◇
これは、わたしことフランドール専属メイド三号が、特大の地雷を踏んだ日のこと。
その日はフランドール様の調子が良く――悪く言えば「躁」状態で――それとなくは警戒していたのだが、まさか扉をノックしただけで信管が炸裂するなんて。
「しつれいいたしま」
「わーっ! だめ、ちょっと待って入らないで!!」
扉を開ける寸前、中から慌てた声が聞こえてくる。
辛うじて開けるのを踏みとどまってドアノブから手を離し、一呼吸する。正直こちらも驚いてしまったのだが、それにしてもフランドール様は一体何をしている途中なのだろうか。裸ぐらい見慣れているから今さらだしなぁ。
あれこれ思考をめぐらしていると、中から「い、いいよ」と待ったが解除される。
「では改めまして、失礼いたします」
とりあえず平静のまま入室する。
中は特に変わった様子はない。テーブルの上が少々散らかっているくらいか。フランドール様はベッドの上に居て、やたらとこちらを注視してくる。その視線といったら、まるで何かがバレていやしないだろうかと確認しているような素振りだ。ううんまさしく隠し事してますといった様子。
まあ、隠したいならあえて触れないようにしよう。というわけで素知らぬふりを続けてティーセットをテーブルの端に置く。
「お茶の時間です。今日はダージリンだそうです」
作法に則って準備を進める。パチュリー様が開発した「温度を高温に保っておくティーポッド」のおかげでいつでも淹れ立てを用意することが出来る。元々はご自身のために作ったものだが今や紅魔館の給仕の必需品となっているのだ。反面使うこちらとしては行う作業が増えるのだが、お茶を淹れるのには手間をかけるほど良い結果が出るので万事オーライ。全ては巡りよく回っている。
後は葉を蒸して淹れるだけ。その間にポッドからお湯を注いでカップを熱しておくのだが、さっきからもじもじとしていたフランドール様がようやく顔を上げてこちらへと近づき着席する。そしてお行儀悪く両肘をついて、前のめりにこちらのことを見上げてくる。
「ねえ三号、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「館のことでしょうか?」
「違うよ。どちらかというと、三号自身のこと」
む、それは返答に困る。
本音としてはこのままお茶とお菓子を楽しみつつ五時間だろうと一日だろうとおしゃべりをしてあげたいところですが、残念ながらここへは仕事をしに来ている。親密さは必要だ。けれど過剰なものはわたし自身を滅ぼしかねない。環境を壊してしまうからだ……いや半分ほどは自滅なのですが。
「職務中ですので、簡単なトコロでしたら」
リミッターということで先にけん制を出しておく。
するとフランドール様は、「うん、じゃあ一つだけ」と言って、口元を手で隠し。
「三号はさ。誰かとネチョいこと、したことある?」
――静かに、爆弾じみた質問を炸裂させた。
そ、そんなトンデモネーことをさらりと聞かないで欲しい。っていうか、なんでいきなりネチョいなんて単語が飛び出してくるのか。
言葉を捜しているわたしを見て、フランドール様がくすりと微笑む。
「したことがない、のかな?」
「……お恥ずかしながら、誰かとそういったこともしたことがなければ、そういう関係になることもありませんでした」
というか妖精に限って言えば、そんな人間たちの真似事をするのはごく一部だ。ここで未経験を告白するわたしは健全、品行方正、清く正しい一妖精であることをアピールしておきたい。こういうことに関しては。
大体、こんな幼い容姿の子がそんな……ごにょごにょなコトを話題に上げればそりゃあ狼狽もする。ええしますとも。相手の方が何百歳も年上だと分かっていても、無邪気なまま踏み入れてはいけない場所というのは存在するのだ。
ここは一つ、そこはもうちょっと大人になってからにしましょうねと嗜めようと口を開きかけるが、それより先にフランドール様が――顎に人差し指を当てて、とても嗜虐的な笑みを浮かべる。
「私はね、したことあるよ」
爆弾、第二射。実害はないんだけど冷静な思考が裸足で逃げ出した。
「い、いやいやいや、あるんですか!?」
「あの時はまだ自分について色々分からなかった頃だから、ちょっとした弾みでこう、ぶちゅーって。でもそれっきりかな」
よ、よかった。最悪の事態は回避されていたのか。これで色んな人とその……関係を持っていたりなんかしたら、ああもうそんな仮定を考えるのさえ恐ろしい。
「もう、あんまりからかわないでくださいよぅ。そういう吃驚はなしで」
……ん、あれ? フランドール様の視線がずっと絡み付いてくる。
見つめあったまま、ゆっくりとした動作でフランドール様が立ち上がる。表情はずっと危なめの笑顔のまま……じりじりこちらに近づいてくる。
「あの。何か」
「本当に妖精って疎いんだね。でもその鈍さもまた可愛い」
がばっと、フランドール様が急に飛び掛ってくる!
辛うじてかわすものの、硬直した身を無理やり投げ出したため、ベッドの方へと逃げてしまった――いや、違う。フランドール様はわざと、わたしがこちらへ逃げるように仕向けてきたのだ。
ヤバい、キレられた時とはまた違う危機感に汗が吹き出る。
「ちょっと、冗談でしょう? そういうイケナイのは門番の睡眠時間だけにしてください!」
「冗談に見える?」
いいえちっとも。だから冗談にして欲しいんだってば。
藁をも掴む思いでベッドの上を探り、飛び越えて距離を取ろうとする。しかし、そこでまたしても地雷を探り当ててしまう。
皺くちゃなシーツに残っている、ある痕跡。
ふと、入室した時のやりとりを思い出す。慌てるくらいの隠し事。
そして極めつけに、絶賛発情中のフランドール様。
ふ、ふふ、ふふふふふ。謎は全て解けちゃった――!
「気づいた? 調子がいい時はね……すごく、えっちな気分になるんだ」
この現場では、自慰行為が行われていたッ!!?
だめだ。色々と手遅れだ。っていうか突拍子も無いわけじゃなくって、綺麗に文脈は繋がっていたんだ。わたしはそれに気づかず、自ら地雷原に飛び込んでしまっただけ。
驚愕の事実に、ベッドの前でへたり込んでしまうわたし。しかしフランドール様は背後に迫っている!
「ストップ! いけませんフランドール様そういう無理強いは良くないです」
「大丈夫。私が三号もノリノリにさせてあげるから」
「いーりーまーせーんー」
「ふうん、三号は私のことキライ?」
「好きです。だから止めましょう止めてください!」
「あー、そういうこと言うんだー。分かった、その意思はくみ取りましょう」
「ほ、ほんとですか?」
「三号は私のことを安易に傷つけたくないくらいに好き、と」
よかった、ちゃんと誠意は伝わった。
「――じゃあその上で、どのくらい頑張れるかいじめちゃおうかな」
しかし、まわりこまれてしまった!
そんな力技に勝てるわけがない。どうしろって言うんですか、ちょっ、ダメ近づいて来ないで――!
「はいはいここで空気を読まずにお邪魔しまーす」
と、本当にギリギリのタイミングで、間の抜けた声と共に救世主が現れる――すんでの所で夜伽的な展開は回避されたのであった。
救世主は門番の紅美鈴さん。色とりどりの花で飾られた花瓶を抱えて、実にやる気がなさそうに待ったをかけてくれる。
「フランドール様、妖精という種族は本当にそういうトコロに弱いので、もうそれで勘弁してやってくださいませんか? 過剰なストレスになってしまいますから」
そんなやんわりとした断りで止まるのだろうかと一瞬焦るか、フランドール様はふうんと身を引いて両腕を組む。
「ううん。そっかぁ、そうだよね。
分かった。ごめんね三号、ヘンなことしちゃって」
しかも謝ってくる。一体今の言葉のどこに、暴走したフランドール様を止めだけの威力があったというのか。
とにかく助かったので一安心。本来なら、ご期待に添えられずモウシワケアリマセンと言うべきなのだが、あんまりにも胸が驚いているためまともな思考ができない。
「……ほんとにごめんね?」
「い、いえ。はい。ごめんなさいわたしにはちょっと」
「お茶はいいから、ちょっと休んできて」
え? と思うのも一瞬。すぐに美鈴さんが「では、出ましょう」とティーセットを持ってドアへと向かう。すぐに立ち上がり、わたしも後に続いて退室する。
しばらく歩くと、美鈴さんが立ち止まって廊下の真ん中でティーカップに紅茶を注ぐ。で、それをわたしにさし出してくる。
「はい。とりあえずこれ飲んで落ち着いてください」
「い、いいんですか?」
「無くなってた方がいいでしょ。んー、じゃあちょっと失礼して」
と言って、美鈴さんは一度ティーカップを引っ込めて、そのまま口元へと運んで飲みほしてしまう。
で、再度紅茶を注いでどうぞとさし出してくる。
……ここまで来たらもう我慢するのも何なので、ありがとうございますと受け取って紅茶を飲む。時間が経っているため色々とめちゃくちゃだけど、喉は潤う。思いの外乾いていたのでほぼ一気に飲み干してしまった。
それを見届けた美鈴さんは、うんと頷いてティーセットをわたしに持たせる。
「これは内緒ということで。無理そうだったら今日はそのまま休んでもいいですから」
それでは。と美鈴さんは颯爽と去って行ってしまう。
……今にして思えば、なんとうまく落ち着かせてくれたことか。ううん寝てばっかりと思ってごめんなさい。ちゃんと仕事してたし、やれるんですね。
結局その日は、とにかく一旦自室に戻って休憩してから、再び通常業務に戻った。以来、時たまエロい冗談を言われることはあるけど、これほどのピンチに陥ることはなくなったのでした。
◇
月日というものはどうしたところでも、止まれ止まれと願っていたとしても巡ってしまうものである。ただ、わたしはフランドール様のお世話をするようになってから、そうした時の重みを忘れがちになってしまっているようだ。
ある日、珍しくもレミリアお嬢様のお部屋に呼び出されたわたしは、そこで一人のメイドと引きあわされた。
「これが、ウチの中でも古株のメイドの一人だよ。こいつには名前があって、私は三号と呼んでいる」
どう聞いても名前っぽくない。それは向こうも感じてくれたようで、目を細めてわたしのことを観察してくる。
ではわたしも失礼して――そのメイドさんは妖精ではないらしく、姿かたちを見る限りは美鈴さんに近い。少女か大人かと訊かれたらどちらかと言うと大人と答えてしまいそうな容姿で、銀色の髪を三つ編みにしてさげており、とても凛とした空気を纏って紅魔館のメイド制服をバッチリ着こなしている。ミニ丈にはなってますが。
さて。ではこちらから。
「初めまして。三号と申します」
すると、向こうも腰を折って挨拶をしてくる。
「初めまして。私は十六夜咲夜と申します」
オイ。この自己紹介の差をどうしてくれるんだ。名前一つでここまで違うとは。
そんなわたしの心境を察することなく、レミリアお嬢様はこちらへと向き直って咲夜さんのことを紹介してくれる。
「この度、咲夜には新しいメイド長に就いてもらうことになった」
……ここで思考が少し停止。えっと、たしかわたしをフランドール様のお世話へと引きずり込んだのは前の前のメイド長で。前のメイド長って……どんなんだっけ?
「そこで三号に、一つ仕事を頼みたい」
「なんでしょうか」
「引き継ぎはほぼ終わっているけど、フランドールについてはまだ教えていない。だから、咲夜にフランドールのことを教えてやってちょうだい」
……なるほど。フランドール様のお世話について殆どわたしに任せきりだった前のメイド長にやらせるより、わたしにやらせた方がいい。ということか。
「承知いたしました。ところで、お名前をお持ちということは、咲夜さんは妖精ではないのでしょうか?」
「ああ。咲夜は人間だよ」
またしても驚かされる。
紅魔館は、人間の間で評判が悪い。そりゃあ放っておけば人間を食しまくる吸血鬼の根城なのだから、悪く言って当然だ。誰だって食べられたくない。
そんな場所にやってきて、メイド長を務める人間も意外ならば、任命してしまう方もどうかしている。まさか非常食にでもするのだろうか。
「咲夜はとても優秀だ。野放しにするにも、食べてしまうにも、勿体ないからね。私の傍に置くことにしたんだ」
こちらの思考を読んだかのような発言は、半分だけ信じておくことにする。正直なところ気まぐれなお嬢様のことなので、次の日には居なくなっていても不思議ではない。優秀もどの程度をさすのかは疑問だ。
とまあ。そういうのはおいおい分っていくので。今は咲夜メイド長にこの館の重大機密を教えなくてはならない。
「では咲夜さん。さっそくですが地下区へ行きましょう」
「はい。よろしくお願いします」
そんなわけで、二人で退室して屋敷の地下へ。
地下への階段を降りながら……ああやだわたしあの時の名前のないメイド長みたいと思いつつ、まず相手の認識を確認する。
「フランドール様については、どの程度をご存知で?」
「名前と、妹様というところだけです」
ああ、それはいいかもしれない。不穏なうわさの数々を聞いていたわたしと違って、この人は情報に毒されていない。素直な理解をしてくれそうだ。
「では初めに。フランドール様はとても気を病んでおられます。それゆえこの四百年ほどをずうっと地下に引きこもって暮らしています」
「幽閉でもされているのですか?」
「わたしも初めはそう思いましたが、地下から出ないのはご自身の意思によるものです。まあ存在自体も秘密なので、軟禁と言えばそうなりますが」
「やはり秘密なのですね。それはどの程度まで公開してもよいのですか?」
「紅魔館に住んでいる、名前を持つ者までです。おそらくパチュリー様は二番目くらいに詳しいので、機会があれば訊ねてみることをお勧めします。わたしとはまた違ったことを教えてくれるはずです」
「分りました。それで、気が病んでいるとは?」
「鬱病というのはご存知ですか?」
「聞いたことがある、という程度です」
「フランドール様はその発展形の症状なので、説明するのがとても難しいのです」
マジで難しいので、今からフランドール様と直に会って知ってもらおう。あと顔も覚えてもらおう。という趣旨でさあいざ部屋の前。
ノックをしてから、呼びかけてみる。
「フランドール様。新しいメイド長が赴任いたしましたので、少し紹介させていただいてもよろしいでしょうか?」
しかし、中から返事が聞こえてこない。
もぞもぞと動く気配はあるので起きては居るのだろうけれど。ううむ鬱転していたか?
再度呼びかけると、扉のすぐ近くから声が聞こえてくる。
「……どうせ名前のない妖精でしょ。いい、別に要らない」
「それが。この度赴任いたしましたのは十六夜咲夜という、人間のお方でして」
どのあたりがまずかったのかは分らない。
しかし部屋の中からはどたばたと物音が聞こえ「尚更要らない!」と怒鳴り声があがる。
うん、まずい。さくせんは→いのちをだいじに。
「失礼いたしました……ごめんなさい咲夜さん、顔合わせはまた今度ということで」
「いえ、見てきましたから。後は詳しい説明だけお願いします」
え、扉も開けてないのに見てきたとはこれ如何に?
ともかく引き返して一旦わたしの部屋へと移動する。
それから、フランドール様についてわたしの知っている限りを咲夜さんへと説明する。全て聞き終えてから、何かご質問はありますかとテンプレートな文句をつけておくと、ご丁寧に質問が返ってくる。
「それでは少し。レミリアお嬢様は、妹様には甘いのでしょうか」
……それは、なんだ。とても難しい質問なんだ。
「わたしが見る限りでは、程々に厳しいかと思います」
それを聞いた咲夜さんは、なぜか顎をつまんで考え込む。
「フランドール様自身は今の状況をどうお考えなのでしょうか」
「どうでしょう。わたしではこれと言えません」
「外に出させようとしたことはありますか?」
「お断りになられました。というか実行に移すとまずレミリアお嬢様の手でわたしが消滅します。一応は禁止という形となっているそうです」
……あれ、なんでだろ。咲夜さんの雰囲気がとても刺々しい。
分りました。と告げた咲夜さんは「質問は以上です」と打ち切るのだけれど、咲夜さん自身が何か言いたそうな顔をしていた。
色々聞いて思うところができたのか、口にすることを躊躇っているのか。
「どう、思われましたか?」
さりげなく言うように促してみると、メイド長からは呆れのため息が漏れた。
「いえ、とても甘やかされているのだなと」
「……もう一度最初からご説明しましょうか?」
「けっこうです。というか自覚がないのですか? 自らの意思で長く地下に引きこもるだなんて、甘えていると思いませんか?」
――それは、どうなんだろうか。
確かに、甘えて引きこもって何もしないというのは性質が悪い。今のフランドール様が置かれている状況も、ほぼそう言ってしまえるだろう。
けれどもわたしは、そうですねと同意する言葉が喉に引っかかってしまった。
そういう見方もあるだろう。しかし。
「というのは私の所感です。お伝えするのは三号さんだけですので、以後の対応をどうするか、その判断はお任せします」
「あれ、てっきり率先してお世話するものだと思いましたが」
「したいのは山々です。しかしそれをあなたが否と判断されるのであれば、私が出しゃばっても何の益もないでしょう」
……熱血路線かと思いきや、とてもクールな思考をしている。ここでわたしがお願いしますとなんて言わない限り、彼女は本当にそういった態度を余所で出さないだろう。
で、わたしはどうすべきなのだろうか。
甘え、という見方は今まで考えたこともなかった。もしフランドール様が実際にそうであるのなら、咲夜さんに任せてみるのもありかもしれない。
よし、返事は。
「――それはまた今度お伝えします」
保留で。
だって、同意が喉に引っかかってそのまま取れない。そんなものを安易に吐き出してはならないと、そこそこついた経験値がわたしに語りかけてくる。
咲夜さんはそれを了承してくれた。ううむ、この後フランドール様の部屋へ行って作戦会議をしなければならない。主に一人で。
「ところで。先ほどフランドール様を見たと仰っていたあれは」
「ああ。私、時を止められるのです」
とてもさらりと種を明かしてくれた。ってなんじゃそりゃ。
「え? まさか時間を止めて、気付かれないまま顔だけ確認したと」
「はい。ですので私が目障りだとあれば、お顔合わせはしなくてもいいです。ちなみに、フランドール様は金髪の、七色の羽をもつ吸血鬼ですね?」
「……合ってます」
ところでなんか。言葉の端々に何かがが混ざっているような。
断られたことがショックなのだろうか。繊細なんだか図太いんだかよく分らない。
そしてさくせんを変えるべくフランドール様のお部屋へ。ノックをして失礼しますと中へ入る。
部屋の中はものの見事に散らかっており、フランドール様は椅子に座って半身を机に預けてぐったりしていた。よかった、少しは落ち着いている。ちょっと暴れて一息ついたといったところだろうか。
しかし。甘えかどうかだなんてどう判断したものだろうか。
とりあえず部屋を片付けを始めると、フランドール様がのっそりと上体を起こす。
「さっきのメイド長。どうやってこの部屋に入ってきたの?」
「あれ、気付かれていたんですか?」
時間を止めた。その言葉通りわたしは全然気がつかなかったから、バレてないものだと思っていたのに。
「最近、破壊の目が急に位置を変える事が多い――あれは自然のものだからいつも同じ所にあるんじゃなくってずっと移動しているんだけど、それがいきなり飛ぶことがあるの。さっきも飛んだから、メイド長が何かをした……でしょ」
まさか、そんな理由で見破っていたとは。
「はい。時間を止めることができるのだそうです」
それを聞いたフランドール様が少し考え込む。
「……ふうん。三号、それはきっと能力の一部だよ」
「こんなすごい能力なのに、ただの一部なんですか?」
これが一部分とか。本当の力は時間を吹き飛ばすとか無限の回転とか終わりがないのが終わりとかそんな感じなのだろうか。
「そいつの力が発揮された時、主に時間を止めたであろう瞬間なんだけど、動かない破壊の目と飛んでる破壊の目があった。多分メイド長の能力は、空間に関係しているんじゃないかな? 普通の三次元空間に時間を足して考える空間を四次元空間っていうんだけど、この四つ目の時間の次元軸上の空間を切り貼りしてるんじゃないかな。そしてメイド長だけがその切り貼りの前後を自由に動くことができる。だから時が止まったように見えるだけで、実際の時間次元軸は通常通りに動いている。でないと、三号の破壊の目だけ動かなかったのに理由がつけられない」
難しすぎてついていけない。っていうか、壁越しでも見えてしまうんですね破壊の目。
「だから、そいつの力は四つの次元の間で空間を操ることがメイン。
これは勝手な予測なんだけど、現在の時間軸上なら結構自由にできるんじゃないかな。屋敷に入ったと思ったら地下の図書館に入っていた。なんてこともできると思う」
「ま、まさかそんなことは――」
ああでも、色々とショートカットできたら便利だろうな。なんて思ってしまったり。
っと。こんな話ができるっていうことはフランドール様自身の調子は良いはずなんだけれど、話し終わるとまた頬が机に戻っていってしまった。
「ねえ、三号」
「いかがなさいましたか」
「そのメイド長。絶対にこの部屋に入れないで」
……ここまで強い拒絶は初めてだ。
分りました。そう、とりあえずは承諾しておくものの、できることならその理由も伺っておきたい。でないと、説明に苦労する。
「どこかお気に障りました……って覗き見とか障りまくりですね」
「それはまあ、見なかったことにしてもいいよ。これはそれとは別の問題だから」
ううん理由は訊けそうにない。フランドール様の調子が明らかに落ちつつある。プリプリ怒って文句を言うのはまだいい方で、こんな風にどこか諦めたような、黄昏ている時が危ないのだ。そのままどんどん沈み込んでいってしまう。
仕方なく掃除を続行しながら考え事を進めていく。
調子が落ちている。かといって持ち上げようとしたところで、どれだけアクティブな言葉をかけたとしても無意味になるだろう。元気出してと言われて少しでも元気が出るならこんな苦労はしていない。鬱の状態のフランドール様には、そんな当たり前のことでさえできなくなってしまう。
当たり前のことができなくなる。というのはかなり想像に苦しむ議題である。目が見えないとか、耳が聞こえないとか、そういう感覚的な喪失は一時的に疑似体験ができるので想像することは簡単な方だ。それ比べて精神的な喪失のなんとむずかしいことか。わたし自身、フランドール様と接するまで「元気が出ない」という症状の本質を理解することができなかった。
例えるならこんな感じだろうか。ある日突然、熱中していたことに覚めてしまうような感じ。
何でもいい。好きな食べ物を美味しいと感じなくなった。面白い本が急に頭の中に入らなくなった。いつも通っている道をやたら冷静に眺めた。などなど。
今まで熱のこもっていたものが冷めていってしまう時の、触れる喜びを知っているのにそれを一切得られなくなってしまう、あの嫌な気持ち。
普通ならそれを気のせいだと誤魔化すことができるだろう。そして、しばらく距離を置いてまた熱を込める事が出来る。
でもそれを、自分自身に感じたとしたら?
自分という、己にとって最もかけがえのないものを、何だこれと本気で冷めてしまったら?
――わたしは、少なくとも甘えというのは己に向けられているものだと思っている。
フランドール様は、いいや鬱というのは、どちらかと言うなら真逆のベクトルによるものではなかろうか。
普通の人はそんなことが起こるだなんて夢にも思わないだろう。だからこそ鬱は病気と呼ばれ、知らない人に勘違いされてしまうのだ。
――うん。咲夜さんへの返事は決まった。やはりフランドール様のお世話はわたし一人がメインでやっていこう。
思考がそんな結論に来た所で部屋の片づけもほぼ終わる。さて、ティータイムのお時間なので上へ行って紅茶を用意してきましょう。
部屋を出て、あれなんで咲夜さんがここに?
「お茶のお時間です。これを出してください」
と、こちらが驚くのも構わず、すでに準備されたセットを渡して、そのままどこかへと消えて行ってしまう。
……もしかして、フランドール様が仰ったように空間を操ったのだろうか。
なるほどこちらの能力がメインだと言うのがよく分った。瞬間移動じみたこともできてしまうのか。
まあラッキーと思いつつ、ちゃんと血が入ってることを確認してからフランドール様にお出しする。
すると一口飲んでから。
「……これ、三号が用意したんじゃないんでしょう?」
「はい。もしかして、不味かったですか」
「美味しすぎるの」
うれしいようなうれしくないような理由で看破されてしまった。
返事はノーと咲夜さんに告げたのはその後なんだけど、結果オーライというか惨事が起こる一歩手前であったことがその後に分った。
咲夜さんの仕事ぶりは、前代や前々代のメイド長とは比にならないくらい優秀だった。
屋敷には埃一つ落ちてないし、お食事の質も格段に向上した。さらに時空を操る能力によって屋敷内のスペースが有効活用されて、間取りが少し広くなった。
……間違いなく咲夜さんは強いお方だ。それは実力というよりは、在り方そのものが。
おそらく彼女の勘違いは、どれだけ指摘したところで理解してもらえないだろう。お二人が衝突しなければよいのだけれど。
これは、わたしことフランドール専属メイド三号が、特大の地雷を踏んだ日のこと。
その日はフランドール様の調子が良く――悪く言えば「躁」状態で――それとなくは警戒していたのだが、まさか扉をノックしただけで信管が炸裂するなんて。
「しつれいいたしま」
「わーっ! だめ、ちょっと待って入らないで!!」
扉を開ける寸前、中から慌てた声が聞こえてくる。
辛うじて開けるのを踏みとどまってドアノブから手を離し、一呼吸する。正直こちらも驚いてしまったのだが、それにしてもフランドール様は一体何をしている途中なのだろうか。裸ぐらい見慣れているから今さらだしなぁ。
あれこれ思考をめぐらしていると、中から「い、いいよ」と待ったが解除される。
「では改めまして、失礼いたします」
とりあえず平静のまま入室する。
中は特に変わった様子はない。テーブルの上が少々散らかっているくらいか。フランドール様はベッドの上に居て、やたらとこちらを注視してくる。その視線といったら、まるで何かがバレていやしないだろうかと確認しているような素振りだ。ううんまさしく隠し事してますといった様子。
まあ、隠したいならあえて触れないようにしよう。というわけで素知らぬふりを続けてティーセットをテーブルの端に置く。
「お茶の時間です。今日はダージリンだそうです」
作法に則って準備を進める。パチュリー様が開発した「温度を高温に保っておくティーポッド」のおかげでいつでも淹れ立てを用意することが出来る。元々はご自身のために作ったものだが今や紅魔館の給仕の必需品となっているのだ。反面使うこちらとしては行う作業が増えるのだが、お茶を淹れるのには手間をかけるほど良い結果が出るので万事オーライ。全ては巡りよく回っている。
後は葉を蒸して淹れるだけ。その間にポッドからお湯を注いでカップを熱しておくのだが、さっきからもじもじとしていたフランドール様がようやく顔を上げてこちらへと近づき着席する。そしてお行儀悪く両肘をついて、前のめりにこちらのことを見上げてくる。
「ねえ三号、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「館のことでしょうか?」
「違うよ。どちらかというと、三号自身のこと」
む、それは返答に困る。
本音としてはこのままお茶とお菓子を楽しみつつ五時間だろうと一日だろうとおしゃべりをしてあげたいところですが、残念ながらここへは仕事をしに来ている。親密さは必要だ。けれど過剰なものはわたし自身を滅ぼしかねない。環境を壊してしまうからだ……いや半分ほどは自滅なのですが。
「職務中ですので、簡単なトコロでしたら」
リミッターということで先にけん制を出しておく。
するとフランドール様は、「うん、じゃあ一つだけ」と言って、口元を手で隠し。
「三号はさ。誰かとネチョいこと、したことある?」
――静かに、爆弾じみた質問を炸裂させた。
そ、そんなトンデモネーことをさらりと聞かないで欲しい。っていうか、なんでいきなりネチョいなんて単語が飛び出してくるのか。
言葉を捜しているわたしを見て、フランドール様がくすりと微笑む。
「したことがない、のかな?」
「……お恥ずかしながら、誰かとそういったこともしたことがなければ、そういう関係になることもありませんでした」
というか妖精に限って言えば、そんな人間たちの真似事をするのはごく一部だ。ここで未経験を告白するわたしは健全、品行方正、清く正しい一妖精であることをアピールしておきたい。こういうことに関しては。
大体、こんな幼い容姿の子がそんな……ごにょごにょなコトを話題に上げればそりゃあ狼狽もする。ええしますとも。相手の方が何百歳も年上だと分かっていても、無邪気なまま踏み入れてはいけない場所というのは存在するのだ。
ここは一つ、そこはもうちょっと大人になってからにしましょうねと嗜めようと口を開きかけるが、それより先にフランドール様が――顎に人差し指を当てて、とても嗜虐的な笑みを浮かべる。
「私はね、したことあるよ」
爆弾、第二射。実害はないんだけど冷静な思考が裸足で逃げ出した。
「い、いやいやいや、あるんですか!?」
「あの時はまだ自分について色々分からなかった頃だから、ちょっとした弾みでこう、ぶちゅーって。でもそれっきりかな」
よ、よかった。最悪の事態は回避されていたのか。これで色んな人とその……関係を持っていたりなんかしたら、ああもうそんな仮定を考えるのさえ恐ろしい。
「もう、あんまりからかわないでくださいよぅ。そういう吃驚はなしで」
……ん、あれ? フランドール様の視線がずっと絡み付いてくる。
見つめあったまま、ゆっくりとした動作でフランドール様が立ち上がる。表情はずっと危なめの笑顔のまま……じりじりこちらに近づいてくる。
「あの。何か」
「本当に妖精って疎いんだね。でもその鈍さもまた可愛い」
がばっと、フランドール様が急に飛び掛ってくる!
辛うじてかわすものの、硬直した身を無理やり投げ出したため、ベッドの方へと逃げてしまった――いや、違う。フランドール様はわざと、わたしがこちらへ逃げるように仕向けてきたのだ。
ヤバい、キレられた時とはまた違う危機感に汗が吹き出る。
「ちょっと、冗談でしょう? そういうイケナイのは門番の睡眠時間だけにしてください!」
「冗談に見える?」
いいえちっとも。だから冗談にして欲しいんだってば。
藁をも掴む思いでベッドの上を探り、飛び越えて距離を取ろうとする。しかし、そこでまたしても地雷を探り当ててしまう。
皺くちゃなシーツに残っている、ある痕跡。
ふと、入室した時のやりとりを思い出す。慌てるくらいの隠し事。
そして極めつけに、絶賛発情中のフランドール様。
ふ、ふふ、ふふふふふ。謎は全て解けちゃった――!
「気づいた? 調子がいい時はね……すごく、えっちな気分になるんだ」
この現場では、自慰行為が行われていたッ!!?
だめだ。色々と手遅れだ。っていうか突拍子も無いわけじゃなくって、綺麗に文脈は繋がっていたんだ。わたしはそれに気づかず、自ら地雷原に飛び込んでしまっただけ。
驚愕の事実に、ベッドの前でへたり込んでしまうわたし。しかしフランドール様は背後に迫っている!
「ストップ! いけませんフランドール様そういう無理強いは良くないです」
「大丈夫。私が三号もノリノリにさせてあげるから」
「いーりーまーせーんー」
「ふうん、三号は私のことキライ?」
「好きです。だから止めましょう止めてください!」
「あー、そういうこと言うんだー。分かった、その意思はくみ取りましょう」
「ほ、ほんとですか?」
「三号は私のことを安易に傷つけたくないくらいに好き、と」
よかった、ちゃんと誠意は伝わった。
「――じゃあその上で、どのくらい頑張れるかいじめちゃおうかな」
しかし、まわりこまれてしまった!
そんな力技に勝てるわけがない。どうしろって言うんですか、ちょっ、ダメ近づいて来ないで――!
「はいはいここで空気を読まずにお邪魔しまーす」
と、本当にギリギリのタイミングで、間の抜けた声と共に救世主が現れる――すんでの所で夜伽的な展開は回避されたのであった。
救世主は門番の紅美鈴さん。色とりどりの花で飾られた花瓶を抱えて、実にやる気がなさそうに待ったをかけてくれる。
「フランドール様、妖精という種族は本当にそういうトコロに弱いので、もうそれで勘弁してやってくださいませんか? 過剰なストレスになってしまいますから」
そんなやんわりとした断りで止まるのだろうかと一瞬焦るか、フランドール様はふうんと身を引いて両腕を組む。
「ううん。そっかぁ、そうだよね。
分かった。ごめんね三号、ヘンなことしちゃって」
しかも謝ってくる。一体今の言葉のどこに、暴走したフランドール様を止めだけの威力があったというのか。
とにかく助かったので一安心。本来なら、ご期待に添えられずモウシワケアリマセンと言うべきなのだが、あんまりにも胸が驚いているためまともな思考ができない。
「……ほんとにごめんね?」
「い、いえ。はい。ごめんなさいわたしにはちょっと」
「お茶はいいから、ちょっと休んできて」
え? と思うのも一瞬。すぐに美鈴さんが「では、出ましょう」とティーセットを持ってドアへと向かう。すぐに立ち上がり、わたしも後に続いて退室する。
しばらく歩くと、美鈴さんが立ち止まって廊下の真ん中でティーカップに紅茶を注ぐ。で、それをわたしにさし出してくる。
「はい。とりあえずこれ飲んで落ち着いてください」
「い、いいんですか?」
「無くなってた方がいいでしょ。んー、じゃあちょっと失礼して」
と言って、美鈴さんは一度ティーカップを引っ込めて、そのまま口元へと運んで飲みほしてしまう。
で、再度紅茶を注いでどうぞとさし出してくる。
……ここまで来たらもう我慢するのも何なので、ありがとうございますと受け取って紅茶を飲む。時間が経っているため色々とめちゃくちゃだけど、喉は潤う。思いの外乾いていたのでほぼ一気に飲み干してしまった。
それを見届けた美鈴さんは、うんと頷いてティーセットをわたしに持たせる。
「これは内緒ということで。無理そうだったら今日はそのまま休んでもいいですから」
それでは。と美鈴さんは颯爽と去って行ってしまう。
……今にして思えば、なんとうまく落ち着かせてくれたことか。ううん寝てばっかりと思ってごめんなさい。ちゃんと仕事してたし、やれるんですね。
結局その日は、とにかく一旦自室に戻って休憩してから、再び通常業務に戻った。以来、時たまエロい冗談を言われることはあるけど、これほどのピンチに陥ることはなくなったのでした。
◇
月日というものはどうしたところでも、止まれ止まれと願っていたとしても巡ってしまうものである。ただ、わたしはフランドール様のお世話をするようになってから、そうした時の重みを忘れがちになってしまっているようだ。
ある日、珍しくもレミリアお嬢様のお部屋に呼び出されたわたしは、そこで一人のメイドと引きあわされた。
「これが、ウチの中でも古株のメイドの一人だよ。こいつには名前があって、私は三号と呼んでいる」
どう聞いても名前っぽくない。それは向こうも感じてくれたようで、目を細めてわたしのことを観察してくる。
ではわたしも失礼して――そのメイドさんは妖精ではないらしく、姿かたちを見る限りは美鈴さんに近い。少女か大人かと訊かれたらどちらかと言うと大人と答えてしまいそうな容姿で、銀色の髪を三つ編みにしてさげており、とても凛とした空気を纏って紅魔館のメイド制服をバッチリ着こなしている。ミニ丈にはなってますが。
さて。ではこちらから。
「初めまして。三号と申します」
すると、向こうも腰を折って挨拶をしてくる。
「初めまして。私は十六夜咲夜と申します」
オイ。この自己紹介の差をどうしてくれるんだ。名前一つでここまで違うとは。
そんなわたしの心境を察することなく、レミリアお嬢様はこちらへと向き直って咲夜さんのことを紹介してくれる。
「この度、咲夜には新しいメイド長に就いてもらうことになった」
……ここで思考が少し停止。えっと、たしかわたしをフランドール様のお世話へと引きずり込んだのは前の前のメイド長で。前のメイド長って……どんなんだっけ?
「そこで三号に、一つ仕事を頼みたい」
「なんでしょうか」
「引き継ぎはほぼ終わっているけど、フランドールについてはまだ教えていない。だから、咲夜にフランドールのことを教えてやってちょうだい」
……なるほど。フランドール様のお世話について殆どわたしに任せきりだった前のメイド長にやらせるより、わたしにやらせた方がいい。ということか。
「承知いたしました。ところで、お名前をお持ちということは、咲夜さんは妖精ではないのでしょうか?」
「ああ。咲夜は人間だよ」
またしても驚かされる。
紅魔館は、人間の間で評判が悪い。そりゃあ放っておけば人間を食しまくる吸血鬼の根城なのだから、悪く言って当然だ。誰だって食べられたくない。
そんな場所にやってきて、メイド長を務める人間も意外ならば、任命してしまう方もどうかしている。まさか非常食にでもするのだろうか。
「咲夜はとても優秀だ。野放しにするにも、食べてしまうにも、勿体ないからね。私の傍に置くことにしたんだ」
こちらの思考を読んだかのような発言は、半分だけ信じておくことにする。正直なところ気まぐれなお嬢様のことなので、次の日には居なくなっていても不思議ではない。優秀もどの程度をさすのかは疑問だ。
とまあ。そういうのはおいおい分っていくので。今は咲夜メイド長にこの館の重大機密を教えなくてはならない。
「では咲夜さん。さっそくですが地下区へ行きましょう」
「はい。よろしくお願いします」
そんなわけで、二人で退室して屋敷の地下へ。
地下への階段を降りながら……ああやだわたしあの時の名前のないメイド長みたいと思いつつ、まず相手の認識を確認する。
「フランドール様については、どの程度をご存知で?」
「名前と、妹様というところだけです」
ああ、それはいいかもしれない。不穏なうわさの数々を聞いていたわたしと違って、この人は情報に毒されていない。素直な理解をしてくれそうだ。
「では初めに。フランドール様はとても気を病んでおられます。それゆえこの四百年ほどをずうっと地下に引きこもって暮らしています」
「幽閉でもされているのですか?」
「わたしも初めはそう思いましたが、地下から出ないのはご自身の意思によるものです。まあ存在自体も秘密なので、軟禁と言えばそうなりますが」
「やはり秘密なのですね。それはどの程度まで公開してもよいのですか?」
「紅魔館に住んでいる、名前を持つ者までです。おそらくパチュリー様は二番目くらいに詳しいので、機会があれば訊ねてみることをお勧めします。わたしとはまた違ったことを教えてくれるはずです」
「分りました。それで、気が病んでいるとは?」
「鬱病というのはご存知ですか?」
「聞いたことがある、という程度です」
「フランドール様はその発展形の症状なので、説明するのがとても難しいのです」
マジで難しいので、今からフランドール様と直に会って知ってもらおう。あと顔も覚えてもらおう。という趣旨でさあいざ部屋の前。
ノックをしてから、呼びかけてみる。
「フランドール様。新しいメイド長が赴任いたしましたので、少し紹介させていただいてもよろしいでしょうか?」
しかし、中から返事が聞こえてこない。
もぞもぞと動く気配はあるので起きては居るのだろうけれど。ううむ鬱転していたか?
再度呼びかけると、扉のすぐ近くから声が聞こえてくる。
「……どうせ名前のない妖精でしょ。いい、別に要らない」
「それが。この度赴任いたしましたのは十六夜咲夜という、人間のお方でして」
どのあたりがまずかったのかは分らない。
しかし部屋の中からはどたばたと物音が聞こえ「尚更要らない!」と怒鳴り声があがる。
うん、まずい。さくせんは→いのちをだいじに。
「失礼いたしました……ごめんなさい咲夜さん、顔合わせはまた今度ということで」
「いえ、見てきましたから。後は詳しい説明だけお願いします」
え、扉も開けてないのに見てきたとはこれ如何に?
ともかく引き返して一旦わたしの部屋へと移動する。
それから、フランドール様についてわたしの知っている限りを咲夜さんへと説明する。全て聞き終えてから、何かご質問はありますかとテンプレートな文句をつけておくと、ご丁寧に質問が返ってくる。
「それでは少し。レミリアお嬢様は、妹様には甘いのでしょうか」
……それは、なんだ。とても難しい質問なんだ。
「わたしが見る限りでは、程々に厳しいかと思います」
それを聞いた咲夜さんは、なぜか顎をつまんで考え込む。
「フランドール様自身は今の状況をどうお考えなのでしょうか」
「どうでしょう。わたしではこれと言えません」
「外に出させようとしたことはありますか?」
「お断りになられました。というか実行に移すとまずレミリアお嬢様の手でわたしが消滅します。一応は禁止という形となっているそうです」
……あれ、なんでだろ。咲夜さんの雰囲気がとても刺々しい。
分りました。と告げた咲夜さんは「質問は以上です」と打ち切るのだけれど、咲夜さん自身が何か言いたそうな顔をしていた。
色々聞いて思うところができたのか、口にすることを躊躇っているのか。
「どう、思われましたか?」
さりげなく言うように促してみると、メイド長からは呆れのため息が漏れた。
「いえ、とても甘やかされているのだなと」
「……もう一度最初からご説明しましょうか?」
「けっこうです。というか自覚がないのですか? 自らの意思で長く地下に引きこもるだなんて、甘えていると思いませんか?」
――それは、どうなんだろうか。
確かに、甘えて引きこもって何もしないというのは性質が悪い。今のフランドール様が置かれている状況も、ほぼそう言ってしまえるだろう。
けれどもわたしは、そうですねと同意する言葉が喉に引っかかってしまった。
そういう見方もあるだろう。しかし。
「というのは私の所感です。お伝えするのは三号さんだけですので、以後の対応をどうするか、その判断はお任せします」
「あれ、てっきり率先してお世話するものだと思いましたが」
「したいのは山々です。しかしそれをあなたが否と判断されるのであれば、私が出しゃばっても何の益もないでしょう」
……熱血路線かと思いきや、とてもクールな思考をしている。ここでわたしがお願いしますとなんて言わない限り、彼女は本当にそういった態度を余所で出さないだろう。
で、わたしはどうすべきなのだろうか。
甘え、という見方は今まで考えたこともなかった。もしフランドール様が実際にそうであるのなら、咲夜さんに任せてみるのもありかもしれない。
よし、返事は。
「――それはまた今度お伝えします」
保留で。
だって、同意が喉に引っかかってそのまま取れない。そんなものを安易に吐き出してはならないと、そこそこついた経験値がわたしに語りかけてくる。
咲夜さんはそれを了承してくれた。ううむ、この後フランドール様の部屋へ行って作戦会議をしなければならない。主に一人で。
「ところで。先ほどフランドール様を見たと仰っていたあれは」
「ああ。私、時を止められるのです」
とてもさらりと種を明かしてくれた。ってなんじゃそりゃ。
「え? まさか時間を止めて、気付かれないまま顔だけ確認したと」
「はい。ですので私が目障りだとあれば、お顔合わせはしなくてもいいです。ちなみに、フランドール様は金髪の、七色の羽をもつ吸血鬼ですね?」
「……合ってます」
ところでなんか。言葉の端々に何かがが混ざっているような。
断られたことがショックなのだろうか。繊細なんだか図太いんだかよく分らない。
そしてさくせんを変えるべくフランドール様のお部屋へ。ノックをして失礼しますと中へ入る。
部屋の中はものの見事に散らかっており、フランドール様は椅子に座って半身を机に預けてぐったりしていた。よかった、少しは落ち着いている。ちょっと暴れて一息ついたといったところだろうか。
しかし。甘えかどうかだなんてどう判断したものだろうか。
とりあえず部屋を片付けを始めると、フランドール様がのっそりと上体を起こす。
「さっきのメイド長。どうやってこの部屋に入ってきたの?」
「あれ、気付かれていたんですか?」
時間を止めた。その言葉通りわたしは全然気がつかなかったから、バレてないものだと思っていたのに。
「最近、破壊の目が急に位置を変える事が多い――あれは自然のものだからいつも同じ所にあるんじゃなくってずっと移動しているんだけど、それがいきなり飛ぶことがあるの。さっきも飛んだから、メイド長が何かをした……でしょ」
まさか、そんな理由で見破っていたとは。
「はい。時間を止めることができるのだそうです」
それを聞いたフランドール様が少し考え込む。
「……ふうん。三号、それはきっと能力の一部だよ」
「こんなすごい能力なのに、ただの一部なんですか?」
これが一部分とか。本当の力は時間を吹き飛ばすとか無限の回転とか終わりがないのが終わりとかそんな感じなのだろうか。
「そいつの力が発揮された時、主に時間を止めたであろう瞬間なんだけど、動かない破壊の目と飛んでる破壊の目があった。多分メイド長の能力は、空間に関係しているんじゃないかな? 普通の三次元空間に時間を足して考える空間を四次元空間っていうんだけど、この四つ目の時間の次元軸上の空間を切り貼りしてるんじゃないかな。そしてメイド長だけがその切り貼りの前後を自由に動くことができる。だから時が止まったように見えるだけで、実際の時間次元軸は通常通りに動いている。でないと、三号の破壊の目だけ動かなかったのに理由がつけられない」
難しすぎてついていけない。っていうか、壁越しでも見えてしまうんですね破壊の目。
「だから、そいつの力は四つの次元の間で空間を操ることがメイン。
これは勝手な予測なんだけど、現在の時間軸上なら結構自由にできるんじゃないかな。屋敷に入ったと思ったら地下の図書館に入っていた。なんてこともできると思う」
「ま、まさかそんなことは――」
ああでも、色々とショートカットできたら便利だろうな。なんて思ってしまったり。
っと。こんな話ができるっていうことはフランドール様自身の調子は良いはずなんだけれど、話し終わるとまた頬が机に戻っていってしまった。
「ねえ、三号」
「いかがなさいましたか」
「そのメイド長。絶対にこの部屋に入れないで」
……ここまで強い拒絶は初めてだ。
分りました。そう、とりあえずは承諾しておくものの、できることならその理由も伺っておきたい。でないと、説明に苦労する。
「どこかお気に障りました……って覗き見とか障りまくりですね」
「それはまあ、見なかったことにしてもいいよ。これはそれとは別の問題だから」
ううん理由は訊けそうにない。フランドール様の調子が明らかに落ちつつある。プリプリ怒って文句を言うのはまだいい方で、こんな風にどこか諦めたような、黄昏ている時が危ないのだ。そのままどんどん沈み込んでいってしまう。
仕方なく掃除を続行しながら考え事を進めていく。
調子が落ちている。かといって持ち上げようとしたところで、どれだけアクティブな言葉をかけたとしても無意味になるだろう。元気出してと言われて少しでも元気が出るならこんな苦労はしていない。鬱の状態のフランドール様には、そんな当たり前のことでさえできなくなってしまう。
当たり前のことができなくなる。というのはかなり想像に苦しむ議題である。目が見えないとか、耳が聞こえないとか、そういう感覚的な喪失は一時的に疑似体験ができるので想像することは簡単な方だ。それ比べて精神的な喪失のなんとむずかしいことか。わたし自身、フランドール様と接するまで「元気が出ない」という症状の本質を理解することができなかった。
例えるならこんな感じだろうか。ある日突然、熱中していたことに覚めてしまうような感じ。
何でもいい。好きな食べ物を美味しいと感じなくなった。面白い本が急に頭の中に入らなくなった。いつも通っている道をやたら冷静に眺めた。などなど。
今まで熱のこもっていたものが冷めていってしまう時の、触れる喜びを知っているのにそれを一切得られなくなってしまう、あの嫌な気持ち。
普通ならそれを気のせいだと誤魔化すことができるだろう。そして、しばらく距離を置いてまた熱を込める事が出来る。
でもそれを、自分自身に感じたとしたら?
自分という、己にとって最もかけがえのないものを、何だこれと本気で冷めてしまったら?
――わたしは、少なくとも甘えというのは己に向けられているものだと思っている。
フランドール様は、いいや鬱というのは、どちらかと言うなら真逆のベクトルによるものではなかろうか。
普通の人はそんなことが起こるだなんて夢にも思わないだろう。だからこそ鬱は病気と呼ばれ、知らない人に勘違いされてしまうのだ。
――うん。咲夜さんへの返事は決まった。やはりフランドール様のお世話はわたし一人がメインでやっていこう。
思考がそんな結論に来た所で部屋の片づけもほぼ終わる。さて、ティータイムのお時間なので上へ行って紅茶を用意してきましょう。
部屋を出て、あれなんで咲夜さんがここに?
「お茶のお時間です。これを出してください」
と、こちらが驚くのも構わず、すでに準備されたセットを渡して、そのままどこかへと消えて行ってしまう。
……もしかして、フランドール様が仰ったように空間を操ったのだろうか。
なるほどこちらの能力がメインだと言うのがよく分った。瞬間移動じみたこともできてしまうのか。
まあラッキーと思いつつ、ちゃんと血が入ってることを確認してからフランドール様にお出しする。
すると一口飲んでから。
「……これ、三号が用意したんじゃないんでしょう?」
「はい。もしかして、不味かったですか」
「美味しすぎるの」
うれしいようなうれしくないような理由で看破されてしまった。
返事はノーと咲夜さんに告げたのはその後なんだけど、結果オーライというか惨事が起こる一歩手前であったことがその後に分った。
咲夜さんの仕事ぶりは、前代や前々代のメイド長とは比にならないくらい優秀だった。
屋敷には埃一つ落ちてないし、お食事の質も格段に向上した。さらに時空を操る能力によって屋敷内のスペースが有効活用されて、間取りが少し広くなった。
……間違いなく咲夜さんは強いお方だ。それは実力というよりは、在り方そのものが。
おそらく彼女の勘違いは、どれだけ指摘したところで理解してもらえないだろう。お二人が衝突しなければよいのだけれど。
お嬢様?
続編来た!今後、二人がどうなるか楽しみです
やっぱこのオリキャラというかオリ妖精メイドさん好きだなー。
続きも期待してます。
オリキャラってタグよりオリジナル妖精メイドってタグのが良いかも。
何か起きそうでコワイコワイ
患者が人間なら脳を調べればと話せるけれど、吸血鬼であるフランドールには
それが通用しないのが痛いですね。
ひと悶着あるんだろうなぁ。続き楽しみにしてます。
過去作を読みながら続きを期待しております。