『今日は二月十四日です、紫さま 中編』
――バレンタイン三日前
文からの提案を聞いてからこれまでいろいろ考えていたが、そのうち疲れてしまった。いつまで考えても結論が出ない。だから、渡すか渡さないかは別として、とりあえずチョコレートを作るだけ作ってみようという結論に達した。
最初は買おうと思っていた。今までにチョコレートを作ったことなどない。しかし数日前に魔理沙が咲夜にチョコレートの作り方を教わっていると聞いて、魔理沙に作れるなら自分にも作れるだろうと根拠もなく決め込んだ。それに、やったことのない新しいことをしていれば、その間は今自分を悩ませている問題から一時離れられると考えた。
気持ちを伝えるかどうか、チルノから聞いた一件を問い詰めるのも、とりあえずは後回しにした。
咲夜のお菓子が食べたくなったと嘘をつき、野次馬を装って魔理沙についていった。無論自分が作ることは隠しておいた。魔理沙に知られるといろいろ面倒だ。
魔理沙が咲夜に教えてもらっているのに便乗しようと、レミリアと茶化しながらもガン見していたら、帰り際に咲夜が折り畳んだ紙を渡してきた。
咲夜の顔を見るとにっこり笑って、その笑んだ口元に人差し指を持ってきて、しぃー、のポーズ。とても、綺麗だった。思わず見惚れてしまうほどに。
魔理沙とわかれたあとで、畳まれていた紙を開くとそこにはトリュフチョコレートなるものの作り方が、綺麗な字とわかりやすい絵入りで書いてあった。
書いてある材料を見ると、全て里で調達できそうなものばかり。作り方も本当に簡単そうで、咲夜の教授がなくても大丈夫に思えた。その上魔理沙が作ろうとしていたものとも違うらしい。魔理沙はカステラなんて使っていなかった。何も言ってないのにここまでしてくれるとは。まったく瀟洒である。
咲夜のおかげでトリュフチョコレートなるものは出来た。出来てしまった。トリュフチョコレートを食べたことがないので、正しく出来たのかよくわからないのだが、自分で食べてみた分には、おいしい……と思う。おいしいのは何よりだが、今度は一時保留にしていた問題が浮上してくる。
チョコレートを作るまでは渡す渡さないはもとより、気持ちを伝えるか伝えないかが問題だったのに、チョコレートを作っているうちにどう気持ちを伝えるか、という方向へ変わっていってしまった。自分はそういう、恋する乙女的思考とは無縁と思っていただけに、少なからず驚いていた。チョコレートの甘い香りに気分まで乗せられてしまったのだろうか。チョコレートや恐るべし。
それにしてもチョコレートと一緒に気持ちを伝えるということは、コクハクというものをするということだ。それ、は、どうやって?当然ながら、したことがない。
ああ、しまったと霊夢はうなだれる。文に気持ちを伝えてみては、と提案されたときに聞いてみればよかった。
文は長く生きてるらしいし器量よしだから、自分からしたことがなくても告白されたことはありそうだ。だというのにこういうときに限って文が来ないのだ。味見もしてほしかったのに。節分のとき、節分の顛末とかバレンタイン特集がどーたら言っていたから、けっこう忙しくしているのかもしれない。
はぁ、と大きく息を吐く。ため息ではない。決して。出来上がったチョコレートを誰かに食べてみてほしい。そして「告白」に関して他の人の話が聞いてみたい。
普段飄々としている霊夢といえ、思春期の娘である。まして、大げさかもしれないが霊夢にとっては人生初の、そして自分の今後も左右するかもしれない一大事である。
ここまでの一連の流れ上霊夢が相談するべきは文なのだが、来ないものは仕方がない。探しに行くのも違う気がする。どうしようか。そうだ、つくったはいいがこれを包むものがないんだった、と一人なのにわざとらしく思いつく。出来上がったときからそんなことわかっていたのに。材料を買う時点ではチョコレートだけに意識が集中していて、それどころではなかったのだ。
「アリスのところならそういうのありそうね。……それに、聞きたいことも聞けそうだし」
誰にともなくつぶやくと、食器棚を漁ってふたの出来る入れ物を探し、出来上がったトリュフチョコレートなるものを入れて霊夢は神社を後にした。
――魔法の森 アリス・マーガトロイド邸
アリスは突然訪問した霊夢を嫌な顔をすることなく入れてくれた。家に招き入れてもらったと同時に甘いチョコレートの匂いに包まれた。予想通りアリスはバレンタインの準備中だったようだ。中には幽香がいた。目が合うと自分の家に来たかのように「いらっしゃい」と笑顔で言われた。二人は恋人同士なのだからいてもおかしくないのだけど、ラブシーンを邪魔したわけではないようなので安堵する。
訪問の理由を聞かれて、持参したチョコレートの味見とそれを入れる箱と包むものがほしいと正直に伝えた。柄じゃないことをしているのは霊夢とてわかっている。予想外に幽香もいたから気後れしたが、それくらいで怯んでいてはここに来た意味がない。自分でも情けないくらい、自信なさげにおずおずと二人の前に差し出した。
「すごいじゃない! これ、霊夢が作ったの? しかもおいしい! どうやって作ったの?」
「咲夜が作り方教えてくれたの。簡単なヤツ。えっと、カステラをぼろぼろにして、溶かしたチョコレートと一緒にして、でその後……」
咲夜のメモは神社に置いてきてしまったのでうまく説明できてるか心配だったが、普段から菓子作りをしているアリスには何とか伝わったようだ。
「へぇー、カステラねぇ。いいアイデアだわ。もともとおいしいカステラなら味は間違いないものね。さすが咲夜」
「……ホントにおいしい?」
「おいしいわよ! ね、幽香?」
「ええ。美味しいわ。チョコとカステラって合うのね」
「……そう、よかった」
幽香の言葉を聞いてやっとチョコの味に安心できた。アリスは優しいから嘘でもおいしいと言ってくれそうだが、幽香はこういうことに嘘はつかないイメージがあるから信じたくなる。アリスが幽香になにかしらアイコンタクトで訴えてもいなかったので、たぶんきっと味は大丈夫なのだろう。
「ところでアリスはやっぱり今年もみんなに配るの?」
「そうね。今ちょうど作ってたところ。試作も兼ねて、だけど」
「私は味見役」
言うそばから幽香は目の前のチョコに手を伸ばしている。そこでふと霊夢はあることに思い当たった。幽香は時にわかりやすいぐらいのヤキモチ焼きなのに、アリスが他の人妖にチョコをあげてるのに怒っていないということに。
「……幽香はバレンタインが何の日か、知ってるの?」
「ええ、もちろん知ってるわよ。はろいんみたいに知り合いにチョコを配る日でしょ?」
「え?」
知ってて当たり前のドヤ顔で答えられる。確かに間違いじゃない。そんなことも文は言っていた。けれどつい最近文に植え付けられた「好きな人に~」な日と思い込んでいたため、思わず疑問の声をあげてしまった。そこで間髪入れずアリスがわりこんでくる。
「あっ、と! 霊夢は包装紙が必要なのよね?幽香!悪いんだけど私の部屋にあるラッピング用のリボンを持ってきてくれない?箱と包装紙はもうここにあるんだけどリボンは足りないの」
「なんで私が」
「食べてばっかりいないで少しは手伝いなさい。それに今おなべの火から目が離せないの」
「……しかたないわね。部屋のどこにあるのよ」
「えーっと、机のひきだしの中、上から二番目だったかしら」
「「……」」
「アリス…」
幽香がやれやれと呟きながら居間を出て行くのを見送ってから霊夢は言う。いいの、あれ、という視線と共に。
「くっ……何も言わないで。ホントのこと言うといろいろうるさいから……私にとっては作るのも楽しみなイベントだし、せっかく作ったんだもの。アレ以外にもあげたいじゃない? 別に他意はないんだし。お世話になってるお礼だし友チョコくらいあげてもいいじゃない」
「そりゃもらえるこちらとしてはありがたい限りだけど」
「……だっていろんなチョコつくりたかったんだもの! そしたらみんなに配らないとさばけないでしょ?」
「……バレないことを祈るわ。多分そのうちバレると思うけど」
「ありがとう(涙)……で?誰にあげるの。そのチョコレート。魔理沙?」
「ああ、うん。そうね、魔理沙にあげようかな。どうせもらうだろうし」
「うわー、なにそのいかにもとってつけた感。魔理沙が不憫だわ……」
「いいのよ。魔理沙の本命は私じゃないんだし。友チョコとやらには友チョコで返すわよ」
「あら、そうなの?」
「そうなの」
「霊夢のお相手ねぇ。なんとなく見当はつくけど今その話すると、私が面倒なことになりそうだから我慢するわ」
「そうね、それがいいと思うわ。それに私も助かるわ」
「そうね、箱と包装紙とリボン代はツケておくから、そのうち聞かせてもらいたいわね」
「えぇー、幽香への口止め料とでチャラにならない?」
「ぐっ…卑怯な」
「振り回されてるわねぇ」
「いいのよ、恋人なんだから」
あまりにアリスがきっぱりと言い切ったのでしばし言葉を失った。少しの嫉妬を自覚しながら呆れた口調を装って言う。
「開き直ったわね」
「放っておいてちょうだい。……そうね、霊夢が黙っていてもそのうち意味がなくなりそうだから、意味がなくなるまではそれで有効としてあげてもいいわよ」
「有効期限短そう」
「「……フフッ」」
なんだかおかしい。二人目を合わせて微笑んだところで幽香が戻ってきた。リボン数本を手に持って。
「アリス。これのことでいいの? いっぱいありすぎてどれのことだかわからなかったわよ」
「いい、いい。ありがとね、幽香」
「べつに、これくらい……」
目の前の二人を見て、今回の訪問のもう一つの目的のことを思い出した。ともすればそれは、箱や包装紙より余程重大なことであった。
「霊夢、この中から好きな」
「ねぇ、どっちが告白して二人はつきあうことになったの?」
脈絡はないがこの手のことは先手必勝が肝要だろう。そう勝手に考えて、アリスが話しかけてるのをまるで無視して自分の質問を直球で放り投げた。ぞんざい過ぎてアリスに若干申し訳ない気持ちもあるが、知りたいという自分勝手な欲求が勝った。
「……はぁ!?」
突然の質問にアリスは目を丸くしている。まぁそうだろう。霊夢の想い人云々は不問に付すということになったのに、まさか自分が問いかけられるとは思ってもみなかったに違いない。しかも当の恋人を目の前にして。
一方の幽香は一瞬驚いた顔を見せたものの、もう平静を取り戻しているようでいつもの紳士の笑顔で答えた。
「私が言ったわ」
「ちょ、幽香」
「――へぇ」
意外だ。アリスが頑張ったんじゃないかと予想していたのに。何かを思い出したのか、幽香の笑みが深くなる。幽香の機嫌がいいのに乗っかって、続けて質問する。
「なんて言ったの?」
「幽香、ちょっと」
「あなたが好きよ、って」
アリスがずいぶん慌てている。幽香から告白したというのにこのアリスの慌てよう。なにかがあったのだろうか。霊夢が少しアリスの顔色を気にしていると、幽香が続けた。
「――ただし、アリスが明確な好意を示してくれた後で、だけれど」
「幽香っ!!」
アリスの声が、それまでとは比べ物にならない大きさで響いた。先ほどまでの慌てようとはうってかわって、明らかに不機嫌顔になっている。
面白がっていた霊夢と幽香の興奮が一気に冷める。二人共通して「これ以上はヤバい」と肌で感じていた。
束の間、静寂に包まれたが、やはりというか大人というか、緊張が高まったその場の空気を元に戻そうと動いてくれたのはアリスだった。ため息を一つついた後、霊夢に話しかける。
「……霊夢、こういう箱状のものを綺麗に包むやり方知ってる?」
「うっ、ううん! 知らないの! だからそれも教えてもらおうと思って……」
「ええ、じゃあまず箱の大きさね。トリュフは何個くらい入れるつもり?多すぎず少なすぎずで言うと六個~八個くらいかしらね。で、それくらいだとこの箱の大きさでちょうどいいと思うわ」
アリスがそれまでの展開を無視して霊夢に包装を教えるということは、さきほどの件はもうおしまいということだ。美鈴ではないが、それくらいの気は読める。
しばらく黙ってアリスと霊夢を見ていた幽香がアリスを呼んだ。
「アリス」
「で、ここにこうテープを張って固定して、今度はこっちに折りこむの」
「……うん、わかった」
「アリス。………アリ」
「今霊夢と話してるの。黙ってて」
ピシャリと言われて幽香が言葉を飲み込む。幽香はあまり顔に出ないので傍目にはわからないが、内心動揺しているのが感じられた。幽香には悪いが自分が何か言ったり取り繕ったりしたところでアリスの態度を軟化させることはできないだろう。これ以上こじれるのを避けるため、アリスに言われるままに手ほどきを受けることにした。
いらない紙をもらって、何回か箱を包む練習をする。箱にかけるリボンの結び方も教わった。これで、神社に帰ってもなんとか一人で出来そうだ。ぎくしゃくさせてしまった恋人たちも気になるので、そろそろ帰ることを霊夢は伝えた。
「もう帰るの? まぁ、他にすることもあるでしょうし暗くなる前に帰ったほうがいいわね。ちょっと待ってて。お土産あげる」
言いながらアリスが席を立つ。幽香が物言いたげな瞳でアリスを見送る。
……この状況の元凶は自分の質問である。せめてもと、無言で目の前の幽香にごめんのポーズで謝罪する。幽香はそれに目を伏せて応えた。先刻までの幽香と比べるとだいぶしょんぼりしているように見える。
戻ってきたアリスが霊夢の前にぽとんと巾着型の透明な袋を差し出す。
「ちょっと早いけど霊夢へのバレンタイン。ザ・友チョコ☆」
「いいの?」
「いいの。神社に行く手間が省けたわ。当日でなくて悪いけど。あ、そうそうもう一つ」
アリスがまたテーブルを離れる。そうやってアリスが右へ左へ行ったり来たりしている間、幽香の顔と視線も同じように行ったり来たり、アリスの顔色を伺うみたいに動いていた。なんだか飼い主のご機嫌を伺う犬みたいだ。
なにこれ面白い、その上なんかかわいい、と思わず笑いそうになったが、ここで幽香にとってはひよっ子と言ってもいいはずの霊夢に笑われるのは、あまりに幽香がかわいそうな気がしたので我慢した。
先ほどアリスとの会話の中で「振り回されてるわね」と霊夢は言ったが、振り回されているのはどうやらアリスだけではないようだ。文字通り――物理的にも精神的にも。
ラッピング用の資材と、もらった友チョコをアリスが紙袋にまとめてくれた。それを手にして扉を開ける。アリスは先にたって外に出る。どうやらお見送りもしてくれるようだ。幽香は椅子に座ったままだった。相変わらずのうかない顔。アリスのお怒りに触れるまではご機嫌だっただけに少々気の毒だ。
「幽香、ありがと。またね」
アリスがそう離れていない場所にいるので、感謝の言葉のみを伝えて、心の中で謝罪をもう一度。幽香はかすかに笑って片手を振ってくれた。これまた心の中でがんばれとしかエールが送れない。
霊夢が幽香に挨拶が済んだのを見てアリスが入り口の扉を閉めてしまった。まだ怒っているのだろうか、と思ったところでアリスが口を開く。
「霊夢、さっきはごめんなさい。でもね、あれね……その、別に霊夢に言いたくないわけじゃなくって。聞いてもいいことなのよ? それは誤解しないでほしいの」
「うん……私も面白がって聞いたりして、ごめん」
「だから霊夢は悪くないわ。気まずい思いさせちゃってごめんね。その、幽香の前ではちょっと、イヤだったの。というか、恥ずかしいというのが大きかったんだけど。悪いのはあのバカ妖怪だから。今度時間のあるときにちゃんと話すわ。まったく幽香のあのいかにもな……ああ、思い出しても腹が立つわ」
「話を振ったのは私だから。手加減してやって頂戴。ふふっ……あのあとずっと幽香が飼い主に叱られた犬みたいで、なんかかわいそうを通り越してちょっと面白かったわ。幽香ってかわいいのねぇ」
「あげないわよ」
「幽香の方が来ようとしないわよ。うちには幽香の大嫌いな妖怪が居座ってるしね」
「確かに」
お互い笑って別れた。あのアリスの笑顔を見れば、幽香がお許しをもらえるのもそう時間はかからないだろう。気になっていたので安心した。
神社へ向かって飛びながら、さっきまでのことを頭の中で反芻する。なんだかんだで二人の仲の良さを見せつけられてしまった。かわいそうかわいかった幽香を思い出してクスリと笑う。自分でも知らずいいなぁとつぶやいていた。
アリスの堂々とした「恋人なんだから」発言を思い出す。その短い一言に全てが集約されてるんだろう。怒るのも振り回されるのもその他のことも、相手が幽香だからアリスはかまわないということだ。きっと、また逆も然り。
うらやましかった。既に恋人同士な二人が。そうなるまでにいろいろ大変だったとは思うけど、二人がうらやましくて仕方がなかった。
二人のようになりたければ、文の言うとおり何かしらの行動を起こさねばならないのだ。
「あなたが好きよ、かぁ……幽香すごいなぁ」
幽香の言葉を思い出して、言ってみたら以外にもするりと言葉は出てきた。一人きりの今だから、言える言葉。幽香はちゃんと言ったんだ。確信がもてたからとか言っていたけど。あの様子を察するにアリスがきっと頑張ったんだろう。
また二人のことを思い出して、心が温かくなって口も笑みの形を作っているのに、なぜか涙がにじんで前方の視界がぼやけた。
「あっれぇー……なんなのよ、もう」
ぼやいてぐしぐしと涙をぬぐってさらにスピードを上げる。流れる速度でこんな涙など乾いてしまえという願いを込めて。
――――紫の前に自分が立っていることを想像しただけなのだ。告白したわけでも拒否された想像をしたわけでもない。たかがそれだけで出てくる弱虫の涙なんか流す価値もない。
紫に愛されてる実感はある。それは霊夢が博麗の巫女だからかもしれないけれど。戯れに施される抱擁はとても心地のいいもので、ずっとこのままでいいとさえ感じることもあった。
けれどそれは親が子にする、もしくは年長者が下の者を可愛がる程度のもので。ともすれば藍や橙にするものとも変わらないもので。
いつからか、霊夢はそれでは嫌だと思うようになった。足りないと。もっと紫と、紫に近づきたかった。藍や橙よりも自分を特別に思ってほしいと思った。
――キスを、
されていたとチルノから聞いた時、腹が立った。キスをされたこと自体にではない。なぜ寝てる間にしたのかということに対して。怒りの矛先がそこだったのだ。霊夢が紫と母と子の関係でいたくないということを再確認するには十分だった。
霊夢だって紫にキスしたい。今までにも何度も何度も思ったのだ。自分の気持ちがまだわからない頃から、紫の綺麗な顔に髪に唇に触れたいと思っていた。思ってすぐに何を考えているのだと慌てて否定したりしていたけれど。
気持ちを伝えたら、できるようになるのだろうか。少なくとも、何も言わず行動もしなければ、今までの関係は変わらないことは確かだろう。
けれど霊夢には、今までの関係を壊すことが自分にとって本当にいいのかどうか、まだ答えが出せないでいた。
バレンタインまであと、三日。
後編へ
――バレンタイン三日前
文からの提案を聞いてからこれまでいろいろ考えていたが、そのうち疲れてしまった。いつまで考えても結論が出ない。だから、渡すか渡さないかは別として、とりあえずチョコレートを作るだけ作ってみようという結論に達した。
最初は買おうと思っていた。今までにチョコレートを作ったことなどない。しかし数日前に魔理沙が咲夜にチョコレートの作り方を教わっていると聞いて、魔理沙に作れるなら自分にも作れるだろうと根拠もなく決め込んだ。それに、やったことのない新しいことをしていれば、その間は今自分を悩ませている問題から一時離れられると考えた。
気持ちを伝えるかどうか、チルノから聞いた一件を問い詰めるのも、とりあえずは後回しにした。
咲夜のお菓子が食べたくなったと嘘をつき、野次馬を装って魔理沙についていった。無論自分が作ることは隠しておいた。魔理沙に知られるといろいろ面倒だ。
魔理沙が咲夜に教えてもらっているのに便乗しようと、レミリアと茶化しながらもガン見していたら、帰り際に咲夜が折り畳んだ紙を渡してきた。
咲夜の顔を見るとにっこり笑って、その笑んだ口元に人差し指を持ってきて、しぃー、のポーズ。とても、綺麗だった。思わず見惚れてしまうほどに。
魔理沙とわかれたあとで、畳まれていた紙を開くとそこにはトリュフチョコレートなるものの作り方が、綺麗な字とわかりやすい絵入りで書いてあった。
書いてある材料を見ると、全て里で調達できそうなものばかり。作り方も本当に簡単そうで、咲夜の教授がなくても大丈夫に思えた。その上魔理沙が作ろうとしていたものとも違うらしい。魔理沙はカステラなんて使っていなかった。何も言ってないのにここまでしてくれるとは。まったく瀟洒である。
咲夜のおかげでトリュフチョコレートなるものは出来た。出来てしまった。トリュフチョコレートを食べたことがないので、正しく出来たのかよくわからないのだが、自分で食べてみた分には、おいしい……と思う。おいしいのは何よりだが、今度は一時保留にしていた問題が浮上してくる。
チョコレートを作るまでは渡す渡さないはもとより、気持ちを伝えるか伝えないかが問題だったのに、チョコレートを作っているうちにどう気持ちを伝えるか、という方向へ変わっていってしまった。自分はそういう、恋する乙女的思考とは無縁と思っていただけに、少なからず驚いていた。チョコレートの甘い香りに気分まで乗せられてしまったのだろうか。チョコレートや恐るべし。
それにしてもチョコレートと一緒に気持ちを伝えるということは、コクハクというものをするということだ。それ、は、どうやって?当然ながら、したことがない。
ああ、しまったと霊夢はうなだれる。文に気持ちを伝えてみては、と提案されたときに聞いてみればよかった。
文は長く生きてるらしいし器量よしだから、自分からしたことがなくても告白されたことはありそうだ。だというのにこういうときに限って文が来ないのだ。味見もしてほしかったのに。節分のとき、節分の顛末とかバレンタイン特集がどーたら言っていたから、けっこう忙しくしているのかもしれない。
はぁ、と大きく息を吐く。ため息ではない。決して。出来上がったチョコレートを誰かに食べてみてほしい。そして「告白」に関して他の人の話が聞いてみたい。
普段飄々としている霊夢といえ、思春期の娘である。まして、大げさかもしれないが霊夢にとっては人生初の、そして自分の今後も左右するかもしれない一大事である。
ここまでの一連の流れ上霊夢が相談するべきは文なのだが、来ないものは仕方がない。探しに行くのも違う気がする。どうしようか。そうだ、つくったはいいがこれを包むものがないんだった、と一人なのにわざとらしく思いつく。出来上がったときからそんなことわかっていたのに。材料を買う時点ではチョコレートだけに意識が集中していて、それどころではなかったのだ。
「アリスのところならそういうのありそうね。……それに、聞きたいことも聞けそうだし」
誰にともなくつぶやくと、食器棚を漁ってふたの出来る入れ物を探し、出来上がったトリュフチョコレートなるものを入れて霊夢は神社を後にした。
――魔法の森 アリス・マーガトロイド邸
アリスは突然訪問した霊夢を嫌な顔をすることなく入れてくれた。家に招き入れてもらったと同時に甘いチョコレートの匂いに包まれた。予想通りアリスはバレンタインの準備中だったようだ。中には幽香がいた。目が合うと自分の家に来たかのように「いらっしゃい」と笑顔で言われた。二人は恋人同士なのだからいてもおかしくないのだけど、ラブシーンを邪魔したわけではないようなので安堵する。
訪問の理由を聞かれて、持参したチョコレートの味見とそれを入れる箱と包むものがほしいと正直に伝えた。柄じゃないことをしているのは霊夢とてわかっている。予想外に幽香もいたから気後れしたが、それくらいで怯んでいてはここに来た意味がない。自分でも情けないくらい、自信なさげにおずおずと二人の前に差し出した。
「すごいじゃない! これ、霊夢が作ったの? しかもおいしい! どうやって作ったの?」
「咲夜が作り方教えてくれたの。簡単なヤツ。えっと、カステラをぼろぼろにして、溶かしたチョコレートと一緒にして、でその後……」
咲夜のメモは神社に置いてきてしまったのでうまく説明できてるか心配だったが、普段から菓子作りをしているアリスには何とか伝わったようだ。
「へぇー、カステラねぇ。いいアイデアだわ。もともとおいしいカステラなら味は間違いないものね。さすが咲夜」
「……ホントにおいしい?」
「おいしいわよ! ね、幽香?」
「ええ。美味しいわ。チョコとカステラって合うのね」
「……そう、よかった」
幽香の言葉を聞いてやっとチョコの味に安心できた。アリスは優しいから嘘でもおいしいと言ってくれそうだが、幽香はこういうことに嘘はつかないイメージがあるから信じたくなる。アリスが幽香になにかしらアイコンタクトで訴えてもいなかったので、たぶんきっと味は大丈夫なのだろう。
「ところでアリスはやっぱり今年もみんなに配るの?」
「そうね。今ちょうど作ってたところ。試作も兼ねて、だけど」
「私は味見役」
言うそばから幽香は目の前のチョコに手を伸ばしている。そこでふと霊夢はあることに思い当たった。幽香は時にわかりやすいぐらいのヤキモチ焼きなのに、アリスが他の人妖にチョコをあげてるのに怒っていないということに。
「……幽香はバレンタインが何の日か、知ってるの?」
「ええ、もちろん知ってるわよ。はろいんみたいに知り合いにチョコを配る日でしょ?」
「え?」
知ってて当たり前のドヤ顔で答えられる。確かに間違いじゃない。そんなことも文は言っていた。けれどつい最近文に植え付けられた「好きな人に~」な日と思い込んでいたため、思わず疑問の声をあげてしまった。そこで間髪入れずアリスがわりこんでくる。
「あっ、と! 霊夢は包装紙が必要なのよね?幽香!悪いんだけど私の部屋にあるラッピング用のリボンを持ってきてくれない?箱と包装紙はもうここにあるんだけどリボンは足りないの」
「なんで私が」
「食べてばっかりいないで少しは手伝いなさい。それに今おなべの火から目が離せないの」
「……しかたないわね。部屋のどこにあるのよ」
「えーっと、机のひきだしの中、上から二番目だったかしら」
「「……」」
「アリス…」
幽香がやれやれと呟きながら居間を出て行くのを見送ってから霊夢は言う。いいの、あれ、という視線と共に。
「くっ……何も言わないで。ホントのこと言うといろいろうるさいから……私にとっては作るのも楽しみなイベントだし、せっかく作ったんだもの。アレ以外にもあげたいじゃない? 別に他意はないんだし。お世話になってるお礼だし友チョコくらいあげてもいいじゃない」
「そりゃもらえるこちらとしてはありがたい限りだけど」
「……だっていろんなチョコつくりたかったんだもの! そしたらみんなに配らないとさばけないでしょ?」
「……バレないことを祈るわ。多分そのうちバレると思うけど」
「ありがとう(涙)……で?誰にあげるの。そのチョコレート。魔理沙?」
「ああ、うん。そうね、魔理沙にあげようかな。どうせもらうだろうし」
「うわー、なにそのいかにもとってつけた感。魔理沙が不憫だわ……」
「いいのよ。魔理沙の本命は私じゃないんだし。友チョコとやらには友チョコで返すわよ」
「あら、そうなの?」
「そうなの」
「霊夢のお相手ねぇ。なんとなく見当はつくけど今その話すると、私が面倒なことになりそうだから我慢するわ」
「そうね、それがいいと思うわ。それに私も助かるわ」
「そうね、箱と包装紙とリボン代はツケておくから、そのうち聞かせてもらいたいわね」
「えぇー、幽香への口止め料とでチャラにならない?」
「ぐっ…卑怯な」
「振り回されてるわねぇ」
「いいのよ、恋人なんだから」
あまりにアリスがきっぱりと言い切ったのでしばし言葉を失った。少しの嫉妬を自覚しながら呆れた口調を装って言う。
「開き直ったわね」
「放っておいてちょうだい。……そうね、霊夢が黙っていてもそのうち意味がなくなりそうだから、意味がなくなるまではそれで有効としてあげてもいいわよ」
「有効期限短そう」
「「……フフッ」」
なんだかおかしい。二人目を合わせて微笑んだところで幽香が戻ってきた。リボン数本を手に持って。
「アリス。これのことでいいの? いっぱいありすぎてどれのことだかわからなかったわよ」
「いい、いい。ありがとね、幽香」
「べつに、これくらい……」
目の前の二人を見て、今回の訪問のもう一つの目的のことを思い出した。ともすればそれは、箱や包装紙より余程重大なことであった。
「霊夢、この中から好きな」
「ねぇ、どっちが告白して二人はつきあうことになったの?」
脈絡はないがこの手のことは先手必勝が肝要だろう。そう勝手に考えて、アリスが話しかけてるのをまるで無視して自分の質問を直球で放り投げた。ぞんざい過ぎてアリスに若干申し訳ない気持ちもあるが、知りたいという自分勝手な欲求が勝った。
「……はぁ!?」
突然の質問にアリスは目を丸くしている。まぁそうだろう。霊夢の想い人云々は不問に付すということになったのに、まさか自分が問いかけられるとは思ってもみなかったに違いない。しかも当の恋人を目の前にして。
一方の幽香は一瞬驚いた顔を見せたものの、もう平静を取り戻しているようでいつもの紳士の笑顔で答えた。
「私が言ったわ」
「ちょ、幽香」
「――へぇ」
意外だ。アリスが頑張ったんじゃないかと予想していたのに。何かを思い出したのか、幽香の笑みが深くなる。幽香の機嫌がいいのに乗っかって、続けて質問する。
「なんて言ったの?」
「幽香、ちょっと」
「あなたが好きよ、って」
アリスがずいぶん慌てている。幽香から告白したというのにこのアリスの慌てよう。なにかがあったのだろうか。霊夢が少しアリスの顔色を気にしていると、幽香が続けた。
「――ただし、アリスが明確な好意を示してくれた後で、だけれど」
「幽香っ!!」
アリスの声が、それまでとは比べ物にならない大きさで響いた。先ほどまでの慌てようとはうってかわって、明らかに不機嫌顔になっている。
面白がっていた霊夢と幽香の興奮が一気に冷める。二人共通して「これ以上はヤバい」と肌で感じていた。
束の間、静寂に包まれたが、やはりというか大人というか、緊張が高まったその場の空気を元に戻そうと動いてくれたのはアリスだった。ため息を一つついた後、霊夢に話しかける。
「……霊夢、こういう箱状のものを綺麗に包むやり方知ってる?」
「うっ、ううん! 知らないの! だからそれも教えてもらおうと思って……」
「ええ、じゃあまず箱の大きさね。トリュフは何個くらい入れるつもり?多すぎず少なすぎずで言うと六個~八個くらいかしらね。で、それくらいだとこの箱の大きさでちょうどいいと思うわ」
アリスがそれまでの展開を無視して霊夢に包装を教えるということは、さきほどの件はもうおしまいということだ。美鈴ではないが、それくらいの気は読める。
しばらく黙ってアリスと霊夢を見ていた幽香がアリスを呼んだ。
「アリス」
「で、ここにこうテープを張って固定して、今度はこっちに折りこむの」
「……うん、わかった」
「アリス。………アリ」
「今霊夢と話してるの。黙ってて」
ピシャリと言われて幽香が言葉を飲み込む。幽香はあまり顔に出ないので傍目にはわからないが、内心動揺しているのが感じられた。幽香には悪いが自分が何か言ったり取り繕ったりしたところでアリスの態度を軟化させることはできないだろう。これ以上こじれるのを避けるため、アリスに言われるままに手ほどきを受けることにした。
いらない紙をもらって、何回か箱を包む練習をする。箱にかけるリボンの結び方も教わった。これで、神社に帰ってもなんとか一人で出来そうだ。ぎくしゃくさせてしまった恋人たちも気になるので、そろそろ帰ることを霊夢は伝えた。
「もう帰るの? まぁ、他にすることもあるでしょうし暗くなる前に帰ったほうがいいわね。ちょっと待ってて。お土産あげる」
言いながらアリスが席を立つ。幽香が物言いたげな瞳でアリスを見送る。
……この状況の元凶は自分の質問である。せめてもと、無言で目の前の幽香にごめんのポーズで謝罪する。幽香はそれに目を伏せて応えた。先刻までの幽香と比べるとだいぶしょんぼりしているように見える。
戻ってきたアリスが霊夢の前にぽとんと巾着型の透明な袋を差し出す。
「ちょっと早いけど霊夢へのバレンタイン。ザ・友チョコ☆」
「いいの?」
「いいの。神社に行く手間が省けたわ。当日でなくて悪いけど。あ、そうそうもう一つ」
アリスがまたテーブルを離れる。そうやってアリスが右へ左へ行ったり来たりしている間、幽香の顔と視線も同じように行ったり来たり、アリスの顔色を伺うみたいに動いていた。なんだか飼い主のご機嫌を伺う犬みたいだ。
なにこれ面白い、その上なんかかわいい、と思わず笑いそうになったが、ここで幽香にとってはひよっ子と言ってもいいはずの霊夢に笑われるのは、あまりに幽香がかわいそうな気がしたので我慢した。
先ほどアリスとの会話の中で「振り回されてるわね」と霊夢は言ったが、振り回されているのはどうやらアリスだけではないようだ。文字通り――物理的にも精神的にも。
ラッピング用の資材と、もらった友チョコをアリスが紙袋にまとめてくれた。それを手にして扉を開ける。アリスは先にたって外に出る。どうやらお見送りもしてくれるようだ。幽香は椅子に座ったままだった。相変わらずのうかない顔。アリスのお怒りに触れるまではご機嫌だっただけに少々気の毒だ。
「幽香、ありがと。またね」
アリスがそう離れていない場所にいるので、感謝の言葉のみを伝えて、心の中で謝罪をもう一度。幽香はかすかに笑って片手を振ってくれた。これまた心の中でがんばれとしかエールが送れない。
霊夢が幽香に挨拶が済んだのを見てアリスが入り口の扉を閉めてしまった。まだ怒っているのだろうか、と思ったところでアリスが口を開く。
「霊夢、さっきはごめんなさい。でもね、あれね……その、別に霊夢に言いたくないわけじゃなくって。聞いてもいいことなのよ? それは誤解しないでほしいの」
「うん……私も面白がって聞いたりして、ごめん」
「だから霊夢は悪くないわ。気まずい思いさせちゃってごめんね。その、幽香の前ではちょっと、イヤだったの。というか、恥ずかしいというのが大きかったんだけど。悪いのはあのバカ妖怪だから。今度時間のあるときにちゃんと話すわ。まったく幽香のあのいかにもな……ああ、思い出しても腹が立つわ」
「話を振ったのは私だから。手加減してやって頂戴。ふふっ……あのあとずっと幽香が飼い主に叱られた犬みたいで、なんかかわいそうを通り越してちょっと面白かったわ。幽香ってかわいいのねぇ」
「あげないわよ」
「幽香の方が来ようとしないわよ。うちには幽香の大嫌いな妖怪が居座ってるしね」
「確かに」
お互い笑って別れた。あのアリスの笑顔を見れば、幽香がお許しをもらえるのもそう時間はかからないだろう。気になっていたので安心した。
神社へ向かって飛びながら、さっきまでのことを頭の中で反芻する。なんだかんだで二人の仲の良さを見せつけられてしまった。かわいそうかわいかった幽香を思い出してクスリと笑う。自分でも知らずいいなぁとつぶやいていた。
アリスの堂々とした「恋人なんだから」発言を思い出す。その短い一言に全てが集約されてるんだろう。怒るのも振り回されるのもその他のことも、相手が幽香だからアリスはかまわないということだ。きっと、また逆も然り。
うらやましかった。既に恋人同士な二人が。そうなるまでにいろいろ大変だったとは思うけど、二人がうらやましくて仕方がなかった。
二人のようになりたければ、文の言うとおり何かしらの行動を起こさねばならないのだ。
「あなたが好きよ、かぁ……幽香すごいなぁ」
幽香の言葉を思い出して、言ってみたら以外にもするりと言葉は出てきた。一人きりの今だから、言える言葉。幽香はちゃんと言ったんだ。確信がもてたからとか言っていたけど。あの様子を察するにアリスがきっと頑張ったんだろう。
また二人のことを思い出して、心が温かくなって口も笑みの形を作っているのに、なぜか涙がにじんで前方の視界がぼやけた。
「あっれぇー……なんなのよ、もう」
ぼやいてぐしぐしと涙をぬぐってさらにスピードを上げる。流れる速度でこんな涙など乾いてしまえという願いを込めて。
――――紫の前に自分が立っていることを想像しただけなのだ。告白したわけでも拒否された想像をしたわけでもない。たかがそれだけで出てくる弱虫の涙なんか流す価値もない。
紫に愛されてる実感はある。それは霊夢が博麗の巫女だからかもしれないけれど。戯れに施される抱擁はとても心地のいいもので、ずっとこのままでいいとさえ感じることもあった。
けれどそれは親が子にする、もしくは年長者が下の者を可愛がる程度のもので。ともすれば藍や橙にするものとも変わらないもので。
いつからか、霊夢はそれでは嫌だと思うようになった。足りないと。もっと紫と、紫に近づきたかった。藍や橙よりも自分を特別に思ってほしいと思った。
――キスを、
されていたとチルノから聞いた時、腹が立った。キスをされたこと自体にではない。なぜ寝てる間にしたのかということに対して。怒りの矛先がそこだったのだ。霊夢が紫と母と子の関係でいたくないということを再確認するには十分だった。
霊夢だって紫にキスしたい。今までにも何度も何度も思ったのだ。自分の気持ちがまだわからない頃から、紫の綺麗な顔に髪に唇に触れたいと思っていた。思ってすぐに何を考えているのだと慌てて否定したりしていたけれど。
気持ちを伝えたら、できるようになるのだろうか。少なくとも、何も言わず行動もしなければ、今までの関係は変わらないことは確かだろう。
けれど霊夢には、今までの関係を壊すことが自分にとって本当にいいのかどうか、まだ答えが出せないでいた。
バレンタインまであと、三日。
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