私は、ひどく頭が悪い。
そのことに最初に気づかせてくれたのは、さとり様だった。おくう、今日からあなたはこの火を見張るのですよ。地底の温度があまり上がったり下がったりしないように、うまく火の勢いを加減するのです。靴の紐も結べない子供に言い聞かせるかのような優しい言い方で、おまえは子供並の頭しか持たないのだと教えてくれた。いいですよ、その調子です。さすが、おくうは飲み込みが早いですね。眠ってしまいそうなほど簡単な仕事をこなしただけで、まるでニュートリノの速度でも解明したかのように褒めちぎり、おまえにはせいぜいこの程度の仕事しか任せられないのだと分からせてくれた。
さとり様には、いくら口で言っても足りないくらいに感謝している。もちろん皮肉でもなければ嫌味でもなく、そのままの意味だ。馬鹿が己の馬鹿さ加減にも気づかず一丁前の顔をして飛び回っている姿ほど、この世で軽蔑すべきものは他にないのだから。今にして思い返してみれば吐き気を催してしまうような無知の暗闇から、さとり様は私を救ってくださったのだ。
なんとしてでも、この恩義には報いなければならない。どうにかして主人の力になれないものかと、考えることといえばそればかりだった。火力の調整などという阿呆でもできる仕事だけでは、さとり様の役に立っているとは言えないだろう。誰にでも代わりが務まるようなことでは駄目だ。だが一介の地獄鴉に過ぎなかったかつての私にとっては、自分にしかできないことなど容易に見つかるものではなかった。
だから、あれは大いなる僥倖だった。二柱の神様から、八咫烏の力を授かったのだ。核融合を操る程度の能力というのは、地獄鴉の範疇を明らかに超えた強大な力だった。本当は頭のほうをなんとかしてもらいたかったのだが、贅沢は言うまい。
ともかくも、たちまちにして私は得意の絶頂に至った。試しに制御棒をひと振りしただけで地獄の業火は柱となって立ちのぼり、お燐の尻尾を焦がしたのだ。友人からの激しい非難を聞き流しながら、私は笑みを噛み殺した。力とは持つものではなく使うものだ。これほどのものならば、使い道はいくらでもあるだろう。次の悩みは何ができるのかではなく、できることの中から何を選ぶのか、だ。私はお菓子の家に放り込まれた子供だった。イチゴのケーキ、イチジクのタルト、パンナコッタ、ヴァニラアイス、コーヒーガム。最初はどれに手を伸ばすべきか、思案する時間は悩ましくも幸福に満ちていた。
まず頭に浮かんだのは、地上を侵略することだ。地底の住人たちの中にはその能力を忌み嫌われて地上から追いやられた者も多く、さとり様もそのうちの一人だという。ならば私が代わりにこの力で地上の連中に報復してやり、ついでに土地を奪い取る。八咫烏の力を得た私にしかできないことであり、きっとさとり様も喜んでくれるだろうと思っていた。
ところが、思わぬところから邪魔が入った。お燐に計画を話して聞かせたところ、彼女は力を貸してくれるどころか、逆に妨害を仕掛けてきたのだ。間欠泉を通じて地上に怨霊を送り出し、異常事態を演出することによって紅白の巫女を地底に呼び込むという、やたらとまわりくどいやり方だった。
私は巫女に敗れ、計画を断念させられた。
スペルカードルールに則っての正式な対戦で、私は負けた。それは事実だ、認めよう。だが許せないのは、私が全力を出したうえで負けたと思われていることだ。
滅符『ツァーリ・ボンバ』
それが、私の持つ中で最強のスペルカードだ。巫女との戦いでこれを使えば、確実に勝っていた。しかし使わなかった。使えば、一帯が消し炭になる程度では済まないからだ。それに何より、さとり様の言いつけがあった。たとえ何があろうとも、決してツァーリ・ボンバを使ってはなりません。いくら強力でも、いや強力すぎるからこそ、あれはあなた自身に災いと不幸を招くスペルカードなのです。
つまるところ、あの異変に対する世間一般の認識は間違っている。私は断じて増長などしていなかった。自分の実力を正しく把握したうえで、それに見合った仕事を成そうとしただけだ。自身を過大に見積もっていたわけではない。とはいえ、お燐を責めることはできないだろう。他のすべてのペットたちと同様に彼女もまた、ツァーリ・ボンバの存在を知らないのだから。そしてツァーリ・ボンバを使わなかった私は、事実として負けた。前提となる情報が少しばかり足りていなかったというだけであって、お燐の判断はあながち的外れではなかった。結局あれは、不幸にして生じたごく小さな行き違いだったのだ。
私自身に土が付いたことに関しては、べつだん不平を言うつもりはない。スペルカードルール自体に文句を付けるつもりもない。ただ、我慢ならない噂が地霊殿の内外で囁かれるようになった。さとり様のことを、ペットの管理能力に欠けると言うのだ。ふざけるな、と思った。放任主義に徹しているとはいえ、さとり様は聖母のように私たちペットを愛してくださっており、なんら責められるべき点はない。どころか、自分に非のないことまでをも気に病んで、薄い胸を痛めているに違いないのだ。
これはいよいよもって本当の力を地上の連中に見せつけ、下賤な口を黙らせてやらなければなるまい。主人の名誉を取り戻すのは、力を手に入れた私の役目だ。そう決意した次の朝、ひと気のない廊下でさとり様に声をかけた。
地上に行ってきます。
焼け野原にするつもり、ですか。
そうです、ツァーリ・ボンバで。
さとり様は眉間に深く皺を寄せた。駄目ですと言っているでしょう。
地上で使うのなら、地底に被害は及ばないですよ。
そういう問題ではありません。さとり様は珍しく、聞き分けのない子供に手を焼く母親のように苦い顔をした。それに、火の管理はどうするのですか。放り出すつもりですか。
代わりはいくらでもいるでしょう。そこらのペットに任せればいい。
あなたは先の異変で学ばなかったのですね、とさとり様は言って、悲しそうに目を伏せた。いいでしょう、行ってきなさい。ただし力は使わないこと。当然、ツァーリ・ボンバも駄目です。
じゃあ何をしろと。
見てきなさい。
うにゅ?
地上のあらゆる物事をよく見て、そして知ってきなさい。それだけです。
わかりました、と私はうなずいた。そんなことをして特に意味があるとは思えないが、かといって面倒だからというだけの理由で主人の命令に背くほど、私は傲慢になったつもりはない。今回はとりあえず下見だ。それで地上の連中のつまらなさが確認できれば、再度出向いて焼き払えばいいのだ。
くれぐれも揉め事を起こさないように。さとり様が重ねて言ったのは、私の頭の悪さを心配してのことだろう。すべての窓にステンドグラスが施された廊下で、しかしさとり様の顔はずっと青一色に染まったままだった。
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細切れの雲をまばらに携えた寒空に、私は生まれて初めての太陽を見た。
滑稽な話だ。能力を太陽に譬えられながら、私自身はこれまで本物の太陽を知らずにいたのだ。見も知らぬ物に譬えられた能力を、よくもまあ嬉々として振りかざしていられたものだ。
それはそうとして、初めて見る太陽は明るかった。高くて、遠くて、眩しくて、その大きさを考えてみると気が遠くなりそうになる。まさに巨大な力の象徴であり、それでいて何よりも美しかった。じめついた地底の空気に馴染んで黴にまみれた精神など塵ひとつ残さず浄化してしまいそうなほど、それはそれは本当に、容赦なく美しかった。最大の恩恵である熱があまり地面へと届いていないのには物足りなさを感じないでもなかったが、私にとってはほんの些細なことだ。体内から発する熱量が大きいおかげで、こんな真冬に半袖のシャツと膝上までのスカートでも平気なのだから。
だというのに、美しい太陽に照らされた地上の風景は、少しも美しくなかった。木々は風に頬を撫でられるたび、耳障りな悲鳴をあげる。湖面は無様に凍てついて、苦悶の表情を晒している。すべてが冬という名の真綿で首を絞められて、土気色で背中を丸めていた。
このぶんなら、次に地上へと出てきたときにはツァーリ・ボンバを使うことになりそうだ。それはそれで今から待ち遠しかった。私は震える右手を左手で強く掴んだ。そうやって強引に押さえ込まなければ、右手がたちまち制御棒へと姿を変えてしまいそうだったからだ。どんなにつまらない風景でも、消し飛んでいく様は例外なく美しい。消し飛んだ後のだだ広い荒野は、もっと美しい。眼下に広がるこの世界は、果たしてどのような断末魔を聞かせてくれるのだろうか。想像してみただけで、下腹が締めつけるように熱くなった。下着の内側がかすかに、ねばついた湿り気を帯びてくる。いけない、と私は首を振った。あくまで今回は見るだけだ。だが左手は知らないうちに、懐のスペルカードに触れていた。
あなたも、壊すことしかできないんだね。
その声は唐突だった。振り向いてみると、声の主は手が届きそうなほどの距離で浮かんでいた。我ながら迂闊なことだ。甘美な妄想にふけるあまり、何者なのかもわからない少女をまったく気づかないままにここまで近づけてしまうとは、どうかしている。相手がこいし様のような能力を持っているわけでもないだろうに。
少女ーー声と、おおよその体格などから推測する限りでは、そう称するのが適当であるように思われた。というのも、どういう事情かは知らないが、彼女の皮膚は(少なくとも露出している部分はすべて)顔立ちもわからないほどに爛れて煙を噴き、白い粉となってぼろぼろと崩れ落ちていたのだ。わかるのは、細い声で舌足らずな喋り方をすること、私より頭ひとつ以上も背が低いこと、そのわりに手足がすらりと伸びていること、紅くて派手な幼女ふうの服を着ていること。そして、背中からは妙な具合に曲がった牛蒡を二本生やして、そこから色とりどりの宝石をぶら下げていること。
にしても、どういうことだ、壊すことしかできないとは。蔑むような物言いが癇に障った。あらゆるものを壊すことができる力は、素晴らしいものだ。それだけで私という存在は揺るぎない価値を持つことができている。それを、あたかも欠陥品であるかのように、壊すことしかできないとはどういうことか。一瞬、頭に血が上ったが、すぐに萎えた。牛蒡少女の姿があまりにも痛々しくて、それどころではなくなってきたのだ。
全身あちこちの肉が抉れ落ちて、見られたものではなかった。どうしたの、焼けてるよ、と私は指さした。彼女は、太陽が、とだけ言って上を向いた。
牛蒡少女は右手を持ち上げて、顔の前に掲げた。すると手によって陰になった目元のあたりだけが、煙を吐くのをやめて表面の粉をふるい落とし、しばらくすると白い肌へと変化した。瞳が鮮血のように深い紅色をしていることも、初めてわかった。
どうやら、日光を遮ってやれば皮膚は回復するらしい。私は背中のマントを広げ、中に牛蒡少女を抱き込んだ。ところが彼女は、鳥くさい、と言ってすぐに払いのけた。そんなにくさいのかと自分でマントを嗅いでみたが、よくわからなかった。そうこうしているうちに牛蒡少女はふらりと背中を向けて、飛び去ってしまった。
道を歩いていたら、いきなり生卵を顔面に投げつけられた気分だ。私は放置されたまま呆然と浮かんでいた。おかしな子だと思ったが、よくよく考えてみれば、おかしいのはお互い様だった。それに地霊殿の面子だって、おかしくない子を探そうとすれば相当に骨が折れるはずだ。
気づけば、破壊衝動はすっかり頭を引っ込めていた。代わりに重い倦怠感が背中にのしかかってきていたが、かえってそれは自制のためには好都合だ。億劫ながらもなんとか羽を動かして、まずは一番近くに見える山へと向かった。
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それは異様な雰囲気を放つ山だった。
妖精たちの力が妙に強い。かといって騒がしい雰囲気になることはなく、むしろ張りつめた静謐さに包まれている。ちょっとした妖怪が数人いる程度では、ここまでの空気は生まれないものだ。よほどの大物が場を支配しているのだろう。ツァーリ・ボンバを使うときには、ここを爆心地にするのがいいかもしれない。そんなことを考えながら、山の麓に降り立った。
いきなり目の前に二人組が現れて、驚きのあまり心臓が跳ね上がった。いや、正確には私のほうが突如現れたのだが、少なくとも私には逆に感じられた。それほどまでに二人組の気配は薄く小さく、実際に顔を突き合わせるまでまったくその存在に気づかなかったのだ。
いずれも金髪に枯れたような色合いの服を身につけた、垢抜けない姿だった。両足が左足の少女は地べたにしゃがみ込んで、手で土をかき混ぜていた。半ば凍てついて相当に硬いはずの土に、彼女の手は飲み込まれるように沈んでいき、たんぽぽの綿毛でも飛ばすように軽く掘り返した。その部分の土は黒々とした色になり、しかし質感はまるで羽毛布団のようにも見えた。
ぼろぼろのスカートを穿いたほうは、何のまじないのつもりか、地面に散らばった枯れ落ち葉を両手ですくい上げては落とし、その上から掌でぺたぺたと押さえていた。枯葉は少しずつ、本当に少しずつではあるが、次第により細かい破片になっていき、両左足がほぐした土に馴染んでいった。
つまりはそれなりの時間、二人組の遅々とした作業がわずかながらも進捗を見せるに足るだけの時間、私は黙って彼女らの作業を傍観していた。にもかかわらず、二人組はいっこうにこちらに気づく様子がなかった。あるいは気づいていながら無視していたのかもしれないが、いずれにしてもまったく私の存在になど気を向けることもなく、ひたすら自分たちの作業に没頭していた。そして二人ともに言えることには、殺した息子の骸を穴に埋めているかのごとく、完全に目が死んでいた。
力は哀れなほどに小さく、存在は消え入りそうなほどに薄い。まず妖怪ではあり得なかった。さらには人間とすら考えにくいほどの貧弱さだ。私は消去法で見当をつけて訊ねた。あなたたち、妖精?
とんでもない、あたしたちゃ神様だよ。両左足が答えた。
どうやら神様にもピンからキリまでいるものらしい。ともかく、神様というからにはいろいろと詳しいのだろうと思い、地上の案内を頼んでみた。だが、両左足はにべもなく首を横に振った。駄目駄目、お断り。
どうして。腹が立つのをこらえながら質してみると、両左足は偉そうに腰に手を当てた。冬の枯れ山なんて、案内するのはごめんだって言ってんのよ。
なに?
いよいよ頭に血を上らせた私の手が動く寸前、ぼろスカートの手刀が両左足の頭頂部に食い込んだ。鈍い音がした。私を止めるためにやったのであったならば、なかなか素晴らしいタイミングだと言わなければなるまい。
いでっ。何するの、お姉ちゃん。
言葉遣いには気をつけなさいと、いつも言っているでしょう。誤解を招くような言い方は、無駄な諍いを生むわよ。
えー、気をつけてるつもりなんだけどなあ。
自分のつもりと、他からどう見られるかは別のものよ。そう言ってからぼろスカートは、取り繕うような笑みを私に向けた。ごめんなさい、気を悪くしないでね。今は時期が悪いのよ。
時期?
私は紅葉を、穣子は豊穣を司る、秋の神なの。だからそれ以外の季節には、これといって見せられるようなものを持たない。案内しようにも、あなたを楽しませることはできないわ。
いいよ、気にしないで。私は両の掌をぼろスカートに向けた。べつに面白おかしく観光したいわけじゃないから。ただ、このあたりのことはよく知らないから、いろいろ教えてほしいだけなんだ。どうやらぼろスカートは親切そうなので案内してくれるかと思ったのだが、彼女は申し訳なさそうな苦笑を浮かべた。
生憎、私たちは忙しいから。
秋の神様が、冬に忙しいの?
まあね。ぼろスカートは枯葉をほぐす作業に戻った。両左足も地面をかき混ぜる作業を再開した。
こんな砂場遊びのようなことがそんなに重要だというのか。訝る私に、ぼろスカートは独り言のように応えた。秋を彩る紅葉は冬には枯れ落ち、朽ちて土に還ることで、翌年に草木を繁らせるための養分となる。稔りを生むための力となる。私たちがこれをしなければ、生命は年を跨いで繋がっていかない。決して秋しかやることがないわけではないのよ。それから、これが本題とばかりに付け加えた。憂鬱な冬に仕事が忙しくて、そのうえ他のことまでする気にはならないわ。
それきりぼろスカートは黙り込んで、両左足ともども死んだ目で作業に戻った。私はしばし呆気にとられて、それから諦めて山のさらに上へと向かった。わざわざ不愉快な連中に案内を頼むこともない。この山にはまだ他に大きな気配がいくつもあるのだから、中にはまともな者もいるだろう。
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しばらく低空飛行で斜面を上っていると、常緑樹の割合がいくらか増えてきた。場所によっては足元が薄暗くて、飛んでいる限りは気にする必要などないのだが、決して気分のいいものではなかった。
いったん、手頃な岩の上に着地した。飛ぶのに疲れたわけではない。近づいてくる気配に気づいたのだ。果たして数秒後には、あちこち木の枝にぶつかっては葉っぱを撒き散らしながら、くるくると回転する奇妙なゴスロリが現れた。
見ない顔ね。白すぎて作り物くさい前歯をむき出して開口一番、彼女はそう言った。そして、こちらを無遠慮にじろじろと眺めてくる。ただし、くるくると回転したままだ。この時点で、まずまともな問答は期待できそうになかった。無視してしまおうかとも思ったが、そのほうが却って面倒くさく絡まれそうだった。
もっと上まで行くつもり? 問いながら、回転がさらに寄ってきた。
そのつもりだけど、適当にぶらついてるだけだから。
悪いことは言わないから、ここで引き返しなさい。
さいですか。返事はおそろしく投げやりになってしまった。回転が目にうるさくて、気分が悪くなってきたのだ。早々に立ち去ろうとしたのだが、回転に呼び止められた。ここでこうして会ったのも何かの縁。このまま何もせず別れるのもつまらないでしょう。
べつに、と私はつぶやいた。しかし回転は聞く耳を持たなかった。私は厄神。あなたの厄を吸い取ってあげましょう。
いいです。
遠慮せずに、ほら……って、こんなに大量の厄、いくらなんでも吸い取りきれるわけがないね。あはははは、参った参った。
自分で認識していることでも、面と向かって他人に言われるとひどく腹が立つ。神様というのはこんな碌でもない連中ばかりなのかと、ふと心配になった。私のように強い力を持っているのならともかく、神様に頼らなければ安心して暮らすこともできない弱者というのも、決して少なくはないはずだ。そんな力弱い存在たちは、ぼろスカートだの両左足だの回転だのといったふざけた神様たちを崇めて、少しでも安心を得られているのだろうか。私には関係ない話だが、想像してみるに気の毒に思わないではいられなかった。
回転は回転しながら、つむじ風のように飛び去っていった。私に残ったのは、鉛のような疲労感だけだった。
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うんざりした気分でさらに上ると、岩の間に川が流れていた。
滞ればたちまち凍ってしまいそうなほど冷やされた水で喉を潤していると、ふいに何者かの視線を感じた。あたりを見回してみたが、それらしい姿は見えない。ただ妙なことに、気配だけは間違いなく視線の届く範囲にあった。弾幕でもばら撒けば燻り出すこともできるだろうが、今日ばかりはそうもいかない。気配を鬱陶しく思いつつ川沿いに上っているうち、覗き見の視線はどこかへ消えた。
さらに進むと滝に突き当たった。おそろしいほどに高く幅広く、どこからこれだけの水が流れてくるのかと不思議なほどの勢いで轟々と落ちていた。
止まれ。
滝の途中に突き出た岩から岩へと身軽に飛び移りながら、白い犬が姿を現した。私と同じ高さで中空に静止すると、右手に剣、左手に盾を構えて、威嚇の態勢をとった。貴様、何をしに来た。
ただの見物に。
それだけ危険な気配を垂れ流しておいて、信じてもらえるとでも?
信じてもらえるもなにも本当のことだが、白犬は嘘だと決めつけているようだ。またしても話にならない。どころか、白犬は剣の切っ先をまっすぐ私に向けた。ここは他所者が踏み入っていい場所ではない。直ちに引き返すなら良し、さもなくば腹から垂れた内臓を川の水で洗うことになるぞ。
わかった、帰る。
吐き捨てて、私は踵を返した。もう我慢の限界だ。羽を思いきり広げて、心の中で叫んだ。ああ、今日のところは帰ってやる。もう地上見物は充分だ。碌でもない連中ばかりの碌でもない世界だということは、よくわかった。これで次に来たときには、心置きなく焼き尽くせるというわけだ。明日か、明後日か、一週間後か。遠からず、地上はすべて更地になる。もう決めた。ツァーリ・ボンバの爆心地はこの山だ。だから、灰になって消えるそのときまで、間抜けな面をぶら下げて安穏と過ごしているがいい。最大の力で加速しながら、山の斜面から舞い上がった。
ほら、やっぱり。壊すことしか考えられない。
まただ。またしても肝硬変のようにするりと近寄って、私の耳に息をかけながら囁いたのは、紅い牛蒡少女だった。
なぜか、彼女を吹き飛ばしてやりたいという気は起こらなかった。振り向いてみて、余計に怒気は萎えた。最初に会ったときよりもさらにひどく肉体が崩れていたからだ。皮膚はことごとくこそげ落ちて顔や腕の骨が露出し、なおも白い粉となって風の中にばら撒かれていた。
それ、なんとかならないの。私は思わず顔をしかめた。ものを壊すのは好きだが、勝手に壊れていくものを見るのはあまり楽しくない。むしろこれは目に毒だ。牛蒡少女は聞いているのか聞いていないのか、眠たげな目でどこやらはるか遠くを眺め、それもそのはず、直後には白目を剥いて逆さまに落下を始めた。彼女は頭から地面に激突し、動かなくなった。
私は牛蒡少女に飛び寄った。体の崩れる速度がさらに速くなっているようだった。気を失ったせいか、皮膚の再生が追いつかなくなっているらしい。浸食は骨にまで及び、もうじき頭蓋の中身までが流れ出てきそうだった。私は牛蒡少女を抱え、骨を砕かないように注意しつつ岩壁の窪みに運んだ。ここなら直射日光は当たらない。
そっと横たえてやると、牛蒡少女の体はまた再生を始めた。骨は硬く固まり、その外側に肉が巻いていく。つれて、彼女の本来の姿が、ようやく細かいところまで見えるようになってきた。私は思わず息を飲んだ。彼女の肌は輝くように白く、頭髪はグラスファイバーに鼈甲飴を溶かし込んだかのような黄金色で、それらが真紅の服や瞳と合わさって、まるで太陽のような印象を放っていたからだ。理由というなら、それだけで充分だった。私はたちまちのうちに彼女のことが気に入ってしまった。彼女の寝顔は、私の目を惹きつけて動かなくしてしまった。
そういえば、と今更ながら思い当たる。さとり様から聞いた話だ。悪魔と呼ばれる中でもわりと高等な部類に、日光を浴びると灰になってしまう種族がいるという。目の前にいるのがそうかもしれない。俄然興味が湧いてきて、小さな呻きとともに目を覚ました牛蒡少女が起き上がるのを待つのももどかしく、食いかかるように訊ねた。
あなた、吸血鬼?
牛蒡少女はうるさそうに顔をしかめ、吸血鬼の妹、と答えた。
あなたは吸血鬼じゃないの?
吸血鬼。
二日酔いかと思うような不機嫌さで彼女はあたりを見回し、日陰ですっかり回復している自分の姿に気づくと、つまらなさそうに肩をすくめた。それから私に向かって、なにじろじろ見てんのさ、と言った。
なんでまた。私は少々うろたえながら言葉を探し、継いだ。なんでまた、吸血鬼がこんな真っ昼間に。
ただの散歩。
わざわざ焦げながら?
飽きたから。
飽きた?
吸血鬼はシャワーでも浴びるように、細めた目で天を仰いだ。太陽から隠れるのに、飽きた。
飽きたからといって、やめていいような類のことでもあるまい。実際、私が日陰に連れ込んでやらなければ、そのまますっかり灰になって消えていたかもしれないのだ。まさか誰かに拾ってもらえることを期待しての行動だったわけではないだろうが、結果として強く私の気を引いたことは事実だった。
吸血鬼はといえば、いかにも関心の外にある事象に気まぐれで視線を向けるような素っ気なさで、服の土を払いながら言った。あなた、太陽好きそうだね。
うん、大好き。
私は好きじゃない。
だろうね。私は、わけもなく笑ってしまった。理屈抜きで愉快になれるのは馬鹿の特権だ。そんな馬鹿を横目に見て、吸血鬼も少し口元を弛めてくれた。私はますます楽しくなった。馬鹿に付き合ってくれる利口者に、悪い奴はいないからだ。
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私とフランドール(と、吸血鬼は名乗った)は並んで座り、景色を眺めながら話をした。
まずはフランドールが住む紅魔館のことを。といっても、自分から進んで話してはくれなかった。私がうるさく催促するのに応じて、彼女はぽつりぽつりと日々の生活を小ぶりな口から紡ぎ出した。渋々といった調子とは裏腹に、それはあまりの素敵さに聞いていて涎が垂れてきそうな日常だった。有能で忠実なメイド、博識で理知的な居候、明るく気さくな司書、頑丈で壊れにくい門番。紅魔館の日常は、フランドールの牛蒡から垂れ下がった宝石たちと同様、心惹かれる輝きを放っていた。
とりわけ私を羨ませたのは『お姉様』の話だった。フランドールのお姉様は、容姿こそフランドールとそう違わない年頃の幼い少女であるが、その実は紅魔館の当主を務めている。名のある家の当主となれば抱える仕事の量は凄まじく、傍から見ても目の回るような多忙な日々を送っているのだが、一方ではその合間を縫って他の住人たちとの語らいに時間を割くことを惜しまない。中でも唯一の肉親であるフランドールとのお茶会は、自らが引き起こした異変(紅い霧で地上を覆ったらしいが、私は知らない)の最中にも欠かさなかったという。時には手ずからお菓子を拵えてくれることもある。咲夜(という名前のメイド長らしい)も料理において希有な手腕を持っているが、お姉様の愛情のこもったクッキーと比較すれば、やはり及ぶものではない。黄金色の頭髪は毎日、お姉様が鮮やかな手つきで梳き、結ってくれているそうだ。左側頭部で括った髪型はフランドールもお気に入りで、何百年も変えていない。眠る前には図書館から選んできた物語を読み聞かせてくれたり、あるいは紅魔館の外での出来事などを話して聞かせてくれたりする。ほとんど地下室に籠りきりのフランドールにとって、お姉様の話は壮大な冒険譚にも等しいものだった。そして妹が眠るのを見届けてから、お姉様はまた仕事を片づけに戻るのだ。
私にとってはもはや御伽話の世界だった。話が進むごとに私はいっそうのめり込んでいき、早く早くとさらに次の場面を要求した。それから、はてと首を傾げた。こんなにも素敵な家族のことを話しているのだから、もう少しくらい声を弾ませてもよさそうなものだが、フランドールの口はいっこうに軽くならなかったのだ。見れば、もとから青白かった彼女の肌はますます冷やかに透き通り、触れれば指先が痺れてしまいそうだった。それはそれで美しかったが、太陽というよりは精巧な人形のようであり、私を少しばかり幻滅させた。
次は私が地霊殿の話をする番だったが、どうしたものかと頭を掻いた。
自分ではそれなり以上に幸せな生活を送ってきたつもりだが、地霊殿の顔ぶれを私の家族とするならば、フランドールの家族と比べると惨めなまでに見劣りしていた。お燐は友人思いのいい奴だが、なまじ頭が切れるためにお節介と早とちりがひどい。こいし様は誰とでも裏表なく接するが、その実まるで掴みどころがない。そしてさとり様は、家族への愛情こそ誰にも負けはしないが、その表現の仕方という点では控えめに過ぎた。いくら内面が親愛で満たされているといっても、フランドールの語った紅魔館の前では、地霊殿は魔法使いと出会う前の灰かぶり同然だった。
ありのままを話すわけにもいくまい。少なくとも、地霊殿を紅魔館よりも極端に見劣りさせるわけにはいかなかった。たとえ他愛のない会話の中であっても、さとり様の器量と力量を外部の者に低く見させてしまうことは、ペットとして許されざる重罪だ。良い部分のみを極端に誇張し、客観的にはあまり褒められたものではない部分を隠蔽し、私は地霊殿の生活をこれでもかと輝かしく飾り立てた。有り体には、嘘で塗り固めたと言ってもいいかもしれない。
かくしてさとり様は、慈愛に溢れた母親であり、厳格な父親であり、ペットたちを正しく導く賢王であり、無双を誇る戦士であり、万象を操る魔法使いであり、万の書物を頭に収めた学者であり、要するに、結局は何が何やらよくわからない怪物になり果てた。さとりさんって、すごいひとだね。純真なフランドールの感嘆に、私は恥ずかしくなって顔を伏せた。ほとんど原型も残さない虚構を自慢げに話して、いったい何が面白いというのだ。
会話が途切れた。ここまでよく続いたものだ、と言うべきか。フランドールは地下室籠りの箱入り娘だし、私は火の管理だけで年月の大半を潰してきた。どちらも家族の中だけでほぼ世界が完結しているという意味で、経験の乏しさは似たようなものだ。小さく細い針のような話題をパイルバンカーのごとく誇張し装飾してみても、さすがに限界というものがある。二人合わせたところで、すぐに話の種を吐き出し尽くすのは必然だった。
どうしたものか。こうして肩を並べ、ただ無言で座っているのも決して悪くはないが、それではあまりにも勿体ない。せっかく地上くんだりまで出向いてきて、こうしてフランドールに出会えたのだから、とにかく何かしていたい。
空を見上げてみた。日陰で話をしている間に太陽はさらに高くなり、いっそう燦々と地上を照らしている。私は立ち上がり、背中のマントを外すとフランドールの頭に被せた。鬱陶しそうに顔を出して見上げる彼女を、私は日向から手招きした。
一緒に行こう、散歩の続き。
フランドールはぼんやりと私を眺めた。それから、鳥くさい、と本当に嫌そうな顔でマントを体に巻きつけた。
何それ、黒魔術みたい。私は指さして笑った。顔を除いては頭の頂から足首のあたりまで、二本の牛蒡もどこにあるのかわからないほど布に巻かれた姿は、地底の妖精たちが扮したゾンビであるとか、業火に投げ込まれる死体とかいったものといくらほども違わないように見えたのだ。何がおかしいのさ、と言ってフランドールは薄い笑みを見せた。私は嬉しくなって、もう一度、自分でも阿呆かと思うほど高らかに笑った。彼女は冷たい人形などではなく、やはり太陽だったのだ。
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地獄鴉と吸血鬼の奇妙なデートは、行くあてもなく始まった。
フランドールに案内を頼めるのならよかったのだが、まるで期待できそうになかったので私からは何も言わなかった。彼女自身の口から聞いた限りでは、地上における世間知らずっぷりでは私と大差ないはずだった。
必然的に、とりあえず山を下っていくことになった。上りのときに沿って飛んでいた川があったので、自然と川沿いに下っていく形になった。よく見れば、なかなか精悍に引き締まった水だ。一緒にフランドールがいるというだけで、一人のときとは景色が違って見えてくるようだった。
フランドール?
気づけば、フランドールは随分と離れたところに立ち止まっていた。もう一度呼びかけると、川はちょっと、と情けない声が返ってきた。なるほど、吸血鬼が流水も苦手だというのは本当のようだ。ふと、意地悪な気分が頭をもたげてきた。
太陽からは逃げないのに、水は駄目なんだね。ふうん。
フランドールは少し間を置いてから返した。駄目ってわけじゃないよ、好きじゃないだけで。それから、小股で私のところに寄ってきた。強がって尖らせた唇の先が艶やかで、可愛らしかった。
私はブーツと靴下を脱ぎ、川に足を踏み入れた。ねえ、見て。スカートの横を指でつまみ、令嬢の挨拶ふうに膝を曲げておどけてみせた。ほら、これが本当の、鴉の行水。
言葉の通りに、すぐ川から上がることになった。フランドールが笑わないどころか、足を小刻みに震わせていたからだ。それでもなお彼女をからかってやろうと思えるほど、私は嗜虐的な性格をしていない。靴下とブーツを手にぶら下げて、濡れた素足のまま川に背を向けた。一部始終を川の中から覗く透明な奴がいたのだが、それに気づく余裕すらフランドールにはなかったようだ。
クソ鴉。川が完全に視界から消えると、フランドールは小石を拾って投げてきた。私は肩口で受けて、そんなに怖かったの、と笑った。クソ鴉、とフランドールはもう一度言った。
あんまり怒らないでよ、これあげるから。私は服の胸元に手を突っ込み、二個のゆで卵を取り出した。フランドールは首を傾げた。
ゆで卵。フランドール、もしかして知らない?
うるさい、知ってるよ。
それはよかった。一緒に食べよう。
食べる? ああ、うん、食べよう。
フランドールは手の中でゆで卵の向きをいろいろと変え、同時に自分の首もあちらこちらと動かして、様々な角度からゆで卵を眺めた。ひとしきり観察が終わると、恐る恐るといった様子で口を開き、かじりついた。殻を剥かないままで。
ちょっと、待った、待った。慌てて止めると、フランドールはゆで卵を半分口に入れたままでこちらを見た。すでに牙が深々と突き立っている。あー、なんていうか、私のところではね、ゆで卵は殻を剥いて食べるのが流儀なんだ。私が言うと、フランドールは仏頂面でゆで卵を口から出した。へえ、地霊殿では殻を剥いて食べるんだ。紅魔館とは違うんだね。でも、せっかく空がくれたゆで卵なんだから、今日は地霊殿の流儀で食べてみようかな。
フランドールが殻を剥き始めたのを確認してから、私も自分のゆで卵に取りかかった。傷ひとつつけずに剥き終わってからフランドールを見て、叫びそうになった。あろうことか彼女のゆで卵は黄身だけになっており、白身はすべて殻とともに地面に打ち捨てられていたのだ。私は絶望して、自分のゆで卵を味わうことに専念した。
おいしかった? 食べ終わって、一応訊ねてみた。フランドールは紅い舌で指先を舐め、うん、とても、とうなずいた。喜んでくれたのなら、いいことだ。足元の白身は見なかったことにした。
気づくと、フランドールはまじまじと私の胸を見つめていた。二個のゆで卵を抜き取って若干膨らみが減ったことが、彼女の気を引いたのだろうか。さ、と言いかけてフランドールは口を噤んだ。
そろそろ足も乾いた。靴下とブーツを履こうと拾い上げたが、実際にはまだしばらく素足のままでいることになった。私たちの前方に、殺気立った白犬が現れたからだ。
まだいたのか。白犬が剣を大上段に振りかざし、今にも斬りかからんばかりの剣幕で吠えたてた。しかも貴様、今度は仲間も連れて、いったい何を企んでいる。
この山を消し飛ばすんだよ。言ってやったなら、さぞかし爽快な気分になれただろう。ところが私の苛立ちは、しばらくフランドールと話しているうちに溢れるほどではない水準にまで落ち着いていた。ごめん、もう帰るところだから。左の掌を向けて謝ると、白犬は拍子抜けした様子で、ああ、とうなずいた。ならいいんだ、何もせずに帰ってくれるのなら。
本当に、何もせずに帰るの?
フランドールが何気ない調子で言った。そのひと言で、私は両の肺を潰されたかのように動揺した。壊さないままで、あなたは本当に帰れるの? 幻聴の中でも、フランドールの声はこれといった意図も感情も含んでいないようだった。そうだよ、と絞り出した返事は、みっともなく震えていた。
壊さなくて、いいの?
うん、さとり様に、駄目って言われてるから。
へえ。じゃあ仕方ないね。
うん、仕方ない。私は無邪気で容赦ない追及から解放されたことに胸を撫で下ろす一方で、うすら寒い罪悪感に襲われた。主人の名前を言い訳に使わなければ、壊す壊さないの意思すら決められないのか。大したものだ、と自嘲しなければ、ひとつ覚えの衝動にまたしても揺さぶられてしまいそうだった。
もう行こうよ。私は靴下とブーツをぶら下げたまま、わざと音をたてて羽ばたいた。
O)))
辺りで一番大きな木の枝に腰かけて、靴下とブーツを履いた。
フランドールは別の木の枝に、私と向かい合って立ち、しきりに指の爪を噛んでいる。視線はじっと私に向けられているのだが、何か面白いことでもあるのだろうか。いずれにしても、こちらとしてはあまり居心地の良いものではない。
壊すこと『しか』できない、って言ったよね。
私が話しかけると、フランドールは爪を噛むのをやめた。いま噛んでいた左手の人差し指以外に噛み痕はなかった。
壊すことができるって、すごいことだよね。それなのに、壊すこと『しか』って言い方、おかしくない?
フランドールは唾を吐き捨てた。壊すことの、何がすごいのさ。
力がないとできないことだよ。
例えばその木、と言ってフランドールが私の腰かけている木を指さした。百年後も、変わらずそこに立っていられるかな。
立ってるかもしれないよ。
千年後は。
ひょっとしたら、残ってるかも。
一万年後は。
……無理だと思う。
次にフランドールは、真下を指さした。一万年後、この山は山のままでいられるかな。
まだあるんじゃない?
百万年後は。
さあ。
一億年後は。
……わからない。
フランドールは、指さしていた地面に飛び降りた。誰かが壊さなくても、形あるものはいつか必ず壊れるよ。だから、誰かが壊したとしても、それは放っといても壊れるものを少し早めただけ。一万年か、一億年か、一日か。大したことじゃないし、自慢できるようなことでもない。
そうですかと納得はできなかった。私の存在価値を否定しないためにも、反駁の言葉を必死で探さなければならなかった。数秒の間を空けた後、悪い頭はどうにかそれらしい理屈を捻り出した。
私の力は、壊すだけじゃない。エネルギーを生み出すことだってできるんだよ。熱を作って、それをなんかいろいろしたら、いろいろ役に立つことに使えるんだ。
ふうん。フランドールの鼻から抜けてきた声は、黄金に輝く腕輪の上面を何気なく引っ掻いて、それが鍍金であることを無遠慮に暴いてしまった。いかにも私は、エネルギーを生み出すこともできる能力を、何かを壊すために使うことしか考えていない。何かを壊すために使うことしか考えられない。書き心地が抜群の万年筆を持っていたとして、それを使って他人の眼球を抉ることしか考えていなければ、それは凶器でしかないのだ。
私の悪い頭では、これ以上の反論の言葉は見つけることができなかった。ただ、それでも認めてはならないような気がした。肋骨の裏側がむず痒くなるようなもどかしさをせめて少しでも紛らわそうと、私は訊ねた。フランドールも、壊すことしかできないの?
もちろん。さしたる感慨もなく、フランドールは答えた。
その潔さ、というよりは頓着のなさに、私は妬ましさを覚えた。そしてそれ以上に、憧れの気持ちを抱いた。真に太陽に譬えられるべきは、フランドールなのだと思った。
厄の匂いが、プンプンするわぁー。
つむじ風を撒き散らしながら、回転が飛んできた。満面の笑みで、白すぎる前歯を全方位に見せつけている。また来たか、と私はうんざりした。フランドールは初見らしく、得体の知れない回転物体に少し怯えた視線を向けた。
回転は私たちの間に降り立って、やはりなおも回転を続けた。また会ったわね、鴉さん。それからそっちの布巻きさんも、大層な厄をお持ちのようね。
フランドールは無言のまま、変質者を見るような冷やかな表情を浮かべた。
吸い尽くせないほどの巨大な厄が、二人分。こりゃ、ますますもって無理に決まってるね。いやいや参った参った、うふふわははははは。
こちらが気持ち悪くなりそうなほどの上機嫌で、回転は飛び去った。回転速度はさらに上がり、遠目にはもはや赤緑の渦巻きにしか見えなかった。
残された二人とも、しばらく言葉が出てこなかった。私は木の枝から飛び降り、回転がいたせいで地面に穿たれた穴をちらりと見遣った。そろそろ行こうか、と呼びかけると、フランドールは小さく頷いた。
O)))
太陽はとうに頂点を過ぎ、着実に高度を下げていた。
ただでさえ冬の太陽は、真昼でもさほど高いところまでは上がらないのだーーと、いつだったか誰かに聞いた覚えがある。沈むのも、夏と比べれば二時間ほども早いのだと。吸血鬼にはそのほうが嬉しいのかもしれないが、私はやはり太陽に照らされていたほうがいい。というより、せめてもの救いである太陽が隠れてしまったら、このふざけた地上を見て回ることの精神的苦痛に、果たして耐えられるかどうか。さしものフランドールも、本物の太陽の代わりが務まるかどうかはわからない。地上視察は日没とともに切り上げることに決めた。
となると、そうそうあちこちと回っている時間はない。だが、まだ私は決めかねていた。地上の連中はどいつもこいつもふざけているが、ただしフランドールがいる。フランドールのお姉様がいる。紅魔館がある。それだけで、地上を焼き払うかどうか迷うに充分な理由となった。だから、まだ結論は出ていない。今少しの判断材料が必要だ。かといって、べつだん行くあてもない。どうするーー私は滞空しながら、色褪せつつある風景を眺めた。
あ。
呆けたような声で言って、フランドールが私を追い抜いていった。ここまでずっと私の後ろをついてきていたのだが、何か興味を引かれるものの気配を感じ取ったらしい。するすると吸い寄せられるように飛んでいく。私も後を追ったが、思わず顔をしかめてしまった。フランドールの進む方向に、あまり愉快でない心当たりがあったからだ。
予感は正しかった。フランドールが降り立ったところには、地べたにうずくまって作業をするぼろスカートと両左足の姿があったのだ。
こいつらと関わっていても、何か面白いことがあるとは思えない。だがフランドールは地面にしゃがみ込んで、ぼろスカートと両左足の作業を、間近から食い入るように見つめた。しばらくは腰を据えてしまいそうな感じだ。彼女を置いて一人でよそへ行く気にもならず、仕方なく私は数歩離れたところで立っていた。
両左足は顔を上げ、品定めするような目でフランドールを眺め回した。それから鬱陶しそうに私を見て、作業に戻った。ぼろスカートはちらりとだけ私たちに目をやって、すぐにまた下を向いた。
最初に出くわしたときと、やっていることは同じだった。ぼろスカートが枯葉をほぐし、両左足が土をかき混ぜる。死んだような目と、気怠い動作。作業の進捗はおそろしく緩慢だ。ただ、それでも着実に進んでいた。私が他のところを回っていた数時間で、十数メートル四方が肥沃な土壌へと生まれ変わっていた。
こんな地味な作業をじっと眺めていて、何か面白いのだろうか。まるで見当がつかないわけではなかった。おそらくは両左足の能力に興味を引かれているのだ。フランドールは彼女自身や私のことを、壊すことしかできないと蔑むような物言いをした。ならば秋の稔りのために土壌に活力を注ぎ込む両左足は、すなわち生み出す力を持っており、フランドールの理屈でいえば私たちよりも優れた、尊ぶべき存在だということなのだろう。実際フランドールの眼差しは、楽器を買うこともできない貧しい少年がギターヒーローに向けるのと同種の羨望と憧憬の色を帯びていた。
だがそれを真実とするならば、どうにも不可解な点があった。両左足に向ける視線は理解できる。しかしフランドールは、同じ視線をぼろスカートにも向けていたのだ。ぼろスカートは紅葉を司る。すなわち終焉と死を招き寄せる能力だ。それはまさに壊す能力に他ならず、明らかに私たちの同類に属するはずだ。なのに両左足と同様にぼろスカートにも惹かれるというのは、理屈に合わないのではないか。
このようなことを、小声でフランドールに訊ねてみた。秋の姉妹にも聞こえただろうが、どうでもいい。対してフランドールは、生み出すために壊しているから、と答えた。
確かに壊すという点では、私たちと同類に違いないだろう。だが、目的が違う。意識が違う。だから私たちとは、決定的に違う。ただ壊すためだけに壊しているのではない。失われつつある生命をそっと引き取って、次の循環へと送り出すために、壊す。それはむしろ、大地の営みを永続させることができる能力であり、大地の営みを永続させるためにある能力である。ただ壊すだけの能力しか持たないフランドールとはもちろん違うし、エネルギーを生み出せる能力を持ちながら壊すことにしか使おうとしない私とも、根本的に違う。
というのが、フランドールの考えだった。同意できないながらも、私はひとまず黙って聞いていた。だが意外にも、ぼろスカートの口から反論が出てきた。
私一人では、何もできないわ。
手を休めることなく、下を向いたままでぼろスカートが続ける。私にできることは、木の葉を染めて、枯らして、朽ち果てさせるだけ。それだけではもちろん、生命の循環は繋がっていかない。それに、こうして仕事をしている間も、生命の循環とかそんな大層なことは特に考えていない。ただ枯らして、朽ち果てさせるだけ。あとは妹の穣子がやってくれる。
でも、お姉ちゃんの能力は絶対に必要だよ。両左足が、手を止めて声をあげた。お姉ちゃんが下準備をしてくれなかったら、私がいくら土をかき混ぜたって意味ないし。お姉ちゃんが教えてくれなかったら、どこをどれくらいかき混ぜたらいいのか、正確にはわからないし。私よりもお姉ちゃんがいなかったら、それこそ土地が痩せてどうにもならなくなるよ。
我が妹ながら、あなたは少し自分の重要性に自覚が足りないわね。あなたが幻想郷の胃袋を賄っているのよ。もっと自分の能力を客観的に見なさいーーふとした拍子に、逆に自惚れを抱いてしまわないためにも。
そんな。事実、お姉ちゃんがいないと駄目だし。私たちは姉妹二人でひとつだよ。
シスコンどもめ、と言ってやりたかった。言わなかったのは、フランドールに気を遣ったからだ。私たちと対局にある能力を持つ(とフランドールが主張した)秋の姉妹という偶像を、無遠慮に傷つけたくなかった。仲睦まじい姉妹の姿を、自身に重ねる面もあるだろう。
ところが横目に見てみると、様子が違った。お姉ちゃんだの妹だのといった単語が出てくるたびに、フランドールの表情は目に見えて揺れ動いていたのだ。白い肌はますます青く、瞳は暗所に眠る赤ワインのようにどす黒く濁っていく。
私たちにはまるで構うことなく、姉妹の惚気は続いていた。両左足は目の周りを朱に染め、ぼろスカートは穏やかな笑みでうなずく。私は途端に腹の底がむかついてきて、思わず言ってしまった。
フランドールとフランドールのお姉様のほうが、あんたらなんかより何百倍も素敵な姉妹なんだからね。
秋の姉妹は口を止めて、こちらを向いた。フランドール、って、フランドール・スカーレットのこと? 返す両左足の声には、鼻で笑うような響きがあった。あの姉妹は、ねぇ。ぼろスカートの口調には、哀れむような色が混じっていた。全身を凍りつかせるフランドールを見るまでもなく、私は己の失策を覚った。そして両左足が以降の余計な台詞を続けたのは、目の前にいる布巻き少女が当のフランドール・スカーレットであることに気づいていなかったからだ。
紅魔の吸血鬼が何だって? あんた、よほど世間知らずなんだね。誰に何を吹き込まれたか知らないけど、地上じゃ誰でも知ってることだよ。スカーレット姉妹がどんな姉妹か、教えてあげる。
やめなさい、穣子。ぼろスカートが止めようとしたが、両左足は聞かなかった。姉妹の絆を貶されて、よほど腹に据えかねていたのだろう。
紅魔館当主レミリア・スカーレットは、自分勝手な我侭お嬢様。家のことなんか気にもかけずに、自分の遊びに従者を振り回してばかり。余所にも迷惑かけてばかりで、当主失格と専らの噂よ。
やめて、もういいよ。私は懇願した。ごめん、私が悪かったよ。それでも両左足はやめなかった。どころか、自身の言葉によって余計に興奮を増していくかのように、さらに声を大きくした。
素敵な姉妹? どこが! レミリア・スカーレットは、紅白の巫女だの、自分のところのメイド長だの、人間ばかりに夢中で、たった一人の妹のことは放ったらかし。地下室に押し込めておいて、何百年もそのまんま。ろくに話もしようとしないのよ。
黙れ。
フランドールが、右手を前に突き出した。開いた掌を、なおも続けようとする両左足と、止めようとするぼろスカートに向ける。いけない。
右手が握られた。
ガオン、という音とともに、地面が直径二メートルほどの半球状に抉れた。これがフランドールの、壊す能力。だが狙っていたものを壊すことはできなかった。一瞬早く、私が秋の姉妹を二人まとめて殴り飛ばしたからだ。彼女らは口や鼻から血を流して、しかし体のどこも破壊されることなく、豊穣な土の絨毯に転がっていた。
フランドール。声をかけたが、彼女の目は眠たげに中空を眺めたままだった。のろのろとマントを脱ぎ、適当に丸めて、私に向かって放り投げてくる。途中でマントが広がって、私の腕と顔に絡みついた。急いで払いのけたが、視界を遮られていた数秒のうちにフランドールの姿は消えていた。
O)))
とどのつまり、私があまりにも馬鹿すぎたということだ。
もっと気を遣っていなければならなかった。フランドールの創り上げた紅魔館という虚構は、甘美であると同時に、息のひと吹きで脆くも崩れ去ってしまうものだったのだーー私の地霊殿と同様に。生身のレミリア・スカーレットとは別個の存在たる『フランドール・スカーレットのお姉様』は、灰も残さずに消えてしまった。本当に、不注意とか失言などといった言葉で片づけてしまうには、あまりにひどい。正確に言うならやはり、私があまりにも馬鹿すぎたということだ。
名前を叫びながら、フランドールを探して飛び回った。陽は傾いてその力を弱めつつあるとはいえ、マントなしでは平気ではいられないだろう。いやむしろ、精神に穿たれた傷がどうか。砂上の楼閣は壊れやすいからこそ、壊れる姿は美しく、その美しさで胸を穿つのだ。
逆光の中に、私はフランドールを見つけた。全身から煙を出し、灰を風に流しながら、牛蒡から垂れた宝石は儚げに輝いていた。
ねえ、空。
数十メートルも離れているはずなのに、その呟きは、耳元で囁かれたかのようにはっきりと聞こえた。
あの木、誰も何もしなければ、百年後も変わらずそこに立ってるはずだよね。
フランドールは右手を握った。木が一本、消し飛んだ。
この山、誰も何もしなければ、一万年後も山のままでいられるはずだよね。
フランドールは右手を握った。山がひとつ、消し飛んだ。
この家は。その岩は。あの湖は。言ってフランドールが右手を握るたびに、家が、岩が、湖が、次々と消し飛んでいった。私は頭を抱えて、地面にうずくまった。やめて、やめてよ。子供のように震えながら言うことしかできなかった。
そのとき、視界の端を紅いものが横切った。
いや、よくよく見てみればそれは紅いとは形容しがたい姿だったのだが、とにかくそのときは確かに紅く見えたのだ。
私は顔を上げた。猛烈な速度で飛ぶそれは、フランドールのところに到達すると同時に止まった。代わりにフランドールが猛烈な速度で飛び、山の斜面に突っ込んだ。おそらくは殴られたか、蹴られたか。骨が砕けるような音も聞こえていた。
淡いピンクのドレス、青い髪、黒い翼。紅い部分といえば唇と二つの瞳くらいだったが、全身から立ちのぼる色彩は紅以外の何色でもなかった。そして、皮膚からは煙を吐いている。初めて見るが、間違えるはずがなかった。フランドールのお姉様だ。
お姉様はまた、フランドールに向かっていった。ただし、今度はゆっくりと。私は我に返り、慌てて後を追った。
私が追いついたとき、お姉様はフランドールに馬乗りになっていた。肩で息をして、しかし眼差しは微塵も揺るがない。表情からは熱さと冷たさを両方とも感じさせた。
見上げるフランドールは、四肢から完全に力を抜き、押さえつけられるままにしている。左側頭部から血を流し、頭蓋が少し陥没しているようだが、痛みを感じているのかいないのか、力なく笑った。
私が紅魔館を飛び出して、だいたい半日? 随分とお早いお迎えね、お姉様。
……誰かさんが派手にやってくれたおかげで、後始末に手間取っていたのよ。
後始末って、咲夜や美鈴に全部任せておいて、自分はお茶を飲んだり、お昼寝したり、そういうこと? それは忙しそうね。
そんなわけないでしょう。
私がドカンドカンやり始めてようやく、慌てて飛んできたってわけね。
ずっと探させていた。でも、さっきのはさすがに紅魔館にいてもわかったから、飛び出してきた。
やっぱり。フランドールは投げやりな微笑を浮かべたまま、言った。やっぱり私は、壊すことしかできないんだね。壊さないと、迎えに来てももらえないんだね。
そのために、山や湖を? お姉様はいちだんと低い声で続けた。それだけのために?
そうだよ。
その動きは、私には見えなかった。お姉様の右の肩から先が消えたと思ったら、次の瞬間には拳がフランドールの顔面に突き立っていた。血に塗れた牙の破片が、私の足元まで転がってきた。そこからは凄惨と言うのも生温かった。左右の拳が交互に突き下ろされていく。フランドールの片方の眼球は宙を舞い、下顎はちぎれ飛んで木の幹に貼りついた。
お姉様はフランドールを俯せに転がして、両の牛蒡にも手をかけた。右の牛蒡は半ばでへし折られ、左の牛蒡は根元から引き抜かれ、それぞれ鮮血を噴き出した。噴き出た鮮血が、まるで羽のようだった。それでもフランドールは、なぜか笑っているように見えた。お姉様の表情は次第に消え失せていき、それなのになぜか、涙を流さずに泣いているように見えた。二人とも、全身から煙を噴き、灰を撒き散らしていた。
再びフランドールは仰向けにされた。そしてまた拳が、顔にーー顔だったところに、と言うべきかーー容赦なく打ちつけられていく。そのたびに手足の先が、引きつるように跳ね上がった。
壊される。フランドールが、壊されてしまう。
そう思ったら、勝手に体が動いた。気づけば私はお姉様の腕に縋りついていた。やめて、もうやめてよ、お願いだから。
お姉様の拳に手が触れて、私は息を飲んだ。真っ赤に染まっている原因が、フランドールの血だけでないことがわかったのだ。お姉様の拳は骨が砕けて、内側から皮膚を突き破り、自らの血でも赤く染まっていた。
お姉様はフランドールを殴るのをやめ、じっと私を見た。今度は私が殴られるのかと思ったが、そんなことはなかった。ただ、少し嬉しそうな、少し寂しそうな、おそらくはその両方が入り交じった薄笑みを浮かべて、言った。
この子にも、泣いてくれる友人がいたのね。私の知らないうちに。
言われて、初めて気がついた。私の両頬に、伝い落ちる滴の感触が確かにあった。
お姉様は立ち上がり、フランドールを土嚢のように担ぎ上げた。この怪我じゃ、三日ほどは起き上がれないだろうけど。皮膚を日光で爛れさせながら、触れれば崩れそうなほど穏やかな声で、お姉様は言った。この子の怪我が治ったら、また遊びに来てあげてくれるかしら。
私の首は、ぴくりとも動かなかった。迷いが私の頸椎をコンクリート漬けにして、重く固めてしまっていた。私は首が折れそうなほどの力を込めて、ゆっくりと、小さく、一度だけうなずいた。
二人分の煙と灰に覆われ、お姉様はフランドールを連れて飛んでいった。後ろ姿が小さくなり、消えて見えなくなっても、私は身じろぎもできずに空の一点を見つめ続けた。
O)))
太陽はもう稜線に掛かりそうなほど低くなっていた。私は紅に染まった空の中を、泣きながら飛んだ。
フランドールは、ただ壊すだけの存在ではなかった。彼女とお姉様の触れ合う姿は、たとえ傍目には歪な形に映ったとしても、紛れもなく彼女らなりの愛情に満ちたものだったからだ。そして、思い出すほどに自分の存在が小さく感じられ、言い知れぬ不安に心臓を鷲掴みされるのだった。すなわち、私は本当に、壊すだけの存在でないと言い切ることができるのか。否定するための根拠はどれも曖昧で、お燐もこいし様もさとり様もいない今この場所では確認する術もなくて、ますます心細くなるばかりだった。
私は泣きながら飛んだ。涙と鼻汁が滴り落ちるのにも構わず、垂れ流しに泣いた。
限界まで速度を上げ、ひたすらに家路を急いだ。今の私には、世界のすべてから身を隠せる場所が必要だ。一秒でも早く地霊殿に帰って、さとり様の薄い胸で泣きながら、赤子のように眠りたかった。
ふと見ると、丸い太陽は真っ赤に燃えていた。明るくて、暖かくて、それはさとり様の第三の目に似ていた。
そのことに最初に気づかせてくれたのは、さとり様だった。おくう、今日からあなたはこの火を見張るのですよ。地底の温度があまり上がったり下がったりしないように、うまく火の勢いを加減するのです。靴の紐も結べない子供に言い聞かせるかのような優しい言い方で、おまえは子供並の頭しか持たないのだと教えてくれた。いいですよ、その調子です。さすが、おくうは飲み込みが早いですね。眠ってしまいそうなほど簡単な仕事をこなしただけで、まるでニュートリノの速度でも解明したかのように褒めちぎり、おまえにはせいぜいこの程度の仕事しか任せられないのだと分からせてくれた。
さとり様には、いくら口で言っても足りないくらいに感謝している。もちろん皮肉でもなければ嫌味でもなく、そのままの意味だ。馬鹿が己の馬鹿さ加減にも気づかず一丁前の顔をして飛び回っている姿ほど、この世で軽蔑すべきものは他にないのだから。今にして思い返してみれば吐き気を催してしまうような無知の暗闇から、さとり様は私を救ってくださったのだ。
なんとしてでも、この恩義には報いなければならない。どうにかして主人の力になれないものかと、考えることといえばそればかりだった。火力の調整などという阿呆でもできる仕事だけでは、さとり様の役に立っているとは言えないだろう。誰にでも代わりが務まるようなことでは駄目だ。だが一介の地獄鴉に過ぎなかったかつての私にとっては、自分にしかできないことなど容易に見つかるものではなかった。
だから、あれは大いなる僥倖だった。二柱の神様から、八咫烏の力を授かったのだ。核融合を操る程度の能力というのは、地獄鴉の範疇を明らかに超えた強大な力だった。本当は頭のほうをなんとかしてもらいたかったのだが、贅沢は言うまい。
ともかくも、たちまちにして私は得意の絶頂に至った。試しに制御棒をひと振りしただけで地獄の業火は柱となって立ちのぼり、お燐の尻尾を焦がしたのだ。友人からの激しい非難を聞き流しながら、私は笑みを噛み殺した。力とは持つものではなく使うものだ。これほどのものならば、使い道はいくらでもあるだろう。次の悩みは何ができるのかではなく、できることの中から何を選ぶのか、だ。私はお菓子の家に放り込まれた子供だった。イチゴのケーキ、イチジクのタルト、パンナコッタ、ヴァニラアイス、コーヒーガム。最初はどれに手を伸ばすべきか、思案する時間は悩ましくも幸福に満ちていた。
まず頭に浮かんだのは、地上を侵略することだ。地底の住人たちの中にはその能力を忌み嫌われて地上から追いやられた者も多く、さとり様もそのうちの一人だという。ならば私が代わりにこの力で地上の連中に報復してやり、ついでに土地を奪い取る。八咫烏の力を得た私にしかできないことであり、きっとさとり様も喜んでくれるだろうと思っていた。
ところが、思わぬところから邪魔が入った。お燐に計画を話して聞かせたところ、彼女は力を貸してくれるどころか、逆に妨害を仕掛けてきたのだ。間欠泉を通じて地上に怨霊を送り出し、異常事態を演出することによって紅白の巫女を地底に呼び込むという、やたらとまわりくどいやり方だった。
私は巫女に敗れ、計画を断念させられた。
スペルカードルールに則っての正式な対戦で、私は負けた。それは事実だ、認めよう。だが許せないのは、私が全力を出したうえで負けたと思われていることだ。
滅符『ツァーリ・ボンバ』
それが、私の持つ中で最強のスペルカードだ。巫女との戦いでこれを使えば、確実に勝っていた。しかし使わなかった。使えば、一帯が消し炭になる程度では済まないからだ。それに何より、さとり様の言いつけがあった。たとえ何があろうとも、決してツァーリ・ボンバを使ってはなりません。いくら強力でも、いや強力すぎるからこそ、あれはあなた自身に災いと不幸を招くスペルカードなのです。
つまるところ、あの異変に対する世間一般の認識は間違っている。私は断じて増長などしていなかった。自分の実力を正しく把握したうえで、それに見合った仕事を成そうとしただけだ。自身を過大に見積もっていたわけではない。とはいえ、お燐を責めることはできないだろう。他のすべてのペットたちと同様に彼女もまた、ツァーリ・ボンバの存在を知らないのだから。そしてツァーリ・ボンバを使わなかった私は、事実として負けた。前提となる情報が少しばかり足りていなかったというだけであって、お燐の判断はあながち的外れではなかった。結局あれは、不幸にして生じたごく小さな行き違いだったのだ。
私自身に土が付いたことに関しては、べつだん不平を言うつもりはない。スペルカードルール自体に文句を付けるつもりもない。ただ、我慢ならない噂が地霊殿の内外で囁かれるようになった。さとり様のことを、ペットの管理能力に欠けると言うのだ。ふざけるな、と思った。放任主義に徹しているとはいえ、さとり様は聖母のように私たちペットを愛してくださっており、なんら責められるべき点はない。どころか、自分に非のないことまでをも気に病んで、薄い胸を痛めているに違いないのだ。
これはいよいよもって本当の力を地上の連中に見せつけ、下賤な口を黙らせてやらなければなるまい。主人の名誉を取り戻すのは、力を手に入れた私の役目だ。そう決意した次の朝、ひと気のない廊下でさとり様に声をかけた。
地上に行ってきます。
焼け野原にするつもり、ですか。
そうです、ツァーリ・ボンバで。
さとり様は眉間に深く皺を寄せた。駄目ですと言っているでしょう。
地上で使うのなら、地底に被害は及ばないですよ。
そういう問題ではありません。さとり様は珍しく、聞き分けのない子供に手を焼く母親のように苦い顔をした。それに、火の管理はどうするのですか。放り出すつもりですか。
代わりはいくらでもいるでしょう。そこらのペットに任せればいい。
あなたは先の異変で学ばなかったのですね、とさとり様は言って、悲しそうに目を伏せた。いいでしょう、行ってきなさい。ただし力は使わないこと。当然、ツァーリ・ボンバも駄目です。
じゃあ何をしろと。
見てきなさい。
うにゅ?
地上のあらゆる物事をよく見て、そして知ってきなさい。それだけです。
わかりました、と私はうなずいた。そんなことをして特に意味があるとは思えないが、かといって面倒だからというだけの理由で主人の命令に背くほど、私は傲慢になったつもりはない。今回はとりあえず下見だ。それで地上の連中のつまらなさが確認できれば、再度出向いて焼き払えばいいのだ。
くれぐれも揉め事を起こさないように。さとり様が重ねて言ったのは、私の頭の悪さを心配してのことだろう。すべての窓にステンドグラスが施された廊下で、しかしさとり様の顔はずっと青一色に染まったままだった。
O)))
細切れの雲をまばらに携えた寒空に、私は生まれて初めての太陽を見た。
滑稽な話だ。能力を太陽に譬えられながら、私自身はこれまで本物の太陽を知らずにいたのだ。見も知らぬ物に譬えられた能力を、よくもまあ嬉々として振りかざしていられたものだ。
それはそうとして、初めて見る太陽は明るかった。高くて、遠くて、眩しくて、その大きさを考えてみると気が遠くなりそうになる。まさに巨大な力の象徴であり、それでいて何よりも美しかった。じめついた地底の空気に馴染んで黴にまみれた精神など塵ひとつ残さず浄化してしまいそうなほど、それはそれは本当に、容赦なく美しかった。最大の恩恵である熱があまり地面へと届いていないのには物足りなさを感じないでもなかったが、私にとってはほんの些細なことだ。体内から発する熱量が大きいおかげで、こんな真冬に半袖のシャツと膝上までのスカートでも平気なのだから。
だというのに、美しい太陽に照らされた地上の風景は、少しも美しくなかった。木々は風に頬を撫でられるたび、耳障りな悲鳴をあげる。湖面は無様に凍てついて、苦悶の表情を晒している。すべてが冬という名の真綿で首を絞められて、土気色で背中を丸めていた。
このぶんなら、次に地上へと出てきたときにはツァーリ・ボンバを使うことになりそうだ。それはそれで今から待ち遠しかった。私は震える右手を左手で強く掴んだ。そうやって強引に押さえ込まなければ、右手がたちまち制御棒へと姿を変えてしまいそうだったからだ。どんなにつまらない風景でも、消し飛んでいく様は例外なく美しい。消し飛んだ後のだだ広い荒野は、もっと美しい。眼下に広がるこの世界は、果たしてどのような断末魔を聞かせてくれるのだろうか。想像してみただけで、下腹が締めつけるように熱くなった。下着の内側がかすかに、ねばついた湿り気を帯びてくる。いけない、と私は首を振った。あくまで今回は見るだけだ。だが左手は知らないうちに、懐のスペルカードに触れていた。
あなたも、壊すことしかできないんだね。
その声は唐突だった。振り向いてみると、声の主は手が届きそうなほどの距離で浮かんでいた。我ながら迂闊なことだ。甘美な妄想にふけるあまり、何者なのかもわからない少女をまったく気づかないままにここまで近づけてしまうとは、どうかしている。相手がこいし様のような能力を持っているわけでもないだろうに。
少女ーー声と、おおよその体格などから推測する限りでは、そう称するのが適当であるように思われた。というのも、どういう事情かは知らないが、彼女の皮膚は(少なくとも露出している部分はすべて)顔立ちもわからないほどに爛れて煙を噴き、白い粉となってぼろぼろと崩れ落ちていたのだ。わかるのは、細い声で舌足らずな喋り方をすること、私より頭ひとつ以上も背が低いこと、そのわりに手足がすらりと伸びていること、紅くて派手な幼女ふうの服を着ていること。そして、背中からは妙な具合に曲がった牛蒡を二本生やして、そこから色とりどりの宝石をぶら下げていること。
にしても、どういうことだ、壊すことしかできないとは。蔑むような物言いが癇に障った。あらゆるものを壊すことができる力は、素晴らしいものだ。それだけで私という存在は揺るぎない価値を持つことができている。それを、あたかも欠陥品であるかのように、壊すことしかできないとはどういうことか。一瞬、頭に血が上ったが、すぐに萎えた。牛蒡少女の姿があまりにも痛々しくて、それどころではなくなってきたのだ。
全身あちこちの肉が抉れ落ちて、見られたものではなかった。どうしたの、焼けてるよ、と私は指さした。彼女は、太陽が、とだけ言って上を向いた。
牛蒡少女は右手を持ち上げて、顔の前に掲げた。すると手によって陰になった目元のあたりだけが、煙を吐くのをやめて表面の粉をふるい落とし、しばらくすると白い肌へと変化した。瞳が鮮血のように深い紅色をしていることも、初めてわかった。
どうやら、日光を遮ってやれば皮膚は回復するらしい。私は背中のマントを広げ、中に牛蒡少女を抱き込んだ。ところが彼女は、鳥くさい、と言ってすぐに払いのけた。そんなにくさいのかと自分でマントを嗅いでみたが、よくわからなかった。そうこうしているうちに牛蒡少女はふらりと背中を向けて、飛び去ってしまった。
道を歩いていたら、いきなり生卵を顔面に投げつけられた気分だ。私は放置されたまま呆然と浮かんでいた。おかしな子だと思ったが、よくよく考えてみれば、おかしいのはお互い様だった。それに地霊殿の面子だって、おかしくない子を探そうとすれば相当に骨が折れるはずだ。
気づけば、破壊衝動はすっかり頭を引っ込めていた。代わりに重い倦怠感が背中にのしかかってきていたが、かえってそれは自制のためには好都合だ。億劫ながらもなんとか羽を動かして、まずは一番近くに見える山へと向かった。
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それは異様な雰囲気を放つ山だった。
妖精たちの力が妙に強い。かといって騒がしい雰囲気になることはなく、むしろ張りつめた静謐さに包まれている。ちょっとした妖怪が数人いる程度では、ここまでの空気は生まれないものだ。よほどの大物が場を支配しているのだろう。ツァーリ・ボンバを使うときには、ここを爆心地にするのがいいかもしれない。そんなことを考えながら、山の麓に降り立った。
いきなり目の前に二人組が現れて、驚きのあまり心臓が跳ね上がった。いや、正確には私のほうが突如現れたのだが、少なくとも私には逆に感じられた。それほどまでに二人組の気配は薄く小さく、実際に顔を突き合わせるまでまったくその存在に気づかなかったのだ。
いずれも金髪に枯れたような色合いの服を身につけた、垢抜けない姿だった。両足が左足の少女は地べたにしゃがみ込んで、手で土をかき混ぜていた。半ば凍てついて相当に硬いはずの土に、彼女の手は飲み込まれるように沈んでいき、たんぽぽの綿毛でも飛ばすように軽く掘り返した。その部分の土は黒々とした色になり、しかし質感はまるで羽毛布団のようにも見えた。
ぼろぼろのスカートを穿いたほうは、何のまじないのつもりか、地面に散らばった枯れ落ち葉を両手ですくい上げては落とし、その上から掌でぺたぺたと押さえていた。枯葉は少しずつ、本当に少しずつではあるが、次第により細かい破片になっていき、両左足がほぐした土に馴染んでいった。
つまりはそれなりの時間、二人組の遅々とした作業がわずかながらも進捗を見せるに足るだけの時間、私は黙って彼女らの作業を傍観していた。にもかかわらず、二人組はいっこうにこちらに気づく様子がなかった。あるいは気づいていながら無視していたのかもしれないが、いずれにしてもまったく私の存在になど気を向けることもなく、ひたすら自分たちの作業に没頭していた。そして二人ともに言えることには、殺した息子の骸を穴に埋めているかのごとく、完全に目が死んでいた。
力は哀れなほどに小さく、存在は消え入りそうなほどに薄い。まず妖怪ではあり得なかった。さらには人間とすら考えにくいほどの貧弱さだ。私は消去法で見当をつけて訊ねた。あなたたち、妖精?
とんでもない、あたしたちゃ神様だよ。両左足が答えた。
どうやら神様にもピンからキリまでいるものらしい。ともかく、神様というからにはいろいろと詳しいのだろうと思い、地上の案内を頼んでみた。だが、両左足はにべもなく首を横に振った。駄目駄目、お断り。
どうして。腹が立つのをこらえながら質してみると、両左足は偉そうに腰に手を当てた。冬の枯れ山なんて、案内するのはごめんだって言ってんのよ。
なに?
いよいよ頭に血を上らせた私の手が動く寸前、ぼろスカートの手刀が両左足の頭頂部に食い込んだ。鈍い音がした。私を止めるためにやったのであったならば、なかなか素晴らしいタイミングだと言わなければなるまい。
いでっ。何するの、お姉ちゃん。
言葉遣いには気をつけなさいと、いつも言っているでしょう。誤解を招くような言い方は、無駄な諍いを生むわよ。
えー、気をつけてるつもりなんだけどなあ。
自分のつもりと、他からどう見られるかは別のものよ。そう言ってからぼろスカートは、取り繕うような笑みを私に向けた。ごめんなさい、気を悪くしないでね。今は時期が悪いのよ。
時期?
私は紅葉を、穣子は豊穣を司る、秋の神なの。だからそれ以外の季節には、これといって見せられるようなものを持たない。案内しようにも、あなたを楽しませることはできないわ。
いいよ、気にしないで。私は両の掌をぼろスカートに向けた。べつに面白おかしく観光したいわけじゃないから。ただ、このあたりのことはよく知らないから、いろいろ教えてほしいだけなんだ。どうやらぼろスカートは親切そうなので案内してくれるかと思ったのだが、彼女は申し訳なさそうな苦笑を浮かべた。
生憎、私たちは忙しいから。
秋の神様が、冬に忙しいの?
まあね。ぼろスカートは枯葉をほぐす作業に戻った。両左足も地面をかき混ぜる作業を再開した。
こんな砂場遊びのようなことがそんなに重要だというのか。訝る私に、ぼろスカートは独り言のように応えた。秋を彩る紅葉は冬には枯れ落ち、朽ちて土に還ることで、翌年に草木を繁らせるための養分となる。稔りを生むための力となる。私たちがこれをしなければ、生命は年を跨いで繋がっていかない。決して秋しかやることがないわけではないのよ。それから、これが本題とばかりに付け加えた。憂鬱な冬に仕事が忙しくて、そのうえ他のことまでする気にはならないわ。
それきりぼろスカートは黙り込んで、両左足ともども死んだ目で作業に戻った。私はしばし呆気にとられて、それから諦めて山のさらに上へと向かった。わざわざ不愉快な連中に案内を頼むこともない。この山にはまだ他に大きな気配がいくつもあるのだから、中にはまともな者もいるだろう。
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しばらく低空飛行で斜面を上っていると、常緑樹の割合がいくらか増えてきた。場所によっては足元が薄暗くて、飛んでいる限りは気にする必要などないのだが、決して気分のいいものではなかった。
いったん、手頃な岩の上に着地した。飛ぶのに疲れたわけではない。近づいてくる気配に気づいたのだ。果たして数秒後には、あちこち木の枝にぶつかっては葉っぱを撒き散らしながら、くるくると回転する奇妙なゴスロリが現れた。
見ない顔ね。白すぎて作り物くさい前歯をむき出して開口一番、彼女はそう言った。そして、こちらを無遠慮にじろじろと眺めてくる。ただし、くるくると回転したままだ。この時点で、まずまともな問答は期待できそうになかった。無視してしまおうかとも思ったが、そのほうが却って面倒くさく絡まれそうだった。
もっと上まで行くつもり? 問いながら、回転がさらに寄ってきた。
そのつもりだけど、適当にぶらついてるだけだから。
悪いことは言わないから、ここで引き返しなさい。
さいですか。返事はおそろしく投げやりになってしまった。回転が目にうるさくて、気分が悪くなってきたのだ。早々に立ち去ろうとしたのだが、回転に呼び止められた。ここでこうして会ったのも何かの縁。このまま何もせず別れるのもつまらないでしょう。
べつに、と私はつぶやいた。しかし回転は聞く耳を持たなかった。私は厄神。あなたの厄を吸い取ってあげましょう。
いいです。
遠慮せずに、ほら……って、こんなに大量の厄、いくらなんでも吸い取りきれるわけがないね。あはははは、参った参った。
自分で認識していることでも、面と向かって他人に言われるとひどく腹が立つ。神様というのはこんな碌でもない連中ばかりなのかと、ふと心配になった。私のように強い力を持っているのならともかく、神様に頼らなければ安心して暮らすこともできない弱者というのも、決して少なくはないはずだ。そんな力弱い存在たちは、ぼろスカートだの両左足だの回転だのといったふざけた神様たちを崇めて、少しでも安心を得られているのだろうか。私には関係ない話だが、想像してみるに気の毒に思わないではいられなかった。
回転は回転しながら、つむじ風のように飛び去っていった。私に残ったのは、鉛のような疲労感だけだった。
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うんざりした気分でさらに上ると、岩の間に川が流れていた。
滞ればたちまち凍ってしまいそうなほど冷やされた水で喉を潤していると、ふいに何者かの視線を感じた。あたりを見回してみたが、それらしい姿は見えない。ただ妙なことに、気配だけは間違いなく視線の届く範囲にあった。弾幕でもばら撒けば燻り出すこともできるだろうが、今日ばかりはそうもいかない。気配を鬱陶しく思いつつ川沿いに上っているうち、覗き見の視線はどこかへ消えた。
さらに進むと滝に突き当たった。おそろしいほどに高く幅広く、どこからこれだけの水が流れてくるのかと不思議なほどの勢いで轟々と落ちていた。
止まれ。
滝の途中に突き出た岩から岩へと身軽に飛び移りながら、白い犬が姿を現した。私と同じ高さで中空に静止すると、右手に剣、左手に盾を構えて、威嚇の態勢をとった。貴様、何をしに来た。
ただの見物に。
それだけ危険な気配を垂れ流しておいて、信じてもらえるとでも?
信じてもらえるもなにも本当のことだが、白犬は嘘だと決めつけているようだ。またしても話にならない。どころか、白犬は剣の切っ先をまっすぐ私に向けた。ここは他所者が踏み入っていい場所ではない。直ちに引き返すなら良し、さもなくば腹から垂れた内臓を川の水で洗うことになるぞ。
わかった、帰る。
吐き捨てて、私は踵を返した。もう我慢の限界だ。羽を思いきり広げて、心の中で叫んだ。ああ、今日のところは帰ってやる。もう地上見物は充分だ。碌でもない連中ばかりの碌でもない世界だということは、よくわかった。これで次に来たときには、心置きなく焼き尽くせるというわけだ。明日か、明後日か、一週間後か。遠からず、地上はすべて更地になる。もう決めた。ツァーリ・ボンバの爆心地はこの山だ。だから、灰になって消えるそのときまで、間抜けな面をぶら下げて安穏と過ごしているがいい。最大の力で加速しながら、山の斜面から舞い上がった。
ほら、やっぱり。壊すことしか考えられない。
まただ。またしても肝硬変のようにするりと近寄って、私の耳に息をかけながら囁いたのは、紅い牛蒡少女だった。
なぜか、彼女を吹き飛ばしてやりたいという気は起こらなかった。振り向いてみて、余計に怒気は萎えた。最初に会ったときよりもさらにひどく肉体が崩れていたからだ。皮膚はことごとくこそげ落ちて顔や腕の骨が露出し、なおも白い粉となって風の中にばら撒かれていた。
それ、なんとかならないの。私は思わず顔をしかめた。ものを壊すのは好きだが、勝手に壊れていくものを見るのはあまり楽しくない。むしろこれは目に毒だ。牛蒡少女は聞いているのか聞いていないのか、眠たげな目でどこやらはるか遠くを眺め、それもそのはず、直後には白目を剥いて逆さまに落下を始めた。彼女は頭から地面に激突し、動かなくなった。
私は牛蒡少女に飛び寄った。体の崩れる速度がさらに速くなっているようだった。気を失ったせいか、皮膚の再生が追いつかなくなっているらしい。浸食は骨にまで及び、もうじき頭蓋の中身までが流れ出てきそうだった。私は牛蒡少女を抱え、骨を砕かないように注意しつつ岩壁の窪みに運んだ。ここなら直射日光は当たらない。
そっと横たえてやると、牛蒡少女の体はまた再生を始めた。骨は硬く固まり、その外側に肉が巻いていく。つれて、彼女の本来の姿が、ようやく細かいところまで見えるようになってきた。私は思わず息を飲んだ。彼女の肌は輝くように白く、頭髪はグラスファイバーに鼈甲飴を溶かし込んだかのような黄金色で、それらが真紅の服や瞳と合わさって、まるで太陽のような印象を放っていたからだ。理由というなら、それだけで充分だった。私はたちまちのうちに彼女のことが気に入ってしまった。彼女の寝顔は、私の目を惹きつけて動かなくしてしまった。
そういえば、と今更ながら思い当たる。さとり様から聞いた話だ。悪魔と呼ばれる中でもわりと高等な部類に、日光を浴びると灰になってしまう種族がいるという。目の前にいるのがそうかもしれない。俄然興味が湧いてきて、小さな呻きとともに目を覚ました牛蒡少女が起き上がるのを待つのももどかしく、食いかかるように訊ねた。
あなた、吸血鬼?
牛蒡少女はうるさそうに顔をしかめ、吸血鬼の妹、と答えた。
あなたは吸血鬼じゃないの?
吸血鬼。
二日酔いかと思うような不機嫌さで彼女はあたりを見回し、日陰ですっかり回復している自分の姿に気づくと、つまらなさそうに肩をすくめた。それから私に向かって、なにじろじろ見てんのさ、と言った。
なんでまた。私は少々うろたえながら言葉を探し、継いだ。なんでまた、吸血鬼がこんな真っ昼間に。
ただの散歩。
わざわざ焦げながら?
飽きたから。
飽きた?
吸血鬼はシャワーでも浴びるように、細めた目で天を仰いだ。太陽から隠れるのに、飽きた。
飽きたからといって、やめていいような類のことでもあるまい。実際、私が日陰に連れ込んでやらなければ、そのまますっかり灰になって消えていたかもしれないのだ。まさか誰かに拾ってもらえることを期待しての行動だったわけではないだろうが、結果として強く私の気を引いたことは事実だった。
吸血鬼はといえば、いかにも関心の外にある事象に気まぐれで視線を向けるような素っ気なさで、服の土を払いながら言った。あなた、太陽好きそうだね。
うん、大好き。
私は好きじゃない。
だろうね。私は、わけもなく笑ってしまった。理屈抜きで愉快になれるのは馬鹿の特権だ。そんな馬鹿を横目に見て、吸血鬼も少し口元を弛めてくれた。私はますます楽しくなった。馬鹿に付き合ってくれる利口者に、悪い奴はいないからだ。
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私とフランドール(と、吸血鬼は名乗った)は並んで座り、景色を眺めながら話をした。
まずはフランドールが住む紅魔館のことを。といっても、自分から進んで話してはくれなかった。私がうるさく催促するのに応じて、彼女はぽつりぽつりと日々の生活を小ぶりな口から紡ぎ出した。渋々といった調子とは裏腹に、それはあまりの素敵さに聞いていて涎が垂れてきそうな日常だった。有能で忠実なメイド、博識で理知的な居候、明るく気さくな司書、頑丈で壊れにくい門番。紅魔館の日常は、フランドールの牛蒡から垂れ下がった宝石たちと同様、心惹かれる輝きを放っていた。
とりわけ私を羨ませたのは『お姉様』の話だった。フランドールのお姉様は、容姿こそフランドールとそう違わない年頃の幼い少女であるが、その実は紅魔館の当主を務めている。名のある家の当主となれば抱える仕事の量は凄まじく、傍から見ても目の回るような多忙な日々を送っているのだが、一方ではその合間を縫って他の住人たちとの語らいに時間を割くことを惜しまない。中でも唯一の肉親であるフランドールとのお茶会は、自らが引き起こした異変(紅い霧で地上を覆ったらしいが、私は知らない)の最中にも欠かさなかったという。時には手ずからお菓子を拵えてくれることもある。咲夜(という名前のメイド長らしい)も料理において希有な手腕を持っているが、お姉様の愛情のこもったクッキーと比較すれば、やはり及ぶものではない。黄金色の頭髪は毎日、お姉様が鮮やかな手つきで梳き、結ってくれているそうだ。左側頭部で括った髪型はフランドールもお気に入りで、何百年も変えていない。眠る前には図書館から選んできた物語を読み聞かせてくれたり、あるいは紅魔館の外での出来事などを話して聞かせてくれたりする。ほとんど地下室に籠りきりのフランドールにとって、お姉様の話は壮大な冒険譚にも等しいものだった。そして妹が眠るのを見届けてから、お姉様はまた仕事を片づけに戻るのだ。
私にとってはもはや御伽話の世界だった。話が進むごとに私はいっそうのめり込んでいき、早く早くとさらに次の場面を要求した。それから、はてと首を傾げた。こんなにも素敵な家族のことを話しているのだから、もう少しくらい声を弾ませてもよさそうなものだが、フランドールの口はいっこうに軽くならなかったのだ。見れば、もとから青白かった彼女の肌はますます冷やかに透き通り、触れれば指先が痺れてしまいそうだった。それはそれで美しかったが、太陽というよりは精巧な人形のようであり、私を少しばかり幻滅させた。
次は私が地霊殿の話をする番だったが、どうしたものかと頭を掻いた。
自分ではそれなり以上に幸せな生活を送ってきたつもりだが、地霊殿の顔ぶれを私の家族とするならば、フランドールの家族と比べると惨めなまでに見劣りしていた。お燐は友人思いのいい奴だが、なまじ頭が切れるためにお節介と早とちりがひどい。こいし様は誰とでも裏表なく接するが、その実まるで掴みどころがない。そしてさとり様は、家族への愛情こそ誰にも負けはしないが、その表現の仕方という点では控えめに過ぎた。いくら内面が親愛で満たされているといっても、フランドールの語った紅魔館の前では、地霊殿は魔法使いと出会う前の灰かぶり同然だった。
ありのままを話すわけにもいくまい。少なくとも、地霊殿を紅魔館よりも極端に見劣りさせるわけにはいかなかった。たとえ他愛のない会話の中であっても、さとり様の器量と力量を外部の者に低く見させてしまうことは、ペットとして許されざる重罪だ。良い部分のみを極端に誇張し、客観的にはあまり褒められたものではない部分を隠蔽し、私は地霊殿の生活をこれでもかと輝かしく飾り立てた。有り体には、嘘で塗り固めたと言ってもいいかもしれない。
かくしてさとり様は、慈愛に溢れた母親であり、厳格な父親であり、ペットたちを正しく導く賢王であり、無双を誇る戦士であり、万象を操る魔法使いであり、万の書物を頭に収めた学者であり、要するに、結局は何が何やらよくわからない怪物になり果てた。さとりさんって、すごいひとだね。純真なフランドールの感嘆に、私は恥ずかしくなって顔を伏せた。ほとんど原型も残さない虚構を自慢げに話して、いったい何が面白いというのだ。
会話が途切れた。ここまでよく続いたものだ、と言うべきか。フランドールは地下室籠りの箱入り娘だし、私は火の管理だけで年月の大半を潰してきた。どちらも家族の中だけでほぼ世界が完結しているという意味で、経験の乏しさは似たようなものだ。小さく細い針のような話題をパイルバンカーのごとく誇張し装飾してみても、さすがに限界というものがある。二人合わせたところで、すぐに話の種を吐き出し尽くすのは必然だった。
どうしたものか。こうして肩を並べ、ただ無言で座っているのも決して悪くはないが、それではあまりにも勿体ない。せっかく地上くんだりまで出向いてきて、こうしてフランドールに出会えたのだから、とにかく何かしていたい。
空を見上げてみた。日陰で話をしている間に太陽はさらに高くなり、いっそう燦々と地上を照らしている。私は立ち上がり、背中のマントを外すとフランドールの頭に被せた。鬱陶しそうに顔を出して見上げる彼女を、私は日向から手招きした。
一緒に行こう、散歩の続き。
フランドールはぼんやりと私を眺めた。それから、鳥くさい、と本当に嫌そうな顔でマントを体に巻きつけた。
何それ、黒魔術みたい。私は指さして笑った。顔を除いては頭の頂から足首のあたりまで、二本の牛蒡もどこにあるのかわからないほど布に巻かれた姿は、地底の妖精たちが扮したゾンビであるとか、業火に投げ込まれる死体とかいったものといくらほども違わないように見えたのだ。何がおかしいのさ、と言ってフランドールは薄い笑みを見せた。私は嬉しくなって、もう一度、自分でも阿呆かと思うほど高らかに笑った。彼女は冷たい人形などではなく、やはり太陽だったのだ。
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地獄鴉と吸血鬼の奇妙なデートは、行くあてもなく始まった。
フランドールに案内を頼めるのならよかったのだが、まるで期待できそうになかったので私からは何も言わなかった。彼女自身の口から聞いた限りでは、地上における世間知らずっぷりでは私と大差ないはずだった。
必然的に、とりあえず山を下っていくことになった。上りのときに沿って飛んでいた川があったので、自然と川沿いに下っていく形になった。よく見れば、なかなか精悍に引き締まった水だ。一緒にフランドールがいるというだけで、一人のときとは景色が違って見えてくるようだった。
フランドール?
気づけば、フランドールは随分と離れたところに立ち止まっていた。もう一度呼びかけると、川はちょっと、と情けない声が返ってきた。なるほど、吸血鬼が流水も苦手だというのは本当のようだ。ふと、意地悪な気分が頭をもたげてきた。
太陽からは逃げないのに、水は駄目なんだね。ふうん。
フランドールは少し間を置いてから返した。駄目ってわけじゃないよ、好きじゃないだけで。それから、小股で私のところに寄ってきた。強がって尖らせた唇の先が艶やかで、可愛らしかった。
私はブーツと靴下を脱ぎ、川に足を踏み入れた。ねえ、見て。スカートの横を指でつまみ、令嬢の挨拶ふうに膝を曲げておどけてみせた。ほら、これが本当の、鴉の行水。
言葉の通りに、すぐ川から上がることになった。フランドールが笑わないどころか、足を小刻みに震わせていたからだ。それでもなお彼女をからかってやろうと思えるほど、私は嗜虐的な性格をしていない。靴下とブーツを手にぶら下げて、濡れた素足のまま川に背を向けた。一部始終を川の中から覗く透明な奴がいたのだが、それに気づく余裕すらフランドールにはなかったようだ。
クソ鴉。川が完全に視界から消えると、フランドールは小石を拾って投げてきた。私は肩口で受けて、そんなに怖かったの、と笑った。クソ鴉、とフランドールはもう一度言った。
あんまり怒らないでよ、これあげるから。私は服の胸元に手を突っ込み、二個のゆで卵を取り出した。フランドールは首を傾げた。
ゆで卵。フランドール、もしかして知らない?
うるさい、知ってるよ。
それはよかった。一緒に食べよう。
食べる? ああ、うん、食べよう。
フランドールは手の中でゆで卵の向きをいろいろと変え、同時に自分の首もあちらこちらと動かして、様々な角度からゆで卵を眺めた。ひとしきり観察が終わると、恐る恐るといった様子で口を開き、かじりついた。殻を剥かないままで。
ちょっと、待った、待った。慌てて止めると、フランドールはゆで卵を半分口に入れたままでこちらを見た。すでに牙が深々と突き立っている。あー、なんていうか、私のところではね、ゆで卵は殻を剥いて食べるのが流儀なんだ。私が言うと、フランドールは仏頂面でゆで卵を口から出した。へえ、地霊殿では殻を剥いて食べるんだ。紅魔館とは違うんだね。でも、せっかく空がくれたゆで卵なんだから、今日は地霊殿の流儀で食べてみようかな。
フランドールが殻を剥き始めたのを確認してから、私も自分のゆで卵に取りかかった。傷ひとつつけずに剥き終わってからフランドールを見て、叫びそうになった。あろうことか彼女のゆで卵は黄身だけになっており、白身はすべて殻とともに地面に打ち捨てられていたのだ。私は絶望して、自分のゆで卵を味わうことに専念した。
おいしかった? 食べ終わって、一応訊ねてみた。フランドールは紅い舌で指先を舐め、うん、とても、とうなずいた。喜んでくれたのなら、いいことだ。足元の白身は見なかったことにした。
気づくと、フランドールはまじまじと私の胸を見つめていた。二個のゆで卵を抜き取って若干膨らみが減ったことが、彼女の気を引いたのだろうか。さ、と言いかけてフランドールは口を噤んだ。
そろそろ足も乾いた。靴下とブーツを履こうと拾い上げたが、実際にはまだしばらく素足のままでいることになった。私たちの前方に、殺気立った白犬が現れたからだ。
まだいたのか。白犬が剣を大上段に振りかざし、今にも斬りかからんばかりの剣幕で吠えたてた。しかも貴様、今度は仲間も連れて、いったい何を企んでいる。
この山を消し飛ばすんだよ。言ってやったなら、さぞかし爽快な気分になれただろう。ところが私の苛立ちは、しばらくフランドールと話しているうちに溢れるほどではない水準にまで落ち着いていた。ごめん、もう帰るところだから。左の掌を向けて謝ると、白犬は拍子抜けした様子で、ああ、とうなずいた。ならいいんだ、何もせずに帰ってくれるのなら。
本当に、何もせずに帰るの?
フランドールが何気ない調子で言った。そのひと言で、私は両の肺を潰されたかのように動揺した。壊さないままで、あなたは本当に帰れるの? 幻聴の中でも、フランドールの声はこれといった意図も感情も含んでいないようだった。そうだよ、と絞り出した返事は、みっともなく震えていた。
壊さなくて、いいの?
うん、さとり様に、駄目って言われてるから。
へえ。じゃあ仕方ないね。
うん、仕方ない。私は無邪気で容赦ない追及から解放されたことに胸を撫で下ろす一方で、うすら寒い罪悪感に襲われた。主人の名前を言い訳に使わなければ、壊す壊さないの意思すら決められないのか。大したものだ、と自嘲しなければ、ひとつ覚えの衝動にまたしても揺さぶられてしまいそうだった。
もう行こうよ。私は靴下とブーツをぶら下げたまま、わざと音をたてて羽ばたいた。
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辺りで一番大きな木の枝に腰かけて、靴下とブーツを履いた。
フランドールは別の木の枝に、私と向かい合って立ち、しきりに指の爪を噛んでいる。視線はじっと私に向けられているのだが、何か面白いことでもあるのだろうか。いずれにしても、こちらとしてはあまり居心地の良いものではない。
壊すこと『しか』できない、って言ったよね。
私が話しかけると、フランドールは爪を噛むのをやめた。いま噛んでいた左手の人差し指以外に噛み痕はなかった。
壊すことができるって、すごいことだよね。それなのに、壊すこと『しか』って言い方、おかしくない?
フランドールは唾を吐き捨てた。壊すことの、何がすごいのさ。
力がないとできないことだよ。
例えばその木、と言ってフランドールが私の腰かけている木を指さした。百年後も、変わらずそこに立っていられるかな。
立ってるかもしれないよ。
千年後は。
ひょっとしたら、残ってるかも。
一万年後は。
……無理だと思う。
次にフランドールは、真下を指さした。一万年後、この山は山のままでいられるかな。
まだあるんじゃない?
百万年後は。
さあ。
一億年後は。
……わからない。
フランドールは、指さしていた地面に飛び降りた。誰かが壊さなくても、形あるものはいつか必ず壊れるよ。だから、誰かが壊したとしても、それは放っといても壊れるものを少し早めただけ。一万年か、一億年か、一日か。大したことじゃないし、自慢できるようなことでもない。
そうですかと納得はできなかった。私の存在価値を否定しないためにも、反駁の言葉を必死で探さなければならなかった。数秒の間を空けた後、悪い頭はどうにかそれらしい理屈を捻り出した。
私の力は、壊すだけじゃない。エネルギーを生み出すことだってできるんだよ。熱を作って、それをなんかいろいろしたら、いろいろ役に立つことに使えるんだ。
ふうん。フランドールの鼻から抜けてきた声は、黄金に輝く腕輪の上面を何気なく引っ掻いて、それが鍍金であることを無遠慮に暴いてしまった。いかにも私は、エネルギーを生み出すこともできる能力を、何かを壊すために使うことしか考えていない。何かを壊すために使うことしか考えられない。書き心地が抜群の万年筆を持っていたとして、それを使って他人の眼球を抉ることしか考えていなければ、それは凶器でしかないのだ。
私の悪い頭では、これ以上の反論の言葉は見つけることができなかった。ただ、それでも認めてはならないような気がした。肋骨の裏側がむず痒くなるようなもどかしさをせめて少しでも紛らわそうと、私は訊ねた。フランドールも、壊すことしかできないの?
もちろん。さしたる感慨もなく、フランドールは答えた。
その潔さ、というよりは頓着のなさに、私は妬ましさを覚えた。そしてそれ以上に、憧れの気持ちを抱いた。真に太陽に譬えられるべきは、フランドールなのだと思った。
厄の匂いが、プンプンするわぁー。
つむじ風を撒き散らしながら、回転が飛んできた。満面の笑みで、白すぎる前歯を全方位に見せつけている。また来たか、と私はうんざりした。フランドールは初見らしく、得体の知れない回転物体に少し怯えた視線を向けた。
回転は私たちの間に降り立って、やはりなおも回転を続けた。また会ったわね、鴉さん。それからそっちの布巻きさんも、大層な厄をお持ちのようね。
フランドールは無言のまま、変質者を見るような冷やかな表情を浮かべた。
吸い尽くせないほどの巨大な厄が、二人分。こりゃ、ますますもって無理に決まってるね。いやいや参った参った、うふふわははははは。
こちらが気持ち悪くなりそうなほどの上機嫌で、回転は飛び去った。回転速度はさらに上がり、遠目にはもはや赤緑の渦巻きにしか見えなかった。
残された二人とも、しばらく言葉が出てこなかった。私は木の枝から飛び降り、回転がいたせいで地面に穿たれた穴をちらりと見遣った。そろそろ行こうか、と呼びかけると、フランドールは小さく頷いた。
O)))
太陽はとうに頂点を過ぎ、着実に高度を下げていた。
ただでさえ冬の太陽は、真昼でもさほど高いところまでは上がらないのだーーと、いつだったか誰かに聞いた覚えがある。沈むのも、夏と比べれば二時間ほども早いのだと。吸血鬼にはそのほうが嬉しいのかもしれないが、私はやはり太陽に照らされていたほうがいい。というより、せめてもの救いである太陽が隠れてしまったら、このふざけた地上を見て回ることの精神的苦痛に、果たして耐えられるかどうか。さしものフランドールも、本物の太陽の代わりが務まるかどうかはわからない。地上視察は日没とともに切り上げることに決めた。
となると、そうそうあちこちと回っている時間はない。だが、まだ私は決めかねていた。地上の連中はどいつもこいつもふざけているが、ただしフランドールがいる。フランドールのお姉様がいる。紅魔館がある。それだけで、地上を焼き払うかどうか迷うに充分な理由となった。だから、まだ結論は出ていない。今少しの判断材料が必要だ。かといって、べつだん行くあてもない。どうするーー私は滞空しながら、色褪せつつある風景を眺めた。
あ。
呆けたような声で言って、フランドールが私を追い抜いていった。ここまでずっと私の後ろをついてきていたのだが、何か興味を引かれるものの気配を感じ取ったらしい。するすると吸い寄せられるように飛んでいく。私も後を追ったが、思わず顔をしかめてしまった。フランドールの進む方向に、あまり愉快でない心当たりがあったからだ。
予感は正しかった。フランドールが降り立ったところには、地べたにうずくまって作業をするぼろスカートと両左足の姿があったのだ。
こいつらと関わっていても、何か面白いことがあるとは思えない。だがフランドールは地面にしゃがみ込んで、ぼろスカートと両左足の作業を、間近から食い入るように見つめた。しばらくは腰を据えてしまいそうな感じだ。彼女を置いて一人でよそへ行く気にもならず、仕方なく私は数歩離れたところで立っていた。
両左足は顔を上げ、品定めするような目でフランドールを眺め回した。それから鬱陶しそうに私を見て、作業に戻った。ぼろスカートはちらりとだけ私たちに目をやって、すぐにまた下を向いた。
最初に出くわしたときと、やっていることは同じだった。ぼろスカートが枯葉をほぐし、両左足が土をかき混ぜる。死んだような目と、気怠い動作。作業の進捗はおそろしく緩慢だ。ただ、それでも着実に進んでいた。私が他のところを回っていた数時間で、十数メートル四方が肥沃な土壌へと生まれ変わっていた。
こんな地味な作業をじっと眺めていて、何か面白いのだろうか。まるで見当がつかないわけではなかった。おそらくは両左足の能力に興味を引かれているのだ。フランドールは彼女自身や私のことを、壊すことしかできないと蔑むような物言いをした。ならば秋の稔りのために土壌に活力を注ぎ込む両左足は、すなわち生み出す力を持っており、フランドールの理屈でいえば私たちよりも優れた、尊ぶべき存在だということなのだろう。実際フランドールの眼差しは、楽器を買うこともできない貧しい少年がギターヒーローに向けるのと同種の羨望と憧憬の色を帯びていた。
だがそれを真実とするならば、どうにも不可解な点があった。両左足に向ける視線は理解できる。しかしフランドールは、同じ視線をぼろスカートにも向けていたのだ。ぼろスカートは紅葉を司る。すなわち終焉と死を招き寄せる能力だ。それはまさに壊す能力に他ならず、明らかに私たちの同類に属するはずだ。なのに両左足と同様にぼろスカートにも惹かれるというのは、理屈に合わないのではないか。
このようなことを、小声でフランドールに訊ねてみた。秋の姉妹にも聞こえただろうが、どうでもいい。対してフランドールは、生み出すために壊しているから、と答えた。
確かに壊すという点では、私たちと同類に違いないだろう。だが、目的が違う。意識が違う。だから私たちとは、決定的に違う。ただ壊すためだけに壊しているのではない。失われつつある生命をそっと引き取って、次の循環へと送り出すために、壊す。それはむしろ、大地の営みを永続させることができる能力であり、大地の営みを永続させるためにある能力である。ただ壊すだけの能力しか持たないフランドールとはもちろん違うし、エネルギーを生み出せる能力を持ちながら壊すことにしか使おうとしない私とも、根本的に違う。
というのが、フランドールの考えだった。同意できないながらも、私はひとまず黙って聞いていた。だが意外にも、ぼろスカートの口から反論が出てきた。
私一人では、何もできないわ。
手を休めることなく、下を向いたままでぼろスカートが続ける。私にできることは、木の葉を染めて、枯らして、朽ち果てさせるだけ。それだけではもちろん、生命の循環は繋がっていかない。それに、こうして仕事をしている間も、生命の循環とかそんな大層なことは特に考えていない。ただ枯らして、朽ち果てさせるだけ。あとは妹の穣子がやってくれる。
でも、お姉ちゃんの能力は絶対に必要だよ。両左足が、手を止めて声をあげた。お姉ちゃんが下準備をしてくれなかったら、私がいくら土をかき混ぜたって意味ないし。お姉ちゃんが教えてくれなかったら、どこをどれくらいかき混ぜたらいいのか、正確にはわからないし。私よりもお姉ちゃんがいなかったら、それこそ土地が痩せてどうにもならなくなるよ。
我が妹ながら、あなたは少し自分の重要性に自覚が足りないわね。あなたが幻想郷の胃袋を賄っているのよ。もっと自分の能力を客観的に見なさいーーふとした拍子に、逆に自惚れを抱いてしまわないためにも。
そんな。事実、お姉ちゃんがいないと駄目だし。私たちは姉妹二人でひとつだよ。
シスコンどもめ、と言ってやりたかった。言わなかったのは、フランドールに気を遣ったからだ。私たちと対局にある能力を持つ(とフランドールが主張した)秋の姉妹という偶像を、無遠慮に傷つけたくなかった。仲睦まじい姉妹の姿を、自身に重ねる面もあるだろう。
ところが横目に見てみると、様子が違った。お姉ちゃんだの妹だのといった単語が出てくるたびに、フランドールの表情は目に見えて揺れ動いていたのだ。白い肌はますます青く、瞳は暗所に眠る赤ワインのようにどす黒く濁っていく。
私たちにはまるで構うことなく、姉妹の惚気は続いていた。両左足は目の周りを朱に染め、ぼろスカートは穏やかな笑みでうなずく。私は途端に腹の底がむかついてきて、思わず言ってしまった。
フランドールとフランドールのお姉様のほうが、あんたらなんかより何百倍も素敵な姉妹なんだからね。
秋の姉妹は口を止めて、こちらを向いた。フランドール、って、フランドール・スカーレットのこと? 返す両左足の声には、鼻で笑うような響きがあった。あの姉妹は、ねぇ。ぼろスカートの口調には、哀れむような色が混じっていた。全身を凍りつかせるフランドールを見るまでもなく、私は己の失策を覚った。そして両左足が以降の余計な台詞を続けたのは、目の前にいる布巻き少女が当のフランドール・スカーレットであることに気づいていなかったからだ。
紅魔の吸血鬼が何だって? あんた、よほど世間知らずなんだね。誰に何を吹き込まれたか知らないけど、地上じゃ誰でも知ってることだよ。スカーレット姉妹がどんな姉妹か、教えてあげる。
やめなさい、穣子。ぼろスカートが止めようとしたが、両左足は聞かなかった。姉妹の絆を貶されて、よほど腹に据えかねていたのだろう。
紅魔館当主レミリア・スカーレットは、自分勝手な我侭お嬢様。家のことなんか気にもかけずに、自分の遊びに従者を振り回してばかり。余所にも迷惑かけてばかりで、当主失格と専らの噂よ。
やめて、もういいよ。私は懇願した。ごめん、私が悪かったよ。それでも両左足はやめなかった。どころか、自身の言葉によって余計に興奮を増していくかのように、さらに声を大きくした。
素敵な姉妹? どこが! レミリア・スカーレットは、紅白の巫女だの、自分のところのメイド長だの、人間ばかりに夢中で、たった一人の妹のことは放ったらかし。地下室に押し込めておいて、何百年もそのまんま。ろくに話もしようとしないのよ。
黙れ。
フランドールが、右手を前に突き出した。開いた掌を、なおも続けようとする両左足と、止めようとするぼろスカートに向ける。いけない。
右手が握られた。
ガオン、という音とともに、地面が直径二メートルほどの半球状に抉れた。これがフランドールの、壊す能力。だが狙っていたものを壊すことはできなかった。一瞬早く、私が秋の姉妹を二人まとめて殴り飛ばしたからだ。彼女らは口や鼻から血を流して、しかし体のどこも破壊されることなく、豊穣な土の絨毯に転がっていた。
フランドール。声をかけたが、彼女の目は眠たげに中空を眺めたままだった。のろのろとマントを脱ぎ、適当に丸めて、私に向かって放り投げてくる。途中でマントが広がって、私の腕と顔に絡みついた。急いで払いのけたが、視界を遮られていた数秒のうちにフランドールの姿は消えていた。
O)))
とどのつまり、私があまりにも馬鹿すぎたということだ。
もっと気を遣っていなければならなかった。フランドールの創り上げた紅魔館という虚構は、甘美であると同時に、息のひと吹きで脆くも崩れ去ってしまうものだったのだーー私の地霊殿と同様に。生身のレミリア・スカーレットとは別個の存在たる『フランドール・スカーレットのお姉様』は、灰も残さずに消えてしまった。本当に、不注意とか失言などといった言葉で片づけてしまうには、あまりにひどい。正確に言うならやはり、私があまりにも馬鹿すぎたということだ。
名前を叫びながら、フランドールを探して飛び回った。陽は傾いてその力を弱めつつあるとはいえ、マントなしでは平気ではいられないだろう。いやむしろ、精神に穿たれた傷がどうか。砂上の楼閣は壊れやすいからこそ、壊れる姿は美しく、その美しさで胸を穿つのだ。
逆光の中に、私はフランドールを見つけた。全身から煙を出し、灰を風に流しながら、牛蒡から垂れた宝石は儚げに輝いていた。
ねえ、空。
数十メートルも離れているはずなのに、その呟きは、耳元で囁かれたかのようにはっきりと聞こえた。
あの木、誰も何もしなければ、百年後も変わらずそこに立ってるはずだよね。
フランドールは右手を握った。木が一本、消し飛んだ。
この山、誰も何もしなければ、一万年後も山のままでいられるはずだよね。
フランドールは右手を握った。山がひとつ、消し飛んだ。
この家は。その岩は。あの湖は。言ってフランドールが右手を握るたびに、家が、岩が、湖が、次々と消し飛んでいった。私は頭を抱えて、地面にうずくまった。やめて、やめてよ。子供のように震えながら言うことしかできなかった。
そのとき、視界の端を紅いものが横切った。
いや、よくよく見てみればそれは紅いとは形容しがたい姿だったのだが、とにかくそのときは確かに紅く見えたのだ。
私は顔を上げた。猛烈な速度で飛ぶそれは、フランドールのところに到達すると同時に止まった。代わりにフランドールが猛烈な速度で飛び、山の斜面に突っ込んだ。おそらくは殴られたか、蹴られたか。骨が砕けるような音も聞こえていた。
淡いピンクのドレス、青い髪、黒い翼。紅い部分といえば唇と二つの瞳くらいだったが、全身から立ちのぼる色彩は紅以外の何色でもなかった。そして、皮膚からは煙を吐いている。初めて見るが、間違えるはずがなかった。フランドールのお姉様だ。
お姉様はまた、フランドールに向かっていった。ただし、今度はゆっくりと。私は我に返り、慌てて後を追った。
私が追いついたとき、お姉様はフランドールに馬乗りになっていた。肩で息をして、しかし眼差しは微塵も揺るがない。表情からは熱さと冷たさを両方とも感じさせた。
見上げるフランドールは、四肢から完全に力を抜き、押さえつけられるままにしている。左側頭部から血を流し、頭蓋が少し陥没しているようだが、痛みを感じているのかいないのか、力なく笑った。
私が紅魔館を飛び出して、だいたい半日? 随分とお早いお迎えね、お姉様。
……誰かさんが派手にやってくれたおかげで、後始末に手間取っていたのよ。
後始末って、咲夜や美鈴に全部任せておいて、自分はお茶を飲んだり、お昼寝したり、そういうこと? それは忙しそうね。
そんなわけないでしょう。
私がドカンドカンやり始めてようやく、慌てて飛んできたってわけね。
ずっと探させていた。でも、さっきのはさすがに紅魔館にいてもわかったから、飛び出してきた。
やっぱり。フランドールは投げやりな微笑を浮かべたまま、言った。やっぱり私は、壊すことしかできないんだね。壊さないと、迎えに来てももらえないんだね。
そのために、山や湖を? お姉様はいちだんと低い声で続けた。それだけのために?
そうだよ。
その動きは、私には見えなかった。お姉様の右の肩から先が消えたと思ったら、次の瞬間には拳がフランドールの顔面に突き立っていた。血に塗れた牙の破片が、私の足元まで転がってきた。そこからは凄惨と言うのも生温かった。左右の拳が交互に突き下ろされていく。フランドールの片方の眼球は宙を舞い、下顎はちぎれ飛んで木の幹に貼りついた。
お姉様はフランドールを俯せに転がして、両の牛蒡にも手をかけた。右の牛蒡は半ばでへし折られ、左の牛蒡は根元から引き抜かれ、それぞれ鮮血を噴き出した。噴き出た鮮血が、まるで羽のようだった。それでもフランドールは、なぜか笑っているように見えた。お姉様の表情は次第に消え失せていき、それなのになぜか、涙を流さずに泣いているように見えた。二人とも、全身から煙を噴き、灰を撒き散らしていた。
再びフランドールは仰向けにされた。そしてまた拳が、顔にーー顔だったところに、と言うべきかーー容赦なく打ちつけられていく。そのたびに手足の先が、引きつるように跳ね上がった。
壊される。フランドールが、壊されてしまう。
そう思ったら、勝手に体が動いた。気づけば私はお姉様の腕に縋りついていた。やめて、もうやめてよ、お願いだから。
お姉様の拳に手が触れて、私は息を飲んだ。真っ赤に染まっている原因が、フランドールの血だけでないことがわかったのだ。お姉様の拳は骨が砕けて、内側から皮膚を突き破り、自らの血でも赤く染まっていた。
お姉様はフランドールを殴るのをやめ、じっと私を見た。今度は私が殴られるのかと思ったが、そんなことはなかった。ただ、少し嬉しそうな、少し寂しそうな、おそらくはその両方が入り交じった薄笑みを浮かべて、言った。
この子にも、泣いてくれる友人がいたのね。私の知らないうちに。
言われて、初めて気がついた。私の両頬に、伝い落ちる滴の感触が確かにあった。
お姉様は立ち上がり、フランドールを土嚢のように担ぎ上げた。この怪我じゃ、三日ほどは起き上がれないだろうけど。皮膚を日光で爛れさせながら、触れれば崩れそうなほど穏やかな声で、お姉様は言った。この子の怪我が治ったら、また遊びに来てあげてくれるかしら。
私の首は、ぴくりとも動かなかった。迷いが私の頸椎をコンクリート漬けにして、重く固めてしまっていた。私は首が折れそうなほどの力を込めて、ゆっくりと、小さく、一度だけうなずいた。
二人分の煙と灰に覆われ、お姉様はフランドールを連れて飛んでいった。後ろ姿が小さくなり、消えて見えなくなっても、私は身じろぎもできずに空の一点を見つめ続けた。
O)))
太陽はもう稜線に掛かりそうなほど低くなっていた。私は紅に染まった空の中を、泣きながら飛んだ。
フランドールは、ただ壊すだけの存在ではなかった。彼女とお姉様の触れ合う姿は、たとえ傍目には歪な形に映ったとしても、紛れもなく彼女らなりの愛情に満ちたものだったからだ。そして、思い出すほどに自分の存在が小さく感じられ、言い知れぬ不安に心臓を鷲掴みされるのだった。すなわち、私は本当に、壊すだけの存在でないと言い切ることができるのか。否定するための根拠はどれも曖昧で、お燐もこいし様もさとり様もいない今この場所では確認する術もなくて、ますます心細くなるばかりだった。
私は泣きながら飛んだ。涙と鼻汁が滴り落ちるのにも構わず、垂れ流しに泣いた。
限界まで速度を上げ、ひたすらに家路を急いだ。今の私には、世界のすべてから身を隠せる場所が必要だ。一秒でも早く地霊殿に帰って、さとり様の薄い胸で泣きながら、赤子のように眠りたかった。
ふと見ると、丸い太陽は真っ赤に燃えていた。明るくて、暖かくて、それはさとり様の第三の目に似ていた。
「霊知の太陽信仰」
かなり読み辛い
作中の秋姉妹が好きになった。
改行うんぬんと云う方も居るようだが、自分としてはむしろ読み易く、文章としても悪くないと断言します。
これからはこっそりとファンを名乗らせて貰います。
素晴らしい、この一言につきます