暗い戸口を開けると、厚手のコートを着込んだ霊夢が震えそうな顔で立っていた。
「寒いわね。雪も降っていないのにこんなだなんて、冬は幻想郷全部が凍りついてしまうのではないかしら?」
「第五氷河期か。それも面白いな」
「私がこんなに大変な思いをしているというのに、あんたはいつもニヤニヤ笑いで、どうしてそんなに得意げなの? まるで酒を呷った赤ら顔の天狗みたいよ」
「それはまあ、琥珀色の智慧って奴だよ。たまには虎の威を借るのも悪くはない」
「なんのこと?」
出迎えた金髪の魔法使いはといえば、相も変わらぬ黒ずくめだけれど、今日は料理用の大きなエプロンをつけていて、白の分量が多めだった。
部屋に通されても霊夢は、真っ赤なコートをハンガーに掛けながらまだぶつくさ文句を垂れている。
「これでこのとんがり屋根から炊事の煙が見えてなかったら、Uターンして帰るところだったわ」
「それにしても、ちょいと気分が早くないか? 聖誕祭に子供たちへプレゼントを配るような格好をしてたけど」
「私は聖人にも菩薩にもなるつもりはないわ。異国の習俗は表面だけ真似るのが正しいの。詳しくやれば呪術に等しくなるし、かといって巫女が赤白以外を着ているのも判りにくいでしょう? なんていうか、その、なんだっけ」
「アイコンか」
「まあそんな感じ。概ねいつも、私は間違っていないからね」
「自信は認めるが、あんまり強固すぎる理論は反感を買うぞ」
薄暗い灯の下、本だの実験器具だの地球儀だのが散乱する部屋の中央には大きな竈があり、文字通りの大きな魔女の鍋が掛けてある。グツグツと煮立った内容物は白く濁っていて不吉な感じはない。真上には煙突。傍らのダイニングテーブルはなんとかスペースが開けてあって、霧雨魔理沙が一応は、来客予定を忘れていなかった傍証となっていた。
「ともかく、今夜は魔理沙からの約束で来たんだからね。目一杯食べて帰るわよ」
「シチューを食べさせるとはいったが、食べ尽くすのは勘弁して欲しいところ」
「そんな大釜のを全部食べたら、私がもう一人分ぐらいできそうね。細胞分裂?」
「それはもっと勘弁だぜ」
「作り過ぎじゃないの? あんたそれ全部食べるの?」
「作り置くにはいい季節だからな。冷凍保存もできそうだ」
「さすがに毎日食べると飽きちゃいそうね」
「美食家の評論は食べてからにしてくれ」
席について匙を握りしめた行儀悪い巫女の前に、取り皿で分けたシチューが置かれる。エプロンを解いた魔理沙が席に着くとほぼ同時に、
「「いただきます」」
二人は勢い良く食べ始めた。
「……むむ。なによこれ」
「不満かしら?」
「なんだかしらないけどおいしいじゃない。鹿肉も人参も馬鈴薯も柔らかいし、玉葱は甘いし。毎日はきついけど、一週間は食べ続けてあげられそうよ」
「毎日通ってくるのは勘弁してくれ。愛にも休息は必要だ」
「鍋に分けてくれるんじゃないの?」
「どれだけがめついんだよお前は」
「神社といわず、うちから無断でいろんなものを持ち出す奴に言われたくはないわね」
「あれは無期限レンタルだと何度いったらわかるんだろうねえ」
「今日全部持って帰ってもいいのよ。天石門別命の力を借りて空間の道を作って」
「おっと、家の中では停戦協定だ。そんなことよりもっとシチューを食べろよ」
「言われなくても」
硬い仏蘭西パンをシチューやその湯気で温めて齧る霊夢が、魔理沙に指で示す。
「そうそう、いつものやつ忘れちゃ駄目よ。ぜったいに」
「わかっているさ」
二杯ほどおかわりして、霊夢は更に食を進めていたが、魔法使いは一旦鍋を火から下ろし、フライパンに練った小麦粉と重曹を流しこんでホットケーキを作り始めた。その場に香ばしい匂いが立ち込め始める。
「そんなに好きなら神社でも作ればいいだろう。こんな簡単な食い物」
「あんたが秘密を分けてくれないからよ」
「なんのことだか」
「それに、西洋料理の火は神様が好まないもの」
「言い訳にしか聞こえないな。かまどの神様だって昨今ならもうバイリンガルでいいだろうに」
狐色に焼きあがった菓子を皿に乗せる。今度はフォークとナイフを構えた霊夢が待ち切れないように凝視するなか、魔理沙は戸棚の奥に隠してあった小さな壜を取り出した。コルクの栓を取り、中に入った粘性のある琥珀色の液体をゆっくり降りかける。
砂糖や蜂蜜によく似つつも独特の香りが、温められて鼻孔をくすぐる。
霊夢が二等辺三角形に切りわけてフォークで刺し、大きな口を開けて一気に放り込む。
途端、眦が下がる。
「んー! やっぱこれよね。おいしいったら」
「あんまり食べると博麗のまんまる巫女になるぞ」
「お月様がみたいにはならないから大丈夫。代謝はいいのよ」
あっという間にぺろりとたいらげてしまった霊夢は、なお物欲しそうに壜の中身を見ていたが、魔理沙は余韻に浸ることもなくそれをしまい込み、代わりに湯気を吐くケトルを取り上げて紅茶を淹れ始めた。
「ああ……もうちょっと食べたかったなぁ」
「そこを我慢するがら一番美味しいんじゃないか。おまけに今日はシチューも目一杯食べてる。私の腕以外の要因で味覚が落ちたとしても責任はもてないな」
「なら、あの中身についてだけ教えなさいよ。あんな甘味、里でもお目にかからないんだけど。何処から手に入れているの?」
「霊夢になら教えてやってもいいけれど、漏れて広まると困るしな。昨今はあちこちで貴重なアレを探すハンターもいるって話だから、迂闊には口にできないんだ」
「あちこちで荒稼ぎをする賊に言われたくないわよね。因果応報っていう言葉を知らないのかしら」
「古来より泥棒は釜茹でにされるのが運命だが、魔法使いは薬を鍋で煮るものだと相場が決まっている。真面目に伝統を守る私が無碍に扱われるいわれはないよ……ま、それを飲んで少し落ち着いたら教えてやってもいいさ。こないだの新酒のお返しに」
むくれている霊夢は紅茶をすっと口に当て、その風味にまぶたをしばたたかせた。
「あれ、なにこれ……お酒?」
「これもまあ、琥珀色のなんとやら」
片目をつむった魔理沙が持っているのは、茶色の液体が揺れる角張った瓶だった。
「外界の果実酒らしい。先日香霖のところにあったから、譲ってもらった。またあの隙間の妖怪とでも取引をしたんだろう。かなり強いから数滴で風味がこんなに変わる」
「ちょっと、そっちを飲ませなさいよ!」
「シロップの秘密は教えなくてもいいんだな?」
「ああ卑怯ねー。本当に卑怯だわー」
「しこたま歓待された後の客がいう台詞じゃないな」
※
しばらくすると、霊夢はコート。魔理沙は半纏を着込んで外に出た。
途端、息が濁る。
奥深い魔法の森を、曲がった背の魔女のような月光が照らしている。
「霊夢、うちの裏の紅葉の林って知っているよな」
「知っているけど行きはしないわね。ありきたりだし用事がないもの」
魔理沙は悪戯っ子のような笑味を浮かべて、そちらに歩いていく。
「もう、早く教えなさいよ、寒いばかりじゃないの」
「まあまあ。悪事を成すなら闇のなかさ」
やがて魔理沙が立ち止まったのは、例の紅葉林の只中だった。ひときわ背の高い楓に手をおいて見上げている。
「こいつだ」
「だからなにが?」
「さっきの奴。見てみろよ」
魔理沙が指さすところをカンテラで照らしてみると、錐で掘ったような後が残っていて、それを埋めてあるのが分かった。
「……これは砂糖楓っていう外来の樹だ。もともと蓬莱にはなかった種で、私も結構探したんだが幻想郷にも何故かここにしかない。繁殖しなかったのかな。で、人に教えてしまうと無くなる可能性もあるから教えられないんだ」
「まさかあれ、樹液なの?」
「そうだよ。結構濃縮してるからあれきりなんだ。もっとやると変わった種類の砂糖にもなる。まあ、採れる量が少ないんでやったことはないけどな」
「へえー」
霊夢が樹陰を見上げるが、重い月夜の下ではほとんど何も見えない。
「まさかこれがあったから、ここに住み着いた訳でもないんでしょうね?」
「どうだろうな。家自体は私が建てた訳じゃないからな」
「まあ、この魔法の森では、なにかしらの変な事が起こっても別に不思議じゃないけれど」
「だろ。でも、琥珀の恵みを生む楓の木に縁があるってのは悪いことじゃない。魔法にも通じるしな」
「そうなの?」
「物の本で読んだんだけど、大陸の手前にある島で大量の式神を編み出してる組織の名前も『楓』というらしい。人の智恵はやがていつも植物に通じるんだよ、きっとな」
二人の脳裏に、魔理沙の部屋にある地球儀の東支那海周辺が浮かんでいる。
「そんな有り難いものならば、こんな魔法使い一人に独占なんてさせるのも惜しいけどね。
『このたびは 幣もとりあえず 手向山 もみじの錦 神のまにまに』ってことで」
「おお怖い。菅公に雷を落とされて燃やされたら堪らないぜ」
霊夢は微笑むと、砂糖楓の葉を一枚取った。
「なら私と独占契約することね。神様に色よくとりなしてあげるから」
「そういうのは脅迫と言うんだが。それに、そんなもの構えていたら天狗に仲間だと勘違いされて拐かされるぞ」
「あんなに鼻高かじゃないからね、私は。血眼になって新聞つくったりしないし」
「乱文を書き散らさなくても、太宰府から鶯に梅の歌を届けてもらうぐらいで充分だよな」
※
さらに夜も更けて、日も変わった頃。
頭のリボンが倒れるのも気にせず、コートのフードをすっぽり被った雪ん子のような霊夢が、再び戸口の前に立っている。
「……本当に泊まっていかなくていいのか? もう真夜中だけど」
「あんたのベッド、小さいんだもの。それに『自分は床で寝る』とかいいながら入りこんでくるし。寝ぼけて首筋咬まれた時は、吸血鬼にやられちゃってたのかと思ったわよ」
「紅魔館の連中はゲテモノ食いだから、私なんて高級すぎて食い物にはならないよ。でも、霊夢の血は甘そうだからな、いろんな意味で」
「私だって砂糖菓子にも塩の柱にもならないわよ」
右手にカンテラ、左手には風呂敷包み。
首尾よくシチューを分けてもらうのに成功した巫女は、満面の笑みを浮かべている。
「今日は来てよかったわ。いろいろと温まったから、神社までは持ちそうよ。ありがとう」
そういうと回れ右をして、ゆっくり遠ざかっていく。
カンテラが揺れる様を見送っていた魔理沙はといえば、ホストとして満足する一方で、若干の疑念に首を傾げずにはいられなかった。
「霊夢にすんなり『ありがとう』なんて云われた記憶が、おおよそないんだが……」
部屋の中に戻り、出した調理器具や皿等々を片付け始めたところで、やっとその原因に気づいた。迂闊なことではあるが。
ブランデーの入った瓶が半分ほど空いている。
「……やられた。いつの間に……! ああ、そうか。だからあいつ、やたら頬を見せないよう、フードを目深に被っていたのか」
なんという演技力――或いは、賢しき琥珀色に刺激された入れ知恵か。
ふくれっ面になるが、それも一瞬のこと。諦めるように微笑むと、瓶の縁についた雫を指で舐め取って、メイプルシロップと一緒に並べて、大切にしまい込んで。
それから、窓際の机に向かう。
机の端、固定された丸底フラスコの中には、蒼い水に浸された琥珀色の星型の石。フラスコの端を指でチンと弾くと、星はほんのり魔法の光を照らし始める。
智慧の光に照らされて、頬杖をついて、読みかけの本の頁を捲り、捲り。
その音。あとは、未だ湯気を立てる大釜の下で熾火が弾ける音。やがてそれだけになる。
――窓の外に白いものが舞い降りはじめたことに、去りゆく秋の足音に。
楓の守り人は、まだ気付かない。
二人のなんとも言えぬ関係も堪りません
…魔理沙も盗癖について霊夢に言われたくない気もしますが。
寡聞にして分からないネタも多かったですが……。
『人の智恵はやがていつも植物に通じるんだよ』という台詞が妙に心に残りました。