとく体を張ってそれを止める羽目になった。
腹に抱きつくように飛び込んできたチルノをしっかりと抑えたが、完全に気を緩ませていた状態での激しい衝撃に踏ん張ることが出来ず、その体を抱きかかえたまま岩に背中をしたたかに打ち付けた。
「いったた……」
「あ、あや?!大丈夫?!」
鈍痛に顔を顰めていると、馬乗りになったチルノが心配そうに見詰めてきていた。
夕焼けに赤く染まった青い瞳に覗き込まれ、文は顔を歪めた。
どうして―――
声にならない言葉を呟く。
何故、そんな瞳で見つめるのか、と。
嫌っているはずじゃなかったのか。
だからずっと避けたんじゃないのか。
「ご、ごめんッ!痛かった……よね?」
「いえ、大丈夫ですよ……よっと」
文の表情の変化に気付いたチルノが慌て始めるが、問題ない、と馬乗りになっている小さな体を持って起き上がれば、少し距離を作るように彼女を横に置いた。
あ……と呟くチルノが悲しそうに眉を寄せて俯く姿を見て、一体何なんだ、と文は小さく嘆息した。
「…………」
「…………」
静寂。
並び座りながら互いに言葉を発する事もなく、秋の風が湖面を揺らす音だけが聞こえる。
正面からの夕日を眩しく思いながら、文は隣のチルノを盗み見た。
難しい顔をしたまま俯き、強く拳を握り締めている。
話が進まないな……。
居心地の悪いその静寂を打ち消すように、己の心を押し込めると努めて明るい声を出した。
「それで、チルノさん?どうされたんですか?」
「あ、あのねッ! あの……ね……」
ばっ!と。
文を仰ぎ見て、何かを迷うように口を開いては閉じるを繰り返すチルノ。
昼間と雰囲気の違う、一人で百面相をしている相手の意図を読み取れないが、それが非常に言いにくいという事は文にも理解が出来た。
ひょっとして、もう傍に寄ってくれるな、とでも言われるのだろうか……。
もしそれを望みながら言い出せないでいるなら、こちらから切り出すべきだろう、と思う。
まだ幼い彼女に全てを任せるのは年長者としても申し訳が立たない。
そう思えば、すぅ、と息と共に自分の想いも一つ吐き出した。
二度と、思い起こす事がないように、と。
「チルノさん、私―――」
「あのね、文! ごめんなさいッ!!」
呼吸を整え、謝罪を述べようとしたら、何故か居住いを正したチルノに先に謝られた。
え、と馬鹿みたいにポカンとしながら、深く下げている頭を呆然と見遣る。
「え、な、何がですか……?」
「あたい……文に、いきなり攻撃して怪我させちゃった……から」
ごめんなさいッ!
頭を上げる事なく、ただもう一度された謝罪に、改めて文は驚愕した。
“あの”チルノが頭を下げて謝罪をしているのだ。
負けん気が強く、基本誰であっても物怖じせず、総じて子供らしくプライドも高い、あのチルノが。
驚くな、という方が無理があるというものだった。
「……許して、くれない……?怒ってるよね……」
「怒って……ないですよ?」
「でも、あたい文に怪我させちゃったよ……?」
「天狗を舐めないでください?あの程度ならなんて事はありませんよ?」
本当?
顔を上げ、不安に揺れる瞳で問われれば、ええ、と一つ頷いた。
「そっか……良かったぁ」
えへへ、と。
安心しきった顔で、文が求めてやまなかった、笑顔がチルノの顔に浮かんだ。
「―――そ、それで!謝罪の為に来たんですか?」
思わず見惚れてしまった笑顔から視線を外せば、ドキドキと無駄に早鐘を打つ心臓を必死に隠すように尋ねた。
謝罪の理由が昼間の攻撃に関する事なら、ここ最近の文を避けようとする行動についての答えを聞かせてもらっていない。
まだ、彼女と己とのわだかまりは解決されていないのだ。
「あ、あのね、文……」
「はい、なんですか?」
「あの、その……これ」
おずおず、と。
迷うような表情で、ワンピースのポケットから取り出し、文へと差し出されたのは紫蘭の簪だった。
「結って、欲しいな……」
「え……?」
顔が赤いのは夕日のせいなのだろうか。
戸惑いの表情を浮かべ、文は差し出された簪と赤い顔を何度も往復した。
最近は頑なに結うことを拒否していたのに何故だろう、と。
「だめ……?」
「だめ、なんてことはありませんよ?」
「じゃあ、お願い……」
恐る恐るとその簪を受け取ると、チルノは片手でリボンを解き、すぐさま体を反転させ、背中を文へと向けた。
目の前で、夏の頃と比べて微かに伸びたセミショートの髪が揺れる。
一体何なんだろう……。
拒絶されたかと思えば、謝罪をしたり、髪を結って欲しいと頼んだり。
いつもなら心地よい、チルノのそういった不可思議な行動が、今はどこまでも心苦しかった。
結ったら、早々に告げて別れよう。
それが一番の筈だ、と心で呟くと、青いセミショートの髪に手を添える。
掬うように手にとるとサラサラとこぼれ落ちていく。
相変わらず非常に柔らかい髪質だった。
どれだけ伸びれば綺麗に結えるようになることやら……。
そんな事を思いながら、髪を束ねて捻るとそこに簪を差し込み―――
「―――文が好き」
「―――え?」
そのまま髪束と一緒に巻き込むように回転させようとしたところで、突然チルノが告げた。
ビクリ、と体を震わせる文の口から零れた声も震える。
今、何を言われた―――?
「誰よりも一番、文が好き」
それは、唐突な告白だった。
「あたい、文が好き、なの」
半身だけで振り返り、夕日ほどに顔を赤くした顔で文をチルノが見上げた。
その顔を見詰めながら、何で…、と文は呆然と呟いた。
だって―――
「チルノさん、最近ずっと私の事を避けていたんじゃ―――」
「文が―――」
言いづらそうに、チルノは顔を僅かに俯かせ心の内を吐き出すように訥々と語りだした。
「文が、いろんな話しをしてくれたり、頭を撫でてくれるのが、嬉しかった」
「だけど、そのうち、何でいつも来てくれないんだろ、って思うようになって」
「あたいからは会いにいけないから、いつもずっと待ってるのに、いつもは来てくれなくて」
「あたいだけがそう思ってるんだって思ったら、辛くて、悔しくて―――!」
「頭を撫でてくれるのも、胸がギューって苦しくなって―――!」
「全部、文が悪いんだって……思った」
でも、と呟くとチルノが俯かせた顔を上げると、じっと文の顔を見詰めた。
「もこーと魔理沙と紫に話したら、それは文が悪いんじゃなくて、あたいが文の事を嫌いになったんじゃないって教えて貰って」
揺れる瞳を、文はただ呆然と見詰め返した。
自分だけじゃなかった。
彼女にそんな想いを抱かせていた、という想いが心に沸き起これば、矮小な独占欲が満たされていくのが分かった。
ねぇ、とチルノは泣きそうな声で尋ねた。
「文は―――」
呆気にとられ、潤んだ瞳のチルノがじいっ、と文の瞳を覗き込む。
左手で纏めていた髪が、風に舞って手を離れた。
「あたいのこと、嫌い?」
堪えるように唇を噛み締め、泣きそうな声で告げられた。
そんなの―――
「嫌いじゃ、ありませんよ」
「好きでも、ない………?」
今にもこぼれ落ちそうな雫を瞳の端に蓄えて尋ねられる。
―――反則だ。
溢れそうな想いを、唇を噛み締める事で防いだ。
そんな、何処までも純粋で無垢な目で見られて、どうして「ただの友人ですよ」と肯定など出来るものか。
ただただ好きだと告げるその声を聞かぬ振りをして、どうして拒絶など出来るものか。
醜いまでの嫉妬心を浮かべて相手を求めたのは、己も同じなのだから。
けれども否定だって出来るはずもない。
何故なら、自分は天狗で彼女は妖精だ―――
―――いや、違う。
キツく目を閉じると、その想いを振り払う。
ストーカー紛いに彼女の後を追い、他の誰かと楽しそうに話しているのをみて心に焦りを感じたのは何故なのか。
その答えは、とうに出ているのだ。
純粋なまでに真っ直ぐなチルノの想いに、先程まで文の心を占めていた決意が呆気なく瓦解した瞬間だった。
己が考える規範を踏み越える想いだという事は分かっていた。
それでも、立場とか見た目など関係なかった。
彼女の事が好きか嫌いか、なんて考えるまでもない事なのだから。
私は―――
「―――好きです」
誰よりも彼女の傍に居て、誰よりもその笑顔を向けて欲しい。
ただ、それだけ―――
「チルノさんの事が、一番好きです」
紫蘭の簪を強く握り締めた。
心にある迷いごと潰してしまえるように、強く、強く。
「ほ、んとう……?」
「何で嘘だと思いますか?」
「だって、あたい……文に酷いことしちゃったよ……?」
「だとしても嫌いになる、という道理はありませんよ?」
呆然と。
文をただ眺めていたチルノの瞳から一筋涙がこぼれ落ちた。
「あ、れ……?」
不思議そうに、頬を伝い続ける涙を手のひらで拭いながら、おかしいな……とチルノは小さく呟いた。
「あたい、嬉しい、はず、なん、だけど……な……」
「嬉しくても―――」
文は、その小さく冷たい体に手を伸ばすとそのまま抱き締めた。
わぷっ、と胸にチルノが頭を預けると、優しく背中をポンポン、と叩き始める。
「泣くことだって、あるんですよ―――?」
「え、へへ……そう、なん、だ……ッ」
顔は見えないが、必死の泣き笑いの表情で泣くのを我慢しているんだろう、と思えば何となく微笑ましく思えた。
まったく、と小さく呟き背中に回した腕を一際強く抱き締めて、柔らかなチルノの髪に頬を寄せる。
「チルノさんは、お馬鹿さんですねー」
「っ、ば、かじゃない……っ!も、んっ!!」
「勝手に一人で悩んで飛び出していったのにですか?」
「っ……ご、めんな、さい……っ」
くすっ、と文は笑った。
何処までも素直な彼女の謝罪を聞いて笑いがこみ上げてきたのだ。
勝手に一人で悩んだのは、自分も同じ。
素直な彼女と素直でない自分という、なんともアンバランスな関係を思えば立場以上に滑稽のような気がした。
それでも
「ありがとうございます」
「ふ、ぇ……?」
その自分には無い素直さを持つが故に、きっと彼女に惹かれたんだ―――。
未だに笑いながら泣いているチルノの表情を見て、そろそろ泣き止んで貰おう、とすぐ近くにある顔にゆっくりと唇を寄せて―――
「……ん」
「―――っ?!」
瞳の直ぐ下、涙の跡を掬うように口付けた。
チルノが体を強ばらせるのが唇から伝わってくれば、そりゃそうだ、と文は唐突な己の行動に苦笑を浮かべる。
顔を離してみると、ポカン、と見詰めるチルノの表情が可笑しくてクスクスと笑いながら愛おしげにその頭を撫で、純粋な己の想いを告げた。
「大好きです。チルノさん」
「っ」
夕日に染まったチルノの顔が、なお紅くなった。
きっと、己も大差ないと思えば文は苦笑する。
好きだの何だのと、まるで初恋のように踊る心を思えば、やれやれと肩を竦めた。
どうしたって、今後大変なのは分かっている。
それを見越しながら、敢えてその道に飛び込んだ。
いつか後悔をする日がくるのかもしれない。
それでも、今、この瞬間を選んだ。
チルノさんを、選んだんだ―――
「あたいもっ!」
「はい」
「あたいも、文が大好きだよっ!」
最近、ついぞ見る機会が無かった満面の笑みが目の前で咲いた。
一際強い風が吹けば、夕日に照らされた金色の銀杏の葉が空を舞う。
その一枚一枚に宿る妖精の命は儚い。
冷たい風からチルノの体を守るように翼を広げて被い、その体を大切に抱き締めれば目を細めて思った。
天狗だとか、妖精だからとかではない。
ただ、きっとそれだけを見れば誰だって嫌うはずのない、そんな笑みを一番傍で見たかったんだ。
友達という関係だけで抑える事が出来なかった理由が、それなんだ―――と。
冷たい風が、秋の終わりと冬の訪れを告げている。
季節が移ろう中で、ただ二人きり、夕日の中で互いの体温を確かめ合うように抱きしめ合う。
そんな二人を、文の左手が握っていた紫蘭の花だけがひっそりと見守っていた―――。
次はレティさんの季節かー
文チルもさる事ながら、周りの登場人物達もとても魅力的でした。
純度の高い氷のように透き通った文チルで、自分が読んだら穢れるんじゃね?と
謎の罪悪感がががががが
誤字報告を
》友達にしちゃー結構必至ぽかったけどな?
必至→必死
これからどうなるか楽しみです
先の展開が非常に読めてしまう。「はじめは仲が良い二人→意識し合う二人→すれ違う二人→告白、HAPPYEND」という
あまりにもお決まりな、お決まりの展開には疲れてしまいました。
「先が気になる!」とか「一体どういうことなの?早く続きが知りたい!」という気持ちが全く湧き上がりませんでした。
また、「保守vs.革新」。革新とは未来を大切にする清潔で賢い良いイメージ。
保守は老害で、長い会議ばっかやるわりに何も決められない立ち枯れジジイで悪いイメージ。もちろん主人公は革新。
という、あまりにもお決まりというか現実離れした、少年漫画にありがちな安い世界観にも疲れてしまいました。
鈍感な文とチルノ二人にもあまり共感はできませんでした。
不知火さんの文体や情景描写は良いです。稚拙ではまったくないし、変に難い文章でもなければ奇をてらったわけでもない。
ほのぼのとしたこのSSにぴったりだと思います。けれどもそれ以外に何もない!ように見えます…。うぅ。すみません。
壮大な世界観があるわけでもないし、ストーリー展開やキャラクターもよくあるもの。「文チル」という希少なカップリングSSである
という以外に、このSSのオリジナリティを感じられませんでした。
その3・その4に期待です。ではでは。
バッドエンドにならないといいな。
次回も期待してます。。