始まりは、いつもの通り。
紫が気まぐれを起こしただけだった。
/
幻想郷の端っこ、普通ではたどり着けない境界の狭間に八雲の家はある。
ある朝、藍はいつもと変わらず、美味しい朝食を作っていた。藍と橙の二人分である。
紫は基本的に夜行性であり、しかも睡眠時間が長いため、朝起きてくることは皆無と言っていい。だから、藍自身の朝食と、マヨヒガに住む橙の分を作れば、それでいつもなら事足りた。
そのいつもの朝が、いつも通りでは無くなったのは、朝食を作り始めてからすぐのことだった。
「あれ……紫様が起きた? こんなに朝早くに?」
紫と藍は、式神の絆で繋がっている。藍の心身の状況はだいたい紫に伝わるし、その逆も然りである。
変だな、と思い、藍は紫の状態を式神の絆で確認する。もしも主に異常があるなら、式神として力にならなければいけない。
異常は、無かった。
だがそれは、異常といえば異常であった。
「え、なんでこんな絶好調なの?」
思わず、朝食を作る手を止める。
あの、寝るのがとっても大好きな八雲紫が。
起き抜けに絶好調。
なんでまた。
「はて……?」
「おはよう、藍。いつも朝からご苦労様ね」
と、疑問に思っているうちに、紫が台所に足を踏み入れた。
藍は咄嗟に振り向こうとして――
「…………んっ」
ふと。
振り向こうとしたのを、必死で押しとどめた。
「……藍? どうしたのかしら?」
「あ、いえ、その。おはようございます、紫様」
と、あくまで背を向けたまま、藍は考える。
……なぜ、自分は振り向くのを躊躇った?
藍は瞬時に、全力で思考を回転させる――自分が今、何に、違和感を覚えたか。
違和感? もちろん今の状況は、違和感だらけには違いない。
あの紫が、朝から現れたのだ。
しかも、なぜかすこぶる快調らしい。
その上、台所に立つ藍に向かって、爽やかな挨拶を――
――そうだ、それだ。
藍は思い至った。
紫の声が、あまりに、爽やかすぎることに――あの、幻想郷胡散臭さ選手権堂々の第一位を守り続ける紫の、声が。
これは。
何かの。
異変ではないだろうか――
「紫、様」
「なあに、藍」
「お願いが、ございます……三歩、後ろに、下がってもらえないでしょうか」
「おかしな藍ね。三歩も下がったら、お台所から出てしまうわ」
「では――では、一歩だけ、でも、構いません」
欲を言えば、三歩分の距離と、時間が欲しかった。
だが、今の紫から三歩を引き出すのは難しい――ならば一歩だ、それで覚悟を決めなければ――
「わかったわ。なら、一歩だけ下がってあげる……そうしたらあなたは」
「はい、わかっています……ちゃんと振り向いて、挨拶をさせていただきます」
「いい子ね、藍。それじゃあ――」
はい、一歩――
「紫様――!」
藍は振り向く。
視線を向けた先――確かに足音の通り、一歩下がったところの――
――女神がいた。
あまりにも美しい、女神がいたのだ。
「おはよう、藍」
――幻想郷には八百万の神々が住まわっており、それら全ての神がまごうことなき美しさ、神々しさを持っている。だが、目の前にいる女神はそれら全ての神と比較してさえ、なお霞んでしまうほどに美しかった。金砂の髪はまるで星の光で編んだ極上の織物のようであり、白いかんばせはいかなる芸術でも届きはしない至高の造形としか思えず、薄紅色の唇は神聖さと妖艶さという矛盾する属性の同居を許しており、流麗な線形を描く鼻のラインはかわいらしさを一層際立てており、そして切れ長のまぶたと、その奥にある紫色の瞳に至っては、もう全存在を魅了せんばかりの魔眼だとしか思えない――!
「おはよう、ございます、紫、様……!」
――ならばこそ。
それを真っ向から見て、耐えきった藍の自制心こそ、褒め称えられるべきだろう。
おそらくそれは、紫と長年連れ添っていた藍だからこそ可能となった究極の自制。あの、桁外れの力と技と頭脳を持ちながら、その能力を惜しみなく悪戯に使い続ける紫と、長年一緒だった藍にしか不可能な所業だったに違いない。
「藍。朝ごはん、作ってるのね。私も手伝っていいかしら」
――この方は、まごうことなく八雲紫様だ。
――否、これは紫ではない――違う妖怪だと、思わなければ耐えられない。
二つの相反する想いを抱えたまま、藍は必死で言葉を絞り出した。
「それなのですが、紫様。私は、急用を、思い出しました」
「あら、そうなの?」
「はい、ですから、朝ごはんを作るのは――」
申し訳ないが、遠慮させてください――と、言おうとしたつもりだったのに。
「そう。じゃあ、私が続きを作っちゃうわね」
「っ…………!」
それは、つまり。
今、藍が考えている、策を実行するならば。
橙はどうしても、犠牲にしなければならないということ――
「藍、いいかしら?」
「はい、お願いします……私の分は、結構ですから……!」
「わかったわ。それじゃ、久しぶりに張り切っちゃおうかしら♪」
「っ――!」
自分の限界を自覚して、藍は紫のすぐそばをすれ違い、一目散に駆け出した。
仕方が無かった。あれ以上紫と一緒にいれば、藍は耐えられなくなる――全く抵抗が敵わないまま、紫に魅了され、魂を捧げることさえ惜しく無くなってしまうのだから。
だが、ああ――紫が朝ごはんを作れば、それは誰が食べる? 決まっている、紫と橙だ――橙はあの紫を目の前にして、美味しい朝食を振る舞われてしまう、耐えられる確率は完全にゼロだ――そして藍は、何としても、橙を助けにいくわけにはいかない。
ダッシュの勢いのまま玄関を開け、藍は家を飛び出した。
紫の美しさに半分やられた心で、それでも藍は悲しみに襲われた。だが涙は流さない、橙を犠牲にすると決めたのは自分なのだから――自らを苛む怒りと悲しみを胸に、藍は全速力で飛んだ。
/
第二の犠牲者は、朝から博麗神社を訪れていた霧雨魔理沙だった。
「あれ? 霊夢、いないのかー……? なんだ、神社の様子が変だな?」
おかしいなと思いながら、勝手知ったる親友の神社を調べてみる。
「うーん、神社自体が荒らされてるわけじゃないけど、ただ霊夢が留守なだけってわけでも無いな……なんか、微妙にふすまが開けっ放しだったり、お茶が入れっぱなしだったりするし」
マリーセレスト号……にしては中途半端な生活感の残し方だ。だが、変なことには違いない。
と、魔理沙が推理を働かせようとしたところに――
「犯人は藍ですわ。あの子ったら、どういうつもりかしら」
なぜか胡散臭さを感じない、美しい声が聞こえた。
誰の声かは丸わかりなのに、胡散臭さを感じなかったのだ。
魔理沙は、藍よりは迂闊だった……その違和感に気付けないまま、声の美しさに釣られて、素直に振り向いてしまったのだ。
「おはよう、魔理沙。今朝は良い天気ね」
「あぁ――……」
何の覚悟も無く。
その、あまりにも美しい紫を見て。
霧雨魔理沙は、骨の髄まで、奪われてしまった。
「おはようだぜ、紫……いや、紫様」
何の疑いも無く、魔理沙は膝をついた。そうするのが当たり前だとしか思えなかった。人は本当の美しさを前にすれば、頭を下げ目を伏せるのが当然だ。そのことを、魔理沙は今、学ぶことができた。
その気品溢れながらも親しみやすい御姿にもっと近づきたいと、魔理沙は膝をついたまま顔をあげ、手を差し出す。淀みなく、紫がその美しい手を、魔理沙の手の上に置いた。傍らに控える橙が嫉妬の余りに飛び出しそうになるのを、紫がもう片方の手で制していた。
魔理沙はためらわず、紫の手の甲に、唇を乗せた。
/
全ては、驚くほど速やかに行われた。
孤高を守る美しい人形遣いが、恭しくこうべを垂れた。
我が道を生きることのみに熱心な天人が、感動のあまり涙を流した。
唯我独尊を信じて疑わない吸血鬼が、一瞬で敗北を認めた。
人間の上に立ち、人間の味方になるために蘇った聖人が、自ら軍門に下った。
人間が、妖怪が、神が、妖精が、妖獣が、仙人が、天人が、月人が。
次から次へと、ただ一人の妖怪に、一目で魅了されていった。
――こんなにも簡単に。
一人の妖怪によって、瞬く間に、幻想郷は侵略されたのだ――
/
「……というわけよ。理解してくれたか?」
「そもそも、なんでこんなアホなことになったのよ?」
真剣極まりない様子の藍に、霊夢が至極もっともなツッコミを入れた。
あの後、紫の元から離れた藍は、真っ先に霊夢を誘拐したのだ。全ては、霊夢を紫の魔の手から救うため――ひいては、幻想郷を救うために。
そしてその後、紫に見つからないように幻想郷の様子をうかがい続け――それまで完全に疑っていた霊夢は、ようやく納得した。
「うむ。それについては推測の域を出ないが……おそらくは、紫様が気まぐれを起こして」
「うんうん、あいつはいつもそうよね」
「自分の美しさの境界を操って、あのチートな美しさを手に入れてしまったんだと思う」
「アホかあいつは」
霊夢の容赦無いツッコミに、藍もまた同意せざるを得ない。
「うん、けど大事なのはここからなの」
「は? ほとんど説明したようなもんじゃないの」
「違う。ただそれだけなら、紫様自身が、元の姿に戻ればそれで済む話よ」
「うん、まあそうね」
その通り、紫の気まぐれなら、紫が自分でやめればそれで済む。
だから霊夢も、紫を弾幕でぶちのめして、強制的に元に戻させようと思っていたのだが。
「紫様は……おそらく前夜、寝る前にその能力を使ったんだ。そして、目が覚めた次の日に悪戯しに行こうと、そう思っていた」
「あいつの考えそうなことよね……ていうか、今がその状況でしょ?」
「違う。わかるか、霊夢……身も心も美しくなりすぎた紫様は、朝、きちんと起床したのだ」
「はあ」
霊夢にとって早寝早起きは普通に習慣になっているので、それが美しいと言われてもピンと来ない。まあ、そういう考え方もあるのかも知れない、とだけ思っておいた。
「そして朝起きた紫様は、顔を洗おうとした」
「!? ま、まさか!?」
「そう、鏡を見てしまったんだ……!」
つまり何か。
紫はその時、鏡に映った自分の顔を見て。
そのあまりの美しさに魅了されてしまい、自分に操られてしまったということに――
「あ、アホじゃないのあいつ!?」
「全くもって否定しようがないのがつらいところだ……だがな霊夢、考えてもみろ」
「何よ!? こんな馬鹿な話、他に無いじゃない――」
「そのアホ極まりない状況によって、幻想郷が滅びようとしているんだ――!」
「――――!?」
いくらなんでも――と否定しようとして、できなくなった。幻想郷がどういう状況かは、さっき確認した通りだったから。
「だが、霊夢。まだ可能性は残っている」
「な、何?」
事ここに至って、ようやく藍の真剣さが理解できた。霊夢も真剣に、藍の言葉に耳を傾ける。
「お前だよ、霊夢」
「え? 私が何?」
「わかっているだろう、紫様の目を覚まさせてやるには――紫様が常日頃からかわいがっている、お前が、紫様を説得するしかない」
「え……ま、まあその、確かに紫は私に色々ちょっかいかけてくるけど」
式神の口からとは言え、ここまで率直に紫から好意があることを伝えられると、さすがの霊夢も何と言えばいいのかわからなくなる。元々、紫の好意の伝え方がかなり回りくどく胡散臭いから、なおさらである。
なぜか頬が熱くなるのを感じながら、霊夢はとにかく話を続けることにした。
「でも藍、私が紫の説得をするだけで済むのなら、別にこんなに勿体つけなくてもよかったんじゃないの?」
「いや……確かに、お前が何にも捉われない、無重力の巫女であることは重々承知しているさ。お前なら、今の紫様を見ても、もしかしたら耐えられるかも知れない。
けど、もしも紫様を見て、一目で魅了されてしまえば」
「ああなるほど」
面と向かって、いきなりメロメロになってしまったら、説得のしようもないということか。
「そこでだ」
「うん」
「お前を、一人前のレディーに仕立てあげようと思う」
「はい?」
なんで?
「目には目を、歯には歯を、そして美しさには美しさを――わかるか、霊夢?
自分の美しさに何よりも自信を持ってしまえば、相手がどんなに美しくても、恐るるに足りず。
そしてお前の美しさに、紫様が魅了されてしまえば――紫様は、目を覚まさざるを得ないということ」
「ちょ、ちょちょちょっと待ってよ、じゃあ私じゃなくてもいいじゃない!」
「いいや、お前じゃないといけない! 紫様の最愛の人であるお前こそが、このプロジェクトにふさわしい!」
「さ、さささ最愛!? い、いやそれよりもプロジェクトって何? 藍、なんかノリがだいぶおかしいわよ!?」
「頼む、霊夢……お前しかいないんだ。幻想郷を……いや、紫様を救えるのは……!」
「え……本当に?」
「本当の本気だとも。決めるんだ、霊夢……紫様を救うか、それとも……」
――確かに、霊夢は乗り気では無かった。だが。
そこまで言われると――さすがに、それ以上を言わせるわけにはいかなかった。
「わかったわ、藍……私、美しくなるわ!」
/
それからというもの、血で血を洗うような日々が繰り広げられた。
「はい、ワンツー、ワンツー! 本当に美しい女は、研ぎ澄まされた肉体を持っているものよ!」
「ワンツー、ワンツー! 左、右、左、右!」
「腋が空いてるぞ、もっと腋を締めて!」
「ていうかなんでボクシング!? こういうのってエアロビとかダンスとか!?」
どんなに厳しい修行を前にしても、霊夢は決して逃げなかった。
「うん、霊夢は元々姿勢がいいから、こういう芸事はすぐに物になるな」
「いや、それはいいんだけど、このまったりとした上等すぎるお茶はもう飲み飽きたんだけど? 普通のお茶が恋しい……」
「む……まあいい。ただし一杯だけよ。これが済んだら、次は華道だからね」
「はいはい。あー、博麗神社の縁側が恋しいわ」
時には障害もあった。だが、二人で力を合わせて乗り越えた。
「霊夢……お前は、どんどん美しくなるな」
「そ、そう? まあ、随分熱心にコーチしてもらってるからね。紫のためでもあるし」
「そ、そうだな。紫様のため……」
「藍? どうしたのよ?」
「なあ、霊夢……もし、この戦いが終わったら、私と――」
「え……何? 藍……あんた、何を」
「い、いや! なんでも無いんだ! さ、さあ、次の修行を始めるぞ!」
「藍……いいの? 言わなくて……」
「全ては紫様のためだ! ……今は、そう思っておいてくれ」
そして、長かった修行も、やがて終わりを迎え――
「服、良し。身のこなし、良し。髪の手入れ、肌の手入れ……良し」
「ここまで……よく頑張ったな、霊夢」
「……うん、本当に、長かったわ」
「いや、一週間だけどね」
「あんたがハードなスケジュール組むから、とてつもなく長く感じたのよ」
「いや、冗談のつもりでやったら、本当に一週間でクリアしてしまったもんだから。さすがに驚いた」
「……まあいいわ」
「おやおや、霊夢も丸くなったな」
「ええ……なんか、全然腹が立たないのよね。これが、心まで美しくなるってことなのかしら――」
「そう、そうね……よし、行こう!」
ついに、決戦の時を迎える――!!
/
その頃幻想郷は、ほぼ完全に紫に支配されていた。
「紫様ー」「紫様―」「キャー紫様ー」「紫様素敵、結婚してくれー」「てめえ何言ってやがる表出やがれ」「そうよ紫様は永遠の少女よ、誰の物にもなっちゃいけないのよ」「ゆかりん踏んでー! その美脚で踏んでくださいー!」「ゆかりんの踏み台とな、それは譲れないな!」「馬鹿かお前ら、ゆかりんは指先の美しさこそが至高だろうが」「はぁ!? おっぱい最強に決まってんだろ!?」「貴様、紫様を邪な目で見たな、素っ首斬り落としてくれる」「このにわかどもが、美脚とかおっぱいとか」「そうさ、そんなもんじゃないだろ」「そうだ、紫様は」「その全てが美しいんだ」「もはや、私たちの脳から出る言葉ごときで」「説明できるもんじゃない……!」
紫ファンで埋め尽くされた小高い丘の上で、紫の周りだけは、ぽっかりと空白が空いていた。
当然だ、紫ファンにとっては――これ以上、紫に近づくのは、恐れ多くてできやしない。
ただ、紫が何か欲しいものを呟いた時に限り、周囲の人妖たちがいち早く動き、我先にとそれを献上する。
今もまた、紫が所望したヴィンテージワインを、十六夜咲夜が持ってきたところだった(ワインを用意する時に限り、咲夜は誰よりも早く動いた)。
紫は丘の上で、ただ一人、勝利の美酒を口にする。
「……ふう」
一つ溜め息をつけば、それだけで群衆が揺れた。比喩でもなんでもなく幻想郷に地震を起こすほどのどよめき。
今や、紫の一挙手一投足によって、幻想郷は左右される。
それもそのはず――八雲紫は、藍の前に現れた頃よりも、さらに美しくなっていたのだ。全幻想郷に信仰されることによって、紫の美しさは、もはや神聖を通り越して、異次元の領域にまで踏み込んでいた。
だが――
「本当に、これで、良かったのかしら」
紫が作り上げた「美しい八雲紫」は、確かに、その美しさを証明することを欲した。
だが――紫の考える美しさは、本当に、これで正しかったのか。
美しい紫に支配された幻想郷は――果たして、美しいと言えるものなのだろうか――
「いいわけないでしょ、この馬鹿」
「!?」
玲瓏な水晶を思わせる、凛とした声。
ざざざ、と人波が揺れた。そして、その少女がいる場所を境に、人垣が二つに割れていった。
紫が視線を向ける。
そこには――
「待たせたわね、紫」
そこにいたのは、霊夢。
いつもの巫女服を着て、いつものように堂々とした、いつも通りの霊夢だった。
「お待たせしました、紫様」
「藍!?」
霊夢の姿に目を引かれた隙を突き、藍が、紫の背後から声をかけた。
紫は、藍のほうに振り返ろうとして――
振り返ることが、できない。
霊夢の様子から、目を離せない。
「紫様、私は……もっと、霊夢には着飾ってほしかったんですよ。極上のドレスや着物をいくつも用意しましたし、化粧の方法も完璧に教え込みました」
「う……」
「しかし、紫様の前に出る段階で、霊夢はそれを拒んだ……何故だと思いますか?」
「う、うう、ううう」
「そう、霊夢が自ら望んだんです……紫様には、有りのままの自分を見てほしいと」
「うううううううううううう……!!」
「――さあ、覚悟しろ、八雲紫。目を凝らし、耳を澄ませて、その全身で感じ取るがいい――あなたの目の前にいる人間こそが、他の誰でも無い、博麗霊夢だ」
その、藍の声に弾かれたかのように――
ふらふらと、紫は霊夢に歩み寄った。まるで、美しい花に誘われる蝶のように。
その、紫の目の前にいる霊夢は――
ほんの少し、いつもの霊夢よりは、気合が入っていた。
ほんの少し、肌が綺麗になっていた。
ほんの少し、髪が綺麗になっていた。
ほんの少し、服の着こなしが綺麗になっていた。
ほんの少し――表情が、佇まいが、綺麗になっていた。
博麗霊夢は――紫にとっては、最初から美しく、可愛らしかった博麗霊夢は。
博麗霊夢のままで、より美しくなって、紫の前に現れたのだ――
「ねえ、紫」
「……はい」
霊夢の呼びかけに、紫は、素直に頷くばかりであった。
この――文句のつけようのない、どこから見ても博麗霊夢でしかない、そんな霊夢を前にして。
紫が、魅了されずにいられるわけが無かったのだ。
「本当のあなたを、私に見せて」
「……はい!」
その瞬間、全ては元通りに戻った。
まるで、十二時に魔法が解けてしまった、シンデレラのように。
美しすぎた八雲紫は、元の八雲紫に戻っていく。
だが――
「霊夢……」
「やっと帰ってきたわね、紫」
「ああ、霊夢、ごめんなさい。私、なんてことを……!」
「いいのよ。あなたが正気に戻ってくれたなら、それだけでいいの」
霊夢にすがりつく紫を見て――
周囲にいる、紫が大好きでたまらなかったはずの人妖たちは――
美しいと、思った。
寄り添うこの二人を、本当に美しいと――何も疑うことなく、そう思ったのだった。
そうだ。この二人はきっと、こうあるべきだったんだ。
誰もが、そう思った時――
紫が、霊夢の顔を見て。
決心と共に、呟いたのだ。
「ねえ、霊夢……お願いがあるの」
「なに?」
「……結婚、しましょう?」
「お断りよ」
「「「「「「ええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」」」」」」
「ちょ、な、みんなしてうるさいわね!? そんな全員で怒鳴らなくてもいいじゃない!?」
あまりといえばあまりの展開に、全幻想郷がブーイングを垂れた。
「だってお前」「せっかく美しかったのに」「そこまで行ったら結婚しろよ」「ていうかなんであれを断れるのよ」「やっぱり博麗の巫女は人間じゃない、その血は氷精よりも冷たいに違いない……!」「ていうかつまんねー! そこはハッピーエンドで締めとけよー!」「博麗霊夢、そう、貴方は少しノリが悪すぎる!」「無重力ったって限度があるだろうよ……!」「けーっこん! けーっこん! けーっこん!」
「だああ、うるさいうるさい、いきなり結婚なんて言われても頷けるわけないでしょ! ほら、あんたら元通りになったんでしょうが、だったらさっさと散りなさいよ!」
「あ、巫女が逃げようとしてるぞ!」「霊夢、それはちょっと往生際が悪いんじゃないか?」「そうだ、もう結婚するまでは許さないぞ!」「そりゃいいや、よし、霊夢をとっ捕まえよう!」「そうだな、無理やりにでも結婚式をあげてしまえば……!」「なら式は私が進行しましょう、お寺でも仏式の結婚式は挙げられますから!」「ほらほら霊夢、逃げ場はないよ、どうするのさ!?」
「よぉしわかった、あんたらみんなまとめて、かかってきなさい! 全員残らず、張り倒してやるんだから!!」
そのまま、無し崩しに弾幕戦に突入してしまった。
最初は霊夢一人対、他の全員という構図だったのだが、元より幻想郷の面々にチームワークなんてあって無いようなものである。すぐに、誰が敵で誰が味方か区別がつかない、しっちゃかめっちゃかの大乱戦に突入してしまう。
その、大乱戦を、はたから見ながら。
藍は、紫に、穏やかに話しかけた。
「紫様……残念でしたね」
「ふふ……振られちゃったわ、本当に残念ね」
「で、どうします?」
「決まってるわ」
いつも通りに、胡散臭い笑みを浮かべながら、紫は乱戦のほうに視線を向ける。
誰が誰やらわからないほどの、大乱戦。
だが紫の眼は、確かに、霊夢の姿を正確に捉えていた。
「藍、行くわよ。式として、存分に役割を果たしなさい」
「仰せの通りに。勝手に乱戦に混じってる橙にも、手伝わせるとしましょう」
そして紫と藍は、揃って飛んだ。
大乱戦の中、迷うことなく、すいすいと目標に進んでいく。
その向こうで。
妖怪退治の専門家、天下無敵の紅白の巫女。
博麗霊夢が、生き生きと、思う存分に暴れていた。
「さあ霊夢、改めて勝負よ! 私の美しい弾幕を、打ち破って御覧なさいな!」
「上等! あんたの弾幕なんてもう見慣れてるのよ、どこからでもかかってきなさい!」
そう答える、霊夢の姿こそが。
この日、一番、美しかったのだった。
紫が気まぐれを起こしただけだった。
/
幻想郷の端っこ、普通ではたどり着けない境界の狭間に八雲の家はある。
ある朝、藍はいつもと変わらず、美味しい朝食を作っていた。藍と橙の二人分である。
紫は基本的に夜行性であり、しかも睡眠時間が長いため、朝起きてくることは皆無と言っていい。だから、藍自身の朝食と、マヨヒガに住む橙の分を作れば、それでいつもなら事足りた。
そのいつもの朝が、いつも通りでは無くなったのは、朝食を作り始めてからすぐのことだった。
「あれ……紫様が起きた? こんなに朝早くに?」
紫と藍は、式神の絆で繋がっている。藍の心身の状況はだいたい紫に伝わるし、その逆も然りである。
変だな、と思い、藍は紫の状態を式神の絆で確認する。もしも主に異常があるなら、式神として力にならなければいけない。
異常は、無かった。
だがそれは、異常といえば異常であった。
「え、なんでこんな絶好調なの?」
思わず、朝食を作る手を止める。
あの、寝るのがとっても大好きな八雲紫が。
起き抜けに絶好調。
なんでまた。
「はて……?」
「おはよう、藍。いつも朝からご苦労様ね」
と、疑問に思っているうちに、紫が台所に足を踏み入れた。
藍は咄嗟に振り向こうとして――
「…………んっ」
ふと。
振り向こうとしたのを、必死で押しとどめた。
「……藍? どうしたのかしら?」
「あ、いえ、その。おはようございます、紫様」
と、あくまで背を向けたまま、藍は考える。
……なぜ、自分は振り向くのを躊躇った?
藍は瞬時に、全力で思考を回転させる――自分が今、何に、違和感を覚えたか。
違和感? もちろん今の状況は、違和感だらけには違いない。
あの紫が、朝から現れたのだ。
しかも、なぜかすこぶる快調らしい。
その上、台所に立つ藍に向かって、爽やかな挨拶を――
――そうだ、それだ。
藍は思い至った。
紫の声が、あまりに、爽やかすぎることに――あの、幻想郷胡散臭さ選手権堂々の第一位を守り続ける紫の、声が。
これは。
何かの。
異変ではないだろうか――
「紫、様」
「なあに、藍」
「お願いが、ございます……三歩、後ろに、下がってもらえないでしょうか」
「おかしな藍ね。三歩も下がったら、お台所から出てしまうわ」
「では――では、一歩だけ、でも、構いません」
欲を言えば、三歩分の距離と、時間が欲しかった。
だが、今の紫から三歩を引き出すのは難しい――ならば一歩だ、それで覚悟を決めなければ――
「わかったわ。なら、一歩だけ下がってあげる……そうしたらあなたは」
「はい、わかっています……ちゃんと振り向いて、挨拶をさせていただきます」
「いい子ね、藍。それじゃあ――」
はい、一歩――
「紫様――!」
藍は振り向く。
視線を向けた先――確かに足音の通り、一歩下がったところの――
――女神がいた。
あまりにも美しい、女神がいたのだ。
「おはよう、藍」
――幻想郷には八百万の神々が住まわっており、それら全ての神がまごうことなき美しさ、神々しさを持っている。だが、目の前にいる女神はそれら全ての神と比較してさえ、なお霞んでしまうほどに美しかった。金砂の髪はまるで星の光で編んだ極上の織物のようであり、白いかんばせはいかなる芸術でも届きはしない至高の造形としか思えず、薄紅色の唇は神聖さと妖艶さという矛盾する属性の同居を許しており、流麗な線形を描く鼻のラインはかわいらしさを一層際立てており、そして切れ長のまぶたと、その奥にある紫色の瞳に至っては、もう全存在を魅了せんばかりの魔眼だとしか思えない――!
「おはよう、ございます、紫、様……!」
――ならばこそ。
それを真っ向から見て、耐えきった藍の自制心こそ、褒め称えられるべきだろう。
おそらくそれは、紫と長年連れ添っていた藍だからこそ可能となった究極の自制。あの、桁外れの力と技と頭脳を持ちながら、その能力を惜しみなく悪戯に使い続ける紫と、長年一緒だった藍にしか不可能な所業だったに違いない。
「藍。朝ごはん、作ってるのね。私も手伝っていいかしら」
――この方は、まごうことなく八雲紫様だ。
――否、これは紫ではない――違う妖怪だと、思わなければ耐えられない。
二つの相反する想いを抱えたまま、藍は必死で言葉を絞り出した。
「それなのですが、紫様。私は、急用を、思い出しました」
「あら、そうなの?」
「はい、ですから、朝ごはんを作るのは――」
申し訳ないが、遠慮させてください――と、言おうとしたつもりだったのに。
「そう。じゃあ、私が続きを作っちゃうわね」
「っ…………!」
それは、つまり。
今、藍が考えている、策を実行するならば。
橙はどうしても、犠牲にしなければならないということ――
「藍、いいかしら?」
「はい、お願いします……私の分は、結構ですから……!」
「わかったわ。それじゃ、久しぶりに張り切っちゃおうかしら♪」
「っ――!」
自分の限界を自覚して、藍は紫のすぐそばをすれ違い、一目散に駆け出した。
仕方が無かった。あれ以上紫と一緒にいれば、藍は耐えられなくなる――全く抵抗が敵わないまま、紫に魅了され、魂を捧げることさえ惜しく無くなってしまうのだから。
だが、ああ――紫が朝ごはんを作れば、それは誰が食べる? 決まっている、紫と橙だ――橙はあの紫を目の前にして、美味しい朝食を振る舞われてしまう、耐えられる確率は完全にゼロだ――そして藍は、何としても、橙を助けにいくわけにはいかない。
ダッシュの勢いのまま玄関を開け、藍は家を飛び出した。
紫の美しさに半分やられた心で、それでも藍は悲しみに襲われた。だが涙は流さない、橙を犠牲にすると決めたのは自分なのだから――自らを苛む怒りと悲しみを胸に、藍は全速力で飛んだ。
/
第二の犠牲者は、朝から博麗神社を訪れていた霧雨魔理沙だった。
「あれ? 霊夢、いないのかー……? なんだ、神社の様子が変だな?」
おかしいなと思いながら、勝手知ったる親友の神社を調べてみる。
「うーん、神社自体が荒らされてるわけじゃないけど、ただ霊夢が留守なだけってわけでも無いな……なんか、微妙にふすまが開けっ放しだったり、お茶が入れっぱなしだったりするし」
マリーセレスト号……にしては中途半端な生活感の残し方だ。だが、変なことには違いない。
と、魔理沙が推理を働かせようとしたところに――
「犯人は藍ですわ。あの子ったら、どういうつもりかしら」
なぜか胡散臭さを感じない、美しい声が聞こえた。
誰の声かは丸わかりなのに、胡散臭さを感じなかったのだ。
魔理沙は、藍よりは迂闊だった……その違和感に気付けないまま、声の美しさに釣られて、素直に振り向いてしまったのだ。
「おはよう、魔理沙。今朝は良い天気ね」
「あぁ――……」
何の覚悟も無く。
その、あまりにも美しい紫を見て。
霧雨魔理沙は、骨の髄まで、奪われてしまった。
「おはようだぜ、紫……いや、紫様」
何の疑いも無く、魔理沙は膝をついた。そうするのが当たり前だとしか思えなかった。人は本当の美しさを前にすれば、頭を下げ目を伏せるのが当然だ。そのことを、魔理沙は今、学ぶことができた。
その気品溢れながらも親しみやすい御姿にもっと近づきたいと、魔理沙は膝をついたまま顔をあげ、手を差し出す。淀みなく、紫がその美しい手を、魔理沙の手の上に置いた。傍らに控える橙が嫉妬の余りに飛び出しそうになるのを、紫がもう片方の手で制していた。
魔理沙はためらわず、紫の手の甲に、唇を乗せた。
/
全ては、驚くほど速やかに行われた。
孤高を守る美しい人形遣いが、恭しくこうべを垂れた。
我が道を生きることのみに熱心な天人が、感動のあまり涙を流した。
唯我独尊を信じて疑わない吸血鬼が、一瞬で敗北を認めた。
人間の上に立ち、人間の味方になるために蘇った聖人が、自ら軍門に下った。
人間が、妖怪が、神が、妖精が、妖獣が、仙人が、天人が、月人が。
次から次へと、ただ一人の妖怪に、一目で魅了されていった。
――こんなにも簡単に。
一人の妖怪によって、瞬く間に、幻想郷は侵略されたのだ――
/
「……というわけよ。理解してくれたか?」
「そもそも、なんでこんなアホなことになったのよ?」
真剣極まりない様子の藍に、霊夢が至極もっともなツッコミを入れた。
あの後、紫の元から離れた藍は、真っ先に霊夢を誘拐したのだ。全ては、霊夢を紫の魔の手から救うため――ひいては、幻想郷を救うために。
そしてその後、紫に見つからないように幻想郷の様子をうかがい続け――それまで完全に疑っていた霊夢は、ようやく納得した。
「うむ。それについては推測の域を出ないが……おそらくは、紫様が気まぐれを起こして」
「うんうん、あいつはいつもそうよね」
「自分の美しさの境界を操って、あのチートな美しさを手に入れてしまったんだと思う」
「アホかあいつは」
霊夢の容赦無いツッコミに、藍もまた同意せざるを得ない。
「うん、けど大事なのはここからなの」
「は? ほとんど説明したようなもんじゃないの」
「違う。ただそれだけなら、紫様自身が、元の姿に戻ればそれで済む話よ」
「うん、まあそうね」
その通り、紫の気まぐれなら、紫が自分でやめればそれで済む。
だから霊夢も、紫を弾幕でぶちのめして、強制的に元に戻させようと思っていたのだが。
「紫様は……おそらく前夜、寝る前にその能力を使ったんだ。そして、目が覚めた次の日に悪戯しに行こうと、そう思っていた」
「あいつの考えそうなことよね……ていうか、今がその状況でしょ?」
「違う。わかるか、霊夢……身も心も美しくなりすぎた紫様は、朝、きちんと起床したのだ」
「はあ」
霊夢にとって早寝早起きは普通に習慣になっているので、それが美しいと言われてもピンと来ない。まあ、そういう考え方もあるのかも知れない、とだけ思っておいた。
「そして朝起きた紫様は、顔を洗おうとした」
「!? ま、まさか!?」
「そう、鏡を見てしまったんだ……!」
つまり何か。
紫はその時、鏡に映った自分の顔を見て。
そのあまりの美しさに魅了されてしまい、自分に操られてしまったということに――
「あ、アホじゃないのあいつ!?」
「全くもって否定しようがないのがつらいところだ……だがな霊夢、考えてもみろ」
「何よ!? こんな馬鹿な話、他に無いじゃない――」
「そのアホ極まりない状況によって、幻想郷が滅びようとしているんだ――!」
「――――!?」
いくらなんでも――と否定しようとして、できなくなった。幻想郷がどういう状況かは、さっき確認した通りだったから。
「だが、霊夢。まだ可能性は残っている」
「な、何?」
事ここに至って、ようやく藍の真剣さが理解できた。霊夢も真剣に、藍の言葉に耳を傾ける。
「お前だよ、霊夢」
「え? 私が何?」
「わかっているだろう、紫様の目を覚まさせてやるには――紫様が常日頃からかわいがっている、お前が、紫様を説得するしかない」
「え……ま、まあその、確かに紫は私に色々ちょっかいかけてくるけど」
式神の口からとは言え、ここまで率直に紫から好意があることを伝えられると、さすがの霊夢も何と言えばいいのかわからなくなる。元々、紫の好意の伝え方がかなり回りくどく胡散臭いから、なおさらである。
なぜか頬が熱くなるのを感じながら、霊夢はとにかく話を続けることにした。
「でも藍、私が紫の説得をするだけで済むのなら、別にこんなに勿体つけなくてもよかったんじゃないの?」
「いや……確かに、お前が何にも捉われない、無重力の巫女であることは重々承知しているさ。お前なら、今の紫様を見ても、もしかしたら耐えられるかも知れない。
けど、もしも紫様を見て、一目で魅了されてしまえば」
「ああなるほど」
面と向かって、いきなりメロメロになってしまったら、説得のしようもないということか。
「そこでだ」
「うん」
「お前を、一人前のレディーに仕立てあげようと思う」
「はい?」
なんで?
「目には目を、歯には歯を、そして美しさには美しさを――わかるか、霊夢?
自分の美しさに何よりも自信を持ってしまえば、相手がどんなに美しくても、恐るるに足りず。
そしてお前の美しさに、紫様が魅了されてしまえば――紫様は、目を覚まさざるを得ないということ」
「ちょ、ちょちょちょっと待ってよ、じゃあ私じゃなくてもいいじゃない!」
「いいや、お前じゃないといけない! 紫様の最愛の人であるお前こそが、このプロジェクトにふさわしい!」
「さ、さささ最愛!? い、いやそれよりもプロジェクトって何? 藍、なんかノリがだいぶおかしいわよ!?」
「頼む、霊夢……お前しかいないんだ。幻想郷を……いや、紫様を救えるのは……!」
「え……本当に?」
「本当の本気だとも。決めるんだ、霊夢……紫様を救うか、それとも……」
――確かに、霊夢は乗り気では無かった。だが。
そこまで言われると――さすがに、それ以上を言わせるわけにはいかなかった。
「わかったわ、藍……私、美しくなるわ!」
/
それからというもの、血で血を洗うような日々が繰り広げられた。
「はい、ワンツー、ワンツー! 本当に美しい女は、研ぎ澄まされた肉体を持っているものよ!」
「ワンツー、ワンツー! 左、右、左、右!」
「腋が空いてるぞ、もっと腋を締めて!」
「ていうかなんでボクシング!? こういうのってエアロビとかダンスとか!?」
どんなに厳しい修行を前にしても、霊夢は決して逃げなかった。
「うん、霊夢は元々姿勢がいいから、こういう芸事はすぐに物になるな」
「いや、それはいいんだけど、このまったりとした上等すぎるお茶はもう飲み飽きたんだけど? 普通のお茶が恋しい……」
「む……まあいい。ただし一杯だけよ。これが済んだら、次は華道だからね」
「はいはい。あー、博麗神社の縁側が恋しいわ」
時には障害もあった。だが、二人で力を合わせて乗り越えた。
「霊夢……お前は、どんどん美しくなるな」
「そ、そう? まあ、随分熱心にコーチしてもらってるからね。紫のためでもあるし」
「そ、そうだな。紫様のため……」
「藍? どうしたのよ?」
「なあ、霊夢……もし、この戦いが終わったら、私と――」
「え……何? 藍……あんた、何を」
「い、いや! なんでも無いんだ! さ、さあ、次の修行を始めるぞ!」
「藍……いいの? 言わなくて……」
「全ては紫様のためだ! ……今は、そう思っておいてくれ」
そして、長かった修行も、やがて終わりを迎え――
「服、良し。身のこなし、良し。髪の手入れ、肌の手入れ……良し」
「ここまで……よく頑張ったな、霊夢」
「……うん、本当に、長かったわ」
「いや、一週間だけどね」
「あんたがハードなスケジュール組むから、とてつもなく長く感じたのよ」
「いや、冗談のつもりでやったら、本当に一週間でクリアしてしまったもんだから。さすがに驚いた」
「……まあいいわ」
「おやおや、霊夢も丸くなったな」
「ええ……なんか、全然腹が立たないのよね。これが、心まで美しくなるってことなのかしら――」
「そう、そうね……よし、行こう!」
ついに、決戦の時を迎える――!!
/
その頃幻想郷は、ほぼ完全に紫に支配されていた。
「紫様ー」「紫様―」「キャー紫様ー」「紫様素敵、結婚してくれー」「てめえ何言ってやがる表出やがれ」「そうよ紫様は永遠の少女よ、誰の物にもなっちゃいけないのよ」「ゆかりん踏んでー! その美脚で踏んでくださいー!」「ゆかりんの踏み台とな、それは譲れないな!」「馬鹿かお前ら、ゆかりんは指先の美しさこそが至高だろうが」「はぁ!? おっぱい最強に決まってんだろ!?」「貴様、紫様を邪な目で見たな、素っ首斬り落としてくれる」「このにわかどもが、美脚とかおっぱいとか」「そうさ、そんなもんじゃないだろ」「そうだ、紫様は」「その全てが美しいんだ」「もはや、私たちの脳から出る言葉ごときで」「説明できるもんじゃない……!」
紫ファンで埋め尽くされた小高い丘の上で、紫の周りだけは、ぽっかりと空白が空いていた。
当然だ、紫ファンにとっては――これ以上、紫に近づくのは、恐れ多くてできやしない。
ただ、紫が何か欲しいものを呟いた時に限り、周囲の人妖たちがいち早く動き、我先にとそれを献上する。
今もまた、紫が所望したヴィンテージワインを、十六夜咲夜が持ってきたところだった(ワインを用意する時に限り、咲夜は誰よりも早く動いた)。
紫は丘の上で、ただ一人、勝利の美酒を口にする。
「……ふう」
一つ溜め息をつけば、それだけで群衆が揺れた。比喩でもなんでもなく幻想郷に地震を起こすほどのどよめき。
今や、紫の一挙手一投足によって、幻想郷は左右される。
それもそのはず――八雲紫は、藍の前に現れた頃よりも、さらに美しくなっていたのだ。全幻想郷に信仰されることによって、紫の美しさは、もはや神聖を通り越して、異次元の領域にまで踏み込んでいた。
だが――
「本当に、これで、良かったのかしら」
紫が作り上げた「美しい八雲紫」は、確かに、その美しさを証明することを欲した。
だが――紫の考える美しさは、本当に、これで正しかったのか。
美しい紫に支配された幻想郷は――果たして、美しいと言えるものなのだろうか――
「いいわけないでしょ、この馬鹿」
「!?」
玲瓏な水晶を思わせる、凛とした声。
ざざざ、と人波が揺れた。そして、その少女がいる場所を境に、人垣が二つに割れていった。
紫が視線を向ける。
そこには――
「待たせたわね、紫」
そこにいたのは、霊夢。
いつもの巫女服を着て、いつものように堂々とした、いつも通りの霊夢だった。
「お待たせしました、紫様」
「藍!?」
霊夢の姿に目を引かれた隙を突き、藍が、紫の背後から声をかけた。
紫は、藍のほうに振り返ろうとして――
振り返ることが、できない。
霊夢の様子から、目を離せない。
「紫様、私は……もっと、霊夢には着飾ってほしかったんですよ。極上のドレスや着物をいくつも用意しましたし、化粧の方法も完璧に教え込みました」
「う……」
「しかし、紫様の前に出る段階で、霊夢はそれを拒んだ……何故だと思いますか?」
「う、うう、ううう」
「そう、霊夢が自ら望んだんです……紫様には、有りのままの自分を見てほしいと」
「うううううううううううう……!!」
「――さあ、覚悟しろ、八雲紫。目を凝らし、耳を澄ませて、その全身で感じ取るがいい――あなたの目の前にいる人間こそが、他の誰でも無い、博麗霊夢だ」
その、藍の声に弾かれたかのように――
ふらふらと、紫は霊夢に歩み寄った。まるで、美しい花に誘われる蝶のように。
その、紫の目の前にいる霊夢は――
ほんの少し、いつもの霊夢よりは、気合が入っていた。
ほんの少し、肌が綺麗になっていた。
ほんの少し、髪が綺麗になっていた。
ほんの少し、服の着こなしが綺麗になっていた。
ほんの少し――表情が、佇まいが、綺麗になっていた。
博麗霊夢は――紫にとっては、最初から美しく、可愛らしかった博麗霊夢は。
博麗霊夢のままで、より美しくなって、紫の前に現れたのだ――
「ねえ、紫」
「……はい」
霊夢の呼びかけに、紫は、素直に頷くばかりであった。
この――文句のつけようのない、どこから見ても博麗霊夢でしかない、そんな霊夢を前にして。
紫が、魅了されずにいられるわけが無かったのだ。
「本当のあなたを、私に見せて」
「……はい!」
その瞬間、全ては元通りに戻った。
まるで、十二時に魔法が解けてしまった、シンデレラのように。
美しすぎた八雲紫は、元の八雲紫に戻っていく。
だが――
「霊夢……」
「やっと帰ってきたわね、紫」
「ああ、霊夢、ごめんなさい。私、なんてことを……!」
「いいのよ。あなたが正気に戻ってくれたなら、それだけでいいの」
霊夢にすがりつく紫を見て――
周囲にいる、紫が大好きでたまらなかったはずの人妖たちは――
美しいと、思った。
寄り添うこの二人を、本当に美しいと――何も疑うことなく、そう思ったのだった。
そうだ。この二人はきっと、こうあるべきだったんだ。
誰もが、そう思った時――
紫が、霊夢の顔を見て。
決心と共に、呟いたのだ。
「ねえ、霊夢……お願いがあるの」
「なに?」
「……結婚、しましょう?」
「お断りよ」
「「「「「「ええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」」」」」」
「ちょ、な、みんなしてうるさいわね!? そんな全員で怒鳴らなくてもいいじゃない!?」
あまりといえばあまりの展開に、全幻想郷がブーイングを垂れた。
「だってお前」「せっかく美しかったのに」「そこまで行ったら結婚しろよ」「ていうかなんであれを断れるのよ」「やっぱり博麗の巫女は人間じゃない、その血は氷精よりも冷たいに違いない……!」「ていうかつまんねー! そこはハッピーエンドで締めとけよー!」「博麗霊夢、そう、貴方は少しノリが悪すぎる!」「無重力ったって限度があるだろうよ……!」「けーっこん! けーっこん! けーっこん!」
「だああ、うるさいうるさい、いきなり結婚なんて言われても頷けるわけないでしょ! ほら、あんたら元通りになったんでしょうが、だったらさっさと散りなさいよ!」
「あ、巫女が逃げようとしてるぞ!」「霊夢、それはちょっと往生際が悪いんじゃないか?」「そうだ、もう結婚するまでは許さないぞ!」「そりゃいいや、よし、霊夢をとっ捕まえよう!」「そうだな、無理やりにでも結婚式をあげてしまえば……!」「なら式は私が進行しましょう、お寺でも仏式の結婚式は挙げられますから!」「ほらほら霊夢、逃げ場はないよ、どうするのさ!?」
「よぉしわかった、あんたらみんなまとめて、かかってきなさい! 全員残らず、張り倒してやるんだから!!」
そのまま、無し崩しに弾幕戦に突入してしまった。
最初は霊夢一人対、他の全員という構図だったのだが、元より幻想郷の面々にチームワークなんてあって無いようなものである。すぐに、誰が敵で誰が味方か区別がつかない、しっちゃかめっちゃかの大乱戦に突入してしまう。
その、大乱戦を、はたから見ながら。
藍は、紫に、穏やかに話しかけた。
「紫様……残念でしたね」
「ふふ……振られちゃったわ、本当に残念ね」
「で、どうします?」
「決まってるわ」
いつも通りに、胡散臭い笑みを浮かべながら、紫は乱戦のほうに視線を向ける。
誰が誰やらわからないほどの、大乱戦。
だが紫の眼は、確かに、霊夢の姿を正確に捉えていた。
「藍、行くわよ。式として、存分に役割を果たしなさい」
「仰せの通りに。勝手に乱戦に混じってる橙にも、手伝わせるとしましょう」
そして紫と藍は、揃って飛んだ。
大乱戦の中、迷うことなく、すいすいと目標に進んでいく。
その向こうで。
妖怪退治の専門家、天下無敵の紅白の巫女。
博麗霊夢が、生き生きと、思う存分に暴れていた。
「さあ霊夢、改めて勝負よ! 私の美しい弾幕を、打ち破って御覧なさいな!」
「上等! あんたの弾幕なんてもう見慣れてるのよ、どこからでもかかってきなさい!」
そう答える、霊夢の姿こそが。
この日、一番、美しかったのだった。
ビバゆかれいむ!
二人が結婚したらその神々しさに藍も含めて全員また魅了されて……
戦う乙女は美しい。それが乱闘ならなお美しい……はず!
閻魔も魅了する美しさ……なんて恐ろしいんだ……!
ほんの少し気合いの入った博麗さんパネェ。
けれど、最後はそのままコメディ路線を突っ走ってほしかった。
他の作品も読んでくる。
幻想郷を支配した紫、どう収集つけると気になりました。
次々と自分の予想の上を行く展開もまた、読んでいて楽しかったです。
>3さん
あくまでゆかれいむということで一つ。しかしレイランの可能性も、ほんの少しくらいはあってもいいかも。
>奇声を発する程度の能力さん
次もそう言っていただけるよう頑張ります。
>7さん
ビバゆかれいむ! 語呂がいいですね。
>ペ・四潤さん
幻想郷はゆかれいむの光に包まれた……
>17さん
おっしゃる通りです!
>久々さん
くだらなさ全開で突っ走りました。書いてて楽しかったです。
>21さん
ごもっともです。今回はノリに任せすぎました。今度ギャグを書く機会があれば、もっとオチをひねりたいと思います。
>28さん
ゆかれいむ万歳! 閻魔様も、美しいものには弱いのかも知れません。
>30さん
もう、博麗霊夢だから、というだけで説明が要らなさそうで怖いですね!
>34さん
ゆかれいむの美しさは至高です!
>38さん
大乱闘の中であっても、生き生きと輝いてる霊夢が好きです。
>44さん
次の機会があれば、もっとコメディ路線に突き抜けたいと思います。
>楽郷 陸さん
ノリに任せたら、自分でも思わぬ方にどんどんネタが転がってくれました。
>48さん
YES、ゆかりんは女神!
ラストは霊夢らしく、とても良かった。