――0分目――
第百二十六季 一月十六日 雨
霊夢に、負けた。
したたかに肌を打つ雨。煙る視界で吸い込んだ息は、濃灰色の雲のように重く、苦しかった。背に当たる石畳は冷たく、すぐに起きあがらないと瞬く間に体力を奪われてしまうことだろう。それでも魔理沙は、仰向けに倒れ込んだまま、身動きをとることが出来ない。
いっそうもう、このままずっと、こうしていたい。そんな魔理沙の小さな願いは、あっけなく崩れる。
「いつまで寝てるの? ……まさか、怪我でもしたんじゃないでしょうね?」
「はっ、そんな訳ないだろ」
心配そうな表情。霊夢にしては珍しい配慮に、魔理沙は苦笑する。そんなにも、追いつめられているように見えたのだろうか。だったら心外だ、などと考えながら……小さく、唇を噛んだ。
「簡単な怪我だったら、治癒くらいして……」
「そんなこと気にするくらいなら、ぼろぼろの神社をどうにかした方がいいんじゃないか?」
「……え? あ、ああっ!」
所々はがれた石畳、灯籠は右側が崩れ、左側に至っては跡形も残っていない。言ってしまえば、ぼろぼろだ。
慌てる霊夢を後目に、魔理沙は痛む身体に鞭を打って、箒に跨る。地面を蹴るのが辛くて、ほんの僅かに体勢を崩すも、霊夢に見られる頃には空に昇ることができていた。
「あ、ちょっと! 片づけくらい手伝っていきなさい……って、もう!」
「あははっ、ちゃんと片づけとけよーっ!」
いつものように気楽に、不敵に笑って飛び去っていく。この高さまで昇ってしまえばもう、霊夢に感づかれることはない。
頬を打つ雨が、魔理沙の身体を冷やす。けれど、彼女の心はいっこうに冷えてくれない。これでは雨の中飛ぶ魔理沙が、ばかみたいだ。
ごうごうと燃える炎を消しさってしまいたくて、肌を刺す雨に堪え忍んでいるというのに。
「くそっ」
悪態をつくと、口の中に鉄の味が広がった。箒を握る手も震えていて、雨に混ざった深紅が大地へと落ちていく。
痛みだけでは癒えることのない苦しみに、胸をかきむしりたくなる気持ちをこらえて、一心不乱に飛んでいく。
気がつけば、魔法の森に構えられた魔理沙の家が、雨に煙る視界の奥でぽつんと建っていた。
「はぁ、はぁ、はぁっ」
震える喉から吐き出された息は白く、荒い。箒を打ち捨て、八卦炉をベッドに放り投げ、エプロンドレスを脱ぎ捨てて風呂場に飛び込むと、温泉から引いている熱いシャワーを頭から浴び始める。
冷やされた肌に踊る熱湯は、思わず身を竦めるほどに痛い。けれどそれでもくすぶる激情を封じ込めることは叶わず、ただ、声にならない呻きを吐き捨てた。
「なんで、なんでっ」
どん、と、風呂場の壁に拳を叩きつける。二度三度と繰り返すと、拳から流れ落ちた赤が、熱湯に混じって排水された。けれど、拳よりも、身体よりも、ただ心が痛む。
「なんで私は――――勝てないんだ」
先ほどまでの激情が瞳の奥だけに宿り、しかし吐き出された言葉は尻すぼみに消えていく。怒りの矛先を、どこに向けたらいいのか、魔理沙はわからなかった。
その意図することができない思いが、けれど、魔理沙の頭をほんの少し冷ましてくれる。
「ははっ、なに言ってんだ、私は。霊夢に勝つことが目的じゃないだろ?」
魔法を学んでいるのは、霊夢を負かしたいからではない。
それこそ、誰にもまねできない大魔法を扱えるような、そんな魔法使いになることが魔理沙の目標だ。霊夢との勝敗なんか、関係ない。
風呂場から出て、体を拭いて寝間着に着替えると、魔理沙は枕元から手垢で擦り切れた日記帳を取り出した。まだ魔法使いを志すようになる前からの、彼女の習慣だ。
「一月十八日、えーと今日は……」
書き初めて、今日は弾幕ごっこ以外になに一つとして特別なことをしていなかったことに気がつく。人間の短い一生の短い一日を、無為に過ごしてしまったような気がしてならない。
どうにも蟠りがはれないまま、魔理沙は拗ねたように唇をとがらせて、ただの一言だけ綴る。
「霊夢に負けた……っと」
見返して、将来、顔を赤くして足をばたばたさせればいい。そんな風に考えながら日記を閉じようとして、ふと、気がつく。
「あれ? もうこれで、最後なのか」
ぱたん、と日記を閉じると、翌日の予定が決まったような気がして魔理沙は頬をほころばせた。
明日は、今日できなかった魔法の研究と、新しい日記帳探しをしよう……と。
巫女魔女セパレート
―― 一分の魔女のセパレーション――
第百二十六季 一月十七日 晴
今日から、新しい日記帳を使う。
パチュリーに貰った派手で豪華な表紙の白紙の本だ。
この日記が充実した日々を綴れるように頑張ろう。
朝起きて最初にすることは、ちょっとした瞑想だ。人間という括り以上に大きな魔力を持つことができない以上、こうして日々、魔力量を増やす努力をすべきだ。
それが終わったら、顔を洗って髪をとかして、いつものエプロンドレスに着替える。朝食は普段なら夕飯の残り物を食べるのだが、昨日は作らずに寝てしまったので、手間を感じながらもご飯を炊いて味噌汁と出汁巻き卵を作った。
「さて、と」
簡単に資料を点検して、足りないものをピックアップ。記録が終わると唇をぺろりと舐めて、帽子をかぶった。
黒い靴を履いて箒に跨ると、地面を蹴って身体を浮かす。それだけで、魔理沙の身体はふわりと浮き上がり、雨上がりの青空に賑やかなツートーンカラーが舞踊る。
魔法の森を抜け、霧の湖を突き抜けて、門番と弾幕ごっこ。危なげなく交わして、魔理沙は紅魔館に足を踏み入れた。拡張された紅の廊下のその奥、根深く広がる知識の宝庫へと行く為に。
「えーと、これとこれとこれ、それと、これっと」
図書館の静謐な空気を壊してしまわないように、こっそり侵入。
手慣れた手際で本を帽子の中やエプロンドレスの隠しポケットに収納し、必要な分だけ揃ったら、パチュリーが面倒くさそうに飛んでくる前に逃げるに限る。
「……ん? なんだ、これ?」
けれど、魔理沙は一冊の本に目を留めると、首を傾げて足を止めた。
豪華で派手な、革表紙に金刺繍の本。けれど背表紙にタイトルらしきものは無くて、抜き取ってみてもそれは変わらない。
興味本位でぱらぱらとめくってみれば、中身も何もない――白紙の本だった。
「おーい、パチュリーっ」
踵を返して、一直線。その先には、面倒そうに飛んで来たパチュリーの姿があった。
パチュリーは、なんだかんだと言いつつ魔理沙に本を貸してくれる。それは長命種であるパチュリーにとって人間の魔理沙など、瞬く間に消えていく命だからだろう。
それなら、魔理沙が死んだあとにでもまた、なんらかの手段で回収すればいい。魔理沙のこの考えが正答かどうかは、わからないのだけれど。
「泥棒の癖に家主を呼び止めるとは随分ね」
「家主はレミリアだろ?」
「図書館の主。館の主という意味ならレミィと一緒。ほら、私も家主よ」
「屁理屈だぜ」
軽口を叩き合いながら、魔理沙は手に持った本を掲げる。それを差し出すと、彼女は怪訝そうに首を捻った。
「これ、貰えないか?」
「欲しいの? 珍しいわね……って、白紙じゃない」
「日記帳にしたいんだよ」
「案外律儀なのね。日々を書き留めて魔導書にでもするの?」
「いや、ただの習慣だぜ」
「ふぅん……まぁいいわ」
パチュリーはそれきり、興味を無くして魔理沙に本を渡した。
豪華で派手な、日記帳。元はどんなものであったのか、なんの目的で作られたのかはわからない。
けれど、魔理沙はこの本が自分に手にとって貰うのを待っていたような、そんな奇妙な心地さえしていた。
「それじゃ、またな! パチュリー!」
「頭とエプロンの本は置いて――って、もう」
パチュリーが言い切る前に、魔理沙は箒に跨って飛んでいく。
驚く小悪魔や妖精メイドの横目に、ため息を吐いて肩を落とす咲夜を後目に、門に背を預けて手を振る美鈴に、それを返して。
「せっかくの、新調した日記だ――楽しい日々を、書き留めないとな」
そう――ほんの少しだけ燻る瞳で、呟いた。
魔理沙は自室で、魔導書を読んでいた。
何度も何度も繰り返し繰り返し、手垢で本が汚れて、その度に焦って整えて、集中力が切れたことに嘆いて。
「違う、こうでもなくて、ああ、くそっ」
どんっ、と机に拳を落とす。インクの壺がぐらぐらと揺れて、倒れることなく静かになった。
ばくばくと、焦燥から早鐘を打つ心臓を、ぐっと抑える。どうにも気分が進まなくて、魔理沙はふらりと立ち上がり、ベッドの枕元から日記帳を取り出す。
第百二十六季 一月十八日 晴
今日も、霊夢と弾幕ごっこ。
結果は、まぁ、負けだった。
まだまだ追いつくには、精進が必要みたいだ。
第百二十六季 一月十九日 曇
魔法の成果を試そうと思ったら、上手く行かなかった。
だから負けたんだと思う。ここは、もっと集中して、頑張ろう。
ひとまず、借りた本の整理が必要だな。
第百二十六季 一月二十日 雨
今日も霊夢に、負けた。
明日は、勝つ。
第百二十六季 一月二十一日 雨
負けた。
昨日までの日記。その全てに書かれた言葉。
敗北、敗北、敗北、敗北、敗北敗北敗北敗北敗北敗北敗北敗北……――“また”。
「は、はははは、はは、なんだよ、これ」
救う言葉はない。
こんなにも自分は負けたばかりなのかと、魔理沙は唇を噛む。じわりと口の中に広がる味が敗北の味なのだと、魔理沙は知っていた。
味を覚えるほどに、魔理沙は、あの弾幕の前に心を折られてきた。
「くそっ」
吐き出して、それでも落ち着くことが出来ない。
胸元を掻きむしり、音にならない言葉を紡ぎ、なお、堪える。
「おまえも、不幸だな。こんなことしか書いて貰えないなんて――あれ?」
日記を手に取り、適当に開き、魔理沙の目に魔理沙の字が飛び込んだ。まだ書いていない今日の分は、もちろん白紙だ。けれど、その翌日、明日の分が――既に綴られていた。
第百二十六季 一月二十三日 晴
後ろから亜空穴で奇襲され、敗北。
転移の対策が必要だ。
綴られた文字は、魔理沙の字で間違いない。だが、こんな日記を書いた覚えはない。突きつけられた矛盾に、覚えのないそれに、魔理沙はぐらりと後ずさる。
「なんだよ、これ」
呆然とこぼれた言葉が、消えていく。そして、無意識に書いたのだとしたら、心の奥底から情けなく負けて敗因まで綴っているのかと思うと、無性に悔しくなった。
もう、今日の分の日記を書く気にもなれない。魔理沙はそう、苛立ちを覚えながらベッドに身体を投げる。今日はもう、なにもしたくなかった。
「なんなんだよ……ちくしょう」
悪態がこぼれ、消えていく。
枕元に放り投げられた一冊の日記帳は、ただ、魔理沙のそばで沈黙していた。
翌日、重い気分を引きずりながら、魔理沙は博麗神社に向かった。こんなに毎日、茶を飲むことすらなく弾幕ごっこをする。そろそろ変化のある戦いをしなければ、飽きられてしまうかもしれない。
魔理沙はそんな未来を想像して、身震いした。
「なに考えてんだ、私は」
独り言が増えた。
頭をかきむしることが増えた。
心を乱して痛みに耐える日が、増えた。
「よう、霊夢」
そして、なにより。
「魔理沙じゃない。ここのところ、毎日ね」
彼女の澄ました顔を見て。
「もう少しでなんとかなりそうなんだ」
「へぇ? ま、いいわ。お茶でも飲む?」
「いや、いい。勝利の味がシケたお茶じゃ、気分が乗らないからな!」
「はんっ……言ってなさい!」
苛立ちを覚えることが、増えた。
スペルカードを構え、広範囲に星形弾幕を散らす。怒濤の勢いで放たれた弾幕は、しかし霊夢に掠りもしない。
カウンターにと放たれた誘導弾を回避しながら、マジックミサイル。空の上で花火のように消えていくそれを見て、魔理沙は自分の魔法が針で打ち落とされたのだと知った。
けれど、マジックミサイルによって生まれた噴煙は、むしろ魔理沙に有利に働く。相手の視界をつぶし、広範囲へ影響を及ぼす範囲魔法を……マスタースパークを構えて、魔理沙は不敵に笑ってみせる。
「これで最後だッ!……恋符」
最良のタイミング。最高のポジション。これで外すはずはない……そう考える魔理沙の脳裏に、昨晩の光景が思い起こされる。
あの白紙の日記帳の、「今日」の項目には、いったいなんなんと書いてあったのか。
「……亜空穴……まさか?!」
とっさに振り向いたそこに、霊夢の驚いたような顔が映る。今更、避けることはできない、けれど、これは。
「うそだろ、おい」
驚いて加減を間違えた霊夢が、魔理沙を気絶させる、そのほんの少し前。
魔理沙の呆然とした声は、彼女自身にすら自覚させないまま、虚空へと消えていった。
霊夢に負けた魔理沙は、意識を取り戻してすぐその場から立ち去った。急用ができたのだ。他のなにより優先せねばならないような、用事が。
急いで魔法の森へ帰り、家に飛び込んで、日記帳を開く。そこには確かに、見間違いなんかではない、先ほどの光景が綴られた日記があった。
「おいおい、まさか」
喉はからからに渇き、冷たい汗が背筋を流れる。揺れる視線をページに留めて、魔理沙は、震える手でめくった。
「は、はは、は……なんだよ、これ」
第百二十六季 一月二十四日 曇
今日は足下に潜伏していた誘導弾で体勢を崩されて、
その上に陰陽玉を落とされて負けた。
途中で霊夢を見失わなければ、もう少し粘れたのに。
翌日の日記だ。
これも一つ前のページ同様に、敗因が綴られている。魔理沙がどうして負けたのか、その理由が事細かに。
「これが、本当なら」
そう、生唾を飲み込む。喉の鳴る音が、小さく響いた。
すぐに羽ペンを取りだして、インクの壷につっこむ。それからまっさらな羊皮紙に、日記に綴られた情報を下に対策を綴り始めた。
自分の力じゃない……そんな一抹の罪悪感を飲み込んでしまうように、一心不乱に。
「霊夢の姿を見失わないようにする。ああと、それから、誘導弾対策。それさえできれば、あとは度胸と、倒しきるだけの体力だ」
書いて。
書いて。
書いて。
羊皮紙に並べられていく文字の羅列。そのすべてが、今の魔理沙にとっては、甘美な銘酒のようにすら思えた。
すべて飲み込んでしまえば、きっと、その美酒に酔いしれることが出来る。前も、見えないほどに。
「は、はは、ははははっ」
魔法の森の一角に、魔理沙の声がこだまする。その瞳にはもう、前だけを見ていた輝きはない。
ただ、見えないものにすがりつく魔理沙の瞳は……泥水のように、濁っていた。
濁りきった灰色が、天蓋にのしかかる。太陽も空も見る事が出来ない淀んだ天気の中、魔理沙は今日の空の色によく似た瞳でスペルカードを掲げた。
「ちょっと、付き合ってくれ」
「なによ、随分急じゃない」
「急だとキツイか? 棄権なら、それでもいいぜ」
「そうじゃなくて――」
怪訝そうに眉をひそめる霊夢に、魔理沙はただ、笑う。
日記帳で情報を得て、一晩で、できる限りの用意をした。あいにく、新しい魔法を用意することはできなかったが、ここまで対策を練ったのだ。
これで、ダメなはずがない。
「――ねぇ、ちょっと魔理沙、最近なんか」
「行くぜ、霊夢!」
「もう、なんなのよ、本当に!!」
霊夢の姿が、視界から消えると、日記にあった。
その瞬間を見逃さない為に、魔理沙は自分の視界を潰さないように魔法を展開していく。マジックミサイルよりもイリュージョンレーザーへ、貫通力と薙ぎ払いで撹乱。
難なく交わす霊夢を捉えようと、魔理沙の瞳は忙しなく動いていた。彼女の姿を、ただの一瞬たりとも、逃すまいと。
「素直に堕ちろ!」
「魔理沙こそ、調子に乗るな!」
霊夢の身体が、ぶれる。夢想封印・瞬だろうか。魔理沙ですら目に追えないほどの高速移動は、しかし、事前にやるとわかってさえいればどうということはない。
魔理沙は自分に身体に魔力を流すと、身体能力を急激に向上させる。体力だけではなく、五感すらも強化する研究途中の魔法は、霊夢の身体を捉えた。
「っ逃がすか!」
「なっ……?!」
高速移動中に投げた誘導弾を、レーザーで潰す。すると、無防備な霊夢が弾き出される。手に持つのは陰陽玉のスペルカード。ここまで、事前情報と何一つ変わらない。
脳内のシミュレーション。何度も繰り返された光景。罪悪感を呑み込んだ先に差し出された勝利の皿は、ひどく甘美だ。
思わず、むしゃぶりつきたくなるほどに。
「恋符【マスタースパーク】!」
「神霊【夢想封印】」
マスタースパークに夢想封印がぶつかり、しかし威力の差で魔理沙が押し勝つ。このまま貫けば勝ち――だがそれでも、周囲に注意を配ることはやめなかった。
霊夢がここで、なんの考えもないはずがない。そして彼女の思考パターンを考えると、直ぐに答えは出て来る。
「上かッ」
「なんなのよ、もう!」
「さぁな! 星符【グラビティビート】!」
箒の先端から上空へ向けて発射された魔力弾が、強力な光と共に破裂。周囲を白で覆い尽くし、魔理沙の勝利の余韻さえも染め上げた。
これで、確実に堕ちたことだろう。直撃で避けられるほど、簡単な魔法ではない。
なのに。
「夢境【二重大結界】――【夢想亜空穴】」
結界、次いで、瞬間移動。
箒に跨った魔理沙の横腹に、アミュレットが衝突する。痛みで視界に火花が飛び、魔理沙はそのまま撃墜された。
「が、は、ぁ」
冷たい石畳。
泣き出しそうな空。
胸の奥で燻る炎が、ゆらり、ゆらりと、消えていく。
「今日は、危なかったわね。さて、どうしたのよ? ここ最近、変よ」
「変、か。はは、はははっ、変か? 私」
魔理沙が横たわったまま虚ろに笑う。心配そうに手を伸ばす霊夢の事など、視界に入らない。ただ、痛む腹を抑えて笑い転げた。
その度に、ずきりと痛む。身体よりも、心が。罪悪感を呑み込んだ心が、真っ黒な感情を吐き捨てながら、ずきりずきりと魔理沙を蝕んでいく。
「あははははっ……私は、なんなんだ」
「ちょ、ちょっと、魔理沙あんた」
「来るなッ!」
近づく霊夢の手を振り払い、魔理沙は叫ぶ。噛みしめた唇からは止めなく鮮血が流れ落ちていて、いつも輝いていた瞳は、今は暗く淀んでいる。
触れれば、崩れ落ちてしまいそうな彼女に、霊夢は手を引っ込めて――しまった。
「なんでもない、だから、気にすんな」
「気にすんなって、そんな――ぁ」
霊夢の声を聞いていたくない。
霊夢の顔を見ていたくない。
もう、一秒だって、霊夢の事を考えたくない。
箒に跨り、博麗神社を飛び去る。痛みに覆われた胸は、先程からずっと、張り裂けそうなほどに早鐘を打っていた。
掻きむしって、声に出して泣いて、口元は笑っていて、笑っていたくなんかなくて。
「これでもダメならどうすればいい? 先がわかっても勝てないんじゃ、この先なんかあるはずないのにッ!!」
魔法の森を駆け抜け、靴も脱がずにベッドに飛び込み、日記帳を掴む。もう、一分一秒たりとも、この世界で目を開けていたくなんかなかった。
「いやだ、嫌だ、イヤだ!」
子供のようにだだをこねて、それから、日記帳を抱き締める。先のことを教えてくれた日記帳。霊夢に勝とうとしたとき、他の誰よりも味方になってくれたのは、この日記なんじゃないのか。
そんな倒錯的な被害妄想が、徐々に、魔理沙を侵していった。正気になど戻ることはなく、ただ、鬱々と堕ちていくことを望む。
「う、ぅあああぁ、ああ、は、ぁあああっ」
泣いて、泣いて、泣いて。
泣き腫らした瞳をこすり、ふと、魔理沙は抱き締める日記帳に視線を落とした。
豪華で派手な表紙の本。一目で気に入って、日記帳にしようとしたそれ。未来すらも綴るそれを開いて、魔理沙はきょとんと首を傾げる。
第百二十六季 一月二十五日 雨
今日はなにもなかった。
昨日も何もなかった。
明日も何もない。
それを望んでいるんじゃないのか? 霧雨魔理沙。
嫉妬することさえ知らない世界なら、こんなに痛い思いをしなくてもいいのか。
僻むことのない世界なら、こんなに苦しい思いをしなくてもいいのか。
ぐるぐると廻る思考の中、魔理沙はただの一度だけ笑う。心の底からと言うには余りに虚ろな、そんな笑みを。
「もう、いやだ。なにも――考えて、いたくない」
魔理沙は、羽ペンを手に取る。そして虚ろな瞳のまま、日記帳に書き込んだ。ただ一言日記帳に書き込んで、魔理沙の意識は堕ちていく。
あとには、何も残らなかった。
――二分の巫女のセパレーション――
第百二十六季 一月三十日 晴
あれだけ毎日のように来ていた魔理沙が、ここ最近、顔を見せない。
そもそもそれより前から、すこしおかしかった気がする。
そろそろ、調査が必要だろうか。
ぱたん、と日記を閉じる。それから霊夢は、大きく息を吐いた。逸る気持ちを抑えきれなくて昨晩の日記を読み返していたのだ。
思い返せば思い返すほど、苛立ちばかりが募っていく。自分自身のことなのにその理由がよく理解できなくて、霊夢は悔しげに眉を顰めた。
魔理沙の調子がおかしいことなんて、何時ものことだ……なんて、吐き捨てることが出来ない理由が、わからない。
「本当、どうしちゃったのよ。あのばか」
そう吐き捨ててみても、なにも変わらない。ただ胸元が酷く痛んで、霊夢はそれきり何も言えなくなってしまった。
霊夢の勘は、さっさと行けと告げている。けれど、霊夢の心はそれを抑制する。放っておいた方が良いんじゃないのか。ほいほいと行って、良からぬ結果に繋がったらどうしようか。
ここのところ、霊夢は、そんなことばかり考えていた。
「あー、もう! なんでこんなに気にしなくちゃならないのよ!」
魔理沙とは、ただの腐れ縁だ。なんだかんだで切れたりせずに、ずるずる、ずるずると尾を引くような関係だ。今までだって神社に来ない日は、いくらでもあった。
なのに、そのはずなのに、霊夢の心が軋む。あの日、魔理沙が姿を見せなくなる前日、霊夢に見せた苦しそうな顔が――瞼の裏にこびりついて、消えない。
手に持った湯飲みに、小さく罅が入る。まだ魔理沙の事に関して、霊夢の心は答えを出していない。だというのに、動き始めなければ、気が済まなかった。
「ふんっ、どーせまた妙なキノコでも食べて身体でもこわしたんでしょう」
そう一人ごこちながら、霊夢は博麗神社の縁側を蹴る。するとそれだけで、彼女の身体が大空で緩やかに揺れる。神秘的な光景、霊夢だから成せる飛行――“飛ぶ”のではなく“浮き上がる”という、奇跡。
そんな奇跡も、霊夢にとっては日常的な物だ。才能だけで持ち得た、普通の人では努力したって得られない数々の奇跡。それを、霊夢はただ、何でもないことのように繰り広げる。
人里を越え、命蓮寺を眼下に見据え通り過ぎ、魔法の森に入ったその一角。自分自身ではほとんど遊びに来ないその家を、霊夢は大きな音を立てて、ノックをした。
「魔理沙ー、いないのー?」
一度、二度、三度。
叩く度に加速する、“嫌な予感”に、霊夢は耳に届くほどに五月蠅い胸の早鐘を押さえる。それでも異様な立ち直りの速さで、霊夢は魔理沙の家のドアノブに手をかけた。
「あれ? なによ、不用心ね」
ため息を一つ、玄関先に落とす。すると、ここ一週間まったく外に出ていないのか、汚れた地面がそこにあった。
ドアノブを回し、ぎしぎしと音を立てて廊下を進み、一部屋一部屋覗いていく。それなのに、魔理沙の姿はどこにもない。
「魔理沙?」
けれど霊夢は、確かに誰もいないはずの空間の中で、ふと、魔理沙の気配を感じた。
小さい机と椅子、それから本棚に少しだけ広いベッド。その上に猛烈な違和感を感じて、足を止める。
違和感の発生源は――ベッドの上に置かれた、タイトルのない本だった。
震える手で、霊夢は本を掴む。一頁目を見て、それが日記だとわかった。白紙の本を日記にしてしまうなんて、本当に魔理沙らしい自由な発想だ。それが豪華な表紙というのも、派手好きな彼女らしい。
気がつけば霊夢は、くすりと笑っていて、それから慌てて頬を引き締めた。のんびりと笑っていられる暇なんかないような、そんな気がして。
「魔理沙……」
日記を勝手に読むことへの罪悪感。それが、読み進める度に増していく。いったい魔理沙は何を思って、これを書いていたのか。痛いほどにわかる日記だ。
ただ敗北が綴られた日記。
もう、読むのをやめてしまおうか。小さく下唇を噛み、そう、霊夢は震えの治まらない指で、次をめくった。めくって、止まった。
第てきとー季 なんでもない日 ずっと晴れ
今日は紅魔館で紅茶を飲んだ。
咲夜の淹れる紅茶はおいしい。
レミリアばっかり毎日羨ましいと言ったら、招待してくれることになった。
第てきとう季 割とふつうの日 ずっと晴れ
今日は永遠亭で薬を貰った。
予防注射の代わりみたいなものらしい。
苦いかと思ったら甘かった。さすが、永琳だ。
第どうでもいい季 いつもの日 ずっと晴れ
今日はアリスの家でケーキを食べた。
ガトーショコラ、ブッシュ・ド・ノエル、ショートケーキ。
アリスの作るケーキはおいしい。また、食べに行こう。
読み終わって、呆然と佇む。一歩二歩と後ずさると、どん、と壁にぶつかった。やたらとファンシーな絵が浮かんだ、子供みたいに丸い字で綴られた日記帳。
だれかが悪戯で書いていったなんていうことは、きっとない。だったら、おかしいことがある。
もしこれが誰かの悪戯で書かれた物なのだとしたら――
「なんなの、これ」
――今、こうして手に持っている間も続きが綴られて、いや、浮かび上がって来るなんてことが、起こり得るはずがないのだ。
「ッ」
日記帳を小脇に抱えて、霊夢は魔理沙の家から飛び去る。
これはきっと、疑いようのない事実。魔理沙が日記の中に入り込んで、奇妙な生活を送っていると言うことは。
紅白の巫女服をはためかせて、一直線に魔法の森を抜け、霧の湖を飛び越えていく。その黒曜石の如く深く凪いだ瞳には、常では考えられないほどの熱が宿っていた。
「なんで……なんで、あんたは!」
苛立つ。
苛立ちの理由もわからないのに。
霊夢は、胸の奥から滲み出る苛立ちに、がしがしと頭を掻きむしった。こんな時ばかり魔理沙の笑顔が見たくなって、気楽な顔が見たくなって、それが、霊夢の苛立ちを増長させていた。
「おや? 霊夢さん?」
耳に、柔らかい声が通る。
今ばかりは、その優しげな音が、何よりも煩わしい。
紅魔館の門前に降り立った霊夢は、鋭い目で美鈴を見る。対して美鈴は、そんな霊夢に応えるように眼を細めた。
明らかに臨戦態勢に入る美鈴。けれど今は、戦っている時間すらも惜しい。立ち止まっている間のその一分一秒が、惜しくて、苦しい。
「退きなさい」
「……どうされたのですか? 霊夢さん」
「あんたには関係ないわ。いいからそこを退きなさい」
「門番に向かって関係ない、は、無理がありますよ」
「こざかしい問答に時間を潰したくないの。退かないのなら――」
一触即発の空気に気を払うことなく、霊夢は封魔針を構える。一度手を離れれば、美鈴クラスの妖怪なら、追い立てられる。そんな確かな未来予想図を脳裏に展開すると、霊夢は――
「通って、どうされるおつもりで? レミリアお嬢様を、滅ぼされる、とでも?」
――ぴたり、と、手を止める。
真剣な表情で自分を射抜く美鈴に、少しだけ、たじろぐ。次いで美鈴の言葉の意味を理解して、眉を顰めた。
「そん、なこと、するはずがないじゃない」
「その乱れた気で言われても、説得力ありませんよ?」
言われて初めて、自身の状態に気がつく。
荒い息、震える手、大きな日記帳を抱きかかえて、きっと目は血走っている。こんな状態でレミリアにからかわれたりでもすれば、直ぐにでも、襲いかかってしまうことだろう。
「ふぅ……」
意味もなく、苛立ちをぶつけていた。気がついて身体の力を弛緩させると、途端に気持ちが軽くなる。これも美鈴の能力の一端なのかと思うと、少しだけおかしくなって頬を綻ばせた。
「ちょっと、パチュリーに話が聞きたいだけよ。通してくれる?」
「ええ、どうぞ」
「そこをなんとか……って、え?」
あっさりと道を空けた美鈴に、霊夢はきょとんと首を傾げる。その表情がおかしかったのか、今度は美鈴が頬を綻ばせた。
「もう、落ち着かれたようなので。気が和らいでいます」
「そう……そう、ありがとう。美鈴」
「いえいえ、自分の為ですよ。貴女に本気で来られたら、私のような弱小妖怪は消滅してしまいますからね」
「言い過ぎよ。精々、蒲焼きにするくらいだわ」
「おお、おそろしい巫女ですねぇ。まさか妖怪を喰らってしまうとは」
「はんっ、言ってなさい」
いつもの軽口を交わすと、その度に身体が軽くなる。自分で自分のことを弱小妖怪だと嘯くこの赤髪のお気楽妖怪は、不思議なことに、一言二言言葉を交わすだけで、霊夢の心を落ち着かせてくれた。
「ありがと、美鈴」
「どういたしまして、霊夢さん」
最後に一言、すれ違い際に。
告げた言葉が聞き取られたのを確認すると、霊夢は、紅魔館の地下図書館に足を向けた。
扉を開け放つと、静謐だった空間に雑音が混じり、霊夢は彫像が壊れていくような空気を肌で感じた。魔理沙が普段気軽に“本を借りに来て”いたという図書館は、こんなにも侵し難い場所だったかと、息を呑む。
もう少し自分も彼女のように、いろんなところに頻繁に遊びに行くのもいいかもしれない。そう、日記帳に目を落として複雑そうに微笑んだ。
「やけに空気が騒がさないと思ったら、めでたい方だったのね。貴女にまで本を借りられると回収が面倒だわ」
空気を壊さないで、朗々と響きわたる声。図書館にとけ込むように佇む声の主に、霊夢は向き直る。
静かな魔力によって無風で靡く紫陽花色の髪が、霊夢の視界で緩やかに泳ぐと、パチュリーはごほんとむせて体勢を崩した。
「借りないわよ。利用方法を聞きに来ただけ」
「ふぅん、貴女は聞かずとも知るひとだと思ったわ」
「なによそれ。さすがに、零から一は手に入れられないわ」
「自分は零だと言い切れるから、貴女はあの子と正反対」
パチュリーに告げられて、霊夢は大きくため息をつく。それからようやく、派手な日記帳を掲げて見せた。
「返品かしら? だったらそれよりも、他の本を回収して欲しいのだけれど?」
「それは今から本人に請求しなさい。そうしたら、私も一緒に叱ってあげるから」
「本人に? 魔理沙も来るのかしら? めでたいのもそうでないのも一緒じゃ困るわ。マイナスとプラスをかけても、マイナスにしかならないのだから」
「まずは、見て」
一番近くの読書机の前に立つと、霊夢はそこで本を広げてみせる。
それに興味を引かれたのか、それともただの気紛れか、読みとれない表情のパチュリーがふわりと霊夢の正面に降り立った。
「これは……魔理沙?」
第ふつーの季 昨日と同じ日 ずっと晴れ
今日は美鈴にお花を貰った。
パンジー、アイリス、シクラメン。
ずっとお花が欲しいなんて言い出せなかったけど、頼めてよかった。
やたらとファンシーな絵の魔理沙が、やっぱりファンシーな絵の美鈴に花を貰って喜んでいる。
パチュリーは、次々と自動で書き込まれている日記帳を見て驚き、それから事態を把握して、やがて目を細めて見せた。
「これ、美鈴に見せたら泣いて喜ぶわよ」
「片づいたら、いくらでも見せてやればいいわ。で、これなに?」
霊夢に問われて、パチュリーは袖からモノクルを取り出す。
矯めつ眇めつ日記帳をじっと見て、霊夢の耳では聞き取れない、聞き取れたとしても到底理解できない言葉を紡ぐ。
それから、ふぅと小さく息を吐いて、簡単に答を出した。
「所有者取り込み型の本ね。精霊か妖怪か、それともまた別の何かか。精霊だったら私がわかるから、それ以外ね」
「魔理沙が持っていくとき、なにかわからなかったの?」
「潜伏型ね。おそらくキーワードは人間。それも、タイトルの無い本に興味を持つような」
「咲夜は本、読まないの?」
「ええ。タイトルのある本を、義務的にしか」
未だ動き続ける日記帳。楽しそうに笑う魔理沙。
それに行き場のない怒りをぶつけるのも、理由のわからない苛立ちを覚えるよりもまず、先に、やらなければいけないことがある。
「で? どうやって魔理沙を引っ張り出せばいいの?」
「……やけに本気ね」
「怒ってるの」
「ふぅん……まぁ、なぜとは聞かないわ。針は痛いもの」
「そう、賢明ね」
既に強攻策すら考えていたのか、それともただの冗談か。しかめっ面の霊夢と無表情なパチュリーのやり取りからでは、その区別を見て取ることは叶わないことだろう。
当の霊夢ですら自身のことを、理解できていないのだから。
「無理に引っ張り出すことはできない。どのみち融合しているから、方法があるとするなら、内側から見る必要がある」
「中に入り込んで引っ張り出せばいいのね。簡単だわ」
「どうやって入るつもり? そこまでは、わからないわよ」
本を見ていた霊夢が、鋭い視線で手を挙げる。手にはなにも持たず、ただ本の表紙に手のひらを叩きつけ、歯を食いしばった。
実のところ、小難しいことを考えるのは魔理沙の方が多い。霊夢は小難しいことなんか考える必要はなく、ただ、己の信じる直感を信じて為したいことをなせばいい。
「ちょ、ちょっと霊夢。無理矢理は入り込むだなんてそんなこと……」
「ふん、人間を対象にして取り込む妖怪なんでしょ? だったら一人だけしか所有者になれないなんて道理なんか――」
日記帳から、光が溢れだした。その余りに強引な光景に、パチュリーは唖然としていた。
彼女にしては珍しい、“開いた口が塞がらない”なんて、そんな顔だった。
「――飛び越えて、やればいい」
世界にまばゆい白が満ち、霊夢の姿が日記の中へ取り込まれていく。
やがてそれは深紅の柱だけをその場に残し、それすらも、日記の中へ消えていく。
後に残るのは、タイトルのない日記と、ため息をつくパチュリーの姿だけであった。
――三分の巫女のセパレーション――
燦々と光る太陽が、常緑の狭間から溶けだした葉陰の輪郭を柔らかく落とす。
暖かな色に瞼を落としたくなるような、そんな空気を肌で感じながら、霊夢は確かな意志を胸に瞳を押し開いた。
「急がない……とっ」
腰のバネを使って、霊夢は跳ね起きる。未だかつてないほど澄んだ風と、過ごしやすい温度を常に保った陽光。
肌寒くもなく、暑すぎることもなく、煩わしさを感じることのないように調整されたような環境は、この上なく不自然だ。
霊夢はそんな風に考えて、心底嫌そうに眉を顰めて小さく舌打ちをする。どうにもここは、気持ちが悪い。
「さて、と。魔理沙のバカはどこにいるのやら」
霊夢はそう、己の意思を確認するように一人ごちる。
ここに長くいると、それだけでなにもかも忘れてしまいそうな、そんな気がしたからこそ、なによりも気合いを入れて。
となると、まずはこの気持ちの悪い森を抜ける必要がある。空を厳しい表情で睨みつけた霊夢は、早速飛び立とうと力強く大地を蹴り――
「あだっ?!」
――そのまま、前のめりに倒れ込んで、額をしたたかに打ちつけた。
「ふ、ぁっ、ぅぅ」
悲鳴を上げる気力もないのか、霊夢は額を押さえたままうずくまり、うなる。空を飛ぶことに特別、意識をしたことなんかない。だからこそ、不意打ちだった。
「うぅ、もう、なんなの……いや」
文句を言おうと唇をとがらせて、すぐに、視線を鋭いものに変える。
アミュレットを取り出して投げて、しかし自由に飛び回ることなく地に落ちたそれに、霊夢の顔がゆがむ。
これで、予感は確信に変わった。この空間では、能力は使えない。それも、個々の持つ特異な能力ではなく、霊力と呼べるすべてのものが。
「これが終わったら覚えてなさいよ」
小さく悪態をつくと、霊夢は徒歩での移動を始める。
爽やかすぎる森を抜け、きれいな花畑を通り、大きな湖にさしかかった頃、霊夢はふと、足を止めた。
陽光が湖面に反射し、視界を暖かな明かりで満たす。その湖畔に佇んでいた霊夢は、奇妙な既視感を覚えて湖の先を睨みつける。
「あれって、まさか……」
湖面に反射した陽光に覆われ、その立派なたたずまいを見せる大きな館。柔らかく爽やかな空間にあってなお、趣味の悪いと表現させる深紅の外壁。
その見覚えのありすぎる館のおかげで、自分が今どこにいるのか思い知らされることになった。
澄み切った風。
爽やかな陽光。
咲き誇る花々。
美しく輝く湖。
「ここは……魔法の森なんだ」
この空間が、よく知る幻想郷とは大きく違うということを理解する。この場のいてなお、ここが幻想郷とは言い切れないことだろう。
淀みきった風と木々の狭間を抜けられない陽光、気色悪いキノコに覆われた森の先にあるのは、妖精が他者を惑わす濃霧の霧であり、おどろおどろしい雰囲気を醸し出す悪魔の館であるはずなのだから。
幻想郷で空を飛べない人間は、基本的に、あまり人里から動かない。
幻想郷で空を飛ぶことができる人間は、基本的に、歩いて遠出しようとは考えない。
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……」
それはつまり歩きなれていないということであり、歩きなれていないということは、弾幕ごっこや空を飛ぶときにいくら体力が有り余っていたとしても、比べものにならないほどの疲労が体に蓄積するということである。
湖の外周を回り、紅魔館っぽい館を目指して歩くこと一時間と少し、正門前にたどり着いた頃には、肩で息をする羽目になっていた。
「ぜぇ、はぁ、はぁ、ふぅ……っちょっと! 誰かいないの!」
息を整えて、大きく声を上げる。すると深紅の壁に音が反射して、湖まで声が響いていった。
それなのに、誰かが出てくる気配はない。重厚な門は常に開け放たれていて、気の遣える門番もここにはいない。
普段あるものがないということがこれほどまでにひどい違和感を、気色の悪さを覚えるものなのかと、歯噛みした。
周囲をぐるりと見回すと、そのまま正門から中へ入る。それなのに、時を止めるメイドが飛んでくることも、何かと絡んでいる吸血鬼の姉の方がにやついて現れることもない。
扉を押し開き、煌びやかな内装の紅魔館を歩き廻っても、それは変わらなかった。妖精メイドすらそこにはいなくて、どこか物悲しさすら覚える。
派手好きな彼女が好むとは、到底思えない世界。
「……ッ」
雑念を振り払い、地下へ降りていく。魔理沙が入り浸る場所は、そこ以外に考えられなかった。好奇心旺盛な彼女は、いつだって、より何かを知れる場所にいたのだから。
胸にどろどろと溜まっていく言葉に言い表せない感情を、溢れ出さないように抑え、疚しいことがある訳でもないのに、音を立てないように図書館の扉を開き――
「パチュリー、この本、面白い!」
「良いでしょう? 借りていく?」
「ここで読んでいっても、いいか?」
「ええ、いくらでも。なんだったら、泊まっていく?」
「いいのか? やったっ」
普段、仏頂面なパチュリーが輝かしい顔で笑っている。本人や紅魔館の住人が見たら、それだけで卒倒してしまいそうな光景だ。
傍から見ている霊夢も、それは余り変わらない。卒倒することさえ無かったが、青い顔でふらつき、口元に手を当てていた。それはそれで失礼である。
「はっ……危ない危ない」
血の気の引いた頬をぱちんと叩き、もう一つ、目を逸らしたかった光景に視線を遣る。
笑顔で紅茶を淹れる咲夜、本を整理しながら美鈴と談笑する小悪魔、そして、爽やかな笑顔を浮かべるパチュリーの、その隣。
「私のお泊まりセット、まだあるよな?」
「ふふ、あるわよ」
気の抜けた顔で紅茶を啜る、目当てのひと――魔理沙。
心の底から楽しそうな、落ち着いた雰囲気。ここ最近で見ていた追い詰められた様子はそこにはなく、霊夢には見せなくなった顔で、笑っている。
――ギシリ、と心が軋んだ気がした。
「ッ……魔理沙ー!」
胸の内側で燻るものを誤魔化すように、霊夢は声を張り上げて魔理沙を呼ぶ。
静謐な図書館に、余すことなく響き渡る大音量。衝撃でぐらぐらと本棚が揺れたような、そんな錯覚を起こさせるほどに、力の込められたことば。
流石に、それに気がつかないことなど出来はしない。いっぱいに目を瞠って驚く魔理沙に、霊夢はかつかつと足音を鳴らして近づくと、彼女の胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「ひっ」
怯える瞳。
恐れる目。
揺れる瞼。
彼女らしくないその様子に、霊夢は、更に苛立ちを増して歯を食いしばる。こんな表情をさせたかった訳でも、こんな表情が見たかった訳でもないのに。
なのに、でも、軋む音と共に暴れ出した感情は、止まらない。止めることなんか、できない。
「なにが“ひぃっ”よ! 猫被ってないで、さっさとここから――」
「やめなさい!」
「――っ」
掴んでいた手を、叩かれる。強い力が込められていた訳でもないのに、直ぐに手が離れてしまった。心の底から霊夢を非難するような、パチュリーの瞳に、たじろいで。
「急に入って来て、私のともだちを虐めないで!」
「大丈夫ですか?! 魔理沙さん!」
「ひどい、いったいどうして」
「怪我は無い? 魔理沙?」
パチュリーの声が、美鈴の態度が、小悪魔の目が、咲夜の仕草が――違う。
ここは所詮、偽りの世界。それなのに、見た目も声も変わらない彼女たちに突き放されることが、痛む。
「私は」
それでも。
「私は魔理沙の事を連れ戻しに来ただけよ。わかったら、さっさと退きなさい!」
それでも霊夢は、堂々と、胸を張って言い放つ。そのためにここに来たのだ。そのために、ここまで来たのだ。途中で退く事を良しとするほど、霊夢は甘くはない。
どんなに仲の良いひとだったとしても、それが異変であれば、容赦なく叩きつぶす。博麗の巫女の気概は、伊達や酔狂で見せてきた訳ではない。
けれど。
「連れ戻しに来た? “何処の誰だか知らない”けれど、そんな勝手なことを言わないで!」
それが。
「何処の誰だか知らない? 魔理沙、あんたいったい――」
彼女の言葉だったら。
「し、知らないっ」
魔理沙の顔が歪み、瞳から涙がこぼれ落ちる。いやいやと振られる首と、拒絶するように顔を隠す両手。霊夢は、それに、何かをいう事が出来ない。
「おまえなんか、知らない!!」
――ギシリ、と、軋む。
「魔理、沙、冗談とかいらないから、そんな」
「知らない! 誰なんだよおまえ! 出てけよ、ここから出て行けよ!!」
「――」
説明することも。
何かを伝えることも。
軋む心は応えてくれなくて、痛む心は伝えてくれなくて、霊夢はふらりと後ずさった。まるで、魔理沙の責めるような視線から、逃げるように。
「出てけ!!」
踵を返して、走り去った。
胸を押さえて、痛い痛いと叫びだしそうなる喉を抑えて、魔理沙の影から逃げていく。なんの演出か、突然、照明の落ちた紅魔館は薄暗く、その全てが霊夢を責めているようにさえ思えて、唇を噛む。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
そうして気がつけば、霊夢は、湖畔で両膝を着けて蹲っていた。
「えほっ、ごほっ、はぁっ、はぁ、はぁ」
急激な運動のせいか、早鐘を打つ心臓が痛く、荒い息で肺が悲鳴を上げる。ずきんずきんと止むことなく痛む脇腹と、苦しさで咽せて、声も出ない不快感。
せめて水を飲んで落ち着けようと手を伸ばし――湖に映る己の顔が、悲しげに歪められていたことに、気がついた。
「はぁっ、はぁ、はぁ……なん、で」
鼻を啜り、熱くなった目尻を拭い去る。胸の奥からせり上がってくるような感情を、暴走してしまわないように抑えつけているのに、魔理沙の怯えた顔が頭からこびりついて離れない。
「くる、しい。はぁ、は、はぁっ……苦し、く、なんかッ」
湖畔の芝生に、拳を叩きつける。
けれど決して散らない芝生はどうにも現実感が無く、そのことが、かえって霊夢の頭を冷やしてくれた・
「魔理沙……あんたはさ、本当に……こんな世界を望んだの?」
弱音は、これで最後。霊夢はその場から立ち上がると、一度だけ、目元を拭う。霊夢の知っている魔理沙は、本当にこんな“優しいだけ”の世界を望むような少女だっただろうか。
本当にこんな、超えるモノが何もない、平坦な世界を望むような少女だったのだろうか。
その答えを誰よりも知っているのは、他ならぬ、霊夢だ。
これは異変だ。
博麗の巫女を惑わせるような、そんな異変だ。
霊夢は頭を切り換えると、疲労感が溜まって悲鳴を上げる足を、無理矢理動かす。思えばこれが霊夢が自分からする、初めての“極限での”努力なのかも知れない。
そんなことを、努力家の彼女に聞かれたら、きっと思い切りバカにされた上で笑われてしまうのだろうけれど。
揺れ動く心を定めて向かうのは、魔法の森。
少しでも手がかりを目指す為に、霊夢は、魔理沙の家を目指して歩き出した。
「わかってたけど、面白くないわね」
見慣れたそれより少しだけ小奇麗な、魔理沙の家。その玄関に立った霊夢は、そう一人ごちる。
ここに来るまでに出会った、顔見知り達。チルノに大妖精にルーミアに、サニーにスターにルナに、それからアリス。その誰もが、霊夢を知らないと告げた。
魔理沙の時ほどダメージを受けなかったというのも悔しく、誰も知らないというのは、どうにも腹立たしい。
「嘘の世界なら、別にいいわよ……ねッ!」
バンッ、という音と共に、魔理沙の家の扉を蹴破る。霊夢は足を振り上げた体勢のまま脛に響くような痛みを誤魔化すと、たん、と足を揃えた。
その時にも足の裏が痛んだのは、気にしない。ちょっと涙目になっていても、気にしない。
「あーあー、魔理沙のくせになに小奇麗にしてるのよ」
悪態を付ながら、一直線に歩く。目的地は、霊夢がこの本を発見した、魔理沙の自室だ。
部屋の間取りは変わっていないのか、一度も戸惑いを覚えることなく、霊夢は魔理沙の自室に辿り漬く。当然のようにノックは不要。ドアノブを回して中へ入ると、ぐるりと周囲を見回した。
小さな机と椅子、それからベッド。少しだけ散らかった部屋。ここだけは何故か、日記の外の魔理沙の部屋と、何も変わらない。
「ちょっとは片付けなさいよね、もう」
先程までと、言っていることが矛盾している。けれどその声は、悪態と言うには余りに柔らかく、優しかった。
隠しきれない安堵の色が込められた、ことば。彼女が使っていたと思われる椅子に腰掛けてみると、確かにあったのだろう“いつもの魔理沙”の影をそこに見た気がして、霊夢の頬が僅かに緩む。
「ん? これって……」
その席で、霊夢は机に積まれた本を見た。使い終わった日記帳は、こうして並べているのだろう。霊夢は何気なく一番上の日記を手に取り、適当に後ろの方を、開く。
第百二十六季 一月一日 晴
気持ちの良い正月だった。
霊夢と餅を食べて、そのまま宴会。これを書いているのは、二日の昼間だ。
家に帰っても眠れないので、これから新しい魔法の開発でもしようと思う。
文体から既に、楽しげな空気が伝わってくる。なんでもない正月、いつもの大宴会。その席で魔理沙は確かに、楽しそうにしていた。
第百二十六季 一月二日 晴
新しい魔法が完成した。これはけっこう良い出来かも知れない。
とりあえずは弾幕ごっこだな。明日、霊夢とやってみよう。
「新しい、魔法?」
そんな物があったのなら、気がついている。魔理沙のスペルカードは、どれも心躍る物ばかりだ。だからこそ、その一枚一枚を、霊夢は正確に覚えていた。
何か、気がつかなかったのだろうか。微妙に湧出してきた苛立ちを噛み砕きながら、霊夢は続きをめくる。
第百二十六季 一月三日 晴
三が日が晴れ続きとは縁起が良い。
しかし、まさか発動に手間取るとは思えなかった。今日の敗因は、それだな。
とりあえず、もっと格好いい魔法に仕立て上げてやろう。
第百二十六季 一月四日 晴
どうにも上手く行かない。あんまり毎日弾幕ごっこでもあれだから、明日は研究だ。
万全の霊夢相手でないと実験にならん。疲れさせるのは好きじゃない。
弾幕はパワーだぜ。
日記帳の中だというのに、締め方まで魔理沙らしい。それがどうしてこんな事態になったのか、答えはこの日記帳の中にあるような、霊夢はそんな“確信”を抱いていた。
だって、ずっと信頼してきた己の直感が、しきりにそう告げているのだから。
第百二十六季 一月八日 晴
上手く行きだした気がする。けれど、もう少し調整が必要だな。
わかりすぎるってのも、難しい。もっと研究しないと。
「うーん、攻撃とかじゃないのかも」
呟きながらも、手は止まらない。
それはちょうど、ひどく興味を惹かれる本を見つけたときの魔理沙の仕草によく似ていた。
第百二十六季 一月九日 曇
セーブの仕方が問題なのか。いずれにせよ、このままだと使い物にならない。
第百二十六季 一月十一日 雨
気温の変化が地味に辛くなってきた。
もう一歩だと思うんだが、どうしたら良いんだろう。
気分転換に、久々に弾幕ごっこをしよう。
第百二十六季 一月十二日 雨
実験は失敗だ。自分が上手くコントロールできない。
霊夢を僻んじまった。このままじゃだめだ。
僻み――その一文に目を這わせた霊夢の表情が、僅かに、歪む。
この頃から、少しずつ、様子がおかしくなっている。ということは、この“新しい魔法”とやらが、魔理沙をおかしくしたのだろう。
だったら、どんな魔法を開発しようとしたのか、その発想の元を辿れば答えは見つかるはずだ。
「面倒ね。どれくらい遡れば――」
「その必要は無いぜ」
背後から響いた声に、霊夢はぴたりと動きを止める。声色は、聞き覚えがある。けれどその平坦な声には、強烈な違和感を覚えた。
「――さっきとは打って変わって強気じゃない……魔理沙」
日記を手に取ったまま、振り向く。そこには予想どおり、黒白の魔法使いの姿があった。けれど霊夢の予想からは大きく外れ、その顔からは、おおよそ全ての感情が抜け落ちている。
なにも持っていない、空虚な人形。そんな言葉が思い浮かび、直ぐに、頭から追い出した。
「よこせ」
軽口も、言葉遊びも、怒りも、憎しみすらもない。
「嫌」
だから霊夢は、たった一言で切り捨てる。そんな何も込められていない、平坦な言葉に頷くほど、彼女は優しくはない。
空虚な瞳に心を動かせられるほど、博麗霊夢は、薄情ではない。
「よこせ」
「そればっかりね。なんで欲しいの?」
「それは、私の物だ」
「そう、なら借りるわ。そうね、期限は――」
「貸さない、だから、早く」
「――死ぬまで、で、良いわよね」
空気が、凍る。
魔理沙が良く使っていた言葉。それに込められた意味は、短い人生の中で努力を積み重ねるという、覚悟の一端だ。
それを霊夢に使われて、ほんの少しだけ、魔理沙の顔が歪む。その感情の全てを、霊夢は読み取ることが出来なかった。
「そうか、なら……死ね」
「ッ」
魔理沙の言葉と同時に、霊夢は窓を開けて外に飛び出る。そのまま身体を伏せると、真っ黒な星が霊夢の頭上を通過し、ファンシーな木々を粉々に砕いた。
「そう簡単に、やれると思うな!」
相変わらず、霊夢は霊力を使用することが出来ない。だというのに、魔理沙はあれだ。条件が段違いだという現状に、霊夢は危機感よりも悔しさを覚える。
今、霊夢は、魔理沙に追いつけないところにいるのだ。きっと、どんなに頑張っても。
「殺せ」
「殺せ」
「殺せ」
「殺せ」
「殺せ」
「殺せ」
周囲から、空虚な瞳の住人たちが、わらわらと集ってくる。
アリスが、チルノが、ルーミアが、早苗が、神奈子が、パチュリーが、レミリアが、妖夢が鈴仙がこいしが空が一輪がナズーリンがマミゾウが――。
「随分と、盛大な出迎えね!」
何も出来ない霊夢をいたぶるように、力の使えない霊夢でも避けられる程度の弾幕を放ってくる。
いや、避けられる程度、というには語弊がある。正確には、霊夢が手に持つ“日記”が傷つかないような攻撃、というのが正しいのだから。
「グレイソーマタージのパターンは、ここ! アグニシャインがここ、でっ、アーティファクルサクリファイスがっ、とっ、ここっ!」
避けて――紅白の袖を斬り。
避けて――頬を斬り裂き。
避けて――太腿から血を流し。
避けて――痛みで朦朧とする意思を、繋ぎ止める。
「なんで」
その最中で、霊夢は小さく呟いた。
「なんで……ッ」
俯いて、肩を震わせて、下唇を噛み、手を握りしめて。
「なんで――自分で来ないのよ、バカ魔理沙ッ!」
この光景を俯瞰しているであろう少女の名を、呼んだ。
「聞こえてんなら応えなさい! バカ魔理沙!」
痛みに蹲り、それでも、叫ぶことだけはやめない。
喉が震えて、沢山の弾幕にかき消されようとして、それでもなお声を張り上げる。どこかで聞き耳を立てている魔理沙に、ことばを届ける為に。
「私に勝ちたかったんじゃないの?! 私が羨ましいって、妬ましいって思ったんじゃないの?! だったら、自分で来なさいよ! あんたの方が、今は、ずぅっと強いんでしょう!!」
悔しかった。
――どうして、そんなに悔しかったのか。
腹が立った。
――どうして、そんなに苛立たしかったのか。
悲しかった。
――どうして、こんな目に遭って、まだ声を張り上げるのか。
「だったら、自分でかかってきなさい! 私は、そんな魔理沙だから――負けたくなかったんだ!!」
そう、叫んで、霊夢は己の中の答えを知った。
どんな時でも、魔理沙は強い笑顔を浮かべて霊夢に挑んできた。何度も何度も、立ち上がっては、不屈の心で霊夢を圧してきた。
魔理沙の他に、霊夢を追い詰めるようなひとがいただろうか。明日には追いつかれているかも知れない。明日には、抜かされてしまうかも知れない。
そんな焦りを、霊夢に抱かせるひとが――今までにひとりだっていただろうか。
「あぅっ」
誰かの弾幕に被弾して、体勢を崩す。その時ちょうど、手からこぼれ落ちた日記が、何かに導かれるように開かれた。
倒れ込んだ霊夢の視線の先に、映り込むように、自然に。
第百二十六季 十二月一日 雨
弾幕を避けるには、どうしたらいいか?
簡単だ。避けられるように動けばいい。
どうやるかはまだ思い浮かばないけど、そのうち、実験してみよう。
身体機能、感度の上昇だ。感覚を鋭くすれば、射命丸の体当たりだって避けられるはず。
「感覚を、鋭く……? あ、はは、まさか魔理沙、あんた、“感情のぶれ”まで、鋭く、強くしたんじゃないでしょうね」
自然と、笑い声が零れる。呆れてものも言えない。本当に魔理沙らしい些細なミスで、それが、なによりも魔理沙らしくない結果を生んでしまったのだろう。
ようは、いつもより少しだけ敏感になってしまっただけなのだ。今まで魔理沙が、自分の中で折り合いのつけていた感情を、自分の中で整理しきれなくなった。ただ、それだけのこと。
「諦めたのか。なら、さっさと返せ」
日記を手に立ち上がった霊夢の前に、魔理沙が立ちふさがる。
彼女がいつも抱いていた星色の空気は、そこにはない。ただ淀んだ真っ黒な魔力が、天に向かって伸びているだけだった。
「嫌よ。絶対に、返さない」
「それなら、死ね」
「それも断るわ」
空虚な表情が、少しずつ歪んでいく。
そんな、弱々しい顔をさせたい訳じゃなかった。そんな想いがまた、脳裏を過ぎる。
「断って、どうにかなると思ったのか?」
「ええ、もちろん」
日記帳の中。ここは、正真正銘、敵の巣の中だ。完全なアウェイでどのように立ち回ればいいのか、考えれば直ぐにわかった。
霊夢は、空を飛ぶ巫女だ。空を飛ぶ程度の能力は、霊夢が魔理沙と相対するときに必ず使っていたこの力は――本当に、空を飛ぶ為だけの、ものなのか。
「だって、どうにかしたいのなら、いつものとおり――」
魔理沙の顔が、驚愕に歪められる。
全ての束縛から解放され、全ての存在から浮き上がり、空を飛ぶ不思議な巫女。
神秘的な輝きを秘めながらスペルカードを掲げる霊夢の姿に、魔理沙は、憎しみの篭もった顔で霊夢を睨み付けた。その身に、漆黒の魔力を吹き上げながら。
「――弾幕ごっこで、黙らせてあげる」
「おまえは、いつもそうだ。そうやって簡単に、私に出来ないことをするなぁッ!!」
黒い星が奔流となって、霊夢に襲いかかる。一重二重と輪を作り、ほとんど隙間のない弾幕を張り、ルールとしては成立しているが、綺麗でも楽しくもない魔法で霊夢を追い詰めていく。
その魔法は最早、敵味方の区別もない。虚ろで、だからこそ避ける気も無い哀れな人形たちも一緒に、その黒い弾幕は薙ぎ払っていった。
「で? いつまでそうやって、居心地の良いところで寝てるつもりなの?」
「霊夢には、関係ないだろッ!」
――恋符【マスタースパーク】
黒色に染まった極光が、霊夢の視界を灼かんと迫る。けれど、焦ることは何一つとしてない。魔理沙に負けたくないからと、この魔法の対策は真っ先にした。
身代わりの札に結界を張らせ、残像を残すことで魔理沙の意識を霊夢が立っていたはずの場所に縫い止める。それから、魔理沙の頭上にワープして攻撃。極限まで時間の短縮を念頭に置いて考え出した戦略。
「上だッ」
「二度も、感づかれたままにしないわよ! 神霊【夢想封印】!」
霊夢の背後から、五つの光弾が発射される。眩いばかりの光は、魔理沙が咄嗟に放った二本目のマスタースパークと、完全に相殺した。
そのまま落ちる霊夢の身体は、木の葉のように自然な動きで、魔理沙の額めがけて蹴りを放つ。今日までの魔理沙ならこれで終わりかも知れないが、感情ばかりではなく感覚も極限まで鋭くなっている魔理沙なら、問題になるような攻撃ではない。
「っ当たるか! “ナロースパーク”……恋心――」
黒い波動砲が、霊夢の頬を掠める。空中で大きく体勢を崩した霊夢に向けられるのは、空間が歪むほどに収束された、莫大な魔力だった。
魔理沙が人間の身でありながら得た、規格外と呼べる力の一つ、マスタースパーク。度重なる研鑽によって生み出した、その上位互換。
「【ダブルッ……スパァァァァクゥゥゥゥッッッ】!!」
超近距離で放たれた、漆黒の極光。掠めでもすれば、その一撃は霊夢を、日記帳の外へ弾き出すことなく消滅させることだろう。それこそ、彼女が手に持つ日記も、諸共。
だがあれほど手に入れたがっていた日記を、傷つけようとはせずに手に入れようとした魔理沙が、弾幕ごっこが始まってからそれを気にしたような気配はないのだ。
それはつまり、日記に取り込まれていた魔理沙ではなく、本当の意味で魔理沙という少女が目を開けようとしている証拠とも言えることだろう。
そう考えると、追い詰められた霊夢の心から、強い意志が膨れあがった。
「この技は、あんたが名前を付けてくれたのよね。行くわよ、魔理沙――」
――【夢想天生】
声無く紡がれた音が、満ちる。
あらゆる存在から浮き上がり、虚無より虚ろになり、なによりも希薄になる。世界から一時期的に消え去った霊夢の身体をダブルスパークが突き抜け、霊夢はもう一度、その場に出現した。
構えるのは右手。特別な力なんか、何も込められていない、ただの拳。ダブルスパークの術後硬直でただ呆然と目を瞠る魔理沙の左頬を――
「っらぁ!!」
「あぐっ?!」
――霊夢の拳が、打ち付けた。
体勢を崩し、錐揉みしながら着地する魔理沙。
そこにファンシーな空間や虚ろな人形たちは残っておらず、ただ、圧倒的な力が通り過ぎていったかのようなぼろぼろの空間が出来上がっている。
「なんでだよ……なんでおまえはそうやって、いつも、私のことなんか気に掛けるんだよ!?」
「なんで? そんなの、決まってるじゃない。負けたくないからよ」
「はっ、私が、おまえに勝ったことなんか一度でもあると――」
「だって!」
魔理沙の言葉を遮り、霊夢の声が響く。精一杯に張り上げられた声は、どこまでも強く響いていった。
魔理沙に続きを言わせないほどに、強く。
「だって、もし負けて、一緒に弾幕ごっこをしてくれなくなったら嫌だから。魔理沙が、私の傍で、笑っていてくれないと嫌だからッ!!」
押し殺していた、霊夢の本音。
もしも霊夢が負けて、魔理沙に飽きられてしまったら。あり得ないとわかっているのに、自分の傍から離れて行く光景が見えた気がして、霊夢はいつも怖がっていた。
追い詰められるかも知れない。追い越されるかも知れない。そんな焦燥の裏側で、霊夢はいつも怯えていた。
「なんだよ、それ。私だって霊夢に負け続けてなんか、いたくなかった! 霊夢が私の手の届かないところに行って、傍にいさせてくれなくなるのが嫌だった!」
握りしめた掌からこぼれ落ちた血が、赤土に染みる。
声は震え、喉は痛み、どちらからともなく瞳が揺れ始めると、言葉に嗚咽が混じりだした。張り裂けそうな思いを、吐露するように。
「なに、よ、それっ、私があんたの傍から、うぇっ、いな、いなくなるはず、ぅ、あ、無いじゃないっ」
霊夢の瞳から、涙がこぼれ落ちる。拭い去ろうとしても、それは止まってくれなくて、ただ、際限なく流れ続けた。
「なんだ、よ、うあ、っ、そ、それ、私だって、ぁああ、は、ぅ、私だって、っ、霊夢の傍からいなくなったりなんかしない、っ、の、に」
ふらふらと、覚束ない足取りで近づく。もう戦う気なんか起きるはずもなくて、ただ、幼い子供がそうするように抱き合う。
互いの体温を、心を満たす熱を、ほんのひとかけらだけでも逃がしたりはしないと。
「嫌だったんだ! いつまでも、ぅあ、霊夢がいたら、霊夢にばっかり甘えて、ぁ、あああ、私、わたし」
「なによ、私が、あん、た、ぅえ、あんたの理想の世界とやらに、ふ、ぅ、いなくて、どれだけ、ああぁあっ」
二人の首筋に、それぞれの涙が伝う。
一筋、二筋、三筋と流れて、やがて、同じ熱で霊夢と魔理沙の心を満たしていく。
「また、また、やり直せるかな」
「当たり前じゃない、なにも、違ってなんかないんだから」
「うん……ぅ、ん、ぁ、ああぁぁあああぁぁっ」
すれ違っただけの二人は、今、こうしてまた繋ぎあった。
止めどなく流れる涙に、悲壮な色はない。ただ、もう一度わかり合った“親友”たちの澄んだ色が、嗚咽とともに消えていく。
零れ落ちた涙が、融け合うまで。
散々泣いて落ち着いた頃、霊夢と魔理沙はどこか気まずげに身体を離した。ずっと抱き合っていただなんて、恥ずかしい事この上ない。
誰も見ていなかったのが、不幸中の幸いとでも言うべきだろうか。
「けっこう、やるじゃない」
先に口を開いたのは、霊夢の方だった。あまりにも無理矢理な話題転換。けれど、他にこの恥ずかしさを紛らわせる手段が思い浮かばなかった魔理沙は、それに乗る。
「ははっ、霊夢もまだまだ、だな」
引きつりながらも不敵に笑ってみせると、霊夢も釣られて吹き出す。すっかりいつもの魔理沙に戻っていて、それが、どうにも嬉しい。
もう、隠す必要は無い。押し殺す必要もない。自覚さえしてしまえば、簡単で単純なことだったのだから。
「さて、どうする? 霊夢」
「あー、そうね」
魔理沙が眼を細め、霊夢もそれに倣う。ぼろぼろになった森が鳴動し、少しずつ形をかえ、虚ろな瞳の住人たちを再生させる。けれどどうにもイメージが整わないのか、髪の色や目の色が少しずつ違っていた。
彼女たちは、完全に霊夢と魔理沙を敵だと認知したようだ。空虚な目には、二人への害意しか込められていない。それを害“意”と呼んでも良い物かは、別にして。
「取り込まれる前、どんな感じだった? 何があった?」
「えーと、始めに書き込んで、それから次の日のことを予測しだした。たぶん、私の情報から本当にただ“予測”したんだろうなぁ――あたっ」
手放すのが惜しい。
こんな目に遭っておいてなおふざける魔理沙の頭を、霊夢がぽかりと叩く。だがおかげで、パチュリーの話と、日記帳の中での事と、今の話。そして霊夢の勘が、答えを導き出した。
「付喪神、ね」
霊夢がそう告げると、魔理沙はきょとんと首を傾げる。
「小傘みたいな?」
「そう。日記として使われるまで、潜伏してたんでしょうね」
それなら、日記を避けて攻撃したくなるのも頷ける。霊夢に見せたくないのなら、日記ごと焼いてしまえばいい。それができなかったのは、広義的には“同族”だったからだろう。
それから直ぐにぽんと手を打つと、霊夢は、飛んでくる弾幕を避けながら応えた。
もう既に、人形たちからの攻撃は始まっている。だが、所有者のいない日記帳がそれほど大きな力を集められるはずもなく、流れ弾を避ける程度の作業で十分だった。
「絵本にしてたかもしれないだろ?」
「でも、日記にした」
「まぁ、だな」
ここで仮定に意味なんか、きっとない。
たぶん何度でも、手に持たれた瞬間に、日記として使おうと考えたことだろう。霊夢の中には、そんな確信があった。
「たぶん、使われなくなった日記とかが意思を持ち集まったんでしょ」
「あー、それで、なんとか使って貰えるように色々したって事か?」
「そう。推測だけど、間違ってはいないはずよ」
幻想郷に入って、所有者が現れるまで潜伏していた日記。誰かが手に取ってくれるまで、暗い図書館で眠っていた、一冊の本。
それがいったい何を思っていたのか――そんな感傷を、霊夢は頭を振って消し去った。今日はどうにもセンチメンタルだ、なんて。
「それじゃあ、とっとと出ようぜ」
「アテはあるの?」
「霊夢は、どこへ行きたい?」
「なによ、それ。はぁ――もう」
楽しげに笑う魔理沙に、霊夢はそれ以上何も言えなくなってしまう。仕方がないので、言おうとしたことの代わりに、そっと頭上の太陽を指さした。
きっと綻びがあるとすれば、ああいった“特別”な場所であろうから、と。
「よし! それじゃあ後ろに乗れ!」
「はいはい、振り落とさないでよ?」
「だったらしっかり捕まってな! ――彗星」
魔理沙の得意なスペルカードが、鮮やかな七色に輝く。襲いかかる弾幕がそれに合わせて集中し始めたが、そんなものは、霊夢が撃ち落とせばいい。
何度も戦い合って来た二人だからこそできる、最高のタイミングに則った姿が、そこにあった。
「【ブレイジングゥ……スタァァァァァァアッ】」
霊夢の両手が、魔理沙の腹に回される。
目を瞑って終わりを待つ必要なんか無い。ただ、空へ昇る魔理沙を見ればいい。
そうすれば、瞬きなんかする必要もなく――星の向こう側へ、連れて行ってくれるのだから。
「ねぇ、魔理沙」
「なんだ? 霊夢」
こつんと、額を合わせる。図書館の一角、静かな空間。肌に感じる冷たさが、二人に現実に戻って来たという実感を与えていた。
「これからも、弾幕ごっこ、付き合いなさいよ」
なんだ、そんなことか。
なんて、嘯いて見せて、魔理沙は笑う。
「霊夢の煎れる茶が報酬だな」
「それなら、茶葉は持ってきなさい」
その遣り取りがどうにも楽しくて、霊夢はそんな風に、隠しきれない笑みと共に告げて見せた。
「ったく、がめついな。私以外にまともな友達、いないんじゃないか?」
「あんたもでしょ。私以外に、まともな友達居るの?」
二人が同時に吹き出すのも、仕方がないことだ。
見つめ合った瞳の奥に宿る温かな光に、互いに、顔をつきあわせて笑う。どうにも我慢できなくて、一緒にこうしていることが嬉しくて仕方が無いだなんて、誤魔化せなくて。
「ははっ――はははははっ」
「ぷっ、はは――あはははっ」
静かに時が流れる図書館で、二人は額を合わせたまま、声を上げて笑う。その両手はしっかりと繋がっていて、どうにも、離れそうにない。
だから二人は、互いの熱を伝え合ったまま――呆れたパチュリーがわざとらしく咳き込むまで、笑い続けた。
――二分四色の巫女魔女セパレーション――
第百二十六季 二月三十日 晴
魔理沙に勝った。
悔しそうにしてたけど、笑ってた。
その方がずっとらしいわよ。魔理沙。
第百二十六季 二月三十日 晴
霊夢に負けた。
妙に嬉しそうな顔してやがった。
そんなに笑われたら、もっと頑張りたくなるじゃんか。霊夢。
良く晴れた日。博麗神社の縁側で、霊夢はお茶を啜っていた。膝に置かれているのは、何重にも御札が巻かれて封印された、あの日記帳だ。
「ふぅ……良い天気ね」
「はぁ、そうか? 日当たり良くても寒すぎるぜ」
そう霊夢に告げたのは、彼女の隣で煎餅をかじっていた魔理沙だ。黒白のエプロンドレスなんか着ていても、まだ、熱が逃げていくのか。恋しそうに熱いお茶を飲む姿は、なんとも情けない。
「すっかり封印できたみたいだな、それ」
「ええ。もう少しはっきりとした意識が出来たら、自然に解放されるわ」
「なるほど。人化でもしてくれないと、五月蠅いだけだもんなぁ」
魔理沙はそう、からからと笑うと、熱いお茶を啜り上げた。身体の内側から温めないと、どうにも動けそうにない。
「結局、ただの日記の付喪神――で、いいのか?」
「中途半端なまま捨てられた日記帳たちの集合思念体ってところかしらね」
「三日坊主の塊か」
「三日坊主の魂よ」
封印されている日記に、霊夢は目を落とす。そのうち、きっと遠くない未来にでも、集合した思念が一定の形を持って、幻想郷の新しい住人となることだろう。
その時に異変でも起こされたら非常に面倒ではあるが、きっとその頃には、博麗の巫女も代替わりをしていて、自分が面倒を被ることも無いはずだ。だったら、このまま手元に置くのも悪くはない。
「さて、暖まってきたことだし」
感傷を振り払うのではなく、今度はきちんと噛み砕く。嚥下して向き直らなければ、きっと、今を本当に楽しむことなんてできはしないのだから。
「やるか」
魔理沙がスペルカードを取り出した意味がわからない、霊夢ではない。お茶を一気に嚥下すると、霊夢もまた、袖口からスペルカードを取り出した。
「手加減はしないわよ」
「ははっ――上等だぜ!」
紅白と黒白が、幻想郷の空へ飛び上がる。
互いに向け合う最初の一枚は、二人がもっとも得意とする弾幕の形。
「神霊――」
「恋符――」
やがて、二人の間に煌びやかな光が満ちる。楽しげに笑い合う霊夢と魔理沙を中心に、空の星が巡るように。
二人だけのワルツは青空を舞台に、終演の一瞬まで幻想郷に魅せ続けた――。
――/――
第百三十季 四月一日 雨
なんだかちょっと危なくなってきた。
次代も育てなきゃいけないし、手が空かない。
この間に飛び越えられないと良いけど。
第百三十季 四月一日 雨
ちょっと勝てそうだった。
でも弟子を取ったから、手が空かない。
この間に、距離を開けられないと良いけど。
――/――
第百四十二季 八月七日 晴
今日も引き分けだった。
勝ち続けるのも難しいかな。
もう、次代に任せて、修行でもしてやろう。
第百四十二季 八月七日 猛暑
今日も引き分けだった。
負け続けるのもそろそろ終わりだぜ? 霊夢。
弟子も育ったし、そろそろ私の修行に専念しよう。
――/――
第百四十六季 十二月二十日 雪
魔理沙に負けた。
この年になると悔しいとか枯渇するかと思ったのだけれど、嘘ね。
見ていなさいよ、魔理沙。もう負けないから。
第百四十六季 十二月二十日 雪
霊夢に勝った。
霊夢に勝った。
この年になると嬉しいとか枯れるかと思ったがそんなことは無かったぜ!
見てろよ、霊夢。もう勝たせないぜ?
――/――
第百六十八季 五月五日 雨
勝率も五分五分。
負けも多くなってきたのに、妙に楽しい。
この年になってもこんなにはしゃぐなんて思わなかった。
第百六十八季 五月五日 雨
最近の勝率は、五分五分だ。
勝敗がどんなになっても、相変わらず楽しい。
最後の最後まで、私は私のままで走り抜けてやろう。
――/――
第百八十季 十二月二十四日 雪
そろそろ身体が動かなくなってきた。
雪の降る日は、寒くてどうにもだめだ。
この季節になると、あの日のことを思い出す。
初めて、私が彼女に負けた日だ。
――/――
第百八十六季 二月三十日 晴
今からもう、ちょうど六十年も前、とても楽しい日記が残っていた。
もう次代もその次も、なんの心配も要らないだろう。
だからそろそろ、私もあんたのところへ、行くことにするわ。
――/――
――紅白×白黒の巫女魔女セパレート――
紫色の桜吹雪に囲まれて、一番見慣れた姿の黒白が、自分の帽子をぴんっと指で弾いた。
年の頃は、十代前半。全盛期と言うにはもっと若い頃の姿だというのに、この年齢に会わせてくる辺り、互いを理解できている。
「待たせたわね、魔理沙」
その証拠に、こうして逢いに来た霊夢もまた、十代前半の――あの頃の姿を、してきたのだから。
「いや、おかげでしっかり準備が出来たぜ」
「そう言うときこそ、変なミスするのよね」
「ははっ、そうやって油断していられるのも、今の内だぜ」
あの日のように、二人だけで弾幕ごっことは言えない。この場を提供してくれたひとたちが、楽しそうに、嬉しそうに、見物しているのだから。
けれど、それでも、関係ない。どれだけ観客がいたとしても、始まってしまえば、互いの姿しか見えなくなるのだから。
「何枚にする?」
「好きなだけっていうのはどう?」
「いいな、それ。それじゃあ最初の一枚は、景気づけだ」
紅白の巫女服を翻し、肩書きなんかとうの昔に継承した霊夢が、ただの一度だけあの頃の博麗霊夢に戻る。
だってこの技は博麗の巫女の象徴で、それでいて、何度も異変の解決に一役買ってきた馴染みの技なのだ。
「行くぜ! 恋符――」
「行くわよ。神霊――」
例え、魂が何処へ行こうとも関係ない。
何度出逢っても、二人はまた、こうして全力で笑顔を交わすのだろう。
「――【マスタースパーク】!」
「――【夢想封印】!」
きっと、何時か何処か――――同じ空の下で。
――了――
不覚にも、目に涙が……。
幸せな人生を歩いた2人に乾杯。
試そう?
読み終わった後鳥肌が立ちました…
とても素敵で素晴らしいお話でした
》中途半端なまま捨てられた日記帳
ビクッ
誤字報告を
ええ。もう少しはっきりとした意識出来たら、自然に解放されるわ
意識「が」
20年も掛かってしまったようですが、魔理沙も勝てたようで良かったですね。
面白い
大満足です。この二人の観察日記なら永遠に書き続けられる自身があります。
最後のあたりズルいなー。
涙腺を刺激されました。
ちょっと引き込みが弱いかな。
ただ霊夢と魔理沙の依存ともライバルともつかない微妙な距離感が、作中だけではちょっと分かりづらいようにも感じました。
個人的にはもう少し尺が欲しかったです。
その後の二人について描写していたのが良かったです。格段に読後感がいい
なんか、中学生日記を思い出すな。日記だけに。
嫉妬に狂いだした辺りから、パルパルの介入をとか考えてしまったが、まぁ、パルパルが介入したらこんな丸くは収まらんだろうね。
生涯、死して尚通じる二人の関係がよかったです。
面白かったです。