季節は夏も盛りを過ぎた頃、時刻は空と影が丁度良い具合に避暑を感じさせる午前のこと。
妖 立ち入る境の鳥居で鳥が鳴く。
蛙 がぽちゃんと水面へ飛び込み泳いでく。
鯉はぱくんと蛙を食べて吐き出した。
そんな婉美 な時の折、一つの声が神社に響いた。
「八雲紫、奴は最低だよ」
神社の縁側、霊夢の太腿に頭を預けている紅い悪魔は、そう言葉を漏らした。
「人の膝の上でされるがままの奴に言われても説得力がないわ」
そう言うと、霊夢は膝枕で無防備な状態になっている紅い悪魔の下顎を、猫を撫でる手つきでころころと掻く。
霊夢の眼下では、その手つきを甘んじて受け入れている紅い悪魔の姿があった。
目を閉じて、うとーっと気持ちよさそうにそれを受け入れているそいつの様子に満更でもない霊夢は、まぁ一応と先程の吐露に対して聞き返してやる方向へと気持ちを固めて口を開いた。
「で、紫のどの辺が最低なの?」
「霊夢を独り占めにしてるところ」
「は?」
「後、霊夢を囲っているところ」
間髪入れずに素っ頓狂な言葉が紅い悪魔から飛んできた。霊夢は聞き返した自分が馬鹿だったとこれまた間髪入れずと呆れた返答を返していた。
あのねぇと霊夢は言おうと膝の上のそいつを見て、そして止める。頬を多少膨らませてはいたけれど目だけはひどく感情の見えない紅い悪魔がそこに居た。まるで幽霊でも見ているかの様に遠くへ焦点を合わせてこちらを見ない。彼岸を見ているのか此岸 なのかそれとも只のおちこちか、そんな形容しがたい表情を浮かべている紅い悪魔がそこに見えからだ。
その様子に、さてどうしたものかなーと霊夢はのんびり思案した。玉砂利の敷き詰められた庭を見ながら頭を巡らせ、取り合えずもう一度のどでも撫でてやろうという選択へと行き着く。
「ほれ……」
「…………」
そよぐ風で庭に生えている木々が葉ずれの音を出し、何事もない緩やかな時間が神社に流れていた。
このまま何事もなく過ぎていけば面倒はないんだろうなぁと霊夢は考えたけれど、視線を庭から膝上へと落とせば、そこにいるそいつが見せている表情が先程と何一つ変わっていない。だからそんな様子に、きっと面倒ごとになるんだろうなぁと、そうなる事を霊夢は半ば事実の様に感じていた。
さやさやとまた神社に風が凪いだ。
天気も良いし最近過ごしやすいんだけどなぁ。
ころころと紅い悪魔ののどを転がす。
だけれどそいつはやっぱり表情を変えなくて。
はぁ、と霊夢は軽く溜息をついた。
「で、本当は何を話しに来たの?」
「八雲紫の器について」
「うつわ?」
「割れる器は、メイドに限らず誰だって見たくないものだろう?霊夢」
口さがなく聞こえる言葉とは裏腹に、どこか悲しげな目をした紅い悪魔がそこに居た。
「ま、私にとっちゃただのお節介みたいなもんだけどね」
さっきからそんな顔されて話されたらどう見てもお節介なんて風には見えないわよと霊夢は思っていた。
だからそれをそのまま口に出す。
「そうは見えないけど、あんたが言うならきっとそういう事なんでしょうね」
「そう取ってくれると嬉しいかな」
それを聞いて、これはきっと聞かれたくない話なんだろうと霊夢はあたりをつけた。そして、右手を軽く振るう様に袖から札をとりだして、流れるような速さで結界を張る。
瞬間、わざとらしく庭と縁側を含む四辺に揺らぎが見えて消え入った。
同時に、くくられた四面は薄青く波紋立ち、すぐにと景色へ同化していく。
これでもう漏れ聞こえたりはしない、そんな霊夢の意思表示にレミリアは勿論気付いていて、間を一拍置いてそしてこれが本題という風に口を開いた。
「八雲紫。霊夢、あれは妖怪としておかしいよ。自分の為に人を滅多に攫わない、そもそも私は奴がそういう意味でそんな行為をしているなんて話を聞いた事さえない」
前半部分は良く分からなかったけれど、後半部分は確かに自分もそういう話は聞いたことはないかなと霊夢は思い浮かべていた。
というよりも意識しないレベルで、妖怪何だから当然そうあるしそうなんだろうと霊夢は捉えていた。
そんな霊夢にレミリアはもう一度言う。
「霊夢、八雲紫は人を攫わない」
さっきと同じようにそう言って、膝の上でずっと庭を見ていたレミリアは振り返って霊夢を見た。
その目はとても紅く幼く赤より紅いけれど、愛らしい容姿で霊夢を目に映すその瞳の中には相応に年を経ている意思の強さが覗き込めた。
さっきまで奴なんて呼んでいた口さがない紫への態度はそこには無くて、ただ伝えなければというそれだけが見て取れた。
真意は掴めないけれどそこに嘘はないと霊夢は感じる。だからそんなレミリアを見て、
「そう、紫は人を喰らってないのね」
と表面上は特に感情を乗せるでもなく霊夢は言った。
けれど、
紫は人を喰らわない、その事実に霊夢の心はレミリアに悟られるでもなく無意識に寂しいという色で塗りつぶされる。
それは寂しい、だって……。
「妖怪の在り方は人の情念により生まれて人を攫い、そして喰らう」
空腹になればご飯を食べ、目蓋が重くなれば睡眠を取る。それらとまったく同じ欲求だと、当然の様に霊夢の口からそう言葉が出る。
「えぇ、そうね霊夢」
静かにレミリアも頷いた。
そうだ、だから寂しい。
紫が人を喰らわないと言うのなら、それは妖怪である自身の在り方を歪めているに他ならない。
魚や動物や人が食欲という欲求を無視し続けたらどうなるかという事と同じく、妖怪にとって人を喰らうというその在り方は本当に自然で当たり前のこと。
そんな欲求が満たされないなら、妖怪はその存在が弱まってしまう。
なまじ人より身体的な部分で優れているから忘れがちになるけれど、妖怪の存在は人の情念から生まれる所に原初を持っているからだ。
すれ違いや軋轢、そこから生まれる他人に理解されたい感情からさとりという妖怪が。
風情を美しいと愛でたい感情から幽香が。
そして魔法を追い求めてたいという感情から魔法使いが。
感情が先にあって生まれる、そんな在り方だからこそ妖怪は身体的な負荷や刺激ではなく精神的なものが致命傷になってしまう。
「レミリア、でも紫は周りに悟られない様に喰らってるかもしれない」
紫がそうだと認めたくない霊夢の口から不意にそんな言葉が出ていた。
「それに境界を弄る力で何も問題ないかもしれない」
少しだけそうであって欲しいという感情を見せた霊夢に今まで膝を借りていたレミリアはそれでも優しくそれを制する。
「霊夢、それだけは絶対にないわ。在り方を弄るというのはそれはつまり妖怪で無くなる という事だもの。八雲紫の境界を操るという力はそれほど強いものよ」
「でも……」
顔を伏せて何かを言おうとした霊夢の声は、
「話はこれでお仕舞い。それじゃあ霊夢、今日は楽しかったよ。また二日後に宴会で」
といってこの場を終わらせるレミリアの声によって遮られていた。
「お帰りなさいませお嬢様」
レミリア・スカーレットが紅魔館への門にてくてくと日傘をさして到着した頃、そこにはメイドの咲夜が出迎えへと姿を現していた。
「おや咲夜。もうお茶の時間だったかな?」
「お嬢様がそう仰るのでしたら」
「冗談だよ、でも咲夜の作るお菓子なら食べたいかな」
相変わらず融通が利かないなぁ咲夜はと、レミリアは日傘をくるくると舞わす。その癖、 あ、ベリーのタルトを味わいたい気分よ今、なんてしれっと注文を付けていた。
「咲夜、言いたい事は分かるわね?」
「オータムナルのダージリンなども如何ですかお嬢様?」
「だから咲夜は好きだよ」
でも仕事熱心過ぎるのは感心しないなぁ咲夜、とやっぱりしれっと注文を付けていた。
「うんうん、咲夜は少し仕事に真面目過ぎるきらいがあるね。うん、うん?ファーストフラッシュなんてあったっけ?」
忘れていたけど今気付いた、靴下を履く前なのにそれを忘れて靴を履いてしまったよという顔をレミリアはしていた。
「そういえば美鈴はどうしたのよまったく。」
持ち場を離れるなんて職務怠慢にも程があるなぁとレミリアは不満を漏らす。
咲夜に対する言とは随分と違う言い様だった。
「お嬢様。それでしたら門番は供給された食糧の運搬中ですよ」
「食糧?」
咲夜の口から出た言葉に、レミリアは一瞬怪訝な顔をして、それからわざとらしくあぁと合点のいった振りをする。
「それでこんな時期に初摘みのフラッシュがあるのね」
口に手をあてそういう言葉は大げさに芝居がかっていた。
「お嬢様」
咲夜の声がレミリアに掛かる。
「うーん、力仕事は門番の担当と言えど一人だけでは大変だ。今度特別手当てでも出さないと」
レミリアは傘と身体をくるりとまわして咲夜から逸らした。
「お嬢様」
そのレミリアを後追いつめるように咲夜の声が主へかかる。
するとレミリアの肩は花弁が閉じるように少し揺れてしぼみ、恐る恐ると言うには足らない、けれど様子を窺う風な上目のそれを咲夜に流す。
どちらが主でどちらが従者か、ともすれば分からないその仕草。
他意なくあくまで事実を告げる咲夜と、言葉にすくむ紅魔の主。
お茶の誘いを召しつけた時の尊大さは影を潜め、仕事熱心すぎるのは感心しないなぁ咲夜、という淡い漏れ日のような声が苦笑いのレミリアから零れた。
残暑の澄んだそよぐ風がレミリアのフレアワンピースをさざめかせて波立ち、咲夜は耳をかき上げる仕草でそれに身を任せてヘッドドレスを揺らしていた。
風が草葉を優しく撫でて柔らかにそれに乗り、彼方どこかへ飛んでゆく。
日よけの傘に影どられたレミリアの身体になお抜ける陽射しの爽やかさ、地面へ伸びる黒々とした縁取り確かな紅い悪魔の小さな影と悠々伸びる咲夜のそれ。
そんな静か清らな陰ならずの陽の見映えに、手折られそうな心根か細き求言がさらと零れて咲夜へ飛んだ。
「咲夜、人間であるお前が食糧なんて言っちゃいけないよ。それは私たちから出る言葉だ」
「お嬢様方にとって、食糧は食糧ですよ?」
何か問題でもあっただろうか?と、お嬢様がそう言うその理由が心底分からない、そんな風に咲夜は不思議に思っていた。
だってお嬢様達は人間を食糧として確かに喰らうし、私はその食糧になる物に対して特別何かを感じている訳でもない。
それとも彼岸花の咲き乱れた異変でどこかの閻魔に言われたように私はそんな関係ない人間達にまで優しくしなければいけないのだろうか?
そこまでする必要があるのだろうか?
うーんと、咲夜はそれこそ取るに足らない問題を仕方なく真剣に考える振りをしていますという風にかぶりを振る。
そんな咲夜の姿にレミリアは言葉を向けた。
「正直に話すと、これは私から咲夜へのお願いかな。私が咲夜からそんな言葉を聞きたくないのよ、咲夜からは血を貰うだけでも十分だから」
その相手になっている咲夜を私は食糧と呼びたくない、そうレミリアは感じていた。
咲夜が人間を食糧として認識するのだとしたら、少なくともそういう意味以外も込めてその行為をしている自分の想いは咲夜へ届いていない気がして……。
茶会も終わり日が終わり、紅魔館には夜の帳 が降りていた。
廊下の灯りは落とされて、館は夜陰にしじまを誘う。
黒の鼠が盗みを働く。喘息持ちと都会派の魔女が小悪魔の給仕でお茶会を楽しんだ図書館も、今はその静けさを取り戻していた。
門番はこともあろうに熟睡し、その責を果たしていなかった。
夥しいほどの妖精メイドと供に妹様はベッドにその身を横たえている。
そして、寝静まる館にあって主の部屋だけがひっそりとその息遣いを漏らしていた。
「はっぷ。ん、んく、ん」
座り向き合う二人の姿が重なるベッド。
咲夜の首筋にレミリアの犬歯が突き立てられ、その柔肌を裂いていた。
その肌の下に廻り巡る温かい血液が、滲むようにじわりとそこから流れ出す。
「……っ、、」
真朱に色づき、逸るレミリアの舌が咲夜のそれを舐めしたった。
幾夜を越えて繰り返した血の遣り取りに、けれど咲夜は傷口を舌でなぞられるその感覚には未だ慣れない。
スカーレットデビルと言われる所以そのままに、レミリアは行儀悪く咲夜の血を飲みこぼして彼女の首襟を紅に染めてゆく。
「ん、く。んは」
こくりとレミリアの喉がなった。
傷口へごちそう様とそれ以外の意味も込めて口付けをしてからレミリアは咲夜の首元から頭を離す。
「満足なされましたかお嬢様?」
はだけた胸元には構いもせずに咲夜はそう言う。
彼女のその頬は少しだけ上気していた。
「咲夜はいつもおいしいよ」
「良かった。でしたら私はおいとまして着替えを済ませますね」
そう言葉を交わすと、余韻もなく咲夜はすっくと立ち上がり主の部屋を出ようとする。
背を見せた咲夜にレミリアは、あっ、と一瞬手を伸ばし、ベッドの上に力なく戻した。
そして真鍮のドアノブに手を掛ける咲夜にレミリアは一声掛ける。
「咲夜、ここで着替えなさい」
廻しかけたドアノブに伸びる手が、はたと止まった。
「お嬢様がそう言うのなら」
肩越しに振り返り咲夜はそう言い、その身を翻す。
主の部屋に咲夜の着替えなどある筈も無いのに、彼女はそれを分かってベッドに座るレミリアの前まで歩みを戻した。
見た目に幼い紅魔の主の前で、咲夜はダブリエを外そうと背にある紐の結び目へと手を掛ける。
このまま紅魔の主が何も言わなければ、咲夜は幼い主の前で事も無げにその裸身を晒すに違いない。それが彼女の淀みない一連の所作から見て取れた。
レミリアは自分の言葉にそこまで忠実である咲夜に、それは一体どの気持ちから来ているものなんだろうかと刹那に思う。
二人を表す関係性、主と従者。あるいは家族、けれど血の連なりなんて何も無い。
過ごした時も短く淡い。レミリアは結ぶもやいの契りが欲しい。
仕事熱心一辺倒な顔しか見せない彼女の本心がレミリアには分からない。
だから、
「嘘。脱がなくていいわよ」
「お嬢様がそう言うのなら」
児戯はここまで。
「ねぇ咲夜、今夜は月が綺麗なの、一緒にお月見していかない?」
「私汚れたままですか」
「あぁ、それはいけないな。咲夜、着替えて来なさい」
「あの、お嬢様。始めからそのつもりだったんですが……」
「あぁもぅ、聞こえない」
「ですか」
「そうよ」
咲夜が部屋を出てから少しして、レミリアはいつぞや来訪した一人の人間のことを思い出していた。
「確か、マエリベ、つっ」
幼い主は舌足らずに発音できず、遅れを喫する。
「あぁ、もぅ言いにくい。確か、親しい友人からはメリーと呼ばれていると言っていたわね」
瞳に羨ましげな色を滲ませて、レミリアは聞き出した二人の名前を自分の中で、口の中で転がした。
宇佐見蓮子。
マエリベリー・ハーン
そして、目頭を親指の土手で押さえ、くっくと笑いとうとうと話し出す。
「皮肉じゃないか八雲の紫。私はあの二人とお前の運命を視たさ、あぁ見たさ。咲夜のことさえ手に余る私がだって言うのに彼女らの為に動くのさ。自分の恋路さえままならない私がまさか誰かの、それもお前の為にだなんて。これが皮肉じゃなけりゃ天地にもとる」
自嘲気味にレミリアは吐き出し、気息は弱まり呟きになってぽとりと落ちた。
「白状するさ。比翼連理 、千古不易 と言われる様な、二人が二人でなきゃいけないあの彼女らの在り方に私は心の底から惹かれたよ。彼女らの為に動くことで、あの二人の関係を私と咲夜に見立てて重ねたかったのかも知れない。八雲の紫、運命を視て初めて私はお前に共感したよ。お前が霊夢に惹かれる理由、けれど決して深入りしないその訳を。私は人は咲夜が初めてさ、だけれどお前はそうじゃない。あぁ、あぁそうさ八雲の紫、私はお前を先達の者として助けたいのさ、それが自分の支えになると信じたいから。こんな私を臆病だと、お前は笑うかい?」
するとそれに答えるように、
一振り、二振り、三振りとノックの音が部屋へと響いた。
「開いてるよ」
「失礼します。ただいま戻りました、お嬢様」
座したベッドに両手をついて反らす背中に頭を捻り、レミリアは咲夜を部屋へと招き入れた。
形式ばった遣り取り、けれどレミリアはそれが好きだった。
いつも心の見えない咲夜の所作の中で、レミリアは唯一何故かそれだけは咲夜が自分を気遣っているからこその行動だと感じとれるから。
「おいで咲夜」
自身の横をぽんぽんと軽く叩き、レミリアは咲夜に促す。
「はい、ただいま」
身奇麗になった咲夜が歩いて来て横へと座った。
ベッドが二人分の重さに沈み、レミリアは咲夜のももに手を置き言った。
「咲夜、お話ししましょう」
二人の声がさえずるように部屋で交わされる。
咥えた枝を鳥が求愛のそれとして口渡しをするように交互につたなく、けれど心の尽くされた、二人の声はつつき繋がる。
窓の外、部屋の中。
今宵にかかる月は鮮やか花見月。秘める花の、言葉はつややか花水木。
花の言葉は恋文ひとつ、私の想いを受けてください。
月あきらかなその夜その部屋、二人の時間が過ぎていく。
そうしてレミリアが咲夜と月見を過ごしたその翌日早朝、霊夢はというと何故か香霖堂の門を叩いていた。
「霖之助さん、霖之助さん。お店を開けて頂戴」
比喩ではなく文字通り叩いていた。
枯れ冴えてささくれた様さえその趣に一役買っている扉に片手をついて、空いた手の甲でとつとつと霊夢はその扉を叩く。
すると扉の奥で人の歩く音がして蝶番がその軋みをあげたかと思えば、長物の上衣を着流す霖之助が現れた。
「珍しいこともあるもんだ。霊夢が礼を尽くしてる」
「何だか急にここに来なくちゃいけない気分になったのよ。いつも通り適当に見繕うわね」
「お茶でも出そうか?」
「お構いなく」
手で軽く制してそう言うと霊夢はがらくたが大方を占める店内へと何かを探すように歩いていく。
足の踏み場があるようで無いようなそこを苦にする様子も見せない霊夢らしい足取りだった。
自分でも何を探しているのか分からない霊夢は時折置かれた品に目をやったりしながら、 それでもその品に興味を惹かれないのかすぐに視線を戻して進んでゆく。
一歩歩く、二歩歩く、三歩あるいて続いてく。
甕 からざんばらと伸びている剣に目をやった。
視線を戻した。
棚から無造作に飛び出している山稜鏡を手に取った。
飛び出さないようにそっと戻した。
マネキンの首に付けられている黒の紐帯に目が留まる。
不思議とそれに片手が伸びた。
伸ばしてマネキンの首筋へと手を添える霊夢は紐帯から目が離せない様子だった。時計の針が止まりでもしたかのように魅入って数秒、霊夢は中指でそこをしなりと下から上へとなぞり上げる。なぞり上げて下ろす途中に手が紐帯へと触れ、初めから外し方を知っている手つきのそれで霊夢は止め具をぷつりと外して手に取った。
手のひらに載せた。
「それはチョーカー。首に付ける装飾品だよ」
測ったように霖之助がそう答えると、霊夢はそれをしげしげと観察し始める。
首を左右に動かしたり手で摘まんで少し伸ばしたり、一度自分で付けたりもしていた。
そしてそこらに放置されていた鏡を手に取った。自身の喉あたりに手を当てて首を振り様々に角度を映し見る。紐帯を身に着けた自身の姿を鏡に映し、しばらくそれを見た後で霊夢は言った。
「霖之助さん。これ貰っていくわ」
「あぁ、まぁ二つあるから両方持っていくと良い」
「どうもありがとう」
霊夢は二つ分のチョーカーを巫女服の隙間に入れ込んで香霖堂を出ると、地を蹴って飛んでゆく。
霊夢の姿が見えなくなるとすぐに、奥からレミリアが影にまみれて姿を現した。
「これで良かったのかい、紅魔の主?」
「えぇ、これで良かったのよ。香霖堂の主」
「君が舞台の裏側にいた何て知れば、霊夢と紫の性格なら揉めるんじゃないのかい?」
「私は運命の後押しをしただけだよ店主。それに私は霊夢がここへ来るよう運命を手繰り寄せたけれど、品を選んだのは霊夢の意思よ。咎められる云われはないさ」
しれっとそうレミリアはそう言った。
レミリアが紫について意味深なことを言って去ったその二日後、博麗神社の酒の席。
集められたというより、皆好き好きに勝手しったるなんとやらとふらり寄ってくると言う体で、折々皆々次々となみなみ漆器でほどよく清く気さえよく酒を宵酔いほろり雅と酌みて交わしていた。
従者達は主の傍に付き添って。ちびちびとお猪口で顔を赤らかにさせるその姿に背伸びを感じる半霊半人魂魄妖夢、日本酒よりもリキュール等の洋酒がその姿に合いそうな十六夜咲夜。
縁側では輝夜と妹紅が仲睦まじく隣り合い、その二人を左右から挟むように永琳と慧音がそれぞれ座って静かに貴 なる様子で呑んでいた。
萃香は小さくなって走り回り、てゐや鈴仙、妖精それに山の天狗、彼女らのその身体を耳をそして羽を、押しては引く波のように百鬼夜行となって揉んでいた。
その浅酌微吟 というか杯盤狼藉 な様子を見て、宴もたけなわ、一体誰がこの言葉を言いだしたんだろうと博麗霊夢は思っていた。
そして呟く。
「はぁ、あんたらはまったく」
そういう霊夢の、実の所この場をそう悪く思ってはいない優しい呆れ顔。
皆が集まり、皆で交わす、ひとつ誰かと過ごす場所。
霊夢はそんな場所を見渡して、自身の会いたい相手を目で探していた。
「ゆかり」
声に小さく出るそれは意中の相手と交わらない。
霊夢のやる視線の先で、紫は酒の席に疲れた橙を膝に枕して、その横に藍を傍づけて、その目は秘するというには甘さに過ぎる枯れずの想いを込めてそっと一人に流されていた。
視線の先には楽しげに妖夢と言葉を交わす幽々子がしなりと座していた。
霊夢からなる視線の先には紫、紫のその家族、そこから伸びる紫の視線は幽々子に向かい、誰の視線も背中に掛けられ交わらない。
成就を願うのかそれとも厄を祓うのか、一連のそれは先細の枝に括りつけられたおみくじを思わせた。
けれど紫の視線はすぐにと外され、膝上で寝かしつけられている橙を毛並みを整える手つきのそれで撫でさする。
橙の耳はひそやかと動き、二又に分かれる尻尾が気持ち良さそうに揺れていた。
なでりさわりとひとしきりそうした後で、返す手のひら今度は藍へ紫はおいでと頭を撫でる。
気恥ずかしいのか紫に少し戸惑う藍、けれど紫がもう一度おいでと言えば藍はその頭を少し下げ、幾たびか撫でられればとさりと頭を紫の身体に預けて受け入れる。
とても微笑ましい筈のその様子に霊夢はけれどいぶかしむ。
橙と藍を寄り添わせる紫の姿のその背中から、二人の式がいなければその座る背はたおやめにくずれてしまいそうでと霊夢は心に思う。
考える前にそんな言葉が心に浮かんだ。
見れば紫は膝で眠る橙を藍へとそっと預け、一人音も無く立ち上がるとすきまへぬるりと姿を消していた。
すると霊夢の背後から、しなだれかかる暖簾めいた紫が現れ肩抱くように手をまわす。
「くださいな」
そう言う紫の視線は霊夢ではなく幽々子へ向いていて、霊夢はそれを背中越しに不思議と気取る。
そして霊夢が紫へ口を開こうとすれば天狗の声が割って入って先に聞こえた。
「あやややややっ、霊夢さん霊夢さん。こっちに来てくれないですか、萃香さんを止めてください」
「駄目よ」
霊夢が答えるより先に、紫が文へと答えていた。
「ややっ、私は霊夢さんに聞いているんです。なぜ貴女が出てくるのですか」
「私の巫女よ」
「紫……」
紫の視線が文へと向かう。
背中越しから首まわりへと手をまわされた霊夢の格好、紫の言葉、それに視線。
そのそれぞれから、文の単なる酒の誘いに対するもの以上の渡さないという雰囲気が紫から漏れ出ていた。
そして文は、特に紫を邪険に扱っている様子のない霊夢を八ツ手の葉を模した扇で口元を隠して観察の目を向けて言葉を放つ。
「巫女の独り占めはよくありません」
「私の巫女だもの」
「ややっ、意味が分かりません」
紫と文のそのやりとり、その中で霊夢は紫の視線が今度こそ自身へ注がれていることを確かに感じた。
幽々子へ向けられていたそれではなく、ある種微かな執着を感じるものだった。
けれどそんなやりとりは、
「鬼の酒が呑めないといううわばみ天狗はどこだー、ここかー!」
という、文がみぎゃーと萃香に連れて行かれる声をもって幕を閉じる。
小さな百鬼夜行にもみくちゃとされる文に霊夢は心の中で手を合わせ、それから紫に向き直る。
「ね、紫」
私の巫女、という言葉にもう少し紫の心に踏み込みたいと声を発した霊夢を、それを分かって先はけれど聞かないとばかりに紫は言葉で煙に巻く。
「それじゃあそろそろおいとませてもらうわね」
「あ、ちょっと。もう」
すきまを開いてぬるり消える紫に、霊夢は彼女に渡そうと巫女服の隙間にしこんだ首紐を紫の居なくなった場所を見ながら手で弄んでいた。
そしてそんな霊夢の様子とそうなった一連をひとり藍だけが思慕の目を向けしめやかとしていた。
霊夢がそんな風にもどかしい想いをしていた頃、縁側で鬼の二人がある出会いを果たしていた。
天狗の文を酒の肴にするのに飽きたのか角を横長に二本と生やした小さな鬼が、ひとり縁側で庭を見渡している。
時折持っている瓢箪の紐に手をやりながら、手の甲に上手くそれを乗せて口を付けるその姿は誰かを待っているようにさえ見えて。
その彼女の庭を見る瞳は酒を呑んでいたのが嘘のようにただ静かにそうあった。
誰かを待っている、それは正しかったのかそんな彼女に足音あはれともう一人の鬼がそこへやってきた。
「さて土着の鬼。私と一緒にひと働きしてもらうよ」
「そろそろ来る頃かと思っていたよ」
「それは殊勝ね。私と同じく鬼と名のつくだけはあるようだ」
「口の減らない吸血鬼だねぇ」
「おしゃべりに彩を添えることこそ嗜みなのよ。それに悪いことばかりと言うわけでもないのは分かっているんだろう?太古のように外の人間にも会えるしなにより」
「外のあの二人と紫のため、そう言いたいんだろう?まったく素直じゃないなぁ吸血鬼」
よっこいせっと萃香は縁側から飛び降りて、裾を手で三度三度とはらっていた。
その度萃香の腕についている三角錐と球体の分銅が踊って鎖が鈴のように鳴る。
「運命なんてものを無粋にずけずけ扱えるってのも吸血鬼風情には考え物だよ」
「ふん、粋だ阿吽の呼吸だなんだとかび臭い不全を美とする土着民には言われたくないよ。私は西洋の誇り高い吸血鬼。悲しい結末が視えて黙ってそれを良しとするなんて到底承伏しえないのさ、その為に私の力はありそしてこの身に扱いを刻んでいるのだから」
「それが無粋だって言ってるんだけどねぇ。その度胸で当たっていればメイドとももうちょっとなんとかなっているだろうに」
「なっ」
胸に手をあて確かに西欧の貴族よろしく気品の漂う格好のレミリアだったけれど、萃香に言われた一言ですぐさま見た目相応の幼い狼狽を見せていた。
そこにいるのはただの恋に臆する少女の姿。
「お、赤くなった」
「あぁもう!いくわよ土着の鬼!」
「はいはい」
無粋だなんだと散々に言う萃香も心のどこかで悲しい結末は良しと思っていないのか、やけに足取り軽くレミリアの後へとぺったらぺったら続いていた。
そして後ろについてくる萃香にレミリアは視線はやらずに一言だけを付け加える。
「あのね太古の鬼、私は何も好きに運命を塗り替えるつもりなんてないのよ。ただ私は後押しをしてそれがきっかけになるというだけよ」
「運命なんて視えなくてもそれは分かっているよ。だから今私はこうして付き合っているのさ」
「ふん、あんたもやっぱり誇り高い鬼じゃない」
「今更気付いたのかい吸血鬼?」
「えぇ、今更気付いたのよ土着の鬼」
宴もたけなわ、枯れ木も山の賑わい、一体だれがそれを言い出したのだろうと霊夢は考え、今夜はお開きとなった酒の席へ様々と酒瓶やお猪口や漆器が転がっている部屋を一人で見ていた。
永遠亭の髪長姫たちが座っていたところだけが、やたらに後始末も小奇麗に幾人分かの漆器が重ねて置かれていた。
慧音とかそのあたりしっかりしてそうだしねと霊夢は思う。
がらんと先ほどまでとは違い音の無くなったその部屋を見渡してから、さてまた私が一人で片づけかと霊夢が腰をかがめて皿やら箸やらに手をつけると、庭に藍が居るのが目に留まる。
藍は胸を小さく上下させて寝息をたてる橙を背におぶっていた。
それを見て霊夢は一端片付けることを止めて藍の方へと向かっていく。
あれからすきまへ消えた紫のことを聞ければいいと霊夢は心に思っていた。
「藍」
霊夢は橙を起こさないように小声で藍に呼びかける。
「あぁ、博麗の。いつも酒の席をありがとう、今日も一人で片付けとは大変じゃないのかい?」
藍も橙に気を遣っているのかやっぱり小声だった。
「ん、まぁそれくらいなら。それにしてもあんたもよくこんな時間まで残ってるわね。まだそれほど寒くないとはいえ、お酒も入っているし橙には少し堪えるんじゃないの?」
霊夢はそう言うと藍の頭の横からこくりこくりと面を出している橙の頬を何故かつつく。
橙の柔らかな頬は霊夢の手によりお猪口よろしく凹んでいた。
そんな霊夢に藍は答える。
「巫女の気遣いは嬉しいけれど、こう見えて橙も猫から人成りの妖になるほどの猫又であるわけだし、何より紫さまから八雲の名を分けて貰った私の式だからね。そうやわじゃないよ」
「そう?ならいいんだけどね」
「それより博麗の。紫さまのことを聞きたいんじゃないのかい?」
八雲の名を分けるとさとりの真似事も出来るのかと霊夢は頭の片隅で冷静に驚く。
人の居なくなるまで橙を背にしてそれでもまだ残っているのはその為になのかしらと霊夢は頭の片隅で勘を働かせる。
「そうね、聞かせてもらえるのなら」
そう霊夢は藍へ言う。
すると、何の冗談かと言うほど静かに風が吹き、葉を揺らし、酒の香りを辺りへ散らして整えた。
そしてそれを頃合として藍が言う。
「ここより東へ八つ山を越えた先、乾 と坤 の間に張られる結界を潜り、枯れずの桜の咲き競う一際大きなその場所へ」
「そこに紫がいるの?」
霊夢の問いに藍が言う。
「そこはもしかしたら何かに似ているかもしれないし、もしかしたらそうじゃないかもしれない。ひょっとすると紫さまから酷いことを言われるかもしれないし、ひょっとしなくてもやっぱり言われるかもしれない。けれど、けれどそれで紫さまをお嫌いにならないで欲しい、そうとしか私は言うことが出来ない」
藍の切迫した落ち着きという心を砕く物言いを感じ取った霊夢が言葉を選んで藍に言う。
「嫌いにはならないわ。喧嘩して一時そうなることがあったとしても根っこはきっと変わらない、私は紫が好きよ」
その言葉、その霊夢に藍は闇夜の提灯をかざす月下翁の如くにまた話す。
「ここより東へ八つ山を越えた先、乾と坤の間に張られる結界を潜り、枯れずの桜の咲き競う一際大きなその場所へ」
「そこに紫は居るのね」
同じことを同じ口調で言う藍に、霊夢は先と言葉はほとんど同じでいて、けれどその口調は問い掛けではなく平叙のそれを以って答えていた。
そうしてようやく会話が進んだ。
「これ以上はご自身の目でどうか」
「乾と坤の間、つまり西ってことよね。もったいぶるなぁまったく」
式だからやっぱり紫に似るのかしら?と霊夢は続けて、都合山を八つ越えた宙で静止していた。
霊夢の眼下では一面に紫黒色へとその様を変えた木々の一本々々が何の主張もせず、ただ山はここにあるとだけ帯広に連なっている。
時の折々風の吹き、葉ずれの音が霊夢の耳をくすぐった。
けれど夜に遅い夜空の下でその音が聞こえはしても、霊夢の目には葉の揺れる様は夜闇に紛れて目で追えない。
ただ山だけがそこにある。
山鳴きと言えるそれは、霊夢を招き入れるように誘う声とも立ち入るなと言うそれともどちらとも取れて、あるいはどちらも孕んでいるからなのか、随分と懈怠めいて聞こえていた。
そして、霊夢はそれを感じ取っているのか微か頭で考えて、彼女らしくすぐにと心に従った。
「東へ八つ山を越えた先、乾と坤の間を行けば、きっとそこに紫がいる」
ただただ、心に従った。
それが何をもたらすかも知らないで。
霊夢にとって境を見つけるというのは手に取るようなもので、彼女が探すという目でそれをすれば境の結界はあっさりとその姿を暴かれていた。
地に下りた霊夢の目の前で、何の変哲も無い木々がひっそりと立ち生えて、周りより目立たせないという意味でその趣を異にしている幹の細い二本の木。
霊夢はその木と木が繋ぐ平面の空間をじっと見つめていた。
その向こうには変わり映えのしない木々が当たり前のように広がっていて。
霊夢はその面へ立ち寄って中指で掻いた。
掻いたその後霊夢はしゃがみ、手のひらを賽銭を貰うときのように上へと向けて、掴める筈の無い面をその手に掴んでめくり上げる。
「おじゃまします」
目に見えない布に姿を隠されるようにして、頭からつま先まですっかりと霊夢の姿が溶けゆき消えた。
「なんというか、桜ね」
目の前に広がる光景を見てひとつ霊夢はそう言った。
「何かに似ているかもしれないし、もしかしたらそうじゃないかもしれない」
藍との言葉を思い出しふたつ霊夢はそう言った。
「枯れずの桜の咲き競う一際大きなその場所へ」
霊夢は言葉を転がした。
立ち入り踏み入り歩んでく、桜舞い散るその場所で。
枯れずの桜は花弁と散りても地面を覆い、すこしも幽雅を失わない。
霊夢が歩けば柔らかにそれを受け入れて、足音ざまにはらり舞う。
歩けど桜、どこまで桜、花弁は月夜の群雲や。
博麗霊夢に桜の花びら、歩きひらりと進んでく。
紅と白がまざればそれは即ち桜の色の染めごとく、霊夢は歩き辿り着く。
「ゆかっ」
声を掛けようとして霊夢は止まる。
一際大きな桜の根元で散りつもり敷かれた桜に紫は正座して、ひしと胸に着物を抱いていた。
霊夢は紫のその姿に静かに心を散らされた。
普段なら誰にも見せないであろう紫を見た霊夢は、見てはいけないものを一人覗き見た疼きを覚える。呼気は短く早く鼓動は早鳴る高くなる。
紫の横で開かれた呉服箱から帖紙 がはみ出しひらひら揺れていた。
誘われるように霊夢は歩き、そして紫へ一言かけた。
「それ誰かの着物?」
紫はこの場で霊夢に声を掛けられると予想もしていなかったのか、ひどく慌てふためいて着物を帖紙 へ包みなおし古けた呉服箱へしまいなおしていた。
桜が月灯りに透け生えて花びらが細雪 のように待っていた。
風が吹けば花弁はまかれ、それの治まる凪の時は穏やかで。
どれだけ散っても桜は枯れない。
その面々と咲き誇る桜の園の風景は、いつかの異変で幽々子が八分まで咲かせた西行妖を霊夢に思い起こさせていた。
「白玉楼の桜に似ているわね」
霊夢が一言二言発すると、着物をそっと大事にしまい終えた紫が声を枯らした。
「出ていって」
「紫?」
いつもならそんなことは言わないだろう紫がそんなことを言い出して、霊夢は惑う。
だから出す言葉を間違った。
「出ていって」
「ちょっと紫、一体どうしたって……」
歩み寄ろうと霊夢が身体を動かせば、
「今すぐここから出ていけ!」
「ぁっ、……分かった」
「はやくいって」
「ごめん」
紫の触れてはいけない部分に触れてしまった間違いに霊夢は気付き、言葉弱くそう言った。
そして巫女服の隙間に手を入れて自分で選んだ首紐の装飾品を取り出し言った。
「これ、紫にあげようと思って。好みにあわなかったらごめんなさい、置いておくわ」
腰をかがめてそっと地面へかしずき置いた。
踵を返し元来た歩筋をそのまま歩き、あながちに立ち入った境を空ろに捉える。
紫と霊夢の距離は開き、二人は共に背中合わせだった。
外へ出ればそこには夜の暗い山が広がっていて、霊夢はそれをただ表情の無い目でぼんやり眺めてそれから息を吐く。
「はぁ、結界で括るってことは見られたくないってことじゃない。私も結界を扱うのに足りてなかった」
言葉ほどには余裕も精気も感じられない乾いた声が夜闇に響いて、霊夢の心はしくりと痛んだ。
そして翌朝、何故か博麗神社に萃香が涼場を作っていた。
萃香は神社で生活しているというと言葉に過ぎて、けれどそこそこに居候をしているというには言葉に足りる日々を送っている。
そんな萃香なのだけれど、朝方に霊夢が肩を落とした様子で帰ってきた時には宴会の後片付けをどうやらやってくれていたらしく、その時には姿が見えなかったけれど、霊夢が朝食をもそもそと食べ終え季節に遅い打ち水をやり終えて部屋へと戻れば、何故か畳の部屋の一面開きのそこへ御簾を掛けて意味無く陽のあたる縁側で座り涼んでいた次第。
「来てたの萃香」
「んー、まぁね。鬼は嘘つかないから」
「変な物言いねぇ」
「私が変な物言いなら霊夢は変な顔をしているよ」
萃香が霊夢へ身体をよじり、言葉以外に音の無いそこへ鎖がさらりと音を結んだ。
身体を向けられ霊夢は言う。
「どこがよ」
「紫と何かあったって顔してる」
「何もないわ」
そう言い繕う霊夢の所作は言葉の通りに心を隠し通せていたけれど、萃香にそれは通用していなかった。
そして萃香にとって霊夢のその言葉は、自分は相談相手にも足りえていないとの距離を感じさせるものでもあった。
昨夜の出来事の性質からして、人に踏み込まれたくない紫の領域に触れて火傷をした霊夢にとって萃香に話せるような内容ではないからこその言葉だったのだけれど、萃香にとってはそれでもやはり寂しいという思いが心のどこかに芽生えることを否定出来はしなかった。
何かあったということを分かりはしても仔細 までは知らないからこそのすれ違い。
紫を想い萃香へ遠慮してだからこそ話さない霊夢と、霊夢を気遣い紫も気遣う萃香の想い。
そのどちらもが心に誰かを想い、自身はそれで傷を負う。
もどかしくも淡く甘い、けれど心を持つからに生まれていずるその遣り取り。
昔も今も変わらない、人だ妖だそれさえ関係のない脈々と続くその営み。
霊夢より長く生き、そうだから霊夢より多くを経験してきた鬼の萃香が霊夢へ言う。
「あのね霊夢、鬼は人に裏切られてから嘘に何より敏感になったんだ。あんまり立ち入るべきじゃないのは分かっているけれど、霊夢にそういう嘘はつかれたくないかな。霊夢が言いたくない理由も分かってはいるんだけれどね」
同情を誘うとも取られかねないその萃香の言葉は、心そのままに表されていて、だからそれは霊夢へ届いた。
「はぁ、分かったわ。あった、あったわよ。昨日紫を傷つけた、そんなことするつもりは無かったんだけどね」
少なからず自分も傷ついた霊夢は、自身のそれはあってしかるべきだと自罰的に捉えて言葉に出さない。
そんな霊夢の意識を分かってかどうか萃香はまた心そのまま言葉を表す。
「だから私はここにいる」
「また変な物言いね」
「霊夢、昨日のことは知らないけれど、また紫に踏み込む覚悟は出来るかい?」
「うん、頑張る」
「そっか」
萃香のその声には万感の想いがこもっていた。
御簾には陽射しが落ちて程よく影を作って避暑を感じさせ、萃香はきゅぽんと酒を呑む、霊夢は静かに横へと座る。
伊吹瓢箪から口を離した萃香がそこを袖で拭って、努めて平静にしどけなく、昔がたりを紫を想いぼかして喋りだす。
「紫はさ、その昔自分の力を嫌悪して、一人で持つことに耐えられなくなって、夢を願ったことがあるのさ」
「夢?」
「きっと神社の蔵にでも記録が残っているよ」
「そんな物があるんなら紫はそれを隠すんじゃないの?」
「だから神社の蔵に隠したんだよ」
当たり前の考えだろという顔を萃香はしていた。
「それだと隠してるって言わないじゃない」
霊夢がそういうと萃香はひどく声の調子を落として言葉を発する。
「ううん霊夢、それは違うよ。あの子にとってそれが隠している事になるんだ、なまじ力があんなだから見えづらくなっているけれど、そうすることでしか紫は誰かに甘えられないんだよ昔から」
そう言うと、萃香は遠い昔を懐かしむようでいて古傷を大切に撫でさするかのような、そんな目をしていた。
「とはいえ、紫にとっちゃ誰にも知られたくないだろうってことは確かだから。その、霊夢?視るなら覚悟はした方が良いよ?」
「じゃあなんで神社の蔵になんて置くのよ」
「知って欲しいからさ」
「知られたくないことって萃香さっき言ったじゃない」
「そうすることでしか紫は誰かに甘えられないんだよ昔から」
萃香の顔は先程と違って、ふざけた様子で勢い真面目な顔と声を作っていた。
それに霊夢は何だか急激に気の抜けていく感覚を覚えた。
そして心に思う、成る程たしかに萃香は紫の古い馴染みだと。
何だか色々そっくりだと霊夢は二人が同じ何かを共有していることを感じる。そして少しの羨ましさが茶柱のように心に一本混じっていた。
霊夢は素直に蔵へと足を運び、その扉の前に立った。
漆喰 の壁面がそれなりの年月に晒されて風化して、蔵扉は黒漆喰で仕上げられている。
その重たげな黒漆喰の蔵扉を霊夢は身体を引きずるようにして開け、そうしてようやく姿を現す中扉の錠前に鍵をえいやと捻り込んでいた。
鍵が外れて戸が開いた。
「はぁ、開けるだけで面倒くさい」
久方ぶりに外の空気が入ったのか、土蔵から静かにひんやりとした風が流れ霊夢の身体をなぞっていった。
それに触られて霊夢は直感的に思った、確かにここに隠されているのだろうと。
そいや、と気軽に入った蔵の中は二階の観音扉が開いておらず、霊夢の開けた扉以外からは光が差してはいない。
「はいはい観音開き観音開き」
気だるげに霊夢は浮遊してすぐさま二階の観音扉を開け放つ。
すると一筋、二筋と陽光が差し込んで霊夢は目を細めた。
舞い散る埃がかすかにそれらを反射して透けていた。
「まぁ、紫が隠すっていったら当然結界で括ってるはずよね」
独り言のように呟いて霊夢は左手を伸ばして下げ、人差し指と中指の二本を立てた。
その状態で表裏と淀みなく手を返し、軽く一度上げてから空を切る。
「二重結界・散式。発」
囁くような霊夢の声がそう蔵へ響くと、彼女の左手首に二重の四角がそれぞれ逆に回転しながら展開された。
そして、霊夢はその手で周りに置かれた箱やら棚に詰められた書簡集やらを触っていく。
なぞりなでりと触り歩いてそれは棚の上から三段目。
心なしか、他のものより本の背が申し訳程度に出ているそれに触れたとき。
霊夢の左手首で結界の一つが弾けて飛んだ。
「ん?」
水銹 の如く古けた年季を棚で折りよくひそらせていたその書簡を霊夢は抜き取った。
「んー、見た目は普通、中身も普通。だけど私の勘がそうとは言わない」
床にそれを置く。
霊夢は自身が汚れるのも構わずに膝をつき、相対して正座した。
手を伸ばし、のたうつような行書で書かれた表題を指で隠して、書き割りを裂くようにすっと一本なぞった。
すると書かれていた文字が紙から浮いて、役目を終えたと言うかのように蔵の空気へ溶けては消えた。
そして、あまりにも鮮やかな黒に墨染められた文字が現れ、見て取れた筆の修辞は博麗日月神示。
「見せてね、紫」
そうして、霊夢はそれを手に取り表紙を撫でて、冊子を捲る。
初めはただのきまぐれだった。
人だけが蝶よ花よと栄え続け、妖の存在が薄れつつあるこの世にあって、私は自暴自棄の心のままに人を攫っては喰ってを繰り返していた。
だから、そんな私があの時攫った紅白の人間の話に耳を傾けたのは、きっと偶然だったのだろう。
「巫女を攫う妖怪なんて聞いた事がないわ」
攫って連れ帰ってきた屋敷の居間で、この紅白の巫女服を着た人間は、事もあろうか勝手に人の家の座布団を引っ張り出してきて呑気にお茶まで飲んでいた。
ぬばたまという言葉で一首詠みたくなるような深い黒の髪が、彼女の喉が鳴る度にさらりと揺れる。
「出涸らしねぇ。新茶を用意なさいな妖怪さん」
「どうして喰らわれる人間にそんなことしてあげないといけないのかしら?」
彼我の関係を思い知らせてやる為にそう言った。
けれどこのふてぶてしい紅白の巫女は、
「もしかしたら臭みのない味になるかもよ?」
何て味な言葉を返してきた。
「臭いかなぁ?」
腋を空けて二の腕をすんすん嗅ぐ声がこの人間から聞こえてきそうだった。
「今ここで試してあげてもいいわよ?」
座布団に行儀良く正座で座り込むその人間の前に四つん這いで近寄ってから、かちりと歯を鳴らして見せる。
口の端を吊り上げて今すぐにでも喰らうという姿を見せ付ける。
ちょっとした事で儚くも命を散らす短い寿命の人間なんて、これだけできっと震え上がる筈だ。
「うーん、別に喰らわれてもいいんだけどね。ただ結界張るの終わってからでもいい?その方が助かるんだけど、多分妖怪さんにとっても」
だけれどそれは暖簾に腕押し、彼女は事も無げにそう返す。
「時間稼ぎでもしてるつもり?生憎と私は騙される程甘くはないわ」
「時間稼ぎねぇ、どちらかと言うと時間稼ぎをしなきゃならないのは妖怪さんの方だと思うけれど?」
糠に釘でも打ち付けてやろうか。
「落第よ、貴女。問い掛けに問い掛けを重ねるのは無遠慮だと教わらなかったのかしら?」
「うーん、出涸らしでもお茶は美味しい」
こいつ。
あくまで調子を崩さないその様子に、私はそいつの肩口を押さえ込み、口を開けてもういいと見切りをつけた、
「このままでは、妖は現世からその実体と勢力を失ってしまいます」
「っ、、……っ」
筈だった。
喰らうという目的を持って開けられた口が、行き場を失くして力なく閉じられた。
かちんという歯と歯の当たる音がしめやかに私の耳へと届いていた。
「知った風な口をきくのね」
「巫女ですから」
先程とは違うのほほんとした口調に戻りお茶を飲む巫女の姿が、何だか様になっているように見えて随分と癪だった。
「話を聞きましょう」
何もかもが癪だった。
「なら博麗神社にでも行きましょうか。私を攫った時のようにスキマを開いてくださいな」
不承不承と私はぱくんと境を開いた。
博麗神社の鳥居の下にゆらりと景色が歪むと、そこから人成りの妖怪と紅白の巫女が、さんとその姿を現し降りる。
「二礼四拍手一礼ぱんぱん」
「どこの出雲神社の話よ」
巫女はわりあい遠くに見える賽銭箱に手を叩き、参拝の真似事をしていた。
「ぱんぱんぱん」
私の呟きなど意に介さずにこいつは拍手を続けている。
この巫女の話を聞こうとした自分が実はとても馬鹿なんじゃないかと思えてならない。
そもそも二礼四拍手一礼ならぱんぱんぱんぱんじゃないの。
何故五回も叩くのよ。
あぁもうこんなことを考えるのさえ馬鹿らしい。
真面目なのか不真面目なのかそれとも気の違えた者なのか、一体この巫女は何なのか私は測りかねていた。
「早く本題をお聞かせ願えないかしら?」
「もてなしは出涸らしのお茶で良い?」
人の家では出涸らしに文句を言う癖に自分はそれか、何て巫女よ。
「そうね、お茶請けは出るのかしら?」
「お持たせで構いませんか?」
「何も持ってきて無いわよ」
「そうよね」
何が楽しいのか、この巫女は軽く握った手を口へ当てて、くすくす笑っていた。
果たして茶請けは煎餅だった、懐かしさの香る醤油煎餅。
私は連れられた居間の、年輪がそのまま模様になっているちゃぶ台で、巫女と対面になり座っている。
ぱり。
「それでね、単純に人が増えすぎているの。だっていうのに人は感情を無くしてる」
ぱりぱり。
「正しく言うなら、彼らの見る景色は悉くつまびらかにされていて、新鮮味が無くなっているのよ」
巫女が喋っていた。
ぱりぱり、ばりん。
話の腰を折るように煎餅が鳴る。
「これじゃ人の興味は感情へと向かわないわ。なら、どうなるか?簡単よ、答えは今が表している。人はあらゆる事物を頭で解体して従え始めたわ。知識が感情の優位にたってそれを支配し始めるのなら、そこに感情が優先する妖の居場所は成立しえない」
巫女が湯飲みに手を伸ばした。
彼女はそれを啜ると満足げに湯飲みを置いた。
「という訳なの。ね、忌々しき事態でしょ?」
全然そうは聞こえなかった。
緊張感がまるで無いのだろうか、この巫女は?
私がそう思っていると、この巫女は何やら私とちゃぶ台の境目を見ていた。
「ねぇ、お茶請けを催促したのに食べないの?だったら私が貰って良い?」
私の前に置かれた煎餅が減っていないのを見たのか、巫女はそんなことを言う。あぁもう。
「一つ。聞かせてもらいましょうか」
そんなことを言うまにまに、巫女の手は伸び私に用意された煎餅はすぐにとぱりんとその身を欠いた。
「あ、その前に妖怪さんの名前を教えてよ。これからも妖怪さん、じゃしまらないわ」
彼女の台詞に引っかかるものがあった。
これからも?
聞かないといけないことが二つに増えた。
「二つ聞きます。名前もお教えしましょう、よろしいですか人間の巫女?」
「はい、どうぞ」
巫女の人柄は演技なのかそうでないのかが今一掴めないけれど、こいつの掴む私達妖怪の概況は私の見解とほぼ同一を成していた。
人の人口増加による性質の流転。
そこから来る妖怪の未来。
私の考えと一致する。
だから、私はこの巫女が危険に値するかどうかを値踏みしなければならない。
妖怪と人なんていうものは、例外を除けば水と油のようなものだから。
危険であるというのなら、今度こそ私はこいつを……。
「一つ、巫女は人間と妖怪どちらの側なのですか?二つ、私に何をかさせるおつもり?」
迂遠 を興じて探るなんて真似はせずに、言葉そのままそう言った。
眼には遊びの余裕を持たせずに、その真偽を測る意思だけ乗せた。
すると私のその眼に晒された巫女は、どうしてか不思議なことに酷く悲しそうな表情を浮かべていた。
「……、そっか、そうよね、うん。一つ、私はきっと妖の側よ。二つ、貴女に幻と実体の境界を弄ってもらいます」
居間に動を欠いた静の時間が張り詰めた。
私も巫女も喋らない。
私はじっと巫女を見る。真偽を測る。
巫女は言う、きっと妖の側だと。
きっと?何よそれは、信じるに値しない。
幻と実体の境界を弄る?
言葉一つでどうにかなるほど簡単なことじゃない。
霊媒になる流し雛でも必要だ。
けれどこの巫女なら最適かもしれない。
そんなことを私が考えていると、張り詰めた空気は不意におずおずと巫女の方から破られた。
「ねぇ、妖怪さん。そろそろお名前、教えてくれないかな?」
利用出来そうな巫女を見つけた私は、ことの真偽はさて置いて、
「八雲紫」
と答えていた。
するとこの巫女は先程までの悲しそうな顔とは違って、本当に嬉しそうな顔を咲かせて言葉を発した。
「よろしくね。私の名前は博麗--」
何故か彼女との生活が始まった。
一緒に暮らした方が幻と実体の結界を張るにも何かと便利だからという理由で、半ば強引に巫女との同居生活を私は押し切られた。
巫女との生活が始まって、まず彼女がしたのは私用の食器を買いに行くということだった。
ひと気のある場所まで私を連れて行き、どれがいい?何てしきりに巫女は聞いてきた。
私はその時、どうすればこいつを霊媒にして利用できるかを考えていて、適当な相槌を打ち、適当な椀を指定した。
そうして幾日かが過ぎ、私は結界を張る土地の測量へと出ていた。
列島に八岐と流れる龍脈の位置を自分で確認したかったからだ。
幻と実体の境界を弄ると言っても、おいそれと大地の龍脈の存在を無視することは出来ない。もしそれを千切るような形で新たな郷の産霊 を曳 いてでもしまえばそれは事だ。
そんな事になれば龍神が怒り出すだろう。
だから龍脈をすっぽり納める範囲で測量しなければならなかった。
ここで一つ問題が起きた。
移動は私のスキマで何とかなるからいい。
けれど、龍脈とはつまり霊脈であって霊力の集まり流れる大地の道。
であるのならば、当然霊力の視える者が必要だった。
思い返すだけで腹に据えかねる。
「龍脈を測るには龍穴を見つけないといけないわよね、八雲」
「えぇそうね」
「八雲は妖だから霊脈なんて見えない」
「えぇ、そうね」
「私、今の八雲に必要よね?」
「えぇ、えぇ、そうね」
そんなことがあったのだ。
「あ、八雲あった。龍脈の終わり、龍穴よ」
自分でも飛べる癖に何故か巫女は私の横で私の開いたスキマに乗って、あろうことか湯飲みにお茶を持参してのほほんとそれを飲みつつ横合いから指差しを出していた。
「あ、八雲お茶が無くなったわ。スキマ開いて頂戴」
「……」
巫女があまりにもあまりだったので、私は巫女の頭上でスキマを開いてやった。
お茶が降って、巫女が鳴いた。
「わぁっ、何するのよ八雲。びっくりして危うくスキマから落ちる所だったじゃない」
縁日の紐くじでも引いてる気分にさせられた。
すこしは意図通りの反応をして欲しい。
まぁいい、巫女を流し雛の贄にさえしてしまえば目的は達せられる、この巫女はそれでお仕舞い。それまでの辛抱だ。
私がそんなことを思っていると、彼女のお尻に敷かれている数個かの結界の目が、烏羽色した境界の中で確かにそれと分かる様子で瞳を歪ませ、目だけの癖に意地悪く笑っていた。
「次は何処へ行くのかしら、巫女?」
「んー、あっち。多分奈良のスサノオ神社が龍穴になっているんじゃないかしら」
ぱくんと境界の淵を広げた。
スサノオ神社に着くとそこは一面枯れ落ちた黄色のイチョウで覆われていた。
鳥居もそれに犯されていた。
注連縄 を巻かれた霊験もあらたかそうなイチョウの木が鎮座している。
きっとご神木なのだろう。
足の踏み場もないそこに巫女と私は降り立った。
降りた足元で枯れ葉が舞って、秋冴えのする空気に乾いた音を添えていた。
「二礼二拍手……」
「黙りなさい」
「ひどい」
機先を制した。
けれど巫女はそんな私の言葉は痛くも痒くも無いといった様子で、横手に見える手水舎 へと足を運んでゆく。
巫女が進むたびに枯れ落ちたイチョウの葉が鳴った。
しょうがないのでそれに続く。
巫女の足音に私のそれも加わった。
手水舎の水盤には清水が溜まっていて、柄杓 と、それに落訪者のイチョウの葉がぷかりと浮いたり沈んだりしていた。
巫女は流石に巫女なのか、正しい手順で身を清めていた。
「意外に信心深いのね」
「そういう訳でもないんだけど、八雲に関わりありそうな柱を祀る神社だから一応やっとこうかなって」
「話の突飛な巫女ねぇ」
私が言外に疑問の意を匂わせる言葉を言うと、巫女は右手の人差し指を立てて講釈を垂れる時の様にして言葉を乗せる。
巫女の目線の先には和歌の刻まれた碑文があった。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
「確かにそういう和歌はあるわね」
その和歌の意味は、つまる所自身の伴侶、文字上では妻、神話上では稲田姫、を囲うということを言っているのだ。
スサノオが八岐大蛇の贄にされていた稲田姫を助けた後に詠んだということになっている。
「八雲の名前が八雲なら、言霊はきっとこれに影響を受けているはずよ。八雲は出雲の代名詞だし、うちの神社は出雲にあるしねぇ」
巫女が含みを持たせた横目でちらりと私を見やってきた。
「……」
「あぁそれに、スサノオは母であるイザナミに会いたくてだだをこねたりする子供っぽい所もあるから、もしかしら八雲にもそんな一面があるのかもしれない」
あれなのだろうか。この巫女はまさか私が自分を囲うと言いたいのだろうか。
「貴女、私に囲われたいの?」
「そんな風に聞こえた?」
またこいつは問い掛けに問い掛けを重ねて、癖の悪い巫女ったら。
けれどまぁいい。巫女がそういう気質を持っているのならここで少しは期待に応えておいたほうが、霊媒にする時に何かと言い含めやすいというもの。
だから私は、碑文の一文字を境界で攫って遊びに興じた。
碑文から妻という一文字が溶けて消え、巫女の名前を刻みなおした。
「こういうことね」
▽八雲立つ 出雲八重垣 --籠みに 八重垣作る その八重垣を
「八雲はすけこましの才能があると思う」
「お褒めに預かり恐悦至極」
巫女によると龍穴はたしかにこの神社だということだ。
時間は夕刻、その帰り。
「案外と広い範囲に結界を張ることになりそうね八雲」
巫女は私を八雲と呼んだ。
「そうね」
私は生返事。
木立の中を巫女と一緒に歩いていた。
歩くたびに土と葉が踏み鳴らされて、私と巫女の足音となっている。
夕陽に染まる木漏れ日が辺りの輪郭をおぼろげにして、私たちもその例外じゃない。
そんな場所を歩いていて、ふと気付くと四つ在った足音が私の二つだけになっていて。
「巫女?」
振り返ったり辺りを見回してみると、後ろの方で巫女はどうやら自分より背の高い花の前に背筋よく立っていた。
巫女の横まで私は歩く。
「向日葵ね。遅咲きかしら?それとも狂い咲き?」
時節を過ぎて枯れずに咲く向日葵を、巫女は穏やかな顔で見ていた。
そんな巫女はこちらを向いて先程の私の言葉に答える。
「八雲は情緒が無いなぁ。それともわざと?」
言葉とは裏腹の幸せそうに笑う巫女の顔は毛ほども変わっていなかった。
「答えをお聞かせ願いましょうか」
「ほら見て八雲、枯れずの向日葵に妖力が宿り始めてる。時間が経てばきっと素敵な妖が生まれるわ」
そんなことを言って、巫女は背伸びして自身より背の高い向日葵を撫でていた。
その様子が理解出来なかった。
だから声に出た。
「何がそんなに嬉しいのかしら?貴女に関係ないことでしょう?」
「新しい妖が生まれるのよ、嬉しくない訳無いじゃない」
甘い桜餅でも頬張っているかの如く緩んだ顔をしている巫女は、そう言ってまだ向日葵を撫でていて。
妖の萌芽を嬉しそうに撫でるその巫女に、何故だか自分が撫でられた気がした。
何なのよ、この巫女は。
「早く帰るわよ」
「え?あ、ちょっと待ってよ八雲」
たたらを踏むように足音が幾度か鳴って、巫女は先に歩く私に追いついてきた。
少しの乱れが起きた鼓動に囃し立てられるように私は足早と歩みを進める。
歩幅の違いから、私より小さい巫女は遅れまいと上下に肩を揺らしながら横を歩いていた。
自分の気息が少しだけれど常には無い様子だと身体では分かっていた、頭では分かりたくなかった。
けれど私は一番大事なことに気付いていなかった、いつの間にか博麗神社が私の帰る場所として認識されていたことにだ。
博麗神社に帰り、昼間巫女と調査した数値を元にして、私は彼女の用意していた古めかしい日本地図に結界の境目を書き込んでいた。
「数字に強い八雲が居ると測量も楽でいいわね」
そう言う巫女は横合いで年季の入った扇をぱたぱたと仰ぎ、耳を紐で括られた書物を読んでいる。
便利屋扱いされているような気がしてならない。
「そういう貴女は何を読んでいるの?」
「私?博麗日月神示、博識な八雲なら知っているでしょ?」
「博麗なんてついた日月神示は聞いた事がありません」
「それはそうよね、私が勝手に書き加えている物ですもの」
「冒涜もいい所ねぇ。神と対話でもしているのかしら?」
「八雲が審神者 をしてくれるのなら、貴女に身体を任せるわ」
「嫌よ、面倒くさい」
面倒くさいとは言ったけれど、審神者を仰せつかるという事は実の所本当に面倒くさい。 審神者というのは字面の通り、神を審判する者ということ。巫女は神をその身に降ろすけど、八百万と言われる神々がおしなべて人に好意的かどうかは分からない。だから審神者は巫女に宿った神が高位の神かそうでないかを審判したり、場合によっては神と渡り合って依りましとなっている巫女を守る必要がある。勿論、器に見合わぬ神でも降ろせば巫女の命は露と消える。審神の眼が必要なのだ。
私はやろうと思えばあちらの世界を覗いてその真似事が出来る。
簡単だ、真名を呼んでやればいいのよ。
けれどこの神と渡り合うというのは本当に力がいる。だから、大方は巫女と心を通わせているものが神事の際に審神者役を仰せつかる。
考えただけで面倒くさい。
「結界を張るのに龍神を祭りあげる必要があるのよねぇ。うーん」
博麗日月神示とやらに目を落とし、ぶつぶつと巫女は呟いていた。
残暑の熱気を夜風が攫って、季節はずれの風鈴がりんと鳴る。
筆記具を書き散らす私の首に汗ばむ雫が流れて落ちる。
「ちょっと、私も仰いでよ」
「うん?はいどうぞ」
巫女に言った。
私に応えて巫女がぱたぱたと扇を向けてきた。
机上の地図が風に吹かれてさわりと浮いた。
筆を置いて地面へ手を突く、気は静か。
「涼しい」
「もっと仰ぐ?」
彼女のその声に、ふと附子の狂言を思い出したのでその一節をそらんじた。
「仰げ仰げ」
すると彼女も乗ってきた。
「あおぐぞあおぐぞ」
もう一度。
「仰げ仰げ」
「あおぐぞあおぐぞ」
二人顔を見合わせた。
「あはは」
「おかしな巫女」
彼女に気を許すようにくすりと笑った。
気付けば以前程人を喰らわなくなっていった。
きっと彼女のせいだろう。
▽
「紫とはうまくやってるかい?」
「えぇもちろん。素敵な妖怪さんね」
「そうかい」
「それで、やっぱりほんとにやるのかい、博麗大結界?」
「やるわ。龍神が怒り出す前に始末をつけないと。それに伊吹から八雲の話を聞いて私の勘が言ったんだもの、八雲の力があれば出来るって」
「そうかい」
「私は居なくなるだろうけど、もし八雲に何かあるようならその時はお願いね。あ、伊吹の方が八雲とは付き合いが長いのか」
「いいよ別にそんなこと。鬼は嘘つかない、紫のことは知己の私に任せなよ」
▽
それから八日が経ち、あらかたの測量は終わっていた。
「ねぇ八雲。聞いてもいい?」
「何かしら?」
「八雲はうちで人と同じ食事をとっているけれど、妖にとってそれは栄養になるの?」
またこの巫女は。
少しは気を遣えないのだろうか。
「種によるとしか言い様が無いわ。それで事足りる妖怪も居れば、そうじゃないのも当然居る。人を喰らう欲求自体が無くなる訳じゃないけれど、無視出来る位までそれを希釈することは出来るわ」
私がそう言うと、巫女はふーんと納得したんだかしてないんだかどちらともつかない顔をして扇をパタパタさせていた。
すると突然、
「八雲は?」
なんて聞いてきた。
「どうあって欲しい?」
いつかした問い掛けに問い掛けを重ねて私は返す。
「んー、八雲であって欲しい」
「何を、言うのよ」
巫女の人となりが少し分かって来たと思う。
巫女は基本的に言葉が恥ずかしい。どうかしてると思う。
時には大人びた事を言い、時にはしれっと恥ずかしい事を言う。
あぁけどどうかしているのは私も一緒だ。
そんな巫女だけれどそれはまぁ好ましい、なんて思うようになってしまっているんだから。
「聞いてもいいかしら?」
「何でもどうぞ」
「貴女がいつも持っているその扇、とても古めかしいけれど何か理由でもあるのかしら?」
私がそう聞くと、巫女は「あぁこれ」と一瞬扇へと目を移した。
そして喋りだした。
「んー、理由って程でもないんだけど。昔に、と言っても本当に昔で私が小さい頃なんだけど。その時知り合った鬼の妖に貰ったのよ、初めて出来た友達ですごく嬉しかったから今でも使ってるの」
「鬼は人と交わるのが好きとはいえ、物好きな鬼も居たものねぇ」
「物好きな鬼も、そして物好きな巫女も居たのよ。じゃあご飯にしましょう八雲」
今度萃香にでも聞いてみようと思う。
そう言って、彼女は手に持つ扇を小物をしまう階段薬箱にしまって炊事場へと向かっていった。
そんな彼女の背中に一声。
「献立聞いてもいいかしら?」
「んー、ご飯に味噌汁、きんぴらごぼうに、それと金目鯛の煮付け。冷やっこも付けようか?」
「かつお節をかけて頂きたいわ」
「削り節かぁ、あったかなぁ」
そんなことを呟いて彼女はぺったらぺったら歩いていった。
さて、もう少し測量した資料を地図へ書き込んでおこう。
「いただきます」
「頂きます」
箸を挟んで合掌一唱。
視線を落とせば、椀の中で味噌が入道雲みたいにたゆたい湯気をくゆらせていた。
箸で雲間を散らして一献啜った。
おいしかった。
鷹の目が彩を添えるきんぴらごぼうを箸でつつき、艶々のご飯で頂く。
頬が緩みそうだった、我慢した。
舌鼓をうてる食卓が心地よかった。
「おいしい?」
「おいしいわ」
「良かった」
言葉数は少なく、けれどそれで良い。
秋の夜長に静かな夕餉というのもまた乙なものだった。
世の先を憂えて人を喰い散らかしていたころとは比べようも無い穏やかな時間。
だからだろう、私に魔が差したのは。
「明日、紅葉狩りにでも行きましょうか」
そんな言葉が私から出ていた。
すると味噌汁を啜っていた巫女の動きがぴたりと止まった。
私はその動きに何故か不満を覚える。
何故って、この巫女は私がそんなことを言うだなんてまったく思いも寄らなかったという表情を浮かべていたからだ。
「変な顔ねぇ。そこまで鳩に豆鉄砲打ったつもりはないわよ」
「あ、うん、その。喜んで」
巫女は何故だか箸置きに箸を戻してそう言った。
三つ指ついてという言葉を思い出したわけじゃないけれど、どうにもそういう雰囲気が流れている気がしてならなかった。
言葉が途切れた。
外では虫が鳴いている。
椀から湯気が立ち上り、巫女は正座で私と対面していた。
巫女の服は当然紅い。
あぁ、何だこの空間は。
「明日ちゃんと起きなさいよ」
「え、あの、はい」
「京都が見ごろかしらね」
「あの、八雲にお任せします」
あぁもう、調子の狂う巫女ったら。
金目の煮付けに箸を通した。
「頂いてしまいましょうか」
「はい」
もう。
私は巫女を京都の龍安寺へ連れて行くことにした。
巫女はいつもより早く起きて、朝露が桶の金具を未だ濡らす時間に炊事場で昼用にとおむすびを握っていた。
何故そんなことが分かったかといえば、何のことは無い、いつもより早く起きてしまったのは何も巫女だけという訳ではなかったからだ。
「八雲、紅葉って凄く綺麗なのね」
横をからころと歩いて紅葉を見ていた巫女がそう言う。
私達は敷地内の鏡容池に色づく紅葉を狩っている。
「見たこと無いわけでもないでしょうに」
私はそんな軽口を叩いたけれど、巫女が楽しそうにしている様子に満更でもない。
ありていに言えば、連れて来て良かったと心の中で思っていた。
鏡容池に目を向ければ湖面には睡蓮が葉を浮かせていたけれど、時間が早いのかまだその蓮に似た笠に花を咲かせてはいなかった。
睡眠する花、読んで字の如く睡蓮。眠る蓮と言われるこの花は、夜には眠るように花が閉じ、昼過ぎからその花を咲かせ始める。
少し時間をずらせば良かったのかもしれない。
私がそんなことを考えてそれを見ていると、巫女が私に問うてきた。
「あれ?何見てるの八雲」
「睡蓮よ」
私が言うと巫女も水面へ視線を動かしていた。
「睡蓮。あぁ、朝だからまだ咲いてないのね」
んー残念ね八雲、だなんて巫女が言うものだから私はつい巫女を喜ばせようとしてしまう。
「咲かせてみたい?」
「出来るの?」
「ご覧じましょう。すきま妖怪のもてなすひとひらひらりの夢うつつを」
私はそう言って瞳に意識を込めた。睡蓮を捕らえて観測する。
扇を取り出し大仰に睡蓮へとそれを向け、風を凪ぐように薙ぎつけた。
すると、これはえらいこっちゃ寝過ごしたと言わんばかりに睡蓮が次々水面に花を咲かせる。
横を見ると、巫女がその様子を音も無く静かに眺めて佇んでいた。
「幕間劇 は楽しんで頂けたかしら?」
「終幕まで期待が持てる程度には」
「口の減らない巫女ったら」
「ねぇ八雲?」
「何?」
「龍安寺の石庭、枯山水 を見に行きましょう」
軋む板張りの床を歩いて見場の部屋、巫女とわたしはそこに居た。
四方開きとまではいかない、一面開きの外へと目をやればそこには石庭枯山水。
石庭の土壁の向こうでは紅葉が暮れなずむ夕陽のように色づいていて、その中で顔を覗かせる枯れた一本のしだれ桜は枝を風に揺らせて垂らしていた。
白砂の敷き詰められた庭園には山と見立てた石が十五と配置されていて、その様に趣を添えている。
振り返って後ろを見れば、どうしてだか巫女は座り込んで膝を抱えた格好で庭園を眺めていた。
その目はどこか思い詰めているようにも見えて、私はそれが嫌だった。
「巫女?」
「ねぇ八雲、知ってる?龍安寺石庭の十五の石は一度に全ては見えないんだってね」
「知ってるわよ」
「座ったこの格好の目線からは当然全ては見えない」
巫女はそう言うと立ち上がる。
「立ち上がったこの目線から見てもやっぱり見えない。全てを見るにはどうするか、答えは簡単俯瞰 の視点で見ればいい」
独り言のように先々と話す巫女が何故か途方も無く嫌だった。
話し相手の私を認識していないような気がして。
「ねぇ八雲、妖と人の境界は一体どこにあるのかしら?人であるなら十五の石は完全には見えない、十五夜満月に謂れを持って十五は満ちる完全な数を表してる、それが見えないのよ。でも妖なら見えるのかしら、宙に浮かんじゃえば見えると思うけど」
「巫女は飛べるでしょう?」
「そうよ、私も飛べる。一度に十五を見られるわ、けどそこからの目線は一体誰の目線なのかしら?私という人間?それとも私という妖?普通人は飛べないわ。だったら私はとっくの昔に人の目線を失っている、生まれた時からずっとずっと。人では見えない不変の十五を観測出来てしまっている」
「巫女」
ただそれだけが口から出た。
「皮肉ね八雲。人の観測できる十四は不完全、けれどそれは先があるということ。だから人は先を求めて栄えるんだわ。いつまで経っても人のままでは全ては見えない、なのにだから人には十五に及ばぬ夢幻の十四がある。だったらその目線の境界を越えた私は何なのかしらね」
私は何かを言おうと思ったけれど、それは巫女の言葉によって遮られた。
「ごめんね八雲、訳の分からないことを言って。ご飯にしましょう、おむすび握って持ってきたわ」
そう言うと、巫女は笑っているけれどとても笑っているようには見えない器用な顔を私へ向けていた。
経木 に包まれたおむすびを竹皮の紐で縛った昔懐かしい品を手に持って巫女は笑う。
けれど私には能面のように張り付くその笑顔がひどく我慢をしているように見えて、知らない間に見えない所でこの巫女は勝手にどこかへ行ってしまうんじゃないかと思えた。
だから私はその場に座る巫女に倣って、せめて近くで見れるようにとその横に腰を落ち着けた。
床の軋む音がした。
「おかか、梅、鮭。八雲はどれが良い?」
「梅がいいわ」
「はいどうぞ」
「はい確かに」
巫女が紐を解いて経木を開けると、中からしなしなになった海苔に包まれているおむすびが、香る経木の清涼感を漂わせてその顔を覗かせた。
私はすきまを開いて湯飲みとお茶を振舞う。
見れば巫女はおむすびを小さな口で齧っていて、私は何だかそれから目が離せなかった。
「んぐ、ん?どしたの八雲、私の顔にご飯粒でも付いてた?」
ばれた。
お茶を濁す。
「どうして巫女は妖の為に力を尽くすのかしら?」
私がそう聞くと彼女は今まで齧っていたおむすびを一旦置いた。そうしてこちらへと視線とその身体を向けてくる。
突飛だったけれど、巫女の張り付いた能面の下にあるものを知るにはやはりこれなのだろうと私は思う。
私は知りたい、知りたくなってしまった。
絆されたと言うのならきっとそうなのだろう。
「そうね、多分性分よ」
清水の流れるような、落ち着いた声が巫女から聞こえた。
「霊を博する何て言霊に影響されてるのか、それとも私が生まれるから博麗なんて苗字になってるのか、そこまでは分からないけれど。ううん、正直言うとね白状する。ねぇ八雲、私あなた達みたいな妖の在り方に惹かれてる、人間なんてものよりずっとずっと」
「分かった風な口をきくのね」
言葉程は棘の無い軽い感じでそう言い、私は巫女の握ったおむすびをぱくっと口へ運んだ。
石庭に風が吹いた。
しだれ桜が揺れた。
「だってしょうがないでしょ?これが真実偽りようのない私の気質なんだから。それにね八雲、あなたはきっと私以上に自分の言霊に捉われていると思う。一番色濃い妖の在り方よ」
そういう巫女の目は伏しがちで少し昏い色を帯びていた。
「知った風な口を」
今度もまた棘は無く、何とは無いよという面持ちでぱくっと巫女の握ったおむずびを口へと運んだ。
「私はそう思うし、正しいって私の勘は言ってるわ」
「博麗--の言う事はいつも正しいって訳ね」
「妖は人の情念から生まれてくる。あなた達が人を攫うのも喰らうのもみんな人が恋しいからよ。自分の源泉になった元だから触れたくなるし狂おしくなる」
「私たちが人を喰らう行為を随分と詩的な表現でもって評価するのね」
「そう?私はただ」
言うと巫女は隣にいる私の側に片手をついて、ついっと寄りかかるように身体を崩してきた。巫女の身体を近くに感じて気恥ずかしくて変になる。
この巫女は自分の言っていることを分かっているのだろうか、妖である私の前で妖に惹かれるだなんて。これじゃあ紅 の筆、恋文もいい所じゃない。紅葉が色づいているからってこれではあまりにあんまりよ。
だから私は気取られたくなくて自分の気持ちを雲間に隠して逃げてしまう。
「はいはい、博麗--の言う事はいつも正しい」
けれど、耳にうるさいほどに自分の鼓動が早鳴る事実を私は意識せずにはいられなかった。
冴えなずむしんとした見場が私の熱に拍車をかけているように思えて仕方が無かった。
それから私と巫女はひとしきり紅葉やら石庭やらを見て楽しんだ。
そんな中で気付けば辺りは夕闇に染まる時分になっていて、帰訪を切り出したのは巫女の方からだった。
「それじゃあ八雲、そろそろ帰りましょうか」
私の前を歩いて紅葉を見ていた巫女がくるりと振り返ってそう言った。
横顔に蜜柑色した夕の陽が映える巫女に私は気息を乱され、焦がれるような想いを感じる。そう想うようになってしまった。
「うん?八雲どうしたの、風邪?」
私より背の低い巫女が私の所まで戻ってきて上目で顔色を覗かれた。
巫女服の隙間から覗くさらしや鎖骨に目を奪われた。
顔、ちかい。
「うん?ん、うわぁっ、ちょっと、何するのよ八雲」
すきまを開いて彼女の顔をそれですっぽり覆い隠すと、すぐにとそこから頭を抜いて巫女は私へ不平を飛ばす。
「間違えました」
「もう、嘘ばっかり」
「それじゃあ帰りましょうか」
「それ私さっき言った」
すきまをぱくんと大きく開けた。
「何よ、これ」
博麗神社の部屋に戻ってまず私が発した言葉はそれ。
鳥居の下にすきまを開いて部屋へと歩く途中でまずおかしなものに目がついた。
賽銭箱の桟が無残に折れていた。
巫女はそれを見て表情を変えずに声さえ上げないでいたから、代わりに私が『物盗り?』と声をあげる。
そして巫女がいつまで経ってもそこから動かないから、私は彼女の手を引いた。部屋まで戻った。
部屋はひどく荒らされていた。
様々な書物がまばらと床に散らされて、桐箪笥 は野ざれと無遠慮に開け放たれ、卓袱台 は足が一本折れている。
「人による物盗り、ね」
巫女以外の人の匂いの残滓が鼻についたのでそうだと分かった。
巫女を探すと、彼女は棚の上に置いた階段薬箱の前で立ち止まっている。
彼女の両の平には折れて破れた扇子が乗せられていて、それは彼女が大事にしていた扇子そのもので。
「あはは、壊れちゃった」
背中越しで顔は窺えなかったけれど、淡々とそう言う巫女に私は胸が痛んで何も言うことが出来ない。
だってそうでしょう、巫女と会ってまだ年月の経っていない私がこんな時に一体何を言えると言うのよ。彼女の大事にしていた扇子が私より長く巫女と一緒にあったと言うのなら、私なんかのかける言葉はきっと安くて薄くて扇子の重さの前には耐えられない。
だから私は荒らされた部屋を片付けることで私に出来る最善を尽くそうとする。
けれどそれさえ最善手にはならなかった。
しゃがみこんで散らばった書物を一つ所に集めようとして私はそれを見た。
食器が割れて床に転がっていた。
それに近づき破片に触る。
巫女がしきりにどれがいい?何て聞いて私に用意した椀が割れていた。
どうかしている、巫女にこれを用意された時の私は巫女を霊媒として利用しようとしていたのに、その時は椀なんて何とも思っていなかったはずなのに。
割れてしまったその椀を見て私の心は抑制が効かなくなった。
殺してやる。
黒ずんだ情念が私の心に一滴垂れて染みとなり瞬く間に広がって私はそれに捉われた。
「止めて、やめて八雲!」
人をくびり殺しに行こうと境界を開いた私に巫女が背の方から腰へしがみ付いてきた。
初めて取り乱した巫女を見て私の感情は行き場を無くす。どうしても私を行かせたくないという巫女の意思みたいなものが見えて戸惑う。
「どうしてよ。大事な扇だったんでしょ」
私がそういうと巫女はしがみ付く腕を一瞬びくっと震わせてふっと緩めた。
「駄目よ八雲、妖は人が恋しいから狂おしくなるのよ。そんな感情で人を殺めに行ったら八雲が妖として穢れちゃう。そんなくだらない人間に妖としての八雲を歪められたくない、そんなのは嫌よ」
何よ、何よ、何なのよこの巫女は。
妖がどうとか私がどうとか、そんなの、そんなのは巫女が気遣うことじゃないのに。
何故そこまでするのよ。
巫女が確かに傷ついているのが分かるのに、私はそんな巫女が自分を考えてくれていることに嬉しさも感じてどうにかなりそう。
自分の感情を持て余すなんて事が本当にあるとは思わなかった。
「だから、止めて。お願いだから」
「だったら、誰にも渡さない」
「え?」
そうだ、誰にも渡さない。
巫女だって奈良の神社で言ったではないか、最古の和歌になぞらえて私はそれに影響されている筈だと。
なるほど確かにその通りだった。あらまほしき自身の寄る辺は言霊にあはれともやいを持っている。
私は腰にまとわりつく巫女を自身の前に立たせて、荒々しく引っ掴み腕の中へとおさめる。
息骨 を晒す自分の感情を私は隠そうともしなかった。
この巫女と神社は私のものだ、決して誰にも触れさせはしない。
あらん限りの力で持って、私は妖気を八重垣に満ちる霧の如く放ち神社とこの巫女を囲っていた。
私の神社、私の巫女よ。
その夜、私と巫女は粗方の片づけを終えて床に就いていた。
夜半の冷えに私は目覚め隣を見ると、巫女が寝ているはずの布団が空になっていた。
布団に入ったまま私は手を伸ばし、主のいなくり捲れた布団を触る。
冷たくなっていた。
どこかに行ってるのかしら?
だとしてもこんな時間に一体何処へ……。
気になって私は布団を抜け出した。
素足に冷たい畳の床を後にして、つっかけをひっかけおっかけ外へ出る。
昏黒の帳が降りる夜の境内は夜着の長物を羽織る私の肌を刺すようでいて、昼から夜の顔へその様相を変えた木々がやけにその場へ静寂を落としていた。
すると夜目に慣れる私の目は木々の合間に隠れて揺れるぼやりとした影があることを捉える。
きっと巫女だろうと私は思い、近寄ろうと足を鳴らす。
声が聞こえる。
「ごめんね伊吹。扇子壊しちゃって」
巫女と声をかけようとして私は思いとどまった。伊吹という言葉で咄嗟に草葉の影へと身を寄せ潜めた。
「形あるものはいずれ壊れるさ、むしろまだ後生大事に使ってくれてた事の方が驚きだったよ」
「物持ちは良い方なのよ私」
「そうかい、それより進捗の方はどうなのさ?」
萃香、伊吹萃香。私の数少ない友人、鬼の知己。
「八雲を審神者に私へ龍神を降ろすわ。龍神が姿を現す凶兆の雨を持ってその時とします。かの神を祭り、私の気質を実体と幻の境界への流し雛として新たな郷を括ります」
「紫には言ったのかい?」
「言ってない」
「言いにくいなら私から話そうか?」
二人の会話に怖気の走るものを私は感じた。
夜陰に冷える私の身体に体温とは別の悪寒が襲う。
龍神を巫女に降ろす?確かに私が審神者を務めれば出来るかもしれない。
けれどそんなこと私はしたくない、人の身である巫女に龍神など降ろせよう筈もない。
それは水風船に池の水を全て入れようとするようなものだから。
そんなことは萃香だって巫女だって分かってるだろうに、それを淡々と話す二人の姿にまるで命の遣り取りを算段する十王審理、あるいは死出 の旅路めいたものを覚えて目を背けたくなった。
直視出来ない、したくない。
気付けば私は逃げ帰るようにその場を後にして、巫女に龍神など降ろすものかと心にあかりを灯して小走りに走り、寝床へと戻っていった。
焼け付くようにからから喉が渇いて仕方なかった。
萃香と巫女があの後何を話していたのかを私は知らない。ただ、布団の中で目を瞑るも寝付けない私の耳に巫女の戻ってくる足音がひたりひたりと寒さそのまま聞こえて、その一歩一歩と近づくごと明瞭になる足音に私は一枚一枚心を剥がされる思いだった。
ひどく足先が冷たい。
枕元に巫女の足音が聞こえる。音が止む、立ち止まる。
私は起きていることを悟られないよう閉じる目蓋へ神経を集中させた。
目を閉じていても分かる見られているという感覚に気が気じゃない。
自分の鼓動が聞こえてやしないかという程にその音は私の頭に煩く響く、まとわりつく。
一拍、二拍と時間が流れ、そしたらふっとその圧は私から外されて、隣で衣擦れの音が聞こえてきた。
巫女が布団へ入る音だった。
「ねぇ八雲、起きてる?」
部屋の秋夜の乾いた空気に巫女のしめやかな声が聞こえて、私はそれに疼きを覚える。渇く。
ただ鼓動だけが早鐘をうち、声を出すことも出来ずに時だけがただ流れ過ぎていく。
そうしてどれくらいが経ったのか見当もつかなかったけれど、
「おやすみ八雲」
という声が聞こえて。布団に入った彼女はきっと私に背を向けて寝ているような気がした。
「いただきます」
「頂きます」
翌朝、巫女と私は食卓を囲んでいた。
起き抜けにも私の喉はひりつくような渇きを覚えていて巫女を見ると一層渇き、巫女がその口へ箸を滑らせ開くのを見でもすれば、それに狂りと侵され私の何処かに雫を垂らした染みが更に深みを増すようにとその色を濃くした。湯飲みの白湯 をごまかしに喉へ流し込んでも、手に取るやにわにこれでは癒えないと幽谷の奥底に潜む得も知れない自分の声が私を襲う。
盗み見るように巫女を見やった。
箸に浅漬けの白菜をちょこんと摘まみ、片すくの手の平を下に添えて口へとそれを運んでいた。
巫女の口が開いて紅梅色 した舌がちろりと覗く。
喰らいたい。
「っ、、」
湯飲みを卓へと不躾に音の鳴る程勢い強く押し付けた。
私は今何を。
「どうしたの?」
「何でもないわ」
「ほんとう?」
あぁ、何度も私に声を掛けないで、口を開かないで。
ちろりちろりと覗く舌、声の鳴るたび形を変える薄く色づくその唇。
「っ、出かけてくるわ」
「え、あ。ちょっと」
私はそう言って巫女へと背を向け、はためく服に足を取られそうになりながらその場を後にする。背中に巫女の視線を感じながら、それでも私は振り返れなかった。
今振り返ってしまえばどうなるか自分でも分からなくて、それが私には怖かった。
喰らいたい。
狂おしい。
死なせたくない。
心惹かれた。
彼女はただ人、私は妖。
水と油は溶け合わない。
満ちる十五の満月は、時を過ぎれば欠けてゆく。
届かぬ十五に願いを馳せるは、欠けること無い人の夢。
巫女は一体どこへ辿り着くのだろう?
どこに居るのだろう?
ついぞ得心のいく冥加を得られそうもなかった。
「で訳も分からず鬼の棲家までやってきたと。確かに今の紫は酷い顔だよ、まぁ古い馴染みとしては紫は一人で危なっかしかったから少し嬉しくもあるんだけど。それより私に聞きたい事が別にあるんじゃないのかい、紫?」
萃香は所狭しと巻子本の散らかった奥座敷で足を崩し、伊吹瓢箪に口をつけていた。
私は畳の床にだらしなく身体を預けて四肢を投げ打つ格好でそれを見ている。空ろな目に薄く開いた口、そしてそれに髪の垂れるのも構わないという姿を萃香の前で晒していた。
四方開きの殿舎に今は御簾 が四面掛けられている。
竹ひご造りの御簾からほのかにしどける香に少しのあわいを覚えてなずむ。
「萃香、私に隠していたのね。巫女のこと」
「ん、まぁそういうことになるねぇ」
「鬼は嘘が嫌いではなかったのかしら?」
「紫に聞かれはしなかったさ」
「とんでもない鬼もいたものね」
「聞きに来たんだろう、紫?」
萃香の言葉に私は寸暇の淀みなくすらりと声に出す。
「巫女のこと、教えて」
私がそう言うと萃香は顔地に戸惑いの色を見せ、すぐにと笑う様を取り繕った。
「う、ん。そっか、今の紫はそれが始めに口から出るのか。そっか。てっきり結界のことを聞かれるかと思ってたよ」
「すべて聞かせて」
「どっちから話そうか」
「巫女のこと」
私のその言葉に萃香はまた少しの苦笑を浮かべてから色々話してくれた。
人との鬼ごっこの最中に神社で巫女と偶然出会ったことや、巫女に扇をあげたこと。
巫女には既に身寄りはなく、その身に宿す不思議な力のせいで小さい頃から人の知り合いなど出来ずにいたこと。
巫女自身は人に興味はなく妖に惹かれる性格で、だから小さいうちは危なっかしくて萃香がそれとなく力ある危険な妖から遠ざけていたということ。
色々私に話してくれた。
それを話す萃香の顔は、人と交わりを持つことを良しとする鬼らしい砕けたそれで、けれどどこか、全てを良しとするには余りに素直に過ぎるという憂いの色を匂い立たせる機微があった。
伊吹瓢箪がちゃぽりと萃香の口へと吸われた。
「結界の話を最初に出したのは巫女の方さ。私がうっかり紫の人となり、ん?妖なりを口から滑らせて巫女の耳に入れてしまってね。そしたら、それから八日ほどしてここへやって来て私に話し出したのさ」
萃香のその言葉に私は言葉をつなぐ。手に取るように分かるおよそ巫女が話したであろうことを口から長々と零す。
「龍脈をまるごと取り入れる範囲に陣を敷き、私を審神者に龍神を降ろす。そしてかの神の霊験威光をそのままそっくり龍脈に宿して地の霊脈と天の霊脈を一時的に一つにする。巫女を流し雛、ひとばしらにして実体と幻の境界を私の力で作って括れば国生みのまねごとが完成する、まるで天のぬぼこをつきたてるように。こちらの世界のくびきはそのままに新たな天地の世界が生まれる」
私が淀むことなくそう言い終わると、萃香が合いの手を入れてきた。
「そこは私が説明するまでも無い、か。だったら私から結界に関して紫に説明することはないかな」
「後ろの巻子本はその類の物なのかしら?」
「そうだよ。構築式から何から古事記まで調べたさ」
巻子本へ顔を向ける萃香のその目は悔しそうでいて、散らばったそれは今見るとまるで萃香に投げ捨てられたからそうまで散らばっているかのようにさえ見えた。
「悔しいね、紫。何をどうあがいたって境界を括るなら巫女は命を差し出すことになる」
萃香の言葉に私は言う。
「こちらの世界は清廉潔白に過ぎて」
萃香は言う。
「私たちにとって穢れている」
風がそよぎ、鳥が鳴く。ひととき宿世 と蝶が舞う。
典雅を誇り、覚えめでたき人の世に、かそけき妖寄る辺なし。
そうなることは避けられないのだと一人の妖として私は思う。
きっと巫女もそう思ったんだろう。
容易にそうだと思い至った。
「こちらに居ることは既に私たちにとっては穢れ、緩やかにまわる神変鬼毒酒 を飲むようなもの」
「そうだね紫」
「だからハヤサスラヒメがそうしたように、巫女が流し雛となって穢れを流して祓うのよ。巫女はそうしようとしてる。新しい世界にこちらの穢れは持ち込めないから、私たちがそこへと至れるように。水に絵の具を垂らすように境界に気質を、色になる。彼女の気質が境界を縁取るまじないになる」
「人の巫女にしか出来ないんだろうね、紫。コノハナノサクヤヒメに色濃く繋がりを持つ人間にしか、その恩恵を受けない私たち妖にはそれは出来ない。私たちは自ら咲き誇る色を持ち得ないから。私だって人が居なけりゃ鬼ごっこのしようもない。この世界は結局の所やっぱり人の根付くところなのさ、その閏統 を論ずるつもりなんてないんだけどね」
萃香が人差し指で掬い上げるように空を掻けば、彼女の正面にある御簾がひとりでにその幕を開けて外の景色を映し出す。そうすればそこには見える昼の月。昼間にあってなお輪郭を現す白夜月とも死んだ月とも言えるそれがある。
そして、場違いのように昼から浮かぶその弓張月 に萃香は遠い目をはせていた。
「イワナガヒメはいつも空でひとりぼっちさ。月は自分じゃ輝けない、いつだって誰かが居ないと誰かに見つけてもらえもしないんだ」
石の寿命を持つイワナガヒメ。場違いのように昼の空に浮かぶ月を同じく寿命の長い私たちと重ねるのなら、やはり私たち妖は人の世で。
萃香はそんなことを考えていたのだろうけど、今の私にとってそんなことは心に留め置く意味をさほど感じられないことだった。
それよりも。誰か、そう誰かでありさえすればいい。
そんなこと、無いと戯れだと、長く生きたゆえについた智慧が私の中で冷たく心をせき止めた。
心のまま振舞う前に挟み込まれる帖紙 が憎い。
情からいずる妖が妖ゆえに見通して、そして心は発露の前に仕舞われる。
なんて皮肉もいいところ。
私達には変化が少ない。
見通せるから、分かるから、結末が見えてだから夢幻の十四に心馳せない振舞えない。
見えなければいいなんて、そんなこと今更思うなんて。
愚かしいって見えているって、けれど私は
「他の巫女を使えばいい。彼女じゃなければ他はどうだっていい」
言いたくなってしまった。
零れるように部屋へと落ちた私の声は萃香のしめやかな声と形を変えて返ってくる。
こちらを憐憫の籠もった目で見据えて瞬き一つ、萃香の瞳が流された。
「彼女が生きているうちは博麗の巫女の代わりなんて見つからないさ。彼女の気質は一人類い希だから。必要になった時だけ必要な分の一人がまたどこかに出てくるだけさ」
息を呑む。いつか巫女に見せた蓮の花のように目が開く。
私は刹那の時の中、萃香の言葉に何も言えなくなった。
必要になった時だけ、必要な分。
萃香の私の怒りをわざと掬うその物言いに、私はそれが分かっていてなのにどうしても我慢がきかない。心が、嫌だと帖紙を破る。
「巫女なんて他にだってどこにだって有象無象が立ち生えて居るのに!なのに、どうして彼女なの!」
五指でざりと畳を掻いた。
そんなこと、私だって本当は分かっているのに、それでも吐き出さずにはいられない。
「博麗の言霊に耐える彼女の気質が境界に必要なのは、紫も分かってるだろう?」
「萃香は私より巫女と長いのに、それで何も思わないの?」
何て醜い、萃香だって思うところが無いはず無い。だっていうのに今の私は所構わず感情の棘を突き刺している、まるで孤独な仙人掌 のようだ。
そもそも彼女を霊媒に出来るかもしれないと自分も最初に考えたではないか。
すればその時、
「ゆかり」
優しい声が聞こえたと思えば傍に来て、小さな体躯の伊吹萃香に私はぎゅっと抱きしめられた。
ひらひらと揺らめいて私の輪郭を隠す役目を仰せつかっている衣服が、萃香と一緒に私の身体に張り付く感触がした。
耐えれなかった。
「…………巫女を失くしたくないの」
「うん、紫。私もだよ」
堰を切った感情はもう自身ではどうしようもなくて。
あー、あーと、私は萃香に縋ってひとしきり泣き腫らすしか出来なかった。
博麗神社の鳥居の下にすきまを開く。
ぬるりと私はそこに立つ。
茜差す柔らかな陽射しが神社の屋根を淡く染め上げていた。階隠 しの庇 の下で賽銭箱は浜床に影を差し、屋根を真中から支える大棟や鬼板のその下にも影がその境の黒を面とよく分け落としていた。時刻は夕闇に染まる八刻手前と言ったところ。
斜めに地を這う鳥居の影が先に向かって細くなりゆくその様はどこか引き伸ばされた人のようにも見えて不気味と映る。
それを越えて私はさんと踏み出した。
鳥居は境、おちこちをいずくかに分けうるそれを踏み越えてなお私の喉は渇きに惑う。
そこかしこにいずらめすべらかと巫女の残り香が私を誘い、早鳴る鼓動とその呼気は妖そのさが言祝ぎならずにひがことなりとのそしりをまぬかれようはずもない。
あぁだってこんなにも喰らいたい。
巫女、巫女、巫女。
あぁ、あぁ、こんなにも。博麗を喰らいたい。
私で括ったこの神社、人の目には見えねどそのいわけなき身のはしばしに感ずることの出来るだろう程に密度を濃くした私の妖気に人など決して立ち入れない。
けれど、喰らえばきっと失くなってしまう。
いや、いや。それは嫌
あぁけれど我慢の効きようも無い。
場所を離した萃香の家では我慢のしようもあったけれど、この場でそれはもうどうしようもない。
水面に落ちた帖紙が水気を吸って沈みゆくように、私のこころばえもただ喰らいたいというそれに染められて息の出来ないほどに手繰り寄せられそうして溺れた。
けれどそんな私の爛れる妖としての情は、
「あ、帰ったのね八雲。おかえり」
という巫女の声一つで微かに祓われた。
巫女はほこほこと陽射しの似合いそうな穏やかな顔で笑っていた。
神社の中からでは無く、横合いの木立から出てきた巫女はきっとどこかに出かけていたのだろう。
「ん、どうしたの八雲?顔色悪いわ」
そんなことを言って呑気に巫女は私に近づいてくる。
この巫女はどうしてこう私に接することが出来るんだろうか。巫女であると言うのなら私で満ちるこの場に何か気色でも変わっていい筈なのに。
分かった上でそれでもその態度を装っているのなら役者もいい所なのだけれど。
それよりも喰らいたいという欲求に染められた妖に自分の方から近づいてくるなんて。
なんて無防備な巫女なのかしら。
喰らってしまっていいのかしら?
そうまで私が考えていると巫女が私の前までその徒歩を進め終えていた。
「どこへ行っていたの、巫女?」
「ん?この前の枯れずのひまわりを見てきたのよ。人に何かされないように意識の結界を張ったの。八雲、きっと彼女は妖になるわ」
そう言って巫女はまた最初に妖の萌芽を見つけたときのようにあたたかに笑う。
その顔がこころの花弁の最後の一枚をはらりと散らした。
あぁもう、だめ……。
「八雲?」
彼女の細い腰を抱いて引き寄せた。
私の薄く開いた口は息を吐きながら、ゆるゆると閉じてはひらいてを繰り返していて今更に戸惑う。
けれどあぁ、視線の下には巫女がいる、人がいる、私の腕におさまっている。
「っ、は、はぁっ、は」
「やくも?」
巫女が視線を向けてきた。答えられない。
「ふくっ、うぅ」
寒さに凍えるように歯を打ち鳴らし、そして私はようやくの思いで巫女にかけた腰から手を離す。
腰布から指先の離れる感触に尾を引かれた。
すると私のその一切を見ていた巫女が非難でも悲哀でも恐れでもないただ映る瞳それだけを私へとつと向けてきた。
「そう、喰らいたいのね」
「ちがう」
私は否定出来ずに弱くうなる。
そんな私に巫女は言う。
「八雲、いいのよ。妖はそれでいいの。今全てとは言えないけれど、私の血でよければ八雲にあげるわ。啜り、そして喰らいなさい」
言うと巫女は肩口の衣服をずらした。いつも以上にそこの露出した彼女の首筋、そこに私は目を奪われた。
だって、だって今、良いって言われた、私言われた。
呼気が惑う、こころに惑う。
「は、はぁっ、はっあぁ。うぅ、ふぅっ、ふぅうう」
「はやくなさい。八雲ほら、はやく」
怯えも何もない穏やかな巫女の声が私の耳に聞こえてきて、
耐え切れなかった。
「ぐうぅ、ふうぅっ。がぅっ、、うぅ、う」
喰らいついた。
何も分からず、訳も分からず前後不覚にただ血だけを貪った。
そしたら巫女の声がする。
「そう、そう。それでいいのよ、間に合って良かった」
そっと優しく頭を抱えられる感触がした。
両手で抱きすくめられて彼女の身体を密に感じる。
昏い情念に捉われる最中にあって、そこだけが優しく温かで心地良い。
彼女の血よりも何よりも、触れて抱きすくめられたそこから、身体の中が浄化されゆく気持ちがした。
それから数日、巫女は日月神示と睨めっこして外へは出ず、私もそれとなく巫女の近くに居るようになっていた。離れるのが怖くなったといってもいいかもしれない。
巫女が日月神示を見ている理由は結界に関しての下準備だと分かっていたけれど、私はそれを止めようという行動をどうしても起こす気にはなれなかった。
私は妖怪の賢者としてその側に立ち先を案じて手を打つということよりも、ひとりの妖としてその帖紙を破ったのかもしれない。
十五夜の満ちる月はそこへ辿り着いてしまえばあとは欠けていくだけ。だからいっそ欠けてしまえば良いと私は思っていた。世にある私たちが世によって緩やかに衰退するというのなら、もうそれに抗うことなんてしなくていい。
今すぐ妖が全て息絶えてしまうという訳でもない。それに私一人や目に見える範囲の数さの者たちだけならなんとかなるような気がしていた。
どちらにせよそれに対して考えなければいけない時も今ではない。
まだ、大丈夫。
結界を結ぶのだって結局の所は私が境界に干渉しないかぎり達磨の右目はその墨を入れられよう筈も無い。
だから、だからこのままでいいと私は思う。
それは淡い戯言だと分かってはいるのだけれど、思う自分に逃げ込んでしまう。
私がそんなことを思っていると、鳴子の役割を果たしている結界が踏み越えられた気配がして、それは隠す気もない鬼の匂いだとすぐに分かった。
きっと萃香が神社へやってきたのだろう。
日月神示に目を落とす巫女を残して、私は鬼の気配がする遠くの廊下へと足を伸ばした。
「いらっしゃい萃香。今日は何の用かしら?」
どうせ私の妖気のことなんだろうと私は思う。
「紫、すごい妖気で博麗神社に近づけないって人間達が騒いでるよ」
きゅぽんと音を立てて伊吹瓢箪から口を離し、伊吹萃香がそう言った。
ほら、やっぱり。
予想に適う馴染みの友からの親切心に私はだけれど興味を持てない。
萃香をよそに神社のひさしで日を浴びて、腰を落ち着け庭を見渡す。
ひさしから落ちて私に映える鮮やかな影も、庭に自生する木のそれも全てが私に心地良い。
私にとってどんな枯山水よりも染み入る庭園のようだった。
すると取り合う気のない私のその態度に萃香は「あー、とだな……」とばつが悪そうな声で喘いだ。
「紫、確かに今の神社の周りは紫の気で満ち過ぎてる」
もう少し警戒を解いてもいいだろう?と萃香は言いたげだった。
その言葉に私は心の奥で種火がくすぶるような苛立ちを覚えてしまう。
だって一体どの口の人間がそれを言うというのだ。
彼女の扇と住処の神社を荒らしておいて、それは幾らなんでも虫が良すぎだろうと私は憤る。どの個体がそうだとは分からないけれど、人のその差異を個々に認識して分けてやる気には私はなれない。
だから、私は分別無く矛先を眼の前にいるこの友へ見当違いに向けてしまう。
人と交わりを盛んに持つのが好きなこの鬼に、人間の影を重ねてしまっていたのかもしれない。
「ここへ参拝になど来ることなく、平静は神社自体を忘れているような輩の癖に随分と身勝手なことを言うのね、人間は」
人間は、とかろうじて最後につけて私は萃香へ自身の身勝手な怒りをぶちまけてしまう事を何とか踏みとどまった。
そもそも妖気以上に結界を張っている限り人間等ここへ来れよう筈もない。
けれど私のそんな言葉に萃香は特に気分を害した様子はなく、しばらく神社の周りの景色にしみじみと目をやった後で飄々とした態度で言葉を告げてきた。
「ま、どちらにしてももう雨さ。人との義理は一応果たしたから私はこれで退散するよ。また会うときもどうか健やかに、紫」
なんて言ってあっさり引いてみせたのだった。
翌日から天気が機嫌をそこなった。
外では曇天 の陰りが空を犯してしとしととその残滓を地面へ染み渡らせていた。
部屋の中は心なしか湿り気を帯び、畳は微か乾いている。
ひさしの廊下へ目をやれば張られる板がやけに締まって見えて冷たそう。
外は雨音、中は静。
向かいで日月神示を膝を折り曲げて読み耽っている巫女の手が湯飲みへ伸びた。
「雨ね八雲」
「そうね」
「そろそろね八雲」
言外に決行の時が近いことを匂わせて巫女が言う。
私はうそぶく。
「冬至ならまだ先よ」
巫女がこくりと茶を飲んだ。
見れば崩れたようなそうでないような形容しがたい顔を巫女はしていた。
けれどそんな顔はすぐさまと色を引っ込ませて巫女は言う。
「天の龍脈が泣きを始めたのよ。八雲なら分かる筈よね?」
「ただの雨よ、考えすぎは体に毒よ。きっと明後日にはやんでるわ」
私の言葉に巫女は湯飲みの湯面へ目を落としていた。
「ねぇ八雲、龍神の凶兆よ。このままだといずれ」
幕を開ける決定的なそれを言おうとする巫女を私はいやと話の終わりを告げるようにして言葉を挟む。
「お昼にしましょう。今日は私がふるうわ」
「八雲……」
立ち上がって背を向ける私に掛かる声は、とても細く、そしてとても甘かった。
頭の中にいつかの巫女の『終幕まで期待が持てる程度には』という声が聞こえた気がした。
翌日になっても雨は当然やまなかった。
巫女はあれからその話はせずに日月神示に目を通したり、新しく書き加えるなどして筆を滑らせ過ごしていた。
私と巫女に特に会話といっていい会話はなく、ただ音のない部屋に雨音がしめやかに聞こえてくるだけだった。
いつもの様に一日過ごし、そしていつもの様に巫女と寝所を並べて眠りについた。
そしてまた翌日、雨はその勢いを増していた。
神社のこけら葺きの屋根や地に敷き詰められた砂利に染み渡ると形容出来るそれではなく、いっそつぶてのような雨音が幾千を越える雨筋となって四方八方降り交じっている。
地面へ降り落ちたそれは砂利にあたれば砂利をはじき、木へ降ればその葉をはじき、岩にあたればそれに穴でも開けるつもりなのかと問いたくなるような勢いだった。
そこかしこで水たまりがその面を広げ、どこから何処までがそれの境と言えないほどにつらを成したつ景色の見ばえ。
ここからは窺い知れないけれど、神社へ登る鳥居の階段ではきっと覆われたように水が上から下へと流れていることだろう。
あぁ、龍神が怒っている。
そんな中で私は出涸らしの茶を入れた湯飲みを手に持ち縁側と廊下の境で外を向いてとかりと座り、巫女に対して背を向けていた。
その巫女もまた私に目を向けることはなく、畳に腰を落ち着けて膝を抱えて片手は日月神示という格好で視線をそれに落としていた。
そして、頭上でわななく雨音に雨漏りの心配でもした方がいいんじゃないかしらと私が思ったその時ひとひら巫女が言う。
背中にしんと声が張る。
どこか遠慮がちな口ぶりだった。
「八雲、幕間の時間はもう終わりよ。演じきって幕を降ろさないと」
巫女の言葉、けれど私は取り合わない。
「いやよ。いいじゃないもう、いいのよもう」
振り向き、巫女を流し見た。
すると私のその言葉を聞いた巫女は外は雨だというのにも関わらず、雨よけも持たずに部屋から廊下へ、そして私の横からとんっと軽やか外へ出た。
そうすればすぐに巫女の身体が濡れていき、紅白の白の部分は灰色に、そして赤の部分は濃紅 に染まってく。
背中しか見えなくて、だから私は声をかけた。
「風邪でも引いてしまうわ。戻りなさい、巫女」
けれど巫女は私の言葉を聞かずにその歩を進めて遠くなる。
私も濡れ立ち巫女を追う。
どこへもいかないで
それでいいのに。
「巫女」
背中へ問い掛け声は静かに雨に落つ。
歩筋はしとやか地を渡る。
一身ひと掻きの距離の背中に、手は伸ばさずに声を掛く。
「止まりなさいったら」
二度三度と呼びかけそれでも二の矢は私に返ってこない。
妖が人を追う、どこか不思議で、正しいけれど、どこかおかしい鬼渡り。
雨の中、背中を追いかけいくらか歩いて気付いた時には、鳥居から賽銭箱の浜床まで連なる石渡りの上にいた。
「巫女」
「最も色濃い妖の在り方について」
不思議に雨音弱く巫女の言葉はよく聞こえ、ようやく私に返しが飛んだ。
けれど答えたというには随分と突き放された、私と交わすつもりのないその言葉。
神託のように、こちらからは及ばない意思を言挙げするようなその巫女の様。
巫女は私に背を向けていた。
そして彼女はいつの間に手に持ったのか、おおぬさを祓えよろしく振り払う。
雨の中で確かに音が鈴でも鳴るかのように紙垂 から聞こえて散り咲き祓う。
「かしこみかしこみ」
それが降神に身をいれる祝詞 だと分かったので私は言う。
「審神者の真似事なんてするつもりはないわ」
けれど私の言葉に巫女は耳をかさずにやれとのる。
「言やめて 草の片葉も 陽にのびいかな。八十 隈手 いきにし神は 今還らん。スサノオの 命知らせる 海原や。天ヶ下 おつるくまなく 照らす大神。たかひきの いほりかきわけ きこし召すらむ。行く水に 清めて仕ふ 極みのみあらか。言霊の 栄ゆる御歌に はらひてましを。みそぎして 祝ふいのちぞ 弥栄ましませ。八重雲の 十重雲千わき 千わき天降 りぬ。四方の国 咲 み集うらし 真中の国に。よきあしき 皆はらひませ しなどの風に」
「言わないわ、無駄よ。いやよ、部屋に戻りましょう巫女」
「八雲の在り方が色濃くてよかった」
巫女から聞こえた私と交わすつもりのないその言葉。
そして彼女は俯き声を出す。祝詞を、私にとっては呪いのそれを巫女の口が呟いた。
「二重結界。血ばしら咲き縛りなさい」
「ぁ」
彼女のその言葉に急に意識が揺れてふらつき遠のいた。
逆巻くように心の臓からわきあがり内へ、手足の一つも私の支配下になく言うことを聞かない。
彼女は俯き、背を向けたまま。
「何、これ?」
やっとの思いでそう言った。
身体の自由はきかずに、意識は思考を許さない。
言葉を発しようと集中すれば意識に血が糸となって絡みつき、それを引きずり下ろして形にならない。
もがいてももがいても私の血とひとつになった巫女の血には、水を以って水を救うようでただの徒労。
そんな私に、逆らいがたい巫女の声が耳と意識に二つ重ねて入ってくる。
巫女の言葉が強制力を持って私に降りてくる。
「ごめんね八雲。貴女の中に私の血が交じってるから、そこから貴女を縛ったの」
「やめ、て」
これから巫女がすることなんて分かってる。
そんなの決まってる、天を降ろすに決まってる。
龍神など彼女に降ろしたくない。そんなの彼女が耐えられる訳が無い……。
「さぁ八雲、私に龍神を降ろすのよ。幻と実体の境界を境芽吹き、かの神の怒りを鎮めなきゃ」
「ぃ、ゃ」
やめてと言葉にしようとした私の意識は、巫女の凛とした声に阻まれた。
「とく唱えかし、八雲の紫」
やめ、いや、いや、いや!
いや……。
「いざや、きたれ、龍神」
私の口は、意思に反して音を繋いだ。
「ありがとう、八雲」
振り向いて、見れば綺麗に巫女は笑って、瞬間彼女は彼岸花のように血を咲かせた。
くすんだ朱の鳥居を背後に紅白の巫女から鮮やかと赤が舞う、線をなす。
目蓋に焼きつくその光景は、まるで筆で描いた一枚絵のようにそれだけを世界から切り取って、私にはそれから巫女が地面へ崩れ伏すその様までがとわにも思える時間の流れに思えて息さえ出来ない。
嘘みたいに動けるようになった身体を走らせ、倒れる彼女に近寄った。
身体を抱えた。
言葉が聞こえた。
「ごめんね八雲、私ほんとは始めから貴女のこと知ってたんだ。境を意のままに見通して、算術の式でそれをも操る妖怪の賢者さん」
知ってる、それは知ってる全部知ってる。萃香が私に教えてくれた。
言葉が音へと形を成さない。
口を開くことさえままならない。
私は何を言えばいい?
「その力が必要だったの。一つ世界を現世 から流して括る為に、私の気質を結界に流す為に、貴女が必要だったの」
何を言えばいいのか分からなかったけれど、訳も分からず開こうとした口を彼女の声が遮った。
「それが出来れば、そしたらそこはきっと良いものになるわ。きっと妖も人も全てを内包する郷になる」
「けどそんなことをしたら貴女が」
言霊に色濃く依る彼女の気質を、境界の力でもって剥落するというのなら、それはそのまま彼女の存在が亡くなることを意味してしまう。
「ねぇ八雲、聞いて。聡い貴女なら分かっているだろうけど、妖にとって今の、これからのこちらの世界は、清く澄み過ぎている」
分かってる!そんなことは分かってる!
こんなことをしている間にも、みるみる彼女から血が流れていく。
ただの傷であれば、すぐにでも血を止められるのに。
賢者と呼ばれようとどう在ろうと、所詮私は一人の妖。爆ぜた内腑を治せよう筈もない。
それに彼女はきっと止まらない。
止まらないからこうなった。
だから、私は言葉を漏らす。
「……そうよ。人によってこの世の理 は暴かれて、世界は人の知識の言葉に成り下がった。そこに妖の住める暗がりは無く、人に望郷の心はもうないわ」
「取り戻してあげる、八雲の好きな世界を」
「だからって」
「優しく流してね」
血の気のない顔で彼女は笑った。
「八雲のその力は、その為に生まれたのよきっと」
要らない、……だったら
だったらこんな力もういらない。
数を従える力と境界をはしばむ二つでひとつの私の力。
この力が貴女の命を奪うのに必要だと言うのなら、その為に生まれてきたと言うのなら、 だったら、だったらこんなものはもう要らない、耐えられない。
「駄目よ紫。妖が自分の事を否定しちゃだめよ、自分が自分でいられなくなる」
紫と呼ばれた。
頬に彼女の体温を感じた。
とても優しく暖かく、血の通っていて狂おしい人の手だ。
「あ、そうだ八雲。これ八雲が発案して結界張ったことにしておいて」
そんな本当についでに思い出したみたいな風に言って、今にも命の消えそうだっていうのに一体何を……。
「この世界は妖の為の、彼女たちの世界だから。その始まりは、やっぱり妖として記録に残さないと、人だったなんてきっと妖は受け入れてくれない」
「そんな……」
どうしてそこまでといつかの押し問答の様な言葉が声に出かけて飲み込んだ。
あぁそうか、これが彼女の博麗の言霊に耐えうる性分なんだ。
きっとそうなんだと、すとんと胸に落ちたけれどそれだけではもう私は止まれない。
「それで本当にいいのかしら?」
精一杯に笑い顔を作ろうとして、泣き顔のように歪んでいるのが自分でも分かる。
それに彼女の答えはもう分かりきっている。
妖が好きだと、惹かれていると言った自分にここまで嘘のない彼女。
だから彼女はきっとまた妖が好きだからとでも言うんだろう。
「んー、何でかな。誰に覚えてもらっていなくても、八雲が覚えていてくれるならそれでいいかなって、そう思えたからかな」
ほら、だってここには八雲がいて実際知っているでしょ?何て彼女は軽く言っていた。
この世界をよろしくね、とも。
ずるい。
「何て自分勝手な巫女なのかしら」
彼女が自身の想いへ殉じ、それを私に託すと言うのなら。
彼女が私に憶えていて欲しいと、ただそれだけで良いと願うのなら。
だったら、だったら私も殉じよう。
八雲という名の言霊に、紫という名の縁の綾へ。
きっと私は殉じてみせる。
八雲立つ 幻想八重垣 --籠みばや 八重垣作る その八重垣を
ぱくんと境の淵を開き、あっけなく彼女は私の腕の中で事切れる。
彼女が境界に溶けていく。
ぱたんと冊子の扉を閉じた。
表面上はあっけらかんと、
「なるほどね。博麗の言霊に耐えられるかどうかで紫に私が選ばれた訳か。うーん、もうちょっと早く歴史に興味を持てば良かった」
一瞬瞳に浮かんだ情の雫を流すまいと気を張って、霊夢は誰にともなく
「ったく、あの、馬鹿スキマっ」
博麗神社を飛び出していた。
霊夢は思う、紫の過去は分かったけれど、じゃあ宴会で幽々子のお墓を訪ねていた紫はなんなのかと。
行く道先は決まっていた。
九つの尾を持つ紫の家族のその室 へ。
問い掛ける言葉は背中から。
庭先で一人佇んでいた八雲藍に博麗霊夢の声が飛ぶ。
「聞きたい事があるの」
「紫さまならずっと戻っていないよ博麗の」
「宴会で私に道標の提灯を半分渡す真似をした貴女に用があるの」
藍は霊夢に視線をやることもなく、来るのが分かっていたというように声を返した。
いつもの様に布広の袖中へと両手を隠した八雲藍の落ち着きはらったその様子。
博麗霊夢はそんな八雲藍にけれんみを効かせた言葉を返す。
そんな言葉を受ける藍はけれどやっぱり意気自如として落ち着いていて。
その様はまるで、霊夢が訪れることを起こり得る一つの選択肢として予想していたというよりも、既に起こった出来事として先に見てきたから分かっているというようだった。
そして、そんな霊夢の呼びかけに藍は振り返って。
九尾の式の尻尾が九つ、ふわりとたなびき左右へ揺れた。
「紫さまの式として答えられる範囲でなら」
「紫と生前の幽々子のこと、私に教えて」
「何故それを?」
八雲藍の落ち着き払った態度から出る、霊夢の中の答えを探し導かせる道士めいたそのの言葉。
霊夢はその問い掛けに聞き入るよりも先に、紫の気質というか性質がしっかりと藍に根付いていることを感じる。
そう考えた後に霊夢は藍の聞きたいだろう答えではなくて、自分の思いを素直に告げた。
それは紫にだけとっておきたいと言うかのように。
「ただの勘よ」
「うーん、私が聞きたいのはそういうことじゃないんだけどな。それにしても博麗の巫女がそんなことを気にするなんて思いも寄らなかったよ。巫女は誰にでも、何にでも深入りしないものなんじゃ?」
霊夢の答えに今までの試す態度をすこし崩して藍は目を細めていた。
そんな藍に霊夢は言った。
「知らないわ。私は私よ」
藍はその霊夢を目を細めてしばらく見た後、言葉を繕う。
「紫さまが生前の幽々子嬢に惹かれていたのは確かだよ」
「だったら何で」
幽々子は亡霊に何てなっているのか、そんな言葉が出そうになってすんでのところで霊夢はこれを飲み込んだ。
藍が不思議に目を閉じて霊夢の言葉に応えていた。
「きっと幽々子嬢が人間だったからだろうね。彼女の力は桜に依っていたし、何より咲いては枯れて散り生き急ぐ、そんなコノハナノサクヤヒメの恩恵を、色濃く受けていたようだから。それは寿命のかげろう人間のもっとも強い表れ方だから」
手と腕を服に潜めて目を閉じ話す八雲の藍のその言葉は、確かに霊夢の言葉に応えたものだったけれど、それはどこか過去見てきたものを自分に言い聞かせる慰めのようにも聞こえた。
「だから紫は幽々子に惹かれたの?」
「幽々子嬢の最期は自尽だったけれど、紫さまは薄々そうなる事に気付きつつそれを止めはしなかったよ。何よりあの頃の紫さまは何故かひどく不安定でいらっしゃってね、私にもその訳は分からないんだ。すまないね博麗の」
嘘だ、少し慇懃 な藍のその口調にそれは嘘だ、と霊夢の心は告げていた。
紫さまの為にそこは話すつもりはない、何故かそういう風に聞こえて霊夢には藍が意図的に嘘をついているように見えた。
だから霊夢は脳裏に浮かべる、自分が視てきた八雲紫を、自身の知り得る紫の姿を。
時には蓮っ葉、時にはいたずら、聡く賢しら深謀遠慮。
萃香は言った。
『ううん霊夢、それは違うよ。あの子にとってそれが隠している事になるんだ、なまじ力があんなだから見えづらくなっているけれど、そうすることでしか甘えられないんだよ昔から』
人に触れたい癖に先の巫女のことがあるからそう出来ない。
隠そうとする癖に、さも見つけて欲しいと言うかのような場所へ隠す。
レミリアは言った。
『割れる器は、メイドに限らず誰だって見たくないものだろう?霊夢』
落とした器が一度は割れなかったとして、二度目もそうかは分からない。
熱に浮かされ急激に冷やされる変化をそうそう何度も耐えられない。
妖怪は身体的なことより精神的なことの方がより傷が深いから。
だからきっと幽々子は二度目だったんだろうと霊夢は思う。
霊夢の傾国 の才とも言える直感というものは、それはつまり博麗の言霊に耐えうるということに他ならない。
彼女の言うことは何でも正しい。
「そう、紫は生前の幽々子を亡くす事になっても、冥界で、亡霊として幽々子が在り続けることを願ったのね」
目を閉じ、誰知らぬ顔で霊夢の口から声が漏れる。
そしてこれに藍は、思わぬ所で隠していた油揚げを見つけられてしまった、みたいな顔をした。
「いやはや、恐れ入ったよ。本当に博麗霊夢の言う事には驚かされる」
「隠すようなことなの?」
「私は紫さまの式であり、私自身あの方を好いているからね。博麗の巫女に紫さまのそういう昏い感情を知られたくなかったのかもしれないし、もしかしたら紫さまが知られたく無いと感じているからこそ、式として私も無意識に隠したのかもしれない」
「私は紫が誰をどう想っていようと気にはしないわよ」
「巫女がそう思っていてくれても、紫さまはきっとそうと信じられないんだよ。他の者の前では口が裂けても言えないけれど、紫さまはああ見えてそういう事にはひどく臆病なんだよ」
そこまで言うと、藍は砂利を踏み鳴らす音をさせながら人が寄りかかれる程には大きさのある景石 へと少しの間その身を預けた。
さらさら流れる短めの金糸の髪と頭をこつりと景石へつけていた。
袖で両手をつなぎ隠している藍の格好は、身体を支えるには不安の残る儚さのようにも見えて、寄りかかる姿はその印象をさらに輪郭深くしていた。
端整の整った藍の顔は、はっとするほどの切なさと焦がれる優しさが見て取れる妖狐のそれだった。
そして霊夢が目を奪われた葉でも舞い散るすこしの時間に藍が見せたその表情は、すぐにと戻され身体も戻して藍は言う。
「詳しく聞いてはいかないのかい博麗の?」
「待つわ。紫が話してくれるまで、私に話したくなるまで。それくらいには私は紫を信頼してるもの」
「それは……、そうだな。それは、直接紫さまに聞かせてあげたい言葉だよ」
少し言葉に詰まった藍の口調はそれでも静かで、瞳には羨ましさとも悔しさともどちらとも取れる色が混ざり宿っていた。
「ねぇ藍、最後にひとつ聞きたいんだけれど」
「紫さまの式として答えられる範囲でなら」
「八雲藍は八雲紫の式であなたも式を作れるのよね?」
「うん、私は紫さまの式だし橙も疑いなく私の式だよ」
「解った、ねぇ藍?」
「うん?」
「応えてくれてありがとう」
そう言って霊夢は両の手を下腹部あたりで繋げ、精一杯の感謝を込めてゆるりと巫女らしい所作で頭を下げた。
藍に頭の上を見せそうして数秒、面 を上げてそれから霊夢は踵を返す。
その背を見て藍は霊夢を呼び止めた。
「あぁ、博麗の」
「どうかしたの?」
「紫さまをお願いします。あの人をどうか支えてあげて」
最も近くで長く式として主を見てきただろう自身の想いはよそにやり、藍は言う。
霊夢の心からの礼に応えてそう言って、自身もうやうやしく頭 を垂れる。
藍と霊夢、そのどちらもが紫を想う心に変わりは無い。
心を刺される痛みや今は届かない願いがあったとしても、それはきっと誰かに焦がれているからこそということだから。共に在るからこそ生まれるものだから、それは決して藻屑にならない。もやいの紐は確かに自身とその感情に結ばれているのだから。
「博麗でなく、私が私として出来る範囲でなら。例えこの身をやつしても」
その言葉に、紫が帰って来たら温かいごはんでも用意して橙と一緒に迎えてあげてと霊夢は穏やかにひとつ本心を付け足した。
霊夢は博麗神社へ出戻って、一人静かに思案する。
紫を呼び出すにはどうすればいいか、それに頭を悩ませていた。
博麗の結界を緩めればひょこっと出てきそうなものなのだけど、と霊夢は思って、頭に浮かんだその考えをすぐに消す。
「流石にね」
もうそういう気持ちにはなれないとそう呟いて、霊夢は昔に結界を緩めていたずらに紫を呼び出したことを微かに悔いた。
もうしないでおこうとその思いを胸の小箱にそっとしまった。
そして霊夢はそれをしまうついでと記憶の小箱をあけ開きつぶさにことを思い出す。
緩めたそのすぐさまと横合いから飄々とした様子で紫はすきまを開き現れて、これこれ霊夢と軽い口調でたしなめられただけだったと霊夢はその時を反芻 する。
それは確かにあった紫との思い出だけれど、紫の心を知った今の霊夢は少しの悲しさと少しの、ほんの少しのささくれ立つ思いを感じていた。
唇を噛んで少し俯き霊夢は言う。
「なによ紫、こんなのもっと私に怒ってもいい筈じゃないのよ。大切なんだったらもっと声を荒げて怒りなさいよ」
全部自分にしまい込んで分からないように飄々とするなんて、そんな紫を見たいわけじゃないのに。なのにやっとの思いで抱えて隠しているなんて、そんなの。
自分が想うほどには紫が許してくれる感情が少なくてと、霊夢は紫の心に触れられるまでにはそれを許されていないことが少し悲しくて少し心にささが立つ。
噛んだ唇から流れるひとすじの血が濡れて、声がひとつ霊夢へかかる。
「血を流すなんてもったいない、私におくれよ博麗霊夢」
「レミリア」
静寂を坤 という音で破る獅子脅しのような清涼さでレミリアの声が庭に足立つ霊夢の元へ響き渡った。
背から飛びつつレミリアは霊夢へ腕をまわして抱きつく仕草。
それに霊夢の足が少しの重さに砂利音となって、ひとつふたつと地を撫でた。
そんな霊夢にレミリアは口を開いて耳もと一声。
「血、貰ってもいい?霊夢?」
その声にぞわりと毛の逆立つ感覚を霊夢は覚え、じっとりとした目で紅い悪魔をその目で見やる。
見れば紅のリボンを設えられたナイトキャップがレミリアの顔に影を落としていて、そのレミリアは言葉の軽さとは裏腹にひどく真顔、そして影落とされたその面から猫科のそれを思わせる紅い縦長の瞳孔が炯々 と霊夢を捉えていた。
「どういうつもり?」
「紫を探しているんだろう?良い頃合だよ、そろそろ私に血をくれてもいいんじゃないかい。だってこんなにも霊夢の血は紅いんだから」
謎かけめいたそれでいて少し思考を巡らせれば筋のでたらめなレミリアの言葉が霊夢へ飛んだ。
指先が霊夢の下唇をひと舐めしてレミリアは手につく少しのそれを自分の舌で舐めしたる。
唇に触られている間も霊夢は特に抵抗という仕草は見せなかった。
ただレミリアの手つきを受け入れて、彼女が自身の血を口に入れる姿をただただ見ているだけだった。
こくんとレミリアの細い喉が鈴鳴った。
「ん、人の血はあたたかいね霊夢。昔人のどこかの誰かが秘すれば花とはよく言ったもの」
そういうとレミリアは霊夢に縋る腕の力を小さじひとふり程度に強くする。
人の血はあたたかいと言ったレミリアの少し焦がれたその言葉はきっと私に言ったんじゃないんだろうなぁ、咲夜なんだろうなぁと思って霊夢はだから言う。
「私はそうは思わないけどね。秘すれば花、そうねそれは確かに匂いたつ薬味のように秘めやかと人を誘って惹きつけるわ。でもそれはきっと見所から舞台上の誰かを見ているだけよ、それじゃ演者の心はずっと一人じゃないの。そんなの私は嫌よ、そんなの、同じ場所に立って、伝えて、心通わないと、私は嫌よ」
霊夢が自身に言い聞かせるようにそう言うと、レミリアからぽつりと声が漏れた。
「人はやっぱりあたたかいね、良かったよ」
こつりとレミリアの頭が霊夢へ触れて、すぐさま離れ、綿毛の飛ぶようにレミリアは霊夢の正面へ立つ。
年相応ではないけれど、外見相応のそれで後ろ手に両手をまわす紅い悪魔は霊夢を見上げた。
「それじゃ霊夢、血、ちょうだい」
なにを一体と口を開こうとした霊夢の言葉をレミリアの言葉が遮り塞ぐ。
「ほら霊夢。私の背のほうで紫が見てる」
「えっ?」
「いただきます」
ほんとう?と霊夢が思い首を降り、一人そこに立つ紫を見つけた首筋あらわとレミリアの皮裂く犬歯がつき立てられた。
「ぁ、つぅ」
身をよじる霊夢と、紫へ向かい見せ付けるように三日月と口の端を吊り上げるレミリアスカーレット。
それを見て一歩二歩と後ずさる怯えた姿の八雲紫。
紫の脳裏によぎるのは、巫女と妖の血の遣り取り。
しくりと胸に痛みを感じて紫が目をそらそうとすれば、その前に。
「はぁ、ん。んうう、んぅ」
「ぁ、ゃっ。つぅっ」
レミリアスカーレットが強く強くもっともっとと犬歯と顔を霊夢へうずめて。
その刺激に霊夢は自分の首もとの彼女をぎゅっと抱きかかえる格好になった。
巫女が血を喰らう妖を抱きしめる。
紫の胸の小箱にしまわれた自分がかつて巫女と交わした大切な想いで。
目の前で自分ではない鬼が巫女とそれをなしている。
紫の心はやめてと、私の場所をとらないでと声にならずに軋んで痛む。
「ぁ、、ぁ。、っ」
「ゆか、りっ」
霊夢の声も届かずに、耐えられないと紫は背をむけ手負いのように走りだす。
その背はすぐにと小さくなる。
そしたら嘘のように首の犬歯が肌から離れた。
始めからそのつもりだったと言うようにあっさりと。
スカーレットデビルの由来はどこへやらと霊夢の首筋は汚れておらず、レミリアの口元も微か流れ出した霊夢の血が少しの紅となって唇へ差している程度。
「さ、お膳立ては整った。追ってきなよ霊夢」
「あんた、やっぱり」
「ほら早くしなよ」
「ありがとう」
そう言ってレミリアを残し、走り去ろうとする霊夢へ幼い主の問いの声。
「霊夢、私のこと好き?」
「言わなきゃ分からない?」
「んーん」
顎を引いて目線は落とし、レミリアは満足げな笑みを浮かべていた。
「霊夢」
「うん?」
「紫をちゃんと捕まえてきなよ」
「もちろん」
「はー、はずれくじ引いたー。あ、雨ね」
「お嬢様は損な役回りをしすぎです。結局血だって飲むふりだったじゃないですか」
横合いから十六夜咲夜が傘と共に音も無く現れた。
「おや咲夜。居たのかい?」
「えぇ、生きてる間はずっと」
「そうかい」
そういうこと聞いたんじゃないんだけどなぁとレミリア。
「その、お嬢様。差し支えなければ一つよろしいでしょうか?」
「いいよ」
「あの……ですね。その、巫女だけでなく、…………少しは私も構ってください」
頬を上気させ、尻すぼまりに恥ずかしげと咲夜はそう言った。
その言葉にレミリアは胸のつかえが風に吹かれて取れた気がした。
だからレミリアは嬉しくて嬉しくて、いつか聞いた契りの言葉を今一度。
「咲夜、私とずっと一緒に居てくれる?」
「生きてる間はずっと一緒にいますよ、お嬢様」
「うん」
雨の中。
紫はそう遠くへ行ってはおらず、いつか巫女が息絶えた鳥居と賽銭箱を結ぶ石渡りに一人はかなく佇んでいた。
「……紫」
「えっ」
背後から、来るとは思っていなかった突然の呼びかけに紫は振り返った。
振り返ると同時に霊夢は彼女の手を取り腰を取り、そしてその脚をなぞるようにと絡めとり、紫の身体をそっと柔らか、けれどしたたかに押し倒した。
二人の四肢が地面へと投げ打たれる。両の袂から結わえて提 がるつややかな霊夢の黒髪が、跳ねるように舞い踊る。
そして、その散らばった黒髪と影で窺い知れない表情の奥で霊夢の唇が微かに動いた。
「……それって、ごっこ遊び?」
零れ落ちたその言葉。
一拍置いてさらに霊夢は言う。
「藍っていう式を作って、その藍にも式を作れるように術式を編みこんで、その藍は橙っていう式をくくった。これって人間が繁殖するみたいよね」
「……霊夢」
いつもは人を喰ったような態度の紫の瞳が確かに揺らぎ、その表情を歪めた。
視線を逸らして逃げようとしても、投げ打つ四肢を抑える霊夢が紫を離そうとしない。
「紫にとって二人は家族ってこと?自分で作った式と紫で家族ごっこってこと?紫は一人じゃ寂しいってこと?」
「そりゃあ一人は嫌よね、人間だって魔法使いだって吸血鬼だって鬼だって、ずっと一人は寂しいもの。八雲の紫、けれど貴女はおかしいわ」
紫、では無く八雲の紫と霊夢は言った。
「やめて」
「いつまで欲求から目を逸らすつもり?」
「……うるさい」
常には饒舌に霊夢を煙に巻くことが出来るだろう紫の聡さは今は無い。
彼女は心の柔らかい部分を衝かれることに慣れてはいないから。
今まで自身の力と風体でもって巧みにその部分を誰にも見せようとはしなかった。
けれど霊夢は知った、だから彼女はそこを衝く。
「誰かに義理立てでもしてるのかしら?」
意地悪く霊夢は哂い、殊更に見せ付けた。
その言葉に、紫ははっと霊夢を見る。
霊夢の言葉が紫を衝きさす。
「視たわ」
「、、っ、ぁ、あぁあっ!」
紫の叫びに、線が四本互いに交わり綾を成し、四重の結界となって霊夢を撥ねた。
八間の距離を火縄のような放物線を描いて霊夢が吹き飛ぶ。
合わせ流しなどせずに霊夢は無抵抗に紫のそれをその身に受けた。
地面へ叩きつけられ蹴鞠のように二度三度と跳ねて、ようやく霊夢は停止した。
いつも飄々としている紫がこんなにも一人で感情を溜め込んでいたのかと、気付けなかった悔しさに身を焦がすように、地面の砂をざりと五指で掻いて霊夢は立ち上がる。
頬には擦過の血が流れ、四肢にも傷が刻まれていた。
「紫」
博麗霊夢は、まじりっけなし一心と八雲紫をその目で見据える。
そして、結界を展開することも無く、目に見えて痛んでいる身体を感じさせずに足取りしかと紫へ向かって歩き出す。
「……来ないで」
紫は霊夢の圧に押されて目を逸らしたまでは良かったけれど、動けない。
霊夢の唇がにわかに開いて音を成した。
「今の幽々子といるのは楽しい?」
「……!うるさい!」
紫の結界が鈍色にわななく切っ先となり、紫電一閃と霊夢の肩口を薙いだ。
蝶の羽がひらひらと舞うように、皮膚の裂ける瞬間そこから血が咲いた。
けれど霊夢は止まらない。
傷にも構わず両の脚で地を踏みしめ、紫へ向かう。
「来るな、寄るな寄るな!」
そうして結界、重ねがけ。
身を裂かれるたび霊夢の身体は操り仕掛けの糸人形のように揺らいで踊る。
その度に霊夢の身体のあちらこちらから血が咲いて、紅白の巫女服は黒ずみを増していく。
歩く、歩く。
襤褸切れのようになりながらも霊夢は決して止まらない。
「止まらない、私は止まらないわよ紫」
「……っ」
ぎゅっと紫は唇を噛んだ。
力なく暖簾のように下げられた自身の左腕を右手で掴み、彼女は自分の身体を庇う。
そんな紫に霊夢は言う。
「紫、何度でも聞くわ。人を食べないのは誰かへの義理立て?幽々子といるのは楽しい?そんなに人に惹かれてく?」
矢継ぎ早に囃し立てられ、
「……うるさい、うるさいわ。……うるさい、うるさい霊夢!」
最早霊夢の顔を直視出来ず、紫は地面へ向けて言葉を放った。
端から見ても見るに忍びない傷を負った霊夢に、紫は今度こそ結界を結べない。
砂時計の砂がすっかり流れ落ちるように静かに、けれど確かに霊夢は刻んで。
そうして八間の距離を踏破した。
傷だらけになって紫の袂に辿り着く。
赤子が両親を求めるように霊夢は両手を紫へ伸ばす。賢者の纏う道士の衣服をそっと優しく掴みとる。
映える藤紫 の紫のその目を黒の霊夢が仰ぎて見やった。
「あんたさ、他の誰にもそういうこと言わなくていいけど。私には、私だけには、ちゃんとそういうこと話しなさいよ。この、ばかぁっ」
博麗霊夢の涙が流れた。
紅白の巫女装束にあってなお鮮やかにその身を血に濡らす霊夢の顔は、自身からくる傷の痛さでなく、目の前の妖怪の心を想いくしゃっと歪んでいた。
「私でいいなら少しは紫にあげるから、だから、あんた……、、あん、ぁれ、……ぁ」
「霊夢っ?……れいむ?れいむ!?」
余りにその身体を紫の境界に晒しすぎた霊夢は、彼女を受け止める紫の胸でその意識を失った。それは余りに似つかわしく、紫はかつての巫女を思い出す、彼女の腕の中で自身が奪った巫女の命を。手のひらからするりと零れ落ちるかもしれないその感覚を憶えさせられた紫は決してそれに耐えられない。
取り乱して声が舞う。
「嘘、うそうそ。いや、霊夢!」
紫の叫びが博麗神社に木霊と消える。
「…………、ぅん?」
意識が戻り、博麗霊夢の目に映ったのは見慣れた屋敷の質素な天井。
額には包帯が巻かれ、その身はいつもの巫女服ではなく白地で広袖の長着に着せ替えられていた。
起きぬけそのままに天井を見ながら、ぼやけた頭でことの経緯を反芻し、ここが博麗神社だということに思い至ると、その指先へと霊夢は小さく力を入れた。
「いたた、生きてる。いやまぁ死ぬ気なんてさらさらなかったんだけど。生きてる理由も大体分かるけど」
親指から人差し指、中指と順々に握っていき、よし大丈夫と霊夢はゆっくり上体を起こそうとする。
そうしたら起こす途中で膝元に、金の髪を流した境界を操る妖怪が伏しているのを霊夢は見つけた。
その妖怪を見る霊夢の目はあくまで穏やか。
ひと悶着あって、けれどそうだからこその優しい笑みがその妖怪へと向けられていた。
「ゆかり」
名前を呼んでその頭を慈しんで撫でる。
「ずっとあなたについて居ましたよその妖怪は」
いつの間にそこに居たのか、八意永琳が帳簿を手に抱えて戸口に立っていた。
その突然の闖入者に目もくれることなく驚くことなく、霊夢の視線はただただ眼下の妖怪へと向けられていて。
「私はどれくらい寝ていたの永琳?」
「八日程ですよ博麗霊夢」
「そう、そんなに」
そんなに紫は私についていてくれたのかと、自身の容態の程度ではなく彼女のことを霊夢は想う。
「あなたが担ぎこまれてきた時は驚きましたよ。何せあの八雲紫がひどく取り乱した様子で、血にまみれたあなたを抱えていたんですから。あ、それから身に着けていらした私物は枕の横に置いてありますから。繕いも済ませてあります」
そう言って、永琳は背を向けて持っていた帳簿を棚へとしまう。そして、ゐ-巳と札の付けてある薬棚から粉末剤を取り出して、それを薬包紙へと移し代えていた。
そんな薬棚を家に置いた覚えは霊夢にはないので、きっと紫がそうさせたのだろう。
「はい、これを飲んで安静にしていてくださいね」
永琳はそれを霊夢へ渡し戸口の方へ歩いてこの場を後にした。
盆と椀と三角に折られた薬包紙を渡されて、言われた通りこくりと霊夢はそれを飲み下す。
そうして盆を横に置こうと身を捻る。すると「ん……」という声がして、それにつられて視線をやれば霊夢は彼女と目があった。
目が合う彼女の言葉は弱く、
「ぁ、霊夢……」
とただ一言。
けれど顔を上げる彼女の首には一つそれ。
いつぞや霊夢が彼女へ渡した黒のチョーカーがしっかりその首に映えていた。
そんな彼女が嬉しくて、
「それ、着けてくれたんだ」
自身の首を指差して霊夢は彼女へ言葉をかける。
「霊夢が、くれたから」
誰にも分かる照れ隠し。
枕元へ手をやって霊夢は揃いのそれを首へと結ぶ。
まるで姉妹のように二人の首へ。
するとそれを見て顔を逸らした紫の手が霊夢の指先へこつんと触れて。
「っ……」
触れたその端、その手は紫の方から離された。
あぁもう、まだこいつはこんなに臆病なのかと霊夢は思い、
「ほら紫」
「え?」
自身からその手を紫へ絡めて繋ぐ。
「ね、触れて、絡めて」
親指、小指、人差し指、中指いれて薬指。
一つ一つ割り開き二人のその手は絡まり触れる。
「ほら繋がった」
「ぁ……、うん、えぇ」
触れる度にそれを怖がるような紫へと霊夢は言葉を結びだす。
「紫、私は紫が来てくれるならいつでもあなたに応えるから」
「でも……」
「そんなにまた失くすのが怖い?近づいて、近づきすぎてそして失くして、そんなのもう繰り返したくない?嫌?怖い?先の巫女みたいに、幽々子のように」
「……、…………、………………、……………………、痛くて怖くて嫌よ」
ようやく聞けた紫の本音。
それに霊夢は、繋がれた手をもう離さないという想いを込めて強く握り返す。
「それでも紫はどうしようもなく博麗の言霊に惹かれるのね」
「そうよ」
「ねぇ紫、私はきっと紫より長くは生きられないだろうけど、だけどずっと一緒に居るから、ずっと紫と一緒に居たいから、紫の中に残るから」
言って紫を抱き寄せる。彼女を自分へ抱き寄せる。
抱き寄せられる彼女のその姿は、支えがないとくず折れてしまうんじゃないかと思えた。 それほど弱々しくて、心が揺れる。
「触れたいのにそうしないからこんなになっちゃうのよあんたは。本当は臆病な癖に、藍の言ってた通りね」
「藍?」
抱き寄せた胸の中から声がして、上目遣いで紫は霊夢を見て上げた。
「そうよ藍、八雲藍。藍だって幽々子だって萃香だってみんなあんたをちゃんと想ってるんだから、だからもうちょっと周りに色々預けなさいよばかすきま」
「……ぅ、ん、今回のこと謝って、それからありがとうって言う所から」
「うん、それでいいじゃない。表面には出さないかも知れないけど、きっとあいつらも喜んでくれる筈よ」
「あの、霊夢?」
おずおずと
「どうしたの?」
「一緒に行ってくれるかしら?」
紫は言う。
「そう紫が願うなら」
「ありがとう」
今の顔を見られるには余りに恥ずかしく、紫は一度霊夢の胸へと顔をうずめた。その胸へ本人へは聞こえないよう「ありがとう」と小さく吹き込んで、そうしてそれから視線を戻す。
見上げたそこには揃いの黒と垂れる髪、そして霊夢の艶やかな唇があった。「うん?」と霊夢が言うたびにそこは薄くふくらかに誘いをもって、紫はそれに惹かれてく。眼も離せずに鼓動がとくんと胸を打つ。いつか感じた懐かしさのように、だから紫は止まれない。
「霊夢、あのね」
「ん?」
「その……」
言いよどむ紫に霊夢は再度言葉を返す。
「言ったでしょ、紫から来てくれるなら、私は絶対に応えるからって」
大丈夫だからと霊夢はそう言っていた。
それを聞いて、紫の顔は秘めやかに朱を帯びていき、そして。
「霊夢、あなたの唇が欲しい」
「はい、どうぞ」
目を閉じて霊夢は紫を待つ格好を作った。
その声は凛と小さく、けれど二人の間で声を交わすに相応しい。
そして、紫は霊夢の胸へと方手を添えて、背伸びするように自身のそれを霊夢へ重ねる。
「ん……ふ、……は」
「はぁ……。それだけでいいの?」
「今はこれだけで十分だから」
そう言って紫は霊夢の胸へしゃなりとしなだれかかる。
その顔は今までになく穏やかで、相手への信頼が見て取れるものだった。
一つの寝床に二人の身体、重なりあって触れていた。
そしてそれを一つの頃合ととったのか、
「そんな八雲紫は今まで見たことが無いですね」
永琳が場を切るように割り入って部屋の戸口に立っていた。
「何しに来たのよ無粋な蓬莱人ねぇ」
「私も姫も大して情緒を待つ心を持ってないのよ不思議なことに。あ、用向きはこの封書です。そこの八雲紫宛てですよ、差出人は紅魔の主」
戸口に背を預ける永琳は、片手に持ったそれをひらひら振って紫へ視線を向ける。
そして、霊夢に寄り添う姿を永琳に見られた紫は、けれどその居住まいを戻そうとはしなかった。
それどころかより一層、霊夢の身体へその身を楚々として寄せる。
だから永琳は、そんな紫ではなく霊夢へとその封書を渡した。
あらあらそんな八雲紫は見たこと無いと事情の分かった顔をして。
「はい確かに」
「妬けますね、博麗霊夢に八雲の紫」
「何よ、あげないわよ。それにあんたには輝夜が居るでしょ」
そう言って霊夢は紫の頭を両手で庇う。
紫はおっかなびっくり目を白黒。
それを見て永琳は困った顔をして、それですよそれ、それが和三盆みたいで妬けるんですと言う。
「病室であてられるこちらの身にもなって下さいよ」
「だったら今すぐ輝夜の所にでも行けばいいじゃない」
「起きた途端に生意気な巫女ねぇまったく。ここに一式揃えて出張までしてあげてるのに」
言葉程は棘のない口調でそう言って「薬でも盛ってあげましょうか本当に」と冗談めかしながら永琳はその場を後にした。
そうすれば彼女が去ってしんとした部屋には霊夢と紫の二人だけ。
「ねぇ紫、この封書私が開けちゃってもいい?」
「好きにしていいわ」
「お言葉に甘えて」
言付けを貰い霊夢は早速とその封書を開く。
すると中には一枚の半紙。
そしてそこにはやたらに達筆な文字でこう書いてあった。
ひゃっぺん殺す Remilia scarlet
何故だか名前は筆記体。
半紙を軽く摘まんで掲げ、表情を変える事も無く、事も無げと霊夢は紫へ口を開く。
「あーあ、紫どうする?レミリアが私を傷つけたあんたにご立腹よこれ多分」
「ねぇ霊夢?」
「どしたの?」
「彼女にもありがとうって言わなきゃいけないかしら」
「そうね」
「やだ」
「やだってあんた」
「分かるわよ、彼女の力でそれ程のことを私にしてくれたのは分かってるわよ。でも……」
「でも?」
「やり方が気に喰わない。霊夢の血を吸う所を見せ付けられたのが気に喰わない」
「あら嬉しい」
「あれはあいつの趣味よ絶対。今思い返せばきっとそうよ、そうに違いないわ」
そんな膨れる妖怪の賢者を尻目に戸の開かれる音がした。
「紫がここへ詰めていると聞いて」
ふわふわゆるりと幽々子嬢。
「幽々子さまのお供として」
未熟なお供は半霊妖夢。
「紫さま」
「ゆかりさまぁー」
確かな家族は八雲の式達。
「お嬢様の代役で」
手には紅茶の缶を持つ、素敵に瀟洒な十六夜咲夜。
「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花。記事に困れば巫女がいい」
長口上は天狗の嗜み射命丸。
「ほい、二人とも酒」
そして最後を締めるは鬼友の萃香。
皆それぞれが思い想いに博麗神社へやってくる。
二人を見舞いにやってくる。
そこにあるのは昔変わらぬ宴の縁。
いつか消えてしまうとも、
「ほら紫、言うことがあるでしょう」
「あの………………、ありがとう」
褪せぬ想いにきっとなるから。
鯉はぱくんと蛙を食べて吐き出した。
そんな
「八雲紫、奴は最低だよ」
神社の縁側、霊夢の太腿に頭を預けている紅い悪魔は、そう言葉を漏らした。
「人の膝の上でされるがままの奴に言われても説得力がないわ」
そう言うと、霊夢は膝枕で無防備な状態になっている紅い悪魔の下顎を、猫を撫でる手つきでころころと掻く。
霊夢の眼下では、その手つきを甘んじて受け入れている紅い悪魔の姿があった。
目を閉じて、うとーっと気持ちよさそうにそれを受け入れているそいつの様子に満更でもない霊夢は、まぁ一応と先程の吐露に対して聞き返してやる方向へと気持ちを固めて口を開いた。
「で、紫のどの辺が最低なの?」
「霊夢を独り占めにしてるところ」
「は?」
「後、霊夢を囲っているところ」
間髪入れずに素っ頓狂な言葉が紅い悪魔から飛んできた。霊夢は聞き返した自分が馬鹿だったとこれまた間髪入れずと呆れた返答を返していた。
あのねぇと霊夢は言おうと膝の上のそいつを見て、そして止める。頬を多少膨らませてはいたけれど目だけはひどく感情の見えない紅い悪魔がそこに居た。まるで幽霊でも見ているかの様に遠くへ焦点を合わせてこちらを見ない。彼岸を見ているのか
その様子に、さてどうしたものかなーと霊夢はのんびり思案した。玉砂利の敷き詰められた庭を見ながら頭を巡らせ、取り合えずもう一度のどでも撫でてやろうという選択へと行き着く。
「ほれ……」
「…………」
そよぐ風で庭に生えている木々が葉ずれの音を出し、何事もない緩やかな時間が神社に流れていた。
このまま何事もなく過ぎていけば面倒はないんだろうなぁと霊夢は考えたけれど、視線を庭から膝上へと落とせば、そこにいるそいつが見せている表情が先程と何一つ変わっていない。だからそんな様子に、きっと面倒ごとになるんだろうなぁと、そうなる事を霊夢は半ば事実の様に感じていた。
さやさやとまた神社に風が凪いだ。
天気も良いし最近過ごしやすいんだけどなぁ。
ころころと紅い悪魔ののどを転がす。
だけれどそいつはやっぱり表情を変えなくて。
はぁ、と霊夢は軽く溜息をついた。
「で、本当は何を話しに来たの?」
「八雲紫の器について」
「うつわ?」
「割れる器は、メイドに限らず誰だって見たくないものだろう?霊夢」
口さがなく聞こえる言葉とは裏腹に、どこか悲しげな目をした紅い悪魔がそこに居た。
「ま、私にとっちゃただのお節介みたいなもんだけどね」
さっきからそんな顔されて話されたらどう見てもお節介なんて風には見えないわよと霊夢は思っていた。
だからそれをそのまま口に出す。
「そうは見えないけど、あんたが言うならきっとそういう事なんでしょうね」
「そう取ってくれると嬉しいかな」
それを聞いて、これはきっと聞かれたくない話なんだろうと霊夢はあたりをつけた。そして、右手を軽く振るう様に袖から札をとりだして、流れるような速さで結界を張る。
瞬間、わざとらしく庭と縁側を含む四辺に揺らぎが見えて消え入った。
同時に、くくられた四面は薄青く波紋立ち、すぐにと景色へ同化していく。
これでもう漏れ聞こえたりはしない、そんな霊夢の意思表示にレミリアは勿論気付いていて、間を一拍置いてそしてこれが本題という風に口を開いた。
「八雲紫。霊夢、あれは妖怪としておかしいよ。自分の為に人を滅多に攫わない、そもそも私は奴がそういう意味でそんな行為をしているなんて話を聞いた事さえない」
前半部分は良く分からなかったけれど、後半部分は確かに自分もそういう話は聞いたことはないかなと霊夢は思い浮かべていた。
というよりも意識しないレベルで、妖怪何だから当然そうあるしそうなんだろうと霊夢は捉えていた。
そんな霊夢にレミリアはもう一度言う。
「霊夢、八雲紫は人を攫わない」
さっきと同じようにそう言って、膝の上でずっと庭を見ていたレミリアは振り返って霊夢を見た。
その目はとても紅く幼く赤より紅いけれど、愛らしい容姿で霊夢を目に映すその瞳の中には相応に年を経ている意思の強さが覗き込めた。
さっきまで奴なんて呼んでいた口さがない紫への態度はそこには無くて、ただ伝えなければというそれだけが見て取れた。
真意は掴めないけれどそこに嘘はないと霊夢は感じる。だからそんなレミリアを見て、
「そう、紫は人を喰らってないのね」
と表面上は特に感情を乗せるでもなく霊夢は言った。
けれど、
紫は人を喰らわない、その事実に霊夢の心はレミリアに悟られるでもなく無意識に寂しいという色で塗りつぶされる。
それは寂しい、だって……。
「妖怪の在り方は人の情念により生まれて人を攫い、そして喰らう」
空腹になればご飯を食べ、目蓋が重くなれば睡眠を取る。それらとまったく同じ欲求だと、当然の様に霊夢の口からそう言葉が出る。
「えぇ、そうね霊夢」
静かにレミリアも頷いた。
そうだ、だから寂しい。
紫が人を喰らわないと言うのなら、それは妖怪である自身の在り方を歪めているに他ならない。
魚や動物や人が食欲という欲求を無視し続けたらどうなるかという事と同じく、妖怪にとって人を喰らうというその在り方は本当に自然で当たり前のこと。
そんな欲求が満たされないなら、妖怪はその存在が弱まってしまう。
なまじ人より身体的な部分で優れているから忘れがちになるけれど、妖怪の存在は人の情念から生まれる所に原初を持っているからだ。
すれ違いや軋轢、そこから生まれる他人に理解されたい感情からさとりという妖怪が。
風情を美しいと愛でたい感情から幽香が。
そして魔法を追い求めてたいという感情から魔法使いが。
感情が先にあって生まれる、そんな在り方だからこそ妖怪は身体的な負荷や刺激ではなく精神的なものが致命傷になってしまう。
「レミリア、でも紫は周りに悟られない様に喰らってるかもしれない」
紫がそうだと認めたくない霊夢の口から不意にそんな言葉が出ていた。
「それに境界を弄る力で何も問題ないかもしれない」
少しだけそうであって欲しいという感情を見せた霊夢に今まで膝を借りていたレミリアはそれでも優しくそれを制する。
「霊夢、それだけは絶対にないわ。在り方を弄るというのはそれはつまり妖怪で無くなる という事だもの。八雲紫の境界を操るという力はそれほど強いものよ」
「でも……」
顔を伏せて何かを言おうとした霊夢の声は、
「話はこれでお仕舞い。それじゃあ霊夢、今日は楽しかったよ。また二日後に宴会で」
といってこの場を終わらせるレミリアの声によって遮られていた。
「お帰りなさいませお嬢様」
レミリア・スカーレットが紅魔館への門にてくてくと日傘をさして到着した頃、そこにはメイドの咲夜が出迎えへと姿を現していた。
「おや咲夜。もうお茶の時間だったかな?」
「お嬢様がそう仰るのでしたら」
「冗談だよ、でも咲夜の作るお菓子なら食べたいかな」
相変わらず融通が利かないなぁ咲夜はと、レミリアは日傘をくるくると舞わす。その癖、 あ、ベリーのタルトを味わいたい気分よ今、なんてしれっと注文を付けていた。
「咲夜、言いたい事は分かるわね?」
「オータムナルのダージリンなども如何ですかお嬢様?」
「だから咲夜は好きだよ」
でも仕事熱心過ぎるのは感心しないなぁ咲夜、とやっぱりしれっと注文を付けていた。
「うんうん、咲夜は少し仕事に真面目過ぎるきらいがあるね。うん、うん?ファーストフラッシュなんてあったっけ?」
忘れていたけど今気付いた、靴下を履く前なのにそれを忘れて靴を履いてしまったよという顔をレミリアはしていた。
「そういえば美鈴はどうしたのよまったく。」
持ち場を離れるなんて職務怠慢にも程があるなぁとレミリアは不満を漏らす。
咲夜に対する言とは随分と違う言い様だった。
「お嬢様。それでしたら門番は供給された食糧の運搬中ですよ」
「食糧?」
咲夜の口から出た言葉に、レミリアは一瞬怪訝な顔をして、それからわざとらしくあぁと合点のいった振りをする。
「それでこんな時期に初摘みのフラッシュがあるのね」
口に手をあてそういう言葉は大げさに芝居がかっていた。
「お嬢様」
咲夜の声がレミリアに掛かる。
「うーん、力仕事は門番の担当と言えど一人だけでは大変だ。今度特別手当てでも出さないと」
レミリアは傘と身体をくるりとまわして咲夜から逸らした。
「お嬢様」
そのレミリアを後追いつめるように咲夜の声が主へかかる。
するとレミリアの肩は花弁が閉じるように少し揺れてしぼみ、恐る恐ると言うには足らない、けれど様子を窺う風な上目のそれを咲夜に流す。
どちらが主でどちらが従者か、ともすれば分からないその仕草。
他意なくあくまで事実を告げる咲夜と、言葉にすくむ紅魔の主。
お茶の誘いを召しつけた時の尊大さは影を潜め、仕事熱心すぎるのは感心しないなぁ咲夜、という淡い漏れ日のような声が苦笑いのレミリアから零れた。
残暑の澄んだそよぐ風がレミリアのフレアワンピースをさざめかせて波立ち、咲夜は耳をかき上げる仕草でそれに身を任せてヘッドドレスを揺らしていた。
風が草葉を優しく撫でて柔らかにそれに乗り、彼方どこかへ飛んでゆく。
日よけの傘に影どられたレミリアの身体になお抜ける陽射しの爽やかさ、地面へ伸びる黒々とした縁取り確かな紅い悪魔の小さな影と悠々伸びる咲夜のそれ。
そんな静か清らな陰ならずの陽の見映えに、手折られそうな心根か細き求言がさらと零れて咲夜へ飛んだ。
「咲夜、人間であるお前が食糧なんて言っちゃいけないよ。それは私たちから出る言葉だ」
「お嬢様方にとって、食糧は食糧ですよ?」
何か問題でもあっただろうか?と、お嬢様がそう言うその理由が心底分からない、そんな風に咲夜は不思議に思っていた。
だってお嬢様達は人間を食糧として確かに喰らうし、私はその食糧になる物に対して特別何かを感じている訳でもない。
それとも彼岸花の咲き乱れた異変でどこかの閻魔に言われたように私はそんな関係ない人間達にまで優しくしなければいけないのだろうか?
そこまでする必要があるのだろうか?
うーんと、咲夜はそれこそ取るに足らない問題を仕方なく真剣に考える振りをしていますという風にかぶりを振る。
そんな咲夜の姿にレミリアは言葉を向けた。
「正直に話すと、これは私から咲夜へのお願いかな。私が咲夜からそんな言葉を聞きたくないのよ、咲夜からは血を貰うだけでも十分だから」
その相手になっている咲夜を私は食糧と呼びたくない、そうレミリアは感じていた。
咲夜が人間を食糧として認識するのだとしたら、少なくともそういう意味以外も込めてその行為をしている自分の想いは咲夜へ届いていない気がして……。
茶会も終わり日が終わり、紅魔館には夜の
廊下の灯りは落とされて、館は夜陰にしじまを誘う。
黒の鼠が盗みを働く。喘息持ちと都会派の魔女が小悪魔の給仕でお茶会を楽しんだ図書館も、今はその静けさを取り戻していた。
門番はこともあろうに熟睡し、その責を果たしていなかった。
夥しいほどの妖精メイドと供に妹様はベッドにその身を横たえている。
そして、寝静まる館にあって主の部屋だけがひっそりとその息遣いを漏らしていた。
「はっぷ。ん、んく、ん」
座り向き合う二人の姿が重なるベッド。
咲夜の首筋にレミリアの犬歯が突き立てられ、その柔肌を裂いていた。
その肌の下に廻り巡る温かい血液が、滲むようにじわりとそこから流れ出す。
「……っ、、」
真朱に色づき、逸るレミリアの舌が咲夜のそれを舐めしたった。
幾夜を越えて繰り返した血の遣り取りに、けれど咲夜は傷口を舌でなぞられるその感覚には未だ慣れない。
スカーレットデビルと言われる所以そのままに、レミリアは行儀悪く咲夜の血を飲みこぼして彼女の首襟を紅に染めてゆく。
「ん、く。んは」
こくりとレミリアの喉がなった。
傷口へごちそう様とそれ以外の意味も込めて口付けをしてからレミリアは咲夜の首元から頭を離す。
「満足なされましたかお嬢様?」
はだけた胸元には構いもせずに咲夜はそう言う。
彼女のその頬は少しだけ上気していた。
「咲夜はいつもおいしいよ」
「良かった。でしたら私はおいとまして着替えを済ませますね」
そう言葉を交わすと、余韻もなく咲夜はすっくと立ち上がり主の部屋を出ようとする。
背を見せた咲夜にレミリアは、あっ、と一瞬手を伸ばし、ベッドの上に力なく戻した。
そして真鍮のドアノブに手を掛ける咲夜にレミリアは一声掛ける。
「咲夜、ここで着替えなさい」
廻しかけたドアノブに伸びる手が、はたと止まった。
「お嬢様がそう言うのなら」
肩越しに振り返り咲夜はそう言い、その身を翻す。
主の部屋に咲夜の着替えなどある筈も無いのに、彼女はそれを分かってベッドに座るレミリアの前まで歩みを戻した。
見た目に幼い紅魔の主の前で、咲夜はダブリエを外そうと背にある紐の結び目へと手を掛ける。
このまま紅魔の主が何も言わなければ、咲夜は幼い主の前で事も無げにその裸身を晒すに違いない。それが彼女の淀みない一連の所作から見て取れた。
レミリアは自分の言葉にそこまで忠実である咲夜に、それは一体どの気持ちから来ているものなんだろうかと刹那に思う。
二人を表す関係性、主と従者。あるいは家族、けれど血の連なりなんて何も無い。
過ごした時も短く淡い。レミリアは結ぶもやいの契りが欲しい。
仕事熱心一辺倒な顔しか見せない彼女の本心がレミリアには分からない。
だから、
「嘘。脱がなくていいわよ」
「お嬢様がそう言うのなら」
児戯はここまで。
「ねぇ咲夜、今夜は月が綺麗なの、一緒にお月見していかない?」
「私汚れたままですか」
「あぁ、それはいけないな。咲夜、着替えて来なさい」
「あの、お嬢様。始めからそのつもりだったんですが……」
「あぁもぅ、聞こえない」
「ですか」
「そうよ」
咲夜が部屋を出てから少しして、レミリアはいつぞや来訪した一人の人間のことを思い出していた。
「確か、マエリベ、つっ」
幼い主は舌足らずに発音できず、遅れを喫する。
「あぁ、もぅ言いにくい。確か、親しい友人からはメリーと呼ばれていると言っていたわね」
瞳に羨ましげな色を滲ませて、レミリアは聞き出した二人の名前を自分の中で、口の中で転がした。
宇佐見蓮子。
マエリベリー・ハーン
そして、目頭を親指の土手で押さえ、くっくと笑いとうとうと話し出す。
「皮肉じゃないか八雲の紫。私はあの二人とお前の運命を視たさ、あぁ見たさ。咲夜のことさえ手に余る私がだって言うのに彼女らの為に動くのさ。自分の恋路さえままならない私がまさか誰かの、それもお前の為にだなんて。これが皮肉じゃなけりゃ天地にもとる」
自嘲気味にレミリアは吐き出し、気息は弱まり呟きになってぽとりと落ちた。
「白状するさ。
するとそれに答えるように、
一振り、二振り、三振りとノックの音が部屋へと響いた。
「開いてるよ」
「失礼します。ただいま戻りました、お嬢様」
座したベッドに両手をついて反らす背中に頭を捻り、レミリアは咲夜を部屋へと招き入れた。
形式ばった遣り取り、けれどレミリアはそれが好きだった。
いつも心の見えない咲夜の所作の中で、レミリアは唯一何故かそれだけは咲夜が自分を気遣っているからこその行動だと感じとれるから。
「おいで咲夜」
自身の横をぽんぽんと軽く叩き、レミリアは咲夜に促す。
「はい、ただいま」
身奇麗になった咲夜が歩いて来て横へと座った。
ベッドが二人分の重さに沈み、レミリアは咲夜のももに手を置き言った。
「咲夜、お話ししましょう」
二人の声がさえずるように部屋で交わされる。
咥えた枝を鳥が求愛のそれとして口渡しをするように交互につたなく、けれど心の尽くされた、二人の声はつつき繋がる。
窓の外、部屋の中。
今宵にかかる月は鮮やか花見月。秘める花の、言葉はつややか花水木。
花の言葉は恋文ひとつ、私の想いを受けてください。
月あきらかなその夜その部屋、二人の時間が過ぎていく。
そうしてレミリアが咲夜と月見を過ごしたその翌日早朝、霊夢はというと何故か香霖堂の門を叩いていた。
「霖之助さん、霖之助さん。お店を開けて頂戴」
比喩ではなく文字通り叩いていた。
枯れ冴えてささくれた様さえその趣に一役買っている扉に片手をついて、空いた手の甲でとつとつと霊夢はその扉を叩く。
すると扉の奥で人の歩く音がして蝶番がその軋みをあげたかと思えば、長物の上衣を着流す霖之助が現れた。
「珍しいこともあるもんだ。霊夢が礼を尽くしてる」
「何だか急にここに来なくちゃいけない気分になったのよ。いつも通り適当に見繕うわね」
「お茶でも出そうか?」
「お構いなく」
手で軽く制してそう言うと霊夢はがらくたが大方を占める店内へと何かを探すように歩いていく。
足の踏み場があるようで無いようなそこを苦にする様子も見せない霊夢らしい足取りだった。
自分でも何を探しているのか分からない霊夢は時折置かれた品に目をやったりしながら、 それでもその品に興味を惹かれないのかすぐに視線を戻して進んでゆく。
一歩歩く、二歩歩く、三歩あるいて続いてく。
視線を戻した。
棚から無造作に飛び出している山稜鏡を手に取った。
飛び出さないようにそっと戻した。
マネキンの首に付けられている黒の紐帯に目が留まる。
不思議とそれに片手が伸びた。
伸ばしてマネキンの首筋へと手を添える霊夢は紐帯から目が離せない様子だった。時計の針が止まりでもしたかのように魅入って数秒、霊夢は中指でそこをしなりと下から上へとなぞり上げる。なぞり上げて下ろす途中に手が紐帯へと触れ、初めから外し方を知っている手つきのそれで霊夢は止め具をぷつりと外して手に取った。
手のひらに載せた。
「それはチョーカー。首に付ける装飾品だよ」
測ったように霖之助がそう答えると、霊夢はそれをしげしげと観察し始める。
首を左右に動かしたり手で摘まんで少し伸ばしたり、一度自分で付けたりもしていた。
そしてそこらに放置されていた鏡を手に取った。自身の喉あたりに手を当てて首を振り様々に角度を映し見る。紐帯を身に着けた自身の姿を鏡に映し、しばらくそれを見た後で霊夢は言った。
「霖之助さん。これ貰っていくわ」
「あぁ、まぁ二つあるから両方持っていくと良い」
「どうもありがとう」
霊夢は二つ分のチョーカーを巫女服の隙間に入れ込んで香霖堂を出ると、地を蹴って飛んでゆく。
霊夢の姿が見えなくなるとすぐに、奥からレミリアが影にまみれて姿を現した。
「これで良かったのかい、紅魔の主?」
「えぇ、これで良かったのよ。香霖堂の主」
「君が舞台の裏側にいた何て知れば、霊夢と紫の性格なら揉めるんじゃないのかい?」
「私は運命の後押しをしただけだよ店主。それに私は霊夢がここへ来るよう運命を手繰り寄せたけれど、品を選んだのは霊夢の意思よ。咎められる云われはないさ」
しれっとそうレミリアはそう言った。
レミリアが紫について意味深なことを言って去ったその二日後、博麗神社の酒の席。
集められたというより、皆好き好きに勝手しったるなんとやらとふらり寄ってくると言う体で、折々皆々次々となみなみ漆器でほどよく清く気さえよく酒を宵酔いほろり雅と酌みて交わしていた。
従者達は主の傍に付き添って。ちびちびとお猪口で顔を赤らかにさせるその姿に背伸びを感じる半霊半人魂魄妖夢、日本酒よりもリキュール等の洋酒がその姿に合いそうな十六夜咲夜。
縁側では輝夜と妹紅が仲睦まじく隣り合い、その二人を左右から挟むように永琳と慧音がそれぞれ座って静かに
萃香は小さくなって走り回り、てゐや鈴仙、妖精それに山の天狗、彼女らのその身体を耳をそして羽を、押しては引く波のように百鬼夜行となって揉んでいた。
その
そして呟く。
「はぁ、あんたらはまったく」
そういう霊夢の、実の所この場をそう悪く思ってはいない優しい呆れ顔。
皆が集まり、皆で交わす、ひとつ誰かと過ごす場所。
霊夢はそんな場所を見渡して、自身の会いたい相手を目で探していた。
「ゆかり」
声に小さく出るそれは意中の相手と交わらない。
霊夢のやる視線の先で、紫は酒の席に疲れた橙を膝に枕して、その横に藍を傍づけて、その目は秘するというには甘さに過ぎる枯れずの想いを込めてそっと一人に流されていた。
視線の先には楽しげに妖夢と言葉を交わす幽々子がしなりと座していた。
霊夢からなる視線の先には紫、紫のその家族、そこから伸びる紫の視線は幽々子に向かい、誰の視線も背中に掛けられ交わらない。
成就を願うのかそれとも厄を祓うのか、一連のそれは先細の枝に括りつけられたおみくじを思わせた。
けれど紫の視線はすぐにと外され、膝上で寝かしつけられている橙を毛並みを整える手つきのそれで撫でさする。
橙の耳はひそやかと動き、二又に分かれる尻尾が気持ち良さそうに揺れていた。
なでりさわりとひとしきりそうした後で、返す手のひら今度は藍へ紫はおいでと頭を撫でる。
気恥ずかしいのか紫に少し戸惑う藍、けれど紫がもう一度おいでと言えば藍はその頭を少し下げ、幾たびか撫でられればとさりと頭を紫の身体に預けて受け入れる。
とても微笑ましい筈のその様子に霊夢はけれどいぶかしむ。
橙と藍を寄り添わせる紫の姿のその背中から、二人の式がいなければその座る背はたおやめにくずれてしまいそうでと霊夢は心に思う。
考える前にそんな言葉が心に浮かんだ。
見れば紫は膝で眠る橙を藍へとそっと預け、一人音も無く立ち上がるとすきまへぬるりと姿を消していた。
すると霊夢の背後から、しなだれかかる暖簾めいた紫が現れ肩抱くように手をまわす。
「くださいな」
そう言う紫の視線は霊夢ではなく幽々子へ向いていて、霊夢はそれを背中越しに不思議と気取る。
そして霊夢が紫へ口を開こうとすれば天狗の声が割って入って先に聞こえた。
「あやややややっ、霊夢さん霊夢さん。こっちに来てくれないですか、萃香さんを止めてください」
「駄目よ」
霊夢が答えるより先に、紫が文へと答えていた。
「ややっ、私は霊夢さんに聞いているんです。なぜ貴女が出てくるのですか」
「私の巫女よ」
「紫……」
紫の視線が文へと向かう。
背中越しから首まわりへと手をまわされた霊夢の格好、紫の言葉、それに視線。
そのそれぞれから、文の単なる酒の誘いに対するもの以上の渡さないという雰囲気が紫から漏れ出ていた。
そして文は、特に紫を邪険に扱っている様子のない霊夢を八ツ手の葉を模した扇で口元を隠して観察の目を向けて言葉を放つ。
「巫女の独り占めはよくありません」
「私の巫女だもの」
「ややっ、意味が分かりません」
紫と文のそのやりとり、その中で霊夢は紫の視線が今度こそ自身へ注がれていることを確かに感じた。
幽々子へ向けられていたそれではなく、ある種微かな執着を感じるものだった。
けれどそんなやりとりは、
「鬼の酒が呑めないといううわばみ天狗はどこだー、ここかー!」
という、文がみぎゃーと萃香に連れて行かれる声をもって幕を閉じる。
小さな百鬼夜行にもみくちゃとされる文に霊夢は心の中で手を合わせ、それから紫に向き直る。
「ね、紫」
私の巫女、という言葉にもう少し紫の心に踏み込みたいと声を発した霊夢を、それを分かって先はけれど聞かないとばかりに紫は言葉で煙に巻く。
「それじゃあそろそろおいとませてもらうわね」
「あ、ちょっと。もう」
すきまを開いてぬるり消える紫に、霊夢は彼女に渡そうと巫女服の隙間にしこんだ首紐を紫の居なくなった場所を見ながら手で弄んでいた。
そしてそんな霊夢の様子とそうなった一連をひとり藍だけが思慕の目を向けしめやかとしていた。
霊夢がそんな風にもどかしい想いをしていた頃、縁側で鬼の二人がある出会いを果たしていた。
天狗の文を酒の肴にするのに飽きたのか角を横長に二本と生やした小さな鬼が、ひとり縁側で庭を見渡している。
時折持っている瓢箪の紐に手をやりながら、手の甲に上手くそれを乗せて口を付けるその姿は誰かを待っているようにさえ見えて。
その彼女の庭を見る瞳は酒を呑んでいたのが嘘のようにただ静かにそうあった。
誰かを待っている、それは正しかったのかそんな彼女に足音あはれともう一人の鬼がそこへやってきた。
「さて土着の鬼。私と一緒にひと働きしてもらうよ」
「そろそろ来る頃かと思っていたよ」
「それは殊勝ね。私と同じく鬼と名のつくだけはあるようだ」
「口の減らない吸血鬼だねぇ」
「おしゃべりに彩を添えることこそ嗜みなのよ。それに悪いことばかりと言うわけでもないのは分かっているんだろう?太古のように外の人間にも会えるしなにより」
「外のあの二人と紫のため、そう言いたいんだろう?まったく素直じゃないなぁ吸血鬼」
よっこいせっと萃香は縁側から飛び降りて、裾を手で三度三度とはらっていた。
その度萃香の腕についている三角錐と球体の分銅が踊って鎖が鈴のように鳴る。
「運命なんてものを無粋にずけずけ扱えるってのも吸血鬼風情には考え物だよ」
「ふん、粋だ阿吽の呼吸だなんだとかび臭い不全を美とする土着民には言われたくないよ。私は西洋の誇り高い吸血鬼。悲しい結末が視えて黙ってそれを良しとするなんて到底承伏しえないのさ、その為に私の力はありそしてこの身に扱いを刻んでいるのだから」
「それが無粋だって言ってるんだけどねぇ。その度胸で当たっていればメイドとももうちょっとなんとかなっているだろうに」
「なっ」
胸に手をあて確かに西欧の貴族よろしく気品の漂う格好のレミリアだったけれど、萃香に言われた一言ですぐさま見た目相応の幼い狼狽を見せていた。
そこにいるのはただの恋に臆する少女の姿。
「お、赤くなった」
「あぁもう!いくわよ土着の鬼!」
「はいはい」
無粋だなんだと散々に言う萃香も心のどこかで悲しい結末は良しと思っていないのか、やけに足取り軽くレミリアの後へとぺったらぺったら続いていた。
そして後ろについてくる萃香にレミリアは視線はやらずに一言だけを付け加える。
「あのね太古の鬼、私は何も好きに運命を塗り替えるつもりなんてないのよ。ただ私は後押しをしてそれがきっかけになるというだけよ」
「運命なんて視えなくてもそれは分かっているよ。だから今私はこうして付き合っているのさ」
「ふん、あんたもやっぱり誇り高い鬼じゃない」
「今更気付いたのかい吸血鬼?」
「えぇ、今更気付いたのよ土着の鬼」
宴もたけなわ、枯れ木も山の賑わい、一体だれがそれを言い出したのだろうと霊夢は考え、今夜はお開きとなった酒の席へ様々と酒瓶やお猪口や漆器が転がっている部屋を一人で見ていた。
永遠亭の髪長姫たちが座っていたところだけが、やたらに後始末も小奇麗に幾人分かの漆器が重ねて置かれていた。
慧音とかそのあたりしっかりしてそうだしねと霊夢は思う。
がらんと先ほどまでとは違い音の無くなったその部屋を見渡してから、さてまた私が一人で片づけかと霊夢が腰をかがめて皿やら箸やらに手をつけると、庭に藍が居るのが目に留まる。
藍は胸を小さく上下させて寝息をたてる橙を背におぶっていた。
それを見て霊夢は一端片付けることを止めて藍の方へと向かっていく。
あれからすきまへ消えた紫のことを聞ければいいと霊夢は心に思っていた。
「藍」
霊夢は橙を起こさないように小声で藍に呼びかける。
「あぁ、博麗の。いつも酒の席をありがとう、今日も一人で片付けとは大変じゃないのかい?」
藍も橙に気を遣っているのかやっぱり小声だった。
「ん、まぁそれくらいなら。それにしてもあんたもよくこんな時間まで残ってるわね。まだそれほど寒くないとはいえ、お酒も入っているし橙には少し堪えるんじゃないの?」
霊夢はそう言うと藍の頭の横からこくりこくりと面を出している橙の頬を何故かつつく。
橙の柔らかな頬は霊夢の手によりお猪口よろしく凹んでいた。
そんな霊夢に藍は答える。
「巫女の気遣いは嬉しいけれど、こう見えて橙も猫から人成りの妖になるほどの猫又であるわけだし、何より紫さまから八雲の名を分けて貰った私の式だからね。そうやわじゃないよ」
「そう?ならいいんだけどね」
「それより博麗の。紫さまのことを聞きたいんじゃないのかい?」
八雲の名を分けるとさとりの真似事も出来るのかと霊夢は頭の片隅で冷静に驚く。
人の居なくなるまで橙を背にしてそれでもまだ残っているのはその為になのかしらと霊夢は頭の片隅で勘を働かせる。
「そうね、聞かせてもらえるのなら」
そう霊夢は藍へ言う。
すると、何の冗談かと言うほど静かに風が吹き、葉を揺らし、酒の香りを辺りへ散らして整えた。
そしてそれを頃合として藍が言う。
「ここより東へ八つ山を越えた先、
「そこに紫がいるの?」
霊夢の問いに藍が言う。
「そこはもしかしたら何かに似ているかもしれないし、もしかしたらそうじゃないかもしれない。ひょっとすると紫さまから酷いことを言われるかもしれないし、ひょっとしなくてもやっぱり言われるかもしれない。けれど、けれどそれで紫さまをお嫌いにならないで欲しい、そうとしか私は言うことが出来ない」
藍の切迫した落ち着きという心を砕く物言いを感じ取った霊夢が言葉を選んで藍に言う。
「嫌いにはならないわ。喧嘩して一時そうなることがあったとしても根っこはきっと変わらない、私は紫が好きよ」
その言葉、その霊夢に藍は闇夜の提灯をかざす月下翁の如くにまた話す。
「ここより東へ八つ山を越えた先、乾と坤の間に張られる結界を潜り、枯れずの桜の咲き競う一際大きなその場所へ」
「そこに紫は居るのね」
同じことを同じ口調で言う藍に、霊夢は先と言葉はほとんど同じでいて、けれどその口調は問い掛けではなく平叙のそれを以って答えていた。
そうしてようやく会話が進んだ。
「これ以上はご自身の目でどうか」
「乾と坤の間、つまり西ってことよね。もったいぶるなぁまったく」
式だからやっぱり紫に似るのかしら?と霊夢は続けて、都合山を八つ越えた宙で静止していた。
霊夢の眼下では一面に紫黒色へとその様を変えた木々の一本々々が何の主張もせず、ただ山はここにあるとだけ帯広に連なっている。
時の折々風の吹き、葉ずれの音が霊夢の耳をくすぐった。
けれど夜に遅い夜空の下でその音が聞こえはしても、霊夢の目には葉の揺れる様は夜闇に紛れて目で追えない。
ただ山だけがそこにある。
山鳴きと言えるそれは、霊夢を招き入れるように誘う声とも立ち入るなと言うそれともどちらとも取れて、あるいはどちらも孕んでいるからなのか、随分と懈怠めいて聞こえていた。
そして、霊夢はそれを感じ取っているのか微か頭で考えて、彼女らしくすぐにと心に従った。
「東へ八つ山を越えた先、乾と坤の間を行けば、きっとそこに紫がいる」
ただただ、心に従った。
それが何をもたらすかも知らないで。
霊夢にとって境を見つけるというのは手に取るようなもので、彼女が探すという目でそれをすれば境の結界はあっさりとその姿を暴かれていた。
地に下りた霊夢の目の前で、何の変哲も無い木々がひっそりと立ち生えて、周りより目立たせないという意味でその趣を異にしている幹の細い二本の木。
霊夢はその木と木が繋ぐ平面の空間をじっと見つめていた。
その向こうには変わり映えのしない木々が当たり前のように広がっていて。
霊夢はその面へ立ち寄って中指で掻いた。
掻いたその後霊夢はしゃがみ、手のひらを賽銭を貰うときのように上へと向けて、掴める筈の無い面をその手に掴んでめくり上げる。
「おじゃまします」
目に見えない布に姿を隠されるようにして、頭からつま先まですっかりと霊夢の姿が溶けゆき消えた。
「なんというか、桜ね」
目の前に広がる光景を見てひとつ霊夢はそう言った。
「何かに似ているかもしれないし、もしかしたらそうじゃないかもしれない」
藍との言葉を思い出しふたつ霊夢はそう言った。
「枯れずの桜の咲き競う一際大きなその場所へ」
霊夢は言葉を転がした。
立ち入り踏み入り歩んでく、桜舞い散るその場所で。
枯れずの桜は花弁と散りても地面を覆い、すこしも幽雅を失わない。
霊夢が歩けば柔らかにそれを受け入れて、足音ざまにはらり舞う。
歩けど桜、どこまで桜、花弁は月夜の群雲や。
博麗霊夢に桜の花びら、歩きひらりと進んでく。
紅と白がまざればそれは即ち桜の色の染めごとく、霊夢は歩き辿り着く。
「ゆかっ」
声を掛けようとして霊夢は止まる。
一際大きな桜の根元で散りつもり敷かれた桜に紫は正座して、ひしと胸に着物を抱いていた。
霊夢は紫のその姿に静かに心を散らされた。
普段なら誰にも見せないであろう紫を見た霊夢は、見てはいけないものを一人覗き見た疼きを覚える。呼気は短く早く鼓動は早鳴る高くなる。
紫の横で開かれた呉服箱から
誘われるように霊夢は歩き、そして紫へ一言かけた。
「それ誰かの着物?」
紫はこの場で霊夢に声を掛けられると予想もしていなかったのか、ひどく慌てふためいて着物を
桜が月灯りに透け生えて花びらが
風が吹けば花弁はまかれ、それの治まる凪の時は穏やかで。
どれだけ散っても桜は枯れない。
その面々と咲き誇る桜の園の風景は、いつかの異変で幽々子が八分まで咲かせた西行妖を霊夢に思い起こさせていた。
「白玉楼の桜に似ているわね」
霊夢が一言二言発すると、着物をそっと大事にしまい終えた紫が声を枯らした。
「出ていって」
「紫?」
いつもならそんなことは言わないだろう紫がそんなことを言い出して、霊夢は惑う。
だから出す言葉を間違った。
「出ていって」
「ちょっと紫、一体どうしたって……」
歩み寄ろうと霊夢が身体を動かせば、
「今すぐここから出ていけ!」
「ぁっ、……分かった」
「はやくいって」
「ごめん」
紫の触れてはいけない部分に触れてしまった間違いに霊夢は気付き、言葉弱くそう言った。
そして巫女服の隙間に手を入れて自分で選んだ首紐の装飾品を取り出し言った。
「これ、紫にあげようと思って。好みにあわなかったらごめんなさい、置いておくわ」
腰をかがめてそっと地面へかしずき置いた。
踵を返し元来た歩筋をそのまま歩き、あながちに立ち入った境を空ろに捉える。
紫と霊夢の距離は開き、二人は共に背中合わせだった。
外へ出ればそこには夜の暗い山が広がっていて、霊夢はそれをただ表情の無い目でぼんやり眺めてそれから息を吐く。
「はぁ、結界で括るってことは見られたくないってことじゃない。私も結界を扱うのに足りてなかった」
言葉ほどには余裕も精気も感じられない乾いた声が夜闇に響いて、霊夢の心はしくりと痛んだ。
そして翌朝、何故か博麗神社に萃香が涼場を作っていた。
萃香は神社で生活しているというと言葉に過ぎて、けれどそこそこに居候をしているというには言葉に足りる日々を送っている。
そんな萃香なのだけれど、朝方に霊夢が肩を落とした様子で帰ってきた時には宴会の後片付けをどうやらやってくれていたらしく、その時には姿が見えなかったけれど、霊夢が朝食をもそもそと食べ終え季節に遅い打ち水をやり終えて部屋へと戻れば、何故か畳の部屋の一面開きのそこへ御簾を掛けて意味無く陽のあたる縁側で座り涼んでいた次第。
「来てたの萃香」
「んー、まぁね。鬼は嘘つかないから」
「変な物言いねぇ」
「私が変な物言いなら霊夢は変な顔をしているよ」
萃香が霊夢へ身体をよじり、言葉以外に音の無いそこへ鎖がさらりと音を結んだ。
身体を向けられ霊夢は言う。
「どこがよ」
「紫と何かあったって顔してる」
「何もないわ」
そう言い繕う霊夢の所作は言葉の通りに心を隠し通せていたけれど、萃香にそれは通用していなかった。
そして萃香にとって霊夢のその言葉は、自分は相談相手にも足りえていないとの距離を感じさせるものでもあった。
昨夜の出来事の性質からして、人に踏み込まれたくない紫の領域に触れて火傷をした霊夢にとって萃香に話せるような内容ではないからこその言葉だったのだけれど、萃香にとってはそれでもやはり寂しいという思いが心のどこかに芽生えることを否定出来はしなかった。
何かあったということを分かりはしても
紫を想い萃香へ遠慮してだからこそ話さない霊夢と、霊夢を気遣い紫も気遣う萃香の想い。
そのどちらもが心に誰かを想い、自身はそれで傷を負う。
もどかしくも淡く甘い、けれど心を持つからに生まれていずるその遣り取り。
昔も今も変わらない、人だ妖だそれさえ関係のない脈々と続くその営み。
霊夢より長く生き、そうだから霊夢より多くを経験してきた鬼の萃香が霊夢へ言う。
「あのね霊夢、鬼は人に裏切られてから嘘に何より敏感になったんだ。あんまり立ち入るべきじゃないのは分かっているけれど、霊夢にそういう嘘はつかれたくないかな。霊夢が言いたくない理由も分かってはいるんだけれどね」
同情を誘うとも取られかねないその萃香の言葉は、心そのままに表されていて、だからそれは霊夢へ届いた。
「はぁ、分かったわ。あった、あったわよ。昨日紫を傷つけた、そんなことするつもりは無かったんだけどね」
少なからず自分も傷ついた霊夢は、自身のそれはあってしかるべきだと自罰的に捉えて言葉に出さない。
そんな霊夢の意識を分かってかどうか萃香はまた心そのまま言葉を表す。
「だから私はここにいる」
「また変な物言いね」
「霊夢、昨日のことは知らないけれど、また紫に踏み込む覚悟は出来るかい?」
「うん、頑張る」
「そっか」
萃香のその声には万感の想いがこもっていた。
御簾には陽射しが落ちて程よく影を作って避暑を感じさせ、萃香はきゅぽんと酒を呑む、霊夢は静かに横へと座る。
伊吹瓢箪から口を離した萃香がそこを袖で拭って、努めて平静にしどけなく、昔がたりを紫を想いぼかして喋りだす。
「紫はさ、その昔自分の力を嫌悪して、一人で持つことに耐えられなくなって、夢を願ったことがあるのさ」
「夢?」
「きっと神社の蔵にでも記録が残っているよ」
「そんな物があるんなら紫はそれを隠すんじゃないの?」
「だから神社の蔵に隠したんだよ」
当たり前の考えだろという顔を萃香はしていた。
「それだと隠してるって言わないじゃない」
霊夢がそういうと萃香はひどく声の調子を落として言葉を発する。
「ううん霊夢、それは違うよ。あの子にとってそれが隠している事になるんだ、なまじ力があんなだから見えづらくなっているけれど、そうすることでしか紫は誰かに甘えられないんだよ昔から」
そう言うと、萃香は遠い昔を懐かしむようでいて古傷を大切に撫でさするかのような、そんな目をしていた。
「とはいえ、紫にとっちゃ誰にも知られたくないだろうってことは確かだから。その、霊夢?視るなら覚悟はした方が良いよ?」
「じゃあなんで神社の蔵になんて置くのよ」
「知って欲しいからさ」
「知られたくないことって萃香さっき言ったじゃない」
「そうすることでしか紫は誰かに甘えられないんだよ昔から」
萃香の顔は先程と違って、ふざけた様子で勢い真面目な顔と声を作っていた。
それに霊夢は何だか急激に気の抜けていく感覚を覚えた。
そして心に思う、成る程たしかに萃香は紫の古い馴染みだと。
何だか色々そっくりだと霊夢は二人が同じ何かを共有していることを感じる。そして少しの羨ましさが茶柱のように心に一本混じっていた。
霊夢は素直に蔵へと足を運び、その扉の前に立った。
その重たげな黒漆喰の蔵扉を霊夢は身体を引きずるようにして開け、そうしてようやく姿を現す中扉の錠前に鍵をえいやと捻り込んでいた。
鍵が外れて戸が開いた。
「はぁ、開けるだけで面倒くさい」
久方ぶりに外の空気が入ったのか、土蔵から静かにひんやりとした風が流れ霊夢の身体をなぞっていった。
それに触られて霊夢は直感的に思った、確かにここに隠されているのだろうと。
そいや、と気軽に入った蔵の中は二階の観音扉が開いておらず、霊夢の開けた扉以外からは光が差してはいない。
「はいはい観音開き観音開き」
気だるげに霊夢は浮遊してすぐさま二階の観音扉を開け放つ。
すると一筋、二筋と陽光が差し込んで霊夢は目を細めた。
舞い散る埃がかすかにそれらを反射して透けていた。
「まぁ、紫が隠すっていったら当然結界で括ってるはずよね」
独り言のように呟いて霊夢は左手を伸ばして下げ、人差し指と中指の二本を立てた。
その状態で表裏と淀みなく手を返し、軽く一度上げてから空を切る。
「二重結界・散式。発」
囁くような霊夢の声がそう蔵へ響くと、彼女の左手首に二重の四角がそれぞれ逆に回転しながら展開された。
そして、霊夢はその手で周りに置かれた箱やら棚に詰められた書簡集やらを触っていく。
なぞりなでりと触り歩いてそれは棚の上から三段目。
心なしか、他のものより本の背が申し訳程度に出ているそれに触れたとき。
霊夢の左手首で結界の一つが弾けて飛んだ。
「ん?」
「んー、見た目は普通、中身も普通。だけど私の勘がそうとは言わない」
床にそれを置く。
霊夢は自身が汚れるのも構わずに膝をつき、相対して正座した。
手を伸ばし、のたうつような行書で書かれた表題を指で隠して、書き割りを裂くようにすっと一本なぞった。
すると書かれていた文字が紙から浮いて、役目を終えたと言うかのように蔵の空気へ溶けては消えた。
そして、あまりにも鮮やかな黒に墨染められた文字が現れ、見て取れた筆の修辞は博麗日月神示。
「見せてね、紫」
そうして、霊夢はそれを手に取り表紙を撫でて、冊子を捲る。
初めはただのきまぐれだった。
人だけが蝶よ花よと栄え続け、妖の存在が薄れつつあるこの世にあって、私は自暴自棄の心のままに人を攫っては喰ってを繰り返していた。
だから、そんな私があの時攫った紅白の人間の話に耳を傾けたのは、きっと偶然だったのだろう。
「巫女を攫う妖怪なんて聞いた事がないわ」
攫って連れ帰ってきた屋敷の居間で、この紅白の巫女服を着た人間は、事もあろうか勝手に人の家の座布団を引っ張り出してきて呑気にお茶まで飲んでいた。
ぬばたまという言葉で一首詠みたくなるような深い黒の髪が、彼女の喉が鳴る度にさらりと揺れる。
「出涸らしねぇ。新茶を用意なさいな妖怪さん」
「どうして喰らわれる人間にそんなことしてあげないといけないのかしら?」
彼我の関係を思い知らせてやる為にそう言った。
けれどこのふてぶてしい紅白の巫女は、
「もしかしたら臭みのない味になるかもよ?」
何て味な言葉を返してきた。
「臭いかなぁ?」
腋を空けて二の腕をすんすん嗅ぐ声がこの人間から聞こえてきそうだった。
「今ここで試してあげてもいいわよ?」
座布団に行儀良く正座で座り込むその人間の前に四つん這いで近寄ってから、かちりと歯を鳴らして見せる。
口の端を吊り上げて今すぐにでも喰らうという姿を見せ付ける。
ちょっとした事で儚くも命を散らす短い寿命の人間なんて、これだけできっと震え上がる筈だ。
「うーん、別に喰らわれてもいいんだけどね。ただ結界張るの終わってからでもいい?その方が助かるんだけど、多分妖怪さんにとっても」
だけれどそれは暖簾に腕押し、彼女は事も無げにそう返す。
「時間稼ぎでもしてるつもり?生憎と私は騙される程甘くはないわ」
「時間稼ぎねぇ、どちらかと言うと時間稼ぎをしなきゃならないのは妖怪さんの方だと思うけれど?」
糠に釘でも打ち付けてやろうか。
「落第よ、貴女。問い掛けに問い掛けを重ねるのは無遠慮だと教わらなかったのかしら?」
「うーん、出涸らしでもお茶は美味しい」
こいつ。
あくまで調子を崩さないその様子に、私はそいつの肩口を押さえ込み、口を開けてもういいと見切りをつけた、
「このままでは、妖は現世からその実体と勢力を失ってしまいます」
「っ、、……っ」
筈だった。
喰らうという目的を持って開けられた口が、行き場を失くして力なく閉じられた。
かちんという歯と歯の当たる音がしめやかに私の耳へと届いていた。
「知った風な口をきくのね」
「巫女ですから」
先程とは違うのほほんとした口調に戻りお茶を飲む巫女の姿が、何だか様になっているように見えて随分と癪だった。
「話を聞きましょう」
何もかもが癪だった。
「なら博麗神社にでも行きましょうか。私を攫った時のようにスキマを開いてくださいな」
不承不承と私はぱくんと境を開いた。
博麗神社の鳥居の下にゆらりと景色が歪むと、そこから人成りの妖怪と紅白の巫女が、さんとその姿を現し降りる。
「二礼四拍手一礼ぱんぱん」
「どこの出雲神社の話よ」
巫女はわりあい遠くに見える賽銭箱に手を叩き、参拝の真似事をしていた。
「ぱんぱんぱん」
私の呟きなど意に介さずにこいつは拍手を続けている。
この巫女の話を聞こうとした自分が実はとても馬鹿なんじゃないかと思えてならない。
そもそも二礼四拍手一礼ならぱんぱんぱんぱんじゃないの。
何故五回も叩くのよ。
あぁもうこんなことを考えるのさえ馬鹿らしい。
真面目なのか不真面目なのかそれとも気の違えた者なのか、一体この巫女は何なのか私は測りかねていた。
「早く本題をお聞かせ願えないかしら?」
「もてなしは出涸らしのお茶で良い?」
人の家では出涸らしに文句を言う癖に自分はそれか、何て巫女よ。
「そうね、お茶請けは出るのかしら?」
「お持たせで構いませんか?」
「何も持ってきて無いわよ」
「そうよね」
何が楽しいのか、この巫女は軽く握った手を口へ当てて、くすくす笑っていた。
果たして茶請けは煎餅だった、懐かしさの香る醤油煎餅。
私は連れられた居間の、年輪がそのまま模様になっているちゃぶ台で、巫女と対面になり座っている。
ぱり。
「それでね、単純に人が増えすぎているの。だっていうのに人は感情を無くしてる」
ぱりぱり。
「正しく言うなら、彼らの見る景色は悉くつまびらかにされていて、新鮮味が無くなっているのよ」
巫女が喋っていた。
ぱりぱり、ばりん。
話の腰を折るように煎餅が鳴る。
「これじゃ人の興味は感情へと向かわないわ。なら、どうなるか?簡単よ、答えは今が表している。人はあらゆる事物を頭で解体して従え始めたわ。知識が感情の優位にたってそれを支配し始めるのなら、そこに感情が優先する妖の居場所は成立しえない」
巫女が湯飲みに手を伸ばした。
彼女はそれを啜ると満足げに湯飲みを置いた。
「という訳なの。ね、忌々しき事態でしょ?」
全然そうは聞こえなかった。
緊張感がまるで無いのだろうか、この巫女は?
私がそう思っていると、この巫女は何やら私とちゃぶ台の境目を見ていた。
「ねぇ、お茶請けを催促したのに食べないの?だったら私が貰って良い?」
私の前に置かれた煎餅が減っていないのを見たのか、巫女はそんなことを言う。あぁもう。
「一つ。聞かせてもらいましょうか」
そんなことを言うまにまに、巫女の手は伸び私に用意された煎餅はすぐにとぱりんとその身を欠いた。
「あ、その前に妖怪さんの名前を教えてよ。これからも妖怪さん、じゃしまらないわ」
彼女の台詞に引っかかるものがあった。
これからも?
聞かないといけないことが二つに増えた。
「二つ聞きます。名前もお教えしましょう、よろしいですか人間の巫女?」
「はい、どうぞ」
巫女の人柄は演技なのかそうでないのかが今一掴めないけれど、こいつの掴む私達妖怪の概況は私の見解とほぼ同一を成していた。
人の人口増加による性質の流転。
そこから来る妖怪の未来。
私の考えと一致する。
だから、私はこの巫女が危険に値するかどうかを値踏みしなければならない。
妖怪と人なんていうものは、例外を除けば水と油のようなものだから。
危険であるというのなら、今度こそ私はこいつを……。
「一つ、巫女は人間と妖怪どちらの側なのですか?二つ、私に何をかさせるおつもり?」
眼には遊びの余裕を持たせずに、その真偽を測る意思だけ乗せた。
すると私のその眼に晒された巫女は、どうしてか不思議なことに酷く悲しそうな表情を浮かべていた。
「……、そっか、そうよね、うん。一つ、私はきっと妖の側よ。二つ、貴女に幻と実体の境界を弄ってもらいます」
居間に動を欠いた静の時間が張り詰めた。
私も巫女も喋らない。
私はじっと巫女を見る。真偽を測る。
巫女は言う、きっと妖の側だと。
きっと?何よそれは、信じるに値しない。
幻と実体の境界を弄る?
言葉一つでどうにかなるほど簡単なことじゃない。
霊媒になる流し雛でも必要だ。
けれどこの巫女なら最適かもしれない。
そんなことを私が考えていると、張り詰めた空気は不意におずおずと巫女の方から破られた。
「ねぇ、妖怪さん。そろそろお名前、教えてくれないかな?」
利用出来そうな巫女を見つけた私は、ことの真偽はさて置いて、
「八雲紫」
と答えていた。
するとこの巫女は先程までの悲しそうな顔とは違って、本当に嬉しそうな顔を咲かせて言葉を発した。
「よろしくね。私の名前は博麗--」
何故か彼女との生活が始まった。
一緒に暮らした方が幻と実体の結界を張るにも何かと便利だからという理由で、半ば強引に巫女との同居生活を私は押し切られた。
巫女との生活が始まって、まず彼女がしたのは私用の食器を買いに行くということだった。
ひと気のある場所まで私を連れて行き、どれがいい?何てしきりに巫女は聞いてきた。
私はその時、どうすればこいつを霊媒にして利用できるかを考えていて、適当な相槌を打ち、適当な椀を指定した。
そうして幾日かが過ぎ、私は結界を張る土地の測量へと出ていた。
列島に八岐と流れる龍脈の位置を自分で確認したかったからだ。
幻と実体の境界を弄ると言っても、おいそれと大地の龍脈の存在を無視することは出来ない。もしそれを千切るような形で新たな郷の
そんな事になれば龍神が怒り出すだろう。
だから龍脈をすっぽり納める範囲で測量しなければならなかった。
ここで一つ問題が起きた。
移動は私のスキマで何とかなるからいい。
けれど、龍脈とはつまり霊脈であって霊力の集まり流れる大地の道。
であるのならば、当然霊力の視える者が必要だった。
思い返すだけで腹に据えかねる。
「龍脈を測るには龍穴を見つけないといけないわよね、八雲」
「えぇそうね」
「八雲は妖だから霊脈なんて見えない」
「えぇ、そうね」
「私、今の八雲に必要よね?」
「えぇ、えぇ、そうね」
そんなことがあったのだ。
「あ、八雲あった。龍脈の終わり、龍穴よ」
自分でも飛べる癖に何故か巫女は私の横で私の開いたスキマに乗って、あろうことか湯飲みにお茶を持参してのほほんとそれを飲みつつ横合いから指差しを出していた。
「あ、八雲お茶が無くなったわ。スキマ開いて頂戴」
「……」
巫女があまりにもあまりだったので、私は巫女の頭上でスキマを開いてやった。
お茶が降って、巫女が鳴いた。
「わぁっ、何するのよ八雲。びっくりして危うくスキマから落ちる所だったじゃない」
縁日の紐くじでも引いてる気分にさせられた。
すこしは意図通りの反応をして欲しい。
まぁいい、巫女を流し雛の贄にさえしてしまえば目的は達せられる、この巫女はそれでお仕舞い。それまでの辛抱だ。
私がそんなことを思っていると、彼女のお尻に敷かれている数個かの結界の目が、烏羽色した境界の中で確かにそれと分かる様子で瞳を歪ませ、目だけの癖に意地悪く笑っていた。
「次は何処へ行くのかしら、巫女?」
「んー、あっち。多分奈良のスサノオ神社が龍穴になっているんじゃないかしら」
ぱくんと境界の淵を広げた。
スサノオ神社に着くとそこは一面枯れ落ちた黄色のイチョウで覆われていた。
鳥居もそれに犯されていた。
きっとご神木なのだろう。
足の踏み場もないそこに巫女と私は降り立った。
降りた足元で枯れ葉が舞って、秋冴えのする空気に乾いた音を添えていた。
「二礼二拍手……」
「黙りなさい」
「ひどい」
機先を制した。
けれど巫女はそんな私の言葉は痛くも痒くも無いといった様子で、横手に見える
巫女が進むたびに枯れ落ちたイチョウの葉が鳴った。
しょうがないのでそれに続く。
巫女の足音に私のそれも加わった。
手水舎の水盤には清水が溜まっていて、
巫女は流石に巫女なのか、正しい手順で身を清めていた。
「意外に信心深いのね」
「そういう訳でもないんだけど、八雲に関わりありそうな柱を祀る神社だから一応やっとこうかなって」
「話の突飛な巫女ねぇ」
私が言外に疑問の意を匂わせる言葉を言うと、巫女は右手の人差し指を立てて講釈を垂れる時の様にして言葉を乗せる。
巫女の目線の先には和歌の刻まれた碑文があった。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
「確かにそういう和歌はあるわね」
その和歌の意味は、つまる所自身の伴侶、文字上では妻、神話上では稲田姫、を囲うということを言っているのだ。
スサノオが八岐大蛇の贄にされていた稲田姫を助けた後に詠んだということになっている。
「八雲の名前が八雲なら、言霊はきっとこれに影響を受けているはずよ。八雲は出雲の代名詞だし、うちの神社は出雲にあるしねぇ」
巫女が含みを持たせた横目でちらりと私を見やってきた。
「……」
「あぁそれに、スサノオは母であるイザナミに会いたくてだだをこねたりする子供っぽい所もあるから、もしかしら八雲にもそんな一面があるのかもしれない」
あれなのだろうか。この巫女はまさか私が自分を囲うと言いたいのだろうか。
「貴女、私に囲われたいの?」
「そんな風に聞こえた?」
またこいつは問い掛けに問い掛けを重ねて、癖の悪い巫女ったら。
けれどまぁいい。巫女がそういう気質を持っているのならここで少しは期待に応えておいたほうが、霊媒にする時に何かと言い含めやすいというもの。
だから私は、碑文の一文字を境界で攫って遊びに興じた。
碑文から妻という一文字が溶けて消え、巫女の名前を刻みなおした。
「こういうことね」
▽八雲立つ 出雲八重垣 --籠みに 八重垣作る その八重垣を
「八雲はすけこましの才能があると思う」
「お褒めに預かり恐悦至極」
巫女によると龍穴はたしかにこの神社だということだ。
時間は夕刻、その帰り。
「案外と広い範囲に結界を張ることになりそうね八雲」
巫女は私を八雲と呼んだ。
「そうね」
私は生返事。
木立の中を巫女と一緒に歩いていた。
歩くたびに土と葉が踏み鳴らされて、私と巫女の足音となっている。
夕陽に染まる木漏れ日が辺りの輪郭をおぼろげにして、私たちもその例外じゃない。
そんな場所を歩いていて、ふと気付くと四つ在った足音が私の二つだけになっていて。
「巫女?」
振り返ったり辺りを見回してみると、後ろの方で巫女はどうやら自分より背の高い花の前に背筋よく立っていた。
巫女の横まで私は歩く。
「向日葵ね。遅咲きかしら?それとも狂い咲き?」
時節を過ぎて枯れずに咲く向日葵を、巫女は穏やかな顔で見ていた。
そんな巫女はこちらを向いて先程の私の言葉に答える。
「八雲は情緒が無いなぁ。それともわざと?」
言葉とは裏腹の幸せそうに笑う巫女の顔は毛ほども変わっていなかった。
「答えをお聞かせ願いましょうか」
「ほら見て八雲、枯れずの向日葵に妖力が宿り始めてる。時間が経てばきっと素敵な妖が生まれるわ」
そんなことを言って、巫女は背伸びして自身より背の高い向日葵を撫でていた。
その様子が理解出来なかった。
だから声に出た。
「何がそんなに嬉しいのかしら?貴女に関係ないことでしょう?」
「新しい妖が生まれるのよ、嬉しくない訳無いじゃない」
甘い桜餅でも頬張っているかの如く緩んだ顔をしている巫女は、そう言ってまだ向日葵を撫でていて。
妖の萌芽を嬉しそうに撫でるその巫女に、何故だか自分が撫でられた気がした。
何なのよ、この巫女は。
「早く帰るわよ」
「え?あ、ちょっと待ってよ八雲」
たたらを踏むように足音が幾度か鳴って、巫女は先に歩く私に追いついてきた。
少しの乱れが起きた鼓動に囃し立てられるように私は足早と歩みを進める。
歩幅の違いから、私より小さい巫女は遅れまいと上下に肩を揺らしながら横を歩いていた。
自分の気息が少しだけれど常には無い様子だと身体では分かっていた、頭では分かりたくなかった。
けれど私は一番大事なことに気付いていなかった、いつの間にか博麗神社が私の帰る場所として認識されていたことにだ。
博麗神社に帰り、昼間巫女と調査した数値を元にして、私は彼女の用意していた古めかしい日本地図に結界の境目を書き込んでいた。
「数字に強い八雲が居ると測量も楽でいいわね」
そう言う巫女は横合いで年季の入った扇をぱたぱたと仰ぎ、耳を紐で括られた書物を読んでいる。
便利屋扱いされているような気がしてならない。
「そういう貴女は何を読んでいるの?」
「私?博麗日月神示、博識な八雲なら知っているでしょ?」
「博麗なんてついた日月神示は聞いた事がありません」
「それはそうよね、私が勝手に書き加えている物ですもの」
「冒涜もいい所ねぇ。神と対話でもしているのかしら?」
「八雲が
「嫌よ、面倒くさい」
面倒くさいとは言ったけれど、審神者を仰せつかるという事は実の所本当に面倒くさい。 審神者というのは字面の通り、神を審判する者ということ。巫女は神をその身に降ろすけど、八百万と言われる神々がおしなべて人に好意的かどうかは分からない。だから審神者は巫女に宿った神が高位の神かそうでないかを審判したり、場合によっては神と渡り合って依りましとなっている巫女を守る必要がある。勿論、器に見合わぬ神でも降ろせば巫女の命は露と消える。審神の眼が必要なのだ。
私はやろうと思えばあちらの世界を覗いてその真似事が出来る。
簡単だ、真名を呼んでやればいいのよ。
けれどこの神と渡り合うというのは本当に力がいる。だから、大方は巫女と心を通わせているものが神事の際に審神者役を仰せつかる。
考えただけで面倒くさい。
「結界を張るのに龍神を祭りあげる必要があるのよねぇ。うーん」
博麗日月神示とやらに目を落とし、ぶつぶつと巫女は呟いていた。
残暑の熱気を夜風が攫って、季節はずれの風鈴がりんと鳴る。
筆記具を書き散らす私の首に汗ばむ雫が流れて落ちる。
「ちょっと、私も仰いでよ」
「うん?はいどうぞ」
巫女に言った。
私に応えて巫女がぱたぱたと扇を向けてきた。
机上の地図が風に吹かれてさわりと浮いた。
筆を置いて地面へ手を突く、気は静か。
「涼しい」
「もっと仰ぐ?」
彼女のその声に、ふと附子の狂言を思い出したのでその一節をそらんじた。
「仰げ仰げ」
すると彼女も乗ってきた。
「あおぐぞあおぐぞ」
もう一度。
「仰げ仰げ」
「あおぐぞあおぐぞ」
二人顔を見合わせた。
「あはは」
「おかしな巫女」
彼女に気を許すようにくすりと笑った。
気付けば以前程人を喰らわなくなっていった。
きっと彼女のせいだろう。
▽
「紫とはうまくやってるかい?」
「えぇもちろん。素敵な妖怪さんね」
「そうかい」
「それで、やっぱりほんとにやるのかい、博麗大結界?」
「やるわ。龍神が怒り出す前に始末をつけないと。それに伊吹から八雲の話を聞いて私の勘が言ったんだもの、八雲の力があれば出来るって」
「そうかい」
「私は居なくなるだろうけど、もし八雲に何かあるようならその時はお願いね。あ、伊吹の方が八雲とは付き合いが長いのか」
「いいよ別にそんなこと。鬼は嘘つかない、紫のことは知己の私に任せなよ」
▽
それから八日が経ち、あらかたの測量は終わっていた。
「ねぇ八雲。聞いてもいい?」
「何かしら?」
「八雲はうちで人と同じ食事をとっているけれど、妖にとってそれは栄養になるの?」
またこの巫女は。
少しは気を遣えないのだろうか。
「種によるとしか言い様が無いわ。それで事足りる妖怪も居れば、そうじゃないのも当然居る。人を喰らう欲求自体が無くなる訳じゃないけれど、無視出来る位までそれを希釈することは出来るわ」
私がそう言うと、巫女はふーんと納得したんだかしてないんだかどちらともつかない顔をして扇をパタパタさせていた。
すると突然、
「八雲は?」
なんて聞いてきた。
「どうあって欲しい?」
いつかした問い掛けに問い掛けを重ねて私は返す。
「んー、八雲であって欲しい」
「何を、言うのよ」
巫女の人となりが少し分かって来たと思う。
巫女は基本的に言葉が恥ずかしい。どうかしてると思う。
時には大人びた事を言い、時にはしれっと恥ずかしい事を言う。
あぁけどどうかしているのは私も一緒だ。
そんな巫女だけれどそれはまぁ好ましい、なんて思うようになってしまっているんだから。
「聞いてもいいかしら?」
「何でもどうぞ」
「貴女がいつも持っているその扇、とても古めかしいけれど何か理由でもあるのかしら?」
私がそう聞くと、巫女は「あぁこれ」と一瞬扇へと目を移した。
そして喋りだした。
「んー、理由って程でもないんだけど。昔に、と言っても本当に昔で私が小さい頃なんだけど。その時知り合った鬼の妖に貰ったのよ、初めて出来た友達ですごく嬉しかったから今でも使ってるの」
「鬼は人と交わるのが好きとはいえ、物好きな鬼も居たものねぇ」
「物好きな鬼も、そして物好きな巫女も居たのよ。じゃあご飯にしましょう八雲」
今度萃香にでも聞いてみようと思う。
そう言って、彼女は手に持つ扇を小物をしまう階段薬箱にしまって炊事場へと向かっていった。
そんな彼女の背中に一声。
「献立聞いてもいいかしら?」
「んー、ご飯に味噌汁、きんぴらごぼうに、それと金目鯛の煮付け。冷やっこも付けようか?」
「かつお節をかけて頂きたいわ」
「削り節かぁ、あったかなぁ」
そんなことを呟いて彼女はぺったらぺったら歩いていった。
さて、もう少し測量した資料を地図へ書き込んでおこう。
「いただきます」
「頂きます」
箸を挟んで合掌一唱。
視線を落とせば、椀の中で味噌が入道雲みたいにたゆたい湯気をくゆらせていた。
箸で雲間を散らして一献啜った。
おいしかった。
鷹の目が彩を添えるきんぴらごぼうを箸でつつき、艶々のご飯で頂く。
頬が緩みそうだった、我慢した。
舌鼓をうてる食卓が心地よかった。
「おいしい?」
「おいしいわ」
「良かった」
言葉数は少なく、けれどそれで良い。
秋の夜長に静かな夕餉というのもまた乙なものだった。
世の先を憂えて人を喰い散らかしていたころとは比べようも無い穏やかな時間。
だからだろう、私に魔が差したのは。
「明日、紅葉狩りにでも行きましょうか」
そんな言葉が私から出ていた。
すると味噌汁を啜っていた巫女の動きがぴたりと止まった。
私はその動きに何故か不満を覚える。
何故って、この巫女は私がそんなことを言うだなんてまったく思いも寄らなかったという表情を浮かべていたからだ。
「変な顔ねぇ。そこまで鳩に豆鉄砲打ったつもりはないわよ」
「あ、うん、その。喜んで」
巫女は何故だか箸置きに箸を戻してそう言った。
三つ指ついてという言葉を思い出したわけじゃないけれど、どうにもそういう雰囲気が流れている気がしてならなかった。
言葉が途切れた。
外では虫が鳴いている。
椀から湯気が立ち上り、巫女は正座で私と対面していた。
巫女の服は当然紅い。
あぁ、何だこの空間は。
「明日ちゃんと起きなさいよ」
「え、あの、はい」
「京都が見ごろかしらね」
「あの、八雲にお任せします」
あぁもう、調子の狂う巫女ったら。
金目の煮付けに箸を通した。
「頂いてしまいましょうか」
「はい」
もう。
私は巫女を京都の龍安寺へ連れて行くことにした。
巫女はいつもより早く起きて、朝露が桶の金具を未だ濡らす時間に炊事場で昼用にとおむすびを握っていた。
何故そんなことが分かったかといえば、何のことは無い、いつもより早く起きてしまったのは何も巫女だけという訳ではなかったからだ。
「八雲、紅葉って凄く綺麗なのね」
横をからころと歩いて紅葉を見ていた巫女がそう言う。
私達は敷地内の鏡容池に色づく紅葉を狩っている。
「見たこと無いわけでもないでしょうに」
私はそんな軽口を叩いたけれど、巫女が楽しそうにしている様子に満更でもない。
ありていに言えば、連れて来て良かったと心の中で思っていた。
鏡容池に目を向ければ湖面には睡蓮が葉を浮かせていたけれど、時間が早いのかまだその蓮に似た笠に花を咲かせてはいなかった。
睡眠する花、読んで字の如く睡蓮。眠る蓮と言われるこの花は、夜には眠るように花が閉じ、昼過ぎからその花を咲かせ始める。
少し時間をずらせば良かったのかもしれない。
私がそんなことを考えてそれを見ていると、巫女が私に問うてきた。
「あれ?何見てるの八雲」
「睡蓮よ」
私が言うと巫女も水面へ視線を動かしていた。
「睡蓮。あぁ、朝だからまだ咲いてないのね」
んー残念ね八雲、だなんて巫女が言うものだから私はつい巫女を喜ばせようとしてしまう。
「咲かせてみたい?」
「出来るの?」
「ご覧じましょう。すきま妖怪のもてなすひとひらひらりの夢うつつを」
私はそう言って瞳に意識を込めた。睡蓮を捕らえて観測する。
扇を取り出し大仰に睡蓮へとそれを向け、風を凪ぐように薙ぎつけた。
すると、これはえらいこっちゃ寝過ごしたと言わんばかりに睡蓮が次々水面に花を咲かせる。
横を見ると、巫女がその様子を音も無く静かに眺めて佇んでいた。
「
「終幕まで期待が持てる程度には」
「口の減らない巫女ったら」
「ねぇ八雲?」
「何?」
「龍安寺の石庭、
軋む板張りの床を歩いて見場の部屋、巫女とわたしはそこに居た。
四方開きとまではいかない、一面開きの外へと目をやればそこには石庭枯山水。
石庭の土壁の向こうでは紅葉が暮れなずむ夕陽のように色づいていて、その中で顔を覗かせる枯れた一本のしだれ桜は枝を風に揺らせて垂らしていた。
白砂の敷き詰められた庭園には山と見立てた石が十五と配置されていて、その様に趣を添えている。
振り返って後ろを見れば、どうしてだか巫女は座り込んで膝を抱えた格好で庭園を眺めていた。
その目はどこか思い詰めているようにも見えて、私はそれが嫌だった。
「巫女?」
「ねぇ八雲、知ってる?龍安寺石庭の十五の石は一度に全ては見えないんだってね」
「知ってるわよ」
「座ったこの格好の目線からは当然全ては見えない」
巫女はそう言うと立ち上がる。
「立ち上がったこの目線から見てもやっぱり見えない。全てを見るにはどうするか、答えは簡単
独り言のように先々と話す巫女が何故か途方も無く嫌だった。
話し相手の私を認識していないような気がして。
「ねぇ八雲、妖と人の境界は一体どこにあるのかしら?人であるなら十五の石は完全には見えない、十五夜満月に謂れを持って十五は満ちる完全な数を表してる、それが見えないのよ。でも妖なら見えるのかしら、宙に浮かんじゃえば見えると思うけど」
「巫女は飛べるでしょう?」
「そうよ、私も飛べる。一度に十五を見られるわ、けどそこからの目線は一体誰の目線なのかしら?私という人間?それとも私という妖?普通人は飛べないわ。だったら私はとっくの昔に人の目線を失っている、生まれた時からずっとずっと。人では見えない不変の十五を観測出来てしまっている」
「巫女」
ただそれだけが口から出た。
「皮肉ね八雲。人の観測できる十四は不完全、けれどそれは先があるということ。だから人は先を求めて栄えるんだわ。いつまで経っても人のままでは全ては見えない、なのにだから人には十五に及ばぬ夢幻の十四がある。だったらその目線の境界を越えた私は何なのかしらね」
私は何かを言おうと思ったけれど、それは巫女の言葉によって遮られた。
「ごめんね八雲、訳の分からないことを言って。ご飯にしましょう、おむすび握って持ってきたわ」
そう言うと、巫女は笑っているけれどとても笑っているようには見えない器用な顔を私へ向けていた。
けれど私には能面のように張り付くその笑顔がひどく我慢をしているように見えて、知らない間に見えない所でこの巫女は勝手にどこかへ行ってしまうんじゃないかと思えた。
だから私はその場に座る巫女に倣って、せめて近くで見れるようにとその横に腰を落ち着けた。
床の軋む音がした。
「おかか、梅、鮭。八雲はどれが良い?」
「梅がいいわ」
「はいどうぞ」
「はい確かに」
巫女が紐を解いて経木を開けると、中からしなしなになった海苔に包まれているおむすびが、香る経木の清涼感を漂わせてその顔を覗かせた。
私はすきまを開いて湯飲みとお茶を振舞う。
見れば巫女はおむすびを小さな口で齧っていて、私は何だかそれから目が離せなかった。
「んぐ、ん?どしたの八雲、私の顔にご飯粒でも付いてた?」
ばれた。
お茶を濁す。
「どうして巫女は妖の為に力を尽くすのかしら?」
私がそう聞くと彼女は今まで齧っていたおむすびを一旦置いた。そうしてこちらへと視線とその身体を向けてくる。
突飛だったけれど、巫女の張り付いた能面の下にあるものを知るにはやはりこれなのだろうと私は思う。
私は知りたい、知りたくなってしまった。
絆されたと言うのならきっとそうなのだろう。
「そうね、多分性分よ」
清水の流れるような、落ち着いた声が巫女から聞こえた。
「霊を博する何て言霊に影響されてるのか、それとも私が生まれるから博麗なんて苗字になってるのか、そこまでは分からないけれど。ううん、正直言うとね白状する。ねぇ八雲、私あなた達みたいな妖の在り方に惹かれてる、人間なんてものよりずっとずっと」
「分かった風な口をきくのね」
言葉程は棘の無い軽い感じでそう言い、私は巫女の握ったおむすびをぱくっと口へ運んだ。
石庭に風が吹いた。
しだれ桜が揺れた。
「だってしょうがないでしょ?これが真実偽りようのない私の気質なんだから。それにね八雲、あなたはきっと私以上に自分の言霊に捉われていると思う。一番色濃い妖の在り方よ」
そういう巫女の目は伏しがちで少し昏い色を帯びていた。
「知った風な口を」
今度もまた棘は無く、何とは無いよという面持ちでぱくっと巫女の握ったおむずびを口へと運んだ。
「私はそう思うし、正しいって私の勘は言ってるわ」
「博麗--の言う事はいつも正しいって訳ね」
「妖は人の情念から生まれてくる。あなた達が人を攫うのも喰らうのもみんな人が恋しいからよ。自分の源泉になった元だから触れたくなるし狂おしくなる」
「私たちが人を喰らう行為を随分と詩的な表現でもって評価するのね」
「そう?私はただ」
言うと巫女は隣にいる私の側に片手をついて、ついっと寄りかかるように身体を崩してきた。巫女の身体を近くに感じて気恥ずかしくて変になる。
この巫女は自分の言っていることを分かっているのだろうか、妖である私の前で妖に惹かれるだなんて。これじゃあ
だから私は気取られたくなくて自分の気持ちを雲間に隠して逃げてしまう。
「はいはい、博麗--の言う事はいつも正しい」
けれど、耳にうるさいほどに自分の鼓動が早鳴る事実を私は意識せずにはいられなかった。
冴えなずむしんとした見場が私の熱に拍車をかけているように思えて仕方が無かった。
それから私と巫女はひとしきり紅葉やら石庭やらを見て楽しんだ。
そんな中で気付けば辺りは夕闇に染まる時分になっていて、帰訪を切り出したのは巫女の方からだった。
「それじゃあ八雲、そろそろ帰りましょうか」
私の前を歩いて紅葉を見ていた巫女がくるりと振り返ってそう言った。
横顔に蜜柑色した夕の陽が映える巫女に私は気息を乱され、焦がれるような想いを感じる。そう想うようになってしまった。
「うん?八雲どうしたの、風邪?」
私より背の低い巫女が私の所まで戻ってきて上目で顔色を覗かれた。
巫女服の隙間から覗くさらしや鎖骨に目を奪われた。
顔、ちかい。
「うん?ん、うわぁっ、ちょっと、何するのよ八雲」
すきまを開いて彼女の顔をそれですっぽり覆い隠すと、すぐにとそこから頭を抜いて巫女は私へ不平を飛ばす。
「間違えました」
「もう、嘘ばっかり」
「それじゃあ帰りましょうか」
「それ私さっき言った」
すきまをぱくんと大きく開けた。
「何よ、これ」
博麗神社の部屋に戻ってまず私が発した言葉はそれ。
鳥居の下にすきまを開いて部屋へと歩く途中でまずおかしなものに目がついた。
賽銭箱の桟が無残に折れていた。
巫女はそれを見て表情を変えずに声さえ上げないでいたから、代わりに私が『物盗り?』と声をあげる。
そして巫女がいつまで経ってもそこから動かないから、私は彼女の手を引いた。部屋まで戻った。
部屋はひどく荒らされていた。
様々な書物がまばらと床に散らされて、
「人による物盗り、ね」
巫女以外の人の匂いの残滓が鼻についたのでそうだと分かった。
巫女を探すと、彼女は棚の上に置いた階段薬箱の前で立ち止まっている。
彼女の両の平には折れて破れた扇子が乗せられていて、それは彼女が大事にしていた扇子そのもので。
「あはは、壊れちゃった」
背中越しで顔は窺えなかったけれど、淡々とそう言う巫女に私は胸が痛んで何も言うことが出来ない。
だってそうでしょう、巫女と会ってまだ年月の経っていない私がこんな時に一体何を言えると言うのよ。彼女の大事にしていた扇子が私より長く巫女と一緒にあったと言うのなら、私なんかのかける言葉はきっと安くて薄くて扇子の重さの前には耐えられない。
だから私は荒らされた部屋を片付けることで私に出来る最善を尽くそうとする。
けれどそれさえ最善手にはならなかった。
しゃがみこんで散らばった書物を一つ所に集めようとして私はそれを見た。
食器が割れて床に転がっていた。
それに近づき破片に触る。
巫女がしきりにどれがいい?何て聞いて私に用意した椀が割れていた。
どうかしている、巫女にこれを用意された時の私は巫女を霊媒として利用しようとしていたのに、その時は椀なんて何とも思っていなかったはずなのに。
割れてしまったその椀を見て私の心は抑制が効かなくなった。
殺してやる。
黒ずんだ情念が私の心に一滴垂れて染みとなり瞬く間に広がって私はそれに捉われた。
「止めて、やめて八雲!」
人をくびり殺しに行こうと境界を開いた私に巫女が背の方から腰へしがみ付いてきた。
初めて取り乱した巫女を見て私の感情は行き場を無くす。どうしても私を行かせたくないという巫女の意思みたいなものが見えて戸惑う。
「どうしてよ。大事な扇だったんでしょ」
私がそういうと巫女はしがみ付く腕を一瞬びくっと震わせてふっと緩めた。
「駄目よ八雲、妖は人が恋しいから狂おしくなるのよ。そんな感情で人を殺めに行ったら八雲が妖として穢れちゃう。そんなくだらない人間に妖としての八雲を歪められたくない、そんなのは嫌よ」
何よ、何よ、何なのよこの巫女は。
妖がどうとか私がどうとか、そんなの、そんなのは巫女が気遣うことじゃないのに。
何故そこまでするのよ。
巫女が確かに傷ついているのが分かるのに、私はそんな巫女が自分を考えてくれていることに嬉しさも感じてどうにかなりそう。
自分の感情を持て余すなんて事が本当にあるとは思わなかった。
「だから、止めて。お願いだから」
「だったら、誰にも渡さない」
「え?」
そうだ、誰にも渡さない。
巫女だって奈良の神社で言ったではないか、最古の和歌になぞらえて私はそれに影響されている筈だと。
なるほど確かにその通りだった。あらまほしき自身の寄る辺は言霊にあはれともやいを持っている。
私は腰にまとわりつく巫女を自身の前に立たせて、荒々しく引っ掴み腕の中へとおさめる。
この巫女と神社は私のものだ、決して誰にも触れさせはしない。
あらん限りの力で持って、私は妖気を八重垣に満ちる霧の如く放ち神社とこの巫女を囲っていた。
私の神社、私の巫女よ。
その夜、私と巫女は粗方の片づけを終えて床に就いていた。
夜半の冷えに私は目覚め隣を見ると、巫女が寝ているはずの布団が空になっていた。
布団に入ったまま私は手を伸ばし、主のいなくり捲れた布団を触る。
冷たくなっていた。
どこかに行ってるのかしら?
だとしてもこんな時間に一体何処へ……。
気になって私は布団を抜け出した。
素足に冷たい畳の床を後にして、つっかけをひっかけおっかけ外へ出る。
昏黒の帳が降りる夜の境内は夜着の長物を羽織る私の肌を刺すようでいて、昼から夜の顔へその様相を変えた木々がやけにその場へ静寂を落としていた。
すると夜目に慣れる私の目は木々の合間に隠れて揺れるぼやりとした影があることを捉える。
きっと巫女だろうと私は思い、近寄ろうと足を鳴らす。
声が聞こえる。
「ごめんね伊吹。扇子壊しちゃって」
巫女と声をかけようとして私は思いとどまった。伊吹という言葉で咄嗟に草葉の影へと身を寄せ潜めた。
「形あるものはいずれ壊れるさ、むしろまだ後生大事に使ってくれてた事の方が驚きだったよ」
「物持ちは良い方なのよ私」
「そうかい、それより進捗の方はどうなのさ?」
萃香、伊吹萃香。私の数少ない友人、鬼の知己。
「八雲を審神者に私へ龍神を降ろすわ。龍神が姿を現す凶兆の雨を持ってその時とします。かの神を祭り、私の気質を実体と幻の境界への流し雛として新たな郷を括ります」
「紫には言ったのかい?」
「言ってない」
「言いにくいなら私から話そうか?」
二人の会話に怖気の走るものを私は感じた。
夜陰に冷える私の身体に体温とは別の悪寒が襲う。
龍神を巫女に降ろす?確かに私が審神者を務めれば出来るかもしれない。
けれどそんなこと私はしたくない、人の身である巫女に龍神など降ろせよう筈もない。
それは水風船に池の水を全て入れようとするようなものだから。
そんなことは萃香だって巫女だって分かってるだろうに、それを淡々と話す二人の姿にまるで命の遣り取りを算段する十王審理、あるいは
直視出来ない、したくない。
気付けば私は逃げ帰るようにその場を後にして、巫女に龍神など降ろすものかと心にあかりを灯して小走りに走り、寝床へと戻っていった。
焼け付くようにからから喉が渇いて仕方なかった。
萃香と巫女があの後何を話していたのかを私は知らない。ただ、布団の中で目を瞑るも寝付けない私の耳に巫女の戻ってくる足音がひたりひたりと寒さそのまま聞こえて、その一歩一歩と近づくごと明瞭になる足音に私は一枚一枚心を剥がされる思いだった。
ひどく足先が冷たい。
枕元に巫女の足音が聞こえる。音が止む、立ち止まる。
私は起きていることを悟られないよう閉じる目蓋へ神経を集中させた。
目を閉じていても分かる見られているという感覚に気が気じゃない。
自分の鼓動が聞こえてやしないかという程にその音は私の頭に煩く響く、まとわりつく。
一拍、二拍と時間が流れ、そしたらふっとその圧は私から外されて、隣で衣擦れの音が聞こえてきた。
巫女が布団へ入る音だった。
「ねぇ八雲、起きてる?」
部屋の秋夜の乾いた空気に巫女のしめやかな声が聞こえて、私はそれに疼きを覚える。渇く。
ただ鼓動だけが早鐘をうち、声を出すことも出来ずに時だけがただ流れ過ぎていく。
そうしてどれくらいが経ったのか見当もつかなかったけれど、
「おやすみ八雲」
という声が聞こえて。布団に入った彼女はきっと私に背を向けて寝ているような気がした。
「いただきます」
「頂きます」
翌朝、巫女と私は食卓を囲んでいた。
起き抜けにも私の喉はひりつくような渇きを覚えていて巫女を見ると一層渇き、巫女がその口へ箸を滑らせ開くのを見でもすれば、それに狂りと侵され私の何処かに雫を垂らした染みが更に深みを増すようにとその色を濃くした。湯飲みの
盗み見るように巫女を見やった。
箸に浅漬けの白菜をちょこんと摘まみ、片すくの手の平を下に添えて口へとそれを運んでいた。
巫女の口が開いて
喰らいたい。
「っ、、」
湯飲みを卓へと不躾に音の鳴る程勢い強く押し付けた。
私は今何を。
「どうしたの?」
「何でもないわ」
「ほんとう?」
あぁ、何度も私に声を掛けないで、口を開かないで。
ちろりちろりと覗く舌、声の鳴るたび形を変える薄く色づくその唇。
「っ、出かけてくるわ」
「え、あ。ちょっと」
私はそう言って巫女へと背を向け、はためく服に足を取られそうになりながらその場を後にする。背中に巫女の視線を感じながら、それでも私は振り返れなかった。
今振り返ってしまえばどうなるか自分でも分からなくて、それが私には怖かった。
喰らいたい。
狂おしい。
死なせたくない。
心惹かれた。
彼女はただ人、私は妖。
水と油は溶け合わない。
満ちる十五の満月は、時を過ぎれば欠けてゆく。
届かぬ十五に願いを馳せるは、欠けること無い人の夢。
巫女は一体どこへ辿り着くのだろう?
どこに居るのだろう?
ついぞ得心のいく冥加を得られそうもなかった。
「で訳も分からず鬼の棲家までやってきたと。確かに今の紫は酷い顔だよ、まぁ古い馴染みとしては紫は一人で危なっかしかったから少し嬉しくもあるんだけど。それより私に聞きたい事が別にあるんじゃないのかい、紫?」
萃香は所狭しと巻子本の散らかった奥座敷で足を崩し、伊吹瓢箪に口をつけていた。
私は畳の床にだらしなく身体を預けて四肢を投げ打つ格好でそれを見ている。空ろな目に薄く開いた口、そしてそれに髪の垂れるのも構わないという姿を萃香の前で晒していた。
四方開きの殿舎に今は
竹ひご造りの御簾からほのかにしどける香に少しのあわいを覚えてなずむ。
「萃香、私に隠していたのね。巫女のこと」
「ん、まぁそういうことになるねぇ」
「鬼は嘘が嫌いではなかったのかしら?」
「紫に聞かれはしなかったさ」
「とんでもない鬼もいたものね」
「聞きに来たんだろう、紫?」
萃香の言葉に私は寸暇の淀みなくすらりと声に出す。
「巫女のこと、教えて」
私がそう言うと萃香は顔地に戸惑いの色を見せ、すぐにと笑う様を取り繕った。
「う、ん。そっか、今の紫はそれが始めに口から出るのか。そっか。てっきり結界のことを聞かれるかと思ってたよ」
「すべて聞かせて」
「どっちから話そうか」
「巫女のこと」
私のその言葉に萃香はまた少しの苦笑を浮かべてから色々話してくれた。
人との鬼ごっこの最中に神社で巫女と偶然出会ったことや、巫女に扇をあげたこと。
巫女には既に身寄りはなく、その身に宿す不思議な力のせいで小さい頃から人の知り合いなど出来ずにいたこと。
巫女自身は人に興味はなく妖に惹かれる性格で、だから小さいうちは危なっかしくて萃香がそれとなく力ある危険な妖から遠ざけていたということ。
色々私に話してくれた。
それを話す萃香の顔は、人と交わりを持つことを良しとする鬼らしい砕けたそれで、けれどどこか、全てを良しとするには余りに素直に過ぎるという憂いの色を匂い立たせる機微があった。
伊吹瓢箪がちゃぽりと萃香の口へと吸われた。
「結界の話を最初に出したのは巫女の方さ。私がうっかり紫の人となり、ん?妖なりを口から滑らせて巫女の耳に入れてしまってね。そしたら、それから八日ほどしてここへやって来て私に話し出したのさ」
萃香のその言葉に私は言葉をつなぐ。手に取るように分かるおよそ巫女が話したであろうことを口から長々と零す。
「龍脈をまるごと取り入れる範囲に陣を敷き、私を審神者に龍神を降ろす。そしてかの神の霊験威光をそのままそっくり龍脈に宿して地の霊脈と天の霊脈を一時的に一つにする。巫女を流し雛、ひとばしらにして実体と幻の境界を私の力で作って括れば国生みのまねごとが完成する、まるで天のぬぼこをつきたてるように。こちらの世界のくびきはそのままに新たな天地の世界が生まれる」
私が淀むことなくそう言い終わると、萃香が合いの手を入れてきた。
「そこは私が説明するまでも無い、か。だったら私から結界に関して紫に説明することはないかな」
「後ろの巻子本はその類の物なのかしら?」
「そうだよ。構築式から何から古事記まで調べたさ」
巻子本へ顔を向ける萃香のその目は悔しそうでいて、散らばったそれは今見るとまるで萃香に投げ捨てられたからそうまで散らばっているかのようにさえ見えた。
「悔しいね、紫。何をどうあがいたって境界を括るなら巫女は命を差し出すことになる」
萃香の言葉に私は言う。
「こちらの世界は清廉潔白に過ぎて」
萃香は言う。
「私たちにとって穢れている」
風がそよぎ、鳥が鳴く。ひととき
典雅を誇り、覚えめでたき人の世に、かそけき妖寄る辺なし。
そうなることは避けられないのだと一人の妖として私は思う。
きっと巫女もそう思ったんだろう。
容易にそうだと思い至った。
「こちらに居ることは既に私たちにとっては穢れ、緩やかにまわる
「そうだね紫」
「だからハヤサスラヒメがそうしたように、巫女が流し雛となって穢れを流して祓うのよ。巫女はそうしようとしてる。新しい世界にこちらの穢れは持ち込めないから、私たちがそこへと至れるように。水に絵の具を垂らすように境界に気質を、色になる。彼女の気質が境界を縁取るまじないになる」
「人の巫女にしか出来ないんだろうね、紫。コノハナノサクヤヒメに色濃く繋がりを持つ人間にしか、その恩恵を受けない私たち妖にはそれは出来ない。私たちは自ら咲き誇る色を持ち得ないから。私だって人が居なけりゃ鬼ごっこのしようもない。この世界は結局の所やっぱり人の根付くところなのさ、その
萃香が人差し指で掬い上げるように空を掻けば、彼女の正面にある御簾がひとりでにその幕を開けて外の景色を映し出す。そうすればそこには見える昼の月。昼間にあってなお輪郭を現す白夜月とも死んだ月とも言えるそれがある。
そして、場違いのように昼から浮かぶその
「イワナガヒメはいつも空でひとりぼっちさ。月は自分じゃ輝けない、いつだって誰かが居ないと誰かに見つけてもらえもしないんだ」
石の寿命を持つイワナガヒメ。場違いのように昼の空に浮かぶ月を同じく寿命の長い私たちと重ねるのなら、やはり私たち妖は人の世で。
萃香はそんなことを考えていたのだろうけど、今の私にとってそんなことは心に留め置く意味をさほど感じられないことだった。
それよりも。誰か、そう誰かでありさえすればいい。
そんなこと、無いと戯れだと、長く生きたゆえについた智慧が私の中で冷たく心をせき止めた。
心のまま振舞う前に挟み込まれる
情からいずる妖が妖ゆえに見通して、そして心は発露の前に仕舞われる。
なんて皮肉もいいところ。
私達には変化が少ない。
見通せるから、分かるから、結末が見えてだから夢幻の十四に心馳せない振舞えない。
見えなければいいなんて、そんなこと今更思うなんて。
愚かしいって見えているって、けれど私は
「他の巫女を使えばいい。彼女じゃなければ他はどうだっていい」
言いたくなってしまった。
零れるように部屋へと落ちた私の声は萃香のしめやかな声と形を変えて返ってくる。
こちらを憐憫の籠もった目で見据えて瞬き一つ、萃香の瞳が流された。
「彼女が生きているうちは博麗の巫女の代わりなんて見つからないさ。彼女の気質は一人類い希だから。必要になった時だけ必要な分の一人がまたどこかに出てくるだけさ」
息を呑む。いつか巫女に見せた蓮の花のように目が開く。
私は刹那の時の中、萃香の言葉に何も言えなくなった。
必要になった時だけ、必要な分。
萃香の私の怒りをわざと掬うその物言いに、私はそれが分かっていてなのにどうしても我慢がきかない。心が、嫌だと帖紙を破る。
「巫女なんて他にだってどこにだって有象無象が立ち生えて居るのに!なのに、どうして彼女なの!」
五指でざりと畳を掻いた。
そんなこと、私だって本当は分かっているのに、それでも吐き出さずにはいられない。
「博麗の言霊に耐える彼女の気質が境界に必要なのは、紫も分かってるだろう?」
「萃香は私より巫女と長いのに、それで何も思わないの?」
何て醜い、萃香だって思うところが無いはず無い。だっていうのに今の私は所構わず感情の棘を突き刺している、まるで孤独な
そもそも彼女を霊媒に出来るかもしれないと自分も最初に考えたではないか。
すればその時、
「ゆかり」
優しい声が聞こえたと思えば傍に来て、小さな体躯の伊吹萃香に私はぎゅっと抱きしめられた。
ひらひらと揺らめいて私の輪郭を隠す役目を仰せつかっている衣服が、萃香と一緒に私の身体に張り付く感触がした。
耐えれなかった。
「…………巫女を失くしたくないの」
「うん、紫。私もだよ」
堰を切った感情はもう自身ではどうしようもなくて。
あー、あーと、私は萃香に縋ってひとしきり泣き腫らすしか出来なかった。
博麗神社の鳥居の下にすきまを開く。
ぬるりと私はそこに立つ。
茜差す柔らかな陽射しが神社の屋根を淡く染め上げていた。
斜めに地を這う鳥居の影が先に向かって細くなりゆくその様はどこか引き伸ばされた人のようにも見えて不気味と映る。
それを越えて私はさんと踏み出した。
鳥居は境、おちこちをいずくかに分けうるそれを踏み越えてなお私の喉は渇きに惑う。
そこかしこにいずらめすべらかと巫女の残り香が私を誘い、早鳴る鼓動とその呼気は妖そのさが言祝ぎならずにひがことなりとのそしりをまぬかれようはずもない。
あぁだってこんなにも喰らいたい。
巫女、巫女、巫女。
あぁ、あぁ、こんなにも。博麗を喰らいたい。
私で括ったこの神社、人の目には見えねどそのいわけなき身のはしばしに感ずることの出来るだろう程に密度を濃くした私の妖気に人など決して立ち入れない。
けれど、喰らえばきっと失くなってしまう。
いや、いや。それは嫌
あぁけれど我慢の効きようも無い。
場所を離した萃香の家では我慢のしようもあったけれど、この場でそれはもうどうしようもない。
水面に落ちた帖紙が水気を吸って沈みゆくように、私のこころばえもただ喰らいたいというそれに染められて息の出来ないほどに手繰り寄せられそうして溺れた。
けれどそんな私の爛れる妖としての情は、
「あ、帰ったのね八雲。おかえり」
という巫女の声一つで微かに祓われた。
巫女はほこほこと陽射しの似合いそうな穏やかな顔で笑っていた。
神社の中からでは無く、横合いの木立から出てきた巫女はきっとどこかに出かけていたのだろう。
「ん、どうしたの八雲?顔色悪いわ」
そんなことを言って呑気に巫女は私に近づいてくる。
この巫女はどうしてこう私に接することが出来るんだろうか。巫女であると言うのなら私で満ちるこの場に何か気色でも変わっていい筈なのに。
分かった上でそれでもその態度を装っているのなら役者もいい所なのだけれど。
それよりも喰らいたいという欲求に染められた妖に自分の方から近づいてくるなんて。
なんて無防備な巫女なのかしら。
喰らってしまっていいのかしら?
そうまで私が考えていると巫女が私の前までその徒歩を進め終えていた。
「どこへ行っていたの、巫女?」
「ん?この前の枯れずのひまわりを見てきたのよ。人に何かされないように意識の結界を張ったの。八雲、きっと彼女は妖になるわ」
そう言って巫女はまた最初に妖の萌芽を見つけたときのようにあたたかに笑う。
その顔がこころの花弁の最後の一枚をはらりと散らした。
あぁもう、だめ……。
「八雲?」
彼女の細い腰を抱いて引き寄せた。
私の薄く開いた口は息を吐きながら、ゆるゆると閉じてはひらいてを繰り返していて今更に戸惑う。
けれどあぁ、視線の下には巫女がいる、人がいる、私の腕におさまっている。
「っ、は、はぁっ、は」
「やくも?」
巫女が視線を向けてきた。答えられない。
「ふくっ、うぅ」
寒さに凍えるように歯を打ち鳴らし、そして私はようやくの思いで巫女にかけた腰から手を離す。
腰布から指先の離れる感触に尾を引かれた。
すると私のその一切を見ていた巫女が非難でも悲哀でも恐れでもないただ映る瞳それだけを私へとつと向けてきた。
「そう、喰らいたいのね」
「ちがう」
私は否定出来ずに弱くうなる。
そんな私に巫女は言う。
「八雲、いいのよ。妖はそれでいいの。今全てとは言えないけれど、私の血でよければ八雲にあげるわ。啜り、そして喰らいなさい」
言うと巫女は肩口の衣服をずらした。いつも以上にそこの露出した彼女の首筋、そこに私は目を奪われた。
だって、だって今、良いって言われた、私言われた。
呼気が惑う、こころに惑う。
「は、はぁっ、はっあぁ。うぅ、ふぅっ、ふぅうう」
「はやくなさい。八雲ほら、はやく」
怯えも何もない穏やかな巫女の声が私の耳に聞こえてきて、
耐え切れなかった。
「ぐうぅ、ふうぅっ。がぅっ、、うぅ、う」
喰らいついた。
何も分からず、訳も分からず前後不覚にただ血だけを貪った。
そしたら巫女の声がする。
「そう、そう。それでいいのよ、間に合って良かった」
そっと優しく頭を抱えられる感触がした。
両手で抱きすくめられて彼女の身体を密に感じる。
昏い情念に捉われる最中にあって、そこだけが優しく温かで心地良い。
彼女の血よりも何よりも、触れて抱きすくめられたそこから、身体の中が浄化されゆく気持ちがした。
それから数日、巫女は日月神示と睨めっこして外へは出ず、私もそれとなく巫女の近くに居るようになっていた。離れるのが怖くなったといってもいいかもしれない。
巫女が日月神示を見ている理由は結界に関しての下準備だと分かっていたけれど、私はそれを止めようという行動をどうしても起こす気にはなれなかった。
私は妖怪の賢者としてその側に立ち先を案じて手を打つということよりも、ひとりの妖としてその帖紙を破ったのかもしれない。
十五夜の満ちる月はそこへ辿り着いてしまえばあとは欠けていくだけ。だからいっそ欠けてしまえば良いと私は思っていた。世にある私たちが世によって緩やかに衰退するというのなら、もうそれに抗うことなんてしなくていい。
今すぐ妖が全て息絶えてしまうという訳でもない。それに私一人や目に見える範囲の数さの者たちだけならなんとかなるような気がしていた。
どちらにせよそれに対して考えなければいけない時も今ではない。
まだ、大丈夫。
結界を結ぶのだって結局の所は私が境界に干渉しないかぎり達磨の右目はその墨を入れられよう筈も無い。
だから、だからこのままでいいと私は思う。
それは淡い戯言だと分かってはいるのだけれど、思う自分に逃げ込んでしまう。
私がそんなことを思っていると、鳴子の役割を果たしている結界が踏み越えられた気配がして、それは隠す気もない鬼の匂いだとすぐに分かった。
きっと萃香が神社へやってきたのだろう。
日月神示に目を落とす巫女を残して、私は鬼の気配がする遠くの廊下へと足を伸ばした。
「いらっしゃい萃香。今日は何の用かしら?」
どうせ私の妖気のことなんだろうと私は思う。
「紫、すごい妖気で博麗神社に近づけないって人間達が騒いでるよ」
きゅぽんと音を立てて伊吹瓢箪から口を離し、伊吹萃香がそう言った。
ほら、やっぱり。
予想に適う馴染みの友からの親切心に私はだけれど興味を持てない。
萃香をよそに神社のひさしで日を浴びて、腰を落ち着け庭を見渡す。
ひさしから落ちて私に映える鮮やかな影も、庭に自生する木のそれも全てが私に心地良い。
私にとってどんな枯山水よりも染み入る庭園のようだった。
すると取り合う気のない私のその態度に萃香は「あー、とだな……」とばつが悪そうな声で喘いだ。
「紫、確かに今の神社の周りは紫の気で満ち過ぎてる」
もう少し警戒を解いてもいいだろう?と萃香は言いたげだった。
その言葉に私は心の奥で種火がくすぶるような苛立ちを覚えてしまう。
だって一体どの口の人間がそれを言うというのだ。
彼女の扇と住処の神社を荒らしておいて、それは幾らなんでも虫が良すぎだろうと私は憤る。どの個体がそうだとは分からないけれど、人のその差異を個々に認識して分けてやる気には私はなれない。
だから、私は分別無く矛先を眼の前にいるこの友へ見当違いに向けてしまう。
人と交わりを盛んに持つのが好きなこの鬼に、人間の影を重ねてしまっていたのかもしれない。
「ここへ参拝になど来ることなく、平静は神社自体を忘れているような輩の癖に随分と身勝手なことを言うのね、人間は」
人間は、とかろうじて最後につけて私は萃香へ自身の身勝手な怒りをぶちまけてしまう事を何とか踏みとどまった。
そもそも妖気以上に結界を張っている限り人間等ここへ来れよう筈もない。
けれど私のそんな言葉に萃香は特に気分を害した様子はなく、しばらく神社の周りの景色にしみじみと目をやった後で飄々とした態度で言葉を告げてきた。
「ま、どちらにしてももう雨さ。人との義理は一応果たしたから私はこれで退散するよ。また会うときもどうか健やかに、紫」
なんて言ってあっさり引いてみせたのだった。
翌日から天気が機嫌をそこなった。
外では
部屋の中は心なしか湿り気を帯び、畳は微か乾いている。
ひさしの廊下へ目をやれば張られる板がやけに締まって見えて冷たそう。
外は雨音、中は静。
向かいで日月神示を膝を折り曲げて読み耽っている巫女の手が湯飲みへ伸びた。
「雨ね八雲」
「そうね」
「そろそろね八雲」
言外に決行の時が近いことを匂わせて巫女が言う。
私はうそぶく。
「冬至ならまだ先よ」
巫女がこくりと茶を飲んだ。
見れば崩れたようなそうでないような形容しがたい顔を巫女はしていた。
けれどそんな顔はすぐさまと色を引っ込ませて巫女は言う。
「天の龍脈が泣きを始めたのよ。八雲なら分かる筈よね?」
「ただの雨よ、考えすぎは体に毒よ。きっと明後日にはやんでるわ」
私の言葉に巫女は湯飲みの湯面へ目を落としていた。
「ねぇ八雲、龍神の凶兆よ。このままだといずれ」
幕を開ける決定的なそれを言おうとする巫女を私はいやと話の終わりを告げるようにして言葉を挟む。
「お昼にしましょう。今日は私がふるうわ」
「八雲……」
立ち上がって背を向ける私に掛かる声は、とても細く、そしてとても甘かった。
頭の中にいつかの巫女の『終幕まで期待が持てる程度には』という声が聞こえた気がした。
翌日になっても雨は当然やまなかった。
巫女はあれからその話はせずに日月神示に目を通したり、新しく書き加えるなどして筆を滑らせ過ごしていた。
私と巫女に特に会話といっていい会話はなく、ただ音のない部屋に雨音がしめやかに聞こえてくるだけだった。
いつもの様に一日過ごし、そしていつもの様に巫女と寝所を並べて眠りについた。
そしてまた翌日、雨はその勢いを増していた。
神社のこけら葺きの屋根や地に敷き詰められた砂利に染み渡ると形容出来るそれではなく、いっそつぶてのような雨音が幾千を越える雨筋となって四方八方降り交じっている。
地面へ降り落ちたそれは砂利にあたれば砂利をはじき、木へ降ればその葉をはじき、岩にあたればそれに穴でも開けるつもりなのかと問いたくなるような勢いだった。
そこかしこで水たまりがその面を広げ、どこから何処までがそれの境と言えないほどにつらを成したつ景色の見ばえ。
ここからは窺い知れないけれど、神社へ登る鳥居の階段ではきっと覆われたように水が上から下へと流れていることだろう。
あぁ、龍神が怒っている。
そんな中で私は出涸らしの茶を入れた湯飲みを手に持ち縁側と廊下の境で外を向いてとかりと座り、巫女に対して背を向けていた。
その巫女もまた私に目を向けることはなく、畳に腰を落ち着けて膝を抱えて片手は日月神示という格好で視線をそれに落としていた。
そして、頭上でわななく雨音に雨漏りの心配でもした方がいいんじゃないかしらと私が思ったその時ひとひら巫女が言う。
背中にしんと声が張る。
どこか遠慮がちな口ぶりだった。
「八雲、幕間の時間はもう終わりよ。演じきって幕を降ろさないと」
巫女の言葉、けれど私は取り合わない。
「いやよ。いいじゃないもう、いいのよもう」
振り向き、巫女を流し見た。
すると私のその言葉を聞いた巫女は外は雨だというのにも関わらず、雨よけも持たずに部屋から廊下へ、そして私の横からとんっと軽やか外へ出た。
そうすればすぐに巫女の身体が濡れていき、紅白の白の部分は灰色に、そして赤の部分は
背中しか見えなくて、だから私は声をかけた。
「風邪でも引いてしまうわ。戻りなさい、巫女」
けれど巫女は私の言葉を聞かずにその歩を進めて遠くなる。
私も濡れ立ち巫女を追う。
どこへもいかないで
それでいいのに。
「巫女」
背中へ問い掛け声は静かに雨に落つ。
歩筋はしとやか地を渡る。
一身ひと掻きの距離の背中に、手は伸ばさずに声を掛く。
「止まりなさいったら」
二度三度と呼びかけそれでも二の矢は私に返ってこない。
妖が人を追う、どこか不思議で、正しいけれど、どこかおかしい鬼渡り。
雨の中、背中を追いかけいくらか歩いて気付いた時には、鳥居から賽銭箱の浜床まで連なる石渡りの上にいた。
「巫女」
「最も色濃い妖の在り方について」
不思議に雨音弱く巫女の言葉はよく聞こえ、ようやく私に返しが飛んだ。
けれど答えたというには随分と突き放された、私と交わすつもりのないその言葉。
神託のように、こちらからは及ばない意思を言挙げするようなその巫女の様。
巫女は私に背を向けていた。
そして彼女はいつの間に手に持ったのか、おおぬさを祓えよろしく振り払う。
雨の中で確かに音が鈴でも鳴るかのように
「かしこみかしこみ」
それが降神に身をいれる
「審神者の真似事なんてするつもりはないわ」
けれど私の言葉に巫女は耳をかさずにやれとのる。
「言やめて 草の片葉も 陽にのびいかな。
「言わないわ、無駄よ。いやよ、部屋に戻りましょう巫女」
「八雲の在り方が色濃くてよかった」
巫女から聞こえた私と交わすつもりのないその言葉。
そして彼女は俯き声を出す。祝詞を、私にとっては呪いのそれを巫女の口が呟いた。
「二重結界。血ばしら咲き縛りなさい」
「ぁ」
彼女のその言葉に急に意識が揺れてふらつき遠のいた。
逆巻くように心の臓からわきあがり内へ、手足の一つも私の支配下になく言うことを聞かない。
彼女は俯き、背を向けたまま。
「何、これ?」
やっとの思いでそう言った。
身体の自由はきかずに、意識は思考を許さない。
言葉を発しようと集中すれば意識に血が糸となって絡みつき、それを引きずり下ろして形にならない。
もがいてももがいても私の血とひとつになった巫女の血には、水を以って水を救うようでただの徒労。
そんな私に、逆らいがたい巫女の声が耳と意識に二つ重ねて入ってくる。
巫女の言葉が強制力を持って私に降りてくる。
「ごめんね八雲。貴女の中に私の血が交じってるから、そこから貴女を縛ったの」
「やめ、て」
これから巫女がすることなんて分かってる。
そんなの決まってる、天を降ろすに決まってる。
龍神など彼女に降ろしたくない。そんなの彼女が耐えられる訳が無い……。
「さぁ八雲、私に龍神を降ろすのよ。幻と実体の境界を境芽吹き、かの神の怒りを鎮めなきゃ」
「ぃ、ゃ」
やめてと言葉にしようとした私の意識は、巫女の凛とした声に阻まれた。
「とく唱えかし、八雲の紫」
やめ、いや、いや、いや!
いや……。
「いざや、きたれ、龍神」
私の口は、意思に反して音を繋いだ。
「ありがとう、八雲」
振り向いて、見れば綺麗に巫女は笑って、瞬間彼女は彼岸花のように血を咲かせた。
くすんだ朱の鳥居を背後に紅白の巫女から鮮やかと赤が舞う、線をなす。
目蓋に焼きつくその光景は、まるで筆で描いた一枚絵のようにそれだけを世界から切り取って、私にはそれから巫女が地面へ崩れ伏すその様までがとわにも思える時間の流れに思えて息さえ出来ない。
嘘みたいに動けるようになった身体を走らせ、倒れる彼女に近寄った。
身体を抱えた。
言葉が聞こえた。
「ごめんね八雲、私ほんとは始めから貴女のこと知ってたんだ。境を意のままに見通して、算術の式でそれをも操る妖怪の賢者さん」
知ってる、それは知ってる全部知ってる。萃香が私に教えてくれた。
言葉が音へと形を成さない。
口を開くことさえままならない。
私は何を言えばいい?
「その力が必要だったの。一つ世界を
何を言えばいいのか分からなかったけれど、訳も分からず開こうとした口を彼女の声が遮った。
「それが出来れば、そしたらそこはきっと良いものになるわ。きっと妖も人も全てを内包する郷になる」
「けどそんなことをしたら貴女が」
言霊に色濃く依る彼女の気質を、境界の力でもって剥落するというのなら、それはそのまま彼女の存在が亡くなることを意味してしまう。
「ねぇ八雲、聞いて。聡い貴女なら分かっているだろうけど、妖にとって今の、これからのこちらの世界は、清く澄み過ぎている」
分かってる!そんなことは分かってる!
こんなことをしている間にも、みるみる彼女から血が流れていく。
ただの傷であれば、すぐにでも血を止められるのに。
賢者と呼ばれようとどう在ろうと、所詮私は一人の妖。爆ぜた内腑を治せよう筈もない。
それに彼女はきっと止まらない。
止まらないからこうなった。
だから、私は言葉を漏らす。
「……そうよ。人によってこの世の
「取り戻してあげる、八雲の好きな世界を」
「だからって」
「優しく流してね」
血の気のない顔で彼女は笑った。
「八雲のその力は、その為に生まれたのよきっと」
要らない、……だったら
だったらこんな力もういらない。
数を従える力と境界をはしばむ二つでひとつの私の力。
この力が貴女の命を奪うのに必要だと言うのなら、その為に生まれてきたと言うのなら、 だったら、だったらこんなものはもう要らない、耐えられない。
「駄目よ紫。妖が自分の事を否定しちゃだめよ、自分が自分でいられなくなる」
紫と呼ばれた。
頬に彼女の体温を感じた。
とても優しく暖かく、血の通っていて狂おしい人の手だ。
「あ、そうだ八雲。これ八雲が発案して結界張ったことにしておいて」
そんな本当についでに思い出したみたいな風に言って、今にも命の消えそうだっていうのに一体何を……。
「この世界は妖の為の、彼女たちの世界だから。その始まりは、やっぱり妖として記録に残さないと、人だったなんてきっと妖は受け入れてくれない」
「そんな……」
どうしてそこまでといつかの押し問答の様な言葉が声に出かけて飲み込んだ。
あぁそうか、これが彼女の博麗の言霊に耐えうる性分なんだ。
きっとそうなんだと、すとんと胸に落ちたけれどそれだけではもう私は止まれない。
「それで本当にいいのかしら?」
精一杯に笑い顔を作ろうとして、泣き顔のように歪んでいるのが自分でも分かる。
それに彼女の答えはもう分かりきっている。
妖が好きだと、惹かれていると言った自分にここまで嘘のない彼女。
だから彼女はきっとまた妖が好きだからとでも言うんだろう。
「んー、何でかな。誰に覚えてもらっていなくても、八雲が覚えていてくれるならそれでいいかなって、そう思えたからかな」
ほら、だってここには八雲がいて実際知っているでしょ?何て彼女は軽く言っていた。
この世界をよろしくね、とも。
ずるい。
「何て自分勝手な巫女なのかしら」
彼女が自身の想いへ殉じ、それを私に託すと言うのなら。
彼女が私に憶えていて欲しいと、ただそれだけで良いと願うのなら。
だったら、だったら私も殉じよう。
八雲という名の言霊に、紫という名の縁の綾へ。
きっと私は殉じてみせる。
八雲立つ 幻想八重垣 --籠みばや 八重垣作る その八重垣を
ぱくんと境の淵を開き、あっけなく彼女は私の腕の中で事切れる。
彼女が境界に溶けていく。
ぱたんと冊子の扉を閉じた。
表面上はあっけらかんと、
「なるほどね。博麗の言霊に耐えられるかどうかで紫に私が選ばれた訳か。うーん、もうちょっと早く歴史に興味を持てば良かった」
一瞬瞳に浮かんだ情の雫を流すまいと気を張って、霊夢は誰にともなく
「ったく、あの、馬鹿スキマっ」
博麗神社を飛び出していた。
霊夢は思う、紫の過去は分かったけれど、じゃあ宴会で幽々子のお墓を訪ねていた紫はなんなのかと。
行く道先は決まっていた。
九つの尾を持つ紫の家族のその
問い掛ける言葉は背中から。
庭先で一人佇んでいた八雲藍に博麗霊夢の声が飛ぶ。
「聞きたい事があるの」
「紫さまならずっと戻っていないよ博麗の」
「宴会で私に道標の提灯を半分渡す真似をした貴女に用があるの」
藍は霊夢に視線をやることもなく、来るのが分かっていたというように声を返した。
いつもの様に布広の袖中へと両手を隠した八雲藍の落ち着きはらったその様子。
博麗霊夢はそんな八雲藍にけれんみを効かせた言葉を返す。
そんな言葉を受ける藍はけれどやっぱり意気自如として落ち着いていて。
その様はまるで、霊夢が訪れることを起こり得る一つの選択肢として予想していたというよりも、既に起こった出来事として先に見てきたから分かっているというようだった。
そして、そんな霊夢の呼びかけに藍は振り返って。
九尾の式の尻尾が九つ、ふわりとたなびき左右へ揺れた。
「紫さまの式として答えられる範囲でなら」
「紫と生前の幽々子のこと、私に教えて」
「何故それを?」
八雲藍の落ち着き払った態度から出る、霊夢の中の答えを探し導かせる道士めいたそのの言葉。
霊夢はその問い掛けに聞き入るよりも先に、紫の気質というか性質がしっかりと藍に根付いていることを感じる。
そう考えた後に霊夢は藍の聞きたいだろう答えではなくて、自分の思いを素直に告げた。
それは紫にだけとっておきたいと言うかのように。
「ただの勘よ」
「うーん、私が聞きたいのはそういうことじゃないんだけどな。それにしても博麗の巫女がそんなことを気にするなんて思いも寄らなかったよ。巫女は誰にでも、何にでも深入りしないものなんじゃ?」
霊夢の答えに今までの試す態度をすこし崩して藍は目を細めていた。
そんな藍に霊夢は言った。
「知らないわ。私は私よ」
藍はその霊夢を目を細めてしばらく見た後、言葉を繕う。
「紫さまが生前の幽々子嬢に惹かれていたのは確かだよ」
「だったら何で」
幽々子は亡霊に何てなっているのか、そんな言葉が出そうになってすんでのところで霊夢はこれを飲み込んだ。
藍が不思議に目を閉じて霊夢の言葉に応えていた。
「きっと幽々子嬢が人間だったからだろうね。彼女の力は桜に依っていたし、何より咲いては枯れて散り生き急ぐ、そんなコノハナノサクヤヒメの恩恵を、色濃く受けていたようだから。それは寿命のかげろう人間のもっとも強い表れ方だから」
手と腕を服に潜めて目を閉じ話す八雲の藍のその言葉は、確かに霊夢の言葉に応えたものだったけれど、それはどこか過去見てきたものを自分に言い聞かせる慰めのようにも聞こえた。
「だから紫は幽々子に惹かれたの?」
「幽々子嬢の最期は自尽だったけれど、紫さまは薄々そうなる事に気付きつつそれを止めはしなかったよ。何よりあの頃の紫さまは何故かひどく不安定でいらっしゃってね、私にもその訳は分からないんだ。すまないね博麗の」
嘘だ、少し
紫さまの為にそこは話すつもりはない、何故かそういう風に聞こえて霊夢には藍が意図的に嘘をついているように見えた。
だから霊夢は脳裏に浮かべる、自分が視てきた八雲紫を、自身の知り得る紫の姿を。
時には蓮っ葉、時にはいたずら、聡く賢しら深謀遠慮。
萃香は言った。
『ううん霊夢、それは違うよ。あの子にとってそれが隠している事になるんだ、なまじ力があんなだから見えづらくなっているけれど、そうすることでしか甘えられないんだよ昔から』
人に触れたい癖に先の巫女のことがあるからそう出来ない。
隠そうとする癖に、さも見つけて欲しいと言うかのような場所へ隠す。
レミリアは言った。
『割れる器は、メイドに限らず誰だって見たくないものだろう?霊夢』
落とした器が一度は割れなかったとして、二度目もそうかは分からない。
熱に浮かされ急激に冷やされる変化をそうそう何度も耐えられない。
妖怪は身体的なことより精神的なことの方がより傷が深いから。
だからきっと幽々子は二度目だったんだろうと霊夢は思う。
霊夢の
彼女の言うことは何でも正しい。
「そう、紫は生前の幽々子を亡くす事になっても、冥界で、亡霊として幽々子が在り続けることを願ったのね」
目を閉じ、誰知らぬ顔で霊夢の口から声が漏れる。
そしてこれに藍は、思わぬ所で隠していた油揚げを見つけられてしまった、みたいな顔をした。
「いやはや、恐れ入ったよ。本当に博麗霊夢の言う事には驚かされる」
「隠すようなことなの?」
「私は紫さまの式であり、私自身あの方を好いているからね。博麗の巫女に紫さまのそういう昏い感情を知られたくなかったのかもしれないし、もしかしたら紫さまが知られたく無いと感じているからこそ、式として私も無意識に隠したのかもしれない」
「私は紫が誰をどう想っていようと気にはしないわよ」
「巫女がそう思っていてくれても、紫さまはきっとそうと信じられないんだよ。他の者の前では口が裂けても言えないけれど、紫さまはああ見えてそういう事にはひどく臆病なんだよ」
そこまで言うと、藍は砂利を踏み鳴らす音をさせながら人が寄りかかれる程には大きさのある
さらさら流れる短めの金糸の髪と頭をこつりと景石へつけていた。
袖で両手をつなぎ隠している藍の格好は、身体を支えるには不安の残る儚さのようにも見えて、寄りかかる姿はその印象をさらに輪郭深くしていた。
端整の整った藍の顔は、はっとするほどの切なさと焦がれる優しさが見て取れる妖狐のそれだった。
そして霊夢が目を奪われた葉でも舞い散るすこしの時間に藍が見せたその表情は、すぐにと戻され身体も戻して藍は言う。
「詳しく聞いてはいかないのかい博麗の?」
「待つわ。紫が話してくれるまで、私に話したくなるまで。それくらいには私は紫を信頼してるもの」
「それは……、そうだな。それは、直接紫さまに聞かせてあげたい言葉だよ」
少し言葉に詰まった藍の口調はそれでも静かで、瞳には羨ましさとも悔しさともどちらとも取れる色が混ざり宿っていた。
「ねぇ藍、最後にひとつ聞きたいんだけれど」
「紫さまの式として答えられる範囲でなら」
「八雲藍は八雲紫の式であなたも式を作れるのよね?」
「うん、私は紫さまの式だし橙も疑いなく私の式だよ」
「解った、ねぇ藍?」
「うん?」
「応えてくれてありがとう」
そう言って霊夢は両の手を下腹部あたりで繋げ、精一杯の感謝を込めてゆるりと巫女らしい所作で頭を下げた。
藍に頭の上を見せそうして数秒、
その背を見て藍は霊夢を呼び止めた。
「あぁ、博麗の」
「どうかしたの?」
「紫さまをお願いします。あの人をどうか支えてあげて」
最も近くで長く式として主を見てきただろう自身の想いはよそにやり、藍は言う。
霊夢の心からの礼に応えてそう言って、自身もうやうやしく
藍と霊夢、そのどちらもが紫を想う心に変わりは無い。
心を刺される痛みや今は届かない願いがあったとしても、それはきっと誰かに焦がれているからこそということだから。共に在るからこそ生まれるものだから、それは決して藻屑にならない。もやいの紐は確かに自身とその感情に結ばれているのだから。
「博麗でなく、私が私として出来る範囲でなら。例えこの身をやつしても」
その言葉に、紫が帰って来たら温かいごはんでも用意して橙と一緒に迎えてあげてと霊夢は穏やかにひとつ本心を付け足した。
霊夢は博麗神社へ出戻って、一人静かに思案する。
紫を呼び出すにはどうすればいいか、それに頭を悩ませていた。
博麗の結界を緩めればひょこっと出てきそうなものなのだけど、と霊夢は思って、頭に浮かんだその考えをすぐに消す。
「流石にね」
もうそういう気持ちにはなれないとそう呟いて、霊夢は昔に結界を緩めていたずらに紫を呼び出したことを微かに悔いた。
もうしないでおこうとその思いを胸の小箱にそっとしまった。
そして霊夢はそれをしまうついでと記憶の小箱をあけ開きつぶさにことを思い出す。
緩めたそのすぐさまと横合いから飄々とした様子で紫はすきまを開き現れて、これこれ霊夢と軽い口調でたしなめられただけだったと霊夢はその時を
それは確かにあった紫との思い出だけれど、紫の心を知った今の霊夢は少しの悲しさと少しの、ほんの少しのささくれ立つ思いを感じていた。
唇を噛んで少し俯き霊夢は言う。
「なによ紫、こんなのもっと私に怒ってもいい筈じゃないのよ。大切なんだったらもっと声を荒げて怒りなさいよ」
全部自分にしまい込んで分からないように飄々とするなんて、そんな紫を見たいわけじゃないのに。なのにやっとの思いで抱えて隠しているなんて、そんなの。
自分が想うほどには紫が許してくれる感情が少なくてと、霊夢は紫の心に触れられるまでにはそれを許されていないことが少し悲しくて少し心にささが立つ。
噛んだ唇から流れるひとすじの血が濡れて、声がひとつ霊夢へかかる。
「血を流すなんてもったいない、私におくれよ博麗霊夢」
「レミリア」
静寂を
背から飛びつつレミリアは霊夢へ腕をまわして抱きつく仕草。
それに霊夢の足が少しの重さに砂利音となって、ひとつふたつと地を撫でた。
そんな霊夢にレミリアは口を開いて耳もと一声。
「血、貰ってもいい?霊夢?」
その声にぞわりと毛の逆立つ感覚を霊夢は覚え、じっとりとした目で紅い悪魔をその目で見やる。
見れば紅のリボンを設えられたナイトキャップがレミリアの顔に影を落としていて、そのレミリアは言葉の軽さとは裏腹にひどく真顔、そして影落とされたその面から猫科のそれを思わせる紅い縦長の瞳孔が
「どういうつもり?」
「紫を探しているんだろう?良い頃合だよ、そろそろ私に血をくれてもいいんじゃないかい。だってこんなにも霊夢の血は紅いんだから」
謎かけめいたそれでいて少し思考を巡らせれば筋のでたらめなレミリアの言葉が霊夢へ飛んだ。
指先が霊夢の下唇をひと舐めしてレミリアは手につく少しのそれを自分の舌で舐めしたる。
唇に触られている間も霊夢は特に抵抗という仕草は見せなかった。
ただレミリアの手つきを受け入れて、彼女が自身の血を口に入れる姿をただただ見ているだけだった。
こくんとレミリアの細い喉が鈴鳴った。
「ん、人の血はあたたかいね霊夢。昔人のどこかの誰かが秘すれば花とはよく言ったもの」
そういうとレミリアは霊夢に縋る腕の力を小さじひとふり程度に強くする。
人の血はあたたかいと言ったレミリアの少し焦がれたその言葉はきっと私に言ったんじゃないんだろうなぁ、咲夜なんだろうなぁと思って霊夢はだから言う。
「私はそうは思わないけどね。秘すれば花、そうねそれは確かに匂いたつ薬味のように秘めやかと人を誘って惹きつけるわ。でもそれはきっと見所から舞台上の誰かを見ているだけよ、それじゃ演者の心はずっと一人じゃないの。そんなの私は嫌よ、そんなの、同じ場所に立って、伝えて、心通わないと、私は嫌よ」
霊夢が自身に言い聞かせるようにそう言うと、レミリアからぽつりと声が漏れた。
「人はやっぱりあたたかいね、良かったよ」
こつりとレミリアの頭が霊夢へ触れて、すぐさま離れ、綿毛の飛ぶようにレミリアは霊夢の正面へ立つ。
年相応ではないけれど、外見相応のそれで後ろ手に両手をまわす紅い悪魔は霊夢を見上げた。
「それじゃ霊夢、血、ちょうだい」
なにを一体と口を開こうとした霊夢の言葉をレミリアの言葉が遮り塞ぐ。
「ほら霊夢。私の背のほうで紫が見てる」
「えっ?」
「いただきます」
ほんとう?と霊夢が思い首を降り、一人そこに立つ紫を見つけた首筋あらわとレミリアの皮裂く犬歯がつき立てられた。
「ぁ、つぅ」
身をよじる霊夢と、紫へ向かい見せ付けるように三日月と口の端を吊り上げるレミリアスカーレット。
それを見て一歩二歩と後ずさる怯えた姿の八雲紫。
紫の脳裏によぎるのは、巫女と妖の血の遣り取り。
しくりと胸に痛みを感じて紫が目をそらそうとすれば、その前に。
「はぁ、ん。んうう、んぅ」
「ぁ、ゃっ。つぅっ」
レミリアスカーレットが強く強くもっともっとと犬歯と顔を霊夢へうずめて。
その刺激に霊夢は自分の首もとの彼女をぎゅっと抱きかかえる格好になった。
巫女が血を喰らう妖を抱きしめる。
紫の胸の小箱にしまわれた自分がかつて巫女と交わした大切な想いで。
目の前で自分ではない鬼が巫女とそれをなしている。
紫の心はやめてと、私の場所をとらないでと声にならずに軋んで痛む。
「ぁ、、ぁ。、っ」
「ゆか、りっ」
霊夢の声も届かずに、耐えられないと紫は背をむけ手負いのように走りだす。
その背はすぐにと小さくなる。
そしたら嘘のように首の犬歯が肌から離れた。
始めからそのつもりだったと言うようにあっさりと。
スカーレットデビルの由来はどこへやらと霊夢の首筋は汚れておらず、レミリアの口元も微か流れ出した霊夢の血が少しの紅となって唇へ差している程度。
「さ、お膳立ては整った。追ってきなよ霊夢」
「あんた、やっぱり」
「ほら早くしなよ」
「ありがとう」
そう言ってレミリアを残し、走り去ろうとする霊夢へ幼い主の問いの声。
「霊夢、私のこと好き?」
「言わなきゃ分からない?」
「んーん」
顎を引いて目線は落とし、レミリアは満足げな笑みを浮かべていた。
「霊夢」
「うん?」
「紫をちゃんと捕まえてきなよ」
「もちろん」
「はー、はずれくじ引いたー。あ、雨ね」
「お嬢様は損な役回りをしすぎです。結局血だって飲むふりだったじゃないですか」
横合いから十六夜咲夜が傘と共に音も無く現れた。
「おや咲夜。居たのかい?」
「えぇ、生きてる間はずっと」
「そうかい」
そういうこと聞いたんじゃないんだけどなぁとレミリア。
「その、お嬢様。差し支えなければ一つよろしいでしょうか?」
「いいよ」
「あの……ですね。その、巫女だけでなく、…………少しは私も構ってください」
頬を上気させ、尻すぼまりに恥ずかしげと咲夜はそう言った。
その言葉にレミリアは胸のつかえが風に吹かれて取れた気がした。
だからレミリアは嬉しくて嬉しくて、いつか聞いた契りの言葉を今一度。
「咲夜、私とずっと一緒に居てくれる?」
「生きてる間はずっと一緒にいますよ、お嬢様」
「うん」
雨の中。
紫はそう遠くへ行ってはおらず、いつか巫女が息絶えた鳥居と賽銭箱を結ぶ石渡りに一人はかなく佇んでいた。
「……紫」
「えっ」
背後から、来るとは思っていなかった突然の呼びかけに紫は振り返った。
振り返ると同時に霊夢は彼女の手を取り腰を取り、そしてその脚をなぞるようにと絡めとり、紫の身体をそっと柔らか、けれどしたたかに押し倒した。
二人の四肢が地面へと投げ打たれる。両の袂から結わえて
そして、その散らばった黒髪と影で窺い知れない表情の奥で霊夢の唇が微かに動いた。
「……それって、ごっこ遊び?」
零れ落ちたその言葉。
一拍置いてさらに霊夢は言う。
「藍っていう式を作って、その藍にも式を作れるように術式を編みこんで、その藍は橙っていう式をくくった。これって人間が繁殖するみたいよね」
「……霊夢」
いつもは人を喰ったような態度の紫の瞳が確かに揺らぎ、その表情を歪めた。
視線を逸らして逃げようとしても、投げ打つ四肢を抑える霊夢が紫を離そうとしない。
「紫にとって二人は家族ってこと?自分で作った式と紫で家族ごっこってこと?紫は一人じゃ寂しいってこと?」
「そりゃあ一人は嫌よね、人間だって魔法使いだって吸血鬼だって鬼だって、ずっと一人は寂しいもの。八雲の紫、けれど貴女はおかしいわ」
紫、では無く八雲の紫と霊夢は言った。
「やめて」
「いつまで欲求から目を逸らすつもり?」
「……うるさい」
常には饒舌に霊夢を煙に巻くことが出来るだろう紫の聡さは今は無い。
彼女は心の柔らかい部分を衝かれることに慣れてはいないから。
今まで自身の力と風体でもって巧みにその部分を誰にも見せようとはしなかった。
けれど霊夢は知った、だから彼女はそこを衝く。
「誰かに義理立てでもしてるのかしら?」
意地悪く霊夢は哂い、殊更に見せ付けた。
その言葉に、紫ははっと霊夢を見る。
霊夢の言葉が紫を衝きさす。
「視たわ」
「、、っ、ぁ、あぁあっ!」
紫の叫びに、線が四本互いに交わり綾を成し、四重の結界となって霊夢を撥ねた。
八間の距離を火縄のような放物線を描いて霊夢が吹き飛ぶ。
合わせ流しなどせずに霊夢は無抵抗に紫のそれをその身に受けた。
地面へ叩きつけられ蹴鞠のように二度三度と跳ねて、ようやく霊夢は停止した。
いつも飄々としている紫がこんなにも一人で感情を溜め込んでいたのかと、気付けなかった悔しさに身を焦がすように、地面の砂をざりと五指で掻いて霊夢は立ち上がる。
頬には擦過の血が流れ、四肢にも傷が刻まれていた。
「紫」
博麗霊夢は、まじりっけなし一心と八雲紫をその目で見据える。
そして、結界を展開することも無く、目に見えて痛んでいる身体を感じさせずに足取りしかと紫へ向かって歩き出す。
「……来ないで」
紫は霊夢の圧に押されて目を逸らしたまでは良かったけれど、動けない。
霊夢の唇がにわかに開いて音を成した。
「今の幽々子といるのは楽しい?」
「……!うるさい!」
紫の結界が鈍色にわななく切っ先となり、紫電一閃と霊夢の肩口を薙いだ。
蝶の羽がひらひらと舞うように、皮膚の裂ける瞬間そこから血が咲いた。
けれど霊夢は止まらない。
傷にも構わず両の脚で地を踏みしめ、紫へ向かう。
「来るな、寄るな寄るな!」
そうして結界、重ねがけ。
身を裂かれるたび霊夢の身体は操り仕掛けの糸人形のように揺らいで踊る。
その度に霊夢の身体のあちらこちらから血が咲いて、紅白の巫女服は黒ずみを増していく。
歩く、歩く。
襤褸切れのようになりながらも霊夢は決して止まらない。
「止まらない、私は止まらないわよ紫」
「……っ」
ぎゅっと紫は唇を噛んだ。
力なく暖簾のように下げられた自身の左腕を右手で掴み、彼女は自分の身体を庇う。
そんな紫に霊夢は言う。
「紫、何度でも聞くわ。人を食べないのは誰かへの義理立て?幽々子といるのは楽しい?そんなに人に惹かれてく?」
矢継ぎ早に囃し立てられ、
「……うるさい、うるさいわ。……うるさい、うるさい霊夢!」
最早霊夢の顔を直視出来ず、紫は地面へ向けて言葉を放った。
端から見ても見るに忍びない傷を負った霊夢に、紫は今度こそ結界を結べない。
砂時計の砂がすっかり流れ落ちるように静かに、けれど確かに霊夢は刻んで。
そうして八間の距離を踏破した。
傷だらけになって紫の袂に辿り着く。
赤子が両親を求めるように霊夢は両手を紫へ伸ばす。賢者の纏う道士の衣服をそっと優しく掴みとる。
映える
「あんたさ、他の誰にもそういうこと言わなくていいけど。私には、私だけには、ちゃんとそういうこと話しなさいよ。この、ばかぁっ」
博麗霊夢の涙が流れた。
紅白の巫女装束にあってなお鮮やかにその身を血に濡らす霊夢の顔は、自身からくる傷の痛さでなく、目の前の妖怪の心を想いくしゃっと歪んでいた。
「私でいいなら少しは紫にあげるから、だから、あんた……、、あん、ぁれ、……ぁ」
「霊夢っ?……れいむ?れいむ!?」
余りにその身体を紫の境界に晒しすぎた霊夢は、彼女を受け止める紫の胸でその意識を失った。それは余りに似つかわしく、紫はかつての巫女を思い出す、彼女の腕の中で自身が奪った巫女の命を。手のひらからするりと零れ落ちるかもしれないその感覚を憶えさせられた紫は決してそれに耐えられない。
取り乱して声が舞う。
「嘘、うそうそ。いや、霊夢!」
紫の叫びが博麗神社に木霊と消える。
「…………、ぅん?」
意識が戻り、博麗霊夢の目に映ったのは見慣れた屋敷の質素な天井。
額には包帯が巻かれ、その身はいつもの巫女服ではなく白地で広袖の長着に着せ替えられていた。
起きぬけそのままに天井を見ながら、ぼやけた頭でことの経緯を反芻し、ここが博麗神社だということに思い至ると、その指先へと霊夢は小さく力を入れた。
「いたた、生きてる。いやまぁ死ぬ気なんてさらさらなかったんだけど。生きてる理由も大体分かるけど」
親指から人差し指、中指と順々に握っていき、よし大丈夫と霊夢はゆっくり上体を起こそうとする。
そうしたら起こす途中で膝元に、金の髪を流した境界を操る妖怪が伏しているのを霊夢は見つけた。
その妖怪を見る霊夢の目はあくまで穏やか。
ひと悶着あって、けれどそうだからこその優しい笑みがその妖怪へと向けられていた。
「ゆかり」
名前を呼んでその頭を慈しんで撫でる。
「ずっとあなたについて居ましたよその妖怪は」
いつの間にそこに居たのか、八意永琳が帳簿を手に抱えて戸口に立っていた。
その突然の闖入者に目もくれることなく驚くことなく、霊夢の視線はただただ眼下の妖怪へと向けられていて。
「私はどれくらい寝ていたの永琳?」
「八日程ですよ博麗霊夢」
「そう、そんなに」
そんなに紫は私についていてくれたのかと、自身の容態の程度ではなく彼女のことを霊夢は想う。
「あなたが担ぎこまれてきた時は驚きましたよ。何せあの八雲紫がひどく取り乱した様子で、血にまみれたあなたを抱えていたんですから。あ、それから身に着けていらした私物は枕の横に置いてありますから。繕いも済ませてあります」
そう言って、永琳は背を向けて持っていた帳簿を棚へとしまう。そして、ゐ-巳と札の付けてある薬棚から粉末剤を取り出して、それを薬包紙へと移し代えていた。
そんな薬棚を家に置いた覚えは霊夢にはないので、きっと紫がそうさせたのだろう。
「はい、これを飲んで安静にしていてくださいね」
永琳はそれを霊夢へ渡し戸口の方へ歩いてこの場を後にした。
盆と椀と三角に折られた薬包紙を渡されて、言われた通りこくりと霊夢はそれを飲み下す。
そうして盆を横に置こうと身を捻る。すると「ん……」という声がして、それにつられて視線をやれば霊夢は彼女と目があった。
目が合う彼女の言葉は弱く、
「ぁ、霊夢……」
とただ一言。
けれど顔を上げる彼女の首には一つそれ。
いつぞや霊夢が彼女へ渡した黒のチョーカーがしっかりその首に映えていた。
そんな彼女が嬉しくて、
「それ、着けてくれたんだ」
自身の首を指差して霊夢は彼女へ言葉をかける。
「霊夢が、くれたから」
誰にも分かる照れ隠し。
枕元へ手をやって霊夢は揃いのそれを首へと結ぶ。
まるで姉妹のように二人の首へ。
するとそれを見て顔を逸らした紫の手が霊夢の指先へこつんと触れて。
「っ……」
触れたその端、その手は紫の方から離された。
あぁもう、まだこいつはこんなに臆病なのかと霊夢は思い、
「ほら紫」
「え?」
自身からその手を紫へ絡めて繋ぐ。
「ね、触れて、絡めて」
親指、小指、人差し指、中指いれて薬指。
一つ一つ割り開き二人のその手は絡まり触れる。
「ほら繋がった」
「ぁ……、うん、えぇ」
触れる度にそれを怖がるような紫へと霊夢は言葉を結びだす。
「紫、私は紫が来てくれるならいつでもあなたに応えるから」
「でも……」
「そんなにまた失くすのが怖い?近づいて、近づきすぎてそして失くして、そんなのもう繰り返したくない?嫌?怖い?先の巫女みたいに、幽々子のように」
「……、…………、………………、……………………、痛くて怖くて嫌よ」
ようやく聞けた紫の本音。
それに霊夢は、繋がれた手をもう離さないという想いを込めて強く握り返す。
「それでも紫はどうしようもなく博麗の言霊に惹かれるのね」
「そうよ」
「ねぇ紫、私はきっと紫より長くは生きられないだろうけど、だけどずっと一緒に居るから、ずっと紫と一緒に居たいから、紫の中に残るから」
言って紫を抱き寄せる。彼女を自分へ抱き寄せる。
抱き寄せられる彼女のその姿は、支えがないとくず折れてしまうんじゃないかと思えた。 それほど弱々しくて、心が揺れる。
「触れたいのにそうしないからこんなになっちゃうのよあんたは。本当は臆病な癖に、藍の言ってた通りね」
「藍?」
抱き寄せた胸の中から声がして、上目遣いで紫は霊夢を見て上げた。
「そうよ藍、八雲藍。藍だって幽々子だって萃香だってみんなあんたをちゃんと想ってるんだから、だからもうちょっと周りに色々預けなさいよばかすきま」
「……ぅ、ん、今回のこと謝って、それからありがとうって言う所から」
「うん、それでいいじゃない。表面には出さないかも知れないけど、きっとあいつらも喜んでくれる筈よ」
「あの、霊夢?」
おずおずと
「どうしたの?」
「一緒に行ってくれるかしら?」
紫は言う。
「そう紫が願うなら」
「ありがとう」
今の顔を見られるには余りに恥ずかしく、紫は一度霊夢の胸へと顔をうずめた。その胸へ本人へは聞こえないよう「ありがとう」と小さく吹き込んで、そうしてそれから視線を戻す。
見上げたそこには揃いの黒と垂れる髪、そして霊夢の艶やかな唇があった。「うん?」と霊夢が言うたびにそこは薄くふくらかに誘いをもって、紫はそれに惹かれてく。眼も離せずに鼓動がとくんと胸を打つ。いつか感じた懐かしさのように、だから紫は止まれない。
「霊夢、あのね」
「ん?」
「その……」
言いよどむ紫に霊夢は再度言葉を返す。
「言ったでしょ、紫から来てくれるなら、私は絶対に応えるからって」
大丈夫だからと霊夢はそう言っていた。
それを聞いて、紫の顔は秘めやかに朱を帯びていき、そして。
「霊夢、あなたの唇が欲しい」
「はい、どうぞ」
目を閉じて霊夢は紫を待つ格好を作った。
その声は凛と小さく、けれど二人の間で声を交わすに相応しい。
そして、紫は霊夢の胸へと方手を添えて、背伸びするように自身のそれを霊夢へ重ねる。
「ん……ふ、……は」
「はぁ……。それだけでいいの?」
「今はこれだけで十分だから」
そう言って紫は霊夢の胸へしゃなりとしなだれかかる。
その顔は今までになく穏やかで、相手への信頼が見て取れるものだった。
一つの寝床に二人の身体、重なりあって触れていた。
そしてそれを一つの頃合ととったのか、
「そんな八雲紫は今まで見たことが無いですね」
永琳が場を切るように割り入って部屋の戸口に立っていた。
「何しに来たのよ無粋な蓬莱人ねぇ」
「私も姫も大して情緒を待つ心を持ってないのよ不思議なことに。あ、用向きはこの封書です。そこの八雲紫宛てですよ、差出人は紅魔の主」
戸口に背を預ける永琳は、片手に持ったそれをひらひら振って紫へ視線を向ける。
そして、霊夢に寄り添う姿を永琳に見られた紫は、けれどその居住まいを戻そうとはしなかった。
それどころかより一層、霊夢の身体へその身を楚々として寄せる。
だから永琳は、そんな紫ではなく霊夢へとその封書を渡した。
あらあらそんな八雲紫は見たこと無いと事情の分かった顔をして。
「はい確かに」
「妬けますね、博麗霊夢に八雲の紫」
「何よ、あげないわよ。それにあんたには輝夜が居るでしょ」
そう言って霊夢は紫の頭を両手で庇う。
紫はおっかなびっくり目を白黒。
それを見て永琳は困った顔をして、それですよそれ、それが和三盆みたいで妬けるんですと言う。
「病室であてられるこちらの身にもなって下さいよ」
「だったら今すぐ輝夜の所にでも行けばいいじゃない」
「起きた途端に生意気な巫女ねぇまったく。ここに一式揃えて出張までしてあげてるのに」
言葉程は棘のない口調でそう言って「薬でも盛ってあげましょうか本当に」と冗談めかしながら永琳はその場を後にした。
そうすれば彼女が去ってしんとした部屋には霊夢と紫の二人だけ。
「ねぇ紫、この封書私が開けちゃってもいい?」
「好きにしていいわ」
「お言葉に甘えて」
言付けを貰い霊夢は早速とその封書を開く。
すると中には一枚の半紙。
そしてそこにはやたらに達筆な文字でこう書いてあった。
ひゃっぺん殺す Remilia scarlet
何故だか名前は筆記体。
半紙を軽く摘まんで掲げ、表情を変える事も無く、事も無げと霊夢は紫へ口を開く。
「あーあ、紫どうする?レミリアが私を傷つけたあんたにご立腹よこれ多分」
「ねぇ霊夢?」
「どしたの?」
「彼女にもありがとうって言わなきゃいけないかしら」
「そうね」
「やだ」
「やだってあんた」
「分かるわよ、彼女の力でそれ程のことを私にしてくれたのは分かってるわよ。でも……」
「でも?」
「やり方が気に喰わない。霊夢の血を吸う所を見せ付けられたのが気に喰わない」
「あら嬉しい」
「あれはあいつの趣味よ絶対。今思い返せばきっとそうよ、そうに違いないわ」
そんな膨れる妖怪の賢者を尻目に戸の開かれる音がした。
「紫がここへ詰めていると聞いて」
ふわふわゆるりと幽々子嬢。
「幽々子さまのお供として」
未熟なお供は半霊妖夢。
「紫さま」
「ゆかりさまぁー」
確かな家族は八雲の式達。
「お嬢様の代役で」
手には紅茶の缶を持つ、素敵に瀟洒な十六夜咲夜。
「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花。記事に困れば巫女がいい」
長口上は天狗の嗜み射命丸。
「ほい、二人とも酒」
そして最後を締めるは鬼友の萃香。
皆それぞれが思い想いに博麗神社へやってくる。
二人を見舞いにやってくる。
そこにあるのは昔変わらぬ宴の縁。
いつか消えてしまうとも、
「ほら紫、言うことがあるでしょう」
「あの………………、ありがとう」
褪せぬ想いにきっとなるから。
面白かったです。
弱い紫様も良いな、可愛い
石庭の十四と十五に人間と妖怪の境界を見たててみせるのにやられました
なんだかオトナの魅力を放っておられる霊夢さん、いつのまにこんな味を身につけたんだ…
ただ正直ルビがくどいという事、何故萃香が秘封の件に絡んだのかという事が個人的に引っ掛かりました。ま、楽しく妄想させて頂きますからオッケーなのですが。
比較的最近に更新されているようですがこれは今のこの状態が最終版という事でしょうか?