大きな蝦蟇口の中には、小さな硬貨が数個。
じっと眺めながら、橙は決意を新たにしていた。
「ぜったい、がんばるんだから」
財布を閉じ、肩紐を掛けて両手を握る。
ここは人間の里の十字路。賑わいも華やかな昼下がりであった。
背の低い彼女は、ご主人様の言葉を想起している。
「……いいか橙。私は紫様のお供で出かけなければならない。だから今日は、橙にお使いを頼もうと思う。はっきりいって私用だから後回しでもいいのだけれど、橙も里にはそれなりに行き慣れてきたことだし、無事にやってきてくれると思うんだ。きちんとこなしたらご褒美をあげるからね。人間たちを見くびらず、怯えず、獣のように振る舞うことをせずに、私の式として当たり前に行動しなさい。それなら何も問題はない」
こんなに丁寧に頼まれたからには、きちんと成すのみだ。最近は取り立てて人間と争うこともなく、巫女なんかと宴席で友好的に喧嘩することだってあるけれども。ここは誇り高い妖怪のはしくれとして、けじめのある行動をしなければならないんだと、橙は彼女なりに思っている。
たとえそれが、数枚の油揚げを買ってくることだけだとしても。
なにより。
式としてもそれ以外としても、橙は八雲藍という妖怪が気に入っている。
有り体にいって大好きである。
その信頼には応えたいと思うのが自然の成り行きであった。
「さて、ええと、豆腐屋、豆腐屋さんは……」
藍に言われたとおり、いきなり往来に飛び降りるようなことなどはせず、村境の六地蔵のあたりからきちんと歩いてきたが、けっこうな緊張のせいでどこがどこだかよく分からない。見知った光景の筈なのだが。八百屋、金物屋、乾物屋、雑貨屋。軒先に並ぶたくさんの商品に目移りして、あっちにふらふら、こっちにふらふら。
実は、橙が単独で里を訪れるのはこれが初めてだった。
人間の方も、先ごろよりは既知の妖怪になどさして見向きもしない。老人たちの中には眉をひそめる者もいたが、大半は知らぬ人間に対すると同様、無害な妖怪に興味を向けることもなく、別段視線が集まることもない。稗田家等々の教育が行き届いているといえるのかもしれない。
今はそれなりに良い時代であった。
ようやく決心して、橙は歩き出す。
右手と右足が同時に出ている。
なんでこんなにガチガチになる必要があるんだろうと恥ずかしく思う一方で、躰はうまく動かなくて、くやしくて。
「あー、もう!」
人間なんかに舐められてはいけない。
私はそんじょそこらの猫又とは違う。
大妖怪の式である、大妖怪の式なのだから。
と。
大通りを少し進んだところ――
路地裏から、てんてんてん、と紅い毬が転がってきた。
「!」
動物的な要素を持つ性であろうか、思わず条件反射で駆け寄ってしまう。
ハッ、とした時にはもう遅い。
猫のように手を出して遊ぼうとしたところを、その毬の持ち主にじっと見られていた。
「あ……」
「………………」
見上げる視線の主は、齢十にも満たぬ童女だった。
真っ赤な着物に切り揃えられた前髪。まあるい頬を朱く膨らませて、赤い鼻緒の草履を履いて。橙よりもさらに小柄で、まるで日本人形のようにちょこんと立っている。
我に返った橙は、慌てて毬を拾い上げ、童女に向かって指し示した。
「これ、お前のか?」
コクリ、頷く。
「うん。じゃあ、ほら」
「………………遊ばない、の?」
「遊ばないよ。遊ぶわけないじゃない」
別段強い調子で云ったつもりはなかったのだけれど、途端女の子のが悲しそうに歪んだ。涙まで浮かべそうになったので、慌てて頭を撫でる。自分が泣いてしまった時、ご主人様に頭を撫でて貰って落ち着いたのを思い出したからだ。
「うー、わかった。少し時間があるし、ちょっとなら遊んであげるから。泣かないでよ……」
「………………ぅう、うん」
再び小さく頷いて、童女は目尻をこする。
「鞠つきでもやる?」
頷く。
橙は、乾いた地面で毬を跳ねさせる、
てーん、てーん、てーん……
「 さかなが一匹
さかなが二匹
川に流れた おわんがみっつ
よぞらによっつ
星いつつ
三日月ななつ
かげやっつ
うさぎとかめが ここのつかぞえ
とおにはとうとう いなくなる 」
奇妙な数え歌を歌いながら、飛び上がった毬を時折足でまたぎながら、橙は鞠つきをしてみせた。実は彼女も結構楽しんでしまっている。
表情が変わらない童女の方は、表情を変えないまま、妖怪の一人遊びを真剣にじっと見ていた。
「ほら、今度はお前の番だぞ」
「…………………」
毬を渡された女の子は、同じようについてみようとするのだけれど、毬のバウンドに対して敏捷に反応することが出来ず、大きな帯を閉めた着物を纏っているので足をあげることも出来ず。ニ、三度つついたところで鞠が大きく弾けてころころころ、転がっていってしまった。先程もこういうことを一人で繰り返していたのだろうと、橙には合点がいった。
「ああもう。下手だなぁ」
鞠を追いかけてとてとてとて、小走りになる子供が。
「……あ」
こける。
「あーあ、ほらー」
涙を目尻にいっぱいせき止めて泣くのを我慢する女の子。口がへの字を超えて波線のようになっている。困った顔で埃を払ってやる橙。
「おい、かたっぽ草履が脱げてるよ」
「……………切れた」
「えー……」
確かに、童女が持つ草履の鼻緒が切れている。
「履き替えてこなきゃだめだね。家は近いの?」
「………………」
頭を振る女の子。遠いのか、帰りたくないのか、言葉にしないのでよく分からない。
「あーもう、困ったなぁ」
周囲を見回すと、商店街筋に履物屋の看板が見える。こういう時、郷に入れば郷に従えとご主人様はいうのだろうけれど、お使いもあるし、ちゃんとやらないと……そもそも、一緒に遊んだのが間違いだったのだろうけれども、それはもう言い訳だ。
橙の袖を握って泣きそうな顔の女の子に、さらに往生する橙であったが――。
「……近頃の妖怪は妹分の面倒もみるってか。時代も変わったな」
鼻緒を直しながら、軽い調子の履物屋は笑っている。
女の子は元の仏頂面に戻ったけれど、今度は橙が泣きたい気分だった。
蝦蟇口のなかの硬貨がひとつになってしまった。これで油揚げはいくつ買えるのだろう。
「はい、これでいいよ」
草履を履き直した子供は鞠を抱いて小さく頭を下げ、そういえば店を出る際は礼をするのだったなと思いだした橙もそれに倣った。
すると、草履屋に呼び止められた。彼は更に、通りがかった見知らぬ親父に声を掛ける。
「おう蕎麦屋よう、この子たちに一杯おごってやってくれないか。面倒見のよい組み合わせなもんで感心したんだ。俺がつけとくからさ」
「………………」
無言で奇妙な二人組を見下ろした蕎麦屋は顎をしゃくり、表情を変えないままで二人を通向の露天に連れていった。
「いやあの、あたし、はやくおつかいを……」
トテテテテ、ついていく子供。振り返って自分を呼んでいる。
なんとなく行かないわけにはいかなかった。
けんどんで出された蕎麦を、並んで座って啜っている。
「これではだめだー」と内心思いつつ、猫舌なので必要以上に呼気で冷ましつつ、橙は箸を動かすのだった。
童女はゆっくりと食べながら、時折橙の顔を窺っている。
妖怪は、そういえばと思い到って問うた。
「………おまえ、名前はなんていうの?」
「………………翠」
「そうか。ミドリか。あたしは橙」
「……ちぇん?」
「だいだい色ってことだよ。みかんの色」
「ちぇん」
そういいつつ、翠は握り箸でずずっと掻き込もうとする。
と、麺が何本かはみ出しそうになって、それを見た橙が慌てて止める。
「ほらー、こぼれるじゃない。気を付けないと」
「………………んぐ」
まるで姉妹のような様子に、往来の人々が優しい視線を投げかけてくる。
実は、時折油揚げを買いに来る妖怪とそのお付きの式の顔はそれなりに知れ渡っており、様子を知らぬ人に物知り顔で説明する人などがいたりして。妖怪が人間の稚児に関わる光景を誰何する者はいなかった。勿論、橙が知る由もない。
その内の一人、大人の女性が足を止め、橙に会釈をしながら、翠に声をかける。
「お姉さんじゃないみたいだけど、良くしてもらっているのね」
コクリ。小さく頷く。
「この人、好き?」
「………………だいすき」
表情を変えぬ翠のなにやら強い視線に見上げられて、ギョッとする橙。
自分だって藍に直接大好きなんて云ったことがないのに、今日見知ったばかりの人の子に云われるだなんて。
慌てて丼を持ち上げて、ざざざっと流しこむ。
猫舌にはまだ、幾分辛い温たかさではあったけれど、そうしないとなんだか、どうしようもない気分だった。
翠がぽつりぽつりと要領を得ない話をするには、どうやら、寺子屋へ行った姉を追いかけて家を出てきてしまったのだという。
身なりからそれなりに裕福な家の出自だとは思われたけれど、姉に会うと言った以外は言葉を継ぐこともなく、梃子でも帰りそうになかったので。先ほどの女性に教えて貰った道を辿って、今は寺子屋の方へと向かっている。
ちなみに、「道中で飴でも買いなさい」と小遣いまで渡されてしまった。少額ではあるけれど、藍に持たされた額より多い。橙だって妖怪の端くれ、この里にいる大半の人間よりは長生きなのだが、二人まとめて完全に子供扱いされてしまっていた。それはそれで困るのだが、礼儀正しく断る術も知らず、受け取ってしまって。二人分の飴を買ってもなお増えた小銭が鳴る音に懊悩する橙であった。
「人間はあつまって勉強なんかするんだね。たのしいのかな」
「………………」
まだ通っていない翠は、右手で握った飴を舐めながら小首を傾げる。
左手はといえば橙の右手を握って離さない。
橙の左手は翠の鞠を持っていて、咥えた飴をざらついた舌で舐めては動かしている。。
なんだか甘みと後ろめたさで半々の味だった。
寺子屋につくと、その周辺で子供たちが走りまわったり、チャンバラごっこをしたり、柿の木に登ったりと、それはもう姦しく騒ぎまくっていた。皆、翠よりは年長で、外見だけで云えば橙と同じような背格好だった。
「なんだ、勉強なんてしてないじゃん」
橙は何故だか少し安堵するのだった。
と、猫又の手を離した翠が、とててててと走って行き、
「ああ、またこけちゃう……」
橙の心配をよそに、寺子屋の縁側に座ってお手玉で遊んでいる三人の少女のうち一人に抱きついた。翠に顔立ちがよく似たその娘は、驚いて立ち上がる。
「翠!? 駄目でしょ、なんでこんな所にまできたの。家で待ってなさいっていったじゃない!」
「………………連れてきてもらったの」
例によって半分泣きそうな翠がこちらを指さすので、子供たちの視線が半分ぐらい橙に集中した。
「おい、あれ妖怪だぞ」
「なにしに来たんだろ」
別に非友好的という感じではなかったけれども、それにしても注目されるのは慣れていなくて。翠が手を離して駆け出した時にちょっと感じた苦い何かに驚いたのもあって、橙は身を翻そうかなとちょっと思ったのだけれど……走り寄ってきた姉がいきなり頭を下げたので、そうもいかなくなった。
「あの、このたびは妹がお世話になりまして。ありがとうございまたい」
「まあ、なんとなくこうなっちゃって。どうしてかあたしもよくわからないんだけど」
照れ隠しに飴をガリガリと噛み砕きながら橙は答える。蝦蟇口とかを見たり、落ち着きなく目を泳がせたり。こんな風に礼を言われるのも初めてだ。
「あの子、いいだしたらどうしても聴かないところがあるから」
そうだろうな、と首肯する。
再び近づいてきた翠が、姉に寄り添いながらも、橙を見上げている。明らかな信頼を籠めて
それがなんだか結構心地よくて。
橙はぺろりと口唇を舐めて笑い返した。
「それにしても、ここは集まって勉強してるところって聞いたけど、皆あそんでるじゃん」
「今日は慧音先生が留守にされてて、自習になってたんだけど、男の子が騒ぎ始めてからもうなし崩しになっちゃって……」
姉が恥ずかしそうにした、その時だった。
「おい、あれ危ないぞ」
「助けてー……!」
少年特有の甲高い声がその場を制する。
見上げると、背の高い柿の木のてっぺん、細い枝の端に登った子供が、降りられなくなって枝に抱きついて泣いているではないか。度胸試しで始めたのだろうが、加減を知らないのが子供である。いまや枝は大きくしなって、危険なカーブを描いていた。子供たちが次々に樹の下に集まり、大騒ぎになりつつあった。
「どうしよう、先生いないし」
「近くの家で大人を呼んできて!」
「駄目だよ、もう落ちる!」
その時。
橙の大きな耳には、枝が乾いた悲鳴を上げて軋むのが確かに聞こえた。
瞬間、鞠を投げ捨て、空中に躰を踊らせている。
同時に枝はへし折れて、泣き顔で目をつぶった男の子が重力に捕まった。
が――
地上に落ちたのは樹の枝だけで。
人を攫うかのように少年の躰を抱いてくるくるくるっと回転した橙は、軽く地上に着地する。
「ふぅ……。危ないなぁもう」
こともなげに呟く橙ではあったが、思わず額を拭っている。
助けられた少年も、見守っていたその他の子供たちも一瞬なにが起こったか分からず。
ちょっと経って、全員が解した瞬間――歓声が爆発した。
「すげー! すごいよ!」
「妖怪さんありがとう!」
「ありがとう!」
「確かにすごかったけど、妖怪だし」
「人間だって強い人ならあのくらいできるぜ」
「お前が出来るようになってから言えよ」
「よかったわ、本当に」
「呼びにいっても間に合わなかったもんな」
たちまち周囲を取り巻かれて目を白黒させる橙。
自分が人助けをすることになるとは想像してなかったけれど、それ以上に、自分に向けられる好意の凄まじさに目が眩む思いだった。
「ちぇん、すごい」
「本当に、来て頂いてよかったわ」
今もまた、翠やその姉にも賞賛と微笑とで見つめられて。
助けた後の方がどうしていいかわからなくなってしまった始末だった。
「……みんな、何を騒いでいるのかしら。自習はどうしたの?」
「あ、阿求様だー」
「阿求様ー! あのね、そこの妖怪さんが助けてくれたんだよ!」
付き添いを連れて通りがかった人間の娘によって、人垣が半分に割れる。橙も見覚えがある気がするものの、誰だったかまでは思い出せなかった。
「あら、貴女は妖怪の賢者の式の式ではありませんか。このようなところで何をしているのかしら」
子供たちが口々、てんでバラバラに説明するのを楽しそうに聞くと、娘は深く頷いて、橙に向き直った。
「それはそれは、この度は危ないところを助けて頂いてありがとうございました。ここの管理者や親に代わってお礼申し上げます」
「いや、そんな、べつに……」
また頭を下げられてしまった。今日は一体どうなっているのだろう。
こんなに驚いた日は生まれて初めてな気がする。
「しかし、このような事件が起こるようでは、幻想郷縁起の内容を少し書き換える必要性と、責任とを感じますね。上白沢慧音に学んでいるとはいえ、ここの子たちが妖怪をこんなに受け入れているのも面白いです。……そうだ、以前より妖怪の賢者にお知らせしたいこともあったので、よろしかったら当家にお越しいただけませんか? お礼を籠めて、少々おもてなしさせて頂きたく……ああ、みんなにも何か甘味を出してあげましょうね」
さらなる歓声が広がっていく。
その中央にいてしまった橙は、右を向いても左を向いても人間の笑顔という、まるで見たことのない光景にたじろいでしまっていて。
浮かべたことのない半笑いと、否応ない快感に苛まれていた。
稗田家を辞した頃には日が傾き始めていた。
橙は、今日あったことを想起しながら村境に向かって進みゆく。
屋敷には結構な数の猫がいたが、猫又である橙には見向きもせず、のんびり暮らしていた。
「……人間にとって、猫は気まぐれだけど、つかず離れぬ友人なのですよ。更に猫神となると、記憶と言葉の守護者に転じますしね。皆かけがえのない家族です」
「別に、あたしはねこじゃないもん」
「だから、言葉によって猫以上に気持ちが通じるのでしょう? だったら、それでいいではありませんか」
当主の優しい言葉がいつまでも耳に残る。
真っ赤な太陽に向かって歩く橙の背中には何故か背負子があって、書物やら大根やら魚やらを大量に持たされた上、子供たちにもらった遊び道具、おはじきやお手玉や木剣やらまではみ出している。武蔵坊もかくやであろう。勿論、大量の油揚げも。
大切な自分の鞠まで渡しそうになった翠を思い留まらせるのは難儀だった。
別れを告げるのは更に難しかった。
例の泣き顔で裾を握る童女を、姉と二人でなんとかなだめて帰途についた。
その代わりに、「また遊ぼう」という、ある意味荷物より重たい約束も持たされた。
人間相手なのに。ご主人様の許可もないのに。
でも、なんだか気分がとっても良くて。
足は軽くて。
不思議な気分だった。
「……ばいばい、ちぇん」
約束を交わした翠の顔。
連鎖的に、だいすき、といってくれた時の顔を思い出す。
今になって顔がにやける。
――時刻は少し遅くなったけれど、無事にお使いをこなした自分を、ご主人様は褒めてくれるだろうか。
よろこんでくれると嬉しいな。
もし藍様が笑ってくれたら、
子供のようにじゃれついて、袖にすがって。
その時は自分も「大好き」といえるかもしれない。
いえたらいいな。
いってみたい。
いってみようかな。
いえるかな。
気持ち良い疲労と素敵な逡巡を手土産に、妖怪の式は山へと帰っていった。
呼びに?
こういうお話は大好き、とても和ませて貰いました
素敵な話でした。
俺の従兄弟の子供もめっちゃ小さくてかわいかったの思い出しました。