「忌々しい季節がやってきたわ」
ぱるぱるぱるぱる。
要するに例のあの季節が到来したのである。
クリスマスという悪の季節が。
おおなんたるリア充どもの巣窟よ。
地上との交流も盛んになり、その度合いは増したといってもよい。
今、旧地獄の市街地は歓楽街的な雰囲気をまとい、若いカップルが増えている。
パルスィは意味もなく嫉妬した。
嫉妬する心がパルスィのパワーになるのだからしかたない。
べつに誰か特定の人をうらやんでいるとかそういうわけではなく、ともかくもう世の中の仕組みというやつが恨めしい。
「いけません」
いきなり声をかけられて、パルスィは驚き振り返る。
そこには光り輝く聖人の雰囲気をまとうものがいた。
パルスィにとっては天敵以外のなにものでもない。
いや、だいたいの妖怪にとっての天敵。
聖人。
豊聡耳神子。
聖徳太子である。
「十四に曰く――嫉妬してはならない」
「十七条の憲法……」
「そう、よくご存知ですね。古き教えなのですが」
「ここが封じられていたときはやることなかったからね、古い情報を何度も反芻するしかなかったのよ。だからそういう古い教えも知っている」
「なるほど」
「それで飛鳥の時代の古い聖人様がどうしてこんなところにいらっしゃったのかしら」
「たいしたことではないのですがね」
「たいしたことがない? そのわりには余裕じゃないの。ここはまだ妖怪たちのテリトリー。しかも忌み嫌われた妖怪の巣窟なのよ。あんたみたいな世間知らずのお嬢様が着たら、すぐにヘイ彼女とか言われてナンパされるに決まってるわ」
「ナンパというものはよくわからないけれど、君みたいな綺麗な子に声をかけられるんなら悪くないわね」
「な……なにをいうのよ」
青天の霹靂というべき出来事であろうか。
なぜか目の前の聖徳太子様はパルスィに興味をもったようである。
「なんで私なんかに」
「嫉妬心ですね。私は欲望というものに人一倍敏感なんです。なにしろ国の根本規範たる憲法にわざわざ記すぐらいなんですからね。わかるでしょう」
「わかんないわよ」
「嫉妬するということは人間の本質でもあるんですよ。上にいる者は下にいる者の気ままな暮らしをうらやむし、下にいる者は上にいる者の豪奢な暮らしをうらやむ。隣の芝は青い。幸せの青い鳥は隣人にだけ訪れる。そういう思考をしがちなのが人間ということです」
「私は妖怪なんだけど」
「そう。妖怪とは人心を惑わすもの」
「つまり退治しにきたってわけ?」
「いえ……雪ですよ」
「雪?」
「ほら、ここは地下だというのに雪が降っているでしょう。まるで人間の欲のようにふわふわと空中をただよい。堆積する。きっとどこかで蒸発されなければならないものなのです」
「わかんないわね」
「お天気がとまらないのです」
「ますますわかんない」
「この雪はきっと人の欲望を知らず知らずのうちに溶かしているのですよ。具体的に言えば――好きな人の隣にいたい。暖かい布団に包まれたい。渇いたのどをうるおしたい。総じて幸せになりたい。愛されたい。そういった想いを募らせていったんでしょうね」
「ふうん。雪のなかに欲望を見たわけね」
「どうして溶かされてるのでしょうね。この白い雪の中に幾万の想いが見えます」
「わかんないわ。人が多いからじゃない? ていうか周りを見てみなさいよ。だいたいは幸せな顔をしたやつらばかりじゃない。あんたのいう幸せになりたいって願望は既に成就してるんじゃないの?」
「それはどうなんでしょうね。人の欲望には限りがありません。君だって自分の嫉妬心を自在に操られるのでしたらそんなふうにパルパルしていないわけでしょう」
「私は好きでパルパルしてるのよ」
「好きか嫌いかなんて関係ないのです。そもそも人の想いとは暗中の裡にあるもの。たとえばどこぞの巫女に命を狙われている妖怪がいるとして、赤白でできた旗を一瞬見たとする。その妖怪は表層の記憶のおいては旗を見たという知覚はないのだが、身体的反応として動悸が始まり体が震え一歩も動けなくなる。これは知覚以前の知覚として赤白を認識し、そこから巫女を連想したためです。わかりますか。心の表面で思考するよりも早く、想いというものは形成されているのです」
「私もそうだって言うの?」
「私の見立てではそうです。あなたは自分自身の自己決定で嫉妬していると言ったけれど、本当は――」
神子は少しだけ言葉を停めた。
「強いられてるんだ」
「強いられてなんかないわよ。だいたい幸せな顔をしているやつらってなんだか壊したくなってくるでしょ」
「……そうなのですか?」
「まあそういうことを思わないやつがいることも知ってるわ。あんたはそういうタイプなんでしょうけど、そうじゃなくて逆に他人が幸せなのが許せないってやつもいるの。だって私なのよ。この宇宙でただ一つの存在である私がなぜ他者なんかよりも不幸であるの? おかしいでしょ」
「傲慢ですね」
「知ってるわよ。でも私はその想いを貫く。誰がなんといおうと嫉妬するのをやめない。私はたぶん嫉妬することが気持ちいいの」
「なるほど。だいたいわかりました。そもそも嫉妬するというのは自分の不快を表に出す行為なわけですが、なぜパルスィさんがそういった不快を表に出すのか考えてみましょう」
「べつにいいわよ」
「思うにそれは平等を貫いた結果なのではないかと思うのです。十四に曰く――現在の憲法では平等を教えているらしいじゃないですか。奇妙な符合もあったものです」
「言ってる意味わかんないんだけど」
「つまりですよ。『私』は合理的な人間であり、いつも自分の快楽を最大にしようとするのですが――この現代社会の原則として快楽を得るにはそれなりの努力をしなくてはならないというわけです。つまり努力を支払い快楽を得る。これはどうやら今の世の中では資本主義と呼ばれている事柄のようですね」
「資本主義ねぇ。妖怪には似合わない考え方」
「けれど君は無意識の下で資本主義に隷従している。努力に見合った快楽を得るのはよいのだが、どうやら努力に対して得られる快楽が少ないと見ている。さてここで天秤の一方に努力をのせてもう一方に快楽をのせるとし……、まあ快楽という言葉で不満ならば愛でも幸福でもいいんですけどね。ともかくそのつりあいがとれていないのならどうすればよいか。そこで登場するのが不快という感情なのですよ。君は天秤の努力の側に不快という感情をのせることによって、両者の調整を図ろうとしているわけです。これはきわめて資本主義にのっとった合理的な選択なわけです」
「べつにそんなこと考えたことなんかないけど」
「無意識で選択しているというのならますますあなたの嫉妬心は資本主義の奴隷であるということになります」
「私は好きに嫉妬しているの。それが楽しいから」
「それはそれで立派な考え方だとは思うのですが、なぜ私が憲法に嫉妬するなと書いたのか今一度考えて欲しいですね」
「所詮人間の理じゃないの」
「そのとおりではあるのですが、しかし妖怪もまたこの世界――幻想郷の一員たろうとするのであれば必然的に立ちのぼってくる問題があります。それは公共性という概念です。あなたがいくら個人であろうとしても、憲法はその上をいく。公共性とはそういう概念なのです。すなわち嫉妬するなと憲法で書いたのは、その概念が個人を越えているから」
「知ったことじゃない」
「しかし、あなたはなぜ人が嫉妬するのかを知らない」
「知ってるわよ。自分より他人が幸せなのが許せないからでしょう」
「それは個人的な経験を語ってるだけです。私が言いたいのは、どうして嫉妬心が生まれるのか。その起源を語ってるのですよ。私は言葉の起源や愛の起源と同じく、どうして嫉妬するのかという起源については誰も語ることができないと宣言しているだけです。これは宣言であり主張ですらない。検討するまでもなく正しいことだからです。彼岸にある概念について妖怪だろうと人間だろうと語ることはできないのですよ」
「人間はいつだって自分が正しいと決めてかかるけどあんたもそういうタイプなのかしらね」
「まあ人間にはそういう見当識があることは否定しませんよ。ですが真実は真実。時間をかけて考えれば幼児であってもたどり着く事柄です」
「じゃあ仮にあんたがいうとおり、嫉妬の起源っていうのがわからないとしてもよ。なぜそれを公共性とかいうわけのわからないもので歪めなきゃならないわけ? 傲慢だろうがなんだろうが、私は私の立てた規範に従うし、それを誰にとやかく言われる筋合いもないわ」
「驚嘆すべき傲慢さですね。さすが妖怪というべきですか。精神生命体である妖怪は自らの出自をほとんど本能的に悟っているように思います」
「ご高説どうも」
「あなたの問いにお答えしましょう。公共性というのは個人を越えているからですよ。例えば私はなぜ人が人を愛するのか答えられないが――それが善いことであると識っている。連綿と続く歴史的なつながりのなかで人は愛され、そして愛された人もまた誰かを愛し、その連続性が愛という概念そのものを担保する。社会の構造として人は愛されてきたから、ゆえに『私』も愛さなければならない。つまり義務」
「ちっぽけな時代のちっぽけなまとまりのちっぽけなイデオロギーじゃないの」
「それでもその概念は経済合理性や資本主義といった概念を越えている。誰もその理由を答えることはできないが、歴史の連続性が正当性を担保する」
「どうでもいいわよそんなこと。聞きたくない言葉なんてどんなに素敵で正しくても屁理屈と同じなんだから」
「それもまた真実ですね。いいでしょう。なら君に即した言葉に変えます」
神子はゆっくりと手を伸ばした。
「いっしょに街を歩きませんか」
「なぜ?」
「嫉妬に身を焦がすよりはずいぶんと生産的ではないかと思いまして」
「言ったでしょう。私は嫉妬するのが好きなの」
「でもそれは矛盾のように感じます。嫉妬とは不快の感情のはずなのにあなたは快楽を得ていると言ってるわけですから」
「そういうふうにゆがんでいるのが妖怪なの」
見なさいよ――
と、パルスィは両手を広げる。
「今このとき、世の中にいるだいたいのアホな連中は自分達が幸せだってことを信じてやまないわ。社会の仕組みとしてこの日この時は幸せであろうとする――あなたが言うところの欲望が高まる時期なの。私はその想いに対してカウンターパンチをしたい。そんな社会のあり方に爆弾テロをしかけたい。リア充どもは爆発したほうがよっぽど綺麗な花火であるし、仕組まれているという感覚から解き放たれる気がするわ」
「ああ、しかしそれこそが資本主義の策略じゃないのですか」
「そうかもしれないわね」
パルスィは驚くほど素直に頷いた。
きっと心の底では少しだけわかっているのだ。
この嫉妬心の起源はきっと人の欲望から端を発し、パルスィ自身にはコントロールすることができない。
パルスィは自己の自由の結果として嫉妬したいのだと主張しているが、実際のところは愛が愛であるように嫉妬が嫉妬であったというだけのこと。
嫉妬するというのは人がそうであるからという彼岸の彼方にある理由によって、運命づけられているに過ぎない。
パルスィがいくら嫉妬を起源にする妖怪であったとしても、パルスィ自身は嫉妬そのものでなはないのだから、どうしてパルスィが嫉妬するのかパルスィ自身にもわからない。
それでもよいと思っていた。
だが――
こうして聖人を目の前にすると、自分のアイデンティティが揺らいでくる感覚がする。
なんとも聖人とは恐ろしい存在だ。
妖怪の天敵である。
精神の根本をゆさぶってくる。
ああ、けれど神子はきっとパルスィを破壊したいという欲望を抱いているわけではないのだろう。
彼女にあるのは、嫉妬するのが善くないという規範が在ったという事実だけなのだ。
飛鳥の古い時代から、人は嫉妬してきた。そして嫉妬することは善くないことではあるという規範があり、それを明文化した。憲法に書いた。先に嫉妬は善くないという概念があり、それを書き起こしたのである。
だから、嫉妬することはパルスィを超えたところで善くないことであり、禁止事項であるという、ただそれだけの単純な事実。
単純であるが揺るがすことができない事実。
「でもそれでも私は選ぶの」
「嫉妬することをですか」
「そう。それが正しくないとわかっていても」
「まさしく妖怪ですね。人間とは相容れない存在です」
「そうかもね。あなたの人間の定義に従えば。じゃあ退治するのかしら。抵抗させてもらうけど」
「いえ――やめておきます。一に曰く、和をもって尊しとなすですよ」
「矛盾してるわ」
「彼岸に起源を持つ欲望は矛盾してることだってあるんですよ」
「屁理屈」
「あなたにとってはそうかもしれませんね」
神子は空を見上げる。
雪はまた降り注いでおり、そこにはほとんど無限と思われるような欲望が溶かされている。
パルスィにとっての嫉妬が快楽を得るための手段であるとしたら、嫉妬が不快の体験である人間にとっては、ほとんど彼女は不幸になりたいといっているに等しい。したがって、およそすべての概念を包摂し、個人と公共性とをつなぐ和という概念を最重要視する神子は今このときパルスィの不幸を願わずにはいられない。
メリークリスマス。
あなたに不幸を。
そしてふたりは別れて歩き出した。
ぱるぱるぱるぱる。
要するに例のあの季節が到来したのである。
クリスマスという悪の季節が。
おおなんたるリア充どもの巣窟よ。
地上との交流も盛んになり、その度合いは増したといってもよい。
今、旧地獄の市街地は歓楽街的な雰囲気をまとい、若いカップルが増えている。
パルスィは意味もなく嫉妬した。
嫉妬する心がパルスィのパワーになるのだからしかたない。
べつに誰か特定の人をうらやんでいるとかそういうわけではなく、ともかくもう世の中の仕組みというやつが恨めしい。
「いけません」
いきなり声をかけられて、パルスィは驚き振り返る。
そこには光り輝く聖人の雰囲気をまとうものがいた。
パルスィにとっては天敵以外のなにものでもない。
いや、だいたいの妖怪にとっての天敵。
聖人。
豊聡耳神子。
聖徳太子である。
「十四に曰く――嫉妬してはならない」
「十七条の憲法……」
「そう、よくご存知ですね。古き教えなのですが」
「ここが封じられていたときはやることなかったからね、古い情報を何度も反芻するしかなかったのよ。だからそういう古い教えも知っている」
「なるほど」
「それで飛鳥の時代の古い聖人様がどうしてこんなところにいらっしゃったのかしら」
「たいしたことではないのですがね」
「たいしたことがない? そのわりには余裕じゃないの。ここはまだ妖怪たちのテリトリー。しかも忌み嫌われた妖怪の巣窟なのよ。あんたみたいな世間知らずのお嬢様が着たら、すぐにヘイ彼女とか言われてナンパされるに決まってるわ」
「ナンパというものはよくわからないけれど、君みたいな綺麗な子に声をかけられるんなら悪くないわね」
「な……なにをいうのよ」
青天の霹靂というべき出来事であろうか。
なぜか目の前の聖徳太子様はパルスィに興味をもったようである。
「なんで私なんかに」
「嫉妬心ですね。私は欲望というものに人一倍敏感なんです。なにしろ国の根本規範たる憲法にわざわざ記すぐらいなんですからね。わかるでしょう」
「わかんないわよ」
「嫉妬するということは人間の本質でもあるんですよ。上にいる者は下にいる者の気ままな暮らしをうらやむし、下にいる者は上にいる者の豪奢な暮らしをうらやむ。隣の芝は青い。幸せの青い鳥は隣人にだけ訪れる。そういう思考をしがちなのが人間ということです」
「私は妖怪なんだけど」
「そう。妖怪とは人心を惑わすもの」
「つまり退治しにきたってわけ?」
「いえ……雪ですよ」
「雪?」
「ほら、ここは地下だというのに雪が降っているでしょう。まるで人間の欲のようにふわふわと空中をただよい。堆積する。きっとどこかで蒸発されなければならないものなのです」
「わかんないわね」
「お天気がとまらないのです」
「ますますわかんない」
「この雪はきっと人の欲望を知らず知らずのうちに溶かしているのですよ。具体的に言えば――好きな人の隣にいたい。暖かい布団に包まれたい。渇いたのどをうるおしたい。総じて幸せになりたい。愛されたい。そういった想いを募らせていったんでしょうね」
「ふうん。雪のなかに欲望を見たわけね」
「どうして溶かされてるのでしょうね。この白い雪の中に幾万の想いが見えます」
「わかんないわ。人が多いからじゃない? ていうか周りを見てみなさいよ。だいたいは幸せな顔をしたやつらばかりじゃない。あんたのいう幸せになりたいって願望は既に成就してるんじゃないの?」
「それはどうなんでしょうね。人の欲望には限りがありません。君だって自分の嫉妬心を自在に操られるのでしたらそんなふうにパルパルしていないわけでしょう」
「私は好きでパルパルしてるのよ」
「好きか嫌いかなんて関係ないのです。そもそも人の想いとは暗中の裡にあるもの。たとえばどこぞの巫女に命を狙われている妖怪がいるとして、赤白でできた旗を一瞬見たとする。その妖怪は表層の記憶のおいては旗を見たという知覚はないのだが、身体的反応として動悸が始まり体が震え一歩も動けなくなる。これは知覚以前の知覚として赤白を認識し、そこから巫女を連想したためです。わかりますか。心の表面で思考するよりも早く、想いというものは形成されているのです」
「私もそうだって言うの?」
「私の見立てではそうです。あなたは自分自身の自己決定で嫉妬していると言ったけれど、本当は――」
神子は少しだけ言葉を停めた。
「強いられてるんだ」
「強いられてなんかないわよ。だいたい幸せな顔をしているやつらってなんだか壊したくなってくるでしょ」
「……そうなのですか?」
「まあそういうことを思わないやつがいることも知ってるわ。あんたはそういうタイプなんでしょうけど、そうじゃなくて逆に他人が幸せなのが許せないってやつもいるの。だって私なのよ。この宇宙でただ一つの存在である私がなぜ他者なんかよりも不幸であるの? おかしいでしょ」
「傲慢ですね」
「知ってるわよ。でも私はその想いを貫く。誰がなんといおうと嫉妬するのをやめない。私はたぶん嫉妬することが気持ちいいの」
「なるほど。だいたいわかりました。そもそも嫉妬するというのは自分の不快を表に出す行為なわけですが、なぜパルスィさんがそういった不快を表に出すのか考えてみましょう」
「べつにいいわよ」
「思うにそれは平等を貫いた結果なのではないかと思うのです。十四に曰く――現在の憲法では平等を教えているらしいじゃないですか。奇妙な符合もあったものです」
「言ってる意味わかんないんだけど」
「つまりですよ。『私』は合理的な人間であり、いつも自分の快楽を最大にしようとするのですが――この現代社会の原則として快楽を得るにはそれなりの努力をしなくてはならないというわけです。つまり努力を支払い快楽を得る。これはどうやら今の世の中では資本主義と呼ばれている事柄のようですね」
「資本主義ねぇ。妖怪には似合わない考え方」
「けれど君は無意識の下で資本主義に隷従している。努力に見合った快楽を得るのはよいのだが、どうやら努力に対して得られる快楽が少ないと見ている。さてここで天秤の一方に努力をのせてもう一方に快楽をのせるとし……、まあ快楽という言葉で不満ならば愛でも幸福でもいいんですけどね。ともかくそのつりあいがとれていないのならどうすればよいか。そこで登場するのが不快という感情なのですよ。君は天秤の努力の側に不快という感情をのせることによって、両者の調整を図ろうとしているわけです。これはきわめて資本主義にのっとった合理的な選択なわけです」
「べつにそんなこと考えたことなんかないけど」
「無意識で選択しているというのならますますあなたの嫉妬心は資本主義の奴隷であるということになります」
「私は好きに嫉妬しているの。それが楽しいから」
「それはそれで立派な考え方だとは思うのですが、なぜ私が憲法に嫉妬するなと書いたのか今一度考えて欲しいですね」
「所詮人間の理じゃないの」
「そのとおりではあるのですが、しかし妖怪もまたこの世界――幻想郷の一員たろうとするのであれば必然的に立ちのぼってくる問題があります。それは公共性という概念です。あなたがいくら個人であろうとしても、憲法はその上をいく。公共性とはそういう概念なのです。すなわち嫉妬するなと憲法で書いたのは、その概念が個人を越えているから」
「知ったことじゃない」
「しかし、あなたはなぜ人が嫉妬するのかを知らない」
「知ってるわよ。自分より他人が幸せなのが許せないからでしょう」
「それは個人的な経験を語ってるだけです。私が言いたいのは、どうして嫉妬心が生まれるのか。その起源を語ってるのですよ。私は言葉の起源や愛の起源と同じく、どうして嫉妬するのかという起源については誰も語ることができないと宣言しているだけです。これは宣言であり主張ですらない。検討するまでもなく正しいことだからです。彼岸にある概念について妖怪だろうと人間だろうと語ることはできないのですよ」
「人間はいつだって自分が正しいと決めてかかるけどあんたもそういうタイプなのかしらね」
「まあ人間にはそういう見当識があることは否定しませんよ。ですが真実は真実。時間をかけて考えれば幼児であってもたどり着く事柄です」
「じゃあ仮にあんたがいうとおり、嫉妬の起源っていうのがわからないとしてもよ。なぜそれを公共性とかいうわけのわからないもので歪めなきゃならないわけ? 傲慢だろうがなんだろうが、私は私の立てた規範に従うし、それを誰にとやかく言われる筋合いもないわ」
「驚嘆すべき傲慢さですね。さすが妖怪というべきですか。精神生命体である妖怪は自らの出自をほとんど本能的に悟っているように思います」
「ご高説どうも」
「あなたの問いにお答えしましょう。公共性というのは個人を越えているからですよ。例えば私はなぜ人が人を愛するのか答えられないが――それが善いことであると識っている。連綿と続く歴史的なつながりのなかで人は愛され、そして愛された人もまた誰かを愛し、その連続性が愛という概念そのものを担保する。社会の構造として人は愛されてきたから、ゆえに『私』も愛さなければならない。つまり義務」
「ちっぽけな時代のちっぽけなまとまりのちっぽけなイデオロギーじゃないの」
「それでもその概念は経済合理性や資本主義といった概念を越えている。誰もその理由を答えることはできないが、歴史の連続性が正当性を担保する」
「どうでもいいわよそんなこと。聞きたくない言葉なんてどんなに素敵で正しくても屁理屈と同じなんだから」
「それもまた真実ですね。いいでしょう。なら君に即した言葉に変えます」
神子はゆっくりと手を伸ばした。
「いっしょに街を歩きませんか」
「なぜ?」
「嫉妬に身を焦がすよりはずいぶんと生産的ではないかと思いまして」
「言ったでしょう。私は嫉妬するのが好きなの」
「でもそれは矛盾のように感じます。嫉妬とは不快の感情のはずなのにあなたは快楽を得ていると言ってるわけですから」
「そういうふうにゆがんでいるのが妖怪なの」
見なさいよ――
と、パルスィは両手を広げる。
「今このとき、世の中にいるだいたいのアホな連中は自分達が幸せだってことを信じてやまないわ。社会の仕組みとしてこの日この時は幸せであろうとする――あなたが言うところの欲望が高まる時期なの。私はその想いに対してカウンターパンチをしたい。そんな社会のあり方に爆弾テロをしかけたい。リア充どもは爆発したほうがよっぽど綺麗な花火であるし、仕組まれているという感覚から解き放たれる気がするわ」
「ああ、しかしそれこそが資本主義の策略じゃないのですか」
「そうかもしれないわね」
パルスィは驚くほど素直に頷いた。
きっと心の底では少しだけわかっているのだ。
この嫉妬心の起源はきっと人の欲望から端を発し、パルスィ自身にはコントロールすることができない。
パルスィは自己の自由の結果として嫉妬したいのだと主張しているが、実際のところは愛が愛であるように嫉妬が嫉妬であったというだけのこと。
嫉妬するというのは人がそうであるからという彼岸の彼方にある理由によって、運命づけられているに過ぎない。
パルスィがいくら嫉妬を起源にする妖怪であったとしても、パルスィ自身は嫉妬そのものでなはないのだから、どうしてパルスィが嫉妬するのかパルスィ自身にもわからない。
それでもよいと思っていた。
だが――
こうして聖人を目の前にすると、自分のアイデンティティが揺らいでくる感覚がする。
なんとも聖人とは恐ろしい存在だ。
妖怪の天敵である。
精神の根本をゆさぶってくる。
ああ、けれど神子はきっとパルスィを破壊したいという欲望を抱いているわけではないのだろう。
彼女にあるのは、嫉妬するのが善くないという規範が在ったという事実だけなのだ。
飛鳥の古い時代から、人は嫉妬してきた。そして嫉妬することは善くないことではあるという規範があり、それを明文化した。憲法に書いた。先に嫉妬は善くないという概念があり、それを書き起こしたのである。
だから、嫉妬することはパルスィを超えたところで善くないことであり、禁止事項であるという、ただそれだけの単純な事実。
単純であるが揺るがすことができない事実。
「でもそれでも私は選ぶの」
「嫉妬することをですか」
「そう。それが正しくないとわかっていても」
「まさしく妖怪ですね。人間とは相容れない存在です」
「そうかもね。あなたの人間の定義に従えば。じゃあ退治するのかしら。抵抗させてもらうけど」
「いえ――やめておきます。一に曰く、和をもって尊しとなすですよ」
「矛盾してるわ」
「彼岸に起源を持つ欲望は矛盾してることだってあるんですよ」
「屁理屈」
「あなたにとってはそうかもしれませんね」
神子は空を見上げる。
雪はまた降り注いでおり、そこにはほとんど無限と思われるような欲望が溶かされている。
パルスィにとっての嫉妬が快楽を得るための手段であるとしたら、嫉妬が不快の体験である人間にとっては、ほとんど彼女は不幸になりたいといっているに等しい。したがって、およそすべての概念を包摂し、個人と公共性とをつなぐ和という概念を最重要視する神子は今このときパルスィの不幸を願わずにはいられない。
メリークリスマス。
あなたに不幸を。
そしてふたりは別れて歩き出した。
バレンタインかと思ってたらクリスマスだった