紫と月見酒を飲むことになった。
どうしてそうなったのかはよく覚えていない。
紫から自然にそう誘われて、自然にそれに頷いただけ。
わざわざ歩く動作の一つ一つを記憶していないように、細かい理由なんてものは忘却の彼方だ。
とにかく今、私は紫と並んで、紫の家の縁側にお酒の注がれた杯を持って腰を下ろしていた。
藍は橙がいるマヨヒガにいるらしいから、二人っきりでお酒を飲んでるわけだけど。
なんだけど、正直な話、
「つまんないわねー」
「……それ、人と飲んでいるときに言って良い台詞じゃないと思うわ」
「人じゃないじゃん」
「こんなにも腹が立ったのは、要石仕込まれたとき以来ね」
ちょっと揚げ足を取ってみると、紫はあからさまに機嫌を悪そうに眉を潜めた。
むぅ、まさかここまで気に障るとは。なんか勘違いしてるっぽいなぁ。
「紫と飲むのが詰まんないって訳じゃなくてね。状況がつまんないって言うか」
「結局私と飲むのが嫌なんじゃない」
「違う違う。紫じゃなくて、月見酒がってところ」
空を見上げてみれば、雲一つない夜空に輝く星々と、一際強い輝きを放つまんまるお月様。
「あんまり月を見て飲む意味が感じられないって言うか」
「じゃあ断ればよかったのに」
「お酒ってところだけ釣られた」
「もうちょっと良く考えて答えなさいな」
うん、それは自分でも思う。
紫と一緒にお酒って言っても、つまらないものがあったら楽しめないのに。
「どうしてそんなに楽しめていないの」
「下界の空はその時々によって変わるわよね。晴れの日もあれば曇りの日もある。けど雲の上じゃずっと晴天で面白みがなくてね」
輝く星と月。数百年ものあいだ見続けた変わりない空。
こんな光景、とっくの昔に飽きてしまった。
「紫はどうなの。あれ見て思うところあるの」
「思うというか感じるわ。妖怪にとって月は特別なものだし。今日のような満月の夜は、否応なしに気分が高まってくるものよ」
「ふぅん」
などと聞きつつ、実のところそれはなんとなく気付いていた。
紫はいつも相手に何を考えているのか悟らせず、そのため不気味に感じることが多い。
今の紫にはその表情の下から、隙を見せたら食われてしまうんじゃないかと身構えたくなるような、危険な雰囲気がわずかに漏れだしている。
とはいえ、残念だがこれっぽっちもその高ぶってくるという感覚は理解できない。まぁ、妖怪特有の感覚なんて考えてもわかるはずないか。
しかし紫だけ楽しまれていると、なんだか置いてけぼりをくらってしまったようで寂しくて食いついた。
「一人だけテンション上がってないでさ、このままじゃつまんないから珍しいお酒出してよ。ウォッカとかスピタリスとか」
「なんでアルコール度数が高い物ばかりなの。そんなの飲んだらすぐにダウンするでしょう」
「えー、一回やってみたいのに。スピタリスとかいうお酒の一気飲み」
「言っておくけど、それは水で薄めて飲むものだから。そのまま飲んだりしたら喉が焼けるわよ」
紫は傍にあった酒瓶を手に持つと、私の杯に酒を注いだ。
さっき私が言った外国のお酒じゃなく、これは正真正銘の日本酒だ。
「今はこれで我慢してなさいな」
「いくら上等なのでも、こっちの方のお酒は飽きてるんだけどなあ」
天界はたいして美味しい食べ物がない癖して、お酒だけは無駄に最上級だった。
いま紫に振舞われてるお酒もそれに並ぶくらいの特上品だが、慣れてしまった私の舌ではそれほど美味しいとは感じない。
「こんなに天気が良いのに」
「むしろ天気が良いからつまんないのよ。せめて大嵐とかだったらスリリングで飲み応えあったろうけど」
「それだったらそもそもそもそも誘わないわ」
「飲むだけだからって、緋想の剣持ってこなかったのは失敗だったわね……あっ、地震でも起こせば盛り上がるかしら」
「いい加減にしないと幻想郷から叩き出すわよ」
おぉう、それは困る。地震中止。
手元のお酒を見下ろすと、水面に浮かんが月が目に入る。
ゆらゆら水面を揺らしてみても、憎たらしいほど綺麗な輝きは劣りを見せなかった。
「はぁ、ここまでわがまま言われるなんて……」
「紫がすぐにでも面白いことしてくれればわがまま言わないわ」
「風流が台無しじゃない。満月の日に楽しみたいものじゃないわ」
なるほど、確かにシチュエーションによって『これだ!』って思うような楽しみ方はある。たぶん今の紫は誰かと一緒に、ゆったり月を楽しみながら飲み合いたいんだろう。
しかしそれには私という人選は、これ以上ないくらい完璧に間違っている。
どれぐらい間違えているのかと言うと、雨の日に外ではしゃぎ回るくらい間違えている……いや、それはそれでありか。
「それにしても、私と見る月がそんなにつまらないなんて悲しいわ」
「月なんてどこで誰と見ようが同じじゃない。下界から見たらちょっと小さいみたいだけど、その程度だわ」
「違いがわからないうちはまだまだ子供よ」
「なによ人のせいにして」
「もういいわ。あとは一人で飲むから」
あっ、紫ったら拗ねちゃった。
うるさく言いすぎたかな、謝ろうかなって一瞬頭を過ぎったけど、やっぱり退屈なのが悪いからやめた。
帰ろうかなとも思ったけど、それじゃ退屈に負けた気がするのでその場に居座り続ける。
静かに月とお酒を楽しむ紫の隣で、うんうん唸って考えた。
「どうすれば面白くなるかしら……」
「……どうしてそう、今回に限って退屈そうにしてるの。月に興味がないならないで、このさい月は気にしないでいつもどおり飲めば良いじゃない」
一人悩む私に呆れたように紫が口を挟んできた。
よりによってこいつがそれを言うのか。誰のせいで私が楽しめていないのか、全く紫はわかっていない。
「別に、今日はそういう気分じゃないだけよ」
理由を話すのも癪だし、むかついた私はそっけなく紫にそう返す。
そりゃあただ紫と普通に飲むだけだったら楽しめるけども。
……こうお月様にばっかりご執心なのが、ちっとも気に入らない。
「へぇ、そうだったの」
「そうよもう……え?」
あ、やば、口に出てた!?
慌てて口を塞ぐけど、時既に遅し。
紫のほうを見てみれば、口元を吊り上げていやらしくニヤニヤ笑いながらこっちのことを見つめていた。
「そうなの、それでいつもと違ってつまらなそうにしてたのね」
「ちちち、違うわよ! 何で私があんたみたいなババアなんかに構ってもらえなくて拗ねなきゃいけないのよ!」
「おー、よちよち」
「やめろ頭なでるなー! 赤ちゃんまでランクダウンさせるなー!」
全力で嫌がる私に紫は覆いかぶさってきて、まるで赤ん坊を扱うみたいになでてきた。
「酒が入ってるからって調子乗るな!」
「お月様ばっかり見ててごめんなちゃいねぇ」
「キモイから止めろその口調!」
ぐあー、駄目だ状況は完全に劣勢だ。これを打破するにはどうすればいいだろうか。
紫に揉みくちゃにされながら空を見上げると、以前小耳に挟んだ小話を思い出した。
外界の話だから幻想郷の住人では知る物は少ないだろうけど、外のことにも精通してる紫なら知ってるはず。
失敗すると私にもダメージが大きいけど、やるしかない。
「……月が綺麗ですね」
「えっ」
「だから月が綺麗ですね」
外界の小説家がアイラブユーを日本語で、『月が綺麗ですね』と訳したらしい。
一体どこをどう捻ればこんなトンチンカンな訳が出てくるのか謎だが、逆転の一手となった。
「て、天子それって……」
効果はあったようで、顔を赤らめた紫が私から離れる。
その紅潮はきっとお酒のせいだけじゃないはずだ。
「あれ、紫知らないの? 『月が綺麗ですね』」
「し、知ってるけれどそれって……」
紫がモジモジしだすのをみて、不覚にもドキッとした。
いやいや、それよりも予想以上に効きすぎでしょこれ。
上手く行くのはいいことだけど、これ以上続けるとシャレにならなくなってそれはそれでヤバイ。
「そ、そのね天子、私も……」
「あっれー! 紫ってばなんでそんな恥ずかしそうにしてるのかしら!」
「へっ」
「私はただ月が綺麗だなって感想言っただけなんだけどなー! あはははははは!」
「……ふん!」
「うべっ!?」
あざけ笑う、というか場の雰囲気を吹き飛ばそうと無理矢理笑う私の上に隙間が開いたと思うと、づっこーんと大きな音を立てて墓石が落っこちてきた。
避ける暇もなく、クソ重い墓石の下敷きになる私。
「いったーい!」
「乙女の純情を踏みにじる愚か者はそのまま死ねばいいと思うわ」
「乙女なんて歳じゃないでしょあんたは!」
「安心しなさい、それがそのままあなたの墓標になるから。名前ももう刻んであるし」
「いらんわそんなアフターサービス!」
『比那名居天子之墓』と勝手に人の名前が刻まれた墓石を投げ飛ばすと、怒りに燃えた私は紫に飛び掛った。
「だいたいそっちが先に人のことおちょくってきたんでしょうが!」
「あなたこそ、いきなり期待させるようなこと言っておいて!」
私が紫のほっぺをつねれば、紫も私のほっぺをつねってくる。
「紫が一人だけ楽しそうにしてるのが悪いのよ!」
「勝手なことばかり言って!」
がーがー互いに叫びながら、縁側の上でドタバタ取っ組み合った。
杯が吹っ飛んでも、最上級のお酒が零れ落ちようと構いもしない。
「この絶壁我侭娘!」
「なにを、ことあるごとに胸のことで馬鹿にしてきて!」
「実際小さいんじゃないの!」
「きー! そのデカパイもぎってやる!」
「やれるものならやってみなさい、また返り討ちにしてあげるわ!」
「お前のかーちゃんでべそ!」
「妖怪に母親いない!」
「血も涙もない悪魔!」
「そっちこそ天子なんて名前ならもっとちゃんとしなさい!」
「王は我侭なものよ!」
「そっちの意味じゃない!」
言ってる内容も支離滅裂になってくるにつれ、叩いて蹴ってとやってることも段々エスカレートしていく。
けれど10分くらいもすれば言い争いのネタも尽きてきたし、心身ともに疲れが見えてきて争いも収まり始めた。
「うらあ!」
「往ねえ!」
最後の最後に互いの拳が交差してクロスカウンターが決まると、とうとう私は力尽きて倒れた。
続いて紫もドサリと私の隣に倒れ込んでくる。
「……あ、あなたの負けね」
「違うし。先に倒れたけどまだ私HP残ってるし……」
「嘘を吐かないの。どうみてもボロボロの満身創痍でしょう」
「あれよ、桃よ。この桃に残り1ミリ分くらい残ってるのよ……」
「その桃、毟り取ってやりましょうか……」
言い合う気力も尽きてきて、私と紫は何も言わず突っ伏した。
しばらくのあいだ、ただ空ろに目を開けて冷たい夜の空気の中に包まれていると、紫のほうから口を開いた。
「私達、一体何をやっているのかしら」
「月見酒」
「どう考えてもこれは月見酒じゃないでしょう。なんで満月の夜にあなたとどつきあいしないといけないの」
はぁー、と紫が心の底から出たような溜息を吐くけど、対する私は案外満足していた。
なんだかんだいって、こういうふうにじゃれあうのは楽しい。
それに月から紫をぶんどって独占した気分だし。
寝転んだ状態から空を見上げてみると、月は観念したかのように雲の陰に隠れていた。
「……勝った!」
「なにが」
「いや、なんでも」
思わずガッツポーズを取って声が出た。
紫からは変な目で見られたが、それでもやってやったという優越感が私を満たしてくれる。
「可哀相に、退屈過ぎてとうとう頭がおかしくなってしまったのね……」
「違うっての……ねぇ、紫」
縁側の冷たい床の上で寝返りを打って仰向けになる。
「なんで今日は私を呼んだの」
単純に月を楽しみながら酒を飲むなら一人でいいし、そうでなくとも従者の藍なり幽々子なり萃香なり、他に当てはいくらでもある。そのことを紫が気付かないとも思えない。
なんで私なんて場違いな存在を、月見酒に招いたのか疑問だった。
「……そうね、あなたと一緒に月を眺めながら飲み合いたいというのも嘘ではないけれど。本当は他に見たいものがあったから」
詳しく聞かなくても、紫は私の疑問を理解したんだろう。
待っていた答えを返してくれながら、寝返りを打った。
仰向けになった紫の手が、私の手に重なりあう。
「どうしても見てみたいと思ったものがあって、そのためにあなたを呼んだの」
「それって月よりも?」
「そうね。まだ見たこともないけれど、月よりもきっと良いものよ」
重なった手を握り締めると、紫はそれに応えて握り返してきた。
「あなたなら、見せてくれると信じていたから」
話はそれで終わりらしく、紫は口をつぐんだ。
「それって何なの?」
「…………ひ・み・つ☆」
「ウザ。もったいぶらずに教えなさいよ」
「あなたが私と見る月を楽しめるようになったなら、その時にでも教えてあげるわ」
果たしてそれは何千年後なのか。
私の性格を考えたら永遠にやってくる気がしない。
「ちょっと、自分だけ楽しんで独り占めする気?」
「残念だけれど、私もまだ見れてないのよねぇ」
全力ではぐらかされてる気がしないでもないけれど、見れてないというのならそれ以上食いつく気も起こらなかった。
それに信じていると言ってくれたし。
信用してくれているというのは、そう悪いものではない。
「……さっきは痛くして悪かったわね」
「反省しているなら私はそれでいいわ。こっちこそごめんなさい」
「まぁ、ちょっとは退屈じゃなくなったし別に良いわ」
「ここにきて天子に何度目かのM疑惑」
「あんたをいたぶれて楽しかったって意味ですよーだ」
紫の手を離して起き上がると、月見酒の続きをしようと酒瓶を探した。
そこらじゅうを見渡しても見つからず、縁側の下に覗いてみるとそこに転がっていた。
当然中身はほとんど空っぽになってしまっている。
「あー、もうお酒の残りもないわ。全部零れちゃったみたい」
「それじゃあ今日はこれで終了ね。お疲れさま」
「急に元気なくなってるわね。見たいものあったんじゃないの?」
「今日は本当に無駄に疲れたからいいわ、また今度の機会にでも見せてもらうわ。もうここで寝ようかしら」
「風邪引いちゃうって」
寝転がったままうだるげに話す紫は、ほっとくと本当にこのまま寝てしまいそうだ。
杯のほうはよく覚えてないけど、外のほうへとふっ飛んでいったと気がする。
そっちは面倒だから探すのを諦め、私は紫の傍に腰掛けた。
縁側に寝転んだその顔を覗き見ると、紫がゆっくりと目を開ける。
「……月が綺麗ですね」
「ははは、私はあんたとは違ってそんな引っ掛けには乗らないわよ。それに月隠れてるし」
「そういう意味じゃないわ」
「じゃあどういう意味よ」
「はぁ、もういいわ。天子、布団敷いてくれるかしら」
「なんで私がやらなきゃいけないのよ」
「今日は藍帰ってこないのよ」
「いてもいなくても自分でしなさいよそれくらい」
こいつの日頃のグータラぶりにはほとほと呆れるばかりだ。
でも幻想郷の維持には、これでもかってぐらい頑張ってるからそれで相殺されるかな。布団は敷かないけど。
「まったく、紫ったら」
その時、雲に隠れていた月が再び顔を見せて、紫の姿を優しく照らしだした。
暗闇の中から、雅な身体が浮かび上がってくる。
酔いで紅潮した陶器のような肌をした綺麗な顔も、月明かりに反射し瞬く金髪も美しかった。
けれどそれよりも目を引いたのは、紫の目に宿るわずかな輝きだった。
それはともすれば見逃してしまいそうなほど、遠慮がちで小さなもの。
紫の瞳の中で、月の輝きが一欠けら、金色の光を放っていた。
数百年生きてきて、初めて見た月の形。
紫の本来持つ輝きと金色の光が混ざり合い、それは天界で見たどの宝石よりも素晴らしいと感じる。
絵になるというのはきっとこういう光景なんだろうと頭に過ぎった。
瞳に月を宿した妖怪。
一目見ただけで私はそれに見惚れ、思わず息を呑んでただただ見入るしかなかった。
「――天子?」
惚けていたところを、紫に声を掛けられてようやく我に返る。
「どうかした。もしかして気分でも悪いのかしら?」
「あ……な、なんでもないわよなんでも!」
心配そうにする紫に、慌てて言葉を取り繕う。
そうこうしているうちに紫の瞳からあの輝きが消え去って、ハッと空を見ると再び月が隠れてしまっていた。
「ま、負けた……!」
「いやだからなにが」
まさか紫の気を惹くのでなく、華を持たせて美しく魅せてくるとは盲点だった。
私の知らない美しさを見せ付けられて、この夜の大地を照らし続けてきた器の大きさを思い知らされた感じだ。
勝ち逃げされたみたいで、すんごく悔しい。
「……ねぇ、紫」
でも最後に私に見せてくれたあの輝きは、敵ながら天晴れだった。
月を宿した紫の姿が、目に焼き付いて離れない。
「また満月の夜に、一緒に飲まない?」
たとえまた悔しい思いをしても、また退屈だと喚くことになったとしても。
もう一度あの紫を見てみたい思った。
どうしてそうなったのかはよく覚えていない。
紫から自然にそう誘われて、自然にそれに頷いただけ。
わざわざ歩く動作の一つ一つを記憶していないように、細かい理由なんてものは忘却の彼方だ。
とにかく今、私は紫と並んで、紫の家の縁側にお酒の注がれた杯を持って腰を下ろしていた。
藍は橙がいるマヨヒガにいるらしいから、二人っきりでお酒を飲んでるわけだけど。
なんだけど、正直な話、
「つまんないわねー」
「……それ、人と飲んでいるときに言って良い台詞じゃないと思うわ」
「人じゃないじゃん」
「こんなにも腹が立ったのは、要石仕込まれたとき以来ね」
ちょっと揚げ足を取ってみると、紫はあからさまに機嫌を悪そうに眉を潜めた。
むぅ、まさかここまで気に障るとは。なんか勘違いしてるっぽいなぁ。
「紫と飲むのが詰まんないって訳じゃなくてね。状況がつまんないって言うか」
「結局私と飲むのが嫌なんじゃない」
「違う違う。紫じゃなくて、月見酒がってところ」
空を見上げてみれば、雲一つない夜空に輝く星々と、一際強い輝きを放つまんまるお月様。
「あんまり月を見て飲む意味が感じられないって言うか」
「じゃあ断ればよかったのに」
「お酒ってところだけ釣られた」
「もうちょっと良く考えて答えなさいな」
うん、それは自分でも思う。
紫と一緒にお酒って言っても、つまらないものがあったら楽しめないのに。
「どうしてそんなに楽しめていないの」
「下界の空はその時々によって変わるわよね。晴れの日もあれば曇りの日もある。けど雲の上じゃずっと晴天で面白みがなくてね」
輝く星と月。数百年ものあいだ見続けた変わりない空。
こんな光景、とっくの昔に飽きてしまった。
「紫はどうなの。あれ見て思うところあるの」
「思うというか感じるわ。妖怪にとって月は特別なものだし。今日のような満月の夜は、否応なしに気分が高まってくるものよ」
「ふぅん」
などと聞きつつ、実のところそれはなんとなく気付いていた。
紫はいつも相手に何を考えているのか悟らせず、そのため不気味に感じることが多い。
今の紫にはその表情の下から、隙を見せたら食われてしまうんじゃないかと身構えたくなるような、危険な雰囲気がわずかに漏れだしている。
とはいえ、残念だがこれっぽっちもその高ぶってくるという感覚は理解できない。まぁ、妖怪特有の感覚なんて考えてもわかるはずないか。
しかし紫だけ楽しまれていると、なんだか置いてけぼりをくらってしまったようで寂しくて食いついた。
「一人だけテンション上がってないでさ、このままじゃつまんないから珍しいお酒出してよ。ウォッカとかスピタリスとか」
「なんでアルコール度数が高い物ばかりなの。そんなの飲んだらすぐにダウンするでしょう」
「えー、一回やってみたいのに。スピタリスとかいうお酒の一気飲み」
「言っておくけど、それは水で薄めて飲むものだから。そのまま飲んだりしたら喉が焼けるわよ」
紫は傍にあった酒瓶を手に持つと、私の杯に酒を注いだ。
さっき私が言った外国のお酒じゃなく、これは正真正銘の日本酒だ。
「今はこれで我慢してなさいな」
「いくら上等なのでも、こっちの方のお酒は飽きてるんだけどなあ」
天界はたいして美味しい食べ物がない癖して、お酒だけは無駄に最上級だった。
いま紫に振舞われてるお酒もそれに並ぶくらいの特上品だが、慣れてしまった私の舌ではそれほど美味しいとは感じない。
「こんなに天気が良いのに」
「むしろ天気が良いからつまんないのよ。せめて大嵐とかだったらスリリングで飲み応えあったろうけど」
「それだったらそもそもそもそも誘わないわ」
「飲むだけだからって、緋想の剣持ってこなかったのは失敗だったわね……あっ、地震でも起こせば盛り上がるかしら」
「いい加減にしないと幻想郷から叩き出すわよ」
おぉう、それは困る。地震中止。
手元のお酒を見下ろすと、水面に浮かんが月が目に入る。
ゆらゆら水面を揺らしてみても、憎たらしいほど綺麗な輝きは劣りを見せなかった。
「はぁ、ここまでわがまま言われるなんて……」
「紫がすぐにでも面白いことしてくれればわがまま言わないわ」
「風流が台無しじゃない。満月の日に楽しみたいものじゃないわ」
なるほど、確かにシチュエーションによって『これだ!』って思うような楽しみ方はある。たぶん今の紫は誰かと一緒に、ゆったり月を楽しみながら飲み合いたいんだろう。
しかしそれには私という人選は、これ以上ないくらい完璧に間違っている。
どれぐらい間違えているのかと言うと、雨の日に外ではしゃぎ回るくらい間違えている……いや、それはそれでありか。
「それにしても、私と見る月がそんなにつまらないなんて悲しいわ」
「月なんてどこで誰と見ようが同じじゃない。下界から見たらちょっと小さいみたいだけど、その程度だわ」
「違いがわからないうちはまだまだ子供よ」
「なによ人のせいにして」
「もういいわ。あとは一人で飲むから」
あっ、紫ったら拗ねちゃった。
うるさく言いすぎたかな、謝ろうかなって一瞬頭を過ぎったけど、やっぱり退屈なのが悪いからやめた。
帰ろうかなとも思ったけど、それじゃ退屈に負けた気がするのでその場に居座り続ける。
静かに月とお酒を楽しむ紫の隣で、うんうん唸って考えた。
「どうすれば面白くなるかしら……」
「……どうしてそう、今回に限って退屈そうにしてるの。月に興味がないならないで、このさい月は気にしないでいつもどおり飲めば良いじゃない」
一人悩む私に呆れたように紫が口を挟んできた。
よりによってこいつがそれを言うのか。誰のせいで私が楽しめていないのか、全く紫はわかっていない。
「別に、今日はそういう気分じゃないだけよ」
理由を話すのも癪だし、むかついた私はそっけなく紫にそう返す。
そりゃあただ紫と普通に飲むだけだったら楽しめるけども。
……こうお月様にばっかりご執心なのが、ちっとも気に入らない。
「へぇ、そうだったの」
「そうよもう……え?」
あ、やば、口に出てた!?
慌てて口を塞ぐけど、時既に遅し。
紫のほうを見てみれば、口元を吊り上げていやらしくニヤニヤ笑いながらこっちのことを見つめていた。
「そうなの、それでいつもと違ってつまらなそうにしてたのね」
「ちちち、違うわよ! 何で私があんたみたいなババアなんかに構ってもらえなくて拗ねなきゃいけないのよ!」
「おー、よちよち」
「やめろ頭なでるなー! 赤ちゃんまでランクダウンさせるなー!」
全力で嫌がる私に紫は覆いかぶさってきて、まるで赤ん坊を扱うみたいになでてきた。
「酒が入ってるからって調子乗るな!」
「お月様ばっかり見ててごめんなちゃいねぇ」
「キモイから止めろその口調!」
ぐあー、駄目だ状況は完全に劣勢だ。これを打破するにはどうすればいいだろうか。
紫に揉みくちゃにされながら空を見上げると、以前小耳に挟んだ小話を思い出した。
外界の話だから幻想郷の住人では知る物は少ないだろうけど、外のことにも精通してる紫なら知ってるはず。
失敗すると私にもダメージが大きいけど、やるしかない。
「……月が綺麗ですね」
「えっ」
「だから月が綺麗ですね」
外界の小説家がアイラブユーを日本語で、『月が綺麗ですね』と訳したらしい。
一体どこをどう捻ればこんなトンチンカンな訳が出てくるのか謎だが、逆転の一手となった。
「て、天子それって……」
効果はあったようで、顔を赤らめた紫が私から離れる。
その紅潮はきっとお酒のせいだけじゃないはずだ。
「あれ、紫知らないの? 『月が綺麗ですね』」
「し、知ってるけれどそれって……」
紫がモジモジしだすのをみて、不覚にもドキッとした。
いやいや、それよりも予想以上に効きすぎでしょこれ。
上手く行くのはいいことだけど、これ以上続けるとシャレにならなくなってそれはそれでヤバイ。
「そ、そのね天子、私も……」
「あっれー! 紫ってばなんでそんな恥ずかしそうにしてるのかしら!」
「へっ」
「私はただ月が綺麗だなって感想言っただけなんだけどなー! あはははははは!」
「……ふん!」
「うべっ!?」
あざけ笑う、というか場の雰囲気を吹き飛ばそうと無理矢理笑う私の上に隙間が開いたと思うと、づっこーんと大きな音を立てて墓石が落っこちてきた。
避ける暇もなく、クソ重い墓石の下敷きになる私。
「いったーい!」
「乙女の純情を踏みにじる愚か者はそのまま死ねばいいと思うわ」
「乙女なんて歳じゃないでしょあんたは!」
「安心しなさい、それがそのままあなたの墓標になるから。名前ももう刻んであるし」
「いらんわそんなアフターサービス!」
『比那名居天子之墓』と勝手に人の名前が刻まれた墓石を投げ飛ばすと、怒りに燃えた私は紫に飛び掛った。
「だいたいそっちが先に人のことおちょくってきたんでしょうが!」
「あなたこそ、いきなり期待させるようなこと言っておいて!」
私が紫のほっぺをつねれば、紫も私のほっぺをつねってくる。
「紫が一人だけ楽しそうにしてるのが悪いのよ!」
「勝手なことばかり言って!」
がーがー互いに叫びながら、縁側の上でドタバタ取っ組み合った。
杯が吹っ飛んでも、最上級のお酒が零れ落ちようと構いもしない。
「この絶壁我侭娘!」
「なにを、ことあるごとに胸のことで馬鹿にしてきて!」
「実際小さいんじゃないの!」
「きー! そのデカパイもぎってやる!」
「やれるものならやってみなさい、また返り討ちにしてあげるわ!」
「お前のかーちゃんでべそ!」
「妖怪に母親いない!」
「血も涙もない悪魔!」
「そっちこそ天子なんて名前ならもっとちゃんとしなさい!」
「王は我侭なものよ!」
「そっちの意味じゃない!」
言ってる内容も支離滅裂になってくるにつれ、叩いて蹴ってとやってることも段々エスカレートしていく。
けれど10分くらいもすれば言い争いのネタも尽きてきたし、心身ともに疲れが見えてきて争いも収まり始めた。
「うらあ!」
「往ねえ!」
最後の最後に互いの拳が交差してクロスカウンターが決まると、とうとう私は力尽きて倒れた。
続いて紫もドサリと私の隣に倒れ込んでくる。
「……あ、あなたの負けね」
「違うし。先に倒れたけどまだ私HP残ってるし……」
「嘘を吐かないの。どうみてもボロボロの満身創痍でしょう」
「あれよ、桃よ。この桃に残り1ミリ分くらい残ってるのよ……」
「その桃、毟り取ってやりましょうか……」
言い合う気力も尽きてきて、私と紫は何も言わず突っ伏した。
しばらくのあいだ、ただ空ろに目を開けて冷たい夜の空気の中に包まれていると、紫のほうから口を開いた。
「私達、一体何をやっているのかしら」
「月見酒」
「どう考えてもこれは月見酒じゃないでしょう。なんで満月の夜にあなたとどつきあいしないといけないの」
はぁー、と紫が心の底から出たような溜息を吐くけど、対する私は案外満足していた。
なんだかんだいって、こういうふうにじゃれあうのは楽しい。
それに月から紫をぶんどって独占した気分だし。
寝転んだ状態から空を見上げてみると、月は観念したかのように雲の陰に隠れていた。
「……勝った!」
「なにが」
「いや、なんでも」
思わずガッツポーズを取って声が出た。
紫からは変な目で見られたが、それでもやってやったという優越感が私を満たしてくれる。
「可哀相に、退屈過ぎてとうとう頭がおかしくなってしまったのね……」
「違うっての……ねぇ、紫」
縁側の冷たい床の上で寝返りを打って仰向けになる。
「なんで今日は私を呼んだの」
単純に月を楽しみながら酒を飲むなら一人でいいし、そうでなくとも従者の藍なり幽々子なり萃香なり、他に当てはいくらでもある。そのことを紫が気付かないとも思えない。
なんで私なんて場違いな存在を、月見酒に招いたのか疑問だった。
「……そうね、あなたと一緒に月を眺めながら飲み合いたいというのも嘘ではないけれど。本当は他に見たいものがあったから」
詳しく聞かなくても、紫は私の疑問を理解したんだろう。
待っていた答えを返してくれながら、寝返りを打った。
仰向けになった紫の手が、私の手に重なりあう。
「どうしても見てみたいと思ったものがあって、そのためにあなたを呼んだの」
「それって月よりも?」
「そうね。まだ見たこともないけれど、月よりもきっと良いものよ」
重なった手を握り締めると、紫はそれに応えて握り返してきた。
「あなたなら、見せてくれると信じていたから」
話はそれで終わりらしく、紫は口をつぐんだ。
「それって何なの?」
「…………ひ・み・つ☆」
「ウザ。もったいぶらずに教えなさいよ」
「あなたが私と見る月を楽しめるようになったなら、その時にでも教えてあげるわ」
果たしてそれは何千年後なのか。
私の性格を考えたら永遠にやってくる気がしない。
「ちょっと、自分だけ楽しんで独り占めする気?」
「残念だけれど、私もまだ見れてないのよねぇ」
全力ではぐらかされてる気がしないでもないけれど、見れてないというのならそれ以上食いつく気も起こらなかった。
それに信じていると言ってくれたし。
信用してくれているというのは、そう悪いものではない。
「……さっきは痛くして悪かったわね」
「反省しているなら私はそれでいいわ。こっちこそごめんなさい」
「まぁ、ちょっとは退屈じゃなくなったし別に良いわ」
「ここにきて天子に何度目かのM疑惑」
「あんたをいたぶれて楽しかったって意味ですよーだ」
紫の手を離して起き上がると、月見酒の続きをしようと酒瓶を探した。
そこらじゅうを見渡しても見つからず、縁側の下に覗いてみるとそこに転がっていた。
当然中身はほとんど空っぽになってしまっている。
「あー、もうお酒の残りもないわ。全部零れちゃったみたい」
「それじゃあ今日はこれで終了ね。お疲れさま」
「急に元気なくなってるわね。見たいものあったんじゃないの?」
「今日は本当に無駄に疲れたからいいわ、また今度の機会にでも見せてもらうわ。もうここで寝ようかしら」
「風邪引いちゃうって」
寝転がったままうだるげに話す紫は、ほっとくと本当にこのまま寝てしまいそうだ。
杯のほうはよく覚えてないけど、外のほうへとふっ飛んでいったと気がする。
そっちは面倒だから探すのを諦め、私は紫の傍に腰掛けた。
縁側に寝転んだその顔を覗き見ると、紫がゆっくりと目を開ける。
「……月が綺麗ですね」
「ははは、私はあんたとは違ってそんな引っ掛けには乗らないわよ。それに月隠れてるし」
「そういう意味じゃないわ」
「じゃあどういう意味よ」
「はぁ、もういいわ。天子、布団敷いてくれるかしら」
「なんで私がやらなきゃいけないのよ」
「今日は藍帰ってこないのよ」
「いてもいなくても自分でしなさいよそれくらい」
こいつの日頃のグータラぶりにはほとほと呆れるばかりだ。
でも幻想郷の維持には、これでもかってぐらい頑張ってるからそれで相殺されるかな。布団は敷かないけど。
「まったく、紫ったら」
その時、雲に隠れていた月が再び顔を見せて、紫の姿を優しく照らしだした。
暗闇の中から、雅な身体が浮かび上がってくる。
酔いで紅潮した陶器のような肌をした綺麗な顔も、月明かりに反射し瞬く金髪も美しかった。
けれどそれよりも目を引いたのは、紫の目に宿るわずかな輝きだった。
それはともすれば見逃してしまいそうなほど、遠慮がちで小さなもの。
紫の瞳の中で、月の輝きが一欠けら、金色の光を放っていた。
数百年生きてきて、初めて見た月の形。
紫の本来持つ輝きと金色の光が混ざり合い、それは天界で見たどの宝石よりも素晴らしいと感じる。
絵になるというのはきっとこういう光景なんだろうと頭に過ぎった。
瞳に月を宿した妖怪。
一目見ただけで私はそれに見惚れ、思わず息を呑んでただただ見入るしかなかった。
「――天子?」
惚けていたところを、紫に声を掛けられてようやく我に返る。
「どうかした。もしかして気分でも悪いのかしら?」
「あ……な、なんでもないわよなんでも!」
心配そうにする紫に、慌てて言葉を取り繕う。
そうこうしているうちに紫の瞳からあの輝きが消え去って、ハッと空を見ると再び月が隠れてしまっていた。
「ま、負けた……!」
「いやだからなにが」
まさか紫の気を惹くのでなく、華を持たせて美しく魅せてくるとは盲点だった。
私の知らない美しさを見せ付けられて、この夜の大地を照らし続けてきた器の大きさを思い知らされた感じだ。
勝ち逃げされたみたいで、すんごく悔しい。
「……ねぇ、紫」
でも最後に私に見せてくれたあの輝きは、敵ながら天晴れだった。
月を宿した紫の姿が、目に焼き付いて離れない。
「また満月の夜に、一緒に飲まない?」
たとえまた悔しい思いをしても、また退屈だと喚くことになったとしても。
もう一度あの紫を見てみたい思った。
良いゆかてんでした
ゆかてんサイコー!
胸がきゅんきゅんする
両者とも可愛いね。
いあ!いあ!ゆかてん!
誤字報告を
》せめて大荒らしとかだったら
大荒らし→大嵐
天子はからかわれていると思っているよだが
思っているよ「う」だが
後「宴会と謝罪と桃と友達と」が何かに上書きされて二つになってしまっています