はて。
博麗霊夢なる方のお話、でございますか。これはまた……
ええ勿論。覚えておりますとも。
長き博麗家の歴史の中でも、霊夢様ほどに聡明非凡にして、また魅力に富める方は他に居られますまい。
私自身、こうして眼を閉じますれば――眼があればの話でございますがな――
四季の綾なす國の、胸躍る数々の出来事が、昨日の事のように思い出されます。
私で良ければ、お話仕りましょう。
◇◇◇
なに、私の身の上でございますか。
名乗る程の者ではございません。見ての通り、ただの道具でございますよ。
思えば私も、元はただ一匹の狐でございました。
懐かしき事です。ひねもす悠々と羅生門の天辺に居座っては、都大路を行き交う人々を眺めたものでございます。
時折は戯れに、人間相手にさんざん化かして遊んだりもしたものです。
それが、いつの時分でございましたかな。
何処ぞの何某とかいう高名な陰陽師が、悪戯の過ぎる私を退治て今のような姿に封じてしまったのでございますよ。
以来、何の因果か幾世紀にも渡って、世の為人の為と悪鬼妖魔を退治る身の上と相なりました。
私が博麗家へと伝えられたのは、さる仏狂いの帝が崩御あそばされた時分でございます。
何ゆえに陰陽師の道具などが、神官家の手へと渡る事となったのでありましょうか。
之ばかりは、狐の私には伺いかねる事でございます。
折りしも、私が「陰陽玉」と呼ばれる様になったのはその頃からの事でございます。
◇◇◇
……もう宜しいでしょう。
狐の長話などに付き合うものではございません。いつ何時、化かされるとも知れませんからな。
そう、博麗霊夢様のお話でしたな。
なに、風体は今の世に伝えられる通りのお方でございますれば、別段ご説明申し上げる必要もありますまい。
あのお方の不可思議な生涯は奇譚に事欠きません。どのお話しから語った物でございましょうな。
さぁ、お若い方。どうぞ行灯をお付けなさい。
今宵の様な静かな夜とて、この幻想郷、何処に怪しの物が潜んでいるとも知れませんぞ。
尤も霊夢様以来、そういった化生の類とは随分折り合いをつけたものでございますが。
そういった冒険のお話しをお望みでございますかな。
宜しゅうございます。さすれば、かの人食いに出会ったお話しを致しましょう。
今の世にまで、博麗霊夢の名を広める事となりました、長き旅路の最初の一節を。
……何、暗闇がお好みとある。
成程、私の様な者を探し尋ねた貴方様も、中々の変わり者と言うことでございますな。
それでは暫し、老い耄れ妖めの昔話にお付き合い頂きましょう。
◇◇◇
往古の、ある夏の事でございました。
さてしも、幻想郷の夏景色と申せば、それはそれは生命の力に充ちたものでございます。
惜しみなき日差しに生い茂る、厳し木々の取り取り。そは、せせらぐ川に映りて、木漏れ日は弥々眩しゅうございます。
殊に、山の端に伏しゆく夕の陽が、色彩から影へと景色を変えて行く刻限の哀愁たるや、この世のものとは思われません。
やがて、山も人里も透き通る闇の中に閉ざされ、夕の陽が焦がしおいた風の香の衣に柔らかに包み込まれるのです。
……げにも「夏は夜」とは言うたものでございます。
はて、しかしながら去る年の夏、その風情はとある異変のもとに侵されました。
かの高く眩しきはずの空が、皐月の晦日になりますれど、得体の知れぬ霧に暗く暗く閉ざされていたのでございます。
どう得体の知れないかと申せば……そう、口にするにもおぞましゅうございますが。
紅き霧。と申せば沢山でございましょう。
その様、血飛沫が煙と舞うたが如き、殺戮的な色彩でございました。
何処から来ると知る者も在りません。その霧は音もなく瞬く間に人里までを浸し、この地から緑の息吹を奪い去りました。
草木も花もにび黒くくすみ、濁る泉の水は硬く、村には童の声ひとつも聞こえません。
盆に向けた鬼灯たちが育ちきれずに気味の悪い朱に染まり、そのしわをつたう僅かな露さえ、陰鬱の気配に満ちておりました。
……さて。
幻想郷ニ異変在リ、とあらば、誰あろう博麗の巫女の舞台でございます。
而して、主がその機智をもって霧の元凶たる吸血鬼を退治たお話しは、また別の講釈と致しましょう。
今から私がお話し致しますのは、この怪異とは、実はなんの繋がりも無い、一人の幼子のお話なのでございます。
怪異とは隔たれた物語。それでいて私自身、あの人食いに初めて出くわした時の鮮烈な印象は、今も忘れる事ができずにおるのです。
そして何より驚くべきは、我が主が、そのすれ違うただけの人喰いと、やがては友情を交わしていたという事にほかなりません。
◇◇◇
やれ、人と話すのはいささか久しゅうございます。
語りだけでは退屈でございましょう。ここらで、狐めにひと化かし喰ろうて頂きましょうか。
この闇に体を浸すようにして、ゆるりとその瞳を閉じてごらんなさい。
さァて。
・・・・・・いかがです。瞳の奥に映り出ておりますでしょう。
あの日、あの時。我が胸の中に今もある、遠き夏の日の、暗き日暮れの景色が。
ご覧の通り、夜ともなればかの不思議な霧も澄み始めます。ほんの微かな星の煌きが空一面に宿っておりました。
物語りは此処、博麗神社の境内から始まります。
「さて」
お見えになりましょう。
あのお方こそ、かつての主。博麗神社宮司・博麗霊夢様でございます。
整った顔立ち。やや白い肌。幼く見える装い。淡白な表情。
手に持った祭具は御幣と申しまして、ここでは神の宿り代となるものでございます。
リボンで結ばれた黒髪が夜風にゆれて、淡い香りをくゆらせておりました。
「そろそろ行くか」
誰に言うとも無く、主は呟きました。
あるいは私に話しかけたのでございましょうか。
お分かりいただけるかは存じませんが、あのお方と私とは、主従を越えた強い絆で結ばれておりました。
人と道具の仲とは言え、数々の死線をも越えた相棒であったのでございますから。
しばらくして、ふわり と両の足が参道から離れます。
私達は夜空のもと、不思議な不思議な冒険の旅へと漕ぎ出したのでございました。
◇◇◇
境内に並ぶ、今や裸の楠をすぎゆけば、向かう先は椿と榊葉の百重なす境内裏にございます。
枝の先は未だ蕾のままなれども、微かに漏るる蜜の香を餞別にして、我々に迎夏の成就を託しておりました。
旅立ちから程なくして、夜暗の遠近に現るるは、幾多もの悪霊どもでございました。
古き良き東方の地の弾幕勝負は筆舌に尽くしがたいものですからな。こうして幻にて見て頂ければ……
おや、驚いておられますな。
左様、やっつけるのでございますよ!……たとい、ただの通りすがりであろうとも、でございます。
殺めた訳ではございません。魂の力を暫し拝借するだけの事でございます。
「おっかける弾なんて ずるい」という顔をして爆ぜる彼女らを見るのは、中々愉快でございましょう?いかがですかな。
彼奴等を駆逐した虚空には、そこここに、力を宿した紅い魂が煌々と浮かび上がっております。
主は戯れるように空路を舞い、その魂を拾いながら少しずつ私に覚醒を与えてくださいました。
その真紅を取り入れる度に私のこの胸は高鳴るのです。主との旅はいついかなる時も、力強き音楽に満ちておりました。
軍歌 奏てにけらし 鬼灯の 紅きにおほゆ 魂ら集ひて
( 戦いの歌を奏でているようだぞ。 鬼灯みたいに紅い魂 が集まって) 狐狗狸太夫
紅き魂と、闇夜の織り成す調べでございます。触りだけでも、どうぞお感じ頂きたいものです。
◇◇◇
丑の刻頃でありましょうか。
行く道は深き沙羅の木の木立に閉ざされ、月の影も届かぬ様になりました。
元より備えも無き旅でございます。
方角の標無く、滔々たる闇に空を行くは、さながら棚無し小舟の心地でございました。
今にして思いますれば、あの遥けき闇すらも、件の幼子の仕業であったのやもしれません。
主も流石に「参った」と頭を掻きつつ、道の気配を感ずる所まで降下致しました。
と、その時でございます。
前触れ無く眼の前の闇が砕き裂かれ、一筋の熱線が我らをかすめたのです。
穴畏。
己が身も見えぬ闇の中、私共は怪生の縄張りを犯して仕舞うたのでございます。
我が身を打つ戦慄は、琵琶弦を断絶したかの如き痛打と感ぜられました。
◇◇◇
夜風を焼く様な熱が、遠しとも近しとも取れぬ処より身をかすめてゆきます。
こめかみを砕く身の強張りを伝うる事は、言にても幻にても能いません。
人様よりは遥かに夜目の効く私でさえ、主の無事を知ることすら適わぬ程の暗黒でございます。
我が生命、一つはここで死するものと覚悟いたしました。
耐え難き痛みと苦痛はあれど、もはや死ぬことには胸の揺らぎすら感じえません。
私の体を一つ贄とすれば、暫時、何者も持ち主を傷つける事能わぬのです。その為にこそ私は紅き魂を宿していくのでございますよ。
定められた罰。陰陽玉たる私の宿命でございますから。
さはれあの頃、霊夢様と時を共にし、お傍に抱かれて空を行く日々だけは――
いや、話が逸れましたな。
暗闇の邂逅は、暫しの激火の後、これまた前触れ無く止み果てたのでございます。
かの鬼なる者も、人とは思えぬ主の身のこなしに感じいったのでございましょう。
濃き人の血の臭いだけを夜風に零して、何処かへと去りて行きました。
気付けば我々は木立を過ぎた何処かの丘の上。我が心の音色は止まず、むしろ、過ぎにし慄きにその勢いを増しておりました。
主はと申せば、怪異が去ってよりは、何事も起きなかったかのように相変わらず小悪霊を蹴散らしてゆきます。
何事も無かったようなお顔色は見ての通りでございます。さても、内は豪胆なる方にございますれば。
◇◇◇
「気持ちいいわね」
夜空にふと、主が呟きました。
幽玄の調べに聞き浸っていた私は、再び夜の静寂に気付いたものでございます。
「左様にございますな」
私はお答え申し上げました。
靡く主の黒髪が、夜風に艶やかな流れを描いておりました。
「毎回、昼間に出発して悪霊が少ないから、夜に出てみたんだけど……」
「げにも、危険な道中にございます。早々に抜けるべきでございましょう」
「どこに行っていいかわからないわ」
……今更でございますか?
狐につままれたような顔をしておりますと、
「暗くて」
と、笑顔で当たり前の事を仰います。
これまでの苦労はなんだったのでございましょうか。
主はくるりと体を仰向けに、寝転んだように、組んだ手を首にあてがっております。
「でも……」
主は、ゆっくりと瞬きをすると、物憂げに夜空を見下ろしました。
「夜の境内裏はロマンティックね」
あはれ。潤みを含む瞳で横目に見つめられ、私は言葉を失いました。
事も無さそうなお顔とは対称的に、こちらの心をくすぐるような事を仰います。
「のんきなお方でございます」
私に顔色が有りましたら、すっかり紅潮していた事でございましょう。
それ以上返事の出来ぬ私を、主は楽しそうに見つめておられました。
左様にて、お気づきの通りでございます。
あの夏の旅のみならず、あの頃の我が心、我が身は、須く霊夢様へ捧げる為にあったと言えましょう。
狐であり、卑しき従者であり、拙き道具である我が身の程を知らずにいた訳ではございません。
されど、あの日あの時、我が心は確かに、あのお方の心を乞ひておりました。
鬼の狐めは、己が主を好いていたのでございます。
「そうなのよね~。お化けも出るし、たまんないわ」
唐突に、私の代わりに返事をする声が聞こえて参りました。
驚いて見上げますと、見慣れぬ幼子が一人、夜闇の只中にふわふわと浮かんでおります。
眩い金色の髪は幼子らしい髪型に、片端には紅いりぼんが目立ちます。装いは地味な白と黒。
髪の色と、当たり前に浮かんでいる事の他は、見たとろこ里の幼子と変わりありません。摩訶不思議な光景でございました。
そして私達はまだ、この不思議さの正体が、猟奇と鬼気であったことに気付いておりませんでした。
◇◇◇
「って、あんた誰?」
「さっき会ったじゃない」
幼子は主に答えます。されど、つゆと覚えがありません。
「あんた、もしかして鳥目?」
不可思議な幼子の笑みだけが、闇をきりりと裂いた様に浮かぶばかりでございます。
主の答えます事には、
「人は暗いところでは物が良く見えないのよ」
と。
相手は相変わらず名乗りもしないでいますのに、主も随分と気さくなものでございます。
幼子は、子ども扱いが癪に触れたか、「それぐらい知っている」というように、頬を膨らして言いました。
「あら?夜しか活動しない人も見たことある気がするわ」
聞いて、主はさやさやと笑いました。誰ぞ、思い浮かべたのでございましょう。
にべもなく主が、此度は大人扱いをしてやろうと詠まれた歌一首。
小夜深し ふかしやみにし 痴あらば 誰ぞ咎むるや 取りて喰ひても
( 夜深し闇 に 夜更かし病み のバカがいたら、それは取って食べたりしてもいいのよ ) 東方巫
なんたる事を仰りますか。
聞いている私の方が赤面する心地でございます。
戯れ歌でなくては、人に向かいては歌一つ詠めないような御方。いみじき恥ずかしがり屋でございました。
当の幼子の方も
「そーなのかー」
と傾いでおります。教育には大変よろしくありませんな。
「で、邪魔なんですけど」
主は真顔のまま、さも鬱陶しいというように言い捨てます。
その邪魔の幼子は、微笑むのをやめてこちらを見据えました。
その刹那、私の胸に響いていた奏でが、ふつ、と、断ち切られるのを感じました。
幼子の答える事には、
「目の前が 取って食べれる人間?」
さやと吹く静かな夜風に乗りて、幼子から、覚えのある臭いを運びました。
・・・・・・先刻闇の内に零れていた、ヒトの血の臭いでございました。
「良薬は口に苦しって言葉、知ってる?」
返す主の笑みは凍てつく程に冷たいものでございました。
◇◇◇
あなや。
身を強張らせた時には初めの弾丸が主のこめかみを焼いておりました。
そして気付けば暗闇、天へ退き立つ漆黒の壁の向こうから、爪じもの人食いの凶弾が襲いかかります。
私は思わず、誰にとも聞こえぬ叫び声を上げておりました。
即座、主は夜風を切り裂いて翔び周り、孔雀の尾なす朱き護符の凪にて迎え撃ちました。
最早、先程までの流暢な曲は聞こえて参らず、我が心の調べは、幼子の狂気に満ちた楽しみの様に支配されておりました。
とても生きた心地ではございません。私は紫黒の濁流の中、見えぬ目を凝らし、無き息も絶え絶えに、主を追いすがりました。
・・・・・・ところが、でございます。
やっとの思いで見出した主からは、いささかの取り乱した様子も感ぜられないのでございました。
主は白妙の袖をはためかせ、くゆらせる指先で風を弄ぶように、無明の世界を游ぎ渡ってゆきます。
一瞬一瞬が間延びしたような、不思議な時間でございました。
光をかわし、敵を追うその様はさながら舞姫の如く私の中の奏でを彩ってゆきました。
勝ち目無しと見るや、幼子が呪符を唱える声が聞こえて参ります。
「みっどないとばーど」
「でぃまーけいしょん」
「だーくさいど おぶ ざ むーん」
「殺し合いの無いこと」が呪符の目的であったそうですが、私が知ったのはこれよりだいぶん後の事でございます。
幼子の呪符にしても、獲物の生き死にを気にしているような攻勢ではありませんでした。
夜鷹駆る 帷降りけり 久方の 月の黄金も 陰と堕ちなむ 狐狗狸太夫
あぁ、とは言え、もはや可哀想なのは幼子のほうでございましょう。
力量を見てとるや、主の口元は薄い微笑すら見て取れました。
幼子の虚ろな声は、常に主の向かう先から聞こえて参ります。
何方が天かもわからぬような視界でございます。主は如何にして敵を追うことができたのでしょうか。
そして幼子の呪符を破るたび、爆ぜる音と共に真紅の魂がこちらへ降り注ぎます。
他の夜に見ればおぞましく見えたであろうその煌きが、今宵は何故か、酔いしれるような魅力に満ちておりました。
主もまた、魅せられたのでございましょう。愛おしげに、その野性的な紅を浴びて、恍惚に浸っております。
私は、ただ夢を見るようにしてその姿を追いかけました。
夜鳥の群れなす瘴気の隙間を縫い、
陰翳の結い目結い目を解きあかし、
この閉ざされた夜の静寂から、日出づる東方の開け空へ、一櫂、また一櫂と、誘われていくかのようでした。
◇◇◇
お話が長うなり申したな。じき、夜も明けましょう。
大きな、うたかたの跳ねるような音を上げて、妖魔夜行の景色は千々に千切れて背後へ消えてしまいました。
ようやく安堵を許された私に先ず見えたのは、、山の端を眩しそうに見渡す主の瞳でございました。
勝ち負けに関してこれ以上申し上げることはございますまい。
いつもながら、弾幕の後の画というのはなんともまの抜けた物でございます。
見下ろせば、頭にたんこぶをつけた幼子が一人、金色の弧を描いて木立へと墜落しておりました。
こうして見ればあれもまた、ヒト以外に生まれただけの、中身はただの少女であったのでしょう。
主も主とて、その顔には陰りのない微笑みが浮かんでおりました。
まあ、あの間抜けな負け姿を見れば、誰しも笑わずにはおれますまい。
ここに、歌が一首ございます。勝負の結びに、よくわからぬ台詞を一人呟くのもまた、主の癖でございました。
世の人に 薬と言えど 己が身に 飲みて知らねば 知るも知らねど 東方巫
――あなたこそは教えて下さいますでしょうか。此の歌のこころを。
それは情景でも、感情でもございません。あたかも偉人の述懐のようで、また意味など無さそうにも聞こえます。
あの日、あの時、愛し我が主は何を思い、何を詠んだのでございましょうか。
今となりましては、それを知ることは適いません。
歌とは、そういう物でございます。
お恥ずかしい話です。これ程にあの方を語り、心を通わせたなどと申しながら、私は今も昔も、歌のこころ一つ知ることが出来ずにおるのでございます。
……あるいは当然なのやもしれません。
私は、私の恋心を主に告げることは、遂に、無かったのですから。
今はただ、言霊の調べだけが、あの方の心に描かれた あはれ の軌跡を、あの夏の暗闇に残すばかりでございます。
私は耐えきれずにその軌跡を追い、手を伸ばし、そして届きもせず、ただその美しさをなぞることしか出来ずにおります。
されど歌とは、そういう物なのでございます。
◇◇◇
旅路の行く手には打ち渡す限りの湖が見えて参りました。
夏の空はまた霧がたち始め、水面は霞む朝日を、妖精の光のように柔らかく映しておりました。
主は私を置いて、ひとりその岸に降り立ち、ここまでの道のり祓い去ってきた魂の勘定をいたします。
そして、その数に思いを馳せながら、土に立てた御幣を神籬に、一人、拝と柏手にて祈りを捧げらるるのでございました。
少女祈祷中。
瞳を閉じ、ここからは聞こえない何かを呟いています。
私などの近づけたものでは、ありませんでした。
今でさえもただこうして、随分と遠い所から眺めることしか出来ずにおるのです。
だのに、不思議なものでございますな。
こうしているだけで、私の心は・・・・・・いえ、心のような物には、何か大きな眩しさが満ちてくるのです。
あの悠久の昔。世界は音楽に満ち、空には乙女たちが行き交っていた時代。
そこでは人のみならず、霊も妖も、私でさえも、雅と、そして恋とを知っておりました。
幻想という夢の中で、私達は、確かに生きていたのでございます。
往昔の 東方の空の 恋し君 東方の空に ゆめな目さめそ 狐狗狸太夫
乙女は一人、地に跪いて祈りを捧げています。
暁が、まだ紅み無き霧の中に、幣と、少女の白き頬とだけを、ま白く、どこまでもま白く、浮かび上がらせておりました――
――遠き夏の夜の、今は昔の物語で御座います。
博麗霊夢なる方のお話、でございますか。これはまた……
ええ勿論。覚えておりますとも。
長き博麗家の歴史の中でも、霊夢様ほどに聡明非凡にして、また魅力に富める方は他に居られますまい。
私自身、こうして眼を閉じますれば――眼があればの話でございますがな――
四季の綾なす國の、胸躍る数々の出来事が、昨日の事のように思い出されます。
私で良ければ、お話仕りましょう。
◇◇◇
なに、私の身の上でございますか。
名乗る程の者ではございません。見ての通り、ただの道具でございますよ。
思えば私も、元はただ一匹の狐でございました。
懐かしき事です。ひねもす悠々と羅生門の天辺に居座っては、都大路を行き交う人々を眺めたものでございます。
時折は戯れに、人間相手にさんざん化かして遊んだりもしたものです。
それが、いつの時分でございましたかな。
何処ぞの何某とかいう高名な陰陽師が、悪戯の過ぎる私を退治て今のような姿に封じてしまったのでございますよ。
以来、何の因果か幾世紀にも渡って、世の為人の為と悪鬼妖魔を退治る身の上と相なりました。
私が博麗家へと伝えられたのは、さる仏狂いの帝が崩御あそばされた時分でございます。
何ゆえに陰陽師の道具などが、神官家の手へと渡る事となったのでありましょうか。
之ばかりは、狐の私には伺いかねる事でございます。
折りしも、私が「陰陽玉」と呼ばれる様になったのはその頃からの事でございます。
◇◇◇
……もう宜しいでしょう。
狐の長話などに付き合うものではございません。いつ何時、化かされるとも知れませんからな。
そう、博麗霊夢様のお話でしたな。
なに、風体は今の世に伝えられる通りのお方でございますれば、別段ご説明申し上げる必要もありますまい。
あのお方の不可思議な生涯は奇譚に事欠きません。どのお話しから語った物でございましょうな。
さぁ、お若い方。どうぞ行灯をお付けなさい。
今宵の様な静かな夜とて、この幻想郷、何処に怪しの物が潜んでいるとも知れませんぞ。
尤も霊夢様以来、そういった化生の類とは随分折り合いをつけたものでございますが。
そういった冒険のお話しをお望みでございますかな。
宜しゅうございます。さすれば、かの人食いに出会ったお話しを致しましょう。
今の世にまで、博麗霊夢の名を広める事となりました、長き旅路の最初の一節を。
……何、暗闇がお好みとある。
成程、私の様な者を探し尋ねた貴方様も、中々の変わり者と言うことでございますな。
それでは暫し、老い耄れ妖めの昔話にお付き合い頂きましょう。
◇◇◇
往古の、ある夏の事でございました。
さてしも、幻想郷の夏景色と申せば、それはそれは生命の力に充ちたものでございます。
惜しみなき日差しに生い茂る、厳し木々の取り取り。そは、せせらぐ川に映りて、木漏れ日は弥々眩しゅうございます。
殊に、山の端に伏しゆく夕の陽が、色彩から影へと景色を変えて行く刻限の哀愁たるや、この世のものとは思われません。
やがて、山も人里も透き通る闇の中に閉ざされ、夕の陽が焦がしおいた風の香の衣に柔らかに包み込まれるのです。
……げにも「夏は夜」とは言うたものでございます。
はて、しかしながら去る年の夏、その風情はとある異変のもとに侵されました。
かの高く眩しきはずの空が、皐月の晦日になりますれど、得体の知れぬ霧に暗く暗く閉ざされていたのでございます。
どう得体の知れないかと申せば……そう、口にするにもおぞましゅうございますが。
紅き霧。と申せば沢山でございましょう。
その様、血飛沫が煙と舞うたが如き、殺戮的な色彩でございました。
何処から来ると知る者も在りません。その霧は音もなく瞬く間に人里までを浸し、この地から緑の息吹を奪い去りました。
草木も花もにび黒くくすみ、濁る泉の水は硬く、村には童の声ひとつも聞こえません。
盆に向けた鬼灯たちが育ちきれずに気味の悪い朱に染まり、そのしわをつたう僅かな露さえ、陰鬱の気配に満ちておりました。
……さて。
幻想郷ニ異変在リ、とあらば、誰あろう博麗の巫女の舞台でございます。
而して、主がその機智をもって霧の元凶たる吸血鬼を退治たお話しは、また別の講釈と致しましょう。
今から私がお話し致しますのは、この怪異とは、実はなんの繋がりも無い、一人の幼子のお話なのでございます。
怪異とは隔たれた物語。それでいて私自身、あの人食いに初めて出くわした時の鮮烈な印象は、今も忘れる事ができずにおるのです。
そして何より驚くべきは、我が主が、そのすれ違うただけの人喰いと、やがては友情を交わしていたという事にほかなりません。
◇◇◇
やれ、人と話すのはいささか久しゅうございます。
語りだけでは退屈でございましょう。ここらで、狐めにひと化かし喰ろうて頂きましょうか。
この闇に体を浸すようにして、ゆるりとその瞳を閉じてごらんなさい。
さァて。
・・・・・・いかがです。瞳の奥に映り出ておりますでしょう。
あの日、あの時。我が胸の中に今もある、遠き夏の日の、暗き日暮れの景色が。
ご覧の通り、夜ともなればかの不思議な霧も澄み始めます。ほんの微かな星の煌きが空一面に宿っておりました。
物語りは此処、博麗神社の境内から始まります。
「さて」
お見えになりましょう。
あのお方こそ、かつての主。博麗神社宮司・博麗霊夢様でございます。
整った顔立ち。やや白い肌。幼く見える装い。淡白な表情。
手に持った祭具は御幣と申しまして、ここでは神の宿り代となるものでございます。
リボンで結ばれた黒髪が夜風にゆれて、淡い香りをくゆらせておりました。
「そろそろ行くか」
誰に言うとも無く、主は呟きました。
あるいは私に話しかけたのでございましょうか。
お分かりいただけるかは存じませんが、あのお方と私とは、主従を越えた強い絆で結ばれておりました。
人と道具の仲とは言え、数々の死線をも越えた相棒であったのでございますから。
しばらくして、ふわり と両の足が参道から離れます。
私達は夜空のもと、不思議な不思議な冒険の旅へと漕ぎ出したのでございました。
◇◇◇
境内に並ぶ、今や裸の楠をすぎゆけば、向かう先は椿と榊葉の百重なす境内裏にございます。
枝の先は未だ蕾のままなれども、微かに漏るる蜜の香を餞別にして、我々に迎夏の成就を託しておりました。
旅立ちから程なくして、夜暗の遠近に現るるは、幾多もの悪霊どもでございました。
古き良き東方の地の弾幕勝負は筆舌に尽くしがたいものですからな。こうして幻にて見て頂ければ……
おや、驚いておられますな。
左様、やっつけるのでございますよ!……たとい、ただの通りすがりであろうとも、でございます。
殺めた訳ではございません。魂の力を暫し拝借するだけの事でございます。
「おっかける弾なんて ずるい」という顔をして爆ぜる彼女らを見るのは、中々愉快でございましょう?いかがですかな。
彼奴等を駆逐した虚空には、そこここに、力を宿した紅い魂が煌々と浮かび上がっております。
主は戯れるように空路を舞い、その魂を拾いながら少しずつ私に覚醒を与えてくださいました。
その真紅を取り入れる度に私のこの胸は高鳴るのです。主との旅はいついかなる時も、力強き音楽に満ちておりました。
軍歌 奏てにけらし 鬼灯の 紅きにおほゆ 魂ら集ひて
( 戦いの歌を奏でているようだぞ。 鬼灯みたいに紅い魂 が集まって) 狐狗狸太夫
紅き魂と、闇夜の織り成す調べでございます。触りだけでも、どうぞお感じ頂きたいものです。
◇◇◇
丑の刻頃でありましょうか。
行く道は深き沙羅の木の木立に閉ざされ、月の影も届かぬ様になりました。
元より備えも無き旅でございます。
方角の標無く、滔々たる闇に空を行くは、さながら棚無し小舟の心地でございました。
今にして思いますれば、あの遥けき闇すらも、件の幼子の仕業であったのやもしれません。
主も流石に「参った」と頭を掻きつつ、道の気配を感ずる所まで降下致しました。
と、その時でございます。
前触れ無く眼の前の闇が砕き裂かれ、一筋の熱線が我らをかすめたのです。
穴畏。
己が身も見えぬ闇の中、私共は怪生の縄張りを犯して仕舞うたのでございます。
我が身を打つ戦慄は、琵琶弦を断絶したかの如き痛打と感ぜられました。
◇◇◇
夜風を焼く様な熱が、遠しとも近しとも取れぬ処より身をかすめてゆきます。
こめかみを砕く身の強張りを伝うる事は、言にても幻にても能いません。
人様よりは遥かに夜目の効く私でさえ、主の無事を知ることすら適わぬ程の暗黒でございます。
我が生命、一つはここで死するものと覚悟いたしました。
耐え難き痛みと苦痛はあれど、もはや死ぬことには胸の揺らぎすら感じえません。
私の体を一つ贄とすれば、暫時、何者も持ち主を傷つける事能わぬのです。その為にこそ私は紅き魂を宿していくのでございますよ。
定められた罰。陰陽玉たる私の宿命でございますから。
さはれあの頃、霊夢様と時を共にし、お傍に抱かれて空を行く日々だけは――
いや、話が逸れましたな。
暗闇の邂逅は、暫しの激火の後、これまた前触れ無く止み果てたのでございます。
かの鬼なる者も、人とは思えぬ主の身のこなしに感じいったのでございましょう。
濃き人の血の臭いだけを夜風に零して、何処かへと去りて行きました。
気付けば我々は木立を過ぎた何処かの丘の上。我が心の音色は止まず、むしろ、過ぎにし慄きにその勢いを増しておりました。
主はと申せば、怪異が去ってよりは、何事も起きなかったかのように相変わらず小悪霊を蹴散らしてゆきます。
何事も無かったようなお顔色は見ての通りでございます。さても、内は豪胆なる方にございますれば。
◇◇◇
「気持ちいいわね」
夜空にふと、主が呟きました。
幽玄の調べに聞き浸っていた私は、再び夜の静寂に気付いたものでございます。
「左様にございますな」
私はお答え申し上げました。
靡く主の黒髪が、夜風に艶やかな流れを描いておりました。
「毎回、昼間に出発して悪霊が少ないから、夜に出てみたんだけど……」
「げにも、危険な道中にございます。早々に抜けるべきでございましょう」
「どこに行っていいかわからないわ」
……今更でございますか?
狐につままれたような顔をしておりますと、
「暗くて」
と、笑顔で当たり前の事を仰います。
これまでの苦労はなんだったのでございましょうか。
主はくるりと体を仰向けに、寝転んだように、組んだ手を首にあてがっております。
「でも……」
主は、ゆっくりと瞬きをすると、物憂げに夜空を見下ろしました。
「夜の境内裏はロマンティックね」
あはれ。潤みを含む瞳で横目に見つめられ、私は言葉を失いました。
事も無さそうなお顔とは対称的に、こちらの心をくすぐるような事を仰います。
「のんきなお方でございます」
私に顔色が有りましたら、すっかり紅潮していた事でございましょう。
それ以上返事の出来ぬ私を、主は楽しそうに見つめておられました。
左様にて、お気づきの通りでございます。
あの夏の旅のみならず、あの頃の我が心、我が身は、須く霊夢様へ捧げる為にあったと言えましょう。
狐であり、卑しき従者であり、拙き道具である我が身の程を知らずにいた訳ではございません。
されど、あの日あの時、我が心は確かに、あのお方の心を乞ひておりました。
鬼の狐めは、己が主を好いていたのでございます。
「そうなのよね~。お化けも出るし、たまんないわ」
唐突に、私の代わりに返事をする声が聞こえて参りました。
驚いて見上げますと、見慣れぬ幼子が一人、夜闇の只中にふわふわと浮かんでおります。
眩い金色の髪は幼子らしい髪型に、片端には紅いりぼんが目立ちます。装いは地味な白と黒。
髪の色と、当たり前に浮かんでいる事の他は、見たとろこ里の幼子と変わりありません。摩訶不思議な光景でございました。
そして私達はまだ、この不思議さの正体が、猟奇と鬼気であったことに気付いておりませんでした。
◇◇◇
「って、あんた誰?」
「さっき会ったじゃない」
幼子は主に答えます。されど、つゆと覚えがありません。
「あんた、もしかして鳥目?」
不可思議な幼子の笑みだけが、闇をきりりと裂いた様に浮かぶばかりでございます。
主の答えます事には、
「人は暗いところでは物が良く見えないのよ」
と。
相手は相変わらず名乗りもしないでいますのに、主も随分と気さくなものでございます。
幼子は、子ども扱いが癪に触れたか、「それぐらい知っている」というように、頬を膨らして言いました。
「あら?夜しか活動しない人も見たことある気がするわ」
聞いて、主はさやさやと笑いました。誰ぞ、思い浮かべたのでございましょう。
にべもなく主が、此度は大人扱いをしてやろうと詠まれた歌一首。
小夜深し ふかしやみにし 痴あらば 誰ぞ咎むるや 取りて喰ひても
( 夜深し闇 に 夜更かし病み のバカがいたら、それは取って食べたりしてもいいのよ ) 東方巫
なんたる事を仰りますか。
聞いている私の方が赤面する心地でございます。
戯れ歌でなくては、人に向かいては歌一つ詠めないような御方。いみじき恥ずかしがり屋でございました。
当の幼子の方も
「そーなのかー」
と傾いでおります。教育には大変よろしくありませんな。
「で、邪魔なんですけど」
主は真顔のまま、さも鬱陶しいというように言い捨てます。
その邪魔の幼子は、微笑むのをやめてこちらを見据えました。
その刹那、私の胸に響いていた奏でが、ふつ、と、断ち切られるのを感じました。
幼子の答える事には、
「目の前が 取って食べれる人間?」
さやと吹く静かな夜風に乗りて、幼子から、覚えのある臭いを運びました。
・・・・・・先刻闇の内に零れていた、ヒトの血の臭いでございました。
「良薬は口に苦しって言葉、知ってる?」
返す主の笑みは凍てつく程に冷たいものでございました。
◇◇◇
あなや。
身を強張らせた時には初めの弾丸が主のこめかみを焼いておりました。
そして気付けば暗闇、天へ退き立つ漆黒の壁の向こうから、爪じもの人食いの凶弾が襲いかかります。
私は思わず、誰にとも聞こえぬ叫び声を上げておりました。
即座、主は夜風を切り裂いて翔び周り、孔雀の尾なす朱き護符の凪にて迎え撃ちました。
最早、先程までの流暢な曲は聞こえて参らず、我が心の調べは、幼子の狂気に満ちた楽しみの様に支配されておりました。
とても生きた心地ではございません。私は紫黒の濁流の中、見えぬ目を凝らし、無き息も絶え絶えに、主を追いすがりました。
・・・・・・ところが、でございます。
やっとの思いで見出した主からは、いささかの取り乱した様子も感ぜられないのでございました。
主は白妙の袖をはためかせ、くゆらせる指先で風を弄ぶように、無明の世界を游ぎ渡ってゆきます。
一瞬一瞬が間延びしたような、不思議な時間でございました。
光をかわし、敵を追うその様はさながら舞姫の如く私の中の奏でを彩ってゆきました。
勝ち目無しと見るや、幼子が呪符を唱える声が聞こえて参ります。
「みっどないとばーど」
「でぃまーけいしょん」
「だーくさいど おぶ ざ むーん」
「殺し合いの無いこと」が呪符の目的であったそうですが、私が知ったのはこれよりだいぶん後の事でございます。
幼子の呪符にしても、獲物の生き死にを気にしているような攻勢ではありませんでした。
夜鷹駆る 帷降りけり 久方の 月の黄金も 陰と堕ちなむ 狐狗狸太夫
あぁ、とは言え、もはや可哀想なのは幼子のほうでございましょう。
力量を見てとるや、主の口元は薄い微笑すら見て取れました。
幼子の虚ろな声は、常に主の向かう先から聞こえて参ります。
何方が天かもわからぬような視界でございます。主は如何にして敵を追うことができたのでしょうか。
そして幼子の呪符を破るたび、爆ぜる音と共に真紅の魂がこちらへ降り注ぎます。
他の夜に見ればおぞましく見えたであろうその煌きが、今宵は何故か、酔いしれるような魅力に満ちておりました。
主もまた、魅せられたのでございましょう。愛おしげに、その野性的な紅を浴びて、恍惚に浸っております。
私は、ただ夢を見るようにしてその姿を追いかけました。
夜鳥の群れなす瘴気の隙間を縫い、
陰翳の結い目結い目を解きあかし、
この閉ざされた夜の静寂から、日出づる東方の開け空へ、一櫂、また一櫂と、誘われていくかのようでした。
◇◇◇
お話が長うなり申したな。じき、夜も明けましょう。
大きな、うたかたの跳ねるような音を上げて、妖魔夜行の景色は千々に千切れて背後へ消えてしまいました。
ようやく安堵を許された私に先ず見えたのは、、山の端を眩しそうに見渡す主の瞳でございました。
勝ち負けに関してこれ以上申し上げることはございますまい。
いつもながら、弾幕の後の画というのはなんともまの抜けた物でございます。
見下ろせば、頭にたんこぶをつけた幼子が一人、金色の弧を描いて木立へと墜落しておりました。
こうして見ればあれもまた、ヒト以外に生まれただけの、中身はただの少女であったのでしょう。
主も主とて、その顔には陰りのない微笑みが浮かんでおりました。
まあ、あの間抜けな負け姿を見れば、誰しも笑わずにはおれますまい。
ここに、歌が一首ございます。勝負の結びに、よくわからぬ台詞を一人呟くのもまた、主の癖でございました。
世の人に 薬と言えど 己が身に 飲みて知らねば 知るも知らねど 東方巫
――あなたこそは教えて下さいますでしょうか。此の歌のこころを。
それは情景でも、感情でもございません。あたかも偉人の述懐のようで、また意味など無さそうにも聞こえます。
あの日、あの時、愛し我が主は何を思い、何を詠んだのでございましょうか。
今となりましては、それを知ることは適いません。
歌とは、そういう物でございます。
お恥ずかしい話です。これ程にあの方を語り、心を通わせたなどと申しながら、私は今も昔も、歌のこころ一つ知ることが出来ずにおるのでございます。
……あるいは当然なのやもしれません。
私は、私の恋心を主に告げることは、遂に、無かったのですから。
今はただ、言霊の調べだけが、あの方の心に描かれた あはれ の軌跡を、あの夏の暗闇に残すばかりでございます。
私は耐えきれずにその軌跡を追い、手を伸ばし、そして届きもせず、ただその美しさをなぞることしか出来ずにおります。
されど歌とは、そういう物なのでございます。
◇◇◇
旅路の行く手には打ち渡す限りの湖が見えて参りました。
夏の空はまた霧がたち始め、水面は霞む朝日を、妖精の光のように柔らかく映しておりました。
主は私を置いて、ひとりその岸に降り立ち、ここまでの道のり祓い去ってきた魂の勘定をいたします。
そして、その数に思いを馳せながら、土に立てた御幣を神籬に、一人、拝と柏手にて祈りを捧げらるるのでございました。
少女祈祷中。
瞳を閉じ、ここからは聞こえない何かを呟いています。
私などの近づけたものでは、ありませんでした。
今でさえもただこうして、随分と遠い所から眺めることしか出来ずにおるのです。
だのに、不思議なものでございますな。
こうしているだけで、私の心は・・・・・・いえ、心のような物には、何か大きな眩しさが満ちてくるのです。
あの悠久の昔。世界は音楽に満ち、空には乙女たちが行き交っていた時代。
そこでは人のみならず、霊も妖も、私でさえも、雅と、そして恋とを知っておりました。
幻想という夢の中で、私達は、確かに生きていたのでございます。
往昔の 東方の空の 恋し君 東方の空に ゆめな目さめそ 狐狗狸太夫
乙女は一人、地に跪いて祈りを捧げています。
暁が、まだ紅み無き霧の中に、幣と、少女の白き頬とだけを、ま白く、どこまでもま白く、浮かび上がらせておりました――
――遠き夏の夜の、今は昔の物語で御座います。
難しく見えてその実、話の内容はそこまで難しくなかったですしね。
原作をなぞる意図は分かるのですが、その糸の向かう先が宙ぶらりんでにんともかんとも。
芥川さん読めば分かるのかしらん