後篇――金の凶星、略奪、狂奔、慟哭
満月の下には略奪が満ちる。
全てを消し去るもの、
全てを奪うもの、
全てを忘却するもの、
全てを破壊するもの。
その名はフランドール・スカーレット。
暴威というにはあまりに優しい、優しすぎるほどの風音。何もかもを奪い、消滅させる存在。
それを暴威とは呼ばないだろう。言葉に現すことすら失われる、何者でもない零。物事の発端としての生まれがあり、その対極、全てを打ち消してしまう死、消滅そのものだ。それは暴威とさえ呼ばれない。
ただ、虚無。ただただ、虚無ばかりが在る。全てを否定し、奪い去る。
無理、だ。こんなものに相対するのは不可能だ。全てが失われる。飲み込まれる、存在の果てに。美鈴は瞬時に全てを投げ出す判断をした。レミリアとの盟約。自らの道。全てかなぐり捨てて、生き延びた末に得られる生を選び取った。思考の中、既に美鈴は自らの消滅を描いている。奪われる。存在の意味を奪われてしまう。
フランドール・スカーレットと相対した瞬間に。
時間は、ほぼ二十四時間を遡る。
お嬢様の部屋に、丑三つ時に呼ばれた。美鈴はその頃は、眠りに着いていたところだった。
「美鈴、お嬢様がお呼びよ。行ってらっしゃいな」
「はぁ」
呼びに来た咲夜に中途半端に返事をして、着替えてレミリアの元に向かう。途中数人の、仕事終わりらしいメイド妖精と擦れ違う。咲夜が雇ってきたものだ。美鈴の言葉を受けて妖精達を雇うことにしたのだった。妖精達は本来の気ままな生き方を変えられないものの、咲夜の組む緻密なローテーションにより気ままな生き方とぴりっとした仕事の両方を受け入れるようになった。お陰で紅魔館はそれなりに、妖怪、吸血鬼の類だけでなく、人間も暮らせる程度には綺麗になった。それでも、日中でも灯が入らないのは変わらないが。
「入ります」
「ええ」
入り口前で主人と儀礼的な会話をして、入室する。幼子らしくないフェティッシュなベビードール姿のレミリアがベッドで半身を起こし、美鈴の方を見ている。
「何かありましたか?」
「ええ。もう眠るから、本を読みなさい」
あんたは子供か。いや、子供なのか。美鈴は思わず言いそうになったが、咲夜がどんなに可笑しいことがあってもくすりともせず主人に対する従者の態度を取るのを思い出し、参考にした。それに、美鈴も誰かに本を読んで貰いたいと思う時もある。
「何を読めばいいですか?」
「美鈴も、本の一冊くらい持ってるでしょう。美鈴の好みのでいいわ。一番好きなのを、持ってきなさい」
「御意。じゃ、ちょっと家に一度帰ります」
「五分で戻りなさい」
五分か。一分で行って戻れば、三分は本を選ぶのに使えるな。
「あ、見張りはいいのですか?」
「あなたの円を持ってすれば、館の半径4kmは見張れるでしょう」
「円とか言わないで下さいよ」
勿論、余裕で察知できる。だが、できるとは言わなかった。美鈴は退室して館を後にした。
美鈴の家は跡形もなく破壊されていた。あーぁ、と思った。まぁ、それなりに思い当たる節はある。物取りはここまでしない。
吸血鬼の下にいることを、あの夜見ていた妖怪達は知っているけれど、裏切ったと取った者達がいることも予想できるし、そもそも、美鈴自身が争い、打ち負かした者達に恨まれていることも知っていた。
一瞬美鈴は寂しいな、と思った。居場所を失う痛み。だが、それはすぐに持ち前のポジティブさで補われた。何とかなるさ、という思い。
美鈴は自分の居場所を知っている。何も持たなくても、自分の身体と日々の鍛錬、そして貫く意志があれば他に何も要らない。食事も、寝場所も、自ら手に入れてみせるという感覚。
だが、一瞬の寂しさは確かに美鈴の中に存在した。
本までは取られなかったらしい。ぼろぼろになったがまだ読める。美鈴は数冊、それらを取り上げると紅魔館へと戻った。他には何も持たなかった。
ベッドの中にレミリアが仰向きに寝転び、美鈴がその枕元の椅子に座って、文庫本に目を落としている。暗い部屋の中、美鈴の手元だけが灯りに切り取られ、明かりが歪な円形に落ちている。
『メロスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、稀代の不信の人間、まさしく王の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない』
「この辺りを読む時だけ、妙に気が入っていたわね」
美鈴が読み終えて本を閉じた後、滔々とレミリアは語って身体を持ち上げた。美鈴は驚いたが、はい、と落ち着いて返した。
「私、本は沢山読む訳ではなくて、何冊かの本を繰り返し、読むんです。だから自然と覚えちゃって……それで、つい、好きな部分は朗々と語れるくらいには覚えちゃってたりして。えへへ」
「この物語は意志を貫徹する物語よね。それがどうして、諦めの、悪い思考が出ている部分が好きなのか、知りたいわ」
「えーと。ちょっと偉そうに語っちゃうかもしれないんですけれど。この諦めの気持ちが、私は好きなんです。もうちょっと読みますね。
『セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家が在る。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい』
私、可笑しいんです。これだけ諦めの言葉って、そうは吐けないですよ。ほんとに、自分は正しいんだって、思わなくっちゃいけないみたいに言い訳してて。
きっと、この本を書いた人は、こんな物語のことを、半分馬鹿にしながら書いてるんです。友の為に、命を、それも受動的にではなく、自ら捨てる為に走る。そんなことができるはずないって。この部分の、真に迫るような書き方を見る度にそう思うんです」
「美鈴は変わってるわ」
「私もそう思います。……でも、……いや、だから……なんですかね、好きなんですよ」
まるで、自分の生き方が滑稽なことのようで。そうであればどんなに良いことであろう? この世にとって喜劇であること以上の幸福はないのだから。
自分の道を貫くことが喜劇に思えることは、幸福なのだろう。喜劇に思いながらもまた、貫くことができるということは。この物語の作者ならばどうだろうか。貫いただろうか?
「良かったじゃない。また、好きな部分を読むことができて」
「ええ。そういうのがあるから、生きてるっていいですよね」
レミリアはもぞりと布団の中に身を潜らせた。
「生きなさいよ。生きてることだけが、あなたを真実にするんだから」
はい? 美鈴が聞き直すと、レミリアは眠たげに言った。
「今夜は満月ね。身体の調子を良くしておきなさい。きっと良くないことが起きるわ。体調的に」
「え、何ですか。お腹でも壊すんですか」
「それと、手首の紋章も良く磨いておくようにね」
「いや、いい加減外して下さいよ」
レミリアはそれっきり何も言わず、眠りに落ちてしまったようだった。
美鈴がふとカーテンを少し開けて、窓の外をちらりと見る。朝日が昇りかけていた。午前五時の太陽。一日が始まってゆく日差し。
ん、と門の前で背伸びをする。今日も相変わらず良い天気だ、と太陽を見る。お嬢様なら悪い日だ、とこぼすだろうけど。お嬢様は本当のところでは思ってもないことを言うのが好きだ。本当のことを言ってしまっては、世の中を変えてしまわねばならなくなる。どうでもいいことをのたまっているのが、実に平和で心地が良い。美鈴にとっても日々がそうであればいいと思う。
美鈴の力は本質、何かの為という訳ではなかった。ただただ、自らを律する為の力だった。振るわれる為ですらない。自分が強くなる為、ではあまりに独善的であるが。誇らない強さは純粋であり得るのか。純粋な力とは、振るわずとも示される絶対的な力とは。美鈴にとっては分からない。美鈴にとっては、力は未だ振るわれるものだ。振るわざるを得ないものだ。
型を復習するのは、最早鍛錬という段階を超えて、美鈴にとっての自然、その領域に達している。だが、集中、練気、そして、もっと端的に言えば、動作。そうしたいくつかの儀式を伴うことを思えば、未だそれは未完成であると言わざるを得ない。
(紅美鈴。どこから来て、どこへ行く何)
未だ、行き着くべき場所さえ、見えない。終わりのないものを追いかけている。
咲夜、あの人間もそうだろうか? 美鈴はそう考えながら、歩み寄った人影に向き直る。
「おはようございます、咲夜さん」
ええ、お早う、と咲夜が呟き、吹いた風に髪の毛を乱され、片手で押さえる。
「今日は早いですね」
「ええ、妖精達もようやく仕事を覚えてきてくれたから」
咲夜の服装は、いつもの丈の短いメイド服ではなく、薄手の運動着に着替えている。美鈴にとっては見慣れたものだが、鍛錬が終わればまたシャワーを浴びて着替えて仕事、大義なことだな、といつも思う。咲夜に比べれば、美鈴の仕事など楽なものだ。立ち続けること、集中し辺りを警戒すること、悪意を振り払うこと、全て鍛錬の直線上にある。比べて咲夜は館の中、全てに気を配り、メイド達の動向を見、お嬢様には心を砕き、常に気配りをして臨機応変、何一つ同じことがない。
「いつも、お疲れ様ですね」
心底そう思った美鈴はそう声をかけた。咲夜の方ではそれに構うこともない。
「ええ。今日も始めましょう、『お師匠』」
咲夜は悪戯っぽくそう言った。
咲夜へ与えたトレーニングは、走り込みや腕立て、腹筋などの基本的な基礎体力作りでしかなかった。後は実戦を繰り返しするだけ。咲夜には見た目以上に重ねてきた自己流の体術があるようだし、筋力がついて一つ一つの動作がが早くなれば単純に強くなる、と美鈴は思っている。美鈴の体術を戦闘の中で学ぶことがあれば自分の中に取り込んでゆけば済む。
トレーニングはそう長い時間は行わない。咲夜が一人で済ませてしまえる部分については、咲夜は自分で勝手に時間を止めてしてしまう。単純に見られたくないのが一つであるらしいけれど、自分の為に使う時間もそうある訳でもないらしい。世知辛い話だ。咲夜の瀟洒は弛まぬ努力によって作られている、と美鈴はいつも思う。
美鈴と向き合う時、時を止めることを美鈴は禁じた。時を止めて勝っても何の鍛錬にもならない。そこには咲夜の地金が出るのだが、近頃それが変わってきた、と美鈴は思う。
例えば……美鈴が打ち込んだ拳に、地に身体を落とすとき、即応して動く、或いはそれを呼び水にして不意を打つ、以前ならば戸惑いと隙のあった瞬間が消えていく、と美鈴は見る。泥臭さを好まない性質が戦闘にも出ていた。そう思う。
けれど、と美鈴は思う。その貪欲さこそが咲夜の本質ではないか。瀟洒さ、完璧さとは、メイドになった時、付加されたもので、元来咲夜は形振り構わない、幼さを宿したものではないのか。レミリアと寄り添う咲夜に、それはそぐわないものだった。そのことを咲夜自身が誰よりも分かっているから、自分自身さえ騙すほどに瀟洒な自分にこだわっている。
美鈴は咲夜の貪欲さを見るたび、そんな妄想に囚われる。実際、人間は多面的な部分を持つものだから、そんな妄想が犬の餌以下にしか役に立つとは思っていない。
そんなことを考えながら打ち合うのは失礼かな、と思いながら咲夜との打ち合いを止める。
「これくらいにしましょう」
「ええ。ありがとう、美鈴」
ふう、と荒い息をついても、戦いから一歩離れればそこには瀟洒な咲夜がいる。美鈴が一礼をするのに合わせて、咲夜もまた軽く頭を下げる。
「ところで美鈴、身体の調子はどう?」
「はい? ……いえ、特別異常はありませんが。むしろ調子は良いくらいですね」
ふうん。咲夜は呟き、美鈴の身体をぺたぺたと触る。
「な、なんですか?」
「ううん、分かるかな、と思って」
咲夜さんの方こそ、と咲夜の下腹に手を当て、む、と美鈴は、咲夜の腹から伝わってくる気の巡りに触れる。
「内蔵機能が低下してる気がしますよ。働き過ぎじゃないですか? 少し休んだ方が良いですよ」
「そうするわ」
思い当たる節があるらしい。咲夜は頷くと美鈴の肩をぽん、と叩いた。
「調子が良いならいいの、頑張りなさいね。あなたにはまだ、学ぶところがありそうだし」
咲夜さんがそんなことを言うなんて珍しい、と美鈴は思った。
日差しが天頂に昇る頃、風見幽香が紅魔館を訪れた。初夏の日差しの中、幽香は深窓の令嬢のごとくに傘を差して、ゆったりと美鈴に歩み寄った。向日葵を肩に担いでいる。
「こんにちは」
「……ええ、こんにちは。今日は、何ですか」
「やだ、構えないで? 私、そんなにいつもいつも、喧嘩相手を探してる訳じゃないのよ」
あなたが来ると、殺伐とするのだ、とは言わなかった。でも、どうせ今日もお嬢様とまた殴り合いをするくせに、と美鈴は思う。
「ねえ、お花畑見せてよ。あなたが育ててる」
「あの、一応門番なんですけど……」
「いいのいいの、今更でしょ」
ぐいぐいと美鈴を押している幽香は、美鈴の肋骨がみしみしと鳴っているのには気づいていない。押されるがままに美鈴は紅魔館の片隅、花畑に連れてこられた。
「まだまだね」
「始めてから二週間もないですし」
耕された畦の間から、小さな芽が顔を出している。レミリアは『なんだ、食べられるものじゃないの』と言ったきり興味をなくし、咲夜は『変わっているわね』と言ったきり何も言わなかった。どちらにしても、必要ないと判断すればすぐにでも潰してしまうだろうから、せめて放っておかれる間くらいは愛情を注ぎたい、と美鈴は思う。
「じゃ、美鈴の志にプレゼントを」
幽香は美鈴に、肩にかけていた向日葵を纏めて手渡すと、傘を畳んで美鈴の腕に引っかけ、跪いて土に触れた。土を掘って美鈴の手から向日葵を受け取る。
「わざわざ、その為に持ってきたのですか?」
「連れてきたの。もうすぐ夏なのに、向日葵がいないのは寂しいわ」
見張られているようでちょっと不気味なのですが、とは言わなかった。力のある幽香が向日葵を愛するから、その向日葵にも暴威の匂いのする不気味な美しさが宿るのだが、むしろ幽香らしいと美鈴は思った。向日葵はむしろそのものが、暴威のごとく明るさを振りまいている。エネルギーに満ちた風情は、風見幽香の姿と重なる。
「幽香さんは、どうして花が好きなのですか?」
「愚問ね。信奉していると言っても過言ではない。花は生命力の象徴。力の塊よ」
生命そのもの、と幽香は断ずる。幽香が立ち上がった時、そこには五本の向日葵が並んでいた。幽香の裸の指には、土がこびりついている。よし、と幽香は一人頷き、美鈴の方へと手を伸ばす。傘をくれ、と言われているのだろうけれど、美鈴は渡さなかった。
「……指が汚れてますよ。井戸まで案内します」
「あら、いいの。汚れだって自然のままなのだから」
「咲夜さんに怒られるんです」
幽香を後に従えたまま、美鈴は歩いた。
手を洗いながら、幽香は美鈴を見た。
「あなた、あの向日葵をちゃんと見てるのよ。寂しくないように、花でいっぱいにして」
約束、と。唇が動くのを、美鈴は見ていた。
美鈴が足りない睡眠を門の脇、もたれながら補っている昼下がりに、チルノが氷の刃を煌めかせて現れた。美鈴の頭を狙って振り下ろされた刃は、首を傾けるだけで躱して、チルノの重ねられた手首を掴んでいる。
「おや。またあなたですか」
「あんた何者よ。あたいの不意打ちをあっさり受け止めるなんて」
チルノに思いっきり腕を振られ、美鈴は手を離した。チルノが再び刃を振り上げた時、美鈴は問わなかった。チルノはただ刃、力を以て美鈴に対する。ならば、言葉など意味も価値もない。美鈴は断じ、ただ拳で向き合った。
冷たい刃は、チルノの短いリーチを補った。だが拙い足運びは変わらず、美鈴にチルノが追いすがる構図は、以前のまま。
そして、以後も同じであった。機を見た美鈴が、チルノの翳す刃の切っ先を避けて、刀身に拳を合わせた瞬間までは。
冷気。美鈴は不意に、刃に帯びる冷気が尋常ではないことに気付いた。刃に触れた拳は一瞬、けれどそれは致命的な違和感を美鈴にもたらした。振り下ろされる刃のベクトルを変えるに至らず、美鈴の身体に至る軌道を以て落下した。
一瞬先に、美鈴が些か無様な姿で脇へ飛び退いている。
「凄まじい冷気。これが、あなたの力ですか」
「……そ、そうよ! あたいはあんたごときにやられるはずはないんだから、当然ね! 何しろあたいは最強なんだから――」
美鈴の薄く凍り付いた拳は、急速な冷却から解放されて、外気温に晒されて機能を取り戻しつつあった。だが、一瞬でその損傷、一瞬以上は耐えられるはずもない。ならば。
震脚による加速。チルノと一瞬、交錯する。構えたままの刃に、掌打を叩き込む。
触れる時間を極限まで抑えた交錯に、美鈴の拳は傷んでもいない。対照的に容易く、得たかと思ったチルノの自信と共に、刃は砕け散る。
唖然とするチルノを前に、美鈴はどっかりと座り込んだ。
「……何のつもり?」
「まぁまぁ。座って、腹を割って話しましょう。お茶もお菓子も、出ませんが」
お茶。お菓子。その言葉を聞いてチルノはびくびくぶるりと身を震わせた。紅魔館で出された粘質の液体と、一見真っ当に見えても何でできているか分からないお菓子に怯えている。
「それにしても、どうして戻ってきたんです? 二度と来るとは思ってませんでした」
「……そりゃ、あんたにはやられっぱなしだからね」
チルノも美鈴に倣い、大地に座り込む。あまりに野性的だが、このくらいが思ったよりも据わりが良い。二人、そう感じている。
「やられっぱなし、ですか」
「そうよ。あたいは最強だってのに、やられっぱなしじゃその名前も返さなきゃいけないわ」
ぷふふと吹き出したい気分を美鈴はおくびにも出さなかった。しかし、美鈴は妖精ごとき、という感情と、前を向く好ましさを同時に感じている。以前も感じたことだ。
挑戦する心。悪戯やその場限りのことばかりをする妖精とは少し違って、チルノには気概がある、と美鈴は感じている。
「失礼ですが、努力をしたことは」
「ないわ! 努力なんて凡俗のすること、あたいのような天才には必要のないことよ」
「努力が努力でないと思うことが、努力の天才であると言えるのかもしれませんが、努力は大抵したら分かるものですよ。そして、前を向くことは大事ですが、壁に当たった時は過去と現在を見つめることも……おっと」
説教臭いことを言ってしまった。美鈴は思わず自身を律する心を呼び戻し、口をつぐむ。
「努力。……努力なんて、いらないわ。あたいが生きてきた中で、どうにかならなかったことはないのよ。いつだって、なんとかなってきたんだもの。あんた以外はね」
「…………」
幼い私自身のようだ、と美鈴は思った。いや、もっと蒙昧であったか。幼い頃、皆才能があるから、自分は勝てないのだと断じていた。努力が足りないのだとは断じない。……蒙昧の極みであったか。やがて、気付けた幸運に感謝する。
「……館のあいつは怖いけど……あんたに負けたのとは違う。負けるっていうのは死ぬのと同じよ。あんたがその気なら、あたいは死んでたかもしれなかった」
チルノは立ち上がり、美鈴に指をびっと突きつける。
「あたいは、あんたに借りを返す! あんたが強いのは分かってる。でも、あんたに勝たなきゃ死んでるのと同じ。生きていられない。あんたに勝つ。その為なら、努力でも何でもするわ……何笑ってんのよ! 馬鹿にしてるの!」
美鈴はにっこりと笑っていた。実際のところ、本当に嬉しかったからだ。自分が存在することで、誰かが目標に向かって努力できる。こんなに嬉しいことはなかった。
「きー! 今日はこれくらいで帰ってあげるけどね、また来るんだから! 今度こそ、やっつけてやる! 氷の刃なんかよりも、もっっっっと強い技を覚えてくるんだから!」
楽しみにしてますよ、と美鈴は笑いかけた。
急速に背後に立った気配にも、美鈴は即応して見せた。一瞬で零まで詰めた距離、ゆらりと眼前に突き出された拳を、紫は冷淡に見つめている。
「こんにちは」
「あなたでしたか。完璧に気配を絶っていたので、何事かと思いました。あなたなら納得です、謎の妖怪さん」
突き出していた拳を戻し、身体から緊張を解く。
「八雲紫ですわ。お見知りおきを」
ふわり、と傘を広げる優雅な妖怪は、以前とは違ってあっさりと名前を口にした。
「その名前は知っています。そう、あなたが……。本当にいたんですね。……それで、その八雲紫が、一体何用なのです?」
「いいえ、特には」
ただ時間が過ぎてゆき、八雲紫が美鈴を眺める。居心地の悪さに美鈴は身悶えした。
「……あの。用事がなければ、お帰り願えませんか」
「死相が出ています」
「は?」
話が切り替わった。唐突に過ぎる。美鈴は追いついてゆけなかった。
「でも大丈夫。この館がいけないのです。早く、逃げておしまいなさいな。そうすれば、私が全部終わらせてあげます」
「あの、何の話ですか」
口元に薄笑いを貼り付けて、美鈴を眺めていた。その薄気味の悪さに、美鈴はぞわりとした居心地の悪さを感じた。
「あなたの責務の話。……ええ、あなたが死を恐れないのなら、構いません。そもそも、あなたには関わりのないことだから。あなたが死ねば、何も関わりはない。そう、何もかも……ね」
薄氷の上に立つような、座りの悪さ。
「……あなたが、何を言いたいのかは、分かりませんが」
「ええ。私も分かりません。ただの世迷い言です、気にせぬよう。でも、そうですね、ただ言うならば。死なないことです。あなたが死ななければ、何も気がかりはありません。仮に死んだとしても、あなたが気負うことは何もありません。既に、気負うこともできない領域ですから」
ふ、と紫は笑った。次の瞬間にはいなくなっていた。美鈴にとっては、分からないまま。だから、何があっても死なず、あの妖怪に問い詰めよう。そんな気分に、なった。
夕闇が、その帳を下ろそうとしている。
日が昇り、珍しく来客が多い一日が流れ、その夜、満月と共に現れた。思えば、あれは……来客の多さは、予兆だったのだ。満月の夜、月は深紅に染まり、館から紅い悪魔が来る。
館の中から出てくる誰かの気配は、家の中にある時から感じていた。レミリアによく似た、けれど懸絶している、誰とも違う気配。その眼光が美鈴に向けられた瞬間に、美鈴は遁走した。門の陰に隠れ、息を殺した。気配を殺し、誰にも見つからないようになる。
(あれが……お嬢様の言っていた厄介な奴。お嬢様の妹。気の触れた妹……フランドール・スカーレット!)
破壊そのもの。奪う者。限界質量。その眼光は狂気に満ちていた。見ているようでありながら見えていない。意味を成していないのだ。気が触れている、とは良く言うけれど、物事が分からないのではない、物事の捉え方が違うのだ。言葉が通じなくとも、力が上ならばねじ伏せて意のままにすることも可能だ。だが、相手は法則の違いを体現している。物理法則さえも。彼女の前では、全ての存在、概念、価値はねじ曲がって意味を成さない。指向を変えれば、世界そのものの変質さえも不可能ではない。それだけの巨大な虚だった。フランドール・スカーレットはその体現だった。
無論、ここまで精密な言葉が、美鈴の中溢れた訳ではない。それらを本能で理解する……向き合ってはいけないという思いだけが美鈴に生まれ、怯えの感情と共に自らを押さえ込んだ。死ねば同じなのだ。誰が死のうと知ったことか。
美鈴の腕に巻かれた記が、光った。驚きに息を潜め焦りに背が震えた。
『私からのプレゼント。あなたの運命を、ちょっとだけ変えてあげる』
文字を描いて、光る。
『あなたにかけた徴は、普段力を抑えた分、解除した時に還元する。妹の能力、それを逸らすように。あなたが責務に向き合い、果たせるように』
何を馬鹿な、と思う。それで、フランドールがどうにかなるというのか。
「無理です……出来ません、お嬢様」
『あなたの道を行きなさい』
そう。道だ。それが出来ればどんなに良いことか。自分だけ、妹に向き合わないで人任せにして! だが、それがレミリアの道だというなら、美鈴に言えることは何もない。
なら、これは私の道か? 美鈴は自らに問いかけた。フランドール。これから逃げることを、誰が咎めるか。神か? 盟約を交わしたレミリアか? 否、ただ一人、私だけだ。私自身ではない誰かが、道を咎めることはない。そして、フランドール。彼女から逃げることが簡単だ。だが、私が逃げて、選んだ別の道を、私が誇れるか。
私だ。私は紅美鈴。目の前にあるものから逃げないことを自分に課す。負けてもいい。勝てるように鍛えるだけ。逃げ出すことはしない。向き合ってきた過去を、捨てることはしない。
それは実にシンプルなことだ。そこに立つだけで良い。そうすれば、流れに乗って身体は動く。そう。私の生そのものが、そう動く。
私は行く。怯えも震えも超えて。
私は、紅美鈴だ。私は私の道を行く。
「フランドール様。妹様」
フランドールが振り返る。動作はその内面からは窺い知れないほど、人間じみている。だが、それは人間らしい動作としての反応でしかない。見ていない瞳が美鈴を見る。
「あなた、だぁれ?」
「初めまして、ですね。……門番として雇われている紅美鈴と申します。以後お見知りおきを。……さて。お嬢様は、あなたの外出を許してはおりません。どうかお戻りを」
フランドールは拳を握っては戻し、不思議そうな顔をして美鈴を見た。フランドールの力の発揮。フランドールが掌を動かすたび、美鈴の手にある紋章が光り輝いた。
「変だわ。力が効かない。目が見えないわ。どういうこと?」
「運命ですよ。あなたのお姉様が、私を守ってくれているのです」
フランドールの中で認識が変化する。……美鈴の言葉によって、それはフランドールの中で真実となった。
「……ふん。気に入らないわ。壊しちゃう」
フランドールは、美鈴の前で掻き消えた。タイミングも何もない、消えた瞬間に美鈴の正面に現れたフランドールは美鈴に向かって爪を振り下ろした。美鈴がその速度に追いつくことができたのは、鍛錬の末の反応に過ぎない。地を裂き、狂気が美鈴を捉える。横薙ぎに爪痕が走り、美鈴はその軌跡を見切って拳を打ち込んだ。意にも介さず、続けて連撃が来る。美鈴が引き、引いた分だけを強引に踏み込んで爪を払う。
(小手先に二、三発打った所で無駄か)
フランドールの速度は疾いが、追いすがれないほどではない。無駄と隙が多く、狙いが大雑把だ。戦闘経験の差でのみ、美鈴には優位がある。
(と、言うよりも。……良く見える。これが、弱体化していた力の解放か?)
動作の先が見える。言うならばレミリアの運命操作が憑依したかのように、美鈴はタイミングを計った。
考えてみるに、運命操作とは観察と計算である。現在と過去を見、その軌跡から未来を予測する。因果の方向を見る。更には、その軌跡を変化させる因子を観測し、計算を加えてゆく。未来に変化を与えうる過去を推測し、現在に介入することで未来を変える。
何のことはない。誰しも、現在において行っていることだ。レミリアは未来を見る。自ら守らなくてはならないものを守る為に。そして、美鈴は現在を見る。運命を自らの意志で変える、その意志を貫徹するために。
未来とは意志が作り出すものだ。美鈴は未来を見ない。ただ、意志を貫く、現在の為に生きる。
フランドールの軌跡が見える。美鈴自身が動くべき、地点が示されてゆく。振りかぶる腕、その軌道を懐へと入って躱し、同時に呼気を整え、擦れ違い様に拳を叩き込む、その道を。
今、美鈴は運命へと到達している。
だが、フランドールへと拳が到達するその瞬間に、道は掻き消える。
――有り得ない
美鈴の経験が、目の前の現実を否定する。もはや予感を超えて未来をトレースするだけの動作が、フランドールがひらりと宙に身を翻して消失する、その過程を。
美鈴は止まらない。着地する動作に合わせて攻勢を得る。
右からの拳をフランドールは簡単に受け止め、左の足も引いて受け流す。蹴り足の勢いのままに軽く身体を浮かせ、一回転から振り抜くように放った二度目の蹴りも、同じ。カウンターに伸びてくるフランドールの指先を、左手で押すように流し、その背を狙った一撃も、フランドールは奇妙に身をひねらせて低い位置で躱す。身を引いた美鈴を、フランドールは地に手をついた低い位置から、嘲笑うように見上げた。
おかしい、と美鈴は感じている。こんな動作をする相手ではなかった。レミリアと同じような……戦闘とは暴威に任せた暴虐と破壊だ、と言わんばかりの力任せだったさっきとは、何もかもが違う。先ほどの攻防、美鈴の感覚や経験からすれば何度か入っていても良い手応えだった。だが、するりと躱されている。フランドールの攻撃自体も美鈴には届いていないが、美鈴の拳も届かない。美鈴は未来を見ない、ただ現実にある運命を垣間見る。
「お姉様は私の邪魔ばかりしてきた。運命とやらで私の道を阻んできた」
だが、その運命をも超えていく……フランドール・スカーレット。その名にのみ許された、破壊の力。運命淘汰者、因果に抗う権能。
「いいわ、お姉様。お姉様が私の運命をも操るというなら、その末端がこいつだと言うなら。壊してやる。その運命を、私に立ち塞がる全てを」
フランドールの拳が迫る。吸血鬼の身体能力全てが伸び上がって美鈴を襲う。爪というアドバンテージを隠した、フランドールの拳は正確に美鈴の身体を打ってくる。軌道を見極めて美鈴は受け流し、機を見た。
美鈴が流した右腕を引き、左足が代わりに伸びてくる。身体ごと伸び上がるような飛び蹴りを頭を屈めて躱し、視界から僅かに離れたフランドールが、空中で身体を制御して半回転、宙返りをするように爪を煌めかせる。美鈴は気配を捉えると同時に地に倒れ込むがごとくに跳んだ。余裕などどこにもない。転がるように立ち上がり、フランドールの追撃を受ける。ごく近い距離から振り払ったフランドールの左腕を、左手で合わせて跳ね上げる。空いた顔面に向かってカウンターに右腕を叩き込む。――運命が破壊された。美鈴の予測は外れ、俯瞰していたかのごとくにフランドールが回避を済ませている。
く、と美鈴は呻く。どこにもない。自分の予感は裏切られ、経験、生きて積み上げてきた全てが、今否定されようとしている。美鈴の知らない領域。
「さあ」
フランドールが立っている。ただ存在している、それだけで全てを変えてしまう。
美鈴は、怯えを感じる前に踏み込んだ。前に出た。それだけが美鈴の全てを肯定した。
虚無と意志の戦いを、見下ろす影が二つ。従者が、主人に語りかける。
「お嬢様。美鈴に貼り付けた“徴”とは何なのです?まさか、あんな紋章程度で、妹様の力を除けることは、出来ないでしょう」
「咲夜の言う通り。ただの思い込みよ。普段の力は、確かに落ちるように細工はした。だけど、あんなものでフランの力が撥ね除けられるほど、強くはないわ」
主人が続ける。
「そも、フランの力は意志のあるものには効き辛い。無機物を破壊するように、何もかもを破壊するという訳にはいかないわ。フランの力の根底は、幼い全能感よ。咲夜、あなたも私も覚えがあること。何でも思い通りになると信じ込む、愚かで幼い欺瞞。誰もが一度は持ち、やがて失うそれを、フランは持ち続けている。そうしなければ、自分が壊れてしまうのだから、ままならないものよね」
美鈴が振るった拳を、またフランが、拳が当たるという運命を破壊して回避する。自分には当たらない、という思い込みがそれを可能にする。
「フランは幼い、何もかもを嫌う力を現実にしてしまう。だけど、他人には意志がある。挫折が生まれ、幼さは失われてゆく」
「…………」
「だから、フランの力をフルに発揮できるのは、無機物か、フランドール・スカーレットには万物を破壊する力がある、と信じる者だけ。事実、そう信じて破壊された者もいる。何にしても、あの異様な威を前にして、怯えを感じぬ者はそうはいない。
特に、美鈴! 奴は信じやすい。考えが回り、自分の思考を疑わないから……圧倒的な者には弱い。勝てない、という自らの意志で自らを殺してしまう。少し、背を押してやらないと、美鈴は自身の思い込みで死ぬ。でも、一度向き合えば、誰も及ばぬほど器用に立ち回るわ。フランのことで頭が埋まるなら、別の何かで掘り起こしてやればいい。何、何とかするでしょう」
「私には……やはり、お嬢様の判断が正しいとは思えません。能力が効かないと思い込んでいるとは言え……妹様の力は。単純な、吸血鬼としての膂力は、圧倒的ではないですか」
「フランが自分の力を頼りにするなら、それこそ正解だよ。あの子も私と同じだからね。自身の力を振り回すようになれば、満足するさ。それに、咲夜。私の判断が誤っているなら、一体何が正解? 咲夜、あなたの力は論外だわ。殺すか、死ぬか。時の流れが誰にもに平等なように、あなたは全てに一線を引いてしまう。フランが死ぬ? 咲夜が死ぬ? どちらも、ごめんだわ。パチェも駄目。あの子と遊び続けるには剛性も、体力も足りない。私にも、あの子の相手はできないわ。あの子が私自身を破壊することはできなくても、あの子は私の運命を破壊する。結局殴り合いになった時、あの子も私も本気になる。全部、壊してしまうわ。それこそ幻想郷の全て。
だからと言って。このまま、あの子を閉じ込めておくにも限界がある。あの子が本気で世界を厭うなら……幻想郷どころか、地球さえ破壊してしまう。世界の滅びを歌うなら、それさえも現実の方に引き寄せてしまう。
……あの子は適任よ」
主人が、美鈴を見下ろす。
「正面から向き合うだけの力。死なず、殺さず。技量に富み、破壊するフランドールの力を意識しなければ、吸血鬼と打ち合うこともできる。私としたみたいに、一晩中でもね」
「……そこまで、予見していたと? 運命を操って……美鈴と、あれだけの戦いを演じて、美鈴を連れてきて。それで、妹様のことも、この館のことも、全てが良い方向に行くと」
「館のことは予想外よ。私としては、フランを何とかしてくれるだけでも有り難いこと。私では、どうしてもむきになってしまう。あの子と正面に向き合うには……私はまだまだ、幼い。そして、お前は大人過ぎる、咲夜。あいつくらいのが丁度良いのさ。理解して、一緒になって遊んでやるには、ね」
踏み込みに合わせて拳を突き出す。すい、とフランドールが躱し、背後を取られるとたたらを踏んで背中をぶつける、だがそれがフランドールが先に身体をぶつけることによってバランスが崩れ、力が十分に伝わらない。
「く、あなたは……」
「なあに? あなた如きの力で、私に勝てるとでも思ったのかしら」
振り返るスピードを超えて、フランドールが美鈴の後ろにいる。元の方向を振り返る間もない。美鈴の感覚を擦り抜けている――フランドールが急激に動く、その予備動作を美鈴は掴んでいない。動く予感は全くなかった。
「――ふっ!」
振り替える勢いに乗せて裏拳を見舞い、空を切り、地を蹴った。急加速による膝蹴りをも見えない軌道で躱す。そして不可解なことに、この期に及んでもフランドールは手を出さない。まるでいつでも殺せると言わんばかりに。
「言ったはずよ。あなたの運命は破壊する」
美鈴は思う。意志が意志とぶつかり、消えてゆく、その事実。美鈴自身が、これまで相対してきた意志は、果たして本物であったのか。幾度となく戦い、そこにのみ自分自身があると信じ…そして打ち砕いてきた意志は、果たして本物であったのか。
美鈴は思う。ここで潰えるのか。私の意志は、拳は、道は――、一つの暴威、異様、狂騒によって、滅せられるものなのか。
違う。断じて、否。
全く同じ意志と意志がぶつかる時、その意志の貫徹を成すのはたった一つ、私自身であるという事実に他ならない。生き延びること、意志を貫くこと、時に相反する。その両方を、やり遂げてきた。為し得てきた。私は私の他に、それを成し遂げた人物を知らない。
私はただ一つだ、紅美鈴。怪しげな吸血鬼ごときに立ち止まる器ではない。
打ち貫く。
私には拳も意志も残っている。何一つ奪われてはいない。
「妹様」
「なあに」
「あなたの意志は、偽物です。あなたは全てから目を逸らしている。目の前にいる私すら、見てはいません」
フランドールが動きを止める。そのとき初めて、フランドールは美鈴を見た。
「あなたは、私に勝てません。運命は、あなたを選ばない。ただ破壊する、あなたの意志は、どこへも到達することはない」
フランドールが拳を握り締める。美鈴はびりびりとした気の流れを感じている。意志と意志の衝突。
美鈴は改めて、フランドールへと意志をぶつけてやった。フランドールは言葉を破壊することをしない。耳を閉ざしてしまえば、自らが発する言葉にさえ、意味は消失する。フランドールはそこまで、世界との乖離を望んではいない。
フランドールに、美鈴の意志を破壊する力があるように。美鈴にもまた、その力は宿る。
レミリアとフランドールの力は……運命を受け入れること、全てを破壊すること……許容と行動だ。二人の能力は圧倒的だとは言え、誰しもが持っている力の拡大講釈でしかない。
美鈴にもまた、二人と同じ力がある。
結局のところ、吸血鬼とは、運命を操る力とは、全てを破壊する力とは、全ての人間、妖怪が持つ、意志の力と使役される身体の力の、延長に過ぎない。
「その証拠に。あなたは、私を打ち倒すことができない」
「黙れ!」
美鈴の意志が、フランドールの意志を破壊する。心乱し、フランドールが力任せに叩き付けた一撃を美鈴はするりと躱す。一瞬零になった美鈴とフランドールの距離、美鈴は拳を伸ばして肩口に触れた。触れることができる。そのことを認識して、美鈴は右手を振り抜いた。
頬が歪み、フランドールの身体を吹っ飛ばす。フランドールの身体は軽い。衝撃で、容易にバランスを崩される。だが、ダメージは殆ど無いだろう。レミリアと同じく、吸血鬼であるフランドールは、身体の剛性を備えている。
「まだ、ですよ。妹様」
美鈴は、自らに言い聞かすように言った。
「まだ一撃です。あなたの力は、私一人程度を殺すには充分に過ぎる。あなたは、何も失っていません。
あなたは、一度も殴られたこともなく……悪意に晒されながらも、全部見ないようにして生きたきたんでしょう。あなたに、悪意を教えます。拳の痛みを、教えます。
ですから。あなたもやり返して、いいんです。訳の分からない感情を、誰彼無しに、振りまくことなんてない。あなたを受け入れます。だから、さぁ、立って下さい」
フランドールは、泣きも喚きもしなかった。幼子がそうして世界を呪うように。ただ、美鈴に手を引かれるがままに、立ち上がった。自分の力を確かめるように拳を握り、美鈴に殴りかかった。美鈴は体術を使ってそれを躱した。
「あなた、気に入らないわ」
受けに徹する美鈴。フランドールは、伸びやかにその凶器そのものの手足を振るった。攻撃の起点を見切って涼やかに捌き続ける美鈴。一つ間違えば、死の振りまかれるというのに、互いの間にはどこか爽やかな風が吹いた。
「そうですか?」
「ええ。飄々として、手応えがないわ。あなたなんて、壊れてしまえばいい。そんな風に思うのにね」
「なら、壊して下さい。構いませんよ? 私はいつか、そこに到達することを望んでいるのかもしれません」
「馬鹿ね」
フランドールの爪が、美鈴の掌によって指向性を変えられ、美鈴の身体には到達しない。何もかも過ぎ去ってゆくかのような清々しさが、会話にさえ満ちた。
「死を願うなら、私の前に立たないわ。逃げて逃げて、ただ生きて死ぬのよ。生きることになんて意味はないわ。何かをして、死ななければ」
「ええ。あなたは伸び伸びと、自らの死を願って良いのです。ただ漫然と、生かされることを忌避するのならば。私も、同じです」
ふ、とフランドールが笑う。くは、と美鈴が笑う。笑いが、互いの間に一つの感情を芽生えさせ、暴力が交差した。
「それで、どうなったんです?」
美鈴が出した椅子に座って、阿求が手帳に文字を綴っている。
「まあ、どうということもありませんよ。夜が明けるまで殴り合って。それで、外に行けなくなったから帰ったと。そういう次第です」
戦闘の型を、呼吸を整えながらゆっくりと形作る。美鈴は鍛錬をしながら話していた。
「それにしても、どうして今更になって吸血鬼異変を?」
「ええ、吸血鬼異変は妖怪達が中心となっている為、あまり知られていません。天狗でさえすぐ後に生み出されたスペルカードの方に注目していますし。まぁ、一応抑えておこうと、そういうことです。あまり情報がないもので、為になりました」
「あとは、あなたの知っている通りですよ。お嬢様が妖怪といくつかの盟約を結んで。不承不承、でしたが、妹様のことは気にかけていたようで」
「その後、妹様はどうしていますか?」
「妹様はそれからも数度出ようとしましたけれど、スペルカードが始まってからは私など相手にならない、とすぐに外に遊びに出てしまいます。まぁ、以前のように殺し合いではなく楽しめるので、お嬢様をそれを許容しているようですし、そもそも、館の中でもそれなりに楽しむようになったので、あまり外に行きたがることもなくなりました。幻想郷の空気も合っていたようで、前ほど気質が狂気に彩られることもなくなりましたし。スペルカードルールが生まれるまでは、問答無用で殺されそうになって。大変でした」
「それでは、館に来る人間を相手どるのが、本来の……今の仕事と言うわけですね。近頃は館に侵入しようとする輩も増えたようですしね。でも、そこは分かるんですが、理解出来ない部分もあります。誰の味方でもないと言うあなたが、どうして紅魔館にて、未だ門番を続けているのか。フランドールさんを保護するという目的は、最早果たしたのでは? そもそもは、レミリアさんと、そういう契約だったのでしょう?」
「徴も消してもらいました。門番って言う仕事なんですけれど……私、向いてるかなって。門番は戦う仕事で、自分のしていることと一致してるんです。レミリアお嬢様にも、まだ借りはありますしね。
それに、ここに来てから、誰かと関わることが増えました。咲夜さんとは鍛錬を共にする仲間ですし、幽香さんとは時々やり合いますし。氷精の子は時々挑戦に来てくれる。紫さんは……良く、分かりません。でも、妹様のことでもしものことがあれば、と心配してくれてるみたいです。お嬢様は……お嬢様も、どうやら信頼してくれているようなので。誰かと長く一緒にいることは無かったですけど、私はここに長くいるような気がしてます。それに、信頼されるというのは、誰かと関わりがあるのは、存外嬉しいもので。ええ」
そう言って、美鈴は照れたように笑った。
「その信頼に応えていられるうちは、ここにいようかな、と。自分の道が妨げられる訳ではない……というよりも、むしろ一人で鍛錬をしているよりも、良いのかもしれません。戦うことにしても、人と関わることにしても……ああ、そうですね。端的に言葉にするなら。
私は、一人ではなく、皆と生きることを楽しんでいるのですよ」
後篇:金の凶星、略奪、狂奔、慟哭:了
紅魔:了
十分に楽しめました。
ただ最後の部分が尻切れ蜻蛉に感じたので-20点で。
面白かったです
久しぶりに……アツくなっちまったよ……。
能力の解釈についても、そうくるのか、と驚かされました。
論理的整合性もなければ、裏付ける客観的事実もないけど、それでもストンと自分の中に落ち着いてしまった。これは凄い。
一方で、めーりんハウスをぶっ壊したのが、後々の存在とか意志とかの流れだとは分かりにくかった。
読み直して、あぁそういうことか、と一周遅れで理解が追いついた。(俺の読解力とか記憶力がないだけか)
アクションはもうお腹一杯です。味付けが濃すぎて、ちょっと読み飛ばしちゃった。
そういった好みの都合を差し引いても、面白い作品でした。
そして能力の解釈が中々見ないもので面白かった
キャラクターにも惹かれるね、共感出来る美鈴とか、胡散臭い紫とかがたまらん愛しさ